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2014年のベストテンを作ってみました

今年はここ数年の中でも映画を観た本数が少なくて、ベストテンを作るのもおこがましいのですが、好きな映画をピックアップしたら、10本以上あったので、その中でベストを出させていただきます。年のせいか、アメコミ映画とアニメものは興味なくなってしまったので、そういう感じのベストテンになっています。

第1位 「ショート・ターム」
家庭に問題のある児童を一時的に預かる施設のお話で、子供たちのかなりシビアな現実が描かれています。そこで働く職員たちを主人公にしたドラマは決して甘くはないけど、それでも見えてくる希望が、彼らを励まし、日々の仕事に向かう力となっています。何かを告発したり、主張したりするのではなく、人は何かに元気をもらって日々を生きているという姿を見せることで、普遍的な生きる希望の物語になっているので、これがベストワンです。観ていて、こっちも元気をもらえる映画になっています。

第2位 「ブルー・ジャスミン」
セレブ夫人がどん底に落ちたら壊れちゃったというお話なのですが、とにかく面白かったので、2位に入れちゃいました。シニカルな描き方ながら、突き放しきれないウディ・アレンの視線も何だか面白くて、ケイト・ブランシェットの目一杯演じてますという演技もおかしくて、映画の作り全体が面白かったのですよ、これが。リアリティがあるのかないのかよくわからないヒロインの組み立て方が見事でした。

第3位 「イーダ」
第2次大戦後のポーランドで孤児の修道女イーダがおばと自分の過去をたどる旅を静かに描いたドラマ。モノクロ、スタンダードの画面が物語より映像で語り掛けてくる不思議な映画でした。ポーランドにとって大変不幸な歴史を描いてはいるのですが、それよりも純真無垢なイーダが人生の肉付きをまとっていく過程に惹かれる映画でした。他人にオススメしていいのか微妙な感じなんですが、不思議な味わいが私にははまりました。

第4位 「ゴーン・ガール」
これは、ミステリーとして、そしてスリラーとして、とにかく面白く作ってありまして、本年度もっとも娯楽度の高い映画でした。デビッド・フィンチャーって娯楽に振り切るとものすごいパワーがあるんだなあって感心。物語を隅々まで丁寧に描いて、濃厚ソースで味付けしたボリューム感がすごい。2時間半もあると長いよって観る気が半減しちゃう私も、ここまで描くなら2時間半も仕方ないなあって納得できちゃったので4位です。

第5位 「リスボンに誘われて」
1冊の本を巡るミステリーであり、ポルトガルの現代史の勉強になり、ジェレミー・アイアンズのラブコメが観れるという、お得感満載な映画でした。弾圧政治をする政府と反政府活動の若者たちという関係は、最近の映画ではあまり見かけないだけに、新鮮な感じもしましたし、映画としての満足度が高かったので、ここでランクインです。

第6位 「ある過去の行方」
2010年の私のベストワン「彼女が消えた浜辺」、2012年のベストワン「別離」のアスガー・ファルハディ監督の新作は、どうやってもうまくいかない人間関係の在り様が、見応えあるドラマに仕上がっていました。1位にしなかったのは、ドラマの構造が込み入りすぎて若干リアリティを欠いているように思えたからですが、やはりお話の紡ぎ方が見事なので、ベストテンからははずせませんでした。

第7位 「さよなら、アドルフ」
第2次大戦後、ナチス幹部の子供たちが、親を失い、食べるものもなくドイツ国内をさまようというお話。まず生き抜かなきゃいけないという物理的な問題と、自分の持っていた価値観がくつがえるという精神的な問題を抱えながら葛藤するヒロイン。ものすごい不幸な教育を受けてきた少女が、ものすごい不幸な境遇におちいってしまうというお話を淡々と描いて見応えがありました。ヒロインの凛とした姿に人間の強さを感じ、そんな彼女を翻弄する歴史の残酷さを感じさせる映画でした。


第8位 「おとなの恋には嘘がある」
美男美女からは遠い、おじさんとおばさんの恋愛をやさしい視線で描いたドラマ。この突き放さず持ち上げすぎずのバランス感覚が心地よい映画でした。全然ドラマチックでない決着に流れる穏やかな空気と余韻。若い人向けじゃないけど、同世代の男女をほっこりさせてくれるところが好きな映画です。

第9位 「少女は自転車に乗って」
サウジアラビアの映画というのがまず珍しいのですが、中身は割と普通というか、ティーンの少女ががんばるというお話。女の子はおしとやかであれという文化の中で、自由なヒロインがすごくキュート。ドラマチックな展開はないのですが、ヒロインの身の丈の頑張りがすごく楽しかったです。愁嘆場もないけれど、ちょっとホロリはあるというくらいのさじ加減が好き。

第10位 「ラブレース」
伝説のポルノ映画「ディープ・スロート」の主演女優リンダ・ラブレースの半生を描いた実録ドラマです。ポルノ映画の製作の裏側ということで下衆な興味もあったのですが、普通の女の子がひどい男につかまってポルノ映画に出る羽目になるという話をシリアスに描いていて、その中に「ポルノ、ダメ、ゼッタイ」というメッセージを明確に出しているところが大変印象的でした。印象的というよりは、ポルノ映画界を、彼らを否定する視点で描くという意外性(?)に「あ、やられた」って感じでしょうか。

視点の面白さを持った「ローン・サバイバー」、ヘビーな歴史を淡々と描いた「シャトーブリアンからの手紙」、ドラマの仕掛け先行の展開が惜しかった「ディス/コネクト」といった作品がベストテンからこぼれてしまいました。若い頃なら、絶対にベストテンに入れていただろう「ザ・イースト」が落ちてしまったというところで、加齢とともに映画の嗜好が変わってきてるなあって実感した一年でした。

次に、映画としてはベストテンからこぼれてしまったけど、ここがよかったというピンポイントベスト5を挙げます。

第1位 「旅する映写機」の記録映像としての価値
映画としては、フィルム映写機を使ってる映画館を紹介しているというもので、ベストには入らないのですが、デジタル化の怒涛のような展開を思うと、これだけフィルム映写機を使う様子を記録した映像ってのは貴重なのではないかしら。それも、数年後残っているかどうかわからなそうな映画館がかなり登場しているだけに、こういう映画を撮っておいたことがすごく価値があることだなって思いました。映画ファンにとって貴重な映像になるかも。

第2位 「神は死んだのか」「パンドラの約束」から学べるプロパガンダ映画の鑑賞方法
「神は死んだのか」「パンドラの約束」は、前者は「神の存在」、後者は「原発は安全」という明確なメッセージを持っていまして、そのメッセージのプロパガンダ映画になっています。どっちにも共通しているのは、メッセージを批判する人は愚かしく見せて、メッセージを支持する人が複数登場して、最後はみんながそのメッセージが正しいって言ってんだから、正しいんだよと丸め込む。なるほどなあ、他人に自分の言いたいことを刷り込みたいときは、こうすればいいんだ。逆に、こういう流れで自分を説得する人は落ち着いて疑った方がいいんだって、勉強になりました。

第3位 「アバウト・タイム」のレイチェル・マクアダムス
2014年に観た女優さんの中では、「ザ・イースト」のブリット・マーリング、「なんちゃって家族」のジェニファー・アニストン、「ダラス・バイヤーズ・クラブ」のジェニファー・ガーナー、「とらわれて夏」のケイト・ウィンスレット、「ラスト・ベガス」のメアリー・スティーンバージェン、「ラスト・ミッション」のアンバー・ハード、「イコライザー」のクロエ・グレース・モレッツなどが印象に残っていますが、今年の一番かわいかったのは、「アバウト・タイム」のレイチェル・マクアダムスでしょう。男目線からすると最高にかわいい女の子でした。でも、男受けがいいってことは、ひょっとしたら、女性からは嫌われるタイプなのかな。

第4位 映画音楽にポストクラシカルが参入してきてる
これは今年だからという話ではないのですが、最近の映画音楽が迫力でぶん回す音楽と、ほとんどメロディラインのないアンビエント音楽と二極分化してきていたのですが、その狭間に使われるようになってきたのが、ポストクラシカルというジャンルの音楽です。小編成の管楽器とストリングスに、シンゼサイザーの音を加えて静かな心にしみる音が、映画音楽として使われるようになってきました。有名どころでは、「サラの鍵」「ディス/コネクト」「少女は自転車に乗って」のマックス・リヒター、「プリズナーズ」「悪童日記」「博士と彼女のセオリー」のヨハン・ヨハンソンが積極的に映画音楽を作曲しています。21世紀に入って、何だか行き詰ってる感を映画音楽に感じていた私には、映画音楽の新しい方向が見えてきたという気がして、このジャンルのアーチストのサントラへの参加に期待するところあります。

第5位 「マリリンの青春」から見えてくる五十代女子の予感
今や、アラフォー世代が女子と呼ばれる時代になりまして、その年代の女子をターゲットにした「Marisol マリソル」「GLOW グロウ」「Domani ドマーニ」といった女性雑誌も登場してきて、四十代も乙女として仕事に恋に充実してますって空気になってきています。この「マリリンの青春」のヒロインは五十代のバツイチキャリアウーマンで、新しい恋人を探し、恋愛の駆け引きだってしちゃう。そんな五十代でも女子という皆様の存在が、日本でも認知されるようになってくるのではないかしら。

今年はあまり映画を観ていないので、リストアップするのもおこがましいベストになっちゃいましたが、来年は、もう少しマメに映画館に足を運びたいと思います。来年もよろしくお願いいたします。
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「ベイマックス」は、ロボットのキャラが好き、それ以外はちょっとディズニーっぽくない気が。


今回は新作の「ベイ・マックス」を日本橋のTOHOシネマズ日本橋1で観てきました。ここはコリドー室町の中にある映画館ですが、キャパの割りに入り口とかロビーが狭い。やはり土地代が高いからかもしれませんが、今日もかなりの混雑で、もうちょっと何とかならないかしら。ただでさえ狭いロビーがグッズ売り場にさらに侵食されちゃってるし。

サンフランシスコと東京をチャンポンにしたような街、サンフランシスキョウ。英語と日本語の看板が混在する街にタダシとヒロの兄弟が叔母のキャスと一緒に暮らしていました。ヒロはいわゆる天才少年で、自作のロボットファイトで無敵の強さを見せます。兄のタダシはそんなことに自分の才能を浪費しているのが惜しいと思い、自分の大学の研究室へヒロを連れていきます。そこで、ヒロの仲間の研究を見、ロボットの権威キャラハン教授に会って、すっかり魅せられたヒロは、兄の大学で是非学びたいと思うようになります。大学の研究発表会ですごい発表をすれば、大学で学べるようになると教えられたヒロは一念発揮、ファイト用ロボットの原理を用いて、フィンガーサイズのマイクロボットをたくさん作って、ヒロの脳波でコントロールされて、それが様々な形に連結して、建築物や移動装置になったりするというすごいもの。キャラハン教授から大学での受講許可をもらって有頂天のヒロ。ところが、ヒロとタダシが発表会場を出た直後、火災が発生します。中にキャラハン教授がまだいると聞いたタダシはヒロが止めるのも聞かず、教授を助けに会場に戻ります。その瞬間に会場が爆発、タダシは帰らぬ人となり、マイクロボットも灰となってしまいます。傷心のヒロは部屋にひきこもっていたのですが、ちょっとしたはずみで、タダシの作ったケアロボット、ベイマックスが動き出します。このロボットはヒロの苦痛の声に反応し、ヒロのケアをするというプログラムがインプットされていました。メカを風船みたいな布で覆ったベイマックスはずんぐりむっくりの体が不思議な愛嬌があります。ヒロの持っていた唯一のマイクロボットが何かに反応して動き出すので、どこへ行くのか知りたいと言ったヒロに、それであなたがケアされるのなら、とベイマックスはマイクロボットが向かおうとする方向を勝手にたどり始めます。そして、ヒロとベイマックスはある廃工場にたどりつくのですが....。

ディズニーのアニメ最新作は、CG中心のアニメになっています。「モンスターズ・インク」のロバート・L・ベアード、ダニエル・ガーソン、そしてジョーダン・ロバーツの書いた脚本を、「くまのプーさん」のドン・ホールと「ボルト」のクリス・ウィリムズが共同で演出しました。アメリカと日本を混ぜ合わせたサンフランシスキョウを舞台にした近未来ファンタジーです。最近はハリウッドに中国資本が入ってきているのに、上海じゃなくて、東京を持ってきたのは意外な感じでした。世界市場を相手にしているディズニーが、日本市場へのアピールとは考えにくいのですが、日本的な描写がそこここに登場しますし、主人公の名前はヒロ・ハマダという明らかに日本人ですからね。ディズニーはこれから、各国との連携した映画を作るにあたって、まず日本をモデルケースにしたのかも。また、ディズニーが新しいジャンルを開拓しようとしているところがありますが、それは後述。

主人公はいわゆるロボットの天才少年で、彼の作ったマイクロボットはたくさんのことに応用可能なベースとして大変意味があるものでした。発表会の場でクレイテック社のオーナー、クレイ氏もこの技術を売ってほしいと言ってくるのですが、ヒロはそれを拒否します。そして、その後、会場が火事になり兄のタダシは命を落とすこととなります。このあたりの展開は、普通の人間を主人公にしているだけに結構リアル。兄を失ったヒロの前にベイマックスが現れるあたりは、藤子不二雄のマンガ(ドラえもんとかオバQとか)を思わせる展開になっています。ともかくも、ベイマックスとヒロがたどりついた先の工場では、火事で焼失したはずのマイクロボットが大量生産されていました。そして、そのマイクロボットの集団がヒロたちに襲い掛かってきます。逃げようとするヒロたちの前に歌舞伎のお面をかぶった男が現れます。どうやら男は歌舞伎の面をコントローラーにして脳波を使ってマイクロボットを操っているようなのです。何とか逃げ延びたヒロとベイマックスですが、そこへ現れたのは、兄の学友のフレッド、ゴーゴー、ワサビ、ハニーの4人、彼らはベイマックスのメールに呼ばれて、ヒロを力づけるためにやってきたのですが、そこにも歌舞伎面の男が現れ、大量のマイクロボットで襲ってきます。そこを何とか逃げ延びたヒロたちですが、ベイマックスが謎の男をスキャンしていて、街中に検索をかけて、ある島に男がいることをつきとめます。そこで、ヒロは、仲間とベイマックスに戦闘機能を装備して、男のいる島に向かいます。

ベアマックスは見た目からして癒し系でして、物静かな口調ですとか、足が短いので移動するときの動きが笑えるのです。(これを見て、志村けんのネタ、座高市を思い出したのは私だけかしら)また、ベイマックスは、風船でおおわれていて、いわゆる中年のブヨブヨ体型でして、ヒロをケアするためのみの機能がついていました。そして、ヒロの痛みがケアされるのなら、大抵のことをやってくれて、やさしくハグしてくれたりします。しかし、それだけでは、歌舞伎面の男には勝てないので、空手のスキルや、ロケットパンチなどの大技を仕込み、タカシのいれたケアモードのディスクを抜いて、戦闘モードのディスクを挿入します。ベイマックスの性格も変わっちゃうのですよ。それでも、見た目が愛嬌があるので、あまり強そうには見えません。一方、ヒロと仲間の4人はおのおのの得意技術をつかった戦闘スーツで身を固めます。これで、5人+1体のロボットになりまして、東映の戦隊シリーズのような布陣となります。ここまで日本を意識していたのかどうかはわかりませんが、コスチュームに統一がないので、「キックアス2」のジャスティス(手作りヒーロー集団の名前)の方が近いかも。

後半は派手な戦闘シーンあり、泣かせるシーンもありと、1本の映画として観た時はなかなかのボリュームで楽しませてくれます。ただ、どこか既視感があるのが気になっちゃいました。「アナと雪の女王」では、その意外性のある展開に「おぉ」と感心したのですが、今回は心に届くものが少なかったという印象なのです。善悪の狭間で葛藤する主人公ですとか、自分の身を危険にさらしての人助けとか、見せ場はあるのですが、それってアメコミの映画版でよく見るパターンにしか思えなくて、ディズニーもそっちの方向へ行くの?って思ってしまいました。泣かせのくだりもどこか日本映画みたいなクドさも感じられてしまって、ベイマックスのキャラで最後まで楽しめたものの、「うーん」という感じで、今一つ乗り切れませんでした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



5人と1体が向かった島には、何かの実験施設の跡がありました。記録された映像を再生すると、そこでは、クレイテック社がテレポーテーション実験をしていて、初めての人間での実験をしたのですが、磁場の状況がおかしいまま、クレイ氏が実験を強行したため、人間の乗ったカプセルは別空間に入ったまま、出てこなくなり、装置は壊れてしまいます。そのカプセルに乗っていたのはキャラハン教授の娘でした。歌舞伎の面の男はキャラハン教授でした。彼は、マイクロボットを盗み、発表会場に火を放ったのです。そして、奪ったマイクロボットを使ってクレイ社に復讐しようとしていたのです。現れたキャラハン教授とヒロたちのバトルは最終的にヒロが教授を抑えるのですが、ヒロが教授を殺そうとしているのを見て、仲間はそれを止め、教授は逃げてしまいます。ヒロはベイマックスに記録されていたタカシの映像を見て、彼のやりたいことを知り、キャラハンの復讐を止めて、彼をとらえようと決心します。そして仲間たちも再び彼に協力します。

クレイテック社に現れたキャラハン教授は、マイクロボットを使って、会社の上にテレポーテーション装置を作り上げます。すると、異世界へのトンネルが開き、あらゆるものが吸い上げられています。そこへ現れたヒロたちは、キャラハン教授に闘いを挑みます。マイクロボットを破壊することで、キャラハン教授の動きを止めることに成功します。するとベイマックスがトンネルの向こうの異世界に人間の存在を感知します。そこにキャラハン教授の娘がいると確信したヒロとベイマックスは異世界へのトンネルをくぐって、教授の娘のいるカプセルを助け出そうとしますが、出口の手前、ベイマックスの飛行装置が壊れてしまいます。そこで、ベイマックスは、自分のロケットパンチで、ヒロとカプセルを押し出し、自分は異世界の中へと沈んでいくのでした。しかし、ベイマックスのロケットパンチの中には、タケシの作ったケアロボット用のディスクが入っていました。ヒロはそれを元にベイマックスを再生させ、5人と1体のチームは街のヒーローとして人助けをしていくのでした。おしまい。

ベイマックスが、異世界の中で、自分を犠牲にするシーンはタメの演出で、泣かせどころになっています。ヒロが涙を流して、ベイマックスを止めようとするシーンは感動的ではあるのですが、こういうシーンはもっとあっさりさばくのが、ディズニーと思っていたので、ちょっと意外、というか日本映画っぽくない? そして、最後に5人と1体がヒーローになっちゃうあたりは、アメコミの世界観だよなあって思ってしまいました。エンドクレジット後に、フレッドの父親(声が何とスタン・リー)がキャプテン・アメリカだったことがわかるシーンがあり、これから、ディズニーはどうやらマーベルコミックとつるむつもりみたいです。「Mr.インクレディブル」の時は、アメコミヒーローのパロディをやっていたのに、マジで今度は取り組むみたいなのは、やはりアメコミ映画化が金になるからかなあ。

「おやすみなさいを言いたくて」は見応えあるけど、じわじわと重くなっていく映画です。


今回は、新作の「おやすみなさいを言いたくて」を有楽町の角川シネマ有楽町で観てきました。ここは十分な傾斜のある座席配置なのに、前の席がちょっと座高高いだけで、画面の下が欠けちゃうという作りがおかしい映画館。要はスクリーン位置が低すぎて、傾斜があってもカバーできないのですよ。座席指定でこの作りだと淘汰されちゃうよって言いたいのですが、競合する劇場がない感じなので、殿様商売は止まらないんだろうなあ。

報道カメラマンのレベッカ(ジュリエット・ビノシュ)は、アフガニスタンの自爆テロの、そこに至るまでの過程を取材していました。爆薬を巻かれる女性の葬式から始まり、女性たちの祈りの中で、葬式から戻った女性は体中に爆薬を巻きつけ、車に乗って街に出かけます。レベッカは同じ車に乗って、街まで行き、その爆発の瞬間も撮影しますが、自分も大怪我を負ってしまいます。目を覚ましたとき、そこはドバイの病院で、彼女の横には、夫で海洋学者のマーカス(ニコライ・コスター・ワルドー)がいました。レベッカが、アイルランドの家へ戻ると、そこでは、娘のステフ(ローリン・キャニー)とリサ(エイドリアナ・クレイマー・カーティス)が彼女の帰りを待ちわびていました。レベッカの撮った写真は世界的に有名でしたが、何度も戦地に赴いて、危険を代償として続けてきた仕事です。マーカスは、いつも妻の死におびえながら生きるのはいやだと言います。娘たちも母親の死の不安を抱えながら暮らすのはかわいそうだと言います。そこまでして、写真を撮ることに意味があるのかと、ステフはレベッカに質問します。そこで、もう戦地へは行かない。この仕事をやめると宣言はしてみるのですが、理屈ではない衝動が彼女を危険地帯へと追いやろうとします。安全だからという理由で、ステフを連れてケニヤの難民キャンプへ取材に行くことになります。それは母親を理解したいステフの発案でもありました。しかし、そこで武装勢力による銃撃戦が発生、レベッカはステフを車に押し込んで、自分は銃撃戦の真っ只中で一部始終を撮影するのでした。ケニヤから帰ってきたステフの様子がおかしいのにマーカスは気づくのですが.....。

実際に報道写真家であるエーリク・ポッペの原案をハーラル・ローゼンローグ・エーグが脚本化しポッペがメガホンを取りました。映画の冒頭で色々な会社のロゴが出るのですが、スウェーデン、ノルウェー、アイルランドの合作でして、全編、英語が使われています。国際的映画製作委員会ということになるのでしょうか。最近のヨーロッパ映画はどれもたくさんの会社、団体が共同出資する形で作られているようです。主人公がアイルランド人というのも意外性がありました。ヒロインは報道写真家で世界的に有名な人らしい。ダンナは海洋学者で、娘が二人。レベッカは戦場や危険な場所へもカメラ片手で赴いていくものですから、残された家族は、彼女の死ぬんじゃないかという恐怖で気が気ではありません。レベッカとしては、家族の心配よりも、自分のやりたいことが優先なようで、なかなかやめる気になれません。彼女は若いころに心に宿した社会に対する怒りが自分の行動の原動力となっていると言います。でも、夫のマーカスはそんな彼女に付き合いきれなくなっています。

自爆テロの取材はそんな状況で起こったことで、爆破に巻き込まれて、死ぬ一歩の手前の状況でした。家に戻ったレベッカを次女のリサは屈託なく迎えますが、マーカスや長女のステファニーは、ちょっと彼女に距離を置いています。もう、妻の死に怯えながら暮らすのは耐えられないというマーカスの言葉に、レベッカは、危険な場所への取材活動はもうやめると宣言します。そう言いながらも、彼女は報道写真家としての自分に未練たっぷりなのが見て取れるあたりは、ビノシュの演技力なのでしょう。自分の仕事が、世界の人が必要とされているという認識が、彼女にはありました。悲惨な現実を記録して、多くの人々に知らせるという報道の価値を彼女はよく理解していて、それをやる人間が絶対必要であり、その必要とされる人間の一人が自分なのだと認識していました。でも、家族も愛していて、彼らを苦しめたくない気持ちも本物でした。一方、長女のステファニーは、学校のアフリカンプロジェクトに参加し、そこで母親の撮影した写真に衝撃を受けるとともに、自分もその場に行ってみたいと言いだします。報道写真家としての自負と家族への想いの狭間で揺れるレベッカに、ケニアの難民キャンプの取材の話が舞い込んできます。ここは戦場でも、テロ地域でもないので安全だろうということで、夫の許可も受けて、ステファニーも連れていくことになります。

この映画のヒロインであるレベッカは報道写真家という仕事に誇りをもっていますが、それだけではなく、本能的に報道写真家として動いてしまうことがあります。冒頭で、自爆テロまでのプロセスをカメラにおさめるシーンでもよく表れていまして、爆風で吹き飛ばされて、負傷し、朦朧となりながらも、カメラのシャッターを切り続けるのです。ベタな言い方をすれば仕事中毒みたいな感じでして、その結果、家族の想いに気が回っていないのか、わざと目を背けてきたのか、夫や長女はかなり追いつめれていました。そんな気まずい関係の中で、一度は仕事をやめる宣言をし、そのあと、安全地域の取材旅行に娘を連れていく許可を夫から得たわけでして、かなり家族との関係は改善されつつありました。

ここまでの展開を観ると、私みたいな凡人には、レベッカの家族はよく我慢しているなあって印象でした。そもそもこういう仕事を天職と決めたなら、家族なんか作るなよ、せめて子供は作るなよって思っちゃいました。確かに結果論かもしれないけれど、軍人のように上からの命令で戦地へ赴くのとはちょっと様子が違うのですよ。自分で進んで、戦地へ出かけ、危険な目に遭遇するってことは、家族からすれば、ずっと彼女の死に予感にさいなまれるわけですし、それはある意味家族をないがしろにしていると思われても仕方ないのではないかしら。若い時に彼女は、社会への怒りの感情から、この仕事を選んだと言うのですが、その後に家族を持ったのでしょうから、どう見ても、家族は被害者にしか見えません。この映画では、思春期にある長女が、そんな母親に反感を感じつつも、その仕事を知っていくことで、報道写真家としてのレベッカの生き方に共感を持つようになるという描き方をしています。ダンナだって、妻を愛しているからこそ、戦地へ進んで出かける妻を見るのは耐えられないわけで、家族から愛されるレベッカという描き方をしています。ただし、報道写真家としてのレベッカは、家庭に収まることがどうにもなじめないのです。ですから、きれいな着地点を見出すことができない展開になっていくことになります。

演技陣ではジュリエット・ビノシュの普通ならざる人の演技が見事でした。また、夫役のニコライ・コスター・ワルドーが、よくできたダンナだけど、妻のやることに耐えられない感じをうまく表現していました。夫はヒロインと対立する立場なのですが、彼が悪役にならないのがよかったです。監督のエーリク・ポッペは、もともとは報道写真家だそうで、その時の経験がこの映画にも織り込まれているのだそうです。実体験者の描くドラマには、中盤まではなかなか説得力があるのですが、その先の突き放したラストは、うかつな共感を許さないものがありました。ノルウェー出身のヨン・クリスティアン・ローセルルンの撮影は、手持ちカメラを主体に、リアルな絵を作ることに成功していますが、この映像ならば、シネスコでなかった方がよかったかも。最近、テレビがワイドになったせいなのか、シネスコサイズの映画がやたら増えています。その横長を画面を必要とする、あるいはうまく使いこなせる映画なら歓迎なのですが、必ずしもそういうのばかりではないので、映画のテーマに合わせて、スタンダード、ビスタサイズ、シネスコサイズを使い分けて欲しいと思います。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ケニアの難民キャンプは、毎月5000人も人が増えていて、その多くは孤児だという説明を受けます。レベッカとステファニーはそんなキャンプの中で写真を撮っていくのですが、突然、そこへ武装した男たちが乱入してきます。一度は車へ戻って、避難しようとするのですが、レベッカはステファニーの安全を確保した後、娘を置いて、またキャンプに戻っていきます。そして、武装集団が住民を虐殺し、後から来たケニア軍に制圧されるまでをカメラに収めました。このことはレベッカとステファニーの間の秘密にしようと約束するのですが、ステファニーのカメラがその時の動画を撮影していて、それをマーカスに見られしまい、レベッカは家を追い出されてしまいます。子供たちを連れ出そうとして、子供たちからも拒否されてしまうレベッカ。そんな時、出版社から、自爆テロの写真の追加撮影の依頼が来ます。レベッカは意を決して再度、アフガニスタンへ向かいます。女性たちが集まって、自爆テロの準備が進んでいる現場へ、レベッカはカメラを携えて赴きます。そこで、爆弾を体中に巻き付けられていたのは、長女ステファニーと同じ年恰好の少女でした。動揺した彼女はシャッターを切ることができません。そして、少女を乗せたトラックが走り去った後、膝から崩れ落ちるレベッカ。暗転、エンドクレジット。

ケニアでの事件で、身の危険も迫っているのに、娘の傍にいることより、報道写真家としての自分を優先してしまうレベッカ。そのことを夫に知られて、家を追い出されてしまうのは、仕方ないよなあって思いました。母親としては、ひどい行動だと思いますもの。それが、報道写真家の本能というなら、本能と母性は両立しないんだなってことになります。報道写真の価値は十分認めますし、身の危険をおかして撮影する報道写真家はすごいって思うのですが、母親としてのレベッカはダメだよなあ。母の仕事の価値を認めつつあったステファニーですが、この事件で家族と口をきかなくなっちゃいます。彼女がこの映画では、一番気の毒な立場になります。報道写真家と母親の間の葛藤を、本人以上に感じているのがステファニーなのです。ケニアの一件の後、ステファニーの学校でアフリカン・プロジェクトの発表会があります。そこで、ステファニーはケニアでのことを題材として、報道写真家とのしての母親は、自分よりも、あの難民キャンプの子供たちから必要とされているという発表をします。それは、報道写真家としての価値を認めたことを意味しますが、言い換えると、母親としては、ダメじゃんと暗に言ってることになるのですよ。これは、母親への決別の言葉なのかも。

結果として、レベッカは家族を捨てて、報道写真家としてのレベッカに戻ってしまいます。じゃあ、母親としての情を振り切ったのかというと、自爆テロの少女を見たとき、シャッターを押せなくなってしまいます。冒頭の成人女性が爆破テロだったときは、自爆現場まで行って、シャッターを押し続けた彼女が、どうにもできなくなってしまうのです。それは母親の情じゃなくて、人間としての良心だろうと言えなくもないのですが、ここで、報道写真家に徹することのできないレベッカを見せることで、彼女と観客は地続きの関係にあることを示しているのだと思います。すごく特別な職業ではあるけれど、従事しているのは、我々と同じ人間なのだということが語られているのです。結末としては、かなり苦いものであり、カタルシスを得られる映画ではありません。それでも、見応えはありますし、仕事と家族の関係を考え直すきっかけになるかもしれませんし、この映画オススメです。邦題は甘っちょろいけど、中身はずっしりと重い、虎屋のようかんみたいな映画と言えば伝わりますでしょうか。(← 伝わらねーよ)

「神は死んだのか」はクリスマスにふさわしい、神に感謝の映画、なんてね。


今回は新作の「神は死んだのか」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。ここもフラットな座席配置で、前にちょっと座高のある人がいると画面が欠けちゃうんですよ。全席指定だから移動もできないしなあ。こういうところはシネコンだとちゃんと作ってあるんだよなあ。

大学の哲学科のクラスを受講したのが、クリスチャンの新入生ジョシュ・ウォートン君(シェイン・ハーパー)。講師は、無神論者のラディソン教授(ケヴィン・ソーボ)で、初回で生徒全員に「神は死んだ」と書いて署名せよと迫ります。ところがジョシュは、それを拒否。そして、ジョシュはその授業で3回のプレゼンテーションを行い、そこで神の存在を証明できれば、拒否してもいいよってことになります。しかし、無神論の授業でわざわざ神の存在とか言い出すのは、ジョシュの将来をも危うくするものでした。彼女にはふられちゃうし、教授からはロースクールへは進ませないぞと脅されちゃうのですが、そこは信仰の厚いジョシュ、何とかして、神の存在をクラスの生徒に納得させようと知恵を絞ることになります。一方、教授の奥さんはクリスチャンで、そのことでダンナにバカにされていました。そして、奥さんの母は痴呆症で子供の顔もわかりません。さらに、奥さんの兄は優秀なビジネスマンで、レポーターの恋人がいるのですが、その恋人がガンで死にそうとわかったら、あっけなく彼女を捨ててしまいます。と、まあ、そんなことは置いといて、ジョシュの神の存在を証明するためのプレゼンを始めるのですが.....。

ケイリー・ソロモンとチャック・コンツェルマンの脚本をハロルド・クロニックが監督しました。無神論者の教授の授業をわざわざ選択したクリスチャンのジョシュが、神の存在を証明するってのがメインのお話で、それと並行して教授の関係者(の関係者も含む)のドラマが描かれます。で、ですね、もう先にネタバレさせますが、この映画は、神の存在を突き詰める論理ゲームを期待してはいけません。だって、神はみんなの心に存在するんですもの。最近の人が信仰心が薄いとか言われてますけど、きちんと説明すれば、みんな神の存在を信じていることに気付くの。だから、神はみんなに平等に存在するの。と、言う映画でした。キリスト教の宣伝映画です、これ。どうせ、宗教がバックの映画なら、「幸福の科学」のアニメとか「ファイナル・ジャッジメント」みたいに突き抜けたものの方が面白いなんて思う方もいらっしゃるかもしれませんが、これはこれで、そういう映画として結構面白かったです。なぜ、そう言えるのかというと、私が一切信仰のない人だからです。クリスチャンの方が観れば、うむうむと納得もするでしょうが、仏教やイスラム教の信者の方からすれば、どうでもいい映画だと言えましょう。私は、宗教を信じる人の考え方に興味を感じますので、こういう映画は大変面白かったです。

神の存在を問う言葉として「神は死んだのか」ってのは、実はおかしいんですよね。だって、「死んだのか」と聞く時点で、その前は生きていたってことになるのですから、神の存在を前提にしてるのですよ。私のような無神論者なら、「死んだのかって、それ以前に生まれてもいねーし」って言っちゃうところです。でも、無神論者である筈のラディソン教授は、生徒に「神は死んだ」って書かせるんですよ。最初から、相手の懐に入ってたら勝てるわけないんですが、それでも、ジョシュのプレゼンに対して、ラディソンはそれなりの反論をします。でも、これがまた、ヤワな反論しかできないので、単に声のでかさと権力で押し切るので、無神論者って頭よくないのかもって思わせるのも、作戦なんだろうなあ、多分。ジョシュの神の存在を証明しようとする理屈は結構面白いと思うのですが、無神論者の方が、無神論教に盲目的にはまり込んでいるという見せ方なので、まあ、勝ち目なさそうなんですよ、無神論者。

キリスト教の神は、日本の神々とは違う、創造主という大きな看板を持ってます。ですから、宇宙の起源がビッグバンまで遡った時、ビッグバンの引き金を引いたのは誰かと考えたら、それは神しかいないという論陣をジョシュは張ってきます。なぜかはわかりませんが、聴衆はそれで納得しちゃっています。生命の進化も宇宙の歴史の中のほんの最近に起こったのはなぜなのか、そこにも神の介入があったからなんですって。要は、科学がまだ見つけていないものは、神の御業になっちゃうらしいのです。科学が進歩することによって、神の領域はだいぶ削られてきてはいるのですが、それでもまだ科学がたどりつけないところを神の領域だと再定義しているに過ぎないのです。でも、未知の部分は神の御業だというのは、未知の部分は悪魔の業績と言うことと、どこが違うのかということになります。

また、悪の定義も、神に背くもので、それは破壊(destroy)すべきものだということになるんですって。自分の神と違う連中は悪だから、滅ぼしてもいいなんて言ってるのは、イスラム国くらいだろうと思ってましたが、こうやって聖書をおさらいすれば、アメリカが、悪の枢軸を想定して攻撃するのは、聖書のバックアップがあるからなんだなあ。また、神を信じていないと、善悪の判断がつかないとかも言い出すのですよ。私は、無神論者ですが、善悪の判断基準を持っています。クリスチャンにはこういう人間の存在は信じられないのかもしれないと思うと、単にいい人でいるだけでは、世界の人に信用されないんだなあってところに気付きました。あー、なんかめんどくさい。自分は日本から出ないことにしよう。グローバルなんて知らないよーん。

ガンで余命が少ないことがわかった女性記者は、恋人にもふられて自暴自棄になるのですが、ニュースボーイズにインタビューすることで、彼らの信仰と、彼女のための祈りから、救われることになります。ニューズボーイズは、クリスチャンであることを前面に押し出したバンドだそうですが、ラストは関係者全員が彼らのコンサートに集まって大盛り上がりとなります。クロンクの演出は、散文的な脚本をきちんとまとめたうまさは感じました。並行して描かれるドラマが有機的に交わるわけではないのですが、最後のコンサートで勢いでまとめあげたあたりは見事だと思いました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ラディソン教授は生まれついての無神論者ではありませんでしが。子供の頃は熱心なクリスチャンだったのですが、母親を病気で失ってから、神が信じられなくなっていたのです。母親を救えなかった神を憎むようになったというところをジョシュにつかれてしまいます。「存在しない神を憎むの?」。そして、生徒たちはみんな神の存在を信じるようになります。教授は、恋人を探してニュースボーイズのコンサートに行く途中で、車にはねられてしまいます。虫の息の状態で、居合わせた神父にみとられ、最後には「神を信じる」と言って事切れるのでした。おしまい。

いやー、ラストで教授を殺しちゃうのにはびっくり。キリスト教はアンチには容赦ないんだねえ。結局、無神論者は一人もいませんでしたという結末はすごい。また、サブエピソードで、イスラム教の父親に厳しく育てられているアラブ系の女の子が隠れて新約聖書の朗読を聞いていて、家から追い出されるシーンが出てきます。結局、彼女は教会へ行って神父の世話になることになります。改宗した人を受け入れる懐の広さもアピールしてはいるんですが、信じない人はばっさり切り捨てるみたいです。

私のような信仰のない人間からすると、こういう映画を観ると思うことは、なぜ人は神の存在を他人に信じさせようとするのだろうってことです。神が60億人もいる人間一人一人を相手にするとは思えませんし、生きてくことは、楽しいことよりしんどいことの方が多いのに。むしろ、神を信じない人間は排斥される恐怖が神を信じさせているのかなあって、気がしてます。

全ての歴史の起源をたどったときにたどり着くものを神と呼ぶことは構わないと思います。人間の科学、もしくは哲学が全ての根源までたどり着けていないのであれば、創造主を想定しておくのは悪いことではないでしょう。ただ、その神と契約したり、神を信じない人間を悪として排除するというのは、私はついていけません。いわゆる神にバックアップしてもらうことで、自分を偉く見せようとか、他人を思うように動かそうという人間の意図が読めるのですよ。日本の明治中半から終戦まで、天皇をバックにつけて、ムチャな戦争へ国民を動かしたのも同じようなことだと思ってます。そして、そういう神をバックにつけた人間からすれば、一般市民(いわゆるザコ)は、神を無条件に信じてくれたほうが、動かしやすいということになります。一方で、一般市民はその信仰によって、過酷な現実に希望を持てるから、ウィンウィンの関係になる....という話もありますが、そこんとこにどうも胡散臭さを感じるもので、いわゆる神を信じる気にはならないのですよ。ひょっとしたら、神はいるかもしれないけど、60億分の一人である自分をどうこうしてくれるとは思えないので、別に敬う気もないし、ムキになって否定する気もないってところに落ち着きます。

「ゴーン・ガール」は意外な展開から見えてくる正気の怖さがお見事


今回は新作の「ゴーン・ガール」を有楽町のTOHOシネマズ日劇3で観てきました。前の人の座高がちょいと高くて画面が欠けるのがすごく気になっちゃいました。傾斜のない座席配置なのだから、もうちょっと上にスクリーンを置けばいいのに。

アメリカはミズーリ州、5回目の結婚記念日を迎えたニック(ベン・アフレック)とエイミー(ロザムンド・パイク) の夫婦。ニックが自分の経営しているバーに行っている間にエイミーが姿を消します。テーブルが破壊されていたり、キッチンに血痕があったりしたことから、警察のボニー刑事(キム・ディケンズ)は事件性を感じて、当日から捜査体制を取る事にします。ニックの家を警察が調べたところ、キッチンで多量の血が流れたことが判明、いよいよ犯罪の匂いがしてきます。ニックは、エイミーの両親とともに、テレビで、エイミー探しを呼びかけます。多くのボランティアが捜索に協力し、ニックは一躍時の人となりますが、その一方で、ニックがエイミーをどうかしたんじゃないかという疑いも持たれ、テレビではニック叩きが始まってしまいます。ボニー刑事は、凶器も死体も発見されない状況下で、ニックが妻を殺したとは思えないのですが、一方で、ニックにも妻や警察に秘密にしていたことがあったのです。果たして、エイミーはどうなってしまったのでしょうか。

ギリアン・フリンのミステリー小説を彼女自身が脚本化し、「セブン」「ゾディアック」のデビッド・フィンチャーが監督しました。2時間半もある映画ですが、その展開の面白さに惹き込まれ、最後まで目が離せない映画でした。映画の冒頭で、エイミーは姿を消してしまいます。そこからニックがどうするかが描かれる一方で、エイミーが日記を読む形で、二人のなれそめから、その日に至るまでの経緯が描かれます。彼女は、母親の書いた小説のモデルとして、有名人でした。そんな、彼女がニューヨークでライターをしている時、同業のニックと知り合い結婚したのですが、二人とも失業して、エイミーの信託基金が頼りでしたが、それを経済的に困窮していた彼女の両親が使ってしまったことで夫婦仲はまずくなり、さらにニックの母が癌にかかったため、夫婦でニックの故郷に帰り、エイミーのお金で、家とバーを買って、生活を始めます。そして、ニックの母が亡くなった後もそこで暮らしていたのです。ニックには双子の姉マーゴット(キャリー・クーン)がいて、店は主に彼女が仕切っていました。そんな状況で、突然エイミーは姿を消してしまったのです。ニックとエイミーには、結婚記念日の宝探しをするという習慣があり、今回もエイミーは宝のありかを示すヒントを書いた紙を残していました。しかし、そのヒントの紙を警察に見せずに隠すニック。どうも、ニックには何か隠し事があるみたい。最初はニックが被害者みたいな話なのかと思っていると、どうやらそうじゃないらしいことがわかってきます。フィンチャーの演出は、誰もが怪しいと思わせる見せ方で、なかなか先の読めない展開となってきます。姉のマーゴットも何か思うところあるみたいだし、ボニー刑事すら何か隠してるのかなって気がしてきますし、ただの失踪事件じゃない匂いがぷんぷん。さらに要所要所で登場するエイミーが日記を書くシーンも意味深で、回想シーンの見せ方としてはちょっとまわりくどい。そんな感じで、フィンチャーの「ゲーム」に近い、何か大きな裏がありそうな展開になってきます。

とは言え、ニックの家に残った血痕からすると、エイミーの身に何かが起こったことは間違いなさそう。でも、テレビのキャスターがニックのバッシングを始めるので、どうもニックがはめられたようにも見えます。このあたりは脚本のうまさがあるのでしょうが、見えてるようで見えてないものがあるという印象で、観客を引っ張っていくテクニックが見事でした。特に、ニックとエイミーが見た目は普通の人に見えるだけに、その裏があるのではないかという予感で引っ張る演出が成功して、誰にも感情移入できないまま、ドラマは進んでいきます。そして、ニックに若い娘と浮気していたという事実が観客の前に示されることで、その宙ぶらりんな感じがピークになります。もう誰も信用できないと思わせたところで、映画は失踪当日の種明かしをするのでした。

ミステリーとしては犯人探しもののように始まって、後半は別のスタイルのサスペンスものへと変わっていきます。その変化にちょっとした意外性があり、さらに先が読めなくなっていきます。うまく時系列を並べ替えながら、本格ミステリーと倒叙ミステリーの両方を見せるという離れ業をやってのけていまして、そしてラストの何とも言えない余韻まで含めて、映画の全貌が見えてくるという仕掛けになっています。ただ、ラストの余韻の部分で、このキャスティングでよかったのかなあって思うところありましたが、それは後述。ともあれ、この映画、2時間半のボリュームにふさわしい内容量で大変面白かったです。「ドラゴンタトゥーの女」でも2時間半に中身をたっぷり詰めたフィンチャーは、今回もパワフル娯楽職人の腕を発揮して、単なるミステリーだけにならない、厚い内容の映画に仕上げています。悪趣味趣向を盛り込んだ「セブン」でも、きちんとメインのドラマを面白く作って最後まで観客を引っ張ったのを思い返すと、たっぷり趣向を盛り込んでもドラマの軸がずれない安定力がすばらしい人なのでしょう。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(映画未見の方はパスしてください、マジで。)



時間が失踪当日に戻ると当日のエイミーの行動が描かれます。エイミーは自分の思う人生からはずれていく夫に不満を持っていて、自分が何か事件に巻き込まれたような跡をわざと残し、最終的にニックがエイミーを殺したように見せかけて、彼を破滅に追い込もうとしたのでした。彼女はあらかじめ立てた綿密な計画にそって、過去の経緯を示す日記を偽造して、わざと発見されるように仕込み、さらに自分の血で血痕をつけてさらにふき取るという工作をし、髪を染め、車を買い、見事に姿を消すことに成功します。彼女は以前付き合った男性をワナにはめてレイプされたように見せかけたりするとんでもない女でした。彼女は身を隠すことに成功するのですが、そこで知り合った男女に手持ちの現金を見つけられて、それを奪われてしまいすっからかんになっちゃいます。そこで、学生時代に彼女に入れ込んでストーカーした男に助けを求めます。彼の別荘に身を寄せたエイミーは、そこが監視カメラだらけだと知り、自分が性的暴行を受けたようにカメラの前で演技し、そして、逆に男を挑発しセックスに持ち込んだところで、彼の喉をカッターで切り裂き、血まみれのままで、ニックの家の前に現れます。その時、ニック、マーゴット、そしてボニー刑事もエイミーが夫を罠にはめたことに気づいていましたが、決定的な証拠がないまま、エイミーの証言から、彼女が元ストーカーだった男に誘拐され、そして監禁、レイプされた末に脱出したのだということになり、ニックが殺したという疑いは晴れたものの、エイミーは誘拐事件の被害者ということになり、ニックはその被害者の夫としてメディアを賑わせることになるのでした。真相をほぼわかっているニックでしたが、完全にエイミーの操り人形として生きていくことしかなくなるのでした。

突然、事件当日のシーンになり、エイミーが全て仕組んだことだとわかってびっくり。そこで終わりになるのかと思いきや、大金と一緒に姿を消すつもりが金を奪われて、プラン変更することになるので、さらにびっくり。そして、元ストーカーの金持ちの坊ちゃんのところに転がり込んで、セックスの最中に男の喉をかっさばくという大技を見せます。おー、これは21世紀の「氷の微笑」かと思わせるのですが、さらにその先があって、彼女は夫のもとに帰って、元の生活に戻るというのがすごい。夫は妻の正体を知っていて、別れたいと言いだすのですが、彼女はそれを許さず、エイミーの理想の夫婦でありつづけることを強要し、ニックはそれに従わざるを得なくなり、この関係がずっと続くであろうことを暗示して映画は終わります。狂言失踪から、サイコホラーにお話が変わっていくのが面白く、そして、その決着のつけ方はサイコホラーよりもっと怖いオチとなるのが見事でした。

狂言失踪が示されるシーンで、こいつ何かおかしいんじゃないのと思わせ、セックス中の血塗れ殺人で、うわあ、こいつ狂ってると思わせるのですが、最後の元の生活に戻るところで、こいつキチガイじゃなくて正気の怖い人だったことがわかり、結婚生活のものすごいデフォルメされたパターンだったとわかるところがすごいって感心。結婚というのは、駆け引きと騙しあい、さらには、その力関係への忍耐によって続いていくのだというのをこういう形で見せられちゃうと、うかつに結婚なんかできんわなってところに落ち着いちゃいます。

フィンチャーの演出は、最終的にエイミーを狂った猟奇的な女としては描かず、正気の怖さでしめくくったのが見事だと感心しちゃいました。ただ、ラストで家へ戻ってからの、エイミーの視線に狂気を感じさせたのは失敗だったのかなって気もしちゃいました。ベン・アフレックは、妻の正体がわかって逆らえなくなるダメ亭主役にきっちりとはまっていて見事でした。一方のロザムンド・パイクは前半の普通の女性の感じから、ラストで魔性の女風の演技になってしまうのが、逆にそこ違うだろって思っちゃいました。彼女は、冷静で普通で正気でないと、この映画のラストの怖い余韻が出ないのですよ。魔性キャラを出し過ぎると普遍的な結婚生活の怖さが薄れてしまうので、ここはちょっとパイクの演技過剰なのではないかと思ってしまいました。普通の嫁だけど得体の知れない怖さを持つ、女版「セブン」のジョン・ドゥみたいなキャラにした方がラストがもっと締まったように思います。まあ、この映画から何を感じ取るかで、評価は分かれると思います。私は、この映画を、普通の結婚生活の機微を極端なホラー化した物語と解釈したので、ラストのパイクの演技をちょっと不満に感じてしまいました。

予告編だけ観て、スクリーンに臨んだのですが、予告編で期待されたことが全て起こり、さらに二重三重のサプライズが仕掛けられていたことで、この映画への満足度は相当高いです。ベッドで男の喉をかっさばくスプラッタシーンを丁寧に見せて、サイコホラーのように見せかけて、最後に正気のホラーへ落とすうまさなんて大したものだと感心しちゃいました。

「シャトーブリアンからの手紙」は重い事実を淡々と描いて余計めにヘビー


今回は横浜シネマベティで新作の「シャトーブリアンからの手紙」を観てきました。戦争映画の「フューリー」を観ようかどうしようかと思っていたところへ、同じく戦争を題材にした映画を上映中ということで、こっちの方に食指が動きました。

1941年、ドイツの占領下にあったフランス。シャトーブリアンの収容所には、政治犯など反ドイツ活動をしていた人々が収容されていました。一方、ナントでは共産党の指示により、ドイツ将校が暗殺されるという事件が発生します。この事件に、ベルリンはフランス人150人を処刑せよという命令を下します。フランス占領のトップであるシュテュルプナーゲル将軍は、安定した統治を維持するために、この処刑を何とか回避しようとし、犯人に100万フランの賞金をかけるのですが、ベルリンは即刻の処刑を要求してきます。犯人探しを継続する一方で、将軍は処刑対象者のリストを作るように命令し、シャトーブリアン郡の副知事であるルコルヌは不本意ながらも、収容所の中から、政治犯を中心にリストを作ることになります。その時の手違いから、17歳の少年、ギィ・モケや、翌日釈放が決まっていた大学生ラレもリストに上がってしまいます。結局、犯人は捕まらず、収容所の27人は、他の地の人たちと同時刻に処刑されることになります。部屋から呼び出され、一つの房に集められた27人は、後1時間で処刑されることを告げられ、家族への手紙を書くことが許されます。そして、海岸線へ連れ出された27人はドイツ軍の手によって銃殺されてしまうのでした。

エルンスト・ユンガーとハインリッヒ・ベルの著作をベースに、「ブリキの太鼓」「侍女の物語」のフォルカー・シュレンドルフが脚本を書き、メガホンをとった実録ドラマの一編です。実際に起こった事件の映画化であり、登場人物の多くが実在の人物です。シュレンドルフの演出は、この事件を歴史の1ページとして、そして事実と淡々と描いていきます。ドイツ軍、フランス政府、一般市民、共産党員のいずれにも肩入れしていないので、観ている方としては、感情の持って行き場のないまま、悲惨な事件の目撃者となります。とはいえ、各々の立場の描き方は若干のバイアスがかかっていると感じたのも事実でして、そこにドイツ人としての監督の視点を感じました。その微妙なところがドイツ以外の国でどう受け止められたのかが興味あります。

フランスがドイツの占領下にあった1941年、ナント市の占領軍のトップであった将校が何者かに暗殺されます。それは、フランス共産党が、誰でもいいからドイツ将校を殺せとという指令を出した結果、若い共産党員が引き金を引いたのでした。パリのドイツ軍本部としては、フランス人との関係を悪化したくないこともあって、早急に犯人を逮捕して事態の収拾を図ろうとするのですが、ベルリンからは、報復として150人のフランス人を処刑せよという命令が届きます。頭を抱えるパリのシュテュルプナーゲル将軍は、処刑者のリストを作ることで時間稼ぎをしようとします。ここで、虐殺へ向けての第一歩が動き始めます。リストを作るにはフランスの役人を動かす必要がありました。そして、フランス人のシャトーブリアン郡知事もリストを作ることに加担せざるを得なくなります。そして、あくまで公務として行われることとなります。

この映画の登場人物の多くは、150人の処刑することには反対なのですが、それでも淡々とその段取りは進んでいきます。処刑されるリストから女子供をはずそうとか、共産党員からリストアップしようという話になるのですが、その時点で処刑されることが前提となっているわけで、反対の意思を持ったパリのドイツ軍幹部も、フランス側の役人もその虐殺に加担していることになるわけです。その一方で収容所の様子も描かれてまして、塀で隔たれた男女の若者の恋模様ですとか、共産党員の房に処刑の話が流れてくる様子が登場します。そして、みんなが望まない結末へと追い込まれる様子が丁寧に描かれます。

処刑の当日、リストに名前のあった者が一つの房に集められます。そして、1時間後に処刑されることが通告され、肉親への手紙を書くための紙と鉛筆が渡されます。そこへフランス人の司祭がやってきて、彼らの最期に付き添います。ほとんどが共産党員なので、基本的に宗教関係者は不要とも言えるのですが、彼らは静かに司祭の言葉に耳を傾け、残された時間を過ごすことになります。理不尽な死を前に、泣き叫んだり、ドイツ軍を呪ったりする人間が一人もいないのは、正直、ホントなのかなあって思わせるものがありました。処刑の日が釈放予定日だったのにリストアップされてしまった若者も、妻との10分の別れの時間が与えられ、その後は静かにその時を待つのです。何だかすごいと思うのですが、自分がもしドイツ軍の立場だったら、とか、自分が処刑される立場だったら、といった感情移入をさせない作りになっていまして、静かに死を受け入れる人々を、ただそういう人間がいたのだという見せ方になっているのですよ。その結果、「不思議だなあ、でもそうなんだ」と納得させられてしまうのです。何と言うか、有無を言わせぬ、事実の力というものが表現されているのですよ。例え、それが脚色されたものであっても、シュレンドルフの演出はそれをあったることとして見せきるのに成功しているのです。映画のラスト近くで、司祭がリストを作った郡知事に向かって公務の奴隷になるなと怒りの言葉をぶつけるシーンが唯一メッセージを感じさせる部分なのですが、淡々と力技で流すドラマの中では、かえって饒舌に感じられてしまいました。

この映画に登場する多くの人間が処刑に反対しているのですが、じゃあ敵役はいないのかというと、そういうワケでもなくって、ヒトラーのいるベルリンのトップは、絶対的悪役として描かれています。また、共産党員の中でも、暗殺を指令する側を悪役のような描き方をしているのが印象的でした。要は組織のトップというのは、無慈悲でムチャを言うという見せ方なのですよ。そして、その末端の当事者たちはそのムチャに従わざるを得なく、その尻拭いまで押し付けられる図式です。これは、組織と個人の関係のなかでは大変よくある話だと思います。戦時中じゃなくてっても、現代の会社の中でも同じようなことが起こっています。会社のトップが現場の負担も考えずに、ムチャなルールや組織改変を命令し、末端の社員が右往左往するというのは、よく見聞きすることです。その時、トップへの恨みつらみが爆発するのかというと、まずそういうことは起こりません。末端のラインは淡々とそのムチャを受け入れて、仕事をこなしていきます。それは、この映画におけるフランス側の役人と通じるものがあります。人の命をやりとりする話と、サラリーマンの仕事を一緒にするなと怒られそうですが、私はそこに似たようなものを感じてしまいました。「ハンナ・アーレント」でもナチのアイヒマンが実は小役人の発想で仕事をこなしていただけだったということが描かれていましたが、ここでリストを作った群知事も、パリのドイツ軍幹部も同じようなものかもしれないと思えたのです。そして、それは自分も同じだろうなって。ありのままの事実を見せるという作りになっているせいもあって、人間の弱さはどの時代でも変わらないのかもって気がしてしまいました。

戦争を知らない私からすれば、死と隣り合わせの状況ってのが想像つきかねるところがありまして、そういう意味では、この映画を語るには、ふさわしくないのかもしれません。それでも、この映画からは、歴史の1ページを学び、誰もが望まないことが、当事者たちの外で決まり、でも彼らが手を下さざるを得ないという社会の不合理を知ることができますので、一見をオススメしたい作品です。ヒロイズムも愁嘆場もないだけに、逆に感情の逃げ場のないヘビーな手応えの映画になっています。91分という最近では短めの映画なので、軽く見ていたら、結構後味がずっしりと残ってしまいました。

「リスボンに誘われて」のサントラ盤は、今年の映画音楽のベスト(だと思ってます)


今年の映画の中でもかなり点数の高い映画「リスボンに誘われて」の音楽を担当したのは、ドイツのアンネッテ・フォックスです。彼女は「4分間のピアニスト」などの作品があり、今回は、作曲、編曲、指揮を担当しています。

最近の映画音楽は、音楽というよりは、映画の効果音のような扱われ方をする傾向があります。いわゆるマンガの擬態語に近いと言えばいいのでしょうか、マンガで感情や行動の勢いを表す「ガーン」とか「ドドドド」、怖さの「ゾゾゾッ」あるいは静けさの「しーん」なんていう表現を音楽が担っている感じなのですよ。そのせいか、映画音楽もメロディを明快に鳴らすものよりは、アンビエント系サウンドのものが増えてきていますし、オーケストラを使っても、ストリングスも金管もまとめてパーカッションのようにドコドコ鳴らしてテンションを上げるものが目立ってきてます。この21世紀に入ってからの傾向で、サントラ盤も何だか全曲聴くのもしんどい感じのものが多くて、昔からの映画音楽ファンとしては物足りないものを感じていました。

そこで、この「リスボンに誘われて」なのですが、音楽のつけ方としては、ガンガン鳴らすタイプではないのですが、明確なテーマモチーフを持っていて、各々の曲で、そのバリエーションが聴けるという、私のようなオヤジが言うところの映画音楽の王道なのです。2つのテーマがありまして、それが時には静かに、要所で歌い上げるかたちで、ドラマに寄り添っていまして、心にしみる音楽になっています。最近の映画音楽はメロディラインが不明確だったり、盛り上げ方も血湧き肉踊るパターンばかりがメインになっていたので、この映画のサントラ盤を聞いたときは大変うれしい気分になりました。

オープニングは、自宅にいる主人公の絵から始まって、そこにタイトルがかぶさるのですが、そのバックにテーマモチーフの一つが流れます。ピアノの爪弾きから、バックに薄いストリングスが流れ、ピアノのソロがテーマを奏でます。そのピアノをチェロが引き継いでテーマを演奏すると、ピアノがその伴奏に回り、そしてまたピアノがテーマを奏でるという構成なんですが、音楽がドラマへの予感を語るという意味で見事なのですよ。基本的に一つ目のテーマモチーフは現代の主人公に関わる部分で何回も演奏されます。

回想シーンは、1970年代の弾圧政治時代で、こちらのテーマモチーフはもっとドラマチックなうねりを持った美しいメロディで、これが何回もアレンジされて登場します。ストリングスで朗々と流されるシーンもあれば、ピアノソロからバイオリンソロへ引き継がれる静かな曲もあります。インパクトのあるドラマチックなオーケストラ曲も登場するのですが、要所要所をきちんとテーマモチーフのバリエーションで押さえているので、ドラマとしての統一感が生まれています。

このように書くと音楽が前に出過ぎた映画のように思われそうですが、決して音楽がドラマを過剰に盛り上げたりはせず、静かにドラマを支えているという印象でした。今年観た映画の中では、音楽の使われ方、そしてきちんとメロディを持ったテーマモチーフからの展開による音作りなど、映画音楽としては一番印象に残るものでした。映画を観ているときはドラマに引き込まれて、あまり気にも留めなかった音楽ではあるのですが、サントラ盤で聴きなおすとその見事さを再確認できました。

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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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