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「たたり」は心理スリラーと心霊ホラーの並行2本立ての構成が見事


Jホラーの本を買ったら、そのルーツ的存在として紹介されていたアメリカ映画「たたり」をDVDで観ました。990円という値段はうれしいのですが、画質音質が今一つよくありません。映像的にも見所多い映画だけに廉価版ブルーレイとか出ないかしら。

ニューエングランドの片田舎にあるお邸は、90年前、当主の妻がそこへ来る途中に事故死、後妻もその邸で怪死、娘はそこの保育室で一生を過ごし、娘の死後、邸を引き継いだ村娘は首吊り自殺、その後は幽霊が出るといううわさがしきりで、三日と人が居つかないお化け屋敷になっちゃっていました。そのお邸に目をつけたのは、人類学と超常現象の研究家であるマークウェイ博士(リチャード・ジョンソン)で、滞在して超常現象の実験をしようと申し出ます。そして、過去に超常現象に遭遇したことのあるエレナー(ジュリー・ハリス)と透視力を持つセオドーラ(クレア・ブルーム)が邸に招待されます。そして、オーナーの甥っ子ルーク(ラス・タンブリン)が実験に立ち会うことになります。人間の感覚を狂わせるような微妙に歪に設計された邸に面食らう一同。エレナーは青春を母親の介護の費やして、なのに姉からは疎んじられ、精神的にちょっとまいっていました。そんな彼女はこの邸に期待するところがありました。ここは自分を待ってくれている、受け入れてくれる場所なのかも、マークウェイ博士とのロマンスがあるかもと。着いたその晩、謎のノック音がエレナーとセオドーラを悩まします。そして、翌朝、壁にはエレナーへ向けてのメッセージが書かれていました。一体、この邸には何がとりついているのでしょうか。

「くじ」のシャーリー・ジャクスンの原作を「アンドロメダ」のネルソン・ギディングが脚色し、「ウエストサイド物語」「スタートレック」のロバート・ワイズが監督したホラー映画の一編です。幽霊屋敷という設定で、登場する「丘の家」ですが、その正体は最後まで不明。ただ、尋常でないものがこの家にはいるのだというのを当時としても恐怖度の高い演出で見せます。ショック演出もちょっとだけありますが、何でもない映像に、テンション高い恐怖を刻み込むという演出で、ホラー耐性のない人が映画館で観たら、相当神経がまいっちゃうだろうなって映画に仕上がっています。上品な「悪魔のいけにえ」だと言ったら、ほめてることになるのか、けなしてることになるのか。同じく心霊的(心霊かどうかはっきりしてない)現象を扱った映画で「呪われたジェシカ」というのがありまして、それをテレビの深夜映画で観たときに震え上がった記憶があります。それと似た意味で、グロとかショックでないハイテンション恐怖映画として、この映画は記憶に値する一品に仕上がっています。見えないものを感じさせて、恐怖を盛り上げる演出は、Jホラーのアプローチと同じものがありまして、1963年のこのモノクロ、シネスコの映画がJホラーに多大な影響を及ぼしているというのは確かにうなづけるものがあります。

この映画は、邸そのものが具体的な意思表示をしてこないので、ドラマ的には、ヒロインであるエレナーの物語がメインとなってきます。母親の看病で青春を棒に振ったのに、母親が死んだ晩だけ呼ばれたのに答えなかったことを姉に責められ、挙句の果てに厄介者扱いされているという設定。かなり精神的に不安定な状態です。その弱さをつかれて、邸にとりこまれていくようにも見えますし、彼女が邸を選んだようにも見えます。彼女と邸が相思相愛という見方もできまして、そのあたりの関係を映画ははっきりとは描きません。ただ、彼女は定職もなく、母親が死んだ後は行くあてもない状況で、マークウェイ博士との間に勝手にロマンスを夢見ちゃうかなり痛くて悲しいキャラ。ワイズの演出は、彼女が精神的に追い詰められている状況をシビアに描いていまして、その突き放した感じが、大変クールな印象を与えます。ここで言うクールは冷静と冷淡の両方の意味を持ちます。そのスタンスが最後まで貫かれるので、後味は不思議と静かで、そして物悲しさを運んでくるものになっています。

邸の中で起こる超常現象は最近の映画のようなSFXバリバリの見せ場ではありません。どこかを叩く音が邸の中を移動していくとか、ドアが勝手に開閉したり、また廊下の一角が異常に寒かったりするという現象が起こります。また、エレナーの主観で、何者かに手を握られたり、子供の泣き声が聞こえたりするのですが、彼女の主観部分は幻覚かもしれないという見せ方にもなっています。でもエレナーが邸に一番心を開いているので、いろいろな異常体験をするという見方もできます。客観的に描かれる音とか温度などの超常現象と、エレナーが個人的に体験する超常現象が区別されて描かれていることで、この映画に対する様々な解釈が生まれてくるのですが、それはご覧になって判断していただきたいと思います。その一方で、客観的な超常現象は背景が想像できそうでよくわからないので、純粋に怖いです。普通の恐怖映画なら、その恐怖のバックボーンとなる物語があるものですが、この映画では誰の幽霊が出てくるとか、誰かの意思が働いているといった物語を与えてくれないので、とにかく何か得体の知れない事態が起こっているということしかわからないのです。そして、古びた邸の不気味な雰囲気、天使像などの調度品や図書室のらせん階段、廊下の鏡などがこの世ならざる空気を運んできて、それらがスクリーン上でアップになるだけで何か怖い。部屋の中が映し出されるだけで感じられる、恐怖の圧迫感みたいなものがすごいのですよ。グロもショックもないですが、やっぱり怖いもの持ってますこの映画。家のテレビでこれだけ映像の圧を感じたのですから、映画館だったらかなりすごいかも。

演技陣は、「サンゲリア」のリチャード・ジョンソン、「ダーク・ハーフ」のジュリー・ハリス、「サンダ対ガイラ」のラス・タンブリンなどが、それぞれに好演。オーディオコメンタリーによると、エレナー役の解釈で、ジュリー・ハリスとワイズの間で対立があったようですが、確かに色々な解釈が可能な役どころであり、物語であるように思えます。映画としては、基本的に心霊ホラーであるのですが、その一方で、邸にとりこまれていくヒロインのドラマは心理スリラーにもなっていまして、その両方をバランスよくさばいたワイズの演出が光る一編になっています。心霊ホラーをクールに描く一方で、ヒロインの心理をナレーションで丁寧に拾っていくことで、ホラーとしても心理スリラーとしてもよくできた作品に仕上がっています。これは、脚本のネルソン・ギディングの力も大きいでしょう。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



マークウェイ博士との間のロマンスを夢見ていたエレナーですが、そこへマークウェイ夫人がやってきて、エレナー撃沈。夫人は超常現象なんて全然信じない人で、一番の心霊スポットである保育室に泊まると言い出します。ずいぶんと強気な奥さんですが、博士もそれを止められません。そして、エレナーたち4人は1階の部屋に集まって寝ることになります。すると再び何かを叩く音が部屋に近づいてきます。今度は4人みんなが目撃者です。その何者かがドアの前に止まると、ドアが内側へ向かってものすごい力でゆがむではありませんか。マークウェイ夫人の身を案じた4人が保育室へ向かうとそこはもぬけの殻でした。そして、何かに憑かれたようになったエレナーは図書室の壊れかけた螺旋階段を上っていきます。彼女はマークウェイ博士に助けられるのですが、これ以上は危険と判断され、ここを立ち去るよう、マークウェイ博士に言われてしまいます。しかし、エレナーは自分には行くところがない、ここにいたいと言い返すものの、結局、車を運転して出て行こうとするのですが、そこでさらに邸の誘いがあったのか、木に車をぶつけて、エレナー死亡。そこは、かつての当主の妻が事故死した現場でもありました。かけよる、マークウェイ博士の前に行方不明だったマークウェイ夫人が現れますが、彼女はどこをどうやってそこに来たのか記憶がありませんでした。そして、エレナーを取り込んだ邸はひとときの満足を得たのか、再び静かに眠りにつくのでした。おしまい。

どういう結末になるのかと思っていたのですが、エレナーの死はある意味必然だったようです。でも、その死は必ずしも彼女にとって不幸だとは言えないという余地を残しているのが面白いところです。彼女は自分の望むように邸と一体化した。行くところのない不幸な人生の彼女にとっての、唯一のハッピーエンドなのかもと思わせるあたりに、ストレートな悲劇とも違う物悲しい後味が残りました。ともあれ、この1963年のホラー映画が今も記憶に残り、話題になるってのはすごいことだと思います。何千と作られるホラー映画の中でも特筆されるべき1本になっていることは間違いがないようです。それに、意外とこの映画と同系列のホラー映画を観たことがないということがあります。「呪われたジェシカ」には似たテイストを感じましたが、「たたり」のリメイクである「ホーンティング」は発端だけ同じで、中身は別物だという印象しか残りませんでした。幽霊屋敷を扱ったホラーでは「ヘルハウス」という傑作もあるのですが、そちらは悪霊と人間との対決という別アプローチの作品になっていまして、こういうシンプルな幽霊屋敷ものというのは意外と映画化しにくいのかもしれません。
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「ワールズ・エンド」はジョン・カーペンターファンの私にうれしい映画、面白い。


今回は新作の「ワールズ・エンド」を川崎チネチッタ5で観てきました。消費税の増税に伴い、映画のプログラムが値上がりしていました。まあ、仕方ない部分もあるのですが、3%から5%になったときにこういう端数の出る値上げをしたっけかなあ。

1990年、イギリス郊外の町ニュートンヘイブンで、5人の少年が12軒のパブを一晩で回るというのにトライしたのですが、最後の店までたどり着くことができませんでした。そして、現代、かつての少年もおっさん世代になっているのですが、その5人のうちの一人、ゲイリー(サイモン・ペグ)が、それぞれに職を持って活躍しているアンディ(ニック・フロスト)、スティーブン(パディ・コンシダイン)、オリヴァー(マーティン・フリーマン)、ピーター(エディ・マーサン)のもとを訪れ、「パブ12軒巡りをもう一度やろう」と声をかけます。そして、5人は故郷ニュートンヘイブンへとやってきます。ホテルへ荷物を降ろした一行はさっそくパブ巡りを始めます。ゲイリーだけがやたらテンション高くて、他の4人はちょっと引き気味ではあるのですが、高校時代の友人の再会でもあるので悪い気はしません。お互いの近況を確認しつつ、店をはしごしていくのですが、ある店のトイレで、ゲイリーが客の若者とトラブルを起こしたことで、パブ巡りはとんでもない方向に向かってしまうのでした。

「ショーン・オブ・ザ・デッド」のエドガー・ライトと「宇宙人ポール」のサイモン・ペッグの書いた脚本をライトが演出した、ホットなバカコメディの一編です。ペッグ演じる主人公のゲイリーは、40にさしかかろうとしてるのに頭の中は十代で止まっちゃってるみたいなかなり痛い男。無職らしくて、アル中の会にも通っている、いわゆる人生の負け組。彼の高校時代の同級生で、パブ巡りをした4人は皆それぞれに社会での地位を持った分別ある大人になっていました。そこへ、突然ハイテンションのゲイリーが現れて、未完に終わったパブ巡りをもう一度やり直そうって言い出します。あんまり強くゲイリーが言うものですから、それに折れて4人は故郷の町に集合することになります。ゲイリーの痛いキャラに振り回される、いい年した大人4人という設定でドラマが始まるのですが、本当のパブを順番に回っていくだけの展開に、何の話なんだこれは、と思っていると、ゲイリーがパブのトイレで客の若者と殴り合いになってしまうところからドラマが動きだすことになります。

エドガー・ライトの演出は、意表を突く展開をバカバカしくもテンション高いまま走らせることに成功しています。また、ゲイリーの徹底した痛いダメキャラぶりが、ラストへの伏線になっているのもおかしく、旧友4人が事件に巻き込まれてからも、同窓会のノリのままなのがオフビートなおかしさを運んできます。殴り合いのシーンが多いのですが、視覚効果も交えての肉弾戦はなかなかの見せ場になっていまして、全体に流れるおかしなノリにはまると相当楽しめる映画に仕上がっています。特に、事件に巻き込まれてもパブ巡りをやめないという強引な展開を笑ってやりすごせれば、後は映画のノリで最後まで引っ張られてしまいます。そういう意味では、ライド感の高いスクリューボールコメディということができましょう。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(私は以下を知らなくて、映画を余計に楽しみましたので)



テンション高いゲイリーはパブのトイレで入ってきた若者のちょっかいをかける(平たく言うと絡む)のですが、すると若者の表情がかわってなぐりかかってくるではありませんか。ゲイリーが反撃に出ると、若者の首がもげて青い絵の具のような血が流れます。こいつ人間じゃない、ロボットだ。ゲイリーを心配した仲間もトイレにやってくると、そこへ若者の連れもやってきて、さらに乱闘になり、青い血が飛んで、ロボットの手足首が飛ぶのでした。どうやら、町の連中がロボットに入れ替わっているらしい、人間のままの奴も少しはいるみたいだけど。逃げ出すためには、連中の目をくらますために、ともかく最後までパブ巡りをしようということになります。時期を同じくして故郷に帰ってきていたオリヴァーの妹サム(ロザムンド・パイク)も一行に合流して、何とかその場をやりすごそうとします。しかし、通りに出れば町の人間が不気味に立って彼らを見つめていますし、次のパブで、若い頃のままの女子学生に骨抜きにされそうになり、さらに次のパブでは、高校の恩師(ピアーズ・ブロスナン)が昔のままの姿で、これは侵略ではなく合意の基づく共存なのだと言います。どうやら、町の人間のDNAから複製を作り、本人の望む若さ記憶を与えているようなのです。ピーターは複製にいつの間にか入れ替わり、オリヴァーも複製ロボットの集団に捕らわれてしまいます。ゲイリーとアンディは追っ手をまいて最後のパブまでたどり着くのですが、するとパブのカウンターが地下に下がっていき、侵略者の基地へと連れ込まれてしまいます。

侵略者ネットワーク(声ビル・ナイ)は姿を見せないで、声だけでゲイリーとアンディを屈服させようと、します。すでに地球の各地にこういう侵略ポイントがあり、多くの人間が複製ロボット(抜け殻)と入れ替わっているというのです。そして、元の人間は肥料にしたと恐ろしいことを言い出します。地球は文明が低レベルで、銀河系同盟に入るためにこれは必要なことだとネットワークは説きます。ここ20年でネットが発達し世界が変わったのもみんな自分のおかげなのだとネットワークは言い切ります。しかし、ゲイリーは低レベル上等、それよりも自由が大事、好きにさせろと酔っ払いのゴタクを並べると、ネットワークはあきれて、じゃあやめたと地球から撤退してしまいます。その撤退の余波で、地球の文明は壊滅状態となり、生き残った人々は自給自足の近代以前の生活に戻ってしまいます。そして、複製ロボットも生き残ってしまい、人間と複製ロボットのサバイバル世界の中で、ゲイリーは若い頃の仲間4人の複製ロボットを引き連れて、今日も闘いの日々を送っているのでした。おしまい。

突然、若者の首がちぎれて、ロボットだとわかってからの怒涛の展開はどんどん話がでかくなっていくのがおかしく、その世界規模の侵略話のわきで、何が何でもパブ巡りを貫徹することにこだわるゲイリーのミスマッチな笑いもあり、最後まで予想のつかないまま、映画はハイテンションで突っ走ります。主人公5人がロボットととの格闘シーンになるとものすごく強いってのも意外性がありまして、かなり派手なアクションシーンで、それを首なしロボットがやっているので手がかかった見せ場になっています。また、人生の負け犬であるゲイリーが侵略者をあきれさせて、地球を救ってしまうという力技も面白かったです。自由が欲しいというのも、人間の尊厳の叫びではなく、あくまで酔っ払いのゴタクレベルなのがおかしく、テンション高いけど、オフビートという離れ業の映画に仕上がっています。主演の5人の演技陣も適役適演という感じで、いわゆる演技派の面々がバカやっているという余裕が感じられました。

個人的にツボだったのは、ジョン・カーペンターへのオマージュが散りばめられていること。アメリカでは、オマージュされることなんてまずないカーペンターへのリスペクトをイギリスでやってるってのも面白いと思いました。カーペンター映画の定番なのが、シネスコ画面に横一列に人が並ぶ構図。これは、主人公5人が町を歩く絵として再現されています。また、町の人間が横一列で主人公に迫ってくるのは「パラダイム」「マウス・オブ・マッドネス」の再現ですし、傷を見せ合って本物かどうかを確認するのは「遊星からの物体X」の血液検査のパロディ。後、これはうがちすぎかもしれませんが、ラストで、ネットワークが地球から手を引いたら地球の文明が近代以前に戻っちゃうというのは「エスケープ・フロム・LA」のラストのオチへのオマージュだと思っています。ここまでやられるとカーペンターファンとしては、この映画、かなりうれしい一品となりました。

イギリス映画だからでしょうか、単にパロディとかドタバタ以外のシニカルな視点が感じられるのも面白いところでした。アル中のゲイリーがパブ巡りにこだわるのは自分には他に何もないからだと叫ぶシーンのリアルな引く感じですとか、テンション高いゲイリーへの他の4人の腰が引けてるスタンス、そして力で侵略してるわけじゃないというネットワークのスタンスなど、そのクールな笑いは、アメリカ映画よりもセンスを感じると共に、気取ってるねーって感じもしちゃいました。特に侵略者が、地球人を納得ずくで複製ロボットに入れ替えているとか、ここ20年のネットの普及は侵略者によるものだったというのは、ちょっと引っかかるおかしさが印象的でした。地球を銀河系同盟に席を並べさせるために改良しているというのが、侵略者ネットワークの言い分なのですが、人間なんて所詮は下種な生き物だから好きにさせろというのは、人間なんてどう転んでもダメなんだよという、ボヤきのようにも聞こえてくるあたりが、この映画の隠し味なのかも。

「パンドラの約束」は原発推進論者からの提言として一見の価値あり。


今回は新作の「パンドラの約束」を横浜ニューテアトルで観てきました。こういう地味なドキュメンタリーを近い映画館で観られるってのはうれしい限り。横浜市民でよかったって思える瞬間でもあります。

アメリカで、原発反対論者のなかから、賛成論者へ転向する人がいます。環境保護を訴えて原発に反対してきた人の中から、旧来の環境保護論に疑問を感じ、いろいろなことを調べなおして、原子力発電こそが未来を救うものだと考えを改めたのだそうです。そもそも原子力発電は核兵器と並べられることが多く、それだけでイメージがよくないところがありました。最初に作られた軽水炉タイプの原発は廃棄物も多くでるものでしたし、安全性に問題のあるものもありましたが、最新の原発は燃料の再利用型であり、トラブル時の信頼性も上がっています。そして、今、地球の問題となっている温暖化問題を考えたとき、CO2を出さない原子力発電は、切り札となるものなのです。スリーマイルやチェルノブイリの事故で危険な原発のイメージを増幅させましたが、スリーマイルの事故で死者は出ていませんし、チェルノブイリで癌による死者も極めて限定されたものでした。風力発電や太陽光発電では、大量の電力需要をまかなえないこともわかってきました。また、問題となる放射線量も、自然の放射線と比べても大きな違いはないようなのです。地球環境を守る選択肢としての原子力発電はさらに安全化効率化のための開発を推し進める必要があるのです。

反原子力の記録映画を撮ったこともあるロバート・ストーンが脚本、監督したドキュメンタリーです。私は、どちらかと言えば、反原発なのですが、それだけに、原発推進派の映画ってどんなものだろうってのが興味ありました。原発って言えば、東日本地震の時の福島第二原発の事故がまず頭に浮かび、地震の結果、立ち入り禁止区域ができちゃった、その原因だというイメージがあります。そんな先入観からこの映画に臨みました。

この映画では、実際に福島に取材していまして、その映像が登場します。また、チェルノブイリにも取材しています。立ち入り禁止区域に、かつての住人が戻って暮らしている様子が描かれ、誰も癌で死んでいないという証言もとっています。実際に死者の数も数十人のオーダーであったことが語られ、そもそもこのチェルノブイリは旧式の核兵器開発用の設備で、今の原発では起こりえない事故であったと語ります。なるほど、これが本当なら、「故郷よ」でヒロインの髪の毛が抜けるってのは映画の創作だってことになるのかって、ちょっと発見。

また、この映画の発見というか、新しい視点は、地球温暖化と絡めているところ。スリーマイルやチェルノブイリの頃は、まだ騒がれていなかった温暖化ですが、これが原発による放射能汚染よりも身近な脅威となってきたことから、その解決策としての原発がこれまでとは逆のいい意味で脚光を浴びてくるのです。さらに、世界の電力消費量は増加の一途をたどっている事実も示され、そうなると原発によるメリットとリスクをもう一回天秤にかけ直す必要が出てきたわけです。代替エネルギーとしての風力や太陽熱は、電力を安定して供給できないため化石燃料を併用するしかないという弱点を持っていました。一方の原子力発電は、CO2は出さずに大量の電力を安定して生み出すことができます。なるほど、燃焼から熱を作る発電方法がダメとなったとき、もっとも現実的なエネルギーは原子力だというのは説得力があります。さらに、問題となる廃棄物についても、新しい原子炉であれば、核燃料の再利用が行われることから、廃棄物を減少させることができますし、現状でも、環境問題と言えるほどの量は出していないというのです。廃棄物のそばでも放射線が出ていないことも示されます。

その一方で、環境保護論者が根拠のない論理を振り回してるという描き方をしています。多分、極端な環境保護論者を選んでいるのでしょうが、政府や大企業が本当の事を隠蔽していると豪語しちゃう陰謀論者になっちゃっています。環境保護を訴える人がみんな、陰謀論者ではないでしょうから、このあたりは、環境保護論へのネガティブキャンペーンになっています。この他にも、突っ込みどころというか、それはホントなの? とか、量の単位は何なの?という疑問が生じる映画でもあります。言いたいことはわかるのですが、どこか論理性を欠くというか、情報の出し方がすっきりしないところがあるのです。確かに1時間半の枠で、誰にでもわかるように原発の安全性を説明しきるのは難しいのかもしれませんが、もう一声説明を足してくれよと思うところが結構ありました。

また、この原発問題が政争の具になっていることも示されます。民主党と共和党の対立構造が、原発推進と反原発の闘いとなり、新しい原子炉の開発プロジェクトが中止となってしまったという事例が登場します。安全で廃棄物も少ない原子炉の開発が中断されちゃったのですから、これは悲しむべきことでありますが、その一方で、政争の具になるということは、利権が絡んでいるということも意味していることは注意する必要があります。この映画の中で、環境保護論者が語っていて、原発推進派が語っていないのは、大企業の利益追求という点です。個々の利益誘導の問題でない、地球的視点の問題として原発推進を提唱しているのですが、でも莫大なお金が動いているのは事実。日本だって、田舎に原発を立てる時に、官民一体となってお金が流れ込む仕掛けを作っているわけですから、日本以上に資本主義なアメリカで利権が動かないわけがない。この映画の中で、原発推進論を語るのが、元環境保護論者だけというのは、うまく現実から目を逸らさせようとしているように思えてなりません。原発推進派と反原発派のスポンサーがわかれば、本当の構図が見えてくるのですが、この映画は、原発推進派と反原発派を客観的に描く映画ではないので、双方の黒幕が見えてこないのは仕方ないのでしょうけど、原発推進派にとって不都合な事実が語られていないのだろうなって思えてしまうのは、やむを得ないものがあります。

私は、この映画を観て、反原発から原発推進に乗り換えるには至りませんでした。この映画だけでは、説明不足だというのが一番の感想でした。確かに、チェルノブイリで癌で死んだ人がごくわずかであったことは発見でしたけど、福島第二原発の二の舞が起こらないという根拠は一切示されなかったので、それでは、何だか信用できないなあって。化石燃料による地球温暖化という図式も、実は私、よく理解できていません。温室効果を持つガスが人間の活動によって起こるところまではわかるのですが、その一番のワルがCO2だというのは本当なのかなって思ってます。そんな悠長なことを言ってる場合ではないと怒られちゃいそうなのですが、危機感を煽るものは、一応疑ってかかった方がいいと思っている私には、今一つすっきりしません。さらに、感覚的によくわからないのは、核廃棄物が安全だという話。そんな安全なものをわざわざ人里離れた青森の六ヶ所村で処理しなきゃいけないのかという疑問がやっぱり残ってしまうのですよ。つまり、最先端の原発は昔よりだいぶ安全になってきているようなのですが、今、世界中にある原発は最新型じゃないから、それほど安全でもないし、廃棄物も出すんじゃないの?という疑問もあります。

そして、もう一つは、人間というソフトウェアが信用できないということ。福島第二原発の事故の再発防止策を日本全部の原発に実施したという話は私は聞いたことないです。今の日本なら、どこでも地震と津波のリスクを持っているわけで、次に想定外の事象がどの原発に起こるかもしれないのです。それを、原発の位置が活断層の上かどうかという議論をしているのは、話が違うと思うのです。また、地元に落ちるお金や仕事と天秤にかけるというのも、別の話だと思うわけです。この映画だって、原発推進論者がその意向に観客を誘導する意図で作られていますから、そこにどうしたって情報の取捨選択のバイアスがかかっているのです。これは反原発の映画でも同じことです。だからこそ、示された情報はよく吟味する必要があるのですが、そのためにはかなり勉強する必要もあるわけでして、日々の生活にかまけている私のような凡人は、そこから何かを感じとるのがせいぜいです。

ただ、この映画で最後まで気になったことがありまして、それは、すごく合理的に地球を救う手段としての原発推進論を唱えているということ。そして、そこに潜むリスクをあえて言ってないと思えたことです。リスクはゼロになんかできない、そんなことを実現しようとすれば、コストが膨大となって現実的でないことも十分理解できます。でも、そのリスクによって切り捨てられる人はどのくらいいるのかということが気になるのです。福島第二原発事故で住んでたところに居られなくなってしまった人は、地球を救うための犠牲者ということになるのですが、そういう犠牲者を仕方がないものとして切り捨ててしまう非情さが、合理的原発推進論には感じられるのですよ。一方の反原発の立場の人は、そういう犠牲者や汚染される可能性のある環境をクローズアップして、その論陣を張ってきます。お互いの視点が別のところにあるので、反原発派と原発推進派の意見は噛み合わないところが多いと思います。でも、実際は、相互の足りないところを補完しあっているのではないかしら。落としどころは、両者の折衷点にあると思うので、どちらの意見も切り捨てたくないなあってのが、凡人の正直な意見です。

後、この映画のプログラムにちょっと面白いことが書いてありました。この映画をアメリカの映画祭で上映したとき、観客の75%が原子力反対であったのに、映画終了時にはその8割が原子力支持に変わったんですって。それもあんまり単純すぎるんでないかい。そこまでの説得力はこの映画にあったとは思えないのですが。

「狩人と犬、最後の旅」はドキュメンタリーとして面白い構成、そして美しい絵。

テレビ放映されます「狩人と犬、最後の旅」はかなり好きな映画。別のHPにアップしていた記事を転載させていただきます。

カナダのロッキー山脈で狩を営むノーマン・ウィンター(本人)はそろそろ引退を考えています。大手企業の森林伐採が進み、生態系は崩れつつあり、彼の狩猟方法である罠を仕掛けることも難しくなってきていました。冬の狩猟シーズンに向け、町に買出しに出かけたノーマンですが、そこで、長年の相棒であった猟犬のナヌークを交通事故で失います。ナヌークは犬ぞりを引く犬たちのリーダー格でした。友人が代わりの犬としてメスのアパッシュを彼にプレゼントします。ノーマンはアパッシュにあまり期待していなかったのですが、氷の湖にはまった彼を助けたことで、アパッシュは一躍ノーマンにとっての特別な犬となります。そして、冬が終わり、春がきます。次の冬にノーマンは再び狩猟のために山に入ることになるのでしょうか。

冒険家としての名前もあるニコラス・ヴァニエがある時知り合ったノーマン・ウィンターという狩猟家に感銘を受け、彼自身を主人公にした映画を作ったのだそうです。ヴァニエが脚本・監督を担当していて、これはドキュメンタリーではなく、実際にあったことをベースにしたドラマなのだそうです。ちょっと考えるとややこしいですが、その昔、力道山や稲尾投手の本人が主演する映画があったそうですから、それと同じ類のものかも。さらにさかのぼれば、ドキュメンタリーと言いながら、相当演出の入っていたロバート・フラハティの「アラン」までたどり着くかもしれません。ともあれ、こういう作りの映画はまったくなかったわけではないのです。

映画はノーマン・ウィンターの日々の生活を淡々と綴っていきます。犬ぞりを使って移動し、罠を仕掛けて狩をする彼の日常はそれだけで、映画的な興奮があります。さらに、新しい犬アパッシュをめぐるエピソードが挿入されますが、ドラマチックな展開にはなりません。ノーマンは自分たち猟師の存在が生態系の維持に貢献しているという自負がありますが、企業の森林伐採による生態系の崩壊によって、その役割も終わろうとしているという達観もあります。もう、彼のような猟師はほとんどいないのです。監督のヴァニエは、その失われつつある生活や文化というものを映像に残そうとしているのかもしれません。

ドキュメント風な作りではありますが、その映像の作り方は完全にドラマとしての完成度を持っています。特にティエリー・マシャドのキャメラはシネスコのフレームを最大限に生かして、かつリアルな移動ショット、俯瞰ショットを切り取っており、極寒の山岳地帯の撮影ながら、素晴らしい映像になっています。山の急斜面を登っていく犬ぞりですとか、氷の張った湖のたたずまい、春の清流で鮭を狩る熊、狼の群れの夜間ショット、大自然を切り取るその視線は画家のそれに近いものがあります。ありのままというには、あまりにも美しい構図は必見と言えましょう。

また、主人公のちょっと饒舌なナレーションが気になったのですが、、主要人物(全て実在する人)は声を俳優によって吹き替えているのです。事実の映画化から始まった企画ながら、その映画化にあたって、最大限の創意工夫がされているのです。その結果、観ている方はあたかもそこにあることのように感じることができるのです。当初、本人が主演する映画ということである種の胡散臭さを感じていたのですが、実際に本編を観ると、なるほど、これがドキュメンタリーの一つの作り方なのだな、と納得させられるものがありました。

当然、そこには、作者の明確な視点が含まれていまして、ノーマン、そして猟師たちへの想いが映像に込められています。しかし、ヴァニエは彼らの生活をできる限り淡々と描くことで、そのメッセージに説得力を与えるのに成功しています。自然の中で、その一部として生きることは、確かに素晴らしいことかもしれないですが、今、全世界の人間がそんな生活をできるかというと、それは無理。人間が増えすぎたために、自然もいつかは淘汰されざるを得ないだろうという視線がこの映画には感じられます。ノーマンはもう今年が最後の狩りになるだろうと考えています。そして、町へ下りて職探しをしなくてはとも言います。人間と自然との共存なんてかっこいいことを言っても、実際の当事者たちはその限界を知っている、そんな切ない思いを感じさせておいて、ラストで、それでもノーマンの猟師としての暮らしはまだまだ続くという見せ方をして映画は終わります。それを希望と見るか、現実の先送りと見るか、色々と考えさせるものがありました。

でも、その一方で、あの美しい風景を一度、直接見てみたいものだという観光気分にもさせられる映画でした。ただ零下50度の世界にまで出かけて、死ぬ思いをするのだろうと思うとなあ

「怪獣総進撃」はマジメな作りが今の目では新鮮。でも、子供目線には怪獣大盤振る舞い。


今、日本映画専門チャンネルでゴジラ映画を続々放送中で、懐かしくて何本か観ちゃいました。「キングコング対ゴジラ」は、スペクタクルの面白さが大画面で観るにふさわしい映画になっていましたけど、ゴジラとキングコングのプロレスは着ぐるみの中の人を感じさせるので怪獣っぽさが一歩後退しちゃっていました。「怪獣大戦争」は、ラスト10分までは侵略ものSFになっていて、ゴジラは最後に暴れるだけという感じでした。そして、「怪獣総進撃」を観てみれば、これが結構面白かったです。特撮ファンの評判としては、今一つなところもあるのですが、最後まで一気に観ちゃいましたから、娯楽映画としてはいい線いってるのかも。

地球をさんざん破壊したゴジラを始めとする10大怪獣は小笠原の怪獣ランドで、安全に制御されて飼育されていました。そんなある日、小笠原で異常事態が発生し、怪獣たちと研究員が行方不明になります。そして、怪獣たちは世界各地に出現し、都市を破壊しまくるのでした。月基地から、宇宙ロケット、ムーンライトSY-3号が急遽呼び出され、艦長の山辺(久保明)たちが小笠原へ向かうと、彼らを研究員の真鍋(小林夕岐子)たちが迎えます。研究員たちは謎のキラアク(愛京子)という女性を紹介し、キラアクの素晴らしい科学力を賞賛します。山辺たちは、研究員たちと撃ち合いになりますが、その中の大谷博士(土屋嘉男)を連れ帰るのですが、博士は隙を見て、窓から身を躍らせます。その死体から、電波発信機が発見され、研究員たちはキラアクによって操られていたことがわかります。そして、ついにゴジラが東京に現れ、さらにラドン、マンダ、モスラも現れ、東京はメチャクチャにされちゃいます。その怪獣の襲撃の間に、キラアクは富士山麓に基地を作っていました。キラアクは地球に永住権を求め、それに従わないのなら怪獣でもっと破壊しちゃうよって脅してきます。一方、地球の科学陣は怪獣を操る電波が月から出ていることをつきとめ、SY-3号が発信源を破壊するために月に向かうのでした。

怪獣ブームも沈静化した昭和43年に東宝がこれで怪獣映画に一区切りつけるべく作った作品です。「サンダ対ガイラ」の馬渕薫と本多猪四郎のコンビが脚本を書き、本多猪四郎がメガホンを取りました。円谷英二は特技監修という肩書きで参加し、特技監督は有川貞昌が担当しました。

怪獣映画のパターンには2種類ありまして、まず、怪獣そのものがドラマの中心にあって、それに付随して人間側のドラマが設定されるもの。「ゴジラ」「空の大怪獣ラドン」「キングコング対ゴジラ」などがこれにあたります。もう一つは、メインのドラマがあってそのドラマのパーツとして怪獣が使われているもの。「怪獣大戦争」「キングコングの逆襲」なんでのがこれに該当します。後者の方では、怪獣の絶対的な存在感が後退してしまうので、怪獣映画としては邪道扱いされることもあります。「怪獣総進撃」は、怪獣を使って地球征服をしようとする宇宙人キラアクと人類の闘いを描いたもので、後者に属するものになります。女性の姿をした宇宙人キラアクは、怪獣ランドの怪獣を操って、世界中を破壊するというスケールの大きなお話でして、ラドンがモスクワを襲撃し、ゴロザウルスが凱旋門を破壊し、ゴジラがニューヨークで暴れます。

怪獣は宇宙人の兵器として扱われて、これを脅しのタネにして、地球に定住しちゃおうというのがキラアクの目的です。リアルに考えると怪獣の破壊力よりもすごい兵器はいろいろあるわけでして、村と村の闘いならいざしらず、惑星間同士が闘う兵器としては怪獣はあまりリアルとは言えません。そこは目をつぶって、怪獣が暴れたら困るだろ?って脅しをかけるのが、この映画や「怪獣大戦争」のパターンです。リアルなSF世界というよりも、怪獣がある意味神格化されている、言い換えると怪獣のステータスがものすごい高い世界でのお話ということになります。ゴジラがスター扱いされるからこそ成り立つ物語と言えましょう。そういう意味では、この「怪獣総進撃」も立派な怪獣映画ということができます。地球征服のために怪獣を使うってのは、世界征服のためにショッカーが保育園の子供を誘拐するのと大差ないところありまして、そういうのがお約束として成り立つ世界でのみのお話なのです。この映画では、10大怪獣が登場しますけど、せめて1万頭くらいまとめて来ないと地球征服のリアリティは出てこないでしょう。でも、そうなると映画の絵としてはあまり面白いものにはなりません。怪獣は個々のキャラが立ってナンボのものですから、ゴジラがその他大勢のザコキャラになっちゃったら、そりゃやっぱりつまらない。だから、10大怪獣で地球を征服しちゃうくらいのスケール感に観客は無意識のうちに妥協することになります。

と、オヤジ世代にもなれば、色々と理屈つけちゃうのですが、子供の頃を思い返せば、怪獣がいっぱい出てくるのがうれしい。特に脇役のマイナー怪獣、アンギラス、バラゴン、バランあたりの出自を知ってるとちょっと優越感にも浸れます。私は封切り時は見逃して、後の東宝チャンピオンまつりで短縮版が「ゴジラ電撃大作戦」というタイトルで公開されたのを見ました。また、こういう映画の公開時は少年雑誌にスチル写真がグラビヤになったりするので、それもチェックして楽しんでいました。さらに、映画のドラマを数分にまとめたソノシート(若い人は知らないかもしれませんが、ペラペラのレコードと思っていただければ、って、ひょっとして、最近の若い人はレコードが伝わらないのかな。)も出まして、それをホントに擦り切れるほど聞き込んだ記憶があります。「怪獣総進撃」のソノシートは、声の出演に久保明と小林夕岐子が参加していまして、さらに伊福部昭による映画オリジナルの音楽が使われているという豪華版でした。夏休みといった長い休みの時期でないと、映画館には連れて行ってもらえませんでしたから、映画館へ行くことがビッグイベントであった、当時の自分からすれば、この映画は、本当の怪獣大盤振る舞いのごちそうだったわけです。

東宝の怪獣映画というのは、その多くを本多猪四郎が演出していたわけで、怪獣映画には、彼の演出カラーが大きく影響していたと言えましょう。その特徴は、大真面目ということ。ウソみたいな怪獣映画を茶化さず、斜に構えずにマジメなドラマに徹することで、一本筋を通していたという点は、重要だと思います。他の監督さんのゴジラ映画は、彼ほどマジメに徹しているものはなく、コメディ風味やケレン味を加えて、それぞれの映画の味わいにしているのですが、それがどこか邪道に見えてしまうくらい、本多監督の怪獣映画は王道まっしぐらの作りになっているのです。例えば、人間ドラマがあちゃらかしていると言われる「キングコング対ゴジラ」でさえ、個々のキャラクターはシリアスに行動しているのですよ。この「怪獣総進撃」でも、突っ込みどころは色々とあるのですが、登場人物がきちんとマジメにドラマしているので、突っ込む気にならずに最後まで映画を観きることができます。また、脇役に至るまで全ての人間がきちんと一本のドラマにまとめあげられていて、ドラマの脇道を感じさせないってところも大きいと思います。その分、ドラマに遊びや潤いがないということにもつながるのですが、それでも、そのまじめさが、東宝怪獣映画の独特の世界を作っていたのだと思います。SF映画とか怪獣映画ってのは、ウソをホントに見せる映画になるわけですが、観客を丸め込むのではなく、ホントの勢いで押し切る演出で見せたのは、ある意味卓見だったと思っています。第一作の「ゴジラ」の頃は、日本映画全体にそういうマジメタッチの映画が多かったってこともあるのでしょうが、映画が斜陽化した、昭和50年の「メカゴジラの逆襲」まで、同じトーンの演出を貫いたことは、記憶にとどめておいていいと思います。平成ゴジラになって、そのマジメ演出を踏襲したゴジラ映画はないと言っていいことからも、やっぱり特別なんだなあって思います。(強いて言えば、手塚昌明監督のゴジラ映画が、本多タッチに近い作りになっています。)



この先は結末に触れますのでご注意ください。



怪獣を操縦する電波の発信源を追って月に向かったSY-3号は、火炎攻撃をうけながら(月で火炎攻撃?なんて野暮なことは置いといて)強行着陸して、キラアクの基地を攻撃します。レーザーをバリアで破ると、女性の格好をしていたキラアクは金属の塊に変化し動かなくなります。キラアクの正体は生命を持った金属なのですが、その生命活動のためには高温が必要だったのでした。低温が彼らの弱点だったのです。電波の発信源を破壊した後、怪獣ランド側から、同じ電波を使って怪獣をコントロールし、富士山麓に総攻撃をかけます。キラアクはそこへキングギドラを送り込むのですが、ゴジラ連合軍に逆に袋叩きにされてしまいます。しかし、さらに炎の怪獣ファイヤードラゴンが現れ、怪獣ランドを破壊してしまいます。しかし、コントロールが解けたゴジラたちはそれでもキラアク基地を攻撃し、バリアを破られたキラアクは金属塊と化してしまいます。SY-3号がファイヤードラゴンを迎え撃ちます。激闘の末、冷凍弾によりファイアードラゴンは破れます、その正体は生物ではなくキラアクの円盤だったのです。そして、再び、怪獣たちは小笠原に集められ、怪獣ランドに平和が戻るのでした。

地球怪獣に袋叩きにされちゃうキングギドラは今観るとちょっとかわいそうにも見えるのですが、子供の頃は最強の怪獣にやっと打ち勝ったという風に見えまして、これまた大満足だった記憶があります。また、ファイヤードラゴンはあまり説明なく冷凍弾で破壊されてしまうのですが、ソノシートのドラマでは、高温のファイヤードラゴンに冷凍光線を浴びせると膨張係数の違いでバラバラになるという説明がされて、なるほどそういうものなのかあって感心したものです。怪獣の格闘シーンにかなりの尺を割いていて、怪獣を目一杯見せようとしていまして、そのサービス精神は子供にはうれしいものでした。当初は、これを怪獣映画の最終作としたのですが、意外とヒットしたからなのか、この映画以降も怪獣映画が公開されるようになり、それがリバイバル短縮版に、短編アニメを組み合わせた東宝チャンピオンまつりにつながります。それまでは、年に1本、新作のゴジラ映画が公開されてきたのが、春、夏、冬休みにゴジラ映画がマンガ映画と一緒に公開されるという夢のような期間が生まれることになります。私は「キングコング対ゴジラ」「モスラ対ゴジラ」「怪獣大戦争」「南海の大決闘」「ゴジラの息子」「怪獣総進撃」といった旧作の短縮版をチャンピオンまつりで観ました。さらに「オール怪獣大進撃」「ゴジラ対ヘドラ」「ゴジラ対ガイガン」「ゴジラ対メガロ」「ゴジラ対メカゴジラ」といった新作もチャンピオンまつりで「アタックNo1」「巨人の星」「パンダコパンダ」といったマンガ映画と一緒に観ることができました。うーん、今と比べると、子供にはいい時代だったのかも。

「アナと雪の女王」はホントによくできてる、隙のない優等生って感じ。


今回は新作の「アナと雪の女王」をTOHOシネマズ日本橋8で観てきました。ここはTCXスクリーンという標準より大きめ画面で100円増しとなります。確かに劇場のサイズの割にスクリーンは大きいのですが、これ、昔で言うなら70ミリ画面という感じ。昔は、通常の上映サイズから70ミリになると画面がぐっと広くなり映像の解像度もアップし、さらに音響も6チャンネルステレオになって、わくわくしたものです。映像の解像度のアップ感はないので、いわゆる70ミリ方式上映という、35ミリフィルムを70ミリ画面に拡大上映するパターンに相当するのではないかしら。でも、昔の映画館は70ミリ上映で割増料金は取らなかったよなあ。

アレンデール王の娘、エルサとアナの姉妹は大の仲良しでした。しかし、エルサには氷を作る魔力が備わっていて、成長するに従って、そのパワーはアップして、彼女にもコントロールできなくなってきました。アンを死にそうな目に合わせてしまってから、王は姉妹を王宮に閉じ込めて暮らすようになり、アナは魔力の記憶を消され、エルサとも会えなくなってしまうのでした。そして、二人の両親が航海の途中で亡くなって二人きりになってからも、エルサはアナに会おうとはしませんでした。そして年月が経ち、年頃の娘に成長したエルサは王位を継ぐことになり、戴冠式の日を迎えます。王宮はものすごい久しぶりに門を開き、外の人の会えるアナはうれしくてたまりません。エルサは魔力を隠し通せるかどうかばかりが気になっています。そして、アナは知り合ったばかりのハンス王子と結婚すると言い出し、エルサは早すぎると反対。言い合いになったとき、氷の魔力が出てしまい、みんなに怪物呼ばわりされたエルサは、周囲を凍り付かせながら北の山まで行き、頂上に氷の宮殿を作ってそこで暮らそうとします。しかし、アレンデール王国はエルサの魔法で氷に閉ざされてしまいます。自分が突然の結婚を言い出したからこうなったと、責任を感じたアナは、単身で北の山へ向かいます。途中で知り合った、氷の運び屋クリストフを案内人にして、エルサの宮殿に向かうのでした。

アンデルセンの「雪の女王」をベースに、ジェニファー・リーが大きく脚色し、スタン・バックとリーが監督したCGアニメの一編です。氷の魔力を持ってしまったがために王宮に隠れて暮らしてきたエルサが、王位を継承することになり、人前に出てきたことによって起こる騒動を描いています。舞台はフィヨルドが登場することからハンガリーのようで、スケールの大きなロケーションが大画面にふさわしい舞台設計になっています。また、この映画はミュージカルの形式を取っていまして、ダブルヒロインであるエルサとアンのセリフが歌になっていくシーンが何度も登場します。ミュージカルナンバーのピークは中盤、エルサが山へこもる時に「あたしは自由よ」という歌い上げる「Let it go」でして、それ以降は、ミュージカルよりもアニメの動きをフルに使った冒険劇へとシフトしていきます。

物語としては、生まれつき魔力を持ってしまったエルサの悲劇になりそうなところを、ディズニーマジックで強引にハッピーエンドに持って行った感があり、脇キャラでペーソスを感じさせる雪ダルマ、オラフの落とし方といい、前半にあったドラマの陰影部分に、ラストで全て光をあてきってしまう締め方は、ちょっとやり過ぎ感もあるのですが、ファミリー向けにターゲットを絞った映画作りとしては、これはこれであるんだろうなって納得しちゃいました。その力技のあっけらかんへ持っていくまでの、小技の積み重ねにはさすがディズニー、だてに世界相手に商売してないぜというパワーを感じました。冒頭の氷を運ぶ男たちの描写で、すごく寒いところのお話だよって説明しきっちゃううまさ、王宮の部屋でポツンと一人ぼっちのアナの絵、そして前半部分に作りこまれた佳曲のみなさん。後半では、オラフのキャラを丁寧に作りこんで、子供が感情移入しやすいようにする仕込み。氷の魔力を鋭角的な氷が迫ってくる描写で、威圧感ある怖さを表現するあたりも見事でした。そして、対立しそうな存在であるアナとエルサをダブルヒロインたりえるポジションに采配した脚本のうまさもすごいと思いました。色々な人が知恵を絞って積み上げた成果なんだろうなあとは思うのですが、あらゆる思い入れとか個人的趣味を削っていって、万人に受け入れられるおとぎ話を作るという技術とパワーが感じられ、お金を払って観る価値のある映画になっていると感心しちゃいました。何ていうのかな、お話とか趣向がすごく丁寧に磨きをかけたような感じがするのですよ。隅々まで行き届いているなあって感じさせてくれる映画って、そうはないですから。

前半、運命に翻弄される悲劇のヒロインであったエルサが、開き直ったおかげでそのトラウマを克服するのですが、その結果、王国は氷に閉ざされてしまいます。そこで活発な妹アナが姉を説得しようと北の山へと向かうことになります。エルサの悲劇性を前面に出し過ぎず、かつエルサを悪役にしない展開は、アナのコミカルさを前面に出すことでうまくバランスをとったようです。映画の前半でアナは戴冠式の日に出会ったハンス王子と恋に落ち、永遠の愛に目覚めたと言ってるのですが、北の山へ案内させるクリストフという氷運びの若者ともデコボココンビで相性いいところを見せるので、はて、アナの恋愛ドラマはどっちに転ぶのかしらという興味もつなぎます。クライマックスに向けては定番の盛り上がりも見せてくれるのですが、この映画、土壇場でひねりを加えてきます。

私は字幕版での鑑賞でしたが、日本語吹き替え版の評判のすこぶるよいようです。個人的には、前半のミュージカルナンバーの部分に見応えを感じまして、歌の持つパワーにウルっとくるものがありました。後半の冒険活劇の部分も盛り上がるので、色々な世代や趣味の人へ向けて全方位外交ともいうべき作りになっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



氷の宮殿で、アナはエルサを説得しようとするのですが、エルサは自分のしたことに動揺してしまって魔力が暴発、アナの心に傷をつけてしまいます。ハンス王子たちも氷の宮殿にたどりつき、魔力で宮殿が崩壊したショックでエルサは王国へ引き戻されて監禁されてしまいます。一方、クリストフは自分を育ててくれたトロールの山に向かい、彼らにアナの傷を治してもらおうとします。トロールたちは、エルサとクリストフがお似合いだから結婚すればはやしたてるのですが、心の傷については、真実の愛だけが救えると言うのでした。そこでクリストフは婚約者のハンス王子へアナを届けるのですが、ハンスはアナへの愛情などなく、国王になるために利用していたことがわかります。心の傷のせいでアナの体はどんどん衰弱します。一方、クリストフは相棒のトナカイにいさめられ、再びアナのもとへと向かいます。ハンスはエルサの命も奪おうとするのですが、彼女は鎖を切って逃亡します。彼女の魔力はすさまじい吹雪を巻き起こします。そんな中で凍り付いたフィヨルドをさまようアナをクリストフが見つけ駆け寄ろうとします。しかし、朦朧としたアナの目に映ったのは、姉エルサに切り付けようとするハンスの姿でした。最後の力を振り絞ってハンスの剣の前に身を躍らせるアナ。と、同時にアナの体はみるみる凍り付き、ハンスの剣は砕けてしまうのでした。しかし、それを見たエルサの表情が変わり、凍り付いていたアナの体が元の戻っていくのでした。魔力を解いたのは、自分の身を挺したアナのエルサへの愛だったのでした。凍り付いていた王国も元の美しい国へと戻りました。そして、エルサは自分の魔力をコントロールできるようになり、アナはクリストフといい感じになり、王国に平和が訪れるのでした。

エルサが魔力をコントロールできなくなるのは、自分への自信のなさと他人を傷つけることへのおそれからでした。それが結果的にさらに他人を傷つけることになっていたのですが、アナの真実の愛に打たれて、自分への信頼を取り戻し、おそれを克服するのでした。そして、いい魔法を使う女王さまとして幸せになるのでしたというのは、それまでの葛藤がどっかへ行っちゃった感は否めないのですが、魔力と一緒に自分も封じ込めたままでは終われないですから、こういう結末も仕方ないのでしょう。こういう異形のものが雪の中に閉ざされるというと「シザーハンズ」を思い出すのですが、この映画では、エルサが迫害される瞬間もさらりと流し、ラストも運命まるごと克服しちゃうというハッピーエンドぶり。そういう意味では、紆余曲折を控えめにして、口当たりをまろやかにしたドラマということができましょう。

驚いたのは、クライマックスでクリストフがアナのすぐ近くまで来ているのに、彼がアナを救う結末にしなかったところ。こういう話なら、何らかの形で白馬の王子様がヒロインを助けるだろうと思うのですが、姉妹愛の方に軍配が上がるとはかなりびっくり。ディズニー映画にしては、意外な展開だと思ったのですが、これは監督のクリス・バックのカラーもあったのかなって気がしました。この人は「ターザン」で初監督をしたのですが、「ターザン」では、ラストは善悪ひっくるめてハッピーエンドにするディズニーアニメの定番を破って、悪役にとどめを刺しちゃった人でもあります。そういう定番破りをやりたい人ではないのかなって気もしました。ドラマ的に朦朧とするアナとトナカイを走らせるクリストフをカットバックさせ、アナを見つけたクリストフが駆け寄るところまで見せておいての大逆転ですからね。それでも、一歩間違えばオフビートな笑いを誘うようなところを姉妹愛へ一気に方向転換させた力技は見事だと思いました。

「ダーク・ハーフ」はサイコスリラー風で怖いところは結構怖い。


pu-koさんのブログの記事で、そういえば「ダーク・ハーフ」はその昔、観ようと思ってそのままになってたのを思い出しました。DVDが高価なので、中古ビデオをアマゾンで1円(送料別)でゲットして、鑑賞することにしました。

サッド・ボーモント(ティモシー・ハットン)は子供の頃、すずめの羽音が聞こえる幻聴に悩まされ、目が見えない症状で脳を調べたところ、脳内の双子の片割れが残っていたのでした。その片割れは脳の腫瘍として処理されました。成長した彼は、純文学の作家として、大学で講師をしつつ、妻リズ(エイミー・マディガン)と双子のかわいい娘(まだ赤ん坊)と平和に暮らしていました。しかし、彼はジョージ・スタークという別名でバイオレンス小説も書いていまして、ある日、そのことをネタにある男がサッドをゆすりに来ます。ゆすりに屈するのはイヤだと思ったサッドは自ら自分がジョージ・スタークでもあることを告白することにします。ピープル誌が彼の実家にやってきて、インタビューをして写真を撮っていきます。ハリボテのジョージ・スタークの墓の前の記念写真を撮ったカメラマンが何者かに惨殺され、その現場からサッドの指紋が見つかり、知り合いでもあるパンボーン保安官(マイケル・ルーカー)がサッドに事情聴取にやってきます。もちろん、サッドには覚えがないのですが、さらに彼をゆすりに来た男が殺されます。殺人現場に残された「すずめがまた飛んでいる」というメッセージは、サッドが無意識で原稿用紙に書いたのと同じ文章と同じでした。彼は自分の記憶が飛んでいることに畏怖を感じます。ひょっとして、自分が殺人を犯しているのだろうか。さらに彼にまたすずめの羽音が聞こえてきました。無意識でまた単語を書いてしまうサッド。その単語は次の殺人を示唆していたのでした。果たして、この連続殺人の犯人はサッドなのでしょうか。

ベストセラー作家であるスティーブン・キングの原作を、「ゾンビ」のジョージ・A・ロメロが脚色して監督もした異色スリラーの一編です。純文学の作家である主人公が、実は別名でハードなバイオレンス小説も書いていたのですが、それをオープンにして、バイオレンス小説家であるジョージ・スタークに終止符を打とうとしたところから、物語は始まります。まず、記事の取材時のカメラマンが殺され、その後、サッドをゆすりにきた男も殺されます。連続殺人ものの展開となるのですが、この殺人にサッドの無意識の筆記がシンクロしているというところがミソでして、サッド自身も自分の記憶の外で、何かしでかしてるのではないかという不安をぬぐいきれません。殺人の手口は猟奇的で、サイコスリラーのようでもあるのですが、少年時代の前振りに超自然的な味付けがあるためにホラー映画への予感もぬぐいきれないものがあります。

映画の冒頭、少年時代のサッドが文章を書く才能があったのですが、目が見えなくなったり幻聴が聴こえるという症状が出て、脳切開手術をすることになります。開かれた頭蓋の脳に何と目がついてるではありませんか。これが何と彼の双子の片割れで、何かの拍子で成長を初めて目と鼻が形になっているというのです。医師たちはそれを腫瘍として処置するのですが、その時、病院をすずめの群れが取り巻くという普通ではありえないことが起こります。とにかく、主人公には双子の片割れがいたということが、この映画の基本設定になっているようなのですよ。

演技陣は地味なメンツがそろっていまして、主演のティモシー・ハットンは演技力を見込まれてのキャスティングのようです。「フィールド・オブ・ドリームス」のエイミー・マディガンに、「レプリカント」のマイケル・ルーカー、「プリズン」のチェルシー・フィールド、「たたり」のジュリー・ハリスといった懐かしい面々が顔を揃えています。撮影のトニー・ロバーツ・ピアースは、深みのある映像を取る人ですが、ビデオではその映像のうまさまでは堪能できなかったのは残念。視覚効果はピーター・クラン率いるVCEが担当し、CGはビデオイメージ社が担当しています。すずめの群れを実写、アニメ、CGを使って描写しているようなのですが、1992年の映画なので、CGのすずめはやや見劣りしちゃうところあります。冒頭の脳の隙間から覗く目とか、すずめに襲われる人間の特殊メイクをエヴァレット・バレルとジョン・ビュリックが担当しました。

原作者のキングも別名で小説も書いているので、自伝的な趣もあるという解説があったのですが、他人として小説を書いていた主人公が自分を取り戻す時に起こったトラブルのお話と思えば、そういう解釈も成り立つのかも。ロメロの演出はありえない話を手堅くまとめています。中盤の殺人鬼が犯行を行うシーンはきっちり怖くできていまして、ショックとかじらし演出をしない、正攻法のホラー描写はなかなかに見応えがありました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



サッドのエージェントの奥さんが殺されるシーンで犯人はあっけなく姿を現します。それは、サッドに瓜二つだけど、髪型や服装が違う男。さらにエージェントもその男によって殺されます。犯人の正体は、サッドの暗黒面が実体化したジョージ・スタークだったのです。彼は、サッドがジョージ・スタークを葬ったときに実体化し、関係者を殺して回っていたのです。サッドが再びジョージ・スタークとして小説を書かせようとしているのです。サッドがジョージを葬った結果、現れたのですが、その実体は不安定で、ジョージの肉体は少しずつほころび始めていました。そこで、サッドが、ジョージとしての小説を書くことによって、本体を乗っ取ろうとしていたのでした。ジョージは、リズと娘を誘拐し、サッドの実家へと向かいます。サッドは、大学の友人から、ジョージの正体とすずめの意味を聞き出します。すずめは魂を招くものなのだそうです。サッドが実家に着くと、ジョージは娘をたてに書斎に向かい、サッドにバイオレンス小説を書かせようとします。その頃、家の外にはすずめの大群がやってきていました。ジョージもサッドに促されて鉛筆を握ると意外やどんどんと筆が進みます。すると、サッドの頭から血が滴り落ちてきて、ジョージが優勢に見えるのですが、隙を見てサッドがジョージの襲いかかり、二人は格闘になります。すると書斎の壁にいくつもの穴があいてそこからすずめが入ってくるではありませんか。壁が壊れて、すずめの大群はジョージの襲い掛かります。肉を食い尽くされ、骨もボロボロになった状態で、ジョージの残骸は空へ運ばれていきます。夜空の向こうに光の穴が見えてそこへすずめたちは吸い込まれていくのでした。おしまい。

一人二役のサイコホラーかと思っていたら、実際にもう一人の主人公が現れることで、超自然ホラーの様相を呈してきます。架空の作者であるジョージ・スタークが実体化するという部分で、ロメロの演出はマジメ過ぎるのか、ぶっとび展開の説得力を欠いてしまったように思いました。奥さんのリズや保安官がラストで役に立たなかったのはちょっと物足りなかったです。結局、ジョージは葬られる運命にあったという見せ方なので、どこで勝敗がついたのかが見えにくかったのは原作もそういう展開だったのかな。サッドが自由でワルなジョージにあこがれていて、それがジョージを実体化させるエネルギーになっているというところは面白いと思いましたが、そんな主人公の内輪もめのとばっちりで殺された皆さんはお気の毒だよなあ。まあ、因果応報とか勧善懲悪とは異なる理不尽ホラーなのですが、ラストはもう少し余韻というかエピローグをつけて欲しかったなあって気がしました。まあ、冒頭ですずめの大群を出して、ラストもそれで締めるあたりは、律儀な映画ではあると思いますし、怖いところはきっちり怖いのでホラー映画としてはかなりいいところ行ってるのではないかしら。

「少女は自転車にのって」のサントラは、映像に陰影を与え、作り手の伝えたいメッセージをサポートしています。


サウジアラビアの少女のドラマ「少女は自転車にのって」の音楽を手がけたのは、ポストクラシカルというジャンルで活躍しているマックス・リヒターというドイツの人。「サラの鍵」のサントラでも美しいメロディを聴かせてくれました。ポストクラシカルというのは、ピアノやストリングスを多用してクラシック音楽の響きを持ちながら、エレクトロニクスを導入するなど新たな試みを取り入れた音楽を指すのだそうです。一時期、流行ったニューエイジからヒーリング音楽への流れが、耳への心地よさに寄り過ぎたので、一度クラシックへ戻して、そこから敷居の低い音へ向かう流れの一つのように思われます。リヒターのリーダーアルバムも何枚か持っているのですが、シンプルな旋律の反復や、静かな盛り上がりなど、宗教音楽のように聴こえる部分もあり、夜に聴く音楽として心地よいものになっています。同じくこのジャンルで有名なヨハン・ヨハンソンという人もサントラを何枚か手がけており、この先、このジャンルのアーティストが担当するサントラがたくさん出て来そうな予感があります。(もう、出てきているのかな。)最近のテーマモチーフを重視しない映画音楽の傾向からしても、静かに画面を支えるにふさわしいポストクラシカルの映画音楽へのニーズは高くなってきているようい思います。

この音楽は既成曲も3曲入ってはいるものの、後はリヒターのオリジナルによるもので、中近東風のパーカッションを入れた曲もあるものの、トータルな印象は、現代音楽とアンビエントの中間を行くサウンドになっていまして、これがポストクラシカルだといわれると何となく納得しちゃうものがあります。それは、映像とシンクロして映画を支えるというよりは、映像に陰影を与える音楽として機能していまして、淡々と進むドラマにある種の情感のうねりを呼び起こすような使われ方をしています。10歳の女の子の日常を描いたドラマに大人の目線を加えるという感じでしょうか。監督が大人の視点で付け加えたいメッセージ的なものを音楽が代弁しているという印象を持ちました。

チェロなどの生楽器とシンセサイザーを併用した音づくりは、日常的なドラマから、ぐっと引いた視線で映像を彩っていまして、この音楽があるせいで、社会派映画としての顔が浮き彫りになっているように思いました。特に、ラストで自転車を走らせるヒロインのバックに流れるやさしく力強い曲は、シンプルな構成な中に開放感を感じさせるもので、この映画の伝えたいことを音楽がかなりの部分で語っているように思います。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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