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「終戦のエンペラー」のサントラはオーソドックスなオーケストラ音楽で映画を支えています。


「戦場のエンペラー」の音楽を手がけたのは、「ディア・フランキー」で抑制のとれた繊細な音作りをしたアレックス・ヘッフェスです。ヘッフェスがニュージーランド交響楽団を指揮しています。

日本を舞台にした映画というと、昔は必要以上に和楽器を前面に出してエスニック感を出す音作りをしたものですが、時代も変わったのか、そういうステレオタイプの音は影を潜めています。それでも、ヒロインの描写に尺八を使ったり、サスペンスフルなスコアのパーカッションに和太鼓を使ったりしているのですが、メロディはあくまで、普通のドラマ音楽を鳴らしていまして、さらりと聞き流すと日本が舞台の映画だとは気づかない音になっています。

この映画は大体3種類の音楽で構成されていまして、まず登場するのは焦土と化した日本を描写するオーケストラによるドラマチックなスコア、そしてアメリカ軍による戦争責任者の捜査を描写するスリリングなスコア、そしてピアノソロを中心にしたヒロインのテーマがサブプロットであるラブストーリーを彩ります。さらに、回想シーンに流れるシンセによるアンビエント音楽と、なかなかにバラエティに富んでいます。とくにオーケストラによるスコアは、日本全体を描写する重厚なスコアに、アメリカ軍を描写するミリタリー色も入ったサスペンスフルな音楽がつながり、ドラマにメリハリをつけるがごとく前面に音が出てきます。一方で、ヒロインのテーマは静かに画面をサポートすることに徹していまして、場面ごとに押す音と引く音の使い分けが細やかに行われています。

ドラマチックなオーケストラスコアは静かに展開するドラマに対して、かなり主張する音作りになっているのが印象的でした。映画音楽はドラマを支えるだけでなく、ドラマを語るという使われ方もされるのですが、最近の映画音楽はドラマを語るのに、規制曲、特にボーカルを使うことが多く、こういうアンダースコアにドラマを語らせるのは珍しくなってしまいました。だからこそ、この映画の音楽が印象に残って、サントラ盤もゲットしたのですが、こういう絵が浮かんでくるアンダースコアって本当に少なくなっちゃったように思います。それは作曲家の問題というよりは、監督やプロデューサーがアンダースコアに要求するものが変わってきたのではないかしら。

ラストで米良良一による主題歌が流れるのですが、これが焦土の絶望の中から希望を見出そうという内容でして、日本人を戦争の被害者のように描いた歌なのにちょっとびっくり。こういう視点が生まれるのも、9.11以降のイラク戦争の正義が揺らいできて、アメリカが攻めて行った先の住民は大変な思いをしているということがわかってきたからではないかなって気がします。正義の戦争へのアンチテーゼを9.11を題材に描くのは、被害者や家族のことを思うと難しいけど、60年前の歴史としてならエンタテイメントの枠の中で描けるのではないかと。

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「パシフィック・リム」のサントラはテーマからの音楽展開が楽しい映画音楽らしいサウンド


「パシフィック・リム」の音楽を担当したのは、最近めきめきと公開作品が増えているラミン・ジャワディです。映画そのものは、オタク趣味満載だけど、ドラマ的には燃える映画。そして、ロボットが題材だけに、単なるノンストップアクションとは異なる重量感のある音が要求されるのですが、ジャワディの音楽はその期待に応える熱い音を提供しています。

まず、最近の映画には珍しいテーマモティーフを展開させているところがいいです。たった2フレーズのインパクトのあるテーマをロボットのテーマに据えています。これが2秒聞いただけで、「パシフィック・リム」だとわかるあたりは、あの「ターミネーター」のテーマを彷彿とさせます。そのフレーズから展開されるテーマ曲をベースにして、これが人間ドラマの部分では静かに、戦闘シーンでは迫力満点に展開されていきます。最近の映画音楽がシーンにマッチする音にこだわりすぎなのか、テーマ曲から展開させる音づくりが少なくなっているので、こういう音が新鮮に感じられてしまいました。

1曲めはテーマの総集編ともいうべき曲でギターが前面に出て、そこにビートを効かせたロック調に鳴らしておいて、オーケストラによるテーマフレーズが流れるというもので、そこから打ち込みとオーケストラによるRC(リモートコントロール)らしい音になるのですが、そこでいつものRC系の音のようにフルスピードで突っ走らないで、あくまでロボットの重厚な動きに合わせて間を置いた音になっていまして、巨大ロボットの動きのアクションをリードするのではなく、あくまで支える音になっているのがうまいと思います。その後も、ドラマ部分の音にもテーマ曲がアレンジされて使われていて、ストレートに展開するドラマの盛り上げに成功しています。

しかし、やはり主人公のロボの戦闘シーンで負けそうになったところから逆転に出るところで、テーマが最大ボリュームでババーンと鳴るあたりのうまさは、ヒーロー映画のツボを心得た音作りになっていまして、その盛り上げどころのうまさが、この映画を燃える映画に仕上げていると言っても過言ではありません。ドラマ部分の静かな音作りの緩急も見事で、そのメリハリのある音がきちんとシーンではないドラマを支えているのも点数高いです。

「スマイル・アゲイン」は演技陣のアンサンブルは楽しめるけど、結末が釈然としない。


今回は有楽町スバル座で、新作の「スマイル・アゲイン」を観てきました。ここは全席自由で、スクリーン前の幕の開閉もやってます。上映中の非常灯もつけっぱなしという、有楽町駅前という立地にしては、昭和テイストにこだわる映画館。上映前のアナウンスも「最後までごゆっくりお楽しみください」のところを「最後までごゆるりと」と言うのもマル。後、このどうってことない映画なのに、スクリーンの幕が閉まって場内が明るくなるまで、ほとんどのお客さんが席に座ってるのにはちょっとびっくり。常連の映画ファンがたくさんいるのかな。

ジョージ(ジェラルド・バトラー)は元サッカーのスタープレーヤー。怪我で引退してからは、その日の金にも事欠く暮らしっぷり。元妻ステイシー(ジェシカー・ビール)と息子のルイスのいる町に引っ越してきて、週末は息子と過ごすようになります。ステイシーにはマットという恋人がいて結婚が間近に迫っていました。ジョージは息子のサッカークラブでシュートを教えたら、そこにいた父兄から好評で、クラブのコーチを頼まれて引き受けざるを得なくなります。元スタープレーヤーで二枚目なジョージに子供たちのママ連がワクワク、本気でモーションかけてくるママもいて、結構コーチも大変、そのうちのデニース(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)やバーブ(ジュディ・グリア)とは寝ちゃうし、デニースとキスしてるところをルイスに見られて嫌われちゃったりと何やってんだこいつは? そのくせ結婚を間近に控えたステイシーにルイスをだしにして接近して、ヨリをもどそうとしているみたい。スポーツキャスターになりたいジョージはデニースのつてでデモ映像を作ってテレビ局に送ったらこれが意外と好評。その一方で、ステイシーにさらに接近。もともとは愛し合っていた二人だけに、ステイシーは動揺しまくり、果たして目前の結婚をキャンセルして、ヨリを戻してしまうのか。

ロビー・フォックスの脚本を「幸せのちから」のガブリエレ・ムッチーノが監督した、コメディタッチの恋愛ものです。元サッカーの名選手が落ちぶれてしまって、離婚した元妻の近くに住むようになり、子供と週末を過ごすようになります。そして、子供のサッカーチームのコーチになるという展開は、なかなか面白いです。ママ連から注目されちゃって、マジで言い寄られてアタフタするというコメディなのかと思ってたら、ジョージがママ連とうまいこといたしちゃうドンファンぶりでびっくり。その後も意表をつく展開が続いて何じゃこりゃと思っているうちに、えー、そんなオチかよーという結末で、唖然とさせられちゃいました。これは、私が保守的なオヤジだからそう思ったのかもしれませんが、どうにもジョージに共感できなくて、釈然としない後味が残ってしまいました。

コメディとしてはなかなか楽しいのですよ。特にジョージに色目を使うママ連が、キャサリン・ゼタ・ジョーンズとジュディ・グリアにユマ・サーマンとなかなかに豪華。ジュディ・グリアのコメディエンヌぶりも笑えましたし、キャサリン・ゼタ・ジョーンズの颯爽とした姉御ぶりもマル。さらに、ユマ・サーマンのお色気ぷんぷんの有閑マダム(死語かな)ぶりもいつもと違うキャラで楽しめました。また、ユマ・サーマンのダンナでジョージを振り回す成金風金持ちがデニス・クエイドの変な奴ぶりもおかしかったです。正統派二枚目だった筈のクエイドですが、この前観た「ムービー43」といい、この映画といい、変なキャラの人になっちゃったのかしら。また、ごひいきジェシカ・ビールが分別ある素敵な女性を魅力的に演じてまして、ますますファンになっちゃいました。

特にシングルマザーで出会い系サイトにも登録してるバーブがあからさまにジョージに言い寄ってきて、夜、家の前で待ち伏せして中まで入ってきちゃうのですが、どこか浮き足立っちゃってるのがおかしく、最後には別カレを見つけるまでを、ジュディ・グリアがオーバーアクトに演じて、結構な存在感を見せてくれます。一方のジェシカ・ビールがリアルな女性を細やかに演じてまして、一方、キャサリン・ゼタ・ジョーンズはジョージとの恋愛に発展してもおかしくないポジションと演技ぶりでした。色々なキャラが放り込まれているという点では面白いのですが、全体のドラマとしての統一感が感じられないのは、ムッチーノの演出のせいなのかも。

サッカーチームを通じた息子との関係修復と、ママ連とのドタバタコメディで引っ張るのかと思っていると、後半は、私にとってはまさかの展開になってきます。それは、結婚直前で幸せいっぱいの筈のステイシーが、ジョージが言い寄ってくるのに心が揺らいでしまうのですよ。結婚相手のマットは悪い奴ではなさそう、むしろ子供をかわいがってるし、ジョージが息子に会うことにも寛容ないい人。そんなゴールイン寸前のカップルに割り込んでくるジョージどうなのって、おじさんお怒りモードになっちゃいました。離婚した夫婦がよりを戻すという話にしても、このやり方はないよなあって。息子のルイスを取り込んで、息子に仲を取り持たせるあたりもやり口が汚い。ジェラルド・バトラーはダメ人間を演じていたと思っていたら、いつのまにか何でもありのオールマイティのキャラになっていて、バトラーのファンにはいいかもしれないけど、共感できる物語が欲しい私には、何だこのオレ様感は?って気分になっちゃったのです。ですから、コメディとしては笑えるのですが、ラブストーリーとしては笑えない映画になっちゃいました。演技陣のアンサンブルは楽しめましたし、主演のバトラー以外はそれぞれのポジションをきちんと演じていて、そこはマルなんですが、やっぱり主人公に共感できないのは痛いよなあ。特に、主人公がダメ人間として登場するのですが、映画が終わるまで何も成長していないように見えるのですよ。不動の主人公に周囲が振り回されてるだけのように見えると言ったら酷いかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(ほとんど書いちゃってますけど)



ジョージはデニースのつてで、コネティカットのテレビ局にスポーツキャスターの職を得ます。一方で彼はステイシーを食事に誘い、昔話に花を咲かせて、じわじわと彼女の気持ちを自分に向けようとします。最初はステイシーは理性でそれを受け流しているのですが、ジョージは、ステイシーがウェディングドレスの試着をしているところに乗り込んで、息子と3人でやり直そうと言い出します。心がジョージに傾いてきているステイシーは、泣きながら彼を距離を置こうとしますが、婚約者のマットは彼女の気持ちを察していました。ジョージはコネティカットに旅立つ日、ステイシーとルイスに別れを告げて車を出すのですが、途中でUターンしてルイスのもとに帰り、ずっと一緒にいると宣言。ステイシーが出てきて、結婚式は中止したのと告げ、3人でサッカーして、めでたしめでたし。何じゃこりゃ?

人それぞれの感想の持ち方がありまして、私のように感じる方は少ないとは思いますが、これって、クズの元亭主が子供をダシにして、再婚直前の元妻と強引にヨリを戻したって話ではないかと。ジョージがステイシーの近所に引っ越してきたもので、周囲がみんな引っ掻き回されちゃうというのは、こいつ疫病神じゃね?と思ってしまうのですよ。ラストでコネティカットのテレビ局の仕事をキャンセルして地元のローカル局のスポーツキャスターになるという後日談も出てくるのですが、それってデニースの好意を踏みにじって、彼女の顔をつぶしてね?と、どうにもこいつ最後までダメじゃん。うーん、ジェラルド・バトラーが嫌いってわけじゃないんですよ。「完全なる報復」みたいな映画でも、そこそこ共感できましたもの。でも、この映画は、ステイシーとマットが何だかかわいそ過ぎるのですよ。それに、ステイシーとヨリを戻したいと思う一方で、ママ連と寝てたジョージですから、この先もきっとママ連と浮気するんでないかい? 前半の展開から、まさかこんな結末になるとは予想外でしたが、向こうでは、こういう主人公でもヒーローとして受け入れられるのかなあ。

「素敵な相棒」はロボットと人間の関係性についてのサンプルと思うと結構面白い。


今回は新作の「素敵な相棒」を有楽町角川シネマで観てきました。駅のすぐ側という立地のよさの割りに地味なラインナップを上映する映画館です。

元宝石泥棒のフランク(フランク・ランジェラ)は一人暮らし。娘のマディソン(リブ・タイラー)は海外生活が長く、週末に様子を見に来てくれる息子のハンター(ジェームズ・マースデン)は父親が言うこと聞いてくれないので、いい加減面倒みきれない状態。図書館に通うのが趣味のフランクはそこの司書ジェニファー(スーザン・サランドン)に気があります。ある日、ハンターはフランクの身の回りの世話をするヘルパーロボットを持ってきます。それを使うか施設に入るかどっちかだと宣言されて、仕方なくフランクはロボットと暮らし始めます。食事とか運動とか健康にうるさいロボットにも慣れてくれば、ロボットとの生活も悪くない。趣味を持てというロボットに、フランクは昔の泥棒家業に手をつけようと思いつきます。善悪の判断をしないロボットに錠前破りを仕込んでみれば、これが飲み込みがいい。そこで図書館に忍び込み、古いお宝本を盗んでジェニファーにプレゼントしようと思ったものの、渡す機会を逸します。図書館はデジタル化されることになっていて、紙の本が処分されつつありました。それを推し進めるITコンサル野郎が大嫌いなフランクは、彼の家にある高価は宝石に目をつけて、ロボットと一緒に計画を立てるのですが、そこへロボットが嫌いなマディソンが、パパのためにと家にやってくるので、ちょっと調子がくるってきちゃうのでした。

これが長編映画1作目になるクリストファー・D・ウォードが脚本を書き、同じく長編映画デビューとなるジェイク・シュライヤーがメガホンをとりました。年を取って、体は元気だけど、物忘れが激しくなった老人と、息子が持ってきたヘルパーロボットとの心の交流をほのぼのと描くハートウォーミングな映画、と予告編では思わせていたのですが、実際はもっと別の視点が見えてくる映画でした。ロボットと人間の違いについてこういう見せ方もあるのかと感心する一方で、何か釈然としない部分が残るという感じでしょうか。

フランクは一人暮らしの老人で、それほど金に困っているようには見えないのに、犬の形をした石鹸をしょっちゅう万引きしては店員にマークされてたりします。これが元泥棒らしくて、保険会社が困るところからしか盗まないから、自分は悪くないみたいなことを言ってます。私の感覚からすると、店員にマークされている万引きジジイなんて同情の余地なしなのですが、この映画では、そういうフランクをあえて共感を呼ぶ主人公という描き方をしていません。フランクの子供たちも、いいところも悪いところも両面を持った人間という描き方をしていまして、そのリアルな人物設定は、ロボットと人間の交流というファンタジーとは一線を画しています。今やロボットが出てくればSFというわけではなく、ロボットがヘルパーとしてリアルな人間生活の中に入り込むのは絵空事じゃないよというスタンスのようなのです。

では、日々の生活の中でロボットはどのような立ち位置になるのでしょうか。この映画では、まず家事全般をやってくれます。さらに健康管理もやるのですが、早起きさせたり、食事のメニューも決めるし、運動もさせる、ある意味、人間の方を管理しようとするのです。さらに、趣味を持った方がいいですよ、とメンタル面まで口出しをしてきます。人間に隷属するロボットという概念は過去のもののようです。さらに、意外だったのが、偏屈万引きジジイのフランクがロボットとの暮らしに結構馴染んでしまうということ。へえ、ロボットに管理されるのも慣れれば悪くないのかもと感心する一方で、それもどうなの?というあまり具体的でない突っ込みが入ってしまいます。

とは言え、息子のハンターにしてみれば、ロボットは父親の監視、管理者として大変有能と言えましょう。ロボット嫌いのむすめのマディソンも、部屋の掃除には使っちゃいますから、彼女にとってロボットは有能な家政婦となります。フランクにしてみれば、単に小うるさいのではなく、料理もうまいし、泥棒技術を教えたら優秀な生徒でもあり、さらに倫理観を振りかざして盗みをとがめることもしません。いい話相手であり、泥棒仕事のときは有能な相棒になってくれるのです。それまで孤独に暮らしてきたフランクの生活に張りが出てくるのです。また、フランクがちょっかい出してる司書のジェニファーは別のタイプのロボットを仕事のサポーターとして活用しています。人間の立ち位置や思うところは様々ですが、ロボットが役に立っているというのが、この映画からは伝わってきます。人間の感情に対してロボットは踏み込まないというルールでもあるのか、ひたすら合理的ではあるのですが、それが人間にとって不快にはならないのです。フランクは単なる機械以上の親しみをロボットに感じるようになります。

そうは言っても根は泥棒のジジイですから、宝石を盗むべくロボットを連れて下見に行き、ある晩まんまと宝石を盗み出すことに成功します。趣味を持つなら、もう少しまともな趣味にしやがれと思うのですが、万引きが普通の行動のジジイに何を言ってもムダ。息子のハンターは自分の父親が泥棒であることを恥じているようですが、それでも、毎週遠距離から様子を見に来るのが偉い。でも、フランクはそんなハンターよりも娘のマディソンの方がかわいいのです。そんなマディソンは、外国にいて父親のことはハンターに任せきりなのに、ハンターがロボットを買ったのはひどいなんて文句つける、かなりやな奴。この3人の関係が妙にリアルで、老いた親の面倒を誰が見るか揉めてる人には他人事でない不快感を感じるかもしれません。そんな面倒な関係にある3人に共通しているのは、ロボットが好ましい存在であるということ。ロボットの会社から、資金援助をもらって作ったんじゃないのと思えるくらい、ロボットと人間のいい関係が描かれていますが、そのおだやかでニュートラルなポジションをキープする様は、なかなか生身の人間にはできないことだよなあって感心。その上に家事とか色々なスキルもついてるのですから、ある意味完璧な人間の有り様の一つと言えるのではないかしら。

でも、人間との相違点もありまして、この映画に登場するのは、メモリが一気に全部クリアできてしまうということ。宝石泥棒の件で警察が聞き込みにやってきて、これはやばいと計画書などの証拠を処理するのですが、ロボットのメモリには、彼が盗みに加担したことが残されているのです。部分的に消せるほど利口なロボットではないので、リセットすると全部消えちゃう。それはやだなあと思ってフランクはロボットと逃亡を図るのですが、ロボットから「メモリが消えても最初から同じようにやってくれれば復活するよ」って言われて「あ、そうなの?」とリセットボタンを押してしまうのでした。

記憶がその人のアイデンティティとなり得るのかどうか、この映画はこの点からも面白い視点を提示しています。というのも、フランクはボケが始まっているのか、時々記憶が怪しい言動をするのですよ。息子の名前忘れたり、とうの昔につぶれたダイナーのことを何度も口走ったり。メモリが不良品のロボットなんて使いものにならないと処分されそうですけど、人間の記憶が多少飛んでしまったとしても、当人が返品されたり処分されることはありません。では記憶ってのは、その人を識別するために重要な要素じゃないの?ってことにもなるのですが、ロボットはそこのところをあんまり気にしてない、一方のフランクはロボットのメモリをリセットすることで、友人関係だったロボットがいなくなっちゃうんじゃないかと危惧します。人間にとっての記憶、思い出は人生にとっては貴重なものだと思ってるけど、それがなくなっても人間失格ではないし、生きてもいけるんだよっていう視点は納得しちゃうものがありました。これはメモリが消去されると無になっちゃうロボットとの比較で見えてくるポイントなのですが、この記憶と人との緊密度がどうなんだろうってことは、問題提起はされるものの、映画の中ではその解は見せてくれませんでした。

でも、人間とロボットは違うよねってところで映画は終わります。ロボットの限界を見せるわけではありませんし、未来の可能性を摘み取るわけでもありません。ただ、ロボットに全ての人間関係をカバーできないし、ロボットに依存しきっちゃうのもダメだよねという見せ方は意外とまっとうな落としどころになっています。でも、もっと意外だったのが、フランクを主人公と呼ぶには共感できないキャラだなあと思ってたら、ロボットのほうに感情移入できちゃって、こっちが主人公なのかなって後で気づいたということ。タイトルが、「Frank and Robot」じゃなくて「Robot and Frank」だったんだなあって。ロボットを中心に据えた家族の物語だと思うと構成とかキャラづけにも腑に落ちるものがありました。

演技陣では、フランク・ランジェラ、ジェームズ・マースデン、リブ・タイラーが各々クセのある人間臭いキャラクターを好演しています。さらにロボットの声をピーター・サースガートが担当し、やさしさとユーモアを感じさせるキャラを作り上げていました。スーザン・サランドンは後半の出番が少なかったのが残念でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



宝石泥棒の容疑で警察が家捜しにやってくるのですが、それを何とか切り抜けてロボットと一緒にジェニファーの家を訪ねます。すると、そこには若い頃のフランクが若いジェニファーと並んだ写真がありました。実は、ジェニファーはフランクの奥さんで、ハンターやマディソンの母親だったのです。フランクは記憶の欠落で、彼女が自分の妻だとは気づかずに口説いていたのでした。ロボットは犯罪の証拠を消すためにも自分のメモリをクリアするように進言します。最初は拒否していたフランクですが、また最初から仕込めば大丈夫だよと説得されて、メモリリセットのスイッチを押します。そして、フランクは施設に入所します。時に記憶が飛んで息子がわからない時もあるのですが、それでもジェニファー、ハンター、マディソンが訪れるとうれしそうなフランク。そして、盗んだ宝石の隠し場所を書いたメモをハンターに渡すのでした。その施設の入所者には、みんなロボットがヘルパーとして寄り添っているのですが、フランクはロボットなしの暮らしを選択したのでした。めでたしめでたし、なのかな?

エピローグではロボットが登場しないのも意外でして、あれだけロボットとうまく折り合えたフランクが施設での生活にロボットを持ち込まなかったのはなぜなのかなってところは色々な解釈が可能だと思いました。ロボットに依存するのはやめようと思ったのか、記憶を失っていく自分とロボットの境遇が重なって一緒にいるのがつらくなったのか、それともロボットと一緒にいた記憶がなくなっちゃったのか。うーん、どれも当たってない気がします。なぜ、フランクは余生をロボットと過ごすことをやめたのかしら。

ロボットと人間の関係というと、昔のSFだと奴隷やしもべの扱いか、或いは反乱を起こしたロボットと人類の戦争状態とか、極端なものが多かったのですが、この映画で描かれるのは、ほどほどの距離感、そこそこの依存度という微妙なレベルのパターンがいくつもあるという見せ方です。それだけ、人間とロボットが近づいてきて、色々な関係を築けるようになってきたということもできますし、その一方で、人間がきちんと自分で関係を選択しないと、傲慢になったり、べったり依存したり、人としての有り様も揺らいじゃうくらいの存在感になってくるよってお話なのかも。まあ、それってロボットより先に携帯電話と人間の関係で見えてきたことでもあるのですが。

「ムービー43」は有名スターによる下品ネタてんこもりの映画でバカに付き合える人にオススメ。


今回は新作の「ムービー43」をヒューマントラストシネマ渋谷3で観てきました。初めての映画館だと思ってたら、何やらデジャヴ感ありまして、ここって、7年前に「2番目のキス」を観た渋谷アミューズCQNでないかいって気付きました。座席数60で、座席の配置とスクリーンの位置が微妙にずれてる、その昔のシネ・ラ・セットみたいな映画館。

以下、このお下劣映画をそのまんま記述してますので、下ネタ嫌いな方はパスした方がよいです。



映画プロデューサー、グリフィン(グレッグ・ギニア)のもとに、ちょっと危ない感じのチャーリー(デニス・クエイド)が映画のシノプシスを持って売り込みに来ます。まずは、ケイト・ブランシェットがヒロインのブラインドデートのお話。二枚目セレブ(ヒュー・ジャックマン)とレストランに会ってみれば、彼ののどに玉袋がぶらさがっていてびっくり。周囲の人間はそれにまるで気にしていません。ああだこうだとお下品な展開から、ケイトの顔にヒューの玉袋がベタ...。って、こんなの使えないだろというグリフィンにさらにチャーリーが話し出したのは、愛の表現として「私の上にうんこして」というジュリー(アンナ・ファリス)のお話。そんな話ばっかりで、いい加減に頭に来たグリフィンが帰れというとチャーリーは銃やら手榴弾で脅してきます。仕方なく他のシノプシスも聞くことになるのですが、初潮を迎えちゃった女の子(クロエ・グレース・モレッツ)がボーイフレンドやその家族に突っ込まれまくる話とか、ヌードのリアルドールな形の音楽プレーヤーとか、そんなのばっか。

「メリーに首ったけ」のピーター・ファレリー監督が企画した、オムニバスコメディです。短いエピソードの羅列という構成は、その昔のジョン・ランディス監督の「ケンタッキー・フライド・ムービー」を思い出させます。ブラックなネタ、人種差別ネタ、下品ネタ、そしておっぱいが登場するという共通点があるので、多分意識して作られたのではないかしら。そして、監督陣にファレリーの他に、ジェームズ・ガン、グリフィン・ダン、ブレット・ラトナー、スティーヴ・カーなどなどが参加。出来栄えは玉石混交という感じなのですが、そこは観る人によって評価が分かれそう。私はウンコやチンコといった小学生レベルの下品ネタが好きなのですが、「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンの喉に玉袋がぶら下がってたら引く人もいるよなあ、きっと。キャスティングが妙に豪華なのもミソでして、変態的な子育てをするナオミ・ワッツとリーブ・シュライバー、初デートの相手と「トゥルース・オア・ディア」ゲームで盛り上がって整形までしあっちゃうハル・ベリー、ラブドールiPodの社長がリチャード・ギア、拉致されてボコボコにされる小人のレプリコーンにジェラルド・バトラー、元彼のバイトしてるスーパーでエロい会話で盛り上がるエマ・ストーンといったメンツが、下品ネタをやりきります。単に顔合わせだけでなく、吹っ切れたお下劣芸はなかなかに見ものでした。とは言え、アメリカでは大コケだったようで、日本での(細々と)公開では、そのコケっぷりを売り文句にしているくらいで、もうカルト映画でしか売りどころがなさそうな感じ。

この映画のルーツと呼ばれるのは「ケンタッキー・フライド・ムービー」というオムニバスのコメディ。これは、パロディを中心にブラックネタ、差別ネタ、セックスネタを脈絡なく盛り込んだもの。もともと安い映画でして、この映画のような豪華キャストに豪華スタッフを使っておらず、その安っぽさも映画のテイストに取り込んでいたのですが、この映画はかなり贅沢なつくりになっておりまして、その贅沢さと内容の下品さのギャップを狙ったところがあります。例えば、冒頭のエピソード、喉に玉袋を持つ二枚目とのデートというネタも、スターのヒュー・ジャックマンがやるから下品さに耐えられるのであって、これが無名の役者だったら、深夜番組のコントネタにしかならないでしょう。そういう意味でネタとして面白くやりきっていたのは、ウィル・グレアム監督の変態家庭教育のエピソードと、ラスティ・カンデッフ監督の黒人バスケットボールチームのエピソードでしょう。前者は息子を家に閉じ込めて精神的に虐待して、おかしくしちゃうというブラックな笑いなのですが、そのバカバカしい語り口が楽しく、かなり笑えました。後者は、黒人バスケチームの監督(テレンス・ハワード)がやたらと肌の色にこだわったアジテーションをしてチームを勝利に導くという差別ネタのひねり版。ラストは白人チームと黒人チームの試合で、白人チームが完膚なきまでに叩きのめされて、最後に1点とったところを感動の結末にするという、オチまでひねりが効いていて面白かったです。後、突き抜けたバカ下品度という意味で、スティーブ・カーの「私にウンコして」カップルのエピソードも捨てがたかったです。これは、そこまでバカやらないだろというハードルを強引に乗り切った力技に感服。こういうことをやっても違和感のない「最終絶叫計画」のアンナ・ファリスが期待どおりの演技を見せてくれます。一方、スーパーのレジで、店内マイクのスイッチがオンになったまま、ヨリを戻す会話をするという、グリフィン・ダン監督のエピソードは割りと普通のコメディ(この映画の中では)になっています。

作り手がやりたい放題やっていることは伝わってくるのですが、そのベクトルが必ずしも観客に向いていないところがありまして、そこがアメリカでコケた原因ではないかという気がしています。割とメジャーなスターを使っているという部分は不特定映画ファンを対象にしているようでもあり、その内容の下品さはマニア向けであり、とんがった笑いの部分はオタク向けです。ターゲットがあやふやなまま、作り手がコンセプト決めないで、各監督が好き勝手に作ったら、どのターゲットにとってもイマイチな感じになっちゃったという気がします。確かに下品な笑いという部分では突き抜けたものがあるのですが、そういうのって基本的にマイナーなものなので、それをメジャーでやるのには、工夫が必要なのではないかしら。事実、笑っちゃたところもいっぱいあったのですが、私の下品耐性が強かったからだと認識してまして、場内の私も含めた笑いはまばらで、こういう映画を素直に(?)楽しめるのはそれほど多くはないように思えました。クロエ・グレース・モレッツ嬢が出てると思ってスクリーンに臨んだら、初潮の経血を壁になすりつけて、ボーイフレンドに「キタネ!」とか言われてたら、笑いより引く人も結構いるのではないかしら。

そんなわけで、大々的に公開して、大絶賛を呼ぶ映画ではありませんので、お好きな方にのみオススメの映画に仕上がっています。でも、これが好きだと宣言すると、変な人に思われる可能性もあります。私も匿名のブログですから、こういうの大好きと書けますが、身内には、ちょっと見栄張って「ビッグネームが下品ネタをやる、サッシャ・バロン・コーエンみたいな映画かな」とサブカル風な斜め上からこの映画を説明しちゃうだろうなあ。正直、志は「ボラット」や「ディクテーター」ほど高くないですから、こっちの方は。

「最愛の大地」はリアルな事実と普遍的な戦争の悲劇の両方を描ききって見応え十分。


今回は新作の「最愛の大地」を109シネマズ川崎9で観てきました。新作と言いつつ2011年の作品なんですよね。劇場公開にこぎつけたのは、彩プロという、VシネマのDVDを山ほどリリースする一方、「故郷よ」「魔女と呼ばれた少女」なんていう気になる映画の配給をしているところ。IMDBの評価は4.4とかなり低めでして、どういうものか気になってました。

ボスニア・ヘルツェゴビナ、ムスリム系ボスニア人で画家のアイラ(ザーナ・マリアノヴィッチ)には、警官の彼氏ダニエル(ゴラン・コスティック)がいました。そして、ボスニア紛争が始まり、アイラのアパートの住人はセルビア軍に狩り出され、男は銃殺され、若い女性を中心に収容所に送られてしまいます。その中にもアイラがいました。彼女たちを待っていたのは、セルビア軍兵士の身の回りの世話、そして民族浄化と呼ばれるレイプでした。その兵士の中にダニエルもいました。彼は軍の上位将校ということで、彼の保護によりアイラはレイプを免れるのですが、ダニエルが異動となり、身の危険を感じたアイラは収容所を脱走。そして偶然知り合いと出会い、パルチザンのアジトに案内され、姉との再会を果たします。そして、パルチザンの一人がセルビア軍に密告した結果、アイラは軍に連れて来られ、ダニエルの専属画家として軍の宿舎の中に広い部屋と食事が確保されます。一方、セルビア軍とムスリムの戦闘は続き、どちらにも犠牲者が出ていました。ある日、ダニエルがムスリムの女を囲っているという噂を聞いて、ダニエルの父親である将軍が彼女の部屋にやってくるのでした。

国連難民高等弁務官事務所の親善大使でもあるアンジェリーナ・ジョリーが脚本を書き、初メガホンをとりました。初監督作品として選んだ題材がボスニア・ヘルツェゴビナ紛争というのは、かなりのチャレンジと言えましょう。それに自分は出演していません。そこには、スターとしてのネームバリューでこの映画に客を呼んで、この20年ほど前に起こった恐ろしい出来事へ目を向けてもらいたいという意図が感じられました。ただし、映画は単に、この紛争で男たちが無造作に殺され、女性たちが虐待された事実を2時間余に渡って、これでもかと見せつける映画ではありません。恋人同士だった二人がこの紛争によって引き裂かれる話をドラマの中心に据えて、その背景として、虐殺やレイプが描かれています。R15指定ですが、えぐい残酷シーンやレイプシーンの直接描写はありません。ただし、死と隣り合わせの緊張感がリアルに描かれていまして、リアルな戦場の怖さを運んできます。

冒頭で、クラブでダンスを踊るアイラとダニエルの幸せそうなところへ、突然の爆発が起こり、周囲は死傷者で埋まります。この爆発の犯人は映画の中では明確には語られないのですが、ムスリム側の犯行ではないかと匂わせるところがありました。それからしばらくして、アイラのアパートに武装したセルビア軍がやってきます。彼らは住人を表に出させて、男はまとめて皆殺しに、女性の一部を軍の宿舎である学校へと連れて行きます。校庭に並べさせられた女性たちは金品、上着を奪われ、その何人かはその場でレイプされます。その様子を見ていた将校のダニエルがアイラを見つけ、彼女がレイプされないように取り計らうのでした。他の女性は何かあると呼び出されてはレイプされていましたが、アイラは将校のお気に入りということで難を免れていました。ここまではドラマの入り込む余地のない凄惨な描写が続きます。ムスリムは町を歩いているだけで射殺され、女性は死の恐怖により、人としての尊厳が踏みにじられます。ダニエルはこれまで隣人であったムスリムを問答無用に虐殺し、女性をレイプすることにためらいがありました。しかし、父親の将軍は、これまでの歴史からの当然の帰結だと言い、セルビア軍より強力な軍隊はこの近辺にはいないし、国連も介入できないと言い切ります。

それにしても、セルビア軍の非道ぶりは目に余るものがあります。しかし、その一方で兵士の一人は「もうすぐ子供が生まれる。今、我々が戦うことで、子供たちが戦う必要はなくなるよな。」とダニエルに言います。非道なことをする人間にも、人としての心があるのだというシーンではあるのですが、逆の見方をすると、よき父親、よき家庭人でも、虐殺やレイプを行えるということです。それは、私たち日本人でも最悪のTPOが揃ったとき、セルビア兵と同じことをしてしまう可能性があるということになります。これは恐ろしいことです。確かにセルビア兵のやった行為を非難することも必要ですが、人はその場の成り行きで、どんなひどい行動をとることができるということを肝に銘じる必要もあります。自分がセルビア兵の立場に立ったとき、異民族だから、宗教が違うからという理由を盾に、無造作に人を殺し、喜々としてレイプするかもしれないのだと思うと、加害者にならない人間の尊厳の重要さを再認識しました。自分は絶対あんなことをしないと断言するより、ああなるかもしれないから気をつけようというほうが現実的だと思います。

アイラはダニエルの異動を機に脱走を図ります。一度は失敗してボコボコにされちゃうのですが、2度目は成功し、同じアパートにいた人間に出会い、その隠れ家で姉とも再会します。姉の子供は、姉のいない時にセルビア兵に踏み込まれ、泣き叫んでいたのをみとがめられるのを恐れた住人によって殺されていました。そのシーンでは、ちょっとでも反論した人間はためらいなく撃ち殺されていましたから、その死の恐怖、何人もの命が巻き添えになることを恐れての行動を責めることはできません。大戦後の大陸からの引き揚げ時にも同様の痛ましい子殺しがあったというのを読んだ事があります。

それまで愛し合っていたアイラとダニエルの関係は紛争によってついえてしまったのでしょうか。この映画ではそこがテーマになっていまして、二人の愛情の行き着く先がドラマのクライマックスとなっています。ドキュメンタリータッチでボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を描く前半では、アイラとダニエルの恋人同士という設定は、事件を説明するためのサブプロットのように思えるのですが、後半になるにつれ、二人の愛情ドラマが前面に出てきます。そして、そこから普遍的な戦争の悲劇が見えてくるところが圧巻でした。この映画の脚本はアンジェリーナ・ジョリーのオリジナルだそうですが、そのドラマとしての語り口の見事さには感心させられました。ハリウッド映画のような善悪を明確に色分けすることなしに、情念と現実の狭間を描いて、ヨーロッパ映画のような味わいに仕上がっています。実際に紛争の当事者であった役者を多数キャスティングした、ノースターの映画ですが、それがまたリアリティを支えていると言えましょう。また、このような虐殺やレイプの状況を介入できずに放置した国連やアメリカへの批判も盛り込まれています。アンジェリーナ・ジョリーの強い思い入れの感じられる映画ですが、新人監督はきちんと見応えのあるドラマを語り、問題提起もするというハリウッド映画のよい伝統を踏襲している点も指摘しておきたいと思います。

「マッドマックス2」「ダンス・ウィズ・ウルブス」のディーン・セムラーのキャメラは、紛争のシーンは手持ちキャメラを多用したリアルな絵を切り取る一方、アイラとダニエルのシーンでは現代絵画のような凝った構図を積み上げています。その違いの意味がラストでわかってくるあたり、アンジェリーナ・ジョリーの演出は見事だと思いました。物語は1992年から1995年までのかなり長期に渡るのですが、その時間感覚がつかみにくいところが今一つの部分でしょうか。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



密告者の証言によって発見されたアイラは、ダニエルにより兵舎に1室を与えられ、ダニエルの専属画家として優遇されることになります。度々、体を重ねる二人の間には、ある種の緊張をはらみながらも、紛争前の愛情がまだ残っているように見えます。そんなある日、ダニエルの父が彼女の部屋を訪れ、自分が幼い頃、ムスリムの兵士によって親兄弟を殺されたという話をして、その後、セルビア兵に彼女をレイプさせるのでした。父親の世代はムスリムに対する復讐心があり、息子のダニエルの世代には、隣人としてのムスリムがいたのだというところで、この紛争が復讐の連鎖であることがわかってきます。ダニエルには、父親のムスリムに対する憎悪が理解しきれていないこともわかってきます。

戻ってきたダニエルは事情を知って、レイプした兵士を連れ出して射殺します。ある晩、ダニエルはアイラにドレスを着せて、サラエボの美術館でデートをします。しかし、そこに呼び出しがかかり、再び前線に出ることになり、無事に生きていたら水曜日の夜、アイラの食事を抜きにすると告げます。なぜかと問うアイラに水曜には、生き残った兵士が教会に集まるからと答えます。呼び出されて行った司令部で、ダニエルはNATO軍によるセルビア地域への大規模な空爆が始まることを知ります。空爆に耐えながらダニエルは生き延び、教会に他の兵士とともにやってきます。たまたま教会の外に出た一瞬爆発が起こり、教会は吹っ飛びます。兵舎に戻り、問い詰めるダニエルに「ごめんなさい」と泣くばかりのアイラ。ダニエルは怒りに任せてアイラを射殺します。そして呆然とした表情で国連軍の兵士の前に立ち「戦争犯罪者として投降する」と言いひざまづくのでした。

アイラはダニエルから情報を得るためにわざと彼に見つかるようにして、囲われることに成功し、1年以上費やして、反撃のための情報を得たのです。では、アイラのダニエルに対する愛情が一切なくなったのかといえば、そうだとも言えないのですよ。ダニエルは自分の立場が危うくなるのも構わず、彼女を守ろうとしています。そして、何より彼女を信じたい気持ちがあり、それはアイラにも伝わっていました。そんな二人の綱渡りのような愛情も、集団対集団の憎悪によって潰されてしまったのだと解釈しました。アイラはスパイ行為の結末がダニエルを裏切ることと知っていてもどうすることもできず、裏切られたダニエルはアイラへの愛情よりも、同胞を殺された憎しみに支配されてしまうという構図が見えてきます。最後に、ダニエルは愛するものと信頼してきたものを一度に失い、茫然自失の状態で投降します。それは、最悪の結末でありながら、復讐の連鎖を断ち切るかすかな希望のようにも見えます。戦場の恋はこれまでに何度も映画になりましたが、この映画は「愛は負ける」というお話であり、だからこそ、反戦の主張が明確になったように思います。アイラとダニエルの関係は、戦争によって踏みにじられる愛情という、普遍的な戦争の残酷さを表しているのではないかしら。だからこそ、二人のシーンは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に限定された話ではないことを表現するために、意識的に絵画的な絵作りになっていたのだと思います。

重いテーマを前半でリアルな戦争告発ものとして、後半を戦争での悲恋物語として見せた構成は大変見応えのあるものでした。IMDBでの評価は低いのですが、私はこの映画好きです。リアルな死の恐怖と女性虐待描写があるので、全ての人にオススメするのはためらわれるのですが、なぜ殺戮の連鎖が終わらないのか、どうすれば、人はもっとマシな選択ができるのかという問題提起には耳を傾ける価値があると思います。

「パシフィック・リム」は暑い夏を乗り切るにふさわしい熱い映画


今回は、新作の「パシフィック・リム」を丸の内ピカデリー3で観てきました。3Dと2Dの交互上映でしたけど、やはり観るなら2D。この類の映画には珍しくビスタサイズでした。

2013年に海底から怪獣が現れ、都市を破壊します。そんなことが度重なったため、対怪獣兵器として、イェーガーと呼ばれる、搭乗者操縦型ロボットが開発され、現れる怪獣を次々とやっつけていきます。操縦の方法は操縦者2人でイェーガーに乗り込み、脳をリンクさせて操縦者のアクションとイェーガーのアクションをシンクロさせるというもの。ローリー(チャーリー・ハナム)は兄と共にジプシーデンジャーに乗り込み、マニラに出現した怪獣に闘いに挑むのですが、怪獣によって操縦室を攻撃され、兄は死亡。それから、5年間ローリーは世界をさまよっていたのですが、ペントコスト将軍(イドリス・エルバ)に再度イェーガーに乗り込むように言われます。怪獣はどんどん進化してきていて、最初は無敵だったイェーガーも次々に破壊され、30体あったのが今残るのは4体だけ。イェーガー・プロジェクトも関係国からの支援を打ち切られ、最後の闘いの場を香港に置くことになります。しかし、このままでは怪獣に人類が滅ぼされてしまう。人類を救うためには、怪獣が現れる海底の異次元トンネルを破壊するしかないと将軍は考え、最後の作戦のためにローリーを召集したのです。イェーガーのエンジニアであるマコ(菊池凛子)の高い戦闘能力を知ったローリーは操縦パートナーに彼女を指名。渋る将軍にOKを出させ、ジプシーデンジャーを含めた4体のイェーガーが怪獣たちに挑むのでした。

トラビス・ビーチャムの原案を、ビーチャムと「ヘル・ボーイ」「パンズ・ラビリンス」のギレルモ・デル・トロが脚本化し、ギレルモ・デル・トロが監督しました。ファンタジーや怪獣ものが大好きだという監督がそのこだわりを思い切り大胆にそして緻密に作り上げた、ロボット対怪獣の対決ドラマの一編です。ロボットの頭部に操縦者がペアで乗り込み、脳をつなげた状態で、操縦者の動きとロボットの動きがシンクロするという、日本で言うなら「マジンガーZ」と「ジャンボーグA」を合体させた設定で、ロボットと怪獣の肉弾戦から、必殺光線技で決着という、ロボットアニメの王道の展開を迫力ある見せ場で見せてくれます。さらに、操縦士のドラマをきっちりと描き込んで、人間ドラマの部分で大いに盛り上げて、1960年代から70年代の特撮モノやロボットアニメを楽しんだオヤジ世代に、どストライクの映画になっています。いやあ、面白かったし、要所要所ではきっちり盛り上がるし、さらにコミカルな部分も盛り込んで、サービス満点の娯楽映画に仕上がっています。今の若い人から観てどこまで楽しめるのかは、想像がつかないのですが、私にとっては、豪華フルコースのエンタテイメント。今年観た映画で、初めてもう一回劇場で観たいと思いました。

アバンタイトルは、ジプシーデンプシーのマニラでの戦闘シーン。シャッター・ドームと呼ばれるドックからのロボット発進シーンから、男の子の心をがっちりつかんで離しません。そして、戦闘の舞台は嵐の海、漁船が遭難しているのを助けるロボットという王道の展開です。最初は優勢に闘いを進めたロボットですが、怪獣の逆襲でやられてしまうまでをパワフルな演出で見せてくれます。そして、5年後、怪獣がどんどん強くなってきて、イェーガーも負け戦続き。そして、香港をベースに最後の決戦に挑むことになります。このロボットのドックがまたかっこいいのですよ。整備士たちを画面の隅々にまで配して、たくさんの人間がこの闘いに関わっているのだという見せ方もうまいです。そこで、ローリーとマコは初対面するのですが、マコはちょっと猫背気味のオタク風に登場するのですが、その後の棒術のシーンで高い戦闘能力を見せつけ、カッコいいヒロインぶりがまたよいのですよ。バトルスーツを身に着けた二人が、操縦席で同じ動きで格闘アクションするのがこれまたかっこいい。これだよ、これって感じ、同世代のそれも一部のマニアの方にしか伝わらないかもしれないけど、とにかくかっこいい要素が満載なのですよ。

さらに、他のロボットを操縦するのが、香港の3兄弟チームとロシアの男女ペア、さらにハーク(マックス・マーティーニ)チャック(ロブ・カジンスキー)の親子コンビです。そして、研究屋として、怪獣オタクのニュートン(チャーリー・デイ)と数学屋のゴットリーブ(バーン・コーマン)がチームを支えます。特に親子コンビと研究者コンビが丁寧にキャラづけされていて、きちんと活躍しますし、親子コンビと将軍には泣かせる見せ場があります。その泣かせどころも、泣き喚くシーンを見せない節度ある演出がまたかっこいい。

怪獣とロボットの格闘シーンはあえて擬人化したアクションを取り込んで、その戦闘によって街が破壊されるという見せ場があります。これって、子供の頃に観た「ジャイアント・ロボ」や「レッドバロン」の世界そのままなんですよ。ILMを中心にした視覚効果とアニメーションは、ほとんどCGによるものなのに、破壊される自動車とかビルはわざとミニチュアが壊れるような見せ方になっているので、ますます懐かしい感じなんですよ。そしてダメ押しは、ジブシーデンジャー(主人公ペアのロボットね)が怪獣に負けそうになったときに出す最終アイテムがチェーンソードです。これって戦隊シリーズの巨大ロボットの決め技なのですよ。もう全編に渡ってそういうわくわくする趣向が盛り込んであります。ヘリの編隊が飛び回るシーンですとか怪獣映画の定番ですし、クライマックスが海底シーンなのは、「ゴジラ」へのオマージュではないかって勝手に思ってしまいました。映画の最後に、レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎への謝辞が出てますからね。ハリーハウゼンの映画へのオマージュも盛り込まれているのかも。

デル・トロ監督とのコンビが多いギレルモ・ナヴァロの撮影はロングショットを明るい絵で統一し、CGカットとの融合に成功しています。また、ラミン・ジャヴァディの音楽がヒーローものらしい勢いとロボットもの重厚さを兼ね備えた音になっていて見事でした。CMでも流れている、2フレーズだけでそれだとわかるテーマ曲がまたかっこいいのですよ。「ターミネーター」のテーマに並ぶ短いフレーズで印象に残るテーマではないかしら。演技陣では、菊池凛子が印象的でして、主人公との関係も恋愛感情を前面に出さない戦闘パートナーに位置づけたデル・トロ監督の演出で女性らしいけどかっこいいヒロインぶりが見事でした。また、「ヘル・ボーイ」の主人公ロン・パールマンが怪獣の死体片付け屋をコミカルに演じて笑いをとりました。クライマックス前に退場後、ラストカットで再度登場するところは笑えました。芦田愛菜ちゃんは、1カットか2カットの出番だろうと思っていたら、きちんと登場シーンがあったのにはびっくり。



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怪獣はなぜ続々と現れるのか。ゴッドリーブはその出現データから、この先、2体、3体が一緒に出現すると予測し、実際その通りになります。ニュートンは、ロボット操縦者の脳のシンクロ装置を使って、自分の脳と怪獣の脳をつないで、彼らの弱点を探ろうとします。すると、怪獣は異次元のインベーダーによって操られたクローン生物であることがわかってきます。さらに、ペントコスト将軍の作戦を知っているかのように、怪獣2頭を海底の異次元ヘのトンネル近くに配置して、ロボットを待ち受けていました。香港の怪獣で2体のロボットを失い、親子チームの父親も負傷したことから、生き残ったロボットの1体にはペンタコステ将軍と親子チームの息子が乗り込み、核兵器を積み込んで、帰還できない覚悟で発進します。もう1体のジプシーデンジャーには、ローリーとマコが乗り込んで、護衛として同行します。海底で、ロボットたちは2頭の怪獣と戦闘状態になるのですが、さらにもう1頭の怪獣が現れて形勢は不利。一方、さらに怪獣の脳とシンクロしたゴッドリーブとニュートンは、異次元へのトンネルは怪獣のDNAがないと通過できないことを知り、そのことをローリーたちに伝えます。形勢不利となったペンタコステ将軍は、怪獣2頭を自分のロボットに引き付けたところで自爆。ローリーたちは、もう1頭の怪獣を抱えて、異次元トンネルを通過して、インベーダーの世界に入り込み、ロボット内の原子炉の爆破装置をセットして脱出ポットで脱出。異次元では大爆発が起こり、異次元とを結ぶトンネルも破壊されて、地球の危機は救われます。そして、海上に、2つの脱出ポットが浮上し、お互いの生存を確認したローリーとマコは抱き合うのでした。めでたしめでたし。

ペントコスト将軍は初期型ロボットの装備不十分で原子炉の放射能で被曝し、もう先が長くないことを知った上、自分がロボットに乗り込むことにします。また、片道切符の戦闘となるのを覚悟した、親子の別れのシーンが泣かせます。最後の戦闘に赴くところで、ロニーがマコに向かって、遠回しな愛の告白「これまで過去にとらわれていたのに、今は未来のことを考えるになった」というあたりも泣かせる展開になっています。このロボットを操縦するとき、パートナーと脳がシンクロするので、相手の記憶や考えてることがわかってしまうというのも、ドラマの伏線になっていまして、それまで表向き反目しているように見えた親子コンビの息子チャックが最後の戦闘に赴くときに、泣かせる和解を最小限のセリフで見せてくれます。そういうエモーショナルな要素を盛り込みながらも、ロボットの戦闘アクションという基本ラインから逸脱しないので、ドラマとしてトーンの統一が図られているのは見事でした。ロン・パールマンは、ニュートンに怪獣の脳を売ろうとする闇社会のボスとして登場するのですが、香港を襲った怪獣の死体を解体中、怪獣の中から現れた胎児の怪獣に飲み込まれてしまうのですが、お話が全て終わった後、怪獣の腹の中から生きて這い出してきて、ラストを締めます。

いろいろなオタク要素が散りばめられた映画ではあるのですが、基本のエンタテイメントの部分ががっちりと作られているので、単なるコアなファンへの目配せに終わっていないところが見事でした。ロボットと怪獣が闘うシーンでも、管制室、操縦席といった人間のリアクションをインサートすることで、人間のドラマとしての盛り上げが作り込まれています。怪獣オタクの贔屓目を抜きにしてもかなり楽しめる映画ではないかしら。(と、勝手に思っております。)

「終戦のエンペラー」は外国人の目から見た日本を描いていて面白くて見応えあり。


今回は、新作の「終戦のエンペラー」をTOHOシネマズ川崎4で観て来ました。以前は上映サイズに合わせてスクリーンサイズを変えていたのですが、シネスコサイズのままでずっと上映。ちょっとのことを合理化しても仕方ないと思うのになあ。手抜き感で印象よくないのに。

1945年、フェラーズ准将(マシュー・フォックス)は、マッカーサー元帥(トミー・リー・ジョーンズ)と共に厚木飛行場の降り立ちました。フェラーズは、大学で知り合った日本人の恋人アヤ(初音映莉子)のことが気がかりでしたが、マッカーサーは彼に天皇に戦争責任があったのかどうかを調査するように命じます。日本に対して敬意と好意を持つフェラーズと、日本の復興を成功させたいマッカーサーの共通見解は、天皇を裁判にかけて有罪にすることになれば、国内は大混乱となり、占領統治も失敗するであろうということでした。しかしアメリカ本国の意向は、天皇の戦争責任を裁判で裁くべきだというものでした。フェラーズは、天皇がこの戦争にどの程度関与しているのかの調査を始めるのですが、関係者から思うような証言は得られません。東条英機(火野正平)や近衛文麿(中村雅俊)、天皇の側近だった関屋貞三郎(夏八木勲)を尋問しても、どこまで天皇が戦争に関与していたのかがはっきりせず、その証拠も出てきません。木戸幸一(伊武雅刀)による終戦直前の状況についての証言も得られるのですが、何しろ証拠がない。有罪の証拠も無罪の証拠も見つからないまま、フェラーズは、占領政策のために天皇の戦争責任を問うことはすべきでないという報告をマッカーサーにするのですが....。

岡本嗣郎の原作をもとに、デヴィッド・クロスとヴェラ・ブラシが脚本を書き、「真珠の首飾りの少女」のピーター・ウェーバーが監督しました。大東亜戦争の敗戦直後の日本で、占領統治を進めようとしていたマッカーサーは、そのために天皇をどう扱うかに苦慮していた様子が描かれます。反共の彼の思惑としては、日本の共産化や、ソ連との分割統治は避けたかったので、天皇を中心に据えた日本の復興を検討するために、天皇の戦争責任の調査をフェラーズに命じます。関係者の証言を得ようとするフェラーズですが、彼らの口は重く、本当のところが見えてきません。天皇に対する弁護の証言があっても、証拠がなく、天皇の信奉者の言うことは当てにならないというアメリカ軍の視点が浮かび上がってくるのが面白いと思いました。やはり、外国の監督が撮る敗戦時の日本のドラマなのですから、日本の終戦特番ドラマと同じ視点で語られてもつまらないので、こういうスタンスの描き方は面白いと思いました。

証言の中で面白いのは、日本の侵略戦争の責任を問われた近衛文麿が「他国の土地を武力で奪うのは、イギリスやオランダやアメリカがやってきたことで、日本はそれにならっただけだ。イギリスやアメリカがそのことで裁かれることはないのに、なぜ日本だけが裁かれるのか。」とフェラーズに噛み付くところ。そりゃあ、侵略国を横並びにしたとき、そういう理屈にも一理あるのかもしれませんが、侵略された国からすれば、後付けの自分勝手な言い訳と思うことでしょう。お前らがいじめたから、俺もいじめたのに何で俺だけ先生に叱られるのか、と言うのを聞いたら、いじめられた方からすれば、「そんな理屈は、こっちには何の意味もない、せめてお前だけでも叱られろ」と思うのではないかしら。最近、よくその理屈を聞くようになったのですが、あの当時からそういうことを言ってたのかなって気がします。

フェラーズとアヤの恋愛エピソードはフィクションなのでしょうけど、そこに日本人の文化や考え方を示すエピソードを盛り込んで、日本人の文化の根源にあるものを感じさせる意図はあるようです。日本人は価値観が一つで、天皇のためになら心を一つにして献身するのだそうです。それは日本の2000年の歴史の中で武士道といった形で築かれてきたんですって。当の日本人である私からすると何だか信じられない話なのですが、国民のほとんどが逆境にあるときに、心のよりどころとしたのが天皇だったというのは、あり得ないことではないなあって気がします。でも、そういう言い方は、日本人のステレオタイプ化であり、日本人って外国から理解不可能な国なのだということになりますまいか。武士道が日本を代表する文化なのかというと、農民漁民が主体の日本人の中で、武士道なんて言ってるのは、ごく一部のみなさんであり、あくまでサブカルチャーじゃないのかって思ってます。だって、武士の人口比率なんてそんなもんでしょ? 今のオタク文化ほどにも浸透してなかったんじゃないのかしら。日本人の価値観が一つにまとまったのも、明治維新に、全部の神社の筆頭に天照大神を置いた国家神道が国中に布教されてからだと思っているのですが、このあたりは歴史にくわしい方に伺いたいところです。この映画で語られている2000年の文化っていうもののほとんどは、明治維新以降の文化ではないのかな気がしているのですが。

それでも、今の日本人にも納得できる解釈も登場します。それは日本人は白黒はっきりつけないとか、本音と建前を両方を使って生きているといった話です。アメリカ人が正義という言葉をよく使うのですが、日本人は正義という言葉をあまり使いません。(使うのは、月光仮面とか仮面ライダーくらい)正しさは不変のものではなく、人間関係の中でいくらでも変わるものだという考え方は、日本ではすごくリアリティがあります。そういう日本での天皇責任を問おうとしたとき、合理的、論理的なアメリカ人も情緒的な方向に流れざるを得ないという見せ方は大変面白いと思いました。

ドラマとしてはミステリー仕立てでして、果たして天皇に戦争責任を問えるのかという点に、どう決着をつけるのかという興味で引っ張るのですが、意外な形でドラマは収束することになります。これは、現れた事実に意外性があるのではなく、その謎への回答の見せ方というかアプローチの仕方、ドラマとしての作り方にサプライズがあったのですよ。理屈じゃない、「Don't think! Feel.」みたいな見せ方はある意味すごいと思います。これで、日本以外の国の人に通じるのかしらって気がしますもの。それとも、日本人はやっぱりミステリーだわって言う結末なのかな。

天皇に戦争責任はなかったと側近の証言が出てくるのですが、信奉者の発言では信憑性が疑わしいとい言いつつ、それでも、ドラマは天皇免責の方向に流れていきます。天皇は元首でありながら、実際の政治にタッチできない不自由なポジションであり、開戦も彼の意思とは関係なく進められたらしいのです。そして、敗戦色が濃くなったときに、責任を取りたくない連中が天皇に責任を押し付けて、彼の意思で敗戦を決定させたという見せ方なのですよ。もう少し平たく言うと、天皇は傀儡で、他の誰かが天皇の威を借りて戦争を始めて、後始末は傀儡だった天皇に押し付けたということになります。そう考えると天皇も気の毒かなあって気分になってきます。そして、マッカーサーはフェラーズの進言どおり天皇免責の決定をくだそうとするのですが、その前に当の本人に会ってみようと言い出します。そして、クライマックスは、マッカーサーと天皇の接見の場となります。

日本の敗戦を描いたドラマをピーター・ウェバーが節度ある演出で描いているので、なかなかに見応えのあるものでした。特に、日本人俳優が多数登場する敗戦前後の物語なのに、泣いたり喚いたりする人間が登場しないドラマなのがすごいと思いました。それだけで、何だか知的な映画に思えてくるから不思議です。敗戦のドラマを日本人が作ったら愁嘆場の連続になるのに、そういうのがないのがすごく新鮮。この一点だけでも、この映画は観る価値があるのではないかしら。スチュアート・ドライバーグのキャメラは視覚効果の絵と実際の映像をうまくマッチさせています。日本が舞台の映画なのに、撮影監督が向こうの人だと、どこか違う味わいになるのが面白かったです。また、「Dear フランキー」で繊細な音を聴かせてくれたアレックス・ヘッフェスが正攻法のドラマチックな音楽と、ピアノソロによるヒロインのテーマ、そして回想シーンのアンビエント風の音楽まで、場面に合わせてバラエティに富んだ音作りをして、これぞ映画音楽という音になっています。最近の映画音楽はシーンをサポートするだけで、ドラマを語ってくれないのが不満なのですが、ヘッフェスの音はきちんとドラマを支える音になっているのが見事でした。まあ、最近の映画音楽に慣れた若い人にはオールドファッションな音に聞こえるかもしれません。



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戦争が始まる前の昭和15年、フェラーズは黙って日本に帰ったアヤを訪ねます。彼は日本兵の心理という論文を書いていて、その調査のためにアヤの叔父である鹿島大将(西田敏行)の家を訪ねます。ここで日本人がどういうものであるかという説明を受けることになります。その頃は鹿島も日米が戦争になれば日本が必ず勝つ、それが天皇の御心なのだからと言い切ります。そして、お話は戦後に戻り、フェラーズは運転手の高橋にアヤの消息を調べさせます。彼女は、静岡の学校で教員をしていたのですが、静岡の大空襲で亡くなっていました。

マッカーサーは一度会ってみたかった天皇との接見の場をフェラーズに設定させます。側近の関屋は、天皇との接見にあたって、作法だとか禁忌事項とか色々と注文をつけてきたのですが、マッカーサーはあっさりスルーして、握手しちゃうし、二人並んだ写真も撮っちゃう。小柄で、どこか俗人離れした天皇は、マッカーサーの態度にも表情を変えず、彼に向かって「戦争の責任は全て私にあるから罰するのであれば、国民ではなく自分を罰するように」とたどたどしい英語で語ります。その様子をドアの隙間から覗き見たフェラーズは外に出て、高橋に向かって「飲みに行こう」と声をかけ、二人を乗せた車が走り去るところで暗転、エンドクレジット。やはり、天皇の言葉には泣かされちゃいました。それまでの、側近の証言で、権限がないと言われていた天皇が、戦争の責任は自分が負うと言ったわけですから、そりゃ驚くわな。結局、戦争を始めた責任者はわからないまま、天皇がそれでも自分が責任を負おうとしている姿を見せるところで、映画を終わらせたというセンスは、なかなかに意外性がありました。天皇に戦争責任はなかったんだろうと匂わせる、白黒をつけないエンディングは、日本人の白黒つけたがらない文化を作り手が映画の構成にも取り込んだとも言えましょう。

でも、これでは、結局、戦争を始めた人間が誰なのか、なぜ始めたのかがわからないままなので、未来への教訓が生まれなくて、日本はまた同じ轍を踏みかねないです。歴史に学ぶことができない。なぜなら、歴史がグレーだからというのは、かなり困った国民性だと思います。隠蔽体質と滅びの美学を賛美する文化では過去に学ぶことができないのですよ。東電の原発事故でも誰が悪かったのかは曖昧なまま。現場の人間の美談だけがクローズアップされてました。原因が曖昧なら再発防止もできず、また同じ過ちを何度でも繰り返し得る国民性ってのは何だかやだなあって思いますもの。論理よりも場の雰囲気を重んじるというと聞こえはいいですが、誰も意思決定をしないまま事が運んでいき、誰も自分が意思決定の当事者だとは思っていないわけですから、誰も責められない、で「仕方がなかった」で済んでしまうのですよ。誰も他人の責任を追及できない、自分が責められる理由もないと思ってる、という混沌とした和の中で、天皇は和を乱すことで日本を救ったのかもしれません。でも、戦争を始めた責任者が天皇でないとしたら、誰だったのかしら。

「台湾アイデンティティ」は歴史への興味につながるいいサンプルです、オススメ。


今回は横浜シネマジャックで、ドキュメンタリー「台湾アイデンティティ」を観て来ました。行ってみたら満席だったのでびっくり。初日の初回だった上、監督と出演された方の舞台挨拶があったせいらしく、出演されたのが横浜中華街の方だったので、その知人関係も観に来ていたようです。酒井充子監督の前作「台湾人生」がシネマベティで公開されたときも、意外とお客さんが入っていて驚いた記憶があるのですが、今回は満席ですからね。いつもはお年寄りばかりのシネマジャックにしては、比較的若い方の姿も結構見うけられましたから、台湾に対する興味が高くなっているのかも。

台湾のツオウ族の村に住む高菊花さんは、昭和7年、日本統治時代の台湾に生まれ、青春時代を日本の敗戦から蒋介石の国民党の統治という過酷な時代で過ごしました。彼女の父、高一生も日本統治下の教育を受けて、ツオウ族のリーダーとして自治を進めようとしたところ、蒋介石の国民党に睨まれて、投獄の末に銃殺されていました。鄭茂季さんは、日本軍に参加した台湾人兵士30万人の一人でした。彼は日本人から良くしてもらい、戦争が大好きだったと言います。戦争中は台湾少年工として日本にきていた黄茂己さんは、日本で結婚して教職につきました。日本兵としてシベリア抑留の後に呉正男さんは、その後ずっと日本で暮らしています。李柏青さんは、インドネシアで日本兵として敗戦を迎え、インドネシアの独立運動に参加した後、インドネシアで暮らしています。張幹男さんは、国民党の統治下で政治犯として8年の収容所生活を送り、その後、旅行会社を立ち上げて、政治犯を積極的に雇用するなど、なかなかの反骨漢です。彼らの人生は歴史に翻弄される過酷なものでしたが、彼らにはそれを運命、生まれた時代が悪かったからと言う諦観がありました。日本の歴史を語る上で、そして、アジアの中で日本がどう思われているのか、その一端を知るための貴重なドキュメンタリーの一編です。

酒井充子監督の「台湾人生」というドキュメンタリーの続編とも言うべき作品です。「台湾人生」同様、日本統治時代の台湾に生まれた人たちへのインタビューから構成されています。彼らは、日本統治時代に生まれたので、日本流の皇民化教育を受けていて、日本語が達者です。台湾には台湾語、日本語、北京語が話されていて、台湾語と日本語は日本統治下の時代を知っているお年寄りの方が話すくらいで、若い人は北京語を話すというのが「台湾人生」で語られていました。この映画でインタビューを受けるのは、80代から90代のみなさんでして、日本統治時代を知る人の生の声を残せる最後の機会かもしれません。戦後、60年以上もたつのに皆さん日本語が達者で、戦後も日本語を使う機会があったのだろうということが伺えました。(勿論、仕事とか、日本在住とか理由は様々でしょうけど)

前作でも思ったのですが、この世代が日本に対して好意的であるのは、彼らの生きた歴史と大きく関係があります。彼らが生まれた時点で、台湾は日本の領土であり、彼らは日本人としての教育を受けていました。ですから、日本語を語ることに母国語をないがしろにされたという意識も少ないようなのです。さらに日本の終戦時には、日本が台湾を見捨てたという意識はあったものの、後から来た蒋介石の国民党が台湾人を弾圧したことで、日本への悪印象が薄れたということもありました。さらに言うなら、日本では敗戦時に、価値観の大変換があって、戦前の歴史が全否定されたのですが、台湾ではそういう形での日本否定の空気がなかったこともあって、反日意識が高まらなかったように思われます。これが、終戦時に日本にいた台湾人だと、若干違うらしいというのを、郭亮吟監督のドキュメンタリー「緑の海平線 台湾少年工の物語」で知りました。日本の敗戦時に少年工の宿舎に中華民国の国旗が揚がり、大盛り上がりしたのだそうですから、台湾人だからという括りで語るのではなく、その人の受けた教育や境遇で人それぞれなのだというのは知っておく必要がありそうです。日清戦争の結果、台湾は清から日本に割譲されて、その時は抗日運動が起こったそうですから、その頃に生きていた人にインタビューしたら、日本に対する感情も違ったものになったでしょう。

台湾と同じように、大東亜戦争の日本の敗戦まで、日本の統治下にあった朝鮮や満州では、こういう日本への郷愁を含めた感情がないようで、反日的だと言われています。これは政策的な教育があったからでしょうが、それだけのことを日本がやったのかもしれないというところを、日本の歴史教育は曖昧にしてます。朝鮮や中国の80代~90代の年齢の人が、日本に対してどういう感情を持っているのか、そういうドキュメンタリーも観てみたい気がします。

前作では、「台湾人は日本のために戦ったのに、結局日本は台湾を見捨てたのだ。」という言葉が大変印象的だったのですが、今回は日本への怒りといった言葉は出てきませんでした。むしろ、他者への怨嗟よりも、運命に対する諦観が前面に出てきます。インタビューの中からの言葉のピックアップは監督の作業ですから、「台湾人生」から酒井監督の考えが変わったのかもしれません。また、蒋介石の国民党にはみんな悪感情を持っているようでして、国民党が台湾人の抗議行動を武力で弾圧した「二二八事件」から1987年まで38年間に及ぶ戒厳令、そしと「白色テロ」と呼ばれる言論弾圧と、かなりえげつないことをしたようなのです。民主主義と言いながら、中身は監視と弾圧で押さえ込むソ連みたいな国だったみたい。

日本統治の影響を受けた世代はかなりの高齢であり、台湾の若者には、北京語をベースにした新しい文化や歴史観があると思われます。そういう意味では、「台湾人生」も「台湾アイデンティティ」も、戦前の日本統治の影響を受けた人の「人生」と「アイデンティティ」に限定されているという点は強調してよいと思います。なぜかというと、今の日本での官民あげてのナショナリズム高揚の動きの中で、この映画は変なプロパガンダに使われそうな気もするからです。「日本人いい人、中国人悪い人」という単純構図で語られる余地をこの映画は持っているように思えるのです。この映画そのものがそういう意図を持って作られているとは思いませんが、この映画から、戦前の日本は台湾でいいことをしてきたから、当時を知る人が親日的であり、大陸からやってきた中国人はひどいことをしてきたのだという情報を意図的に強調することができるのですよ。また、この映画が、日本人の視点から描かれた(インタビュー内容が取捨選択された)映画であることも、重要だと思います。

ともあれ、メディアではあまり語られない歴史の一部を知ることができる映画ですので、機会があればご覧になることをオススメします。色々と勉強になるところの多いですので。



映画の上映後、 酒井監督とこの映画にも登場する呉正男さんによる挨拶がありました。呉さんは、この映画で、もっといい話を使って欲しかったと会場を笑わせてくれたのですが、その後、印象的な言葉がありました。映画の中で、呉さんは、酒井監督の「あなたは何人ですか。」という質問に「日本人に近い台湾人」と答えているのですが、舞台挨拶で、「あのインタビューの後、考えが変わった、自分は台湾で生まれた日本人です」と語っていました。それは、「60年以上も日本で暮らしてきた自分が台湾人だと言い張るのはいかがなものか」という日本人に対する配慮による発言だったようです。それを受けた、酒井監督が「その人のアイデンティティを、何人かに求めるというのは間違っているのかも」というのも印象的でした。同じ台湾人でも、そのアイデンティティは生きた時代やパーソナルな経験によって異なっているでしょう。さらに、日本人だって、戦前戦後の価値観の180度の転換を知っている世代、高度成長を知る世代、バブルを知る世代などで、そのアイデンティティが違ってくると思いますもの。特に感受性の高い時期に、戦前戦後の価値観の大転換に直面した人は大変だったろうなあって気がします。台湾人だから、日本人だからという括りで、アイデンティティやルーツを語ろうってのは、傲慢だよなあって再認識しました。アイデンティティにこだわると、その人の人生を歪曲しちゃうかもしれないというのは、映画よりもその後の舞台挨拶で気づかされました。これは、たまたま、その日のその回、映画館に足を運んだからのご利益ですが、映画の劇場鑑賞の一つの楽しみでもあります。

「ニューヨーク 恋人たちの2日間」はベタなコメディから後半ちょっとだけ背伸び。


今回はヒューマントラストシネマ有楽町1で「ニューヨーク 恋人たちの2日間」を観てきました。こっちが大きな劇場で、「ペーパーボーイ 真夏の」が62席のちっちゃい方という割り振りはちょっと不思議でした。

マリオン(ジュリー・デルピー)は、ニューヨークで働くフランス人、前のダンナとの間にできたルルという2歳の息子がいて、恋人のミンガス(クリス・ロック)の連れ子と一緒に彼のアパートで4人暮らし。結構幸せな生活。そこへフランスから父親(アルベール・デルピー)が訪ねてくることになります。写真家としてマリオンは明日個展を開くことになってます。これまでの男とベッドを共にした後の自我撮り写真展だそうで、さらに自分の魂を入札してもらううというイベント付き。父親は一人ではなく妹ローズ(アレクシア・ランドー)、さらに妹の彼氏マニュも一緒。マニュはマリオンの元カレでもあるらしい。父親はフランス語しかわからないちょっと変わり者。その程度ならよいのですが、ローズはミンガスに色目使ったり、マリオンに因縁つけたりと結構迷惑モノ。何でそこにいるのかよくわからないマニュははしゃいじゃって、マリファナの売人をアパートに呼んだりしちゃいます。とにかく、この3人が空気読めないものだから、マリオンだけじゃなく、温厚なミンガスもイライラのしどおし、二人の関係にもヒビが入りかねない状況。同じアパートの奥さんに、フランス人二人がエレベータでハッパやってたって苦情を入れられて、脳腫瘍なの、ってウソついたら、そのダンナが医者で家まで心配して押しかけてきます。個展が始まったものの写真の売れ行きはさっぱり。トラブル続きの二日間の落ち着く先はいかに。

「パリ 恋人たちの2日間」の続編だそうでして、ジュリー・デルピーが監督・主演して、音楽も書いています。前作は未見なのですが、そこは気にならず、単独の1本の映画として楽しめました。元ダンナとうまくいってないときに知り合ったミンガスと離婚後、急接近して子連れ同棲するようになりました。二人の関係は極めて良好だったのですが、マリオンの家族がやってきたことで、二人の幸せな生活がかき乱されるというお話です。家族のおこすトラブルのドタバタはテンポよく展開し、下世話コメディの部分は調子よくまとまっています。ラブストーリーとしてはあっさり風味でして、合間に入るスナップショットなどの趣向もありますが、コメディとしてはまとまってるって感じでした。

マリオンは38歳の美人だけどややデブで失禁症ありという設定でして、一方のミンガスは、3本の番組を持つラジオパーソナリティ。結構幸せな生活。そんなところに孫の顔が見たいと父親がフランスからやってきます。ところが父親に妹のローズがついてきちゃって、さらにローズに彼氏のマニュまで一緒にやってきちゃいます。マニュはマリオンの元カレなんですって。父親はちょっと変なところもあるけれど悪い人ではないみたい。一方、ローズは、マリオンの子供が発達障害だとか因縁つけてくるし、マニュは家にマリファナの売人を呼んじゃうし、二人でアパートのエレベーターでマリファナ吸っちゃうもので、住人の奥様から苦情言われちゃう。三人の共通点は、よく言えば自由奔放、平たく言えば、とにかく周囲の空気が読めないということ。フランス人がこういう傾向があるのかどうかはわからないのですが、都会のエチケットを知らない田舎モノみたいな感じ。マリオンとローズは昔から馬が合わないみたいで、すぐケンカになっちゃいます。まあ、ローズが児童心理カウンセラーらしいんですが、人の気持ちを扱う仕事の割りには周囲の人間に無頓着なので、マリオンがキレるのも仕方ないなあってキャラなのです。アパートの住人の奥様のクレームに、マリオンは、実は脳腫瘍ですぐに死んじゃうんです、だからフランスから家族が会いに来てるんですってウソついちゃう。奥様のダンナがお医者さんで、心配して部屋にやってくるところで、もう一ドタバタやるのがおかしかったです。このお医者さんを演じたのが名脇役ディラン・ベイカーだったのがちょっとびっくり。

そんな3人の傍若無人ぶりに温厚なミンガスもイライラ。このドタバタ部分はデルビーの演出も快調で、そういうライトなドタバタを楽しんでいたのですが、それだけだとフランス映画らしくはないなあって思っていたら、後半は、何かおかしな方向に進んでいきます。彼女は個展を開くのですが、それが過去の数々の男とベッドで一戦交えた後の自画撮り写真集。それに付随して、自分の魂をせりで売るというイベントをやります。魂を売る?へ、ファウスト?と突っ込み入るのですが、彼女いわく、魂の存在は信じていないんですって。母親の死を通して、魂があるのなら死後の世界があることになり、それはないなあ、だから魂もあるとは信じたくない、だから魂売っちゃってもいいや、というわかったようなわからないような理屈。魂を売っちゃう話はそれなりの決着がつくのですが、単なるライトなホームコメディでは、才女デルピーとしては気がすまなかったのかしら。

ラストは丸く収まるのですが、その収まり方が、何か大上段に振りかぶったような感じなのが微笑ましかったです。いわゆる家族の絆みたいなところに強引に落とし込むのですが、その強引さは「クレヨンしんちゃん劇場版」みたいな感じでした。ベタな笑いから始まって、家族の絆みたいなところで盛り上げて締めようってのが、どこか似てるかなって気がしまして。ルボーミール・バックチェフの撮影は、シネスコ画面にきれいに色を盛り上げて、華やかな絵を作り上げています。こういう都会派コメディは明るい華のある絵がうれしいですもの。また、ちょっとニューヨーク観光案内的な味わいがあるのもおかしかったです。ハリウッドの映画人がパリで映画を撮ると、パリのいいところを押さえようとするのと同じようなものかなって。

演技陣では、ヒロインのジュリー・デルピーがそこそこの年齢を重ねた中年女性を好演しています。前半のドタバタは全体のアンサンブル重視の控えめな演技だったのですが、後半の個展に失敗して失意の表情でニューヨークを歩き回ったり、ビンセント・ギャロと絡むあたりで、あたし女優なのオーラがばんばん出てくるのが面白かったです。やっぱり自分が監督すると、そういう場面を入れたくなっちゃうのかなって勝手に想像しちゃいました。(頑張って監督してる自分へのごほうび、とかね。)クリス・ロックはマジメなラジオパーソナリティを控えめに演じてヒロインをサポートしました。妹役にアレクシア・ランドーの空気の読めないリアル困ったちゃんを熱演しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



マリオンとミンガスは喧嘩状態になっちゃうのですが、そんな状態で個展が始まります。しかし、彼女の写真に買い手はつかなくてギャラリーのマネジャも真っ青。それでも、魂の方は、5000ドルで落札されます。でも、マリオンはあたしってダメだわって精神不安定になっちゃって、会場から逃げ出しちゃうのでした。それと前後して、同じアパートのあの夫婦が「すぐ死んじゃうんだから、値上がり前に買っとかなくちゃ」ってやってきて写真を買い込んで、それにつられて他のギャラリーも次々に写真を買ったので、無事に完売。何だか自信をなくしちゃったマリオンは魂を買った人に会おうということでカフェで待ち合わせた結果、そこに現れたのがビンセント・ギャロ(この人のアメリカでの知名度ってどのくらいなのかしら。)でして、ここで魂についてちょっとアートな会話がありまして、マリオンは、やっぱり魂返してって言い出して、ギャロはやだって、二人はカフェでつかみ合いのケンカになっちゃいます。そんなこんなで、家に帰ってきたら、マニュは警官の前でハッパやって強制送還されたのですが、ミンガスとの関係はまずいまま。

翌日の朝、マリオンはローズと父親を連れて公園に出かけます。アパートで仕事していたミンガスはトイレで妊娠検査薬を発見。マリオンが試したもので、その時は「ダメだわ」って捨ててあったものなのですが、実はこれが陽性反応。公園へ走るミンガス。一方、マリオンは公園で、屋根に鳩が引っ掛かっていたのを助けようとして、落っこちそうになり、そこへ駆けつけたミンガスたちに助け上げられて、あーなんかよかったよかったって雰囲気でおしまい。

ラストのほんわかなまとめ方で、大味な印象になっちゃったのは、作り手の計算違いだったのかなあ。コメディの部分で密度の濃い演出をしていたデルピーにしては、魂を売る~やめる~価値のある人生だわ~大団円という流れが、よく言えばじっくり、悪く言えば間延びっぽく見えちゃったのは残念でした。でも、都会で暮らしている主人公のもとに田舎から親が出てきて騒動を起こすというのは、コメディシチュエーションの典型とも言えるものです。その古典的設定を手堅くコメディとして作り上げ、その上に、個人的趣味の魂ネタを盛り込んでみましたという、手堅い娯楽映画プラスアルファの出来栄えは上々だったと思います。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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