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「地球爆破作戦」の理性的にもたらされる平和の発想が面白い


今回は、DVDで「地球爆破作戦」を観ました。以前から気になっていた映画だったのですが、DVDがアマゾンで1000円をきっていたので、手が出ました。1970年のアメリカ映画でして、今、観ると古さは否めないものの、面白い映画に仕上がっていました。

アメリカで極秘開発されていた巨大な防衛コンピュータ、コロッサスがいよいよ本稼動することになりました。大統領(ゴードン・ビンセント)と開発者のフォービン博士(エリック・ブレードン)はコロッサスの稼動をアメリカ中に宣言します。しかし、その直後、コロッサスは他のシステムを発見したとメッセージを出します。それは、同時期に稼動したソ連の防衛システム、ガーディアンでした。コロッサスは、ガーディアンとの接続を要求します。フォービンがそれを許すと、コロッサスとガーディアンは通信を始め、コンピュータ間の特殊な言語で会話を始めます。何かおかしいと感じ始めた米ソ首脳は、回線の接続を指示しますが、接続を切られたコロッサスは通信の再開を要求。それを拒否したら、米ソから核ミサイルが発射されます。あわてて、米ソから回線を再開させ、ソ連のミサイルは迎撃に成功しますが、タッチの差でアメリカのミサイルはソ連のコンビナート地区を破壊してしまいます。核兵器を押さえたコロッサスとガーディアンは、それを使って、両国政府にどんどん要求を出してきます。ガーディアンは、モスクワ攻撃で脅して、開発者を殺させ、コロッサスはフォービンを24時間監視の状態におきます。何とか、コンピュータを出し抜こうと画策する研究者や政治家、軍部。しかし、人の命を奪うことに何のためらいのない、コンピュータには、泣き落としも嘆願も意味はありません。果たして、世界はコンピュータの軍門にくだってしまうのでしょうか。

D・F・ジョーンズの原作を、「ペーパー・チェイス」「チャイナ・シンドローム」の脚本監督をしたジェームズ・ブリッジスが脚色し、「サブウェイ・パニック」「ジョーズ4 復讐篇」のジョセフ・サージェントがメガホンをとりました。スペクタクルで見せる大作ではありません。ただ、コンピュータ室や、管制室のセットは手がかっていることがわかり、雰囲気描写は見事でした。コンピュータへの指示は音声で可能。コンピュータの意思表示はディスプレイに示されるので、一応会話の形で意思疎通できるようになっています。コンピュータはあちこちにあるデータを吸い上げてどんどん賢くなっていき、さらにソ連の軍事コンピュータとも接続して、人間に対して命令を出すようになってきます。コンピュータの暴走というSF設定を丁寧に描くことでそれなりのリアリティがあるお話になっていまして、コロッサスというコンピュータが防衛システムを全て牛耳ってしまうという設定を気にしなければ、結構怖くて面白い映画になっています。1970年代には、まだそれなりにコンピュータに信頼感があったようで、外部から侵入してくるハッカーの心配もなく、人為的バグによる暴走といったリスクもない時代の映画だということはできます。何しろ、大統領がテレビでコロッサスの発表をするとき、コンピュータは人間のように迷ったり間違ったしないと満面の笑顔で言い切ります。映画は、大統領を思慮の浅いバカオヤジという描き方はしていないので、このコンピュータへの信頼感は時代の空気だったのかもしれません。パソコンなんてものがない時代、一般市民がコンピュータがどういうものかよく知らない時代でしたから、コンピュータからSF的な発想を膨らます自由度はかなり高かっただろうということが伺えました。

コロッサスは、自分の要求が受け入れられないと、自分がコントロールしている核ミサイルを何のためらいもなく発射しちゃいます。その一切の駆け引きをしないクールさは、人命尊重とかよりも、自分が世界を掌握することを優先していて、そのやり方に一切の妥協がない、究極の合理性ということが言えます。コンピュータが合理的に決断するというのは、そういうふうにプログラミングされているからですが、コロッサスはどんどん知識を吸収するとともに、プログラムを自分で増殖させることもできるし、記憶容量を増やすこともできるみたいなんです。でも、面白いのが、システムとして巨大化するコロッサスが要求するものが、関係者を監視するためのマイクやカメラ、そして、言いたいことを人間に伝えるための音声システム。頭脳はすごいけど、手足がないから、それを人間に要求してくるのです。それを作らないとまたミサイル発射しちゃうぞって脅しをかけてきますから、誰も逆らえません。ソ連側も自分側のガーディアンシステムがコロッサスとつながってしまって、同じような状況になってしまい、コンピュータを相手にアメリカと共闘せざるを得なくなっていました。東西の冷戦のせいでコンピュータに防衛を任せた結果、コンピュータが頭に乗ってきたきたので、冷戦どころではなくなっちゃうという皮肉な面白さはあり、コロッサスとガーディアンがそういうことをするのは、それなりに論理的な理由があるというところが面白い映画になっています。

ジョセフ・サージェントの演出は、静かにそしてスリリングにドラマを運んでいきまして、ロバート・ワイズの「アンドロメダ」やシドニー・ルメットの「未知への飛行」と似た雰囲気があります。ドラマチックな展開はないけど、じわじわと事態が悪い方向へ向かっていく感じがうまく出ていたように思います。演技陣は地味なメンツばかりで、主演のエリック・ブレードンもヒーローキャラとは一線を画していまして、理性的で合理的な思考をするのですが、事件の張本人という認識はあまりないみたいです。事態の収拾には、このくらい冷静な方がいいのかもしれないけど、そのクールさはコンピュータと似たようなもんだなって思わせるところがおかしかったです。音楽がミシェル・コロンビエだったのは意外性がありました。また、視覚効果でアルバート・ウィットロックが参加していて、作画合成カットが随所に登場します。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



コロッサスの動きを封じようと、データのオーバーロードを発生させようとした研究所員は、コロッサスに事前に察知され、コロッサスは研究員を処刑せよと命令、結局彼は銃殺されてしまいます。そして、さらにミサイル基地を爆破させ、多くの死者を出して、もう誰も逆らえないことの念押しをします。そして、テレビで全世界に向けてメッセージを発します。もう、今、コロッサスはガーディアンと一体化して、全世界は自分の支配化に入るように。もともと、自分は戦争をなくすために作られたので、それを実現するためにこういうことになった。人類は多少の不自由をこうむることにはなるが、それは最終的によりよい生活につながるのだと言います。テレビ放映後、コロッサスはフォービン博士に君には特別な扱いをしようと言い出しますが、フォービンは絶対に従わないと言い切るのでした。おしまい。

コロッサスのやろうとしていることは、多少の犠牲を伴いながらも、世界を平和に統治するというものでした。人間一人一人の人権や命なんか問題ではなく、人類という一塊をどう扱うかという考え方しかありません。全体主義と共産主義の典型のような考え方で、それが世界平和への合理的な実現方法だという見せ方にしているのが面白いと思いました。実現のためには、脅迫や粛清をやむを得ないという割り切りが怖いのですが、これが東西冷戦の時期に作られたことを考えると、コンピュータの反乱という設定を使った反共映画だということもできると思います。でも、考え方次第では、最小限の犠牲で、戦争をやめさせたとも言えます。人類の作った破壊兵器を使って、見せしめとして何千何万の人も殺すというのは、ある意味合理的とも言えましょう。その後も、「ターミネーター」とか「イーグル・アイ」という同趣向の映画が作られていますから、コンピュータが、反乱を起こすというネタはまだまだ続くのかもしれませんが、この映画のように、リアルと荒唐無稽をバランスよく取り込んだ映画ってあまりないと思ってます。
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「もうひとりの息子」は過酷な運命への結末は楽天的すぎるのか、リアルな希望なのか。


今回は新作の「もうひとりの息子」をシネスイッチ銀座1で観てきました。フラットな場内にスクリーンが低い位置なので、前の人の座高があると画面が欠けちゃう難点があります。全席指定で、他の席へ移れないのですから、もっとスクリーンの位置を上げてほしいわあ。

テルアビブのイスラエル人一家の息子ヨセフ(ジュール・シトリュク)は兵役検査で血液型がおかしいという指摘をされ、再検査となります。父親でイスラエル軍大佐であるアロン(パスカル・エルベ)と医師である母親オリット(エマニュエル・ドゥヴォス)は、そこで驚くべき事実を知らされます。ヨセフは生まれたばかりの病院で、湾岸戦争の爆撃を受けた時のどさくさで他の赤ん坊と取り違えられたというのです。そして、取り違えられたもう一方の赤ん坊は、パレスチナ人のサイード(ハリファ・ナトゥール)とライラ(アリーン・ウマリ)の息子ヤシン(マハディ・ザハビ)として育てられてきたのでした。どちらの父親もその事実をひた隠そうとするのですが、母親の方は二人とも、息子に事実を伝えるべきだと考え、父親の意向を振り切って、息子に真相を知らせます。ヨセフとヤシンは自分が敵対する相手の子供だったと知って大ショック。そして、テルアビブのアロンの家で二つの家族が顔合わせをします。同じ身の上となってしまったヨセフとヤシンは仲良くなりますが、アランとサイードは双方の国の歴史と認識があって口論となってしまいます。それから、ヨセフとヤシンは何度も会うようになります。しかし、ヤシンの住むヨルダン川西岸地区はイスラエルの分離壁によって囲まれていて、そこから外部に出るためには通行証が必要で、サイードは自分のいる村以外で仕事をすることを許されていませんでした。境遇の違う二人ですが、彼らは自分の生まれから逃げられないことを知っていたのでした。

2012年のフランス映画でして、ノアム・フィトゥシの原案を、ナタリー・ソージョン、ロレーヌ・ゼヴィそしてフィトゥシの3人で脚本化して、ゼヴィが監督しました。2012年の東京国際映画祭でグランプリと監督賞を取ったとのことですが、それが映画にとってどの程度のステータスになっているのかしら。こういう世界的な題材を扱っている映画が、他の映画祭で受賞してないとしたら、それほどのものではないのかなっていう先入観でスクリーンに臨みました。パレスチナ問題では、5年前に「パレスチナ1948 NAKBA」というパレスチナの視点からのドキュメンタリーを観て、ひどい話だなあと思った記憶があります。ユダヤ人にとって、3000年に渡る約束の地であったことは事実だったのですが、当初はアラブ人はユダヤ人との共存を受け入れようとしたところ、イスラエルがパレスチナ人を追い出して国を作ったことで、多くの死者とパレスチナ難民が生まれ、そこからアラブも巻き込んだ中東戦争が発生したのです。特に、イスラエル建国以前からパレスチナに住んでいたパレスチナ人にとっては、住んでいた土地を奪われて、生活に大きな制約が入ったという恨みがあります。ヤシンの兄ビラル(マフムード・シャラビ)はユダヤ人とわかったヤシンに明らかに嫌悪の情を示します。

この映画では、そのお互いの憎悪の念よりも親子の情が、そして、育ちよりも血縁が優先するという見せ方が面白いと思いました。取り違えが起きたことは運命であって、その過ちは正されるべきことなのだという考え方です。異民族であるからこそ、そのアイデンティティや背負っている民族の歴史が異なるから、血の認識の誤りは正されるべきもののようです。ビラルは弟がユダヤ人とわかった途端、ひどい言葉で彼をなじったり、ここはお前の家ではないと言い切ります。映画を観ている最中はひどい奴だなあと思っていたのですが、後で思い返してみれば、それほどに民族の持つ歴史や受け継がれる血というものが彼らにとって大事なんだなあってところに思い至りました。特にパレスチナ人にとって侵略者であるユダヤ人を身内として受け入れるのはものすごくハードルの高いことなのでしょう。

この事実に対する4人の親の態度の違いが面白いと思いました。アランはとにかくこれまで育ててきたヨセフがかわいくて、それがパレスチナ人であるという事実を受け入れられません。サイードは親戚や近所の手前、今の息子がユダヤ人であることを隠そうとします。二人の母親はその事実を受け止めて、最初はぎこちないながらも、新しい息子にこれまでの息子と同じ態度で接しようと努めます。どの立場にあっても、この4人の親はこの一件で誰かを恨んだり、運命を呪う言葉を口にしません。ここが私にはない信仰の力なのかなって気がしました。父親二人はユダヤ人とパレスチナ人としての立場で口論することはあっても、相手の人格を否定したり、見下したりすることはしません。これはリアルさというよりも、作り手の希望として解釈しました。この映画を作るにあたって、フィトゥシ監督は、ユダヤ人、パレスチナ人どちらの視点に偏った描き方を、意識的に避けています。母親二人が息子のためを思う行動をとるというのは、監督が女性だからかもしれませんが、普遍的な親子の情として、この映画をまとめて、政治的な問題は愛情の前には、少しだけ後ろに下がらざるを得ないという描き方をしています。これを感動的と見るか、極端な楽観、きれいごととして見るか、当事者に聞いてみたいという気分になりました。親子の情を割とすんなりと受け入れることができた母親と、過去の経緯、流された血から、事実をどう扱ってよいかわからなくなる父親とどちらの方が実際の感情に近いのかなって。

一方、当事者である二人はショックを受ける一方で、親たちほどの葛藤はありません。ヤシンはずっとフランスにいたということもあってか、自分がユダヤ人であることに冷静です。ヨセフは、自分がユダヤ人でないという理由で、これまでの信仰の対象であったユダヤ教から拒否されてしまい、ショックを受けます。一方ヤシンもずっと仲の良かった兄から罵倒されてしまいます。このあたりで、人はその生まれから逃げられないという描き方になってきます。

映画としては、重苦しい題材でありながら、ところどころユーモアも交えながら、スムースな語り口で退屈させません。二人の父親がカフェで無言でコーヒーを飲むといった印象的なシーンを交えながら、この受け入れがたい事実を、関係者が連帯意識を持って乗り越えようとしているところに、静かな感動があります。そして、敵対していた者同士が、同じ問題に同じ方向を向いて対処しようというところにこの映画の希望を見ることができます。日本だったら、家族間の問題で収まるところが、この映画の場合は、コミュニティから信仰、ご先祖様まで巻き込む問題に発展してしまうので、きれいな落としどころはないように思います。人間対人間というところまでしがらみを切り捨ててしまえば、歩み寄る可能性はあるとは言え、誰しも一人で生きているわけでないからこそ、単に一人の人間としての立場に立つってのが難しいのだと思いました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ヤシンとヨセフは自分の実の親に会いに行き、それぞれの家族と打ち解けることに成功します。ヨセフはビランから自分をパレスチナ人と意識するようにと強く言われます。その結果なのか、ユダヤ人だったヤシンを罵ることはしなくなります。3人でテルアビブの海岸に遊びに出かけたとき、ヨセフが暴漢に刺されてしまうという事件が起こるのですが、病院にかけつけたビランとヤシンはヨセフの無事を確認して、笑顔の和解を見せるのでした。次のシーンで、ヨセフが、モノローグでこれから新しい人生を歩むことを決心し、同じ立場のヤシンへもエールを送り、自治区を見下ろす丘の上のヨセフのアップで暗転、エンドクレジット。

最後に、二人は運命のいたずらに人生を修正することを決心するという見せ方になっています。ラストの処理はあっけないほどのストンという落とし方になっていまして、どういう決着をつけるのかよりも、そこに至る過程を見せたい映画だったのかと見終わって気づきました。登場人物の全てが自分の思いを抑えて正しい選択をしようとするあたりは出来すぎ感はあるのですが、共感度の高い映画に仕上がっていました。

細かいことになるのですが、画面が横移動すると映像がぼけることがありました。昔、フィルム上映の映画でも同じことがあったのですが、これは撮影の問題なのか、プロジェクターの問題なのか、ちょっと気になってしまいました。

「危険なプロット」は虚実の隙間に翻弄された挙句、本当のところはもやもや。


今回は、新作の「危険なプロット」をヒューマントラストシネマ有楽町で観てきました。ここは年会費1000円で会員になると、1300円で映画が観られます。また、金曜日は1000円というのがなかなかのお得感。

高校の国語教師ジェルマン(ファブリス・ルキーニ)は、生徒たちに週末に起こったことを作文させたのですが、どれもひどい文章でがっかり。画廊勤めの妻ジャンヌ(クリスティン・スコット・トーマス)にぐちっていたら、その中の一つ、クロード(エルンスト・ウンハウアー)の文章に心を動かされます。それは、級友のラファ(バスティアン・ウゲット)に数学を教えるという口実で、彼の家に入り込んだら母親のエステル(エマニュエル・セリエ)に魅力を感じてしまったというもの。こういう文章を校長やラファに見せたら大変だよって説教する一方で、その続きを書くように言い、それを個人指導するようになります。クロードの書く文章によると、彼はラファの家に通うようになり、エステルとも会話するようになり、ラファの父親にも気に入ってもらえるようになります。クロードはその事実基づいた文章に、読者を意識しろとか、展開がつまらないとか、まるで小説のような批評を加えていきます。しかし、クロードがラファの家に行く建前は、ラファの数学をみてあがるということなので、数学の点数が悪ければ、家に行く理由がなくなり、続きも書けなくなります。クロードにそう言われたジェルマンは、数学のテスト問題を盗んでクロードに渡してしまいます。その結果、ラファはテストですごくいい点数を取り、クロードの物語は続いていくことになるのですが......。

「まぼろし」「スイミング・プール」などで有名なフランソワ・オゾンが脚本と監督を担当したミステリータッチの一編です。作家志望で1冊だけ小説を書いて、今は高校の国語教師であるジェルマン。学生の国語力をなげいているうちに、ある学生の作文が目に止まります。最初は、学生クロードが続きを書いて、ジェルマンのところに持ってきたのですが、段々、ジェルマンの方から書けと言うようになってきます。内容は、クロードが主人公で、友人ラファの母親エステルに目をつけて、友人の家庭に入り込むというお話。クロードは事実を書いてるって言ってるのに、ジェルマンはそれをあたかも小説かのように、表現とかアプローチとか、展開とかに批評というか文句をつけ始めるのです。さらに、もう作文は続けられないとクロードが言い出すと、テストの問題を盗み出して、ラファにいい点取らせちゃうなんてことまでやっちゃいます。動機は、クロードには文学の才能があって、それを伸ばしてやりたいからですって。恐ろしいことに、ジェルマンはその不正に何の後ろめたさもありません。文学青年が文章で食えなくて教師になったという感じのジェルマンなんですが、自分が特別な人間だという意識がすごく強いし、教師という立場を無敵だと思っている、すごくタチの悪いオヤジです。

クロードは巧みに、ラファの両親に取り入ります。夜中にラファの家を徘徊したり、エステルの寝姿をながめたり、やってることはストーカーです。それを逐一文章にして、ジェルマンに提出し、ジェルマンがその展開について、あーだこーだ批評するというのが続きます。ジェルマンはそれを全て妻のジャンヌにも見せていまして、ジャンヌがこの子変よと言っても、思春期の子供にはありがちだからと、とりあいません。ジェルマンはどうやらクロードの物語にはまってしまったようなのです。他人の家のゴシップが面白おかしく書かれた文章で楽しめるのですから、それは楽しいことでしょう。でも似非インテリのジェルマンは、あくまで有能な才能を埋もれさせないためにやっているんだと、自分自身にも言い聞かせている節もあります。でもクロードの物語には中毒性があったようで、いつの間にか、ジェルマンはその物語に翻弄されているのでした。

最初は文章の添削みたいなところから始まって、だんだんと内容についてケチをつけるようになります。小説のプロットの組み立てを批評し始めるあたりから、段々とおかしくなってきます。事実を書いた文章に陳腐な展開だとか、登場人物のキャラが見えないとか、読者のことを考えていないとか、おかしなことを、ジェルマンは言い出します。しかし、クロードからするとそれが彼の行動への指針にもなっているようなところがあります。クロードがエステルに近づいていく過程は狡猾というか悪魔のようにも見えます。時折見せるニヤリと笑う表情はいわゆる魔性の美少年。でも、気が付けば、観客もジェルマンも、クロードの行動を彼の文章でしか知らないのです。さらにジェルマンは事実の淡々とした記述を否定していくので、文章が虚実取り混ぜたものになっているのではないかという疑惑がわいてきます。そのことにジェルマンは無頓着みたいなんですが、その一方でクロードがラファの家で何をしているのかを知りたいという好奇心を押さえきれません。

ジェルマンは授業で親友についての作文を書かせ、ラファの作文を教室で読み上げさせます。それは、クロードが親友だという内容で、ジェルマンは全部読ませて、さらに黒板に全部書かせて、挙句にはそれを添削すると言って、全部消しちゃうなんてことをしちゃいます。ラファは怒り心頭で、新聞にそのことを投書し、ジェルマンは校長から注意を受けます。それでも、彼は自分に非があるとは露ほども感じておらず、校長にも怒鳴り散らす始末。何でそんなことをしたのかは、わからないこともあるのですが、ラファの家庭事情を知っているという優越感がラファをおもちゃにしたのではないかという印象でした。こいつ本当のクズらしいです。

オゾンの演出は、クロードの作文をちょっとずつ提出させ、最後に「続く」で締めくくる作りで、観客の好奇心をがっつり押さえて、ドラマを引っ張っていきます。その展開に乗せられている観客が、実はゲスなジェルマンと同じ好奇心を持ってしまっていると気づくと、この映画のシニカルな面白さが見えてきます。ジェルマンとクロードの書く文章の虚実のかけひきは、そのまま観客とクロードの間の駆け引きになってきます。どこまでが虚構でどこからが事実なのか、映画は最後で大体の事実関係を見せてくれるのですが、細かいところの胡散臭さは観客に放り投げられたままとなります。その一方で、ジェルマンはクロードの描くクロードとラファ家の物語に魅入られるのですが、その虚実の危うさについては無関心です。どう面白い文章を書いてくるのかが重要で、ジェルマンにとって他のことはどうでもいいのです。だから、文章を手に入れるために、試験問題を盗んでも平気。クロードがエステルと危険な関係になりつつあるのに、そのことにも無頓着。むしろ、そういうドラマチックな展開をけしかけちゃうのですよ。

オゾンの演出は、前半のコミカルな展開から、後半はクロードとエステルの一瞬の恋を細やかに見せます。アレクサンドラ・デプラの音楽も、前半のドライな音楽から、後半では美しいラブテーマを奏でて、エンドタイトルもそのラブテーマで締めます。結末のオフビートなおかしさは本編をご覧になっていただきたいのですが、そのラスト3分にこの映画の味が濃縮されていると言えましょう。



この先は結末に触れますので、ご注意ください。



エステルとダンナの関係は、冷え切っているように(クロードには)見えます。ある日、エステルとダンナのケンカの後のタイミングで彼はエステルに詩を書いて渡します。ジェルマンからは、何だその甘ったるい展開は言われちゃうのですが、その後日、ついにクロードはエステルの唇を奪います。しかし、運悪くをそれをラファが目撃していたのです。クロードとラファの関係は気まずいものになります。クロードは思い切って、エステルにどこかへ逃げようと持ちかけます。でも、ラファの一家は事業を興すために中国へ引越しすることになっていて、さらにエステルは妊娠していて、家族の結束は一気に強まり、もうクロードの居場所はありませんでした。そして、クロードはジェルマンの物語にも決着をつけようと、テスト問題の漏洩を学校にすっぱ抜き、ジェルマンは教師をクビになっちゃいます。そんなゴタゴタが学校で起こっている最中に、クロードはジェルマンの家に行き、妻のジャンヌと仲良くなって、彼女に女性としての魅力を感じたという文章を残して去ります。それを読んだジェルマンは逆上するのですが、逆にジャンヌから別れを告げられてしまうのでした。

公園のベンチで、職も家庭も失ったジェルマンが呆然と座っているところに、クロードが現れます。そして、クロードは新しい自分の居場所を見つけて入り込むためのアドバイスをジェルマンに頼むのでした。文章は書けないけど、批評力に長けたジェルマンと、その能力を評価して、新たな居場所探しを助けて欲しいクロード。二人がベンチから、向かいにあるアパートのたくさんの窓をながめているところでフェードアウト。エンドクレジット。

何だかんだ言って、ジェルマンは自分のやったことのしっぺ返しを受けるのですが、その一方で、クロードの間に持ちつ持たれつ(共依存とも言えましょう)の関係を築くわけです。自分のこれまで築いてきた実績とプライドをズタズタにされたジェルマンにとって、自分に敬意を表して慕ってくる存在は失いたくない対象でしょうし、新たに自分の居場所を見つけたいクロードにとっては、ジェルマンのアドバイスが有効だと知っているわけです。やな奴のジェルマンと悪魔的なクールさを持つクロードの関係がまだ続いていくだろうという結末はかなりシニカルですし、そのオチに至る伏線もよく考えるとあったんだなあって納得しちゃうところにこの映画の面白さがありました。

演技陣は、どこかリアリティのない役どころを好演していますが、その中で、妙に艶かしくて、分別のある女性を演じたエマニュエル・セリエの存在感が際立ちました。結局、クロードはエステルと寝たのか、さらにジャンヌとも関係を持ったのか、ラファが母親とクロードが抱き合っているのを目撃した後、逆上してクロードにキスしたのは、本当にあったことなのか。ラファの父親が仕事に不満だったこと、ラファの一家の絆が修復したことのは本当なのか。クロードの文章の中で語られたことは、全てに疑いの余地があります。ラストに文章外のリアルなエピソードとして、クロードとエステルの切ない別れのシーンが登場して、クロードの恋慕の情とともに、エステルにもクロードに対する何がしかの想いがあたったことが示されます。でも、やっぱり、ラファ家で何が起こったのか、ホントのところはよくわからないのでした。

「ノーマッズ」はスリラーからホラーへの展開が面白い。差別ネタだけど。


押入れの中を整理していたら、昔買ったLD(レーザーディスク)が何枚も出てきました。その中の1枚で観た当時、印象が強かった「ノーマッズ」を見直してみました。日本ではDVDは未発売ですが、アメリカ版はあるようですから、そのうち発売されるかも。

ロザンゼルスの病院、ある夜、急患で運び込まれた男は、大怪我をしていて、フランス語で何かわめいていました。当直の医師アイリーン(レスリー・アン・ダウン)は彼を診察しようとすると、突然彼に襲い掛かり、その耳もとで不思議な言葉をささやいた後、事切れるのでした。男の正体は、文化人類学者のジャン(ピアーズ・ブロスナン)でした。その日から、アイリーンは幻覚を見るようになります。どうやらジャンの記憶を追体験しているようなのです。彼女はどんどん様子がおかしくなり、病院で倒れた後、姿を消してしまいます。ジャンの記憶とは、奥さんのニキ(アンナ・マリア・モンティセリ)と一緒にロスへ引っ越してきたところから始まります。それまでは、世界中を回って、各地の原住民を研究してきたのですが、今度は教授として腰を落ち着けることになります。彼の近所には、レザー服を着た、不良グループみたいのがウロウロしているのですが、家に落書きしたりする結構迷惑なみなさん。ジャンはある夜思い立って、彼らを尾行して写真に収めます。そしてわかったことは、彼らは定住せず、仕事もせず、暴力をふるう、放浪民(ノーマッズ)だということでした。そして、彼らは、ジャンの生活を脅かすようになってきます。そして、ジャンの最後の言葉の意味は「彼らは存在しない。イヌアトなのだ」でした。イヌアトというのはエスキモーの伝説の悪霊なんですって。

「ダイ・ハード」「プレデター」などで知られるジョン・マクティアナンが脚本を書いて演出もした、1986年の作品です。ジャンルとしては、オカルト風スリラーということになるのでしょうが、今の視点で言えば「都市伝説もの」という括り方もできる内容になっています。今はエスキモーという呼び方はしないで、イヌイットと呼ばれる皆さんの間に伝わる、イヌアトという悪霊がいて、それは災難をもたらすものだということが映画の中盤で語られます。しかし、本当にそうなのかどうかというところはよくわからない作りになっています。映画は、基本はジャンの物語として展開するのですが、その見せ方がジャンが死んだ後、アイリーンが追体験した幻覚として描かれるので、どこかあやふやな感じでして、さらにジャン自身の体験もどこまでがホントでどこから幻覚なのかよくわからない話なので、どこまで真に受けていいのかがわからないのですよ。一応、ミステリー仕立てで展開するのですが、結局、どういうことなのかは説明しきらない結末は、消化不良とも言えますし、不気味な余韻を残しているとも言えます。

まず、登場するノーマッズはレザージャケットを着た5人の男女で、これって当時はよくいたんじゃないのって思わせる風体のみなさん。バンに乗って移動しているようで、彼らは定住せず、仕事せず、社会参加せずに悪いことしてるってのを、ジャンは発見するのです。文化人類学的に、彼らは放浪民なのだというのです。そこまでは、何となくわからなくもないのですが、その後、彼らがジャンの家にふっと現れたりすると、超自然的な展開になってくるのです。「仕事もせず、家に帰らない、不良どもは、実は実体のない悪霊なのだ」という都市伝説みたいな話になってくると怖い展開になってきます。彼らのバンに追われたジャンが逃げこんだ廃屋には、老いた修道女がいて、あなたは深入りしすぎたから、すぐに逃げた方がいいと言い出します。しかし、その修道女はいつの間にか首をつっていて、動転したジャンが気付けば、家の前で車の中にいました。外に出れば、ノーマッズのトップの男が彼を見つめていました。ジャンは近づいてきた男をスパナで殴って殺してしまいます。しかし、翌朝、家の前を見ると男の死体は消えていました。

一方、姿を消したアイリーンが目を覚ますと、そこはジャンの家。奥さんのニキはアイリーンを気遣いますが、彼女が夫しか知らないことを知っているのでびっくり。アイリーンが逃げなきゃと言って、荷造りして家を出ようとすると、そこには例の連中にたくさんのバイカーもやってきて、家を壊し放題。屋根裏に二人は逃げ込みます。

バイカーの皆さんの見た目は「マッドマックス」に出てくる暴走族という感じ。こういう連中が実は放浪する悪霊なんだよって言うのは、怖い都市伝説でもありますし、こういう発想から、ジプシー差別とかが生まれる社会の怖さも感じさせるものがあります。でも、後者の方は、映画が意識しているとは思えず、身近なところに異形のものが潜んでいる恐怖を描くことに重きを置いているようです。マクティアナンは、怖い映画を作る設定として、社会的なはみ出し者が悪霊だというネタを持ってきたのですが、それが差別ネタでもあることには無頓着なようで、それは結末でも見てとれます。そうは言っても、当時は今よりも、ホラー映画がメジャーへの登竜門となっていた時代でして、そこに文化人類学といった知的なノリを入れて、大風呂敷を広げた世界観を作り上げたハッタリは、若手映画作家のメジャーデビュー作として成功しているのではないかしら。

ミステリータッチのスリラーとしての作りはうまく、繊細というか精神的にあぶなそうなヒロインの設定も成功しています。レスリー・アン・ダウンは当時「スフィンクス」でも、繊細すぎなヒロインを演じて、ドラマに危うい気分を醸成するのに成功しています。また、ビル・コンティの音楽がシンセ主体の不気味なスコアを書いて、この映画を支えています。「ロッキー」で有名なコンティですが、「イヤー・オブ・ザ・ガン」「背信の日々」などのホラータッチのシンセスコアでも実績があり、ここでもミステリーにホラーの空気を上乗せするのに貢献しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ジャンはあの連中から逃げ出そうとするのですが、結局つかまってボコボコにされた挙句に病院に運び込まれたのでした。一方、アイリーンはジャンの家で、新聞の切り抜きを見つけます。そこには、例の5人組のトップの男が修道院で自殺したという記事が載っていました。どうやら、あの連中は生きていない、存在していない人間らしいです。その後、5人組プラスバイカーの皆さんに襲撃されるのですが、彼らは、屋根裏部屋まで、アイリーンとニキを追い詰めた後、いずこへと姿を消すのでした。二人は逃げるべく車を走らせるのですが、彼らの車の前を1台のバイクが追い抜いていきます。そして、止まったバイクの男が顔を上げるとそれはジャンだったのでした。おしまい。

夢かうつつかというお話が最後で、超自然ホラーとしてのオチをつける構成はよくできていまして、あまり説明しきらないのも、不気味な余韻を残すのに成功します。連中は、実在しない人間の顔を借りて、過去から未来に向けてずっと放浪し続けるのだという設定は、最近の映画では、吸血鬼伝説のパターンとして使われています。バイカーの設定は、近作の「ヴァージニア」のヴァンパイアでも見ましたから、ヴァンパイアも都市伝説の一つなのかなって気付かされました。

「天使の処刑人 バイオレット&デイジー」は、バイオレンスものから、変化球の萌えに変わるのが意外。


今回は、新作の「天使の処刑人 バイオレット&デイジー」を横浜ニューテアトルで観てきました。メジャーじゃない映画なのに、東京と同時公開ってのは何だかすごい。

ニューヨークのティーン殺し屋コンビ、バイオレット(アレクシス・ブレデル)とデイジー(シアーシャ・ローナン)は、シスターのかっこで銃をぶっ放して、ギャングのみなさんを蜂の巣にして、今日のお仕事終了。二人の共同のアパートに帰ってきて、アイドルのバービー・サンデーの着てる服を買おうねって話をしてたら、お金が足りない。そこでラス(ダニー・トレホ)の紹介する仕事。ボスの金を盗んだ男の始末でした。簡単な仕事だと読んで、相手のアパートで待ち伏せしていたのですが、そのうちになぜか眠り込んでしまい、目が覚めるとそこにはターゲットである中年男(ジェームズ・ガンドルフィーニ)が座って二人を見つめていました。彼女たちをどうこうする気もないようで、むしろ二人に殺されたがっているみたい。解せない二人は、だんだんと男が事情を知りたいと思うようになります。男は、二人の雇い主以外にも敵がいるらしく、別のボスの手下達がもうすぐ彼を殺しにやってくるというのです。最初、目をつぶってやっちゃおうと一気に弾を撃ち込んだら、男はおらず、戻ってきた男を前に困った二人は、銃弾を買いに行くバイオレットと男を見張るデイジーに分かれて行動を取るのですが、その間に例のギャングの手下どもがやってきて、お話は予期せぬ方向に進んでいくのでした。

「プレシャス」の脚本を書いてアカデミー脚色賞をとった、ジェフリー・フレッチャーが脚本を書き、メガホンを取った一品です。ティーンの殺し屋コンビのお話なのですが、冒頭のシスターのカッコしたスタイリッシュな殺しのシーンから、本筋では意外な展開を見せます。ハードなアクションものを期待したら、多感な女の子の物語へお話がシフトしていくのですよ。デイジー役のシアーシャ・ローナンが主役を演じた「ハンナ」とちょっと似たような味わいがありまして、ハードボイルドっぽい展開を予想させておいて、視点が女の子のところへぐっと寄っていくあたりは、既視感がありました。バイオレットとデイジーのコンビは殺し屋としては優秀なようですが、そこに至るまでには、複雑な家庭事情があったようです。でも、今の二人はお互いに寄り添いながら、殺し屋というヤクザな稼業を楽しんでいるようにも見えます。そんな二人が軽い仕事だということで、ボスの金をちょろまかした男を殺すために待ち伏せしてたら、居眠りしているうちにターゲットが帰ってきちゃうという、かなりマヌケな展開になります。そこまでは、かわいい女の子がハードな殺し屋をプロフェショナルにやってますという流れになっているのに、居眠りしてターゲットが帰ってくるのに気付かないなんて、なんじゃこりゃっていうお話です。この違和感で、映画に置いてけぼりをくってしまうと、最後まで居心地の悪い映画になっちゃう。というのも、この居眠り以降で、映画は大きく様相が変わってくるのですよ。リアルな殺し屋ストーリーと思いきや、女の子が殺し屋やっているというのが、ハードというより萌え要素になってくるのです。その居眠りポイントをクリアできれば、ちょっと変わった女の子のちょっと胸キュン系のお話として、結構楽しめるのではないかしら。ちょっと深夜アニメを観ているような味わいがありまして、そのライトな感じとバイオレンスと萌え要素がうまくバランスをとった一編に仕上がっています。

謎の男が、見た目ギャングっぽいのに、妙に人懐こくてやさしい感じがして、バイオレットやデイジーもつい心を許してしまうところがあります。一方、男にも同じ年頃の娘がいるらしいのですが、親子関係はうまくいっていないようです。この3人の登場人物のキャラクターやバックボーンが、男を中心とした会話の中でだんだんと見えてくるというところにこの映画のポイントがあります。ジェームズ・ガンドルフィーニは強面のギャングが似合う役者さんですが、最近では「ゼロ・ダーク。・サーティ」のようなヒロインを助けるいぶし銀的なキャラを演じるようになってきました。私が最初に気になった映画は、「NY検事局」の汚職警官の役だったのですが、この映画では、ギャングのくせにやさしげなキャラを演じて、貫禄の演技を見せてくれます。この映画、彼があって成り立っていると言っても過言ではなく、死を覚悟しているけど、達観しているのとは違う、不思議な魅力あるキャラを演じきりました。

一方、ハードな殺し屋として登場した二人なのですが、これが意外と繊細で情にももろいのですよ。先輩格のバイオレットは、プロらしくさっさと仕事を片付けようというところがあるのですが、そのとがったところがやや暴走気味。一方のデイジーはどこか殺しに消極的なところもありますが、それでも二人はいいコンビになっているのでした。とはいえ、冒頭のクールな殺しシーンに比べると、居眠りしちゃった後は、女の子ふたりが、コントみたいなグダグダな展開になるので、その落差は、笑っていいのかどうか迷ってしまうところがありました。後半のちょっとファンタジックで、胸キュン風展開は、好みの分かれるところだと思いますが、私はこういう趣向の映画があってもいいかなって感じで楽しんでしまいました。殺し合いをブラックユーモアまで昇華できてはいないのですが、繊細な女の子ふたりの心の葛藤を殺し屋バージョンでやってみましたという感じでしょうか。宣伝文句で「テルマ&ルイーズ」を引き合いに出してましたけど、ああいう厭世的なカタルシスをもたらす映画ではありません。てっきりそっちの方へ行くのかと思いきや、女の子ストーリーの方へお話は着地します。フレッチャーの演出はリアリティよりも寓話的味わいを優先しているようで、幻想的なシーンも挿入して、ヒロイン二人を不思議の国のアリスみたいな見せ方で描いていきます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



バイオレットが近所の金物屋に銃弾を買いに行っている時、デイジーと男は何だか仲良しになっていたのですが、そこへ男の命を狙うギャングの手下4人がやってきます。デイジーは物怖じしないで時間を稼いでいるうちに、バイオレットが現れて、4人を一気に撃ち殺してしまいます。そして、死体の上でピョンピョン飛び跳ねる二人。死体をバスタブへ運ぶ二人。デイジーが外に出かけた間に、バイオレットと男の会話から、彼女に父親がいることがわかってきます。そして、部屋を銃撃したときの弾痕から、デイジーの撃った弾は全て空砲で、彼女は誰も殺したことがなかったことに気づきます。そのことに怒り、ことによったらデイジーを殺すことになるとまで言います。男は、それで今までうまくやってきたのだろうと諭すのですが、彼女、結構メンタルに弱いところがありそう。でも男からの、過去についての質問には答えようとしないバイオレット。

その前、二人きりでいたデイジーは男から、彼がガンで余命いくばくもないことを聞いていました。一方で、自分が銃を撃ったことがないことを男に話していたのでした。そんな様子を、組織の殺し屋ナンバー1(マリアンヌ・ジャン・パプティスト)がずっと監視していました。ナンバー1は、デイジーの前に現れて、ターゲットを殺さず、殺すとゴタゴタのもとになる連中を殺した二人、特に精神的に不安定なバイオレットを避難し、きちんとやるべきことをやるように諭すのです。

男は自分の娘に手紙を書いていましたが、病気のせいかうまくいきません。バイオレットは彼の代わりに娘への手紙を書いてやり、そして、デイジーは男の望みとおり、彼に銃口を向けるのでした。それは彼女にとっての初めての殺人でもありました。二人はアパートを出て、また元の生活に戻っていきます。デイジーは男の娘のもとを訪ね、娘も好きだと聞いていたバービー・サンデーのドレスをプレゼントするのでした。

デイジーがこれまで実弾を撃ったことがなかったという意外性とともに、バイオレットがメンタルに弱いらしいとわかってきます。クライマックスの男との別れのシーンはセンチメンタルに描かれていまして、前半のバイオレンスな感じとは一線を画していまして、前半とのギャップが面白い展開になっています。殺し屋だけど、中身は普通の女の子が、父親のような男との関係の中で、ちょっとだけ成長したという後味になっていまして、全体として、これは何の映画なんだったんだと思わせるところが面白かったです。ただ、後半の少女らしい展開に持っていくなら、ヒロイン二人をもっと若くした方がよかったようにも思うのですが、18歳以下の女の子が銃を持って殺しまくるというのは、まずかったのかな。(R指定になっちゃうとか)

「生れてはみたけれど」は暖かいほのぼの感が現代には新鮮。


今回は、pu-koさんの「大人のための絵本 生れてはみたけれど」の記事を拝見して、そう言えば録画したままになってるなあって気づいて、改めて観て見ました。サイレント映画なのですが、ところどころに昔風の音楽を入れたり、字幕のセリフをナレーションで読んでみたりと、ちょっとばかり趣向を付け加えていました。

東京郊外へ引っ越してきた4人家族、小学生の兄弟は腕白盛りで、近所の子供とも折り合いが悪く、そのせいか学校もさぼっちゃうという困ったガキども。それでも、近所の子供たちとは友達となり、学校へも行くようになりますが、ある日、お金持ちの友達の家に活動写真をやるというので招かれます。その家は、お父さんの会社の専務の家で、上映された映像に、会社でおどけた顔をてうけまくるお父さんの姿がありました。それまで偉いと思っていたお父さんのそんな姿に兄弟は大ショック。家に帰ってお父さんを非難するのです。お父さんは生活のために会社に行ってるのだからと説明しても、幼い二人は理解できません。偉くなれと言ってるお父さん、全然偉くないじゃん。泣きながら眠りにつく兄弟に、お父さんは、自分のようになってくれるなとつぶやきます。翌日もぷんぷんの子供たちですが、でもそこは親子。何となくおさまるところにおさまります。そして、一緒に駅に向かう途中で、その専務さんがいました。子供たちの手前、専務と目を合わさないようにするお父さんに子供たちは「専務さんに挨拶しなくてもいいの」と促します。そして、専務の子供に「きみのお父さんは、うんと偉いんだよね」というと、専務の子は「きみのお父さんの方が偉いよ」と答えます。学校へ向かう子供たちを映しておしまい。

小津安二郎監督の初期の作品だそうで、サイレント映画としての評価が高いとのこと。私は小津作品を観た事がないので、晩年の作品との比較もできないのですが、1時間半の作品で、これといった事件がほとんど起こらないのに最後まで見せきってしまうあたりのうまさには感心しちゃいました。昭和7年ということですから、まだ戦争の影はなく、昭和恐慌で不況の時代です。ドラマらしい部分はラストのお父さんの威厳がなくなっちゃうところの親子げんかくらいでして、それまでん、兄弟ふたりの日々のスケッチが続きます。子供たちの演技がドラマチックでないところが自然で、今の目で見ても、あるある感があります。

子供たちの中にも力関係があって、最初は新参者の兄弟は一番下になるわけですが、けんかっぱやいのか、段々と序列の上になっていきます。その中で専務の息子は身なりもいいし、家もお金持ちなのですが、だからと言って、それを鼻にかけているようなところはありませんから、のどかな子供たちの風景が展開します。それはきれい事かもしれません。どの時代だって、いじめはあったでしょうし、貧富の差も今より明確でしょうから、それなりにせちがらい子供関係があったのかなって気はします。ともあれ、この映画の中では、なんとなくうまくいく関係が描かれます。これは大人の関係、親子関係も同じでして、後半で親子関係で若干の波風は立ちますがそれもささやかな諍いとして収束していきます。今、子供や親子の関係の映画を作ったらもっと様々な葛藤を持ち込むところですが、そのおだやかな描き方に時代を感じます。一応はコメディなのでしょうけど、私にはそれよりもほのぼの感の方が印象に残ってしまいました。

ちょっとだけ時代を感じさせるのが、父親が息子の寝顔を見て「おれみたいなヤクザなサラリーマンになってくれるな」というところと、子供たちのなりたいものが「大将だ」というところ。やっぱり、当時、偉くなるものというのは、軍人さんのトップなんだなあって納得なんですが、「ヤクザなサラリーマン」というのは言葉の意味合いが今とは違うとは言え、サラリーマンってのはあまりいい仕事ではないのかも。映画のタイトル「生れてはみたけれど」というのは、偉くなりたいという希望を持っても、そんなにうまくはいかないよというシニカルな視点が感じられますが、映画の内容はそんな感じじゃないのですよね。タイトルのつけ方に苦労したのかなって思っちゃいました。

映画づくりの部分としては、カット割とか、オーバーアクトにならない演技は今の映画として見ても遜色ありません。サイレント映画だから、喜怒哀楽が大げさになるとかと思いきや、子供の演技も自然で、映画としてのうまさを感じました。今の映画の方がやたらと喜怒哀楽が大きくて愁嘆場を売り物にしていますから、こういう映画を観ると新鮮に思えてきます。市井の人のちょっとした日々を描写する映画ってのは今作ってもヒットしないでしょうね。泣けない映画は映画じゃないってご時勢ですし。

「ランナウェイ 逃亡者」は、反政府活動への微妙な思い入れの視点が面白い


今回は新作の「ランナウェイ 逃亡者」を角川シネマ有楽町で観てきました。有楽町駅の近くの映画館って、ヒューマントラストといいスバル座といい、メジャーとは一線を画す映画を上映しているのがちょっと不思議。(まあ、その昔は、最寄映画館として有楽シネマがあったのですが)

1970年代、ベトナム反戦運動は一部の活動家が過激化し、ウェザーマンという組織が銀行を襲撃、その犯人として手配されていたシャロン(スーザン・サランドン)が30年後の突然FBIに自首してきます。地方新聞の記者ベン(シャイア・ラブーフ)は、彼女の周辺を洗っていくと、彼女の弁護の依頼を断った弁護士のグラント(ロバート・レッドフォード)にたどりつきます。彼はシャロンとの関係を否定しますが、ベンはグラントの過去と当時の記事を調べ上げ、グラントの正体は銀行襲撃の犯人として指名手配されているニック・スローンだということを突き止め、記事をスクープします。ニックは娘のイザベルと逃亡し、娘を弟のダニエル(クリス・クーパー)に預け、姿を消します。FBIのコーネリアス(テレンス・ハワード)は、ベンをマークしつつニックを追跡していきます。ニックは過去のウェザーマンのメンバーだったドナル(ニック・ノルティ)、ジェド(リチャード・ジェンキンス)に接触します。彼は銀行襲撃のメンバーだったミミ(ジュリー・クリスティ)を探しているようです。彼の行動はFBIにトレースされていましたが、一方ミミにも伝わっていました。ニックは、ミミに会って何をしようというのでしょうか。

1970年代に実際に存在した過激派グループ、ウェザーマンを題材にしたニール・ゴードンの小説を、レム・ドブスが脚色し、「声をかくす人」「大いなる陰謀」のロバート・レッドフォードが監督し、自ら主演もしています。「大いなる陰謀」で政治的にリベラルな立場を明快に出してきたレッドフォードが、反戦運動家の過激派グループをどう扱うのかというところに興味がありました。まず、この映画で明確に語られるのは、政府が間違ったことをしているのであれば、声を上げ、行動を起こすべきだということ。ウェザーマンはその行動が暴走した結果、一般市民を犠牲にしてしまいました。それから30年、主婦の顔で潜伏していたシャロンが自首したとき、かつての友から弁護を依頼されたグラントの正体が割れてしまい、彼が逃げ回るというのがメインのストーリーです。当時も今もFBIはグラントたちは過激派のテロリストとして彼らを追い続けています。しかし、一方のウェザーマン側にも手段を過ったが、その目的は間違ってはいなかったと言う自負はあるようでして、当時の政府が明らかに誤っていたことを正そうとして、それが果たせなかったという後悔の念があります。言い換えるとテロリストにも三分の理という見せ方になっているのが面白いと思いました。レッドフォードの演出は、その犯した罪を正当化する見せ方はしていません。逃亡中のニックが接触する面々は過激化するミミやニックをうとましく思っていた人間もいました。それでも、政府が間違っているときに、何も行動を起こさなくていいのかという問題提起をしてくるあたりにレッドフォードらしさが感じられました。

しかし、そういったイデオロギー、政治信条といったものを凌駕してしまうのが、親子の情だという展開には意外性がありました。ニックは自分の11歳の娘イザベル(孫かと思ったら娘ですって、へえー。)がまずかわいい。だからこそ、逃亡という選択肢を取るのです。しかし、かつてのメンバーを訪ね歩くニックの行動の目的がよくわかりません。FBIも新聞記者のベンもその理由がわからないまま、彼を追うことになります。ミミは今は麻薬で稼いでいる裏稼業の人間らしく、それでもまだ30年前の理想を胸に秘めていました。その一方で、かつての同胞たちは、やばめの仕事をしてる人間から、弁護士、大学教授といった社会的な肩書きのある皆さんまで様々なのですが、若い頃の自分を過去のものとして一線を画していました。

こういうお話を観ていて気になるのは、60年代後半から70年代にかけての日本で学生運動をやっていた皆さんも似たような感じなのかなあということ。私が小学生のときにあさま山荘事件がありまして、過激派ってには怖い悪者というイメージしかないのですが、彼らの革命とかいう幻想にも三分の理があったのかしら。ニックたちの場合、ベトナム戦争という政策に反対してわけですから、政府の転覆を図ったわけではないので、日本の過激派とはモノが違うのですが、彼らが年を取って、人生の晩年に差し掛かったときに、当時の自分たちの行動をどう見ているのかなあってところが気になっちゃいました。ニックは、今でも若者は正しくないことに反対する言動や行動をすべきだと若いベンに言います。若者の象徴として登場するベンは、新聞記者として特ダネをとることが第一で、その対象となるスーザンやニックの行動の動機などの細かいところには興味がありません。単純にテロリストとしての彼らの過去を追い続けるのです。でも、それでは真実にはたどりつけないよという展開になっています。

この映画の面白いところは、目的は手段を凌駕するという理屈を正当化してはいませんが、言い訳に使っているところはあるということです。そういう意味では、ニックやミミといったウェザーマンのメンバーが銀行を襲撃したことは、ベトナム反戦運動の延長線上にあったらしいのですが、その行動だけを切り取ったら言い訳のしようがないわけです。でも、例えば、アルカイダの自爆テロを単なる基地外沙汰として切り捨ててしまうのもどうなのという疑問の提示があります。アメリカは日本と比べて、正義を重視するお国柄ですが、そのアメリカの政府が正義を行わず、それを正そうとした人間を弾圧しようとするとき、アメリカ政府の似非正義に尻尾を振るのかという問いかけはあります。でも、そこへ親子の情を持ち込んじゃったら正義も腰砕けじゃんという突っ込みができてしまうので、そこにこの映画の弱点がありますが、国の過ち、個人の過ち、そして時間の経過がもたらす葛藤をきちんと描こうとしている点は評価したいと思います。

映画としては、誰が絶対に正しいという落とし方をしていないので、若干の後味の悪さは残るのですが、そこに映画の誠実さを見てとることができます。ただ、既にご老体のレッドフォードに正義やシンパシーを乗せたいと思うのなら、もう少し丁寧な描写があってしかるべきだったでしょう。セガール映画の映画のような単純明快な勧善懲悪ものではないだけに、ラストで、ちょっと無理やりな甘さがでてしまったのがちょっと残念でした。ただ、映画としての満足度はかなり高く、キャスティングの豪華さにもびっくり。レッドフォード、ラビーフに加え、ジュリー・クリスティ、スーザン・サランドンが貫禄を見せ、ニック・ノルティ、リチャード・ジェンキンスが渋くドラマを支え、テレンス・ハワード、サム・エリオットに加え悪役の多いブランダン・グリーソンとクリス・クーパーがおいしい役どころでドラマの要となり、ラビーフの上司役にスタンリー・トゥッチまで登場します。またベテランばかりでなく「マイレージ、マイライフ」「エンド・オブ・ウォッチ」のアナ・ケンドリック、「アナザー・プラネット」「キング・オブ・マンハッタン」のブリット・マーリングといった若手もドラマの中できちんと機能しています。特にブリット・マーリングはこの先要注意かも。

レッドフォード作品なので、音楽は近作でコンビを組んでいるマーク・アイシャムかと思っていたのですが、これ意外やスティーブン・ソダーバーグとのコンビが多いクリフ・マルチネスが担当していて、アンビエント風サウンドを聞かせてくれるのですが、いつもの硬派なタッチとは一味違う、アイシャム風な丸みのある音にまとめてあって、アイシャムの音楽だと言われても納得しちゃうような音作りでした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ニックが子供を置いて逃げ回る理由は自分の身の潔白を証明しようとしているのだと、ベンは気づきます。そこで、当時の事件を洗いなおすと銀行襲撃を捜査した警察官(ブランダン・グリーソン)にたどりつきます。彼の娘(ブリット・マーリング)は両親に似てないなかなかの美形。ベンは彼女にちょっかいをかけてある確信を得ます。一方、逃亡中のニックは、彼女が向かった先がかつての二人の思い出のキャビンであることをつきとめます。彼ががミミを追っているのは、ベンの無実を証明できるのが彼女だから。彼女は、ベンが銀行襲撃に参加していないことを知っているのです。そして、無実の証明にこだわるのは自分の娘の未来のためでした。キャビンでニックとミミは再会し、ニックはミミに自分の無実を証明するように頼みます。そんなニックにミミは理想を捨てて、向こう側についた人間だと非難します。ニックは彼女に過ちは過ちとして認めるべきだと説得しますが彼女はそれを拒否します。若い頃二人の間に子供が生まれ、それがだったのです。翌朝、彼女が去った後、ベンがやってきますが、ニックは好きなように書けばいいと言います。そこへFBIがやってきてベンは逮捕されるのですが、ミミは警察に出頭し、ニックは釈放されます。ベンは、ニックとミミ、そして娘のことを記事にしようとしますが最終的に思いとどまります。釈放されたニックがイザベラと再会し、二人が並んで歩き出すところを音を消した長まわしで見せてエンドクレジット。

ミミを追っていたのは、自分の無実を証明するため、それは娘の未来のためだったという、親子愛に落とし込むところが意外でした。じゃあ30年も罪を着たまま別の人間として生きてきたのはなぜだったのかというところがよくわからなかったのですが、それが仲間を売ることになるとためらったのかもしれません。30年前の反戦運動の理想を抱えながら非合法なことを続けるミミ、一方で、30年前の自分の行動を消し去りたいニックと、どちらにも負い目があるところがこのドラマのミソです。これは、若い頃にヤンチャしたおっさんおばさんの現在の受け止め方に似たものがあります。ただ、この映画の違うところは、その行動の動機は今も揺るがない正しいことだったということ。そこに余計目に葛藤が生まれるということになります。そして、この映画では、その正しい動機には肯定的です。むしろ、今も誤った政策を取る政府に対して何の行動も起こさないベンの世代を挑発しているところもあります。国のためにすることだから正しいとして、それ以上の考察や疑問を持たない若者に作り手は不満を持っているようなのです。

それは日本とて同じことで、政府に対しての疑念や義憤を忘れて、市民レベルで罵り合っている状況があるわけで、そこに昔はこういうことをしてたんだよという見せ方は面白いと思いました。理想を無条件に賛美せず、行動の結果には責任を持つべきだというスタンスでありながら、その一方で、でも、彼らの言動や行動には意味があったのだという視点は、もう一度、見直してもいいのかもしれません。私個人としては、70年代の学生運動の暴力のエスカレートは正気の沙汰ではないと思っていますが、そのうーんと遡ったルーツのところには、それなりの意味があったのかもって気がしてきました。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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