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「キャプテン・フィリップス」は面白い社会派サスペンスだけに、実話と創作の線引きが必要では?


今回は、新作の「キャプテン・フィリプス」を丸の内ピカデリー1で観てきました。洋画松竹系のトップ劇場の正月映画にしてはずいぶん地味な感じがします。お客さんの入りもそこそこだし、年末年始の洋画って、全体的に弱体な感じ。シネコンは、アニメと邦画だけになっちゃってて、この映画は夜遅くの回に追いやられちゃっているし、洋画はこの先大丈夫なのかしらん。

オマーンのサラーサ港を出港したコンテナ船マースク・アラバマ号は、ソマリア海域を航行中、海賊の追跡を受けます。船長のリチャード(トム・ハンクス)の機転で、軍とのガセ通信で一度はやりすごすことに成功しますが、再び、海賊船はマースク・アラバマを追ってきました。母船の指示を受けた小船の4人は、放水をものともせず、武装して船に上がってきました。船員たちのほとんどは機関室に身を潜め、操縦室のリチャードたちが彼らを何とか追い返そうとします。現金3万ドルの提示も相手にされず、4人のうちのボス格であるムゼ(バーカッド・アブディ)は、船内の調査を始めます。船員たちは、裏で、電源を落としたり、ガラスを撒くといった工作をするのですが、果たして海賊を無事に追い払うことができるのでしょうか。

2009年に起こった実話に基づく、本人リチャード・フィリップスによる原作を、「ニュースの天才」「アメリカを売った男」のビリー・レイが脚色し、「グリーン・ゾーン」「ユナイテッド93」 のポール・グリーングラスが監督しました。この監督の「ユナイテッド93」 というのがなかなかの曲者でして、同時多発テロの再現ドラマとして、実際の目撃者がみんな死んじゃっている事件を、アルカイダ側の動きまでドラマ化し、管制官なんかに当の本人に演じさせることで、どこからホントでどこからがフィクションなのかよくわからない映画になっていました。そして、最終的に、あの墜落した飛行機に乗っていた人はみんな勇敢な英雄でしたというドラマになっていて、それは逆にアルカイダの極悪非道ぶりを浮き彫りにしていたという、かなり巧妙なプロパガンダ映画になっていました。そして、それがものすごく面白く作られているのですよ。娯楽職人としての腕前は、最近のハリウッドではトップクラスだと思います。ですから、「ユナイテッド93」 は、ドキドキハラハラさせるサスペンス映画として抜群に面白い、でも実話だと思うと結構怪しいという映画なのです。「グリーン・ゾーン」だって、基本はフィクションですが、イラクに大量破壊兵器はなかったという事実をネタにした娯楽アクションとして大変よくできていました。彼の映画が特定の政治思想とかイデオロギーに偏っているわけではないのですが、その実話から、フィクションを交えた娯楽映画をひねり出す腕前の見事さは、時として時の権力に利用されちゃうかもしれないなあって思ってしまったのです。私も、何の予備知識なしで、「ユナイテッド93」を観たら、「あー、面白かった、でもアルカイダは人でなし」って頭に刷り込まれちゃったと思います。バランスよく作られているようで、実は、ある結論に誘導するのがうまい監督って感じかしら。

この映画も、ベースは海賊船に襲われたアメリカ人船長の体験談なのに、ソマリアの海賊側のドラマも登場します。そこで、両方をバランスよく描くことに成功しているのですが、その結果、船長の話が実話なので、海賊のドラマも実話のような錯覚を起こしてしまうのですよ。もし、脚本のビリー・レイが、服役中のムゼに取材して脚本を書いていたとしたら、ごめんなさいなんですが、多分、海賊船に乗った4人がどういう経緯で、マースク・アラバマ号までやってきたのかってのは、創作ではないのかなあ。そして、そこに描かれる、4人の海賊がまるでソマリア人のステレオタイプであるかのような見せ方なので、ドラマを素直に見ちゃうと、ソマリアってケダモノ系の皆さんなのかなって印象が残っちゃうのです。映画として、ものすごく面白く作ってありますから、その内容がすとーんと頭に入ってきて、そこに「これは実話である」なんていうノイズが混じると、ソマリアに対する差別意識が目覚めちゃう可能性はあるのではないかしら。これが、つまらない映画だったら、全部ウソ臭く見えるから、ソマリアの海賊は、象徴的な悪役なんだろうかくらいの距離感で見られるのですが、この映画は、すごく面白くできていて、時には海賊側に感情移入できるシーンもあったりする巧妙な作りなので、その先で、刷り込まれるイメージってのは結構怖いものがあると思うのですよ。やけに回りくどい因縁のつけ方をしていると思われるかもしれませんが、この映画が、事実とフィクションを巧みに組み合わせて、面白いドラマになっているので、映画が与えるイメージがすごく頭に入って来て、フィクションの部分も事実であるかと錯覚してしまうってことを言いたいのですが、伝わりますでしょうか。監督が、海賊役に本物のソマリア人を使うことにこだわったというエピソードも、むしろ、ソマリア人全体が海賊みたいなイメージにつながっているように思えるのです。

でも、この映画、面白いのですよ。まず、主人公であるフィリップス船長はとんでもなく運の悪い、「ダイ・ハード」のマクレーンみたいな感じなのです。マクレーンと同様にそう簡単に英雄的な行動は取れないというリアルなヒーローという感じ。そして、映画の前半は、海賊と船長の駆け引きが大変面白く描かれていまして、海賊側も無駄に命を取るつもりはないようで、ハリウッド映画に出てくるハイジャック犯に比べたらかなり人道的というか、「リアル」なのですよ。一方のフィリップス船長は、部下が銃を向けられた時に「オレを撃て」というヒーローではあるのですが、最終的に事態を解決することはできません。そういう生身の人間の駆け引きが高いテンションで展開するので、目が離せない展開になってきます。その後、米軍が本格的に乗り込んでくると、海賊4人が今度は弱いものいじめされてるように見えてくる視点を置くあたり、ドラマの描き方に隙がありません。海賊を単なる悪党として描いているのではなく、海賊をせざるを得ない彼らの状況も、ちょっとだけ描いてあります。クライマックスの盛り上げも極限状況を的確に描写して、ドラマとしての盛り上げも十分で、そこからのエピローグは思わず泣かされてしまう感動がありました。そういう意味では、シージャックものの実録風サスペンスとしては最高の面白さを持った作品です。

「ユナイテッド93」「ゼロ・ダーク・サーティ」のバリー・アクロイドによる撮影は、主人公の置かれた閉塞的状況を手持ちカメラによるアップの多用で表現し、ロングの絵も含めて、全ての絵にドキュメンタリーであるかのような臨場感を与えて見事です。ハンス・ツィマー系の一人、ヘンリー・ジャックマンによる音楽は、ジョン・パウエルの「ユナイテッド93」の音作りをそのままソマリア海域へ持っていたという音になっていました。シンセ中心の音楽は、無機質なようで、じわじわと効いてくるドラミングが観客のテンションをどんどんクライマックスへ向けて上げていきます。エンドクレジットを見ると、ジョン・パウエルの曲も使われているようで、ひょっとしたら、パウエルが都合がつかなくてジャックマンが代打で、「ユナイテッド93」をテンプトラック(参考曲)にして作曲したのかも。(← 根拠なしの憶測ですけど)



この先は結末に触れますのでご注意ください。(当人が、事件後に、原作書いた実話ですので、推して知るべしなのですが)



乗組員と船長が、海賊のリーダーを分断させることに成功し、リーダーのムゼを乗組員が取り押させることに成功します。そこで、船長は、ムゼに現金3万ドルを持って、救命艇から出て行くことで折り合おうということになり、ムゼも従うのですが、救命艇に乗り込むところで小競り合いが発生して、結果、船長は救命艇に押し込まれ、海賊4人と一緒に海に出てしまうのでした。そのころ、ようやく現地にやってきた米軍の駆逐艦ベインブリッジは、救命艇の行く手をさえぎるように現れ、中のムゼたちと交渉しようとします。そして、その支援のために特殊部隊ネイビー・シールズも現地へ向かいます。ベインブリッジから救命艇へ向かったボートが船長の安否を確認し、一方で狙撃部隊が中の海賊に狙いをつけようとしています。一度は、救命艇から脱出した船長ですが、結局逃げ切れずに引き戻され、救命艇の中は一触即発となります。そこで、海賊側に部族との長老たちと身代金の相談をするからと、ムゼだけをベインブリッジへと連れて行きます。一方、ネイビー・シールズが現地に到着し配置につきます。救命艇の中では、残された3人の海賊が緊張に耐え切れなくなり、船長を縛ってつるし上げ、船長も「もう限界だ」と叫びます。と、次の瞬間、銃声が響いて、3人の海賊は射殺され、船長の身柄が確保されると、艦上のムゼも逮捕されます。船長は、艦の医務室に運ばれて、医師からの質問を受けていくうちに緊張が解けて我に返っていくのでした。

狙撃にいたるまでの盛り上げは、「ユナイテッド93」のクライマックスと重なるところがありました。死を覚悟した人間(船長も海賊も)のドラマをぐいぐいと盛り上げていき、一気に切って落とすところは、サスペンスとしても、リアルな人間ドラマとしても見事でした。そして、呆然自失の船長に、医務室の医師が正気かどうか確認するための質問をしていくうちに我に返っていくシーンには、何だかわけのわからない感動があって、泣かされてしまいました。観客も極限のドラマに振り回されていたのが、このシーンで我に返る感じなので、それが船長の感情とシンクロしたのかもしれません。

ドキドキハラハラがたっぷりで、クライマックスは一気のテンションが高まって、ラストは泣けるという王道のエンタテイメントに仕上がっています。それだけに、どこまでが本当で、どこまでが創作なのかをきちんと意識しておく必要はあると思いました。

クライマックスは、狭い救命艇の中での揺れるアップがたくさん出てきて、結構船酔いしそうな映像が多いのですが、劇場によっては、これIMAXで上映されているのにびっくり。これって、スクリーンに飲み込まれて見たらきつそう。
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「ハンナ・アーレント」で、アーレント先生言ってまーす、ここ、すごーく大事なところー!!


今回は、今年中に観ておきたかった「ハンナ・アーレント」を角川シネマ有楽町で観てきました。ここは傾斜のある座席で観やすいという認識だったのですが、前に座高の高い人が座ると画面がぎりぎりで欠けちゃうときがあることに気づきました。もっと画面の位置を上げてほしい映画館。

ハンナ・アーレントは、ドイツ系ユダヤ人で第二次大戦時にはフランスの収容所に入れられた経験があり、その後アメリカに亡命して、今(1960年)はニューヨークで大学の教鞭を取りつつ著述業もする哲学者です。イスラエルの秘密警察はナチの重要人物であったアイヒマンの逮捕に成功し、イスラエルで公開裁判にかけられることになりました。ハンナは、雑誌「ザ・ニューヨーカー」に記事を書くから裁判を傍聴させてくれと頼み込み、プレス席で裁判を傍聴することになります。裁判は、アイヒマンの罪を裁くというよりは、ナチスの行ったユダヤ人虐殺を糾弾する場所となっていました。そこで、ハンナは、アイヒマンが虐殺の指導者とは思えなくなってきます。彼の言動も見た目も、仕事に忠実な小役人であり、何百万の人を虐殺するような大それたことをするようには見えないのです。彼は、思考も感情も放棄して、ユダヤ人虐殺という歴史上まれな悪行を、単に上からの命令によって自分の職務権限の中で忠実に行っただけなのだとハンナは考え、それを「ザ・ニューヨーカー」の記事にまとめます。当然の反応として、彼女の記事は「アイヒマン擁護」として世間から徹底的に叩かれることになっちゃいます。非難のまととなった彼女は、大学の職を辞するようにとも言われちゃうのですが、自説を曲げることなく、その記事について大学で講義を行います。学生たちは彼女の主張を支持してくれますが、教授たち、特に彼女の旧友でもあったユダヤ人のハンス教授は、彼女に対して絶交を伝えます。根源的な悪は存在しない、底の浅い凡庸な悪が、恐ろしいことを行う、そんな理論をアイヒマンを題材にして主張した彼女は、ナチスを擁護し、何百万のユダヤ人の死を冒涜したことにされてしまうのでした。

実在した女性ハンナ・アーレントの半生を、アイヒマン裁判を中心に描いた実録ものです。パメラ・カッツとマルガレーテ・フォン・トロッタの共同脚本をフォン・トロッタが監督しました。以前、今はなき、横浜は関内アカデミー2というちっちゃい映画館で「スペシャリスト・自覚なき殺戮者」という映画を観て、ちょっとしたショックを受けたことがあります。これは、アイヒマン裁判のドキュメンタリーでして、裁判の記録映像を編集したものだったのですが、ユダヤ人虐殺で有名な彼が、普通のオヤジにしか見えなくて、こんな小役人が何百万もの命を奪ったというのが衝撃的だったのです。そのドキュメンタリーは事実の淡々と見せる構成だったのですが、今回の映画では、そのショックの絵解きをしてくれています。

ハンナの言う「悪の凡庸さ」というのはこの映画を観ているとよく伝わってきます。裁判時のアイヒマンの映像と言動、それは何百万の犠牲者を生んだ虐殺の張本人というのとはかなりイメージが異なるものでした。少しでも罪の意識があるのであれば、それは感情の揺らぎとして表れるのでしょうけど、そんな感じは一切ありません。彼は、自分の権限の範囲内で、上から言われたことを忠実に行ったと主張します。彼には何の意思も思考もないのです。小役人の論理で、ユダヤ人虐殺という仕事をこなしただけだったというのです。この裁判は、ユダヤ人虐殺を告発するという意図のもとで行われたもので、その元締めであったアイヒマンは悪魔かモンスターであることが、全ての人の共通認識でした。しかし、ハンナはそれに異を唱えます。何百万の命を奪ったというには、アイヒマンはあまりにも普通の男であり、単に職務に忠実な男だったというのです。さらに、収容所にいた一部のユダヤ人指導者はナチスと取引をして、その虐殺の一旦を担ったのだとまで言い切るのです。これを読んだユダヤ人は怒り心頭、また、彼女の主張を非難する記事「アイヒマン擁護」の見出しによって、彼女の記事を読んでいない人間までが、ハンナはとんでもない女だという空気になっちゃうのです。

これって、今の日本でもあてはまるところがありまして、ある人の言動や主張のほんの一部を切り取ってボコボコに叩くというやり方は、テレビの報道でよくお目にかかります。ハンナに「アイヒマン擁護」の意図は勿論ありませんし、虐殺されたユダヤ人の死を冒涜するなんてとんでもない。でも、世間はそんなふうに彼女を糾弾し、まるでナチスの手先扱いです。しかし、ハンナはひるみません。大学から辞職を勧告されても、それを覆すための講義を持ちます。そこで語られるのは、アイヒマンに代表される思考を止めてしまった人間の為す悪、それはナチスによってヨーロッパ全土にもたらされたのであり、注意しなければいけないと警鐘を鳴らすハンナ。学生たちは、彼女の主張を拍手で受け入れるのですが、教授たちは、ハンナに対する敵意を表すのでした。ナチスと同じ時代を生きた人間からすれば、極悪非道の大虐殺を行った張本人がただの小役人だったというのは受け入れがたいものであることは、納得できるものがあります。それが、アイヒマンの擁護とみなされ、さらに虐殺で亡くなった人の冒涜になるというのは、想定できる論理の飛躍と言えましょう。でも、ハンナは、彼の行動から死刑は当然だとも言います。それでも、彼を根源の悪ではなく、底の浅い愚かな人間という捕らえ方をしています。収容所で行われたことは、人間の尊厳を奪うことでした。そこでは、人は自分の価値を見失い、そして希望も思考も止めてしまう。しかし、それを行う側の人間もまた、思考することを放棄していたという恐ろしい図式が見えてきます。これは、今の時代にもあてはまります。思考することをやめて、目の前のことを無自覚にこなすようになれば、人間、どんな愚かしいことも、ひどいこともできてしまうというのです。底辺の人間が、そうなるというのなら、まだ想像がつくのですが、アイヒマンはナチスの幹部だったのです。そういう上の立場の人間が思考を止めてしまえば、歯止めがかからなくなってしまう、そんな怖さをこの映画を運んできます。ハンナの主張は、情報に埋もれてしまい、考えているつもりが他の何かに引きづられている現代だからこそ、その重みが増してきているように思います。

でも、主張が正しいからと言って、ハンナの行動を全て受け入れることは私にはできませんでした。アイヒマンを擁護するような、空気読めない発言をしたからではありません。何と言うのかな、凡人に対する配慮のなさが感じられるのですよ。彼女がインテリであることは、映画の中でも語られますし、彼女の知性があればこそ、悪の凡庸さを見抜いたのは事実だと思います。ところが、それを他の人間に伝えるときに、伝える相手を自分と同レベルの人間だと思っている節があり、自分の主張を理解できないバカは相手にしないというところが見えるのですよ。雑誌の編集長との原稿の読み合わせで、難しい単語について、編集長が「これだと読者に伝わらない」というと、ハンナは「じゃあ、読者が学ぶべきね」と即答します。また、アイヒマンが平凡な小役人であるという結論は書いても、なぜそうなのかはあまり説明していないようなのですよ。ハンナは、実際に裁判でずっとアイヒマンを身近で見続けて、たくさんの記録を読んだ末に、あの結論に達したのです。つまり、彼女の読者よりも、多くの情報を握っているのです。ですから、彼女は、それを他の人に伝えるにあたっては、その過程がわかるように丁寧に、かつ凡人でもわかる言葉で語らなければ、読者には伝わらないし、納得させることはできない筈です。雑誌の読者である私のような凡人は、アイヒマンがどういう態度を取ったから、こいつは平凡な小役人だったのかの説明がないと、その先の結論が理解できないのです。私は「スペシャリスト・自覚なき殺戮者」というドキュメンタリーを観て、裁判でのアイヒマンをたまたま知っていたから、彼女の言葉が腑に落ちたのですが、そういう前提(情報の根回しとでも言いましょうか)がなくて、アイヒマンは平凡な小役人だと言われたら、そりゃ「悪魔を擁護している」と言われても仕方ないのではないのかしら。自分が情報の特権階級にいるということにハンナは無頓着すぎるように思います。それが上から目線となり、引いては、ほとんどが凡人であっただろう殺されたユダヤ人を冒涜していることにつながるのではないかという気がしました。まあ、私も映画からの感想を言ってるだけで、彼女の著作を読んでいないので、ホントのところは池上さんあたりに解説してほしいわあ。

で、テレビで政治や経済をわかりやすく語る池上彰さんを見ていると、すごく感心することがあります。それは、私のような凡人にもわかりやすい言葉で話してくれて、かつ彼の見解を押し付ける言い方をしないということ。ですから、私でも彼の言わんとすることが、容易に理解でき、理解できた上で、それに賛成、反対の意見を持つことができます。難しい言い回しで、理解するだけ精一杯だと、理解したところで息切れしてしまい、その先の自分の思考をするところまで体力が続かなくなります。そこで、思考を止める方が愚かだとハンナに言い切られそうな気がしますが、例え正しいことであってもきちんと相手の能力、知力にふさわしい形で伝えなければ、共通認識は生まれず、単にインテリのおもちゃにしかならないのではないかしら。賢い人なら、凡人にわかる言葉を選んで、わかりやすく伝えることができる筈なのに、理解できないバカは相手にしないって態度も、一種の思考停止だよなあって思ってしまいました。本気で自分の思うところ、考えるところを相手に伝えて、世界をよくしようとするなら、言葉を尽くさなきゃ無理だよなあってのを改めて考えさせられた映画でした。

ドイツ映画だけど、舞台となるのは、アメリカとイスラエル、そしてドイツ語と英語がちゃんぽんに飛び交い、時々フランス語まで出てくる映画です。演技陣では、主人公ハンナを演じたバルバラ・スコヴァが凄みある演技で、強靭な意志と知性を持ち、やや独善的なヒロインを熱演しています。室内中心のドラマで、シネスコサイズの絵をきれいに切り取ったキャロリーヌ・ハンプティエの撮影が印象的でした。ちょっとヒロインに苦情を言っちゃいましたけど、でもこの映画の伝えたいメッセージはものすごく大切なことだと思っていますので、機会のある方は是非ご覧になることをおすすめします。

「ゼロ・グラビティ」は映像もすごいけど、サンドラ・ブロックがすごい。


今回は新作の「ゼロ・グラビティ」を川崎チネチッタ10で観てきました。向いのスクリーンで、ももクロのライブビューイングをやっていたせいか、ももクロのハッピを着たおじさんを見かけました。おっさんでもいけるのなら、私もまざってもいいかな。

地上600キロの上空でデータ通信システムの修理をしているのはライアン博士(サンドラ・ブロック)。ベテラン宇宙飛行士マット(ジョージ。・クルーニー)のサポートのもと作業は進められていたのですが、ロシアが人工衛星を破壊し、その破片がさらに他の人工衛星を破壊という事態が発生。たくさんの衛星の破片がものすごい速度で飛んできて、作業中のステーションを破壊、ライアンは宇宙空間に弾き飛ばされてしまいます。何とかマットに救出され、スペースシャトルに戻ったのですが、そこも破片によって破壊されていて、地球へ帰還する方法がありません。マットは近くのソユーズまで移動して、それで帰還しようとするのですが、ソユーズも破壊されており、そのままでは大気圏突入は不可能な状況のよう。ライアンの宇宙服にはもうほとんど酸素が残っておらず、さらにソユーズに接近した二人は慣性の法則からうまく止まることができず、ライアンはソユーズのパラシュートに引っ掛かり、彼女がマットの命綱を握っている状況です。果たして二人は無事に帰還することができるのでしょうか。

アルフォンゾ&ホナスのキュアロン親子が書いた脚本を、父親のアルフォンゾ・キュアロンが監督したSFサスペンスの一編です。キュアロンの映画は、今回が初めてなのですが、彼の「トゥモロー・ワールド」がものすごく評判がいいってのは聞いていたのと、この映画もいい評判しか耳にしないので食指が動きました。3Dが主流の上映なんですが、私は当然2Dでの鑑賞。かなり、3Dを意識した映像が多く、ネジとか部品、ヒロインの涙なんてのが、画面から飛び出してきます(多分)。お話としては、大変シンプルなもので、宇宙空間で遭難してしまったヒロインがどうなるのかというもの。ただ映像は大変凝ったものになっていまして、上下左右の感覚のない宇宙空間でカメラを縦横に回した数分間に渡る長回しを見せたり、摩擦のない空間で慣性の法則に振り回される登場人物をリアルに見せたりと、その作りこみはものすごいものがありました。まあ長回しというのは事前知識があったから、「へえー」と思ったわけなのですが、普通に見てたらそういうのは気にならないかも。

登場人物も極めて少なく、画面に登場して演技するのが、クルーニーとブロックだけ、後は声だけが数人、死体が3つです。宇宙空間を作業中に、破壊された人工衛星の破片が飛んでくるというのは、かなり怖いお話なんですが、宇宙空間で作業するのが普通になっているこの映画の時代に、人工衛星をミサイルで破壊するなんてリアリティがあるのかなあって気がしちゃいました。そこをクリアできれば、かなり怖くて、面白い映画でして、ラストは感動までついてきます。クライマックスでは、泣かされてしまいましたが、それだけの映像のパワーを持った映画であると思います。前半は、トラブル発生後、ライアンの酸素がいつまでもつのかというサスペンスでつなぎます。宇宙空間に投げ出されたライアンの恐怖感を、主観カメラで見せるところにまず感心しちゃいました。ヘルメットを被った状態では、ものすごく視界が狭くなるってことを実感できる映像になっていて、観ているこっちも彼女の不安と恐怖に共感できちゃうのですよ。このヘルメットの中からの映像にものすごい恐怖と絶望を読み取ったのは、私が閉所恐怖症だからかもしれませんが、海より広い宇宙の方が狭いんだってのは、ちょっとした発見でした。同じ遭難するのでも、海と宇宙では、宇宙の方が狭くて怖いんだなって。

そこへ、マックの声が聞こえてきて、平静を取り戻すあたり、単に無線の声のやりとりだけなのに、大変ドラマチックなのですよ。そして、マックと一緒に、近くの宇宙船ソユーズに向かうことになります。その向かう道中でも、マックはずっとしゃべりっぱなしで、ライアンの酸素が足りないのに大丈夫なのかとも思う一方、会話によって恐怖や不安を忘れさせようってのが伝わってくるあたりもうまいと感心。その会話の中で、ライアン(これ、ヒロインの名前です、ちょっと念押し)が幼い娘を事故でなくしていることが示され、それが彼女の心に傷を残していることがわかってきます。

このライアンを演じるサンドラ・ブロックがいつものイメージとは違うキャラというか見た目で熱演しています。最初はずっと宇宙服を着ているのでよくわからなかったのですが、ソユーズに着いて宇宙服を脱ぎ捨てると、いつものふんわりキャラではなく、キリっとしたヒロインが登場するのです。ショートカットで表情も精悍、でも最近のハリウッドヒロインのような贅肉をそぎ落とした筋肉質とは違う、女性的だけど無駄のない肉体、この見た目を作り出しただけでも、ブロックとキュアゾンは大成功なのではないかしら。彼女の、子供を失って母親ではなくなった母性が、最後に母なる大地と融合するというお話なので、この映画の中で、ブロックの見た目、見た目から導かれるイメージがこの映画のキモになっているのではないかと思うと、彼女の見た目は重要だよなあ、やっぱり。

シンプルなストーリーの中に色々なネタを盛り込んであり、色々な読み方ができるようになっていますが、キュアロンゾは意外と読みやすい形でネタを盛り付けてあるので、深読みとか繰り返し観るといった面倒なことは要らないと思います。そういう意味でも、好感の持てる作りになっています。映画を観終わった後、語れるネタがたくさんある映画なので、カップルで観に行くのにはいい映画かも。でも、映画ファン同士で行くと、語れるネタ多すぎて、「お前、うるさいよ」なんてことになっちゃうかな。

「ツリー・オブ・ライフ」でもVFXばりばりの映画で、撮影監督としてクレジットされていたエマニュエル・ルベツキは、ここでもCGとのバランスのとれた絵作りをしています。そもそも、全編がCGによる宇宙空間が舞台である映画で、撮影監督って何をして、どこまで権限があったのかってのは、正直謎ではあります。パンフレットのプロダクションノートを読むとルベツキが色々と仕事してるってのが伝わってくるのですが、昔の映画であるなら、フィルムに焼き付けられる映像の全ての権限を握っていた撮影監督とは違う仕事をしているのかなあ。でも、映像は、私が想像する宇宙空間をリアルに作っていました。(あくまで、科学にうとい私のリアル)スティーブン・プライスの音楽は前半のアンビエント風のシンセサウンドより、後半の盛り上げスコアで点数を稼ぎました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。


マットの宇宙服のジェット噴射でソユーズに向かう二人ですが、ライアンとマットが、ソユーズにたどり着いた時は、ライアンの酸素はほぼゼロ。最後のジェット噴射を使ったとき、その勢いでソユーズを通過しそうになります。ライアンがロープに足をかけ、マットのロープをつかんで踏みとどまりますが、それも限界状態。マットは自らロープのフックを外し、宇宙の中を漂っていきます。一人残されたライアンは、無線から聞こえるマットの励ましの声になんとかソユーズに乗り込み、破片群の再度の通過もやり過ごします。しかし、このソユーズでは大気圏突入は無理。そこで100キロ先の中国の宇宙ステーション天宮に向かおうとしますが、なんと燃料切れ。地球と通信を取ろうとしますが、つながったのは英語のわからないどっかの人。絶望から、酸素供給を切って、静かに死のうとした時、突然ハッチが開いてマットが入ってきます。「色々あってね」というマットは「まだなんとかなる、発射も着陸も同じだろ」とライアンに告げます。と、気がつくと、マットは消えていました。ライアンは、彼の言葉を思い返し、希望、生きようという意欲が湧いてきました。着陸の時、逆噴射が起きる、宇宙船に着陸するときの動きをさせればジェット噴射を起こせるということで、宇宙船を動かすことに成功し、天宮まで到達し、乗り込むことに成功するのですが、天宮は重力で落下しつつありました。ライアンは、天宮の中の宇宙船に乗り込み、落下しつつあるステーションから離脱して大気圏に突入します。(ここで、私はなぜかボロボロ泣かされました。映像のパワーかしら。)そして、パラシュートが開き、帰還船は湖に着水します。一度は船は水に沈んでしまうのですが、ライアンは宇宙服を脱ぎ捨てて、水の底から水面へと顔を出します。陸にたどり着いたライアンは、水面まで這うように進んでから、ゆっくりと立ち上がり、その立ち上がった後姿から暗転、エンドクレジット。

ラストの水中から、泳いで水面まで行って、這うように進んでから立ち上がるってのが、生物の進化だってのは、じっくり見せてくれるので、こっちにも伝わってきました。ヒロインをすっぽんぽんにしちゃった方がより伝わったと思うのですが、そこまでやってくれなかったのがちょっと残念。ともあれ、死を覚悟してから、生きることへ方向転換し、クライマックスの大気圏突入で歓喜の叫びをあげるヒロインの演技が素晴らしく、サンドラ・ブロックはこの映画で、何か賞を取って欲しいなって思いました。どっかイモっぽいところがあるけど、その人懐っこさが愛嬌だったサンドラ・ブロックが、こういう凛々しい役を演じきるってのは驚きでしたけど、やはり女優さんなんだなあって、ここはすごく感心。ものすごい儲け役であるジョージ・クルーニーが霞んじゃったのだから、この映画の彼女、すごいです。映像のパワーで押し切る映画なので、これは劇場で観ることをオススメです。3Dが必要かどうかは、両方ご覧になった方の判断にお任せしたいと思いますが、私は2D版で大満足でした。

「鑑定士 顔のない依頼人」はミステリーよりも主人公の人生の皮肉を堪能する映画かも。


今回は久しぶりの映画館ということで、日比谷のTOHOシネマズシャンテ1で、新作の「鑑定士 顔のない依頼人」を観て来ました。しかし、覚えにくくて語呂の悪い邦題だよなあ。英語原題の「ベスト・オファー」の方がよかったんでないかい? シネコンだと映画のタイトルをお客が指定するんだから、覚えにくい言いにくいタイトルはちょっとなあ。

有名な鑑定士であり競売人でもあるヴァージル(ジェフリー・ラッシュ)は、オークションや美術館からひっぱりだこ。でもその一方で、旧友であるビリー(ドナルド・サザーランド)を使って、有名になる前の美術品を低価格で落札させたりしていました。彼の家の隠し部屋にはたくさんの女性の肖像画が壁一面に並べられ、そこにいるときが彼の至福の時間でした。そんな彼に1本の電話がかかってきます。クレア(シルヴィア・ホークス)と名乗るその女性は、父母が1年前に死んで、邸を整理したいので、家具や美術品を鑑定してほしいと言ってきます。普通ならそういう話でヴァージル自身が赴くことはないのですが、好奇心をおぼえて、彼は邸へ足を運びますが、待ちぼうけをくらいます。その後、また電話がかかってきて、ヴァージルは邸にあるものの鑑定を始めるのですが、何かと理由をつけてはクレアはヴァージルの前に姿を見せようとしません。邸の管理人に金を渡して聞き出したところでは、クレアは15歳から広場恐怖症なる病気でずっと邸から出られないらしいのです。そして、ヴァージルは、クレアが壁の向こうの隠し部屋にいることを告げられます。ヴァージルとクレアは壁越しに鑑定について会話するようになります。それまで、女性に触れるのも触れられるのも嫌悪感を持っていたヴァージルが、彼女が気になって仕方なくなります。一方、邸の中に落ちていた歯車を修理屋のロバート(ジム・スタージェス)に見せたところ、それは18世紀の自動人形(オートマタ)の部品じゃないかってことになります。もし、それが復元できれば、でっかい金になります。でも、人形よりも、姿を見せない生身のクレアのことが気になってしまうヴァージルなのでした。

「ニュー・シネマ・パラダイス」「記憶の扉」「題名のない子守唄」などで知られるイタリアのジュゼッペ・トルナトーレが脚本を書いてメガホンも取ったミステリータッチの一編です。美術品、骨董品の鑑定人である主人公ヴァージルがある女性からの鑑定依頼を受けたことから、物語は始まります。このヴァージルは、モノに対する鑑定眼はすばらしいものがあるようで、オークションに出品されたものの本当の価値を見抜くとビリーに安く落札させたりしていました。オークションのインサイダー取引みたいなものですが、その審美眼を持っているのが彼しかいないものですから、その不正を指摘できる人はいませんでした。絶対な自信は尊大な態度に表れていまして、友人のビリーは画家なのですが、彼の才能のなさを面と向かって言い切っちゃったりします。また、異常な潔癖症らしく、食事の時も手袋をはずしませんし、携帯電話も使うときもハンカチで包まなきゃいけない、かなり面倒なオヤジ。そして、自分の家の隠し部屋で、たくさんの女性の肖像画に囲まれているときが一番の幸せらしいのです。この隠し部屋のシーンでは、エンニオ・モリコーネの美しい旋律が目一杯流れます。エッダ・デ・オルソを初めとする女性ボーカルとストリングスが複雑に絡み合い、複数の女性のボーカルが上下左右を移動して、女性の声に包まれるような感じになるところが圧巻です。サラウンドスピーカーをフルに使って、女性の肖像画に取り囲まれたヴァージルの様子を、音楽で見事に表現しています。

そんなヴァージルに両親の遺品の鑑定を依頼してきたのが、クレアという女性。何だかんだ理由をつけては、ヴァージルと直接会うことを避けてくる。邸にいるヴァージルに電話をかけてくるのですが、そこに邸の物音が聞こえてくる。どうやら彼女は邸にいるらしい。そして、わかってくるのが、彼女が広場恐怖症で長年引きこもり状態であるということ。ヴァージルはそんなミステリアスな女性に好奇心を持つのですが、壁越しに会話しているうちに愛情が芽生えてきちゃうのですよ。壁の向こうが70のおばあちゃんならそういう展開にはならないんでしょうけど、声がチャーミングな27歳の女性だと話が違うみたい。それに、ヴァージルはまともに女性と付き合ったことがないらしいのですよ。修理屋のロバートに、友人の話として、彼女のことを相談しちゃったりします。

一方で、この邸の中に歯車とかぜんまいとか、得体の知れない部品がたくさん転がっていました。ロバートに見せると、どうやらこれがオートマタと呼ばれる自動人形の部品らしい。18世紀の作品で、自動人形とは言え、実は中に小人が入っていたらしいのですが、それでも復元できたら大変なお値打ちもの。ヴァージルは、部品を集めては、せっせとロバートの店に持ち込んで、組み立てさせると、だんだん人間に近い形になってきます。自動人形というのは、人間の動きをまねた機械、でも実は中に人間がいて操作しているという、フェイクにフェイクを重ねた代物なのです。また、映画に頻繁に登場するのは、贋作の話、贋作にはどこかに贋作者の刻印が残ってしまって、それがオリジナルとの違いとなって、わかってしまうんですって。で、ヴァージルはその贋作者の刻印まで見抜く目を持っているのですよ。なるほど、そういう話なのかな?ってところが見えてくるのですが、それでも、なかなか先の展開が読めません。邸の向いのカフェに小人の女性がいて、この女性が記憶力や計算力がすごいらしく、いつも何かの数字を暗証しているのですが、これも本筋に絡んでくるのかしら。

ヴァージルは、ものものしい登場シーンで只者じゃないところを印象付けるのですが、クレアにぞっこんになっちゃうと、中学生みたいにあたふたしちゃって、そのギャップがおかしく、ジェフリー・ラッシュの演技が光りました。そして、それまでの彼の孤独な人生にクレアが一筋の光を投げかけたのだとわかってくると、この鼻持ちならない男にちょっとだけ感情移入できるのが面白いと思いました。トルナトーレの演出は、姿を見せない依頼人という設定でミステリーというつかみで展開させるのですが、ラストまで見ると、ミステリーというよりは、人生の儚さが見えてくる「海の上のピアニスト」みたいな映画なのですよ。彼のミステリー「記憶の扉」「題名のない子守唄」のようなお話を期待すると、ちょっと違うぞという気分になりますから、この映画の日本での売り方は中身にマッチしていないような気がします。ミステリーとしての仕掛けもあるのですが、それが映画の柱ではないのです。

ヴァージルは、孤児で修道院で育てられ、そこで宗教画の修復の手伝いをしているうちに美術を学び、審美眼を養い、今日の地位を築いたのですが、その過程で色恋沙汰の入る隙間がないまま、孤独に年を取ってきました。でも、隠し部屋の中の女性肖像画に囲まれているときは幸せそう。ひらたく言うと2次元の人だったのですが、それが生身の女性にのぼせあがっちゃうというプロセスがなかなかに面白いのですよ。突然、肉感的な女性にアタックされたら拒否反応が出ちゃうのでしょうけど、最初は電話だけ、次は壁越しに声と気配だけという、ちょっとずつ接近するので、じわじわと盛り上がるというかはまっちゃう過程に説得力があるのですよ。

ミステリーとしては、前フリが多すぎるような気もしたのですが、ドラマのピースの中にきちんと映画の意図が練り込まれているのは見事だと思いました。思わせぶりという言い方もできるのでしょうが、ストーリーで観客を引きつけているので、そういう演出が後で腑に落ちるような作りになっているのですよ。メインドラマで観客を引きつけられないと、同じことをしても、寄り道だらけで退屈させられたという印象が残ってしまいますから、やはり演出のうまさなのでしょう。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ヴァージルとクレアは壁の隔てていても、気持ち的には急接近。そして、ある日、ヴァージルは邸を出たふりをして、部屋の中に隠れます。すると壁の扉からクレアが姿を見せます。スリムで魅力的な美人でますますヴァージルときめいちゃう。しかし、同じことを2度めにやったとき、音を立ててばれちゃいます。一度は逆上するクレアですが、最後は彼を部屋に招き入れます。そして、ヴァージルは、衣服やディナーをプレゼントし、邸の中だけですが、デート気分。ヴァージルとしては、彼女の広場恐怖症を治してやりたい気持ちがあって、その機会を探るのですが、クレアはその意図を敏感に察知します。ある日、彼女が邸の隠し部屋から姿を消し、ヴァージルは取り乱してしまい、その日の競売会で大醜態を見せてしまいます。その直後、ヴァージルは屋根裏部屋にいるクレアを発見します。そして、彼は、クレアが14歳のときプラハでボーイフレンドと一緒にいたとき、ボーイフレンドが車にはねられて死んでしまって、それから引きこもり状態になってしまったんですって。

ある晩、ヴァージルは邸を訪ねるのですが、邸の前で3人の暴漢に襲われてしまいます。怪我をしながらもクレアに電話するヴァージル。クレアは道路に倒れている彼を見て、彼のもとに駆け寄り、救急車を呼んで病院まで付き添ってくれます。そして、二人はヴァージルの家で同棲するようになります。クレアは、家のものを売却するのをやめようと言い、彼はそれを受け入れます。ヴァージルは引退を宣言し、最後の競売人として勤めを終えて、家に帰ってみると、隠し部屋の絵は全てなくなっていて、そこには作りかけの自動人形が置かれていました。ゼンマイが回ると「いかなる贋作の中にも本物が潜む」とロバートの声が。そして、ヴァージルに唯一残された、クレアの邸にあった踊り子の絵の裏には、ビリーからのメッセージがありました。邸の前のカフェの小人の女性が実は邸のオーナーのクレアであり、彼女は、その卓越した記憶能力で、ロバートや偽クレア、そしてヴァージルの訪問回数を数えていたのでした。その邸には何度も家具が運び込まれたり運び出されたりしていて、映画関係者などに貸し出されていたようです。結局、ビリー、ロバート、邸の管理人、偽クレアみんなで、ヴァージルをだましていたのです。そのダメージから入院しちゃうヴァージルですが、リハビリの末、回復した彼は偽クレアの思い出の地であるプラハに向かいます。そして、彼女が語っていた店に入ります。ウエイターの「お一人ですか」という問いに「いや、待ち合わせてる」と答えるヴァージルのアップから、カメラがずーっと引いていてフェードアウト、エンドクレジット。

ヴァージルが騙されてるというのは、自動人形とか贋作といった設定の中で暗示されているので、それほどの意外性はありません。その先のさらに一ひねりがあるわけでもないので、ミステリーの意外性だけを期待すると、物足りないかもしれないです。でも、映画としてのボリュームは十分でして、凝った映像、サラウンドを駆使した包み込むような音楽、演技陣の健闘など見所が多いです。偽クレアを演じたシルヴィア・ホークスのおびえた小動物のようなたたずまいも印象的でした。自動人形については、絵的にはそれほどのインパクトはなかったですが、冒頭で登場する何でもないような木片から絵を再現するというくだりが印象的で、隠されていた絵が発見された後、それがさらに精巧な贋作であることがわかるというのが、この映画全体を語っていたことに後で気付かされました。

もうひとつ、この映画は、ヴァージルと長い付き合いだったけど、才能を無視され続けた画家ビリーの復讐譚でもあります。ビリーは、画家としての素質がないという辛らつな言葉を言われ続けながら、ヴァージルの掘り出しモノの入手の片棒をかついでいたのです。しかし、美術品については絶対的な審美眼を持つヴァージルには、女性や愛を見抜く力はありませんでした。そこを突かれてしっぺ返しを食らうことになるのですが、その時、ビリーは、ヴァージルが唯一愛したものを根こそぎ奪っていくのです。愛を偽装することによって、愛するものを奪う復讐という物語は、愛憎ドラマとしてはよくある普遍的なパターンだということに気付かされます。ドナルド・サザーランドが画面の中では、ずっとヴァージルのよき友人なので、ラストの絵の裏に書かれたサインで、黒幕が彼とわかったときに、それまでの彼の態度がきちんと納得できるのには感心しちゃいました。トルナトーレの演出もあるのでしょうけど、やはりサザーランドの演技が光っていたように思います。

エンニオ・モリコーネの音楽は、最近のハリウッド映画の音楽とは一線を隠す豊穣さがありまして、それをさらに、前面に出して、映画館の中を女性ボーカルが回るという音作りをしているので、これは劇場で観て、聴くことをオススメします。

新旧の「怪奇大作戦」をテレビでやってましたので

このところ、映画に足を運べてなくて、テレビばっかの日々を送っているのですが、NHK-BSで「怪奇大作戦」の新旧並行放送をしているんですよね。

オリジナルは昭和43年、「ウルトラセブン」の後番組として日曜日の夜7時から2クール放送された、SF特撮ドラマです。超自然現象や科学犯罪を捜査するSRIという組織の活躍を描いたもので、的矢所長(原保美)、三沢(勝呂誉)、牧(岸田森)、野村(松山省二)、さおりちゃん(小橋玲子)の5人のチームに警視庁の町田警部(小林昭二)が絡むというもの。これが、なかなかの曲者でして、最初の4話の冒頭を並べてみると「怪人が壁を通過する」「蛾にたかられた男の体が泡を吹いて溶けてドクロになる」「タバコを吸おうとした男が火を噴いて焼死」「電話を取った男が火を噴いて焼死」と、休日の最後の団欒を飾るにはやりすぎ感ありあり。1話完結で、スリラーあり、SFあり、何だかよくわからない話ありとバラエティに富んだ内容でしたが、ウルトラシリーズほどは視聴率は稼げませんでした。私は放送当時は小学生低学年で、人が溶けたり燃えたりするのにはかなりビビッて観てました。

1980年代以降のビデオブームで再評価されるようになり、実相寺昭雄監督や岸田森がクローズアップされて、カルト的人気を得るに至りました。私も再見する機会があって、LDなんかゲットしたのですが、これが面白い回とそうでもない回の差が大きい、出来栄えにムラのあるシリーズだったことに気付かされました。結末に謎を残したまま完結しない話に面白いものが多く、私の個人的な好みを挙げると、ベストは「青い血の女」「かまいたち」「果てしなき暴走」となります。一般的には、実相寺監督の「京都買います」「死神の子守唄」などの評価が高いようです。ある程度、その時代を直接反映したドラマですので、怪獣モノに比べると色褪せやすい部分もあるのですが、それでも面白いものは面白いのですよ。脚本や監督はウルトラシリーズから連投のメンバーに加え、脚本に石堂淑朗、監督に小林恒夫や長野卓等が参加しています。

これが年号が改まってから、リメイクされてNHK-BSで放送されたのが「怪奇大作戦 セカンドファイル」でして、的矢所長(岸部一徳)、三沢(田中直樹)、牧(西島英俊)、野村(青山草太)、さおりさん(美波)というメンツで、45分枠で、3本作られました。そして、また間を置いて、2013年の10月から同じく45分枠で、「怪奇大作戦 ミステリーファイル」の放送が始まり、的矢所長(原田美枝子)、三沢(原田泰造)、牧(上川隆也)、野村(村井良太)、さおりちゃん(高橋真唯)のメンバーが怪奇な事件に立ち向かうことになります。オリジナル版は、お話によってSRIメンバーの誰かが主人公になったり、ゲスト出演者が主人公になったりしていたのですが、リメイク版は、明確に、牧が主人公というポジションになっています。まあ、オリジナル版でも牧中心のお話の評価が高かったので、それにならったのでしょう。

先日、オリジナル「怪奇大作戦」の「かまいたち」が放映され、前後して「かまいたち」のリメイクという形で「怪奇大作戦 ミステリーファイル」の「深淵を覗く者」がオンエアされました。同じ設定で、同じネタ、30分と45分という尺の違いがあるものの、時代背景の違いなど、なかなか面白いものがありました。


この先は話を比較するために両者のストーリーを一通り紹介しますので、未見でこれからのお楽しみに取ってある方はご注意ください。



オリジナルは、動機なき殺人者が社会の中に潜んでいて、それが突如、かまいたちで開いた傷口のような不気味な姿を現すという物語を寓意的に描いています。その犯人の平凡なたたずまいの怖さ、そして、SRIの牧が、なぜか彼の視線から、彼が犯人だと確信を持つ不条理さと、物語として怖いのですよ。そして、さらに女性の体が一瞬ゆがんだように見えてバラバラに吹き飛ぶという視覚的なショック。何しろ、ちぎれた首が川の中に落ちたところでタイトルが出て、出演者の名前が出てくると、カメラがパンして、川岸の隙間から、ちぎれたらしい手首がのぞいているというインパクトのある映像が続きます。


「怪奇大作戦」「かまいたち」(脚本 上原正三、監督 長野卓)
東京の下町、深夜に家路を急いでいた女性が橋の上にさしかかったとき、ごうっという風の音とともに、女性の体がバラバラにちぎれ、川の中にボチャン。痴情怨恨からの、鋭利な刃物による犯行と警察はにらむのですが、SRIは流しの犯行ではないかと疑います。次の犯行が起きたとき、これは真空状態を作り出すことによる「かまいたち」現象ではないかと、SRIは推理します。犯行現場に集まった野次馬の中に何か視線を感じた牧は、さおりちゃんに周囲の写真を撮るように言い、その写真の一枚に写った若い男に注目します。「この目は笑っている」牧は男を尾行するようになります。工場に勤める男は平凡で虫も殺さないいたちのような目をしています。SRIは彼を罠にはめるべくさおりちゃんを夜中に橋まで歩かせます。そして轟音とともにバラバラにさおりちゃん。野村が逃げる男を取り押さえるとやはり、牧がにらんだ工員でした。さおりちゃんは橋の寸前でリモコン人形と入れ替わって無事でした。バラバラになった人形がイビツに合体してヘコヘコ歩いていくのがまた不気味。牧や警察に「何でこんなことをしたんだ」と詰問される犯人は最後まで無言。その犯人の目にカメラが寄って、エンドクレジット。

どうやって犯人がかまいたち現象を起こす装置を作りえたのか、また、何のためにそんなことをしたのかは最後までわかりません。かまいたちでできた傷のように、突然社会の傷がぱっくりと割れて、狂気が飛び出したとでも言うべき怖い話です。色々と解釈の余地を残しながら、得体の知れない恐怖を秘めて物語は終わります。冒頭の人体バラバラのインパクトがすごいのですが、その先の結末もかなりすごい。ちょっとヒチコックの「サイコ」を思わせるところもあるのですが、あのノーマンのような普通の時の人間の魅力的な部分は一切なく、ひたすら普通というか平凡な男。そんな男を生み出した社会へと視線を投げかけているようなラストではあるのですが、あくまで匂わせる程度で、そういう言及は一切なく、この常識では計り知れない狂気に対する、牧の畏怖の言葉でドラマは終わるのです。

ショッキングなオープニングから、不気味なエンディングまで、長野卓の演出は30分枠の中でテンポよくストーリーをさばいて、後に不気味な余韻を残すことに成功しています。かまいたち発生装置をなぜ犯人が作ることができたのかもわかりませんし、なぜ立て続けに殺人を行ったのかもわからない。そんな動機なき無差別殺人という不条理な世界を、猟奇スリラーとして面白く描いたのはかなりすごいことだと思います。特撮による人間バラバラシーンはインパクトありましたし、こんなのを日曜夜7時にやっていたというのもすごい時代です。少年漫画雑誌も「アシュラ」などのエグい描写のものが増え、映画も血糊の量が多いエログロ系の映画が幅をきかせてきた時代を反映しているとも言えましょう。


さて、一方の「怪奇大作戦 ミステリーファイル」の「深淵を覗く者」も、冒頭は、オリジナルと同じところから始まります。

「怪奇大作戦 ミステリーファイル」(脚本 小林弘利、監督 鶴田法男)
、冒頭で夜道を急ぐ女性が誰かに尾行されているシーンから、橋の上で、風の音がして彼女はバラバラになっちゃいます。そして、手口を替えた第2第3の殺人が発生し、牧はその殺人方法をことごとく暴いていきますが、そこを逆に警察に疑われて逮捕されてしまいます。牧はどうも連続殺人者に近づきすぎたようなのです。そして、犯人の感情とシンクロしてしまったようで、それを的矢所長から「深淵を覗く者は、その闇に飲み込まれる」と忠告されます。オリジナルと同様に現場写真の中から、怪しいトラックを特定して、そのトラックを尾行し始めます。トラックの運転手である男はSRIに追い詰められたと観念すると、自らを高熱発生装置にかけて火柱となって絶命。結局、最後まで犯人の顔はわからないままなのでした。そして、警察がやってくると野次馬が集まってきて、携帯カメラでばしばし撮影しています。牧はその群集の中の一人に駆け寄ります。そして、牧のアップで「おまえなのか」と言うところでおしまい。

牧が自分と犯人がどこが違うのか、犯罪トリックを暴くことでその犯罪を楽しんでいる自分がいるんじゃないかと悩むところがオリジナルとの大きな違いでしょう。そして、犯人の顔を最後まで見せずに、ラストで群集の中にいる観客(視聴者)に向かって、「犯人はお前なのか」というところで、そのテーマの矛先をテレビの外に向けてくるのです。そういうメタ構造とも言えるドラマの趣向は面白くもあるのですが、何だか青くさい印象も受けてしまいました。学生映画のノリだと言うと語弊があるかもしれませんが、そこまで具体的に語らなくても、伝える方法はありそうなものじゃんというのが、オリジナルと比較しての感想でした。また、キーマンとなる牧のキャラクターも、オリジナルは思い込みと理性の両方にユーモアを加えた一人の人間として描かれているのですが、リメイク版の牧は何かやたらと思い悩むキザな文学青年っぽいので、逆に人間としての奥行きに欠けてしまいました。オリジナルの岸田森が演じた牧もかなりキザでお悩み深そうな感じはあったのですが、リメイク版の上川隆也演じる牧の方がその度合いが激しいのです。そういうところにも青臭さを感じてしまったのかも。

描写としては、人間がバラバラになる描写はありませんが、熱線を受けた被害者が一瞬で灰になっちゃうというシーンがあります。でも、オリジナルよりはおとなしい描写となっています。監督がJホラーの第一人者である鶴田法男だけに、ホラータッチの部分は、オリジナルよりも上々なのですが、何かこうセリフが説明的でリアリティがないのが残念。オリジナルにない切り口を持ったストーリーはいい線いってると思うのですが、最近のドラマ・映画によくある説明過多になっちゃっているように思います。これは、観客(視聴者)がバカになったのか、バカになったと思われているのかのどっちかでないかしら。


というわけで、どっちも面白く出来ているのですが、シンプルだけどかなり怖いオリジナル版に対して、テーマを明確にしたら饒舌になりすぎたリメイク版という風に色分けできるのではないかしら。私は、オリジナル版に強烈な印象を持っているので、どうしてもそっちに肩入れしてしまうところはありまして、動機なき無差別殺人の怖さがストレートに伝わってくるオリジナル版の方に軍配を上げてしまいます。リメイク版も、携帯カメラを掲げた野次馬の群れという現代ならではの見せ方をしている点は評価高いのですが、その語り口の饒舌さがどうもノリきれないのですよ。一番、それがよくわかるのが、タイトルの違い、「かまいたち」と「深淵を覗く者」、どっちにセンスを感じるかと言えば、ねえ。

オリジナルの「怪奇大作戦」はまだ、再放送されるようですから、機会があれば一見をオススメしちゃいます。ただ、玉石混交ってところはありまして、1本見てつまんないと思っちゃうのは早計ですよ。

「世界の終り」は1時間というコンパクトな時間なので、イメージが広がって楽しめたのかな。


体調すぐれず映画館へ行く元気がないなあってときに、ジョン・カーペンターの「世界の終わり」をAMAZONで見つけてゲットしちゃいました。これは、「マスターズ・オブ・ホラー」というケーブルTVの企画で、ホラー映画監督が1時間程度の長さで1エピソードづつ作るというのもの。ダリオ・アルジェントやトビー・フーパー、ジョー・ダンテといったそうそうたる面々が参加し、この「世界の終わり」もそのシリースの1本です。このシリーズでは、鶴田法男の監督した「ドリーム・クルーズ」が1時間半に再編集されて、劇場公開されました。日本でもひっそりと公開されたのですが、これはなかなか面白かったです。

自殺した恋人アニーの父親から借金して始めた映画館の経営は火の車状態のカービー(ノーマン・リーダス)は、ある日、映画収集家のデリンジャー(ウド・キア)の屋敷に招かれます。デリンジャーはカービーにある映画のフィルムを探してほしいという依頼をしてきます。それはバゴウィックという監督の「世界の終わり」という映画です。シッチェス映画祭で一度上映され、その時に映画館で暴力沙汰が起こって上映禁止となり、その結果フィルムも失われた筈だったのですが、それが1本だけ残っているというのです。10万ドルで探してくれというデリンジャーに20万で引き受けるカービー。彼はアニーの父親から20万ドルの借金の返済を迫られていたのです。カービーは「世界の終わり」の評論を書いた男を訪ね、バゴウィックのインタビューテープを手に入れます。そのテープを聴いてから、彼にアニーのイメージがフラッシュバックするようになります。パリの知人のアーカイブを訪ねて、フィルムを探そうとしますが、そこにフィルムはなく、バゴウィックの遺品を持っている収集家を紹介されます。そこを訪れたカービーは収集家の男に椅子に縛り付けられます。そして、彼が乗ってきたタクシー運転手の首をはねる収集家の男。こいつも映画を観ておかしくなったのか? またしてもフラッシュバックが起こり、気付いた時、収集家は血塗れで倒れていました。カービーは男からフィルムへの糸口となるバコヴィック監督の未亡人の居場所を聞き出し、カナダへと向かうのでした。

「世界の終わり」という伝説の映画は、観客をおかしくしたという都市伝説を持っていて、その映画は1本だけフィルムが現存しているというところから始まります。収集家のデリンジャーという金持ちは、映画に登場した天使の羽を部屋に飾っているというくらいその映画にのめり込んでいるようです。さらに奥の部屋には、映画に登場したという天使そのものが背中の羽をもがれて鎖につながれていたのでした。こいつは俳優なのか、それとも人間以外の何者なのか。デリンジャーという男は普通の人間ではなさそうです。一方のカービーは、恋人のアニーとドラッグに溺れて、その立ち直りのために彼女の父親から20万ドルを借りて、映画館を始めるのですが、その矢先にアニーはバスタブで手首を切って自殺したのです。そのことを負い目にしていました。そして、映画を探し始めたカービーに、次々に怪奇な事件に遭遇するというのがメインストーリーとなります。

ドリュー・マクウィーニーとスコット・スワンのオリジナル脚本を、ジョン・カーペンターが監督しました。2005年の作品ですので、「ゴースト・オブ・マーズ」と「ザ・ウォード」の間に作られたもので、彼は「マスターズ・オブ・ホラー」のシリーズで2本を演出していますが、この「世界の終わり」の方が評判がいいらしいです。1時間の枠の中で、ホラーとそのバックグラウンドとなる世界観を描くことにかなり成功していると言えましょう。「パラダイム」や「マウス・オブ・マッドネス」のように小さな事件ででっかい物語をほのめかすというコストパフォーマンスのよい作りは、ここでも健在でした。劇場映画の大風呂敷に比べれば、時間と予算のせいかこじんまりとまとまったところもあるのですが、それでも、謎の映画の断片シーンなどの悪夢のイメージはなかなかのリアリティがありましたし、残酷シーンもかなりのインパクトがあり、さらに全編に緊張感を持続させたあたり、職人的なうまさを見せてくれます。

この映画の原題は「Cigarette Burns」といい、これは、フィルムの交換時期を知らせるパンチマークのことです。「世界の終わり」を探し始めたカービーに時々パンチマークのイメージがフラッシュバックして、その中にアニーが現れたりするようになります。このパンチマークというのは、上映技師にその巻の終了することを知らせるためにフィルムの隅っこに現れるものでして、最初のマークが出て数秒後にもう一回出たところで、次のフィルムをセットした隣の映写機をスタートさせるという流れとなります。シネコンになって、フィルムを巻ごとに映写するのではなく、全部をつなげてでっかいリールで一挙に上映するようになって、パンチマークを意識した上映は少なくなり、さらにデジタル化によって、パンチマーク自体が消滅してしまいました。2005年というと、日本ではまだフィルム上映だったのですが、アメリカでも、フィルム上映がメインだったのかしら。ともあれ、フィルムの収集とかパンチマークを扱った映画としては最後の方に位置づけられるでしょう。これから、こういう題材が扱われるとしたら、ノスタルジーの対象となるでしょうから、そういう意味で貴重な映画といえるかも。

カービーが訪ねた評論家は、その映画を1回だけの映画祭での上映会で観ていました。その上映の結果、4人の死者が出て、映画館の廊下が血の海になったといいます。その暴力沙汰は、たまたま発生したのではなく、バゴウィック監督がそうなるように意図的に映画に作りこみをしていたというのです。ブルース・リーの映画ややくざ映画を観て、劇場を出た後、テンションが上がっちゃう人がいたのは事実だそうですが、そのパワーアップ版というべき映画らしいのですよ。そして、コレクターたちがその映画を追い続けているのだそうです。まるで悪魔が作ったような映画らしいのですが、その映画で、天使が残酷な扱いをされているらしいことがわかってきます。その映画に出た天使はデリンジャーの邸に監禁されているというケッタイなお話。

色々な設定が交錯するのですが、メインとなるストーリーはシンプルです。でもそのディティールは不合理なことばかりで、腑に落ちる説明もありません。上映会の時の映写技師だったカービーの友人の指は火傷で固まっていました。バゴウィックの遺品コレクターの男はタクシー運転手の首を切り取り、それを部下の男たちが撮影しています。ここはアルカイダの人質の惨殺映像につながっているようなのですが、それにしても、ドラマの流れとしても唐突で、かなりショッキング。最近の残酷メーク市場をほぼ制圧しているハワード・バーガーとグレッグ・ニコテロ率いるKNBイフェクツグループが腕を振るっていまして、この他にクライマックスとか天使の特殊メイクで見事な仕事をしてくれています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



カービーはカナダのバンクーバーにバゴヴィック監督の未亡人を訪ねます。そのアパートに行くまでのエレベーターの中で、恋人アニーに遭遇します。監督は引きこもって自分の映画を何度も観ていたそうで、その挙句に奥さんと心中を図り、奥さんだけ生き残ったというのです。そして、問題のフィルムは未亡人が保管してきたのですが、もう手放したいと思っていたと、あっさりカービーにくれちゃうのでした。そして、カービーは、デリンジャーの邸にフィルムを届け、デリンジャーは大興奮で映画の上映を始めるのです。その直後、カービーはデリンジャーの呼び出しを受けて再び邸を訪ねます。すると、デリンジャーの執事が傷だらけの体で現れ、「お前があの映画を持ち込んだな、お前は映画を観たがっている」とワケのわからないことを言って、ナイフで自分の両目をえぐります。上映室に行ってみれば、映写機の横にデリンジャーが歓喜と苦痛の表情を浮かべています。彼は自分の腸を映写機に巻き込んで命を絶ちます。そこへ、アニーの父親が現れ、カービーに銃を向けるのですが、なぜか再び「世界の終わり」の上映が始まります。不気味な映像が続き、それに見とれている二人の前に、スクリーンの向こうから、血塗れのアニーが現れ、父親に抱きつきました。その幻想が消えたとき、カービーは父親がアニーに異常な愛情を抱いていたことに気付き、彼を殺して、自分も銃で自殺するのでした。執事は天使に鎖の鍵を渡し、天使は、「世界の終り」のフィルムを抱いて、カービーの死体に「ありがとう」と言って退場。おしまい。

映画のプロデューサーが誰なのかは最後までわからず、これがどうやら悪魔、というか人間の悪の根源らしいということが示されます。この映画を封印することで、囚われていた天使が解放されるという結末らしいのですが、その辺のところは雰囲気で解釈するしかありません。映画を観ていたカービーと父親がアニーの幻覚を見るというのも、この映画が観客を過去の自責の念に直面させるという風に思えたのですが、これまたいくらでも解釈できそうです。映画を観た観客の阿鼻叫喚を、4人だけで再現したあたりにコストパフォーマンスを感じましたけど、その内、3人は自傷行為に走るというのが面白いと思いました。暴力沙汰というのは、ホントは殺し合いではなく、自殺で死者が出たのかもしれません。評論家は観客を破壊すると言ってましたが、人間の破壊の仕方は色々ありますからね。デリンジャーの死ぬ直前に自分は過去に悪いことをやってきたという告白をしますから、この映画を観ることで、自分の過去の罪に向き合わされ、その先に来るであろう地獄への道を知り、絶望が自らの命を絶つという見方もできましょう。罪人に罪を実感させ、地獄へと導くフィルムを、天使が持ち帰るというのも面白そうという気がしたのですが、キリスト教にくわしくないので、その意味を理解するには至りませんでした。悪魔が作った映画が、人間の罪の意識を増幅させて、人類を滅ぼそうとするのを、天使が最小の犠牲で押しとどめたようにも思えましたが、このあたりは、その人の持つ信仰によって解釈が変わってきそうです。

演技陣はウド・キア以外は知らない人ばかりですが、皆好演しています。このDVDには、カーペンターにインタビューしているのですが、作った当人が「世界の終り」みたいに人間を破壊する映画なんてあり得ないと言い切るあたりがおかしいと思いました。またビハインドシーンでは、残酷シーンの撮影現場の和気藹々とした雰囲気が面白かったです。考えてみれば、ホラー映画の残酷シーンはそのカットのみ切り取れば滑稽なものかもしれません。それが編集、音響によって怖くなるのではないかなって気がします。セリフよりイメージを増幅させることで恐怖を描いてきたカーペンターにしては、この作品は会話の多い映画でして、会話の中にさまざまな含蓄を持たせているのですが、映画の世界観は、ちょっとだけ登場する「世界の終り」の映像の方に込められているように思いました。宗教映画とスナッフフィルムをいっしょくたにしたような映像がなかなかに不気味なのですが、カーペンターは実在しない映画をかなり適当にそれらしいイメージショットを積み上げて作ったと語っていました。

まあ、悪魔と天使の間で、人間同士が殺し殺されるお話のようでして、やっぱり人間の本性なんて悪でしかないのねーというペシミスティックな展開は、なかなか面白かったです。天使と悪魔の闘いとは言え、その力が及ぶのが映画と映画に関係した人間だけというところが、小さくまとまってしまったとも言えるのですが、その分、短編小説を読むようなピリっとした仕上がりになったように思います。あまり、細かいところまで説明しきらないで、なんとなく雰囲気で流した演出は、1時間の長さにふさわしく、長編映画であれば、もっとシーンの説明をしないと途中で観客は置いてきぼりにされちゃうでしょう。

「ザ・コール」は色々な映画のいいとこ取りなところもあるけど、面白くできたサスペンススリラーの佳作


今回は新作の「ザ・コール」を静岡ゼノバ9で観てきました。ここはシネスコ画面のままビスタサイズの映画を上映するところ。入場の列が結構長くなるのは、客さばきが今一つなのかも。川崎チネチッタなんかを見習ってほしいわあ。

日本の110番に相当するアメリカの911。そこベテランオペレータであるジョーダン(ハル・ベリー)は、ある日、何者かに家に侵入された少女からの電話を受けます。何とか2階に逃げた少女は男をやりすごしたように見えたのですが、電話が切れた時にジョーダンがコールバックして、その着信音で居場所がわかってしまい、少女は無残な死体で発見されてしまいます。ジョーダンは、現場を退いて、オペレータの教官となっていました。緊急通報司令室に研修生たちを見学につれてきたとき、新人のオペレータが受けた電話は、少女が何者かに誘拐されて車のトランクに閉じ込められ、助けを求めるものでした。若いオペレータは動転して対処できず、ジョーダンは彼女に代わって、少女から情報を引き出そうとします。少女の名はケイシー(アビゲイル・プレスリン)で、ショッピングセンターの駐車場で男に拉致されてしまったのでした。ジョーダンはケイシーを励ましながら、その居場所をつきとめようとするのですが、その電話がプリペイド携帯だったため、なかなか場所を特定することはできません。ジョーダンはケイシーに指示をしてテールランプを壊してそこから手を振り、トランク内のペンキを道路にまくことまで成功しますが、なかなか彼女の車を発見することはできません。果たしてジョーダンはケイシーを救うことができるのでしょうか。

リチャード・ドヴィディオ、ニコール・ドヴィディオ、ジョン・ボーゲンキャンプの原案を、リチャード・ドヴォディオが脚色し、「ワンダーランド駅で」「セッション9」「マシニスト」とつかみどころのないフィルモグラフィを持つブラッド・アンダーソンが監督したサスペンススリラーの一編です。閉じ込められた主人公が、携帯電話で外とつながって、そこからどうやって脱出するかというと「セルラー」ですとか、「リミット」、またそのバリエーションとしての「フォーン・ブース」などがあり、どれも上々の面白さでした。また、もう一人の主人公が、通信オペレータで一度は自分のミスで人を死なせてしまって、職を離れるのですが、ひょんなことから、再度、その仕事をする羽目になり、そこで同様の事態に直面するというシチュエーションは(私の中では)傑作「乱気流 グランドコントロール」の展開でして、それらの優れた先達のある題材だけに、かなり期待してスクリーンに臨みました。

冒頭は、911の緊急通報司令室の様子が描かれます。911の第一報を受け付けて、そこで通報の重要度を判断して、警察や救急へ仕事を引き継ぐのが仕事です。中には、どうでもいいような通報もありまして、日本でも、事件性のない110番が結構あるそうですから、どこの国でも似たようなもののようです。この映画の中では、新人のオペレータのこの仕事の辛さを語るとき、自分はどんなひどい状況の電話を受けても、それを担当部署に引き継いだ後は、その結末を知ることもないことを挙げています。警察や救急に対処を依頼したら、また次の電話を受けると言う繰り返しなのだそうです。時には、自殺寸前の電話ですとか、DVの真っ最中の通報とかもあるのですが、それがどうなったのか、オペレータは知ることができないのです。ところが、ジョーダンは誘拐されそうな少女への対応を誤り、犯人に少女の居場所を知らせてしまい、その後、死体が発見されたというニュースを知りショックを受け、現場を離れることになります。

そして、教官として新人オペレータの指導をしている最中にまた誘拐事件が発生し、おろおろするオペレータの代わりにその案件を引き受けざるを得なくなります。ハル・ベリーが弱そうでタフそうなヒロインを好演していまして、その微妙なキャラクターがサスペンスにもつながっています。一方、誘拐されちゃうケイシーを演じるのは「リトル・ミス・サンシャイン」でオスカー候補になったアビゲイル・プレスリン。あの時は、寸胴幼女だったプレスリンも、今回はムチムチボディのティーンとして登場しまして、ああ子役ってのはこういう時期をどう乗り越えるのかで、将来が決まるんだよなあってしみじみしちゃいましたが、それは本編とはまた別の話ですが。

前半のサスペンスは、ケイシーが閉じ込められている車をどうやって見つけるかというところにかかってきます。誘拐時に彼女の携帯は奪われてしまうのですが、友人が忘れていったプリペイド携帯を別に持っていたため、彼女は911に電話することができたのですが、プリペイド携帯だとピンポイントで位置を割り出すことができず、半径6キロの範囲までしか絞り込めないらしいのです。GPSがない携帯でも位置を特定できるのかなあって思う一方で、プリペイド携帯ってそういうもんなのというところは、携帯にうとい私には、「へー、そうなんだ」と納得するしかないのですが、この設定はリアルなのかしら。

誘拐犯は、すぐに映画の中で素顔をさらします。ハンサムっぽいけど、どこかアブない感じの30代の男。どういう理由で彼女を誘拐したのかはわからないのですが、その変態入ったキャラからすると、金目当てではなさそうです。ジョーダンはケイシーにトランクの中を調べさせ、テールランプを外したところから、ペンキを流させて、周囲の注意を引かせるようにします。ところが、交差点で犯人の車と並んだ別の車の男が、親切にも「ペンキ漏れてるよ」って教えてものですから、犯人にそれがばれてしまいます。さらにその親切さんが犯人につきまとった結果、犯人に殺されてしまい、ケイシーは死体と一緒にトランクに押し込められることになっちゃいます。このあたりは、並走する車のおばさんが、トランクから人の手が出ていると911へ通報してきたものの、犯人の車に近づきすぎて感づかれてしまうとか、一度は殺されたように見えた親切さんが息を吹き返すのですが、騒いで犯人に知られてしまい、とどめを刺されちゃうといったサスペンスの趣向が入っており、なかなかに面白い展開を見せます。そんなトラブルがあってもケイシーを殺さないあたりに、サイコスリラー的な予感がしてきます。

最初はパニクっちゃってるケイシーですが、ジョーダンとの会話の中で冷静さを取り戻し、何とか逃げ出そうと知恵を絞るようになっていきます。それでも、状況が悪化していくと、母親へのメッセージを残そうとするあたりがホロリとさせるところがあります。そして、親切さんを殺した現場に残された指紋から、犯人の正体が割れて、警察は犯人の家に急行するのです。アンダーソンの演出は勢いで突っ走らず、ジョーダン、ケイシー、犯人のキャラを丁寧に追っていきます。マイケル・エクランド演じる犯人もクールなサイコというにはオタオタしていますし、生身の存在感が、尖ったスリラーとは一線を画しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



犯人の正体は、病院の検査技師のマイケルという妻と二人の子持ちのごく普通の顔を持った男でした。そして、マイケルが車を目的地につけたとき、ケイシーの携帯が見つかり奪われてしまいます。ジョーダンはマイケルを説得しようとしますが、マイケルは「すべては手遅れだ」と言い切ります。その声は、かつて彼女のミスで死なせてしまった少女を誘拐した犯人の声でした。ケイシーの悲鳴と共に電話は切られてしまいます。警察はマイケルのいると思われるコテージを特定し、そこへ急行するのですが、もぬけの殻でした。結局、また少女の命を救えなかったと落ち込むジョーダンですが、電話の最後に聞こえた金属音が気になり、警察が向かったコテージへと単身向かいます。そこを調べていくと、何枚もの写真がありました。それは少年時代のマイケルと姉のツーショット写真で、姉はガンに侵されていたようで、写真の後半では、元気な頃の写真とは別人のようにやつれ、髪は抜け落ちていました。外へ出ると、電話で聞こえた金属音がします。それは国旗のポールの金具が風に揺れて音を立てていたのです。そして、そのポールの近くで壊れた携帯を発見するのですが、その横に何と地下室の入り口があったのです。

その中へと入っていくジョーダンは、マイケルを発見して隠れます。隠れた部屋は、血に塗れたベッドがあり、首だけのマネキンに金髪のカツラをかぶされていました。マイケルはそのカツラを愛撫してうっとりした表情を見せるのですが「やっぱり違う」とそのカツラを冷蔵庫に放り込みます。その中には似たようなカツラが一杯。それはカツラではなく犠牲者の女性から剥がされた頭の皮だったのです。シスコンのマイケルは死んだ姉の失われた髪を取り戻すべく、姉に似たような少女を誘拐しては頭の皮を剥いでいたのです。そして、ベッドに縛り付けたケイシーの頭にメスを入れて、頭の皮を剥ごうとしたとき、ジョーダンが殴りかかり、そこから、2対1の格闘になるのですが、ケイシーがマイケルの背中をハサミで刺し、彼は倒れこみます。そこで、警察を呼ぼうとするジョーダンをケイシーが止めます。マイケルが目を覚ますと彼は地下室で椅子にしばられていました。ケイシーは言います。「私は森の中でジョーダンに助けられ、犯人は姿を消すの」わめきたてるマイケルにジョーダンは「すべては手遅れだ」といって、地下室のドアを閉め、暗転、エンドクレジット。

後半で猟奇殺人ものになっていくのには意外性がありました。また、最後のオチは意外性はありましたがさんざんいたぶられたケイシーが、最後はマイケルに「もう一思いに殺してくれ」と叫ぶ極限状況に追い詰められているし、頭にメスを途中まで入れられちゃってるので、反撃から復讐に出る展開は、腑に落ちるものになっています。ジョーダンにしても、自分のミスで死なせた少女を含めて何人もの少女の頭の皮を剥いだマイケルをそのまま警察の手にゆだねる気になれなかったのも納得できるものがあります。よく考えてみれば、この映画では、警察ってほとんど役に立っていないので、こういう私的復讐に落とすっていう結末もありだなって思います。頭の皮を剥ぐのは「マニアック」ですし、自力で報復するってのも、最近の映画でも観たことあるなあと気づいてみれば、色々な映画の趣向を取り込んだ、いいとこ取りの映画なのですよ。映画の全体をパクるのではなく、おいしいところだけを選り抜いて映画を作るってのは、面白けりゃありだなって思っちゃう方なのですが、その分、サスペンススリラーの傑作というよりは、滅法面白い娯楽映画というところに落ち着いちゃいました。いや、つまらない映画じゃなくて面白かったんですよ。ハル・ベリーは脱がないけど、アビゲイル嬢のムチムチボディを見せてくれるサービスもありましたし。

トーマス・ヤツコのキャメラは、昼間のシーン、夜間シーン、暗めの緊急通報司令室の各々で見易い絵を作りだすことに成功しています。サイコスリラーのケレン味を出さなかったのが成功しているように思います。まだ、オーケストラによるオーソドックスが音を作ることの多いジョン・デブニーが今回はビートの効いたハウスミュージックのようなシンセサウンドで映画を支えていました。

映画の中で印象に残った食べ物のみなさん

今回は覚書の意味で、自分の観た映画の中での食べ物の記憶について書き留めたいと思います。と、いいつつも食べ物メインの映画って観たことないのですよ。「たんぽぽ」とか「バベットの晩餐会」なんてのは話に聞いたことはあっても、スクリーンで観る機会もなく、食べ物ウンチクを映画で得たことはありません。それでも、何年も映画を観ていると、食べ物が印象に残っている映画が何本かあります。でも、昔の記憶だけに怪しいところもかなりあるのですが。

その1本目は「殺人狂時代」で、主人公が殺そうとする相手に毒入りワインを飲ませるときに食事として出すスクランブルエッグ(だと思ってます)です。学生当時でしたので、スクランブルエッグが西洋炒り卵くらいの認識しかなくって、これってどういう食べ物だろうという興味深々でした。実際のスクランブルエッグは大学受験の時のホテルの朝食で初めて食べてちょっとだけ感動したという記憶があります。

その次は「ダーティハリー2」のハンバーガー。「ダーティハリー」と言えば、ホットドッグを食べながらの銃撃戦が有名なのですが、それより私にとってインパクトがあったのが、「ダーティハリー2」でハリーが家に帰って一人で食べるハンバーガーでした。なぜインパクトあったのかっていいますと冷蔵庫から食べかけ(?)のハンバーガーを出して、そのまま食べるところ。ええ?冷蔵庫のハンバーガーを冷たいまま食べるのってのが、なぜか印象に残ってしまって。でも、あれは本当はハンバーガーではなかったのかも。ある映画の本で、名のある人が「フレンチコネクション」でポパイ刑事がハンバーガーを食べながら張り込みしてたなんて書いてましたけど、実際観たら、どう見てもハンバーガーじゃなかったなんてこともありましたから。

その次あたりに食べ物の印象があったのが、「ジャグラー・ニューヨーク25時」の目玉焼きです。少女誘拐犯が犯行前にダイナーで目玉焼きにソーセージで鼻と口ををつけてケチャップをかけて、バンってつぶすシーンがありました。まず目玉焼きにケチャップというのが私にはお初だったので印象に残っています。また、その時ウェイトレスがやってきて「コーヒー温めなおしましょうか」って言うので、またびっくり。アメリカって、冷めたコーヒーを温めなおしてくれるんだーって、かなり感心。

次はつい最近BSでも放映されていた「シャレード」から、レバーのサンドウィッチ。冒頭で、ヘップバーンがウォルター・マッソーからダンナの死の説明を受けるところで、サンドウィッチをすすめられ、その片方がチキン、もう一方がレバーでした。レバーなんてものをパンにはさんで食べるのかって、子供心にかなり「????」となった記憶があります。瓶詰めのレバーペーストとのご対面は、かなり大人になってからでして、長年の疑問でありつづけたのでした。

そして、チキンつながりで、「爆走!キャノンボール」を挙げます。典型的なB級カーチェイスものでして、監督が「デスレース2000年」のポール・バーテルだったからか、1シーンだけスターになった後のシルベスター・スタローンがご祝儀出演しています。で、何してるかというと、「チキンは久しぶりだ」と言いながらケンタッキーフライドチキンを食べるだけ。で、どこが印象に残っているかというと、この映画で、ケンタッキーフライドチキンのバーレルを始めて見たのですよ。あんな大きな入れ物にチキンがどっさり入ってるなんてすごいなんて感心しちゃったのですが、あんだけ無造作にチキンが入ってたら下の方はつぶれてまずそうだよなあなんて思うようになったのは、うんと後の話です。

もっとちっちゃなインパクトで挙げるとすると、「アバランチ・エクスプレス」で悪役のマクシミリアン・シェルが外のカフェで寒そうにコーヒーを飲むシーンがあるのですが、そこで、初めてちっちゃい入れ物(ポーション)に入ったクリームを見て、これはすごいと思ってしまったのですよ。今や当たり前のスジャータタイプのミルク容器ですが、やはり最初は感心しちゃうのですよ。我ながら色んなところに感心しちゃうのは、貧しい子供だったのかなあ。「ALWAYS 三丁目の夕日」の当事者だったのかしら。

パスタというよりはスパゲティというのが性にあってるオヤジ世代の自分には、スパゲティが印象に残っている映画が何本かあります。「スクワーム」というミミズ大襲来の映画でスパゲティを食べるあざといシーンが登場したのですが、あんまり個人的にはインパクトはなかったです。やはり食べ物で発見があるシーンの印象が強く残ります。

そのスパゲティで印象に残っているのは、「ミリィ 少年は空を飛んだ」に出てくるヒロインの家の食事シーン。母子3人でソースのかかったスパゲティを無言で食べているのですが、これが何だかすごくまずそうなのですよ。見た目がソースドロドロで小汚いといったものではなく、白い麺に赤いソースで小奇麗ではあるのにまずそう。家庭の空気がうまくいってないという演出ではあったのですが、それまで、スパゲティにまずいものなしと思っていた自分にとって、こういうのもあるんだなあってのがインパクトありました。

逆にうまそうに食べてるのだけど、ホントにおいしいのかなと思ったのが、フランソワ・オゾンの「まぼろし」で登場する、ヒロインが失踪する前の夫と二人でワイン飲みながら食べるスパゲティ。これが、茹で上がったスパゲティにバターを絡めただけというシンプルなもの。へー、そういう食べ方もあるんだという発見があったのですが、自分では試す気力が湧いてこないメニューでした。亡き伊丹十三さんが、その食べ方がいかにうまいかという文章を書いてるそうなので、試す価値はあるのかも。

これは、どの映画だったか思い出せないのですが、登場人物が中華料理店でチャーハンを食べてるシーン。レンゲとかスプーンではなくて、箸でチビチビとチャーハンを口に運んでいるのにびっくり。あれじゃあ食べ終わるまでにものすごく時間かかるようなあって。皿から掻き込む文化はないだろうし、向こうでは、箸を使ってチャーハンを食べるのが標準マナーだったら、面倒くさくて頼めないなあって思ってしまったのでした。

その他にも色々な映画に登場してくるインパクト料理にオートミールがあります。言葉だけ知っていて、向こうでポピュラーな料理だというから、結構うまいものなんだろうなあと思ってると見事に期待を裏切られてきました。まあ、設定的に主人公が何も食べないという時に画面に登場するので、冷め切ったオートミールだからかもしれませんが、あれはどう見てもゲ○、日本で言うなら、しも○かれでしょうか。食欲げんなりキングはオートミールに決定でしょう。

後、アメリカ映画全般に言えることなんですが、映画の食事のシーンで登場人物が腹いっぱいモノを食べてるシーンにほとんど出くわしたことがありません。食事を中断したり、ワンプレートのちょっと盛りだったり、どうしたら、あの程度の食事で肥満大国になれるのかが不思議でなりません。デブが登場しても、大して食べてないのですよ。向こうの映倫は、肥満を促進する満腹シーンを入れてはいけないというコード規制があるのかしら。これ、ちょっと食い過ぎだから、R指定ね、とか。

そんな中で、ちょっと魅かれたのが、「Dearフランキー」に登場するフィッシュ&チップス。あんまり裕福じゃない家が舞台なので、高級なものじゃない、何せ、フライドフィッシュとフライドポテトが一緒くたに新聞紙にくるんであるのですから。でも、お祭りの屋台の食べ物って昔はそんな感じでしたし、子供の頃の惣菜屋のコロッケも新聞紙にくるまれていましたから、どこか懐かしい感じがして、新聞紙についた油の染みすらも、何か心魅かれるものがありました。アメリカ映画での無理やりな小食を見慣れていると、逆にこういう生活感のある食べ物が印象に残ってしまうのでした。

映画を観ていると食べ物が登場するシーンにそこそこお目にかかりますが、その中で印象に残るのはそう多くはないと思います。こういう食べ物があるんだとか、こういう食べ方があるんだという発見、それが自分でも食する機会がありそうなものは結構印象に残ります。実際にはおいしいだろうなあと思うのですが、この先、口にする機会はないであろう、キャビアとか、鳩や兎のローストなんてのは、あまり心に響かないのですよ。でも、一方で、「未知との遭遇」でUFOが出てくるのをポーカーしながら待ってる人たちのテーブルにケンタッキーフライドチキンの箱があったなんてことは覚えてますから、やはり食べたいものが記憶に残るのでしょうね。それが私の場合、安そうなものばっかりで。

「RED リターンス」は第1作より面白い続編、エンタメ度高くて笑いもたっぷり。


今回は久しぶりの劇場鑑賞で、TOHOシネマズ日比谷スカラ座で新作の「RED リターンズ」を観てきました。ここはビスタサイズとシネスコサイズで画面サイズの変更があります。TOHOシネマズでも、シネスコサイズのままでずっと上映する映画館ばかりでもないようです。

前作の後、フランク(ブルース・ウィリス)とサラ(メアリー・ルイーズ・パーカー)は平穏な日々を送っていました。そんなところへマーヴィン(ジョン・マルコビッチ)が姿を現したかと思ったとたん、彼の車が爆発。葬式に行ったフランクとサラですが、フランクはFBIに逮捕され、さらにそのFBIを謎の武装集団が襲撃、危機一髪のところをマーヴィンに助けられます。冷戦時代にあったと言われるナイトシェード計画なるものの情報をフランクとマーヴィンが握っていると、ネットに流され、その結果、フランクとマーヴィンはアメリカ、ロシア、イギリスの諜報機関から追われることになったのです。サラを危険な目に遭わせたくないフランクは彼女に身を隠せと言うのですが、前作でスリルと冒険に味をしめてしまったサラはフランクについて回ります。イギリスはヴィクトリア(ヘレン・ミレン)にフランクたちの暗殺を命じ、CIAはフランクと一緒に仕事をしたハン(イ・ビョンホン)を殺し屋として雇い、ロシアはフランクのかつての恋人カーチャ(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)を送り込んできました。問題の情報の元と思われるフロッグ(デビッド・シューリス)に接触しようとしたら、フロッグは街中で機関銃を乱射して逃走、カーチェイスの末、彼を捕らえて、リーク元を聞き出すとそれはロンドンのMI6に32年も監禁されているらしいのです。フランクたちは追っ手をかわしつつ、ナイトシェード計画の謎に迫るために、パリ、ロンドン、モスクワへと飛ぶのでした。

REDというのは、リタイアした超危険人物という意味で、元諜報部員のみなさんのこと。前作ではなぜか命を狙われることになる元諜報部員が大暴れするというお話で、役者と設定は面白かったのですが、演出のせいか映画としては、今一つという印象でした。同じキャストによる続編ということで、あまり期待していなませんでした。前作と同じくジョン・ホーバーとエリック・ホーバーが脚本を書き、監督はロベルト・シュベンケから、「ギャラクシー・クエスト」のディーン・パリソットにバトンタッチしました。

で、今回はお話の展開がテキパキとかつコミカルで大変面白かったです。前作よりもかなり楽しめました。人がバタバタ死ぬけど、とにかく徹底的にノリが軽くて、見せ場をたっぷり散りばめて、娯楽度の高い映画に仕上がっています。前作でお話のテンポの足を引っ張ったシリアス部分をさっぱりとカットして、バカ映画に近いノリで突っ走る作りが成功しています。特に、前作では脇キャラだったサラを今回はドラマの中心に据えて、フランクたちの命がけの冒険をキャッキャ楽しんじゃうヒロインという設定が映画をうまく弾ませました。それもただ足を引っ張るだけのお騒がせキャラでなく、ちゃっかりとお役に立つ辺りの采配も見事でした。メアリ・ルイーズ・パーカーもノリノリ演技が楽しく、フランクの元恋人に嫉妬して暴走しちゃうあたりが笑いを取ります。彼女がオンナの武器で、やたらとキスして回るのでフランクが嫉妬でイラつくあたりも楽しい趣向になっていました。また、前作ではマイペースな変な人だったジョン・マルコビッチが、今回はフランクの役に立つ相棒として、キャラが立つように描かれているのも点数高かったです。

悪役であるCIAのゴードン(ニール・マクノドー)に非道な悪役ぶりも描かれるのですが、パリソットの演出は時間の省略を多用でして、とにかくサクサクとお話を進めるので、映画が脇道にそれることなく展開していきます。映画的なご都合主義は満載なのですが、そこが気にならないスムースな語り口はパソリット監督の功績だと思います。物語を追うと国家の非道、大量虐殺兵器、マッドサイエンティストのスーパーテロとマジメに描いたらかなりシリアズになるのですが、テンポよくさばいて、主人公たちのコミカルなやりとりの方が印象に残るようになっているので、頭使わずに面白おかしく楽しめるのですよ。また、各々の俳優のかつて演じたキャラのパロディをさりげなく放り込んでくるしゃれっ気も楽しく、色々と趣向を凝らして観客を楽しませようというのが伝わってくるのもうれしいです。でも、よく見れば、各々の登場人物は、それぞれのドラマを抱えていて、その描写もきちんと入っているのですが、あくまで刺身のツマ扱いでして、メインは爺のドタバタになっていて、パリソットの演出は丁寧だけどブレません。「ギャラクシー・クエスト」で見せたシリアスとバカの絶妙なバランスはこの映画でも健在でした。アラン・シルベストリの打ち込みとオケの両方を使った音楽は、ドラマのライド感を上げるのに貢献していますが、でも映画はジェットコースタームービーとは一線を画しているのですよ。文章ではうまく説明しきれないのですが、娯楽映画としてよくできています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



さて、今回の発端となったナイトシェード計画の情報リークをたどった結果、MI6に幽閉されていたのは、東西冷戦時代に大量破壊兵器の開発者として名を成し、何者かに殺されたと思われていたベイリー(アンソニー・ホプキンス)でした。32年も監禁状態だったわりにはかなり元気なじいさんで、フランクたちと一緒にモスクワにやってきます。ナイトシェードと呼ばれる最終兵器はクレムリンの中に隠されていました。ロシアやアメリカの追っ手を出し抜いて、ナイトシェードを盗み出すことに成功するフランクたちですが、なんとベイリーがCIAに寝返って、ナイトシェードを持って米軍機に乗って行ってしまい、アーチャは殺されてしまいます。しかし、さらにベイリーは米軍機で神経ガスをばらまいて、ロンドンに着陸、イラン大使館に逃げ込んでしまいます。どうやらベイリーはロンドンでナイトシェードを使おうとしているのです。ロシア軍に捕らえられたフランク、サラ、マーヴィンは銃殺されそうになるのですが、危機一髪で、ヴィクトリアが彼らの命を救います。そこへハンが現れ、フランクを殺そうとするのですが、1000万人の命がかかっているという説得に折れて、フランクたちに協力することになります。そして、ロンドンのイラン大使館に向かいますが、ベイリーは大使館員を殺害し、ナイトシェードの時限装置をスタートさせます。フランクたちはナイトシェードを抱えてベイリーを追うのですが、ベイリーはサラを人質にとって、飛行機で逃げようとします。しかし、フランクはベイリーの飛行機にナイトシェードを仕掛け、ドーバー海峡の海上で、ナイトシェードは大爆発を起こし、大量殺戮は回避されるのでした。そして、フランクとマーヴィンはカリブで次の仕事となるのですが、そこでは、ダンサーのカッコしたサラが機関銃を嬉々としてぶっ放して、男二人がやれやれという顔をしているところで暗転、エンドクレジット。

ラストは、ベイリーの狂人ぶりに、みんな振り回されることになります。彼の家族が殺され、32年も幽閉されていたことで、厭世的になった彼はみんな死んでしまえって気分になっちゃったようです。そのあたりも、きちんとアンソニー・ホプキンスに演技をさせている一方で、ドラマの主軸の軽い展開は揺るがないという演出のバランスが見事でした。簡単に人が殺される映画ではあるのですが、世界をまたにかけた展開は、007みたいで豪華っぽいし、笑いもとるし、娯楽度も高いというところは、頭使わないエンタテイメントとしては、今年のトップクラスではないかしら。

余談ですが、アメリカ、フランス、中国、イギリス、ロシアで撮影されているのですが、主要キャストが全てのロケ地に行ってるわけではなさそうで、俳優の実景合成の視覚効果が多用されていると思われます。エンドクレジットでは、これでもかという位の数のスタッフが並ぶのですが、今のハリウッドの映画は、安くて2000万ドルかかるってのは納得しちゃいます。この映画なんか、その数倍かかっているのかも。
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einhorn2233

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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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