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「ディス/コネクト」は展開の意外性はないのに、ドラマとしての見応えがありました。


今回は新作の「ディス/コネクト」を川崎チネチッタ5で観てきました。ここは、シネスコサイズスクリーンのまま、ビスタサイズ上映することはしないで、きちんとビスタサイズのスクリーンで上映してくれる映画館。そんなことが特記事項になろうとは、変なご時世だよなあ。

テレビレポーターのニーナ(アンドレア・ライズボロー)はネットで有料で若い子が相手してくれるサイトに興味を持ち、そのサイトの未成年のカイル(マックス・シリオット)に取材すべくアプローチします。海兵隊帰りのサラリーマン、デレック(アレキサンダー・スカルスガルド)は、幼い子供をなくして妻シンディ(ポーラ・ハットン)ともうまくいっていません。そんな時、カードが不正使用され、預金をごっそり持っていかれてしまいます。本刑事の探偵マイク(フランク・グリロ)が夫妻のパソコンを調べるとウィルスによって個人情報を抜かれた後があり、シンディのチャット相手が怪しいところまで調べがつきます。警察の動きの遅さに金を取り戻すべく、自ら妻のチャット相手を張り込むデレック。また、別のところでは弁護士リッチ(ジェイソン・ベイトマン)の息子ベン(ジョナ・ボボ)が女の子になりすました同じ学校の生徒からSNSにアプローチされ、それを真に受けて、自分のヌード写真を送ってしまったら、それを学校中にばらまかれて、そのショックから首を吊ってしまい、昏睡状態となります。ベンをだました生徒の友人は、探偵マイクの息子ジェイソン(コリン・フォード)でした。彼は、なりすましに使われたiPadをきれいにするために友人から預かるのですが、それにチャットしてきたリッチに、女の子になりすまして相手にするのですが、そのやりとりから、リッチの息子への愛情に心を動かされるのでした。一方、ニーナによる、ネットの違法サイトの取材レポートは好評だったのですが、それによりFBIが動き出し、その結果、カイルの身に危険が及びそうになってしまうのでした。

アンドリュー・スターンの脚本を、ヘンリー・アレックス・ルビンがメガホンを取りました。複数のドラマが同時進行するという構成で、その各々で別のドラマの登場人物が関与しています。そのドラマの共通項になっているのはネットです。若い子が同時通信で媚態を見せる有料サイト、共通点を持った人が集まるサイトでの個人間のチャット、SNSによる知らない者同士のやりとり、そういったものが起こす事件を描きながら、夫婦、親子の絆のついて重厚なドラマが展開します。私は、このブログ以外、SNSとかLineとかやっていないので、自分をネットの中に置いているという実感はないのですが、この映画では、個人がネットの中に身を置くのは当たり前のことになっているようで、その中で悪意とも言えないようなお気軽さで、他人のプライベートを暴露したり、他人の預金をごっそり抜き取ったりしているのです。私もネット通販は使っているので、そういう意味ではこの映画のような事態に遭遇しないとは限りません。しかし、この映画は、そういう犯罪的な事件よりも、関わる人々の身近にいながらわかりあえない関係をメインに描いています。

テレビレポーターのニーナは若いカイルを取材して、未成年者を使ったポルノサイトのレポートを作ります。ニーナはカイルに、こういう事は長いこと続けられないから未来のことを考えないといけないよと説得します。カイルはニーナに好意を抱き、ニーナはそれに気付きつつも取材対象として、彼を利用してしまいます。ニーナがFBIにカイルたちの居場所を密告してしまうことで、サイトの集団は移動。ニーナはその移動先までカイルを訪ねて、逃げようと言うのですが、自分と暮らせるかというカイルに対して、それは無理と言ってしまいます。それを聞いたカイルはニーナを振り切って、サイトの集団と一緒に車で去っていってしまいます。ニーナとしてはよかれと思ってやってきたことが、結局カイルを自分のために利用してきただけだったことに気付かされる苦い結末となります。

SNSで女の子に成りすました野郎に騙されて、送ったヌード写真をばらまかれるベンのエピソードは悲惨です。音楽を作曲するのが趣味ですが、友達もいなくて学校でも孤立気味。テコンドーの道場をのぞいたところを同じ学校の悪ガキに目をつけられ、女の子のふりをしてSNSで接触してきたのを本当の女の子だと思って相手をしてしまうのです。別にベンが目立つことや人から嫌われることをしたわけでも何でもないのに、面白半分のいたずらの相手にさせられ、架空の彼女との信頼関係の証しとして撮ったヌード写真をばらまかれてしまうのですからたまったものではありません。ネット上のなりすましというのは耳新しい話ではありませんが、こういう事もあるからネトって怖いよねえって話なのですが、この映画の主眼はベンが家族の中でも孤立していたのが、なりすまし彼女には心を開いているというところ。自殺事件の後、父親はベンが作曲が好きなことや、普段何を考えているのか、何も知らなかったことにショックを受けます。もう一つのエピソード、子供を失った夫婦デレックとシンディの関係でも同じことが言えます。夫デレックが何を考えているのかわからくなったシンディは、ネットでつながった相手とチャットするときに自分の心の底をオープンにします。一番、身近にいる筈の家族との交流が切れてしまったとき、ネットは、その隙間を埋め、本音の部分でつながるというのですよ。

何を今さら、ネットってのはそういうものなんだよと思われる方もいらっしゃると思います。確かに「ユー・ガッタ・メール」の頃から、そんなことは言われているわけですが、もはやネット依存と呼ぶには、ネットが生活に浸透し過ぎた今は、そのネットの利便性は格段に増え、その分、ネットの罪も増大しつつあるように思います。今の生活でメールは取捨選択の余地のないものになっており、LINEもやってないと孤立しちゃう人間関係があるようでして、そうなると否応なく、ネットに参加することを強制させられてしまうことになります。そんな中で身近な人間との間で生まれてしまう壁をネットによって代替することは、以前より容易となっているように思います。この映画を社会派と呼ぶには、時代に追いついていないような印象も受けます。それでも、この映画は面白くて見応えがあります。それは、ネット当たり前の世界に住む人間の感情を丁寧にすくいとっているからです。そして、ネットのトラブルを発端として、それまでつながっていなかった人間関係に新たな絆が生まれていくという見せ方は、感動的でもあります。ネットの功罪といった社会批判の視点からだけで、この映画を観てしまうと、この映画の面白さを見失ってしまうかも。うまくいかない人間関係のドラマとして、大変見応えがありますし、ラストも甘くないけど、決して突き放したものにはなっていません。

演技陣はみな好演と言ってよく、特にネット詐欺に引っかかる夫婦を演じたアレクサンダー・スカルスガルドとポーラ・ハットンの演技が光りました。探偵によるパソコンの調査から、妻のチャットの内容を読んで愕然とするところが印象的でした。また、若者たちの中では、ポルノサイトで働く少年を演じたマックス・シリオットがそういう仕事をする若者のリアルな空気を演じて見事でした。アンドレア・ライズボローは野心家のテレビレポーターを熱演しています。ルビンの演出は映像的に技巧を凝らした部分も見られましたが、善悪の明確な線引きをしないでドラマに厚みを与えていまして、人間の持つ「よかれと思う」感情が事態を悪くしてしまうあたりのもどかしさや切なさを描き出すことに成功しています。。ポストクラシカルのミュージシャンであるマックス・リヒターの音楽は、ドラマに静謐感を与えていて、うまくつながらない人間関係を静かに描写しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



デレックとシンディはチャットの相手をマークして張り込みます。しかし、探偵のマイクからその相手もパソコンを遠隔操作された被害者だと一報が入ります。そこへ、チャットの相手が付きまとう二人に銃をつきつけて揉み合いになるのですが、銃を奪い取ったデレックをシンディが押しとどめるのでした。ジェイソンは罪の意識から、ベンの病室を見舞うのですが、そこでベンの父リッチと鉢合わせしてしまいます。リッチはベンのSNSのチャット相手がなりすましだと見抜き、それがジェイソンであることに気付きます。ジェイソンの家を訪ねたリッチはジェイソンの父マイクと格闘になり、それを止めようとしたジェイソンを殴りつけてしまいます。そこで格闘は終わり、リッチはベンの病院へ向かい、妻と娘を抱きしめるのでした。

事件は何一つ解決しないまま映画は終わります。ポルノネットの集団はいずこともなく姿を消し、再びまたどこかでサイトを開設することでしょう。ベンの昏睡状態はさめていませんし、デレックとシンディから預金を奪った犯人も不明なままです。ただ、関係者の人間関係に変化が起きたことを見せてドラマは終わります。リッチは家族との絆を再確認し、マイクはそれまで威圧的に押さえつけるだけだった息子ジェイソンとの関係を見直すことになります。デレックとシンディはお互いに押さえつけてきた相手の想いに気付くようになります。特ダネを手にしたニーナは、カイルをポルノネットの商売から足を洗わせようとするのですが、結局、自分が彼を利用していただけという事実に直面することになります。複数のエピソードが並行して描かれるこの映画の中で、ニーナとカイルの関係だけはつながらないまま終わってしまいます。それは取材する/される関係が、個人対個人の関係にはなれなかったというお話なのですが、ニーナが最初は親しげに接近しておいて、プライベートな関係にまで踏み込むかのように見せておいて、最後で拒否しちゃうというのは、ちょっとひどいよなあって思っちゃいました。もともと、つながる関係でなかったのに、つながりそうに見せて、特ダネに利用しちゃったというのは、想像がつく展開です。この映画で描かれるドラマはどれも想定の範囲内で、意外な設定とか展開というのは一切ありません。それでも、ドラマとしての積み上げ型がうまいので、最後まで惹きつけられて、見応えがありました。
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「女優霊」は怖いし、映画としてもよくできてる佳品、おすすめ。


「呪われたジェシカ」をDVD鑑賞した後、これも観ておこうと思ったのが「女優霊」です。かつて、劇場公開を観に行った時は、映写時ミスされ、さらに映写室に誰もいなかったという散々な鑑賞(今はなき「関内アカデミー2」、今も根に持ってるぞ)だったのですが、その怖さは鳥肌ものだった記憶があります。一度、レンタルビデオで再見したときは、カギとなる昔のフィルムの解像度がよくなくて、あんまり怖くなかったのですが、今回、DVDで見直してみると、初見のインパクトはないものの、よくできてるって感心しちゃいました。

新人監督村井(柳ユーレイ)のデビュー作の撮影が始まりました。主演女優黒川ひとみ(白嶋靖代)と村上沙織(石橋けい)のカメラテストを行いました。未使用フィルムを使って撮影した筈だったのですが、試写してみると、それは未現像フィルムだったようで昔のドラマの映像らしきものが映り込んでいました。和服の女性の後ろに映り込む影があり、どうも尋常な感じがしません。村井は過去にこのフィルムを見た記憶がありました。でも、未現像フィルムってことは多分お蔵入りになったドラマだろうってことになります。デビュー作の撮影は順調に進みますが、ひとみがセットの外の廊下で不思議な声を聞いたり、村井がロケバスの中のいるはずのない女性の姿を見たり、おかしなことが起こります。ひとみの事務所の社長がやってくるとセットの前で怯えたようになり、ひとみにお守りを渡して逃げ出します。そして、撮影が佳境に入ったとき事件が起こってしまうのでした。

「リング」のコンビ、高橋洋が脚本を書き、中田秀夫が劇場映画の初メガホンを取った作品です。「リング」から始まるJホラーブームの先駆的作品と言われ、ホラー映画としての評価が高く、また映画撮影現場を扱った作品としての出来のよさも評価されています。公開当時よりも「リング」公開以降に再評価された作品で、76分というコンパクトな時間の中で密度の濃い恐怖が作りこまれています。グロい描写はありませんし、じらしやショッカー演出もほとんどなく、それでも怖い映画に仕上がっているのが見事な一品です。

映画の冒頭はセットの模型の中に登場人物の人形が置かれているシーンで始まります。そのセットをのぞきこむ監督村井の顔が映り、映画セットの打合せのシーンだとわかります。実際ににっかつ撮影所を使って、その中に映画内映画のためのセットを作りこんで撮影しているので、リアルな映画撮影現場のお話が展開します。チーフ助監督、セカンド、カメラマン、撮影助手、スクリプターといった映画の作り手が丁寧に演出されていて、その細かい作りこみがドラマに厚みを与えています。そして、カメラテストの映像を試写するところから怪異が始まるのです。

昔のドラマのラッシュフィルムらしい映像がスクリーンに現れるのですが、このシーンを最初、映画館で予告編を観たときに鳥肌が立った記憶があります。昔らしい色調のフィルムで、和服の女性が映っているのですが、その首の後ろあたりに人影がチラチラと見えるのですよ。そして、その女性が何かを見て驚いた絵になると、その後ろで白い服を着た長い髪の女が体を揺すって笑っているのがまた不気味。その不気味な女にはピントがあっていないので輪郭はわかるのですが、顔のディティールはぼやけているのがまた怖い。そして、子供が狭い階段を上っていき細い廊下を進んでいくとドアがあって、そのドアが開いていくという絵になります。村井はこの映像を子供の頃見た記憶があり、試写係の六さん(高橋明)にそのフィルムの女優を調べてもらうように頼みます。

この昔見たことある怖い映像というのは、脚本家の高橋洋の子供時代の体験に基づくものだそうです。すごい印象に残っている映像なんだけど、それが何なのかを思い出せない感じ。そして、そのフィルムを見てから不思議なことが次々に起こります。不思議の理由がよくわからないのですが、何かおかしい、そしてその根源は撮影所にあるみたいなんです。映画撮影にまつわる怪談というのは、本でも読んだことあるのですが、人の想いがたまりやすいのか、そういう怪異の起こりやすい場所のようです。この映画は怪異の因縁話をしないで、フィルムに映り込んだ不気味な女が主人公の村井を取り込んでいくお話になっています。

映画の撮影現場がリアルに撮れているということでも、この映画の評価高いです。下っ端のディレクターの扱いですとか、新人監督とベテランカメラマンの関係ですとか、撮影現場で各人が各々の持ち場の動きを丁寧に見せていて、それが映画の現場での怪異にリアリティを与えています。

演技陣では、主演の柳ユーレイがきちんと映画監督に見えることにまず感心。また、今静岡県で2番目くらいの有名人石橋けいが演技力が未熟な若手女優を好演しているほか、助監督を演じたサブ、カメラマンを演じた大杉蓮がリアルな映画人を演じて存在感を見せています。白島靖代は、この映画でファンになったのですが、その後あまりテレビ映画でお目にかかる機会がないのが残念。



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ひとみと男優の演技を撮影中、沙織が撮影所の照明が置いてある天井近くの場所から転落死するという事件が起こります。撮影は中断し、そのままお蔵入りかと思われますがラッシュを見た制作側の人間が何とか最後まで撮り終えるという判断をして、ラストシーンを撮影することになります。沙織の役には、代役を立てて、ひとみが男を毒殺するカットの撮影となります。その時、最後のセリフを言おうとしたひとみの視界に、死んだ沙織の顔が見え、ひとみは怯えた表情になってしまいます。そこへ、沙織の代役の女優が割り込んできて、演出を無視して高笑いを始めます。それは、昔のフィルムの映像の再現でした。さらにそのラッシュフィルムを確認すると、ひとみが部屋に入るカットの向こうに白い服を着た女性が映り込んでいたのでした。村井はみんなが帰った後のセットに戻ってみると、沙織が転落していた場所にひとみがいるのに気付き、階段を昇っていきます。その場所にいたひとみの姿は消え、これまでみんなを悩ませてきた白い服の女が現れて、村井を追ってきます。子供のように怯えて逃げ回る村井。古いフィルムにあった部屋に逃げ込む村井を女は追ってきて、村井を押さえ込むと、あのフィルムのように高笑いをあげます。村井はずるずると引きずられていずこへと連れ去られるのでした。そして、村井は行方不明となってしまいます。助監督と一緒に、ひとみが村井の部屋を訪れます。洗面所の鏡の前で「どこいっちゃったんだろうなー」と呟くひとみの背後に例の女が映り込みます。ひとみが何かに気付いたような表情をしたところで暗転、エンドクレジット。

ラストカットに映り込む女は初見のときは気づかず、再見したとき、「あ、こんなところに」と認識しました。一瞬ですぐエンドクレジットに入ってしまうので、一見だけでは気づかない人もいたのではないかしら。それだけに、気づくと怖いインパクトのあるエンディングになっています。結局、この女の正体は最後までわかりません。謎のフィルムについては、制作中止になったドラマのものだと説明され、映っていた和服の女優は撮影所で転落死していたことまでわかっています。しかし、そうすると村井が子供の頃見た記憶があるという話の辻褄が合いません。そのあたりに超自然ホラーの味わいがあるのですが、村井が、子供の頃の記憶を後で植え付けられて、異形の女に取りつかれたという解釈が一番ありそう。ただ、どういう解釈にも決定的な要素は描かれませんので、消化不良のまま、撮影所にいる魔物の存在だけが浮き上がるという構成はうまいと思います。因果関係がわからないだけに、不気味な後味が残る結末となり、この映画のホラー映画としての評価が上がったのだと思います。

刺激は弱めだけど、怖さはかなりのものです。ラストで不気味な女をアップで高笑いさせたところは見せすぎたと作り手も後で思ったようで、その反省が「リング」第1作のあの貞子の見せ方につながったのだそうです。Jホラーの枠を超えて、一本の映画として面白くできていますので、機会があれば、一見をおすすめします。

「ブルー・ジャスミン」面白い。悲劇なんだけどどこかおかしくてドラマとして見応えあり。


今回は新作の「ブルー・ジャスミン」を109シネマズ川崎5で観てきました。ここはスクリーンが右に寄っているので、席も右よりに取らないとスクリーンが正面になりません。TOHOシネマズだけじゃなく109シネマズもずっとシネスコサイズのままの放置上映になってました。スクリーンサイズ変える手間を惜しむのは、なんかねえ。それが当たり前になるのはやだなあ。

大学在学中に金持ち投資ディーラーであるハル(アレック・ボールドウィン)と結婚したジャスミン(ケイト・ブランシェット)は、ニューヨークでそれはそれはセレブな暮らしをしていたのですが、ハルが金を集めては詐欺行為を繰り返すとんでもない男でした。悪事が露見して、ハルが逮捕され、全てを失ったジャスミンは、サンフランシスコに住む妹ジンジャー(サリー・ホーキンス)のアパートへ引っ越してきます。お金ないのにファーストクラスでやってくるあたりまだセレブ感が抜けていないようです。妹と元ダンナのオーギー(アンドリュー・ダイス・グレイ)の会社の元手20万ドルをジャスミンはハルの会社に投資するように勧め、全部すってしまったという過去がありました。二人の子供を育てるジンジャーは修理工の恋人チリ(ボビー・カナヴェイル)と一緒に暮らすつもりだったのですが、ジャスミンが転がり込んできて、同棲は延期になっちゃっていました。ジャスミンは人生再出発させる生活力はなく、パソコンを習ってインテリア・デザイナーの講座を受けるなんて言ってます。それまでの生活費を稼ぐためチリのつてで、歯科医の受付をすることになります。ところが、そこの歯科医に言い寄られて、仕事を棒に振ってしまいます。パソコンスクールで知り合った女性にパーティに誘われ、出会いを求めてジンジャーと一緒にそのパーティに出向きます。そこで、知り合った外交官ドワイト(ピーター・サースガード)といい関係になります。うまく行けばセレブに返り咲けるかもしれないと、多少の経歴詐称も織り交ぜて、婚約指輪を買ってもらうところまでこぎつけるのですが.....。

ウッディ・アレンが脚本、監督した新作は、主演のケイト・ブランシェットがアカデミー賞をはじめ、ゴールデン・グローブ賞以下数々の主演女優賞を総なめにしたというのが話題になりました。セレブだった女性が、一気に一文無しになったのですが、その事実と直面できずにだんだんおかしくなっていくというのをコミカルな味わいの悲劇として描いています。ジャスミンは精神安定剤を常用しており、気がつくと独り言を言っているというメンタルがかなりやばそうな女性です。妹のジンジャーはそんな姉でも、大切に思っていて、以前、大金を溶かしちゃった過去があっても、何くれとなく気を遣ってくれます。ジャスミンは、貧乏暮らしの妹を見下しているところがあって、労働者層というだけで、妹の彼氏もダメ男扱いしちゃいます。まあ、それまでセレブ生活の贅沢三昧してきたことからすれば、仕方ないよなあって気もしてきます。この「仕方ないよなあ」ってのが、この映画のベースに流れているのが面白いと思いました。

この映画の中で、いやいや始めた歯科医の受付の仕事で、歯科医に惚れられちゃうというエピソードが登場します。言い寄られたジャスミンはガンと拒絶して職を失っちゃうのですが、彼女は普通にしていても女性として魅力的なんですよね。だからこそ、金持ちハルの目に止まったってこともあるのでして、とんでもない大物詐欺師と結婚して贅沢三昧しちゃったのは、彼女が愚かだからではなくて、持って生まれた男の気を惹く魅力があるから、その男に翻弄されちゃうのですよ。そこで、男を思うように操ろうなんて小賢しいことはしないで、素直に男から愛を得ようとする、だから、ハルがヤバい事業をやってるとかあちこちで浮気しているとか、何となくわかっているのだけれど、最後まで追求できないで、現実を掘り出す根性はない。これを、愚かな女だと言うのは、酷な気がします。自分に男の気を惹く能力だけが長けているとしたら、その男についていくしかないですもの。ジャスミンはたまたま地雷を踏んでしまっただけではないのかしら。ジャスミンみたいな一点突破型の女性が、悪い男に騙されること、その男の色に染まっちゃうのも「仕方ないよなあ」って気がするのですよ。その結果、変な人になっちゃったわけですが、その悲劇は決して笑えるものではありません。

ジャスミンと対照的に描かれるのが、妹のジンジャーでして、ウエイトレスやスーパーのレジをやる苦労人で、付き合うのも労働者層。ジャスミンのような知性や華はないけれど、それでも女性として魅力的に見えるのを、サリー・ホーキンスが軽やかに演じていて、これがまたうまい。ジャスミンと一緒に出かけたパーティで、オーディオ・エンジニアのおっさんと知り合って舞い上がっちゃって、チリと破局になりかかるのですが、おっさんが結婚してたのがわかり、またチリとヨリを戻すことになります。ジャスミンの方にシンパシーを感じさせるアレンの演出なのですが、その一方で、ジンジャーを見る目はかなり辛らつで、結局、妹にはこの程度の男がお似合いだぜという見せ方は、アレン自身のセレブ目線が感じられてしまいました。やっぱり、アレンって、セレブの悲劇にはシンパシーを感じる見せ方をする一方で、労働者層はばっさり切り捨てるなあってところが面白かったです。

今回の映画はシネスコサイズで、カラーも現代風のくっきりとした色使いになっています。その横長画面でケイト・ブランシェットのアップを多用して、彼女の演技をたっぷりと見せてくれます。この名演技をたっぷり見なはれという撮り方が、数々の主演女優賞につながっているのかも。また、対照的なキャラとして登場する妹を演じたサリー・ホーキンスがうまいのですよ。絶対にジャスミンのようなセレブにはなれない普通の女性をリアルに熱演しています。男性陣では、難しい役どころをアレック・ボールドウィンが飄々と演じているのが印象的でした。



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結婚期間中、ジャスミンにとって気がかりだったのは、夫の浮気でした。手当たり次第に浮気しているという噂が入ってきても、最後には自分に帰ってくるというのが彼女のプライドを支えていました。ところが若い留学生との浮気をハルに問い詰めたところ、今度のは浮気じゃなくて本気だと開き直られちゃいます。それまでの浮気とは違う、ジャスミンとは別れようと言い出すに及んで、ジャスミンパニック状態。逆上した彼女は、FBIに電話して夫の不正を通報しちゃうのです。その結果、ハルは逮捕され、収監された刑務所で、首を吊ってしまうのでした。ハルには元の妻との間に息子がいたのですが、この逮捕をきっかけに父親とジャスミンに絶望し、大学を中退して、今はオーディオ機材屋のオーナーを細々とやっているのでした。一方、ジャスミンはドワイトにプロポーズされるのですが、彼には、外科医の夫とは死別してインテリアデザイナーやってると嘘をついていました。二人で、婚約指輪を買いに出かけると、宝石店の前で、不運にも妹の元ダンナに遭遇してしまい、彼女の過去を洗いざらい暴露されてしまいます。そして、ドワイトとはあっけなく破局。家に帰ってみれば、ヨリを戻したジンジャーとチリから、セレブとの婚約を祝福され、ブチきれてしまうジャスミン。もうわけわかんなくなって、「自分はここを出て行く」と啖呵を切って、部屋を出て行くと、公園のベンチに座って、過去の回想を口に出してブツブツつぶやいています。そして、そんな彼女のアップから暗転、エンドクレジット。

過去を詐称してドワイトと付き合っていて、いい雰囲気になっていたのが、土壇場で妹の元ダンナに出会っちゃうことで全てがパーになっちゃうジャスミンは、ホント運に見放されています。ちょっと頭の働きが鈍いところはあってもバカじゃないし、それなりのセンスもあるし、容姿も魅力的。だからこそ、ドワイトも彼女と結婚しようと思ったわけです。決してクズでも最悪でもないんだけど、最初の男運の悪さで全てが狂っちゃって、ラストは人生お先真っ暗の状態になっちゃいます。それを乗り越える気力やパワーを持っているわけではないジャスミンは、運命に翻弄されるヒロインなのですが、誰でもそうなっちゃう可能性があるという見せ方になっているのはうまいと思いました。ジャスミンは確かに変わっているところはあるけれど、そのふり幅は意外と小さいのですよ。若くして大金持ちのセレブになっちゃえば、貧乏人を見下すようになっちゃうし、ダンナの浮気性に悩まされ続けたらパニック障害にもなりましょうし、一瞬で財産を失ってダンナが獄死しちゃったら、メンタルがガタガタになるよなあ。ジャスミンを見た目ほどには特別な女性ではないと見せた、アレンの演出とブランシェットの演技は見事だったように思います。ですから、ラストは笑えないし、普遍的な不幸のドラマとしての結末ということになります。

これは、オヤジ目線だから、そう思うのかもしれません。女性目線では、特別痛い女性に映るのかも。ともあれ、アレンの緻密なドラマの組み立ては、映画としての満足度が高かったです。監督のセレブ目線を映画の趣向として楽しめればかなり面白い映画ではないかしら。痛いヒロインのお話のようで、実は痛々しい女性の不幸話だというところに、この映画の見識を感じました。

「呪われたジェシカ」の怪異は全て幻覚かも、ヒロインメンタル弱いし。


「たたり」「ヘルハウス」とホラー映画の名作をDVD鑑賞して、そういえば、これがまだだったというので「呪われたジェシカ」のDVDをゲットしてしまいました。この映画、その昔、小学生の頃、テレビの深夜映画で観て、怖さに震えたという記憶があります。見直してみて、さすがに、初見のインパクトはありませんが、確かにこれはうまい怖い映画だと再認識しました。

精神を病んで入院していたジェシカ(ゾーラ・ランバート)は、退院して静養も兼ね、片田舎のお邸に夫ダンカン(バートン・ヘイマン)と引っ越してきます。友人のウッディ(ケビン・オコナー)も農場を手伝うために一緒です。なぜか霊柩車で邸のある町に着くと、そこの住人は排他的なのかジェシカたちには冷たいようです。邸に着くと、そこには空家だと思って入り込んでいたバックパッカーのエミリー(マリクレア・コステロ)がいて、すぐに出ていくつもりが、ジェシカたちが引き止め、一緒に暮らすようになります。ジェシカは、謎の少女の姿や幻聴に悩まされるようになります。自分でも病気だという意識があるので、それが現実でないのかもという意識の板挟みになるジェシカ。4人で入江に水浴びに行くと、水の底に白い服を着た女性が現れ、ジェシカは引きずり込まれそうになりますが、他の3人にはそんな女性は見えていません。家の古道具を売り払いに行った時、骨董品屋から、そこの家の花嫁が入江で行方不明になって吸血鬼になったという伝説を聞きます。エミリーは最初はウッディと親しくなるのですが、その後、ダンカンにも色目を使っているようで、それがジェシカの精神を痛めつけます。ジェシカの前にまた少女が現れ、彼女についていった先には骨董品屋の死体がありました。その少女はダンカンにも見えていてつかまえてみると、彼女は口が聞けず、そして骨董品屋の死体も消えているのでした。果たして、ジェシカは正気を失っているのでしょうか。

ノーマン・ジョナスとラルフ・ローズの脚本を「カリフォルニア・ドリーミング」のジョン・ハンコックが監督したホラー映画です。公開当時はニューロティックホラーと呼ばれたこともあったようで、確かに神経症のヒロインが怖い目に遭うということでは、そういうジャンル分けもありそうです。全編をどこまでが現実で、どこからがヒロインの幻想なのかがよくわからない構成になっています。冒頭のヒロインのモノローグから、映画全体が回想形式になっていることがわかり、精神病院でヒロインが回想しているような味わいもあります。精神病院を退院したばかりのヒロインは精神的に不安定なところがあり、夫やウッディは彼女に気を使っているようなところがあります。それでも、気丈に振る舞おうとするジェシカなのですが、彼女のささやきかける声が聞こえたり、水中に人影を見たりとおかしなことが起こってきます。

この映画の面白いところは、ヒロインの精神が不安定なことを、当人、周囲の人間、そして観客も知っているというところ。この類のホラーでは、主人公が体験する異常な事件を実際にあったことのように描いておいて、最後に全部ヒロインの幻覚でしたというサイコスリラーに落とすものがあります。それは、ある意味、定番ともいうべきものになっているのですが、この映画では、最初から、これはジェシカの幻覚かもしれないという見せ方をしているところがユニークです。原題は「ジェシカを死ぬほど怖がらせよう」というもので、全てがジェシカの幻想かもしれないし、あるいは周囲の人間すべてが彼女を狂わせようとしているのかもしれない、いえいえ、ひょっとしてこの超自然現象はホントにあったことなんだと言うつもりかもしれないと、どうとでも取れる描き方になっているのですよ。そして、その見せ方はなかなかに怖い。入江で水中から女性が姿を現すシーンなどはっきりと姿を見せないだけに余計めに怖い。ジェシカが自分の精神状態に不安を抱いているという設定も効いていまして、これはどこまで本当のことなんだろうという観客の疑問とジェシカの抱く不安がシンクロするのがうまいと思いました。

骨董品屋から語られる、溺死した花嫁が吸血鬼になっちゃったという吸血鬼伝説が、だんだんドラマの前面に出てきますと、その物語のリアリティのなさが逆に怖さを増幅するのですよ。ヒロインの幻覚が、エミリーとダンナができてるとか、入江で死んだ花嫁を見ちゃったというのなら、想定の範囲内なのですが、唐突に現れる吸血鬼伝説が実体を帯びてくると、さすがにこれはヒロインの幻覚とは別物だよなあという気になってきます。ヒロインには変な趣味があって墓地の墓石に面白いデザインがあると、そこに紙を置いて写し取って部屋に貼っています。悪趣味な気もしますが、結構面白いデザインもあったりするので、わからないこともないけど、何しろメンタルに不安のあるジェシカがやっているので、やっぱり変。こういう危うげなヒロインの体験は一体どこまでホントなのかしら。

演技陣ではジェシカを演じたゾーラ・ランバートの熱演が光りました。疑心暗鬼になっちゃうのですが、さらに自分自身も信用できないという役どころにリアリティを与えています。エミリーを演じたマリクレア・コステロはどこか押しが強くてミステリアスで、ジェシカの神経を逆なでする女性を巧みに演じました。またオービル・ストーパーの音楽が通常の劇伴音楽の上にさらに不安なシンセサウンドを乗せるという二重音楽をつけることで、不気味な空気感を作り出すことに成功しています。特に心臓の鼓動のようなパルス音を駆使して、恐怖をもりあげています。



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エミリーが溺死した後行方不明の花嫁にそっくりなことに気付くジェシカ。そんなジェシカをエミリーは強引に入江に連れて行き、隙を見て彼女を水の中に突き落とし、水の中に沈めようとするのです。そんなエミリーを振り切って、岸に上がると、水の中から、写真のままの服装をした花嫁(顔はエミリー)が現れ、ジェシカに近づいてきて彼女に噛みつこうとします。花嫁を振り切って自分の部屋へ逃げ込んで頭を抱えるジェシカ。その間、ジェシカを呼ぶ声がずっと聞こえています。そして時間が経過し、下へ降りてくるとそこには誰もいません。町まで出てみれば、町の連中はみな顔や腕に大きな傷ができていて、どこかおかしい。そこから逃げ出したジェシカはダンカンに見つけられ、家へ戻ると、ベッドに入ったダンカンの首にも傷があったのです。さらにベッドの横に、ナイフを持った花嫁や町の人々が集まったきます。部屋を逃げ出すジェシカ。逃げる途中の階段の横に置いてあったコントラバスのケースの中には、あのしゃべれない少女の死体がありました。少女はジェシカに警告しようとしていたのです。農薬を巻くトラクターに助けを求めるとそこには友人ウッディの死体がありました。フェリー乗り場まで逃げたジェシカがフェリーに乗ろうとすると、係員の顔には大きな傷がありました。そこで、岸部のボートで漕ぎ出すジェシカですが、その船に乗り込もうとする男を銛で突き殺してしまいます。その顔を見れば夫のダンカンでした。岸には花嫁と町の人々が佇んでいます。ボートの上でジェシカはこれが本当に起こったことなのかどうか、わからなくなっていくのでした。エンドクレジット。

ジェシカを死ぬほど怖がらせる話とは、昔、入江で死んだ花嫁が吸血鬼になって今も生きていて、田舎町の人間はみんな吸血鬼に噛まれて、その仲間になっていたというもの。その吸血鬼の大もとがヒッピーのエミリーに姿を変えてジェシカに接近してきたのでした。一応の説明は通るものの、唖の少女や骨董品屋が殺される理由はよくわかりません。殺されるのと、吸血鬼の仲間にされるのと二通りに犠牲になるパターンがあるってのもよくわからないところがあります。そういう非合理性をあえて、説明しきらないで見せただけというところにこの映画の面白さがあります。実際の吸血鬼の話だとしても、ジェシカの幻覚だとしても、どっちにしても腑に落ちない結末になっているのです。映画の冒頭から全てジェシカの夢だったというのなら、可能性はありそうです。理不尽で行き当たりばったりで、でもどこか符合性のある事件が続くと、これは誰かの夢の話だというのはおおいにありうる話です。でも、そうだとしても、何か変だよなあってところに落ち着くのがこの映画の面白さだと思います。

ヒロインが精神を病んでいて、不可解な現象が起きても誰も信用してくれないという映画では、名作「恐怖の足跡」が思い浮かびますが、ヒロインが怪異に取り込まれてしまう展開は似たものがあります。ひょっとして、ジェシカがすでに自殺していてこの世のものではないという解釈も可能かもしれません。「恐怖の足跡」は明快に一つの解答を示して終わったのですが、この映画では、何通りもの解釈が可能であり、結末が観客の手にゆだねられているというのが面白いと思います。真実をあーだこーだと空想してみるのもよし、刈り取らない伏線を散りばめた構成を楽しむもよし、色々な遊び方ができる映画だとは言えないでしょうか。子供の頃は、このはっきり説明しない結末がすごく怖かったというのを思い出しました。

「とらわれて夏」はストレートな恋愛ドラマとして観たかったなあ。


今回は新作の「とらわれて夏」をTOHOシネマズ川崎プレミアスクリーンで観てきました。プレミアスクリーンできた当初はそれなりのプレミア感あったのかもしれませんが、ちょっと椅子が大きいだけのプレミア感では、通常上映にしか使われないよなあ。

1987年のアメリカの田舎町、13歳の少年ヘンリー(ヘンリー・グレッグ)は、離婚した母親アデル(ケイト・ウィンスレット)について二人暮らしをしています。母親はうつ傾向でひきこもりがちでした。そんなある日、スーパーへ親子で買い物に出かけると、ヘンリーは見知らぬ男フランク(ジョシュ・ブローリン)に声をかけられ、車に乗せてくれと言われます。アデルがノーと言うと、ヘンリーを盾にフランクは車に乗り込み、アデルの家まで連れて行かされちゃいます。フランクは囚人で盲腸の手術をした病院から脱走していたのです。腹の傷から血を流しているフランクはしばらく家で休ませてくれと言い、もし人に見つかったら人質にしたことにするからと、アデルを縛りあげます。しかし、フランクは二人に危害を加えるつもりはないようで、チリビーンズを作って二人に食べさせ、夜になると、アデルの縄をといてベッドで眠らせてやるのでした。翌朝、出て行こうとするフランクを何となく引き止めてしまうアデル。フランクは、朝食を作って車を修理するとか家のことをやってくれます。隣人が持ってきた桃を使って3人掛かりでピーチパイを作ったりするうちに、アデルとフランクの間でお互いを求める気持ちが強まっていきます。次の日、近所のイヴリンが知的障害の息子を預けにくるのですが、その子の相手をして野球の真似事をするフランクにヘンリーは父のような感情を抱くものの、自分がフランクと母親に置いていかれるのではないかと不安も抱くようになります。アデルとフランクはどこか遠くへ逃げようと相談し、ヘンリーにも一緒に行こうと告げ、荷物をまとめるのですが....。

ジョイス・メイナードの原作を、「JUNO/ジュノ」「ヤング・アダルト」のジェイソン・ライトマンが脚色し、メガホンを取りました。心を病んでいた母親と暮らす少年の前に脱獄囚が現れたその5日間を描いたもので、母親と脱獄囚の恋愛模様がメインストーリーではあるのですが、あくまで少年ヘンリーの視点から描かれるのがミソでして、13歳の少年の性の目覚めと母親の恋愛が並行して描かれるのが、なかなかにエロチックな雰囲気も匂わせるのですが、ライトマン監督のこれまでの映画のようなシニカルな視点は控えめの恋愛ドラマに仕上がっています。

主人公のヘンリー少年は、両親が離婚するのあたって、母親の方を選びました。それは精神的に弱っている母を捨てて、子連れの秘書と結婚した父親への反感みたいなものもあったようです。どこかやつれた母親は、あまり外出もせず、生活費を下ろしにいくのもヘンリーの仕事で、スーパーまで足を伸ばすのは月に一度、その一度のときにフランクに声をかけられ、家の押しかけられてしまうことになります。フランクは殺人罪で18年の刑の服役中に脱獄したのです。フランクがなぜ殺人を犯したのかは、ドラマの所々にはさまれるフラッシュバック風の回想シーンで語られます。また、アデルがうつ状態にある理由はラスト近くで母親の口から語られるのですが、それまでは、アデルやフランクの事情がよくわからない上に、ヘンリー視点でドラマが進むので、ストーリーをおぼろげに追うという感じになります。それは狙ったものなのかよくわからないのですが、ヘンリーの夢オチでもおかしくないくらいの語り口でドラマが展開するのは、どこか座りの悪い印象も持ってしまいました。

ヘンリーは性に目覚めるお年頃で、クラスメートの下着のラインにどぎまぎしちゃったりしてるのですが、自分の母親とフランクが恋愛感情を持っていることを知って、悶々としちゃうのでした。このヘンリーの心を惑わす母親を演じているケイト・ウィンスレットがうまいのですよ。母親としては頼りなくて、おどおどした日々を送っていたのが、フランクと知り合ってから、少しずつ元気になって、女の顔も見せていくという過程がすごく自然で、そして結構エロチックなのです。フランクがアデルを縛るシーンや、ピーチパイを一緒に作るシーンなど、ライトマン監督は狙って演出しているのですが、ウィンスレットの抑制の効いた演技が見事でした。その割に恋愛ドラマとしての盛り上がりを欠いてしまったように感じられたのは、ヘンリー視点のドラマ展開というだけでなく、ジョシュ・ブローリンが代理父としての顔しか見せられず、アデルを愛する男としてのキャラが弱かったということも挙げられましょう。

ヘンリーが町で知り合った転校してきた女の子と知り合うというエピソードもあって、そこで、自分が母親から捨てられる可能性を知らされてショックを受けるヘンリー。母親との密着度が高くて、さらに自分が母親を支えてきたという自負があったヘンリーからすると、その関係に割り込んできたフランクは、父親みたいなところもあるけどジャマな存在でもあります。それだけに、自分が母親から見捨てられるかもしれないなんて変な妄想へと走ってしまうわけですが、その感覚は最後まで払拭できないでいたのが結末への伏線となります。ものすごく生臭そうな展開になりそうなのですが、ライトマンの演出は、アデルをエロチックに見せても、ドロドロした感じにはなりません。そのどこかあっさりしたタッチがアデルとフランクの恋愛部分にも及んでいるのですが、これがラストでちょっとした違和感になってしまうのでした。結構いい話ではあるのですが、描き方が素直に物語を受け入れにくくしちゃっているといったら、ひどい言い様かしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



3人は荷物をまとめて車で出かけることにします。早朝、ヘンリーは父親の家に置手紙を残しますが、その帰り道に警官に見咎められ、警官が家までやってきてしまいます。そこは何とかやりすごし、銀行へ金を下ろしに行きます。銀行でも金額の大きさから疑われるのですが、なんとか金を手に入れ、家に帰り、3人で出かけようとなるのですが、父親への手紙から、警官隊に家を包囲されてしまいます。フランクは、アデルとヘンリーを縛り上げて、投降するのでした。フランクは誘拐と脱獄でさらに刑期が延びてしまいます。アデルは減刑嘆願しようとするのですが、検事に、罪人をかばうのは違法行為ともとられると言われてしまいます。ヘンリーは一度は父親と暮らすのですが、再び母親と一緒に暮らすようになり、そして結婚して家庭を持つようになります。アデルはずっと同じ家で暮らしていました。その成人したヘンリーのもとにフランクからもうすぐ保釈になると手紙が来ます。そこには、もしアデルが再婚していないなら連絡先を教えて欲しいと書かれていました。刑務所を出る年を取ったフランクを迎えるアデル。寄り添うように歩いていく二人の姿から暗転、エンドクレジット。

フランクが犯した殺人とは、妻と言い争いになって突き飛ばした時に打ち所が悪かったというものでした。アデルが精神を病むようになったのは、2度の流産とその後の死産が原因でした。このあたりの事情は別に最後までとっておかなくてもよかったと思うのですが、そういう構成もストレートに感情移入しにくくしていたような気がします。ラストで、10年以上の空白を置いても二人の愛は揺るがなかったということには、かなりびっくりでした。そこまでの深い愛情物語にするなら、ヘンリー視点でない部分でも二人の絡みをもっと丁寧に描いて欲しかったです。そういうドラマチックな恋愛ドラマを演じられる俳優二人を使っているのに、ドラマが分散してあっさりしたら、せっかくのラストの感興も薄まってしまったように思います。ケイト・ウィンスレットがいいだけに何だかもったいないような気がしちゃいました。

「ヘルハウス」は幽霊屋敷ものの面白さでの筆頭です。


この前、DVDで「たたり」を観て、これと同じく今や古典となりつつある「ヘルハウス」をDVDゲットして見直しました。公開当時は「エクソシスト」公開の後、後追いオカルト映画みたいな扱いでの公開でしたけど、これは「エクソシスト」と比較されても困る毛色の違う映画でした。

1919年に建てられたその邸では、主人ベラスコが放蕩悪行の限りを尽くし、当のベラスコは邸に招待客27人の死体を残して姿を消していました。それ以来、この家はヘルハウスと呼ばれ、過去に行われた心霊実験では死者を出すなど、とんでもない場所としてその名をとどろかせていました。その邸を買い上げた新しいオーナーが、再度、邸の調査をさせるべく、物理学者バレット博士(クライブ・レビル)、心理霊媒フローレンス(パメラ・フランクリン)、物理霊媒ベン(ロディ・マクドウォール)を1週間邸に送り込むことにします。バレットは妻のアン(ゲイル・ハニカット)を同行します。ベンは20年前の実験の参加者で、唯一の生き残りでした。4人が邸の中に入ると、早速フローレンスが反応を示し、礼拝堂へは絶対に入れないと言い出します。そして、フローレンスは交霊を行い、そこでベラスコの息子のいると言います。息子の霊はフローレンスの部屋にも来て、彼女に救いを求めているようなのです。バレットはもともと霊魂の存在には否定的で、そこにあるのは意思のないエネルギーだと考えていました。ベンは前回の実験のトラウマから心を閉ざすことで無事にやりすごそうとしています。アンは、邸の雰囲気にあてられたのか、おかしくなってベンに言い寄るようになります。フローレンスは、邸の地下で鎖につながれた死体を発見します。これがどうやらベラスコの息子のダニエルらしいのです。その死体を埋葬した後も、ダニエルの霊はフローレンスにつきまとい、彼女の体を求めてきます。この邸で、4人は無事に調査を終えることができるのでしょうか。

「地球最後の男」「激突」や、映画、TVの脚本でも知られるリチャード・マチスンの原作を、マチスンが脚本化し、「ブラス・ターゲット」「星の国から来た仲間」のジョン・ハフが監督したホラー映画の一編で、ハフにとっての代表作になっています。幽霊屋敷として有名な邸に、物理学者と霊感のある人間が調査にやってくるというところは「たたり」と同じ趣向です。しかし、「たたり」が超常現象の絵解きをしないで、何か不思議なものとしてのみ描いたのに比べると、こちらは、人間と邸の攻防戦となっており、さらにミステリーの趣向も盛り込んだエンターテイメントに仕上がっています。同じ幽霊屋敷でも「たたり」は雰囲気で見せる映画ですが、こちらは、展開の面白さで見せる映画になっていまして、映画としての優劣はつけられないのですが、怖さなら「たたり」、面白さなら「ヘルハウス」に軍配があがります。

霊媒に心理霊媒と物理霊媒があるというのは、この映画で初めて知りましたが、その違いはよくわからないまま40年放ってあります。ともあれ、フローレンスは交霊を行い、当主の息子ダニエル・ベラスコの霊と交感します。バレット博士は、彼女の能力をインチキだとは言わないものの、心霊の存在は否定しています。霊媒であるベンでさえ、息子の霊について懐疑的で、彼女が邸に利用されているのではないかと危惧します。そして、息子とおぼしき死体が発見されることでフローレンスの主張は証明されることになります。

当主ベラスコは、SMとか死姦とか人肉食いまでやらかしたとんでもない奴だったらしく、吼える巨人と呼ばれる風貌だったそうです。そのエロオヤジの部分が、アンを夢遊病のようにしてベンを誘惑させます。また、埋葬された息子の霊はさらにフローレンスの肉体を求めてくるのです。フローレンスが彼に肉体を与えると、彼女の部屋で悲鳴が聞こえ、ベンたちが彼女の部屋に向かうと裸のフローレンスがベッドに倒れていました。その後、彼女は自分の中に息子が入り込んだと言い、誰かに操られたような言動や行動をとるようになります。一方、バレット博士は、この邸には電磁的な残留エネルギーがあって、それが超常現象を起こしていると考えていました。そして、リバーサーと呼ばれる巨大な機械を持ち込んで、逆のエネルギーを与えることで、残留エネルギーを沈静化させ、それにより霊と呼ばれるものをはらおうとします。そのことをベンやフローレンスに説明したとき、フローレンスが機械を壊そうとしたことから、自分の理論に確信を持ちます。そして、いよいよリバーサーを作動させることになります。

ジョン・ハッフの演出は94分という時間、4人だけの登場人物の中でサスペンスを盛り上げることに成功させています。シーンの冒頭に日時時刻を表示することでドキュメンタリータッチを演出しています。ブライアン・ホッジソンとデライア・ダービシャーによる電子音楽が、効果音の部分でも使われて、その無機質な感じがドキュメンタリーの雰囲気を盛り上げています。また、「恐竜の島」「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」のアラン・ヒュームのキャメラは邸の不気味な空気感を見事に表現しています。これは、脚本の功績なのでしょうが、この映画では、心霊現象というものを、神の力を借りて解決しようとするフローレンスと、科学の力で解決しようとするバレット博士をバランスよく采配しているので、どちらの言い分も正しいように思えるところがうまいと思います。この邸には意思を持たない、でも強烈な残留エネルギーがあって、それが生きている人間を介して心霊現象となっているというバレット博士の言い分には結構説得力あるのですよ。それに比べると、繊細そうなフローレンスのベラスコの息子の霊の存在の方がどこか怪しい、彼女が邸に利用されているというベンの言い分も正しいような気がしてきます。このあたりは、キャスティングの妙もありまして、フローレンス役のパメラ・フランクリンは線の細い感受性の強い女性にうまくはまりました。一方のバレット博士役のクライブ・レビルは、心霊現象は否定しないけど、霊魂の存在を否定するという立場を冷静に演じて、説得力のある演技を見せてくれました。アン役のゲイル・ハニカットは邸に翻弄される人妻をエロチックに演じてみせました。前回の唯一の生き残りであるベンを演じたロディ・マクドウォールは、バレットとフローレンスのシニカルな観察者というポジションを演じて、うまいところを見せます。




この先は結末に触れますのでご注意ください。



機械を壊そうとしたフローレンスはバレットに殴られて気を失うのですが、その後、目を離した隙に姿を消し、バレットたちが気付いたときには、礼拝堂で十字架の下敷きになって死んでいました。彼女はダイイングメッセージに「B」という文字を残していました。そして、リバーサーの作動は実施され、作動後、邸内に戻ってみると、それまであった霊気がはらわれてることにベンは驚かされます。しかし、バレットが資料を記入していると、エネルギーを察知する計器が作動して爆発します。異常に気付いたアンとベンは礼拝堂で無残に殺されているバレットを発見します。ここで、これまでずっとおとなしくしてきたベンが、二人に死を無駄にできないと立ち上がります。そして、交霊の時のフローレンスの言葉や、ベラスコが邸を出たことがなかったこと、前回の実験で関係者が皆足を傷めていたことを思い出し、咆哮の巨人というベラスコの実体は身長コンプレックスの小男であることに気付き、礼拝堂で、ベラスコに向かってそれを暴いて見せます。「お前は、娼婦が産んだ只のチビの私生児だ」と言い放つベンを、強力な力が押し戻そうとするのですが、最終的に空気は静まり返ります。そこで、ベンが霊媒能力を発揮すると、礼拝堂の壁が壊れ、その後ろの隠し部屋が開きます。ベンとアンがその中に入ってみると、そこにはベラスコが生きているような姿で座っていました。ベンがナイフをベラスコの足に突き立てるとそれは義足でした。ベラスコは身長が低いコンプレックスから足を切って義足にしていたのでした。そして、隠し部屋は鉛で覆われていて、それにより、リバーサーによって息の根を止めることができなかったのでした。フローレンスのダイイングメッセージは全てがベラスコ一人による現象だという意味だったのです。バレット博士もフローレンスも真実に近づいていたのですが、もう一歩のところでベラスコによって殺されてしまっていたのでした。邸を出るベンとアンに日付時刻がかぶさり、エンドクレジット。

バレット博士が持ち込んだ科学技術の結晶であるリバーサーがかなりの効果をあげること、そして、ラストでベンがベラスコに勝つという展開に意外性がありました。誰が正しくて、誰が生き残るのかという展開の面白さで最後まで引っ張る展開が見事でして、この映画を一級の娯楽作品に仕上げています。霊魂はあるのかないのか、どこへ話を落としこむのかというところ、そしてどうすれば邸に殺されずに済むのかというところがスリリングで最後まで飽きさせません。超自然現象をあるものとして扱っていながら、ミステリーとしても十分に面白かったのですから、大したものです。

「家族の灯り」はこういう映画もあるんだなあって、何度かびっくりさせられます。


今回は新作の「家族の祈り」を静岡シネギャラリー1で観てきました。ここは、チケット購入時に整理券をもらい、その番号順に5人ずつ入場するという自由定員制の映画館。かつては東京のミニシアターでもこのやり方をするところもあったのですが、全席指定制に移行するとともになくなってしまいました。

ある町で、会社の集金係をしているジェボ(マイケル・ロンスデール)は、妻ドロディア(クラウディア・カルディナーレ)と義娘ソフィア(レオノール・シルヴェイラ)と貧しい暮らしをしていました。ジェボの息子であり、ソフィアの夫であるジョアン(リカルド・トレパ)は8年前に姿を消していました。そのことに、特にドロディアが胸を痛めていました。そんなある日、突然ジョアンが帰ってきました。その夜、友人のカンディディニア(ジャンヌ・モロー)とジャミーソ(ルイス・ミゲル・シントラ)がおしゃべりにやってきます。日々の暮らしのこととか話していると、ジョアンはそんな会話は意味がないと言い出します。自分は人生と社会と闘い、闇に飲まれてしまったのだというジョアンはどうやら人を殺して刑務所にいたらしいのです。そして、そのことをジェボとソフィアは知っていましたが、ドロディアには隠していたのでした。そして、ジェボが預かっている会社の大金にジョアンは目をつけ、ソフィアが止めるのも聞かず戸棚の鍵を壊して、大金の鞄を抱えて姿を消してしまうのでした。

ポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラ監督が、ラウル・ブランダンの原案をもとに脚本を書き、メガホンを取りました。この監督の映画は「クレーブの奥方」を観て、面白いなあと思ったのが始まりで、その後「家路」の後「永遠の語らい」を観て、「ん?この監督の映画どっか変かも」と思うようになり、「夜顔」も普通じゃない映画だったという流れで、この監督の映画を観ています。この「家族の灯り」も普通の映画ではありません。舞台はジェボの家のみ、固定カメラでとらえられた人物が説明的だったり観念的だったりする台詞をものすごく間をとって順番に話していきます。リアルなドラマチックな会話とは真逆の世界でして、普通のドラマを期待していると「何じゃこりゃ?」ってことになります。その抑揚のない展開がどこかで動き出すのかと思っていると、ほぼそのままで映画が終わっちゃうという、初めてお目にかかるとかなり驚愕の映画ということになります。言い方は悪いけど、卒業式の呼びかけみたいな感じで会話が進んで、その間、ほとんど画面が動かない。カメラが動かないから舞台劇みたいだけど、舞台劇にしては登場人物が動かないし、台詞も声を張らないので、その単調さに正直、ところどころで睡魔と闘うことになります。驚いて、その後闘う映画なわけです。

ジェボは、見た目は普通の紳士なんですが、他の社員の出世を横目にずっと集金係をやっていて、ずっと貧乏。会社にはお情けで置いてもらってるんですって。そんなジェボと妻は毎日貧乏で大変だねえって言い合って暮らしています。失踪した息子については、ダンナが何かを隠していて、嫁と一緒になって自分をだましているようなことを言います。何というか、重苦しい日々を8年間ずっとやっている一家でして、夜訪ねてくる友人との会話も同じ日々の繰り返しを確認するような会話ばかりです。そんなぐだぐだな会話を刑務所帰りの息子は「いつもこんな無意味な会話をしてるのか」と一刀両断するのですが、一方で自分も「自分は人生の闇の部分を見た」とか観念的な話ばかりしているので、どっちも似たようなものなんですが、少なくとも、息子が見てきた人生は他の登場人物のそれとは一線を画すもので、開放的であり自由であり、そして邪悪なのでした。貧しい日々を仕方ないねえと暮らしている親や嫁とは違う人生を歩んでいるらしいのです。でも、その自由な邪悪さが、ジェボが預かってきた会社の金に目をつけます。妻にこれを盗んで一緒に逃げようというジョアン。それを止めようとするフィオナを振り切って、ジョアンは戸棚の鍵を壊し、大金の入った鞄をうばって夜の町へ姿をくらますのでした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



3日後、ジェボは息子を探し出せないまま家へと帰ってきます。息子がまたいなくなったことで、泣き続ける妻を思い、事の真相を妻に知らせたくないジェボ。ソフィアとこの先どうすればよいのか途方に暮れているところへ警官がやってきます。その警官に向かって「私が盗んだ」というジェボ、ここでストップモーションとなってエンドクレジットが被さります。この唐突な結末も前の映画で観たことのあるパターンでして、そのあっけなさに驚かされることになります。ストーリー的には悲劇ではあるのですが、そこまでのドラマ運びや見せ方から、こっけいな感じさえする幕切れになっています。それまで、ずっと会社で同僚たちに蔑まれてきたジェボが、息子の罪をかぶって盗みで逮捕されてしまう結末は、悲惨すぎるくらい悲惨なのですが、それをオーバーアクトな演技で見せられることで、悲劇のどん底感がちょっとだけやわらぐのが意外な発見でした。

この映画を様式美の面白さということもできるのかもしれませんが、私みたいにそもそもの「様式」についての造詣のない人間には、ケッタイなドラマというのが正直な感想になります。もったいぶったセリフの中から感じられる妙なおかしさは、もともとの作り手が狙ったものなのか、自分の無知な感性によるものかが判別できないのですよ。ただ、それでも、こういう映画もあるんだなあというのは、一つの発見でしたし、小難しいことを語る堂々巡りってのはこういうものかあって納得しちゃいましたし、それなりの面白さのある映画だったと思います。テレビで歌舞伎中継を見ているのに近い感触がありまして、そういう意味では、このドラマの作りには伝統芸能的なものがあるのかもしれません。

「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」はいい話なのに、どっかあっさりしすぎな後味で。


今回は新作の「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」を静岡シネギャラリー1で観てきました。全編モノクロの映画ということなのですが、うっすらと色がついてるシーンがあって、何か意味があったのかなあ。それとも、私の錯視なのかしら。

ちょっとボケがはいっちゃったのか、ウディ(ブルース・ダーン)は、インチキだとすぐにわかる「100万ドル当選しました」と書かれたチラシを真に受けてリンカーンまで金を受け取りに行くと言い出します。高速道路を歩いているところを警察に保護され、次男のデビッド(ウィル・フォーテ)が引き取りに行きます。妻のケイト(ジューン・スキップ)や長男のロス(ボブ・オデンカーク)は、ウディを老人ホームに入れるべきだと言いますが、デビッドとしてはそうするにしのびなく、リンカーンまで行ってインチキとわかれば気が済むだろうと、父親を車に乗せてリンカーンまで行くことにします。途中のホーソーンで、ウディの兄の家に立ち寄り、そこの親族パーティに出ることになります。兄の家のホーソーン、そこはウディがかつて工場を持っていたところで、昔の顔なじみもいる町でした。そこで、デビッドはウディのガールフレンドだったペグに会い、父親が朝鮮戦争で苦労した話を聞かされます。一方、バーでウディが100万ドルのことを口走ってしまい、町中の評判になってしまいます。そしたら、かつての共同経営者エド(ステイシー・キーチ)や親族パーティで集まった親戚が金をタカりにきます。もともとインチキチラシの100万ドルなので、そんな金はないとデビッドが説明しても連中は納得しません。それでも、ウディはかたくなにリンカーンに金をもらいに行くと言い張るのでした。

ボブ・ネルソンの脚本を、「サイドウェイ」「アバウト・シュミット」のアレクサンダー・ペインが監督した一編です。シネスコサイズのモノクロという作りで、実際、モンタナ、ワイオミング、ネブラスカでロケされています。自分の父親がボケて警察の世話になるというところからお話が始まります。100万ドル当選というインチキチラシを真に受けて、賞金をもらいに行くんだと言ってます。母親は、もうこんなのにつきあってられないから、施設に入れようって言って、兄も同意見。それでも、何だか父親が気の毒に思えたデビッドは、仕事を休んで、父親の行きたいところへ連れて行ってやろうってことになります。父親が正気と思えない言動をし始めたときに、その正気じゃない言い草とわかった上でつきあってあげようってのは、偉いねえって思っちゃいました。母親がしっかりものなんだけど、とにかく下品で息子も閉口しているという設定が面白く、その一方でボケかけの父親がおっとりしたお調子ものであることがわかってきます。

ブルース・ダーンが好演しているウディという男は、本当のボケちゃったのか、単に気難しい年寄なだけなのかよくわからないところがあります。そのキャラクターを曖昧にしたのであれば、相手役のデビッドの方のキャラを明快にすべきだったのですが、デビッドを演じるウィル・フォーテも受けの演技になっているので、主人公二人のキャラがあやふやして、ドラマとしての座りが悪くなってしまったように思いました。その一方で、母親のキャラクターが強烈で、ドラマを引っ張っていくものですから、バランス的にメインのドラマの座りが悪いという印象を持っちゃいました。これは、狙って主役二人を曖昧キャラにしている節もあるので、好みの問題とも思うのですが、親子二人のロードムービーとするのであれば、もっと二人のキャラを描きこんで欲しかったように思います。唯一、ウディの人となりが感じられるのが、100万ドルもらったら、何をしたいのかを聞かれて、新品のトラックと空気圧搾機を買うんだというところ。これがラストへの伏線になっているのですが、そういうささやかな夢になぜかこだわっているウディを、息子のデビッドが困ったなあと思いながら相手していくというのが、映画のメインストーリーになっています。

父親がかつて工場を経営していたホーソーンという町へ行くと、それまで知らなかった父親の姿を知ることになります。朝鮮戦争に行って精神的にダメージを受けていたこと、どうもおだてに弱いのか人に利用されやすい性格らしいこと、また、昔のガールフレンドだった女性にも会って話を聞くことができます。この元ガールフレンドが上品で知的な女性で、母親と正反対キャラだというのがおかしく、それでも、そんな母親が父親の最良の伴侶であるという描き方をしているのが微笑ましかったです。100万ドル当選の話を本気にした親戚が「昔ウディの金を貸してた」と言い出すのを、ケイトが下品な啖呵で一蹴するのが笑えるのですが、そういう奥さんがそばにいたからこそ、これまでウディがやってこられたのだとわかると、この母親が単なる下品なばあさんじゃないことがわかってきます。きっと、頼りなくて安請け合いしちゃうダンナを叱咤激励して人生乗り切ってきたんだなあと、思わせるところはちょっとだけホロリとさせるところがあります。(あくまで隠し味レベルですが)

ペインの演出は、主人公ウディを偏屈だけどおっとりしてるという微妙なラインでキャラづけをしていまして、一方のデビッドもおっとりタイプに設定しているので、バディムービーのようなキャラの掛け合いが生まれず、そこにちょっと物足りないものを感じてしまいましたが、その定番の外し方はある意味新鮮でして、こういう味わいの映画もあるんだなあという発見がありました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ホーソーンの酒場の帰りに、ウディ親子は、覆面をした甥っ子に襲われ、インチキ当選チラシを奪われてしまいます。それを見た町の連中はウディがインチキチラシを真に受けていたことを知り、酒場では、エドたちがそれを見て大笑いしています。デビッドが怒りにまかせてエドを殴ってしまうのですが、ウディは気分が悪くなって入院してしまいます。それでも、デビッドが目を離したすきに、白衣のままリンカーンへ行こうとするもので、翌日、デビッドはウディをチラシの発送元へと連れていきます。そこには、事務のおねえさんがいて、当選のチラシを見せると、これは番号が当選していれば100万ドルでこれは当たってないからダメですとあっさり言われちゃいます。ウディはそれを素直に受け入れてしょんぼりしちゃいます。そして、記念に帽子だけもらって帰ることになります。デビッドが「こういう人、結構いるの?」と聞くと、おねえさん「時々ね、お年寄りが多いけど」ですって。

意気消沈するウディに、デビッドは自分の車を売って新品のトラックに替え、それに新品の空気圧搾機を積み込みます。そして、ホーソーンの町へ連れていくと、ウディに運転を交代して、父親に町を一周させてやるのでした。そして、町を出たトラックが道の途中で止まって、運転手が交代してまた走り出すところで暗転、エンドクレジット。

酒場の前で気分が悪くなったウディにデビッドが100万ドルをどうするつもりなのかと尋ねるシーンがあって、そこで、トラックを買った後は子供に使いたいと答えるシーンがあります。それまで、子供のことなんて気にかけていなかったように見えたウディが「子供のために」というところに意外性がありました。そういうやりとりもあって、デビッドは、ウディにウイニングランをさせてあげるのでした。ここで、何かいい話だなあって感じで終わるので、あたたかい後味が残りますが、ドラマ的には全体におだやかすぎて物足りない印象も残ってしまいました。その、おだやかな味わいを楽しめなかったのはなぜかと考えてみたのですが、発端の高速道路を徘徊するじいさんというのがシリアスすぎたのかなって気がしました。要は放っておくと何するのかわからないアブないボケ老人の話のように始まるわりには、あっさりしてるなあ、母親の方がキャラ濃いなあ、とか、予想と違う展開になっていたのが、違和感になってしまったようです。シンプルな父親と息子のドラマとしては、よくできてるし、いい話だと思います。そこだけにフォーカスしてくれたら、もっと素直に感動できたのかもしれません。

「ある過去の行方」は語り口のうまさの先にたどりつく結論がすごい


今回は新作の「ある過去の行方」を渋谷のル・シネマ1で観てきました。昔はここでしか上映されない映画が多くて、足を運ばざるを得なかったのですが、最近はここのラインナップがシネコンにかかることが多くなって、そのステータスが微妙になってきている映画館(かな?)。

アーマド(アリ・モッサファ)は、マリー・アンヌ(ベレニス・ベジョ)との離婚手続きのため、4年ぶりにイランからパリへ戻ってきました。かつて住んでいた家に戻ってみれば、大きくなった娘リュシーとレアの他に見たことのない少年ファッドがいました。この子がマリー・アンヌの結婚相手サミールの連れ子だと聞いて、アーマドとしては心境複雑なものがあります。リュシーは母親とクリーニング屋の経営者サミールの結婚を望んでいないようなのです。実はサミールの奥さんはうつ病持ちが高じたのか、店で洗剤を飲んで自殺を図り、植物人間となって入院しているのでした。その自殺の原因は、サミールがマリー・アンヌと浮気したからだとリュシーは思い込んでいて、そんな結婚を祝福できないでいたのでした。マリー・アンヌとファッドがいさかいを起こしてしまい、その間をアーマドがとりもつような関係になりました。マリー・アンヌ、リュシー、ファッド、サミールの関係がどうもぎくしゃくしているのがアーマドには気がかりでした。そこにはサミールの奥さんがなぜ自殺したのかが関わっていたのでした。

「彼女が消えた浜辺」「別離」で人間の機微を豊かに描いたアスガー・ファルハディが脚本を書いてメガホンを取った新作です。前2作がすごくよかっただけに期待のハードルが上がってしまうのですが、その期待とはちょっと違う方向でまた新しい展開を見せてくれています。今回の舞台となる一家は、結構複雑でして、マリー・アンヌと最初のダンナの間に長女リュシーと次女レアが生まれ、そして最初のダンナと別れた後、アーマドと結婚したのですが、二人の間には子供ができず、4年前に無職だったアーマドはイランに帰ってそれっきりになっていました。それが、今度、マリー・アンヌとサミールと結婚することになったのです。マリー・アンヌは薬局の薬剤師で、その近所のクリーニング店の経営者がサミールで、彼にはうつ病で自殺歴のある奥さんと息子ファッドがいたのですが、ある日、奥さんがクリーニング店で息子の目の前で洗剤を飲んで自殺したのですが、死にきれないまま植物人間になってしまったのです。それだけで大変なことなのですが、そんな奥さんがいるのに、マリー・アンヌとサミールは結婚するというのですから、子供たちの心境は複雑です。長女のリュシーは、二人の結婚が喜べない。サミールの息子ファッドはマリー・アンヌとの関係がうまくないのに父親からマリー・アンヌの家で暮らすように言われ、大人の勝手に振り回されてるという被害者意識を持っちゃってます。まあ、被害者意識というのは気の毒で、このファッドという少年は母親が自殺して植物状態だというのに、あまりケアされることもなく大人の都合に振り回されてものすごく気の毒。それでも、健気に父親についていこうとするあたりがなかなかに泣けるのですよ。一方、次女のレアは事態を冷静に受け入れようとしているいわゆるいい子。この子がいつか爆発しないかはらはらしたのですが、ファルハディはそこまでドラマを広げませんでした。

とはいえ、ファルハディの脚本は、物語の展開に伴って、どんどんドラマの裾野が広がっていき、登場人物の人生が厚く浮かび上がるようになっています。そのボリューム感は、凡百のドラマとは一線を画すもので、ドラマを見たという満足感を得ることができます。それは前2作でも言えたのですが、今回は、感情移入しにくい登場人物になっているのが新機軸で、そのキャラクターの奥行が人間のやな部分のツボをついてくるところが、観終わって何とも言いがたい後味を残すことになります。さらに、ラストにもうひとひねりを加えて、ドラマ全体をぼやかすことで、さらに人生のうまくいかなさをダメ押ししてくるのですよ。(これは、私の解釈なので、別の見解を持たれる方もいらっしゃるとは思いますが)ある意味、すごく意地の悪い作りになっているとも言えるのですが、その言わんとするところは一目置かざるを得ないという、かなり手ごわい映画に仕上がっています。

ヒロインのマリー・アンヌは、結婚相手の奥さんが自殺したのは、もともとうつ病だったからで、自分が原因じゃないと言い切ります。どこから、そんな自信が出てくるのかがよくわからないのですが、元ダンナのアーマドはそこが気になったのか、サミールの奥さんの自殺の原因を知ろうとします。娘リュシーの疑念をこのまま放っておくこともできないと考えたのかもしれません、それまで、家族間のぎくしゃくした人間関係を描いてきたドラマに、ミステリーの要素が出てきます。その謎は当人が植物状態で確認しようがないのですが、どうやらそういうことらしいという輪郭が見えてきます。その輪郭は登場人物の様々な思惑が絡んでいて一筋縄ではいかないもの。ああ、そうくるのかと納得していると、納得してもドラマは終わらないというほろ苦い結末に、人生はこの映画と同様に手ごわいものなんだなあって気づかされるのです。

演技陣の中では、うかつに共感することを許さないキーパーソン、マリー・アンヌを演じたベレニス・ベジョが近寄りがたい存在感を熱演している一方で、観察者であり狂言回しでもあるアーマドを演じたアリ・モッサファの存在感を殺した演技が見事でした。正直、観終わった瞬間は、え、これは何なの?と思った結末も後からじわじわ効いてきますので、未見の方はこの先はお読みにならないことをおすすめします。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



サミールの奥さんは、自殺する数日前に、クリーニング店の客と、ドレスの染みのことで喧嘩していました。その時、奥さんを擁護しなかった従業員のナイマを怒鳴りつけた奥さんに対し、サミールはナイマの方を持って、奥さんに店に出ることを禁止したというのです。そのゴタゴタが自殺の原因だとサミールやマリー・アンヌは思っていました。しかし、長女のリュシーは、自殺の前日にサミールの奥さんに、それまでサミールとマリー・アンヌがやりとりしたメールを送っていたと、アーマドに打ち明けます。その話を聞いて逆上してリュシーを責めるマリー・アンヌ。しかし、落ち着くと、その事実をサミールに伝えます。リュシーによると、自殺の前日にサミールの奥さんに電話して、メールアドレスを聞き出して、いわゆる浮気メールをまとめて転送したらしいのです。しかし、客との喧嘩の後、サミールの奥さんはずっと店に出ていないことにサミールは気づきます。実は、奥さんのふりをしてメールアドレスを教えたのは、店の使用人ナイマだったのです。彼女が言うには、奥さんは、サミールとナイマが浮気していると疑って、彼女につらくあたっていたのだと。そして、奥さんは、転送されたメールは見ていない、もし見ていたら、マリー・アンヌの店の前で自殺するはずだと言います。実際、奥さんはクリーニング店でナイマの前で洗剤を飲んでいたのでした。

結局、マリー・アンヌは妊娠しているのですが、サミールとの結婚は棚上げになります。ファッドは元のクリーニング店の家に戻されて、リュシーを恋しがっています。アーマドは、元妻と子供たちに別れを告げてイランへと帰っていきます。そして、サミールは病院に妻を訪ね、自分の香水の匂いをかがせて、これに気付いたら手を握り返してくれと言います。その時、こん睡状態のサミールの妻の目から涙が流れます。そして、カメラはサミールと妻の手のアップになり、エンドクレジット。

ファッドはレアと仲良くなり、マリーアンヌの家を自分の家と思えと言われていたのに、また元の家に引き戻されてしまいます。マリー・アンヌのお腹の子供は堕胎させられてしまうかもしれません。大人の都合に振り回される子供という構図がくっきりと浮彫になり、人生って自分の思うようにはならないんだなあってのが伝わってきます。ラストで植物状態だったサミールの奥さんに回復の兆しが見えるのですが、それを必ずしもハッピーエンドとは思えないところにこの映画の苦さがあります。これによって、再び、サミール、奥さん、マリー・アンヌの関係がややこしいことになり、子供たちがまた振り回されることにもなります。マリー・アンヌにとってみれば、結婚の確信があやふやになっているところへ、奥さんに復活されては復縁の可能性がなくなっちゃうし、アーマドを呼びつけて離婚手続きしたのが無意味になっちゃいます。要はどう転んでも八方丸く収まるハッピーエンドなんてないのです。そして、マリー・アンヌだけが割を食うのもフェアじゃない、サミールの奥さんだって結構ひどいじゃんと思えば、このエンディングに、運命は誰の好きなようにも転ばないんだなあって、気づかされることになります。なんとなく、ぼんやりとハッピーエンド風に終わるけど、結局、思い通りにならない人生をダメ押しされてるわけで、どうあがいてもムダかもしれないって気分になってきます。重層構造のボリュームたっぷりのドラマを見せられて、結局、そういう結論かい?ってことにもなるのですが、ドラマとしての満足度は高いのですよ。すごく実験的な作りだと思う一方で、語りのうまさが際立つ一品ということになりましょうか。でも、映画としての満足度高くても、ネガティブってのはすごいよなあって感心しちゃった次第です。

「おとなの恋には嘘がある」はリアルな大人の恋愛をほのぼの風味でどうぞ。


今回は新作の「おとなの恋には嘘がある」を新宿シネマカリテ1で観てきました。初めての映画館なのですが、横長の劇場でスクリーン位置が右に寄っている変な映画館。段差はあるので見易さはOKなのですが、ビルの地下フロアに2劇場入れるとこういう作りになっちゃうのかなあ。ちなみにこの映画は1000円均一での公開で、DVD化のご祝儀価格なのかもしれませんが、他の劇場で公開すると1800円取られるのかしら。

10年前に離婚し、大学進学を控えた娘を持つエヴァ(ジュリア・ルイス・ドレイファス)は出張マッサージ師。あるパーティで、詩人のマリアンヌ(キャスリーン・キーナー)と知り合いになり、エヴァのお得意さんになります。そのパーティで挨拶したアルバート(ジェームズ・ガンドルフィーニ)が友人サラ(トニ・コレット)を通して連絡先を交換してきました。デブでひげ面のアルバートですが、会ってみれば、話は合うし、どことなくセクシーでもあるし、エヴァは彼に好感を持つようになります。アルバートもエヴァが好きになったようで、何回かデートを重ねてベッドを共にするようになります。マリアンヌも離婚経験者で、元ダンナのグチを聞かされるエヴァでしたが、よくよく聞いたら、それはアルバートのことでした。好意を持つアルバートの悪口を聞きながら、彼と付き合うという妙な状況になってしまったエヴァですが、彼女はそのことをマリアンヌへもアルバートへも言い出せないでいました。しかし、ある日、マリアンヌの家でマッサージをしていたところ、そこへ娘の進学の件でやってきたアルバートと鉢合わせしてしまいます。気まずくなって固まるエヴァ、ショックを受けるアルバート。そして、二人は別れてしまうのでした、が.....。

テレビシリーズの演出の実績を持つニコール・ホロフセナーが脚本を書いてメガホンを取った中年ラブストーリーの一編です。主人公二人は大学へ進学する娘がいるというから、40代後半になりますでしょうか。どっちも離婚していて、職を持った中年男女の恋愛模様をリアルに直球勝負していまして、1時間33分という上映時間の中で、コンパクトにまとまった小品ということになるのでしょうが、わざとらしいキャラ設定をしない、等身大の主人公が大変好感の持てるドラマに仕上がっています。メインのラブストーリーにまわりに散りばめられた脇のエピソードも心地よく、仕事帰りに観るのにふさわしい一品に仕上がっています。(私は休日に観たのですが、映画の佇まいがそんな感じ。)

出張マッサージ師のエヴァは、ダンナと別れて10年、同居していた娘が大学進学で家を出ることになっているシングル女子。お得意さんもいて仕事は順調みたいです。そんな彼女がパーティで知り合った中年男性アルバートは、デブのひげのおっさんです。図書館でビデオライブラリーの仕事をしていて、エヴァと同じく大学進学を控えた娘がいます。デートしてみれば、会話は弾むし、お互いの相性はいいみたい。そんな二人の会話で面白いと思ったのは、元妻、元ダンナの話。最初は好きあって結婚した筈なのに、一緒にいたこととか、いいと思ったことが信じられないという口ぶりなんですよね。未婚の私にはわからない世界なのではあるのですが、やはり離婚した過去というのは、黒歴史として現時点では受け入れがたいものらしいのです。マリアンヌもアルバートのことをボロクソに言うのも同じことなんでしょうが、現在進行形の相手をミソクソに言われちゃうのは、エヴァとしては気分複雑になっちゃうわけです。でも、エヴァはそれを必ずいやだと思っているわけではなさそうなのが面白いところで、付き合ってる相手の正面から見えてこない欠点を知ることができるってのは、彼女にとってはウェルカムなわけです。マリアンヌから聞いたアルバートのグチを、本人を観察して確認したり、マリアンヌからの受け売りの言葉を彼にぶつけちゃったりして、このあたり、エヴァ結構ひどい。

アルバートは、離婚するだけの理由はある男ですが、エヴァに対して誠実に付き合おうとしていますし、娘に対してもいい父親であるようです。完全無欠な人間はいない現実の中で、エヴァとアルバートはお似合いのカップルに見えますし、お互いに惹きあう気持ちも本物でした。その身の丈にあった恋愛関係にあった二人ですが、エヴァとマリアンヌとアルバートが顔を見せたことで、その関係も終わってしまいます。アルバートにとってはかなりショックだったみたいで、ダメージ大きく、エヴァが必死に謝るのですが、それでも彼の心は閉じてしまいます。

ヒロインのエヴァはとびきりの美人というわけではないし、インテリという感じでもない普通のおばさんです。映画のヒロインというには地味な印象の中年女性を、ジュリア・ルイス・ドレイファスが出過ぎない感じで好演しています。この出過ぎないヒロインというのは、恋愛映画では大変珍しいです。一方の相手役のアルバートを演じているジェームズ・ガンドルフィーニは曲者脇役として有名ですが、この映画では脇役のような主役というこれまた珍しいポジションなのです。少ない出番でも強いインパクトを残すガンドルフィーニが、今回は控えめに恋する中年オヤジを演じてるのが意外にはまっているのですよ。その控えめ脇役演技のガンドルフィーニに対して、ヒロインの出過ぎない感じが、ガンドルフィーニをうまい具合に引き立てていて、とても快適なアンサンブルになっているのです。言葉ではうまく説明しきれないのですが、主人公二人が控えめに演じたラブロマンスは、等身大で、特に私のような同年代の人間にはすごく共感できて、応援したくなります。あの「恋に落ちて」みたいな身を焦がす恋愛ではない、ちょっとしたうれしい出会いといい関係がすごくいとおしく感じられるのですよ。長い人生の通過点の一つであり、うまくいけばうれしい、別れを迎えてもまた次の出会いに期待できるくらいのダメージ感がリアルなだけに、共感できるのですよ。この映画、若い方がご覧になってどういう感想を持たれるのかすごく興味あります。恋愛フルスロットルの若い人には、薄味に見えちゃうかもしれないかなって。

演技陣では、脇をトニ・コレットとキャスリーン・キーナーが固めているのがうれしかったです。この二人なら、この映画の主役をやってもおかしくないキャラと演技力がある人で、脇に回っていることで、映画に豪華感が生まれました。また、主人公の二人の娘にまつわるエピソードもよくって、子の親離れ、親の子離れをあるある感たっぷりに描いて印象的でした。エヴァの娘エレンを演じたトレーシー・フェアウェイはテレビで活躍している女優さんのようですが、今後要チェックかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



娘が大学へ入学していき、時間が経過して、感謝祭の日、大学に行った娘も帰ってくるので、友人宅の会食の準備をしているエヴァ。ふと車をアルバートの家の前に走らせます。彼女に気付いて家の前に出てくるアルバート。家の玄関の前に座り込む二人は近況を報告しあいます。彼女が「よく、この家の前を車で通ったの」と言うと「自分も君の家の前を通ってた」とこたえるアルバート。「I missed you.」というエヴァに、「I missed you.」でこたえるアルバート。そしてツーショットの二人から暗転、エンドクレジット。

時間の経過が二人の気持ちを和らげて、お互いの気持ちを伝え合うラストの心地よさは劇場で確認していただきたいです。こういう形でケンカしても仲直りできる関係なら、二人はやっぱりお似合いなんだなって思える結末がいいのですよ。振り幅の大きい運命の恋愛ドラマも悪くないのですが、たまにこういう身の丈恋愛映画にあたると、うれしくなってしまいます。
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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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