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「熱波」はドロドロ不倫映画なのにどこかノスタルジックな味わい。


今回は、東京での公開を終えた「熱波」を静岡シネギャラリー1で観てきました。静岡の映画館もメジャー系オンリーのシネザート、ややメジャーとアニメのシネセブン、ミニシアター系のシネギャラリーと色分けが出てきたようです。この映画館も10月から改装工事に入るそうですが、さらにゆったり観やすい映画館になってくれたらと思います。今は座席の前後が狭いんで。

現代のリスボン、熱心なカトリック信者であるピラール(テレーザ・マドルーガ)は隣の老婦人アウロラ(ラウラ・ソヴェラル)が気になっていました。彼女は黒人家政婦のサンタと二人住まいで、生活費は娘が出しているようなのですが、その娘は母親にほとんど会いにきません。アウロラはカジノで持ち金を全部すってしまったりサンタが自分に薬をくれなくて、さらに呪いをかけてるなんてことをピラールに口走って、精神的にも不安定な感じがありあり。そして彼女は病状が悪化して入院、最後にベントゥーラ(エンリケ・エスピリト・サント)に会いたいと言い出し、ピラールが老人ホームにいたペントゥーラを探し出し、病院に向かうのですが、その途中でアウロラは息を引き取ります。彼女の葬式の後、ペントゥーラはピラールに、若い頃のアウロラ(アナ・モレイラ)とペントゥーラ(カルロト・コッタ)の物語を語り始めるのでした。50年以上前のアフリカのポルトガル領で、事業を起こした父のもとで、アウロラはお手伝いと家庭教師のいる家で育ち、有能なハンターでもありました。そして、夫と出会い結婚し、何不自由ない暮らしをしていました。そこへ、ポルトガルから流れてきたペントゥーラが彼女の前に現れます。彼女は夫の子供を身ごもっていましたが、ペントゥーラとの情事に溺れるようになり、遊び人だったペントゥーラも彼女を本気で愛するようになっていました。しかし、それは許されない愛でした。二人は出会ったときから、破局を運命づけられていたのです。

ポルトガルのミゲル・ゴメスが脚本と監督を兼任した一編で、ポルトガルでは数々の賞を受賞してるんですって。この映画はまず作りからして珍しく、二部構成(「第1部 楽園の喪失」「第2部 楽園」)になっていまして、さらにモノクロのスタンダードサイズで、過去のシーンは16ミリフィルムで撮影された荒れた画像になっています。また、過去の回想シーンではナレーションは流れますが、登場人物のセリフはオミットされてサイレント映画のよう、だけどバックの自然音は聞こえるという構成です。映画の冒頭では、亡き妻の面影を忘れるためにアフリカの地にやってきた男がワニのいる川に身を投げるという不思議な映像が流れ、それは中年女性ピラールが映画館で観ていた映画だったというオチがつきます。ここで、アフリカとワニというキーワードが提示されるのですが、現代のリスボンのお話(これが第1部)では、どこにもつながってこないので、なかなか映画の全貌が見えてきません。

第1部はピラールが主人公で、彼女の一人暮らしを淡々と見せます。その中で、ちょっと変わった隣人としてアウロラという老婦人が割り込んできて、ピラールは彼女のことを心配するようになります。アウロラの家の家政婦のサンタは、アウロラの娘が雇い主らしく、家事の面倒以外のことで、あまり彼女に関わろうとはしません。アウロラがカジノで無一文になったときや、病状が悪化したときも、ピラールに何とかしてって相談してきて、ピラールも彼女が気になって、つい面倒を見ちゃうって感じ。このピラールの暮らし、彼氏とデートしたり、宗教デモに参加したりといったエピソードが淡々と描かれます。一体、この映画は何の話なんだと言いたくなるくらい、お話の進展がないのですよ。ぼけかけたおばあちゃんがどうにかなるのかと思ったら、最後に会いたいと言ってた男性にも会わせる前に、あっさり息を引き取っちゃうので、ここでドラマ終わっちゃうのかと思うと、その男性の口から、昔のアウロラの物語が語られて、これが第2部。そこまでのネタ振りにしては、第1部長くない?と思うのですが、プログラムの解説を読むと、そこにポルトガルとアフリカの歴史が反映されているんですって。へえー......。ポルトガルって、スペインと並んで、アフリカの植民地化を進めて、他の国々がアフリカ国家の独立を認めるようになっても、頑なに植民地にこだわったそうで、その後ろめたさが黒人家政婦への恐怖として現れているんですって、へえ...。

そんなよくわかったような、やっぱりわからない第1部が終わって、お話が昔のポルトガル領アフリカへ移ると、若い(しかもきれい)アウロラが中心となったメロドラマになっていきます。そうなると、お話の軸が1本明確になってわかりやすいドラマが展開していきます。それにサイレント映画風趣向も加わって、不思議な味わいの面白さで、観客を引っ張っていくことになります。前半のおばちゃんの日々のエピソードの積み重ねから、ドラマチックな不倫ものになる展開は、いわゆるアート系の作りというのか、監督が単に面白がってやってるだけなのかは判断つきにくいのですが、ドラマにのめり込むというよりは、仕掛けも含めたドラマ全体を俯瞰して楽しむ映画と言えそうです。普通の作りの映画なら、ドロドロの不倫ものになりそうなお話なのに、モノクロ、サイレント風のつくりが、その生臭さをうまく消していまして、その分、味わいは淡白ですが、アート系映画としての面白さが出たように思います。

音楽は主人公が入っているバンドが演奏する「あたしのベビー」といった懐かしのメロディが印象的に使われ、後はピアノソロによる音楽が入り、サイレント映画っぽい雰囲気を醸し出しています。ワニは回想のヒロインのペットとして登場しまして、若い二人を引き合わせるきっかけを作ります。




この先は結末に触れますのでご注意ください。



人目を避けて情事にふけるペントゥーラとアウロラ。でも、アウロラのお腹はだんだんと大きくなってきます。この関係を続けることはできないと思ったペントゥーラは、バンドの仕事でその地を3ヶ月離れる機会ができたとき、別れの手紙をアウロラに送ります。でも、それは自分はアウロラを愛しているけど忘れてくれという内容。アウロラの返事も、自分が悪いの、でもあなたを愛してる。そんな手紙が往復した後、ペントゥーラは返事を書くのをやめます。でも、お互いに相手を想っているという手紙のやりとりは、ペントゥーラが帰ってきたとき、再会した二人を駆け落ちに走らせてしまいます。駆け落ちした二人を追ってきたバンドの友人を、アウロラは撃ち殺してしまいますが、そこで産気づいてしまい、途中の村で出産。ペントゥーラは全てを自分の罪にしようと、アウロラのダンナを呼ぶのですが、彼はアウロラと赤ん坊を連れて去り、ペントゥーラはそこに残されてしまいます。友人の死は、現地の独立運動のスパイが殺されたという話にすり替えられ、植民地紛争の火種にされてしまうのでした。そして、アウロラとペントゥーラは一度手紙を交わした後、二度と会うことはなかったのでした。

ラストは回想の流れのまま、現代に話が戻らないまま終わりになります。どちらもあきらめようと思いながら、お互いの愛情を感じ取り、自分の感情を押さえることができません。周囲も巻き込むドロドロの愛情劇になるわけですが、モノクロ、サイレントの映像は、どこかノスタルジックなおだやかな味わいになっています。第1部の老婦人の寂しい晩年と死がリアルなドラマとしての後味を運んでくる一方、第2部のおだやかな後味のギャップが不思議な味わいになっています。こう書くと、第1部と第2部が水と油みたいですが、実際のところ両者のアンバランスがこの映画の不思議な味わいにつながっているように思います。主張したり語りかける映画ではないので、その映画全体の空気を味わうのが一番楽しめるかも。
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「サイド・エフェクト」は社会派スリラー風だけど娯楽度高し。


今回は新作の「サイド・エフェクト」をTOHOシネマズ川崎8で観てきました。ここも、シネスコ画面のまま、ビスタサイズの映画を上映するようになっちゃいました。ちょっとの手間なんだから、スクリーンサイズ変えればいいのに、合理化なのかなあ。で、そのうち、それが当たり前になっちゃうんだろうなあ。

インサイダー取引で刑務所に入っていたマーティン(チャニング・テイタム)が出所してきまして、妻のエミリー(ルーニー・マーラ)との生活を再会します。しかし、エミリーは地下駐車場で自分から車を壁に激突させ、精神科医のバンクス(ジュード・ロウ)が彼女を診察することになります。エミリーは以前うつ病になったことがあり、その際はシーバート医師(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)に受診していたのですが、どうやらそれが再発したらしいのです。バンクスは彼女に抗うつ剤の投与を始め、シーバートにも相談を持ちかけます。かつてエミリーが副作用で苦しんだこともあったということで、新薬のアプリクサを使うことにします。しかし、その薬には夢遊病の副作用があり、実際エミリーの行動も寝てるのか起きてるのかよくわからない状態が出てきて、マーティンは薬を替える提案をするのですが、エミリーが現状うつが抑えられているということで、投与を継続することになります。しかし、ある日、夢遊病状態のエミリーがマーティンを刺殺してしまい、彼女は殺人で起訴されることになります。一方で、夢遊病の副作用がありながら、薬を投与したバンクスも非難の対象となり、エミリーはむしろ薬の被害者のような扱いになってきます。エミリーは心神喪失状態であることが認められ、司法取引により殺人罪に問われなくて済むのですが、バンクスは医師としての社会的な信用を失い、さらに過去の女性患者によるストーカー事件も妻の知るところとなり、家庭崩壊の危機に直面してしまうのでした。この薬物投与の殺人はいったいどこへ着地することになるのでしょうか。

「トラフィック」「コンテイジョン」などで知られるスティーブン・ソダーバーグが撮影も兼任(ピーター・アンドリュース名義)した社会派サスペンスの一編です。これで監督は引退だと宣言したそうですから、何事もなければ遺作になるのかな。でも、宮崎駿といい、映画監督って引退を公に宣言する職業なのかなって気がします。黙ってやめりゃいいじゃんって思いますもの。脚本は「コンテイジョン」でソダーバーグと組んでいるスコット・Z・バーンズが書きました。映画の前半は精神を病んだエミリーが自殺願望と薬の副作用の両方から翻弄される様を描きます。非常に不安定な映像の作り方で、エミリーの精神状態を表現していて、その絵はまるでオカルトホラーか心霊映像を見るような不気味さがあります。うつ病というのは、精神の機能がとことん衰えてしまう病気ですが、その回復期の上り坂にかかったあたりで、自殺衝動が起きるというふうに言われています。エミリーは自分の病気については理解しているようで、朝、電車に飛びこみそうになった時にその足でバンクスに相談をかけてきたり、副作用はあっても効果の出ているアプリクサの服用を継続したいと主張したり、それなりに改善の意志を持っています。

アメリカというのは、うつ病がメジャーなのか、この映画の出てくる人の多くが、抗うつ剤の世話になっていて、それなりの知識も持っているようです。抗うつ剤の広告もあちこちに出ていまして、日本よりもオープンであり、抗うつ剤も身近なものになっているようです。この映画に登場するアプリクサという新薬は架空のものだそうです。大体どの抗うつ剤にも何かしらの副作用があり、頭がぼうっとしたり発疹が出たりしますが、アプリクサの場合は夢遊病の症状が現れるという厄介な副作用があります。エミリーは、突然わけのわからない行動をとることがあるのですが、その時の彼女は夢の中で無意識に行動しているようなのです。夢の中で意識をコントロールできない状態で殺人を犯したとき、本人の責任を問えなくなってしまうってのは、不愉快でもあり、でも仕方ないかもって思うところがあります。でも、そういう副作用があることを知っていて薬を投与した医師の責任も問われることになるのには、ちょっと怖いものがありました。このあたりの怖さは3つありまして、一つは本人の承諾を得て投与した薬の副作用がもたらす結果を医師が責任持てるのかということ、そして、医師が意図的に患者に罪を犯させるように薬を投与する可能性、さらには、危険な副作用がありながらそれを販売する製薬会社のモラルが挙げられましょう。その3つがこの映画の中でせめぎあうことになります。エミリーがアプリクサの副作用の延長でダンナを殺してしまったことで、製薬会社の株価は下落し、バンクスは医師としての信用と地位を失ってしまうのです。

しかし、この3つの視点に、もう一つの視点が加わることで、映画は別の展開を見せ始めることになります。これが後半の面白さにつながっているのですが、そのスリリングな展開はなかなかに面白く、ソダーバーグがこんなにエンタメ度の高い演出ができるんだというのが発見でした。娯楽度の高い題材でありながら、何だかモタモタしていた「オーシャンズ11」「エージェント・マロリー」とは別人のごとき娯楽職人ぶりを見せてくれるのですよ。演技陣では、女性陣が印象的で、ルーニー・マーラの病的ヒロインぶり、キャサリン・ゼタ・ジョーンズのあたし腹に一物持ってます感、ヴィネッサ・ショウのダンナ信用できない感がそれぞれお見事でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



エミリーは殺人罪に問われないかわりに精神病院に送られて、バンクスがその経過をみることになります。バンクスは、エミリーの件でマスコミに追われる身となり、さらに製薬会社からの新薬モニターからもはずされ、開業しているオフィスから出て行けとまで言われてしまいます。その一方で、エミリーのこれまでの言動に不審を抱くようになったバンクスは、彼女の言ったことや行動の裏づけを追うのですが、そうするとどうも怪しい点ばかりが目についてきます。そして、彼女は本当にうつ病だったのか、マーティンを殺したときに本当に夢遊病状態だったのかが怪しくなってくるのです。さらにシーバートがアプリクサの夢遊病の副作用についての論文を書いていたのを発見し、彼女も一枚噛んでいるのではないかと疑い始めます。さらに、この事件で株価が下落した製薬会社の株で儲けた人間がいたようなのです。インサイダー取引なら、株の公開日などを事前に知って取引するのですが、殺人を事前に知っていて取引するなんてありえない、もしあるとすれば、最初から殺人計画があって、いつ殺人が起こるのかを知ってる場合です。しかし、エミリーの周辺に金が流れた形跡はありません。

エミリーに記憶の検査のために催眠状態をもたらす薬だと偽って食塩水を投与したところ、なぜか眠り込んでしまうのを見て、彼女が正気なのだという確信を持ちます。しかし、一度無罪になった同じ事件を蒸し返しても判決が覆ることはありません。シーバートとエミリーがどこかでつながっていると睨んだバンクスはエミリーに揺さぶりをかけることにします。自分がシーバートから金をもらったとほのめかし、さらに彼女に電気ショックの治療を受けさせようとし、わざとエミリーの見えるところから、シーバートと親しげに見せたりします。その上で、ずっと病院に閉じ込めておくつもりだとエミリーに言い切ると、エミリーは本当のことを語り始めます。エミリーは最初のうつ病発症時にシーバートの治療を受けるのですが、そこでシーバートをレズの色仕掛けでものにしちゃいます。インサイダー取引で刑務所に入っていたダンナに殺意を持っていたエミリーは、シーバートと一緒に殺人計画をたてます。製薬会社の株を多数持っていたシーバートはそこで、アプリクサの副作用による殺人というストーリーを立てて、それを使って儲けようとします。両者の利害関係は一致、バンクスはたまたま事故時の担当精神科医だったことから、二人の犯罪に巻き込まれていたのです。バンクスは彼女と取引して、彼女を退院させ、シーバートに接近させ、シーバートが殺人事件について語ったところで、警察がシーバートを逮捕します。さらに、バンクスは退院時につけられた条件を使って、エミリーを再度病院送りにすることに成功し、妻も戻ってきてめでたしめでたし。

薬の副作用を巡る社会派ミステリーかと思っていたら、まったく別の犯罪サスペンスになってくるのが意外性があり、社会的信用をなくしたバンクスと、法による保護下にあるエミリーとの駆け引きが見せ場になっていまして、これが面白いのですよ。バンクスは一度はうつ病と診断し、心神喪失で無罪となったエミリーを、実は正気でしたと証明しようとするのですから、立場的に大変です。一方のエミリーは同じ罪で無罪がひっくり返ることはないものの、精神病院でバンクスの診断を受ける立場なのです。前半、社会派のように見せておいて、後半は純粋な犯罪サスペンスとなっていくのは、そうくるの?って感じでして、ソダーバーグの演出も二人の駆け引きをスリリングに見せて、娯楽サスペンスとしての点数が高かったです。決着のつけ方も精神病患者と医師の危うい関係をきちんと押さえたものになっていて、一つ間違えば闇に葬られてしまう事件だったというあたりも見事でした。ソダーバーグの抗うつ剤ものということで、もっとドロドロした展開を予想していたら、最後に白黒がはっきりするってのは、いい意味で期待を裏切られました。

マーティンが株のインサイダー取引で逮捕されたことも伏線になっていますし、エミリーがアプリクサの使用にこだわったり、パーティの席で精神不安定な様子を多くの人に印象付けたり、製薬会社の株価操作まで目論むなど、用意周到な犯罪計画は、やりすぎな感じもあるのですが、精神疾患ってのは、アンタッチャブルな領域があって、そこに悪いやつが付け込む余地がいっぱいあるんだなあってのが面白いと思いました。社会派映画なら、絶対に悪役になる製薬会社がここでは被害者の立場になっちゃうところも皮肉なおかしさがありました。

音楽はいつものクリフ・マルティネスではなく、トマス・ニューマンが担当していますが、マルティネスのタッチを踏襲したアンビエントサウンドになっています。ただ、マルティネスの音のクールさに比べると、ニューマンらしい丸みのある音に仕上がっているのが印象的でした。

「南の島の大統領」はドキュメンタリー映画としてすごくよくできてます。出来すぎな感じも若干。


今回は新作の「南の島の大統領」を横浜ニューテアトルで観てきました。地味なドキュメンタリーだったせいか、初日の初回なのに、私も含めて観客は3人。こういう映画を近場の劇場でやってくれるのは大変ありがたいので、もっとお客さんが入って欲しいわあ。

地上の楽園と言われるモルディブは2000の島々からなる国です。30年に渡るガユーム大統領の独裁政権に対する反対派の政治活動も行われてきたのですが、ガユーム政権はそれを力で弾圧してきました。反対派の筆頭であるナシードは度重なる逮捕、投獄にも耐え、ついに大統領選挙で予想を裏切る票を集めて大統領に当選しました。ナシード大統領がまず直面したのは、島々がどんどん浸食されていくという自然現象でした。世界的な気候変動は、海抜1.5メートルの国の存続を危うくしていました。このまま地球温暖化が進み海面上昇が止まらなければ、国がなくなってしまう。ナシードは世界に向けて、温室効果ガス削減の世界的な取り組みを呼びかけ、2009年のコペンハーゲン会議で、何とか各国の合意をとりつけようとするのですが、温室効果ガス、すなわちCO2を削減するのは、化石燃料の使用を削減せよということであり、発展途上国、そして化石燃料の大量消費国であるアメリカ、中国の合意は得られそうにありません。果たして、ナシード大統領のモルディブを水没させないための、温室効果ガス削減運動は実を結ぶのでしょうか。

ドキュメンタリーの実績のあるジョン・シェンクが監督・撮影をつとめたドキュメンタリー作品の一編です。ガユーム独裁政権を選挙で打ち破り、民主主義をモルディブに持ち込んだナシード大統領の地球温暖化への取り組みを追ったもので、彼の精力的なキャラクターが映画をぐいぐいと引っ張っていきます。ガユーム政権に反対する政治活動を行ったために、投獄され拷問もされたとうナシードは、一時は海外へ亡命していましたが、モルディブを変えるために帰国し、大統領選挙を行わせて、下馬評を覆して、大統領になります。でも、下馬評では、ガユーム優勢だったということは、独裁者と呼ばれたガユームもそれなりの支持を集めていたということになり、単なる善悪の闘いではなさそうです。しかし、国際的にガユーム政権は非難され、ナシード大統領の行動は世界から注目を集めます。ナシードはモルディブに民主主義をもたらし、さらに、自国の海岸線が浸食されてきていることに、国土消滅の危機を感じて行動を起こします。

このままでは、モルディブが海に沈んでしまう。それは世界的な気候異常のせいであり、その原因には地球温暖化があり、さらにその原因に遡るとCO2の増加があるということになり、気候変動枠組条約締約国際会議で、世界各国とCO2削減の合意をしようということになります。私は科学に疎いので、地球温暖化の主たる原因がCO2であるということがよく理解できていないのですが、もう世界ではそれは周知のことになっているようです。後は、CO2の増加を止めるためには、化石燃料をエネルギーにすることをやめるしかないということなのだそうです。森林を増やすよりも、エネルギーの転換の方に話が行くあたりに、何か恣意的なものを感じてしまうのですが、その方が現実案なのかしら。

ナシード大統領は、小国のモルディブを世界にアピールすることによって、地球温暖化阻止のための国際的なロビー活動を行うわけです。いわゆるメディア戦略も積極的に行いますし、イギリス国会や国連で演説もやります。見ようによってはスタンドプレイとも取れるのですが、一方では未来を見据えた行動とも言えます。本当にCO2の排出量の削減が必須であるなら、今、世界がそれを合意して足並みをそろえる必要があります。各国の認識がバラバラでは、CO2を減らすなんてできっこないという前提で、コペンハーゲン会議で何とかCO2削減の世界的合意を取ろうとがんばるのが、この映画の柱になっています。CO2排出量の多い国の筆頭はアメリカ、中国、インドでした。まずインドを説得することには成功します。そしてアメリカもCO2排出量削減に前向きな姿勢を見せます。しかし、中国は端から合意する気はなさそうです。中国はまだ工業化が進展中であり、さらにエネルギーとして石油だけでなく石炭の使っている国です。そういう国で化石燃料の使用を制限するような文書に合意できないというのはわからなくもありません。しかし、大国の中国がそういう態度では他の発展途上国も合意するのやだって言い出すのではないかしら。ナシード大統領は各国の首脳の間を飛び回って何とか合意にこぎつけようと奔走します。会議の最終日は、明け方まで結論が出ないまま議論を続けた結果、CO2削減の世界的な合意に達することができます。

ナシードは当初の目標数値、CO2を350ppmまで削減、気温上昇幅を1.5度に抑えることに固辞するよりも、とにかく会議での合意をとって、次につなげることを選択します。ナシードとしては、何の合意も得られず、結果が残らないことは避けたかったとのですが、モルディブ内部でもそれは妥協ではないかと揉めてしまいます。また、合意の文書の表現にもものすごくこだわります。単にCO2削減せよという文言では、化石燃料に頼る国々を説得できないと、問題解決への取り組みを促す文面に変えるべきだとナシードは注文をつけます。民主主義は、言葉の闘いなのだというのを再認識させるエピソードですが、だからこそ、民主主義こそが未来への希望なのだという見せ方になっています。交渉なのではなく、説得、懇願に近いやり方で、ナシードは合意にまでこぎつけるのですが、各国が平等な立場なのであれば、そういう個別の根回しが必須なんだなあって妙に納得してしまいました。

明確な数値目標を提示して、世間にアピールするというナシードのプレゼン手法はいわゆる王道と呼べるものです。小国が世界レベルの危機への取り組みを語るというところで、さらにメディアの注目を集めます。国を守るためなら何でもやるというナシードのエネルギッシュな行動力は目を見張るものがありました。しかし、2012年にナシードは大統領の座を追われ、今は次の選挙に向けての活動中だそうです。彼を支持しない国民もいるとすれば、その事情を聞きたいかなとも思いました。観光地で有名な場所だけに、外資企業との関わりもありましょうし、お金絡みで、ナシードと対立する勢力もあるんだろうなってことは伺えますが、映画はそこまでは踏み込みませんでした。でも、私は素直に物事を見られないせいか、ナシードの行動がどこの金づるともつながっていないとは思えなくて、そこが気になってしまいました。そう思ったのは、ドキュメンタリーとしての完成度がすごく高かったってところがあります。映像の切り取り方から編集、音楽の入れ方まで、全てにおいて隙のない作りでして、ジョン・シェンク監督の映画作家としての腕前が見事でした。ただし、ドキュメンタリーというのは、事実のある一方向から光をあてて切り取ったものだということも事実でして、その淀みのない語り口に何か隠されたものがあるんじゃないのかって思えてしまったのです。

この映画の主人公自身が、地球温暖化防止を止めるために、どうメディアを有効活用するかということに取り組んでいます。その延長上に作られたドキュメンタリー映画なので、映画自身に何らかの思惑があるような気がしちゃったのです。この問題が、今、手をつけないと手遅れになる、CO2を削減しないと世界が滅ぶという、ある意味、恐怖をあおる映画であるということは、意識しておくべきだと思った次第です。本当に、化石燃料の使用によって大気中のCO2が上昇し、地球の気温が上昇して、海面が上昇するというのであるのなら、今すぐにも、CO2の削減を世界中の目標とすべきだと思います。でも、そこの理屈がよく理解できていない私には若干敷居の高い映画になっちゃいました。

「風立ちぬ」はボンボンとお嬢様のベタな悲恋ものだけど、丁寧な作りに引き込まれます。


今回は、やっと「風立ちぬ」を静岡シネザート2で観てきました。そろそろ上映も一区切りかなと思っていたら、宮崎監督の引退宣言でまた客足が伸びたようで、このタイミングで引退宣言する商売っ気は電通と博報堂の仕掛けなのかな。

いいとこの坊ちゃん堀越二郎は子供の頃から飛行機が大好き。近眼なので、パイロットになれないけど、飛行機を設計したいという夢を持ち、それを実現するために大学の航空学科へ進みます。東京へ戻る記者で関東大震災に遭い、そこで乗り合わせた少女を助けます。その後、三菱に就職した二郎は飛行機の設計を続けます。彼は会社へ頭角を現し、ドイツへの視察旅行にも抜擢されます。そして、責任ある仕事もまかせられるようになります。ある日、高原のホテルへ行った二郎は美しい女性菜穂子と知り合います。彼女は震災の時に助けた少女で、ずっと二郎のことを想っていたのでした。二人は恋に落ちますが、菜穂子には結核という持病がありました。結婚するために菜穂子はサナトリウムに入院しますが、二郎への想いが募り、そこを抜け出して二郎に会いにくるのでした。当時、二郎は特高に目をつけられて会社の上司の家に身を寄せていましたが、その家の離れで、二郎と菜穂子は結婚式を挙げます。寝たきりの菜穂子ですが、二人にとって、そこでの生活は幸せなひと時でもありました。二郎の設計した小型機は、徹底的な軽量化で最高スピードを記録し、それがゼロ戦として歴史に名を残すことになるのでした。

原作・脚本・監督を宮崎駿が一人で担当した、いわゆるワンマン映画でして、それまでの彼の作品に比べても、趣味的というか、やりたい放題やってますという感じの映画に仕上がっています。主人公の夢のシーンやイメージカットがかなり多く挿入されていまして、特に前半はファンタジーの色合いが濃い作品になっています。夢の中では有名なイタリアの飛行機設計者のカプローニが登場し、二郎を飛行機に乗せてくれたり、アドバイスをくれたりします。それ以外にもイメージカットがあちこちに登場して、かなりアートな映画という雰囲気になってきます。飛行機と二郎との関係は意外と淡白な描かれ方でして、飛行機が飛ぶシーンでもこれまでの彼の映画のような飛翔感とか高揚感を呼ぶものにはなっていません。国産飛行機を作るというドラマが1本太い柱になるかと思いきや、基本小さなエピソードの積み重ねによって映画は進行していきます。二郎と菜穂子の悲恋物語もリアリティよりはファンタジーの色合いが濃いものでした。ただ、エピソードの切り取り方が大変見事で、泣かせるお話になっています。どのエピソードも突っ込み浅めでして、愁嘆場にしない演出が成功しています。その分、クライマックスがよくわからないまま、映画が終わっちゃったってところもあるのですが、全体として味わい深い映画に仕上がっています。

大正から昭和にかけてを舞台にしていますが、その歴史の部分の説明はほとんど登場しません。飛行機が兵器として脚光を浴びていることや、ヒトラーの台頭などが語られるのですが、そういう背景には一切深入りしていません。飛行機を作りたい、菜穂子と幸せになりたいという2本柱で物語は進んでいきまして、それだけで2時間余をだれることなく見せきる演出力は見事でした。ただ普通のアニメとは違う普通の映画の演出をしていまして、1カットの間が長かったり、引き絵をじっくり見せるなど動きのない絵もじっくり見せようとしています。また、セリフを極力絞り込んでいるのも印象的でして、その分、要所要所の決めセリフが際立ちました。また、一方でばっさりと時間の省略もされていまして、今の若い人がこの時勢の流れについてこれるのかしらって気がしました。少なくとも日本史を知らない小学校の中学年以下はお話についてこれるのかなあ。

戦争のイメージは意外や希薄でして、そういう意味では、戦争を肯定も否定もしていない作りになっています。それでも、飛行機のスポンサーは軍なんですが、誰が顧客であろうと、主人公は飛行機が作れればOKという設定になっていまして、そこが物議をかもしたのかもしれません。主人公は、遅れた日本の飛行機を世界レベルに引き上げたいという気持ちがあるので、日本のための飛行機を胸を張って作っているわけですが、それを映画では前面に出してこないので、とやかく言うほどのもんじゃないよなあって印象でした。むしろ、当時の感覚なら、お国のために高性能な飛行機を作るってことが大変名誉なことだと思うのですが、そういう視点が全然出てこなかったのが意外でした。

それより面白かったのが、この映画の喫煙シーンの多さにクレームがついたということ。確かにタバコを吸うシーンが結構登場するのですが、それは当時の文化を表現しただけだろうと思います。クレームつける方としては、ウチだって仕事してますアピールなんでしょうが、売名行為が見え見えで笑えました。とはいえ、ある時代を描くのに、当時の文化が現代の価値観に合わないから、無きものにしろってことですから、おかしな話、いや、単に笑い飛ばせない話だと思います。この理屈が通っちゃうと、今の政策に合わない歴史的事実をドラマや映画で描くなって理屈が通っちゃいますの。まあ、言論の自由が守られているのですがら、そういうことを言っても全然OKなのですが、同じく言論の自由として「バカじゃないの?」って笑い飛ばすのがいいのかも。

アニメとしては、淡々としたエピソードを積み重ねる作りになっているので、そこはやや単調。演技で見せる間をアニメでやろうってのは難しいんだなあってのを再認識しちゃいました。やはりアニメは「千と千尋」みたいに、絵もお話も賑やかなな方が華があるのですよ。久石譲の音楽は全編に渡ってドラマを支える音楽をつけていますが、これも劇映画的な音のつけ方でして、地味な絵の部分ではドラマを引っ張っていく音になっています。

二郎と菜穂子の悲恋ドラマはいわゆる一番美しい部分を切り取ったという感じでして、いい泣ける話である一方で、リアルさはありません。そういう意味では、美談という印象が残るのですが、映画全体のファンタジックな空気とうまくマッチしていました。出会いから再会、結婚までの流れがものすごく出来過ぎなのですが、そこをおとぎ話のように描いているのが成功しているように思いました。菜穂子がサナトリウムを抜け出して、二郎と再会するシーンは昔のハリウッド映画を観るようなベタだけど盛り上がりました。

でも歴史のリアリティという点からしますと、宮崎監督はあえて踏み込まないポジションを取っているように見えます。それは海外市場を意識しているからか、共同出資しているディズニーの意向も入っているのではないのかと。この映画に登場する外国は、ドイツとイタリアのみで、当時の日本の敵国にあたる米英は出てこないところからも、当時の日本のポジションを曖昧にしているようにも見えます。まあ、色々と苦労してるんだなあってことは伺えました。

声優陣は、みんな控えめな演技で、映画全体に流れるつつましさ、奥ゆかしさを表現しているのが印象的でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



二郎は飛行機の機体の軽量化のために尽力していました。菜穂子は病床にありましたが、二人は一緒にいられるわずかな時間を大切にして日々を送っていました。二郎に試作機のテストの日、菜穂子は置手紙を残してサナトリウムへ帰っていくのでした。そして、二郎の試作機のテストは大成功をおさめます。そして、場面は変わり、二郎とカプローニの夢のシーンになります。草原のそこここに飛行機の残骸が転がっています。日本の敗戦の後のようで、ゼロ戦は優秀だったがそれが国の破滅につながったという会話がされます。そこへ日傘を差して駆け寄ってくる菜穂子が「生きて」。二郎はあらためてかみ締めるのでした、「生きねば」と。

ゼロ戦のテスト飛行から敗戦まで一気に時間が飛ぶのにはびっくり、そして夢のシーンで映画が終わるのにも驚かされました。結末は「夏草や兵どもが夢の跡」のような後味が残るのですが、それで飛行機の歴史が終わっちゃったのかなと思わせるのは監督の意図したところなのかしら。見方によっては主人公が飛行機の呪縛から解放されて、リアルな人生に始めて向き合ったとも思えます。そう思うと、菜穂子の悲劇が余計目に胸を打つ映画でもありました

「スーサイド・ショップ」は悲喜こもごも、ブラックと感動、相反するものの盛り合わせを楽しめればマル。


今回は新作の「スーサイド・ショプ」を川崎チネチッタ5で観て来ました。3Dだぞって予告編を観てこれはパスだなあって思っていたのですが、2Dでパトリス・ルコントということで劇場に足を運びました。

街は陰鬱な空気に包まれ、人々は死にたい願望が高まってあちこちで自殺していきます。そんな街で繁盛してるのが「自殺用品店」。ミシマとルクレス夫妻と息子のビンセント、娘のマリリンが、トゥヴァシュー家代々のお店を継いでいまして、一見さん専門のお店ながら、繁盛していました。一家の価値観は人生は苦しくて悲しく、笑いも希望もないのが人生さとなかなかに達観してます。それが一家だけでなく、街中がそんな空気になっちゃっています。ところが、トゥヴァシュー家の第3子アランが生まれたことから様子がおかしくなってきます。アランはいつもニコニコしているし、考え方もポジティブ。そんなアランの態度にまずマリリンに変化が見えてきます。アランのねえさん美人だよという言葉に陰気さが消えていきます。ミシマもルクレスも自殺用品店という稼業に後ろめたさも感じてはいるのですが、保守的ネガティブな性格はむしろ明るいアランを疎んじるようになります。何しろ自殺グッズに仕掛けをして自殺を阻止しちゃう親不孝な子供なのですよ、このアラン。でも、相変わらず店は死にたい人であふれています。そんな店に一矢報いたいと思ったアランは友達と一緒にある計画をたてるのでした。

ジャン・トゥーレの原作を、パトリス・ルコントが脚色、監督したアニメーションです。ルコントの映画は、「仕立て屋の恋」を観て面白い映画を撮る人だなあと思って、その後「髪結いの亭主」「橋の上の娘」「フェリックスとローラ」「親密すぎるうちあけ話」などを観ていますが、どの映画も悲劇であり喜劇でもあるという、悲喜こもごものバランスが面白い映画でした。そんな彼が「自殺用品店」を舞台にアニメーションを作るというので、どういう映画を作ったのだろうという興味がありました。悲喜こもごもの盛り合わせに妙な味わいのあるルコント監督だけあってか、そのブラックな掴みから、ラストの大団円まで、かなりの振り幅になっています。

冒頭は灰色がかった街で人々は希望を失い自殺者がいっぱいです。みんな生気のない死にそうな顔ばかりが、肩をすくめてとぼとぼと歩いています。街中を飛ぶ鳩でさえ、そんな人間の状況を見てか、自殺しちゃうという有様。基本的に自殺は違法なんですが、その後始末も自殺者に違反キップをきって後は放置というドライなもの。なぜ人々が希望を失っているのかという理由は描かれませんが、とにかく人生辛いことばかりで生きてくことは苦しみばかりというのがその理由のようです。そう言われるとなんとなくわかるわあって気もしてくるのは、私が人生くたびれたオヤジだからでしょうか。そんな中で自殺し損なった男に、老紳士が声をかけます。自殺するなら、遺族に迷惑をかけないように、そしてヘタに死に損なわないように確実にやらないとダメだと説教した後、路地裏へ男を連れて行きます。そして、そこにあったのが、自殺用品店だったのです。男をトゥヴァシュー一家が迎えます。とここから突然ミュージカルになるというか、一家が店の紹介する歌を歌いあげるのです。この後も歌のシーンがあちこちで登場しまして、冒頭の陰気な空気がブラックな笑いへと変わっていきます。首吊り用の縄にピストル、カミソリ、毒薬、さらにはハラキリ用の日本刀まで、ありとあらゆる自殺グッズが揃っていまして、失敗したら代金返金という非常に良心的なお店です。客層はお年寄りから若者、夫婦連れとか様々で、かなり繁盛しているみたい。

一家の空気はメチャネガティブ、でもこの仕事を続けなきゃいけないから自分たちは自殺できないんですって。それが、三人目の子供アランが生まれてから調子がおかしくなってきます。アランはいつも笑顔で考え方もメチャポジティブ。家風に合わない親不孝ものってことになるのですが、本人はあまりそんな自覚はなくって、とにかく陰気な街の空気が嫌いで、みんなが笑顔になればいいのにと思っています。アランのストレートなキャラクターはそこまでのブラックな展開にそぐわない感じなのですが、父親のミシマ(この名前からして、この主人は日系人なのか。最後は日の丸ハチマキで日本刀振り回すし。)はそんな息子にタバコを吸わせて殺そうとするあたりの屈折しすぎな展開がアンバランスというか、お話のベクトルが両極端に振れまくりなのですよ。それが面白いと言えば面白いのですが、こちらの想定外の展開は、ついていくのがちょっと大変。

アランは陰気な姉のマリリンにスカーフをプレゼントして「美人だよ」と言うと、マリリンも悪い気はしなくて、笑顔が戻ってきます。そして、夜中、プレゼントされたスカーフを身にまとって全裸でセクシーに踊るマリリン、それをアランと友達が覗き見しているという、これまた妙な趣向な取り合わせのシーンとなります。陰気な空気を打ち破る要素にセックスを持ってくるのはわからなくもないのですが、ぽっちゃり体系のマリリンのストリップという見せ方は「おお?へえ。」てな感じでした。そのシーンが結構セクシーに作られているのですよ。そして、マリリンは陰気キャラから脱皮していきます。その一方でミシマはアランに逆の感化をされたのか心労でダウン。

この映画の自殺の描き方はかなりあっけらかんとしたもので、自殺した死体が転がっているのをちゃんと見せますし、登場する自殺志願者のほとんどは本懐を遂げています。アランによって自殺に失敗する人もいることはいるのですが、まあそれは例外という感じ。自殺者に対しての同情的な視線はなく、気の持ちようがヘタな結果の自己責任だという見せ方になっています。だからこそ、個々の人間の心のあり様が重要なのだということらしいのです。誰かが自殺したことで悲しむ人間が登場しないあたりは、日本の自殺の持つイメージよりはずっとドライな感じがしますが、そのクールなタッチがラストで、大きな振れ幅でひっくり返るあたりは、その物語の構造を笑うべきなのか、語られるメッセージをストレートに受け取るべきなのか、ちょっと困っちゃいました。日本だと、自殺ってのがすごくデリケートな問題で、うかつに白黒つけるのもはばかられるから、そう思えたのかもしれません。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



この街の陰鬱な空気に一矢報いたいアランは、友達と一緒に店の前に車を持ってきて、大音量の音楽で、店中を揺さぶって、自殺グッズを壊滅状態にしちゃいます。ちょうどその場所に居合わせた青年とマリリンが一目で恋に落ちてラブラブになります。店がムチャクチャになって逆上していた母親も若いカップルに笑顔となり、青年の作ったクレープをみんなで食べて和気藹々となるのですが、そこへベッドから降りてきた父親のミシマが逆上、日本刀を振り回してアランを追い掛け回します。そして、ビルの屋上へ追い詰められたアランはそこから身を投げます。でも、友達が下でシートを構えてトランポリンみたいに跳ね回るアラン。そして、父親の物まねをして、ついにはミシマを笑わせることに成功します。自殺洋品店はクレープ屋に商売替えして大繁盛。人生楽しく生きなくっちゃというナンバーをみんな歌い上げてめでたしめでたし。最後には、それまで自殺したみなさんの霊まで登場するという念の入れようでした。

トータルな物語としては、すごくいびつ。ラストのあっけらかんとした宗旨替えには、マジで人生賛歌をテーマにしているのか、この振れ幅も含めたブラックコメディなのかよくわからなくて、どう笑っていいのか困ってしまいました。ただ、自殺というものを、自己否定とか社会への絶望といった、原因をさかのぼることをせず、自殺は自殺でしかないという描き方にしていますので、ブラックコメディとして観るのが正解かなって、後になって気づきました。

予告編で観たとき、自殺用品店に生まれた子供がメチャポジティブだというお話だったので、それは設定はブラックだけど、お話はストレートに楽しいのなって気がしたのですが、本編はもっとブラックの根が深くて、楽しむには、その濃い目のブラックを笑い飛ばせるメンタルが必要な映画でした。まあ、フランス版「生きねば」という話だと思えばいいのかな。

あえてサントラアルバムで聴く事をオススメする映画

映画音楽のサントラ盤というのは、映画の感動を追体験するといった意味合いで作られるものがあります。昔はセリフ入りサントラ盤というのが結構ありまして、有名どころでは、ブルース・リーの怪鳥音入りのサントラテーマが挙げられましょう。今のサントラ盤にはセリフ入りは見なくなり、映画の音楽を独立して楽しむという意味あいがつよくなっています。そのサントラ盤を聴いてみると、こんな音楽が流れていたのかと驚かされることがあります。その理由としては、映画のために作曲された曲が最終的に使用されなかったり、あるいは使用されたけど、曲のほんの一部分だったりというケースです。さらに、サントラ盤はアルバムとして聴くことが前提となっていて、そのための曲構成にとっているものがあります。映画で使われた音源でなく、作曲家が再録音することで、オリジナルとほぼ同じで、かつ音楽として聴き応えがあるものもあります。

実際に映画で聴くよりも音楽を堪能できるサントラ盤をいくつか挙げてみます。

1、「エクソシスト2」(作曲 エンニオ・モリコーネ)
この記事を書くきっかけになったのが、この映画をDVDで観たことでした。モリコーネがバラエティに富んだ音を書いているのですが、それが十分に映画の中では聴き取ることができませんでした。愛のテーマとも言うべき「リーガンのテーマ」は、印象的に流れるのですが、悪魔のテーマやアフリカを描写する曲などは、流れてきてもほんのちょっとでした。これがサントラ盤を聴いてみると、大変面白い音作りのされた現代音楽になっていることに驚かされます。特にビートの効いたロックナンバー、パズズのテーマはテレビのCMで流れて大変印象的で、これが映画のテーマ曲かと思ったのですが、このアレンジは本編では登場しません。サントラ盤では、映画に使われた頻度ではなく、音楽のバリエーションの楽しめる構成になっていますので、映画をご覧になって、モリコーネの音楽がリーガンのテーマだけだなあと不満に思われた方はお試しいただきたいです。



2、「エイリアン」(作曲 ジェリー・ゴールドスミス)
リドリー・スコットが監督したSFホラーの音楽は、ゴールドスミスが担当したのですが、オープニングやエンディングで大幅に差し替えが発生して、その経緯がひどいよねえって記事も読んだことがあります。映画公開時に発売されたサントラ盤は(CDじゃなくてLP)、ライオネル・ニューマン指揮によるナショナル・フィルハーモニック・オーケストラの演奏で、ゴールドスミス自身のプロデュースによるアルバムです。これがてっきり映画で使われてると思ってたら、メインタイトルからして曲が違うぞと思った記憶があります。最近になって映画で使われた音楽の入った完全盤というのも発売されたのですが、音楽として聴くには公開時のサントラ盤の方が聴き応えがあり、こっちの方がゴールドスミスの音を堪能できます。オーケストラによる静かな宇宙の描写から、ドライなテーマがうねるように展開するメインタイトルは圧巻です。この映画の冒頭に置くには鳴り過ぎなのかもしれませんけどやはり聴き応えのある曲で、この映画の音楽はサントラ盤で堪能していただきたいと思います。


3、「フューリー」(作曲 ジョン・ウィリアムズ)
ブライアン・デ・パルマ監督の超能力サスペンスものですが、ここでウィリアムスはロンドン交響楽団をフルに鳴らして交響組曲とも言える重厚な音楽を作り上げました。これは映画の中で聴くだけじゃなく、音楽として切り出して聴いて楽しみたいという意味でサントラ盤をオススメしちゃいます。最近、完全盤というのが発売されましたが、それによると公開当時のサントラ盤は映画に使われた音源とは別にサントラ盤用に録音されたようです。完全盤とかデラックスエディションいうのは、映画で流れた曲とか映画のために作曲された曲を全て取り込んだことを売り物にしているのですが、コレクターにはうれしくても、アルバムとして聴くと、何だか冗長で、公開当時に出た不完全だったり別録音だったりの方が楽しめることが結構あります。「エイリアン」「サスペリアPART2」とかの完全盤というのをゲットしたこともあるのですが、オリジナルの方がアルバムとしての完成度は遥かに高かったです。まあ、完全盤にそういうのを期待するのが邪道だと言われそうですけど。


4、「遊星からの物体X」(作曲 エンニオ・モリコーネ)
自ら音楽を書くことの多いジョン・カーペンター監督作品の中で、イタリアの巨匠が音楽を担当したという珍しい作品。シンセサイザーによるベンベンサウンド全開のメインテーマのみが印象に残りがちなのですが、サントラ盤を聴き直してみると、現代音楽の色々なサンプルが聴けて、また別の楽しみができます。メインタイトルには、モリコーネではなく、カーペンターとアラン・ハワースによるシンセサイザーによるドヨーンビヨーンな音が流れ、映画のオープニングとクライマックス前、そしてエンドクレジットには、モリコーネによるシンセベンベンサウンドが流れるもので、全編シンセサイザー音楽の印象を与えがちなのですが、その一方で、オーケストラによるミニマル音楽などもきっちりと盛り込まれているのですよ。ただ、オーケストラ音楽の方は映画の中ではちょっとしか流れないので、サントラ盤で聴き直すと、こんなに面白い音が作られていたのかとびっくりさせられます。円熟期のモリコーネは、モリコーネ節とも言うべき、ある種の定番パターンがあるのですが、この映画では、そのパターンに収まらない実験的サウンドが素晴らしく、このサントラ盤は現代音楽のアルバムとしても大変面白いと思います。


5、「カジュアリティーズ」(作曲 エンニオ・モリコーネ)
これまたモリコーネの作品ですが、ブライアン・デ・パルマ監督のベトナム戦争告発ものの一編に大変ドラマチックな音楽がつけられました。特に5分以上に渡るメインテーマの盛り上げがすごく、この1曲だけで涙が出てくる感動がありました。でも、映画の中では、フルに1曲流れるような場面はなく、この音楽の感動を味わうためには、サントラ盤をゲットする必要があります。アルバムを聴くとテーマ曲以外でも名曲と呼べる腹応えのある曲が入っており、これは音楽として聴き直す価値が大きいと思います。



最近のサントラ盤は、収録時間を長くして、使われた曲をありったけ収録しているのが多いのですが、そうすると、映画の記憶を呼び戻すことはできても、アルバムとして聴くとあまり面白くない。昔はLPの収録時間の関係もあって、30分から40分程度のものが多かったのですが、そのくらいがちょうどいいのではないかと思っています。また、今はなくなってしまいましたが、サントラのシングル盤というのも、音楽を聴くという意味ではなかなか捨てがたいものがあります。昔は映画音楽のスコアがヒットチャートにのぼることもあったそうですから、全ての音楽ファンに向けてサントラ盤が作られていたのかもしれません。(80年代の主題歌の台頭以前の、50年代から60年代のお話。)しかし、今や映画音楽のスコアはいわゆるサントラファンというマニア向けのものになってしまったので、イージーリスニング的な要素が少なくなり、いかにたくさんの曲を収録するかにその重きを置いてしまったように思います。

「ホワイトハウス・ダウン」はサービス精神テンコ盛りがうれしいエンタメの逸品。


今回は新作の「ホワイトハウス・ダウン」を川崎チネチッタ10で観てきました。やけにシネコンが混んでいると思ったらアニメ「あの花」の初日だったようです。やはりアニメは強いんだなあ、グッズも売れるしと思うとシネコンがアニメばっかになるのも仕方ないのかなあ。でも、いい映画も隙間に入れといてね。

ソイヤー大統領(ジェイミー・フォックス)は、中東から米軍を撤退させ、中東各国との平和条約を結ぼうとしていました。しかし内外に反対意見も多く、その法案可決には微妙な空気が立ち込めていました。下院議長(リチャード・ジェンキンス)の警備をしているジョン(チャニング・テイタム)は大統領のSPになりたい希望があり面接を受けるため娘のエミリー(ジョーイ・キング)と一緒にホワイトハウスにいました。しかし、そこで大爆発が起こり、混乱の中で武装した連中が入り込んできて、ホワイトハウスは乗っ取られてしまいます。その首謀者は引退を控えたSPのトップであるウォーカー(ジェームズ・ウッズ)で、侵入部隊のリーダー、ステンツ(ジェイソン・クラーク)をコントロールしていました。ツアー客と一緒にいた娘がトイレに行った隙に侵入部隊に制圧されそうになったジョンは娘を探すために逃げ出すのですが、そこで偶然、ソイヤーに銃を向けるウォーカーを発見、銃撃戦の末、ソイヤーを救出します。しかし、ホワイトハウスの中枢は押さえられたまま、ウォーカーは4億ドルのキャッシュを要求してきます。しかし、彼の狙いはそこにはなさそう。そして、ステンツたちは、ホワイトハウスで大統領を探し回っていました。一方、エミリーが犯人たちの映像を撮影してYouTubeにアップしていたことが、ステンツたちにばれて人質の中でもマークされてしまいます。果たして大統領は無事に救出できるのか、そして、エミリーの運命は?

そういえば「エンド・オブ・ホワイトハウス」という映画があったという記憶が新しいうちに、またしても、同じネタの映画が出てきたので、二番煎じなんじゃないのと思いつつ、監督がローランド・エメリッヒだというので食指が動きました。この人の映画って「インデペンデンス・デイ」「ゴジラ」「デイ・アフター・トゥモロー」「もうひとりのシェイクスピア」ぐらいしか観ていないのですが、お話や設定は置いといて、サービス精神あふれる娯楽映画を作る人という印象があり、この映画もネタは二番煎じでも面白い映画になっているのではないかという期待がありました。実際にスクリーンに臨むと、期待以上に面白くできていまして、登場人物の丁寧なキャラ設定や、悪役の動機や行動を丁寧に描いて、人でなしとして切り捨てていないところなど、一本の映画としての満腹感が十分あり、ユーモアもたくさん盛り込んでいて、単なる殺伐な映画になっていないところなど点数高いです。またドイツ人であるエメリッヒらしい視点も交えて、面白い視点を持ったエンタテイメントとして、オススメ度高いです。そのサービス精神は今年のインド映画「きっとうまくいく」に匹敵すると言ったら誉め過ぎかしら。

冒頭で、大統領は中東から米軍を全面撤退して、中東各国と平和条約を結ぶという演説をします。その時に「これまでやってきたことは過ちだった」をアメリカの非を認めているところが面白いと思いました。世界に冠たるアメリカというより、ちょっと謙虚なんですよ。「デイ・アフター・トゥモロー」でも、謙虚なアメリカ政府という見せ方をしていて、「おや?」と思わせたエメリッヒですが、娯楽アクションでこういう視点を盛り込むあたりはなかなかの曲者かもって気がしています。また、法案に反対するのが軍需産業とその息がかかった政治家だと言い切るあたりもなかなかやるなあって感心。その一方で愛国心とか忠誠心にも敬意を表しているあたりのバランス感覚は見事だと思いました。さらに、犯人側も単なるテロリストではないという描き方をしておりまして、政府がやったことで、息子を失ったり、タリバンに捕らえられた挙句、その作戦自体がなかったことにされたりという動機が提示されています。犯人の中には金目当ての傭兵もいるのですが、それだけじゃないという描き方をし、かつ犯人側の一人ひとりの顔が見えるようにして、ドラマに厚みを加えています。2時間12分という結構長い映画なのですが、登場人物の肉付けをきっちり行った結果、その尺になったようで、その目配りは映画を観たという満腹感につながりました。

また、「アメイジング・スパイダーマン」のジェームズ・ヴァンダービルトの脚本も丁寧に伏線をしかけて、きちんと全部回収するあたりに娯楽職人のうまさを感じさせます。特にジョンが忘れていた娘の発表会のフラッグトワリングまで後で効いてくるとは思いませんでした。その娘が、父親や大統領よりもヒーローになっちゃうというあたりのおかしさもあり、あちこちに盛り込まれたシリアス、アクション、笑いといった趣向全てが、この映画を面白くするのに貢献しているのが見事だと思います。派手な見せ場のつるべ打ちなので、バカ映画のように思われがちなエメリッヒ映画ですが、この映画は意外と細かい芸を見せて、万人向けエンタテイメントに仕上げています。特にアメリカに対するちょっとだけシニカルな視線は他の娯楽大作には見られないもので、かなり点数の高い映画だと思います。「エンド・オブ・ホワイトハウス」との違いを一言で言ってしまうと、サービス精神の違いではないかしら。同じネタを扱っていても、こっちの方が安心して楽しめるってところがあります。じゃあ、単なる甘ちゃんな映画かというと、大統領が核ミサイルを発射しろと脅され、ジョンの娘に銃がつきつけられたとき、ジョンの娘の目を見て「何百万人の犠牲が出るからそれはできない」と言い切るあたりは、他の映画では見られない名シーンになっています。

演技陣では、チャニング・テイタムがヒーローなんだけど二枚目半のキャラになっていて、これがなかなかはまっていました。生硬な役が多かった彼には新境地を開拓したことになるのかも。ジェイミー・フォックスは大統領の威厳がまるでないのが面白く、定番破りのキャスティングが成功しています。ジェームズ・ウッズは、単なる悪役ではないけど、どこか狂ってるキャラを抑制した演技で好演しています。その他、リチャード・ジェンキンスは、大統領と法案で対立する下院議長を説得力のある演技で見せてくれます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ソイヤーは対策本部に連絡し無事であることを伝えるのですが、ホワイトハウスを脱出しようとしたジョンとソイヤーの車が銃撃を受けてプールに飛び込んだことで、大統領が死んだと思われて、避難して専用機上にいる副大統領が臨時大統領となり、軍のへりによる攻撃をかけようとします。一方、ホワイトハウスの地下には、有名なハッカーがいて、ミサイルシステムを掌握しつつありました。ヘリの攻撃は対空砲の攻撃を受けて失敗、ジョンとステンツは格闘となったときに、ホワイトハウスの入場チケットがステンツに渡り、ジョンとエミリーの関係が知られてしまいます。ウォーカーはエミリーに銃を突きつけて、大統領を出せと脅します。ウォーカーはなぜか核システムの解除コードを知っていて、それとソイヤーの指紋を押して、ソイヤーを撃ち、核ミサイルの発射先を入力し始めます。一方、対策本部はソイヤーが死んだと思い込み、ホワイトハウスの空爆命令を出します。爆撃機はホワイトハウスまで迫るのですが、その時、市民はホワイトハウスから離れようとしません。さらに、エミリーが大統領旗を振って爆撃を止めようとすると、パイロットは爆撃はできないと命令を拒否して爆撃を中止。ホワイトハウスの中では、核ミサイル発射の為の最後の入力ボタンが押される寸前で、ジョンが装甲車で突入し、ミサイル発射を食い止めることに成功します。ソイヤーも一命を取りとめ、エミリーは一躍世界的なヒーローとなります。しかし、ウォーカーが解除コードを知っていたこと、それがポケベル経由で送られたことから、真の黒幕が下院議長であることがわかり、彼は逮捕されるのでした。そして、ジョンは大統領SPとして、エミリーは大統領を救った英雄として大統領専用機に乗り込むのでした。めでたしめでたし。

コメディリリーフとして登場するツアーガイドを途中で殺さず最後に花を持たせた采配も楽しく、ミサイルシステムをハッキングするハッカーが間抜けな死に方をさせるなど、この類の映画の展開とは若干はずした面白さもあり、娯楽度ポイントの高い映画になっています。でも、その中で、損得関係なく中東和平を喜ばない人間がいるということをきちんと描いていたり、テロリストの動機がアメリカの政策によるものだったとか、黒幕の向こうにはやっぱり軍需産業がいるらしいという結末にしたりとちゃんとスパイスを利かせたうまさは評価してよいと思います。

確かにご都合主義は満載だし、突っ込みどころも山ほどなのですが、映画を観ている間はそれを忘れさせる語り口のうまさと緩急の妙があり、映画としての満足度は高かったです。群集シーンや市街地を飛ぶヘリ、破壊されたホワイトハウスの外観などCGがかなり使われているようですが、CGっぽさが気にならなかったのは演出のうまさなのでしょう。

「エンド・オブ・ウォッチ」はポリス・アクションでない警官ドラマとして見応えあり。


今回は、新作の「エンド・オブ・ウォッチ」を丸の内TOEI2で観て来ました。ここは、丸の内東映パラスからシネシャンゼリゼと名前が変わってきた映画館ですが、映画館としての作りは昔ながらでして、フラットな場内でやや低めのスクリーンで前の人の頭がギリギリ邪魔になっちゃう全席指定席には不向きな映画館。

ロスの犯罪多発地域サウルセントラルのパトロール警官であるテイラー(ジェイク・ギレンホール)とサヴァラ(マイケル・ペーニャ)は名コンビ。テイラーは仕事場に小型カメラを持ち込んだり、胸に隠しカメラをつけたりして何やら映像作品を作ろうとしているみたい。この街では、黒人とメキシコ人の間で抗争が続いていて、時として血生臭い事件に遭遇することもあります。幼児虐待を見つけたり、火事の家から子供を助けたりなんてこともありますが、メキシコのヤバイ麻薬組織の秘密捜査に割り込んでしまうこともあり、常に緊張が強いられる仕事です。愛妻家のサヴァラに対して遊び人風のテイラーですが、そんな彼がジャネット(アナ・ケンドリック)と知り合い、終には結婚することになります。ある日、老婦人の生存確認を頼まれた二人は、その家で、老婦人の死体、さらに拷問されて惨殺されたたくさんの死体、そして大量の麻薬を発見します。そして、二人は命を狙われることになってしまうのでした。

「トレーニング・デイ」の脚本で注目され、警察ドラマ「フェイク・シティ」の監督でもその手腕を見せたデヴィッド・エアーが脚本、監督をした、これまた警察ドラマの一編です。犯罪アクションとも違いますし、ポリスアクションでもない、犯罪多発地域のパトロール警官コンビの日々のエピソードをリアルに描いた人間ドラマになっています。犯罪多発地域の警官というと、組織の手先だったり賄賂を取っていたりという悪徳警官のドラマが多いのですが、この映画の主人公テイラーとサヴァラは仕事にプライドを持ったマジメな警察官として描かれます。そして、パトロール中の二人の会話シーンがやたら多い映画でして、日々の警察官の公私をスケッチ風に描いたエピソード集のような作りでして、その中から、二人の信頼関係ですとか、リアルな人間としての警察官の姿が浮かび上がってくる仕掛けになっています。

パトロール警官の仕事というと市民への奉仕的な仕事も多いのですが、犯罪多発地域だけに、他の地区に比べてカーチェイスとか銃を抜くことが多いです。所帯持ちのサヴァラはそんな物騒な日々と、家庭人としての顔をうまく両立させて、奥さんともラブラブみたい。一方、キャリアアップを考えているテイラーは大学進学や刑事昇進のために手柄を立てたいと思っています。映画は、主人公二人の日々の仕事を長い期間に渡って、淡々と描いていきます。そのエピソードの羅列の中から、血生臭いサウスブロンクスという場所の怖さと生活感が伝わってきて、おまわりさんも大変だなあってところが浮かび上がってきます。そして、普通の人間であるおまわりさんが時にはヒーローとなり、時には犠牲者となる世界から、普段はスクリーンの向こうにある風景が実は地続きであることが見えてきます。

パトロール風景がメインであるのですが、その中にタイラーの結婚式であるとか、サヴァラの妻が出産するというエピソードが挟み込まれます。また、パトロール中の二人の会話も日々の生活での出来事がメインとなっていて、二人の関係の深さが伺える作りとなっています。私の感覚だと同僚というだけでここまでプライベートをオープンにすることはないのですが、お互いに「アイ・ラブ・ユー」なんて言葉を使いますし、戦友というべき絆が二人の間にあるようです。それだけ過酷な仕事であり、生活人として均衡をとるのが難しい仕事なんだなあってのが、伝わってきます。パトロール中に遭遇する事件というのは、メキシコ人集団が黒人集団を機関銃で襲撃するとか、幼児虐待、不法入国者の監禁、目をナイフで刺された警察官、死体と麻薬がごろごろ転がっている家の捜索など、ハードなものがいっぱい。そういう血生臭いエピソードと二人の世間話みたいなのが交互に出てくるという作りになっています。あくまで、パトロール警官の視点から描かれているので、遭遇した事件の詳細や決着まではわかりません。麻薬カルテル絡みの事件ですと、連邦捜査官から身の危険があるから、知らない方がいいと言われることもあります。連邦捜査官もパトロール警官に傲慢に出るのではなく、本気で彼らの身を案じているところがあり、捜査官自身が危険な状況の中で捜査を進めているのだという見せ方になっているのは、なかなかの気配りだなって感心。やたらと警察官同士の結束を鼓舞する人間ですとか、その裏で不正を働く警察官が出てこないのが、従来の警察ドラマと違うリアルな見応えとささやかな感動を運んできます。

ビスタサイズのスクリーンに展開される映像は、劇中カメラで録画された揺れる映像がチャンポンになっていて、さらにカット割りが短いので、目が疲れるのがマイナスポイント。ストリートギャングの方にもカメラを持ち歩いているのがいて、その映像もどんどんインサートされてきます。色々な映像がYouTubeにアップされるご時世では、誰もが映像の記録者になるんだなあって、そこんところは納得しちゃいました。主人公二人の生活感ある演技が見事で、特にクセのある脇役として有名なマイケル・ペーニャが主役を演じきったのが印象的でした。他には知った役者は見かけなかったのですが、各々のリアルな生活感とか仕事への取り組みが伺える演技で、警察ものの定番である警官の集団ドラマを支えています。テイラーの恋人(後半は奥さん)を演じたアナ・ケンドリックがどっかで見たことあるなあと思っていたら、「マイ・レージ・マイ・ライフ」で若い首切りスタッフを演じていました。この映画の中で一輪の花のようなポジションを演じていて魅力的でした。確かに見た目は美人さんなんですが、単に美人なだけではこのドラマの一輪の花にはなりえず、そこは役者さんなんだなあって感心。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



テイラーとサヴァロが老婦人の生存確認のために向かった家には、バラバラ死体の山と大量の麻薬が残されていました。二人にとってはお手柄でしたが、それにより、二人を殺すよう麻薬カルテルのボスからの指令が下ります。そんなこととは露知らない二人が普段の通りパトロールをしていると、突然メキシコ人ギャングの集団から襲撃を受けます。応戦しながらも、逃げ回る二人ですが、路地に逃げ込んだときに、テイラーが撃たれてしまいます。駆け寄ったサヴァロの背後からギャングたちが迫ってきて、機関銃の一斉掃射を受け、サヴァロはテイラーの上に倒れこむのでした。そして警察葬儀の日、命を取り留めたテイラーがサヴァロの死を悼む言葉を述べる直前で、襲撃前の二人のパトカー内の画面に変わり、二人のいつもの与太話が流れ、暗転、エンドクレジット。

ラストの銃撃戦は、戦争映画みたいなリアルな迫力で、見応えがありました。そして、二人とも死んだんだろうなと思わせて、テイラーが生き残るサプライズがあるのですが、そこでテイラーが相棒への心情を吐露する愁嘆場を見せずに二人の会話で終わらせる演出が見事でした。普通の映画なら、テイラーの一人語りを延々と見せそう(特に日本映画だと)なものですが、そこをあえてカットしたセンスは買いです。映画としては、一本のストーリーとしてじわじわと盛り上がるお話ではないのですが、犯罪多発地域の異常な日常のスケッチという構成は映画的な興奮があり、ラストも甘くない後味ではあるのですが、盛り上げすぎないじわじわとくる感動のある映画でした。
プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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