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「アイム・ソー・エキサイテッド」はアルモドバルのお気楽コメディ、ライトな下品でハードル低し。


今回は、新作の「アイム・ソー・エキサイテッド」をヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。この映画、ペドロ・アルモドバルの映画にしては、シネコンでも公開していて、意外とスクリーン数が多いのにびっくり。アルモドバルの映画なのに。

ペニンシュラ航空2549便はメキシコへ向けて離陸したはずが、どうも様子がおかしい。エコノミークラスのお客はキャビンアテンダントも含めて一服盛られたのかみんなオネムの状態。ファーストクラスでは、透視能力を持つブルーノ(ロラ・ドゥエニャス)は、この飛行機に乗り込んだ人間にとんでもないことが起こると、客室添乗員ホセラ(ハビエル・カマラ)、ファハス(カルロス・アセレス)、ウジョア(ラウル・アバレロ)のゲイトリオに言い出します。機長(アントニオ・デ・ラ・トーレ)のところに、乗客が次々に何か変だとクレームに来ます。政財界にも顔が広いSM女王ノルマ(セシリア・ロス)とか、不正融資の銀行役員マス(ホゼ・ルイス・トリーホ)が文句を言ってきますが、実は、この飛行機、着陸装置が不調でマドリード付近をぐるぐる回っていたのでした。人気俳優のリカルド(ギレルモ・トレド)は、メンヘラの恋人を気遣って電話をかけてみれば、どういうわけか元カノにつながっちゃってあたふた。添乗員トリオは、乗客の不安を鎮めようと、新婚カップルの持っていたメスカリン入りのカクテルを振舞ったら、乗客も乗務員もみんなムラムラ盛り上がっちゃうのでした。

「オール・アバウト・マイ・マザー」「ボルベール帰郷」のようないい話を撮る一方で、「バッド・エデュケーション」「私が生きる肌」みたいに生理的にしんどくなるような映画も撮るペドロ・アルモドバル監督の新作です。予告編を観たときは、客室添乗員のゲイトリオのカラーが強烈だったので、これも濃いゲイコメディだったらダメかもと思ったのですが、他に観る映画の候補がなくって、まあコメディならいいかなくらいの気持ちでスクリーンに臨みました。映画の冒頭で、アントニオ・バンデラスとペネロペ・クルズが空港の係員役でチョイ出演した後、飛行機は離陸して、すぐに1時間半後と字幕が出ます。その時にはエコノミークラスではみんな薬で眠っちゃってる状態で、ファーストクラスの中だけでドラマは展開します。一応、乗客たちの持つドラマが語られたりもするのですが、基本はワン・シチュエーション・コメディでして、飛行機の操縦席とファーストクラスの席が、そのまま吉本新喜劇の舞台に乗っかったような映画だと思っていただいていいと思います。あそこまでコテコテの笑いはやりませんが、オネエ言葉の添乗員トリオとか、やたらと下ネタに走るところとか、どっかで人情味でホロリとさせるところがあるとか、日本もスペインもコメディの基本のところは大差ないんじゃないかなって気にさせられる映画でした。これ、R+15の映画なので、エロネタとかそういう(間接)描写もありますから、お子様とかアンチゲイの方にはオススメできないのですが、全体としてはライトな味わいに仕上がっていますので、「バッド・エデュケーション」や「私が生きる肌」で「うわあ...」ってなった人でも、お気楽に楽しめる映画になっています。要は、下品だけど、変態まではいかない感じです、この映画。

お話の中心になるのは、客室添乗員のゲイトリオでして、ホセラは、妻子もちの機長の愛人で、副操縦士はノンケなんだけど試しに機長のをくわえたことがあり、ファハスはボール紙で作った携帯用祭壇を機内に持ち込んでお祈りしてる信仰の厚いオカマ。それにウジョアを加えた3人が機内でポインターシスターズの「I'm so excited」に合わせて歌い踊るシーンがこの映画の一番の目玉になっています。もう完全にオカマパブのショータイムのノリになっちゃうところが楽しく、要所要所に入る決めのポーズが笑いをとります。恋愛ネタとしては人気俳優のリカルドの恋人がメンタルが危ない人で、彼女が橋から落とした携帯電話を元恋人が拾ったことで、元さやに戻りかけるけど結局ならないというエピソードが入ります。このメンヘラ入った恋人の設定が妙にリアルな肌さわりに感じられまして、ここがドラマのアクセントになっていたように思います。人情話としては、不正融資の銀行役員が、海外へ高飛びしようとするも、娘のことが気がかりだというエピソード。その娘がボンデージ系のお仕事してるってんで、SM女王のノルマに相談すると、最後にはノルマが娘に電話をつないでくれます。

後、下ネタ系のエピソードとしては、30過ぎまで処女だった予知能力者ブルーノがメスカリン入りカクテルを飲んでムラムラして、エコノミークラスで眠ってる若い子といたしちゃうとか、添乗員のウジョアが副操縦士を自慢のテクで目覚めさせちゃうとか、他にもメスカリンカクテルのおかげで、ノルマと隣席の男、ホセラと機長が機内でいたしちゃうなんてのが登場します。あまりドロドロした展開にならないライトに下品なレベルなので、バカだねーって感じで楽しむことができました。

観終わってみれば、正直何も残らないお笑いの一編なのですが、たまにはこういうお気楽下品な映画もいいよねって思える映画でした。同じ下品でも「テッド」みたいに「おいおい大丈夫かよ」と思うような意表を突く下品さではなく、シモのレベルでのお約束を過不足なく積み上げましたという作りになっていますので、まあ定番を楽しむ映画ということもできましょう。結末は、やっと着陸先が見つかって、何となく着陸となります。予算がなかったのかねらったのか、片肺着陸は画面には登場せず、無人の空港のカットに着陸音がかぶさるという演出になっていて、その後は、消火用の泡の中に着陸した飛行機から乗客たちが降りてくる絵になります。そこでめでたしめでたしとなりますので、映画としての後味はすっきり。ちょっと前なら、ゲイてんこ盛りの部分を映画の毒と感じるところもできたのでしょうが、ゲイへのハードルが低い昨今の状況からすれば、ここに登場するゲイはたんにひょうきんなおっさんというだけのことになりますし、妻子もちのゲイだって、単なるお盛んなおっさんくらいのポジションになります。セックスシーンこそ出てきますが、全体のノリは吉本新喜劇にぴったりとはまるのではないかしら。ちょっとだけ人生の苦味と悲哀でホロリとさせるところも、似ていますもの。

演技陣は、アルモドバル映画出演経験者が多く、どっかで観たような顔を後でプログラムで確認すると、あの映画の人かというのが何人かいました。ベタなコメディらしい演技が楽しく、その中ではリカルドの元恋人役のブランカ・スアレスのキュートさが光りました。この人は「私が生きる肌」でかわいそうな事になっちゃう主人公の娘役でした。そして、その父親役のアントニオ・バンデラスと「オール・アバウト・マイ・マザー」のペネロペ・クルーズが、映画の冒頭で、空港係員として登場します。その見せ方からして、お祭り気分で作った感がありまして、お気楽に楽しめる映画だと思いますです。
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「眠れる美女」は考えさせられるところの多い映画ですが、映画としてのカタルシスがないような。


今回は東京での公開は終了している「眠れる美女」を横浜黄金町のシネマベティで観てきました。珍しくフィルム上映でしたが、フィルムで映画を観るのは、ここで「オレンジと太陽」を観て以来かも。

2009年の2月、イタリアは、17年間植物状態であったエルアーナという女性の尊厳死をめぐって大きく揺れていました。最高裁判所が延命措置の停止を認める判決を出した後もなかなかそれを実施する病院が見つからず、やっと彼女を受け入れる病院が見つかり移送されたとき、世論は大きく二つに割れ、カソリックや保守層をバックに持つベルルスコーニ首相は、延命措置続行の法案を可決しようとしています。上院議員のウリアーノ(トニ・セルヴィッロ)は法案の投票にあたり、法案反対に一票を投じようとして、娘マリア(アルバ・ロルヴァケル)との関係がうまくいってません。尊厳死を支持するウリアーノは、妻が病の床で「楽にしてほしい」という言葉に、生命維持装置を止めたという過去がありました。マリアは友人たちと一緒に、エルアーナの入院した病院の前で、尊厳死反対派の人々とシュプレヒコールと祈りを捧げていましたが、そこで知り合った兄弟の兄の方にひと目惚れしてし、二人は彼のホテルの部屋で結ばれます。また別の病院では、薬物依存で自殺常習の女(マヤ・サンサ)が院内で手首を切ります。その場に居合わせたパッリド医師(ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ)は、他の医師からは彼女は救えない、とっとと退院させろと言われるのですが、自分の責任で入院させると言い、こん睡状態の彼女に付き添うのでした。また、ある名女優(イザベル・ユペール)の邸では、植物状態の娘ローザがベッドに横たわっていました。母親は女優のキャリアを捨てて、娘につききりの人生を選びましたが、息子は母親の愛を得られずに苦しんでいました。そして、法案の審議が始まり、イタリア中が注目する中で、エルアーナの死はどうジャッジされるのでしょうか。

実際に起こった事件をベースに、下院議員の父娘、自殺常習者と医師、植物人間の娘とその母親の3つの物語を並行した描いたドラマです。「夜よこんにちは」「愛の勝利を」のマルコ・ベロッキオの原案を、ヴェロニカ・ライモ、ステファノ・ルッリとベロッキオが脚本化し、ベロッキオがメガホンをとりました。ある女性の尊厳死が最高裁で認められたところから話は始まります。そこまでの経緯は映画では語られなかったのですが、映画のパンフレットによりますと、交通事故でこん睡状態になる前のエルアーナが、自分がもし植物状態になったときに延命措置を望まないと言っていたことが裁判で認められ、それが尊厳死を認める判決につながったのだそうです。イタリアでは有名な事件なので、説明が省かれているようですが、それに対して、カソリックや保守派は大反対、そっちの党派であるベルルスコーニ首相は、延命措置を止めさせないための暫定法案を議会に提出します。一方で左派は、自由の侵害、憲法違反だと法案に反対という姿勢をとって大論争となっているようです。国の世論はどっちが強いのかがわからないのですが、この映画では、尊厳死反対派が声も大きくて支持者も多そうな描き方をしています。

尊厳死というのは、言葉としての意味が広いので、国や文化によって色々な受け取られをしそうです。苦痛から逃れるために死を選択すること、あるいは死を与えることは、尊厳死の中の一つになりましょうし、この映画のように、本人の望まなかった生かされ方からの脱出も尊厳死ということになります。カソリックは自殺も殺人も重い罪ですから、法がそれを認めることは許しがたいこととなります。尊厳死を認める連中は人殺しなのだということになるようです。一方で、尊厳死支持派は、死ぬことを選ぶ自由も認められるべきで、それが妨げられることは自由の侵害であると言います。第三者的な見方をすれば、どちらの言い分にも理があるように思えます。個人的には死を選ぶ自由はあってほしいと思うので、尊厳死は認めたいと思いますが、どっちが絶対的に正しいと言える問題ではないという認識です。でも、政治や信仰が絡むと中立は選べないのが厄介です。上院議員のウリアーノは自分の信条とは反する法案賛成に投票せざるを得ない立場にあります。反対したら、それは彼の政治生命を脅かすことになります。一方で、自殺常習者の女を何とかして助けようとするのが医師のパッリドでして、これは職業意識じゃなくて人間愛なんですって。(本人がそう言うんだからそうらしい。)じゃあ、他人の命を扱う時には愛があればいいのかっていうと、愛ってのは、独りよがりと区別がつかないときがあるもので、必ずしもそうだとは言い切れない。そんな曖昧なラインで右や左に振れちゃうのなら、法できっちり決めればいいのかというと、ケース・バイ・ケースが多すぎて、きれいに線引きなんかできません。

映画はエルアーナという女性の死をめぐって世論が二分しているところから始まりますが、病院では、医師たちがエルアーナがいつ死ぬかの賭けを患者の目の前でやってますし、議会にはなぜか精神科医がいて議員が相談に来ますし、ローマ風呂で議員たちがテレビを見ています。また、マリアは、初めての恋らしいのですが、即男とベッドインしちゃいますし、元女優の家の使用人は修道女のかっこうをさせられちゃってますし、何だか描かれる世界がおかしいのですよ。これはイタリアだと当たり前なのかと言われちゃうと、ふーんそうなのってところもあるのですが、医師が患者の前で、エルアーナが今日死ねば7倍だとかでかい声で話してるってのはないよなあ、多分。そのリアリティと一線を画した世界が、寓話的な味わいを感じさせるのですが、確かに寓話でないときついなあって思う部分がありました。それは、出会いや偶然によって人の運命が大きく変わり、運命は全ての人に平等じゃないってのが明快に見えてくるからです。議員親子が和解するためには、このタイミングで娘が誰かに恋する必要があったと後の展開でわかるのですが、その偶然がないと親子は心を開くことはできなかったでしょう。自殺常習女もパッリド医師との出会いがなければ、さらに入退院と自殺を繰り返してボロボロの無価値な存在になってしまったでしょう。でも、そういう偶然なんて普通の人にはまず巡ってきませんし、悪い方向に進み始めたものはもう軌道修正ができなくなるのが世の常ではないのかしら。そういう意味では、寓話の形で希望を描いたドラマだというふうには私には思えました。きっと、幸せな出会いや偶然の遭遇経験がある人には、リアリティが感じられるお話なのかもしれませんが、そんな幸運なんてドラマの中だけだよねーって思っている私のような人間には、寓話にしといてもらわないとつきあいきれないってところがあります。普通のドラマで、そういうことは考えないのですが、この映画で扱っている他人の死をどう扱うのかという問題はすごくリアリティがあるので、それがリアリティのない理想に落とし込まれるのに抵抗を感じてしまったのですよ。

でも、どうしようか、困ったねえという問題提起だけで終わる映画ではありません。3つの物語は一応の決着を見せます。その視点は、尊厳死を是とするもので、ベルルスコーニ首相には批判的です。特にカソリックの描き方は、尊厳死を狂信的に悪し様に言う集団になっていまして、言いたいことはわかるけど、少しは花を持たせてバランス取ればいいのにって思っちゃいました。イザベル・ユペールが演じた大女優は、使用人にキリストへの祈りの言葉を大声で復唱させたりする一方で、自分は娘が植物人間化するまで信仰はとくになかったと言います。全ての娘のために捧げている彼女が信仰にすがるふりをしているかのような見せ方になっているのも気になります。人工呼吸器で生かされている娘のローザは、この映画の中では、もっとも生を主張する存在なのですが、その一方で、ちょっと不気味でもあります。他の人間が生と死の選択の中で右往左往しているのに、ローザは何の葛藤もなく、そこにいる純粋に生の立場であり、それが、彼女の家族全てを支配しているかに見えてくるからです。何と言うのかな、生は無骨で強力、死は繊細で弱い、そんな見せ方なのですよ。だから、どうしても、死の方へ、死ぬことの自由の方に共感させられてしまうところがあります。パッリド医師と自殺常習女との関係でも、死を望む女の方が繊細で、人類愛で生を選択させようとする医師の方が暴力的に見えてしまうのですよ。死と向き合って葛藤する人間への傾倒が感じられるのは、そうかなあと思いつつも面白いと感じました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



マリアと結ばれた青年ロベルトは、精神的に病んでいる弟から離れられない共依存状態で、結局マリアを置いて去って行きます。しかし、彼への愛は、マリアに、父の母へ対する愛情を再認識させ、父親と和解しようという気になります。父ウリアーノは議員辞職を覚悟して、議場で法案反対の演説をしようと準備していたのですが、演説の前にエルアーナが死亡し、その法案の審議自体が中断してしまいます。翌朝、二人は駅で落ちあい、愛情を確認するのでした。

大女優の息子は母親が教会に行っているとき、妹ローザの人工呼吸器のスイッチを切りますが寸でのところで父親が発見して事なきを得ます。父親は母親が全てを捨てて娘を選んだ自由を尊重すべきだと言います。息子が演劇学校での課題を母親の前で演じているとエルアーナの死のニュースが入り、父親と息子は女優の家を去り、女優は娘のベッドに付き添うのでした。

意識を取り戻した自殺常習者の女は、病室の窓から飛び降りようとしますが、パッリド医師に止められます。そんなパッリドに挑発するような言葉を投げかける女に、パッリドは君を生かそうとするのは人間愛だからと説きます。再び眠る女にキスをするパッリド。夜が明けて、朝となり眠っているパッリドの横を通って窓によじ登った女は朝の空気を感じた後再びベッドに戻ります。パッリドと目が合うとおだやかな表情になる女。

3つの物語にそれなりの結末はつくのですが、私はどうも釈然としないものが残りました。すごくたくさん言いたいことがあって、伝わってくるのに、要所で断言を避けている感じがするのです。言い切らないところに多くの含蓄があるのだという見方もあるのかもしれませんが、どこか逃げてるようにも思えてしまったのです。これは私の読解力が足りないから、そういう感想に至ったのかもしれません。ただ、感動とか共感とかを期待した割には、そういうカタルシスのない映画になっていたのはちょっと残念でした。問題提起だというのであれば、もっと中立的な立場で描いた方がいいのに。題材としては、考えさせられるところの多いもので、他人の命の尊厳をどうやって測ればいいのかというのは、まだまだ答えの出ていない問題なんだなって再認識させられました。自分の命の尊厳を自分でジャッジするとすれば、生きることも死ぬことも選択する自由があるということになります。でも、人間愛で、他人を生かそうとすること、あるいは死なせようとすることは、公平なジャッジが誰にもできないことなのでしょう。そうなると、神の審判を仰ぐか、神の教えに従うかというところに行き着くこともありましょう。でも、神の言葉は、実は誰かの人間の言葉なのですから、それに身をゆだねるリスクは認識する必要がありますし、他人へ強要することもできないのだと思いました。まあ、そう思うのは私が無宗教だからかもしれませんけど。

「黒猫の怨霊」は結構面白いオムニバス怪奇映画。


今回はたまたまDVDを衝動買いしてしまった、ロジャー・コーマンのアラン・ポーシリーズの一つ「黒猫の怨霊」を観ました。コーマンのAIP時代の作品であり、この作品を日本で買い付けた大蔵映画は、短縮版にして添え物扱いしたそうで、何やらいわく因縁がありそうな映画です。もともと3つのお話をつなげたオムニバス映画で、それがエピソードごとにバラで映画館でかかったらしいのですが、どこまで本当なのかしら。でも、この怪談映画みたいな邦題はいかにも時代を感じさせてくれます。

エドガー・アラン・ポー原作の3つのエピソードが入ったオムニバス映画です。

「怪異ミイラの恐怖」
ローク(ビンセント・プライス)の妻モレッラ(レオナ・ゲージ)は娘レノーラ(マギー・ピアース)を産んだ直後に、娘への恨みの言葉を残して死亡。ショックを受けたロークは赤ん坊のレノーラを手放すのですが、26年後、レノーラはロークの邸へとやってくるのです。荒れ果てた邸に驚くレノーラの前に現れた父は酒びたりにすさんだ暮らしをしており、その一室にはモレッラのミイラが横たわっていました。結婚に失敗し病気で余命いくばくもないレノーラとロークは和解するのですが、その夜、モレッラの亡霊がレノーラを襲い、娘を殺してしまいます。娘の死にショックを受けるロークの前にモレッラが生きている姿で現れ、彼の首を絞めます、もみあううちにろうそくの火がカーテンに燃え移り、燃え盛る炎の中で、モレッラに絞め殺されるローク、カメラが引くとそれはレノーラの姿に変わっていたのでした。

「黒猫の怨霊」
働きもしないで、妻アナベル(ジョイス・ジェイムソン)に酒代をせびるダメ男ヘリングボーン(ピーター・ローレ)は、ワインの品評会に乗り込んで、利き酒の名手ルクレイシ(ビンセント・プライス)と互角に争い、知り合いになります。フォルトゥナートを家に招いたところ、彼とアナベルがねんごろになってしまいます。それを知ったヘリングボーンは、妻とルクレイシを殺し、地下室の壁の中に塗りこめてしまいます。ヘリングボーンはアルコールの幻想からか殺した二人の亡霊に悩まされるようになります。酒場で妻がいなくなったことをほのめかす言動をしたことで、警察が彼のもとを訪れます。警官たちが地下室に降りたとき、壁の中から猫のうめき声が聞こえてきます。警官が壁を壊すと二人の死体が見つかります。ヘリングボーンは死体と一緒に家で飼っていた黒猫も壁の中に閉じ込めてしまっていたのでした。

「人妻を眠らす妖術」
余命いくばくもないヴァルデマール(ビンセント・プライス)は、死の苦痛をやわらげるために、カーマイケル(ベイジル・ラズボーン)の催眠療法を受けていました。ヴァルデマールは、自分の死んだ後の妻のヘレン(デブラ・パジェット)を若い主治医に託そうとしていて、ヘレンも主治医を憎からず思っていました。カーマイケルは、催眠療法の代償として、臨終の際での催眠実験を申し出ていて、ヴァルデマールも了承していました。そして、臨終の時がきて、カーマイケルが死の直前のヴァルデマールに催眠術をかけた結果、肉体は死んだのに魂は生き残ってしまいます。カーマイケルは実験を続行して、死を望むヴァルデマールに「妻の後のことはカーマイケルに任せる」と言わせます。そして、カーマイケルがヘレンに無理やり抱きつこうとしたとき、死体のヴァルデマールが動きだし、カーマイケルに襲い掛かります。そして、そこにはカーマイケルの死体と、腐乱したヴァルデマールの残骸が残されたのでした。

エドガー・アラン・ポー原作の怪奇映画シリーズの4作目でして、製作・監督はロジャー・コーマン、脚本は「激突」「ヘルハウス」のリチャード・マチスンが担当しています。パテカラー、パナビジョンというのは当時としてはハイグレードだったのかどうかはわかりませんが、映像的にはB級感がなく、なかなかに見応えがある映像になっていました。全てのエピソードにビンセント・プライスが出演していまして、彼がこの映画の一つの売りであることが伺えます。オムニバスということで、個々のエピソードはテレビの30分番組の長さでして、ストーリーとしてのボリュームは今一つながら、それぞれに味わいのある作りになっています。個々のエピソードの邦題がゲテもの度高くて、中身と若干ギャップありです。こういうネーミングが新東宝から引き継がれた大蔵映画のセンスなのでしょうね、きっと。

「怪異ミイラの恐怖」は、死んだ奥さんの理不尽な怨霊が、主人公と娘を死に至らしめるという典型的怪談です。奥さんの死体を墓に入れずに26年も部屋のベッドに置いてるってところが古風な猟奇趣味を感じさせるものの、それ以外は、最近のホラー映画でもよく目にする趣向でして、怨霊の擬似主観ショット(何で擬似かというと怨霊の姿もフレームインしてるから)ですとか、死体が別の人物に入れ替わる、ラストで怨霊が抱きついたと思っていたら、主人公が息絶えたとき、それは娘だったという見せ方など、ものすごく既視感がありました。ということは、こういう演出が最近のホラー映画(含むテレビ)でも、よくやられているということになります。まあ、遡ればもっと有名な古典があって、コーマンがそれをなぞったのかもしれないのですが、とにかく今風な見せ方になっているのが面白いと思いました。一気呵成に畳み込んで決着をつけるあたりは30分弱のオムニバスにしてはかなり密度の濃い内容と言えましょう。このあたりはマチスンの脚本の功績なのかな。でも、「怪異ミイラの恐怖」じゃあ、ミイラ男の映画みたいだよなあ。純粋な(そして迷惑な)怨霊のお話ですので、もう少しネーミングセンス欲しいわあ。

「黒猫の怨霊」は、ポーの「黒猫」が原作ですが、DVDの解説によると「アモンティラードの樽」と「おしゃべり心臓」も加えたお話になっているんですって。まあ、甲斐性なしの主人公が奥さんに浮気されて、奥さんと間男ともども殺したら、猫にしっぺ返しを食らうと言うお話です。全編をコミカルなタッチでまとめていまして、ピーター・ローレとビンセント・プライスの演技を楽しむ映画になっています。中盤でワインの利き酒競争があるのですが、タイトルでこのシーンのテクニカルアドバイザーが一枚看板でクレジットされていたのはちょっとびっくり。また、レス・バクスターの音楽も、このエピソードだけは、カートゥーンを意識した音作りをしており、どこか間抜けな味わいが楽しい一編になっています。あの陰鬱な原作とはまるで違うイメージで映像化しているのが面白く、奥さんを演じたジョイス・ジェイムソンのおっとりしているようで、抜け目なさげだけど、やっぱり抜けてるみたいなおかしさが印象的でした。殺人コメディなので、ブラックユーモアという言い方もできるのですが、ブラック部分があまり感じられないのが不思議な一編と言えましょう。

「人妻を眠らす妖術」は邦題はまるで的はずれな、奇妙な味のホラー。原作は「ヴァルデマール氏の症例」という短編です。原作は未読なのですが、催眠療法で死者の魂を現世に縛り付けちゃおうというえげつない実験のお話でして、体は死んでも魂は死ねない主人公が、「早く楽にしてくれー」って嘆くという、こっちの方がブラックコメディの味わいでしょうね。この実験をするカーマイケルという催眠療法士がヴァルデマールの奥さんに横恋慕して、襲いかかろうとすると体は死んでる筈のヴァルデマール氏が動き出して奥さんを助けようとするある意味、愛の物語。動き出したら急に腐敗が始まったのかドロドロに溶けて行くという描写が、この映画の一番のホラー的趣向になっていますが、泥絵の具を塗りたくったメイクなのがご愛嬌です。カーマイケルを演じたベイジル・ラズボーンの無表情な胡散臭さが見事でして、映画の撮影当時も催眠術っていかがわしいイメージがあったのかなってのが伺える内容になっていました。よく、催眠術で記憶を遡ると前世まで行けるなんて言いますが、それが本当なら(私は信じてないけど)、前世で死んだ時点で遡りをストップさせると、死んだ状態になっちゃうのではないかしら。それなら、この映画のような実験も可能かも。まあ、厳密には映画とは逆パターンで、体を生きたまま、魂をあの世に送るってことになるのでしょうけど。これまた、催眠療法シーンのテクニカルアドバイザーが1枚看板でクレジットされていました。

3つのエピソードそれぞれに趣向を凝らしてあって、純粋な悲劇の第1話、コミカルな味わいが際立つ第2話、ブラックなおかしさの第3話と、同じパターンの恐怖譚になっていないあたりはうまいと思いました。1時間半をきっちり楽しませてくれる怪奇映画として点数高いと思います。劇場公開時はバラして添え物扱いだったそうですが、3本立ての末席にこういう映画が当たったら結構得した気分になれそう。最近のホラー映画とは違う、怪奇映画というジャンルがあったんだなってのを確認できました。

「兜 KABUTO」のサントラは、英国製の海洋活劇音楽です。すごく聴ける音楽で、大好き


また、最近の映画音楽へのグチになってしまうのですが、映画が音楽を立てるように鳴らしてくれないせいか、音楽自身も主張の薄い音になっていて、その分、また扱いが悪くなるって負のスパイラルになっているような気がしています。まあ、私が古いタイプの映画音楽に鳴らされてるからかもしれません。そこで、そういう古いタイプの映画音楽のご紹介です。映画のタイトルは「兜 KABUTO」というもので、1980年代後半のニンジャ映画ブームの余波で、その主演俳優ショー・コスギが主演した海洋冒険活劇の一編です。家康の部下のショー・コスギが鉄砲を買い付けるためにヨーロッパに渡ってイスパニアの悪宰相や海賊と戦うというもの。オッサンのコスギに若いお姫様が胸ときめかしちゃうという、ちょっと気恥ずかしい映画でもあるのですが、「将軍」みたいな似非文化比較映画じゃなくて、娯楽に徹しているのが買いの映画です。監督のゴードン・ヘスラーと音楽のジョン・スコットはイギリスの人で、三船敏郎とか高田美和も顔を見せていますが、大作風の構えのB級アクションという感じでしょうか。

ところがこの音楽が素晴らしいのですよ。ジョン・スコットというのは日本では、「聖母たちのララバイ」にメロディを盗作された人というのが一番有名でしょうか。その盗作された「ファイナル・カウントダウン」ですとか「キングコング2」など、作品そのものより数段上のスコアを提供する人としても知られています。この映画でも、海洋冒険活劇にふさわしい勇壮なメインテーマがまず映画を2ランクくらいアップさせています。日本人が主人公でも、琴や尺八なんかつかわない真正面からのオーケストレーションがかっこいい。旋律の中に東洋風な味わいをつけてはいますが、それはあくまで風味づけ程度で、基本はオーケストラによるスケールの大きな活劇音楽になっています。音楽としてきっちりと聴ける理由の一つは、個々の楽器がきちんと音楽のパートとして主張してくること。最近の映画音楽は、編曲のせいかミキシングのせいかはわかりませんが、オーケストラを一つのシンセサイザーのような固まりとして聴かせようというところがあります。今の方がデジタル録音で音質は向上しているのに、音楽に関しては音域が狭くなっているような気さえしてきます。この映画のサントラは、まるでライブ録音の交響曲を聴いているような趣があり、その懐の深い音が優雅に活劇を彩っているのです。この記事の下につけましたリンク先でもその片鱗を確認できると思います。

1曲目の「メインタイトル」は、ホーンセクションによる勇壮なファンファーレから始まり、そこから低音弦をバックにテーマが流れて、一気にフルオーケストラによるテーマへ盛り上がるという冒険映画らしい曲です。そこからは、活劇シーンの曲とドラマシーンの曲が続きます。テーマとしてはメインテーマに加えて主人公のテーマ、そしてラブテーマとも呼ぶべきしっとりしたテーマの3つがシーンごとに散りばめられていまして、どの曲もみっちりと鳴っているので、どの曲を聴いても退屈することがありません。ホーンセクションもストリングスも個々のパートが粒立つようにアレンジされていますので、素人の私でも、この曲にどういう楽器がどう配置されているのかが伝わってくるのですよ。オーケストラ音楽の入門編としても楽しいアルバムになっています。

こういう冒険活劇音楽の教科書と言われているものに、バーナード・ハーマンの「シンドバッド 7回目の航海」が有名ですが、それに勝るとも劣らない出来栄えだと思います。ただ、映画がマイナーなもので、音楽も埋もれてしまうというのは残念な気がします。これ、どこかのレーベルで再発売してくれないかしら。(もしかしたら既にされているのか?)




「鑑定士 顔のない依頼人」のサントラは音楽がドラマを雄弁に語っていて聴き応えあります。


最近の映画の中では、音楽の扱いが格段によかったのが、「鑑定士 顔のない依頼人」でした。「記憶の鍵」のジュゼッペ・トルナトーレ監督のミステリーですが、音楽は、彼の映画の音楽はほとんど手がけているマエストロ、エンニオ・モリコーネです。モリコーネが作曲、編曲、指揮全てを行っています。演奏がローマ・シンフォニィエッタ・オーケストラとチェコ・ナショナル・シンフォニー・オーケストラとクレジットされています。録音もローマとプラハの両方で行われたとありますから、曲によって別々に録音しているようです。ボーカルには、おなじみのエッダ・デル・オルソの他、アンナ・デ・マルティーニ、ロベルタ・フリージ、パオラ・ロンチェッティ、ラファエラ・シンスカルキが参加しています。

ストリングスが厚い音が映画全体に流れる音作りになっていまして、きちんとシーンに沿った要所要所できちんと音楽を鳴らす映画であるだけに、モリコーネの音楽が映えるようになっています。最近のハリウッド映画に多い、画面を伴奏することに徹した音楽とは一線を画す、主張する音になっています。しかし、映画は、主演のジェフリー・ラッシュとこの音楽によって、単なるミステリーより数ランクアップしていますから、音楽の力は映画をいい方向に引っ張っていると申せますし、音楽そのものを切り出しても聴き応えのあるものになっています。音楽が主人公の情念の部分にも踏み込んでくるところが圧巻と申せましょう。メインとなるテーマは、それほどインパクトの強いメロディではなく、いつものモリコーネ節ということができるのしょうけど、アルバムとしても、その世界観を堪能することができます。

1曲目の「La migliore offerta」は、メインテーマともいうべきもので、モリコーネの定番である流れるような中低音のストリングスが静かにテーマを重ねていきます。そして、2曲目の「Volti e fantasmi」が主人公が女性の肖像画に囲まれるシーンで流れる印象的なスコア。複数の女性ボーカルが重なるように絡み合い、この場面が映画の中で最も印象に残り、またこの曲が最も印象に残りました。映画ではサラウンドを使って音に包まれる感じになったのですが、2チャンネルステレオではそこまでの効果はなくて残念。この曲はアルバムの最後に別のテイクで収録されています。重なり合う女性ボーカルの中からメインのメロディが浮き上がってくるあたりの見事さは、まさにマエストロの至芸と言うべきものではないかしら。以降、ミステリーを描写するストリングス中心のスコアが続きますが、ミステリーのテーマというべき曲が、8曲目の「Alla villa」で聞こえてきます。うねるようなストリングスとボーカルが主人公の情感のゆらぎを陰から表現しているところが見事で、映像との相乗作用が聴きモノではあるのですが、これ単体のアルバムとしてもまたイメージが広がるかもです。

モリコーネの音楽を全て聴いたことはないのですが、私が知っている中では、アメリカ映画に好きなものが多くて、そのベストは「遊星からの物体X」になります。ただ、これは多くの方へのオススメ度が微妙なので、オススメできる作品としては「天国の日々」「カジュアリティーズ」「死刑台のメロディ」などを挙げます。


「ブラッド・クリーク」はホラー、サスペンス、活劇として面白くできた、ワンプレート料理の味わい。


今回は、pu-koさんのブログに紹介記事のあった「ブラッド・クリーク」をDVDでゲットして鑑賞となりました。この映画に興味を持ったのは、ジョエル・シューマカーが監督という一点だけだったのですが、これ面白かったです。意外と面白いというよりは、想定内の面白さということになりましょう。この監督さんは青春ものや、サスペンス、バットマンやオペラ座の怪人まで撮っている職人さんでして、どんな題材でもアベレージ以上の作品に仕上げるので、彼の名前は、娯楽映画としては信頼のブランドになります。脚本が弱かった「ブレイクアウト」でも娯楽映画としては及第点を取っちゃうところがすごい人。

1936年のアメリカの片田舎タウン・クリークで農場を営むドイツ移民一家に、ナチスの歴史学者ヴィルト(マイケル・ファズベンダー)がやってきます。彼は、その家の納屋にあるルーンストーンを調査したいというのです。ナチスはルーンストーンによる黒魔術で不死を得ようとしていたのです。家の娘の前でヴィルトは死んだ小鳥を蘇らせてみせます。そして、時は移って現代のタウン・クリーク、救命士をしているエバン(ヘンリー・カヴィル)は兄のビクター(ドミニク・パーセル)が行方不明でした。2年前、二人で湖に釣りに出かけたとき、何者かに連れ去られてしまったのです。ビクターは死んだものとして葬式も済まされていました。ところがある晩、ひげぼうぼうのビクターがエバンの前に現れます。彼はエバンに武器の準備をさせます。兄の失踪に責任を感じていたエバンは、事情がよく呑み込めないままビクターに同行することになります。行方不明になった河畔からさらに2時間歩いた農場の前にやってくるビクター。なぜ農場を襲うのかと聞くエバンにシャツをめくって見せるビクター。その背中にはひどい傷跡がついていました。一家の主人が出ていったのを見て、銃で家に押し入るビクター、出てきた主人の息子と格闘になり、エバンが息子を銃で撃ちます。家の中に老女と17歳の娘リーズ(エマ・ブース)がいました。二人の古い写真を見たエバンはびっくり。だって日付が1940年だもの。いったい、この農場で何が起こっているのでしょう。実はこの農場は映画の冒頭でヴィルトが訪問した家だったのでした。

「にコル・キッドマンのインベージョン」のデヴィッド・カイガニックの脚本を「フォーリング・ダウン」「オペラ座の怪人」のジョエル・シューマカーが監督しました。映画の冒頭はモノクロ映像で、1936年のアメリカの片田舎にドイツ人歴史学者と称するヴィルトがやってくるところが描かれます。この部分が大変丁寧に撮影されていまして、どういう映画だろうと思っていると、ルーンストーンですとか死んだ小鳥の蘇生のシーンが登場して、超自然スリラーなんだなってわかったところで、お話は突然現代に飛びます。現代にお話が飛んでからも、まず救命士のエバンの生活、兄の失踪への負い目などを丁寧に描いています。ドラマの前提部分をきちんと描いておいて、メインドラマの部分が動き出すと今度は勢いで見せ切る構成、演出が成功していまして、90分という短めの時間の中に中身の詰まった一編に仕上がっています。

1930年代、黒魔術に傾倒したヒトラーは、ルーン文化の象徴ルーンストーンを調査させるために、9人のナチスの研究者をアメリカへと送り込みました。その一人が凄みある二枚目のヴィルトでした。家の娘の前で死んだ小鳥を甦らせてみせるヴィルト。どうやらルーンストーンのパワーを得ると不老不死の能力が身に付き、さらに死者を甦らせることも可能となるのです。ヴィルトが生きながらえるためには、人の生血が必要でした。そして、誘拐されたビクターはヴィルトのディナーとして毎日血を吸われ続けていたのですが、そこから何とか逃げ出してきたのです。そして、監禁されていた農場に復讐にやってきたというわけ。納屋の中には、ビクターの後釜の男が縛り上げられていました。イバンはその男を助け出します。そして夜がやってくると、地下室から怪物と化したヴィルトが姿を現します。どうやら、これまでは、農場の一家がヴィルトへ生血を与えつつも、外へ出ないように封印してきたようなのです。ルーン文字があちこちに書かれた農場の壁や家のせいで、怪物は農場の外へは出られず、また家の中へも入ってこられなかったのです。一方で、農場の一家はヴィルトの黒魔術によって不老不死となり、1940年から年を取らないまま、ヴィルトに犠牲者の生血を提供してきたのでした。

ビクターが姿を現して、武装して農場へ向かうあたりはミステリータッチで、一体何が起こったのか見当がつかないのですが、農場についてからは、ビクターの背中の傷とか、縛り付けられた男など猟奇的な匂いがしてきて、さらに怪物化したヴィルトが登場すると、家の内外を舞台にしたアクションものの味わいも加わるという、かなり盛りだくさんな映画に仕上がっています。シューマッカーの演出は、ミステリーの興味で観客をガンガンと引っ張りつつ、アクションシーンもストレートに盛り上げまして、ゴアなシーンもかなり出てくるもののそこをサラリと流して猟奇色を控えめにして、王道娯楽映画に仕上げることに成功しています。ビクターたちと怪物の攻防戦をドラマのメインに据えたことと、事情説明を最小限に留めて、ドラマを滞留させなかったのが成功の一因でしょう。怪物がルーン文字の書いてある場所には入ってこられないとか、飲めるのは生血だけで死人の血は飲めないといったゲームのルールも有効に作用していますし、一方で怪物が殺した動物や人間を次々と甦らせて、自由に操って攻撃してくるので、スリルと緊迫感のある攻防戦が展開します。

農場の一家は、ルーン文字によって怪物を農場に封印することに成功してきましたが、黒魔術によって怪物の僕にされているので、怪物に生血を提供するための生贄をさらってきていました。ビクターもそんな生贄の一人だったわけです。ビクターはイラク戦争からの帰還兵であり、エバンはそんなビクターに引け目を感じていまして、さらに失踪時に「助けてくれ」という声を聞きながら見つけられなかったという負い目もあったという設定が、主人公兄弟の行動にきちんと反映されていて、尋常じゃない展開に説得力を与えている点はうまいと思いました。90分というタイトな時間でもそういう人物描写を削らないシューマカーの演出は評価できると思います。

怪物の狙いは、農場に封印された状態からの脱出にありました。月食の夜に儀式を行い、額の第三の眼が開くと無敵キャラになるらしいのです。そして、この夜がその月食だったのです。ただ、その儀式には生血をたくさん必要とするため、家の中にいるビクターたちに攻撃を仕掛けてきているのでした。問答無用で始まる怪物と主人公たちの攻防戦にもちゃんと意味があることが説明されて、腑に落ちるあたりは脚本のうまさなのでしょう。最小限の説明で、不気味な世界観が浮かび上がると、ドラマとしても奥行きを感じさせてくれます。

映画の半分以上は夜間シーンなのですが、ダーコ・スヴァクの撮影は不自然なくらいに差し込む光を入れることで、独特の映像美を作り出すことに成功しています。ヴィルトが変身した怪物は、人間の姿で顔に呪文やマークが浮彫りになっているというもので、特殊メイクとCGの両方を使って表現しています。特殊メイクは「インディペンデンス・デイ」「サイレント・ヒル」のパトリック・タトポウロスが担当しています。マイケル・ファズベンダーはタイトル3枚目ながらも、冒頭でした素顔がわからず後は特殊メイクでの出演となってます。ゴアシーンも特殊メイクとCGを併用しているようですが、アクションシーンの中で、クイックショットでサラリと見せるので、そこだけが突出しない演出になっていて、ドラマの流れを妨げていません。デビッド・バックリーの音楽はシンセも使っていますが、ドラマ部分はノースウェスト・シンフォニアを使った活劇音楽中心でして、なかなかにメリハリのある音をつけています。



この先は結末に触れますので、ご注意ください。(まあ、ほとんど書いちゃいましたけど)



このままだと、ヴィルトの第三の目が開いてしまい、そうなると全ての封印が解かれてしまって世界が大変なことになる。奴にとっては、彼の肉親の血が毒なのだとのこと。そして、彼は肉親の骨で作ったよろいを持ってきていて、それを着るとヴィルトを威嚇することができ、これを突き刺せば、毒となって倒せるかもしれないのです。既に月食は進み、ヴィルトの第三の眼は開きつつありました。ビクターが納屋まで走って骨のよろいを奪い、エバンは自分の体に傷をつけ、そこに骨の粉をすりつけて、リーズに鐘を鳴らさせます。それがヴィルトへ生贄を差し出す合図だったのです。ヴィルトはエバンの傷口から生血を吸うのですが、それは毒の粉入りだったのでウゲゲとなるものの、エバンに襲い掛かり、骨の剣を突き刺そうとします。そこへビクターが駆けつけ、鉄条網でヴィルトの首を引きちぎり、エバンが奪った骨の剣で眼を突き刺して、ヴィルトの息の根を止めるのでした。それと同時に暴れまわっていた死体はおとなしくなり、不老の魔術が解けて娘のリーズは急激な老化から息を引き取ります。ビクターとエバンは全てを焼き払い、元の生活に戻るのですが、ヴィルトの書類から後8箇所にルーンストーンがあって、ナチスがヴィルトみたいなのを送り込んでいたことを知ったエバンは、モンスターハンターとして旅立つのでした。

クライマックス前に、ヴィルトがわざとビクターを逃がしたのだと言います。ビクターなら、復讐のために農場にやってきて封印を解くだろうことを予測した上での行動で、その目論見は9割方成功するのですが、ビクターが弟エバンを連れてきて、想定以上の反撃に出たものですから、結局やっつけられちゃうというお話。不老不死というのは、いわゆる魔術が効いている間だけ有効なので、魔術のパワーが失せると死んじゃうらしいです。そして、ルーンストーンという石は不老不死を実現する魔力を持っていて、古くから伝えられている手順で儀式を行うことで不老不死が実現するらしいのです。しかし、最近のヴァンパイア映画にみるように不老不死になっても気苦労はたえないようですから、不老不死になった後の生活設計は必要だなって思わせる映画ではありました。アメリカの田舎の農場に封印されて不老不死なんて、そりゃつまらないでしょうし。

コンパクトにまとまった感じもしますが、ホラーとしてもサスペンスとしても及第点はクリアしていると思いますし、活劇映画としても上々の仕上がりではないかしら。

「ビフォア・ミッドナイト」は主人公の元奥に幸多かれと祈る


今回は新作の「ビフォア・ミッドナイト」をヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。この映画のパンフレット、700円するのに、24ページ中6ページが広告なんです。広告出すなら値段下げろと思いますよ、マジで。広告を放り込む会社もイメージダウン、オムロン、鹿島、キリン、日立、LIXIL、東急、あんたのことよ。

「恋人までの距離」で知り合ったジェシー(イーサン・ホーク)とセリーヌ(ジュリー・デルピー)は連絡先を交換しないまま別れたのですが、その夜のことをジェシーが小説化してベストセラーになったのがきっかけとなり、9年後「ビフォア・サンセット」で再会。その時、ジェシーは子持ちの妻帯者だったのですが、その後に離婚、ジェシーとセリーヌは籍は入れずに一緒に暮らすようになり、双子の娘も生まれます。二人はパリに住み、ジェシーは小説家として名を成し、セリーヌは環境問題のNPOで活躍していました。今は夏の休暇をギリシャの別荘に招かれていて、ジェシーの前妻との息子ハンクも呼んで、ちょっとリッチな夏休み。息子を空港まで送ったジェシーは、ひどい母親のもとにいるハンクが不憫、でも、法律上国外へは出られない、だから、セリーヌがアメリカに来てくれないかなあなんて口走っちゃうもので、何だか不穏な空気になっちゃいます。休暇の最終日、友人の好意で、二人きりのお泊りデートとなるのですが、会話が過ぎたのか、喧嘩になっちゃいます。まあ、知り合って18年もの付き合いなんだから、仲良くしなさいよ。

テレビで予習した「ビフォア・サンセット」のさらに9年先のある1日のお話になっています。帰りの飛行機に間に合わなくなりそうだったジェシーは結局間に合わなかったらしく、二人の恋は再燃。その結果、ジェシーと奥さんは離婚、息子ハンクの親権は奥さんに取られちゃいました。この奥さん(今は元奥)が、ジェシーの不幸を祈る香ばしい人らしく、息子ハンクはかわいそうな状況にあるらしいです。と、これはジェシーとセリーヌの見解であって、元奥から見れば、結婚して子供ができてから、焼けぼっくいに火がついたわけですから、ジェシーはとんでもない浮気男ですし、セリーヌは不倫略奪女になります。そりゃ、ジェシーの幸せを呪ったとしても責められないよなあ。そもそも、結婚したのもいわゆる出来婚ですから、日本的な価値観で考えれば、ジェシーってのはダメなダンナの典型と言えそうです。ダメな奴がいい恋愛をしてはいけないというルールもないので、この映画の展開は否定しないのですが、アル中になっちゃったらしい元奥もかわいそうだよなあって思っちゃいました。この映画では、ジェシーとセリーヌの関係における駆け引きがメインになるものの、元奥が二人の会話で共通の悪役になっちゃっているのには、ちょっと釈然としないものを感じてしまいました。自分のダンナが、昔の恋人との思い出を小説にしちゃって、その上、その小説のモデルとなった女性と結婚後も不倫してたなんて、何だか気の毒すぎるよなあ。女性としてのプライドズタズタですわ、そりゃ。そんな元奥の呪いが効いたのか、この映画では、ジェシーとセリーヌが破局の危機を迎えます。前作と同じく、リチャード・リンクレイターがメガホンを取り、リンクレイターとイーサン・ホーク、ジュリー・デルピーが共同で脚本を書いています。長回しの会話が続く映画なのですが、即興演出は一切なくってセリフは全て脚本に書かれたとおりに演じているというのがびっくりでした。

ジェシーは作家として世界的に有名になったようで、セリーヌはNPOで環境保護活動を積極的にやっています。セリーヌはNPOの活動に限界を感じているらしく、政府機関に仕事の口があるということで転職を考えています。そんなところにジェシーが息子のためにアメリカに行きたいなんて言い出すので、セリーヌはご機嫌ななめ。元奥の気持ちなんておかまいなしのジェシーはここでも相手の気持ちを思いやれていないご様子。別荘では、男性陣は文学の会話してハイソな気分なのに、女性陣の料理しながらの話題はセックス絡み。このあたりのギャップはどこから生じるものなのか、映画は説明してくれないのですが、男性の方が上品で、女性が下世話みたいな描き方になっているのは気になりました。そして、男性陣と女性陣が顔を揃える会食シーンでは、人生と恋愛について各々の世代が見解を述べあいます。若者には頂上(未来)には雲がかかっていますし、年を取ると見下ろす時間(過ぎ去った過去のこと)の量が増えますし、各々の立場で異なる愛情の見え方になるところが面白いと思いました。若いカップルが別れを前提に付き合っているってのは、まあそんなものかなって気もしたのですが、それを口に出して言うのはすごいなあって思う私は世代が古いのか、日本人だからなのか。

休暇の最後のお泊りデートでは、まず二人で遺跡をお散歩。ここからがこのシリーズの真骨頂であるナチュラルな会話が延々と続きます。その中から、これまでの二人の人生観、恋愛観といったものが見えてきます。会話から見えてくる二人の違いが面白く、優柔不断に見せて何となく自分の思う方向に話を持っていきたいジェシーと、自我を張ることに若干の後ろめたさを持つセリーヌが、必然的にぶつかっちゃうのですよ。セリーヌは自分の意思表示をするとき、自分の中で一度葛藤しちゃうもので、外へ出すときは攻撃的になっちゃいます。でも、自分の母性すら疑ってかかるあたりの率直さは共感できるものがありまして、それに比べて、何考えてるのかよくわからないジェシーの態度はどーなの?って思っちゃいました。そんな態度で元奥に接してたら、そりゃ呪いもかかるわな。セリーヌの言い分で、よく響くのは、外仕事に専念できる男に比べて、女は内仕事からも逃げられないと愚痴るところ。その不満にジェシーは答える言葉を見つけられず、彼女に余計めに怒らせてしまいます。このあたりの言葉の細かいやりとりはここに書ききれるものではないのですが、日本語版字幕でもその応酬が面白かったですから、原語がわかるとより楽しめるのでしょう。

前作に比べると、ジェシーはあまり変わっていないように見える一方で、セリーヌは腹回りに肉が乗ってかなりオバさん化しています。実際に演じる二人のルックスがそうなってるから仕方ないのですが、その見た目に合わせて脚本を書いているようでして、ジェシーは「もっとしっかりしろよ」キャラになっており、セリーヌは「実務能力あるけど被害者意識高い」キャラになっています。イーサン・ホークは自分がどうしたいのかをなかなか言葉にしない責任逃避型の主人公を結構リアルに演じていまして、そりゃ元奥に呪われるわなという説得力がありました。一方のセリーヌは下世話なおばさん風に登場するのですが、自分の立ち向かうべきこと、環境問題、子育て、ジェシーとの関係に、常に誠実に向き合っています。そんなセリーヌからしてみれば、自分が享受しているものを既得権のように扱うジェシーは、ずうずうしい男に見えるのではないかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ホテルの部屋で大げんかになった二人、セリーヌは部屋を出て行ってしまいます。オープンカフェにいるセリーヌにジェシーが歩み寄ります。自分は85歳のセリーヌからメッセージを持ってきたメッセンジャーボーイだといい、85歳のセリーヌからの手紙を読み上げます。そして、今日のこのギリシャでの夜が最高だったとセリーヌに告げます。セリーヌはぶりっ子キャラになって、「へー、あなたって何でも知ってるんだ、スゴーイ」って態度で、一応の和解となり、そんな二人をとらえたカメラが段々と引いて行ってフェードアウト、エンドクレジット。

結局、衝突した根本原因は棚上げしてロマンチックに逃げましょうというのはある意味賢明なやり方だよなって納得しちゃいました。まあ、ロマンチックに逃げるには、それなりの役どころを演じる演技力が必要になるのですが、この二人はその能力に長けていたようで、行き詰まった空気をうまくやわらげたのでした。日本人だとこうはいかないだろうなあ、いきおいでセックスで仲直りの方がありそうな気がします。でも、これはお互いの言い分の交渉にもなっていないので、単なる先送りでしかありません。そうは言っても、この先送りが役に立つことも多いので、先送りだから悪いとは言えません。つい口走ったことが言い過ぎだったとき、先送りすることで、最初の失言をなかったことにすることができます。次はもう少しまともなことを言って、事態を改善できるのなら、先送りは有効なトラブル回避方法かも。

こう書いてくると、二人がずっといがみあってるみたいですが、決してそういう映画ではありません。二人の夫婦としての通常営業の会話がほとんどなので、そのリアルなやりとりに微苦笑できると思います。結末は、双六で言うところの「二マス戻る」ですから、ハッピーエンドとは言い難いものの、破局は回避できました。今度、同じやり取りをしたら本当に破局なので、お互いを思いやることばを紡ぐことで、関係修復に向かうのだろうなという希望的予感で映画は終わります。まあ、18年来の付き合い何だから小競り合いを致命傷にしなさんなって思っちゃいました。

そうは言いつつもやっぱり元奥が気になるんだよなあ。人を呪わば穴二つですから、早くジェシーやセリーヌのことを忘れて立ち直っていただきたいものです。息子の親権は、まあ息子に決めさせてやればいいのかな。冒頭に登場するジェシーと息子の会話では、息子がかなり言葉を選んで話してましたが、板挟みになってる感ありありでした。実の母親をボロクソ言うセリーヌとうまくいくようにも思えないですし、彼には早く独立して、元奥からもジェシーからも離れた方がよさそう。

「ビフォア・サンセット」で「ビフォア・ミッドナイト」の予習してみました。


公開中の「ビフォア・ミッドナイト」を観たいと思っているのですが、「恋人までの距離」「ビフォア・サンセット」の続編ということで、多少の予習は必要かなと思っていたのですが、「ビフォア・サンセット」がBSで放映されていたので録画して、予習しようということになりました。

9年前にウィーンで出会って、恋に落ちたジェシー(イーサン・ホーク)とセリーヌ(ジュリー・デルピー)ですが、お互いに連絡先も交換しないまま別れて、9年がたちました。ジェシーは、二人の一晩のことを小説にして、それがベストセラーとなり、そのプロモーションでヨーロッパを旅行していました。パリの本屋でインタビューを受けていると、そこにセリーヌが現れました。飛行機の時間まで、パリのカフェや街を回りながら語り合う二人。どうやら、二人はウィーンでの再会を約束していたらしいのですが、セリーヌが祖母の葬儀のためにウィーンに行けず、ジェシーだけ一人ウィーンで待ちぼうけを食らったらしいです。それも9年前のこと、ジェシーは、教師の奥さんと5歳の息子がいました。一方のセリーヌは、環境保護団体で活動していて、報道カメラマンの彼氏がいました。最初は旧交を温めるという感じだったのですが、ジェシーにしてみれば、再会の約束をすっぽかされたことが気になっていますし、セリーヌにとっても、彼との一日は忘れがたい特別な日となっていたようです。最初のうち、お互いに相手が幸せにやっているのだと思っていたのですが、徐々に本音が出てくるようになると、どうも、それぞれにお悩みを感じているようです。それでも、二人の距離は縮まらないように見えながら、飛行機の時間が迫ってくるのでした。

「スクール・オブ・ロック」「ファースト・フード・ネイション」のリチャード・リンクレイターが監督した「恋人までの距離」の9年後の続編です。リンクレイターと主演二人が共同で脚本を書いています。「恋人までの距離」は未見なのですが、冒頭でちょっとだけ説明していますので、お話がわからなくなることはありません。この映画は、書店でのインタビューの後、二人がカフェや街を歩きながら会話するのをリアルタイムの時刻経過で描く、77分の小品です。30代の男女が9年ぶりの再会ですから、お互いに状況が大きく変わっていることでしょう。そんな9年の距離を感じさせる会話から始まり、そしてお互いの近況を交換し、とあるよなあ、そういうのっていう関係が、二人の会話だけで描かれていきます。お互いの連絡先も交換しないまま別れた二人、男はその時のことを小説にしてベストセラーとなり、パリに本のプロモーションにやってきたときに、かつての彼女と再会する。これって、どう考えてもありふれた再会ではありません。もう冒頭からロマンチックな予感がひしひしなんですが、意外や、二人の会話は淡々としたところから始まります。同窓会で再会したときみたいな感じなんです。

セリーヌとしては本の中に自分が出てくるのは不思議な気分だとは言うのですが、そのシチュエーションが会話の中心に出てきません。ジェシーの方も、再会するために小説を書いたんだみたいなことを言うのですが、二人の間に9年のブランクを一気に飛び越えた恋の炎がメラメラ、という展開にはならないのです。運命的な再会で始まるのに、会話の中身はあくまで、9年前の過去を持っている男女の普通のテンションの会話なのです。このテンションは映画の最後まで変わらないのが面白いと思いました。冒頭の設定で期待させるほどには、ドラマチックな展開もなく、二人の仲良しさんな会話の中から、お互いの9年間の人生が見えてきます。と言っても二人の人生はそれほどドラマチックなものではなく、むしろ平凡。小説家と環境活動家というちょっとシャレた肩書きの割りには普通の人生を送ってきたことがわかってきます。セリーヌは貧困とか環境というキーワードに敏感に反応するところはありますが、それが彼女の人生の全てというわけではない分別が感じられますし、ジェシーも小説家としての顔を見せることはありません。

そんな仲良しさん同士の会話から、舞台がカフェを出て、遊覧船へ乗り込むあたりから、二人の今に対する悩みが会話の中に出てきます。話題がセックスの方にシフトしていくのですが、その流れの中で、ジェシーが奥さんとセックスレスに近い状態であることが見えてきます。そもそも、奥さんと結婚したのは成り行きに対して責任を取ったという形らしいのですよ。ずっと心の中にあったのはジェシーだったんだけど、責任感というか義務感から結婚したみたいなことを言うのですよ。ずいぶんと奥さんに対して失礼な話だとは思うのですが、9年ぶりに会ったジェシーに話を盛ったのかもしれません。一方のセリーヌは、色々な男と付き合ったのですが、みんなうまくいかない。どの男も、君のおかげで愛を知ったと言って彼女から去っていくんですって。だから、そんな別れた男であるジェシーがよき家庭人みたいに登場したのには、心おだやかじゃなかったらしいのですよ。どっちも、相手のことが今も特別な存在らしいってところが見えてきます。でも、二人が見つめ合ってブッチューといった展開にはならないのですよ。あくまで、二人の会話は恋愛の当事者にはならないのです。でも、お互いにまだ想いあってるのが伝わってくるのが伝わってくるのは演出のうまさなのでしょう。

ジェシーはセリーヌを家まで送ります。そこで、彼女が書いたという歌を聞かせてくれというジェシー。そこで、ギターを取り出して愛の歌を歌うセリーヌ。「もう飛行機の時間じゃない」というセリーヌから、暗転、エンドクレジット。結局、二人の感情が盛り上がらないうちに終わってしまうので、これはどう読めばいいのかなという気分です。でも、この続きができたのだと知ってると、これはそっちへ行くんだろうなってのが、納得できる終り方になっています。これ一本だけ見れば、普通の会話の中に恋愛要素を細かく刻んで盛り上げた、よくできたパウンドケーキのような映画だと言えると思います。単純な構成でドラマ要素はありませんが、その中から滲み出る恋愛や人生のピースを味わえれば、かなりはまる映画ではないかしら。

長回しの1カット撮影のように見せつつ、要所要所にカット割を入れて、移動する二人の行くところにエキストラを配した演出は、かなり作りこまれた感がありまして、自然な会話の一方で、映像には舞台劇のような緻密さが感じられるあたりが面白いと思いました。

「ブラインド・フィアー」はサスペンス小品として、ちょっとレトロな味わいも。


今回は、新作の「ブラインド・フィアー」を有楽町の角川シネマ有楽町で観てきました。予告編の間、場内の照明が点いてるのですが、直接観客席に向かって照らしてくるので、まぶしくて予告編を観るのにすごいジャマ。構造上の問題なんでしょうけど、何とかならないものかしら。そういえば、ここは後ろのドアを開けるとその光がスクリーンに映り込む構造になっています。映画館を知らない人が設計しちゃったのかなあ。

戦場カメラマンだったサラは、アフガニスタンで自爆テロに遭遇し、両目の視力を失います。そんな彼女は今はお金持ちの恋人ライアンとニューヨークを一望できる最上階のペントハウスで幸せな暮らし。大みそかの日、買い物に出て帰ってきたサラを待っていたのは、血だまりで死んでいるライアンでした。そして、チャド(バリー・スローン)という男が彼女の襲い掛かります。サラを縛り上げたチャドは、ライアンが隠しているお宝のありかを教えろと脅してきます。その時、チャドにボスらしい男から電話がかかってきたので、スキをついて、部屋を逃げ出すサラ。外まで逃げて、助けを求めるサラに声をかけてきたホランダー(マイケル・キートン)についていくと、元の部屋に連れ戻されてしまいます。チャドのボスがホランダーだったのです。どうやら、ライアンはホランダーの金を盗んで、そのありかを白状する前に抵抗したので、チャドに殺されてしまったのです。そこで、お宝へつながるのは、サラしかいないということで隠し場所を聞き出そうとします。でも、サラは知らないみたいなんですよ。下手なことを言えば命が危ない彼女の運命やいかに。

ペントハウスでの、3人の登場人物による密室サスペンスものの一編です。ヒロインが盲目だというのがミソでして、この設定は「暗くなる待って」ですとか「ジェニファー8」とかがありましたが、その設定がフルに生かされているとは言い難いものの、孤軍奮闘するヒロインものとして、結構面白かったです。ほぼ半日間に時間も限定していて、ペントハウスのみで展開するドラマは舞台劇みたいなところもありますが、「マネー・トレイン」「スタートレック5」のデヴィッド・ローリーのオリジナル脚本を、「フォーガットン」「愛がこわれるとき」のジョゼフ・ルーベンが監督しました。

ヒロインは盲目なので、悪党が部屋にいても気づかないっていうハンディがあります。でも、映画はほとんど彼女と彼氏のペントハウスの中で展開しますので、そこでの彼女は勝手知ったる場所を自由に走っちゃったりもできまして、盲目のハンディは感じさせません。サスペンスのために盛り込まれる趣向としましては、ヒロインの逃走途中に巻き込まれて殺されちゃうドアマンですとか、訪問者(ヒロインの妹とダンナ)ですとか、飛んできたヘリにヒロインが屋上から手を振るとかが登場します。これらが、映画の盛り上げには貢献できてなくて、尺稼ぎくらいの出来だったのは残念でした。85分という短い映画ですので、それらの枝葉エピソードを刈り込んだら1時間くらいに収まる話ではあります。結末にどんでん返しはないので、しごくまっとうな1シチュエーションのサスペンスの小品ということになりましょう。ミシェル・モナハンは盲目ヒロインを熱演しているのですが、アフガンでの自爆テロのトラウマからの脱出というサブプロットはあまりうまく機能していないので、キャラクターが曖昧になっちゃいました。悪党二人は、凶暴でもサイコでもない無難な設定だったため、マイケル・キートンも「パシフィック・ハイツ」(← 自分で言ってて懐かしい)のような凄みは出ませんでした。

ビスタサイズの画面で、少ない登場人物の映画なので、TV映画みたいと思ったのですが、IMDBで調べたら、劇場公開されたのは日本とかタイ、ドイツなどで、後は、DVDスルー。アメリカではネット配信ですって。こういうスリラーの小品ってのは、劇場公開されにくい時代になっちゃったんだなあってしみじみしちゃいました。まあ、映画としては、昔の日本で言えば、スプラッシュ公開か、地方公開の2本立ての併映扱いになるレベルかなあ。まあ、そういう映画を劇場で観られるってのは、ちょっとした贅沢なのかもしれません。もともと、大きな期待もしていないので、「大脱出」みたいに「何じゃこりゃぁぁ」てなことにはなりませんでして、そこそこのレベルで楽しめる映画に仕上がっています。ですから、あえてオススメもしませんし、決して掘り出し物でもありません。でも、ミシェル・モナハンって最近ご無沙汰だよねえっとか、マイケル・キートンって今どうなってんだっけとか、マーク・マンシーナってまだ映画音楽書いてるのかしらって気になる方には、いかがかしら、くらいの扱いとなります。

1980年代のビデオブーム以前はこういう映画も劇場にかかる機会は結構ありました。私も劇場で「他人の眼」「エミリーの窓」といった小品サスペンスを観ています。もっと前だとイタリア製のミステリーサスペンスがたくさん公開されていたそうですから、このジャンルの需要も受け皿もあったということでしょう。それが、ビデオで映画を観る習慣が固定してくるとこういう映画は、ビデオスルーかよくてビデオ化前の格付けのためにちょっとだけ銀座シネパトスとかで上映というパターンになってきます。今は、アート系でない小品を上映する受け皿が以前よりも減ってしまい、突然変異的にこの映画レベルの作品が、シネコンのレイトショーとか、ミニシアターで上映されるくらいになってしまいました。この映画は、封切週は1日4回の普通の上映パターンですので、かなりいい扱いをされているのではないかしら。昔は、ミステリーサスペンスだけではなく、アクション映画やゲテモノ映画でも同じように需要と受け皿があったわけでして、今のシネコンのラインナップとはずいぶんと趣の違う映画が、映画館に並んでいて、いかがわしい空気を醸し出していました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



チャドがサラに暴力でお宝のありかを吐かせようとした時、ホランダーが壁の写真に目を留めます。それはサラが撮ったアートっぽい写真で、犯罪者のライアンには似合わないと睨んだホランダーは、その裏に30万ドルの現金が隠されているのを発見します。一度、それで引き上げたように見せかけたホランダーたちですが、サラは彼らが部屋に残っているのを感じ取り、隙を見て逃げようとしますが、再びホランダーにつかまってしまいます。彼らは、ライアンが盗んだダイヤのありかを探していたのです。水責めでサラから床に金庫があることを聞き出した二人は金庫を破るのですが、そこにはダイヤはありませんでした。サラはチャドにダイヤを独り占めにするようにそそのかし、ホランダーにはテラスにダイヤがあるかもと告げ、仲間割れを図ります。それはホランダーに見抜かれるのですが、チャドはホランダーのために飲み物を作っているとき氷の中にダイヤを発見し、飲み物をホランダーに渡すときにナイフで刺そうとするのですが、逆に銃で撃たれてしまいます。チャドのポケットからダイヤを奪おうとするホランダーをサラが背後から刺し、揉みあいになります。そこへチャドも割り込んでくるのですが、結局ホランダーによってチャドはとどめを刺されてしまいます。その隙にダイヤと銃を奪ったサラがテラスへ逃げ、それを追ってきたホランダーに向かって発砲。音のする方向へ発砲するサラですが、その時、新年の花火が上がり、その音に気を取られたところに、ホランダーが向かってきます。再び揉みあいになるのですが、サラが発砲しホランダーをテラスから突き落とします。そして、サラがダイヤを元あった製氷皿の中に入れて隠したところでおしまい。

映画の途中で、テラスからホランダーに投げ落とされた猫が、最後にホランダーの死体の横にひょっこり現れるというオチはあるのですが、何だか説明不足だなあって後味は否めませんでした。途中で殺されたドアマンもそのままだし、せっかく姉を訪ねてきたのに追い返されて、その場で破水しちゃった妹がどうなったのかも描かれません。また、恋人ライアンとホランダーたちの関係もよくわかりませんでした。パワフル演出でグイグイ引っ張って行って、最後に一気に落とすという演出なら、説明不足も許容範囲なのですが、割とゆるくお話が進んでいく場合は、そのペースで帳尻合わせもやってよって思ってしまうのですよ。

細かいことながら、今もアメリカのペントハウスでは、昔ながらの金属製の製氷皿を使っているのかなって気になっちゃいました。製氷機つきじゃないのかよって。確かにそうしないとダイヤを氷に隠すというトリックが使えないのですが、この映画の脚本って20年くらい寝かしておいたのを引っ張り出したのかもって気がしてきました。盲目ヒロインなら音は重要なファクターなので、携帯電話は絶対サスペンスに使えるアイテムなのに、一切ストーリーに絡んできませんでしたしね。

「大脱出」はスタちゃんシュワちゃんのバカ映画として観ることをオススメ


今回は、新作の「大脱出」をTOHOシネマズ川崎2で観てきました。今回はシネチケを使っての鑑賞となりました。家のPCから(私、スマホ持ってないので)、座席指定ができるというのはなかなか便利な仕掛けです。

セキュリティコンサルタントのレイ(シルベスター・スタローン)は刑務所に実際に入って脱獄して見せてセキュリティの穴を指摘するプロ。いくつもの刑務所から脱獄し、刑務所のセキュリティの著書もある彼が今回引き受けたのは、CIAの非公式収容施設からの脱獄依頼でした。社長のレスター(ビンセント・ドノフリオ)はギャラの高さに大乗り気ですが、施設の場所を教えないことに他のスタッフは不安げ。予定通りにレイは拉致されて施設に収容されます。そこは透明な個室が立体的に配置されたこれまでにない厳重な収容施設。いわゆる組織犯罪者と呼ばれる人間が入れられているようで、看守による囚人虐待は当たり前という普通の刑務所ではありません。そこでレイに接近してきたのがエミル(アーノルド・シュワルツネッガー)という男。冷酷な所長のホブス(ジム・カヴィーゼル)から、ある義賊の居所を知る男としてマークされていました。エミルはレイに協力するこということで、脱獄計画に加えることになります。ホブスはレイの著書を熟読していて、簡単に脱獄することは無理そうです。さらに、何者かの裏切りで、レイは素性を知られ、正体を明かしてもそこは出られなくなっていたのでした。

マイルズ・チャップマンの原案をもとに、チャップマンと「白雪姫と鏡の女王」のアーネル・ジェスコが脚本を書き、「ザ・ライト エクソシストの真実」「シャンハイ」のミカエル・ハフストロームが監督したサスペンスアクションです。スタローンとシュワルツネッガーは「エクスペンダブルズ」で顔合わせをしていますが、本格的な共演は今回が初めてでして、二人がどうやってハイテク刑務所から脱獄するのかというお話になっています。

冒頭でレイはある刑務所から楽々と脱走して見せます。どんな施設にもセキュリティに穴があり、そこを突くことで抜け出すことが可能らしいのです。そんなレイに来た次の仕事はCIAの弁護士だというおねえさんが持ってきた、極秘収容施設からの脱走でした。出資者に施設の優秀性を示すために、レイに入ってもらって降参させちゃおうという話らしいです。しかし、実際に入ってみれば、そういうトライアルである話はなかったことになっていて、ホントに脱走しないと一生ここに閉じ込められそうな状態になっちゃうのでした。で、そこで、レイに接近してきたのがシュワちゃんことエミルというおっさんでした。彼はなぜかレイにこだわり、レイもエミルに事情を話して一緒に脱走しようということになります。

この施設というのが個人房がガラス張りで放射状に配置されているという空間の利用効率がすごく悪いのですが、その分セキュリティは万全です。その一方で、食堂ですとか、運動広場は普通なので、囚人間の連絡も可能ですし、喧嘩だってできちゃう。そこで、試しにレイはもめ事を起こして懲罰房に入ってみるのですが、これが熱射ライトにさらされる拷問部屋でした。でも、その熱で床のビスがもろくなることを発見します。そこから、脱出への糸口を見つけるのですが、この施設がハイテク施設と、運動施設や食堂のレトロな感じがどっかミスマッチで、これなら、脱走はそんな難しくないんじゃないの?って思えてしまったのはちょっと残念でした。共演陣に、曲者役者をそろえて、物語はスリリングに進みます。途中で、所長にレイの素性がばれてしまい、特にマークされてしまうと、昼夜を問わず暴行を加えられ、レイの心が折れそうになりますが、エミルが彼を励まし、脱走プランが本格化していきます。

最初から収容施設が難攻不落には見えないもので、後半、大きな盛り上がりもなく脱獄まで行ってしまうのが物足りなくも感じましたが、のんびり見るアクション映画としてはありかなってところでしょうか。



この先は、結末に触れます。また、この映画のことをよく言ってませんので、そういうのが嫌いな方はパスしてください。



懲罰房の床下に入ったレイはその施設がでっかい船の中にあることを知ります。しかし、船の位置がわかりません。レイは六分儀を作って、それをムスリムの囚人ジャベドに託して、彼を空が見える場所に行ける段取りをし、緯度を知り、そこから、穏やかな公海だと推理し、船の場所がモロッコ沖だと断定。エミルがモロッコにいる知人に連絡をとってヘリを船まで飛ばそうということになります。レイがこの施設に批判的な医師(サム・ニール)を抱き込んで、エミルの伝言をモロッコに伝えることに成功。レイは、Cエリアで暴動を起こさせ、その混乱をついて、エミル、ジャベドと共に機関室へ向かい甲板へ脱出しようとします。ジャベドは看守に撃たれて死亡、所長ご自慢のシステムにより機関室エリアは封鎖されてしまうのです。レイは電源を一時的に落としてエミルを甲板へ送ることに成功します。レイは貯水タンクに入って、排水のタイミングで水上に出ることに成功。エミルの乗るヘリに救出されます。甲板の所長とレイが銃撃戦となりますが、レイの銃弾が石油タンクを貫くと爆発。モロッコの沿岸に着陸したレイとエミルを待っていたのは、この仕事の依頼者であるCIAの弁護士、彼女はエミルの娘でした。エミルの正体は所長が追っていた義賊本人だったのでした。娘は父親を助け出すために、レイを施設へ送り込んだのですが、社長のレスターが施設側に寝返ってレイを売ったのでした。レスターを車ごとコンテナで貨物船の押し込んで、レイは次の仕事に着手するのでした。おしまい。

スタローンとシュワルツネッガーの共演というのが、今、どのくらいの集客力があるのかわかりませんが、それなりの期待はさせてくれます。さらに共演陣に、ジム・カヴィーゼル、ヴィニー・ジョーンズ、ビンセント・ドノフリオに、サム・ニールまで出るというのであれば、期待度はかなり上がります。ただ、気がかりだったのが、監督のミカエル・ハフストロームでして、「ザ・ライト エクソシストの真実」は役者の力もあってそこそこに面白かったのですが、「シャンハイ」はキャストも舞台も最高だったのに、映画としてはあまり人にオススメできる出来栄えではありませんでした。お話の核があいまいで盛り上がりに欠けたという印象だったのですが、これが「大脱出」にもそのままあてはまってしまいました。脚本にもツメの甘さがあるように思えるのですが、それ以上に演出に抑揚がなくって、映画としては、かつての銀座シネパトスにかかるセガール映画のレベルでした。オープニングは、主人公がある刑務所から脱出するまでを見せるのですが、基本的に絶対面白くなる発端のはずなのに、そこそこって感じだったので、不安がよぎってしまいました。設定としてはものすごく面白くなるものです。脱獄専門のセキュリティスペシャリスト、ガラス張りのハイテク刑務所、セキュリティチェックのつもりが本当に獄につながれてしまう。主人公はどう反撃に出るのかという、面白くなる材料は山盛りなので、ストレートなサスペンスを期待したのですが、まさかここまで盛り上がらないとは思いませんでした。

まず、難攻不落な収容施設ですが、個人房だけは上下左右にガラス張りなのは感心したのですが、運動広場や食堂は普通の刑務所と同じなので、レイとエミルはいくらでも脱獄の作戦会議ができちゃうのですよ。また、どうやって脱獄するのかって一番肝心なところが、広場で喧嘩を始めて暴動化させて、その隙に逃げようっていう、ものすごい安直な方法。全然、頭使わない力技の正面突破は「エクスペンタブルズ」「ダイハード5」と変わりません。それで、逃げられちゃうってところがまたすごい。そんなんで逃げられるなら、レイでなくても誰でもやれるじゃん。クライマックスは、主人公二人の撃つ弾は百発百中だけど、重装備の看守たちの弾はまるで当たらないという、緊迫感のない展開で、こっちは「ふーん」って感じで見ちゃいました。

ラストの帳尻合わせもかなりすごくて、所在地不明の施設にレスターがどうやって接触したのかもわからないし、そもそもトライアルが嘘なら、レイはなぜ施設へ送り込まれたのかもわからない。まあ、細かいところを挙げ始めるときりがないのですが、この映画の一番の弱点は、こんなに簡単に脱獄できちゃって、敵が弱すぎってところ。知性のかけらもない展開は、スタちゃん、シュワちゃんコンビにふさわしいとも言えるのですが、それなら、最初からバカ映画に作ってくれた方が楽しめました。ひょっとして、私がこの映画をバカ映画として認識できていなかったのが問題だったのかもしれません。あらぬ方向に期待した私が悪かったのかな。でも、ハフストロムの演出がもっとメリハリと勢いがあれば、そういう細々したことに考えが及ぶ隙を与えずに、映画を楽しむことができたと思います。

「終戦のエンペラー」でオーソドックスな映画音楽に旨みを見せたアレックス・ヘッフェスですが、今回はシンセとニュージーランド・シンフォニー・オーケストラを使った、ありがちパターンなアクション音楽をつけてしまったのが残念。単なる画面の伴奏にしかなっていないし、そういう音作りで考えても、ブライアン・タイラーのようなパワーがなくって、音楽からしても聴き劣りしちゃいました。

この脚本、監督なら、セガールを主演にして、ちっちゃい予算でブルガリアで撮影するのがお似合いではないかと。スタちゃんの役がセガールで、シュワちゃんの役は盛りの過ぎた黒人ラッパーあたりで。ヴィニー・ジョーンズはそのまま同じ役かな。

「かぐや姫」の現代的な視点にちょっとだけ違和感。


2014年のお正月ですが、川崎の3つのシネコンの新作にどうも観たいと思う作品がなくって、映画初めは昨年公開され、ロングラン上映中の「かぐや姫の物語」を109シネマズ川崎8で観てきました。シネスコサイズのスクリーンのままでビスタサイズでの上映。ここも、ちょっとしたところを合理化するんだなあ。

竹取の翁(声:地井武男)は竹林の中に光る竹を見つけます。するとその根元から筍が生えてきて、その中からちっちゃなお姫様があらわれます。家に大事に持って帰って、媼(宮本信子)に見せますと、それは赤ん坊に姿を変えます。赤ん坊は尋常じゃない早さで成長し、季節が変わるころには、近所の子供たちと遊ぶようになります。翁は、さらに光る竹に遭遇、そこから金とか着物とかが出てくるので、これは天が姫を高貴なものとして育てよというお告げだと解釈します。そこで、金を使って、都に大きな家を買い、そこへ娘を連れて行き、姫としての教育が始まります。そして、高貴な方より「なよたけのかぐや姫」という名前をつけてもらい、その名付けの宴に都の多くの人を招きます。しかし、かぐや姫(浅倉あき)は、幼い頃、子供たちと一緒に山を駆け回った日々を懐かしく思うのでした。噂が評判を呼び、たくさんの男たちがかぐや姫に付文を送ってきます。評判を聞きつけた皇子、右大臣ら5人が是非かぐや姫を妻に迎えたいと、姫を世界の宝に例えてプロポーズ。かぐや姫はその例えた宝を持ってきた方と結婚しましょうという無理難題をふっかけて、何とか5人をやりすごそうとしますが、その5人が姫のために金を使って奔走し、命を落とす者まで出たことを知って悲しみます。あたしのせいでみんな不幸になっちゃうの? さらにその評判が帝にまで届き、帝が姫に直接アタックをかけてくると、その日から、彼女の様子がおかしくなります。どうしたのだと問いただす、翁と媼に、かぐや姫は自分の物語を語り始めるのでした。

みんな知ってるかぐや姫のお話、竹取物語をベースに、「パンダコパンダ」「おもひでぽろぽろ」の高畑勲が原案を書き、坂口理子と高畑が脚本化して、高畑が監督しました。チラシなどで、かぐや姫がなぜ地球にやってきたのか、ですとか、かぐや姫の罪と罰を描くとかあるので、かぐや姫の前日談か、外伝なのかと思っていました。それで、2時間17分見せるってのはどういう映画なのかなあって不安がありました。しかし、本編を観てみれば、これって、外伝でも前日談でもない「かぐや姫」のお話そのものでした。ストレートに「かぐや姫」を見せられて意外だったというのも変ですが、要は、高畑監督の解釈を加えた「かぐや姫」の物語だったのです。

絵は墨絵とパステル画を合わせたようなタッチで、あの「となりの山田くん」の絵の雰囲気に似たところがあります。昔、テレビでよく観た「まんが日本昔ばなし」とも通じるところがあり、どこか懐かしい味わいもある一方、ヒロインの表情はスタジオジブリの現代風ヒロインになっているのが面白いと思いました。田舎の山の中も、華やかな都も同じような淡い色調で統一されていて、その世界観が伝わってくるのですが、人物の描写となると色々な時代のキャラが混じり合い、水彩画調、漫画調、イラスト調、劇画調とてんでばらばらなのは狙ってやったものなのかしら。そんな中で絵にするのに一番難しいだろうなあって思った、月からの使いの絵は、淡い色調にまとめて、何だかつかみどころのないイメージに逃げたのかなって気がしました。また、2時間以上を見せる映画にしては、動きのある見せ場のない作品だなって思っていたのですが、後半に突如、飛行シーンが出てきてびっくり。それも必然性があるとは思えない突っ込み方なので、ひょっとしてディズニーにねじ込まれたのかなって気がしました。ジブリのアニメ=飛行シーンというお約束に振り回されてる感がちょっとだけあり。

お話の方は、月からのお金や着物を受け取った翁が先走り暴走して、姫や媼の気持ちを無視して、都へ上り、高貴な世界にデビューさせたけど、それは決して、姫や彼女の関わった人間を幸せにしなかったという流れになっています。翁としては天からの授かりものである姫を幸せにするのは、最も高貴な方に嫁がせることだと考えたわけです。これは平安時代のお話なので、今の幸福尺度では測れないですし、当時の幸福尺度だってわかりません。まあ、原作が「都で高貴な方の求愛を受けました」というお話なので、翁が天からの贈り物をそういう解釈をして、都へ出たことへの理由付けをしたのでしょう。でも、果たしてその解釈が必要だったのかなって気がしてきました。翁が、姫の気持ちを考えない思慮の足らない人になっちゃっているのは、オリジナルの追加設定なのですが、その生臭さが昔話っぽくないのですよ。かぐや姫が、今風の幸せを望んだのかどうかなんて、頭をひねる必要もなかったような気がします。この物語は、その先に、姫がなぜ下界にやってきたのかというお話も追加してきます。その結果、平安時代のかぐや姫の物語が、妙に現代の価値観に満ちたお話になってしまっています。古典の現代超訳という感じなのですよ。

古典である竹取物語にアニメの作り手が自分の空想を追加して作ったのが「かぐや姫の物語」ですから、あくまでこの物語の語り部は高畑監督です。そこに何の不思議もないのですが、どこか違和感を感じてしまいました。かぐや姫って、月にいた時に、他の下界から帰ってきた人の、下界への想いに共感しちゃったらしいのですよ。で、それが月の世界ではよくないことらしくて、罰として下界に島送りになり、下界がいやになるまでそこにいなさいって話らしいのです。(実は、このあたりの説明が映画の中でよく聞き取れませんでした。記憶曖昧ですみません。)月の人の価値観でいうと、下界は穢れていて、喜怒哀楽なんていう感情に振り回されることは下品みたいらしいんですよ。どうやら、月の高貴なお方は、常に泰然として、浮世のことに一喜一憂なんてなされませんとのこと。まあ、下界でも、高貴な方は、感情を顕にすることはないそうですから、似たような価値観を持っているようではあります。でも、下界のそれは建前でして、実際、高貴なお方も私利私欲や色恋沙汰にあたふたとして、感情に振り回されて下品なことこの上ない。月では、それが言行一致らしくて、みなさん、感情はうまく抑制されていらっしゃるようなのです。(こういう解釈をすると、あちらのアクション映画「デモリッシュマン」や「リベリオン」に一脈通じるものがありますかしら)

さて、かぐや姫の方を見てみれば、自由奔放という言い方もできるけど、言い方替えればものすごく感情が不安定。波長の合う媼はさておき、翁や家庭教師は、その落差に扱いづらそうなことこの上ないのです。月の高貴な方とはまるっきり正反対の人です。でも、彼女が軋轢を起こす相手は、ドラマの中では、都の高貴な文化ということになります。でも、高貴な皆様も化けの皮が剥がれるシーンもありまして、「かぐや姫」と「都の高貴な文化人」と「マジ高貴な月の文化人」の間に奇妙な三角関係が見えてきます。そして、この三角関係は一見対立しているようで、その実態は全て同じようなものだというのがこの映画のスタンスなのですよ。ここで、何となく違和感の正体が見えてきました。それは、もともとはそういう意図のなかったであろう竹取物語の中に、現代人の感覚で、格差社会を持ち込んで、さらにそれを否定しているのです。私の心の中の声としては「いやいや、平安時代だし、それ格差って感じてないし、月の人のメインタリティ知らないし」とまあ、そこまで話をいじらなくてもいいのにって思っちゃったのですよ。現代人が平安時代にタイムスリップしたわけではあるまいし、と思ってしまったのですが、考えてみれば、最近の時代劇の男子や女子のみなさんは現代語でしゃべって、現代人の共感を呼ぶ思考をしてますから、この映画が特別なわけではないよなあ。いやいや、でも、これ、昔話だしー、かくや姫だしー。

こう考えてみると、妙な現代的解釈を最小限にして、単に語り伝えられたことだけを、あったることが如く描いた「まんが日本昔はなし」は偉大だったのかもしれないという気がしてきました。その方が観る側の想像力が広がりますし、観客の捉え方次第で自由な物語を観客が再構築することができます。この映画は、元のストーリーに、オリジナルの格差社会という概念をかぶせた上で、でもその格差のある社会にいる個人には差がないんだよと、格差社会を批判する視点を加えているのです。原本にない別ネタをかぶせて、その別ネタ批判をドラマの中心に持ってきているってのは、原本から逸脱し過ぎてるのではないかしら。(竹取物語からすれば、軒を貸して母屋を取られるって感じかしら。)

1本の映画としての感想を言うなら、この映画、要所要所で美しい絵を見せてくれますが、お話としては散文的で、2時間以上はちょっと長かったように思います。水彩画のようなタッチの絵で見せるストーリーなら1時間弱が妥当だなあって思ってしまったのですが、これは私が「まんが日本昔ばなし」基準でものを見ているからかもしれません。あと、水彩画タッチで躍動感の絵を作ると劇画調になるんだなってのはちょっと発見でした。

声優陣はなかなかの豪華キャストでしたが、ヒロインを演じた朝倉あきは現代女性のヒロイン声でして、彼女をキャスティングした時点で、高畑監督は平安時代の物語を作るつもりはなかったのかなって気がしました。地井武男や宮本信子はヒロインのリアルな声を昔話の世界へ引き戻す効果があったように思いました。その他では、コメディリリーフとして儲け役だった、家庭教師の相模役の高畑淳子と、姫の傍にいつもいる女童の田畑智子が印象的でした。

「宇宙大怪獣ドゴラ」はどうしても嫌いになれない、というか、好き。


お正月のメジャーシネコンでやってる映画はどれも興味を引かないもので、家で録画してそのままになっていた「宇宙大怪獣ドゴラ」を観ました。1964年の夏の公開とのことですので、東京オリンピック直前で日本中が盛り上がっていた頃の映画です。

外事課の刑事駒井(夏木陽介)は、連続ダイヤ強盗の事件を捜査していました。一方、強盗団は、宝石店のダイヤを強奪中、突然、体が宙に浮き上がり、何者かにダイヤを横取りされちゃいます。結晶学の権威宗方博士(中村伸郎)のところにやってきたマーク・ジャクソン(ダン・ユマ)というダイヤモンドブローカーが、強盗団と接触を持ち、どうやらマークは何やら企んでいたようです。マークを尾行していて、宗方博士と知り合いになった駒井は、事件についての相談をかけます。一方、日本上空で人工衛星の遭難事件が相次いでいました。駒井と宗方の秘書昌代(藤山陽子)を家に送る途中、不気味な鳴き声と共に、石炭置場の石炭が宙に吸い上げられていきます。日本上空の放射能の濃いところで宇宙細胞が突然変異し、炭素をエネルギーとする怪物となり、ダイヤや炭鉱を襲っていたのです。強盗団がダイヤ輸送車を襲撃するのですが、そこにもドゴラが現れ、通りがかった石炭トラックが襲われます。駒井は、ダイヤ輸送車が襲われなかったことを不審に思い、マークを問いただすと、マークはダイヤ強盗団を捜査中のダイヤGメンだと正体を明かします。一方、炭鉱地帯である九州はドゴラ襲撃に備えて厳戒体制となり、宗方博士も北九州へと向かいます。なぜかマークも北九州へ向かい、駒井は彼を追って九州へ向かうのでした。

「地球防衛軍」の丘美丈二郎の原作を、「キングコング対ゴジラ」の関沢新一が脚色し、「ゴジラ」「マタンゴ」の本多猪四郎が監督しました。この映画が公開された、1964年は、田中友幸製作、円谷英二特技監督による特撮映画がコンスタントに作られていた時期で、ゴジラ+SF+時代劇+戦記ものと、年に3~4本の特撮映画が公開されていたいわゆる特撮黄金期の一編です。特撮映画というのは、東宝にとってもドル箱であったのですが、そんな中では、この「宇宙大怪獣ドゴラ」は思うほど観客を集めず、ゴジラも出ていないことから、あまりいい扱いはされてきませんでした。

先に書いたあらすじから、ドゴラの話とダイヤ強盗の話がゴチャゴチャしてると感じられた方もいらっしゃるかもしれませんが、この映画、ダイヤ強盗団の話とドゴラの話がほとんど噛み合わないまま、並行して描かれています。ドゴラの話だけを抜き出せば、冒頭でアメーバ状ドゴラに人工衛星が襲撃され、石炭置場の石炭が吸い上げられ、北九州市にイカ状のドゴラが現れ、自衛隊の攻撃によりイカ状ドゴラが細胞分裂して結晶状ドゴラに変態し、そこで地蜂の毒がドゴラに効くことが判明、自衛隊が地蜂の毒を量産してドゴラに放射すると、ドゴラが岩石状になって落下するのでした。めでたし、めでたし。

これだけの話だと1時間半持たないと思われたのか、ドゴラとは直接関係のないダイヤ強盗と、それを追う刑事の話をくっつけた脚本は、かなり苦労の後が伺えました。そのかなり無理してる脚本を、本多監督は、お話が破綻しないように何とかまとめあげたという感じです。そういう意味では、1本の映画としての出来栄えは今一つというところに落ち着きます。とにかくかわいい藤山陽子とか、強盗団の色っぽいアネゴの若林映子といった女性陣とか、じいちゃん博士の中村伸郎のコミカルな味わいなど、演技陣のがんばりは伝わってくるものの、主役である駒井が、ドゴラの正体究明とか弱点発見とかに関わってこないので、怪獣映画のドラマとしてはかなり弱体と言えましょう。特撮もゴジラシリーズほどの予算をかけていないのか、大都市破壊がないので地味な感じになっています。

でも、この映画、個人的にはかなり好きなのですよ。どこがいいのかというと、ドゴラという怪獣の設定と、その視覚化に手間をかけているからです。この怪獣、まず宇宙空間にホタルみたいにポッポッって現れ、アップになるとブヨブヨのアメーバ状の姿が見えます。次に現れるのは、東京の石炭置場を襲うシーンでここでは空に不気味な雲のような形でいわゆる静止画と吸い上げられる石炭の描写の切り替えしで表現されています。次は、北九州市に巨大なイカのような姿で現れます。ここが一番怪獣らしい登場の仕方をします。空から触手がわらわらと降りてくるショット、イカ状ドゴラが空で揺れるショットなどは、操演による人形が使われていますが、要所要所ではフルアニメが使われています。若戸大橋が触手で吊り上げられて破壊されるシーンがミニチュア特撮の一番の見せ場になっています。そして、結晶体になると、今度は丸いプラスチック板みたいになってちょっとチャチになっちゃいまして、それが最後は地蜂の毒で水晶みたいになって、最後に岩になってしまいます。こういうつかみどころのない怪獣ってのは、日本だとこのドゴラだけなのですよ。そこがまず珍しいってところがあります。

さらに、ドゴラの見せ方も、クイックショットばかりなので、ゴジラみたいにじっくりと見せてくれなくて、ぼーっと見てると、イカ状ドゴラの全体像は見逃しちゃうかも。さらに、ドゴラがやってることは石炭を吸い上げることだけなので、そのシーンだけはやけに登場するのですが、それに比べて、ドゴラが石炭をどうやって吸い込んでいるのかは、イカ状ドゴラの時だけしか明確にわかりません。アメーバ状や結晶状のドゴラがどうやって石炭を吸い込んでいるのかも見せないという、非常にコンセプトが曖昧な怪獣なのです。いったいこいつの正体は何だろうと思っていると、いつの間にか岩になって落下して映画が終わっちゃうという、説明不足というか、細かいところを決めないで作っちゃったように見える映画なのです。アメーバ状の時は単体は小さいのに、石炭をものすごい勢いで空に吸い上げるってのは、どうなってるの?とか、石炭を空へ吸い上げるような怪獣がわざわざダイヤなんてちっちゃいものを狙うのかしらとか、突っ込みどころは山ほどある怪獣なのです。

でも、私としては嫌いになれない。作ってる方も見切り発車しちゃったような怪獣なのに、他の映画にない不定形怪獣というコンセプトがこの映画を日本の怪獣映画の中の唯一無二の存在にしているのです。そのチャレンジは成功したかどうかは置いといて、記憶するに値すると思います。また、伊福部昭の音楽もミュージックソーを用いた浮遊感のある音で、ドゴラを的確に描写していて、ものすごい多作の時期の仕事なのに頑張ってるなあってところでも点数上がっちゃうのです。そもそも、ゴジラで稼いでいるときに、こんな得体の知れない怪獣の映画を作るってのは、チャレンジだったと思います。この企画が通ったってことも当時としてはかなりのチャレンジだと思いますし、やっぱり好きなんですよ、この映画。

2013年のベストテンを作ってみました。

2013年は思うほど映画館へ足を運べなかったので、ベストテンとか作れるのかなとも思っていたのですが、並べてみると、いい映画がたくさんあって、豊作だったのかなって気がしてきました。基本は好きな映画をあげ、後、扱っている題材に学ぶところが多い映画も入れています。


第1位 「ある海辺の詩人」
イタリアの猟師町、出稼ぎ中国人女店員と、詩人と呼ばれる初老の漁師の、心の触れあいを描いた一編です。恋愛じゃないけど、もっと深い何かを感じさせる関係が、ラストで意外な形で情感が湧き上がります。穏やかな人間関係のつつましい感じとか、全体を包む空気が何だか好き。とにかく、心に響く映画だったので、これが1位。アンドレア・セグレ監督の他の作品も観たくなりました。

第2位 「偽りなき者」
幼女の気まぐれな一言で、保育園の先生がイタズラしたと思われちゃって、コミュニティから排斥されちゃうという、リアルなスリラー。冤罪がいつの間にか事実になっちゃうプロセスの怖さは他人事ではありません。日本でも起こりうるお話だけに、気をつけなくちゃと思わせる映画でした。映画としても大変見応えのあるものになっています。

第3位 「ハンナ・アーレント」
ユダヤ人虐殺の元締めと言われていたナチスのアイヒマン、逮捕されて裁判にかけてみたら、鬼でも悪魔でもない、ただの田舎の小役人でした。そのことを記事にして世界中からバッシングされた女性ハンナの物語。あまり、お近づきになりたくないタイプのヒロインなんですが、言ってることには説得力があり、それを敷衍すれば、偏見や悪意がなくても人間は残虐な行動を取れるのだという耳の痛い話にたどりつくのです。戦争や虐殺を繰り返さないためには、その人間の弱さをあるものとして受け入れて、抑止する必要があるという映画でした。

第4位 「最愛の大地」
アンジェリーナ・ジョリーが脚本、監督した入魂の戦争ドラマ。ボスニア紛争を舞台に、レイプ、殺戮をリアルに描き、並行して立場が相反する男女の恋愛を重厚に描いた作品です。戦争ドラマにお決まりの「愛は克つ」ではなく「愛は負ける」物語ではあるのに、画面に引き込まれてしまうあたりに、映画の力を感じました。ヘビーな内容の映画ではあるのですが、ドラマとして大変面白くできているので、ベストテン入りです。

第5位 「ゼロ・グラビティ」
宇宙空間を体験できる映像の素晴らしさ、精緻な音響など見所多く、さらに閉塞空間からのサバイバルドラマとして、最後には感動までさせてくれる映画の逸品でした。ストーリーはすごくシンプルなのに、主演のサンドラ・ブロックの熱演もあって、ドラマとしての満足度が大変高かったです。

第6位 「熱波」
今年のラブストーリーは、ミステリータッチの「セイフ・ヘイブン」なんかが好きだったのですが、ケッタイな発端から、ドロドロなお話を不思議な語り口で見せてくれた「熱波」が一番印象に残りました。モノクロの映像や背景音をシャットアウトした音響設計などの仕掛けがうまく作用して、不思議な味わいの恋愛映画になっていました。こういう見せ方もあるんだなあっていう発見もありましたし。

第7位 「東ベルリンから来た女」
ハードボイルドなサスペンス映画として一番面白かったのがこれ。東西冷戦の時代、西側へ亡命しようとする女医さんを主人公にしたサスペンスもの。冷戦の緊張感のリアルな描写から、ラストの苦いカタルシスまで、一気に見せる面白さ。印象的な風景描写、ヒロインの凛としたかっこよさなど見所も一杯詰まっていて、映画としての満足度が高い逸品でした。

第8位「マーサ、あるいはマーシー・メイ」
今年はホラーやスリラーの類はほとんど観られていなかったのですが、佳作「ファインド・アウト」「ザ・コール」などに比べて怖さが際立っていたのがこれ。カルト集団に取り込まれた少女が、そこから抜け出せない様子を不気味に描写していました。集団から逃げ帰った後も、そこであったことを他人に話せない少女が孤立してしまい、結局心を許せる人間が教団にしかいないとわかってくるあたりの怖さは格別でした。

第9位「故郷よ」
チェルノブイリ事故で、自分の故郷が立ち入り禁止区域になってしまった人々の心のありようを詩的に描いた一品です。誰もが持っている故郷への想いが、この異常な環境で、より鮮明に浮き彫りになるところに見応えがありました。故郷を不自然な形で奪われた人々の切なさが胸を打つ映画でした。

第10位「パシフィック・リム」
怪獣映画ファンである私へのごほうびみたいな映画でしたけど、ディティールだけでなく、ちゃんとドラマとしても面白いってところが点数高い映画でした。怪獣モノやSFアニメの定番を、骨太ドラマの中に丁寧に織り込んでいった脚本と演出が見事で、原点を知らなくても、十分楽しめる内容でして、素直に盛り上がれちゃうところがお気に入りです。


「パシフィック・リム」が10位になっちゃってるってことからしても、今年の映画は豊作だったように思います。ドラマとして大変面白かった「ペーパーボーイ 真夏の引力」「フライト」「鑑定士 顔のない依頼人」、娯楽映画としてのサービス精神があっぱれだった「ホワイトハウス・ダウン」、変化球のようで実はまっとうなコメディだった「ted テッド」、個人的には好きにはなれないけど、その作りのうまさは見事だった「ゼロ・ダーク・サーティ」「キャプテン・フィリップス」、よくわからないけれど、何だかそそられる「コズモポリス」などがベストからこぼれてしまいました。


次に、映画としてはベストテンからこぼれてしまったけど、ここがよかったというピンポイントベスト5を挙げます。

第1位「きっと、うまくいく」の有無を言わせぬエンタテイメント
これはベストテンに入れてもおかしくない映画だったのですが、3時間をベタな泣き笑いで引っ張って、しかもドラマとしての満腹感もたっぷりという娯楽映画のごちそうでした。ミステリー要素あり社会派のネタあり、とにかく色々と盛り込んで観客を楽しませようとする姿勢があっぱれな一品でした。各地で単館公開されてロングランされたってことはそれだけ観客の支持を得たということでしょう。こういうベタな人情話の映画で、劇場にお客が集まったということはもっと注目されていいと思いました。

第2位「ゼロ・ダーク・サーティ」のサスペンス演出
主人公の見せ方が好きになれなくて、ベストテンには入れなかったのですが、それでも、ビンラディンを探し出して襲撃するまでの展開はドキドキハラハラの連続で、ある種の知的興奮もあり、エンタテイメントとしてもお見事でした。テロリスト逮捕のためという名目で、アメリカがムチャやってるのですが、でも面白いのですよ、これが。

第3位「鑑定士 顔のない依頼人」の音楽のサラウンド効果
映画としても面白いミステリーだったのですが、この映画の中で、主人公が女性の肖像画に囲まれて恍惚となるシーンで、エンニオ・モリコーネの音楽が、観客を取り囲むように流れるのが大変効果的でした。臨場感を出すために劇場の左右後方のスピーカーから音を出すのはよくあるのですが、音楽を効果的に鳴らすために、この壁面スピーカーを使うのは珍しいのではないかしら。主人公が女性肖像画に囲まれるのを、音で表現していまして、女性ボーカルがあちこちから聞こえてくるのですよ。こういうのもっとやってくれないかなあ、最近の映画って音楽の出番が昔より少ないのが不満なので、こういう音楽の丁寧な扱いがうれしくなって、特筆しちゃいました。

第4位 「スマイル・アゲイン」のジェシカ・ビール
2013年の女優陣では、「シャドー・ダンサー」のアンドレア・ライズブロー、「ファインド・アウト」のアマンダ・セイフライド、「箱入り息子の恋」の夏帆、「セイフ・ヘイブン」のジュリアン・ハフ、「ted テッド」のミラ・クニス、「エンド・オブ・ウォッチ」のアナ・ケンドリック、「故郷よ」のオルガ・キュリレンコといった面々が印象に残りました。その中では「スマイル・アゲイン」のジェシカ・ビールの誠実なキャリアウーマンぶりが大変好印象でした。映画としての出来栄えは今一つの「スマイル・アゲイン」でしたけど、彼女はどんどんいい女優さんになってきていて、この先も期待大。

第5位「ムービー43」の関係者の黒歴史になるだろう度数100%
映画スターが、コメディにカメオ出演したり、テレビのセサミ・ストリートとかバラエティに出たりするのって、それなりにスターの箔になったり、いいイメージを追加することになるのですが、この映画はその例外になりそう。一応オムニバスコメディなんですが、とにかくひたすら下品。下品ネタで始めても、オチをスマートに決めれば、コメディとしては上々という評価になるのですが、この映画は徹頭徹尾下品。結構なメンツが出ているのですが、フィルモグラフィから外したい人もいるのではないかなあ。「ムービー43」のヒュー・ジャックマンってのは、蔑称になるのではないかしら。


というわけで、また、細々と更新していきますが、本年もよろしくお願いいたします。

「もらとりあむタマ子」のドラマはないのに、嫌いになれない感がすごい


今回は、新作の「もらとりあむタマ子」を、静岡シネギャラリー1で観てきました。これが2013年の映画納めとなります。改装後、初めての鑑賞だったのですが、座席が1ランクアップしていて、かつ前後に余裕を持った配置になり、以前より見やすくなっていました。ただ、前後を空けた分、座席エリアが前に出てきて、最前列だと若干スクリーンを見上げる感じになります。改装前だと、最前列でも快適な鑑賞ができましたから、痛し痒しという感じでしょうか。

東京の大学を卒業して、実家の甲府に帰ってきたタマ子(前田敦子)は、スポーツ店を営む父親(康すおん)と二人暮らし。何をするのでもなく、寝て、食べて、マンガ読んでという日々を送っています。テレビ見て「ダメだな日本」とかつぶやいてるのですが、ダメな自分が就職活動とかする気は、少なくとも今のところなし。一応、履歴書を作ろうと、髪切って写真撮ったりもするんですが、実際には行ってないみたい。たまに同級生と遭遇すると早く逃げ出したい気分、父親がアクセサリ教室の先生(富田靖子)と付き合い始めたと知って、何だか不満げなようで、でもいい人だったらいいかなって思って会いに行っちゃったり。そんなダラダラした日々を秋から春、そして夏までスケッチ風に追っていきます。

「リンダ・リンダ・リンダ」「松ケ根乱射事件」の向井康介が書いた脚本を、「天然コケッコー」「苦役列車」の山下敦弘が監督した。コミックスの映画化だとばかり思っていたのですが、これオリジナル脚本でした。元AKBという肩書きが、プラスになっているのかなっていないのか微妙な立ち位置にいる前田敦子が主演しています。タイトルどおり、ヒロインのタマ子は、大学を出てから、就職もせず、実家でウダウダしている、モラトリアム状態。でも、父親と母親は離婚していて、姉は結婚して家を出ているので、タマ子は父親と二人暮らし。家は、住宅街の中でスポーツ店を営んでいまして、炊事、洗濯、掃除はみんな父親がやっています。やたらと食事のシーンの多い映画でして、ヒロインと父親が食卓を挟むシーンが何度も登場します。父と娘では会話が弾みようもなく、たまに会話になっても「そろそろ何とかしろよ」「今のところ、それはない」なんていう不毛なやりとりだけ。父親は、家でグダグダしているだけの娘に不満はあるのですが、めったに口に出すことはなく、それに対して娘の方もあまり深く反発したり考えたりもしない、そんなまったりした関係が、小さなエピソードの積み重ねの中で描かれていきます。エピソードが積み重なることで、物語がまわっていくのかというとそういうことでもなく、冒頭のモラトリアム開始から、ラストでちょっとだけ状況が前進するまでの間は、何の進展もないモラトリアムな日々が続いていくことになります。

このストーリーが進まない感じが、何だか嫌いになれないって感じられると、この映画に、はまれると思います。この作品が、物語の結末にたどりつけないってところは、映画が一人前になることを忌避していると解釈すれば、この映画全体がモラトリアム状態にあるということになります。映画の設定が映画そのものを体現していると考えたとき、その構造を支えているのが、主演の前田敦子だと気づくと、彼女、結構すごい女優さんじゃね?ということになってきます。全然笑わない、でも不機嫌ともちょっと違う、モラトリアムというのにちょうどいい頃合の表情が見事にはまっています。もともと、アイドルしてたときも、愛想のよいキャピキャピ系というよりは、天然系自由人キャラだったので、こういう役どころが似合うのですよ。彼女のキャラにあてて作られたドラマとも言えそうで、ある意味アイドル映画にもなっています。ただし、アイドル映画に必ずある恋愛要素はゼロでして、最近の若い女の子が主人公の映画としても珍しいと言えましょう。

就職活動もしないで、家でグダグダしているだけのヒロインなのですが、山下敦弘の演出は、彼女に対する嫌悪感を抱かせません。笑っちゃうようなところもあるのですが、基本的にヒロインへの視線はニュートラルです。テレビ観て「ダメだな日本」なんてセリフを言っても、それが生意気だとか不快感につながらなくて、どこか「ふーん」という感じで見ることができちゃうのですよ。ヒロインと観客の距離感がそこそこありまして、感情移入する気にはなれないけど、突き放して批判しようとも思わない、いいかんじの関係ができているのですよ。その、危うげなバランスの上に成り立っている映画でして、そのバランスを維持するのに、78分が限界だったのではないかしら。最近の映画にしては、かなり短いと言えるのですが、モラトリアムなヒロインをニュートラルな視線でながめていられるのが、そのくらいだったという上映時間なのではないかしら。確かに、ドラマとしての起伏もないので、退屈させない時間の限界ということもあるのでしょうけど。

就職活動もしないで実家に居着いてしまうというメンタリティがどういうものなのか、私には想像つかないのですが、この映画では、何もしないからそうなっているという見せ方をしています。望んでモラトリアムになったわけではないけれど、いつまでもこうしてはいられない、でも焦りはない、そんな微妙な感じを山下の演出はうまく醸し出すに成功しています。そういう状況を維持できるのは、父親が強く出ないからでもあるのですが、その父親の存在感が何ともおかしいのですよ。ほどほどのいい人らしさを康すおんが大変うまく演じていまして、強くアピールするところのない、リアルだけどつかみどころのないキャラがいい感じなのですよ。その他の登場人物も全体に存在感は薄めでして、その薄さがこの映画にフィットしています。唯一、作りこまれた存在感を見せるのが、近所の中学生の仁(伊東清矢)でして、この子がコメディリリーフとなって、ドラマにかすかなメリハリを与えています。父親のカノジョを演じた富田靖子でさえ、スターオーラを封印して、その上に魅力的な中年女性を乗せるという、見ようによっては離れ技とでもいうべき演技を見せてくれています。

普通の映画ですと、主役か脇役に、自分を強烈に主張するキャラクターがいて、その人がドラマを引っ張るのですが、ヒロインといい、父親といい、自分を主張せずに、今の居場所から動かずにいるものですから、ドラマが動くきっかけがありません。よくある映画のパターンですと、変わり映えのしない日々を送っていた主人公が、何かをきっかけに非日常の事件に巻き込まれるのですが、この映画は、その変わり映えのしない日々だけで最後までいっちゃうのです。でも、それだけで観られちゃうってのは、結構すごい映画なのかもしれません。

お話がほとんど動かない中、ちょっとしたアクセントになっているのが、父親が付き合っているらしいアクセサリ教室の先生の登場なんですが、この女性に対してヒロインが嫉妬のような憧憬のような表情を見せるあたりもうまいと思いました。しかし、彼女の登場によって、タマ子は新たな自分の居場所をさがそうという気になります。このタマ子と先生のやりとりがまたおかしくて、自分の父親のことをけなしてみせたものの、自分の心を見透かされてしまったタマ子がおたおたするところとが、ほのぼのとした笑いを運んできます。「一番お父さんのダメなのは、私に出て行けって言わないところ」と言うタマ子に、「面白い人ね」と面と向かっていう先生の、年長者の余裕と、ちょっといじわるっぽい視線も微笑ましく感じられ、このシーンがかなりお気に入りとなりました。

タマ子が訪ねていった話を、先生から聞いた父親は、タマ子に「この夏中に、就職の有無に関わらず、家から出て行くように」と言い渡します。「合格」とボソっというタマ子。精一杯見えを張った結果の一言が「合格」って言葉らしいのですが、その細かい心情の描写が全編に渡って、共感しやすい雰囲気を作っています。そして、彼女はいよいよ独立することとなるのでした。中学生の仁とアイス食べながら、甲府を出て行くんだよという話をするシーンで、映画はおしまい。一応、ドラマとしては動き出しそうなんですが、動き出すところまでは見せず、モラトリアム状態のままで映画は終わってしまいます。

今の時代、食うに困ることが稀になっているので、誰でも何らかの形で、モラトリアムの状態に身を置く可能性が高いです。ですから、モラトリアムの状態ってのは、多くの人から共感を得やすいのではないかしら。そういう意味で、この映画は、多くを語らないけど、共感のハードルが低いのではないのかなって気がします。その雰囲気に何となくわかるなあって思えると、かなり楽しめる映画なのかなって。それにしても、ドラマのない映画だよなあ。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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