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「ペーパーボーイ 真夏の引力」は殺人事件のミステリーから始まって、ミステリアスな人間模様に展開して、見応えあり。


今回はヒューマントラストシネマ有楽町2で「ペーパーボーイ 真夏の引力」を観てきました。予告編を観てどういうお話かよくわからんけど、何となく面白そうな気がしたもので。でも邦題は、サザンの歌のタイトルみたいだなー。映画の中身とは関係ない邦題でした。

まだ黒人差別が色濃く残る、1969年アメリカ南部のフロリダで、父親(スコット・グレン)の地方新聞社の下働きをしているジャック(ザック・エフロン)は大学中退のニート状態。4年前に起きた保安官が殺された事件で死刑判決を受けたヒラリー(ジョン・キューザック)の取材ということでマイアミ・タイムズの記者であるジャックの兄ウォード(マシュー・マコノヒー)が黒人アシスタントのヤードリー(デヴィッド・オイエロウォ)が連れてやってきます。久しぶりに再会した兄弟ですが、ヤードリーは早速取材にかかります。大した証拠もないまま、どうみても町ぐるみの出来レース裁判で死刑を宣告されたようなのです。そんなジャック達の前に。獄中のヒラリーと文通で知り合い婚約までしたというシャーロット(ニコール・キッドマン)が現れます。彼女は色々なファイルを持ってきて、彼の無実を証明したいと考えているようです。濃い化粧の四十女だけどセクシーで魅力的なシャーロットに、ジャックはすっかり参ってしまいます。一方、事件の見直しに町の人間は協力してくれず、面会に行ってもヒラリーは、シャーロットばかり見て「はあはあ」しているだけで、取材は難航します。ヒラリーは本当に4年前に保安官を殺しているのでしょうか。ようやくヒラリーの口から、その殺人のあった夜には、ゴルフ場に叔父テッド(ネット・ベラミー)と芝生泥棒をしていたというのです。沼沢地帯に住むテッドに会いに行くと、すごいところに大所帯で住んでいるテッドは、ヒラリーの言っていることは本当だと言います。ヤードリーが盗みに行ったゴルフ場へ行って裏を取ると、どうやらそれが本当らしい。やはり、冤罪の匂いがぷんぷんしてくるのでした。

ピート・デクスターの原作を、デクスターと「プレシャス」のリー・ダニエルズが共同で脚色し、ダニエルズがメガホンを取りました。一口に語るのは難しい映画でして、なかなかメインストーリーが読めないのですよ。二十歳の若造が倍くらい年上の女性に憧れるお話のようであり、冤罪事件を巡るミステリーのようでもあり、黒人差別を扱っているようでもあり、さらに白人の最下層まで登場するというネタがテンコ盛りの映画でして、さらに驚きの結末が待っているという、R15指定も納得の映画でした。登場人物がみんな一癖ある連中でして、その中で若いジャックだけが若造だけに幼さゆえのマトモキャラになっています。水泳選手としていいところまで行ってたのに、プールの水抜いただけで器物破損で退学になっちゃったという何だか中途半端なやつ。地元に帰って、父親のやっているちっちゃな新聞社の下働きをしているというニートというかモラトリアム状態。そんな彼の前に、これまで見た事ないような妖艶な年上の女性が現れたもので、彼女にすっかり心を奪われてしまいます。

この映画の冒頭は、ジャックの家の黒人家政婦アニタ(メイシー・グレイ)がインタビューを受けているところでして、映画はアニタのナレーションによって進んでいきます。黒人から嫌われていた保安官が殺されるシーンとなり、そこからジャックの家の話へと飛びます。彼女はジャックとはいい関係なのですが、父親とかその恋人からは差別の目で見られていますが、アニタも二人をあからさまに嫌った態度をとります。えげつない差別シーンは出てこないのですが、「ニガー」という言葉に敏感になったりとか、当時の雰囲気をなんとなく見せています。登場する黒人としては、もう一人、ウォーリーのアシスタントのヤードリーが面白いです。大新聞社の記者というのがまず珍しいのですが、肌の色は置いといても、どこか偉そうで鼻持ちならないタイプ。取材時には、差別的視線を浴びるのですが、それに対してもかなりアグレッシブ。ジャックを見下したようなことを言って衝突したりと、ウォードが何でこんな奴と一緒に仕事しているのかよくわかりません。

シャーロットはケバいメイクの年増女ですが、なかなかにセクシーでエロい。ヒラリーとの面会の場では、サシャ・バロン・コーエンが「ブルーノ」でやった霊媒ネタ(すんごいエロ下品なの)をやっちゃうのですよ。一方で、ジャックのことを自分の弟か子供のように接します。そのさじ加減をジャックは理解できないので、余計目にムラムラさせちゃうことになるのですが。自分がジャックとは住む世界が違う人間だということも理解している一方で、多くの受刑者と文通して、彼らの女神なのよという自負もあります。ニコール・キッドマンがなかなか本性を理解しがたいシャーロットというキャラを最初はミステリアスに後半は切なく演じて、名女優ぶりを見せてくれます。キッドマンは映画によって役柄ががらりと変わるので、こういうミステリアスドラマにはまるのですよ。(その逆のタイプがキャメロン・ディアズでしょうか。)

レスリーという男は沼沢地でワニを取ったりしている、いわゆる白人のコミュニティの中でも下層と思われている男です。殺人事件が起こったときに真っ先に目をつけられちゃう白人社会でも差別されちゃうプアホワイトとか言われちゃう人。教育もなく、貧乏な暮らし、気性も荒い。だからって、曖昧な証拠で裁判時に証言も許されないまま死刑にされていいわけはありません。そんな男をジョン・キューザックがミステリアスに演じています。ミステリアスと言えば、ジャックの兄のウォードだって顔に傷を作って、何か隠しているような節があります。

登場人物についてくどくどと書いてしまいましたが、それぞれの登場人物が何か裏があって、事件の真相よりも、その各々のキャラのミステリーがドラマを引っ張っていくことになります。段々と見えてくる登場人物の隠された部分が、破壊的な結末へ収束していくところに見応えがあり、映画的興奮がありました。決して、カタルシスをもたらす映画ではないのですが、デフォルメかかった人間ドラマとして楽しめました。前半から、冤罪事件の謎解きよりも、登場人物の描写に重きを置いた展開は何か変だなという気がしたのですが、ラストへ向かうドラマの布石だったことがわかってきて、さらに意外なぶっちぎり方に驚かされることになります。黒人差別とか白人間の差別とか書きますと社会派映画のように思われそうですが、それらの要素が、登場人物のキャラクターを際立たせるための背景という位置づけになっています。マーク・フォースター監督とのコンビが多いロベルト・シェイファーはわざと粒子の粗いシネスコ画面を作って、時代色を出すことに成功しています。冒頭の殺人事件から、こういう展開の映画だろうという期待をしないでご覧になると、そのドラマとしての面白さを堪能できると思います。私には満足度の高い映画でして、オススメしちゃいます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ウォードは、段々とこの事件が本当に冤罪事件なのか疑いを抱くようになります。そして、ヤードリーが裏をとったという事件当日のレスリーのアリバイを自分で確認しに出かけます。ジャックとシャーロットも同行するですが、向かった町のモーテルで、ジャックとシャーロットはベッドを共にするのですが、その後、ウォードが黒人に顔や背中を切られて、全裸で手錠をかけられているのが発見されます。実は、ウォードはゲイでSMプレイの趣味があったのです。ヤードリーもロンドン出身ではなく、ウォードとそういう関係になって新聞記者への道が開けたのです。そして、ヤードリーはレスリーの件は冤罪事件だという記事を書くために、確認できなかったアリバイをでっちあげていたのです。重傷を負ったウォードが入院している間に記事は掲載され、そのおかげか、レスリーは恩赦を受けてシャバに出てきます。レスリーはその足でシャーロットに会いに行き、荒々しいセックスの後、彼女と一緒に沼沢地帯で暮らすようになります。そこでの暮らしが耐えられなくなったシャーロットはジャックに手紙を書くのですが、その手紙がジャックに届いたのは一ヶ月後の父親の結婚式の日でした。手紙を読んで逆上したジャックは、ウォードと一緒にシャーロットのもとに向かいます。しかし、結婚式に行こうとしたシャーロットはレスリーに殺されていました。さらに、ウォードもレスリーにマチューテで喉をかき切られて死亡。ジャックは沼の中に逃げ込んで追ってきた、レスリーをまくことに成功。さらにレスリーがジャックを探し回ってる間に、ウォードとシャーロットの死体をボートに乗せて沼を去っていきます。で、画面が暗転してエンドクレジット。そこにアニタのナレーションがかぶさり、発端の保安官殺しの真犯人はわからないまま、レスリーは二人を殺した罪で死刑となり、ジャックがこの事件を小説化したと語られ、冒頭のアニタへのインタビューはジャックの小説についてのものだったとわかります。

ドラマとしては最悪の結末を迎え、さらに冒頭に提示された謎は解明されないまま終わるという、後味の悪いお話なのですが、それでもドラマとしての面白さは十分にありました。ジャックが結局何もできないまま、シャーロットとウォードの死を止めることができなかったことが、彼の人生に大きな影を落としたであろうことは想像がつきます。とはいえ、保安官殺しはどうやらレスリーの犯行らしく、シャーロットが本気でジャックを愛していたことは間違いなさそうです。でも、若者と年上の女性の恋愛ストーリーとしても、冤罪事件の真相解明という点からも、ストーリーはクローズしていません。その宙ぶらりんの形で終わらせるところにこの映画の妙があるというのも事実でして、全ての真実を知っている人間なんて誰もいないという見せ方がこの映画に奥行きを与えているように思います。
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「セレステ and ジェシー」はメンドくさい二人のメンドくさいお話


今回は横浜ニューテアトルで、東京での上映は終了した「セレステand ジェシー」を観て来ました。地味な映画だと思い込んでいたのですが、平日の割りにはお客さんが入っていてちょっとびっくり。

セレステ(ラシダ・ジョーンズ)とジェシー(アンディ・サムバーグ)は6年の結婚生活から、半年の別居生活を経て、今まさに離婚しようとしている状態。にも、かかわらず二人は一緒にいてイチャイチャしてて、「大親友だよね」なんてこと言ってるもので、親友のベスからも付き合いきれないとブチ切れられてしまいます。どこか余裕見せていたセレステとなんとなく彼女に依存していたジェシーなのですが、三ヶ月前にジェシーとベッドを共にしたヴェロニカ(レベッカ・ダヤン)が妊娠しちゃったことから、ジェシーは本気でヴェロニカと結婚することを考え始め、親友だからとイチャついていたセレステと一線を引き始めるのです。そうなってみると、セレステの方は面白くない。あんなベルギー娘とうまくいくはずないわなんてことを口走るは、急に色々な男とデートし始めたり、マリファナ吸い始めたり、かなり荒んだ日々になってきます。一方のジェシーも優柔不断なのか、彼女の前にちょくちょく姿を見せるものだから、セレステの未練は募るばかり。見栄張って余裕こいてたセレステも、やっぱり別れたくないとジェシーにだだこねてみたものの、父親になることで人生変えようとしているジェシーにその想いは届きません。とは言え、二人は正式に離婚したわけではないんですよ。でも、結婚しないと外国人のヴェロニカはアメリカに居られない。どっか、変な方向に暴走するセレステと、何となく未練ありそうなジェシー、この二人に行き着く先は?

痛い三十女のビッチぶりが印象的な「ヤング・アダルト」という滅法面白い映画があったのですが、この映画もそういう流れの痛い女子モノの一編ということになりましょう。ヒロインを演じたラシダ・ジョーンズと友人を演じたウィル・マコーミックの脚本をリー・トランド・クリーガーが監督しました。セレステはメディア・コンサルタント会社を共同経営するヤリ手ウーマン。一方のジェシーは売れない画家。夫婦生活はどうやらセレステが経済的な負担を持っていたようで、ジェシーはいわゆる甲斐性なしのダンナだったようです。そんな男と結婚生活を続けて子供を育てるのは無理だわという理由で別居離婚という流れになったようなのですが、家庭を築く伴侶でなければジェシーとセレステの相性は抜群。というわけで、離婚するけど、大親友という関係に、セレステとして優越感を感じつつ、これがずっと続くよねと思っていたわけです。ジェシーから、ヨーグルト屋の女の子とデートするんだと告白されて、内心やきもきしてるのに、「よかったねー、がんばってー。」とか無理して親友ポジションを演じちゃう。その一方で、メディア展開を担当するポップスターの女の子ライリー(エマ・ロバーツ)を見下しきってバカ呼ばわり。映画の後半でライリーとの関係は改善するのですが、とにかくセレステは自分が正しい、その正しさと反する人間はみんなバカだと見下しちゃうという痛いお方。「痛い」というのは実はヤワな表現でして、私に言わせてもらえば、とんでもなくやなビッチ。でも、この映画が面白いなあと思ったのは、映画のつくりが、女性の共感を呼ぼうとしている節があるところ。これを観た女性が共感するのかなあ、どんな女性が共感するんだろうってところがすごく興味出ました。ですから、これ女性の方にオススメです。これをご覧になってどう思われたか教えていただきたいです。

彼女はメディアコンサルタントという、あまり聞き慣れない仕事をしています。ライリーのメディアプロデュースをしたり、これからのトレンドをテレビで話しているところからしますと、何か胡散臭い仕事に思えてきます。それでも、会社の社長として結構稼いでいるようで、キャリアウーマンみたい。この会社の共同経営者を演じているのが「ロード・オブ・ザ・リング」のイライジャ・ウッドでして、ゲイという設定がおかしかったです。この映画と前後して「マニアック」で女性の頭の皮を剥いでいたんだなあと思うと、ちょっぴりしみじみ。それはさておき、セレステの上から目線のキャラとトレンドを語る仕事というのが結構マッチしているのがおかしかったです。今年の流行はどうだとか、最先端はこうだという人間の上から目線の物言いの胡散臭さを考えてみれば、セレステの言動や思考が腑に落ちるのですよ。離婚しても親友というのは、彼女にとっては最先端のカルチャーであり、そういう状況でハッピーな自分かっこいいみたいなところが見えるのですよ。その勢いにおだてられてジェシーもはしゃいじゃってるって感じ。ただ、これは私が男目線だから、そう見えるのかもしれないってのはあります。女性目線からすると、セレステの方が一生懸命現実に立ち向かおうとしているのに、ジェシーは何も考えてないアホに見えるかもしれないなあって。やはり、同性をひいきしちゃうところがあるんじゃないかなって思ってます。

セレステは、離婚しても親友という関係に本気で酔っていたようでして、それをおかしいと指摘した友人のベスのことを理解できない、バカじゃないって見下しちゃうのですよ。ところが、ジェシーが新しい女性と家庭を持とうということとなり、親友として無制限にイチャイチャしてくれなくなると、セレステの優越感がどんどんしぼんでいっちゃいます。私は、セレステに対して、「こういう奴は絶対幸せになっちゃいいかん、幸せになってる時点で誰かが見下されてバカにされているから。」と思ってまして、どんどんダメになっていく彼女には因果応報だねえという気分で展開を楽しんでしまいました。ただ、不安だったのは、この映画の視点が彼女に寄り添っているところがあるので、ヨリを戻してハッピーエンドにはならないよねというところ。それじゃあ、ジェシーの相手のヴェロニカがかわいそう。そういう展開にするために、実はヴェロニカの子供の父親は別人だったとか、ヴェロニカが事故で死んじゃうとかで、とんでもない退場の仕方をさせるんじゃないかとはらはらしちゃいました。(そういう楽しみ方をする映画ではないのですが。)

じゃあ、ジェシーの方はどうなのというと、これがあまり主体性がなくて、セレステに引きずられっぱなしで、本人もそれをよしとしていたところがありました。それが、自分が父親になるんだと知って、セレステと本気で別れようという気になります。それまで離婚届を出さずにイチャついていたのですが、ここできっぱり離婚届にサインしてくれとセレステに言います。まあ、デキ婚しようというわけですから、それ自体が誉められたことかどうかというのはあるのですが、とりあえず優柔不断で先延ばしにしていた、離婚と本気で向き合うようになります。ところがセレステとしては、こういうジェシーの態度が面白くない。それまでは、自分の望むように行動し、自分の優越感のよりどころだったジェシーが自分の手から離れようとしているわけですから、うれしいわけはないのですが、そういう自分の気持ちを素直に表せずに、あの二人はうまくいかないとか、ヴェロニカはバカだとか言っちゃうのですよ。その気持ちは理解できるのですが、口に出した時点で痛いビッチ確定です。

まあ、こんな困ったちゃんのドラマをクリーガーの演出はテンポよくコミカルにまとめていますので、楽しく観ることができます。でも、こんな困ったちゃんなら、突き放して笑い飛ばして欲しかったというのが、正直なところです。ヒロインを演じたラシダ・ジョーンズが、熱演してはいるのですが、このヒロインに共感して欲しい感じが見え隠れするのは、どうなの?って気がしちゃいました。まあ、オヤジ向けではない、同世代の女性に向けた映画のようですので、そのターゲット世代がどう思うのか気になる映画でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



結末を一言で言いますと、時間がセレステに色々なことを教えて落ち着くべきところに落ち着くというお話になります。ビッチな発言したり、ジェシーにやり直してと泣いてすがったりと暴走しまくってたセレステですが、一人でいる時間が彼女を少しずつ現実世界に戻し始めます。手当たり次第にデートしまくっていたのですが、その仲良くなった一人に「離婚の心の整理がつくまで待って」と正直な自分を見せるようにない、ポップスターのライリーとは同じ振られた者同士ということで仲良くなり、親友の結婚式で友人カップルを見て自分の過ちに気付いたり、そんなことの積み重ねから、セレステとジェシーは正式に離婚することになります。円満に離婚できた二人。そして、時間が流れて、ボーイフレンドに「今なら大丈夫」と電話をかけます。ラストはコンビニで買い物しようとしてタッチの差で割り込まれたとき、「どうぞ」という彼女を見せて、それまでとは何かが変わったと感じさせ、彼女のアップから暗転してエンドクレジット。

ラストでちょっとだけセレステがまともになったかもと思わせる結末ですが、それでも、セレステとジェシーは仲良しさんのままです。それが友情に見えないので、これで二人の間にきちんとした距離感ができたのかどうか怪しいもんだという結末でした。ヴェロニカが不幸にならないことを祈りたいのですが、いつまたイチャつき始めるんじゃないかという薄氷を踏むような決着でした。何しろ原題が「Celeste and jesse forever」ですからね、このまま一生グダグダな関係を続けるつもりなのかも。

「キル・リスト」は思わせぶりで説明不足だけど結構面白い。


今回は、pu-koさんのブログで紹介されていた「キル・リスト」をDVDで観ました。1500円という値段にどうしようかなあとも思ったのですが、一味違うスリラーということで食指が動きました。

ジェイ(ニール・マスケル)はこの八ヶ月間仕事をしてなくて収入がないことを妻のシェル(マイアンナ・バーリング)から責めたてられ、夫婦仲は険悪で幼い息子のサムも両親のことが心配です。ある日、友人のガル(マイケル・スマイリー)とフィオナ(エマ・フライヤー)夫婦がやってきたときも、喧嘩しちゃいます。ガルは、ジェイに仕事の話を持ってきたのですが、それは殺しの依頼でした。ジェイとガルは殺し屋として生計を立てていて、シェルもそれを知っていました。重い腰を上げて依頼者のもとにガルと共に向かうジェイ。依頼者はジェイの手をナイフで切りつけ、その血と自分の血を合わせて血判状みたいのを作る変な奴。そして、最初のターゲットに指名された神父を殺しに出かけるのですが、銃口を向けたジェイに神父は「ありがとう」と言うんですよ。次の標的は図書館司書。これがとんでもない幼児虐待ビデオを作って売りさばいてる奴で、義憤にかられたジェイは司書をボコボコにして、ビデオの元締めを聞き出し、司書も元締めも皆殺しにしちゃいます。司書はジェイに向かって「自分が誰なのか知っているのか」と意味深なことを言い、最後には「ありがとう」と言い、ジェイに殴り殺されるのでした。この一連の仕事がおかしいと気づいたジェイは次の仕事をやめたいと言いますが、依頼主はそれを許さず、やらなきゃ家族ごと皆殺しだと脅します。そして、仕方なく次の標的である議員の家に張り込んでいると、そこへ松明を持った異様な集団が現れるのでした。

イギリスのベン・ウィートリーとエイミー・ジャンプの脚本を、ウィートリーが監督したスリラーです。冒頭は、仕事をしてなくて金がないことで奥さんと揉めているジェイの姿が描かれます。どこか精神的に病んでいる感じがするジェイですが、息子のサムにはやさしいお父さんみたい。そんな無職のオヤジの家庭内のいざこざが妙なテンションで描かれます。冒頭から漂う異様な雰囲気は、ウィートリーの演出のうまさもあってか、なかなかに快調。お話が見えてくるにつれて、その正体がわかってくるのですが、そこに至るまでをハッタリを効かせて、映画にただものじゃない感を与えています。

ジェイはもともとは兵隊上がりで、仕事のできる殺し屋だったようで、キエフでの仕事で何か失敗をしたらしい。ガルはそんなジェイの腕を信頼して仕事の話を持ってきたのですが、今回はジェイの様子が何かおかしい。殺人の痕跡を一切残さないというのが彼らプロのやり方なのですが、最初のターゲットである神父を殺すときはそれがきちんと守られます。神父を殺す部屋には予めビニールシートが敷かれ、そこへ現れた神父をジェイが一発でしとめるという次第。これはうまく行くのですが、死ぬ間際に神父がジェイに「ありがとう」と言い出すところで、おかしな空気になってきます。次のターゲットである図書館司書の仕事では、ターゲットである司書をすぐに殺さずに拷問して、幼児虐待ビデオの元締めを聞きだして、そいつらまで殺しちゃうのです。司書も金槌でボコボコにして殺すというプロにあるまじきやり口。そして、司書もジェイに向かって「ありがとう」と言い残すので、不気味さが増してきます。さらに、仕事先のホテルの窓からジェイが外を見ると、ガルの奥さんであるフィオナが手を振っているので、またこれが気味が悪い。このフィオナという女性は仕事が人事部だそうで、組織の中で不要になった人間をリストラするのが仕事だと言います。

どうもこの仕事はおかしいと気づいたジェイは手を引こうとするのですが、それは許されず、最後のターゲットである議員の郊外の豪邸に二人は向かいます。すると、そこに松明を持った異様な集団が現れるのです。ここまで来ると、これは、あっちの話なんじゃないのと気づかされるのです。

この後は論理性よりも、雰囲気でお話は突っ走りまして、ラストまで観て、「そういうことなの?」と思っても、腑に落ちないことが一杯残るという結末になっています。それでも、映画としては面白くできていまして、観客をうまく引っ張って、結末まで飽きさせない展開は見事だと思います。特に、観客をミスリードするのではなく、伏線をきちんと張って、落とすべきところへ落とす流れになっているのは感心しちゃいました。その上で、「ありゃ何だったんだ」という部分を結構残しているあたりは脚本のうまさなのでしょう。



この先は結末に触れますのでご注意ください。




松明を持った異様な集団はどうやら宗教団体らしいです。全裸のものが半分くらいいて、みんな小枝を束ねた面をかぶって顔を隠しています。そして、松明の輪ができたその真ん中に縄がつるされ、若い女が自ら首を吊って死ぬのを、みんなが見守ります。どうやら、この団体の中では死は恐ろしいものではなく、イニシエーションの儀式の扱いみたいなのです。それを見ていたジェイが逆上したのか、集団に向けて発砲。何人かは仕留めるのですが、とにかく多勢に無勢。地下道に追い詰められてしまい、相棒のガルは地下道でナイフで刺されて死亡。何とか脱出に成功したジェイはシェルと息子が隠れているところへ向かうのですが、そこへ例の集団がやってきます。シェルに銃を渡して、集団のもとへ銃を持って向かうジェイですが、背後から殴られて気絶。気づいたときには、集団の中心にいて、木の枝の面を被らされていました。そこへ同じ覆面をしたせむしの男が現れて、ナイフを持って彼に襲い掛かります。ジェイはそのナイフを奪い取り、男の背中をめった突きにして仕留めます。すると、周囲の連中が面を取ると、依頼者やフィオナの顔が現れます。そして、せむしの男の面を取ると、妻のシェルの顔が現れ、ほくそ笑むシェルの背中には息子のサムが背負われていたのでした。おしまい。

どうやら、邪教の集団の特別な存在として見込まれたジェイが、その神的な存在になるための儀式として、一連の殺人を行ってきたようなのです。そして、殺される方にとっては、集団の生贄的な意味合いがあるようで、名誉なことのようなのです。そして、最後に自分の子供を殺すことで、ジェイは特別な存在となったというのが結末らしいです。らしいですというのは、まるっきり説明がないからです。でも、この類の映画、「ウィッカーマン」とか「悪魔の追跡」を観ていると、何となくそういうことなんだろうなってのが見えてきます。特に、映画の前半で、ジェイの家に来たフィオナが家の鏡の裏に、魔法陣のような文様を刻むシーンがありまして、あれがきっと宗教のシンボルなんだろうなってことがわかるようになっています。(このマークのネタは、フジテレビのフェイクドキュメンタリー「放送禁止」で観たことあります。)とはいえ、映画の中で明快に説明してはいないので、こういう解釈もできるというレベルです。ラスト近くで、シェルは銃で迫ってくる邪教集団の連中を何人も撃ち殺すシーンが登場しますので、これは上記の私の解釈では説明しきれていません。

ある程度、こういう話のパターンを知っていると腑に落ちるところがたくさんあるのですが、初めてこのパターンの話に触れると、説明が足りなさ過ぎて何のことかわからない映画になっちゃうように思います。そういう意味では、かなり不親切な映画だと言えましょう。それでも面白く作ってあるのは認めちゃいますし、色々と宗教的なキーワードを散りばめてあり、ウサギを食べるシーンが2度登場するといった思わせぶりな趣向も入れてあります。私にはウサギの意味がわからなかったのですが、知ってる方がご覧になれば、何か意味のあるエピソードなのかもしれないです。最初に依頼者に掌をナイフで切られてできた傷はキリストの聖痕とイメージが被りました。ジェイが選ばれた人間であるという印があの傷ではないのかと。

映画の冒頭が、無職のダンナが金の話で妻に責められるシーンというやけに所帯じみたものなのですが、そこからお話がテンション高いまま、どんどんおかしな方向へと進んでいくので、観ている方は何だこれはと思いながら引きつけられてしまいます。そして、引き付けた挙句に突き放すというかなり意地の悪い映画なので、好き嫌いが出ると思います。それでも、奇妙な味の一編として記憶に値する映画だと言えましょう。

「モンスターズ・ユニバーシティ」は感動とか友情を押売りしないところがいい感じでエンタメ度高し。


今回は新作の「モンスターズ・ユニバーシティ」をTOHOシネマズ日劇1で観てきました。3連休の初日の初回、珍しくも3Dで字幕版の鑑賞でした。「アバター」を観たころは重くてうっとうしかった3
Dメガネが軽くてスッキリかつチャチになっているのにびっくり。しかし、お客の入りは3割ほどで、この映画コケたんかな?という予感。ポケモンの初日で字幕版だったせいか子供はほとんどいませんでした。3D予告編で「ウルヴァリン」「ワールド・ウォーZ」「スタートレック」などを上映したのですが、どれも目が疲れるし字幕も読みにくかったのですが、本編はいい感じに見易い映像になっていました。特に「スタートレック」は平面的な人間が、飛び出す絵本みたいに見えて、すごく歪な立体感でした。予告編だと3Dのクオリティが低いのかしら。3D初心者なのでよく知らないのですが。

一つ目モンスターのマイクは小学生の頃、社会科見学で出かけたモンスターズ・インクのモンスターに魅せられて、自分もああなろうと頑張ってモンスターズユニバーシティの怖がらせ科に入学します。でも、見た目ちっちゃいし、怖いというよりはキュートなマイクはあんまり見込みはなさそう。それでも、頑張って勉強して、実践はともかくも理屈だけなら優等生。一方、名門モンスター家の出身のサリーは見た目もいかつくて怖そう。二人はなぜかライバル同士になるのですが、期末試験の時に学長の大事にしていた悲鳴カプセルを壊してしまって退学にさせられちゃいます。しかし、マイクは、学内の一大イベントである怖がらせ大会で優勝したら退学を取り消してほしいと学長に直談判して、大学復帰のチャンスを得ます。でも、チームで参加しなくちゃいけないということで、彼に協力してくれたのは、学内でもっともパっとしないウーズマ・カッパの面々。そこにサリーも加わって6人のチームで怖がらせ大会に臨むことになります。第一試合はドベだったのすが、他のチームの反則で繰り上げ勝ち残り。その後は、徐々に実力を示して、決勝にまで進むのでした。最後の試合は、ロボットの子供をどこまで怖がらせられるかの勝負です。怖がらせということになるとマイクの見た目はやっぱり不利。本人は自信満々なのですが、サリーとしては心配この上ない状況。果たしてウーザマ・カッパのチームは怖がらせ大会で優勝し、大学に復学できるのでしょうか。

前作「モンスターズ・インク」から11年たって、その前日談が作られました。あの怖がらせ界のスーパースター、マイクとサリーのコンビがどうやって誕生したのかというお話です。ダニエル・ガーソンとロバート・L・ベアードとダン・スキャンロンの脚本をスキャンロンが監督しました。細かい笑いを盛り込みながらも、ストーリーはいわゆる定番、出会い、仲違い、団結、そして勝利の大団円というものですが、その中に細かいスパイスが散りばめてありまして、大人も子供も楽しめるドラマに仕上がっています。子供も頃はみんなからバカにされちゃうマイクですが、周囲の視線におかまいなしのポジティブキャラで、モンスターズ・ユニバーシティに意気揚々とやってきます。そこはいわゆるアメリカの大学文化をそのまま継承していまして、学生は色々なクラブに所属し、その中に花形クラブもあれば、ウーズマ・カッパみたいにみんなから相手にされない弱小クラブもありました。女の子とチャラチャラしたり、ハッパやったりするのが登場しないのは、ディズニーだから当たり前でして、メインの展開は怖がらせの仕事につきたいマイクの奮闘振りということになります。

見た目はどう見ても怖くないマイクですが、知識はあるし機転もききます。ウーザマ・カッパの面々は怖がらせなんてできそうもない皆様なのですが、マイクの頑張りで怖がらせ大会を勝ち進んでいきます。このあたりは予定調和なんですが、脚本がしっかりしているせいか、テンポのよい展開を楽しめました。サリーの方は、でかい図体に似合った大雑把な奴なのですが、自信家であるというところはマイクとの共通点です。そんな二人が大学を追放されそうになり、手を組んで怖がらせ大会に優勝しようと頑張ることになります。

メインのストーリーは結構シリアスなのですが、キャラクターのおかしさで、笑いをつないでいくというやり方が成功しています。特に脇役がきちんと立っているのには感心しました。最近のハリウッド映画はテンポがやたら速くなった分、脇役の味わいを描く余裕がなくなっているように思うのですが、この映画では、脇役にきちんとキャラを表現する尺を与えて、特にウーズマ・カッパの面々がいい感じにドラマに潤いを与えています。この面々がいわゆるダメキャラとして登場するのですが、ダメな割には愛嬌があるし、いざとなったら結構な頑張りも見せるあたりにドラマとしてのうまさを感じました。最初は、怖がらせ大会に出場すること自体に腰が引けていたのに、最後では、トップのクラブと五分の闘いを見せてくれるのですよ。

クライマックスはマッチポンプ的展開になるのですが、それでもラストでちょっといい話的なまとめをしているのが大人の鑑賞にも堪える内容になっていたように思います。声の出演は、前作からと同じビリー・クリスタルとジョン・グッドマンなのですが、学生にしては声がオヤジすぎていて、これなら日本語版の田中裕二と石塚英彦のコンビの方がよかったかもって気がしちゃいました。一方、学長を凄みのある声で演じたヘレン・ミレンがお見事でした。また、3Dならではの絵というのは特になく、これなら2Dで十分という印象でした。



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怖がらせ大会の決勝戦では、ウーザマ・カッパの面々が子供ロボットにかなりの悲鳴をあげさせて点数を稼ぎます。そして、サリーも高得点の悲鳴をあげさせて、アンカーのマイクにバトンを渡します。そして、マイクは大会の新記録を出して、ウーザマ・カッパのチームが優勝します。しかし、実はサリーが子供ロボットに細工をしてマイクの時に最高点が出るようにしていたのです。それに気づいたマイクやチームのメンバーはがっかり。サリーも自分のしたことに後悔して、学長に全てを話しますが、もうとりあってはもらえません。自分は子供を怖がらせることはできないのかと落胆したマイクは、大学の研究室にある試作品の子供部屋ドアを開けて、人間世界に入ってしまいます。そして、眠っていた女の子を脅かそうとするのですが、全然怖がってくれません。さらに、そこがキャンプ場の共同ベッドだったものですから、他の子供たちもやってきて、マイクはその場を逃げ出します。

マイクがドアの向こうに行ったことを知ったサリーは後を追って人間世界へと行き、湖のほとりでしょんぼりしてるマイクを発見、そこでお互いがかけがえのない友人であることを確認してモンスター世界へ帰ろうとします。しかし、学長は子供部屋ドアの封鎖してしまい、二人は戻ることができません。そこへ子供や先生の通報で警察がやってきます。マイクは一計を案じ、警官たちを怖がらせる演出をして、とどめにサリーが一発大きく脅かしたところ、警官たちの悲鳴がマックスとなり、その勢いで子供部屋ドアが開き、研究室の悲鳴ボンベを満タンにして、二人はモンスター世界に戻ることができました。でも、結局二人は退学となります。そんな二人に学長は励ましの言葉を送り、彼らはモンスターズ・インクの郵便係として就職します。そこでめきめきと頭角を現し、給食係から悲鳴ボンベ係となり、そして、ついには怖がらせ屋として、人間の子供の部屋へと向かっていくのでした。おしまい。

客観的に見れば、怖がらせ大会でイカサマで優勝して、勝手に研究室の子供部屋ドアを使って人間界に入り込み、悲鳴をいっぱい持ってきたけど、研究室は壊しちゃったわけです。さすが、そこまでやっておいて、大学にい続けるのは無理でしょうけど、マイクとサリーの怖がらせスキルを学長がちゃんと認めていたというところがちょっとした救いになり、そして、彼ら下働きから入って、最後には花形である怖がらせ屋になるという結末はうまいと感心しちゃいました。それが前作のオープニングにつながっているというわけですが、前作から10年以上間を空けたのは失敗だったかも。

「異国に生きる」は面白い題材でしたけど、私の知識不足かどうも消化不良で。


今回は横浜ニューテアトルで東京での上映を終了しているドキュメンタリー「異国に生きる」を見て来ました。関内に残る数少ない映画館ですが、ラインナップがかなりマニアック。がんばって続けて欲しい映画館。

チョウチョウソーさんは、1988年のビルマの軍事クーデターで民主化運動に参加し、軍事独裁政権の迫害を逃れて、日本に政治難民として亡命してきます。料理店で働くかたわら、仲間と一緒に、日本へのビルマ人への広報誌を出したり、ビルマ大使館への抗議行動を行ってきました。ビルマに残してきた奥さんヌエヌエチョウさんを日本に呼び、ビルマ料理店を始めます。ある日、チョウチョウソーさんはタイへ行き、そこで父や姉と久しぶりの再会をします。3.11東日本大震災のときは、ビルマ人の仲間といっしょにボランティアで被災地へ行き、ビルマ料理を振るまい、被災者の話を聞くのでした。ビルマでは、アウンサンスーチー女史が自由の身となり、軍事政権は少しずつ変わりつつあるようですが、それでも4分の1の議席を軍が押さえているという状況ではまだまだ民主国家とは呼べない状況で、まだ帰国できずにいるビルマ人はたくさんいるのです。

「"私"を生きる」などのドキュメンタリーで知られる土井敏邦が監督した、在日ビルマ人を題材にしたドキュメンタリーです。軍事政権下で政治活動をしていて日本に逃れてきたチョウチョウソーさんを15年に渡って追ったものです。ビルマから日本にやってきた人がどんな風に暮らして、何を考えているのかというところに興味がありました。彼の肩書きは民主活動家と紹介されるのですが、ああ、これは政治活動家の話なんだなって気付かされます。私が大学進学したころは、大学の政治活動はすっかり影をひそめていましたし、就職してからも、労働組合は単なる御用組合と化していたので、政治活動ってのは、自分の身近には一切なかったので、政治活動家を題材にしているってのは、自分の知らない世界だなってさらに興味出てきました。

彼の政治活動として描かれるのは、ビルマ人コミュニティにビルマの現状を伝える広報誌を作ったり、ビルマ大使館への抗議デモを行っています。その他の活動が見えてこないのは、ちょっと物足りなかったです。ビルマの民主化を支援しようとするのなら、メディアへ向けての広報活動ですとか、ロビー活動をやったりしないと、デモだけでは、ほんの一部の人にしかアピールできない。いわゆる国内の政治活動家の共感は得られるでしょうが、多くの一般市民には、その活動はおろか存在も知らしめていないように思います。自分が知らなかったから、そういうのは不遜な態度かもしれませんが、ネットとテレビから情報を得ている私がビルマのニュースに触れたのはアウンサンスーチー女史が自由の身になったことと議員に当選したくらいでしょうか。軍事政権のせいで、自国に帰れないビルマ人がいて、日本で政治活動をしているなんて全然知りませんでした。まあ、この映画が多くの人の目に触れれば、彼らの存在が日本国内でも認知されるようになるのでしょうが、こういう映画を普通の人が目にする機会は極端に少なそう。夕方のニュースのグルメ情報の後に紹介してもらった方がたくさんの人の気を引くことができるのではないかしら。それにはお金が必要ですから、思うようにはいかないのでしょうが。

政治活動家という肩書きなら「ふーん」という感じで納得するのですが、民主活動家というところで、作り手の政治的バイアスを感じてしまったのですが、これはうがち過ぎかしら。軍事政権に対する、民主主義があって、それを進める民主活動家は正しいという図式は、確かにそうなのかもしれないのですが、民主主義が正しいかどうかが、危うくなっているこのご時勢では、ちょっと引っかかるものがありました。反軍事政権の政治活動家と言われれば腑に落ちるのですが、民主主義が有無を言わせず正しいみたいな言い方をされると、社会主義よりはマシなくらいじゃない?って言いたくなっちゃいます。

そして、政治活動として見えてくるのはそのくらいしかないのですよ。むしろ、ビルマにいる奥さんを呼び寄せたり、タイで家族と会うといった彼の個人的事情の方がメインのようなのです。それでも、彼と同じビルマ人が難民認定されず入国管理センターに収容され、そこで結核患者と同室にされちゃったりという話が出てきます。日本も外国人には結構酷なことをするんだなあと、改めて納得しちゃいました。生活保護申請を拒んだりとか、お役所仕事は、文句を言えない弱い立場に対してはえげつないことするんだなあ。でも、それはあるんだろうなあ、実際。また、日本政府が軍事政権に対するODAの金を出していることに対しても抗議活動をしています。そういう日本政府との軋轢が描かれるのかと思いきや、そこは簡単にスルーしちゃいます。一方で、かなりの尺を割いて描かれるのは東日本大震災へのボランティア活動です。そこで、彼は、ビルマの人は誰もが困った人を助ける、それは当たり前のことだからと力説します。そして、日本人は自分のためだけに生きているように見える。もっと他人のため、社会のために生きることを考えると小さな社会しか知らないまま、つまらない人生を送ってしまうとも言います。まあ、自分に照らしあわせてみれば、確かに自分のためにしか生きていないし、他人や社会への関心も薄いですから、痛いところを突かれた気分です。東北への寄付は出したけど、ボランティアには行ってないし、自分のためだけに生きていると言われても仕方ないかも。

彼の言い分はもっともなところがあるのですが、土井敏邦の演出は、エピソードの切り取り方がクセがあるのか、異国に生きるビルマ人というテーマが浮かび上がってこないのには不満でした。例えば、ビルマ人が周囲の日本人にどの程度なじんでいるのか、あるいは摩擦があるのかという「異国に生きる」というタイトルなら是非描いて欲しい部分がすっかり欠落しているのです。在日ビルマ人が場所を借りて集まって年に2回ビルマのお祭りをやるシーンが出てくるのですが、そういう場所で、日本人が関わることがあるのかどうかも描かれません。登場する日本人は、彼らを支援する弁護士くらいで、「日本にある日本でないコミュニティ」というふうにしか描かれていません。実際、そうなのかもしれませんが、だとすると日本人の中のビルマ人としてどういうふうに生きているのかということが見えてこないのです。後半に彼が開いたビルマ料理店もビルマ人が集まっているところしか描かれませんから、言い方は悪いのですが、閉鎖的なビルマ人村を作っているのかなとも思ってしまうのです。そのエクスキューズとして、大震災のボランティア活動が出てくるような印象です。実際のところがわからないのですが、描写の不足から、孤立したビルマ人コミュニティという見え方になっちゃうのは、この映画の趣旨に反するのではないかしら。

チョウチョウソーさんの望みはビルマが民主化して、母国へ帰れる日が早く来ること。それは、いつかなうのかはわかりません。、その間の仮の住まいである日本に対してどういう感情を持っているのかをもう少し描いて欲しいと思いました。彼のような政治難民が母国へ帰ることを夢見ていることは納得できるのですが、でもそれだけでは、この「異国に生きる」というタイトルの映画としては不十分だと思うのです。自分の国に帰れないことはすごく不幸なこと。でも、その時にアメリカでもインドでもない日本を選択したわけですから、そこのところを聞きたいと思うのです。母国を思う気持ちは伝わってくるのですが、今現在は異国の地にとどまっていることと、どう折り合いをつけているのか、それこそが知りたいところだったのに、どこかはぐらかされてしまったように思います。

監督の視点は、民主主義を目指す彼らへの敬意が感じられるのですが、でも、自分の国が民主主義でなくなったとき、チョウチョウソーさんが居場所の定まらない根無し草でずっといることが、いいことなのだろうかという気もしてしまうのです。そう思うのは、私が、ビルマ人の苦悩への想像力が欠けているからだと言われちゃうと返す言葉がないのですが、この映画で、彼らの日本人との関わり方が描かれていないところに、「異国で生きる」つもりが本当にあるのだろうかという気がしてしまうのですよ。それは、チョウチョウソーさんがそう思っているというよりは、監督の描き方(エピソードの取捨選択)が不十分なのではないのかしら。監督が当たり前のことだからと切り捨てた部分が実は当たり前ではなくて伝えるべきだったことはないのかという気がしました。当たり前の定義は人それぞれですから、全ての人が私のように感じるわけではないのですが、私にとっては、言葉足らずの映画になってしまってました。すごく興味を引く題材だっただけに残念。

尚、この映画のプログラムは映画で描かれなかったビルマの現状とか、在日ビルマ人の状況を詳細に書いてありまして、映画よりも情報量が多くて勉強になりました。とはいえ、映画の描き足りないという印象が変わるまでのものではありませんでした。

「エクソシスト2」はあの映画の続編と思わなければ意外と楽しめて、発見もあります。


前回、「「エクソシスト」のブルーレイの記事を書いたのですが、続編である「エクソシスト2」のDVDを観ました。まだブルーレイは出ていないようですが、DVDが1000円を切る値段だったので、食指が動きました。この映画、公開当時に映画館で観ているのですが、最初のバージョンが評判悪くて、若干尺が短い再編集版が日本公開されたと聞いています。私の住んでいた地方では当然2本立てで「新・青い体験」というヌードありのちょいとエッチな映画が同時上映でして、高校生の私には、そっちの方がインパクトあった記憶があります。今回、DVDで再見すると、当時ティーンであったリンダ・ブレアーが、ノーブラスケスケ衣装でナイスバディ(ややポチャ)を披露していたという発見がありました。タイトルトップがリチャード・バートンでなく、リンダ・ブレアだったってのにもびっくり。

悪魔つき事件から、リーガン(リンダ・ブレア)も高校生となり、シャロン(キティ・ウィン)と一緒にニューヨークで暮らしています。定期的に通う病院の小児病棟で、博士(ルイーズ・フレッチャー)の治療を受けていました。一方、メリン神父(マックス・フォン・シドウ)の愛弟子であるラモント神父(リチャード・バートン)は、メリン神父の死についての調査を枢機卿(ポール・ヘンリード)から命じられます。メリン神父は悪魔祓いの最中に死んだことから、悪魔側に異端者ではないかという疑惑をかけられていました。脳波をシンクロさせて、相手の心理の奥を共有しようというシンクロナイザーという機械を使い、はリーガンの悪魔つきだったころの記憶を探りだそうとします。すると、リーガンには、善のリーガンと悪のリーガンという二つの人格がいるようなのです。さらに彼女の夢の中に、若い頃のメリン神父がアフリカでコクモというシャーマンの少年に取り付いた悪魔をはらっている様子が現れてきます。その悪魔の名はパズズといい、リーガンにとりついた悪魔と同じ名前でした。ラモント神父は、リーガンの中にまだ悪魔が留まっている危険な状況であると判断し、コクモというシャーマンが彼女を救うカギであると、単身アフリカへと向かい、メリン神父の足跡を追います。リーガンは小児病棟の自閉症の少女に言葉を発せさせたり、特殊な力を持っていることがわかってきますが、それこそが悪魔に目をつけられた理由でもあるようなのです。果たして、パズズとの闘いにリーガンやラモント神父は勝利することができるのでしょうか。



この映画はストーリーを小出しにする書き方では説明仕切れない映画なので、結末まで全て語っていますのでご注意ください。



ウィリアム・グッドハートの脚本を「脱出」「未来惑星ザルドス」のジョン・ブアマンが監督しました。一作目は、ウィリアム・フリードキンの都会的でクールな演出が、大都会の片隅で起こった超自然現象の顛末をむちゃリアルに描いたものでした。その続編を作るにあたり、前作とは全く異なるアプローチをしたことから、公開当時の評判は散々でした。当時、映画館で観た時は、何だかわけがわかんないけど、すごい感じがするという曖昧な印象だったのですが、こうして30年以上を経て改めて観てみてもその印象はあまり変わりませんでした。

前作では、リーガンにとりついた強力なパワーを持つ何かと、神の支援を得たメリン神父のガチンコマッチという印象でした。まさに理屈じゃなくて力対力の対決という感じ。その結果、ガチンコマッチに敗れたメリン神父の後を引き継いだカラス神父が、相手の力を逆用した回転エビ固めみたいな技で辛くも勝利を得たのです。ところが、まだ悪魔はリーガンの中でくすぶっていたのでしたという展開が、まず嫌われまして、「それじゃカラス神父のあの捨て身の返し技が無意味になり、前作の結末を否定するものだ」というブーイングがありました。それはそうだよなあ、信仰を失いかけていたカラス神父のあの逆転技が意味なしにされちゃうのはひどいと思いますもの。

また、前作では、リーガンがたまたま悪魔に魅入られてしまったという見せ方で、そこに誰にでも起こりうる悪魔憑きの怖さが表現されていたのですが、本作では、リーガンは特殊な能力を持つ未来を担う当別な存在という位置づけにされちゃいます。そして、その特別な存在であるリーガンに神と悪魔の両方が目をつけたというお話になってるのですよ。ですから、肩がぶつかってヤクザに因縁つけられたみたいな前作とは、モノがまるで違う映画になっているのです。さらに、ブアマンの演出は善と悪のイメージショットを多用し、夢と現実の境界も曖昧にした見せ方で、善である神と悪である悪魔の対立というでっかい宗教画みたいなイメージを、映画の中に展開させてきます。特に重要なのが、悪の象徴であるイナゴです。コクモという少年は畑を襲うイナゴを滅ぼす能力を持ったシャーマンで、その能力ゆえに悪魔に目をつけられるのですが、メリン神父によって救われるのです。そして、今のコクモはイナゴの改良の研究を進めている研究員です。彼の言うところでは、羽をこすりあわせることでイナゴが凶暴化してそれが伝染していく、その凶暴化を止めるための良いイナゴを増やそうとしているのだとか。

イナゴの主観ショットや、イナゴの群れが畑を襲うショットなどが登場するのですが、クライマックスではジョージタウンのかつての事件のあった家がイナゴの大群に襲撃され、家が吹っ飛んでしまうというあり得ないシーンが登場します。イナゴは悪の象徴であり、善のリーガンがイナゴを滅ぼすという見せ方なのですよ。そして、良いイナゴが増えることで、悪い凶暴なイナゴはその力を失うという構図です。善と悪の闘いをわかりやすく絵解きしたという言い方もできますが、イメージの見せ方に凝ってしまったせいか、ハッタリ先行のわけのわからん勢いだけある結末になっちゃいました。また、クライマックスでは、かつての悪魔祓いの行われた部屋にラモント神父とリーガンが向かうとそこにもう一人のリーガンがいて、ラモントを誘惑し、彼にリーガンを殺させようとするシーンが登場します。ここでも、リーガンの中に善と悪が並立して存在するという見せ方でして、第一作の「無垢の存在である少女に邪悪な力がとりついた」という図式とは異なる、善と悪の正面切っての闘いという絵が見えてきます。

リーガンは自分の特殊な能力や、他の人とは違う運命をある程度理解しているようで、その上で、ラモント神父に協力するのです。善と悪の狭間でフラフラしているラモント神父に比べるとリーガンは自分の立ち位置をしっかり見据えています。そして、彼女の中の(悪じゃなくて)善なるものが、彼女に過酷な未来をもたらすであろうというところまで達観しているようなのです。ラストで、彼女はその過酷な運命に向かって旅立っていきます。ラモント神父は彼女を支えるために付き添っていくのです。これは、殉教者の受難の旅立ちという解釈もできるのではないかしら。

で、信仰心のかけらのない私からしますと、こういう絵解きの仕方も面白いかもって気がして、結構楽しんでしまいました。クライマックス前に、悪の方になびきかけた(らしい)シャロンが、炎に包まれるというシーンがあり、黒こげの彼女が息を引き取る前に信仰に再び目覚め、神父から神の許しの言葉をもらうというくだりは、劇場で観たバージョンではなかった(劇場版では、シャロンは炎に包まれてそのまま退場)もので、全ては神の御心だよねっていう見せ方は、勉強になりましたです。まあ、勉強になったからと言って、そういう神様と契約するつもりにはなれないのですが。ともあれ、善と悪の闘いが過去から未来へとずっと続いていて、そこに選ばれし者がいるのだという見せ方は、宗教のありようとして面白いと思いました。神と悪魔はずっと(自転車操業で)闘っていてもらわないと、困るみたいでして、休戦協定を結ばれたり、和解してもらったら、宗教とか信仰心の持って行き場がなくなるみたいなんです。冒頭で、メリン神父が悪魔サイドについたのだと非難され、彼の書籍が発禁処分になったという話が出てくるのですが、とにかく敵は強い方がいい、身近にいた方がいいってのは納得しちゃうところがあります。そういう敵を想定することで、教会は結束し、多くの信者を動かす力を得るのですから、悪(らしきもの)を見つけると、はりきってボコボコにしようとするんだなあって。新興宗教の常套句である「信じないと地獄に落ちる」という脅し文句と同じく、人を恐怖で動かすには悪魔ってのはうってつけの存在なのかな、と。

特殊メイクは前作から引き続いてディック・スミスが担当していますが、リーガンのメイクも前作よりはおとなしめでして、見た目よりは彼女の内面の闘いを描こうという意図が感じられました。視覚効果は「大地震」「ヒンデンブルグ」のアルバート・ウィットロックと「フラッシュ・ゴードン」のヴァン・ダー・ビーア・フォトがクレジットされています。ミニチュアやアニメ、作画合成など、視覚効果は前作よりも多めでして、イメージ重視のカットを作るために必要だったと思われます。前作では、オーエン・ロイズマンの撮影が、セット撮影も含めて、全編がロケのようなリアル感を出していましたが、今回のウィリアム・A・フレーカーの撮影は、色使いやセット撮影に幻想的な味わいを加えて、内面への旅という感じ(インナートリップ感)を出すことに成功しています。エンニオ・モリコーネはこの映画のために素晴らしいスコアを書いているのですが、映画の中ではあまりうまい使われ方をしていません。モリコーネ自身このスコアがお気に入りだとインタビュー記事で読んだことありますが、その音楽を堪能したいと思われる方はサントラ盤の購入をオススメします。

もう30年以上も前の映画の記憶なのですが、DVD版の方がシャロンの出番が多かったように思います。また、リーガンとラモントが旅立っていくというエピローグは劇場版ではなかったような。このエピローグは、善と悪の闘いを語る上で重要なシーンで、これがあるおかげでテーマが明快になったように思います。一作目は間違いなく傑作だと思っているのですが、この続編はかなりケッタイな映画だという印象でした。傑作の続編としては、期待を裏切るものであるのですが、まるっきり別ジャンルとして考えれば、これはこれで悪くないかもという気がしました。ただ、悪魔つきというローカルでパーソナルな出来事から、アルマゲドンまで大風呂敷を広げたのは、ハッタリきつめかなあ。

「天使の分け前」は若者の人生やり直しコメディ、てかホントの改心したの?


今回は東京での公開は終わっている「天使の分け前」を静岡シネギャラリー1で観てきました。映像はフィルムの傷ありありなので、元はフィルムなのですが、映写機は回っていなかったようで、どういう上映形態だったかしら。画質はこの映画館のDLPの標準レベルよりかなりきれいだったのですが。

スコットランドのグラスゴー、チンピラ同士のケンカで審判を受ける若者ロビー(ポール・ブラニガン)はもうすぐ父親になることなどから情状酌量の余地ありとされ、300時間の社会奉仕活動を行うことで刑務所行きを免れます。その直後、恋人のレオニー(シヴォーン・ライリー)は無事に男の子を出産するのですが、レオニーの父親からは娘と孫に関わるなと脅され、ケンカ相手のチンピラは折あれば、ロビーに復讐しようと手ぐすね引いていました。確かに職もない状態で恋人と息子を幸せにするのは無理っぽい感じ。300時間の社会奉仕活動の指導者ハリー(ジョン・ヘンショー)はそんなロビーにやさしく接してくれ、ウィスキーの知識を教えてくれたのですが、ロビーに意外やウィスキーの利き酒の才能がありました。そして、ウィスキーサークルの集いで、今度、100万ポンドクラスのウィスキーがオークションにかけられることを知り、ここで人生やり直しの元手を作ろうと、仲間の3人を巻き込んで、100万ポンドのウィスキーを掠め取ろうということになります。4人はウィスキー同好会と偽って醸造所を訪問し、利き酒の場所に立ち会うことに成功。そして、ロビーは醸造所の中に隠れて、夜中に樽からウィスキーを取り出そうとするのですが......って、意外や大きなトラブルもなくうまくいっちゃいましてね。

「ルート・アイリッシュ」「この自由な世界で」「麦の穂を揺らす風」などのハードな作品を手がけた、脚本ポール・ラヴァティと監督ケン・ローチのコンビの新作です。いわゆる貧しい若者の現状がシリアスに描かれているところもあるのですが、基本的にはこれはコメディ。前述の3作の閉塞感とは違う、一応のカタルシスとささやかな希望が描かれていますので、その分お気楽に楽しむことができました。主人公のロビーは両親もろくでもないらしく、生い立ちからして情状酌量の余地があるみたいなんですが、色々と前科があるようで、特に詳細に説明される、暴力事件からすると、かなりクズ。コカインをやっているときにニアミスしたカップルの車から男の方を引きずり出してボコボコにし、右目を失明させてしまいます。被害者は、彼女も失い、事件のショックで引きこもり状態、被害者も被害者の家族もものすごい不幸になっちゃいました。こういうロビーが人並みに幸せになるのは釈然としないよなあって日本人的感覚だと思ってしまうのですが、この映画はあまり因果応報に執着しないで、どんづまりにある主人公がどうやって、人生やり直しのスタートラインにつくかまでを描いています。被害者が人生棒に振りつつあるの事実だけど、加害者が人生やり直すのもありだよねというスタンスでこの映画は作られています。とは言え、もうケンカや盗みはまっぴらだみたいな展開になるのかなと思ったら、ケンカや人を傷つけるのはダメだけど、盗むのはOKという線引きなので、「え、そうなの?」って戸惑っちゃう展開でもありました。

それでも、いい感じなのは、社会奉仕活動に集まったそれぞれ脛に傷あるみなさんのキャラクターのおかしさ、そして指導者ハリーのいい人ぶりが微笑ましいのですよ。また、クズなロビーでも父親としての自覚はあるし、恋人を愛しているけど、顔に傷がある前科者は就職活動もままならず、恋人の金持ちの父親から、元手はやるから、別の土地で一人でやり直せと言われるとそれもそうかなって考え込んじゃう。ケンカ相手のチンピラは、執拗にロビーをマークしているので、このままでは親子3人の平和な暮らしも期待できません。足を洗ってマトモに暮らそうと思ってもできない、そんな状況からの抜け出すためにどうしようかってところで、100万ポンドのウィスキーをかすめとっちゃおうってことになるわけです。親切なハリーからウィスキーの味を教えてもらい、自分でも勉強を始めたら、利き酒の才能に気づくのですが、その特技を有効に使うのかなって思いきや、酒泥棒に行っちゃうのは「おいおいおいおい」って感じなのですが。

このプレミアウィスキーってのが、要は醸造所で何かの間違いで埋もれていたのが、すごくおいしくなっちゃったんですって。そんなものが、100万ポンドもするってのは、バブル感ありありなんですが、プレミアウィスキーは金持ちのオークションにかけられるので、そのくらいまで値段がつりあがるのだそうです。そういうバブルな金持ちをコケにしているようにも見えるのですが、プレミアムウィスキーのお値打ちを否定していないところもあって、その立ち位置が見えにくいのは残念でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ロビーの作戦は、プレミアムウィスキーを全部盗むんじゃなくて、瓶に4本分ほど取り出して、後に別のウィスキーを足して帳尻を合わせておけば、誰にもわからないという手口。それが意外なほど簡単に成功しちゃって、混ぜ物ウィスキーは100万ポンドで落札されちゃいます。相棒のチョンボで2本は破損しちゃうのですが、オークションで負けた方に盗んだウィスキーを1本だけ10万ポンドで売り、それを4人で山分けし、ロビーはウィスキーの醸造所の職を得て、レオニーと息子と共にダブリンを去っていくのでした。そして、残った1本のウィスキーは世話になったハリーのところに置いていくのでした。おしまい。

こういうコメディの基本にあるのは、若者になかなか仕事がない一方で、金があるところには山のようにあるという現実でしょう。特に、ウィスキー愛好会やオークションの場にアメリカ人や東洋人がたくさん登場するところにグローバル化の実態が垣間見られて、「この自由な世界で」を思い出してしまいました。ラストでロビーは盗んだウィスキーの2万5千ポンドを元手に人生を立て直そうとするわけですが、そのホラ話とリアリティのさじ加減がローチ監督の味わいなのかなって気がしました。一攫千金というわけではない、でもちょっとだけ背伸びした人生再生の物語は、何か希望を持てないとやってられないよなあっていうボヤキのようにも思えてしまいました。

演技陣では、ロビーを演じたポール・ブラニガンの元はクズだけど、今は普通に仕切りなおしたいというキャラをリアルに演じて見せました。暴力事件の被害者が出てくるあたりはかなり痛い奴だなあと思いつつ、最後に、バブルな金持ち層に一矢報いるというのがちょっとしたカタルシスになっています。私は、利き酒のスキルがどの程度のステータスになるのか、またウィスキーが、スコットランドの富裕層、貧困層でどういうポジションにあるのかはわからないのですが、そういうお国事情を知っておくとまた別の味わいがあるのかもしれません。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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