FC2ブログ

「キック・アス ジャスティス・フォーエバー」はヒロイン萌えの続編として面白いし盛り上がります。


今回は、新作の「キック・アス ジャスティス・フォーエバー」をTOHOシネマズ川崎6で観てきました。300席クラスのシネコンの中でも大劇場タイプの作りになっていまして、スクリーンの大きさもあって、映画館で映画観たなあって気分になれる映画館です。ミニシアタータイプも悪くはないのですが、小キャパでも、作りは大劇場というふうにはできないものかしら。昔、小キャパでも作りが大劇場という藤沢のオデオン1番館、2番館という映画館がありまして(長くなるので、以下省略)

前作から3年、キックアスからは足を洗っていたデイブ(アーロン・テイラー・ジョンソン)ですが、ここで活動再開しようと高校生になっていたヒットガールことミンディ(クロエ・グレース・モリッツ)に弟子入りしてパワーアップ。試し運転では免許皆伝をもらいます。でも、ミンディは親代わりのマーカス(モリス・チェスナット)から、自警団活動を禁止され、まっとうな高校生生活デビューすることになっちゃいます。一方、前作で父親をキックアスに殺されたレッドミストことクリス(クリストファー・ミンツ・プラッセ)はヒーロー、キックアスを呪う日々から、母親も失い、自らをマザーファッカーと名乗り、使用人ハビエル(ジョン・レグイサモ)を使って、悪党を金で集めて軍団を形成します。ミンディが自警団をやめちゃったので、デイブはネットで仲間を探すうちに大佐(ジム・キャリー)という男がリーダーとなっている正義ヒーローチーム「ジャスティス・フォーエバー」に入団し、そこの女ヒーロー、ナイトビッチ(リンジー・ブース)と仲良くなったり、大佐の指揮で中国人売春宿を襲撃したりしてました。そして、マザーファッカー一味は大佐の基地を襲い、彼を殺害して、正義ヒーローに対して挑戦の狼煙をあげます。さらに、基地の写真から、ナイトビッチを襲撃、その際に警官8人が彼らの犠牲になってしまい、警察はコスプレする連中を善悪関係なく一斉検挙。デイブの家にも警察がやってきますが、父親がデイブの身代わりになって逮捕されちゃいます。ミンディは、高校の女子連に溶け込もうとしますが、いじめの対象になってしまい、父親譲りの対テログッズでいじめた連中の大恥をかかせ、マーカスから自宅謹慎処分となってしまいます。マザーファッカーはさらに悪辣な方法でキックアスに迫ってくるのでした。

前作から3年もたっていたというのがまずびっくりな「キック・アス」の続編です。アメコミの原作から、「クライ・ウルフ 殺人ゲーム」のジェフ・ワドロウが脚本と監督を兼任しました。世の中のためになろうと高い志でヒーローを始めたキックアスが、多くの支持者を生み、コスチュームをつけた自警市民が街をかっ歩しているという状況で物語は始まります。キックアスとは別系列で、悪を成敗してきたヒットガールも、もう高校生になって今や立派な娘さん。父親の遺志を継いで、悪の成敗を続けようとしても、親代わりの刑事モーリスから、ヒットガール禁止のお達し。そして、高校生活への本格デビューとなるのですが、ダンス部で目立ってしまったので、女王様の逆鱗に触れて、いじめに遭っちゃいます。その逆襲として、学校の食堂で、ゲロウンコ誘発スティックでいじめっ子をやっつけちゃうもので、謹慎処分になっちゃいます。そして、かつて彼女の命を助けたキックアスの危機に、再びヒットガールとして立ち上がることになります。映画としては、キックアス、ヒットガール、マザー・ファッカーの3つの物語が並行して描かれているのですが、結局、前作同様ヒットガールが目立つことになりました。腕利きの暗殺者が一度は足を洗ったものの、恩人の危機に再び武器を取るというのは、アクション映画やヤクザ映画の定番ですが、それを女子高生がやっていることで、萌え要素も加わりまして、アニメっぽい設定が結構うまくはまりました。キックアスの物語は前作の正義についてのドラマがちょこっとだけ語られるのですが、前作ほどの掘り下げはなかったように思います。キックアスが、自分のやった行動が結局世の中を変えたかと自問し、悪に対して暴力で立ち向かうことに意味がないと思うようになるのですが、後半の展開で、その葛藤がすっとんじゃうので、キックアスのドラマは、ヒットガールのドラマのようにきちんと完結しないのが弱いという印象になってしまいました。

前作から3年という時間がたっていますので、キックアスはひょろりとした少年から、ムキムキにパワーアップしていますし、ヒットガールは幼女キャラから、かわいい女の子に成長しています。そして、今回はキックアス側もマザー・ファッカー側も軍団を組んで、クライマックスは集団戦となりスケールが一回り大きくなっています。ドラマの続編の定番として、関係者がバタバタ死んじゃうのは、ちょっとあざとい感がありました。ビッグネームのジム・キャリーがクライマックス前に退場しちゃうというのはやり過ぎ感もありました。ジム・キャリー以外にも、モリス・チェスナットとかジョン・レグイザモといった曲者俳優が登場しているのですが、良くも悪くもドラマに溶け込んでいて、アクの強さを出すには至りませんでした。そんな中では、コスプレの格好と素顔のギャップで、ナイトビッチを演じたリンジー・ブースが印象に残りました。テレビ中心の女優さんのようですが、チェックしておきたい名前になりました。

ジェフ・クドロウの脚本、演出は、前作のようなオリジナリティを出すには至りませんでしたが、シリーズものの第2作として、テンポよい展開と見せ場の盛り上げに成功しています。クライマックスは派手な立ち回りがあり、カットによっては本人がアクションしているようで、迫力ある見せ場が展開します。ティム・モーリス・ジョーンズの撮影は、\\劇場用映画の大画面にふさわしいシネスコサイズの絵を切り取ることに成功しています。エンドクレジットによると、この映画はロンドンとトロントで撮影されているそうで、コスト削減のためにハリウッドを避けているのかな。



この先は、結末に触れますのでご注意ください。



マザーファッカーは、警察に手を回し、留置場にいるデイブの父親を惨殺します。ショックを受けたデイブはもうキックアスは二度とやらないと落ち込みます。その葬儀の場を、マザーファッカーの部下が襲い、デイブを拉致して、トラックで連れ去ります。しかし、居合わせたミンディがトラックに張り付いて、銃撃戦とアクションの末、デイブの救出に成功します。生き残った男から、マザーファッカーのアジトを聞き出した二人は、再びキックアスとヒットガールとなり、ネットで正義ヒーローの協力をあおいで、アジトに乗り込んで行きます。そして、マザーファッカーの悪の軍団と、「ジャスティス・フォーエバー」のメンバーも加えたキックアスの正義の軍団が大乱闘となり、キックアスはマザーファッカーを追い詰めます。天窓から落ちそうになったマザーファッカーは、差し伸べられたキックアスの手を拒否して、下へ落ちていきます。と、下は水槽で一命をとりとめた直後、水槽のサメに食われてしまうのでした。ビルの屋上に集まった「ジャスティス・フォーエバー」のメンバーは、これで活動に一区切りをつけようということになります。そして、ヒットガールは町を去り、これからの町の平和は、私服の人々の正義によって守られることになるのでした。めでたしめでたし。

と、一応の決着をつけて潔いなと思ったのですが、エンドクレジットの後、手足の一部を食われちゃったマザーファッカーが病院のベッドにいるシーンが出てきてがっかり。まだ続編への目配せをするかあー?って気分になっちゃいました。「スターウォーズ」6作目のパロディだよーんということもできるのですが、せっかくいい感じにドラマを締めたと思ったら、結局ダダ漏れじゃんというオチは、続編を望む人にはうれしいのでしょうが、私は愉快になれませんでした。

ラストで、デイブとミンディがキスして、これが私のファーストキスよって言うところがいい感じの結末になっていました。前作では、オタク学生と幼女の組み合わせで恋愛感情の入る余地はなかったのですが、高校生同士ということになれば、こういう展開もありかなということになりましょう。でも、これやっちゃうとヒットガールがヒロインになっちゃうから、続編ができたらキャラが変わっちゃいそうなんですよね。何かこう、キャラ迷走の種をまいちゃったような。まあ、私個人的には、せっかく物語を締めくくった後に、続編は要らないと思ってるんですけど。

コスプレしたヒーローがバイオレンスするってところで、R+15指定になっているようで、描写そのものはエグいのはクイックショットなので気になりませんでした。このあたりのレイティング基準ってのは、観ていても納得いかないのが多いです。(「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」のR+18とかですね。)
スポンサーサイト



「旅する映写機」は今の映画館のスケッチとして記録的価値大です。


今回は、東京での上映は終了している「旅する映写機」を横浜シネマジャックで観てきました。ブルーレイでの上映で、スクリーンサイズがスタンダードだったのがちょっと新鮮。最近のデジカメ映画はビスタサイズが基本なので。

渋谷のシアターN渋谷の閉館で、映写機が取り外されていきます。設置をした加藤さんがその映写機が再び使えるようにと丁寧にはずして運び出されていきます。今、日本には映写機の製作メーカーはなく、かつてメーカーにいた大島さんが個人的に蓄えた部品でメンテが行われているのでした。北海道の浦河町という人口1万4千人の町にも大黒座という映画館があります。そこの映写機はかつてジャブ70ホールで使われていたものでした。映写機は映画館から映画館へと旅をしているのでした。また、巡回上映では文字通り映写機が旅をします。巡回用の映写機は、コンパクトな分重くて運ぶのが大変でした。北村さんは50年巡回上映を続けてきて、今は父親の残した映画館善映館での上映会を行っています。同じように福島の本宮映画劇場では、不定期に昔の映画やニュースフィルムの上映を行っています。高知県の大心劇場は、山道を登ったところにある映画館です。主人の小松さんはシンガーソングライターであり農業もやりつつ、月の何日かで映画を上映しています。父親が映画館主でその遺産を引き継いで、モギリから映写技師まで全部一人でやっています。たくさんのお客が集まるとは限らない環境で、映画を上映している人々がいて、そこで映写機が旅をしながら活躍しているのでした。

森田恵子が製作・監督・撮影を兼任したドキュメンタリーです。日本にある映画館のエピソードを映写機というキーワードで描いていきます。私が行ったことのある映画館、川越スカラ座、シネマルナティックなども登場して、そこに関わる人々の様子を追っていきます。私が物心ついてから、映画館はずいぶんと姿を変えていまして、映画館の半分近くがポルノ映画館だった時期から、映画館街が姿を消し、ミニシアターが地方にもできて、さらにシネコンが台頭してきて、そして映画のデジタル化が進んで、京浜地区のほとんどの映画館はデジタル上映になってきています。そんな今、2012年から2013年の映画館の姿をフィルムの映写機にこだわって記録したこの映画は、時代の記憶としての史料価値がまず高いと言えそうです。映写機というハードがもうメンテナンスが風前の灯の状態でも、まだフィルム上映はなくなったわけではない今を描いたという点で、後世に残る映画になるのではないかしら。

今、使われている映写機のほとんどは20世紀に作られたもので、中には1950年代に作られた現役の映写機なんてのも登場します。日本製のものもあればイタリア製のものもあります。でも、日本のフジセントラル製の品質がすごく高くて耐用年数も高いのだそうです。映画館の運営というのは、採算を取ることも日々の運営も大変だというのが、この映画でも示されます。その一方で、映画が好きな人がそういう仕事に就いているからこそ、私たちが日々映画を楽しめています。それが、市井の小さな映画館であっても、シネコンであっても映画を楽しむことに変わりはないのですが、私は人間が古いせいか、映画館の顔が見えるスクリーンで映画を楽しみたいとも思うのです。その意味で、この映画に登場する映画館は、それぞれが個性ある顔を持って、町の中に溶け込んでいます。映写機、映画、映画館、観客というつながりが、町の中の文化の一端を担っているのだと思います。

映画の中で特筆しておかねばならないのは、フィルムの規格がずっと変わっていないということ。だからこそ、半世紀以上も前の映写機がずっと使えるのであり、その映写機で100年以上前のフィルムを上映することが可能なのです。これってすごい文化なのだと思います。果たして、DVDは後何年使うことができるのか。デジタルシネマパッケージは、果たして20年後に使用可能なのか。今のカセットテープやVHSみたいなポジションになっているのではないかという気がしてなりません。新しい技術が開発されることはいいことなのでしょうけど、古いものを形を変えないで保存するということを考えると、フィルムの方が優れた保存媒体なのではないかしら。スクリーン上のフィルムの画質とデジタルの画質の比較は、好みの問題があって、一概に優劣はつけられません。でも、音と映像を記録する媒体と再生手段として、フィルムと映写機ってのはすごいものでして、絶滅してほしくないものだと再認識しました。

この他にも、この映画からいくつもの発見がありました。福島の本宮映画劇場というところで、昔の映画を上映しているのですが、それが昔のその地方のニュースフィルムなのです。どうやって残しておいたのかわかりませんが、モノクロ、シネスコサイズのニュース映画で、その地方の農業の振興状況が語られているのです。そういうものが残っているってのは、やっぱりフィルムってすごいなあって感心しちゃいました。また、昔ながらのアーク映写機に比べると、新しい映写機は職人芸がなくても、クオリティの高い上映ができるらしいということも発見でした。アーク映写機だと2本のアークの位置の微調整がどうやら職人の芸だったようなのですが、最近の上映は、全巻のフィルムを一本につなげて上映する方式もあって、映写技師の個人差が出にくいようなのです。

もう一つ、印象的だったのが、盛岡県の宮古にあるみやこマリーンという映画館の存在でした。宮古市に映画館がなくなったとき、生協で映画館を運営する方法を取ったのだそうです。他の映画館でも、NPO法人を作ったり、基金を募ることで、映画館を運営するパターンが紹介されます。文字通り地元直結の映画館があるんだなあ。一方で、山の中の個性的なおっさんが運営する映画館もまた地元直結です。やはり映画館ってのは、その町とどうつながっているのかが大事なんだと思いました。

映画の最後に登場するのが、みやこマリーンという映画館が、東日本大震災の被災者の仮設住宅を回って巡回上映を行っているというエピソードでして、集会所みたいなところに、小さいスクリーンを持ち込んでDVDを上映するというもの。フィルム映写機というこの映画のテーマからは若干はずれるのですけど、この上映会が好評なのですって。この映画では、2箇所の上映会を見せてくれるのですが、そこで上映されるのが、「男はつらいよ」と「釣りバカ日誌」だったのに納得するとともに複雑な気分になっちゃいました。子供が相手なら、アニメを上映すればいいのですが、大人を相手に、それも大震災の被災者に見せる映画って何があるだろうと思ったら、確かに寅さんとハマさんくらいしかないってのはごもっとも。その一方で、ここ10年くらいに作られた映画で、年配者に素直に楽しんでもらえる映画ってないんじゃないかなって気がしてきました。大人が気楽に楽しめる娯楽としては、映画って衰退してんじゃないのって、気がついてしまいました。

さらに、映画への興味深い視点を与えてくれたのは、ハンセン病施設のエピソードでした。政府がハンセン病患者の隔離政策をとったため、ハンセン病の療養所では、映画が数少ない娯楽の王様だったときがあり、療養所には映写機が備え付けられていたのだそうです。患者にとって、映画というものがすごく楽しみだったということが、かつての患者から語られます。

色々な映画館のエピソードをつないだだけの映画ではあるのですが、そこに描かれる映画好きな人たちの姿にほっこりさせられる楽しい一編に仕上がっています。明確なエピソードを打ち出してくることはありません。今あることを淡々と追った映画ですが、映画好きな人、映画館で映画を観るのが好きな人には、色々なことを感じることができましょう。それは、映画を観ることの喜びの再確認だったり、映画館の人々への感謝の気持ちだったり、映画を支える映写機と、映写機を支える人々の存在の発見だったり、人それぞれだと思いますが、一見の価値のある映画だと思います。

これから、10年後にフィルム上映の映画館がどれほど残っているかはわかりません。フィルムが配給されなくなってきているようですから、メジャーな映画を、フィルム映写機にかけることは難しくなっているのではないでしょうか。そんなとき、この映画を見直してみれば、たった10年前は、映写機がこれだけ使われていて、フィルムにこだわる人がいたんだということがある種の驚きをもって見られるのではないのかなって気がします。「トイ・ストーリー」で初めてデジタルシネマが紹介されたとき、まさかこんなに早く、デジタル上映が普及するとは思っていませんでした。さらに変化が続いていくとしたら、10年後の映画館はどんなふうになっているのでしょう。

「アメリカン・ハッスル」は見終わってどこか違う感、相性よくないのかな。


今回は、新作の「アメリカン・ハッスル」を日比谷のTOHOシネマズみゆき座で観て来ました。アカデミー賞10部門ノミネートという割には、この劇場では扱い悪いんじゃないのと思ったのですが、実際観てみれば、それもまた致し方ないなあって納得しちゃいました。ちなみに、この映画館は、シネスコサイズになるスクリーンが左右に広がりつつ上下に縮むので、スクリーンの枠を固定できない作りになってます。ですから、シネスコサイズのままで、ビスタ上映することもなく、映画の上映サイズに合わせてスクリーン枠が変わります。

カタギな店を経営しつつ詐欺でも稼いでいたアーウィン(クリスチャン・ベイル)は、連れ子のいる妻ロザリン(ジェニファー・ローレンス)がいるのにもかかわらず、詐欺稼業の相棒でもあるシドニー(エイミー・アダムス)と愛人関係にありました。しかし、FBI捜査官リッチー(ブラッドリー・クーパー)に目をつけられて、あえなく逮捕。しかし、4人の同業者を売れば無罪放免にするという取引に乗って、知り合いの詐欺師に目をつけるのですが、そうしたら、カムデン市の市長カーマイン(ジェレミー・レナー)につながったところから、リッチーが政治家を捕まえる方が格が上がるって盛り上がってしまい、作戦変更となります。自分の町にカジノを作って雇用を作り出したいカーマインは、アラブのシークが投資に興味あるという話にまんまと乗ってきます。逮捕されてから、ロザリンとシドニーの関係は悪化しちゃうのですが、それでも逮捕されるかの瀬戸際で何とか共闘体制。カーマインは建設中のカジノでパーティを開き、そこへアーウィンたちも招くのですが、一緒に来たロザリンが同じく招待されていたフロリダのマフィアに色目を使ったので、話がややこしくなります。できればスルーしたかったマフィアとシークが顔合わせすることになり、そこで、シークをアメリカ市民にするという話になっちゃいます。そのためには、上院議員に便宜をはかってもらわなくてはならない、そこで贈収賄を撮影すれば、議員まで引っ張れると、リッチーはさらに盛り上がります。アーウィンは、本当にいい奴のカーマインをだまし続けることに嫌気が差していましたし、マフィアを騙すと命が危なくなることも知っていました。そして、ロザリンはマフィアの若いのとねんごろになっていて、そこでロザリンが色々としゃべったことで事態はいよいよやばくなってきました。

1979年、アラブ投資家をかたった囮捜査により何人もの政治家がFBIに逮捕されました。その事件の中心人物を主人公にキャラクターを加筆して作った実録風人間ドラマです。「ザ・バンク 墜ちた偶像」のエリック・ウォーレン・シンガーと、「世界でひとつのプレイブック」のデビッド・O・ラッセルが共同で脚本を書き、ラッセルがメガホンを取りました。ゴールデン・グローブ賞3部門(作品賞、主演女優賞、助演女優賞)を受賞し、アカデミー賞10部門ノミネートってところが興味を引きます。それに、ラッセル、クーパー、ローレンスは「世界で一つだけのプレイブック」と同じメンツですから、そういう意味でも期待させるものがありました。

映画の冒頭は、アーウィン、シドニー、リッチーの3人が初めてカーマインと会って、賄賂を渡そうとするところ。ところが、リッチーが露骨に金を押し付けたのが嫌われてしまいますた、アーウィンがカーマインを説得して、シークの投資話にかませることに成功します。そこから回想シーンとなって、アーウィンとシドニーのなれそめから、躁うつ病持ちの妻ロザリンの尻にしかれている様子が描かれます。主人公はアーウィンとシドニーの二人で、二人の成り行きがドラマの中心になっている、てことに気づいたのは映画を見終わってからでした。気付かない私がアホなのかもしれませんが、これからご覧になる方は、この映画がアメリカで有名な事件をベースにしたお話であり、アーウィンとシドニーが主人公だということは知っておいた方がいいと思います。詐欺師のサスペンスコメディのような予告編に騙されてしまった私は、この映画が、実録ベースの人間ドラマだと認識するのに時間がかかって、その分、ドラマを楽しみ損ねてしまったようです。二人のドラマが主で、囮捜査が従だと認識できないと、ラストも物足りなく思ってしまうので、そこそこの予備知識は必要な映画ではないかと。

リッチーは最初は詐欺師の芋づる逮捕を狙っていたのですが、政治家が絡んできたことから、詐欺事件から、政治汚職へとターゲットがグレードアップしたことから、テンションが上がってしまい、上司の忠告を無視しての暴走が始まります。アーウィンも最初の詐欺の囮捜査から話が違うと腰が引けるのですが、結局、引き受けることになっちゃいます。相手のカーマインは地元の事を考える、政治家の鑑のような男なのですが、カジノを建てたい、お金が必要というところで、アラブの融資話に乗ってしまうのです。そんな過程の中から、アーウィン、シドニー、ロザリンの三角関係が浮かび上がってきます。アーウィンは、妻に振り回されるのにはうんざりなんですが、子供がかわいいので離婚することができない。ロザリンは、愛人と詐欺をやってるアーウィンにかまってもらえないことが不満なのか、この囮捜査でも自分の存在を誇示する行動をとってしまい、結果としてアーウィンの足を引っ張ってしまいます。シドニーは、それまで完全無欠な仕事をしてきたアーウィンがFBIに協力するのが不満で、別れを告げるものの、実際はまだ彼のことが好き。でも、詐欺師としてリッチーを取り込もうとして見せます。シドニーとロザリンが同席すると二人とも火花バチバチ状態で、お互いにアーウィンの愛情は自分のものだと思いこんでいます。そんな関係を、クリスチャン・ベール、エイミー・アダムス、ジェニファー・ローレンスが丹念に演じていまして、演技者で見せるドラマになっています。

囮捜査というのは、餌で魚を釣り上げるようなものですが、リッチーのやり方は、かなりえげつない。便宜をはかるように依頼して、相手に金を押し付けるって感じなんですよ。中には悪い奴もいるんでしょうが、最初の獲物カーマインが本当にいい奴だったものですから、アーウィンとしてはすごく心苦しくなってきます。そして、マフィアが絡んできて、マフィアもだますことになってしまったものですから、今度は命が危なくなってきた。そこで一計を案じることになるわけですが、そういうピンチの元を作ったのはロザリンなのに、彼女から「私が追い詰めるからアイデアが出るんでしょ」と言われる始末。全編をコミカルな味わいでまとめているので、ライトな話かなと思っていると、実録ドラマのネタは結構シリアスでして、そこに挟み込まれる笑いをどう消化してよいのか弱ってしまいました。きっと、アメリカ人なら楽しめるんだろうなってことは感じられるのですが、こういうジャンルのドラマを見慣れない私には、笑いをスルーして、登場人物の演技で、この映画を楽しむことになりました。事件の枠組みはホンモノでも、登場人物のキャラ設定は架空らしいので、そのギャップを楽しめれば、もっと点数上がったのかもしれません。デビッド・O・ラッセルの演出は、2時間半弱の長さを感じさせなかった娯楽度の点では見事でした。登場人物のキャラクターの見せ方については、コミカルな部分とシリアスな部分の色分けが、私には今一つすっきりしないものになってしまいました。要はコミカルな部分をどこまで真に受けていいのかわからなかったってことなんですが。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



リッチーは、マフィアに金を渡すところを録音して、収賄の証拠にしようとします。マフィアの要求は200万ドルの一時金。FBIはそれを調達し、電信振込みすることになるのですが、アーウィンたちが呼ばれた引渡しの現場はマフィアの弁護士の事務所でボスは現れませんでした。それでも、弁護士の口から悪事の確約を録音できて、リッチーはガッツポーズ。アーウィンは、カーマインに謝罪しますが、彼が罪になることは免れない状況でした。ところが200万ドルが行方不明になり、リッチーはその責任を問われることになります。実は200万ドルの受け渡しはアーウィンがでっち上げたもので、マフィアの弁護士も偽者でした。アーウィンはその200万ドルを返還することで、自分の自由とカーマインの減刑を勝ち取ります。アーウィンとシドニーはよりが戻り、子供を引き取ってまともな画商を始めます。ロザリンは、マフィアの若いのと仲良くやっているのでした。おしまい。

本当はロザリンは自殺しているのですが、この映画の中では、そこそこのハッピーエンドになっているとのこと。ラストの一芝居でも、カーマインは結局刑務所に入れられちゃうので、大逆転のカタルシスはありません。そういうゲーム的な面白さを期待すると、がっかりすることになります。あくまで、この映画の見所は事件の成り行きではなくて、アーウィンとシドニーの関係なので、ラストのトリックもあっさりと流した演出になっています。その分、アーウィンがカーマインの家に謝りに行くシーンがあるのですが、謝ったってどうにもなるもんでもないよなあって思うと、アーウィンの言い訳にしか見えないのがドラマ的にすっきりしませんでした。そこは実録ものだからということになるのですが、アーウィンとシドニーの関係に焦点を絞るのであれば、事件の成り行きはもっとあっさりと処理して1時間半ちょいくらいの映画にまとめた方が面白かったのではという気がしちゃいました。ゲスト出演的なマイケル・ペーニャとかロバート・デ・ニーロのくだりは要らなかったような気も。事件の再現と、その上に乗せた主人公二人のドラマが、トータルでドラマ盛り過ぎのように見えてしまったのですよ。シドニーを演じたエイミー・アダムスだけは、登場シーンに過不足なく、演技も的確だったのですが、後のメンツは出番多すぎな気がしてしまったのは、私だけかなあ。特に、ブラッドリー・クーパーは要所に登場して笑いをとればいいポジションなのに、彼にも厚いキャラを与えようとしているのは、なんかムダに思えてしまいました。

愛人関係から、詐欺のビジネスパートナーになったアーウィンとシドニーですが、ビジネス関係が冷却化しちゃっても、シドニーが最後までアーウィンを支えようとするあたりに恋愛ドラマの妙があったように思います。アーウィンが彼女をどう思っているのかが、今イチわからないけど、シドニーだけは彼を想っているってところがきちんと伝わってくるところに、エイミー・アダムスのうまさが感じられました。ロザリンという破壊的なキャラの儲け役を得たジェニファー・ローレンスに食われずに、存在感を見せたのは見事だと思いました。アカデミー賞の主演女優賞候補だそうですが、他の候補者次第では、彼女がオスカー取る可能性大なのではないかしら。

映画としては、最後まで退屈させないで見せきるあたりに演出力を感じたのですが、見終わってから、色々と注文が湧いてくるのが、不思議な後味になっちゃいました。何と言うのかな、「そういう映画なら、最初からそういうふうに、テキパキと見せてくれ」と思っちゃったのですよ。でも、アメリカでの評価はものすごく高いそうですから、私の注文は難癖に近いものかもしれません。してみると、この映画と相性があまりよくなかったのかなあ。役者はすごくいいと思ったし、ドラマとしてのテンポもあるんだけど、何だか悔いの残る感じ。

「伊福部昭 百年紀 コンサートシリーズ VOL.1」のサントラへのこだわりが新鮮。


2014年は作曲家伊福部昭の生誕100周年ということで、彼に関するイベントがいくつもあるようです。そんな中の一つ、「伊福部昭 百年紀 コンサートシリーズ VOL.1」に行ってきました。2014/2/1/ すみだトリフォニーホール で行われた映画音楽のコンサートです。

伊福部昭という人は純音楽の人ですが、それ以外にもバレエ音楽、舞台音楽、映画音楽などを書いています。特に大変たくさんの映画に曲を提供していまして、「ゴジラ」を初めとする東宝特撮映画の作曲家として、映画ファン、怪獣ファンから人気の高い人。1970年代後半、日本の映画音楽がレコード化される企画があり、その中の「伊福部昭の世界」というアルバムがヒットしたことから、彼の作品のレコード化が進み、彼のSF映画の音楽をまとめたSF交響ファンタジーが東京交響楽団で演奏され、その後、彼の音楽のアルバム化、コンサートなどが行われてきました。

そんな中で、今回のコンサートが特別なのは、演奏されるのがコンサート用に編曲されたものでなく、映画音楽のサントラのスコアをそのまま演奏するというところ。映画で使われたのと同じ編曲で、映画ごとの組曲として演奏されるのです。曲は映画の登場順に並べられ、映画を知っている人は、その映画を追体験できるようになっており、知らない人も映画音楽ってのがどういうものかを感じることができます。今回、演奏された楽曲は「銀嶺の果て」「ゴジラ」「海底軍艦」「地球防衛軍」、そして国鉄記録映画3本をまとめた「国鉄」となります。齋藤一郎指揮の若手音楽家から成るオーケストラ・トリプティークが演奏しています。このコンサートのために集められた100人を擁する大構成のオーケストラです。

1、「銀嶺の果て」組曲
谷口千吉監督、三船敏郎主演の犯罪ものの映画らしいです。これが、伊福部昭が最初に映画の音楽を手がけた作品なのですが、冒頭のテーマ曲から、テンション高い活劇音楽で聞かせてくれます。後年、この旋律が「空の大怪獣ラドン」の追跡シーンに使われたので、そっちの印象が強いのですが、映画の冒頭にこの曲が鳴ったら、そりゃ画面に引き込まれるだろうなって思う、つかみの音楽としては満点。その後の静かなテーマや追跡シーンの曲もうまいと思わせる音なのですが、何と言ってもテーマ曲のインパクトがお見事。静かな曲はストリングスをバックにオーボエやファゴット(かな?)といった低音木管がメロディを奏でるもので、この低音木管の演奏が素晴らしかったとのも印象的でした。

2、「国鉄」
国鉄の記録映画に伊福部昭は音楽を提供していまして、「つばめを動かす人たち」「雪に挑む」「国鉄~21世紀を目指して」の3本の音楽をまとめて、1つの組曲にしたものです。これは、彼のモチーフの見本市のような曲になっていまして、ああ、あの映画の曲が、この映画の曲がと色々と思い出される楽しい1曲になっています。ただ、映画で使われた通りに編曲しているので、細切れの感は否めませんで、パッチワークと言うか、カタログみたいな曲になっちゃいました。もともとそういう趣旨のコンサートなので仕方ないところがあるのですが、他の曲に比べると統一感が今一つという感じになっちゃうのかな。でも、初めて伊福部昭の音楽を聴く人の入門編としてはおすすめできます。自然と、それに挑む人間というテーマを明確に感じ取れる曲が並んでいますから。

3、「ゴジラ」
本多猪四郎監督による昭和29年の東宝映画「ゴジラ」はその後に続く、SF映画、怪獣映画、特撮映画の3ジャンルのエポックとなりました。「ゴジラ」のテーマは有名なのですが、意外とオリジナルに忠実な編曲、演奏がなかったため、まず、メインタイトルからして新鮮な感動がありました。曲は映画の中で使われた順に並べられていまして、大戸島の神楽も入っていますし、大戸島の嵐の夜の襲撃シーンから、フリゲート艦隊のマーチなど、映画を知るものにとっては、テンションあがる曲構成になっていまして、ゴジラ東京上陸から、アナウンサーの最期、ジェット戦闘機攻撃のシーンの曲まで、怪獣映画らしい重厚な音を聞かせた後、帝都の惨状を描写する静かな曲から、エンディングへ一気につないでしまう構成も見事でした。きちんとコーラスも入って「安らぎよ、光よ、とくかえれかし」の歌も聴けます。映画の中で、一番情感の盛り上がる「帝都の惨状」と「エンディング」をつなげたことで、音楽としてのテンションが上がりまして、結構ぐっとくるものがありました。

この間に休憩、その後、ゲストとして、LP「ゴジラ」のプロデューサー西脇氏と、特技監督の川北氏の挨拶がありました。全体の司会を担当した井上氏の司会ぶりが大変よかったです。伊福部昭への過度な賞賛もなく、映画への思い入れもない淡々とした語り口ながら、伊福部昭や映画の簡潔な説明で、このコンサートで初めて伊福部やゴジラを知る人にもポイントが伝わるのが好感が持てました。


4、「海底軍艦」
本多猪四郎監督による昭和38年の東宝映画です。海底ムー帝国が、地上を攻撃してきたのに対し、旧日本軍の空飛ぶ潜水艦轟天号が立ち向かい、ムー帝国を滅ぼしちゃうというSFものです。音楽としては、SFというよりは、ムー帝国を表現するアジアンテイストな曲と、轟天号を描写する重厚なオーケストラサウンドが聴きものになっており、戦闘シーンに流れるアップテンポの轟天号のテーマで盛り上がれる楽曲になっています。これも映画で使われた順に曲が並んでいるようでして、メインタイトルの重厚なテーマモティーフが戦闘シーンでは、編成を落としたアップテンポのものになり、さらにクライマックスはフル編成を目一杯鳴らす音になると、聴いてる方もテンションが上がってくるのですよ。ミリタリー色の濃い音楽ですが、普通の戦争映画よりもぐっとメリハリのある燃える音になっているのは、超兵器という空想の世界を描写する音楽として、自由度が高いというかハッタリが効いたからではないかしら。曲の最期は映画のエンディングで、ムーの最期にちょっとだけシンパシーを感じさせつつジャーンと終止形になります。

5、「地球防衛軍」
同じく本多猪四郎監督のよる昭和32年の東宝映画。宇宙人ミステリアンが富士の裾野に基地を作って、女性を誘拐しちゃうのですが、世界が一つになった地球防衛軍の攻撃により倒されるというSF映画です。通称「地球防衛軍マーチ」と呼ばれるメインテーマが有名でして、この組曲の中でも何度も登場します。実際にはマーチではなくアレグロというのだそうですが、確かに行進のテーマというにはテンポが大変速く、緊迫感ある戦闘シーンのバックに流れるのにふさわしい曲となっています。「海底軍艦」よりはミリタリー薄めのSF濃いめの音作りになっています。個人的に聴きモノだったのが、メインタイトル。低音のホーンとストリングスによる不協和音のような現代音楽でして、ちょっとホラー風味も出していまして、メロディで聴かせるこのコンサートでは異彩を放っていました。まさか、コンサートの演目にこの曲が聴けるとはという驚きもあり、ステージの右半分(低音楽器部)だけから音が出ているってのも異様な面白さがありました。

ここまでで、予定プログラムは終了。ところがこの後にまさかのアンコール曲が演奏されました。こういうコンサートでアンコールってあんまりないのでは?

6、「交響組曲 ゴジラVSキングギドラ」
1991年公開された大森一樹監督の東宝映画「ゴジラVSキングギドラ」に伊福部昭が音楽を担当し、それと同じくして発表されたコンサート用の曲です。モティーフ的に耳新しいものはなかったのですが、映画のサントラとはまた一味違う、独特のテンポの反復音楽になっていまして、なかなかの迫力ある音に仕上がっていました。コンサート用の曲だからでしょうか、編成の大きさが、曲の迫力にダイレクトにつながっているという印象でした。

15分前後の曲が6曲と、なかなか聴き応えのあるコンサートでした。「ゴジラ」にしろ「地球防衛軍」にしろ、有名なテーマモティーフはコンサートで演奏されてきてはいるのですが、オリジナルサントラの音にこだわったコンサートというのはこれが初めてなのではないかしら。CD音源用の録音もしていたようなので、CDが出るかもしれませんが、「SF交響ファンタジー」とはまた別の味わいがありますので、そのときは買いだと思います。

「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」は株屋のやり口を再認識できる啓蒙映画です。


今回は、新作の「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」をTOHOシネマズ川崎2で観てきました。R+18のいわゆる成人映画ということで、エッチなのも期待しちゃったのですが、そういうのはほとんどなし。ロングショットでもボカシがかかるし、エロはほとんどなし。クスリが登場する映画はR+15が相場なのですが、そっちで成人映画になっちゃったのかなあ。そういう意味では期待はずれな映画ではあります。

ウォール街の株屋のテレフォンアポインターになったジョーダン(レオナルド・ディカプリオ)は、先輩マーク(マシュー・マコノヒー)の教えに従い、クスリをきめて、客から金を出させまくることに奮闘するのですが、ブラック・マンデーによって失職。田舎町のクズ株を扱う証券会社に就職したジョーダンは再び頭角を現して、家具屋勤めだったドニーや地元のドラッグディーラーたちを集めて独立。ストラットン・オークモント社を設立して、どんどん会社の規模を大きくしていきます。豪邸を手にいれ、結婚しているのに美女ナオミ(マーゴット・ロビー)に入れあげて、妻を捨てて、ナオミと再婚。株価操作な裏でえげつないこと重ねながら、会社まるごと酒と娼婦とドラッグまみれの状態で、金を生み出しては消費する日々。それがFBIのデナム捜査官(カイル・チャンドラー)に目をつけられることになります。悪いことといいことの区別がなくなっちゃったジョーダンの行き着く先はどこ?

実在した株のブローカー、ジョーダン・ベルフォートの自伝小説をテレンス・ウィンターが脚本化し「タクシー・ドライバー」「ヒューゴの不思議な発明」のマーティン・スコシージが監督しました。証券会社をここまでシンプルに描いた映画というのも珍しいのではないのかしら。証券会社を新興宗教団体みたいな狂乱のるつぼとして描いてるってのがまずすごいと思いました。とにかく主人公はずっとクスリでラリっちゃてて、会社丸ごとドラッグまみれなのですよ。日本の証券会社も似たようなものなのかもと思えたら面白いかも。ここまでムチャクチャな世界が実話(ベース)として描かれるってのがまずすごいと思いました。うーん、やっぱり株屋なんてヤクザの仕事だよなあってしみじみ。

他人の金を株に投資させ、一度出させた金は絶対投資者に戻さないで、次の投資に使わせろというのが、先輩マークの薫陶でして、なるほどこれが株の真理だと納得しちゃいました。株で勝ち逃げは許さない、負けて全てを失うまでゲームさせるのが株屋のルールなのだというのは、目からウロコでした。人間はみなお金が欲しい、ないよりはあったほうがいい。そんなレベルから、投資の罠は始まるのだなあってのがよくわかる映画になっています。私も、他人事でなく、郵便局の投資信託で50万円溶かしてしまった前科があります。また、バブルの後期には、会社に先物取引の勧誘電話がかかってきました。バブルのはじけた後は、それがワンルームマンションへの投資の勧誘となり、最近はなりをひそめています。ジョーダンのウォール街の最初の仕事は、株の電話勧誘でした。こういう連中のセオリーが「金を出させて戻さない」ことだというのは、今更のようですが、そうなんだよなあって再認識しちゃいました。その隙間の手数料やら、価格操作で自分の懐を肥やし、自分の手元には、利潤つきの金を戻して、酒、娼婦、豪邸、ドラッグ、クルーザーと湯水のように散財するのです。なるほど、これが証券会社の本質なんだなあって、あらためて納得。こんな奴らの作り出す株価で、景気の良し悪しが左右され、サラリーマンや公務員の給料が振り回され、さらに、雇用形態が労働者に不利な方向へ持っていかれてるんだなあって思うと、腹立たしくもなります。この映画でも、株をやらないような奴はマクドナルドで働けという普通の労働を蔑視するフレーズが登場します。そういう意味では、この映画は、今更感のある社会風刺映画であり、労働者を啓蒙する映画とも言えましょう。

主人公のジョーダンは、金を儲けることに貪欲で、そして軽薄。頭の中はセックスとドラッグのことしかないように見えます。証券会社のオフィスは電話一本で、何千何万という金を動かしているので、お金に対する感覚がマヒしちゃっています。なるほど、これは我々とは住んでる世界が違うのかと思うのですが、映画の前半で登場する田舎の証券会社を見ているとそうでもないという気になってきます。この小さなオフィスでは上場されていないような、クズ株を売って、5割の手数料を取ることで儲けていました。千ドルレベルなら大取引の世界です。ここでは、普通の労働者レベルの人が勧誘電話に引っ掛かって、なけなしの金をはたいていたのです。そういう皆さんからふんだくった金を元手に会社を立ち上げて、さらに商売を広げていきます。大手株を扱いながら、おまけにクズ株を売って、儲けを得るというやり方。このクズ株というのは、いわゆるベンチャービジネスの株でして、つまり、庶民の株を庶民に売りつけて、その上前をとるというえげつない構図になっています。

そんな貧乏人の10ドル単位のお金もまとまれば、千ドル単位となり万ドル単位となります。証券会社はその一番大きな単位のところだけを見ているので、金銭感覚が庶民とかけ離れていくように思います。健全な資産運用ってのは、もちろんあるんでしょうけど、その一方で、証券会社や投資会社の甘言に操られて、一方通行の投資にはまっちゃう人もいるのではないかしら。投資が博打だというのであれば、博打は胴元が一番儲けて、その次が賭場が儲けるわけですから、投資家の儲けは、胴元と賭場のおこぼれでしかない、そして、胴元と賭場は絶対損しないようになっていることを肝に銘じておいた方がいいようです。こんなことを改めて書いてしまうのは、こういう投資話に引っ掛かるのが老人が多いからで、老人の自分が射程距離に見える年齢になってしまった今、こういうことを自分に言い聞かせておく必要があるなあって思うのですよ。

そういう、老人予備軍の懐具合とは、一番遠いところで、ジョーダンのドラマは展開します。3時間もある映画なのに、中身はファックとドラッグの嵐というのは、ある意味あきれた映画です。昔、3時間以上ある映画というと、「風と共に去りぬ」「ドクトルジバゴ」みたいな文芸大作とか、「ナザレのイエス」「メッセージ」みたいな宗教映画と相場が決まっていましたから、この映画は3時間映画のジャンルに風穴をあけたということは言えそうです。でも、3時間が妥当かというと、後半が長いという印象でした。中盤までは、狂乱の株屋の世界のスケッチ風に展開して、それはそれで面白かったのですが、後半になってFBIが絡んでドラマが動き出すと、「えー、もういいよ、今さらドラマ展開は。」という気分になってしまい、結局、3時間は長いという印象を持ってしまいました。スコシージの演出は軽妙なテンポで、エピソードを捌いていますので、これは脚本の構成の問題だと思いました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



FBIに目をつけられたジョーダンは最初は強気でデナム捜査官を挑発しちゃったりもするのですが、預金の名義人に使っていたドラッグディーラーがドニーと接触時に警察に逮捕されてやばいことになっちゃいます。さらに、裏金をスイス銀行に預けてその名義人にしていたナオミの叔母が亡くなったことで、二千万ドルがパーになりそう。そして、直接彼が関与していないベニハナのマネーロンダリングが発覚して、彼は逮捕されてしまいます。証券詐欺もろもろで20年くらいそうなところを、仲間を売ることで減刑を得るという司法取引をして、最終的に3年の懲役をくらいます。ナオミからは離婚されて、出所した彼はニュージーランドに渡り、投資コンサルタントとしてセミナーの講師をしているのでした。おしまい。

逮捕に至るまでには、一度は引退宣言して、やっぱりやめたり、ドニーを売ろうとして思いとどまったり、酒もドラッグもやめて投資セミナーやったりといった紆余曲折があるのですが、最終的には逮捕されて実刑を受けちゃいます。どうやら持っていたものを失って、それでもまだ彼のニーズが外国にあったという見せ方になっています。そこは実録だから仕方ないのかもしれませんが、逮捕の危機も切り抜けて、豪邸でドラッグまみれでウハウハな結末の方が面白かったです。何となく因果応報みたいな結末は腑に落ちるようで落ちないのは、もっと悪いことして、でも逮捕もされずに豪勢な暮らしを死ぬまで続ける奴もいるんだろうなあって気がするからです。悪銭身につかずとか、金は天下のまわりものという言葉は、金持ちが貧乏人の目をくらますための方便だと思ってい私にとっては、いやあこいつまだまだ隠し金をたんまり持ってて、ドラッグ三昧続けてるんじゃないのって思ってしまうのですよ。人間の欲につけこんで、金をかすめとってきた人間当人の欲望が尽きるとは到底思えないですし、金のことには我々より数段賢いジョーダンのことですから、きっとまだまだ次の手を打って出るのではないかと思わせるラストではありました。

レオナルド・ディカプリオは、プロデューサも兼任して、金とドラッグの亡者を滑稽に映るように熱演しています。ジョナ・ヒル以下の演技陣も、これはコメディであるかのようなバカ騒ぎ演技を見せてくれているのですが、私としては、不愉快な世界の映像化であり、笑い飛ばすには、リアリティがありすぎたようです。ホント、全部まとめて地獄に落ちろと思いましたですもの。でも、実はこういう投資の世界では絶対勝てない自分がいることに対する、彼らへの嫉妬でもあります。人間は、欲望の動物だよなあ、自分も含めて。

「さよならアドルフ」は一人の女の子の破壊と再生の物語です。


今回は、新作の「さよならアドルフ」を静岡シネギャラリー2で観て来ました。改装後は初めてなんですが、座席の前後の幅ができて、その分、スクリーンの近くまで座席が配置されるようになっていました。DCPによる上映は、メジャーシネコンと同じ画質になりまして、ここならではの見劣りがなくなったのは何より。

第二次大戦末期のドイツ。ナチの幹部の娘ローレ(サスキア・ローゼンタール)とその兄弟は、母親と一緒に郊外の農家に身を隠すことになります。ドイツの最終勝利を信じていたローレですが、どうも雲行きが怪しいようなのです。食料の調達から帰ってきて母親には暴行を受けた後があり、彼女は出頭すると言い、赤ん坊も含めて5人の子供を置き去りにして姿を消します。弟が盗みを働いたことから、農家からは追い出され、ローレは妹、双子の弟、そして赤ん坊を連れて、祖母のいるハンブルクへ向かうことになります。野宿をしながら北へと向かう5人を一人の青年トーマスが後をつけてきます。トーマスは、連合軍兵士に見咎められたローレたちを自分の身分証を見せて、弟と妹だと言って助けてくれました。ローレは食料を得るために、母親の残した貴金属を切り売りしますが、それも底をつき、いつしかトーマスと一緒に行動するようになっていました。妹や弟は彼になついていましたが、トーマスの身分証から彼がユダヤ人と知っていたローレは彼を見下していましたが、彼がいなくてはハンブルクへは行けそうもありませんでした。川を渡る交渉に行ったローレは漁師によって犯されそうになりますが、その漁師をトーマスは石で撲殺してしまいます。既にドイツはアメリカ領、イギリス領、ソ連領と連合国によって分割され、正規の道路では領間の移動ができなくなっていました。森の中を移動中、食料調達に出かけたトーマスが帰ってきたと思い込んで飛び出した双子の弟に一人は射殺されてしまいます。そして、ハンブルクへ向かう列車の中で身分証をなくしたトーマスは姿を消し、4人の姉弟は祖母の家までたどりつくのでした。

レイチェル・シーファーの「暗闇のなかで」を原作に、オーストラリアのケイト・ショートランドとロビン・ムケルジーが脚本を書き、ショートランドがメガホンを取った、全編ドイツ語の映画です。ナチ幹部の娘が戦後の混乱の中で、誰からも助けてもらえず、兄弟5人で逃げ回るというお話です。「さよならアドルフ」というと子供映画みたいですが、中身はもっとリアルで生々しい展開でして、ローレという思春期の女の子が心身ともにボロボロになっちゃうまでをハードに描いています。 それまで、総統を信じていたいいところのお嬢さんだったのが、父母と引き離され、赤ん坊含む妹弟と一緒に放り出されてしまうのです。しかし、ローレはその状況に果敢に立ち向かいます。時には赤ん坊を抱え、レイプされた死体や自殺した死体と直面しながら、身の危険も感じながら、祖母のもとに向かおうとします。でも、世間の情報はほとんど入ってこないので、今ドイツがどういう状況で、元ナチスがどういう扱いになっているのかもわからないのです。情報も衣食住も遮断された状況で、彼女は誰にも頼らずに決断をするしかないのです。

彼女には、気位の高さと、世間知らずの強みがありましたが、それがだんだんと現実によって打ち壊されていきます。隠れ家にいたとき、母親は暴行されて帰ってきます。連合軍の宣伝ポスターのユダヤ人虐殺の写真には自分の父親が映っていました。そして、総統の死。それまで、揺らぐはずのなかったバックボーンが全て壊されてしまったローレは、弟や妹のために正気を保ちます。無残な死体に遭遇しても、漁師のおやじに体をまさぐられても、強い自己を維持し続けるのです。ユダヤ人トーマスに、彼女の方から性的な挑発をかけても、主導権を男に渡すことはありません。その生きることの強さが前面に出てくる一方で、ナチスのやってきたことがわかってくると、自分の内面のバックボーンはズタズタになってしまいます。その傷を癒してくれる人はどこにもいないという悲劇。それまで信じてきたものが全て一気に失われたとき、彼女は心がすがる相手を失います。トーマスへの感情は反感から、恋慕へと、そして彼を父の代わりのように思うようになります。(はっきり、そう言ってはいませんが、何だかそんな感じ)しかし、トーマスは彼女の心を支えてはくれませんでした。それは、トーマスが冷たいというよりは、ローレがトーマスが尽してくれたことに正直に答えなかった当然の結果というふうに見えました。やはり、一緒にいたトーマスは、ローレより劣悪なユダヤ人として、距離を置かれていたのです。

この映画は単にローレがアイデンティティを失う映画ではありません。彼女は自分の周囲の状況に注意を払い、そこから得た情報を使って、自分の立ち位置、存在理由を再構築しようとします。連合軍の貼ったユダヤ人虐殺の記事を彼女なりに咀嚼しようとする姿は痛々しくもありますが、ある種の感動を伴います。性的な衝動からトーマスに体を触らせるシーンも登場しますが、全体的には、普遍的な思春期の女の子の成長を描いている点が、ヒロインへの共感を呼びます。親から刷り込まれたユダヤ人差別が抜けないリアルさとか、それでも心細さからユダヤ人青年にすがってしまうあたりなど、異常に過酷な環境におかれたヒロインの青春ドラマとして見応えのあるものになっています。また、第二次大戦後のドイツでナチがどういう扱いを受けたのかが伺える歴史ドラマとしても興味深い映画になっています。戦争が終わってみれば、同じドイツ人から「ナチスは出て行け」と言われてしまうのは、戦時中からもどこか嫌われていたのかしら。

映画の中盤は、ひたすら旅するだけでドラマが動かないので、若干退屈もしちゃったのですが、そこでローレという女の子をしっかり見せることで、女流監督ショートランドとヒロインを演じたサスキア・ローゼンタールが、ローレという女の子のリアルな息遣いを表現することに成功しています。野宿しながら旅をするヒロインたちの、手足や唇が傷だらけなのもリアルでして、タイトルで一枚看板でクレジットされるメイクアップアーティストの仕事が際立ちました。また、音楽を「サラの鍵」のマックス・リヒターが担当していまして、個性の強い音をつけていて印象的でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



トーマスは姿を消した後、弟がトーマスが逃げないように身分証を隠したことを告白します。でも、よく見れば、それは写真の顔も違う、別人に身分証でした。あのトーマスと名乗った若者の本名も国籍もローレは知らなかったのです。彼は死んだユダヤ人の身分証を奪ったらしいのです。その中には、ホンモノのトーマスと愛する妻の写真が何枚も入っていました。ローレはそれを見て、ユダヤ人を見下してきた自分に疑念を抱き始めます。一方で、ボロボロになった姉弟を迎えた祖母は、父母や総統のやったことは正しかった、今にそれがわかると言い切ります。祖母は本当にそれを信じているのでしょうが、ハンブルクへの道中で色々なものを見聞きしてきたローレはそんな言葉は信じられなくなっていました。父母や総統が正しかったのなら、自分はこんな目に遭うこともない、トーマスの殺人の片棒を担がされることもなかった筈です。自分のアイデンティティを見直す必要もなかった。でも、彼女は彼女なりに折り合いをつけようとしていました。そこへ祖母に「父母もお前も何も間違っていない」と言い切られて、ローレはプツンと切れてしまい、給仕を無視して食事を始めてしまい、行儀が悪いと言われても無視。色々と解釈できるのですが、私には、やっと自分の立ち位置を確立しつつあった彼女が、その努力を無いものにしようとする祖母への精一杯の反抗と映りました。

多感な時期に、価値観が大きく変わるイベントが発生するなんて人はそうはいないのですが、日本でも大東亜戦争敗戦直後に思春期だった人には、ローレと同じような葛藤があったのではないかと思います。この映画では、ローレの妹や弟は、状況の変化に柔軟に対応できているのですが、なまじ自我ができあがっていたローレには、その破壊と再構築のために、大きな葛藤が生じました。大人だったら、諦観と適応力が身についているのでしょうけど、多感な年頃のローレにとっては、大きな苦痛を伴う大人への階段だったようです。

「ヌイグルマーZ」は洋画やテレビでは観られない隙間商売としてありかも。


今回は邦画の新作「ヌイグルマーZ」をTOHOシネマズ川崎1で観てきました。今はこういう映画もシネスコサイズなんだなーってのが発見でした。「もらとりあむタマ子」を観て、これアイドル映画だなって思ったので、またアイドル映画が観たくなって、スクリーンに臨みました。まあ、しょこたん好きだし。

滅亡の危機にあった惑星ドムホから綿雪のような生命体がたくさん逃れて、その一部が地球にもやってきました。その一人ドゥーリア(声 阿部サダヲ)が、作家の娘響子の誕生日プレゼントのヌイグルミの熊ブースケの中に入り込みました。もう一人の生命体ディパルザ(声 山寺宏一)はいじめられっ子タケシ(猫ひろし)のアミグルミの中に入り込み、タケシと合体して怪人チャーリーに変身し、ゾンビを増殖させました。響子(市堂真央)は、母親と居候の叔母ダメ子(中川翔子)とレストランで食事中、ゾンビの群れに襲われ、母親を殺されてしまいます。ゾンビたちに囲まれた響子を救ったのは、ダメ子がブースケと合体したヌイグルマー(武田梨奈)でした。その後、響子の面倒を何くれとなくみるダメ子ですが、響子はそんな彼女をウザがるばかり。ある日、響子が彼氏に連れて行かれたセミナー、その講師はあのタケシでした。タケシが発するゾンビミストを浴びて参加者はみなゾンビ化するか、そのゾンビに食われちゃいます。響子の危機にダメ子が駆けつけるのですが、逆にとらわれてしまいます。タケシは自分の不幸をみんなに味わわせてやると、ゾンビを外に放ち、響子と結婚すると言い出すのですが、部下のビリー(武田梨奈 二役)が寝返ったことで響子は逃げ出し、ダメ子もヌイグルマーに変身することに成功します。しかし、ゾンビは高円寺の阿波踊りイベントに乱入し、噛まれた人々は次々にゾンビ化していきます。阿鼻叫喚のイベント会場に乗り込んだダメ子は得意のカンフーでゾンビと格闘を演じるのですが、その間にタケシの部下のアンドロイド4姉妹がおっぱい光線で街を破壊し始めます。タケシは怪人チャーリーに変身して、ヌイグルマーとの闘いに挑んできました。果たして、ヌイグルマーはチャーリーを倒すことができるのでしょうか。(登場人物の名前が多すぎて関係わかりにくくてすみません。)

大槻ケンヂの原作を、「電人ザボーガー」「片腕マシンガール」の井口昇と「ゾンビアス」「ウルトラゾーン」の継田淳が脚色し、井口昇がメガホンを取りました。私はこの監督の劇場用映画は初鑑賞となります。主演にアイドル中川翔子を持ってきて、彼女が変身したヌイグルマーを空手の有段者でもある武田梨奈が演じました。ストーリーは、母親をゾンビに殺された響子、その母親の妹であり居候のダメ子(本名は夢子)が和解するまでがメインでして、それに並行して、いじめられっ子タケシがディパルザと合体して、悪の首領になって世界(といっても高円寺だけど)をゾンビ化しちゃおうとうする、昔の仮面ライダー的な局地的世界征服を阻止するというお話が描かれていきます。ゾンビが町中を走り回っても、警察も自衛隊も来ない世界のお話でして、その設定を素直の受け入れて、野暮な突っ込みをいれずに物語に集中すると、これが意外と盛り上がるのですよ、クライマックスとはちょっと泣けちゃったりする映画です。

設定としては、宇宙生物がクマのヌイグルミに寄生して、動いたりしゃべったりして、そのヌイグルミが人間と合体してヒーローになるというものです。ダメ子とクマのブースケが合体してヌイグルマーになるのですが、その時の顔が、ダメ子がかっこいいと思ってしまった、悪者の部下ビリーの顔。そして、ヌイグルマーに助けられた響子が、ビリーを見て、ヌイグルマーだと思って胸キュンとなり、さらにビリーは実は女の子だったことから、百合っぽい展開になるという、かなり屈折しているというか面倒くさい展開を見せます。その妙なこだわりの部分と、大雑把なゾンビの設定とがいっしょくたになっているのが面白いと思いました。ゾンビの刹那的な登場の仕方とか、ひたすらヒーローにやられちゃうだけとか、一般市民がゾンビにされちゃってるのに、扱いは悪者のザコキャラになっちゃっています。ある意味割り切りなのでしょうけど、マジメなゾンビ映画を期待しないほうがよさそうです。まあ、アイドルヒーロー映画にマジメなゾンビものを期待する人はいないでしょうけど。

アイドル映画としては、中川翔子を何をおいても一番かわいく見せることが肝要と思うのですが、それほどにはしょこたん中心の映画ではありません。ゴスロリ面白キャラで登場するダメ子よりも、響子の方がヒロインっぽいんですよ。しょこたんにも、ボーナスカット的に彼女がゾンビとアクションするシーンはありますが、ダメ子が恋愛モードに入ることはなく、そういうのは、響子とビリーの百合ラブに持っていかれちゃってます。うーむ、中川翔子主演とは言いながらもこれはアイドル映画ではないのかな。

クライマックスはおっぱい四姉妹(これは私の勝手な命名、ゴスロリ4人組)がおっぱいぽろりして(バストトップは白ボカシ入り)、おっぱいから破壊光線を出して、高円寺の町を破壊。タケシは再び怪人チャーリーに変身して、核爆弾を背負い、爆破させるべく飛び立っていきます。ヌイグルマーは、改心したディパルザとさらに合体してヌイグルマーZに進化して、怪人チャーリーと高円寺上空でのバトルとなります。一方、ビリーと響子は、ゾンビたちを操る阿波踊りのお囃子を止めるべく、響子のギターを大音量で鳴らします。するとゾンビたちはその動きを止めるのでした。

市街地とか爆破の火柱は全てCGなんですが、これがハリウッドとは比較すべくもなく安い出来栄え。それでも井口監督の演出で結構な盛り上がりを見せます。最後は両者格闘しながら、大気圏外まで移動すると、そこに惑星ドムホから逃げてきたドゥーリアやディパルザの同胞たちが綿雪状態で、チャーリーに取り付き、核爆破を封じ込めます。おっぱい四姉妹は、タケシの部下から寝返った片腕ロリータの攻撃により、両者相討ちとなります。響子をかばったビリーはチャーリーの最期を見届けて息を引き取るのでした。そして、響子とダメ子も和解。二人でレストランで食事していると、覆面をかぶった強盗登場。そこで、ダメ子はブースケと合体してヌイグルマーに変身、と、今度は顔はダメ子のままのヌイグルマーが画面に見得を切っておしまい。

ゾンビのモブシーンもスカスカ感は否めませんし、そのメイクも顔の塗料を塗ったレベルです。ゾンビ襲撃の血しぶきはすべてCGアニメ。市街地の空中バトルもCGのちゃちさがあります。ヌイグルミのブースケのアクションは「テッド」のようなCGではなくハンドパペットです。それでも、演出がドラマを盛り上げると映画としての満足感はありますし、ラストで変身したヌイグルマーがしょこたんのアップで切って落とすあたりは、アイドル映画になっているのですよ。内容的にマニアックに走っているところがあり(そもそも中川翔子ってサブカルアイドルだよなあ)、万人向けとは言いがたいのですが、それでも細かい突っ込みを入れなければ、結構盛り上がるし楽しめる映画に仕上がっています。

音楽がほぼ全編に渡って鳴っていまして、大槻ケンジのバンド特撮のナンバーがガンガン挿入され、そこはちょっとボリウッド映画のような味わいもあります。猫ひろしや子供時代の響子役の子役のセリフ回しがあやしいといった安っぽさは何とかして欲しかったですが、その全体の安さぬるさを許容できると、意外と面白おかしな世界が開けてくるのですよ。テレビでも、洋画でも絶対観られないという隙間商売の映画ではあるのですが、隙間ファンにはオススメしちゃいますです。

「なんちゃって家族」はヤクの運び屋から始まる下品でほのぼのコメディ。


今回は新作の「なんちゃって家族」を、シネマート新宿1で観て来ました。今回初めてきた映画館なのですが、昔あった映画館が名前を変えた感じがひしひし感じられます。ビルの6階に300席以上のシネコンタイプでない劇場があるんですもの。このあたりは昔は新宿文化とか新宿ビレッジといった映画館があったんじゃなかったのかな。

マリファナの売人をやっているデヴィッド(ジェイソン・サダイキス)は、家の前でパンク野郎のアンチャンに絡まれた結果、マリファナと売り上げを奪われてしまいます。元締めのブラッド(エド・ヘルムズ)は、奪われた金とマリファナをチャラにする代わりに、メキシコからマリファナの運び屋をやれと脅されます。それも成功報酬10万ドル付きで。でも、自分一人で行ったら疑われると考えたデヴィッドは、家族旅行の形で行こうと思いつき、同じアパートの18歳のマヌケ童貞少年ケニー(ウィル・ポールター)、家賃も払えない金欠のストリッパー、ローズ(ジェニファー・アニストン)、そして家出してホームレスになっているケイシー(エマ・ロバーツ)に声をかけ、ここに仮のミラー家ができあがります。巨大なキャンピングカーでメキシコには簡単に入国、ブラッドに言われた麻薬工場に出かけ、言われたように、パブロ・シャコンの名前を出すと、何と2トンのマリファナを車に積み込まれてしまいます。それでも、車のモノを入れる全ての場所にはマリファナだらけ、何とか国境を通過するのですが、坂道でオーバーヒートしてエンスト。そこを国境通過の時に知り合った同じキャンピングカーの一家、ドン(ニック・オファーマン)とエディ(キャスリン・ハーン)の夫妻に助けられます。この二人の娘メリッサ(モリー・クイン)に、ケニーが一目ぼれ、一方のメリッサもまんざらではなさそう。修理工場が閉まっていたので、デヴィッドたちは、ドン一家と一夜をすごすことになります。一方、麻薬工場に、ホンモノのパブロ・シャコンが現れ、自分の名前をかたってマリファナを運び去った奴がいると知り、デヴィッドたちを追いかけます。最初のうちはギクシャクしていたミラー家(仮)だったのですが、旅の中で、少しずつ本当の家族のような感情が芽生えてきていたのでした。

ボブ・フィッシャーとスティーブ・フェイバーの原案をもとにショーン・アンダースとジョン・モリス、そしてフィッシャーとフェイバーが脚本を書き、「ドッジボール」のローソン・マーシャル・サーバーが監督したコメディの一編です。日本でアメリカのコメディが劇場にかかることは珍しくなってしまいました。ラブコメでさえ、DVDスルーになってしまうご時勢に、劇場公開されるのですから期待しちゃうところがあります。また、主演がジェニファー・アニストンというのも食指が動きました。彼女、テレビの「フレンズ」とかブラピの元嫁で有名なのですが、私はテレビは未見でして、アニストンと言えば「私の愛情の対象」「グッド・ガール」の人ということになります。この2本がすごくよくって、以来、アニストンは要チェックの人となったのですが、その後、劇場でお目にかかれたのは「マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと」くらいでした。今回はタイトルトップでコメディということで期待するところ大でした。サーバー監督の「ドッジボール」もバカバカしく面白い映画だったってこともあります。

デヴィッドはいい年こいても、ハッパの売人でして、それがひょんなことから売り上げ貯金を奪われてしまい、元締めのブラッドから、メキシコからのヤクの運搬を10万ドルで引き受けることになっちゃいます。ここまでの展開は、オフビートというか間を外した笑いの積み重ねで、その先の展開を期待させます。童貞少年ケニーは親が不在で、連れ出しても問題なし。売り上げを奪われちゃうきっかけになったホームレスの少女ケイシーを1000ドルで雇います。後は母親役に同じアパートのストリッパー、ローズを1万ドルでスカウトするのですが、彼女は言下に拒否。しかし、ローズは店で本番を要求され、さらに家賃の督促をきていることから、3万ドルで偽家族を演じると宣言。ここで、ミラー一家ができあがります。この辺りは犯罪ドラマのメンバーを集めるくだりをなぞっているのがおかしく、各々の役者が達者なところを見せます。アニストンはブラとパンツのカッコで何度も登場するのですが、色気は今イチだけど、均整のとれたナイスバディを見せてくれます。40過ぎてもきれいな人はきれいだよねえって惚れ惚れ。デヴィッドを演じたジェイソン・サダイキスはサタデー・ナイト・ライブの人だそうで、ベタなコメディ演技で楽しませてくれます。他の役者さんも脇役、悪役、みんなベタなコメディ演技で、ある意味、お約束な世界を作ることに成功しています。ヤクの売人ネタの割には毒のないキャラのほんわかコメディにまとまっているところが、この監督さんの持ち味なのかしら。

メキシコに入ってからも、笑いのネタをあちこちに散りばめて楽しませてくれます。爆笑というよりはオフビートな笑いを細かくつないだという形になっていまして、特にケニーのボケがおもしろく、デヴィッドのツッコミがうまくはまりました。これに、同じくキャンピングカーでバケーション中のドン一家が絡んできてさらに笑いを取ります。日本語字幕で伝わってくる会話の下品さとか、勘違いによるベタな笑いが盛り込まれ、快調なテンポでドラマは進みます。麻薬運搬という犯罪ネタがメインストーリーではあるのですが、最初は反目しあっていた擬似家族がだんだんと仲良くなっていく様は、意外やストレートにほのぼのと描いています。ドン一家の娘メリッサとうまくいかないケニーをデヴィッドが励ますあたりは普通の展開ですが、その後、ローズとケイシーがケニーにキスの指南をし始めて、交互にキスしあう絵になるとおかしな雰囲気となり、そこをメリッサに目撃されて変態一家扱いされちゃうあたりは、ちょっとだけ毒のある笑いになりますが、その毒はあくまで軽いものでして、マリファナネタで始まった物語にしては、毒や下品度はそこそこということになります。デヴィッドとローズがいい雰囲気になっていくのも予定調和として描かれていて、下ネタを除けば、ファミリー向けシチュエーションコメディに仕上がっています。それでも、R+15指定になっているのは、毒グモに刺されたケニーのタマキンがモロに映るからなのかな。まあ、日本の映倫はクスリ関係は厳しいので、マリファナ中心のドラマだから、この指定になったのかもしれません。

でも、映画全体をまとめるのは、擬似家族の絆という、しごくまっとうというか、ちょっときれいすぎなお話なんです。前半のヤクの運び屋コメディから、ファミリーコメディ風へのシフトチェンジはやや強引な感じもするのですが、子供に見せられないファミリー向けコメディってのが、意外とうまくはまりました。「テッド」も子供に見せられないファンタジーラブコメで、ヒットしたのですが、やはりコメディの受け皿の大きいアメリカだから、こういう変化球も有効なのかなって気がしました。まあ、未成年はハッパやらないですし、誰も死なない展開は、それなりのお約束を守っていまして、きちんと脇役も立てて、娯楽映画のセオリーをきちんと守っているという点は注目したいと思いました。ハッパの売人で始まる冒頭から、ハートウォーミングな方向へ落とし込む意外性が成功しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(って言っても、典型的予定調和です。)



実は一線をはずされた麻薬捜査官だったドンの一家に別れを告げ、修理工場に入ってみれば、そこにいたのは、ホンモノのパブロとその子分、殺されそうなところで、ローズが彼らの前で、一踊り披露して、そのダンスに気をとられたスキを狙って逆襲。ヤク入りキャンピングカーで逃げ出すことに成功します。ところが、途中でケニーがタマを毒グモに刺されてアレルギー症状を起こしてダウン。ケニーを病院へ運び込んで、デヴィッドが、ブラッドに電話してみれば、夜までに届ければ金を倍はずむと言われ、無理やりでも連れ出しそうとしたら、ローズとケイシーから総すかん、じゃあいいよって、みんなを置いて、一人で車を走らせるのですが、何だか3人が恋しくなって、3人に土下座してごめんなさい、で、これで家族が揃ったねと思ったら、エディとメリッサとも再会、誤解がとけそうなところで、パブロが再び登場。しかし、そこに麻薬捜査官のドンが降臨、子分をふんじばるのですが、パブロが銃を構えた瞬間、ケニーの一撃がクリーンヒット。ドンはそんなデヴィッドたちを見逃してくれるのでした。そして、ブラッドのところへ、2トンのマリファナを運び込んだデヴィッドですが、ブラッドはもともと一文も払うつもりはなかったと言ったところに、麻薬捜査官のみなさんが一気に参上、ブラッドたちは逮捕されます。ドンは裁判で証言するなら証人保護プログラムを使えると言い、そこでデヴィッド、ひらめきます。シーン変わって、郊外の家でくつろぐ、デヴィッド、ローズ、ケニー、ケイシーのミラー一家。めでたしめでたし。

ラストは出来すぎなんですけど、まあ、そういうのもありかなくらいのゆるい口当たりの展開が、お気楽なこの映画を最後まで楽しませてくれます。こまかいことは言わないで、めでたしめでたしな結末もいいかなくらいに思えればOK。決して、負け犬の逆転ドラマでもないし、ワルの主人公が改心する映画でもないのですが、いつの間にか生まれた家族の絆にテーマをしぼりきったのが、いい後味を残しました。登場したときは、バカそうなケニー、ワルそうなケイシーが実はそうじゃなかったというのも、予定調和ではあるのですが、この映画にはうまくはまりました。途中の下ネタとか、映画やテレビネタといった笑いもあって、笑って楽しめる映画に仕上がっています。エンドクレジットではNGシーンのおまけもあって、ほのぼの度が増量されてます。

「ザ・イースト」はたくさんの面白い切り口を持った映画で、観客の考える余地がかなり大きい。


今回は、新作の「ザ・イースト」をTOHOシネマズ川崎1で観てきました。最近はシネスコサイズの映画が主流となったようで、ビスタサイズの映画を観ると、特筆したくなるようなご時勢になってきました。で、この映画はシネスコサイズ。フォックス・サーチライト提供の映画で、きちんとアルフレッド・ニューマンのファンファーレが鳴ります。しかし、「ジ・イースト」にしなかったのは何かこだわりがあったのかしら。

環境テロリスト集団「ザ・イースト」は環境汚染を引き起こす企業に対しての非合法非暴力のテロを繰り返していました。民間のセキュリティ調査会社ヒラー・ブルードに勤務する元FBIのジェーン(ブリット・マーリング)は、社長のシャロン(パトリシア・クラークソン)から、「ザ・イースト」への潜入捜査を命じられます。バックパッカーのサラとして「ザ・イースト」につながる糸口を探るべく旅をするのですが、その途中で、貨車への無賃乗車で警察につかまったところを助けてくれた青年が、東向きに固定された磁石を持っていたことから、メンバーだと確信したサラは、自分で腕を傷つけて、その治療を理由に組織のアジトに連れて行ってもらいます。「ザ・イースト」のリーダー、ベンジー(アレキサンダー・スカルスガルド)は、最初は彼女を組織に入れるのを渋りますが、次の襲撃要員の女性が欠けたことから、サラを使うことにします。メンバーのドク(トビー・ケベル)は薬害の後遺症があり、若いイジー(エレン・ペイジ)はどこかとんがったところのある女性です。彼らと一緒に生活するうちに、その思想や心情に同調し始めるサラ。そして、いよいよ悪の企業へ鉄槌を下す日が来るのでした。

予告編を観たとき、カルト集団への潜入捜査を描いたスリラーだとばかり思っていたのですが、意外やその集団へのシンパシーが前面に出てくる映画でして、一方で、組織の持つ危うさは迂回することで、社会派とは一味違う、かなり奇妙な味わいの一編に仕上がっています。「アナザー・プラネット」で製作・共同脚本・主演という才人ぶりを見せたブリット・マーリングが製作・共同脚本・主演を兼任し、ザル・バトマングリが共同脚本と監督を担当しました。冒頭で、大西洋をオイルまみれにした石油王の家に忍び込み、家を廃油だらけにする映像が出てきます。金のために環境破壊をする会社の偉い人にその責任をとらせるべきだという理論で行動するみなさんです。こう書くと「ああ、シー・シェパードみたいのね」というイメージを持たれちゃうのですが、「ザ・イースト」には、行動の理由に同情できる理由を持っているところがミソでして、その当事者だから許されるかもしれないという感情を観客に抱かせることで、その集団の行動の危うさを、観客自身が実感できるところが面白いと思いました。実際に、集団の中に入ってみれば、彼らに共感できちゃう、じゃあ共感できるのであれば、その行動は許されることになるのか、そのあたりに大変興味深い問題提起のある映画です。まあ、ラストでその問題提起をチャラにするエピローグをつけちゃったのが残念なのですが、それでも切り口の面白さと展開の意外性は、単なる娯楽映画以上の面白さを持った映画だと思います。

バトマングリの演出は、ちょっと気取ったというか、いかにも若い監督らしい凝った絵作りや編集が見られます。ストーリーを語るよりも、個々のシーンの見せ方を優先したという感じでしょうか。その結果、印象的なシーンが結構ある一方で、ヒロインの感情の流れの部分は説明不足のように思えてしまいました。もっとヒロインがドラマの核となるのかと思いきや、彼女が何か「ザ・イースト」に対して行動を起こすというよりは、飲み込まれていく展開になるので、その巻き込まれ型ヒロインの心の揺らぎから確信といったものを見せてほしいなって思いました。

それでも、集団と個人、反社会的行動と正義、倫理と正義といったテーマに多くの面白い視点を提供しています。「ザ・イースト」の行動は法的には正しくないのですが、法で守られた政府や大企業の為す悪に対して、こういうテロリズム的な活動でしか対抗できないという見せ方は、最近の保守的傾向のハリウッド映画には見られなかったものです。弱いものが強いもの、金を持ったものによって虐げられるという構図は、今も昔も変わらない社会のあり様だと思っています。それに対して、「ザ・イースト」のような形で事件を起こすことで世間の目を向けさせ、悪を是正するというのが、必要悪のような形で描かれているのは、アメリカが正義のよりどころを見失っているのかなって気がしました。神とか正義は揺らがない、正義はあくまで正義なのだと言ってられないほど、個人が無力化しているのかもしれません。日本でも同じことは起こっているのですが、正義とか絶対的善という概念があまりないせいか、「仕方がない」という諦観に向きやすいのに比べると、この映画は攻撃的で、「目的は手段を凌駕する」という考えが前面に出てきています。第三者であるヒロインがそこのところで葛藤するのかと思いきや、意外と簡単に「ザ・イースト」に取り込まれてしまいます。その理由に、彼女がヒーローに惚れたからというのは、ドラマの腰を弱めてしまったように思います。理性のせめぎ合いにしないで、情に流したのは、話が難しくなりすぎるからかもしれません。

また、面白いと思ったのは、企業を糾弾するときの攻撃対象が結局は個人になってしまうこと。組織が悪いことをしたとき、その悪の根源というか実体はなかなか見えないことがあります。その組織の中の誰に責任を負わせるのが適当なのかというのは、意外と難しい問題です。日本人は、そういうのは最初からできないこととして放棄しているようなところがあります。この映画で、「ザ・イースト」が行う環境テロは、その企業に関係する人間をターゲットにしていますが、じゃあ、その企業に属している人は皆責任を負わなくてはならないのでしょうか。そんなことは実際にはありえません。じゃあ、社長なら責任を負うのか、役員は罪に値するのか、公平なジャッジは誰にもできないと思います。じゃあ、悪徳企業の誰にも責任はないのか、そんなこともありえない。このあたりのジレンマにはまると何の行動もとれない。でも「ザ・イースト」は行動を起こします。その結果を、妥当ともやり過ぎとも両方の解釈ができる見せ方をこの映画はしています。それでも、行動を起こすことは是であると立場をこの映画は取っているように思います。それを正しいと思うかどうかは、完全に観客に投げられていますから、そこから先は観た人それぞれに考える必要があるようです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



「ザ・イースト」という組織がカルト集団かというと、この映画では、否という見せ方になっています。冒頭に入団の儀式みたいなくだりがあるのですが、それ以降は、リーダーのカリスマ性に頼らない組織として彼らは行動しているようです。そして、彼らの起こした次の活動は、製薬会社のパーティに紛れ込んで、その会社で作っている薬をシャンパンに混ぜて飲ませること。実は、ドクの妹はその薬を飲んだ結果、顔が認識できなくなり自殺したのでした。ドク自身も薬が原因であることを証明するために薬を飲んで、同じような障害を持っていたのです。薬を飲ませることに成功した「ザ・イースト」はそれをネットで発表。最初は薬は無害に見えたのですが、パーティに出ていた女性副社長がドクと同じ症状が出て、環境テロはその薬害を世間に知らしめることとなります。次のターゲットとなったのは、工場から汚染水を垂れ流していた鉱業会社、その社長は、イジーの父親でした。「ザ・イースト」は、イジーの両親を拉致し、排水口の前に立たせ、貯水池に入れと脅します。母親が汚染水と知っていて垂れ流していたのを認めるのですが、そこでもみ合いとなった時、父親は自分の非を認め、水の中に身を投じます。そこへ警察が来て、メンバーは逃げ出すのですが、イジーが撃たれ、そのまま帰らぬ人となります。それは「ザ・イースト」と一緒に行動し、彼らの行動にシンパシーを感じていたジェーンにとっても大きなショックでした。そして、「ザ・イースト」は解散します。

ジェーンは調査結果を報告し、社長から高く評価されるのですが、「ザ・イースト」での体験から、恋人とうまくいかなくなってしまいます。そこへ、「ザ・イースト」が活動再会したという情報が入り、ジェーンはサラとなって再びベンジーに接触します。ベンジーが次の標的だと連れて行った場所は、ジェーンの勤める情報会社ヒラー・ブルード。そこで、調査員の情報を盗み出せと言われた彼女は、社長の目を盗んで調査員情報の画面を撮影、そのままベンジーと逃げ出すのですが、その情報を使って調査員を監視するというベンジーに別れを告げます。一方、その間に「ザ・イースト」のアジトはFBIに踏み込まれてしまいます。ドク以外のメンバーは地下室に隠れ、ドクはFBIに逮捕されてしまうのでした。そして、彼女は調査員の情報をもとに、その調査員にコンタクトを取りながら、大企業の悪事を暴露していくのでした。

ベンジーはジェーンの正体を知っていて、ジェーンのいる調査会社をターゲットにしていたのでした。しかし、彼女はベンジーのやり方についていけなくなり、別れを告げてしまうのです。ですが、ジェーンは「ザ・イースト」の精神を引き継いで、独自のやり方で、大企業の悪事を告発していくという結末です。そのエピローグはタイトルが始まってから、静止画像で示されるのみなので、わかりにくかったのですが、多分、そういう趣旨の展開だと思います。ひょっとしたら、逃げ延びた「ザ・イースト」のメンバーもジェーンの活動に参加しているのかもしれません。でも、そのハッピーエンドはやや上滑り感がありまして、そんな簡単な問題じゃないだろうって気がしちゃいました。やはり、組織をまとめあげるためには、善悪の判断を一意に決める必要がありますし、それが「ザ・イースト」の限界だという見せ方をしていたのに、ジェーンが引き継いだらうまくいきましたというのでは納得できません。ラスト1分の展開にマジで突っ込み入れても野暮なのかもしれませんが、映画が提示した興味深い視点を、エピローグで安直に切り捨てなくてもいいのになあ。

演技陣では、エレン・ペイジの熱演が光りました。最初は突っ張ったいかにも頭でっかちの環境活動家のように登場するのですが、彼女の境遇がわかってくると、その攻撃的な態度が納得できて、ちょっとかわいそうに見えてくるイジーを的確に演じてみせます。かわいいキャラから、大人の女性への変わりつつある彼女の通過点のような1本になるのではないかしら。
プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR