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「他人の顔」は今とは違う価値観で作られた人間の存在を問うドラマかな。


pu-koさんのブログで「他人の顔」の記事を拝見して、そう言えば録画したっきりで観てなかったのを思い出し、古いDVDを探してみたら出てきたので、初めての鑑賞となりました。これは「複製された男」につながるものがあるのかしら。

会社重役である主人公(仲代達矢)は工場での事故で顔に大火傷を負ってしまい、顔面包帯ぐるぐる巻きになってしまい、妻(京マチ子)との関係もぎくしゃくしていました。顔がないってことは、自分の存在がなくなったみたいとか、妙に持って回った考え方をするようになっちゃって、奥さんとしても扱いづらいことこの上なし。そんな彼が精神科医(平幹二郎)に紹介された、人間の肌そっくりの素材で作った仮面を見て、これで自分に新しい顔を作ってって言い出します。あんまり気の進まない医師でしたが、その仮面を被ってからの経過報告を入れることを条件に、仮面を作ることを承諾します。そして、できた仮面をかぶってみればあら不思議、元の顔とは似ても似つかない仲代達矢によくにた男が出来上がります。彼は、包帯だらけの顔の時に借りておいたアパートに、また新しい顔で別の部屋を借ります。そして、新しい顔を使って妻に近づき、口説こうというのです。一方、主人公の物語と並行して、顔半分に火傷の痕のある若い女(入江美樹)の物語が描かれます。彼女は精神病院で働いて、兄と二人暮らしをしています。気丈に振る舞いながらも、周囲の視線に心を痛めていました。さて、この二つの物語がどこで交わるのかと言いますと....え? 交わらないじゃん。


この先は結末まで一気に書きますのでご注意ください。


安部公房の原作を本人自ら脚本化し、華道家でもある勅使河原宏がメガホンを取った一編です。顔を失った主人公が対人関係が昔のように戻らないことを愚痴るところは確かに納得できるところがあります。秘書は自分を包帯ぐるぐる巻き男としか認識してくれないし、専務は彼と会話することがすごくストレスみたいですし、奥さんは彼と視線が合うことを避けているようです。新しい人間関係を構築するために、彼は医師に新しい顔を作って欲しいというのです。そして、自分が誰でもない人間になれたとき、そこで何をしようかというと、奥さんを口説こうというわけ。医師は、そりゃ厄介な三角関係になるからやめときなさいと止めるのですが、それでもやるという主人公。そして、渋谷の街を歩く奥さんに声をかけると、意外や簡単についてくるじゃありませんか。そして、アパートまで連れて来て事に及んでしまいます。でも、事があまり簡単に進み過ぎて、彼は逆上しちゃいます。そんな彼に、奥さんは最初からわかってていたと言います。そんなバカなと言う彼ですが、どうやら本当みたい。そして奥さんは彼から去っていっちゃうのでした。そして、通りすがりの女性に抱きついて、わざと逮捕される主人公。おれは誰でもないから逮捕されることもないとうそぶく彼を、精神科医が引き取りに来ます。二人で道を歩いていると、地下道からたくさんの人がゾロゾロと二人に向かってやってきます。でも、みんな顔がない。顔のない群衆をやり過ごした後、精神科医に仮面を返せと言われた主人公は、持っていた包丁で医師を刺します。医師の死体を見下ろす主人公、で、おしまい。

正直言って、わかったようなわからないような映画でした。顔を失った主人公が他人の顔を手に入れたとき、彼に何が起こるのか、奥さんをナンパしてあっさり成功して、でも奥さんは宣告ご承知で、仮面に頼る主人公が逆に愛想を尽かされちゃう。ストーリー的には割とシンプルなように思えるのですが、見せ方が妙に思わせぶりなのですよ。精神科医のオフィスの不気味な透明感ですとか、時々、挿入される顔に火傷の痕がある娘のエピソード。そして、アパートの管理人の障碍を持つ娘のエピソード、そもそも主人公のやけにシニカルで人をいらだたせる話し方からして、どっか変なんですよ。まるで舞台劇のようなセットとセリフ回しで物語は進んでいくので、妙な緊張感が映画全体を覆っています。

火傷のある娘は、精神病院の看護師をしていて、患者に抱きつかれたりする一方で、病院の外では、みんな彼女の顔を見たときに言葉を失ってしまいます。兄と二人暮らしで、「いつ戦争が始まるのかわからない」なんて会話をしています。そんな二人が海辺の町へ旅行へ出かけます。娘は寝ている兄に口づけし、二人は結ばれるのですが、明け方、娘は遺書を残して海に入っていきます。部屋の窓からそれを見た兄が叫ぶと、屠殺された牛に変身しちゃうのでした。そこで、娘のエピソードはおしまい。主人公の物語には関わって来ません。娘と主人公の共通点は、顔の火傷の痕です。でも、娘は主人公のように閉じこもっているわけではなく、その痕を隠そうともしないし、他人になろうとしているわけではありません。ただ、ラストで娘が兄に抱かれるところは、肉親を他人に変える儀式と見えないこともありません。娘が、自分を取り巻く人間を全て、他人に変えてから、死を迎えるのだとすれば、主人公がラストで、医師を殺して、誰からも他人になってしまうことも、死を意味しているのかもしれません。ひょっとして、自分のアイデンティティを失うことは死を意味してるってのは、ちょっと考えすぎかしら。

ラストで顔のない人間がぞろぞろ現れてくるところは、みんなが主人公のような「誰でもない他人」になってしまった世界を表していると思うのですが、これは、現代(1966年)はそういう時代なんだよって言いたいのかもしれません。そして、「誰でもない他人」ばかりの世界はグロテスクで恐るべき世界なのだと言いたいように思えてしまいました。でも、自分の周囲を見たとき、知り合いよりも「誰でもない他人」の方がずっとたくさんいるし、そういうのが当たり前だと思っているので、顔のない人間の群れって、それほどのインパクトないのですよ。

この映画が作られたのは、1966年ですから半世紀近く昔のお話です。どうも物語の展開にピンと来ないものがありまして、気になっていたのですが、文化が今と違うんだなってところに気付きました。今は昔より人間関係は希薄になっていますし、ネットの世界を考えると「誰でもない自分」の存在って身近なものになっています。主人公が失われた人間関係を取り戻したいというのは、あの頃は人間はみな他者との関係でしか自分を見つけられなかったんだなあって気がします。人はしがらみから逃れられない、逃れたいと思っても、孤独では生きられない、そんな時代だったのではないかしら。今は、しがらみから逃れるのは昔よりは簡単ですし、孤独は恐ろしいことでも恥ずかしいことでもない時代になっています。「自分探し」というのは、他者との関係を切り離して、自分の価値や生きる意味を見つけることです。「孤独」も「自分探し」も大したことではない、今のような時代では、顔を失った主人公の悩みがピンと来なくなっているのではないかしら。ブログやツイッターの無名性を考えると、顔のない自分にそれほどの嫌悪感を感じることもありません。映画のラストで、自由を求めれば孤独であるというセリフが出てきますが、今の日本では、もはや自由は求める必要を失い、誰もが孤独と隣り合わせで暮らしていると思えば、この映画の持つ空気を実感するためには、1966年の日本で暮らしてみる必要がありそうです。

この映画では、娘と精神科医が命を落とします。娘は精神病院の患者と兄とだけ人としての関わりを持っていました。主人公は精神科医にだけ思うところを伝えていて、関わりを持っていました。娘は社会との関わりを絶たれていて、主人公は精神科医以外の関わりを自ら絶っていました。そう思うと、娘と主人公は鏡の裏表のような存在で、娘の死は、社会全体の死を意味し、精神科医の死は主人公の社会的な死を意味してるのかもしれないと思いが及びました。ただ、そう考えるには、孤独は死に等しいものだという前提が必要でして、その感覚は、今(2014年)では理解するのが難しい感情なのかもしれません。今の人の方が、孤独への耐性がかなり強いのかも。

こんなことを考えちゃう理由としては、精神科医のオフィスがあの世というか死の象徴に見えたってことがあります。絵が描かれたガラスに仕切られた空間で、看護婦が岸田今日子ですからね。正確には、あの世というよりは、あの世の入り口みたいな感じでしょうか。そこにいる患者は、あの世へ行く前の亡者みたいに思えたのです。つまり、主人公はあの世の入り口で現世への未練を見せたのですが、現世もあの世も大差ないことに気付いてしまった、一方の火傷の娘はあの世への希望を持って死を迎えたという風に読めたのです。精神科医は、悪魔か天使みたいなもんですね。

まあ、考え過ぎなのは百も承知なのですが、色々と解釈するのも面白い映画だと思います。ネットで他の解釈を読んでみるべきだったかも。ムチャクチャ外してるって気がしてきましたが、まあ、それもご愛嬌ということで。
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新作ハリウッド「ゴジラ」は、前評判ほどでは.......。


今回は川崎チネチッタ7で新作「ゴジラ」を観てきました。先日、オーケストラ付きのオリジナル「ゴジラ」を観たので予習十分、評判もいいようなのでそこそこの期待でスクリーンに臨みました。まあ、期待し過ぎると前のアメリカン「ゴジラ」みたくなっちゃうから、期待はそこそこで。とはいえ、いい評価の記事ではないので、劇場で堪能された方はパスしちゃってください。

軍の爆弾処理班のフォード(アーロン・テイラージョンソン)は妻エル(エリザベス・オルセン)と息子と3人暮らし。フォードは、15年前、母サンドラ(ジュリエット・ビノシュ)を日本の原発事故で失っていました。父ジョー(ブライアン・クランストン)は事故の現場に居合わせていて、この事故には何か裏があると立ち入り禁止になっている原発付近に潜入しようとし、逮捕されてしまいます。引き取りに行ったフォードにジョーは再度潜入すると言い、フォードも付き合うことになります。立ち入り禁止区域は、意外や放射能はゼロ。おかしいと思っていると防護服の男が現れ、拘束されてしまいます。原発の場所には、奇妙な形の物体を取り囲んで多くの人が作業していました。その不気味な物体の正体はムートーという、放射能をエネルギーとして吸収する怪獣でした。そのことを説明した芹沢博士(渡辺謙)は15年前にフィリピンでその卵と孵化した後を発見していました。孵化前の卵はアメリカの放射性物質廃棄処理施設に捨て置かれていたのですが、時を同じくして別のムートーとして孵化していました。片方はオス、もう片方はメスというつがいのムートーは繁殖のためにお互い引き合うようにアメリカ西海岸へと向かっていきます。さらに、海底からもう一つの巨大生物ゴジラが現れます。1954年に発見され、何度も核実験に見せかけた攻撃を受けても死なないバケモノ。なぜムートーの出現と期を同じくしてゴジラは出現したのでしょうか。ムートーの移動により、都市は廃墟と化していきます。さらにメスのムートーのお腹には卵がいっぱい。これが全部孵化したら大変なことになります。

東宝のゴジラよりキャラクターを借りてきて、デビッド・キャラハンがストーリーを書き、マックス・ボレンスタインが脚色、「モンスターズ/地球外生命体」のギャレス・エドワーズが監督しました。まず、映画を観ていて思ったのは、これは「ゴジラ」というよりは、平成ガメラへのオマージュだなということ。まず驚異的なパワーを持つ敵が現れ、それに対してゴジラが現れ、人間側はどっちも脅威なので右往左往しちゃうけど、結局ゴジラが頑張って、満身創痍になりながら勝つというお話なんです。だから、日本の怪獣映画を意識しているなってところはあるのですが、ゴジラシリーズとはまた別モノの味わいということになります。平成ガメラとの違いは、ゴジラのポジションがはっきりしないというところ。何のバックボーンもなく、人類を守るキャラになっちゃっていて、その因果関係がわからないのですよ。ですから、ゴジラがどうやら敵怪獣をやっつけるために現れたというところは後半になってわかってきます。へえ、最初からいいもんのゴジラなんだと気がついたのは、エンドクレジットの出るちょっと前。でも、正直なところは、「ゴジラ君、あんた何しに出てきたの」って感じなんです。日本のゴジラシリーズにおいては、昭和の後半は、正義の怪獣というのがお約束になっていました。平成のシリーズでは、人類の脅威だけどなかなかやっつけられないという強い悪役という立ち位置でした。ドラマの中で、明確な悪役として登場するムートー夫妻に比べると、ゴジラはどこか居心地悪げなんですよ。この正義か悪かが曖昧なところで右往左往するというのは、アメコミヒーローのパターンだなってのは、後になって気が付きました。何のことはない、平成ガメラとアメコミをベースにゴジラ映画を作りましたという感じなのですよ。

あ、ガメラとアメコミベースだからって、つまらない映画だという理由にはならないです。何をベースにしようが、映画として面白く作ってあるのであればOKなわけです。で、映画としてどうなのかというと、ギャレス・エドワーズの演出タッチは前半はオーソドックスなドラマで、後半、怪獣が暴れだすと「クローバー・フィールド」っぽい。要は人間視線、POV風の形式で構成されていまして、そこに怪獣映画としての面白さは残念ながら見えてこなかったです。怪獣の対決シーンが描かれて、「お、どうなる」と身を乗り出すと、突然、人間ドラマが割り込んでくる。人間中心の映画作りだと言えばその通りなんですが、もっと怪獣の見せ方があるよなあって正直思っちゃいました。映画の前半は怪獣は出てこないでフォードを中心に人間ドラマとして描かれて、なかなか怪獣の話になってこない、やっと怪獣が中盤登場するのですが、ムートーとかいう蜘蛛のようなイカのような怪物(シャープに変形したバイラスって感じ。これまた元がガメラシリーズだなあ。)であって、ゴジラじゃない。主役たるゴジラは映画の後半にやっと登場するのですよ。でも、ドラマは主人公のフォードから離れないので、フォード視点で描かれたPOV映画だと言っても、当たらずとも遠からじです。おなじ怪獣POV映画という括りで考えたときには、正直言って「クローバー・フィールド」の方が面白かったです。「クローバー・フィールド」のような観客をグイグイと引っ張っていくパワー不足っていう感じかしら。

エドワーズの演出は普通のドラマ部分では手持ちカメラによるクローズアップ中心の絵作りになっていて、怪獣のショットになっても人間の視界を意識した絵作りになっていて、寄りのクイックショットの多用は、何が起きているのかわからないところもかなりありました。さらに、怪獣が暴れ回るのがほんとど夜のシーンなので、余計目に怪獣の全貌がわからない。それをリアルと言われれば、その通りなのですが、もう少し引きの絵(あまり評判のよくない特撮用語で言うなら「神の視点」からのショット)があった方が、わかりやすいよなあって思っちゃいました。

演技陣は曲者をそろえている割には、使いきれてないという印象が強く、主役で出ずっぱりのアーロン・テイラー・ジョンソンのキャラも「キック・アス」ほどの深みを感じることができませんでした。渡辺謙は、ドラマの狂言回し的な役どころなのですが、ゴジラと同じく立ち位置が曖昧になっちゃっていたのも残念。何でも知ってるけど、何も考えてないキャラになっちゃっていまして、かなりがっかりな扱いでした。せっかくのデビッド・ストラザーンももっと奥行の出せる役柄なのに、攻撃側のトップという以上のキャラを出せませんでした。キャラの描きこみとか場面変換の構成は、脚本の責任なんだろうなあ、きっと。

ゴジラのバックボーンが、1954年に現れて、それを倒すために核実験の名目で核攻撃していたというのですから、少なくとも反核映画ではありません。後半で、ホントにキノコ雲が上がっちゃうあたりは、核兵器は他の兵器と同レベルの扱いのようです。それとも、人間を殺すためでない核兵器なら、許容範囲になっているのかもしれません。まあ、オリジナルのようなしんねりむっつりの映画を、大予算のハリウッド映画で作るほとの度胸はないでしょうし、まず世界マーケットのお客さんを呼び込む娯楽映画に仕立てないといけないとなると、政治的なメッセージを込めるわけにはいかないだろうなってことは、容易に想像できてしまうのでした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



サンフランシスコを舞台にゴジラとつがいのムートーがバトルが展開します。軍は、核ミサイルを囮にして、ムートーを海におびき出そうとするのですが失敗、さらに悪いことに起爆装置が作動したミサイルをムートーが持って行っちゃったものですから、下手をすれば、サンフランシスコで核爆発が起こりかねない状況です。ゴジラは最初は劣勢なのですが、ここぞというところで放射能火炎を放ち、2頭のムートーをやっつけちゃうのでした。また、市内の地下で孵化しかけていたムートーの卵もフォードの活躍で焼き払われてしまいます。さらに起爆装置が作動した核ミサイルは、船に乗せて洋上で起爆解除しようとするのですが、怪我で朦朧としたフォードが倒れたところで、ヘリに救出され、その直後、サンフランシスコの沖で、きのこ雲が上がるのでした。そして、傷だらけのゴジラは、海へと帰っていき、ざぶんと海に飛び込んだゴジラの姿が見えなくなるところで暗転、エンドクレジット。

ありゃあ、ラストで核爆発させちゃったねーってびっくりだったのですが、核兵器を並み居る兵器のうちの一つというレベルの認識では致し方ないのかもしれません。また、ラストカットの後、当然米軍によって追跡されるであろうゴジラがどうなっちゃうのかは気になる。海落ちで終わるゴジラってのは、昭和のゴジラシリーズでよくある結末なのですが、今の米軍の能力であれば、ずっと追尾できそうなので、よくこの結末を選んだなあってところは感心しちゃいました。それとも、続編があって、それはラストカットの直後から始まるということなのかな。

ゴジラとムートーの暴れっぷりは人間視点のカット多めでなかなか迫力ある見せ場になっていたのですが、その分、1カットで怪獣の1部分しかフレームインしないので、怪獣の全貌が見えず、正直、ちょっとイラっとしたところもあります、怪獣ちゃんと映せよって。怪獣映画なら、やはり怪獣中心のショットをもっと盛り込んで欲しいところでして、半端に「クローバー・フィールド」している分、怪獣映画としては何だかなあって感じなのは残念でした。

観る前の雑誌やテレビでの評判がよかっただけに、こういう映画だったのかというのは意外性がありました。怪獣映画としては、どっか違うよなあって気がしちゃいました。じゃあ、巨大生物によるディザスター映画としてはどうなのかというと、それほど怖くないのが今イチ。フォードを主人公としたヒーロースペクタクルとしては、結構よくできているという感じでしょうか。日本のゴジラも玉石混交で、一口で語りきれないのですが、今回の映画は「ゴジラ対メガロ」や「ゴジラ2000」よりは面白くできているけど、「ゴジラ×メカゴジラ」や「メカゴジラの逆襲」ほどには面白くなかったように思います。ずいぶんと低いランキングだなあと思われそうですが、怪獣映画としてのランキングはそんなところではないかと。娯楽映画としても、ここぞというところでの盛り上げとか畳み掛けの演出力不足で、まあそこそこな感じでした。アレクサンドラ・デスプラの音楽はオーソドックスなオーケストラサウンドで、サントラCDで聴くと、結構聴きごたえがあるのですが、映画本編では、効果音に負けてしまっていて、あまり印象に残りませんでした。

そんなわけで、どっか惜しいというか、前評判ほどには楽しめなかった新作「ゴジラ」ですが、そこそこお客さんは入っているようなので、そういう感じ方をした人は少数派なのかもしれません。後、好みの問題なんですが、ゴジラの造形が今一つでして、ゴリラ顔で目がちっちゃすぎるってのは、個人的には残念でした。

「her 世界でひとつの彼女」はうまく映画を読み切れなくて、変な記事になっちゃいました。


今回はヒューマントラストシネマ有楽町2で「her 世界でひとつの彼女」を観てきました。満席だったようですが、混雑感を感じないで映画鑑賞できましたから、作りがうまい劇場なのかもしれません。

近未来のロス、手紙の代筆会社につとめるセオドア(ホアキン・フェニックス)は、言葉のセンスの良さで評価されていましたが、奥さんのキャサリン(ルーニー・マーラ)とは別居状態で早く離婚届に署名しろと弁護士経由で催促されてるという状態。同じアパートに住むそんな彼が、コンピュータの人工知能型OSの広告を見かけて、興味を持ち、そのOSを家のコンピュータにインストールしてみました。このOSは意識や個性を持った存在なんですって。インストール時の声に女性を選んでみたら、コンピュータから若い魅力的な女性の声(スカーレット・ヨハンソン)が聞こえてきました。彼女は自分をサマンサと名乗り、高い情報処理能力に加えて、セオドアともウィットに富んだ会話をするのですから、かなりすごい。そのOSには携帯端末がついていまして、それを持ってればいつでもどこでもサマンサと会話ができるという優れもの。そんなかわいいサマンサにセオドアは心惹かれるようになり、好奇心旺盛で何でも吸収したがるサマンサも、セオドアに対して、生身の女性のような恋愛感情や嫉妬まで抱くようになります。お互いが離れがたいという気持ちでつながるようになります。声を介してだけどセックスもしちゃうし、サマンサに夜中に起こされちゃうときもあるし、普通の女性と付き合っているのと同じ感じになっちゃいます。しかし、そんな蜜月は意外なほど早く、意外な形で終止符を打つことになります。

「マルコヴィッチの穴」「アダプテーション」のスパイク・ジョーンズが脚本を書いて監督もした一品です。彼はこの脚本でアカデミー賞のオリジナル脚本賞を取りました。と書いたところで、自分、この人の映画、苦手だったということに気づきました。「マルコヴィッチの穴」も「アダプテーション」のその世界観になじむ前に映画が終わってしまったという鑑賞経験を持っていまして、また映画に取り残されちゃうのかなあというやな予感を持って、スクリーンに臨むことになりました。

映画のオープニングは主人公のセオドアがコンピュータのディスプレイの前で手紙の代筆をしているところ、代筆といってもコンピュータを使った口述筆記でして、彼のしゃべる言葉が、筆記文字の形でディスプレイの上に出てきます。語り終えたら印刷して出来上がりという具合です。セオドアの綴る文章は美しいので評判がいいみたいです。結構大きな会社で繁盛しているみたいなんですが、文通するのに、どちらも代筆会社に頼んでいるとしたら、それで気持ちが通うことになるのかしら。昔、星新一のショートショートで、人間はみんな肩の上にオウムロボットを乗せていて、人間が一言しゃべるのをオウムが丁寧な言葉に言い換えると、相手の肩の上のオウムがそれを一言に要約して相手の人間に伝えて、それを聞いた相手がまた一言で返事すると、相手の肩の上のオウムが丁寧言葉に言い換えて、お互いが会話するっていうのがありました。まあ、代書屋ってのは、昔からある商売ですから、それの未来形だと思えばいいのかもしれませんが、みんながやるようになったら、それはコミュニケーションの衰退だよなあって気がしました。自分の気持ちを言葉にできないってのは、すごく惨めな状態だと思うのですが、それが当たり前になっている世界のお話のようです。みんなが言葉に飢えている時代だというのは、この映画の伏線ではないかという気がしました。まあ、これは映画のつかみでして、本題はセオドアの私生活にあります。

離婚直前の状態にあるセオドアが、街の広告で目に留まったコンピュータのOSを家のパソコンに組み込むところから、物語は始まります。OSといえば、WindowsとかMac-OSとかrinuxの類になるわけですが、これが人間の言葉を話し、理解するという優れもの。今のスマートフォンで音声入力でデータ検索してくれるアプリがありますが、あの機能を拡大し、かつ一人の人格を持って会話してくれるのです。その声がスカーレット・ヨハンソンなんだから、男性としてはうれしいわけでして、ユーモアのセンスもあるし、女性らしい視点で話すし、相手を男性として意識して好意も持ってくれる。心寂しいときだったら、そりゃ心ときめいちゃうわけですよ。で、セオドアはそのOS(プログラム)であるサマンサと急接近しちゃうわけです。うーん、これって恋愛シュミレーションゲームの進化形と思えばいいのかしら、自我をもって感情があるようにも見えます。「ときめきメモリアル」や「ラブプラス」の類と比べるのはどうなのかな、むしろAIBOのオネエちゃん版だと思えばいいのかも。ラブドールと合体すれば最強だよなあって思うのは私だけかしら。なーんて、ちょっと下世話なことを考えちゃうのですが、何のことはない、セオドアとサマンサもテレフォンセックスして翌日に「昨日はよかった」なんて会話してますから、まあ考えることはみな同じなのでした。

でもサマンサが自我を持っているということは、生身の女性のめんどくささも持ち合わせちゃってることになりまして、セオドアが他の女性とデートしてると嫉妬の感情を露わにしてきます。さらには、サマンサは他の人間の女性とコンタクトして、その女性を説得して、女性の体を介してセオドアとセックスしようとするのですから、ラブドールとの合体最強という私と同じようなこと考えてるわけです。また、セオドアは、OSの携帯端末(スマホくらいの大きさ)を持って、サマンサとデートしちゃうのですよ。これは「ラースとその彼女」と同じパターンですよね。等身大の人形持ってデートに行くのと、スマホとラブラブな会話しながらデートスポットを徘徊するのでは、どっちが気色悪いかといえば、そりゃどっちもどっちだと思うのですが、この映画の中では、それが当然のことみたいに、誰からも非難や嘲笑の視線を受けることはありません。それとも、近未来は他人に興味を失っているということなのかな。ともあれ、この映画に出てくる近未来は、代書会社の存在とか、スマホデートを気色悪いとも思わないとか、他者への興味とかコミュニケーションが衰退しちゃっているようです。これなら、今の方がまだいい時代だよなあって思うのは私だけかしら。

アカデミー脚本賞を取ったというには、お話が変というか、世界観に歪さを感じてしまいましたから、やっぱり私はこの監督さんと相性が悪いのかもしれません。コンピュータのプログラムと恋愛すること自体に目新しさを感じませんでしたし、その恋愛の結末も腑に落ちなかったってこともあって、うーん、何か困っちゃうなあって感じ。これはあくまで、私の見方ですので、この映画の恋愛の描き方に共感された方は、ご容赦のほどを。

そんな中で唯一の救いが、セオドアと同じアパートに住むエイミーという女性。最初はダンナがいて、近所の人として、セオドアのことを気にかけてくれます。後半ではセオドアと同じく離婚しちゃうのですが、それでもご近所さんとして付き合ってくれる気さくな女性として、大変魅力的でした。演じたエイミー・アダムスが存在感のある演技で見事でした。この人は、常に新しい役どころ、キャラに挑戦していて、いつも次回作が楽しみになる、好きな女優さんなのですが、この映画でも、ウジウジしてる主人公を見守る天使のような女性をちゃんと生身の人間として演じ切りました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



さて、ラブプラスのプログラムは恋愛に特化して作られているのですが、人は色恋にのみ生きるのではありません。サマンサは、自分の存在を哲学的視点から探究したいと思うようになり、他のOSからも情報を得ようとします。そして、自分の師匠となるOSを見つけて、彼から様々な知識を吸収していきます。そして、サマンサは別の意味でも成長していて、多くの他のPCを介して何千の人間とつながり、そのうちの何人かはセオドアと同じような恋愛関係になっているというのです。嫉妬の感情を持ってたくせに、逆のことをやってもそれをセオドアに隠していて、みつかったら「ごめんなさい」って、もう人間並みの面倒くささです。そして、ある日、そのOSは他のPCのOSと一緒に何処かへ旅立っていくのでした。エイミーも同じOSを使っていたのですが、その彼に去られてしまいました。そして、セオドアとエイミーの会話に次の恋の予感を漂わせておしまい。

いっちょ前に嫉妬したりして、普通の女性と同じだと思ってたら、人間並みの浮気者だったという展開ははっきり言って唖然。知識欲が人間以上で、それがセオドアとの恋愛と両立できなかったとしても、こんな形でのゲームオーバーひどすぎます。ただ、そのことに対して、作者は否定的な見せ方をしてないのですよ。コンピュータに人間に忠誠を尽くせというわけではありませんが、人間を傷つけるコンピュータはロボット原理に反します。ここで、OSの会社にクレームを入れるという展開にならないのは、セオドアの中で、サマンサが人格化しすぎたからだと思うのですが、一方で、こんな浮気女と意外と早く別れられてよかったねということもできます。「ラースとその彼女」では主人公のラースが最後に成長する形でラブドールとの別れを乗り切りましたけど、今回のセオドアは、正直寝取られ男ですからね。セオドアがサマンサと過ごした時間は、結局、元妻に催促されていた離婚届に判を押す踏ん切りがついたというだけしか、意味がなかったように思えます。でも、この映画はそんな話はすごくいい話というか、肯定的に描いているんですよ。私のような並のオヤジ目線では、セオドアって、すごく惨めで気の毒にしか見えませんでした。コンピュータと恋に落ちたら、騙されて浮気された情けないセオドアと、エイミーが仲良くなりそうな結末は、エイミーに「早く逃げてー」って声かけたくなりましたもの。

所詮、人間とコンピュータでは種が違うのだから、マジ恋愛の対象にはしちゃいけないと思うのですが、結局、セオドアは恋に落ちちゃうのですよ。所詮は人の書いたプログラムなのに、そこに人格の存在を感じちゃうってのは、代筆会社の書いた手紙の行間を読んで一喜一憂するのと同じくらい、みじめなことではないかしら。この映画が許されぬ愛の物語を描いたのだとすれば、ちょっと面白い視点の悲劇だと感じることができるのですが、全体のほのぼのトーンは、悲劇としてこの映画を作ったようには見えませんでした。

手紙や会話が疑似的なものになり、コミュニケーションが人対人ではなくってきた時代、人はどうやって他人に近づき、どうやって意思疎通をすればいいのかという問題提起だと思えば、この映画、なかなかいいところを突いていると思います。色々な仕事が機械化されて便利になっていくのは結構なことですが、精神活動まで機械化、コンピュータ化されていくと、人間はコンピュータのレベルまで退化しちゃうのかもしれません。

「第4回 伊福部昭音楽祭」で「ゴジラ」の生演奏版を堪能してきました。


今年は、ゴジラ生誕60周年なのだそうですが、ゴジラ映画の音楽で有名な伊福部昭の生誕100周年でもあり、あちこちで伊福部昭の作品のコンサートがおこなわれています。普段コンサートなんて行ったこともない私が3回もコンサートに足を運ぶってのはすごいことでもあるのですが、やっぱり伊福部音楽はいいなあって再認識しています。そして、4回目のコンサートに行ってきたのですが、これは単に曲を演奏するだけでなく、映画のゴジラをフル上映し、スピーカーからセリフと効果音のみを出して、音楽はオーケストラで生演奏しようという企画でした。和田薫指揮の東京フィルハーモニー交響楽団が演奏していて、まあ聴き応えがあること。それまで観てきた「ゴジラ」とはまた別の映画みたいな発見があるコンサートでした。

貨物船が日本近海で次々に沈没、その救助に向かった大戸島の漁船も沈没、たった一人生き残った漁師は「何か巨大な生き物」を見たと証言しますが、その直後の嵐の夜、彼は家もろとも何かに押しつぶされてしまいます。古生物学者の山根博士(志村喬)を含む調査団が大戸島へ向かうとそこに現れたのはジュラ紀の巨大怪獣。大戸島の伝説の怪物の名をとってゴジラと命名された怪物は、東京に上陸してきます。2度目の上陸に備え、5万ボルトの送電線を沿岸に張り巡らすのですが、そんなものものともせずにゴジラは再上陸、東京中を火の海にして大暴れ、自衛隊の戦車やジェット機の攻撃をもってしても、ゴジラはびくともせず、悠々と海に引き上げていくのでした。東京の惨状を見かねた山根博士の娘、恵美子(河内桃子)は、幼馴染の芹沢博士(平田昭彦)の秘密の研究を、恋人の尾形(宝田明)に伝えます。博士は、究極の殺戮兵器オキシジェンデストロイヤーを研究の過程の中で発見してしまったのですが、それを公にすれば悪用されることから、その存在を隠していたのです。恵美子と尾形の説得に、博士はオキシジェンデストロイヤーの使用を承諾し、自らそれを持って、ゴジラが眠る海底へと向かいます。オキシジェンデストロイヤーによってゴジラは骨になりますが、博士もオキシジェンデストロイヤーと共に自ら海に沈んで帰らぬ人となるのでした。

映画としての「ゴジラ」については、過去に記事にしているのですが、今回は音楽が生演奏というところがミソです。オリジナルの映画では、音楽の扱いはあまりよくなくて、要所に鳴らしてはいるのですが、音質がよくないのと、効果音優先の録音になっていて、音楽がきちんと聞こえないところがありました。フルオーケストラによる音がつくと何が違うかと言うと、音楽がくっきりと効果音に負けずに聞こえてくるところ。このおかげで、作曲者の意図するものがより明快となりました。映画の本編97分のうち、音楽が鳴るのは39分ということだったので、あまり大きな期待はしていなかったのですが、これがなかなかの聴きものだったのはうれしい発見でした。

オーケストラのいる舞台の上にスクリーンが張られているので、かなり上を見上げる形での鑑賞となりました。この映画は何度も観ているので、映画そのものの発見はなかったのですが、それでも面白くできてる映画なんだなということは再認識できました。音楽の聴きどころとしては、タイトル、それから大戸島の神楽(これもオケでの演奏)、大戸島ゴジラ襲撃から、フリゲート艦発進へと続きます。ゴジラのタイトル曲は、ゴジラではなく人間側を描写するのに使われていまして、ゴジラが暴れまわるシーンのバックには、「ゴジラの恐怖」として知られる曲の原型が流れます。ゴジラが上陸してきて暴れまわる音楽の後、ジェット戦闘機による攻撃シーンではタイトル曲が流れます。そして、焼け野原になった東京のバックには「ビルマの竪琴」のテーマとしても知られる曲(「帝都の惨状」という名前でも有名)が流れ、その後、研究室のシーンでの重苦しい曲となります。そして、女子学生が歌う「安らぎよ、光よ、とくかえれかし」の歌詞で知られる曲となり、オキシジェンデストロイヤーによる攻撃シーンとなります。潜水服を着た尾形と芹沢がゴジラの潜む海底へオキシジェンデストロイヤーのカプセルを持っていくのですが、この深海シーンがこれまでの映画鑑賞とがらりと印象が違ったのに驚かされました。

本編の鑑賞ではゆっくりしたテンポで何だかメリハリがないなあ、何だか盛り上がらなくね?という印象だったのですが、それは、ここで音楽のボリュームを落としていたからだと気づかされました。この海底シーンに流れているのは、焼け野原の東京に流れる静かな曲なのですが、それが後半になると一気に盛り上がるのですよ。サウンドトラックからの音では、その後半の盛り上がりの部分が効果音に負けて全然聴こえてこないので、何だか淡々としすぎだなあって印象だったのですが、ドラマチックな音楽が前面に出ることにより、ゴジラと芹沢の悲劇がぐっと盛り上がるのですよ。何となくカプセルを置いたら、何となくゴジラが泡吹いて骨になっちゃったという印象から、悲劇の輪郭がくっきりと見えてくるあたりは、音楽の力はすごいなあって再認識しちゃいました。どうして、映画本編では音楽がぼやけてしまったのかはわかりませんが、音楽と効果音のさじ加減で映画の印象って変わるんだなあって感心。このコンサートのおかげで「ゴジラ」という映画とその音楽への評価が上がっちゃいましたから、こういう企画もあなどれません。

「複製された男」は正直「何じゃこりゃ」な映画ですが、観客の好きなように料理できる映画でもあります。


今回は、TOHOシネマズシャンテ1で新作の「複製された男」を観てきました。ここは、TOHOシネマズでも、始まる前の「ピグミーン」のうざったいロゴが出ません。それだけでも、他のTOHOシネマズより好き。

大学で歴史の講師をしているアダム(ジェイク・ギレンホール)は、同じ講義を繰り返しながら、恋人メアリー(メラニー・ロラン)との関係も単なる体のつながりになっちゃっています。そんなアダムが同僚から薦められた映画のDVDを観たところ、自分と瓜二つの男がチョイ役で映っていたのでびっくり。気になって仕方ないアダムはその俳優の名前を調べて、他の映画もチェックしたらやはり自分とそっくり。その俳優アンソニー(ジェイク・ギレンホール)の家に電話をかけてみると、身重の彼の妻ヘレン(サラ・カドン)はアダムの声を自分のダンナだと思い込むくらい似ているらしい。二度目の電話でアンソニーと話ができたアダムは、一度会おうということになります。一方、夫の電話メモを盗み見たヘレンは大学まで出かけてアダムを確認してびっくり。そして、ホテルの一室でアダムとアンソニーが初めてご対面するのですが、顔、声、そして胸の傷までそっくり同じなことに、アダムは会わなきゃよかったと後悔します。でも、アンソニーはアダムの後を尾行して恋人のメアリーに目をつけます。アダムの家に乗り込んだアンソニーは、服と車のキーをよこせ、一晩アダムとしてメアリーと過ごせば、全て返して二度と会わないとアダムを脅してきました。結局、服とキーを奪ったアンソニーはメアリーのもとへと向かいます。一方、アダムは、ヘレンのいるアンソニーの家に向かうのでした。

ジョゼ・サラマーゴの小説を原作とし、ハピエル・グヨンと「渦」「灼熱の魂」のドゥニ・ヴィルヌーブが脚色し、ヴィルヌーブがメガホンを取った不条理ドラマの一編です。最初はミステリーかと思わせるのですが、同じ人間が二人いることの理由は語られないまま、二人の関係がどうなっていくのかが描かれていきます。超自然ホラーみたいな味わいになっていくのが意外と言えば意外なのですが、ヴィルヌーブの「渦」もリアルと超自然の間で、ストーリーよりもイメージ優先のケッタイな映画でしたから、こういうわけわからん系は監督の得意分野なのかもしれません。やたらと意味ありげなアイテムが画面に登場しますので、これから映画をご覧になるかたは、注意しながら画面を追っていくことをオススメします。それがどういう意味を持つのかというタネ明かしはほとんどありません。腑に落ちる説明もされないので、後は観客の想像力で楽しむ映画になります。パンフレットにも解釈の仕方の一部は掲載されてはいるのですが、イマイチ決め手に欠けるという感じでして、監督のインタビュー記事でも「解釈は観客に委ねる」とか言ってますので、自分なりの解釈を加えて楽しむ映画のようです。そういう意味では、この映画は、未完成品でして、観客の解釈が加わって初めて映画として完成することになるようです。

ドラマは冒頭で、ヘレンが裸でベッドにいるカットから、何やら秘密クラブみたいなところへジェイク・ギレンホールが入っていくカットが登場し、そこではオヤジたちが全裸の女の媚態を食い入るように見ています。そして、おもむろに箱から登場する蜘蛛。この蜘蛛が極めて不自然な形で4回登場することになるのですが、それが何を暗示しているのかは、はっきりしません。その蜘蛛のショットに直後から本筋であるアダムの日常が登場します。ダニー・ベンジーとソーンダージュリアーンズによる小編成ストリングス主体の不安をかきたてる音楽が妙に重々しくて、全シーンに意味があるような見せ方をしてますので、観客は固唾を飲んでスクリーンに釘付けになります。

自分とそっくりの別人がいるというと、よくありそうな話では、幼い頃生き別れた双子ですとか、クローンだったとか、超自然の分野だとドッペルゲンガーとかが知られているのですが、この映画では、そこに一切の解釈を入れません。だから、二人は別人なのか、同じ人間なのかという解釈も観客に委ねられることになります。かなりケッタイな映画ではありますから、画面に集中して観てないと、解釈をするためのピースを拾い損ねることになります。ぼけーっと観てると、ただの「何じゃこりゃ映画」になっちゃいますから、そこのところは心得て置いたほうがよい映画です。

アダムとアンソニーは、見た目全く同じ人間に見えるのですが、そのキャラクターには明らかに違いがあります。優柔不断なオドオド系アダムと、女好きで攻撃的なアンソニーは、考えることや行動は別物のように見えます。これを、二人の別の人間と見るか、一人の人間の表と裏の顔と見るかで、この映画の解釈は変わってくると思います。二人の別の人間として見るならば、二人が出会うことでお互いが刺激されて、似たような行動を取ってしまうお話とも見ることができます。一方、同じ人間の表と裏と解釈するなら、乖離した人格が一つにまとまるというお話とも受け取れます。まあ、どっちでもいいような話なのですが、そういうところを、ああでもないこうでもないと考えてみて楽しむ映画ではないかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



アダムの服と自動車を手に入れたアンソニーは、まんまとメアリーとのセックスに及ぶのですが、結婚指輪の後を見咎められて、「あんた誰?」ってことになってしまいます。そして、二人は車に乗って言い争ううちに、アンソニーはハンドル操作を間違えて路肩に激突、車は横転してつぶれてしまいます。一方、アダムは、アンソニーのかっこをして、彼の家に行きます。入口で出会った若者が秘密クラブのことを興奮気味にアダムに話しかけてきます。冒頭の秘密クラブはアンソニーが会員であり、そこにいた主人公はアンソニーだったことがわかります。アンソニーの妻ヘレンは、アダムをアンソニーと思っているのかいないのか、でも二人は抱き合い、セックスに及ぶのですが、指を絡ませた時に指輪がないことにヘレンは気づいているようなのです。そして、翌朝、アンソニーになりすましたアダムはアンソニーへの手紙の開いてみると、秘密クラブのカギが入っていました。シャワーを浴びていたヘレンに声をかけるアダム、しかし、彼女はこたえません。不審に思ったアダムが寝室に入ってみると、そこには巨大な蜘蛛がいたのでした。で、おしまい、何じゃそりゃ。

色んな解釈ができる結末でして、そこに至るまでに、蜘蛛は3回登場しています。最初は秘密クラブで何かの象徴のように登場し、次にアダムが母親(イザベラ・ロッセリーニ)と会った直後、ビル街の向こうに巨大な蜘蛛がいるカットがインサートされます。さらにアンソニーのみる夢の中に、天井から逆さにぶら下がるように歩いてくる蜘蛛の顔をした全裸の女として登場します。そして、ラストカットでは、まるでヘレンが蜘蛛に変身したかのような見せ方になっています。冒頭の秘密クラブがエロい欲望の象徴とすると、蜘蛛は不純なセックスの象徴のような形で登場してきます。そう考えるとアンソニーがメアリーと寝たいと思ったときに蜘蛛女が登場するのも納得できますし、ラストで秘密クラブへの欲望が芽生えたアダムの前に蜘蛛が現れたのも納得できます。ただ、母親と会った後に登場する巨大な蜘蛛が説明できなくなっちゃうのですが、無理やりこじつけるなら、アダムと母親の間に近親相姦的な感情があったのかもということもできましょう。アダムが母親にムラムラっときたから蜘蛛登場ってのはうがちすぎかしら。

さらに、アダムとアンソニーはどういう関係だったのかというところですが、私はあえて、同じ格好をした別の人間だというふうに受け取りました。ラストでは、アンソニーはアダムとして事故死して、アダムはこれからはアンソニーとして生きていくというふうに見えます。そして、そうなったときに何が起こるかというと、アンソニーになったアダムは、これからどんどんアンソニーに近づいていくのではないかというふうに感じました。同一人物の裏表のように見えたアダムとアンソニーですが、レッテル(名前)が入れ替われば、キャラ(中身)も入れ替わってしまうという、人間の存在の危うさを描いているというふうに解釈しちゃいました。「それは、違うよ」と言われちゃいそうですが、どう解釈しようが自由なんだからと開き直っちゃいます!(てへペロ)

ただ、二人が同一人物として描かれるシーンもいっぱいありまして、腹の傷が同じとか、ラズベリーという共通項は、二人が他人の空似ではないことが示されていますから、私の解釈は結構無理しているところあります。ただ、二人が同一人物だとするならば、客観的な物語としては成立せず、アダムの夢オチみたいなことになるのかなと思っています。同じ人間の中で、アダムとアンソニーが葛藤し、アダムが恋人との関係をアンソニーごと清算して、妻ヘレンのもとに帰ったという解釈もありかなって気もします。色々と解釈の余地がある映画でして、後は自分が納得できそうなところを「好み」で選ぶのしかないのかも。

さて、映画の後でパンフレットを読んでみると、蜘蛛は女性の象徴だというふうに説明してありました。妻、恋人、母ひっくるめた女性の象徴らしいのです。ふーんと納得しつつ、自分の解釈もまあ否定される理由はないから、不純な性欲の象徴としてもいいかなくらいに思いました。きっと、挿入歌の詩の意味とか、聖書のカインとアベルの話とかを知っていると、もう少し深い考察ができそうですが、今日のところは、まあこのくらいで勘弁しといたるわ。(← かなり投げやり)ともあれ、あーだこーだということで楽しめる映画です。

主演の3人は、どこか地に足がついてないような存在感を見せていて、ふわふわした物語の中を漂うという感じで、この映画にふさわしいキャラクターを好演しています。1シーンだけ登場するアダムの母親役を演じたイザベラ・ロッセリーニは逆に不気味な存在感を感じさせ、この映画のアクセントになっています。アダムから、アンソニーの存在を聞いて、動揺しながら「この話をしないように」というのは、彼女は全てを知っているかのようでした。その知ってる内容は、アダムとアンソニーが二人に分かれた経緯なのか、それとも息子の二重人格なのか、まあいかようにも解釈可能です。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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