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「グレース・オブ・モナコ」は事実に基づくフィクションって、どこまでがマジ? はて。


今回は新作の「グレース・オブ・モナコ」を川崎チネチッタ12で観てきました。チネチッタの中では最大クラスのキャパで大劇場っぽい、でも作りはシネコンって感じ。

1956年、モナコ大公レーニエ三世(ティム・ロス)と結婚したグレース・ケリー(ニコール・キッドマン)は、二人の子供をもうけて幸せなはずだったのですが、モナコの文化や習慣になじめず、夫も政治で頭がいっぱいで、今一つ元気がありませんでした。ヒッチコックが「マーニー」の台本を持って彼女を訪れ、新作に主演しないかと持ち掛けてきます。一方、モナコ公国自体も存亡の危機に瀕していました。フランスの企業が無税の国モナコへ多数移転してきたのですが、アルジェリアの植民地闘争で財政が厳しいフランスから、フランスから移転してきた企業から徴税して、その取り分をフランスに払えと要求してきたのです。従わなければモナコをフランス領にすると脅しをかけてきます。そんなときに、映画に出たいとグレースが言いだしたので、一度はOKを出したものの、隠密撮影の筈がモナコ側からグレースの映画界復帰のニュースがリークされてしまい、レーニエはグレースに女優を引退しろと強く言ってしまいます。グレースは相談役のタッカー神父(フランク・ランジェラ)のアドバイスを受け、本当のモナコ公妃となるべく、外交儀礼の専門家デリエール(デレク・ジャコビ)のもとでフランス語や礼儀作法、モナコの歴史の勉強を始めます。フランスはモナコとの国境を封鎖して、さらに圧力をかけてきます。後は他の各国の支援が頼りとなって、ヨーロッパ諸国の代表を集めたサミットを開くが時を同じくしてフランス大統領ドゴール暗殺未遂事件が起こり、万事休すとなります。グレースは女優復帰をあきらめ、そして起死回生の一手に出るのでした。

冒頭で「この映画は実際の事件にインスパイアされたフィクションである」という字幕が出ます。ん?フィクションなの?実話ベースじゃないの?と思ってしまったのですが、ともあれフィクションって言ってる以上はフィクションなんだろうなあ。この注釈は観る者の気分を宙ぶらりんにしちゃうから、せめて映画の最後に出して欲しかったなあ。ともあれ、この映画はアラッシュ・アメルの脚本を「クリムゾン・リバー2」「エディット・ピアフ 愛の賛歌」のオリヴィエ・ダアンが監督しました。まあ、グレース・ケリーがモナコ大公と結婚したのと、フランスがモナコ国境を封鎖して最終的に解除したのは事実なんだろうなあ。プログラムを読んでも、この映画、どこまでホントでどこからフィクションなのか書いてないんですよ。まあ、そういうところを気にするのは野暮なのでしょうね。でも、ホントにこういうことがあったのかどうか、グレース・ケリーの霊言に聞いてみたいものですわ。

グレースはアメリカからモナコへ公妃としてやってきてみれば、ダンナは公務に忙しくてなかなか会えない。赤十字の慈善活動をしようにも他のマダムたちは舞踏会の方が大事みたいで、何かこう自分の居場所がないような感じがして、フラストレーションがたまっているみたい。思ったことをストレートに口にすれば、ダンナに戒められるし、あたし一体どうしたらいいのかしらと、悩むグレースに相談役のタッカー神父は、色々とアドバイスするのですが、ポイントは2つ、誰かのために尽くしたら?と、郷に入らば郷に従えということ。それまでに、女優復帰のニュースがリークされちゃって、ダンナとの不仲を疑われたり、モナコ国内で批判されたりして、かなりイメージがよくない状態だったグレースは、一念発起、フランス語や立ち居振る舞い、モナコの歴史を勉強し、積極的にメディアの前に出て、モナコのイメージアップ活動を始めます。国境を封鎖しているフランス兵に差し入れしたり、モナコ国民と積極的に触れ合ったりと、積極的に活動することで、モナコの立場を世界にアピールしようとします。

一方、宮殿の中にあったグレースの女優復帰情報がリークされたことから、身近な人間の中にフランスに通じているのではないかという疑念が湧いてきます。誰かがフランスのスパイかもしれないというところがサスペンスの要素としてドラマにアクセントを加えています。そして、そのスパイがわかってからの、グレースの毅然とした凄味が印象的でした。ニコール・キッドマンの見た目はグレース・ケリーには似ていないのですが、似てないことで、ドラマのイメージが膨らんだとも言えます。誰も知っている有名なエピソードの再現ならば、似てるに越したことはないのですが、フィクションを混ぜ込んだドラマでは、ニコール・キッドマンが演じるグレース・ケリーとした方が物語を受け入れやすいように思えたのです。キッドマンのスター力がグレース・ケリーを自分の中に取り込んだという感じでしょうか。実録ドラマらしさは減じるのですが、一人の数奇な運命の女性の物語としての見応えは増したように思います。

エリック・ゴーティエの撮影は、前半やたら技巧的な長回しを多用して、ずっとこんな感じなのかなって思ったのですが、後半はドラマをしっかり押さえた抑制された映像になっていました。色調が今風でなくて1960年代の映画を意識したような、黄色系の強い絵になっているのも印象的でした。また、クリストファー・ガニングの音楽が、ピアノとストリングス中心のドラマチックな音で、音量高めに鳴るのが、これまた今風でない音作りになっていまして、映像そのものに時代感はないもの、雰囲気が当時を感じさせるので、不思議な印象の映画となりました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



このまま、フランスの脅威に屈するしかないモナコ公国だったのですが、一計を案じたグレースは、赤十字のマダムをけしかけて、赤十字の舞踏会を開催させ、そこへ各国要人を招きます。ドゴールのスパイだったのは、レーニエの実姉のアントワネットとそのダンナでした。二人を押さえたレーニエは、彼らを使って、ドゴールに「モナコはフランス領になる覚悟だ」というニセ情報を流し、ドゴールの舞踏会出席を取り付けます。そして、世界の要人が集まった舞踏会で、赤十字代表として挨拶するグレースはそこで、モナコの現状を語り、それでも愛を信じて、屈しないというスピーチをして満場の拍手を浴びるのでした。最終的にフランスはモナコ公国をフランス領にすることを断念するのでした。

うーん、これでおしまい? 先日観た「NO」でも思ったのですが、映画の中で使われる秘策が、現実にどの程度の影響を及ぼしたのかはよくわからないのですよ。グレースのスピーチがモナコ公国の存続にどのくらい役に立ったのかはわかりません。でも、この映画では、グレースのスピーチがモナコ公国を救ったという見せ方をしています。いやいや、役に立ったかとうかが問題じゃなくて、グレースという女性がどうやってモナコ公妃になったのかという映画なんだよって言うこともできますが、じゃあ、フランスがなぜモナコをあきらめたのかというところはどうでもいいのかというと、この映画の流れでは、そこは曖昧にしてほしくないなあって思ってしまいました。そもそも、この物語はフィクションなので、そこまでは言い切ることはできないんだよって言われればそんな気もしますが、ウソでもホントでも、最後まで貫き通してもらわないと、観ている方はすっきりしません。虚実織り交ぜたストーリーなので、きれいな決着はつけられませんってのは、作り手側が映画を完結させることから逃げてるような気がします。「ラストでヒロインは見事なスピーチをしました。おしまい。」それだけの話だとしたら、モナコという舞台も、公妃という設定も必要ないですもの。
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「イーダ」は不思議な映像の中から、一人の少女の人生が生まれてくるお話。


今回は新作の「イーダ」を横浜シネマジャックで観てきました。モノクロのスタンダードサイズ、モノラルサウンドというのは、最近の映画館鑑賞ではちょっと新鮮。そう言えば先日観た「NO」もビデオ撮影のスタンダード映画でした。メジャーな映画がほとんどシネスコサイズになっている中では、縦長にも見えるスタンダードですが、映画によって、ふさわしいサイズがあるんだなあって再認識。手前と奥の絵のコントラストを出すにはスタンダードは有効なんですよね。

ポーランドの修道院で戦争孤児といて育てられたアンナ(アガタ・チェシュブホロスカ)は、修道女になる前に唯一の肉親である叔母ヴァンダ(アガタ・クレシャ)に会ってくるように言われます。会ってみれば、ヴァンダは検察官というお堅い仕事をしていますが、男とお酒が離せない様子。そしてヴァンダはアンナに、あなたはユダヤ人で本名はイーダなのよと告げます。両親のお墓も、当時殺されたユダヤ人では見つからないだろうといいますが、ヴァンダはアンナの両親が最後に住んでいた家へ、アンナを連れていくことになります。車を走らせて、その家まで向かうとそこにはポーランド人の一家が住んでいて、主人のフェリクスはユダヤ人のことは知らないと言います。事情を知っていそうなフェリクスの父ハンスのもとを訪ねてみると、彼は重病で入院していました。ヴァンダは、イーダの両親を殺したのかと問い詰めます。すると、夜、アンナの泊まるホテルにフェリクスが訪ねてきて、「両親を埋めた場所を教えるから、今わの際の人間を責めないでくれ」と言います。翌日、フェリクスは二人を森の中へ連れて行き、イーダの両親の骨を掘り出すのでした。そして、そこには、イーダの両親に預けられていたヴァンダの息子の骨もありました。イーダは赤ん坊で、ユダヤ人だとわからないから、修道院に預けたのだとフェリクスは告白するのでした。

ポーランドのパヴェウ・パヴリコフスキがレベッカ・レンキェヴィッチと共同で書いた脚本をもとに、パヴリコフスキが監督しました。80分のモノクロ、スタンダードの映画で、ドラマは静かに進んでいきます。セリフよりも映像で見せる部分が多い映画でして、不思議な空間の切り取り方をしています。特に人物の配置に特徴があって、画面の隅に人物の顔を置くショットが多いのですよ。また、普通なら画面の中に置くものをわざと一部をフレームの外に置いたりして、普通じゃない映像を作っています。でも、それが不安をあおるようなスリラー風の絵ではないのですよ。横長のシネスコフレームだとホラー系の絵になりそうな構図がスタンダードの画面では、それが一つの構図として安定して見えるのが意外でした。

ドラマは、自分の出自を知らなかったイーダが、叔母に自分がユダヤ人だと教えられて、その親がかつて住んでいた村を訪れるというもの。映画の冒頭は、修道院でのカソリックの敬虔な信者であるイーダの静かな暮らしが描かれます。そして、修道院長から、唯一の肉親であり、イーダの引き取りを拒否した叔母に会ってきなさいと言われます。彼女は正式な修道女ではないので、正式な修道女になる前に肉親に会ってくる決まりがあるみたいなんです。そして叔母を訪ねてみれば、部屋には男が行て出て行くところでして、どっか荒れた生活を送っているようで、でも判事なんですって。そして、叔母ヴァンダはイーダにユダヤ人であることを告げると一度はイーダを帰らせてしまうのですが、バスターミナルでバス待ちしていたイーダを彼女の家へ連れ戻し、イーダの両親の最期をたどる旅に出ようということになります。

ここで、テーマとして出てくるのが、戦時中、ポーランド人がドイツ占領下のポーランド在住のユダヤ人を殺したり、ナチスに密告したという過去です。昔観たアンジェイ・ワイダ監督の「聖週間」では、かくまわれたユダヤ人女性がポーランド人に迫害されるお話でしたが、このことについてポーランド人の中には罪悪感を抱えた人もいるようです。「イーダ」でも、彼女の両親がポーランド人によって殺されて森に埋められていたという衝撃の事実を知ることになります。そして、両親と一緒にヴァンダの息子も殺されていたという事実がわかります。それまで、ヴェンダがずっと息子の死を薄々知りつつ、ここで息子の亡骸に直面することになるわけで、ヴェンダの人生も壮絶なものであったことが見えてきます。判事という堅い職業でありながら、どこか荒んだ暮らしぶりが伺えるヴァンダが息子の死とどう向き合っていくのかということもドラマの鍵になっています。そして、イーダの両親を殺していたフェリクスも、その過去と向き合うことで後悔の念と罪悪感にさいなまれることになります。ドイツに侵攻された被害者としてのポーランド人と、ユダヤ人迫害に加担した加害者としてのポーランド人の存在を歴史として知っておく必要はあると思いますが、当事者にとってみれば、それはそう簡単に受け入れることが難しいのだということを感じさせました。

一方のイーダは修道女として生きるという意外の人生を知らないでいたので、叔母のヴァンダの暮らしぶりはカルチャーショックだったようです。また、旅の途中でヒッチハイクしてきた、サックス奏者のリス(ダヴィド・オグロドニク)がイーダとヴァンダの逗留するホテルのバーで演奏しているのを、見つめるイーダの視線は初めて心がときめいたの少女のようでした。リスとイーダのぎこちない会話がいい感じなんですよね。イーダにとって初めての若い男性ということになるのでしょうから、これも旅のカルチャーショックなんだろうな、きっと。また、この映画では、音楽が重要な意味を持って使われているようです。ヴァンダの聞くクラシック、ホテルの歌手が歌う当時のポップス、リスのバンドによるコルトレーンのジャズなどが要所要所で流れるのですが、悲しいかな音楽の素養のない私は、その具体的に意味するところまで理解できなかったのですが、ヴァンダのクラシックは、彼女の悲しみを音量でかき消すために鳴っているようなところがあり、イーダが耳を傾けるジャズは未来と自由の象徴のように思えました。

イーダを演じたアガタ・チェシュブホロスカは素人の女性だそうですが、表情を変えない存在感がすごくて、その表情を変えないところがラストで不思議な余韻を残すことになります。それでも冒頭の修道院のシーンから旅へ出てラストに向かうにつれて、生身の少女を感じさせるあたりは演出のうまさなのでしょう。ヴァンダ役のアガタ・クレシャは、酒びたりで、権力意識の強い判事を説得力のある演技で演じきりました。冒頭の静けさが、ラストで奇妙な躍動感に変わるあたりに、パヴリコフスキの演出力を感じました。そして、そのラストをどう解釈するかは、観客に委ねられているところも好きな映画です。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



家族の遺骨を手に、イーダとヴァンダの旅は終わります。イーダはその直後に控えていた修道女になる儀式をまだ気持ちが固まらないと辞退してしまいます。一方、ヴァンダは、イーダのことをずっと気にかけていましたが、ある日、窓から身を投げてしまいます。そして、遺族としてヴァンダの家にやってきたイーダは修道着を脱いで、ヴァンダのドレスを着て、酒を飲み、タバコを吸い、リスに会いに行きます。リスとベッドを共にしたイーダ。リスはイーダに彼の演奏旅行に一緒に行こうといいます。そして、結婚して、家を買い、子供を作ろうと語りかけます。それに無言で答えたイーダは、早朝、リスといたベッドから抜け出し、修道着に着替えると、部屋から出て行きます。凛とした顔で、一人歩いていくイーダを正面からとらえたバストショットの長回しから暗転、エンドクレジット。

それまで、修道院の中が全てだったイーダに、この旅で、家族が生まれ、過去が見えてきて、そこから、彼女の人生が実体を持ってきます。一方のヴァンダは、生きてきた拠り所の死に直面することで、自ら人生に終止符を打ってしまいます。二人にとって、この旅は人生の誕生と喪失を知らしめる旅でもあったようです。そして、主を失ったヴァンダの部屋でイーダは、彼女の人生の一部をなぞってみます。リスと会うことも、ヴァンダの人生をなぞる作業の一環だったように見えました。そして、ラスト、彼女は修道院へ帰っていくのか、それともまた新しい人生を歩みだすのか、そこをはっきりとは見せないで映画は終わります。修道着に着替えたということから、修道院へ帰っていくんだろうと思わせる一方で、彼女の凜とした表情と力強い歩みは何かの始まりを予感させるのですよ。どちらにせよ、彼女は自分の人生を初めて意識して、自分の選択する人生を歩み始めるのです。私は修道院へ戻らないんだろうなというふうに、このラストを読んだのですが、観る人によって、自由に思いを馳せることができる結末のように思えました。(ひょっとしたら、結末は一つで、その証拠も映画に盛り込まれていたのかもしれませんが、その決定的証拠を見逃していた可能性はあります。)

ポーランドの歴史を知っていると、より楽しめる映画のようでして、ユダヤ人であるヴァンダが判事として辣腕を振るっていたというのも実際にあった話のようですし、歴史の波に翻弄されるポーランドという国の映画として見応えがありました。映画自体は国内のポーランド人に向けたメッセージが感じられるものの、外国の人間が見たとき、そこにポーランドという国の事情が見えてくるのは、映画って面白いなあって再認識してしまいました。

「NO」の映画として意図するところを考えてみるとなかなか面白くて手強い。


今回は新作の「NO」をヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。もう上映も終了で1日1回の上映のせいか、小さい方の映画館で満席の状況でした。

1973年チリで起こった軍部によるクーデターにより、ピノチェト将軍が政権を握り、国民に対する圧政を敷いていたことから、国外でも非難を受けるようになり、ピノチェトは現政権を承認するか否かの国民投票を行うことを決めます。そして、現政権に対する反対派にも、深夜の15分のテレビ枠を与え、そこで政権放送をすることを許しました。それまで逮捕、拷問などで弾圧されてきた左派政党はこの政権放送で市民の目を目覚めさせようと考えました。しかし、経済の好調もあり、現政権を否定するNO派はごく少数、YES派の絶対有利な状況でした。有能な宣伝広告マンであるレア(ガエル・ベルナル・ガルシア)のもとを、家族ぐるみの友人であったウルティア(ルイス・ニェッコ)が訪れ、NO派の政権放送に助言して欲しいともちかけられます。最初から結末の見えている国民投票でもあり、当局ににらまれることもあって、一度は辞退するものの、とりあえず、政見放送のビデオを観てみることにします。そのビデオはピノチェトによる反対派の弾圧を中心に重いメッセージを謳う、暗い内容のものでした。これでは大衆の心には届かないとレアは自らCMのプロを招集し、「チリに喜びを」をテーマに、資本主義社会のCMキャンペーンのスタイルの政権放送を作ります。それまで、弾圧で苦しんできたNO派の中には、それを軽薄でやりすぎだと非難するものもいましたが、最終的にレアのやり方で行くことになり、コカコーラのCMのようなイメージ戦略で、棄権しようとしている層を取り込もうとします。NO派の政権放送にかかわった人々は国家にマークされ、嫌がらせや監視を受けることになりますが、それでも彼らはひるみません。一方、ピノチェト万歳の政権放送で、YES派を盛り上げようとしていた政府側も、NO派のキャンペーンを侮れないと感じ始め、ノアの上司であるルチョ(アルフレド・カストロ)を引き込んで、NO派を揶揄したり攻撃するキャンペーンを張ってきます。そして、国民投票の日となり、YES派とNO派の雌雄を決することになるのでした。

アントニオ・スカルメタの戯曲「国民投票」をもとに、ペドロ・ペイラノが脚本を書き、チリ生まれのパブロ・ララインが監督した、実話をベースにしたドラマです。チリについて私が知っていることは、軍部のクーデターによってアジェンデ政権がピノチェト政権にとって代わられたくらいでして、それもニュースではなく映画「サンチャゴに雨が降る」を観たことで初めて知ったのでした。その後のチリの動向はこの映画のパンフレットに簡潔にまとまっていますので、このパンフは買いだと思います。この映画は、1988年の国民投票で、ピノチェト政権に反対するNO派がYES派を破ったという事実と、そこで行われた広告屋によるキャンペーンを中心にドラマが展開していきます。

監督はこの国民投票の時12歳だったそうで、当事者ではないものの、その歴史の目撃者です。この映画の主人公レアの位置づけも、NO陣営の中では、政治的にはクールで、自分の仕事としての宣伝キャンペーンに集中しているという感じで、監督と同様、当事者ではない、目撃者のポジションになっているのが面白いと思いました。実際に、レアの宣伝キャンペーンが国民投票にどの程度の影響を及ぼしたのかについては、映画の中ではきちんと語られません。でも、ぼーっと映画を観ていると、派手な宣伝キャンペーンが、国民投票の勝利に一番貢献したかのようにも見えます。映画としては、その方が面白いのは事実ですが、この映画に「派手な宣伝が国民投票を勝利に導いたかのような見せ方はおかしい」という批判もあったようで、そう言われると確かにこの映画の構成はフェアじゃないのかもしれないと思いました。資本主義の広告キャンペーンの印象操作が国民をNOへ投票させたのだと言われたら、NOと投票した国民は単なるミーハーみたいですからね。でも、映画は、広告宣伝屋のレアの視点でずっとドラマが進むので、NO派を増やした他の要因が見えにくくなっちゃっているのも事実です。当時を知らない私のような者からすれば、チリの独裁政権が潰れたのは、広告宣伝のおかげなのだと思っちゃいそうな作りになっているのです。そんな中で、奇妙なアクセントになっているのが、主人公のレアの視点です。彼の視点はNO派の人間ではなく、常に傍観者なのです。ラストでNO派が勝利を収めた瞬間も他の人たちのように歓声を上げるのではなく、どこか居場所がなさげな感じ、ある意味戸惑いの表情が読み取れるのです。そして最後のカットでは、YES派の宣伝をしていたレアの上司と元の関係に戻って、一緒に広告のプレゼンをしているのです。主人公が国民投票の当事者でなく、あくまで傍観者であるというのは面白いなと思いました。レアにとってみれば、自分の宣伝広告がクライアントのお役に立てばOKという見え方なのです。レアの上司は最初からYES派に与するところがあって、レアの行動に脅しをかけたり妨害したりもしますが、レアはそれほどNO派に入れ込んでいるようには見えません。そんなポジションにいる男を主人公にする必要があったのかというところがこの映画のポイントのような気がしました。

素直に見れば、レアの広告宣伝のノウハウがNO派を勝利に導いた話になりますが、本当のところはレアのキャンペーンがどれほどNO派の勝利に貢献したのかはわからない。だとしたら、この映画がフォーカスを当てようとしているのは、NO派の勝利ではないのかもしれません。例えば、広告宣伝の力というのは計り知れないものがあって、この国民投票では正しい方向に使われたけど、このノウハウが誤った方向に使われたらどえらいことになるという警告。うーん、これはひねりすぎというか、ひねくれすぎかも。では、チリ国民に、あの国民投票の時のような熱気と実行力を思い出させるための映画なのか。もし、それなら、傍観者を主人公にはしないで、NO派の核になる活動家にスポットをあてて、レアはおいしい脇役というポジションになったでしょう。実は、私もよくわからないのですよ。単に16年前にこういう出来事があったことを映像に残すために、この映画を作ったのかなという気もしちゃいました。まあ、原作の戯曲があるのですから、原作の意図をくんだらこうなったのかもしれません。でも、やっぱり考えてみるとこの映画、変な感じなのですよ。レアの元妻は政治活動家で何度も逮捕され、暴行も受けたらしい、筋金入りの闘士です。レアはそんな彼女に接するときもどこか距離を置いているように見えます。ひょっとしたら、観客とレアを同じ視点に置いて、当時のチリの状況を見せようとしたのかなって気がしてきました。でも、映画は、YESや棄権から、NOへ乗り換えた人を見せないので、何がチリを変えたのは、あまり伝わってきません。

だとすると、この映画が語り掛けるものはチリでかつて独裁政治を覆す国民の力があったという事実を再認識しようということかもしれません。その事実を今のチリの国民が思い返すことに、今のチリの希望があるのかなって。ずいぶんとうがった言い方なのですが、この映画は、国民投票でのNO派の勝利を高らかに謳い上げることもしてませんし、主人公は政治的にかなりクールだし、どうも事件を冷静にトレースしようという意図が感じられるのです。それもディテールを見せるのではなく、事件の概要を見せようとしているようなのです。そのおまけとして、広告宣伝キャンペーンも貢献してたんだよっていう感じ。どこにドラマの重心があるのか、観ている時はよくわからなかったのですが、今、思い返してみると、チリ国民がみんな知ってる事件を視点を変えて見せることで、今のチリにその意義をもう一度考え直してもらいたいという意図が感じられるのですよ。まあ、地球の裏側にいる、チリをよく知らない人間がこういうことを言うのは、大きなお世話以外の何物でもないのですが、この映画の見せ方、語ろうとすることを考えると、この映画、かなり楽しめる映画になると思います。

では、そういうテーマを考えるような難しい作品かというとそんなことはないです。経済的には裕福になってきているけど、貧富の差が激しくて、警察による弾圧もある環境で暮らすのはどういうことなのかというのが、よく伝わってくる映画になっていまして、レアの家の周りを警察と軍が監視しているところなんか、かなり怖いですし、NO派の集会に警官隊が乱入するシーンの皮膚感覚的な怖さなど、平和に暮らしている日本の自分にはかなりショッキングです。それでも、国民がNOに投票することで、政権が代わるってのはすごいことなんだなあって感じることができます。プログラムの解説を読むと、政権交代以降も紆余曲折があったとのことですが、まだ、この国は希望というものを持っているんだなって感じることができるという意味で見応えのある映画でした。この感じは、教育への希望を描いた、中国映画「この子をさがして」「初恋のきた道」と通じるものがあるのではないかしら。

映像がフィルム撮影ではなく、ビデオ撮りだったので、テレビ映画かと思ったのですが、音はきちんとサラウンドも鳴るのが不思議でした。実はこの映画、監督が当時のテレビ素材との違和感をなくすために、わざとビデオで撮影していたのだとプログラムに書いてありました。私はビデオ撮りからフィルムに変換した映画というのは画像が荒くて安っぽく感じられて好きじゃないので、気になってしまったのですが、時代を表すために、当時の撮影機材を使ったと聞いて、「へえー」と感心。でも、アップやバストショット主体のテレビ映画みたいな画面を映画館のスクリーンで見せられるのは、何だかつまらないなあってのが正直なところです。記録映画じゃないんだから、映画館のスクリーンでは、35ミリフィルムと同等のクオリティの映像を見せて欲しいなあって。

「記憶探偵と鍵のかかった少女」はミステリーより記憶のあやふやさに見所あり


今回は新作の「記憶探偵と鍵のかかった少女」を109シネマズ川崎8で観てきました。ここは予告編が始まるところで、「これから予告編、本編の上映です」という画面が出るのは、ダラダラ始まるTOHOシネマズよりマル。

ジョン(マーク・ストロング)は他人の記憶の中に入りこんで、それを目撃することができるという能力を持っていまして、そういう能力を持った人間が集まったマインドスケープ社で数々の事件を解決に導いてきました。しかし、彼は妻が自殺してから、他人の記憶の中にいるとき、妻の死の記憶が混濁するという事故を起こして、仕事を控えていました。金に困ったジョンに、上司のセバスチャン(ブライアン・コックス)が肩慣らしの楽な仕事ということで、拒食症の少女の原因を見つけて解決するという案件を紹介してきます。その16歳の少女アナ(タイッサ・ファミーガ)は、母ミシェル(サスキア・リーブス)と継父ロバート(リチャード・ディレイン)と森の中のお屋敷に住んでいて、最上階の部屋に監視カメラに囲まれて監禁状態でした。それまでに自殺未遂をやっていて、刃物類は彼女の手に届かないようにしているんですって。ジョンが話しかけてみれば、アナはなかなか博識で、そして頭の切れる女の子であることがわかります。ジョンはアナとのセッションを行い、彼女の記憶に入り込むことにします。彼女の過去の記憶に遡ってみると、幼少から、継父からの虐待、そして彼の家政婦との浮気、母との事故による刃傷沙汰、学生時代に受けたいじめなどの記憶が見えてきます。そして、セッションが終わった後、彼女は食事を取るようになります。しかし、看護婦のジュディス(インディラ・バルマ)が階段から突き落とされて、それがアナがやったことになっていて、両親はアナを施設に入れようと言い出します。アナはこれは母親の財産を狙う継父の仕業で、ジョンに施設に送られないように助けてくれといいます。そして、再度彼女の資料をチェックしてみれば、意外なアナの過去が判明してきました。果たして、ジョンはアナを救えるのでしょうか。

スペインのホルヘ・ドラド監督がガイ・ホームズの脚本を演出したSF風ミステリーの一編です。スタッフはスペイン人が多く、演技陣はイギリス人が多いという不思議な編成による英語の映画です。他人の記憶の中に入り込むというのは、私にとってはなかなかそそる設定で、結構期待してスクリーンに臨みました。他人の記憶を引き出すというと、催眠状態で時間を遡る逆行催眠というのが現実にも存在します。本人が無意識に抑圧していた記憶を引き出す効果があるということで、幼児期のトラウマとかUFO誘拐の記憶を呼び戻すということで結構有名になりましたが、その催眠状態での質問の仕方や誘導のより、偽の記憶が作られてしまうことがわかってきて、逆行催眠によって導かれた記憶は裁判など公式の場では有効ではないということになったのだそうです。催眠状態での会話から導かれる記憶は、その質問者と当事者の会話の中から共同作業で作られた物語である可能性が高いんですって。それでなくても、記憶というのは意外と当てにならないものでして、ある事件に遭遇した複数の目撃者が違う発言をするというのは、模擬実験で証明されているようです。私も、自分の過去の記憶なんてあてにならないなあって思ってるところありますもの。

そんな、当てにならない記憶の中に入って、過去を目撃しようというのが記憶探偵なんですって。ところが映画の冒頭のセッションで、ある事件の記憶の中に、ジョンの妻の自殺の記憶が入り込んできて、セッションは失敗しちゃいます。主観的に考えて当てにならない記憶を、客観的に目撃する記憶探偵のセッションの中だって、観察者である記憶探偵の記憶が入り込むことがあるというかなりあやふやな世界なんですよ。そういうかなり精度の低い記憶探偵ではあるのですが、自殺癖のある少女を救うくらいのお役には立てそうというか、カウンセリングの技術の一つとしてはありかなって感じなんです。映画では、記憶探偵の精度とか限界といったものは描かれないのですが、結局、記憶は意思の力で変えられるというお話になっているのは、面白いと思いました。それって、記憶探偵の前提を揺るがせるものでして、ミステリーとしては反則だとは思うのですが、記憶の持つあやふやさへ話を落とし込むのは、不思議発見的なお話だと言えましょう。ただ、論理的なミステリーを期待すると、「え、それで終わり?」という印象を持ってしまうかもしれません。

ジョンは「私を助けて」というアナにだんだん感情移入していきます。彼女の資料によると、学生時代、3人の同級生の殺人未遂を起こしていました。アナとの再度のセッションで、アナが3人の同級生にいじめられ、そして、アナの目の前で紅茶を飲んでいた3人が血を吐いてのたうちまわる記憶がよみがえってきます。彼女の記憶では、その犯人はマウシーというニックネームの友人だったというのですが、そんな生徒は存在しなかったらしいのです。また、アナの半裸写真を撮って、誘惑したという教師が淫行で刑務所に入れられていました。教師は面会に来たジョンに「あの女は悪魔だ」と言い切ります。アナの本性は結構怪しいところが多いのですが、ジョンは幼少時の彼女に同情的になっているのか、何とか彼女が施設に送られるのを阻止しようとします。しかし、ジョンの周囲に謎の男が現れ、彼を監視しているようなのです。さらに上司のセバスチャンまで、アナの記憶に登場して、周囲の人間みんなが怪しく思えてくるのでした。また、自分の周囲で、邸に閉じ込められている筈のアナを目撃するようになり、謎がますます深まっていきます。

アナの記憶を遡ることを重ねるにつれて、ジョンはだんだんアナに感情移入していきます。少女にはまったという表現がしっくりくるという感じです。そのあたりのちょっとアブなげな感じを、マーク・ストロングが好演しています。「ワールド・オブ・ライズ」「キック・アス」「裏切りのサーカス」などで脇役として印象的な演技を見せてきたストロングですが、この映画で、主演を張れる役者さんだと再認識させました。脇役の時のインパクトキャラとは違う、繊細なおっさんぶりがうまくはまりました。いや、ホントに繊細なおっさんなんですよ、このジョンという男。そんなおっさんを翻弄するアナを演じたタイッサ・ファーミガはつかみどころのない少女を巧みに演じてみせました。どこか存在感が希薄な感じもするし、ものすごいキレ者にも見えるサラという少女が、ジョンと観客を最後まで翻弄するのです。シネスコサイズの映画ですが、映像がフィルムの粒度を感じさせるのが、最近の映画では珍しいなと思っていたら、フィルムで撮影されているのですって。そんなところが気になるようになってきたところは、私もデジタル映像になじんじゃったんだなあ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



結局、アナの記憶から、彼女の潔白を引き出せなかったジョンは、彼女の両親に「閉じ込めるのはオススメしない」という助言するのが精一杯で、アナの仕事を終えることになります。その夜、ジョンにアナから電話がかかってきます。ただならぬ様子で「すぐ来て」。ジョンは急いで彼女の家に向かうと、アナの部屋のドアは開いており、邸の監視ルームに入ったジョンはそこに閉じ込められてしまいます。監視画面には、アナの両親が倒れている姿と逃げ出すアナの姿が映り、ドアを蹴破って、彼女を追うと、アナはジョンを抱きしめて「ごめんなさい」とつぶやくと姿を消し、そこへ現れた警察によりジョンは逮捕されてしまいます。容疑はアナの両親に毒を飲ませた殺人未遂と、アナを殺した殺人罪。ジョンが邸に着く前に、アナは「ジョンに殺される」と警察に電話していたのでした。それきりアナは消息不明となります。そして、画面が変わって刑務所になり、ジョンとジョンの記憶をたどっていた記憶探偵ピーター(ノア・テイラー)が映し出されます。これが、事件に関わる記憶の全てだとジョンが言います。ピーターが言うには、アナはジョンとのセッションを逆用して、ジョンにアナの作り出した記憶を目撃させ、さらにジョン自身の記憶も操作していたようなのです。そして、ジョンを監視していた謎の男とは、ジョンの記憶を目撃していた記憶探偵のピーターだったのです。そして、アナはジョンに花と手紙を贈ります。ジョンは、何となくいい雰囲気になっていた看護婦のジュディスの部屋を訪れると暗転、エンドクレジット。

ラスト近くで、卒業アルバムを見ていたジョンは、アナが言っていた友人のマウシーの顔を発見しますが、それはマウシーではありませんでした。結局、マウシーという友人はアナが記憶の中に勝手に作りこんでいた架空の女性だったのです。また、ジョンを監視していた謎の男は、ジョンの記憶を監視していたもう一人の記憶探偵だったのです。でも、実際の過去には記憶探偵がいるわけではないのですから、この映画でそれまでの物語がジョンの過去(記憶)であったことがわかると、ジョンの記憶はすごくあやふやで不確かなものだとわかってきます。つまり、この物語がジョンの過去だとわかった時点で、矛盾が生じ、ジョンの物語の信憑性はメチャクチャ下がるのですよ。本当の過去なら、謎の監視者なんていないわけですから、監視者の存在に気付いて、周囲を疑ってかかるジョンの行動は、もう歪められた過去だということになります。つまり、理詰めに駒を進めてきた筈のドラマが根底から覆っちゃうのですよ。アナは本当に邸に閉じ込められたとしたら、ジョンの周辺に現れたアナは何者なのかという問いも、どっちかの記憶が作られたものかもしれないということになれば、もう何でもありのお話になっちゃうわけです。(何か理屈っぽくて、かつ読みにくい文章になっちゃってすみません。言いたいところが伝わっているかしら)ミステリーのように駒を進めてきたら、実はゲーム盤が壊れていましたという結末は、ミステリーを期待した観客をうっちゃったと言われて仕方ないでしょう。でも、それくらい記憶というのは、詳細まで完全に復元するのは難しい、人の記憶なんて当てにならないよというお話だと思えば、結構いいところ突いてる、面白い映画ということもできます。

過去を再現する手段として、記憶ってのはかなり弱いツールで、これに頼るってのはリスクが高いってのが伝わってくる映画です。ジョンはアナを信じて救おうと奔走するのですが、信じる根拠が彼女の記憶だったところに足元をすくわれてしまったようです。結局、ジョンは目撃した他人の記憶を疑ってかかることを怠った結果、騙されてしまったということになります。それって、手の込んだ手品を目撃して、それを魔法だと信じ込んじゃうというのと似たところがあります。「自分のこの目で見たら信用する、それまでは信用しない」とか「百聞は一見にしかず」とか言うのは、慎重なように見えて、実は結構危ないのかもしれません。「自分が記憶に騙されるわけはない」という、ある意味、思い上がりがジョンにはあったようです。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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