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「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命」は見応えあるけど結構ヘビー、ラストは希望か諦観か。


今回は、ヒューマントラストシネマ有楽町2で新作の「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命」を観てきました。この映画、シネコンでも上映していまして、60席のミニシアターの小さい画面とシネコンの大きな画面では印象が変わったかも。

各地を巡業して回る、遊園地のバイクショーのスター、ルーク(ライアン・ゴズリング)はかつての恋人ロミーナ(エヴァ・メンデス)と再開します。彼女は母親と赤ん坊とともにコフィ(マハラージャ・アリ)の家で暮らしていました。その赤ん坊が自分の子供だと知ったルークはその町に留まり修理工場を営むロビン(ベン・メンデルゾーン)と知り合い、彼にそそのかされて銀行強盗で金を稼ぎ始めます。しかし、その金でベビーベッドを買ってロミーナの家に持ち込み止めようとしたコフィを殴ってしまい逮捕されてしまいます。もう強盗はやめろというロビンの忠告を無視し、ルーク一人で強盗をしますが警察に追われてしまい、最後に若い警官エイブリー(ブラッドリー・クーパー)に撃たれて死亡します。ルークからも発砲されて負傷したエイブリーは一躍警察のヒーローとして有名人。しかし、彼はルークに十分に警告せずに、先に発砲していました。彼の仲間の警官はロミーナの家に捜査だと言って捜索して、ルークが彼女に残していた金を着服してしまいます。さらに、不正をしようとする同僚をエイブリーは告発し、検事と取引して検事補の地位を得ます。15年後、司法長官選挙に出馬しているエイブリーの息子AJは、転校した先の学校でルークの息子ジェイソンと知り合います。二人はつるんでヤクを買っていたところを警察に逮捕され、息子の連れがジェイソンだと知ったエイブリーは、息子にあいつには関わるなと釘をさすのですが。

「ブルーバレンタイン」のデレク・シアンフランス監督の新作です。シアンフランス、ベン・コッチオの原案から、シアンフランス、コッチオ、ダリウス・マーダーが脚本を書きました。前半はライアン・ゴズリングのパート、中盤はブラッドリー・クーパーのパート、後半は二人の息子のパートという構成になっています。冒頭はバイクショーに向かうルークのアップから始まり、彼が自分の子供がいたことを知って、町に留まることで、ロミーナやコフィに迷惑かけまくるという展開です。どうやら、彼は自分と同じ人生を息子に歩んで欲しくないと思っているようなんですが、どうすればいいのかわからない。その結果が、銀行強盗ですから、まあダメな奴。でも、彼自身の生い立ちには影があることは伺え、それを後悔している節があります。見ようによっては、不器用な純粋キャラとも言えないのですが、どっちかというと周囲の見えない迷惑な奴。それなりになんとかやってるロミーナとコフィの家庭に無理やり割り込んでくるあたりは、見た目かっこいいライアン・ゴズリングだけに、ナルシスト度高くて、イラっとさせられました。面白いのは、ルークを銀行強盗に引っ張り込むロビンという男。ルークが金に困っているのを知って、やってみるかと話を持ちかけるのですが、どこか分をわきまえたところがあって、ちょっと稼いで、手を引こうというスタンスです。一方のルークはもっとやるんだと言い張って、ついには自分一人で銀行に乗り込んでいきます。いわゆる破滅型のキャラクターなんですが、結局、警官に撃たれて死亡。ドラマはそこからはエイブリーに主役が切り替わるので、いったいこの映画は何の話なのかわからなくなってきます。

エイブリーはルークと対照的に育ちもいいし、破滅型とは正反対の上昇志向の警察官です。同僚の警察官の不正は許せない青い正義感も自分の立身出世につなげていくしたたかさもあります。でも、自分が射殺したルークに対しては負い目を感じていました。それが決定的になるのは、同僚がロミーナの家に押しかけて、ルークが残した金を見つけて持ってきてしまい、その分け前を受け取ってしまってからです。それ以外にもこの警察には色々と不正がはびこっていまして、署長もそれを承知の上でした。署長に報告して、逆に脅されてしまったエイブリーは、裁判官の父親(ハリス・ユーリン)に相談し、検事(ブルース・グリーンウッド)に垂れ込んで取引し、検事補の地位を得るのでした。15年後には司法長官選挙に出馬しているのですから、バリバリのやり手ということになるんでしょうが、結構色々やってのし上がったんだろうなあってことは想像つきます。その息子AJは17歳、酒もクスリもやるといういわゆる金持ちのドラ息子って感じ。それが転校先で声をかけたのが、ルークの息子のジェイソンでした。うーん、これはやりすぎの偶然だよなあ。そこまで、結構リアルな展開で進んできたのが、突然のご都合主義になっちゃうのは違和感ありありなんですが、実はこの映画のキモはこの出会いなのです。全ては運命のいたずらなのか、それとも負の連鎖による必然なのか、結末の解釈は分かれるのですが、ただ、はっきりしているのは、ルークからジェイソンへ、エイブリーからAJへとつながっているものがあるということ。また、直接は描かれないものの、ルークやエイブリーの人生、価値観は、彼らの父親の生き方からつながっているのです。良かれ悪しかれ、父親からの何かを引き継いでしまうという見せ方は、若干の説得力はあるものの、こういう形で無意識のうちに人生を束縛されているのもかなわないなあって気がしてきます。でも、その視線は「ブルーバレンタイン」にも感じられた冷たさと諦観がありまして、ヘビーな後味を残す映画に仕上がっています。2時間半弱という長さでヘビーな後味なので、結構きつい映画ではあるのですが、その分見応えもありました。

演技陣では、エイブリーの奥さん役のローズ・バーンがいつもとは違う華のない役どころを渋く演じている他、悪徳警官と言えばこの人というレイ・リオッタが相変わらずのタチの悪さを好演しています。彼がかつてウーピー・ゴールドバーグとラブコメしてたなんて想像がつかないですが、極悪じゃないけど狡猾な男を演じるときっちりはまる役者さんです。また、ジェイソンの養父コフィを演じたマハーラジャ・アリが、感情移入しにくい人間ばかりのドラマの中で、唯一の善意の人を演じて、その控えめないい人加減が見事でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



不自然だけど必然な出会いの結果、ジェイソンは自分の父親を是非知りたいと思うようになり、コフィから父親の名前を聞き出し、ネットで検索して、ルークが何をしてどういう最期を遂げたかを知ります。AJからまたクスリをたかられたジェイソンは、薬局で万引きしたクスリを持ってAJの家のパーティに足を運び、そこに飾ってあった写真からAJの父親がルークを殺した男だと知ります。そこで口論となった結果、AJがジェイソンをボコボコにして、ジェイソンは病院に運ばれます。ジェイソンはヤクの売人から拳銃を買い、AJの家に向かい、ちょうど帰ってきたエイブリーを銃で脅して森へ連れ出します。銃で脅してサイフと上着を奪うジェイソン、そんな彼に泣きながら「すまなった」と詫びるエイブリー。それを見たジェイソンはエイブリーを森に置いて姿を消します。エイブリーのサイフの中には、ルークとロミーナと赤ん坊のジェイソンの写真がありました。エイブリーは証拠品の中からその写真を抜き取ってずっと肌身離さず持ち続けていたのです。エイブリーは息子AJの不祥事を乗り切って司法長官に当選します。ロミーナの元に来た郵便には、ルークとロミーナとジェイソンの写真が入っていました。そして、バイクを買ったジェイソンがどこへともなく消えていくところでおしまい。

ラストはジェイソンが過去の呪縛からやっと切り離されたようにも見えますし、結局、バイクに乗って放浪するという父親と同じを道を歩むんだなというふうにも見えます。ルークは銀行強盗に失敗して逃げ回って射殺される直前、ロミーナに電話して「息子に俺のことは一切語るな」と頼みます。しかし、結局その願いはかなわず、ジェイソンは全てを知って、父親と同じ人生の一歩を踏み出してしまったように私には思えました。それは、よくも悪くも絆というものなのかもしれませんが、そんな残酷な絆ならいらないよなあって気もします。一方、エイブリーとAJの親子関係には、そういう絆と呼べるものはありません。仕事に野心のあるエイブリーは家庭を顧みることなく、奥さんとも離婚してしまっているようですし、息子への威圧的な態度からも、良好な親子関係ではなく、息子自体もいやなガキに育ちました。ただ、エイブリーとAJにはまだこれから人として親子として改善できる可能性を持っています。ジェイソンよりは未来が感じられるあたりに、この映画の皮肉な視点がありました。

ドラマの経過とともに主人公が変わっていくというドラマは珍しいのではないかしら。こういうドラマだと、時勢を前後させて、3つのドラマを並行して描くようなテクを使ったりするのですが、この映画では、時系列は1本なので、その分、わかりやすくはあります。ただ、二人の息子が登場するまでドラマの全貌が見えてこないので、そこまでが観ていてしんどくもありました。
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「タニタの社員食堂」は、私は優香を観ていてモトを取りました。


今回は、角川シネマ有楽町で、「タニタの社員食堂」を観てきました。ちょっとこのところ映画のチョイスが偏ってるかも。

体重計とか作っているタニタでは新しい体脂肪計の発売にあたり、製品の評判がよろしくないことから、何か販売キャンペーンをやることになりました。頼りない二代目副社長幸之助(浜野謙太)はアンケートに社員が太ってるんじゃ信用できないという声と自分も太っていることから、社内でダイエットをしようというキャンペーンを提案し、ゴーサインが出ます。学生時代の同級生菜々子(優香)を栄養士として採用し、体脂肪40%以上の社員、丸山(宮崎吐夢)、福原(小林きな子)、太田(草野イニ)に自分を加えて、ダイエットチームを結成、この4人の3ヵ月のダイエット経過をWebに掲載していくとにします。菜々子は社員食堂の仕切って、ダイエットメニューを開発し、さらに4人には全食事のプログラムを作り、ダイエットを進めていくことになります。最初はどうかなーって感じだった4人も1ヵ月ほどで効果が現れると段々やる気が出てきます。しかし、2ヶ月過ぎるあたりで、空腹に耐えられなくなった4人はギブアップ。特に太った子が好きという彼氏にフラれた福原が自殺未遂を起こしてしまったことから、ダイエット企画は中止に追い込まれてしまうのでした。

「体脂肪計タニタの社員食堂」というレシピ本が話題になりました。体重計とか作っていたタニタがその社員食堂で出しているヘルシーメニューをまとめたもので、今では、会社を飛び出して「タニタ食堂」という店がそのメニューを出しています。その実話をベースに田中大祐がフィクションを加えて脚本化し、「デトロイト・メタル・シティ」の季闘士男が監督しました。どこまで実話なのかは知らないのですが、お話としては、ヘルシーメニューを紹介しつつ、ダイエットの道のりを描いて、ダメ副社長が生まれ変わるという、結構欲張った内容になっています。色恋沙汰がないのがちょっと意外でした。

私もいい年なので、人間ドックへ行くと、脂肪肝だとかコレステロールが高いとか言われてますので、ダイエットってのはやった方がいいんだろうなくらいの認識はあります。ただ、好きなものが食べられないってのは、他に趣味のない人間からすれば苦痛でしかありませんし、ストレスで太って、ダイエットがストレスになったら、好きなものが食べられないだけ損だよなあって損得勘定もあります。もうひとつ、社員食堂とか学校給食で、食育とか体質改善ってのは、おこがましいよなあって思うところあります。1週間21食のうちのたった5食で、食育とかダイエットとか言うのは、何様のつもりって感じ。ですから、この映画で、社員食堂のヘルシーメニューでダイエットというのは、何か違うという先入観がありました。食事というのはプライベートなものなので、会社がそこまで踏み込んでくるのもやだし。食べることで、追いつめらるってのは不幸だなあって気がします。

映画は、そこのところをうまくドラマとしてこなしていまして、中盤までは、「ダイエットに苦しめられる不幸」について意識させない作りになっているのには感心しましたし、その段取りよい展開を楽しめました。一応、ダイエットチームの各々には、ダイエットの動機付けがされています。モテたい、離婚して親権を取られた娘に会いたい、何かを最後までやりとげたい、など、それぞれに思うところはあります。そのあたりの流れがスムースだったのはうまいと思いました。ところが、クライマックスの前で、ダイエットチームの一人福原が彼氏にふられて自殺未遂をはかって、その後「たかが食べることで何でこんなに苦しまなきゃいけないのー」って泣くシーンが出てくるのですよ。「あちゃあ、それは言わない約束でないかい?」って突っ込み入っちゃいました。この疑問にうまく答えられればすごかったのですが、この言葉にきちんとした回答はなく、単にここまでやってきてあきらめるの?とか言う話に持って行って、その本質への答えはないのですよ。この映画の根幹を揺るがす疑問をパスするくらいなら、そんなセリフを言わせなきゃいいのに。それとも、本気で目標をもってダイエットすること自体が大事だと、作り手は思っているのかしら。

今はダイエットってのは、特別な動機が必要ではなくて、常識的に誰でもやることになっているのかしら。ひょっとして私は古い人間だから、ダイエットに動機や理由を求めてしまうのかなって気もしてきました。最近は、タバコをやめることがかなり常識化しているのですが、ダイエットも、あんな感じになっているかなあ。太っていると心筋梗塞とか糖尿病になりやすいという健康上の理由はわかるのですが、会社のイメージアップのためにダイエットするってのは、何か不幸だなあって気がします。実は私の勤める会社でも、社内でダイエットプログラムを薦めていまして、ダイエットってのは、今や有無を言わせぬ課題になりつつあるようなのです。一時期、「何を置いてもまず健康」みたいな「健康ブーム」があったのですが、この映画を観ていると「何を置いてもまずダイエット」って空気がぷんぷんしてくるのです。ケーキを食べちゃいけない、カレーも食べちゃダメ。うるさいよ、そんなの、今や長生きするのが幸福だという時代じゃないんだから、食いたいもの食わせろって思うのです。この映画で、登場するダイエットチームは誰が見ても太っているので、まあやった方がいいかなって思わせます。デブのままでいて、病気で長生きするのは大変ですもの。そうは言いつつ、デブをコメディのネタにしているので、そこに上から目線のデブ差別が存在しちゃうのですよ。この映画では、そういうデブ差別が表に出ないようにテンポよくドラマをさばいているのですが、無条件にダイエットってことは、無条件にデブはダメってことになっちゃうのです。デブ差別を話の枕にするならいいのですが、この映画はラストでやせてよかったよかったというお話ですからね。

演技陣は知らない顔ぶれが多いのですが、優香は、アラサー女優としての華があって、この映画の空気を明るいものにしています。会社主導のダイエットという設定がなじまなかった私は、彼女を観ていてモトを取りました。志村けんとのコントと同じテンションの演技なのですが、やっぱりかわいいは正義だよなあ。でも、タイトルトップの彼女はドラマの狂言回しのようなポジションでして、実質的な主役は、浜野謙太演じる二代目副社長の方になります。優柔不断だけどいい人の副社長が、このダイエットを通して、初めて最後まで責任を取る仕事をするというのがクライマックスになっています。そっちのドラマはなかなかに盛り上がりまして、草刈正雄演じる初代社長や、二代目に厳しいことを言っても彼を立てる専務とかがいい味を出していました。また、ちょっとだけ登場する壇蜜が結構インパクトありました。この人、独特のおかしなオーラを持っていて、観ていて笑っちゃうところがあります。

映画の中でも、タニタの社員食堂メニューがたくさん登場します。各々はおいしそうなのですが、ボリューム的には病院食で、働いている人には物足りなくないのかしら。独居老人向けの宅配メニューとしてはすごくいいかなって気はしました。このメニューを食べていると、薄味や油少なめに体がなじんできて、カロリー少ない食事でも満足できるように体質が変わってくるらしいのですが、何もそこまでという気もしちゃいました。まあ、「何もそこまで」の線引きは人それぞれと思いますので、タニタのメニューでダイエットしようと思う方も出てくるのも納得しちゃいます。

副社長などの何人かは特殊メイクによって、実物より太って見せていたり、ホントに太っていた俳優さんが映画の撮影中に実際に体重を落としていたりして、ラストでは見た目でかなりやせて見えるあたりはお見事でした。

「モネ・ゲーム」は名画詐欺を題材にした小品コメディでそれなりの面白さ


今回は、横浜ブルグ13シネマ10で、新作の「モネ・ゲーム」を観てきました。この映画館ラインナップがなかなか面白いんですけど、劇場の音がやたらうるさいんですよね。ボリューム上げすぎって感じです。

イギリスのメディア王シャバンダー(アラン・リックマン)のお抱え美術鑑定士ハリー(コリン・ファース)は、傲慢でクソ野郎な雇い主に一泡吹かせてやろうと、贋作家のネルソン(トム・コートネイ)と手を組んで、名画詐欺を仕掛けることになりました。行方不明になっているモネの「積みわら」の夕暮れの絵の贋作をシャバンダーに買わせようという作戦です。そのために、かつて「積みわら」の絵をナチスから取り戻したときのアメリカ軍の隊長の孫であるPJ(キャメロン・ディアズ)を巻き込みます。アメリカのテキサスの彼女の家で、写真のバックに贋作の絵を置いて、その写真をシャバンダーの目にとめて、贋作を1200万ポンドで買い取らせようというのですが、シャバンダーはなかなか信用しないし、ロンドンに連れてきたPJもハリーの思い通りに動かず、むしろシャバンダーと意気投合しちゃいます。その上、PJが高級ホテルのスイートに泊まるものだから、ハリーのカードは限度を越え、家中の小銭を集めることになっちゃいます。さらに悪いことに、シャバンダーはその絵をハリーではなくドイツ人鑑定士マーティン(スタンリー・トゥッチ)に鑑定させ、ハリーはクビにしようとしています。他の人間が鑑定したら贋作がばれちゃうと、PJは手を引こうとしますが、ハリーは何とかそれを押しとどめ、シャバンダーの主催するパーティで形勢逆転を狙うのですが。

脚本を書いたのは、私が苦手するコーエン兄弟ということでちょっと不安があったのですが、さらに監督が最後までついていけなかった「ライフ・イズ・ベースボール」のマイケル・ホフマンだと知って、これはハズしたかなという予感。それでも劇場に足を運んだのは、コリン・ファース、キャメロン・ディアズ、アラン・リックマンという顔合わせが魅力だったから。特にキャメロン・ディアスは、どんな映画に出ても、彼女でモトが取れちゃうところがあるので、そこに期待するところありました。

メインストーリーは、自分の雇い主から1200万ポンドを掠め取ろうとするハリーのドタバタになっています。ところがドタバタの部分だと、名優のコリン・ファースでも、ガラじゃないというかどこか重くなっちゃうのですよ。でっかい詐欺をやるにしては、どうしてもシリアスキャラが先に立って、コミカルな味わいが出ないので、中盤のホテルでのドタバタはあまり弾まなくて残念。まあ、ラストでそのキャラが一応のオチにつながっているので、最後はファースの起用は腑に落ちるのですが、それなら、中盤のファースをもっとライトにコメディさせて欲しかったわあ。敵役のアラン・リックマンの脂ぎったおっさんぶりとか、贋作家のトム・コートネイの飄々としたキャラなどは、さすがにベテランのうまみでドラマを支えています。

一方のキャメロン・ディアズはドラマ上ではあまり重要なキャラではありません。ファースと恋愛関係になるわけでもなく、詐欺のメインストーリーでもあまり絡んできません。いわゆるドラマの彩りポジションなんですが、それでも彼女の存在感がドラマを盛り立てているのですから、さすがスターのオーラがあるなあって感心。あいかわらずいかついガタイも披露して、アメリカの田舎娘がはまっているのがすごい、もういい年なのに。

ハリーのボス、シャバンダーは財力にモノを言わせ、オークションで日本のケーブルテレビの社長と「積みわら」の夜明けの絵を競り勝っていました。そのケーブルテレビと提携しようとしていまして、日本企業の連中が登場します。わざと下手な英語でバカイメージに見せようというところとか、パーティでのダサい行動とか、上司のカラオケを盛り上げるとか、デフォルメされてるけど、こういうのが日本人のステレオタイプと言われてしまうと苦笑するしかないのですが、こいつらも一応ドラマに絡んでくることになります。日本人がバブルの頃に色々な美術品を買い漁ったり、そのさらに昔の1970年代はエコノミックアニマルとか呼ばれていたのですが、この映画では、そういう日本人を揶揄するという作りにはなっていません。それだけ、今の日本が凋落したということにもなるわけでして、あの頃なら、日本人はもっと悪役の扱いになっていたんだろうけど、今はコメディリリーフになっちゃってて、時代の流れとは言え、ちょっとしんみり。

結構面白い展開になっているのですが、あまり笑いに結びつかないのは、ホフマンの演出のテンポがあまりよくないってところがあると思います。主人公のハリーが名画詐欺をやろうとして、なかなか思うようにいかないというお話なんですが、詐欺の障害となるのが、外部要因というよりは、単にハリーのドジが原因なので、あたふたする主人公が不幸に振り回されてるというよりは、自業自得なだけにしか見えず、笑いが弾みませんでした。ピン芸で、ボケとツッコミを一人でやろうとすると、余程の芸達者でないとサムくなっちゃうという感じかしら。(うーん、ちょっと違うかも)

最近の映画では珍しくメインタイトルが映画の冒頭にちゃんとありまして、それがアニメで、登場人物と設定の紹介みたいになっているのが、「ピンクパンサー」みたいで楽しかったです。ロルフ・ケントの音楽も、小編成のオケでビッグバンドジャズ風の音で楽しく映画をサポートしています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



予算も底をつき、鑑定も他の人間がすることになっちゃって、意気消沈のはずのハリーですが、その割りには勝算があるのか、例の贋作の絵が持ち込まれるパーティの晩に、シャバンダーの邸へとやってきます。そして、二つのモネの絵の並んだギャラリーでホンモノの夜明けの方を持ち出そうとして猛獣セキュリティに引っ掛かっちゃうのですが、カウガール、PJの投げ縄で事なきを得ます。そこへ、シャバンダーと鑑定士のマーティンが現れ、ハリーの持ち込んだ贋作を鑑定することになります。ところが、印象派にはうといマーティンはそれをホンモノだと言い切っちゃいます。そこで、ハリーはそれが贋作であることをバラして、こんな仕事やめてやると宣言。PJもそんな彼に「なかなかやるわね」と感心。そして、PJを空港まで送ったハリーとネルソンの前に、例の日本企業の連中とその社長が現れます。ハリーは、シャバンダーの邸で、「積みわら」の夜明けのホンモノをネルソンの描いた贋作とすりかえていたのです。モネの「積みわら」と1000万ポンドを交換し、「次はピカソやろっか」と言いながら去っていくハリーとネルソン。ニセモノの「積みわら」をしげしげと眺めるシャバンダー、暗転、エンドクレジット。

二転三転のちょっと手前くらいで終わる結末ではあるのですが、それまでのハリーのグダグダぶりがラストできれいに着地するところは面白かったです。とは言え、クライマックスのシャバンダーの邸のくだりが意外と盛り上がらない展開なので、このくらいのひねりがないとなあって感じでもありまして、最終的にプラスマイナスゼロくらいのところに落ち着きました。やっぱりコリン・ファースはこういう役柄を演じるにはマジメすぎるというか、色気を欠くという感じなのですよ。若い頃のマイケル・ケインあたりがお似合いかしら。それでも、90分という短めの時間の中でコンパクトにまとまったドラマは、大きな期待をしなければ、なかなかに楽しめる映画に仕上がっています。

「愛さえあれば」はダサい邦題だからってパスしないことをオススメの中年ラブコメ


今回は、TOHOシネマズシャンテ1で新作の「愛さえあれば」を観てきました。何のひねりもない邦題には、配給会社のやる気なさそう感がぷんぷん。スザンネ・ビア監督作品でなかったら、絶対スルーしてました。

妻を事故でなくしたフィリップ(ピアーズ・ブロスナン)は青物貿易会社のトップでデンマークに住んでいます。息子のパトリック(セバスチャン・イェセン)が今度アストリッド(モリー・プリキスト・エゲリンド)とイタリアの別荘を使って結婚式を挙げることになりましが。アストリッドの母親で美容師のイーダ(トリーネ・ディアホルム)は、乳癌の治療を終えたばかりで、その名残で髪の毛はないし、まだ再発の可能性がぬぐい切れない状態でした。ところが彼女が早めに家に帰ってみれば、ダンナのライフが会社の経理の女の子とイタしている最中。ショックを受けるイーダですが、それでも娘の結婚式に向かおうとしたところ、空港の駐車場でフィリップの車にぶつけちゃいます。そして二人でイタリアに向かいます。ライフはあろうことか不倫相手の女の子を婚約者として連れてきて、不穏な空気になります。金持ちの無作法さがあるフィリップを、イーダはあまりよく思っていなかったのですが、二人はいつの間にかいい雰囲気になっていきます。しかし、その一方で、若い二人にマリッジブルーが入ってきて、お話はややこしくなってしまうのでした。

「未来を生きる君たちへ」のスザンネ・ビアとアナス・トーマス・イェンセンの原案から、イェンセンが脚本を書き、ビアがメガホンを取りました。ビアの映画は「ある愛の風景」「アフター・ウェディング」「未来を生きる君たちへ」を観ているのですが、シリアスな題材をドラマチックに描きつつ、問題提起もする映画を作る人という認識がありました。ところが予告編を見る限りはラブコメタッチで問題提起とは無縁みたいだったのが意外でした。

イタリアで結婚式を挙げるというのは、日本で言うとハワイで挙式くらいの位置づけになるのでしょうか。デンマークに住んでるんだから、デンマークでやりゃいいじゃんと思うのですが、そういうところは寛容なお国柄のようです。知り合って3ヶ月で結婚というのですから、勢いで結婚にこぎつけたのかなあ。そんな二人は当然ラブラブで、放置状態だった別荘を頑張って飾って、結婚式のお客を迎えようとします。花嫁の母親イーダはいわゆる普通のおばさんでして、癌治療が一区切りついて、ダンナと静かに暮らしたいと思っていたのですが、浮気現場を押さえてしまったので驚天動地。息子や同僚はダンナのことをボロクソ言うのに「彼も辛かったのだから」とかばってしまいます。でも、心からそう思っているわけではなさそうでして、どうやら、自分の妻であり母である立場を守っているように見えます。でもやっぱり段々と自分の思うところに素直になっていくのですが、この映画の面白さは、各々の登場人物が最初は自分の役割を演じてきたのが、持ちこたえられなくなって、吹っ切れていく展開にあります。そういう意味では、最初から自分の手札をオープンにしているのは、花嫁の父のライフでして、浮気の現場を押さえられても悪びれることなく開き直り、その愛人を娘の結婚式に連れてきちゃうという、まあひどい父親です。でも、他の登場人物も、それまで押さえてきた自分を受け入れて、思い切った行動に出ちゃうことになります。

フィリップはオフィスでも英語しか話さないし、デンマークなんて大嫌いと口に出しちゃう人。部下に「子供の誕生日くらいで休むんじゃねーよ」と電話しているところをイーダに聞かれて「やな感じ」と言い返されちゃいます。イーダも下世話なおばちゃんぶりで、フィリップに「やれやれ」って顔をさせちゃいます。花婿のパトリックは父親にどこか引け目を感じているのか、言葉の端々に花嫁のことより父親が大事みたいなところが伺えます。ビアの演出は、リアルでどこかあぶなげな登場人物を丁寧に描くことで、単なるラブコメ以上の深みのあるドラマを作ることに成功しています。過去の作品からの贔屓目ではないですよ。二枚目金持ち中年のフィリップと、普通のおばさんイーダが、だんだんといい雰囲気になっているところや、ラストの決着のつけ方など、ラブコメの王道の部分はきちんと押さえて上で、その上にきちんとした人間ドラマを積み上げるのに成功しているのです。ヒロインを演じたトリーネ・ディアホルムが素晴らしく、ちょっとくたびれてるけど、陽気で、分別があって、時として魅力的に見える女性を存在感のある演技で演じきりました。きっと、同年代の女性がご覧になれば、彼女に感情移入できて、応援したくなると思います。

でも、妻を失った実業家とダンナに浮気された美容師が、子供の結婚式を通じて知り合い、ラブラブになるというは、ある意味ラブコメの定番になります。最初はお互いにいい感じを持っていないというあたりも定番中の定番です。そんな二人がだんだんとお互いの魅力に気づいていくプロセスがきちんと大人の恋愛として描かれているところが、若いカップルとの好対照を成しています。「これからの人生を二人で一緒にやっていく」ということが、若いカップルと中年カップルでは、重みというか意味が違うんだという見せ方が面白かったです。後半、かなり唐突な展開になるのですが、観終わった後で、きちんと腑に落ちるあたりにストーリー作りの妙がありました。

南イタリアを舞台にしているだけあって、その美しい風景が何度もインサートされて、観光気分も楽しめるところは「トスカーナの休日」みたいです。でも、バックグラウンドの美しさに登場人物が感化されているように見せない演出は成功しています。中年男女のリゾラバ映画にしていないセンスが買いです。タイトルや題材、ポスターやチラシ、どこを取っても、華がないし、かと言ってアート系の映画でもなく、観る前はつかみどころのない映画ではあるのですが、実際に観てみれば、面白いし、映画を観たという満足感もありますので、これはオススメです。



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いい雰囲気になったフィリップとイーダですが、フィリップがイーダに告白したところに、フィリップの義妹が割り込んできて、いい雰囲気は中断。義妹があたしとフィリップが結ばれるのって言い出すのですが、フィリップは「あんたは妻の妹だからつきあいを続けてるだけで、人として大キライだよーん」とかなりきっぱりと言っちゃいます。一方、結婚式の前夜パーティで、イタリア人の若者とアストリッドが密着ダンスをしているのを見て、かっとなっちゃうパトリックですが、若者がゲイだと知ってあやまりに行きます。そこで若者と視線が合って、二人唇寄せてブッチュー。あんたそっちだったんかい。

翌日、帰ってこなかったパトリックに、アストリッドは「私は必要とされていないのかしら」とイーダに不安をぶちまけます。マリッジブルーとは言え、その不安当たってます。入り江に座り込むパトリックを見つけたフィリップですが、「これまでずっと周りばかり気にしてきた。この結婚はやめる。」と言い出す息子に仕方ないなあって感じ。そして、結婚式に集まった人々に向かって、パトリックとアストリッドは「この結婚やめます、ごめんさない。」で、解散。帰ろうするイーダに声をかけようとして何も言えないフィリップ。そして、家に帰ったイーダを待っていたのは、部屋いっぱいの薔薇の花としてダンナのライフ。もう一度やり直したいという彼の申し出を受けて元の生活に戻るのですが、彼女の美容室にフィリップがやってきて、今度自分はイタリアへ引っ越すのです会いに来て欲しいと言います。私なんかとは釣り合わないし、ダンナとよりが戻ったから、もう来ないでと言ってしまうイーダ。でも、家に帰ったイーダはダンナに向かって「あなたとは別れる。年を取ってあなたと一緒にいるなんて考えられない」といって荷物をまとめて家を飛び出します。そして、イタリアのフィリップのもとを訪れるイーダ。癌の再検査の結果を一人で見るのが怖いから一緒に見てくれと頼むイーダに、封筒を開くフィリップ。そして、微笑む二人のツーショット。めでたしめでたし。

結婚するには、青かった二人ということになるのでしょうが、その破局のおかげで、想いを交わす機会を逸してしまう二人です。それでも、フィリップはイーダに告白し、イーダはそれに応えるラストは心地よい余韻を残します。まあ、ラストのイーダの「来ちゃった...」って感じにどこか笑ってしまったのも事実です。ともあれ、出会いから、いい感じになって、一時的に別れて、最後お互いの愛情を確認してハッピーエンドというラブコメの王道を行く展開になっていて、それをあまり美形でないヒロイン(決してブスじゃないですよ。どこにもいる普通の女性って意味です。)がやっているところに意外性が出ました。ファンタジーになっていないリアルな描き方に共感が持てましたです。

「ぼくのエリ」「アフター・ウェディング」のヨハン・セーデルクヴィストの音楽が、ちょっとイタリアっぽさを加えつつも静かなやさしい音作りで映画を支えています。

「サイコ」は大技と小技の組み合わせが見事な、結構えげつないスリラー。


「ヒッチコック」の題材になっている「サイコ」を録画しておいたのを観ました。デジタル放送になって、映画は市販のDVDよりもHDDやブルーレイに録画した方が画質がいいんですよね。映画によっては、サラウンドステレオになったりして、DVDの映画が安売りしてるわけだと納得。

不動産会社に勤めるマリオン(ジャネット・リー)は会社の金4万ドルを持ち逃げして、恋人のいる町へと車を走らせ、その途中で脇の街道に入ってモーテルに泊まることにします。モーテルのオーナー、ノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)は、マリオンにやさしく接しますが、離れに住んでいる母親が変な人らしく、マリオンに食事を出そうとするノーマンに罵声を浴びせ、彼女にもそれが聞こえてしまって、微妙な雰囲気。ノーマンは母親は病気だからと言うものの、ちょっとマザコンの気があるみたい。部屋に戻ったマリオンはシャワーを浴び始めるのですが、突然入ってきた女性にナイフにめった突きにされて絶命。そこにやってきたノーマンは母親の仕業と思い込み、殺人現場をきれいにして、彼女の死体を車に乗せて沼に沈めてしまいます。マリオンの持ち逃げ事件は金さえ返せば警察沙汰にしないということで、私立探偵のアーボガスト(マーティン・バルサム)が調査を始めます。彼は、マリオンの妹ライラ(ベラ・マイルズ)を尾行して、恋人サム(ジョン・ギャビン)を訪ねたところを押さえますが、二人が持ち逃げの共犯でないことをわかると、二人にも調査状況を連絡するようになります。アーボガストは、マリオンが周辺のモーテルに身を隠しているとにらんで、モーテルをしらみつぶしに当たっていき、ノーマンのモーテルにたどり着きます。ノーマンはマリオンが泊まったことを認めたものの、次の日の早朝に出て行ったといいますが、その口ぶりにどこか不審なものを感じたアーボガストはさらに調査するとライラに連絡した後、消息を絶ってしまうのでした。

ヒッチコックの映画の中で1番のヒット作だそうです。サスペンスの神様という地位を確保したヒッチコックがショック演出とホラー風味のスリラーのうまさを見せた一品です。実在した猟奇殺人犯エド・ゲインをもとに、短編スリラーや映画脚本もたくさん手がけているロバート・ブロックが書いた小説「サイコ」を原作に、TVの「アウター・リミッツ」のプロデューサーとしても知られるジョセフ・ステファーノが脚本を書きました。当時としてはかなりセンセーショナルな内容だったそうで、確かに今のホラー映画にも見かけるショック演出や、意外な展開が見事で、かなり刺激的な映画に仕上がっています。

私はこの映画を子供の頃、テレビのゴールデン洋画劇場で観ていまして、結末は知っていたのですが、それでも、展開の面白さや凝った演出を楽しめました。特に、冒頭に登場して、ずっと主役だったマリオンが映画の中盤であっけなく殺されて退場しちゃうという構成は今見ても新鮮でした。また、細かいところにいくつもの小さいサスペンスを仕込んで、ドラマのテンションを下げずに、観客をぐいぐいと引っ張っていく演出が見事でした。ストーリーそのものは、意外とシンプルなものだったというのも発見でして、ミステリー要素は少なくて、サスペンスとショックを積み上げる作りになっているのですよ。有名なシャワールームの殺人シーンは全裸のヒロインがナイフで惨殺されるという、エロとグロというかなりセンセーショナルなものでしたが、そこに凝った構図と細かいカット割りで芸術的とも言える作り込みがされています。モーテルの背後の高台に建つノーマンの家のロケーションも素晴らしく、その窓に老婦人の影が見えている絵が不気味だけど美しいのですよ。アーボガストが殺されるシーンでも、縦横にカメラを移動させ、プロセスショットでアーボガストが階段を落ちていくカットを作りだすなど、凝った見せ方は、単なる安物ホラーとは一線を画しています。

その一方で、殺人シーンの血の見せ方ですとか、殺人現場の後始末を丁寧に見せるあたりに、猟奇殺人映画の味わいがありまして、単なるスリラー以上のエグさを感じさせてくれます。次作の「鳥」でも目をえぐられた死体をどっかんと見せたりのですが、リアリティというよりはケレン味として、わざとそういうものを見せるあたりの悪趣味さがこの頃のヒッチコックにはあったように感じられました。でも、前半の横領して逃げるヒロインの描写の細やかな描写は見事でして、感情移入はできないけど、でも悪役じゃないという距離感で、サスペンスを盛り上げているあたりは、職人的なうまさがありました。大きなハッタリをかます一方で、細やかな職人芸を積み上げることで、他にどこにもない「サイコ」ができているんだなあって感心しました。

また、この映画のホラータッチを支えているのが、バーナード・ハーマンの音楽でして、ストリングスのみの音楽で、アップテンポなメインタイトル、どんよりとしたマリオンの描写音楽、そして耳障りな殺人シーンの音楽の3パターンを組み合わせることで、不安とショックを見事に描写しました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(一応)



アーボガストの失踪は、何かが起こったからだと確信したライラは直接ノーマンとその母親に会おうと言い出しますが、サムはそれを押しとどめて、自分がモーテルに向かいますが、ノーマンには会えず、離れの家にいた母親にも声をかけたが応えがなく、サムとライラは保安官助手の家に相談に出かけます。アーボガストが母親に話を聞くと言い残したことを説明すると、保安官助手は驚いた顔をして、ノーマンの母親は10年前に、恋人を毒殺して自分も毒を飲んで死んだと言います。「母親が生きているだとしたら、墓の中にいるのは誰だ?」

翌日、サムとライラは夫婦を装ってノーマンのモーテルに向かいます。サムがノーマンを引き付けてる間に、ライラはモーテル裏のノーマンの家に入り込みます。そして、家の中を探していると、ノーマンが帰ってきたので、地下室に隠れます。地下室にはさらにその先に小部屋があり、ライラが入ると、そこには老婦人が座っていました。母親だと思ったライラが老婦人の肩に手をかけると、すーっと振り向いたそれはミイラでした。そこへナイフを持って飛び込んでくる女装したノーマン。しかし、彼を追ってきたサムが何とか彼を押さえつけます。そして、警察署では、関係者の前で、精神科医がノーマンの状況を説明しています。ノーマンは母親と恋人を毒殺したのです。それから、彼の中に母親の人格が生まれ、時として彼は母親となり、時には会話を交わしていたというのです。彼は自分が母親を殺したという現実から逃避するためにも、母親を生きた状態にしておく必要があったと。そして、今や、ノーマンの人格は失われ、そこにいるのは、見た目はノーマンでも、中身はノーマンの母親でした。沼の中から、車が引きあげらるカットで「ジ・エンド」。

今や、二重人格とか一人二役のトリックは珍しくもなく、ある意味定番になっているのですが、この作品の製作当時は、それほどポピュラーではなかったのか、ノーマンの正体が判明した後のエピローグとして、彼の二重人格について、かなり丁寧な説明がされています。まあ、一人二役をラストのショックに持ってきて、それを匂わす演出をしてこなかったこともあって、最後にきちんと説明する必要があったのでしょう。母親とノーマンが口論しているところを聞かせたり、ノーマンが母親を抱き上げて運ぶカットを俯瞰で見せたりというトリッキーな演出も当時としては観客をミスリードすることができたのでしょう。ただ、子供の頃にテレビで観たときにも思ったのですが、母親の声が全然ノーマンの声じゃない中年女性の声なのは反則だよなあ。

「ヒッチコック」とは今一つ相性がよくありませんでした、期待したのに。


今回は、TOHOシネマズシャンテ1で新作の「ヒッチコック」を観てきました。もう終わってるだろうなと思っていたら、意外とロングランしているので、面白いのかもという期待がありました。

「北北西へ進路をとれ」でサスペンス映画の巨匠の地位を確固たるものしたヒッチコック(アンソニー・ホプキンス)は次回作の構想を練っていました。そこで彼の目に止まったのが、猟奇殺人鬼エド・ゲイン(マイケル・ウィンコット)を題材にしたロバート・ブロックの小説「サイコ」でした。しかし、その内容の異常性に配給のパラマウントは出資に難色を示し、ヒッチコックは自費を投入することで撮影にこぎつけます。彼の妻アルマ(ヘレン・ミレン)は有能な脚本家であり、ヒッチコックのよき妻でもありました。脚本家のウィット(ダニー・ヒューストン)は彼女の才能に惚れ込んで、脚本の共同執筆を依頼してきます。その二人の仲睦まじく見えるのがヒッチコックの嫉妬心をあおってきます。一方、映画の方はジャネット・リー(スカーレット・ヨハンソン)やヴェラ・マイルズ(ジェシカ・ビール)などをキャスティングして撮影を開始します。ヒッチコックの前にエド・ゲインの幻覚が現れ、彼の心をさいなむようになります。それでも、「サイコ」は無事に完成し、大ヒットとなり、ヒッチコックは妻との誤解もとけてめでたしめでたし。

「ターミナル」の脚本を書き、「アンヴィル 夢を諦めきれない男たち」を演出したサーシャ・ガヴァシがメガホンを取った、実録風の一編です。原作は「ヒッチコック&ブ・サイコ」というノンフィクションなのですが、ジョン・J・アクロクリンが脚色し、ヒッチコック夫妻のドラマを肉付けしました。ヒッチコックというとサスペンス映画の巨匠であり、テレビの「ヒッチコック劇場」のホストとしてお茶の間にも名を知られた、たくさんの逸話を残す有名人です。彼の演出は、後進の映画人に大きな影響を与えています。この映画を観るまでは知らなかったのですが、彼の興行収入のピークがこの「サイコ」だったのだそうです。タイトルどおり、精神異常者の犯罪を扱った猟奇スリラーであり、ラストの意外性、殺人シーンのショック描写などで、当時としては、かなりセンセーショナルな内容でした。しかし、映画作りとしては、それまでの映画と異なる、モノクロの低予算映画で、ヒッチコックとしてもチャレンジ的な作品だったようです。

そんな「サイコ」のメイキング部分は実はあまり登場しなくて、ヒッチコックが妻のアルマの不貞を疑ってそれが誤解であって、また仲が元通りになるという部分が前面に出てきます。ですから、「サイコ」ができるまでの紆余曲折を期待すると、何か物足りない映画になっちゃいます。かく言う私もその一人でして、もっと映画作り部分で楽しませてくれよと思ってしまいました。

主演のアンソニー・ホプキンスはヒッチコックに似てないけど、いつものホプキンスのカラーを完全に押さえた特殊メイクで、ヒッチコックを好演しています。殺人シーンの特殊メイクで有名なKNBイフェクツグループの仕事はお見事で、似てないけどヒッチコックという映画ならではのキャラを作り上げました。奥さん役のヘレン・ミレンも優秀な映画人と家庭的な妻の両方の顔を説得力の演技で演じきりました。その他にも、トニ・コレット、マイケル・スタールバーグが脇を固め、スカーレット・ヨハンソンがこの映画のヒロインとして印象的でした。また、「サイコ」では脇役の扱いだったヴェラ・マイルズを演じたジェシカ・ビールが脇役としていい味を出しました。ビールはどんな映画でも自分の持ち場を的確に演じる、好きな女優さんです。

特に映画のメイキングとして不満なのは、映画の中でも、ヒッチコックが映画化のきっかけにしたのは、ロバート・ブロックの小説「サイコ」のはずなのに、そのモデルである猟奇殺人鬼エド・ゲインがヒッチコックの前に頻繁に現れること。後で映画のプログラムを読んだところ、原作にもヒッチコックがエド・ゲインの幻覚に悩まされたことはなかったそうで、映画としての脚色なのですが、これがものすごく無理があるのです。エド・ゲインの狂気とヒッチコックの間に何らかの関係があって、その狂気が映画作りに影を落としているかのような演出は、「それは違うんじゃね?」という突っ込みが入ってしまいました。殺人鬼の映画を作る監督がその殺人鬼にプライベートまで影響を受けちゃうってのは、リアリティがないし、発想が安直すぎですもの。自分のやりたいように映画を作る過程で、センセーショナルな殺人鬼をどう取り込むかというところは興味ありますが、こんな風にエド・ゲインに振り回されるヒッチコックの図は観ていて不愉快でした。

また、ラストでヒッチコック夫妻がめでたしめでたしになるシーンも、ホントかなあって思っちゃいました。ヒッチコックの主演女優への入れ込みはこの次作「鳥」のティッピ・ヘドレンでもあったそうですから、このタイミングでハッピーエンドにはならないような。どうも、「サイコ」の撮影期間だけで、ヒッチコックの人生を描こうとする構成に無理があるような気がします。うーん、素直に原作とおりに「サイコ」のメイキングという構成にして、その中でヒッチコックの人となりを垣間見せてくれた方が素直に楽しめたよなあ。脚色した部分が全部裏目に出ているように感じてしまったのですが、これは私だけかしら。そもそも「ヒッチコック」という映画に、「サイコ」のメイキングを期待するほうが間違いなのかな。

「サイコ」という映画は、それまでの定番を破るセンセーショナルな映画でした。ヒロインが前半でショッキングな殺され方をして退場。そして、一人二役のトリックから意外な結末といった構成の妙。さらに、シャワーでの殺人シーンで胸やナイフが刺さるカットを見せずに殺人をショッキングに見せる演出、探偵が階段で殺されるシーンのカットやラストの主人公にかぶるドクロのイメージといった視覚的な仕掛け、さらにバーナード・ハーマンによる不安とショックを描写する音楽。これらは現代でも色褪せない映画のマジックになっています。ヒッチコック映画はそういう驚きを与えてくれるものがたくさんあります。「鳥」における町の俯瞰ショットですとか、「海外特派員」の飛行機墜落の機内からの1ショット撮影、「見知らぬ乗客」のテニスシーンといった1カットのすごさ、そしてドキドキハラハラのサスペンス描写、そういったものを生み出す発想やパワーはすごく興味あります。また、この映画を観ると、ヒッチコック映画を観たくなる、そんな映画を期待したのですが、残念ながら、そういう興味を喚起してくれる映画ではありませんでした。

ちなみに音楽のダニー・エルフマンは、リメイクの「サイコ」でハーマンの音楽の再アダプテーションを担当したので、そのご縁なのかなとも思いましたが、意外とオリジナルの音楽は使われませんでした。映画のクライマックスは劇場の前で、シャワーシーンの観客のどよめきを楽しむヒッチコックのシーンで、ここはハーマンの曲が使われているのですが、サントラではなく、ジョエル・マクニーリー指揮のロイヤル・スコティッシュ・オーケストラの音が使われているようです。オリジナルの「サイコ」のカットも登場しませんし、そこは監督のポリシーだったのか、版権の問題だったのか。また、ドラマ部分でのエルフマンのスコアは必要以上に不安感を煽る音をつけているのが、気になってしまいました。「サイコ」にまつわる映画だからといって、普通の夫婦のシーンで不必要に不安やサスペンスを煽る演出をすることもないだろうにって思っちゃったのですよ。私にとっては、欲しいところは見せずに、いらんところに肉付けしてくる映画になっちゃてました。

〔追補〕
この記事をアップした後、他の方の記事を拝見して、ヒッチコック夫妻のドラマを楽しまれた方がたくさんあったので、やはりそっちを楽しむべきだったんだなって反省しちゃいました。でも、ヒッチコックは映画にまつわる逸話の多い人なので、その人となりは映画に関わる部分で見たいという気持ちもありまして、映画監督としてのヒッチコックへの興味に比べると、家庭人のヒッチコックには興味ないというか、そそられなくて。最初から「鉄の女 サッチャー」みたいな映画だと言ってくれればよかったのですが、「サイコ」のメイキングだという触れ込みだったので、期待を裏切られたように感じられて、裏切られた分だけ、評価も下がっちゃいました。ヒッチコック夫妻の夫婦愛の映画だと最初から言ってくれれば、裏切られた感はなかったと思いますが、それなら劇場まで足を運ばなかったかな。

「ジャッキー・コーガン」はちょっと気取ったつくりにはまれなくて


今回はTOHOシネマズみゆき座で、新作の「ジャッキー・クーガン」を観てきました。予告編を観たときは、ブラピが殺し屋で殺しまくる映画かと思ったのですが、意外や小劇場の小規模公開、本編を観てみれば納得の映画でした。

マーキー(レイ・リオッタ)が仕切る賭場を、若造のフランキーとラッセルが強盗に入ることになります。強盗の依頼人であるアマトは、以前マーキーが偽装強盗で儲けたことがあることから、また強盗が入ればマーキーの狂言だと思われるだろうという読みがありました。そして、強盗は決行され、犯人探しが始まります。組織の連絡屋(リチャード・ジェンキンス)は厄介ごとの始末屋ジャッキー(ブラッド・ピット)を呼び出します。ジャッキーはどっちにしても疑われて命を狙われるマーキーを殺すべきと主張。しかし、組織としては犯人をつきとめた上で始末したいと言い出します。とはいえ、一応ジャッキーの指示でマーキーはボコボコにされちゃいます。そしてちょっといかれたフランキーが賭場強盗を自慢したことで、フランキーとアマトが割れてしまい、連絡屋は二人を殺すようにジャッキーに指令を出します。アマトに面が割れているジャッキーはニューヨークからミッキー(ジェームズ・ガンドルフィーニ)を呼び出しますが、これが飲んだくれで役に立たない。その一方でジャッキーはマーキーを射殺。そして、ミッキーを見限ったジャッキーはラッセルを脅してアマトの居場所を聞き出し、殺しにラッセルを巻き込むことになるのですが.....。

ジョージ・V・ヒギンズの原作を、「ジェシー・ジェームズの暗殺」のアンドリュー・ドミニクが脚本化し、メガホンを取りました。裏社会の群像ドラマみたいな作りになっていまして、主演はブラッド・ピットながら彼を中心にドラマは展開する作りにはなっていません。オープニングからしばらくは登場しませんし、登場してからも実際にアクションを起こすのは後半30分からなので、ブラピ主演の映画という感じがしません。その一方で、小洒落た映像とか、会話中心の構成は、スタイリッシュを狙ってる感が満載でして、こういうのをブラッド・ピットがやりたかったんだろうなってのが伝わってくる映画になっています。ジョージ・クルーニーが殺し屋を演じた「ラスト・ターゲット」と似たようなところがありまして、あんまり娯楽志向ではなくアートっぽい気取った映画を作りたかったスターと監督の利害が一致したという感じでした。まあ、アートっぽいところにちょっと面白いと感じるのですが、ブラピ主演の娯楽映画としては「何じゃこりゃ」みたいなに後味の残る映画でした。

特にはずされた感があるのが、主人公ジャッキーがゴタクを並べる割には、悪党としてもヒーローとしても半端なところ。ギャング映画の脇役としてなら、ものすごく存在感が光るキャラなのですが、ドラマを引っ張る主役となるような男ではないのですよ。実務能力はあって、凄みをきかせて、殺人に対する躊躇もなく、その一方で「おれは殺しはソフトにやるんだ」みたいなことを言う。非情な悪というよりは、神経質で面倒くさいタイプに見えるので、共感も呼ばないし、その一方で顧客の嫌悪感をあおるわけでもありません。ただ、作り手は、そういう半端なキャラがかっこいいと思っているふしがありまして、裏社会のプロみたいな顔をしているのです。ただ、ジャッキーにそれなりのバックボーンというかポリシーを感じなかったのは、ブラピの限界なのか、ドミニクの演出ミスなのか。

また、登場人物のダラダラした会話がノーカットで続くシーンが多いので、その分、お話がなかなか進みません。ストーリーは「賭場で強盗が発生して、その犯人をジャッキーが殺しました」というすごい単純な話でして、その合間を登場人物の会話で埋めていくという作りになっています。さらに、そこにオバマやブッシュの演説を挟み込むという思わせぶりな演出をしているのですが、そこが単に気取ってるとしか見えませんでした。ひょっとして、そこに社会批判とか風刺といったものがあるのかもしれませんが、私は何かを感じとることはできませんでした。よくわけがわからないけど、いつの間にか引き込まれたクローネンバーグの「コズモポリス」に比べると映画的な興奮が少なめという感じでした。

ちょっとした群像ドラマになっているところは、個々の役者をきちんと生かしていてよかったです。特に強盗実行犯のフランキーを演じたスクート・マクネイリーと、連絡屋のリチャード・ジェンキンスの演技が光っていました。ジェームズ・ガンドルフィーニは女のことをグダグダと話す酔っ払いとしては好演なのでしょうが、本筋に絡んでこないのに尺取りすぎなのは減点。一方で名前としては何度も出てくるのに、1分も出番がないサム・シェパードにはもっと尺取って描けよって思っちゃいました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ジャッキーは、フランキーを脅しまくって、アマトの居場所を聞き出し、殺しの当日はフランキーを運転手に使って、アマトの来る場所で待機。アマトが姿を現すとジャッキーは、ショットガンを一発お見舞いし、虫の息のアマトにさらに一発。そして、フランキーに車を運転させ、駐車場にたどり着くと、無造作にフランキーの頭を撃ち抜きます。そして、連絡屋のところに金を受け取りに行くと、値切られていてブチ切れるジャッキー。そして、テレビでのオバマの演説に「アメリカなんか国家じゃなくてビジネスだ」と毒づくのでした。おしまい。

結局、ジャッキーは、不意打ちで3人殺しただけ。映画全体でそれだけしか描かれていません。クライマックスはそれなりにハードボイルドな雰囲気が生まれてなかなか面白かったのですが、それまでの会話シーンで、主人公がカッコつけすぎだったので、それほどにはエッジが効かなかったのは残念。ラストで金が足りないとバーで主人公がゴネるのも、普通の映画とは違う味わいはあるものの、かっこつけた小物っぽさが感じられてしまいました。一言で言っちゃうとピットがチンピラ臭いんですよ。演出はそこにリアリティを感じている節があるので多分確信犯だとは思うのですが、ピットはそういう役の演じるのには不向きだったような気がします。何だかんだ言っても、ピットにはスターバリューとスターとしてのオーラがありますから、登場シーンから只者でない雰囲気を醸し出しているのですが、それがこのリアルヤクザ風の男の行動とうまくリンクしてない感じなのです。

良くも悪くもクセのある映画でして、そのグダグダした会話や大統領の演説のインサートに、「スタイッリッシュやろ」というドヤ顔が垣間見えてしまった私には今一つの映画になってしまいました。ストーリーとしては決してつまらない話ではないですし、演技陣もピットを除いて健闘していると思うのですが、見せ方の問題なのかなあ。最初からこういうもんだと期待しておけば、もっと楽しめたのかも。

「ライジングドラゴン」を素直に楽しめない汚れた大人になってしまった、えーん。


今回は、角川シネマ有楽町で新作の「ライジング・ドラゴン」を観てきました。ジャッキー・チェンの最後のアクション大作という触れ込みでしたが、実際にエンドクレジットで、ジャッキーのナレーションで説明されるのでびっくり。

4人チームのトレジャーハンターのトップJC(ジャッキー・チェン)は、世界中のお宝を収集するMP社から、アヘン戦争時に英国軍によって略奪され、行方不明になっている十二支の像のうち3つを集めてこいと依頼されます。美術品の研究家ココを訪れ、情報を集め、そのお宝があるとされるフランスの古城に赴き、簡単に潜入して盗み出すことに成功。次は像を略奪した軍人のひ孫に接近し、彼女の家にある記録から、行方不明の曽祖父を探すために、南海の島に向かいます。そこの森の奥で、難破した船を発見し、干支の像のうち2つが発見されます。そこにフランスからの追っ手と海賊のみなさんが現れてチャンチャンバラバラとなりますが、うまく立ち回ったJCのチームが像とさらに金塊埋め込まれた大木をゲットします。しかし、運ぶ途中で金塊は海の底へ沈んでいきます。結局、あまり金にならなかった仕事にになっちゃって、彼のチームは解散、しかし、MP社の連中によりココの弟を含む若者3人が誘拐されてしまいます。そこで、JCは自分が盗んだ薔薇の絵を持って、MP社の贋作工場を訪れ、取引をしようとしますが、そこでもチャンチャンバラバラの肉弾戦になってしまいます。結局、その場にMP社の社長が現れて、誘拐された3人は解放されます。そして、MP社は十二支像の竜の頭をオークションにかけようとします。さらに、買い手がつかなかったら、像を火山の中へ捨てるというのです。果たして、歴史的に価値ある像に値段がつくのでしょうか。

ジャッキー・チェンももう50代で、最近はアクションを前面に出さない映画や、ゲスト出演的なものが多かったのですが、今回は、そのアクションに一区切りをつけるべく、自らメガホンを撮りました。オープニングのローラー付パワードスーツでの追っかけはなかなかの迫力でして、その後も趣向を凝らしたアクションで楽しませてくれます。格闘シーンもたっぷり盛り込んでいますし、クライマックスはスカイダイビングという見せ場もあり、アクション映画としては豪華なつくりで楽しめる映画に仕上がっています。特に、撮影が見事で、アクション全体をきっちりとフレーム内の収めていますし、変にカット割を細かくしていないところも生身のアクションをちゃんと見せようという意気込みが感じられました。

と、いいつつも、オススメ度が高いかというと、そうでもないのですよ。それは、2つの理由があります。その2つは全然切り口の違うものなのですが、全ての人がそう感じるかというとそうとも思えないので、この映画を楽しまれた方、或いはこれから雑念なく楽しみたい方はパスしてください。



まず、この映画の主人公の立ち位置が曖昧で、あんまり応援する気にならなかったってことがあります。美術品の値をつりあげたり贋作を作ったりして金を儲けている連中の依頼を受けて、個人所有の美術品を盗み出すってところがまずヒーローのやるこっちゃない。略奪されたり盗まれた美術品は、もとの所有国に返すべきだと運動している皆さんが登場するのですが、主人公はそういう皆さんも利用しているので、あまりうれしくない。その結果、何らかのしっぺ返しを受けるのかというとそういうこともなく、さらに諸悪の根源にも一矢報いたようにも見えない。結局、派手なアクションはあるもののドラマとしてのカタルシスが感じられませんでした。これは脚本のせいかもしれません。美術品の値をつり上げて私服を肥やそうという連中がいるという視点は面白かったのですが、それに対して主人公が何もできないのなら、そういう連中を敵役に据えるなよって思っちゃいました。後半、登場する同業者もクズみたいな奴として紹介されておいて、ラストは何だかいい奴みたいな扱いになるのも釈然としません。やっぱり、悪玉の悪さが際立って、主人公がその悪に明快なしっぺ返しを食らわせるところが単純アクションの醍醐味だと思っている私としては、どうもすっきりしない映画になってしまいました。主人公が、私邸からものを盗んでりゃ只の泥棒でしかないのですが、それをチャラにできるほどのいい事もしてないので、ルパン三世みたいな義賊っぽさも出ませんでした。悪玉の下請けって設定で入るのなら、最後で悪玉を徹底的にやっつけてくれないとカタルシスがないよなあ。

もう一つの理由は、これはもう因縁つけてるに近いのですが、アクションシーンがどこまでホンモノなのかわからなくなっちゃったってところがあります。これは映画自体の責任ではないのですが、エンドクレジットで延々と登場する視覚効果チームの名前を見て、アクションのどこまでが本当だったのかなあって疑問が湧いちゃったのですよ。変な話、エンドクレジットに登場するNGシーンは本当にやってるんだなあってわかる反面、他はどうなのって思えてしまったのです。もともと、特殊効果や視覚効果によって、スタントマンの危険が軽減されたことは映画作りの上で大きな進歩ではあるのですが、その進歩によって、スタントマンが本当に危険なことをしているのかどうかよくわからなくなってきたのです。昔のチャップリンやキートンの映画で、彼らが本当に危険を侵してやってのけるスタントにはハラハラさせられたり、ビックリさせられたり、ともかくも人間のアクションが観客を盛り上げるってことがありました。ジャッキー・チェンの昔の作品でもやはり「うわー、危ない」というシーンがドラマの枠をはみ出て、観客に直に伝わってきたものです。ところがCG全盛の映画になって、カメラの向こうで演者がどんなに体を張っても、それが伝わりにくくなっちゃったのです。格闘シーンはまだCGの入る余地は少ないのですが、ジャッキーの得意とする落下や屋台崩しといった大技は、CGでもリアルに作れるようになってしまいました。ジャッキーがアクションをやめちゃうというのは、体を張ってもそれが報われないご時勢になったからではないかしら。

そんなわけで、この映画、脚本が面白くないってことと、体を張ったアクションを素直に楽しめないというところで、私にとっては残念な作品になっちゃいました。ジャッキーの映画はあまり観ている方ではありません。私にとってのジャッキー映画のベストは「ポリスストーリー3」というところからも、ジャッキーファンとは言いがたいのですが、それでも「ポリスストーリー3」には、徹底した悪役、度肝抜くアクション、コテコテのお笑いと、娯楽アクションの定番がきっちりと押さえてあり、大変楽しめる映画に仕上がっていました。アメリカ映画でのゆるいアクションも映画としてまとまっていれば嫌いではなかったのですが、「ラッシュアワー3」で、クライマックスのエッフェル塔でのアクションが合成としか思えない映像だったのを見て、「体を張ったアクションを楽しむのも限界かも」って思ってしまったのです。合成のアラが目立つのならご愛嬌なのですが、視覚効果班はきっちりと仕事をしていまして、その結果、体を張ってるのかもしれないアクションが、どうってことないように見えてしまったのです。そのうち、映画で危険なスタントを楽しむということがなくなっていくのかもしれません。どうせCGでワイヤーやクレーン、支持棒を消してるんだとか、背景は全部CGなんだろうと思ってしまうと、やはりアクションを素直に楽しめなくなっちゃうのです。昔なら、ワイヤーを使えば、それが見えちゃうし、爆破の炎や背景をオプチカル合成すれば、それは実物とは違うと明らかにわかったのですが、CGだとそれがまるっきりわからない。その上、エンドクレジットにどこに使われたのかわからないCGスタッフが山ほど出てくるのでは、「どうせCGでしょ」って気分になっちゃうのですよ。

これはアクションに限ったことではなく、例えばデジタル補正が当たり前の現状では、撮影監督のお手柄がわかりにくくなってきています。女優が節制して美肌を保ったとしても、それはCG修正かもしれないのです。主演の俳優がホントにアクションしていても、それってCGで顔だけはめ込んでいるんじゃないの?って突っ込みが入っちゃうのです。そういう生身の人間の頑張りが伝わりにくくなってきているってのは、映像のデジタル化の負の一面なのかもしれません。とはいえ、そういう雑念が入らない分、素直に楽しめるアニメの方にシフトするのもなあ。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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