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今頃アカデミー賞を

2012年のアカデミー賞関係の映画を「ジャンゴ 繋がれざる者」を除いて一通り観ることができましたので、すんごい遅まきながら、今年のアカデミー賞にコメントしてみたいと思います。何しろ授賞式の頃は該当映画をほとんど観ていない状況なので、誰が本命だろうが、受賞しようが「ふーん」って感じだったのですが、今なら、もう少し何か書けそうなので、備忘録を作ってみます。


助演女優賞:アン・ハサウェイ「レ・ミゼラブル」
彼女の演技は他の映画と比べて変化球だし、立ち位置的には準主役だし、この人が選ばれるのは不思議な気がしました。助演女優というなら、「世界で一つのプレイブック」のジャッキー・ウィーバーの方が映画を支えるいい仕事をしているのになあって思いましたけど、まあハサウェイが受賞した方が華があっていいのかなってところでした。

助演男優賞:クリストフ・ヴァルツ「ジャンゴ 繋がれざる者」
これは、映画を観ていないから何とも言えないのですが、他の4人の候補の中だったら、「アルゴ」のアラン・アーキンがよかったように思います。彼のおかげで、「アルゴ」という映画が一回り膨らんだように思えたからです。

監督賞:アン・リー「ライフ・オブ・パイ」
映画が演出力によって救われた映画ということであれば、アン・リーの受賞は大変妥当なものだと思いました。他の映画に比べて骨太な物語をきっちりと捌いたという点が見事だったように思います。他の候補作では「世界で一つのプレイブック」が演出が隅々まで行き届いていたという印象でよかったように思いました。演出力ということでは、映画そのものは好きじゃないけど「ゼロ・ダーク・サーティ」なんかうまいなあって感心していたのですが、これは候補にも入ってなかったんですね、意外。

作品賞「アルゴ」
正直なところ、これが作品賞なの?ってのが第一印象でした。面白い映画だけど、結構突っ込みどころが多かっただけに、ハリウッドのその年のトップを張るほどでもないかなって。でも、他の候補作を並べてみたとき、他の作品にも、これだという決め手になるものがなく。他部門の受賞を逃した「アルゴ」が受賞するのがバランス的にも無難なのかなって気がしました。

撮影賞:クラウディオ・ミランダ「ライフ・オブ・パイ」
撮影賞の良し悪しってのは、最近はよくわからなくなってきました。この映画もほとんどがグリーンスクリーンの前での撮影だったようですし、さらにデジタルカラー補正が入るのも当たり前なので、撮影監督がどこまでその絵をコントロールしているのかがわかりにくいご時勢になっているからです。撮影監督が、合成やデジタル加工用の映像素材提供者になりつつあるのかもしれません。「ライフ・オブ・パイ」の映像はきれいだと思いましたが、ミランダがその映像にどこまで貢献しているのかなあって気がしました。

脚色賞:クリス・テリオ「アルゴ」
これは実話ベースのお話を娯楽ストーリーにまとめたテリオの受賞は納得しちゃいました。脚色賞ってのは、原作との差異で評価されるのか、単に原作モノの脚本の出来を評価しているのかがわからないのですが、候補作の中では、「アルゴ」がやはりよくできているって思いました。

脚本賞:クエンティン・タランティーノ「ジャンゴ 繋がれざる者」
観てない映画なので、コメントしかねちゃうのですが、やはり面白かったんでしょうね、きっと。「ムーンライズ・キングダム」が候補に入ってるのは意外でした。

作曲賞:マイケル・ダナ「ライフ・オブ・パイ」
「アンナ・カレーニナ」は未見ですが、他の候補作はどれも音楽が前面に出てこない縁の下の力持ち的なポジションの映画でした。「007 スカイフォール」や「アルゴ」は、シーンを語る音楽ではあってもドラマを語る音楽ではなく、「リンカーン」も定番のウィリアムズ節以上のものでなかったので、ダナのこの作品が選ばれたのかなあって気がしています。ちょっとエスニックなメインテーマが「ライフ・オブ・パイ」という二重構造のドラマのイメージをうまく表現していたように思います。

主題歌賞:「007 スカイフォール」
「レ・ミゼラブル」の歌曲はどれもよかったと思っていたので、「007 スカイフォール」の受賞はちょっと意外でした。ただ、最近の007映画の主題歌がノリの軽い、潤いのない歌が多くて、シリアスなドラマを支えきれていなかったことからすれば、この「スカイフォール」は大当たりでした。ドラマ主題歌の王道という意味では確かに説得力がありましたです。

主演女優賞:ジェニファー・ローレンス「世界にひとつのプレイブック」
「インポッシブル」は未見なのですが、他の候補者と並べたときに、消去法で彼女が受賞になっちゃうのかなって気がしました。「愛、アムール」のエマニュエル・リバは大変過酷な演技を求められて、それに応えている点で、すごいなあって思うのですが、その演技から、一人の人間のキャラクターと存在感を形作っているのは、やはりローレンスなのではないかしら。

主演男優賞:ダニエル・デイ・ルイス「リンカーン」
これは納得の受賞でした。実在した人間を偉人として演じるというものすごく高いハードルをクリアしているのですからすごい。人間リンカーンを演じたのなら、他の候補者との競争にもなったのでしょうが、偉人リンカーンを最後まで演じきったパワーは、他の候補者になかったものだと思います。


あくまで個人的な感想ですが、作品賞候補はどれもよくできた映画だと思う一方で、その中で、この1本という決め手を欠いているように思えました。作品賞の候補の中で、自分のベストテンに入れたいと思ったのは「世界に一つのプレイブック」だけでしたが、それもドラマの力というよりは題材の面白さが目を引いたという理由によります。アカデミー賞ってのは、それ自体がお祭り的なものですが、その結果から、自分の好みが必ずしも世間の評価と一致しないんだなってのを確認できるってのは面白いと思います。だから、自分の好きな映画が世間の評判が低くても、めげる必要はないんだなって。

美術賞や編集賞、衣装デザイン賞、メイクアップ賞は語る言葉が何もないのでノーコメントにしちゃいました。視覚効果賞も何がどう素晴らしいのか私の中で基準がわからないのでパス。考えてみれば、良し悪しというのを突き詰めれば、要は好き嫌いなので、何も言えないってことはないのかもしれません。でも、好みってのは、年齢とか性別、その日の気分で変わるものなので、単に好き嫌いだけなら、忘れてしまってもかまわないって感じです。これはあくまで備忘録なので。
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「リンカーン」は偉人伝映画としてはよくできてて、教材としてはいいのかも、でも教材なのであまり面白くない


今回は新作の「リンカーン」を静岡シネザート4で観て来ました。静岡のシネコンとして定着してきたところですが、お客捌きとかが、川崎よりやや見劣りするのが残念。スタッフさんがんばってください。

4年も続く南北戦争も北軍の勝利が見えてきたころ、アメリカ大統領リンカーン(ダニエル・デイ・ルイス)は奴隷制度を廃止する憲法修正第13条を何としても下院を通過させようとしていました。そのためには、同じ共和党内の保守派と急進派をとりまとめる必要がありました。それでもまだ票が足らず、対立する民主党の票も切り崩す必要がありました。ロビイストを使って民主党の取り込みを画策するリンカーン。一方で保守派のブレア(ハル・ホルブルック)の説得には成功するリンカーンですが、戦争収束を最優先させたいブレアは南軍との和平工作を画策し、南軍の使節団を会談の場に引き出すことに成功しちゃいます。和平工作が進んでいることが公になれば、奴隷制度廃止は後回しになってしまうので、リンカーンはその事実を下院採決まで隠蔽しながら、票獲得を進めなければならなくなります。黒人を白人と対等にしようとする急進派スティーヴンス(トミー・リー・ジョーンズ)は、リンカーンの説得に協力することになりますが、民主党の切り崩しは思うように進みません。一方、私生活では息子(ジョセフ・ゴードン・レヴィット)が軍に志願すると言い出して、妻(サリー・フィールド)との関係がうまくいかなくなっちゃいます。果たして、リンカーンはこの難局をどう切り抜けるのでしょうか。

「ミュンヘン」のトニー・クシュナーが書いた脚本を「戦火の馬」のスティーブン・スピルバーグが演出した歴史ドラマです。奴隷制度の廃止に執念を燃やすリンカーンの姿を描いた2時間半の大作でして、事件というよりは、リンカーンの偉人伝に重きを置いた映画に仕上がっています。ストーリーとしては、奴隷制度を廃止する憲法修正第13条を下院を通過させるまでを描くもので、そこにリンカーンの人となりを積み上げて描こうとしたものです。スピルバーグがストレートな偉人ドラマを描くのかなとも思ったのですが、映画は直球勝負でリンカーンの偉業を描くものでした。娯楽映画の実績も十分なスピルバーグだけに最後まで飽きさせない作りにはなっているものの、映画として面白いかというと、リンカーンにそこそこの興味があれば堪能できるかなくらいの出来栄えだったように思います。リンカーンの人となりに突っ込むには、偉人キャラを壊さない抑制が効いているので、人間としてのキャラが見えにくくなったように思います。そのホンネ部分が見えてこないで、やたら昔話を引き合いに出す面倒くさいオヤジの部分と、奥さんに締め上げられている弱いダンナの部分くらいしか見えてこないので、なぜ奴隷制度廃止にそこまでこだわるかといった部分はよくわからないのです。そんなことは、アメリカ人ならみんな知ってることだからという前提で映画を作っているのかなという気もしたのですが、脇役のスティーヴンスが黒人にも参政権を与えて白人と同じレベルにしようとしているのを急進派として描いていますので、リンカーンの立ち位置をちゃんと説明して欲しかったと思います。例えば、映画の中で、300万人の黒人が奴隷から市民に突然変わったときの社会への影響を危惧する議員も登場するのですが、リンカーンはそのことにノープランに見えるので、ホントかよって突っ込みが入ってしまうのです。

リンカーン以外の人間は事の後先を色々と考えているのに、リンカーンはひたすら奴隷制度廃止にだけこだわっていまして、映画はその事を素晴らしいことで偉いことなのだという描き方をしているので、正直、リンカーンに偉人キャラ以上の人間味が感じられなかったのは物足りなかったのです。この程度の描き方なら、偉人伝を離れて、憲法修正第13条をどうやって議会を通すかというところだけに特化した1時間半のドラマにしたほうが面白かったのではないのかしら。また、民主党や南軍が奴隷制度のこだわるところの動機付けも単なる悪役にしかなっていないのは突っ込み不足ではないのかなあ。奴隷制を肯定するのは絶対悪であり、対するリンカーンは絶対正義だというのは、そりゃそうかもしれないけれど、映画としては教科書的というか紙芝居的というか、奥行きがないように思えちゃうのです。生まれた時から存在する奴隷制度に対して、白人の側から政治生命をかけて廃止させようという動機を知りたいと思うのですが、そこのところは単に「奴隷制度は悪だから、正義のリンカーンが廃止させるのだ、これでいいのだ。」という構図にしかなっていないのが物足りないって感じ、伝わりますでしょうか。

一方でロビイストを雇って、次の選挙で落選する民主党議員に、役職をエサに票を取り込もうとするあたりは、コミカルで面白い展開なので、そっちの展開メインでやってくれたら、変なツッコミを入れることなく、素直に楽しめたように思います。2時間半で色々なことを盛り込みすぎなのかもしれません。まあ、リンカーンも色々大変だったんだろうなあってことは伝わってくるのですが、生身の人間というには偉人度が高いので、なかなか共感できないんですよ。

南北戦争が肉弾戦だったとか、病院の横に手足が捨てられているといった戦争描写もおまけ程度に登場しますが、そこで内戦の悲惨さを訴えようという意図はなさそうです。リンカーンが死体がごろごろしている戦場を視察するシーンもあるのですが、あくまで死体はリンカーンを彩る背景という扱いなので、そこから戦争へと想いを馳せるような作りにはなっていません。多分、ドラマの中心を憲法修正案を可決させるところに置いているので、戦争の部分は控えめな描き方になっているように思います。

映画は、エピローグでリンカーンが暗殺するところまで描いていまして、ラストシーンは彼がみんなの前で演説するところで映画は終わります。うーん、やっぱり偉人伝の映画なんだろうなあ。それはそれでうまくできているとは思うのですが、正直、あんまり面白い映画ではなかったです。奴隷制度を廃止する憲法を可決するためには、戦争終結を進めてはいけない、でも国民は戦争に疲弊していて戦争を終わらせたいと誰もが願っていた。これってかなりドラマチックな設定でして、その二つの相反する選択のさじ加減を迫られたリンカーンはすごく大変な立場にいたわけですが、その葛藤に周囲の人間が右往左往している割には、当のリンカーンは泰然としていて、結果オーライになってしまいます。観る人によっては、そんなことはない、リンカーンは大変な選択をしてこの難局を乗り切ったのだと思われる方もいるかもしれません。でも、私には、リンカーンはひたすら理想を掲げ続けて、他の人がそれになびいて動いてくれるのを見ていただけのように思えてしまいました。彼が気にしていたのは、演説で何を言うかぐらいしかなかったように見えてしまったのは、私がこの映画を見損なっていたのかもしれません。

演技陣では、儲け役のトミー・リー・ジョーンズとジェームズ・スペイダーがいいところを見せる他に、損な役回りの奥さんを演じたサリー・フィールドは敢闘賞という感じですが、正直、このドラマには必要ないキャラクターにも思えました。ダニエル・デイ・ルイスはオスカーの主演男優賞を取っただけあって、偉人的なキャラの上に人間としてのリンカーンを頑張って積み上げていたように見えます。リンカーンの人となりに踏み込まないドラマの中で、偉人としての存在感を示したのですから、さぞかし大変だったであろうことが伺えました。また、歴史ドラマの部分で登場するグラント将軍を演じたジャレット・ハリスと南軍使節を演じたジャッキー・アール・ヘイリーが印象的でした。

ジョン・ウィリアムスの音楽がシカゴ交響楽団を使って、今回はあまり謳い上げずに静かにドラマを支えて、貫禄の音を聞かせてくれます。戦場の死体の山を視察するリンカーンのバックに流れるこの映画のテーマをピアノソロで奏でるという意外な音作りをしているのが印象的でした。スピルバーグの映画に欠かせないヤヌス・カミンスキーの撮影は背景からの透過光を多用した絵作りをしていますが、こういう歴史ドラマにはもっと落ち着いたかっちりした絵の方がふさわしいような気がしました。これはもう好みの問題になっちゃうのですが、この映画を歴史大河ドラマと捉えるか、人間ドラマとして捉えるかで、その好みも分かれてくるのではないかしら。

「ある海辺の詩人」は控えめな主人公の情感あふれる佳品でオススメです


今回は新作の「ある海辺の詩人」を静岡シネギャラリー2で観て来ました。スクリーンがビスタサイズのまま、上下に黒みが入るシネスコサイズの上映。DLP上映だとこうなっちゃうのもやむを得ないのかなあ。でも、そうなるとフィルム上映の方がいいよなあ。

中国に息子を置いて、イタリアの縫製工場で働いていたシュン・リー(チャオ・タオ)はボスの命令でキオッジャという猟師町に行けと言われ、そこにある酒場オステリアで働くようになります。そこは町の男たちの集まる場所。たどたどしいイタリア語の彼女は、キオッジャ独特の言い回しに戸惑いながらも仕事をこなしていきます。客の中の詩人というあだ名のベーピ(ラデ・シェルベッジア)と親しく口をきくようになります。ベーピは妻と死に別れ、息子から別の町で同居しようと言われていました。二人が仲良くしているのが目撃され、町の連中は中国人がベーピと結婚しようと接近したとか、中国マフィアの侵略だとかひどい言われよう。ボスは中国人の評判が落ちるのは困るから、シュン・リーに、あの男とはもう口をきくなと命令します。シュン・リーから、あなたと友達になれないと言われて意気消沈してしまうベーピ。夜、店の前までやってきたベーピは町の男とケンカになって殴られてしまいます。そんな彼に声をかけることもできないシュン・リー。そして、彼女はキオッジャを離れ再び縫製工場で働くようになります。そして、ある日、ボスの部下が彼女の前に、彼女の息子を連れてくるのでした。

ドキュメンタリーの実績のあるアンドレア・セグレとマルコ・ベッテネッロが共同で脚本を書き、セグレがメガホンを取りました。中国人女性とユーゴスラビア出身の漁師との交流を描いた一品でして、全体を流れる控えめで抑制の効いた演出が切なくも美しい余韻を残す一品でした。タイトルから期待されたイメージとは異なるリアルな設定とあふれる情感が心の琴線に触れる映画になっています。

シュン・リーはイタリアへ来るときにボスに借金をしていて、それを返しきると息子をイタリアへ連れてくるという約束になっているのですが、その借金返済はボスの腹一つで決められるという気の毒な境遇です。酒場で働くようになっても、いつまでそこで働くのか、いつ息子の会えるのか、それはボスのさじ加減一つみたい。そういうところは、町の中国人を中国マフィアだと呼ぶ町の住人の言い分が当たらずとも遠からずという気もします。チュン・リーは早く息子に会いたい、息子と一緒にイタリアで暮らしたいと思っていました。そして、もう一つ、彼女は詩人の屈原のファンでありました。映画を観た後でネット検索したのですが、屈原って、紀元前4世紀の有名な詩人で、秀でた才能を持ちながら政争の中で不遇な人生を送った人とのこと。そして彼の死を悼んだのが端午の節句なんですって。そういう詩人への興味があるチュン・リー。一方のベーピはユーゴスラビアからイタリアへ来て30年になる漁師で、韻を踏むのが得意なので詩心があると思われ、詩人と呼ばれています。

そんな二人が何となく親しくなっていく感じをセグレの演出は自然にそして細やかに描いていきます。色恋沙汰とは違う関係は見ていて伝わってきます。チェン・リーの休日に、二人が海でデートするあたりがすごく微笑ましい感じなのですよ。お互いが孤独で気を張って生きてきたのがほっと息をつけるような感じ。ベーピはシェン・リーを主題にした詩を作って彼女に渡します。それを受け取ってうれしそうにベットの横の引き出しにしまうシェン・リー。そんな微笑ましい関係も、傍目には、中国マフィアの色仕掛けに引っ掛かった恥ずかしい男に見えちゃうのが悲しいのですが、世界のあちらこちらに進出する中国人への視線には、そういう見方もあるのは事実でしょう。借金でチェン・リーを身動きできなくしちゃうボスのやり方は中国マフィアと言われても仕方ないかも。

チェン・リーには、ベーピとの関係を深めようという意図はありませんでした。それよりも二人の関係が、トラブルの種になって、息子と会えなくなることを恐れていました。一方のベーピは、彼女をどうしようという気はなかったものの、ちょっとだけロマンチック気分になりたかったのが伺えました。結局、二人の感情とは関係ないところで、二人は引き裂かれてしまう運命でしたが、そこに移民対地元民という社会の構図が見えてきます。

主演のチャオ・タオは中国では有名な女優さんだそうですが、質素で控えめなヒロインを好演していまして、異国の地で働く女性のリアリティを感じさせました。見た目に年齢不詳なところがあって、時に小娘みたいに見えるところがあり、イタリア人からすると量りがたい外人として映ったのかもしれません。その理解しがたい部分が偏見へもつながるのでしょうが、そのボスの組織的なやり方は、単に中国人が人種偏見で虐げられているという図式にはなっていません。その社会の図式の一方で、故郷を離れた人間の心細さと心の拠り所という人種を超えた普遍的な感情が描かれていて、そこは心の琴線に触れてくるのです。恋愛とか友情とかとは違う、寄り添いたい心というのが伝わってくるところが、この映画の見所と言えます。相手役のラデ・シェルベッジアは、メジャー映画ではヨーロッパの悪党という役どころが多い人ですが、ここでは、漁師だけどちょっとインテリ風の分別ある初老の男を控えめに演じました。主人公二人に共通する控えめキャラが、共感を呼ぶつくりになっているのはうまいと思いましたが、それは私が日本人だからかもしれません。向こうの人の目には、こういう控えめキャラはどう映るのかしら。

ルカ・ビガッツィの撮影は海のシーンで水彩画のようなタッチの絵を作っていました。これがDLPの限界によるものか、狙ったものかがわからないのが残念。やっぱりフィルム上映して欲しかったです。フランソワ・クテュリエによる音楽はピアノやチェロを主体にした静かなものですが、ラストでぐっと盛り上がるところが素晴らしかったです。静かな展開の中で、ラストで情感があふれるシーンを音楽で構築しているのは見事でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



シェン・リーの息子がイタリアにやってきたのは、彼女の借金を誰かが払ったからだというのですが、誰が払ったのかはわかりません。思い当たるのは、キオッジャにいたときのルームメイトの中国人女性。彼女は何度も思わせぶりに登場するのですが、どうも正体がわからない見せ方をしています。落ち着いたシェン・リーが再度キオッジャに行ったとき、彼女はどこかへ姿を消したと知らされます。そして、かつて働いた店を訪れた彼女は、ベーピが息子の家へと引越してから、病気で亡くなっていたことを聞かされ、ベーピが彼女に海上の漁師小屋を残したことを知ります。彼女は、その小屋にガソリンをまいて火をつけるのでした。

燃え盛る小屋とそれを見つめる彼女の絵に、クテュリエの音楽がドラマチックに流れるところで、映画は初めて感情をほとばしらせるのです。それは登場人物の愁嘆場として見せるのではなく、あくまで間接的な描写にとどめたところにこの映画の味わいがありました。様々な人それぞれに想いがあるのだと感じさせるドラマは見事で、それはこの映画を美しいと感じさせる力がありました。それは、映画が何かを押し付けるのではなく、観る者の感性をかきたてる作りになっているからでしょう。

「バトルガンM-16」はトンプソン監督ブロンソン主演の底辺ランクかなあ


DVDで追っかけている晩年のブロンソン映画、今回は「バトルガン-M16」を観ました。「狼よさらば」に始まるデス・ウィッシュ・シリーズの4作目にあたります。

かつての必殺自警市民のポール・カージー(チャールズ・ブロンソン)は今は元の建築家の仕事に戻り、子連れの彼女カレン(ケイ・レンツ)もできて、落ち着いた暮らしをしていました。しかし、の娘 が売人にもらったヘロインで急性中毒を起こして死亡。カージーは、娘に麻薬を渡した売人を撃ち殺します。そんな、彼に新聞社の社長ネイサン・ホワイト(ジョン・P・ライアン)が接触してきます。今、街を牛耳ってる麻薬組織2つを一気に壊滅させて欲しい。武器と情報は渡すから、やり方は好きにしての申し出。で、大した葛藤もなく、これを引き受けたカージーは、両組織のメンバーを次々に殺して、組織間の対立を煽り、共倒れにさせようと画策します。ヤクの売人や殺し屋、さらには組織のイヌになっていた悪徳警官を葬り、麻薬の精製工場に一人で乗り込んで、皆殺し&爆破というやりたい放題。組織のボス、ザカリアス(ペリー・ロペス)は、これはおかしい、この一件には黒幕がいると気づくのですが、カージーの前にはもはやなす術がないのでした。

ゲイル・モーガン・ヒックマンの脚本を、「必殺マグナム」「ナバロンの要塞」のJ・リー・トンプソンが監督しました。もともとは、ただの建築家だったポール・カージーが暴漢に奥さんを殺されて、自警市民に目覚め、街のワルを殺していくという、社会派の映画だったのですが、2作目の「ロサンゼルス」で殺人の葛藤から吹っ切れて、3作目の「スーパー・マグナム」で完全に悪を成敗する殺しのプロになっちゃっていました。3作目はストリートギャングとの戦いだったのですが、今回は敵もスケールアップして麻薬組織の皆さんを相手に大立ち回りを演じることになります。対立する二つの組織を手玉に取って、行くところに死体の山を作るブロンソンの暴れっぷりは、その後に続くスティーブン・セガールの先鞭をつけたと言ってもよく、その無敵ぶり、無表情ぶり、非情っぷりはなかなかのものです。1時間半ちょっとをボケーっと観るぶんにはそこそこ面白い映画に仕上がってはいますが、クオリティ的には大幅にダウン。当時のブロンソン主演トンプソン監督の一連の映画の中でも、最低の出来栄えになっちゃっています。

完全武装して麻薬組織に挑むブロンソンがあまりに無敵すぎて、どこまでマジメなのかよくわからない展開になっているのです。とにかく、ブロンソンが出たとこ勝負なのに、正体もばれないで、麻薬組織があたふたしちゃう展開は、全体的にものすごく大味。建築家として事務所を持って仕事しているはずなんですが、そんなことよりも、麻薬組織を成敗する方に時間も手間もかけまくり、どう見ても、自警市民というレベルではなくて、殺しのプロフェショナルという仕事ぶりでして、そもそもの設定はどっかへすっ飛んじゃっています。まあ、設定はないがしろにしても、お話が面白ければいいのですが、そのあたりは無難というか、そこそこの仕上がりなのですよ。J・リー・トンプソンという監督さんは、どんなお話でも一定のレベル以上に仕上げる職人さんでして、細かいところに色々気配りがあって、派手なシーンでもどこかリアリティを感じさせる演出をする人だったのですが、この映画では、ひたすら大味に荒っぽいストーリーをさばくだけで、彼らしさが全然感じられない映画になっちゃっていました。

このシリーズは関係者の生き残れない度が高いのが特徴なのですが、今回もその皆殺し度がハンパなくって、ラストの処理はちょっとやりすぎというか、頭使わない娯楽アクションの枠を逸脱しちゃってました。これでカタルシスを感じる人はあんまりいないんじゃないかなあ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



無敵のカージーは二つの組織の連中を次々と殺しまくり、そして、両方の組織が、どうもおかしいぞと会談の場を設けたところにも乗り込んで、両方に撃ち合いさせて共倒れにした挙句、生き残ったボスの息の根を止めてしまいます。この無法、無敵っぷりはセガール映画を想起させますが、こっちの方が先なので、セガールのルーツとも呼べるかも。トンプソンの演出はバイオレンス映画として描きたかった節もあるのですが、ひたすら殺しまくる主人公はヒーローというのはきついものがありました。さて、戦果の報告に社長の家に行けばそこにいたのは別人でした。カージーは麻薬組織のもう一つのボスにだまされていたのでした。しかも、が誘拐されてしまい、その引渡し場所に重装備で赴くカージー。そこは、ローラースケート場の地下駐車場でしたが、そこで撃ち合いとなり、さらに銃撃戦はスケート場にまで拡大して、パニック状態。そこへ銃で武装して、次々と悪党のみなさんを撃ち殺していくカージーは、まるで徘徊する乱射魔のごとし。そして、を盾にしたボスを追い詰めるのですが、何とボスが を撃ち殺してしまい、カージーはボスを銃でふっとばし、恋人の死体に目もくれず、そこを静かに立ち去っていくのでした。おしまい。

恋人があっけなく殺されちゃうのもびっくりですし、その彼女に一瞥もくれずに立ち去るカージーも悪い意味ですごずぎました。ハードボイルド路線を狙ったのかもしれませんが、そこに至るまでの大味演出と展開は、バカ娯楽映画なので、そこで急にシリアスになっても、却ってバカの上塗りになってしまったようです。まあ、珍品と言えば珍品ということになるのでしょうが、なまじ、トンプソンとブロンソンというそれなりの名を成した人が絡んでくるだけに、その珍品度がアップしちゃったように思います。まあトンプソンとブロンソンのコンビの映画では、「KINJITE 禁じ手」というもっとケッタイな作品もあるのですが、映画としては、これよりはマトモに仕上がっていまして、やっぱりこれが最低ランクなのかな。

ちょっと細かいことになるのですが、この映画の音楽としてクレジットされているのは、ポール・マッカラム、ヴァレンタイン・マッカラム、ジョン・ビシャラットの3人でして、二人はマッカラムという苗字からして、ブロンソンの奥さん(ジル・アイアランド)の元のダンナとの間の子供ではないかと思われます。彼らが書いたジャズタッチの音楽は正直軽すぎて映画を支えるのには無理があったようで、別に音楽コンサルタントとして「真夜中の野獣刑事」「」のロバート・O・ラグランドがクレジットされています。そして、映画の活劇部分では、ジェイ・チャッタウェイ作曲の「地獄のコマンドー」が使われ、サスペンス部分では、ラグランドの「真夜中の野獣刑事」が使われていました。要は映画の肝心な部分の音楽は、他の映画からの流用に差し替えられてるのですが、それでも映画音楽としては安っぽい感じに仕上がってしまったのは残念でした。

「ハッシュパピー バスタブ島の少女」は映画としては今一つの満足感


今回は新作の「ハッシュパピー バスタブ島の少女」をヒューマントラストシネマ有楽町1で観て来ました。ここは渋谷のミニシアターとのリンク上映が多く、駅を降りてすぐのロケーションが渋谷より足を運びやすい映画館です。

アメリカのどこか、バスタブ島という小さい島は、大雨が降ると島全体が沈んじゃうようなところ。それでも人々はそこでたくましく生活していました。そこに父親と二人で住むハッシュパピーという少女がおりました。ハッシュパピーはこの島が南極の氷が溶けていくことでそんな遠くない未来に島がなくなることを知っていました。ある日、父親がいなくなってしまい、途方にくれるハッシュパピー。どうやら病気みたいなんです。鍋の火をほったらかしにすると炎が上がって、彼女の家は焼け落ちてしまいます。父親に助け出されたハッシュパピー。そんな時、嵐がやってきて、島のほとんどが水没してしまいます。ハッシュパピー父子も含めた何人かが島に留まり、何とか暮らしを再開させようとします。色々な生きる術を父親はハッシュパピーに教えます。そして、お前は負けない、お前が一番だと彼女に言い聞かせるのでした。そして、父親たちは、島の向こうの堤を爆破して、何とか水を引かせることに成功しますが、塩水につかった土地は死んだも同然でした。役所の人間がやってきて島に残っていた人々は病院に収容されますが、ハッシュパピーはそこの生活になじめません。島に残っていたみんなで病院を脱走して島へ戻ります。父親の病気は進んでいてもう寝たきりの状態です。ハッシュパピーは、自分の母親を探すために、友人たちと一緒に海の向こうを目指します。

2013年のアカデミー賞の作品賞、主演女優賞、脚色賞、監督賞にノミネートされた一品です。マイノリティを題材にしたインデペンデス映画がオスカー候補に挙がるのは珍しいらしく、賞レースでは台風の目のような存在になりました。ルーシー・アリバーの戯曲をもとに、アリバーとベン・ザイトリンが脚色し、ザイトリンがメガホンをとりました。

ハッシュパピーという少女が、故郷や父親を失おうとしている中、たくましく生きていくというお話です。このヒロインが可憐な少女じゃなくて、ワイルドキャラになっていまして、その身の丈以上のつっぱりぶりがおかしく、クゥヴェンジャネ・ウォレスの演技が確かにオスカーに値するくらいに見事なのです。これだけのアップのカットに耐えたのですから、只者ではありません。そんなヒロインを自分がいなくても生きていけるように、タフに育てようとする父親を演じたドゥワイト・ヘンリーも見事でした。全体をリアルというよりは寓話の形で進むのですが、エピソードのつなぎが意図したものなのかどうかはわかりませんが、かなりぶつ切りでして、1本の映画を観るというよりは、見開き2ページで1エピソードの絵本を読んでいくような味わいがあります。その分、時間軸や空間軸とかがわかりにくいところがありまして、一本のストーリーを通して見せる感じでない作りは、好き嫌いが分かれそうです。

この映画の原題は「南の獰猛な野獣」というもので、映画の中では南極の氷の中にいる野獣が現代によみがえり、ヒロインのもとへとやってきます。映画の中では、ところどころに野獣たちの移動する様が挿入されます。彼らは自然界のバランスが崩れることの象徴なのでしょうか。見た目は巨大なイノシシに角がついているという感じで、足はかもしかみたいな感じです。エンドクレジットで野獣のパフォーマーがクレジットされているところからすると、フルCGではなく、アニマトロニクスをCGで仕上げているようです。そいつらは、何かの象徴のように登場するのですが、最後には、ハッシュパピーたちの前に姿を見せます。そして、何をするのかというと特に何もしないのですよ。ただ、野獣とハッシュパピーが接触することで、自然の調和が元に戻り始めるというイメージが伝わってきます。

ハッシュパピーは、この自然は色々なピースがうまく収まることで成り立っている、そして自分も父親もそのピースだと言います。ちょっとエコロジーな感覚かなという気もするのですが、日本人の感覚とはちょっと違うところもありまして、ハッシュパピーが自然も世界も統治するキングのような描き方なのです。父親が大自然の驚異に「何とかする」とよく言うのですが、原語では「コントロールする」という言い方をしていますし、ラストで現れた巨大な野獣たちもハッシュパピーにひざまづくのです。自然に対する畏敬の念とか、共存感覚でないところはお国柄の違いかなと思いました。ハッシュパピーはたくましさと元気を持った少女として描かれていますが、それは怖いもの知らずということでもあります。日本の宮崎アニメにあるような、自然との共存、調和といったのとは、違うエコロジーになっているので、私はどこか違和感を感じてしまいました。自然に対する畏敬の念が感じられないと違和感を感じちゃうあたり、自分は西洋人と違う文化なのかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください(もう、ほとんど書いちゃってますけど)。



母親に会うために向こう岸に泳ぎだしたハッシュパピーたちは通りがかりに船に拾われて、その船長と一緒に、向こう岸の女性の店に連れて行かれます。子供たちは店の女たちに歓迎され、ハッシュパピーはワニのフライをごちそうになり、女性の一人に抱かれた彼女は、生まれてからこんな気分は二度目だと言います。そして、島に帰る子供たちですが、彼らを追って、4頭の野獣が姿を現します。目の前まで迫ってきた野獣をにらみつけるハッシュパピーに、野獣たちはひざまづき、そしていずこへと消えていきます。ハッシュパピーは、床に伏せる父親の元へと行き、ワニのフライを食べさせます。そして、父親の胸に耳をあてると、父親の鼓動が静かに消えていくのでした。島の仲間とともに父親を火葬し、島をみんなと歩みを進めるハッシュパピー。暗転、エンドクレジット。

正直なところ、感動するには、ドラマとしては平板な印象でして、個々のシーンが有機的なつながりが感じられず、情感が盛り上がるには至りませんでした。マイノリティとエコロジーという視点が向こうの人には新鮮に映ったのかもしれませんが、映画を観たという満足感は今一つになっちゃいました。映画を一本貫く柱のようなものがあったのかもしれませんが、残念ながら読み取れませんでした。そんな中でドラマに統一感を持たせていたのは、ダン・ローマーとベン・ザイトリンの音楽でして、素朴でファンタジックな音が、ハッシュパピーの存在感を浮き立たせていました。

「コズモポリス」はアメリカの今と暴力の二本立てでなかなかの見応え


今回は新作の「コズモポリス」をヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。「メトロポリス」「コズモポリス」「ベルセポリス」とポリスものが色々あって紛らわしいです。

若き大富豪で社長のエリック(ロバート・パティンソン)はリムジンに乗って散髪に行くと言い出します。その日は大統領がニューヨークに来るということで厳戒状態で大渋滞、エリックにも脅迫電話がきていました。なかなか進まないリムジンには、部下や愛人(ジュリエット・ビノシュ)、シングルマザー(エミリー・ハンプシャー)、論理主任(サマンサ・モートン)、健康診断のドクターといった面々が次々と乗り込んできては、エリックとちょっと議論を交わします。街では大規模な市民デモが行われていて、リムジンはグチャグチャに汚されてしまいます。彼と結婚したばかりの妻(サラ・ガドン)とはなかなかセックスできず、愛人と車中でセックスしたり、非番のSPともやってます。中国の元の動きを読みそこなったエリックは大損をしていました。そして、もう少しで床屋につく寸前で車を降りたとき、パイをぶつけられてしまいます。ぶつけた男(マチュー・アマルリック)は有名人にそれをすることを生業としているような変な奴。大富豪で社長のエリック、果たして無事に床屋までたどりつけるのでしょうか。

ドン・デリーロの2003年の小説を原作に、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」「危険なメソッド」のデビッド・クローネンバーグが脚本を書き、監督もしました。ある大富豪がリムジンに乗って床屋に行くという基本設定に、様々な人物が絡んでくるというお話です。膨大なセリフの量で字幕を追うのが大変なのですが、その言葉が示唆に富んでいて、ちょいとキザな感じの映画に仕上がっています。とはいえ、セリフを全部飲み込めなくて、印象に残ったところをつまみ食い式の記事になっちゃいました。

最近、マービン・チョムスキーの「アメリカを占拠せよ!」(ちくま新書)という本を読んで、アメリカの富が極端に偏在している(1%の富裕層が富を独占している)という状況に市民が怒りの声をあげ、デモなどの抗議運動を起こしていることを知りました。99%の民衆は一部の富裕層から搾取されていて、政府は富裕層に迎合して、さらに民衆を困窮させているという状況は知っていたものの、それに対して市民からのアクションがあるとは知りませんでした。この映画は、その構図がバックグラウンドにありまして、映画の中では、市民の抗議デモが登場しますが、それはこの富裕層が富を独占する現状への抗議であることが伺えます。その富裕層のトップにいるのが、エリックです。彼は為替で稼いでいるようで、自己資産も相当なもののようです。金持ちの妻がいて、愛人がいて、世界の金融市場に多大なる影響を及ぼしている男、そんな超セレブがある日、髪を切りに床屋へ行こうと、リムジンに乗り込みます。上品だけど無表情な主人公を「トワイライト」シリーズ(私は未見)で人気のロバート・パティンソンが熱演しています。

彼は何でも手にしているようなんですが、実のところ自由にならないことばかり、まず街を横切って床屋へ行く、それだけのことができない。妻とセックスしたくともできない、本業では中国元の動きが読めない。いくらでも金を積むからと名画のあるチャペルを買おうとしても買えない。デモ隊に車を汚されても文句が言えない。脅迫電話がきても何もできない。理屈で社会を語り尽くそうとしても単なる表層しか語る言葉をもたない。テクノロジーと大資本が人々の未来を食い尽くしていく、その食い尽くす立場の人間なのに、自分の未来が全然見えない。色々と挙げましたけど、とにかくエリックは色々と不自由してるのですよ。そんな彼が唯一ダメージを受けるのが、パイをぶつけられるという、しょうもないこと。彼のリムジンの肘掛のボタンで、様々な情報を得ることができるのですが、情報に触れることができても真実とはかなり距離感がある感じ。彼は99%の民衆に君臨する王とも言える立場なのに、その足元はかなりあぶなっかしいようです。抗議デモのスローガン「幽霊が世界にとりつく」というところからも、社会を牛耳っている筈のエリックのような富裕層がその実在があやふやとしてるという図式が見えてきます。

クローネンバーグは、時間軸や空間軸をあやふやにすることで、主人公の床屋までの旅(?)をまるで百鬼夜行の中を漂っていくような描き方をしています。その足元が不確かな感じで最後まで突っ走るのかと思いきや、突然の暴力が登場することで、世界は突然実体を持ったものに変わっていきます。実体のない情報と対を成すものとして、暴力が登場するという展開は、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」と同じテーマに踏み込んでいるようです。映画のクライマックスは、無造作に実体化する暴力による緊張感に支配され、エモーショナルで不気味という不思議な後味を残します。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



パイまみれにされたエリックは、それまでずっと同行してきた警備主任に銃を見せてくれと言い、その安全装置を解除させた瞬間、彼の頭を撃ち抜きます。そして、床屋にたどりついたエリックは、それまでにない安心した屈託のない表情を見せます。そして、床屋は彼の両親を知っており、昔話を聞きながら頭を刈ってもらうエリック。でも、なぜか途中で打ち切ってまたリムジンに戻ります。そして、車庫に戻るリムジンから降りたところで、どこからか銃弾が飛んできます。銃声のあったビルの中を銃を構えて進むエリック。そして、ある部屋にたどり着くと、そこには銃を持った男(ポール・ジアマッティ)がいました。彼はエリックの会社の元社員でした。彼は自分の存在が薄くなっているのに耐えられなくなり、エリックを殺すことで自分の存在を再認識し、居場所を見つけようとします。そんな男に冷ややかな言葉を浴びせるエリックですが、突然、持っていた拳銃で自分の掌を撃ち抜きます。痛みに震えるエリックに、男は同情の言葉を投げかけます。今日一日で全てを失ったエリックに対して、男はテクノロジーと情報に頼ったことが失敗だと看破し、もっと不合理なものに目を向けるべきだったと言います。それでも、男はエリックを殺さなくちゃならないと彼の頭に銃を突きつけます。エリックの目に一筋の涙が流れ、男が引き金を引くその瞬間に暗転、エンドクレジット。

警備主任が突然エリックに殺されるショックシーンから、映像には常に暴力の緊張感が漂ってきます。クライマックスは、エリックと男の会話の間、両者がお互いの銃を持ち、時に自分に銃を向けたり、銃口をくわえたりするなど、常に死と暴力の予感が続きます。ずっと情報の中で、実体と触れ合えなかったエリックが、ここでは生身の人間として暴力に向き合うことになります。前半からエリックに死の願望が見え隠れしているのですが、ここで死こそが彼にとっての現実らしいということが見えてきます。クローネンバーグは、クライマックスのリアルな死の恐怖と暴力の実感を重量感のある演出で描いており、ああ「ヒストリー・オブ・バイオレンス」の人だなあって納得しちゃいました。さらに暴力と死がエリックにとっての救済であるかのようにも描いているのが印象的でした。

結構、小難しいことを並べてくるので、とっつきはよくないのですが、クライマックスで死と暴力に収束させてくるところに映画的な興奮がありました。演技陣もビノシュ、ジアマッティといった知った顔から初めて見る顔まで、印象に残る好演をしています。ハワード・ショアの音楽はシンセによる都会派アンビエントサウンドという感じで、ドラマを支えました。

「君と歩く世界」は感動モノみたいな売り方を真に受けると実物見てびっくり


今回は新作の「君と歩く世界」を丸の内ピカデリー1で観てきました。ここは高い位置からスクリーンに上映するので若干上映サイズが台形っぽくなる映画館。

元ボクサーのアリ(マティアス・スーナーツ)は5歳の息子を連れて南仏の町へとやってきます。姉夫婦の家にやっかいになり、クラブの用心棒とかスーパーの夜警として働き始めます。ある時、クラブでのいざこざから、ステファニー(マリオン・コティヤール)という女性を家に送ることになります。彼女はシャチの調教師でショーをやっていました。そんな彼女がシャチショーの事故で水槽に落ち、両足を失ってしまいます。失意のどん底にあった彼女はなぜか一度しか面識のないアリに電話をかけてきます。彼女の家に赴いたアリは部屋に閉じこもろうとするステファニーを海へ連れていき、二人は妙な距離感でつきあうようになります。他に寝る女はいるアリですが、それでも、ステファニーと試しにセックスしようかと言い、そのままベッドインし、二人はそういう関係になっていくわけです。アリは、賭けストリートファイトで金を稼ぐようになり、そこにステファニーも同行するようになります。ステファニーも義足をつけて、どこへでも出歩けるようになりました。アリが夜警の仕事で知り合った男と、大規模店舗の従業員を監視するためのカメラ屋として仕事をするようになるのですが、それが従業員に知られて、その仕事もできなくなってしまい、そのカメラのせいで姉が仕事を失ったものですから、姉夫婦の家も追い出されてしまいますが、アリは息子を置いて失踪。ステファニーとの連絡も途絶えてしまうのでした。

クレイグ・デヴィッドソンの原作を、トーマス・ビデガンとジャック・オディヤールが脚色し、オディヤールが監督しました。この映画の予告編は、シャチの調教師が事故で両足を失うのですが、ある男性と出会って人生のやり直しをするというストーリーでして、いわゆるハンディギャップ感動編という作りになっていました。そういう映画を期待していると、実際は、不器用な男女の恋愛談になっていまして、確かに両足を失うことが物語の発端になっているのですが、それが主軸でない展開は、ちょっと肩透かしをくらいました。と、いうより、この売り方はちょっと詐欺っぽいですね。両足のないヒロインの恋愛物語は、片目が不自由なヒロインの恋愛モノ「ポンヌフの恋人」みたいな感じなんです。簡単には感情移入できない、リアルでとっつきにくい主人公二人の関係がどういう風に進展していくのかってところを見る映画なのですよ。ウィークデーの夕方にしてもガラガラの場内は不思議だと思っていたのですが、映画を観てみれば納得のミニシアター向けの映画でした。映画好きの人が何本も観る中の1本ではありますが、たまに映画館に足を運ぶ人が観る映画ではないのですよ。この内容で、ハンディキャップ感動ものの売り方をしても、ちょっと違うと思います。両足のないヒロインのセックスシーンをリアルに見せられると、ああ濃いフランス恋愛ものなんだなってわかるのですが、感動を期待していると結構気まずい映画になっちゃっています。

アリという男は、それなりにマジメで悪い奴ではないのですが、子供を育てるシングルファーザーは不向きなタイプ。アリの妻は、息子にヤクの運び屋をさせようとしたというから論外なんですが、そういう意味では、共感を呼びにくいタイプです。ステファニーも、彼氏がいるのに挑発的なカッコしてクラブに出かけてトラブルを起こしちゃうのですから、こっちも結構面倒なタイプ。そんな二人が付き合うようになるのは、ステファニーがアリに電話をしたからというのも意外な展開でした。そして、二人は付き合うようになるのですが、最初は男女の関係はなし。それでも、アリのおかげでステファニーは外へ出るようになりますから、いい友人という感じでしょうか。その友人関係の中で、セックスの話題となり、まだ大丈夫かしらなんて話になって、じゃあやってみよっかってことになってベッドイン。それが、結構ステファニーを元気づけることになります。二人は恋愛関係よりも、友人関係となって肉体関係へとつながっていきます。

この映画では肉体にまつわるアイテムがたくさん登場します。ヒロインが両足を失うのはもちろんですが、アリが金を稼ぐために始めるストリートファイトも肉体と肉体との戦いです。二人がセックスで関係が深まることも肉体による精神の高揚ととることができます。でも、感情よりも肉体が前面が出てくる展開なので、主人公のキャラがなかなか見えてきません。二人がだんだんと離れがたい関係になっていくことは伝わってきます。でも、二人が恋愛関係には見えません。それでも、二人がクラブに行って、アリがナンパした女の子と先に帰ってしまうと、ステファニーが不機嫌になっちゃう。でも、アリは彼女の不機嫌の理由を理解できない。二人の想いがなかなか見えてこないあたりは、ちょっとミステリーっぽい味わいがありますが、その分、恋愛映画というには、なかなか本筋に入ってこないのがじれったくもあります。

二人は最後には自分の人生を取り戻すのですが、意外とそこのところはあっさりと流しています。オディヤールの演出は、二人のセックスですとか、ストリートファイトの部分をじっくりと描いていまして、ドラマの重心がよく見えないところがあります。ラスト直前の恋愛部分もあっさりと流してしまうので、ドラマを見終わったという充実感がなかったのは物足りなかったです。各々のエピソードの描き方はなかなか面白いと思うのですが、それらが一本の太い幹に収束しないので、映画としてのカタルシスが感じられませんでした。もともとそういうものを期待する映画ではないのかもしれません。ステファーノ・フォンテーヌの撮影も、引きの絵で絵画のような緻密さを見せる一方で、人物を手持ちカメラで追うシーンはドキュメタンリータッチで、それをシーンごとでなく、カットごとに切り替えてくるので、何か落ち着かない絵になっていました。映画のドラマの動くところでは手持ちカメラ、その境目のインサートカットを引きの絵というのなら、わかるのですが、全く違うタイプの絵をカットごとに切り替えてくる演出は、ドラマがなかなかつかみどころがないのと同様、映画のタッチもつかみどころがないという印象を持ってしまいました。

ドラマの切り口は面白いと思いますし、主演二人の熱演も伝わってきます。失った両足のカットはCGを多用しているようで、ヒロインが泳いだり、セックスシーンなどでリアルな絵を作っていました。シャチもひょっとしたらCGだったのかも。でも、やはり恋愛ドラマならラストをもう少し盛り上げて欲しかったように思いますし、人生を取り戻すお話なら、もっと二人を共感しやすい描き方をして欲しいように思いました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



子供を置いて姿をくらましたアリは、ボクサーとしてのトレーニングを積んでいました。ある日、義兄が子供を連れてきてくれて、アリは息子とソリ遊びに出かけます。氷の張った湖で遊んでいるうちに氷が割れて息子が湖に落ちてしまいます。救出されて、昏睡状態から目覚めて一安心のところのアリに、ステファニーから電話がきます。アリはそこで初めて怖かったとむせび泣き、ステファニーに捨てないでくれと言い、ステファニーは見捨てないわと答えます。そして、その時、初めてアリの口から「愛している」という言葉が出ます。そして、ボクサーとして名を成すようになったアリのモンタージュでおしまい。

「愛してる」の言葉にたどりつくには、子供が死にそうな目に遭わなきゃならなかったというのは、子供にしてみればたまったもんじゃない話でしょう。子はかすがいという話なんですが、アリに振り回される息子がかわいそうになっちゃいました。「愛してる」の言葉の後日談も、アリが成功したらしいというだけで、ステファニーとどういう関係に進んだのかが描かれないのは物足りなかったです。ステファニーは子供を置いて姿をくらましたアリのことを悪く言わないあたり、世間体的にはクズな父親のアリを信頼しているようです。それが愛情によるものらしいことはわかるのですが、ステファニーにとってアリがどういう存在なのかが彼女の口から語られるシーンはありません。説明的なシーンがまるでないので、アリとステファニーの間の感情はシーンから読み取るしかないのですが、その割には、二人の関係がセックスシーンに集約されてしまうので、やっぱり恋愛映画としては、サービス不足だよなあ。

「ザ・マスター」は虚実の線引きがうまくできなくて、観ていて混乱しちゃったです


今回は、TOHOシネマズシャンテ2で新作の「ザ・マスター」を観て来ました。ここはフラットな劇場なので、座高の高い人が前に座ると画面が欠けちゃう困った映画館。ガタイのいい人は浅く座って欲しいわあ。

太平洋戦争から帰還したフレディ(フォアキン・フェニックス)は酒の飲み過ぎもあったのか精神を病んでいました。デパートの写真館で働き始めたものの客に乱暴しちゃってクビ。放浪した挙句、忍び込んだ船で、大物の思想家ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)に出会い、彼の元に身を寄せます。ドッドは「コーズ」という団体のトップで「マスター」と呼ばれています。プロセシングと呼ばれる治療によって、過去にさかのぼることで、人生の真実に近づける、病気だって治っちゃうというのです。一部の人間から尊敬の対象となり、多数の人間からはイカサマ師のように言われちゃってます。そんなドッドに心酔するようになるフレディですが、酒癖は悪いし、ドッドを非難した人間をボコボコにしちゃったり、やることが常軌を逸しています。ドッドの妻ペギー(エイミー・アダムス)や子供たちは、得体の知れないフレディの存在を気味悪く感じていまして、彼を追い出すようにドッドに進言しますが、ドッドは、「彼を見捨てるのか」とたしなめます。それからというもの、フレディに新たな治療訓練が課せられ、自我を押さえる人間に変えられてしまったように見えるのですが、ある日、突然ドッドの前から姿を消します。数年後、フレディはドッドのもとを訪ねると、ドッドは彼に愛情を込めた惜別の歌を歌うのでした。

「ブギー・ナイツ」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」で知られるポール・トーマス・アンダーソン監督の新作で、脚本も彼が書いています。私はこの人の映画は「マグノリア」しか観ていないのですが、その「マグノリア」の印象だと、思わせぶりとはったりの人というイメージがあります。娯楽映画としての作りになっていないのは、作家性が強いということになるのでしょうが、作家性が強いから、わけわからなくてもいいとは思っていない私には、あまり相性のよくないタイプの監督さんのようです。この映画でも、その印象はあまり変わりませんでした。サイエントロジーをモデルにしたというコーズという団体を舞台に、人を導くマスターと、誰の導きも拒否する自由なフレディがお互いに引かれながらも袂を分かつまでを描いています。

フレディってのは兵役から帰ってきて、精神を病んでいると診断されてしまいます。冒頭で、砂で作った女体に覆いかぶさって腰使ってる男として登場するのですが、見た目からして、どっか普通じゃない。日本で言うならチンピラヤクザみたいなんです。写真屋の仕事をしている時もスキを見ては酒を飲み、彼女もできたのに、それも捨てての放浪生活。そんな普通じゃないフレディが出会ったのが、やっぱり普通の人じゃないドッド。自己啓発と神秘系のあいのこみたいな、プロセシングなる療法で、患者の記憶を過去にさかのぼらせるというもの。金持ちのマダムとかに取り入ったりして、その療法の実演とかやってます。それでも、各地に彼の崇拝者がいるらしく、それなりの組織力があるらしい。でも、ドッドにはそれほどのカリスマ性とか胡散臭さはありません。プロセシングという、面談で質問をぶつけて相手を追い詰めて本音を語らせていくという胡散臭いことを、彼なり誠実にやってるって感じなんです。ですから、ドッドからは強烈なパワーとかカリスマ性というのは感じませんでした。むしろ、どこかに虚勢を感じさせる弱さがあるので、フレディとの関係が、彼にとっての支えになっているかのようにも見えてきます。

そんなお話をアンダーソン監督はケレン味たっぷりの演出で描いてきます。フレディは性欲が強いという設定らしく、映画の中で、突然、彼の妄想シーンが挿入されてきます。パーティのシーンで突然女性が全裸になったり、フレディを嫌っている筈のドッドの娘が、フレディの股間にちょっかいを出してくるのです。それに何の意味があるのかというと、よくわからないのですよ。ひょっとして、全てがフレディの妄想なのかもしれないと示唆しているのかというと、そうでもないらしい。また、性的なものとは別の幻覚のようなシーンも登場します。フレディが映画を観ていると、そこにドッドから電話がかかってくるのです。ありえないシーンをいくつも放り込まれると、そのドラマの根幹でさえ不確かなものに感じられてしまうのですが、その虚実のさじ加減がよくわからないので、どこまで真に受けていいのか戸惑ってしまいました。

フィリップ・シーモア・ホフマンが胡散臭いけどどこか弱さも感じさせるマスターをリアルに演じて存在感を見せるのですが、一方のホアキン・フェニックスはキャラを作りすぎて、そのオーバーアクトが却って存在感を薄めてしまっていたのが気になりました。ヤクザ映画に出てくるチンピラみたいなキャラを、いかにも熱演してますという見せ方なのですよ。映画は、フレディのシーンから始まるので、まずフレディありきのように思えるのですが、ドラマが進んでいくにつれて、フレディのハチャメチャなキャラと行動が、彼の存在感を薄めていくのです。自分の理想のために禁欲的なドッドが、その欲望を補完するために生み出した幻が、フレディなのかもしれないと思えたりもしたのですが、それはちょっとうがちすぎなのかしら。最後のラストで、砂浜で相変わらず砂を女体の形にして喜んでいるフレディが映ると、抑圧されたドッドが自由でいられるのはフレディに自分を投影できたときだけなのかなって気がしてしまったのです。

でも、ドラマとしては、フレディやドッドをきちんと実体のある人間として描いているのも事実でして、その曖昧さに、自分が振り回されているってのも事実です。フレディの妄想シーンが唐突に挿入されてくるなら、映画はフレディの主観で描かれているのかというと、フレディを再教育するシーンのカメラの視点は、彼を治療の対象物としています。どうとでも好きに解釈すればいいのでしょうが、その割には、ドラマの作りががっちりとしているので、どうも観ている方の居心地がよくないのです。フレディやドッドが社会の意識の象徴であることは伺える一方で、寓意の入る隙のない展開は、私にはいま一つ相性のよくない映画になっちゃいました。

ドッドの持論である、自分の過去を認識するという施術方法は、後退催眠と呼ばれるもので、一時期は埋もれた記憶を引き戻すのに使われたりもしていましたが、今はその引き出された過去に、施術者によるバイアス(偏り)が入る余地が大きいということで、その信憑性には疑問が持たれています。でも、ドッドはそんな過去を当てることに興味があるわけではなく、過去の人生を遡ることで、その本質に迫れると思っているようです。前世にまで遡っていくあたりが胡散臭さ満載なのですが、そのやっていることには、自信と信念が感じられます。でも、ドッドの息子はその理論には懐疑的です。妻は、夫を信頼し、尊敬もしているようですが、彼の自信が揺らいでしまうことには耐えられないようで、現状の立場を貫くように無言のプレッシャーをかけています。そんな、彼からすれば、チンピラヤクザみたいなザコ感満載のフレディは、まるっきり別世界の人間であり、ドッドが持っていないものをフレディは全て持っているとも言えましょう。だからこそ、コーズにとって迷惑な存在でしかないフレディを切り捨てることができないのです。一方のフレディはドッドを必要としているのかというとそんなわけではなく、自分の思うがままに生きようとします。人格破壊のような施術を受けても、根本的には何も変わっていないのです。じゃあ、結局ドッドの片思いだったのかというと、実際そう見える結末となっています。フレディがラスト近くでナンパした女の子とセックスに及び、そのベッドでドッドのプロセシングの真似事をするのですが、結局、ドッドがフレディに与えた影響はそんなもんだったという見せ方になっていました。

人間が自由であるってことは、欲望にも正直だと言えます。フレディは欲望に対して病的に正直なので、社会の中では迷惑な存在ではあるのですが、それをうらやましいと思う視点がドッドにはありました。でも、自由なフレディは人間の醜い側面を表現していて、胡散臭いマスターのドッドには自分と周囲に対する誠実さがありました。自由な人間だから、他者との折り合いをつけて生きていくわけではなく、他者を操る人間だからといって、傲慢で欲望にあふれているわけでもない。そのあたりのさじ加減が面白いと思いました。ドラマとしての作りががっちりしているので、映画を観たという満足感はありました。ただ、説明不足な部分、突然の妄想カットの挿入など、解釈に困る部分が多く、映画を観終わってもすっきりはしませんでしたから、あまり他の方へのオススメはできないかなあ。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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