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「LIFE!」は平凡な主人公の冒険譚だけど、意外やほのぼの風味。


今回は新作の「LIFE!」をTOHOシネマズ日劇3で観てきました。ここは、スクリーン位置が低めで座席がフラットなので、前に座高が高い人が座るとギリ画面が欠けちゃう。壁面スペース的に余裕があるのですから、もう少し画面を上にスライドさせてくれればいいのに。

ニューヨークの雑誌「LIFE」が廃刊となり、WEBコンテンツ会社に代わることになりました。多くの社員がリストラされることになり、最終号も決まりました。長年ネガ管理をしてきたウォルター(ベン・スティラー)は、やたら空想癖のある独身中年。同じ会社の写真部にいるシングルマザーのシェリル(クリステン・ウィグ)に気があるのですが、SNSの世界でウィンクを送るのが精一杯という、あまり自分に自信が持てないタイプ。それでも、著名なカメラマンのショーン(ショーン・ペン)は彼の仕事を買ってくれていて、彼に最新のネガと共に、プレゼントとして記念のサイフを送ってきてくれました。彼の送ってきたネガの25番が「LIFE」誌の最終号の表紙を飾るのにふさわしいというメッセージが編集部に届けられたのですが、送られてきたネガには25番が欠落していました。これまで、こんな不手際がなかったウォルターとしては、何とかしてネガを探し出そうとするのですが見つかりません。ショーンは世界中を旅していて、連絡がつかないのですが、送られたネガの画像を調べたところ、欠落した25番の写真と前後してグリーンランドで写真を撮ったらしいことが判明。失われたネガを手に入れるため、ショーンに会うべく、ウォルターはグリーンランドへと向かうのでした。

ジェームズ・サーバーの短編小説をもとに、スティーヴン・コンラッドが脚本を書き、「トロピック・サンダー」「ナイト・ミュージアム」のベン・スティラーが主演と監督を兼任しています。同じ原作で過去に「虹を掴む男」という映画も作られていますが、そのリメイクというのではなく、同じ原作の短編から別のお話を膨らませたという位置づけのようです。ベン・スティラーの監督・主演作というと「ズーランダー」という傑作ナンセンスコメディがあるのですが、今回の作品はカラーとしては「ナイト・ミュージアム」に近い、ほのぼの系冒険映画ということになると思います。

主人公のウォルターは施設に入るのを待っている母親(シャーリー・マクレーン)と、売れない舞台女優の妹(キャスリン・ハーン)がいる独身中年。仕事はネガ管理という出版社の中でも地味な仕事で、気がある同僚を直接口説くこともできないで、SNSからアプローチしようとしています。そして、空想癖があって、突然、空想の世界に入り込んでしまうので、周囲から変な奴だと思われているようです。ああ、これ、何となくわかるわあってところあります。私も好きな同僚に面と向かって想いを告げられなかったことありましたし、空想の世界に逃げ込むこともありました。ただ、自分とウォルターが違うのは、ウォルターは仕事に誇りを持っていて、そしてスケボーという一芸を持っているというところ。ウォルターが無芸で、仕事もいい加減だったら、より共感できたのに、主人公をそこまでダメ人間にしちゃうとドラマが成立しなかったようです。ですから、この主人公に、ささやかな共感と、かなりの羨望を持って、映画に臨むこととなりました。

映画の中で、ウォルターは空想癖があるからダメ人間として描かれているわけではありません。自分に自信の持てない押し出しの弱い男として登場します。シェリルという女性に心惹かれるも、視線を送ることはあっても、直接想いを伝えることができません。そして、SNSのプロフィールに自分のエピソードを書くことができません。SNSの管理者であるトッド(パットン・オズワルド)との電話との会話でも、ウォルターは自分のセールスポイントを語れないのです。自分がどこで何をしてきたか特筆すべきところがない私としては、うんうんわかるよ、その感じということになります。私は日本のような押し出しが弱くても許容される文化の中だから、何とか生き延びています。でも、自分を売り込むことに腰が引けちゃうようでは、アメリカのような社会では生き残れないでしょうから、ウォルターは結構なハンディを持っていることになりましょう。それが、写真家のショーン探しにグリーンランドへ旅立つあたりから、様子が変わってきます。それまでは、日々の平凡な暮らしの中に冒険の空想が入り込むことではウォルターはヒーローとなりえていました。ところが、グリーン・ランドへ渡ってからは、非日常の世界で本当に冒険しちゃうことになります。酔っ払い操縦士のヘリに乗り込んで、そこから荒れた海の中に飛び込んでサメと格闘したり、高山地帯から下の町まで、スケボーで一気に駆け下りてみたり、火山の噴煙の中を自動車で突っ走ったり。それを電話でトッドに伝えると「すごーい」とか言われちゃう。最後には、ヒマラヤ山脈までショーンを追いかけていきます。もう完全に冒険家の行動なのですが、それはあくまで、ネガを手に入れるためという仕事の延長というのがミソ。

日々の仕事から、冒険にまで発展しちゃうところはでき過ぎな気もするのですが、スティラーの演出は、快調にエピソードを積み重ねて、2時間弱を一気に見せます。ウォルターが、コメディの主人公にしてはキャラが薄いのが功を奏していまして、冒険してるのにドラマチックにならないところに、この映画としての味わいが出ました。平凡な主人公が、非日常の世界に入って冒険するというお話なのに、全体にほのぼのタッチなのですよ。シェリルとの関係も急接近するといったドラマチックな展開はなし。主人公の平凡さの方にドラマを倒そうとしているようなのです。ところが、ベン・スティラーにあるスターオーラがそういう落とし込み方を許さないってところありまして、結局、スター映画になっちゃっています。だからと言って、本当に平凡な男を主人公にしたら、娯楽映画として成立しなくなりますから、もともと無理があるネタなのかもしれません。それでも、一本の映画として面白いですし、全体をほのぼのタッチでまとめた手腕は見事だと思いました。

演技陣では、「ブライスメイズ」で痛い三十女を熱演したクリステン・ウィグが子連れヒロインを控えめに演じてるのが印象的でした。「宇宙人ポール」といい、出る映画でガラリと印象が変わるのはうまい女優さんなのでしょう。また、SNSの管理人を演じた「ヤング・アダルト」のパットン・オズワルトの妙なおかしさも印象的でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ウォルターはネガを求めて、グリーンランドからアイスランドまで渡って、ショーンのたどった後を追っていきます。ついには、ヒマラヤの山奥まで赴き、そこでショーンと会うことに成功します。ショーンは、25番のネガは、ウォルターにプレゼントしたサイフに入ってるといいます。ところが、ウォルターはそのサイフを捨ててしまっていたのです。落胆してニューヨークに帰るウォルターですが、その捨てたサイフを母親が拾って取っておいてくれたのでした。最後の仕事として会社にネガを届けるウォルター。最後の手当てをもらいに会社を訪れたウォルターは、シェリルを見かけて声をかけます。シェリルは息子へのスケボーのプレゼントの礼を言い、二人はなんとなくいい雰囲気になります。そして、スタンド売りの「LIFE」最終号を見てみれば、表紙はネガをチェックするウォルターの写真でした。並んで歩く二人が手をつないだところで暗転、エンドクレジット。

結局、回り道して、手に入れたネガは自分の写真だったというオチはでき過ぎな気もしますが、ウォルターがシェリルとこれからいい感じになっていくという結末がほのぼのとした後味を残します。平凡でも変な奴でもなかった主人公ですが、それでも主人公の空想癖とか、SNSで同僚にアプローチするといった行動を否定的に捉えない見せ方は好感の持てるものでした。冒険前の主人公を否定的に描いて、冒険後で人が変わったとするとドラマチックになるのですが、あえてそういう大きな振れ幅を見せない演出のセンスは買いだと思いました。ウソみたいな主人公の冒険譚を、平凡な主人公の延長線上に見せたところが、この映画のポイントではないかしら。
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「地球防衛未亡人」は話のタネに観るのもきついかも。招待券お持ちならばどうぞ。


今回は新作の「地球防衛未亡人」を横浜ニューテアトルで観てきました。まだ、幕の開閉をやってる、小さな映画館。関内の2館だけ残ったうちの1つだけど、いつもそこそこのお客さんが入っているし、ラインナップも意表を突いてくるものがあったりして、つぶれないで頑張って欲しいです。

三角諸島に突如出現した怪獣ベムラス。地球防衛軍JAPのダン隊員(壇蜜)は、新婚のダンナをベムラスに殺され、その復讐のためにJAPに入隊していました。ベムラスは日本に上陸、浜浦発電所を襲撃し、ダン隊員は出撃しますが、なぜか、ベムラスを攻撃すると気持ちよくなっちゃうのでした。一方、ベムラスは核廃棄物をバクバク食べ始めました。これで核廃棄物問題が解決できると宇部総理は大喜び、ベムラスを飼いならせという指令を出します。週刊誌記者犬神(元気屋エイジ)はダンの過去を調べるのですが、そうすると彼女が古事記に登場するアメノウズメの転生ではないかという仮説にたどり着くのでした。ベムラスの危険性を感じたタマオカ長官(森次晃嗣)は、ベムラスを宇宙へ放逐しようという作戦を立て、その実行者にダンを指名するのでした。ベムラスを宇宙へ誘導するダンの飛行艇JAPヤローは後一歩のところで失敗、ベムラスは地上に戻ってきてしまいます。そして、ベムラスの体内にあった核廃棄物は異次元へとつながった空間へと流れて行ってしまうのでした。地上に激突する寸前のダンをスーパーヒーロー電エースが救いますが、電エースはベムラスの一撃で即ダウン。しかし、ベムラスと対峙したダンは服を脱ぎ捨てアメノウズメの舞を踊りだします。すると、ベムラスは興奮しすぎてついにはダウン。そして、核廃棄物はベムラスの体の中から三角諸島につながってそこに山積みになっちゃいます。これで、誰も欲しがらない土地となり、領土問題も解決したのかもしれない、のでした。

「いかレスラー」「ギララの逆襲」などで知られる河崎実が監督した脱力系怪獣コメディです。河崎実と右田昌万が共同で脚本を書きました。「ギララの逆襲」も怪獣映画ではあったのですが、ろくにセットもない中でギララがジタバタするという映像に、北の将軍様を悪役にするという、社会派のようで、実際、どうみても思いつきレベルのお話が展開する珍品だったのですが、今回も狭い特撮セットは怪獣のロングのカットが撮れないし、動き回れないレベルのすっごいお金がない作品になっちゃっています。低予算を逆手にとって、というほどのパワーもなく、低予算を順手に取ったらすごいチープな画面ができちゃいました。テレビのウルトラマンや戦隊ものの特撮と比べてもとにかく安い、劇場用映画としてこのクオリティはある意味すごい。「ヌイグルマーZ」が超大作に思えちゃったもの。

本編もほとんどセットがなくって、低予算を隠す気もない潔さ。テレビでももう少し何とかするよなあと思わせる出来栄え。映画を全体を流れるスカスカ感も、この監督らしさなのかしら。「ギララの逆襲」では、小泉総理と北の将軍様のそっくりさんが登場しましたけど、この作品では、安倍総理、オバマ、石原慎太郎のそっくりさんが登場します。中国や韓国と仲が悪くて、アメリカの犬になっている日本が登場します。オバマのそっくりさん(デンジャラスのノッチだけど)にへこへこする安倍総理のそっくりさんを笑えれば、そこそこ面白い映画になるのかもしれませんが、演技も演出も脱力感満々なので、うーん、これは笑ってもいいのかな?という気分になってきます。

壇蜜が登場するのですから、当然エロい趣向を期待するのですが、これが怪獣と戦うと感じちゃうという性癖。医者に行くと変態ですねときっぱり言われてしまうあたりはおかしいのですが、これが後半のドラマに絡んでこなくて、ただそれだけの趣向になっちゃっています。ダン隊員がアメノウズメの生まれ変わりだというのも面白い趣向ではあるのですが、なぜ彼女の舞がベムラスを倒せるのかってところは「???」。まあ、細かいことを言い出すとキリがない映画なので、広い心で「ふーん、そうなんだ」とながめているのが正解かも。

特撮ファンには、名前でピンと来る、森次晃嗣、沖田駿一、古谷敏、きくち英一といった面々が登場するのですが、みんなちゃんと演技しているように見えないのは、演出のせいなのかしら。でも、このメンツの意味がわかるのは、40代以上のウルトラファンという非常に狭いジャンルの人だからなあ。出てきてすぐ退場のヒーロー電エースも、映画の他の部分がきちんとしているのであれば、オフビートなアクセントとして印象に残るのですが、全編脱力感の映画の中では、面白くなるのは難しかったようです。

壇蜜という女優さんには、それほどの色気を感じないのですが、それでも、熟女系不思議ちゃんという新ジャンルを開拓したという意味で面白いキャラクターだと思っています。30過ぎて、乙女のような面倒くささを感じさせるところが持ち味ではないかしら。そんな彼女をお色気キャラ以上に使いこなせなかったのは、脚本の責任でしょう。お色気というならば、おっぱいも見せてくれないのは期待はずれでしょうし。壇蜜主演の他の映画と比べれば、お色気面のクオリティも低いのはなあ。

そんなわけで話のタネのつもりで劇場に足を運んでいたのですが、この映画を一文字で語るならズバリ「低」。低予算、低クオリティ、低テンション、低盛り上げ などなど、とにかくそんな感じの映画でした。ボロクソな言い方ですが、お金払った身にしてみれば、このくらいは言わせろよ、と。

「ローン・サバイバー」は海軍特殊部隊の結束を描いた戦争ドラマから意外な展開が見事。


今回は新作の「ローン・サバイバー」を静岡シネシティザート3で観てきました。最初、このタイトルを観た時は借金地獄の映画かと思っちゃいました。

2005年のアフガニスタン。アメリカ軍はタリバンの指導者の捕捉と殺害のため、レッドウィング作戦を決行します。マーカス(マーク・ウォールバーグ)、マイケル(テイラー・キッチュ)、ダニー(エミール・ハーシュ)、マシュー(ベン・フォスター)の4人は偵察隊として、山岳地帯に潜入し、タリバンのキャンプにまでたどりつきます。距離を置いて、指導者の様子を監視していると、その監視していたところに山羊飼いの親子が現れます。携帯電話を持っていたことから、彼らを縛り上げ、どうしようかということになります。彼らを殺すという選択肢も検討した上で、解放することにします。それは、自分たちの居場所を知られるリスクが大きい賭けでもありましたが、交戦規程からしても、そうすべきだということになったのでした。案の定、武装したタリバンの集団が、4人に迫ってきました。救援を呼ぼうにも無線の状態が悪くて、孤立無援の中で、闘いに臨む彼らですが、敵の銃撃によって傷を負い、形勢はどんどん不利になっていくのでした。

実際にアフガニスタンで起こった事件をもとにしたマーカス・ラトレルとパトリック・ロビンソンの原作を、「キングダム 見えない敵」「バトルシップ」のピーター・バーグが脚本を書き、監督もしています。アフガニスタンで、アメリカ兵を殺すと宣言して、実際に殺していたタリバンの指導者アフマド・シャーを殺す作戦が発動されます。実行部隊を背後において、まず偵察部隊の4人が敵地に降り、4時間歩いてタリバンの基地までたどりつくところから物語は始まります。そこにたまたま居合わせた山羊飼いの親子をどうするかということで4人は議論するのですが、彼らを解放するという結論を出します。一緒に連れていく、その場で殺してしまうという選択肢もあがるのですが、最終的にマーカスたちは自分たちが危険になることを承知の上で、山羊飼いを解放するのです。この議論のシーンはかなりギリギリのところで、どうしようかというせめぎあいが、大変リアルでした。リアルなだけに、こういうことが他にも起こって、その時は、山羊飼いを殺すという選択も実際に行われたんじゃないのって思わせるところがありました。そういう記録に残らない事件が戦場では起こっていたのでは、という気もしたのですが、そこのところはこの映画の本筋ではありません。

では何が本筋かというと、海軍特殊部隊の勇気と友情ということになります。タイトルバックは荒れた映像で、彼らの訓練の様子が描かれます。彼らの兄弟のような強い絆、結束がこの映画の前面に出てきます。エンドクレジットでは、主要登場人物の実際の映像が流れ、海軍の勇気と英雄的行動を称える映画になっています。しかし、単にそれだけの、国威高揚映画にはなっていないところにこの映画の面白さがあります。それは、映画の後半に登場するアフガニスタン人の行動にあります。彼らはタリバンとは一線を画す行動基準を持ち、伝統的文化である「パシュトゥーンの掟」に従うのです。それは「助けを求めてきたものは、犠牲を払っても守る」という文化で、彼らはその掟により、時にはアルカイダをかくまい、そして、この時はアメリカ兵を守るのです。タリバンに逆らうことは命にかかわることなのにも関わらず、そのアフガニスタン人はアメリカ兵を保護し、彼の手紙を基地まで届けてくれることまでしてくれるのです。この映画がアメリカ兵の勇気と連帯意識を称えるための映画という体裁を取りながら、その愛国的視点とは別のところで、アフガニスタン人の勇気を称える映画になっているというのが面白いところです。愛国心ばりばりの観客を呼び込んでおいて、別の価値観を見せてやれという仕掛けが、どうも狙ってやっている節があるのですよ。

脚本、監督のピーター・バーグという人はなかなかの曲者でして、「キングダム 見えない敵」でも、サウジアラビアに乗り込んだアメリカの調査官の活躍を見せる一方で、サウジアラビアからの視点も盛り込んで、世界の警察アメリカが相手国からどう見えるかなんてことをきちんと描いちゃっていました。バカ映画っぽい「バトルシップ」でも、アメリカとイラクの関係を宇宙人と米軍の関係に置き換えた構図を見せてくれてます。どっちにも共通しているのは、アメリカは絶対正義じゃなくって、その相手側の事情もあるんだよという視点です。この映画でも、アフガン人が全部タリバンじゃないし、アメリカ兵を助けてくれるアフガン人もいて、彼らはタリバンのことを嫌っているのですよ。タリバンにもアメリカ軍にも与しないアフガン人の正義は、アメリカと利害が一致するものではありません。でも、そのアフガンの正義は追い詰められたアメリカ兵を命がけで助けてくれるのです。こういう人たちがいるということを知らせるためにこの映画は作られたのではないかしら。

タリバンの襲撃を受けてからは銃撃戦が延々と続く構成になっています。敵はまるでゾンビの如くいくらでも出てくるところは「ブラックホーク・ダウン」を思い出させるところもありまして、ここを突っ込まれるとタリバンを人間扱いしてないって弱みも出てきますが、バーグの演出は、徹底してアメリカ兵の視点でドラマを展開していますので、当事者からすれば、そういうふうに見えるだろうなってことは言えるでしょう。アメリカ兵4人とタリバン兵の位置関係もよくわからないで、ひたすら銃撃戦のみ。その中で、4人はどんどん負傷して手負いの状態となります。基地の方では、連絡が来ないので待機状態だったのですが、一瞬つながった衛星電話で、彼らが危機的状況であることがわかります。しかし、その位置がつかめないでいました。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



負傷したマイケルは、残った弾丸をマーカスに渡し、高地に上って衛星電話をかけて、基地に自分たちの位置を知らせ救援を呼びますが、敵兵の標的になってしまい狙撃されて命を落とします。そして、ダニーとマシューも敵兵によって射殺されてしまい、生き残ったのはマーカスだけとなります。そこへ救援ヘリがやってくるのですが、攻撃ヘリの援護が得られなかったため、敵の対戦車砲を受けて墜落、残った1機も退却せざるを得なくなります。遅れてきた攻撃ヘリも生存者を確認出来ないまま、帰還してしまいます。そして、逃げ延びたマーカスは、通りがかったアフガニスタン人に助けられ、彼らの村へ運ばれ手当てを受けます。そこへ、タリバンがやってきて、マーカスを引き出して殺そうとした時、彼を助けたアフガニスタン人が銃を発砲し「客人に手を出すな」とタリバンを追い返しました。一方、マーカスの伝言を受け取ったアメリカ軍は村へヘリを飛ばします。しかし、タリバンが再び襲ってきて、銃撃戦となり、マーカスの恩人の命も危機となります。間一髪で、武装ヘリが到着してタリバンを蹴散らし、マーカスの救出に成功するのでした。

追い詰められた4人が仲間を助けるために順番に犠牲になっていくあたりは、タイトルバックの海兵隊の描写から予想がつくのですが、その後にさらにマーカスが現地人に命を助けられるってところは意外性がありました。なぜ、そこまでして、彼らがマーカスを助けるのかが、マーカスにも理解できないってところにリアリティがありました。「パシュトゥーンの掟」は、エンドクレジット前の字幕でちょっとだけ語られるのですが、それでは説明不足のように思えました。私はパンフレットの説明を読んで、そういうことなのかと納得しましたが、せめて、映画の冒頭で、アフガニスタンには「パシュトゥーンの掟」という文化があるという前フリがあってもいいように思いました。まあ、演出としては、マーカスの驚きを観客にも共有させようとしたのだとは思いますが、驚いてるまんま映画が終わっちゃったのは微妙な後味を残しました。

とは言え、海軍の結束を描いた映画だという前振りで始まって、異文化の勇気で締めるという構成はアメリカ映画には珍しい切り口と見せ方になっていて、面白い映画に仕上がっています。正攻法の感動でラスト近くまで引っ張って、その後にもう一つの感動を持ってくるあたりはうまいと思いました。

新しい「ロボコップ」はストレートなヒーローものとして楽しめます。


今回は新作の「ロボコップ」を静岡シネシティザート7で観てきました。オリジナルの「ロボコップ」からもう四半世紀以上たっていると知ってびっくり。そりゃ、観る方も年取るわけだわ。

ロボット産業で稼ぐオムニコープ社の警察ロボットはイラクで平和維持活動に貢献していました。ロボットによって安全に監視されるテヘラン市民の映像が全米に流れ、警察ロボットは早急にアメリカ国内でも適用されるべきだとキャスターのノヴァック(サミュエル・L・ジャクソン)が力説しています。しかし、ロボットに生命の安全を任せることには危惧の声の方が多い中、オムニコープ社のCEOセラーズ(マイケル・キートン)は警察ロボットの国内導入の世論を得るために人間とロボットの合体を画策します。その時、デトロイト警察のアレックス(ジョエル・キナマン)が銃の密売組織に襲われ瀕死の重傷を負い、オムニコープ社に運び込まれます。妻のクララ(アビー・コーニッシュ)の承諾を得て、ノートン博士(ゲイリー・オールドマン)の指揮のもと、彼は体のほとんどを機械に置き換えられ、ロボコップとして生まれ変わります。意識を取り戻したアレックスは自分の変わり果てた姿にショックを受けますが、それを受け入れ、警察ロボットとしての訓練を受けるようになります。しかし、どうしても人間の感情が判断力を鈍らせるのでした。そこで、ノートンは、アレックスに戦闘モードでは感情よりコンピュータの判断を優先させる回路をとりつけ、ロボコップはお披露目となります。彼のずば抜けた犯罪者摘発能力によって、世論は警察ロボットもありなんじゃないのって方向になびいていくのでした。

1987年のヒット作「ロボコップ」のリメイクです。オリジナルは犯罪都市デトロイトで惨殺された刑事がロボコップに改造されて、過去の記憶を微かに残しながら悪党をやっつけていくうちに、自我がよみがえるというお話でラストの「マーフィ」という決めゼリフが印象的でした。また、当時のアクション映画の悪趣味部分を拡大した残酷描写など、ポール・バーホーベン監督の悪意満載のパワフルな怪作に仕上がっていました。今回はそのリメイクということなのですが、脚本に「007 慰めの報酬」のジョシュア・ゼトゥマーに加えて、オリジナルに参加していたエドワード・ニューマイヤーとマイケル・マイナーがクレジットされています。監督にはブラジルからジョゼ・パジーリャが抜擢されていまして、この人、社会派映画の実績があるそうです。

冒頭で、警察ロボットにより制圧されたテヘランの町が報道番組として映ります。武装ロボットが、町行く人を呼び止めては武装してないかスキャンしていくという絵を、キャスターはロボットによって平和に治安が守られている町として紹介します。そこへ、武装した市民が現れます。彼らは、殺される市民の映像を世界に流して、この惨状を伝えようとしているのです。その市民の息子がナイフを持ってロボットに立ち向かった時、ロボットは少年を射殺します。ロボットはプログラムされた通りに忠実に動きますので、躊躇も葛藤もありません。それを危惧してロボット警察の国内導入を阻止しようとする勢力に対して、ノヴァックやセラーズのようなロボット警察による秩序と平和を称揚する勢力がいるという構図になっています。そんな構図の中で、ロボット警察推進派が、世間の反対を和らげるために、人間とロボットの融合したサイボーグを作り出すことになるわけです。事故で身体欠損した人の精巧なロボット義手や義足などを作ってきたノートン博士の研究が適用されることになります。テレビ番組で、視聴者をロボット警察賛成へとアジテートするノヴァックという男が、専制為政者のパロディとして描かれているのが面白いところです。ノヴァックはドラマへは直接絡んで来ないのですが、この映画の中では一番の悪役というポジションになっています。

ロボット警察は、過ちも不正も犯さないというのは、実はそれを動かす人間次第だということを、推進派はわざと避けて、ロボット警察にもたらされる秩序や平和を強調します。どんな、コンピュータであれ、システムであれ、その動きを決めて、指令を出すのは人間ですから、そこに不正や悪意がいくらでも入り込む余地があり、システム化されればされるほど、その軌道修正が効かなくなり、一部の指導的人間の思い通りになってしまうのです。そういう怖さを、この映画はシリアスに、そしてコミカルな語り口で伝えてきます。

オリジナルと今回の大きな違いはロボコップが最初から生前の記憶を持っていて、その人間的な感情ゆえに開発者の想定外の思考や行動をとってしまうというところ。そのため、アレックスの感情を殺すような操作をしたりして、主人公が人間とロボットの間を行きつ戻りつするというところが新機軸です。脳を手術されて、感情を制御されてしまうアレックスなのですが、最後には感情の力がコンピュータに打ち勝ち、自分の意思で判断し行動するようになります。そこに、生身のヒーローものらしさがあると言えまして、なかなかの盛り上がりがありました。ロボコップには、ロボットとしての行動の制約があるのですが、ヒーローの正義感がその制約を乗り越えるという趣向もあり、根性と気合のヒーローになっているのは、日本人にも受け入れやすい展開と言えるのではないかしら。

パジーリャの演出は、最近のアメコミ映画の悩むヒーローではなく、ストレートに熱いヒーロー像を作り出すことに成功しています。風刺的な作りになっている部分と、熱いヒーローものの部分は、水と油になっているところもありますが、欲張った趣向の娯楽映画として、なかなか面白くできていました。オリジナルにあった毒気が少な目なので、比較して物足りなさを感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、これはこれで、見応えのあるドラマにまとまっていると思います。

演技陣では、曲者、ゲイリー・オールドマン、マイケル・キートン、ジャッキー・アール・ヘイリーが各々のポジションで適役適演を見せてくれています。残念だったのは音楽で、タイトルバックにオリジナルのベイジル・ポレドゥリスのテーマをそのまま使っているのですが、ペトロ・ブロンフマンの音楽は、ドラマの要所でそのテーマを使うわけでもなく、それに代わる新しいテーマモチーフも持ち込んでくれなかったので、最近の活劇映画のよくあるパターンでしかなかったのは物足りなかったです。



この先は、結末に触れますのでご注意ください。



アレックスの頭の中にはデトロイト警察のデータが取り込まれ、それに基づいて犯罪者検挙が進むのですが、ある日、捜査に向かう彼の前に妻が立ち塞がり、息子が父親が殺されかかった事件から立ち直っていないと訴えると、自分が襲撃された事件の捜査を始めます。それは、セラーズやノートンにも想定外のことでしたが、アレックスは、容疑者を追い詰め、その銃から、犯人につながっている刑事を割出し、本部で彼らを追い詰め、一人を射殺、もう一人を逮捕し、さらに黒幕の本部長の前に詰め寄ったところで、遠隔でシステムダウンさせられてしまいます。セラーズは警察内部の汚職を、ロボット警察推進のネタに使おうとします。ただ、ロボット警察が認可されてしまえば、半分が人間のアレックスは用無しとなります。そこで、アレックスを破壊しようとするのですが、それに気づいたノートンは、彼を逃がします。セラーズは、オムニコープ社で、クララに夫のアレックスは死んだと伝えるのですが、そこへアレックスがやってきます。警察ロボットたちによってボロボロにされるアレックスですが、彼の相棒だった刑事の援護もあって、アレックスはヘリで逃げようとするセラーズの前に現れます。しかし、セラーズの体にはレッドマークというロボコップが攻撃できないマークがついていて、銃を向けられません。しかし、セラーズがアレックスの頭に向けて発砲したときと同時に、アレックスも発砲しセラーズは倒れるのでした。ノートンが議会で、一連の経緯を証言したことで、ロボット警察の話はオジャンとなりますが、アレックスは政府機関によって修理され、再び妻と息子の前に姿を現すのでした。そして、ノヴァックは、このニュースを苦々しく報じるのでした。

クライマックスは、自分を破壊しようとしたセラーズを殺人未遂犯として逮捕しようと、オムニコープ社に乗り込むのですが、そこの警察ロボットやセラーズの部下の攻撃を受け、ボロボロになりながらもセラーズに迫るというのが、なかなかに盛り上がる見せ場になっています。ラストは、結局アレックスはどうなるのかというのはわからないのですが、まあ多分ロボコップをやり続けることになるのだろうなという見せ方になっています。そういう意味では続編意識しまくりの結末になっているのですが、まあ、続編はないだろうなあ。

「ダラス・バイヤーズ・クラブ」は実話としての見応えはあります。


今回は新作の「ダラス・バイヤーズ・クラブ」をヒューマントラストシネマ有楽町で観てきました。最近はここでかかる映画はチェック要が多くてすっかり常宿状態です。

1985年のアメリカ、電気技師でカウボーイでもあるロン(マシュー・マコノヒー)は、女とクスリやり放題の日々だったのですが、仕事中に倒れて病院に運ばれ、そこで血液検査を受けたら、HIVの陽性だと診断されてしまいます。いわゆるエイズで後30日の命だと宣告されてしまうのです。最初は本気にしていなかったロンですが、図書館でエイズについて調べていくうちに自分がヤバい状態にあることを知り、新薬についても勉強して病院に試験中のAZTを使わせろと言って、医師のイブ(ジェニファー・ガーナー)に断られてしまいます。そこで、病院の清掃係を買収してAZTを不正入手して命をつなぐのですが、持ち出しも限界と言われ、紹介されたメキシコの病院へ行ってみると、そこでアメリカで認可されていない薬がいっぱいあって、アメリカで製薬会社やFDA(米国食品医薬品局)がすすめるAZTは深刻な副作用があることを知ります。そこで、ロンは、アメリカで未認可の薬を密輸して、エイズに苦しむ人に売るという商売を始めます。薬を売ると法に触れるので、会員制のクラブにして会費を払った会員に無料で薬を配布することにしたのです。そして、ダラス・バイヤーズ・クラブを立ち上げ、多くの会員を集めるのですが、当然、当局に睨まれることになってしまいます。それでも、彼は病院で宣告された30日を過ぎても生き続けて、多くの人に薬を提供し続けるのでした。

アカデミー賞の主演男優賞(マシュー・マコノヒー)、助演男優賞(ジャレット・レト)、メイクアップ賞(ロビン・マシューズ)を受賞した作品です。実在したロン・ウッドルーブの半生をもとに、クレイグ・ボーデンとメリッサ・ウォーラックが脚本を書き、「ヴィクトリア女王 世紀の愛」のジャン・マルク・ヴァレが監督しました。時はエイズが世界でクローズアップされてた1980年代後半。主人公のロンは、ゲイなんか大嫌いな女遊びにクスリ大好きなおっさんでした。それが、どういうわけかエイズに感染してしまい、後30日の命と宣告されてしまうのです。最初は最新の薬を使わせろと病院にねじこみ、それがダメとわかると清掃員を買収してかすめとりと、生への執着を見せつけるのですが、メキシコの病院で無免許ドクター(これがお久しぶりグリフィン・ダン)から、抵抗力にはビタミン大事とか色々レクチャーされ、その薦められた薬がアメリカで認可されていないと知って、自力で運び込んで、エイズで苦しむ人に売り始めるですよ。これがFDAというお役所と軋轢を起こしてしまうことになります。大手製薬会社のAZTが認可されるのに、他のもっと安全な薬が認可されない状況に個人のレベルで反旗を翻すのですよ。当人が余命宣告されたエイズ患者で、その余命をとっくに過ぎたのに、自力で薬を集めて生き延び、さらに同じ病気を持つ人に薬を供給するというドラマチックな構図のお話になっています。

主演のマシュー・マコノヒーは体重を最大21キロ落として撮影に臨んだということで、そのガリガリの体にびっくり。何もそこまでしなくても、モーション・キャプチャーで何とかなるとも思うのですが、多分、俳優が減量した方が安くつくんだろうなあ、つまるところは。でも、マコノヒーは生への執着と商売っ気、さらに商売っ気を超えた男気を見せる主人公を熱演しています。彼の病友というべきレイヨンをジャレット・レトが全編女装で好演していまして、この二人がアカデミー男優賞を持っていっちゃったのはなかなかすごいことだと思います。とはいえ、個々のシーンのテンションは大変高いのですが、エピソードが細切れなので、大きな感情のうねりまでには至らなかったのは残念でした。実録ものの限界なのかもしれませんが、ある時点時点のエピソードをつないでいく構成なので、あるシーンと次のシーンが有機的につながってこないのですよ。シーンが積み上がっていくという感触に乏しいと感じたのは、ひょっとしたら私の感性が鈍っているのかもしれません。でも、ジャン・マルク・ヴァレの演出は、前のシーンがあるから、このシーンの情感が盛り上がるという見せ方をしてないように思います。それまでずっと女装していたレイヨンが、男の格好をして父親に金の無心に行くシーンなどは、見せ方次第では大変感動的なシーンになったと思うのですが、ドラマとしての盛り上がりが今一つに感じられたのは、演出がエピソードをたどることに徹してしまったからではないかと思いました。

そうは、言っても、この映画は、ロンとレイヨンの友情がドラマの軸になっています。ゲイが大嫌いだったロンがレイヨンと知り合うようになって、その偏見がなくなっていく様子、なかなかクスリをやめられないレイヨンをいさめるロン、そして、弱っていくレイヨンに見せるロンの想いなどが、個々のエピソードの中で丁寧に語られていきます。結構泣かせる要素も入っているので、その相互のエピソードによりつながりが感じられたら、もっとよかったのになあって印象でした。

もう一人、ロンの心の友というべき、女医のイブを演じたジェニファー・ガーナーが不思議な存在感を見せました。女版フォレスト・ウイテカーかって思う困り顔キャラなんですが、医師としての倫理感を持ちながら、その倫理を逸脱するロンに共感もしてしまうイブという女性が、ドラマの中でロンと対等な関係になっているのですよ。好意を持ちつつ距離感を保っている感じが、ある意味、リアリティがないようにも見えて、面白いキャラクターになっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



メンバーもどんどん増えていくダラス・バイヤーズ・クラブですが、FDAによって摘発されてしまいます。国とFDAを逆に告訴してみたりもするのですがあえなく敗訴。意地でもクラブを続けようとするロンは赤字も辞さないで薬の供給を続けるのです。そして、最終的にFDAは法廷でクラブを押さえ込むことに成功します。法廷から肩を落として帰ったロンをクラブのメンバーは拍手で迎えるのでした。その後、FDAは彼の使っていた薬に認可を出すようになります。彼は死亡宣告を受けてから、7年間生きて、1992年に息を引き取ったのでした。しかし、今もエイズと闘う人々がいて薬の開発も進められているのです。おしまい。

この他にも、ロンが薬の調達に行ってる間にレイヨンの容体が悪化して病院で還らぬ人となるエピソードも入り、かなりのドラマが盛り込まれた内容になっています。その中で、病院の医師を徹底して悪役にしているのは意外な感じもありました。FDAの薦めるAZTを使うことで、免疫の弱った患者はさらに状態が悪くなるのに、処方し続けるからだということになるのですが、病院と製薬会社、そしてFDAの3者の関係がどうなっているのかは、もう少し説明して欲しいと思いました。ホントにそんな単純な悪役なのかなって気がしてしまって。

映画としては、力作であると思うのですが、では面白いかというと、個々のエピソードの羅列から、流れる物語が見えて来なかったので、娯楽映画としては微妙なところだと思います。それでも、ロンのようなエネルギッシュな人間が、お役所と製薬会社を敵に回して闘いを挑み、多くの命を長らえることに成功したという事実は記憶にとどめておくべきだと思いました。大きなモノに巻かれる前に、何かできることがあるかもしれないという希望を、垣間見せてくれる映画と言ったら、ほめ過ぎかしら。

「少女は自転車にのって」は自由なヒロインのがんばりがかわいい。


今回は旅行の途中で、「少女は自転車にのって」をジョイランドシネマ沼津で観て来ました。300席程度の劇場でスクリーンも大きく、昔ながらの映画館の趣を残す、映画鑑賞にはうれしい劇場です。たまたまサービスデーで1000円だったのも得した気分。ただ、映画が地味だったのか、土曜日の初回なのにお客さんが私も入れて3人だったのがもったいない。東京だったら、このサイズの劇場では観られない映画なので。

舞台はサウジアラビア、10歳のワジダ(ワアド・ムハンマド)は女の子だけの学校に通う元気な女の子。近所の男の子アブドゥラ(アブドゥラルフマンアル・ゴハニ)と何となく仲がよくて、アブドゥラは自転車を持っていて、ワジダは自分も自転車を買って、競走してやろうと思っています。そこで、手作りミサンガを売ったり、上級生の密会の仲介をしたりしてお金を稼ぐのですが、なかなか自転車の代金800リヤルに届かない、母親(リーム・アブドゥラ)にお願いしてみれば、女の子が自転車乗るなんてとんでもないとけんもほろろ。母親は運転手を雇って3時間かけて通勤しているのですが、運転手の態度があまりよろしくない。さらにワジダの父親は、実家に言われて第二夫人を迎えようとしています。そんなとき、学校でコーラン暗唱コンテストが開かれることになります。賞金はなんと1000リアル、これまでコーランの勉強はまるでやる気なかったワジダですが、宗教クラブに入って、熱心にコーランに取り組むようになります。そして、家ではアブドゥラの自転車を借りて、練習を始めるワジダ。 そして、コーラン暗唱コンテストの日がやってくるのでした。

映画館の設置が禁止されているサウジアラビアの女性監督ハイファ・アル・マンスールが脚本を書いて監督もし、サウジアラビアで撮影された映画です。ヴェネチア国際映画祭やロサンゼルス映画祭でも賞をとったそうです。ワジダという女の子が、封建的なイスラム教の制度の中で、元気にそして自由に生きていく様を描いています。また、現代のサウジアラビアの様子が描かれているという点でも異文化に接する機会として、この映画は観る価値があると言えます。女性監督の視点で描かれているということもあるのでしょうが、女性は、男性と比べて低い立場に置かれている状況が浮かび上がる構成になっています。女の子は男から一歩引いた立場を求められ、ワジダの父親は、実家で二度めの結婚をさせられそうですが、母親はそれを止めることはできませんし、ダンナはそのことに逆らいもしません。それが当たり前の文化なのだろうなって思わせるものがあります。一方、母親は車で3時間の遠距離通勤を運転手を雇って通っているのですが、その運転手とうまくいかなくて、ワジダもその運転手が大嫌いみたい。ワジダは、他の子供に比べると考え方が自由で、そのことに後ろめたさを感じていません。母親も、サウジアラビアの中では好きなことを言うタイプの女性らしいので、その母親のもとで、育てられたことが彼女に自由の気風を与えているようです。

でも、ワジダという少女は、おしとやかないい子ではありません。ロックやラブソングを聴き、スニーカーを履いて、他の子とはちょっと違うところがあります。サウジアラビアの社会では、女性が男性に声を聞かれることは、肌を見られるのと同じことだそうで、女の子は笑い声を男性に聞かれることも許されないのですって。昔の日本にも似たようなところがあったようですから、決して他人事の文化ではありません。さらに、ワジダの父は、奥さんがいるのに、第二夫人との縁談が進められちゃっていて、父もそれを拒否できないのか、したくないのか、断らずにいます。素行が悪いと思われた娘は、おかしなことになる前に嫁がせちゃえという話も登場します。生まれた時はそういう文化にいれば、それが標準になってしまいます。標準を逸脱した行動を取るのは、異端とか不良とか悪い子とか言われてしまいます。でも、文化の標準が異なる人から見れば、女性がそこまで男性から区別された扱いを受けることはおかしいということになります。女性の自由がない世界を客観的にながめれば、そこから逸脱することは正しいこととみなされるでしょう。

まわりくどい言い方をしましたけど、この映画のワジダという女の子は、女性の地位が低い社会の中で、普通の女の子より自由であり、古い封建的な文化を打破する希望のように見えます。だからこそ、あちこちの映画祭で評価されているということが言えるのですが、見方を変えると、守るべき伝統や文化を否定しているとも言えます。私は、この映画に出てくる女性の扱いは、女性が外ではヒシャブで顔を隠さなくていけないという文化も含めて、女性差別だよなあって思ってしまいます。でも、イスラムの人にとっては当たり前のことなんだろうなあって考えると、どっちが正しいのかは、それほど明快でないのかもしれません。日本だって、大相撲の土俵に女性が上がってはいけないとか、女性の天皇はダメだとかいう人がいるわけですから、何が伝統で、何が差別かという判断基準は、その人が生きてきて多く接してきた文化によって決まってしまうのです。そういう意味では、この映画は、伝統にのっとった保守層にケンカを売ってる映画だと言えましょう。その見せ方はコミカルで小気味よいので、無意識に正しいことのように受け入れられそうですが、では、サウジアラビアの女の子がみんなワジダみたいだったらいいのかと言えば、それはまたどうかなあって気がします。たくさんいる女の子の中にワジダみたいな女の子がいてもいい、ワジダみたいな子を認めて受け入れられる社会がいいなあってところまでは、多くの人が合意できそうなのですが。

面白いと思ったのは、近所のアブドゥラという男の子。ワジダが好きなせいで、ちょっかいを出すのですが、逆に彼女にやりこめられれも、彼女と付き合いを続けます。好きなことを言ってるワジダに対して、アブドゥラはやさしいのですよ、自転車も貸してあげるし。二人でいると、主導権をワジダに握られちゃうのですが、それでも不満そうに見えないのは、やっぱり惚れた弱みなのでしょう。彼はドラマの中で唯一、彼女の理解者として登場しますが、男性優位社会の中で、アブドゥラみたいな男性もいて欲しいという作り手の希望のようなものを感じました。この男の子がいい味出しているのですよ。マンスールの演出は、ワジダが社会と対立する構造にせず、自由を自然に体現する演出で、社会構造への批判をしなやかに着地させることに成功しています。若い世代が、新しいサウジアラビアの文化を作っていくのだという希望を描いたのか、すでにサウジアラビアで男女平等の意識が芽生えつつあるのか、そのあたりはこの映画からはわからないのですが、少なくとも、それまでの枠にはまらないワジダのような世代から自由の風が吹くというメッセージは伝わってきました。



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ワジダは、懸命にコーランを暗記し、抑揚のつけ方は母親のレクチャーを受け、コンテストに臨みます。そして、決勝に勝ち残り、最後は優勝を勝ち取ります。校長に賞金の1000リアルをどう使うのか尋ねられ、素直に「自転車を買います」と答えると、賞金はパレスチナの同胞へ寄付するのがいいですよねって結局賞金はもらえませんでした。そして、家に帰れば、父親が実家で祝言を挙げています。母親は「これでもう二人きりね」とワジダを抱き寄せます。母親が示す先には、彼女が欲しがっていた自転車がありました。翌日、遊んでいるアブドゥラのところに、自転車に乗ったワジダがやってきます。二人で競走を始めると、ワジダがぐんとリード。自転車を止めた彼女の絵から暗転、エンドクレジット。

この映画が、映画館のないサウジアラビアで公開することがあるかなってところが気になりました。保守層の人が見たら不愉快に感じるのかなあって思いつつ、劇場のないサウジアラビアの監督としては、サウジアラビアの空気を世界に発信したかったのかなって気もしました。音楽を「サラの鍵」のマックス・リヒターが担当していまして、中近東風サウンドとアンビエント風サウンドの両方でドラマに不思議な空気感を与えています。また、この映画、ドイツとサウジアラビアの合作とあるのですが、スタッフにはドイツ名前の人がたくさんクレジットされています。

「空気の無くなる日」は今の時代だから見直す価値があるかも。


HDDの整理をしていると、未見の録画を発見することがありますが、そんな中に「空気の無くなる日」という映画がありました。昭和24年の映画だそうで、1時間弱の中篇映画で、劇場公開されたのは昭和29年ということでした。

明治42年の北陸のとある村でのお話。当時、ハレー彗星が地球に接近するというニュースが世間をにぎわわせていましたが、その村の小学校の校長が、郡役場で、その彗星が地球に接近する影響で、5月20日の正午から5分間だけ空気がなくなるという話を聞かされます。最初は、そんなバカなと思う校長ですが、郡のお役人たちの新聞片手の力説に説得されてしまいます。そして、学校に帰って、先生たちに話をするのですが、先生たちも半信半疑。それでも、空気のなくなる5分間を乗り切るための訓練をせにゃならんということで、生徒たちは桶の水に顔をつけて息を止める練習を開始します。その話が村中にひろまって、さらに空気のない5分間を乗り切るためには自転車のタイヤのチューブに空気をつめて、それを吸えばよいということになり、金持ちの地主一家は大金をはたいてチューブを買い占めてしまいます。貧乏人の家には当然行き渡るわけもなく、村全体が死を覚悟して20日を迎えることになります。最後の白いご飯をたらふく食べて、最後の時を迎えようとする貧乏人一家。一方、地主一家はチューブを抱えてその時に備えます。しかし、当然のごとく、正午を過ぎても空気はなくなることもなく、30分も過ぎた頃、みんなはこれがデマだったと気付くのでした。

岩倉政治の原作を、伊藤寿恵男が監督しました。製作は日本映画新社という会社で、特撮には東宝の特殊技術部が協力しています。実は、私、この話を子供の頃、本で読んだ記憶があります。小学校の図書室で借りた本で読んだのではないかと思うのですが、この話はこの映画が初見ではありませんから、原作はかなり有名な話ではないかと思います。田舎の「地球最後の日」ということになります。アメリカ映画の「世界最後の日」で、世間が暴動になっちゃうのと比べると、この映画はまことにのどか。自暴自棄になるといっても、家で酒くらって酔っ払うのが関の山というレベル。空気がなくなるという、みんな死んじゃう事件に対して、殺伐とならない展開は、現代の目で見れば、何だか新鮮に映ります。設定的には「日本沈没」みたいな天災パニック映画になるわけですが、主たる舞台は小学校で、最初はこの天災に、息が続けば乗り切れるかと期待するのですが、5分は無理とわかれば、もうあきらめちゃうのです。金持ちはタイヤのチューブを買い込んで、5分乗り切ろうとするのですが、そんなのは村で1軒だけで、後はみんなで死ぬしかないなあってあきらめちゃっています。ネットで情報が飛び交う現代に比べたら、人々は疑うことを知りませんし、流れたデマを糾弾することなく、空気がなくならなくてよかったねって言うラストは、なんだかんだと騒ぎ立てずにはいられない、私ら現代人の生き方を見直したくなると言ったら、うがちすぎかしら。この映画は、科学への啓蒙と明るい未来への展望を描いているのですが、その主眼とは別のところで勉強になる映画でもありました。

特撮カットはオープニングにあります。冒頭でナレーションが、この宇宙にはたくさんの星があって、その中に太陽と地球があって、引力がバランスをとっているおかげで、地球は安泰なのだと説明します。この宇宙のシーンはアニメーションのようです。そして、もし引力のバランスが崩れて地球が太陽から離れてしまったらというナレーションと共に、街が雪の中に埋もれてしまうようすを1カットで見せます。一方で、もしも太陽の熱量が増えてしまったらというナレーションと共に、街が炎に包まれて焼け跡になってしまうまでをまた1カットで見せます。マット画中心の特撮ですが、街の中を自動車が走っていますし、炎は実際の映像が合成されています。後、お話の序盤で、地球の空気が彗星に吸い上げられてしまう様子を、アニメと多重合成で見せてくれています。ラストで、この映画のような宇宙のバランスが壊れるようなことは当分起こりませんよとナレーションで説明され、映画を観た子供たちは、安心し、そして、宇宙や科学への興味を深めることになります。

村にデマを広めてしまうのは、小学校の校長を始めとする先生たちなのですが、実際のところ、自分たちの知識からすれば、5分だけ空気が(空気だけが)彗星に吸い寄せられてなくなっちゃうってのには、納得できていません。校長は、郡役場で、その話はおかしいって言うのですが、役人たちに「オレの話を信用できないのか」って説き伏せられてしまいます。デマっていうのは声のでかい人間が言い出したら広まらざるを得なくなっちゃうというのが面白く、現代でも教訓として使えると思いました。また、貧富の差が生死を分けるという展開の後、ラストで宇宙はバランスをとってるから、金持ちも貧しい人も等しく安心ですよって言うあたりの心配りもうれしいところです。昭和24年という時代は、戦後復興の頃で、民主主義がいいものだと言われていたころです。お金のある人もない人もみんな平等なんだよってのを口に出して恥ずかしくない時代だったんだなあってしみじみしちゃいました。昔は、まだまだ本音と建前が共存できたんだなあって。今は、お金持ちも貧しい人もみんな平等なんだなんて言い難い世の中になっちゃいました。全部ホンネじゃないといけないみたいなご時世は、なんだか希望がないんだよなあ。当時は、きれいごとを並べて、少しでもそれに近づけようという活気があった時代だったんだと思います。

登場人物の中では、チューブを買い占める地主とその子供、そして、チューブの値段を吊り上げる自転車屋は悪役ということになるのでしょうが、憎まれ役というほどにはなっていませんで、どこか滑稽な描き方になっています。映画全体がのどかな雰囲気なので、誰かを悪役にする必要がなかったのでしょうけど、誰かをクズ呼ばわりしなくてもすむ作りには、どこか時代の余裕を感じさせます。決して、昔の方がいい時代だったというわけではないのですが、今は同じ題材を扱っても、こういうのどかな映画は作れないだろうなと思うと、どこか気分的な余裕がなくなっているような気がします。それは前述の建前が言い難いご時世と重なっていると思います。

あらすじだけ追えば、大山鳴動鼠一匹という他愛ないお話なのですが、その描き方の部分で、現代という時代を見直す鍵があるように感じられて、今観るからこそ面白い映画だと言えるのではないかしら。

「グランドピアノ 狙われた黒鍵」は、お話の盛りが足りなくて、映画としての満腹感がないような。


今回は新作の「グランドピアノ 狙われた黒鍵」を川崎チネチッタ4で観てきました。こういう小劇場でしかやらないような映画もシネコンだと何かの拍子ででっかいスクリーンで上映されたりします。今回も映画にしてはスクリーンがでかい劇場でちょっと得した気分。

シカゴで、大ピアニスト、パトリック・ゴーダルーの追悼コンサートが開かれ、彼の愛弟子トム・セルズニック(イライジャ・ウッド)がゴーダルーの遺品のピアノを弾くことになっていました。トムは5年前のコンサートで恩師の作曲した曲を弾き損ねて以来、表舞台には出ていなかったのですが、妻で女優のエマ(ケリー・ビシェ)のすすめもあって再びコンサートに臨むことになりました。緊張の中で舞台に立ち、ピアノを弾き始めるのですが、楽譜に矢印が書いてあって、先に進むと「曲を間違えたら殺す」というメッセージ。さらに、彼にレーザーの照準があてられているではありませんか。さらに、「おかしなことをすれば、妻を殺す」というメッセージ。最初はジョークかと思っていたトムですが、どうやら相手は本気みたいです。演奏の途中で楽屋へ一度戻れというメッセージに従うと、楽屋にはイヤホンがあり、それを装着すると謎の男が指示を伝えてきました。男はかつてトムが演奏でミスをした恩師の曲をコンサートで弾かせたいようなのですが、果たしてその目的は?

アメリカ人ダミアン・チャゼルの脚本を、スペインのエウヘニオ・ミラが監督したサスペンス・スリラーの一編です。スペインとアメリカの合作のようで、バルセルナとシカゴで撮影されたそうです。冒頭でお屋敷から、ピアノが運び出されるのですが、この死んだゴーダルーという人は大金持ちだったらしくて、そのピアノも特製のもので、鍵盤の数が普通と異なるんですって。そして、お話はシカゴに移って、トムがコンサートホールに向かう様子が描かれます。奥さんが人気美人女優なんですが、彼女のたってのすすめで再び人前でピアノを弾こうという気になったトムなのですが、5年前の悪夢をまだひきずっていて、なんだか落ち着かなくてそわそわ。それでも、ホールに着いて、コンサートが始まるまでをかなり凝った映像で見せてくれます。ヒチコックを気取ったような感じもあるのですが、サスペンススリラーの出だしとしては、変な予兆を見せずにテンポよく展開するのは成功と言えるでしょう。

コンサートが始まって、トムが楽譜をめくり始めるとおかしなことが起きてきます。「間違えたら殺すぞ」のメッセージに最初は悪い冗談だと思っているのですが、自分の手元がレーザーでポイントされていることに気付くと冗談にしては悪質過ぎてきます。さらに、場内にいる妻を殺すとまで脅されてはもはやこれは犯罪です。曲の途中のしばらくピアノの演奏のない部分で、トムは楽屋へ行くように譜面に指示されます。行った先には携帯電話があり、そこにはレーザーの照準があたっている妻の写真が入っていました。どうやら、相手は本気のようです。そして、イヤホンの場所が示され、そこからは謎の相手から直接声の指示が来るようになります。それでも、相手が何を目的にしているのかがわかりません。単に間違えずに演奏させるのが目的なわけはないのですから。トムは何とかしてこの状況を外に伝えようとします。ポケットに携帯電話を忍ばせてピアノの演奏中にチャンスを狙います。そして、何とか電話をつなげるのですが、それは観客席にいた妻の友人でした。彼は演奏中のトムから電話がかかってきたことを不審に思い、一度、ホールの外へ出てくれます。そこへ、トムは、妻が狙われていて危険だというメッセージをピアノを演奏しながらうって送信するのでした。

姿の見えない犯人と翻弄される主人公、そして主人公は舞台のど真ん中でピアノを演奏中というのがスリリングな設定となっています。どう転んでも主人公が八方塞がりな状況が、ある種の極限状態としてギリギリのサスペンスを生む....と言いたいところではあるのですが、主人公が不自由すぎるのは、意外とサスペンスにつながらないのだなあって感じなのですよ。91分という短い(その上、エンドクレジットが10分近くある)映画なのですが、その尺をフルに使いきれないまま終わってしまったという印象でして、テレビの1時間もののエピソードとしては相当面白いのですが、1本の劇場用映画としてはボリューム不足になってしまったのが残念でした。声で翻弄される身動きできない主人公ということでは「フォーン・ブース」という大変面白い映画があったのですが、あれに比べると明らかに趣向が足りないのですよ。結局、事件はトムと犯人の間でのみ発生しているので、他の登場人物と有機的につながってドラマがふくらむということがなかったのは痛い展開でした。また、イライジャ・ウッドに感情移入できないのもつらいところでして、観客としては、トムと犯人の駆け引きを冷やかに見つめることになっちゃいました。

エウヘニオ・ミラの演出は変に観客をミスリードすることなくストレートにドラマを積み上げていきますが、前の展開を思い返して、「ああ、そうだったのかー」とか「あれが伏線だったのか」というミステリー映画にあってほしいカタルシスがほとんどないので、決着がついても「ふーん」ということになっちゃいます。無線の声が乱れるあたりはもっと有効に使って欲しかったですし、妻の立場になってドキドキハラハラするような見せ方があってもいいように思いました。クライマックスまで声だけ出演のジョン・キューザックも、ゲーム感覚なのかマジ脅しなのか、どっちか立ち位置を決めて演じて欲しかったように思います。徹底的に強い立場にいる犯人なのですから、声で威圧して欲しかったのですが、割とフツーなんですよ、これが。

多くのカットに視覚効果が使われていて、ホールの観客はCGで、舞台とホールが別の場所で撮影されたといったことがプログラムに書いてありました。スペインとアメリカで撮影されていて、あまり予算のない映画では視覚効果の出番が増えるんだろうなあって納得しちゃいました。セットを作る場所と人件費にエキストラの人件費を加えると、視覚効果を使った方が安くつくみたいです。ピアノの中の構造をドアップで見せるシーンもCGなんだろうなあ。



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この犯人には共犯者がいまして、それがホールの警備員に化けていました。エマの友人は、トムのメッセージを読んで、エマの席に知らせようとするのですが、その共犯者にあっけなく殺されてしまいます。友人が戻ってこないことをおかしいと思って探しに出かけた友人の連れの女性も、その共犯者に殺されてしまいます。このシーンまで、殺される二人とトムとの間に一切の絡みがなかったので、殺されちゃっても「ふーん」って感じになっちゃったのは脚本の責任でしょう。犯人の正体は、恩師に雇われて、財産の隠し場所のカギをピアノの中に仕込んだ錠前師でした。そのカギを取り出すためには、恩師の難曲の最後の4小節を正確に弾く必要があり、それができるピアニストはトムしかいなかったというのが、この一件の種あかしとなります。犯人は、トムに最後に演奏する曲を恩師の曲に変更させ、その曲を演奏させるところまでは成功します。しかし、トムは最後の4小節をわざと間違えて演奏し、犯人の狙いははずれてしまいます。共犯者は、もう無理だから逃げようと言い出すのですが、犯人を共犯者を射殺してしまいます。

犯人は、エマに銃口を向けますが、トムはエマにスポットライトを当て、1曲歌うようにとすすめて、観衆の注目を集めます。その隙に、エマの席に向かう途中、トムは犯人に襲われます、格闘になった二人は、舞台の上の梁の上で一進一退の攻防となりますが、最後には二人とも舞台の上に落下、犯人はピアノの上に落ちて死亡。トムは足を骨折しただけで済みます。そして、壊れたピアノが運び出されたとき、トムはその半分壊れた鍵盤に向かって最後の4小節を弾きます。画面が暗転、そして機械音がして、カチャリ、エンドクレジット。

トムが4小節をちゃんと弾かなかった時に、犯人側がノープランだったもので、主人公のなし崩し的な勝利になっちゃうのは物足りなかったです。犯人はまだ姿を見られていないし、エマの命も狙えるのですから、あっけなく姿を見せて、トムと肉弾戦になっちゃうのは、よくある自爆型悪役だよなあ。犯人のバックボーンだとか、トムと恩師の確執とか、キャラを膨らませる材料はいくらでもあったと思うのですが、そういうキャラに奥行きを与えることをしないまま、あっけなく幕を引いちゃうのは、ある意味潔いとも言えるのですが、劇場用映画としては、あっさりしすぎだったようです。

「グロリアの青春」は50代女子の恋愛ドラマです。


今回は新作の「グロリアの青春」をヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。小さな映画館ですが有楽町駅前の映画館としてのステータスを獲得していますし、ラインナップに魅力的なものが多いです。

子供も手が離れ、12年前に夫とも離婚した58歳のグロリア(パウリーナ・ガルシア)は、昼間は事務職として働きながら、自分の時間には中高年の集まるダンスホールに通ったり、ヨガ教室やサークルにも通っていて、結構充実した日々を送っていました。ある晩、ダンスホールでロドルフォ(セルヒオ・エルナンデス)という男に声をかけられ、付き合うようになります。彼は遊園地を経営するビジネスマンでしたが、1年前に妻と離婚し、妻とアラサーの娘二人に養育費を払っているという状況。それでも、グロリアとロドルフォはベッドを共にし、ラブラブな関係となります。グロリアは、息子の誕生日に、昔の家族が集まるパーティへロドルフォを招くのですが、そこで疎外感を感じたロドルフォが勝手に帰ってしまったことで関係がまずくなってしまいます。彼からの電話にも出ない日々が続いたものの、何度も電話してくる彼に彼女の心も軟化、そしてリゾート地のホテルで二人で行くことになるのですが....。

最近、驚いたことの一つで、電車の吊り広告で、「GLOW」という雑誌の広告を見たときがあります。「40代女子に必要なのは優しさでした」ですって。40代でも女子ってのは、ごく一部で使われているのは知っていましたが、まさか、そこをターゲットにした雑誌が売られているってのにびっくり。ずっと独身か、子供が成人したかで、子育てから解放された、かつ経済的に独立している40代女性が、女子と呼べるくらいの自由なお金と時間を持っているのかなあって思っているのですが、40代の女性が20代女性(いわゆる女子)と同じ行動が取れる時代になってきたのかも。同性の友達と食べ歩きしたり、海外旅行したり、飲み会に行ったり、同僚を男性として意識したり、彼氏とお泊りしたりと、20代女子と同じような価値観と行動を、40代女性が取るようになったのではないかと。

そして、この映画を観てみると、40代女子どころか、50代女子ってのも出てくるんじゃないのって気がしてきました。この映画に出てくるグロリアは子供も独立して、離婚もしちゃって、家庭に縛られない、結構願望もない女性です。OLやりながらアパートでひとり暮らし、夜には一人でダンスホールに出かける、これって、20代OLの生活と変わらないのではないかしら。そして、ダンスホールで知り合った男性と付き合うようになるのですから、月9ドラマとの違いは、ヒロインが30年上というだけなんです。恋愛の展開も若者と同じ、そしてちょっとしたことで破局してそこそこのダメージを受けるのも、月9ドラマと同じです。なるほど、年は取っても心は少年って言いますけど、年は取っても心は女子ってのもありみたいです。ただ、少年と女子では、女子の方が大人なんですよね。そこのところが、この映画でもちょっとだけ顔を出してきます。

セバスティアン・レリオとゴンサロ・マサの脚本をレリオが監督した、チリの映画です。ベルリン映画祭で主演女優賞とエキュメニカル審査員賞を受賞した映画だそうで、チリのサンチャゴが舞台になっています。チリというと、ワインと後、1970年代の軍事クーデターくらいしか知らないので、最近の状況はまるで知りませんでした。この映画の中では、若者が搾取される社会に対して、学生たちがデモをしているシーンが登場します。ヒロインや彼氏の境遇を見ると、離婚するのはそれほど特別なことではなく、恋愛でも女性と男性は対等のようです。グロリアは、50代の女性としては美人ですし、変な若作りもしていない年相応の魅力があります。同年代の男性なら心惹かれるだろうなという容姿は、彼女を特別な存在にしています。美魔女なんている人造人間ではない、自然体の魅力的な50代女性は、ちゃんとセックスと恋愛の対象になるんだなって納得させるものを持っています。体型はそれなりの老いを感じさせますが女性としての魅力があるのですよ。ヌードシーンやセックスシーンも登場しますがそれが見苦しくならないのは、やっぱり彼女は特別なのかなあ。

恋愛対象としてのグロリアは、普通のOLさんと同じです。確かに年は取ってますから、それが体に出てきます。緑内障があるから、毎日目薬挿すようにといわれるリアリティがうまいと思いましたが、基本的には健康体です。もちろん、完全無欠ではありませんから、恋愛関係の中で、面倒くさい顔も見せます。それでも、彼女がきちんとヒロインとしてドラマは展開しますし、女性は彼女に感情移入できるのではないかしら。一方のロドルフォの方は、離婚しているのに、元妻と子供を養っていまして、何かというと元妻と子供が電話してきます。デートの最中でも電話が鳴って、彼はそのことはどうしようもないとあきらめているようです。娘二人はアラサーなのに独立もせず無職。その娘が元妻のことで電話してくるのを仕方のないこととあきらめているようなところがあります。それなら、離婚してないのと同じじゃないかと思うのですが、今の彼女よりもそっちの方が大事みたいなところがグロリアをイラつかせます。そりゃそうだよなあ、元家族を引きずった不自由な身分で独身だと言われても、グロリアからすれば、自分への向き合い方に不信感を抱くのはごもっとも。ロドルフォはグロリアのそういう気持ちが理解できません。恋愛中の男女の気持ちのすれ違いというのは、年齢を問わずあるものですが、その感情のぶつけ合いが若者の恋愛と同じなのが面白いと思いました。年を取った分、許容範囲が広がるとか表現がおだやかになるといったことがないのですよ。今の日本の40代女子も同じように若者のようなストレートな感情表現をするのかしら。

ロドルフォは元妻と娘を捨てきれない、いわゆる共依存の状態にあるようです。この感じ、何となくわかるんですよね、自分の人生の実績をすぱっと切り捨てることができない。離婚した元妻を気遣う自分かっこいいみたいな気持ちもあるのかもしれません。娘二人がいい年して無職なのも彼に責任の一端はあるんでしょう。何だか、情けないけどありがちな男になっているのですよ、このロドルフォというのは。それに比べると、グロリアは養う家族もいないし、自分も経済的に独立していて、趣味の時間を持つ余裕があります。二人の人生の自由度がまるで違うのですよ。住む世界の異なる二人が恋愛してもうまくいかない、いわゆる身分違いの恋みたいな様相を呈してくるのが面白いと思いました。これが男女の違いなのか、単なる個人差なのかは判断に迷うのですが、まあうまくいかないわな、この二人では。

脚本で、細かいセリフまでは書かれておらず、現場でセリフを作っていくという演出で、登場人物の自然な演技を引き出すのに成功しています。ヒロインに過度なシンパシーを寄せず、それでも、ヒロイン賛歌になっている構成が成功しています。50代女性の恋愛ドラマとして面白かったです。ラストがヒロイン賛歌に走りすぎたという点はありますが、50代女子もまだまだ女性としていけてるじゃんと思わせてくれますから、50代なんて枯れてるよって思っている方にオススメしちゃいます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



一度は、ケンカ別れした二人ですが、もう一度ヨリを戻して、リゾート地のホテルに向かうのですが、そこでロドルフォに娘から電話がかかってきます。元妻がガラスに突っ込んで怪我をしたというのです。電話を切ったロドルフォは「もう彼らに人生を左右されたくない」と言います。一度、荷物をまとめてドアに向かったグロリアは、引き返して服を脱ぎ、彼の上のまたがるのでした。そして、レストランで食事をしていた二人ですが、ロドルフォが中座したきり姿を消してしまいます。グロリアは、彼を探しまわって見つからず、バーからカジノへと回り、そこで出会ったおっさんと飲み明かし、朝、気付けば砂浜で寝ていました。それから、また彼から電話がかかってきて、何回めかに出てみれば「自分には築いたものを見捨てられない」というセリフに電話をガチャ切り。彼から預かっていた戦争ゲームのペイントガンを持って、彼の家の前まで行って、彼の家と彼自身に向かって発砲、これで一応すっきりした彼女は、知人のパーティに出かけます。最初は、踊りにも出ないでおとなしくしていた彼女ですが、ふっと会場の外に出たときに白い孔雀に出くわします。すると、彼女は吹っ切れたようにパーティのダンスの中に入っていくのでした。その時にバックにはウンベルト・トッツィの「グロリア」がかかっているのでした。

旅行中に姿をくらますロドルフォは男としては、まあダメじゃんという感じでして、グロリアがペイントガンで一矢報いたくなるのもごもっとも。ラストで、グロリアはまだまだ次の恋に向けて人生歩んでいくだろうという見せ方は、きれいなエンディングではあるのですが、ちょっときれいすぎるかもと思ってしまいました。ストレートな恋愛ドラマの50代版だと思う方が、素直に楽しめるのかもしれません。年をとっても、男女の恋愛模様は変わらないというのは、本当かなあって気がするのですが、若者のような恋愛をするのが50代女子なのだと言われたら、それならありかなって思えるのが面白いところです。少なくとも、40代女子というのは、公に存在が認められているようですが、これから先、この映画のような、50代女子が出てくる可能性はかなり大です。そうなれば、この映画が、日本でドラマとしてリメイクされるかも。

「ラブレース」のアンチポルノの視点がオヤジには新鮮でした。


今回は新作の「ラブレース」をヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。この映画館は飲食OKなんですが、隣でビール臭いのは、正直ご勘弁なんだよなあ。指定席は移動できないんだから、基本飲食NGにして欲しい。まあ、コーヒー臭いのはダメ、ポップコーン臭いのはヤダと言い出したらきりがないけど、私、ビール嫌いなもので。

リンダ(アマンダ・セイフライド)は厳格な母親(シャロン・ストーン)とやさしい父(ロバート・パトリック)に育てられましたが、一度妊娠して子供は里子に出されていました。そんな彼女がバー経営者のチャック(ピーター・サースガート)と知り合い、彼の魅力に恋に落ちて結婚まで行ってしまいます。しかし、店の売春容疑で逮捕され、金が必要だと言い出したチャックは彼女に売春を強要して、逆らうと暴力を振るうようになります。実家に逃げ帰っても、母親は「夫に従え」と言って追い出しちゃう。チャックは、リンダをポルノ映画の女優として売り込みます。プロデューサーはそのあまりに普通の容貌に難色を示すのですが、そこで彼女のフェラテクのフィルムを見せて、見事に主役の座を射止めます。そして、出来上がった映画「ディープ・スロート」は大ヒットとなり、彼女は一躍時の人となるのですが、チャックの束縛に怯える日々は続くのでした。

1970年代は、洋画ポルノの全盛時代でした。学生だった私は劇場へ観に行く度胸はなかったのですが、それでも雑誌「スクリーン」の紹介記事で、いつかは観に行きたいなあって思っていました。銀座や新宿にも洋画ポルノの封切館がありまして、スポーツ新聞には、ページ半分以上を占めるポルノ映画の広告が載っていました。そんな中で、アメリカ大ヒットという看板を引っ提げて上映されたのが「ディープ・スロート」と「グリーン・ドア」。その前者の主演女優リンダ・ラブレイスの自伝をもとに、雑誌編集者出身のアンディ・ベリンが脚本を書き、ドキュメンタリー映画出身のロブ・エプスタインとジェフリー・フリードマンが共同監督しました。

普通の女の子風に登場するリンダが、DV男チャックに引っかかったばかりに、売春させられた挙句、ポルノ映画に出るはめになってしまうというお話を意外なほど淡々と描いていきます。構成にちょっとだけ仕掛けがあって、リンダとチャックが結婚して、映画オーディションを受けて、「ディープ・スロート」に主演して、時の人になるまでが描かれ、それが時間軸を戻して、もう一度、チャックの正体がわかるバージョンで描かれるのです。前半バージョンでは、リンダが自ら望んだポルノ出演を健気に頑張っているという印象で、その結果、スターダムに登りつめたように見えます。ところが、実際のところは、チャックに強要されて売春させられるは、ポルノ映画への出演も金のためにチャックに脅されてやっていたことがわかってきます。笑顔で健気に頑張るように見えていたのは、脅迫の恐怖への裏返しだったのです。

「ディープ・スロート」撮影シーンは、裏話的なおかしさもありまして、巨根男優ハリー・リームズがリンダにやさしい男として描かれていたり、出資者がヤクザだったりといった部分がコミカルだったりするのですが、後半、チャックのDV野郎ぶりがわかってくると、全てがリンダを苛んでいた事実につきあたります。この映画のスタンスは、ポルノ業界に対して否定的なところに落ち着くのがちょっと意外でした。ラストで、6億ドル稼いだ「ディープ・スロート」の彼女のギャラが1250ドルだったという字幕が出ますが、結局、彼女は搾取されただけだったという見せ方になっているのです。女性活動家となった彼女のその後から考えても、この映画は反ポルノの立場を取っていることは確かなようです。日本だと、ポルノやAVの現場というのは、結構好意的に描写されることが多いのですが、この突き放した感じは、アメリカにおけるポルノの位置を物語っているように見えます。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



「ディープ・スロート」から6年後、リンダはニューヨークで新しい生活を始めていました。夫と息子の3人暮らし。そんな彼女が自叙伝を著すこととなります。出版社から、ウソ発見器によるテストを受け、それに合格した彼女の自叙伝は出版されます。そこには、チャックの暴力に怯えた日々が綴られていました。テレビショーで自伝についてのインタビューを受けるリンダ。彼女の実家では両親がテレビを見つめていました。そして、家族で実家を訪れるリンダ。母親に抱き付くリンダを抱きしめ返す母親。みんなが家に入ったところで、暗転、エンドクレジット。

チャックのリンダに対する束縛は異常とも言えるもので、銃をひけらかして、彼女を思うように動かそうとするのです。そして、チャックは、ラブレイスブランドの大人のオモチャで一山あてようとするのですが、それ以前に映画出資者のヤクザからの借金で首が回らなかったのです。リンダは何とか、チャックの家から逃げ出し、そのヤクザのもとにたずね、チャックはヤクザに絞められて、リンダは縁を切ることに成功します。暴力を振るうヒモであるチャックを、ピーター・サースガードが弱さも含めてリアルに演じていまして、その存在感が見事でした。ヒロインを演じたアマンダ・セイフライドは、これまで彼女が他の映画で演じた精一杯生きる女性をポルノ女優という形で演じ切りました。ヌードシーンもありまして、彼女の本気が伝わってくる熱演ぶりでした。でも、R+18にするほどのもんじゃないなあ、期待していたほどのものでは。

エプスタインとフリードマンの共同演出は、登場人物を掘り下げすぎない、ちょうどいい深さでドラマをつないでいきます。リンダという女性が、チャックに脅されて、いやいやポルノをやったのかどうかというところは、微妙な感じなのですよ。リンダ自身が他人から認められたいと思っている節もあって、撮影の現場でも楽しんでやっているようにも見えます。行動の動機は恐怖だけだったのかというと、そこまで追い詰められているようにも見えなかったのです。色々な解釈ができて、色々な見え方の余地を持った映画ではあるのですが、それでも結末は、ポルノがリンダを搾取したことを前面に出してきます。日本だと、ポルノは普通の映画への登竜門としての地位を獲得していて、実際、普通の映画の名匠がポルノ出身であることも普通にありますが、アメリカでは、そのあたりの敷居が高いのか、まるっきり異業種なのか、ポルノへの風当たりがかなり強い内容になっているのです。リンダ・ラブレイスを主演にしたことで、そういう視点のドラマにならざるを得ないのかもしれませんが、ポルノ史上、伝説の映画である「ディープ・スロート」でさえ、こんな状況なのだから、他のポルノも押して知るべしという気にもなってきます。

特に、ドラマのラスト近くで、映画から6年後に普通の生活を営んでいるリンダの姿が映ると、彼女にとって、ポルノに出たことが黒歴史であったことが伝わってくるのですよ。普通の女の子が、ポルノ映画で大スターになった後にしては、普通の家庭の奥さんぶり。アマンダ・セイフライドの演技が見事なだけに、暴力に脅されて、そしてお金でも騙されてポルノに出ちゃった普通の女の子というのが際立ちました。93分という短めの映画の中で、彼女の被害者としての顔がクローズアップされたのには、私には驚きでした。実際に騙されたり、脅されたりしてポルノに出た女の子も少しはいたんだろうなと思いつつも、それでも進んでポルノ映画に出たのだと思いたかった自分としては、こういう主張を持った映画にぶつかると、この業界の怖さを改めて再認識するに至りました。

演技陣は適役適演という感じで、特に、脱いでもあんまり色っぽくないアマンダ・セイフライドの、普通の女の子ぶりの熱演が光りました。チャックのもとを逃げようとして、路上でタックルされたところへ、パトカーがやってきて保護されそうになるのですが、結局、警官はチャックに丸め込まれて帰ってしまう。その警官が帰る前に彼女にサインを求めるエピソードが大変印象的でして、アマンダのけなげで痛々しい表情に泣かせるものがありました。こんないい子をポルノ業界は食い物にしたのだという見せ方になっているところに、この映画の一つの見識があると言えましょう。また、DVのクズ野郎だけど小心者でもあるチャックを演じた、ピーター・サースガートも素晴らしい憎まれ役ぶりでした。いつもとはガラリと違う、冷たくて怖い母親を演じたシャロン・ストーンも存在感を見せ、私にはお久しぶりのデビー・メザーや、酷薄なヒュー・ヘフナーを演じたジェームズ・フランコといったちょっとだけ出演の面々も印象に残る演技を見せてくれました。

追補
映画のあらすじのところで、リンダが堕胎したと書いてあったのですが、あいさんのご指摘で、堕胎はせず、生まれた子供は里子に出されたというのが事実でした。その部分は修正してあります。ご指摘ありがとうございました。

「大統領の執事の涙」は、アメリカ現代史への興味を持てればOKではないかと。


今回は新作の「大統領の執事の涙」を丸の内ピカデリー3で観てきました。原題は「the butler(執事)」なのですが、「大統領の」をつけるのはまだしも、「涙」をつけるセンスは何だか田舎くさいよなあ。

1920年代の綿花畑で両親と働いていた少年セシルは、農場主に母親を犯され、父親を殺されますが、女主人の口添えでハウスニガー(家内召使)となりますが、年を経て、そこを出て、流れ着いた先のホテルのボーイとなります。そこでの働きがホワイトハウスの人間に認められ、セシル(フォレスト・ウィテカー)はホワイトハウスの執事として働くようになります。そのころには妻グロリア(オプラ・ウィンブリー)と二人の息子を持つ一家の主となっていました。彼は政治に興味を示さないように努め、歴代の大統領に仕えていきます。しかし、長男のルイス(デヴィッド・オイェロウォ)は、そんな白人に仕える父親に反発し、黒人の権利獲得の政治運動に積極的に参加します。何度も逮捕拘留されるルイスですが、セシルはそんな息子との壁を作ってしまっていました。家庭を顧みないセシルに、一度は酒に溺れることもあったグロリアですが、年を経て、夫婦の絆は強くなります。次男のチャーリーはベトナム戦争に志願し、帰らぬ人となります。そして、セシルがホワイトハウスを去る日、ルイスとの確執が消える時が来るのでした。

1950年代から80年代に8期の大統領に仕えた黒人執事がいたという事実に基づいて、テレビで実績のあるダニー・ストロングが脚本を書き、「プレシャス」「ペーパーボーイ」のリー・ダニエルズが監督しました。事実にインスパイアされた物語と冒頭に出るところから、セシルの生涯はフィクションなのでしょう。一人の黒人執事に人生を描くことで、黒人差別、公民権運動といった、アメリカの負の歴史にスポットライトを当てようとしているのが伺える構成でした。そこに、父と子の確執のドラマを据えて、人間ドラマとしても見応えのあるものになっています。

冒頭、綿花畑で働くセシルと両親が登場し、農場主によって母親が小屋に連れ込まれ、出てきた農場主に声をかけた父親は、即座に射殺されてしまいます。それを不憫に思った農場主の母親が彼を屋敷勤めのハウス・ニガーにするところから物語は始まります。ドラマは、ホワイトハウスに職を得たセシルが淡々と職務をこなしていく一方で、世界が劇的に変化していく様子が描かれます。その揺れ動く世界の側に、セシルの息子ルイスが身を投じていくことで、自由を得ようとする黒人と、それを陰で支える黒人という構図が見えてきます。歴史の描き方としては、表層をなぞっていくレベルでしかないのですが、30年に渡るアメリカの現代史を2時間強にまとめようとしたら、そうなるのも致し方ないというところでしょう。映画の中で、「アメリカは、他国の歴史を叩くのに、自分の負の歴史から目を背けている」と語られますから、この映画の観客がアメリカの負の歴史にも目を向けてくれることを、作り手は期待しているのだと、私は解釈しました。シットイン運動、ブラックパンサー党、フリーライド運動といったキーワードに観客が興味を持って、より深く調べて、アメリカの歴史をより理解するためにこの映画を作ったというのは、うがちすぎでしょうか。

制度としての黒人差別から、それに否を唱える黒人や白人がいて、その行動が不当に弾圧されたのだと、この映画は描いています。最初は先鋭的な活動だったのが、だんだん多くの人の支持を人種を超えて集め、それが大きな力になってくると、より大きな弾圧として跳ね返り、その大きな動きと怒りが政府を動かすまでになっていくという過程がわかりやすく描かれています。公民権運動は、キング牧師暗殺がピークであったかのような描き方をされていまして、その後、より攻撃的なブラックパンサー党が登場すると、ルイスは最初は参加しているものの、その攻撃的な姿勢についていけずに去っていくという見せ方になっています。これは、いわゆる大衆の支持がキング牧師までは得られていたのが、マルコムXやブラックパンサー党まで行くと、大衆が離れて行ったということを現しているのか、それともそれがいわゆるリベラルの価値観なのか、アメリカにくわしくない私には判断がつかなかったのですが、白人との共存という前提を否定するような主義主張には、支持がつかなかったという見せ方になっています。

ルイスのように、白人政府に対決を挑む運動をする黒人がいた一方で、白人に仕える形で、白人にその有能さを知らしめ、黒人の地位を向上してきたセシルのような黒人もいました。この映画では、そういうセシルのような黒人を称賛する立場をとっていますが、それだけでは、黒人大統領は生まれなかったでしょうから、この映画が、黒人からどの程度の支持を得られたのか興味あります。ラストで、ルイスは議員となっていますから、公民権運動の延長で政治活動を続けたということになるのでしょう。その一方で、執事としての仕事を勤め上げたセシルが黒人大統領の誕生を心から喜び、オバマに会いに執務室へ向かうところがラストショットとなります。親と子の対照的な歴史への関わり方、その両方を肯定的に描いて、お話をまろやかにまとめたのは、賢明な結末だと思いました。どちらからも、学ぶべき歴史があるのでしょうから、どちらにも肯定的な興味をひくような作りは正解なのでしょう。アメリカの現代史への入門編として、楽しむ映画として、この映画はお値打ちあると思いました。

歴代の大統領が実名で登場しますし、名前の知られた俳優が多数登場する、最近の映画では珍しいオールスターキャストともいうべきメンツが顔を揃えています。顔出し出演的な登場が多いのですが、そんな中では、主人公の執事仲間を演じた、レニー・クラヴィッツ、キューバ・グッディングJrの好演が光りました。主演のフォレスト・ウィテカーは、いつものような人の良いキャラとは一線を画す、頑固な執事ぶりを熱演しています。

リー・ダニエルズの演出は大河ドラマの総集編のようなつくりの映画にきちんと主人公のキャラを作りこむことに成功しています。歴代の大統領役にロビン・ウィリアムズなどの有名どころが登場しますが、これはドラマの印象を少々散漫にしちゃった感がありました。大統領の執事なので、大統領が登場するのは仕方ないですし、それによって、当時の政策が明確にもなったのですが、執事の日々がすごく華やかに映ってしまったのです。ホントはすごく地味な仕事だったでしょうし、縁の下の力持ち的な意義があったと思うのですが。

「鉄くず拾いの物語」は当事者による事件の再現映画だけど、ドラマとしても見応えあり。


今回は新作の「鉄くず拾いの物語」を横浜シネマベティで観てきました。この映画館は、前から5列目の真中の席が私にとってのベストポジション。画面をちょっと見上げる感じになるのがなかなかにいい感じなのですよ。

ボスニア・ヘルツェゴビナに住むロマ族のナジフとセナダの夫婦は、娘二人とつつましく暮らしていました。ところが3人目を妊娠中のセナダが腹痛を訴え、出血もしています。病院へ連れて行くと、お腹の子供は死んでいるとのことで、手術が必要だと言われるのですが、手術には970マルクが必要でした。貧しく、鉄くず拾いで何とか暮らしていて、保険証も持っていないナジフとセナダには、そのお金を払えません。すると病院は、お金がないなら手術はできないとそのまま帰されてしまいます。その夜、腹痛がひどいセナダは再度病院へ行くのですが、そこでも断られてしまい、ナジフは女性支援組織などを回って、ある組織の女性と一緒に家に帰り、もう一度病院にかけあおうとするのですが、セナダは「何度行っても同じだから行きたくない」と動きません。でも、このままでは命にかかわる状況で、セナダの義理の妹から保険証を借りて、義理の妹として病院へ行き、手術を受けることになります。手術を受けても、高い薬を買わなくてはなりません。さらに病院から帰ると料金不払いで電気が止められていました。そこで、使っていた車をつぶして鉄くずにして金に替え、薬を買い、電気代を払い、一家に元の生活が戻ってくるのでした。

2002年に「ノー・マンズ・ランド」というすごい映画を観ました。地雷の上で動けなくなった兵士を何とかしようとするのをコメディタッチで描いて、とんでもないラストで締めるという映画で、観た当時は、前半のドタバタとラストの衝撃のミスマッチがすごいという印象を持ちました。この映画の監督、ダニス・タノヴィッチの新作ということで食指が動きました。ボスニア・ヘルツェゴビナで暮らす4人家族に起こった事件を、当事者に演じさせて再現したという劇映画です。いわゆるドキュメンタリー風ドラマということもできましょう。事件について、当の本人にインタビューして語らせるところを撮影すれば、ドキュンタリー映画ということになるのですが、そこを語るだけでなく、演じさせたというところに映画の作り手としての腕の振るいどころがあったようで、外国語がわからない私にも素人演技だと思う一方で、その演出はプロなので、ドラマとしてぐいぐいと観る者を引っ張っていき、ラストで静かな感動が湧き上がる映画に仕上がっています。2013年ベルリン映画祭で銀熊賞の審査員グランプリと男優賞をとりました。作品としての力は感じましたが、男優としての演技はどうなのかとも思うのですが、当人が演じることで、この映画のリアリティが生まれたとも言えましょう。

タノヴィッチ監督は、この事件のことを知り、是非映像化したいと思ったのだそうです。彼自身、ボスニア・ヘルツェゴビナに生まれ、ボスニア戦争では戦場の映像を撮影した、この映画のある意味当事者ということができます。セナダの話を知って、彼女への差別を知らしめるために映像化したのだそうです。そういう意味から、この映画は商業目的で作られたものではありません。でも、映画祭で賞を取り、世界各地で上映されることで、今のボスニア・ヘルツェゴビナで何が起こっているのかを、全世界で共有することができます。そういう目的で作られた映画だとしたら、その目的は達成されていると思います。ある時代を記録するという意味でも、この映画は大変価値のある作品ではないかしら。

この映画では、ほとんどのシーンが実際の人(ナジフの手術を拒否する医師は別の人)で、実際の場所で撮影されているのだそうです。一家のすむロマの村は、事件の経過とともに雪に覆われていき、すごく寒そう。雑木林の木を切って薪を作るシーンが何度も挿入され、彼らの生活ぶりが伺えます。二人の娘は3~5歳でしょうか。母親が病気で大変な状態でも屈託がなくて、すごくかわいいので映像に華が生まれました。一方で、父親ナジフは、ボスニア戦争で戦い、弟の一人を失っているのに、恩給も保険も受けられない状況にあります。仕事も鉄くずを拾って金に替えることを細々とやっています。金をもらって、帰りに酒を一杯やるのも、奥さんに後ろめたさを感じてしまい、奥さんに金を渡すと「これだけ?」って言われちゃう。どこか肩身の狭そうなナジフですが、それでもセナダとイチャイチャするシーンが登場して、家族の中は円満そう。何か困ったことがあると、弟を呼んで助けてもらう、車が動かなくなったときは、近所の車を借りて、セナダを病院へ運ぶ。鉄くずを買う業者の人間も善意の人として描かれています。

全て、本人が演じているのですから、彼らを悪く描くことはできないのでしょう。保険のないナジフの手術を拒否する医師は本人が演じてくれなかったようですが、他に演じてくれた人々には敬意を表して演じてもらっているようで、その気のつかいぶりが伝わってくるのがおかしかったです。でも、生活の面でも、医療の面でも、ナジフ一家が切り捨てられていることはきちんと伝わってきますし、それでも生きていく彼らの力強さには、ささやかな感動がありました。映画の中盤で、ゴミ捨て場から鉄くずを拾うナジフの姿がかなりの尺を割いて描かれます。高低差のあるところから、針金やらなべやらを掘り出して、運び出すのはかなりの重労働。雪のちらつく中での作業から、過酷な日常がうかがえます。神様は不公平だというセリフも登場します。でも、あまり表情を変えないナジフのどっしりした存在感が、この逆境でも、奥さんやかわいい子供たちを守っていける、いくだろうということが伝わってきて、単なる悲惨な映像にはなっていません。

お金がないからと言って、流産した子をお腹に入れたまま追い返す病院はひどいと思うのですが、これがボスニア・ヘルツェゴビナだからなのかというとそうでもないような気がしてきます。弱者切捨ての極端なサンプルではありますが、似たようなことは日本でも起こりうるのではないかという漠然とした不安があります。この事件は、ダノス・タノヴィッチという映像作家がいたからこそ、公になり、さらに世界中に知らしめられたわけですが、こういう人がそんじょそこらにいるわけでもなく、多くの理不尽な弱者差別は世界いたるところにあるのでしょう。だからこそ、この映画の価値があるのだと思いましたし、こういうやり方で社会の不合理さを訴えることができるということを示したわけで、映画の持つ力の可能性、そしてある意味限界をも示してくれたのだと思います。交渉しても、分割払いでもダメだと言う病院に対して、結局、行政は何もしてくれず、保険証の詐称というやり方で、セナダは一命をとりとめることになります。そんなことは正しくないとか、当然のことだとかいう、是非の見解はこの映画では示されません。ただ、この理不尽の事件は、一応の決着がつき、ナジフ一家が元の生活に戻ったところで映画は終わります。そういう意味では、観客はちょっとだけ安心することができます。でも、事態は何もよくなっていないので、再び、誰かが体を壊したときに同じことが起こりうる環境に多くの人がいることになります。

映画としては、雪の舞う寒々とした風景、都市へ向かう途中の大規模な発電所の絵、殺風景な病院の廊下など、印象的な映像をつないでいき、ドラマ展開もなかなか先が読めなくて、映画としての面白さもきちんと作りこまれています。セナダがもう病院へ行くのはいやだというあたりのリアリティや、何くれとなくナジフを助けてくれる弟の存在など、単なる再現ビデオ以上のドラマを作りこむことに成功しています。74分という短い映画ですが、変にドラマの尾ひれをつけず、ナジフ一家の普段の様子と、セナダが病気で倒れたという事件のみを描いて、そこに一家のドラマを刻み込むんだのは、タノヴィッチの手腕なのだと思います。機会があれば、一見をおすすめします。その際、この映画が実話であり、事件の当人がドラマを演じているという前提は知っておいた方が、ドラマとしての奥行きを感じることができるでしょう。

「伊福部昭 生誕100年 メモリアル・コンサート」はオケの音に惚れ惚れ。


今年は作曲家伊福部昭の生誕100周年ということで、彼の作品のコンサートがまとまって行われています。前回は、すみだトリフォニーホールで、彼の映画音楽のサントラにこだわったコンサートに行ってきたのですが、今回は、2014/2/27に行われた横浜みなとみらいホールの「伊福部昭 生誕100年 メモリアル・コンサート」に行って来ました。井上道義指揮の日本フィルハーモニー交響楽団の演奏で、マリンバのソロで安倍圭子が参加しています。コンサートは前半は伊福部の現代音楽、後半は映画音楽という構成になっています。

私はコンサートなんてめったに行ったことがありませんし、オーケストラを聴き比べたこともないのですが、今回の演奏は素晴らしいと(勝手に)感じました。音のパートごとのまとまりといったものは、前回のコンサートの企画オケとは一線を画すものがありましたし、音の粒立ちが見事で、オーケストラがまとまって体に降りてくるという感じで、音楽を実感することができました。

1、管弦楽のための「日本組曲」
4部からなる、日本の風景を音で描いた作品で、冒頭から、オーケストラが盆踊りを奏でるのですからびっくりです。第1部「盆踊り」でドンドコと盛り上がり、第2部「七夕」から第3部「演伶(ながし)」で静かなメロディとなり、第4部「佞武多(ねぶた)」でお祭り音楽になって盛り上がります。この曲を以前、CDで聴いたときは、「ふーん」と聞き流してしまったのですが、演奏のよさがあるのか、音楽が目の前に迫ってくる感じで、改めて、すごい曲だったんだと実感しました。和の味わいのオーケストラ曲なのですが、そこに日本人の根源的感情を呼び起こしてくるあたりが圧巻でした。

2、オーケストラとマリンバのための「ラウダ・コンチェルタータ」
1979年の初演のときから、安倍圭子によって演奏されてきた、マリンバとオーケストラの協奏曲です。オーケストラによる現代音楽とマリンバのどこか原始的な民族音楽を思わせる音が相互に音を奏でながら、ラストでは一体化した大きな音にまとまっていくという25分ほどの曲となっています。このコンサートでは打楽器が印象的な曲がたくさん使われていますが、打楽器の音に原始的というかシャーマニズムの空気が盛り込まれています。オーケストラの中で、マリンバ奏者が巫女さんみたいなポジションになるのが、コンサートならではの面白さだと思いました。今回のコンサートのピークはこの曲でしょう。

3、「銀嶺の果て」
休憩の後は、作曲家の池辺晋一郎と指揮者の井上道義の二人がMCとなって、ぐっとくだけた感じの映画音楽コンサートになります。とはいえ、二人のだだすべりのMCぶりは、せっかくの演奏の感興を削いでるような気もしちゃいました。この「銀嶺の果て」は、この前の伊福部のコンサートでも演奏されましたが、こっちの方は、タイトルとスケートのシーンのみをピックアップしています。緊迫感あふれるテーマから、イングリッシュホルンのソロになって、そのまま曲が終わってしまうというケッタイな構成になっていますが、そのソロこそがこの曲の目玉だったようです。ヒロインのスケートのシーンに、谷口千吉監督は優雅なワルツを要求したのに、伊福部が物悲しく聞こえるイングリッシュホルンのソロ曲をつけてきて、監督ともめてしまったそうで、そのエピソードが語り伝えられて、曲も有名になったそうです。

4、「大魔神」
「大魔神」のテーマを、その怖さの迫力を前面に出した演奏で聴かせてくれました。荒ぶる神様を描写するのに、低音金管を増量した楽器構成での演奏になっていまして、わざと音をはずすくらいに金管を力いっぱい鳴らしているのも、オリジナルの迫力を再現した演出だったのではないかしら。3部構成で、メインタイトル、エンディング、そして大魔神が暴れまわるシーンの曲となっています。サントラでは、流れるような静かな曲だったエンディングがコンサート用にメリハリあるドラマチックな曲になっているのが印象的でした。

5、「ビルマの竪琴」
前回の伊福部コンサートでは、「ビルマの竪琴」の演奏はなかったのですが、「ゴジラ」の中の、「帝都の惨状」のシーンの曲で、この旋律を聴いています。ほぼ、同じ曲でして、伊福部昭の映画音楽は、いわゆる使い回しが多くありました。彼の作曲した映画の膨大な本数からすれば、全部オリジナルは無理だと思いますから、それは仕方のないことだと思います。同じ旋律から、「ビルマ」だ、とか「ゴジラ」だ、と思う人がいるのは面白いと言えば面白いことだと思います。ストリングスのユニゾンのまとまり感、美しさに、オーケストラの実力を感じさせる演奏でした。

6、交響組曲「わんぱく王子の大蛇退治」より前奏曲~オープニングタイトル~アメノウズメの舞
伊福部がアニメを手がけたことで有名なこの作品は、プレスコという音楽を先に録音するやり方だというMCの説明がありました。果たして全部そうだったのかは疑問なのですが、アメノウズメの舞の部分は先に音楽を取り、それに合わせた実写の舞を撮影し、それに合わせてアニメートしたと何かの本で読んだことがあります。アメノウズメの舞では、オーケストラの最後列にパーカッションが7,8人並んで和楽器も交えて、豪華な音を奏でています。コンサートの後半の楽曲の目玉商品はこれでしょう。

7、「ゴジラVSモスラ」
映画としては大して面白くなかった「ゴジラVSモスラ」ですが、ここで演奏されたのは、ゴジラモティーフのメドレーともいうべきもので、いわゆる定番パターン。モスラの「聖なる泉」がオーケストラで聴けるというところが、この曲の目玉でしょう。バックにプロジェクションマッピングで「ゴジラVSモスラ」のシーンが登場するのですが、バックにはパイプオルガンがデンと控えているので、その両脇しか映らないので、あんまり効果なかったような。それよりも、フルスロットルで鳴らしまくるホーンセクションの頑張りが見たかったです。プロジェクションマッピングで場内が暗くなっちゃったのがなあ。

8、アンコール「シンフォニア・タプカーラ 第三楽章」
最後に指揮者の井上道義が伊福部とアイヌのことを語り始めると、オケが勝手に演奏を始めるという趣向で、タプカーラ交響曲の第三楽章が演奏されました。アンコール曲としては、大変盛り上がる曲でした。グダグダMCのせいで、時間が押してしまったのか最後があわただしくて、アンコールの盛り上がりとしては今イチだったかな。

そんなわけで、日フィルの演奏がじっくり聴けた1曲目と、凝った音の構成が楽しかった6曲目が印象に残るコンサートでした。やっぱり、オケがいいと曲の格が上がるんだなあってのが実感できたのは収穫でした。

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einhorn2233

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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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