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「アバウト・タイム」は、主人公に共感できないけど、ヒロインのかわいさでプラマイゼロかな。


今回は新作の「アバウト・タイム 愛おしい時間について」をTOHOシネマズ川崎1で観てきました。こういう映画はカップルが多いんだろうなって思っていたら、私のようなおっさん一人とか女性一人のお客さんが多かったのが意外でした。テレビで「結婚したくなる映画」と紹介されていましたが、確かにゼクシィとタイアップすれば効果的かも。

イギリスの海辺の町、コーンウォールでティム(ドーナル・グリーソン)は、21歳の誕生日に父(ビル・ナイ)から、驚くべきことを告げられます。この家の代々の男性はタイムトラベルできるんですって。未来は無理だけど、暗いところへ行って、その時間を思い浮かべると過去へトラベルして、また戻ってくることが可能。なぜそうなのかは知らないけど、そういうことなんだって言われて、試してみたら、できちゃった。その能力を使って何したい?と父に聞かれて、「ガールフレンドつくりたい」と正直モノのティム。夏休み中に彼の家に滞在したレイチェルというかわいい子に告白して、失敗しても過去に戻ってやり直ししたり頑張ったんだけど、結局はかなわぬ恋。そして、ロンドンへ行って弁護士となったティムは、運命の女性メアリー(レイチェル・マクアダムス)と知り合います。要所要所で過去に戻ってやり直ししつつ、二人の仲は深まり、出来ちゃった結婚することになります。そして、家庭を持つことになったティムですが、過去へのタイムトラベルにはある制約があることに直面することになります。

「ラブ・アクチュアリー」のリチャード・カーティスが脚本、監督した、SF風のラブストーリー風のファンタジー(かな?)。タイムトラベルしちゃうラブストーリーというと、懐かしいところでは「ある日どこかで」や「恋はデジャヴ」とか、近年では「君がぼくを見つけた日」なんていう映画があったのですが、その時間を超えるってところにロマンやファンタジーを感じたのですが、この映画はそのあたりはあっさりと片付けて、人生で大事なものって何だろうってところへドラマを持っていきます。主人公がタイムトラベルで何をしようかというと、まずガールフレンドを作りたいですからね。そして、実際に出会いとかその後の展開を何度もやり直して、かわいいメアリーをゲットします。でも、やり直しを使い過ぎで、そこまでやるなら誰でもうまくいくだろうなあって感じで、主人公に共感できなかったのは、作り手としては承知の上でやっているのかしら。子供の頃読んだ「ドラえもん」では、タイムトラベルで未来や過去を変えられないという教訓をベースにお話が作られていまして、その教訓に慣らされてしまった私には、お気楽に過去を塗り替えて、未来を自分の好きな方へ引っ張ろうとして、実際に成功しちゃうのは、何か安直じゃね?と思ってしまうので、その分、この映画の展開は敷居が高かったようです。

じゃあ、この映画がつまらなかったかというと、結構楽しんでしまいました。それは、ティムの運命のメアリーがすごくかわいかったから。「きみに読む物語」ではただきれいなだけだったレイチェル・マクアダムスが、今回は生身の女性としてすごく魅力的だったので、彼女観てるだけでモト取ってしまいました。美形というよりは、普通の女性の魅力を前面に出すあたりの見事さは、彼女の演技力によるところが大きいでしょう。他の映画では出せない彼女のキャラを引き出した演出の力もあなどれません。最初の出会いの真っ暗闇のデートパブのシーンとか、ちょっと変わった奴ティムに惹かれていくくだりとか、結婚後「もう一人子供欲しいわ」というあたりとか、すごくよかったです。タイムトラベルという姑息な手段を多用するティムより、彼女の方に共感できましたもの。

ティムの求めるものは最終的には家族との幸せな生活でした。そのために、過去に戻って、メアリーと彼氏が出会えないようにして、彼女を口説くなんていうえげつないこともやります。ドラえもんののび太なら、こういうことをすれば、それなりのしっぺ返しがあって、元の木阿弥になるのがパターンですが、ティムの方はこれで幸せになっちゃうのがすごい。えー、すごいというのはウソです。かなり妬ましい。せめて、ティムが共感できるような言動や行動を取ってくれたら、まあいいかなって気もするのですが、こいつ別にどうってことないじゃんっていうくらい平凡。それが、家系のおかげで、おいしい思いをするってのがなあ、氏より育ちじゃないのかよ。最近は、生まれた子供の家の経済状況で将来の学歴が決まっちゃうというのを思い出してしまいました。そういう時代を反映しているのかもしれないなあ、いや、マジで。イギリスは階級社会って言いますし。

タイムトラベルの映画につきものなのが、タイムパラドックス。過去へ行って、自分の親を殺したら自分が消えちゃうとか、過去の自分と出会ったらどうなるかといったことが、このテーマの映画ではよく登場するのですが、この映画では、かなり無頓着。自分の周囲のことは過去を変えて、現在に戻ってくると、変わった過去の結果の現在が戻ってくるけど、世界の歴史までは変えられないんですって。後、金儲けに使うのもダメなんですって。ですから去年の大穴のレースに大金つぎ込むようなことはできるらしいんですが、やっちゃいけないと父親は言います。まあ、特殊な能力だけに、それを使うに当たっては紳士たれ、ということのようです。イギリスは紳士の社会って言いますし。

私も過去を変えたい、やり直したいと思うことが多々あるのですが、一方で、過去に戻っても、また同じことしか出来ないだろうなあって思うところもあります。それが運命だよねって感じなのですが、この映画の主人公のように、過去に戻って、出会いをやり直したり、アクシデントを回避することが可能になったら、人生観がかなり変わると思います。人間は過去は変えられないからこそ、未来を何とかしようと気にもなるのですが、過去が自由に変えられるようになれば、むしろ未来を変えられないという気分にはならないのかしら。そして、未来が今になり、今が過去になった途端、それは自分の好きにできる時間になる。うーん、何だかややこしい人生だなあ、今が過去になることを望むという厄介な人生になりそう。凡人が取り扱うには手に余る能力かも。でも、リチャード・カーティスの脚本はタイムトラベルの部分はあまり重きを置いていないようなんですよ。そこを突き詰めることをせず、タイムトラベルを通して見えてくる今の価値について語りたいようなのですよ。でも、主人公がその能力を安直に使いすぎた結果、今という時間の価値が薄められてしまったようにも思えました。タイムトラベルなんていう道具を使わなくても説明できることを、タイムトラベルをベースに語ったら本質が見えにくくなっちゃたと言ったらひどいかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



過去に戻れば無敵だと思っていたティムですが、一度、子供の生まれる前に戻って過去を変えて、現在に戻ってきたら、かわいい娘が男の子になっちゃっていてびっくり。受胎という微妙な瞬間は、ちょっとしたことでぶれちゃうんですって。(← 何じゃそりゃ)ですから、子供が生まれたら、子供が出来る前まで戻ることはできなくなるのでした。まあ、子供が変わっちゃうのがやだって言うのは、当人の好みの問題ですが、それがタイムトラベルの制約だというのは、そっちの勝手でしょ?という気もしちゃいました。うーん、能力のいいところどりしようというところへの嫉妬なのかな。

そして、時間の経過は否応なしに死をもたらします。父親がガンにかかり、そして亡くなり、彼を葬ることになります。そこで、ティムは何をしたかというと、過去へ戻って元気な父親に会いに行くのですよ。何だかなあ、このあたりも共感を呼ばないのですよ。最初は、能力に対する嫉妬だと思っていたのですが、そればかりでない、人生への向き合い方がやだなあって気がしてしまいました。父子がうーんと時間を遡って、子供時代のティムと父親が海辺を散歩するシーンは一応美しい、いい話風の展開なのですが、それやったら、メアリーとの出会いも変わっちゃうし、子供の顔ぶれも変わっちゃうんじゃないの? それに、何か、ファザコンぽくてキモくない?

そして、ティムは、妻や子供たちの日々の暮らしを重ねていく中で、過去へタイムトラベルすることもなくなりました。その理由は、平凡な毎日の中に新しい発見や、人生の素晴らしさを見つけることができるからですって。そして、自分は毎日、家族と一緒にタイムトラベルしているんだよーってところでおしまい。結局、平凡な日々を積み重ねていくことが素晴らしいという決着になるんだけど、過去へ戻ってやり直しを繰り返すことができる人間に言われてもなあ。「世界中の美味、珍味を食べ尽くしたけど、最高なのは家庭の味だ」というような、どこか上から目線を感じてしまったのは、私の根性がひねくれてるのかなあ。

と辛口の評価になってしまったのですが、映画としては悪くないです。念押ししますがヒロインがすごく魅力的です。でも、辛口の評価になっちゃうのはなぜかと考えてみたのですが、やはり、安直に過去の書き換えを繰り返すことは、生き方としてフェアじゃない、反則だという気持ちが私にはあるみたいです。ゲームみたいにリセットできないのが人生ですし、リセットすることに無批判な描き方は私の好みではなかったというところでしょうか。
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「友よ、さらばと言おう」はタイトにまとまったアクションドラマ、面白いです。


今回は新作の「友よ、さらばと言おう」を横浜ニューテアトルで観てきました。何で、こんな印象に残らないような邦題をつけるのかなあ。どういう映画なのかもわからないし、題名も覚えられないし、何だか昔の映画みたい。で、このタイトル、中身とシンクロしてないんですよ。配給会社のやる気のなさ、感じるわあ。

刑事シモン(ヴァンサン・ランドル)とフランク(ジル・ルルーシュ)は公私に渡る仲良しさん。しかし、シモンはフランクも同乗している車を運転中にぼーっとしてて、親子連れの乗った車に激突。シモンは警察をやめ、妻子とも別れて警備員の仕事についていましたが、生活は酒びたりですさんでいました。そんなシモンをフランクはいつも気にかけていました。シモンの元妻アリスと息子テオが、元妻の彼氏に連れられて闘牛場に行ったとき、テオがマフィアの殺人現場を目撃してしまいます。マフィアに顔を覚えられたテオに警察の保護がつくことになるのですが、警察署を出たところで、二人の殺し屋に機関銃で襲撃されます。一人で逃げるはめになったテオを追う殺し屋とそれをさらに追うシモンの追跡劇の末、シモンと殺し屋が格闘となり、シモンが殺し屋をボコボコにしてテオを救います。アリスとテオはフランクの家に保護されます。そして、テオとフランクは入院している殺し屋を脅してマフィアの居場所を聞き出して、そのクラブに二人で乗り込んでいきます。クラブで銃撃戦となり、テオとフランクはマフィアのボスの弟を殺してしまいます。一触即発の状況となった今、フランクは、アリスとテオをシモンと一緒にパリに身を隠す手筈を整えると、3人をパリ行き列車に乗せますが、マフィアを彼らを尾行し、列車に乗り込んできます。それを知ったフランクは車で列車を追いかけます、しかし、時は既に遅く、列車の中で銃撃戦が始まってしまうのでした。

「すべて彼女のために」「この愛のために撃て」という、すこぶる面白い犯罪娯楽映画で有名になったフレッド・カヴァイエの新作です。ギョーム・ルマンとカヴァイエの脚本を、カヴァイエが演出しました。「この愛のために撃て」に主演したヴァンサン・ランドルと、「この愛のために撃て」の主演のジル・ルルーシュのダブル主演という顔合わせです。「すべて彼女のために」では、普通の男がある犯罪に手を染めていく過程をていねいに見せるドラマが見事で、「この愛のために撃て」では、テンション上がりっぱなしの追跡劇が見応えがありました。今回は、主人公の二人のキャラを丁寧に追う一方で、アクションの見せ場をふんだんに取り込み、前二作のいいとこどりをしたという感じで、よくできた娯楽映画の一編として仕上がっています。90分という短い時間の中に見せ場を一杯盛り込みつつ、主人公のキャラを丁寧に描いているので、主人公の家族とか悪役のみなさんはさくさくとさばいて、テンポよくドラマを進めていきます。

見せ場となるのは、闘牛場での殺人目撃からの追跡シーン、そして警察署前でのマフィアの襲撃からの追跡、そしてマフィアの巣窟での銃撃戦、列車内での一般人を巻き込んでの銃撃戦となります。アクションシーンはライド感で一気に見せるのではなく、主人公二人の動きを丁寧に見せる演出でしているのも印象的でした。いわゆるじっくり系アクションとでも言うのでしょうか、単に細かいカット割りで勢いで押し切るのと違う演出は、アクションもドラマとして見せようという意欲が感じられました。「この愛のために撃て」でカヴァイエ監督を初めて知った人には、勢いが足りないと感じられるかもしれません。私は「すべて彼女のために」が好きだったので、ちょっとアクション盛り込み過ぎかもって思ってしまいました。この映画で、初めてカヴァイエ監督の作品に触れた方は、どう思われたのかしら。ちょっと気になるところです。。

シモンは運転中に事故で親子を殺してしまったのですが、そのことがいつも彼の心を苦しめていて、その結果、妻と息子のもとを去っていました。しかし、この息子が命を狙われたことで、警官でもないのに、銃で武装してマフィアのアジトに向かいます。一方、フランクは最初はシモンを止めるのですが、彼の意志が固いことを知り、自分も一緒に、シモンと一緒にマフィアのいるクラブへと赴くのでした。今回の悪役であるマフィアの皆さんはひたすら悪くてムチャする輩という設定でして、どこでも銃をぶっ放すことにためらいがありません。刑事がやってきたというと、お客がいっぱいいるクラブでも銃撃戦が始まっちゃいます。これはクライマックスの列車の中も同じこと。悪役の設定が単純なので、主人公側のキャラ付けに尺を取っても、90分に収まっちゃうわけでして、そこ割り切りがこの映画の娯楽映画としての点数をアップしています。映画の後半は見せ場をシンプルにつないでいるだけなのですが、要所要所の力の入れどころ、外しどころのバランスがうまく、ドラマとしても、ジェットコースタームービーとしてもかなりいい線いっています。

ダニー・エルセンのキャメラは陰影の濃い映像ですが、アクションシーンでも見やすい絵作りをしていて、タイトなドラマを支えています。音楽は、前二作のクラウス・バデルトから、クリフ・マルティネスにバトンタッチしています。環境音楽風のドライな音が多かったマルティネスですが、今回はエモーショナルな部分ではきっちりオケの曲を流し、アクションシーンでは打ち込み主体のハードな音というメリハリの効いた音作りになっていまして、娯楽映画らしいある意味オーソドックスな映画音楽を聞かせてくれています。シンプルだけどよくできたアクション映画がお好みであれば、この映画、オススメしちゃいます。



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フランクが車で列車を追いかけるのですが、一方列車の中では、シモンたちがマフィアに発見され銃撃戦になってしまいます。乗客の押した非常停止ボタンで列車は停止し、そこへフランクが車で追いついて合流。銃撃戦の末、マフィアはやっつけられるのですが、フランクは撃たれて虫の息の状態、そんなフランクがシモンに許しを請うのでした。実は、シモンが起こした事故というのは、フランクが運転席で疲れて眠っていたシモンを助手席に移して、代わりに運転していた時に起こったものでした。シモンが死んだと思ったフランクが、助手席のシモンを運転席に移して、自分の罪を逃れようとしたのでした。そのことを告白して、フランクは息を引き取ったのでした。かつて、二人とその家族が仲良く映ったホームビデオでおしまい。

交通事故の濡れ衣を着せたことを告白できなかったというのを、派手なドンパチやった後で謝られる展開は、何だかあわただしい感じがしまして、ドラマとしてはもう少しタメというか、告白に至るまでの葛藤を見せて欲しかったと思います。それに、フランクが何くれとなくシモンのことを気にかけ、マフィアに乗り込むのにも着いていくというのが、実は罪悪感からだったということになっちゃうのは、ドラマとして浅くなっちゃうような気も。ここは素直に友情の発露にしてくれたほうがドラマとして締まったように思います。それでも、90分のタイトにまとまったアクション映画としてかなり面白くできてます。この映画を観て、カヴァイエ監督に興味を持たれた方は、「すべて彼女のために」をご覧になってみてください。これはオススメですよ。

「バツイチは恋のはじまり」は夜11時以降にやってるドラマみたいな、軽いノリで観るのをオススメ


今回は新作の「バツイチは恋の始まり」をヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。パンフレットを作ってないのに、初日プレゼントでボディ用乳液もらいましたが、オヤジの使い道としては、はて?

イザベル(ダイアン・クルーガー)はパリの歯科医で、10年来の恋人ピエール(ロベール・プラニョル)と同棲中。なかなか結婚に踏み切れないのは、ダイアンの家系のジンクス、女性はみんな一度目の結婚は失敗するということ。でも、イザベルとしては、そろそろが子供が欲しいお年頃だし、何とかしなくちゃと考えて、ひらめいたのが、先に誰かと結婚してすぐ離婚すればいいじゃんというプラン。結婚後、10分で離婚できるというデンマークに行って、お金で雇った男と結婚即離婚、即バツイチになろうとしたのですが、相手が空港に現れません。でも、このまま帰れないイザベルは、パリからの飛行機で隣の席だった馴れ馴れしいツアーコンダクターのジャン・イブ(ダニー・ブーン)に目をつけます。この男をちょちょっと誘惑して結婚&離婚すれば任務完了。そう思い込んだイザベルは彼の行き先ケニヤまで追いかけて、偶然の再会と言って、彼と行動を一緒にします。もともと美人さんのイザベルのアプローチにジャン・イブも本気になり、マサイ族の結婚式に参加したときに、ついでにイザベルとジャン・イブも結婚式をやっちゃいます。そのまま、パリに戻ってきたイザベルは、そのままピエールとの結婚の段取りへ進もうとしたところ、ジャン・イブの兄がお役所の人で、正式の婚姻手続きがされちゃっていてびっくり。このままではピエールとは結婚できないと、イザベルは、ジャン・イブの住むモスクワへ。そこで、嫌な女を演じて、離婚届にサインさせようとするのですが。

ローラン・ゼトゥンヌの脚本をパスカル・ショメイユが監督したラブコメディの一編です。自分の家系が一度目の結婚は必ず失敗するというジンクスに過敏な反応をしちゃったヒロインが、形だけ一度結婚&離婚でバツイチになろうというお話。シチュエーションで笑いをとるコメディということになりましょうか。とにかく、リアリティが薄いお話をテンポで見せちゃおうということ、そのノリの軽さとオフビートな感じが、夜11時過ぎにやっているドラマみたいな感じなのですよ。フランス映画だからってちょっと小洒落たラブロマンスを期待すると、これがベタなドタバタになっているのですよ。そして、ラスト付近でちょっとだけ恋愛モノとしてしんみりさせるという構成は、深夜の1クールで完結するドラマと同じような感じ。女性の方がご覧になれば、もう少し感情移入できるのかもしれませんが、私のようなオヤジ目線では「何バカなことやってんだ」というツッコミ入れつつ、のほほんと楽しむ映画に仕上がっています。

発端となるのは、デンマークで結婚&離婚を1日で済ませてバツイチになれば、ピエールとの結婚は2度目になるから破局しないで幸せになれるという思いつき。まあ、これも何だかなーという気もするのですが、取り合えず納得。ストックホルムに着いてみれば、約束してあったバツイチ要員がいない、じゃあ、ここまで来た飛行機で隣にいた、やたら口数の多いトロそうな男を代理にしようと思い立つあたりで、「おいおい、何だよ、その無理やり設定は?」とツッコミ入るんですが、それがアホな選択がないとドラマが始まらないあたりに、この映画の持つ軽さがあります。そして、ケニアまで男を追いかけていって、積極的にアタックかけるという、他にやりようがないのという展開になります。ヒロインを演じるダイアン・クルーガーは「トロイ」のクールビューティのイメージがいまだにあるのですが、この映画では、ちょっとおバカ入ったキャラで画面を右往左往してくれまして、へえ、こういうのもやるんだとちょっと感心。一方、追いかけられるジャン・イブを演じるダニー・ブーンはもとからコメディの俳優さんだそうで、三枚目キャラを軽妙に演じて、ヒロインとのドタバタで楽しませてくれます。

10年来付き合っている恋人とうまく行ってる割には、離婚目的とは言え、ジャン・イブに取り入ろうとするイザベルの積極性はちょっと違和感があるのですが、日々のデンタルクリニックでの仕事から、うって変わった太陽アツアツのアフリカへ来て、何だか盛り上がっちゃったのかなあ、って感じで、何となくいい関係になってきます。一応イザベルとしては、このツアーコンダクターをだまくらかして、サクっと結婚して、マルっと離婚しようというつもりでいるのです。そして、マサイ族の結婚式にまぎれて、自分とジャン・イブとの間の結婚式もやってしまうのです。このあたりも、リアリティのない、ノリと気分でやったもん勝ちという見せ方でして、その薄さと軽さは、ラブコメというよりは、フランス版吉本新喜劇という感じです。パリへ戻ってきて、そのままジャン・イブから姿をくらまそうとしたのですが、一応夫になった彼としては、彼女が趣味だと言ってたボーリング場をローラー作戦で回って、ついには妻イザベルを発見します。ここで、全部ネタばらしをするのかと思いきや、イザベルはさらに嘘を重ねてその場からバックれようとするのですが、役所へ行ったら、本当に自分がジャン・イブの妻になっちゃっているのにびっくり。そこで彼の住むモスクワに出かけて行って、ひどい妻を演じて、彼に離婚届にサインさせようとします。ジャン・ルイをケニヤまで追いかけたり、今度はモスクワまで追っかけるという斜め上からの発想がなかなかすごいと感心しちゃうのですが、そう思うヒロインに何のリアリティもないので、バカだねー、こいつというノリで楽しめる映画になっているのですよ。ラブコメ以前のおバカコメディですわ、これ。

発端は、結構リアルで共感できるところもあるんですよ。10年も付き合って同棲までしてるのに、結婚すると破局のジンクスがあるので、なかなか思い切れない。一方、そろそろ自分もいい年になってきて子供が欲しくなってきた。彼氏は結婚することに躊躇はないけど、自分としてはやっぱり破局はいやだ。まあ、そこまでは付き合えるのですが、そこから先のヒロインの暴走ぶりは、リアルとか共感とかとは別のコメディの変人キャラになっています。まあ、リアルにイザベラみたいな女性がいたらドン引きされるでしょうから、変人のドタバタを楽しむという展開にしたのは成功していると思います。



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イザベラがモスクワのジャン・イブの家に押しかけ同居を始めて、色々とムチャやって嫌われようとするのですが、ジャン・イブは惚れた弱みもあるのでしょうが、ちょっとやそっとでは匙を投げません。そんな状況を妹に電話しているのを、ジャン・イブに聞かれてしまいます。その翌日、彼はイザベラにサインした離婚届を渡します。イザベラとしては、それでも怒らないジャン・イブのいい人ぶりが何だかすごく後ろめたい。そして、モスクワ最後の24時間を彼と一緒に過ごすと異国気分もあってか大盛り上がりしちゃいます。そして、パリに帰って元の暮らしに戻ってみれば、何かが違うって感じ。ついには、ボーリング場でピエールに婚約指輪を突き返して、10年間の付き合いにピリオドを打ってしまいます。うーむ、女心は秋の空よのう。そして、イザベラはフランスの田舎でガイドのバイトをしているジャン・イブのもとを訪れ、再婚のプロポーズをします。二度目の結婚だから大丈夫だよね、というかなり勝手な言い分だけど、彼もそれを受け入れて二人は夫婦となるのでした。めでたし、めでたし。

結局、一回目の結婚は失敗するというジンクスを破ることはできない結末ですし、10年間の付き合いをほんの数日の出会いで、チャラにしちゃうイザベラのセンスにもまるっきりついていけないのですが、そういう困ったちゃんなヒロインのドタバタコメディだと思ってみれば、結構笑えますし、よくできてる思います。ひどいヒロインをシニカルな視線で笑うのではなく、その成り行き全体を笑って楽しんでねという作りは、最近のコメディでは珍しい気もしますが、コメディを前面に押し出せば、こういうヒロインでもありかなって思いました。ラブコメだと思うと、ちょっと後味悪くなりますから、やっぱり吉本新喜劇風ナンセンスコメディとして楽しむのがオススメです。

「フライト・ゲーム」は滅法面白いサスペンス、たくさんの趣向をテンポよくさばく演出がマル。


今回は新作の「フライト・ゲーム」をTOHOシネマズ川崎2で観てきました。映画の始まる前のピクミンのイラつかせるロゴがなくなっていました。でも、TOHOシネマズは映画始める前の段取りが多すぎるし、ダラダラ始まる感じが嫌い。

航空保安官のビル(リーアム・ニーソン)はロンドン行の飛行機に仕事で乗り込みますが、どこかお疲れのご様子。ジェン(ジュリアン・ムーア)という女性が窓際に席がいいと言って、ホワイト(ネイト・パーカー)という男と席を取り換えて、ビルの横に座ります。そして、大西洋の真っ只、ビルの保安官用回線のメールに「1億5000万ドル振り込まないと、20分ごとに機内の誰かを殺す」というメッセージが届きます。そして、どうやらビルの行動を知っているらしい、犯人は飛行機の中にいるらしいということで、機長にその事を知らせ、保安局に連絡されるのですが、名簿の調査には30分かかると連絡が来ます。同じ航空保安官であるジャック(アンソン・マウント)にそのことを知らせるのですが、いたずらだと言ってとりあいません。ビルは客室乗務員ナンシーとジェンの協力を得て、メール送受信をして、怪しい人間をマークしていきます。するとどうもジャックの様子がおかしい、そして、トイレへ向かったジャックを問いただそうとしたところ、逆にジャックはビルを殺そうとして銃を取り出します。ビルはやむなくジャックの首を折ってとどめを指すと、それは犯人の予告した20分後だったのでした。一体、メールを送ってきたのは誰だったのでしょうか。

ジョン・W・リチャードソンとクリス・ローチの原案を、リチャードソン、ローチ、ライアン・イングルの3人で脚色し、「蝋人形の館」「アンノウン」のジャウマ・コレット・セラがメガホンを取ったサスペンススリラーの一篇です。ニューヨークからロンドンへ向かう飛行機の中で、航空保安官のビルに届けられた脅迫メールを発端に、連続殺人が起こるというスリラーですが、その最初の殺人を当のビルが犯してしまうという意外な展開から始まるのがミソでして、謎が謎を呼ぶ展開で一気に最後まで見せられてしまいました。ストーリー的には「そんなのあり?」と思うようなものがあるのですが、突っ込む隙を与えない、たくさんの趣向を盛り込んだ脚本と、緊張感を緩めない演出の妙もあり、滅法面白いサスペンスものに仕上がりました。犯人は飛行機の中にいることは間違いない、だから、金をせしめたとしても、乗客全員がマークされちゃうだろうにという点についても、ビルを犯人に仕立てる仕掛けでクリアさせようというあたりに、脚本の妙が光ります。

登場人物みんなを怪しく見せるセラの演出は見事でして、酒やタバコが手放せないビルも何か訳ありの様子ですし、わざわざビルの隣に座るジェンも怪しいし、他の乗客も印象的なカットを与えられて、それぞれ何か持ってる雰囲気を醸し出しています。誰でも犯人かもしれないという空気が張り詰める中で第一の殺人が行われ、その実行犯がビルだったということで、ビルは段々と追いつめられていきます。ジャックの持っていたスーツケースの中はコカインで一杯で、それがばれるのを恐れてビルを殺そうとしたようですが、自分が殺したことをうかつに周囲に話すわけにもいきません。そこで、ビルは怪しいと思われる乗客の身体検査を強引に始めちゃうのですが、それが却って、周囲のビルへの疑惑を深めてしまうことになります。さらに、犯人が金を振り込むように要求した口座がビル名義のものだったことから、地上の航空保安官からも疑いの目を向けられ、機長からも銃とバッチを取り上げられちゃうのですが、ジャックの死体から銃とバッチを奪って機内を探索するビル、ですがさらに犯人から脅迫メッセージが来ます。そして、今度は機長が急性のアレルギー反応を起こして死亡してしまいます。さらに、空港でビルに「アムステルダムに行く」と言っていた男ボーウェン(スクート・マクネイリー)が機内にいたのを発見し、身柄を押さえてしまいますが、彼の素性は明らかなようです。犯人の携帯にウィルスメールを送りつけて犯人を炙り出せるというホワイトの発案でみんなの前でビルはメッセージを送ると、弁護士ウィーラーの携帯が鳴り、ビルとウィーラーがもみあっているうちにウィーラーが死亡。ビルがハイジャッカーであるというテレビニュースが流れ、乗客の中の警官のライリーたちは隙あればビルを取り押さえようとしていました。

登場人物の一人一人のドラマに深入りしないで、それぞれのキャラクターが際立つようになっているのは演出のうまさだと思います。適度に濃くて適度に普通の人というキャラクターをうまく散りばめて、集団ドラマ的な面白さも出ていたところは点数高いです。また、フラビオ・ラビアーノのキャメラが飛行機の中を縦横に走って緊迫感のある絵を作っています。特にトイレの中の格闘シーンをきちんとフォローしているのは感心。殺陣もうまかったのですが、狭苦しいトイレでの格闘をリアルに見せているのは、他の映画ではなかなか見られない収穫でした。ジョン・オットマンの音楽もオーケストラにシンセを加えた厚みのある音作りで画面をきちんとフォローしています。この人はサスペンス映画だと、潤いのない効果音的な音楽をつけることが多いのですが、今回はきちんとメリハリのある人間ドラマの音になっていて、映画の格を上げることに貢献しています。また、この映画の面白さの縁の下の力持ちになっているのは、キャスティングのアマンダ・マッキーとキャシー・サンドリッチ・ジェルフォンドではないかと思います。飛行機の乗務員、乗客がきちんと区別がついてキャラもわかりやすくなっているので、顔を見分けるのが苦手な私でも、「あいつがこいつで、あれがこの人?」と迷わずに済んだのは点数高いと思います。他の映画で見かけたら思い出しそうな皆さんがそろっているのですよ。ストーリーに多少の無理はあっても、観客を楽しませることには手抜きなしの作りになっていまして、これは、プロデューサーの筆頭にいるジョエル・シルバーのおかげかも。



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ウィーラーのポケットにあった携帯電話から突然時限爆弾のカウントが始まります。どうやら犯人は、この飛行機に爆弾を持ち込んでいたようです。ビルは危険物チェックをパスできる人間、航空保安官のジャックのスーツケースを再度調べてみると、コカインの中から爆弾が発見されます。爆発まで30分、それまでに爆弾を解除できるのは犯人だけです。最悪の事態を想定してビルは爆弾を機の最後尾に運び、そこへ荷物をたくさん置いて、爆弾の被害を最小限にしようとします。そして、ハイジャックだと信じている地上からの指示で、一人操縦桿を握る副操縦士のカイル(ジェイソン・バトラー・ハーナー)に、ビルは高度を8000フィートまで落とすよう頼むのですが、ビルを疑っているカイルを説得しきれません。8000フィートまで下がれば爆弾が爆発しても、気圧の変化が少なくて無事な可能性が高いからです。でも、飛行機は戦闘機2機に誘導されてそれに逆らうと撃墜される危険もありました。一方、爆弾のタイムリミットが迫ってきます。その時、機内の様子を撮影して外部へ流していた少年が見つかり、少年のカメラをチェックしてみると、そこには死んだウィーラーのポケットに携帯を隠すボーウェンの姿が映っていたのです。正体を見破られたボーウェンは銃でみんなを脅してきます。さらに彼には共犯者がいて、それは最初にビルの隣の席にいたホワイトでした。ボーウェンの動機は、9.11から、国家は国民を守れないという現実をみんなに知らしめて、国を変えたいというもの。(← ちょっと自信ないです。字幕読み切れなくて)そして、ボーウェンは死んでもいいと思っていたから、純粋に金目当ての共犯者ホワイトと揉めて、ボーウェンは撃たれてしまいます。一方ビルの指示で、カイルは腹をくくって一気に降下を開始。そして、爆弾が爆発してホワイトは爆発に巻き込まれてしまいます。後部から火を噴きながら飛行機はアイスランドに無事着陸し、生き残った乗客、乗務員は互いの無事を喜びあうのでした。おしまい。

あらすじ以外でも、タイトル2枚目のジュリアン・ムーアは結構出番多いですし、客室乗務員役のミシェル・ドッカリーも出ずっぱりで結構印象に残ります。また、一度疑われて、逆に容疑者から外れたと思われたボーウェンが真犯人というのも意外性がありました。細かい趣向やエピソードが色々と盛り込んでありまして、それが映画を盛り上げることに貢献しています。原題の「Non Stop」というとおり、途中で脇道にそれないでノンストップで展開するサスペンスなのですが、単にライド感に身を任せるだけでなく、ドラマを楽しめるという点でも、この映画いい線いってると思います。傑作とか名作という称号には縁のない映画ですが、それでもきっちり楽しませてくれる律儀な娯楽映画としてこの映画推します。もし、レンタルビデオで特に観たいのがなかったときは、この映画お試しください。あ、その時は「フライト・プラン」とお間違えなきように。(プランの方はちょっと...)

「LUCY ルーシー」は、おなじみのアクションの上に哲学SF乗せたら、食い合わせが今一つ


今回は新作の「LUCY ルーシー」を静岡シネザート シアタ-5で観てきました。この映画館は、席の肘掛が座席ごとに1ペアずつあるので、妙な領土争いが起こらないところが買いです。ユーロコープの映画ではあるのですが、その前にユニバーサル映画のロゴが出ました。映画の中も英語、フランス語、韓国語が飛び交うので、まさに無国籍映画という感じでした。

台北で知り合ったばかりのボーイフレンドから、アタッシュケースをホテルの中のチャンさんに届けて欲しいと無理やり頼まれたルーシー(スカーレット・ヨハンソン)、ホテルのロビーでチャンさんを呼んだのですが、降りてきたいかにもカタギでない皆さんが、ボーイフレンドを射殺して、彼女をチャンさんのところに連れていきます。アタッシュケースの中身は新種のドラッグで、すごい高値の代物。チャンさん率いる韓国マフィアは、そのドラッグを3人の男とルーシーの腹の中に入れて、ヨーロッパへの運び屋として使おうとします。ところが、空港に行く前に、組織の男に犯されそうになったルーシーは腹に蹴りを入れられて、そのショックでドラッグが体の中へ漏れてしまいます。そのドラッグの効果により、彼女の細胞が猛烈なスピードで増殖を始めます。そして、人間の脳は、普通なら10%しか使われないのに、ルーシーの脳は20%から30%へとどんどん機能を高め、超人なみの頭脳のパワーを得たルーシーはコンピュータ以上の情報処理能力と、スーパーマンなみの身体能力を得ます。さらに脳のパワーを活性化するにはさらにドラッグが必要となったルーシーは、パリ警察に運び屋の情報をタレこみ、身柄を確保させます。しかし、3人が収容された病院に、チャンと部下たちが現れて、関係者を次々と撃ち殺し、ドラッグを取り戻そうとするのですが.....。

リュック・ベンソンが脚本を書いて、メガホンを取ったアクションSFの一遍です。冒頭、普通の女の子として登場するヒロインが、ドラッグの運び屋として体内にドラッグのパックをしこまれてしまい、そのパックが破れて体内にドラッグが行き渡った結果、とんでもない能力を持ってしまうというお話です。人間の脳は普通は10%くらいしか使われていなくて、それが20%、30%と増えていくにつれて、とんでもない能力が身について行って、100%機能したときは何が起こるのか想像もつかないんですって。と、いう話がルーシーのドラマと並行して説明されます。説明しているのは脳科学者のノーマン教授(モーガン・フリーマン)でして、ルーシーは自分の状況を理解して教授に連絡を取るのでした。

ルーシーは、格闘が強いくらいから始まって、脳の使用度があがるに連れて、電子機器を遠隔操作したり、人間を思うように動かすことができるようになります。スーパーマン並みにすごい力を持つわけですが、それで組織の連中をやっつけてくれるとアクション映画としてのカタルシスがあるのですが、本人は自分に残された時間で何をするかという方に興味が行っちゃっているので、派手な銃撃戦は警察にお任せ。警察とかそこに居合わせた人が、韓国マフィアの犠牲になっちゃうのですが、ルーシーは顔色一つ変えずに自分のなすべきことにだけ集中しています。つまり、超能力を得たスーパーヒーロー(ヒロイン)が悪役をバンバンやっつける映画を期待すると肩すかしを食わされることになります。じゃあ、ヒロインの話がどっちの方向へ行くのかというと、どうやって自分を生き残らせるのかというところになるのですが、その方法は抽象的というか哲学っぽい展開になるのですよ。結構びっくりな結末になるのですが、それと似たような映画が最近あったらしいです。(私は未見ですが。)しかし、そういう役柄にスカーレット・ヨハンソンが必要だったのかというと、いらねえんじゃない?というのが私の感想です。めったに使わない言葉ですが、この映画のヨハンソンは「役不足」ではないかと思った次第です。

前半は自分の変化にびっくりするヒロインということで、多少は感情移入できる展開になっているのですが、後半になると、ルーシーが全てを悟りきった無我の境地になっちゃうので、「あらー」ってな感じで成り行きを見守ることになります。リュック・ベンソンとしては、脳みその使用度がどんどんアップしていくと、何が起こるのかを見せるのが主眼であって、警察とマフィアの攻防はそのおまけみたいな位置づけになるようです。最初は超能力みたいなパワーを見せるのですが、脳活用パーセンテージが高まるとやっていることが魔法じみてきます。一方の韓国マフィアの皆さんは絵に描いたような黒づくめで、どこでも機関銃ぶっ放すという荒っぽさで、このあたりは、1990年代の映画を思い出しました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



脳の使用度が50%を超えてくると、いよいよルーシーは万能キャラになってきまして、そして、自分の記録を残すことをノーマン教授に依頼します。そして、研究所にやってきたルーシーは、外でマフィアと警官隊がドンパチやっているのを尻目に、自分の体を新世代コンピュータに変えて、そこへ自分のデータをアップしようとします。さらに脳活用度がアップすると、空間を超えた存在になり、さらに時間をどんどん遡っていき、最初の生命細胞までたどり着くと、それと自分を同化させてしまいます。そして、ノーマン教授の目の前で、ルーシーは完全にコンピュータと化し、そのコンピュータも塵となって消えていき、そこには、1本のUSBメモリが残されるのでした。韓国マフィアの皆さんは、フランス警察にやっつけられ、一応の決着を見ます。そして、みんなが「ルーシーはどこへ行ったのだろう」と話していると、携帯メールが届きます。「私はどこにでもいるよ」ですって。おしまい。

ラストで宇宙最初の生命まで遡ったルーシーは、全ての生命が自分から分裂したんだから、どこにでも自分がいるよん、という状態になったらしいのです。じゃあ、無機物はどうなのよという疑問も出なくはないのですが、そのあたりはまあご愛嬌みたいです。ヒロインが時間を遡っていくイメージカットは、なかなか頑張っているなあと思いましたし、続編へつなぐつもりがない潔さは評価したいと思うのですが、映画として考えると韓国マフィアとのドンパチが娯楽映画としての尺稼ぎのように見えちゃったのは残念でした。脳活用度パーセンテージがアップするというのは、観客にはおニューな概念だからということで、まるまるモーガン・フリーマンに講義させたというのも、ドラマとしてはもっと工夫できなかったのかしらって気がしちゃいました。映画の前半だけ観てると、とパワー満タンのヒロインと韓国マフィアの全面対決がクライマックスになるんだろうなって期待させるのですが、実際は「おーい、どこ行くんだよー」という結末になっちゃうわけで、このテーマを「ニキータ」や「レオン」のような骨組みのドラマに乗っけることは無理があったように思います。

せめて、もう少しヒロインのお色気アクションを見せてくれたら、娯楽映画として点数上がったと思うのですが、観終わった印象は「ほぉー」という遠くを眺める気分でした。カーチェイスなどかなり迫力があったのですが、それによってドラマが盛り上がるわけではないので、娯楽性が今イチなのですよ。では、脳活性度満タンになると、生命の根源まで遡って、家系図の最頂点になれるんだぜというのが、すごいのかというと、「だから、何」というレベルで感心するまでには至らなかったのは、この映画との相性がよくなかったのかも。別に生命の起源が台北でウロウロしていた女の子だからって、それほどの感銘はないですもの。自分の遠縁の親戚にスカ・ヨハがいるってほうが、全然わくわくしちゃいます。

「チョコレートドーナツ」はいい話だけど、感動するまでには至らず、元々、感動させる気はない?


今回は地味だけどロングランしている「チョコレート・ドーナツ」を横浜ニューテアトルで観てきました。ウィークデーの昼間の鑑賞でしたけど、この劇場にしては、意外とお客さんが入っていました。もう一つ意外だったのは、こんな話なのに、シネスコサイズの上映だったこと。こういう地味ドラマにシネスコ画面というのは珍しいかも。

1979年、まだゲイ差別も強いカリフォルニア、ゲイのルディ(アラン・カミング)はゲイバーで踊るダンサーでした。そんな彼に声をかけてきたのは、検事のポール(ギャレット・ディラハント)でした。家に帰ったルディですが、隣の部屋のステレオの音がうるさくて、苦情を言いにいったところ、そこには、ダウン症の少年マルコ(アイザック・レイヴァ)が一人残されていました。母親は麻薬で逮捕され、マルコは施設へと送られるのですが、ドアの鍵が開いていて、そこから街に出てウロウロしているところを、ルディとポールが発見します。このままにしておけないとルディは、ポールのアドバイスを受けて、刑務所にいるマルコの母親から、暫定的な養育権を得ます。そして、ポールの家に、マルコを引き取ることになります。判事の前では、ルディはポールのいとこだとウソをつき、3人の生活が始まります。1年ほど幸せな生活が続きますが、ある日、ポールの上司がポールたちをパーティに招いたとき、ポールとルディの関係を感づかれ、マルコは施設へと逆戻り、抵抗したルディは留置場に入れられ、ポールは検事職を失うのでした。それでも、ルディはあきらめず、マルコの養育権を得ようと裁判所に訴えます。ゲイカップルへの世間の風当たりは強く、それでも二人は黒人の弁護士を立ててマルコのために闘いを挑むのでした。

実際にあった話をもとに、ジョージ・アーサー・ブルームとトラヴィス・ファインが脚本を書き、ファインが初メガホンをとりました。ダウン症の子供の話と聞いたときは、ちょっと苦手かもと思ってしまったのですが、実は、私ダウン症に若干の偏見を持っていました。それは、その昔、中年男とダウン症の青年のロードムービー「八日目」という映画を観たのがきっかけでした。青年に悪意はないのですが、我が通らないと暴れるし、コミュニケーションも満足に取れない人間として描かれていまして、いい話にまとめようとしているらしいのですが、振り回される中年オヤジが気の毒で、これはやばい病気だという印象が残ってしまったのです。でも、この映画に登場するマルコは感情のふり幅も小さく、いつもおっとりしたキャラでして、「八日目」の青年とは別人のよう。映画を観てから、ネットでダウン症のことを調べてみて、その病について少し知ることができました。知的障害があるのは事実のようで、暴走しちゃうこともありそうなのですが、それだけの病気ではないということは認識できました。また、若いころは、ゲイに対しても、差別まではいかないものの、気色悪いわあっていう意識がずっとありました。今は、メディアもゲイの権利を認める方向になっているので、昔のような苦手意識は薄れてきました。まあ、自分と趣味趣向の違う人たちだよね、という認識になりました。

親からひどい扱いを受けていたマルコ、一方の、ルディとポールはゲイのカップル。ルディは見た目からしてそんな感じですが、ポールはそれを隠して検事という職についていました。そんな二人が出会い、愛し合うようになったと同じ頃、ルディの前にマルコが現れたのです。薬物中毒の母親から、ひどい扱いをされていたらしいマルコを見て、ルディはこの子を助けずにはいられなくなります。しかし、ゲイカップルが、当時の社会で子供の養育権を得ることは大変なことでした。夜、ルディとポールが車に一緒に乗ってるだけで、警官に職務質問されちゃうし、指示に従わないと、銃まで向けられちゃう、そんな時代の話です。

社会から疎外されてきたルディやポールからすれば、障害を持ち、親から疎んじられているマルコを見過ごすことができなかったということも言えます。また、ルディはそのことで、自分の人生に意味を見つけようとしているようにも見えました。差別されっぱなしの人生で、何かを勝ち取ろうと思ったことが、ルディの行動の動機のようにも見えました。そう考えると、設定はまるで違うのですが「ロッキー」と根を同じくする「夢」に挑む主人公の物語とも言えそうです。ファインの演出はテンポよくドラマを運んでいき、愁嘆場で盛り上げない演出に好感が持てました。相当ハードなお話なのに、ルディやマルコの楽しそうな顔の方が印象に残っているあたりに、この映画のうまさを感じました。

そういう印象が残ったのは、この映画が、ゲイ差別を過去の過ちとして認識できるようになった、2012年に製作された映画だということが大きな理由だと思います。これが、ゲイ差別が根強く残っていた時代の映画だったら、もっと悲劇的で、強いメッセージを持った映画になったのではないかしら。ゲイ差別というものを物語の時代背景として冷静に描くことができる時代になったことを感じさせる映画だったように思います。また、実話のリアリティというには、ルディ、ポール、マルコを純真無垢な人間に描きすぎているのではないかという気もしたのですが、そこは過酷な時代の寓話として、この物語を語ろうとしているようでした。その当時、たくさんのルディやポールやマルコがいたんだよという見せ方になっているのですよ。レイチェル・モリソンのキャメラも、技巧的な絵作りで、この映画にファンタジーのような味わいを与えています。



この後は結末に触れますのでご注意ください。



学校の先生や、3人と面談した面接官のおかげで、彼らの言い分が認められ、マルコの養育権は認められそうになります。しかし、ポールの上司(二人がゲイだとチクった人)が検事の立場で、母親に養育権の申請をすれば釈放するという司法取引を持ち掛けます。母親の権限にゲイの他人が勝てるわけもなく、マルコは釈放された母親のもとに連れ戻されてしまいます。男を連れ込んだ母親に、部屋を出ているように言われたマルコは、そのまま街を徘徊し、3日後、遺体が発見されるのでした。ポールは、マルコの死を報じる小さな新聞記事を、判事たちや元上司に手紙と共に送るのでした。

悲劇的な結末なのですが、後味としてはそんなに悪くないのが意外でした。それは、最終的に力尽きてしまったルディの想いに共感できるからでしょう。ダウン症の子供を育てることは容易なことじゃないという医師のセリフも出てきますので、色々大変なこともあったと思うのですが、そこをあえて見せなかったところに寓話としての味わいが出ました。ですから、マルコの死もリアルな人間の死というよりも、天に召されたという印象になったのかも。そこのさじ加減が微妙なところでして、ゲイ差別の時代を現代の視点でリアルに見直した「ミルク」とはちょっと違う、ある過酷な時代にソフトな衣をつけて口当たりをよくしているところは好みが分かれるかもしれません。私は、いい話だなと思う一方で、大きな感銘までには至りませんでした。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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