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「ドラフト・デイ」は題材になじみはないけど、面白くてラストのカタルシスが痛快。


今回はTOHOシネマズ川崎3で、新作の「ドラフト・デイ」を観てきました。ドラフトに特に興味があったわけではないのですが、この予告編が結構そそる内容だったので、食指が動きました。映画が始まる前にアメフトのドラフト制度の説明があります。なるほど、日本じゃポピュラーじゃないルールなので、こういう説明があるとお話がわかりやすくなります。配給元のキノ・フィルムの気配りなのでしょう。「この映画には意外な結末があるから言わないでね」なんていう無粋な先入観を持たせる前説なんかより、こういうのはいいですよね。

日本でプロ野球のドラフト会議が話題になりますが、アメリカですとアメリカン・フットボールのドラフトが国を挙げての大イベントになる(んですって)らしく、今年の台風の目になると言われたのが7位の指名権を持っているクリーブランド・ブラウンズのGM、サニー(ケヴィン・コスナー)は、恋人のアリ(ジェニファー・ガーナー)の妊娠を聞いて、ちょっと動揺しちゃいます、それどころじゃない特別なドラフトの日なのに。そんな彼にシアトル・シーホークスのGMに、以後3年の1巡目の指名権を渡せば、今回の1位指名権をあげるよと持ちかけられます。今年のドラフトの目玉はQBのボー・キャラハン。それを指名する権利を得られれば、それはすごい戦力になる筈。でも、サニーには、他に気になる選手もいました。それはLBのポンテと、父親もブラウンズの選手だったRBのレイでした。それでもオーナーのモリーナ(フランク・ランジェラ)に説得されて、シーホークスとの取引をしてしまい、このトレードは瞬く間に世間に知られてしまいます。ブラウンズのスタッフはキャラハンの身辺を調べるのですが、彼は向こう3年の1巡目を渡しても取るに値する選手だとのこと。しかしスカウトの一人がキャラハンの誕生パーティに同じアメフト部の選手が誰も来なかったというのです。さらに彼の大学のコーチに電話すると、その推測は正しいかもと言われちゃいます。元からブラウンズにいるQBドリューはへそ曲げちゃうし、そうは言っても、3年分の1巡目指名権をシーホークスに渡しちゃったしなあって、サニー、困っちゃう。

アメリカの1大イベントであるらしい、アメフトのドラフトの日を舞台にGM、オーナー、監督、選手、スタッフの悲喜こもごもを描いたドラマです。ラジーヴ・ジョンソンとスコット・ロスマンの脚本を、「ゴースト・バスターズ」「Gガール 破壊的な彼女」のアイヴァン・ライトマンが監督しました。7位の指名順を持っているクリーブランド・ブラウンズのGMサニーは、まだ2年目なのですが、昨年、名監督であった父親を解雇したものだから世間の評判は最悪。さらにその父親も病気で亡くなり、このドラフトで、思い切った補強をしないと彼の立場も危うい状態。実力のある選手を取って、チームの補強もしなくちゃいけないし、一方でファンを納得させる選手を取って、シーズンを盛り上げなきゃいけないという、結構な板ばさみ状態。また、父親の後任監督のペン(デニス・リアリー)も色々と口を挟んでくるのです。さらに、そういう状況を見越して、他のチームのGMも、サニーに電話で色々な取引を申し出てきます。指名順位1位のシアトル・シーホークスのGMは、その指名権を譲る、すなわち1番人気のキャラハンを指名させてやると取引(トレード)を申し出、結局、サニーはその申し出を受けて、以降3年の1巡目の指名権と、今回の1位指名権をトレードをせざるを得なくなります。キャラハンを取れれば、オーナーも地元ファンも納得して、サニーの地位も安泰となります。一方で、7位の時はキャラハンは眼中になかったということで、今度は、他に取りたかった選手をあきらめざるを得なくなります。とにかく、降って湧いたようなキャラハン獲得の話はみんなの知るところとなり、サニーはキャラハンの調査をスタッフに命じます。ここで、彼に変なスキャンダルや故障があっては大変だからです。ドラフト会議が始まるまでにGMの間では様々な駆け引きがあります。さらに、ドラフト会議が始まっても、指名順の回ってきたチームには10分間の時間が与えられ、その時間内で単に選手を決めるだけでなく、他チームと交渉して、自分の指名順の権利をトレードするというギリギリの駆け引きが発生するのです。

と、まあ、こんな感じで、映画は電話のやりとりがたくさん登場するので、スプリットスクリーン(画面分割)を用いて、動きの少ない絵を工夫してみせながら、サスペンス映画のような緊張感でドラマを進めていきます。基本的に指名選手やトレードの判断は、GMの仕事らしいのですが、それでも周囲は色々と言ってきます。シアトル・シーホークスのGMは、順当に行けばキャラハンを獲得できるのですが、それ以上の収穫を得るためにサニーにトレードを申し込んできたのです。それも、サニー側がキャラハン欲しさに大きく譲歩をしてくるのを承知の上で。そして、その読みどおり、サニーは1位の指名順と、未来3年の1巡目の指名権を交換することをOKするのです。さらにサニーのところには、選手からの売り込みの電話も来ますから、もう大変な状態。さらにプライベートでは恋人の妊娠ですからね。彼女アリは仕事の同僚でもあり、フットボールに人生を費やしてきた女性です。妊娠のニュースに、それどころじゃないというリアクションをしてしまい、アリから避けられてしまっているサニーは機会あるごとに彼女をつかまえて説得しようとしますが邪魔が入ったりしてうまく行きません。このサブエピソードはなくても映画は成り立つのですが、困り顔ヒロインナンバー1のジェニファー・ガーナーの好演によって、ドラマに奥行きを与えることに成功しています。

スカウトの情報から、キャラハンに友人がいないという、お人柄としていかがなものかという情報が入ってきます。そこまで調べるのかとも思いつつ、キャラハンに電話で直接問い合わせると何だかあやふやというかごまかしてる感じがします。一方で故障が多かったQBのドリューが実は謙虚で正直な男だったというエピソードが、サニーの耳に入ってきます。キャラハンには、大学時代の実績があるのは事実だけど、どっかなーと迷っているように見えるサニーですが、実はもう腹は決めてるみたいなんです。この後の展開が、久々にでかいカタルシスを運んできて、満足度の高い娯楽映画になっています。「やった!!!」と手を叩きたくなる結末は劇場でご確認ください。ドラフトにもアメフトにもまるで興味ない私も、堪能できた映画でした。地味な題名、地味な公開ですが、これはオススメです。

アイヴァン・ライトマンの演出は、たくさんの登場人物をうまくさばいて、じわじわとドラマを盛り上げていきます。とはいえ、冒頭で、未来3年分の1巡目指名権を渡しているので、どう転んでもうまくいきそうもない状況なのです。それをユーモアを交えながらテンポよくドラマを運んでいくうまさはさすがだと納得。「ゴースト・バスターズ」の頃は大したことないと思っていたのですが、「6デイズ7ナイツ」あたりから、職人的なうまさを感じるようになり、「Gガール 破壊的な彼女」で大いに笑わせてもらいましたが、そんな彼の作品の中ではかなり高ランクな作品だったのではないかしら。演技陣も皆好演していまして、ちょっとだけ登場のロザンナ・アークエットとかケビン・ダンといった面々には懐かしさも感じてしまいました。また、ジョン・デブニーの音楽がドラフト・デイのわくわく感をシンセを交えたオケで見事に盛り上げていたのも、特記しておきたいです。



この先は、結末に触れますのでご注意ください。



ヒューストン・テキサンズのGMからポンテについての問い合わせがあったり、バッファロー・ヒルズのGMからキャラハンとのトレード条件の提示があったり、水面下のやりとりが続くうちに、いよいよドラフト会議が始まります。3年分の1巡目指名権をシアトル・シーホークスに渡してしまったサニーが最初に指名したのは本命のキャラハンでなく、守りのLBポンテでした。会場が大きくどよめきオーナーは激怒。するとこれがどう響いたのか、本命のキャラハンを2番目3番目4番目のチームも指名しません。サニーはその日の朝から「何が起きようとポンテを取る」とメモに書いて、腹を決めていたのでした。しかし、このままでは、3年分の1巡目指名権がパーです。そこで、今度は指名6番目のチームのGMに電話をすると、未来3年の2巡目の指名権を渡すから、この6番目の指名権を譲ってくれと交渉にかかります。それに成功したサニーは今度は、7番目の指名に控えているシアトル・シーホークスのGMに電話。6番目の指名権を獲ったことを伝え、ここでキャラハンを指名しない代わりに、渡した未来3年分の1巡目指名権を返せと要求。シアトル・シーホークスとしても、キャラハンが獲れて、7番目の指名ということで契約料も値切れるという条件を飲もうとします。その瞬間をついて、さらにもう1名シーホークスの選手もつけろと要求を出します。キャラハンを取れないことでファンから突き上げを食らいつつあるシーホークスのGMはその条件を飲み、サニーは6番目の指名権を使って、最初から考えていたRBのレイを獲ります。そして、ドラフト会議は全選手の指名を終え、サニーはオーナーやスタッフ、そしてファンからも拍手で迎えられます。そして、サニーはアリと結婚するのでした。ラストシーンで、ドリュー、ポンテそしてレイを擁するクリーブランド・ブラウンズは新シーズンを迎えるのでした。

サニーが優先権トップで、ポンテを指名したところで、映画はすごく盛り上がるのですが、さらにその先の交渉で、3年分の1巡目交渉権を取り返すところが見事なカタルシスをもたらしました。アメフトやドラフトを知らない私にも、その「やったぜ」感は伝わってきましたもの。なるほど、こういうギリギリの駆け引きをするところに、指名選手を発表するまでの10分間があるんだなって納得しちゃいました。いやー、面白かったです。サニーが、結局、人柄で、キャラハンではなく、ドリューを選び、そしてポンテやレイを獲得したっていう展開も心地よい結末でした。
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「スパイ・レジェンド」は手堅い演出が功を奏したアクション映画の佳作です。


今回は、新作の「スパイ・レジェンド」を有楽町の角川シネマ有楽町で観てきました。予告編で、恵比寿ガーデンシネマが復活するってのをやってました。その昔、ここでしか観られない映画を観るために足を運んだものですが、また独自のラインナップを組んでくれるのかしら。

CIAのエージェントであったデヴェロー(ピアーズ・ブロスナン)は2008年のミッションで失敗し負傷して引退していました。そんな彼の前にかつての同僚ハンリー(ビル・スミトロヴィッチ)が接触してきます。デヴェローのかつての恋人であるナタリアがロシアの次期大統領候補であるフェデロフの秘書として潜入捜査をしていたのですが、彼女を国外脱出させるために協力して欲しいというものでした。しかし、脱出に失敗、追跡劇の末、彼女はかつてのデヴェローの弟子格であったメイソン(ルーク・ブレイシー)に狙撃されてしまいます。ナタリアの残した最後の言葉ミラ・フィリポアを追う、デヴェローとCIA、デヴェローはその名前に最後に接触したと思われるソーシャル・ワーカーのアリス(オルガ・キュレリンコ)に接触しようとするのですが、その場にフェデロフの殺し屋と、CIAが彼女を追って現れます。何とか、両者をまいてアリスを救出するデヴェローですが、そんなアリスもミラという女性とは3年前に会ったきりだといいます。さらにミラについて調べてみると、彼女はチェチェン紛争でのビル爆破の生き残りであり、それを指揮したのはフェデロフで、フェデロフがやったことの証人だったのです。そして、その爆破事件にはCIAの幹部が関わっていたというのです。CIAとフェデロフがやっきになって、ミラを追っていたわけです。フェデロフ、デヴェローの3者が入り乱れるミア・フィリポア争奪戦はどう決着がつくのでしょうか。

ビル・クレンジャーの「ゼア・アー・ノー・スパイズ」を原作に、マイケル・フィンチとカール・ガイダシュクが脚色し、「世界最速のインディアン」「スピーシーズ」「ダンテズ・ピーク」など、人間ドラマ、サスペンス、SFホラーとさまざまなジャンルに挑戦してハイアベレージの娯楽映画を作り続けているロジャー・ドナルドソンです。実際、ドナルドソンとジョエル・シューマッカーの作る娯楽映画ははずれがないということで安心のブランドになっています。この作品も、脇役の扱いから、アクションシーン、意外な展開と、スパイ映画の定番をきちんと押さえて、きちんと面白い娯楽映画に仕上げています。

オープニングは、デヴェローとメイソンがコンビだったころの事件が描かれます。囮となったデヴェローが狙撃者に狙われるのですが、メイソンはデヴェローの命令に逆らって発砲し、居合わせた子供が犠牲になり、デヴェローも負傷してCIAを引退することになります。そして時計は7年後となり、モスクワでのナタリア救出の失敗したメイソンが上からの指令でナタリアを射殺したときの再会となります。以降、かつては師弟関係にあったデヴェローとメイソンの確執と、ミラ・フィリポアを巡る争奪戦がドラマのメインとなります。

CIAも人員を動員してデヴェローを追うのですが、次々にデヴェローに返り討ちにされてしまいます。ピアーズ・ブロスナンというと007のイメージが強いのですが、この作品ではマッチョ系でない殺しのプロをなかなかの説得力で演じていまして、ロートルだけど手強い男が彼の年相応のルックスにうまくはまりました。かつて、メイソンが弟子だったころは、恋人なんか作るなと説教していたデヴェローが、ナタリアと恋愛関係にあり、娘まで作っていたというちょっとだけ意外な展開があり、そのデヴェローの甘さが彼の行動をわかりにくくしていて、ミステリーとしての面白さが出ました。途中、デヴェローが、メイソンの目の前で、メイソンの彼女の太腿をざっくり切って血塗れにしちゃうシーンもあり、デヴェローのキャラもはっきりしないまま、事件の黒幕も曖昧なまま追跡劇が展開していきます。

ドナルドソンの演出はアクションシーンには、リアルにはあり得ないシーンを入れつつ、ドラマ部分はシリアスに展開させて、娯楽映画としてのバランスをうまくとっています。この人がうまいと思うところは、下手にユーモアを入れてドラマのテンションを下げないところで、どんなウソ臭い話もリアリティを感じさせる作りになっているところです。いわゆる一息入れる場面で、ユーモラスなシーンを入れないで、ウソをウソとつきとおすところが見事だと思います。アクション映画の要所要所でユーモアを盛り込んで映画を盛り上げる監督さんもいますが、ドナルドソンはあえてそういう手を封じて正攻法でドラマを組み立てて、最後まで観客を引っ張っていきます。見ようによっては緩急の間がないということにもなってしまうのですが、そうすることで娯楽映画の面白さをアップしているのは、それはそれで見事だと思うのですよ。「ハングリー・ラビット」みたいな設定の出オチみたいなお話でも、最後まで面白く観られてしまうのは、下手に手綱を緩めない彼の演出があってこそだと思います。

この映画は最近の映画にしては珍しく、米露の対立を題材にしていて、さらにCIAを悪役に据えています。とにかく、CIAのみなさんがギャングのザコのようにばったばったと殺されていくのは、今風ではないにしろ、この映画にハードなスパイスとなっています。と、思ったら、原作は1970年代後半に書かれたものだそうで、なるほどそれならこの古風な設定も納得いきます。最後の黒幕がデヴェローに「冷戦後は、中東との戦いだ。だからロシアを押さえておくことが必要なのだ」って妙な言い訳じみたことを言うのが変だなって思ったのですが、これは作り手の設定に対する言い訳だったのねと納得。東西冷戦時代の面白いスパイ小説も今だと映画化されにくいのでしょう。

ロケのほとんどがセルビアのベオグラードで行われたそうで、エンドクレジットでも、やたら、xxxicって、「ic」で終わる名前が多いんですよね。そっかー、セルビアは、何とかイックさんって名前が多いんだなってのは発見でした。ブルガリアで撮影された映画だと、xxxva という名前が多いんですが、そういうのも、エンドクレジット観てると勉強になります。音楽がマルコ・ベルトラミだったのですが、アンダースコアに徹した感があって、映画を支えるという点では頑張っているのですが、もう「ミミック」のようなドラマチックスコアは書かないのかなと思うとちょっと残念です。

演技陣は地味な顔触ればかりですが、その中では、オルガ・キュリレンコはさすがにスターのオーラがあって際立って見えます。メイソン役のルーク・グレイシーは二枚目だけどちょっと爬虫類っぽい冷酷さもあって、この役にはぴったりはまりましたし、ラストの逆転劇もびしっと決まりました。また、メイソンの恋人役でちょっとだけ登場するエリザ・タイラーという女優さんがなかなかかわいくて、この先期待大です。


この先は結末に触れますのでご注意ください。



ミッションの失敗で身柄を拘束されていたハンリーの前に姿を現したデヴェローは、フェデロフと組んで爆破作戦を行ったCIA幹部がワインステイン(ウィル・パットン)だと告げます。一方、CIAもアリス・フルニエこそが、実はチェチェンでフェデロフに家族を殺され、レイプされたミラ・フィリポアだったと突き止めます。ベオグラードに来ていたフェデロフのもとに単身で乗り込むアリスですが、あと一歩でフェデロフに逆転されたところへ、デヴェローが正面突破で彼女を救い出し、フェデロフに真相を問いただすと、何と爆破に関与したCIAの幹部とは、ワインステインでなくハンリーでした。デヴェローは、その事実をメイソンにも伝えますが、CIAに戻ってみれば、上司の椅子に座っていたのは、ワインステインにとって代わったハンリーでした。そして、ハンリーはデヴェローの娘を誘拐して、アリスとの交換を申し込みます。デヴェローはアリスを逃がし、単身、交換の場に向かいます。交換場所には、ハンリーの部下としてメイソンもいます。しかし、本部にいるメイソンの同僚が人質の安否確認の電話から、娘の拉致された場所を特定、アリスを捕えろと命令されたメイソンはその足で、メイソンの娘を救出し、デヴェローのもとに届けます。一方、アリスは自分のことを駅のパソコンからインターネットに公開します。途中で、フェデロフの部下の殺し屋に襲われますが何とかかわし、デヴェローと再会し、デヴェローと娘と一緒にセルビアを脱出します。公聴会で自分の体験を語るアリス(ミラ)、失脚したフェデロフが、バカンスを楽しんでいるといずこからか飛んできた銃弾が彼の頭を撃ち抜いたところで、暗転、エンドクレジット。

ハンリーがフェデロフとつるんでいたとわかったメイソンですが、それを報告に行った上司がハンリーに代わっていたということで、八方塞がりかと思えるのですが、メイソンとデヴェローのあうんの呼吸で形勢逆転するのが、なかなかかっこよかったです。それにしても、CIAのみなさんが悪事に加担したためにバッタバッタと殺されていくのに爽快感が感じられるのがすごい。クライマックスもドラマのテンポを落とさずに走りぬいたドナルドソンの演出が光る一遍でした。

「ジャッジ 裁かれる判事」はロバート・デュバルが素晴らしい、でもその他の部分は長いかな。


今回は、川崎チネチッタ9で新作の「ジャッジ 裁かれる判事」を観て来ました。ここはシネスコサイズになるときに上下が縮むスクリーンです。こういうスクリーンだとシネスコサイズに固定して上映とかできないんだろうなあ。

シカゴで金持ち相手の銭ゲバ弁護士をやってるハンク・パーマー(ロバート・ダウニーJr)のもとに母親が亡くなったという知らせが来ます。かわいい娘と離婚調停中の妻を置いて、単身ふるさとの町に帰ってみれば、そこは昔と変わっていません。そんなハンクを迎えるのは、高校野球の名選手だったのが事故でプロになり損ねた兄のグレン(ビンセント・ドノフリオ)と知的障害がありカメラを手放せない弟のデール(ジェレミー・ストロング)。そして、父のジョセフ(ロバート・デュバル)は町の判事で、今も元気に判決を伝えていました。ハンクにとっては、父親は厳しくて近寄りがたい存在で、ジョセフの方もわざとハンクを避けているようにも見えます。立ち寄ったダイナーで高校時代の彼女だったサマンサ(ベラ・ファーミガ)と再会したハンクは、なんとなく彼女のことが気になっちゃう。母親の葬儀を済ませて帰路につく途中で、ハンクは兄の電話で呼び戻されます。ジョセフがひき逃げの疑いを持たれて警察に連れていかれたというのです。被害者は、かつてジョセフが温情判決を出したら、自由になってすぐに殺人を犯し、20年の刑から出所したばかりの男。ジョセフの車から被害者の血痕が発見され、彼と被害者がコンビニでにらみ合っていたのが目撃されていました。しかし、ジョセフは身に覚えのないことだと言います。それは無実の確信があるわけでなく、その犯行時間の記憶が彼から抜けていたのです。そして、ジョセフは逮捕されてしまいます。ジョセフが指名した弁護士は若くて頼りないので、ハンクはイライラ。予審審問の結果、裁判に持ち込まれてしまったことで、ついにハンクがジョセフの弁護に立つことになります。一方、検事のドワイト(ビリー・ボブ・ソーントン)はこれは意図的に行われた殺人だとして、それを実証する論陣を張ってきます。果たして、ジョセフは本当にひき逃げ犯なのでしょうか。

「シャンハイ・ナイト」のデイビッド・ドブキンと「グラン・トリノ」のニック・シェンクの原案を、シェンクとビル・ドゥビュークが脚本化し、ドブキンがメガホンを取った人間ドラマの一編です。ひき逃げ事件の裁判を通して、ある親子の確執がとけていく様子を描いていまして、ひき逃げ事件の真相を巡るミステリーにもなっています。主人公のハンクは有能な弁護士で金になる裁判で、有罪とわかっている連中にも無罪をもたらす、社会的には嫌われ者。娘にはやさしいところも見せますが、基本的に家庭を顧みることなく、妻が浮気して今は離婚の調停中です。実家に帰ってみれば、父親との関係はギクシャクしています。厳しかった父親は、少年時のハンクを少年鑑別所に送っていました。どこか他人行儀な親子は、父親のひき逃げ事件の裁判で弁護人と依頼人の関係になるのですが、それでも打ち解ける様子はありません。ハンクは何とか殺人罪にならないように画策するのですが、ジョセフは協力的でありません。そもそも記憶がないというのは、尋常ではありませんし、そう言い張るのは、裁判で不利なのです。

実は、ジョセフは癌の末期で、投薬治療を受けていました。その薬の副作用の中に記憶欠落も含まれていました。状況証拠からの状況はかなり不利なのに、ジョセフはそのことを隠そうとしていました。それは、投薬中の審判が誤っていたと思われることを恐れていたのです。判事として、人生を全うしたいと考えていたジョセフには、それは耐えられないことでした。でも、このままでは殺人犯にされちゃうので、ハンクとしては放っておけないと、父親と衝突することになります。この映画は、基本的にハンクとジョセフのやりとりがメインで裁判は実は最後の尋問までは、オマケみたいなものです。誰が真犯人なのかということはどうでもよくって、ハンクとジョセフの過去のわだかまりをどう解決するのかというドラマなのです。主演二人がいわゆる名優と言っていい役者さんなので、ドラマとしては見応えがあるのですが、正直なところ「長いな」って思っちゃいました。と言うのも2時間22分という長さがドラマを散漫な方向へ向かわせてしまったように感じたからです。

ドラマの脇役にそれぞれキャラをつけて、ドラマを見せようとしてるのですが、ハンクとジョセフ以外の脇役は、きちんとドラマを締めないで中途半端な感じだったのです。これなら、ハンクの兄弟や元カノのエピソードを削って、1時間40分くらいにまとめた方がドラマとしてすっきりしたような気がします。脇役がそれぞれハンクと関わりを持ってくるのですが、関係がきちんと描かれるのは父親とのだけで、後は、単にならべただけなのですよ。それによって、主人公に陰影が与えられているのであれば、映画としてありなのですが、ハンクは父親しか見ていないし、父親の行動でしか、心が動かないのです。それなら、脇役を背景に押し込んで、父子の関係だけにスポットライトを当てた方がよかったと思います。観終わった時、ハンクと、兄弟、元カノ、娘、若い弁護士との関係はどうなったんだと突っ込み入ってしまいました。前半から中盤で、脇役を丁寧に描いているので、彼らと主人公との関係を刈り取るとばかり思っていたのに、それがないので、骨太風に始まったドラマが、ラストで細く薄くなっちゃったという後味なのです。ハンク以外の兄弟とジョセフとの関係があんまり描かれていないのにも物足りなさを感じてしまいました。きちんと自分の役をまっとうできたのは、検察側のビリー・ボブ・ソーントンだけで、他のビンセント・ドノフリオやベラ・ファミーガといった曲者役者がただ出てきただけになってしまったのは、脚本に問題があるのではないかしら。

撮影のヤヌス・カミンスキーはシネスコの画面に油絵のようなしっとりした映像を収めて、絵作りのうまさを見せてくれています。また、トマス・ニューマンの音楽は、オーソドックスな劇伴音楽と、アンビエント風サウンドの両方を場面によってうまく使い分けて、ドラマを陰で支えています。ジョセフが自分の人生の正しさにどう向き合うかというところはロバート・デュバルの熱演もあって、見応えがありましたから、映画としては面白くできていると思います。ただ、枝葉の部分が刈り取れていない印象で、長いなあって印象も持ってしまいました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ジョセフはコンビニを出てから、途中で道路が冠水していたから戻ったと証言していました。しかし、コンビニ前の防犯カメラを確認すると、引き返したという場所より、もっと前に車をUターンさせていることがわかり、ジョセフの証言が偽証ではないかという疑いを持たれてしまいました。ハンクは、事故現場にタイヤの跡がなかった(つまり、車はブレーキをかけず、故意に被害者を轢き殺したということ)ことについても、反証するのに成功します。ハンクとしては、検察側の立証責任が全うできないだろうからということで、勝算がありました。ただ、父親ジョセフが何を言い出すのかがわからないのが気がかりでした。被害者は、少年時代に女性へ暴行をはたらいたのですが、ジョセフはそこで温情判決で30日の拘留としました。そして、彼はシャバに戻るとすぐ、その女性を殺害したのです。ジョセフにとっては許しがたい人間であり、そこに殺意があっただろうと検察は攻めてくるのです。審理の最終日、ジョセフが証人台に立ちます。検事のドワイトは、ジョセフに、被害者を追いかけて殺害したのかと質問します。ジョセフは記憶にないとこたえます。しかし、ドワイトの「殺したいと思ったか」という質問には「そうだ」と言い切ります。そして、「自分が殺したのだと思う」という趣旨の発言をして、場内を驚かせます。反対尋問に立ったハンクは、父親が癌で余命いくばくもなく、投薬により記憶障害がありうることを証言させ、なぜ、あの被害者に最初に温情判決を出したのかと聞きます。するとジョセフは「悪いことをして更正しようとしていると見えたのが、ハンクにそっくりだったからだ」とこたえます。言葉を失うハンク。結審の跡、陪審員の結論は、殺人罪としては無罪、過失致死として有罪として、懲役4年が言い渡されます。その後、ハンクは減刑嘆願書を出し、7ヶ月で仮出所に持ち込みます。そして、湖で釣りをするハンクとジョセフ、ジョセフは「お前が今までに一番の弁護士」だと息子に言います。そして、釣りをしていたジョセフがいつの間にか静かになっています。ハンクは気付いた時には父親は亡くなっていたのでした。父親の葬儀があり、サマンサの店でお別れ会が催されます。そして、ハンクは裁判所へ行き、判事席のところへ行き、それを見つめるところで暗転、エンドクレジット。

ジョセフが最後まで自分の正義と我を通したという結末はなかなか見応えがありました。自分は、ひき逃げをした記憶はないけれど、ああいう状況になったら、奴を殺したいと思い、そして奴を殺したかもしれないというあたりの頑固さは共感を呼ぶ一方で、ハンクが自分と父親の関係を法廷に持ち込むことで減刑に導いたかのように見えてしまうのは、「うーん」と困ってしまいました。特に、ジョセフの認知能力を確かめるために、裁判に立ち会っている廷吏の名前をジョセフに言わせる(彼は名前を思い出せない)あたりは、そうすることが判決にどう響くのか読めないところがありました。ジョセフのこれまでの町への貢献で同情を引こうとしているのかなって気がしてしまって。とはいえ、判決が出た後、退廷するジョセフが、ケビンやデールには声をかけるのに、ハンクとは目を合わせないというシーンが、二人の関係の深い闇の部分を示していて印象的でした。それだけに、ラストで二人が釣りをするシーンは蛇足なように思え、さらにその場でジョセフを死なせてしまうのは、ずいぶんとドラマを安っぽくしてしまったという印象でした。結局、ジョセフはよきにつけ悪きにつけ、過去を大事にし、そのことを誇りとしてきました。ハンクにとって、父親との記憶が文句たらたらのものであったとしても、ジョセフにとっては正しいことをしたわけで、最後までその正しさに忠実に生きたということで一本筋を通しました。それに対してハンクはどうなのってところがこの映画の中ではかなり曖昧なのですよ。ラストカットは父親のようになりたいと思う決意の表れだと読むこともできるのですが、2時間半のドラマを締めくくるには、何か物足りないなあって思っちゃいました。こんな結末作るくらいなら、閉廷のシーンでドラマを終わらせ、、父親と息子は別の人生を歩んできて、これからも別の人生を歩むという見せ方にした方が、じわりとくる感動があったように思います。まあ、これは個人的な感想というか希望なので、この映画の結末に感銘された方もいらっしゃると思います。父と息子の和解がどこまでなされたのかの見方によって、この映画への感想は変わってくると思います。私は心底の和解はなかったと見えたので、こういう記事になってしまいました。

「恐怖の火星探検」はB級SFで低予算だけど、お話が面白いから楽しめます。


今回は廉価版DVDでゲットしました「恐怖の火星探検」を観ました。DVDのパッケージに「映画「エイリアン」の原点」ってサブタイトルに書いてあります。まあ、だから観てみようという気になったのですが。

火星探検ロケットが火星に着陸後、消息を絶ち救援ロケットが半年後に火星に着いてみれば、生存者カラザース(マーシャル・トンプソン)のみが発見され、彼は他の乗務員を殺した容疑で軍法会議にかけられることになります。そして救援機のヒューゼン艦長(キム・スポルディング)の監視下にカラザースは置かれ、地球へとロケットは飛び立ちます。しかし、その機内には、火星からの怪物が乗り込んでいて、貨物室に潜んでいました。カラザースは自分は誰も殺していない、火星の砂漠で砂嵐が起こったときにみんないなくなったのだと言いますが、救援ロケットの乗組員のほとんどは、その話を信じようとしませんでした。しかし、今度は救援ロケットの乗組員が一人二人と姿を消し始めました。ヒューゼンたちは、機内を捜索すると、一人の死体が通風ダクトから発見され、もう一人は別のダクトで虫の息なのが発見されるのですが、そこへ怪物が姿を現します。銃火器では歯が立たない怪物に、救援ロケットの乗組員もみんな殺されてしまうのでしょうか。

TVの「ミステリー・ゾーン」「宇宙大作戦」のジェローム・ビクスビーの脚本を「暗闇の悪魔 大頭人の襲来」「海獣の霊を呼ぶ女」のエドワード・L・カーンが監督した、1958年のモノクロのSF映画です。冒頭の火星のロングショットでチャチなミニチュアロケットを見たときは、これってダメSFじゃないのって思ったのですが、それは杞憂でした。特撮とか怪物の着ぐるみは、昭和33年のB級SFのレベルなのですが、それでもお話が結構面白くできていて最後まで飽きさせません。予算の都合もあるのでしょうが、火星で起こったことのシーンは一切なしで、主人公の口から語られるのみ。そして、宇宙船の外観もほとんど登場せず、舞台はほとんどロケットの中のみです。このロケットの中が5層構造になっていて、一番下に潜んでいた怪物がどんどん上の階へ上がってくるというのがサスペンスとなっており、人間側を単にやられるだけ、無駄に攻撃するだけにはなっておらず、どうしたら怪物を倒せるかと色々と画策するので、退屈させません。69分という短さですが、登場人物のキャラづけも一通りされていて、無駄のない描写と展開はなかなかに頑張っているという印象でした。演技陣が二流どころなのは仕方ないことと許容した上で、脚本と演出のうまさで、きちんと一本の映画として鑑賞するに足る内容になっています。ロケットの乗組員のキャラづけのドラマがくどくならない程度のさじ加減などは、娯楽映画としての点数高いと思いました。

ロケットには2人女性が乗り込んでいまして、年上の女性は乗組員の一人と夫婦で、若い方のアン(ショーン・スミス)はヒューゼンと恋人関係にあるのですが、アンの方がカラザースに惹かれ始めるので、ちょっとした三角関係になっちゃいます。また、兄弟の乗組員もいまして、その兄弟愛の部分もちょっとだけドラマに顔を出すなど、69分の映画にしては、なかなかに盛りだくさんでして、勿論、それぞれに深い突っ込みはないのですが、きちんと集団ドラマの体裁は整っていまして、このあたりは「エイリアン」につながっているところがありそうです。まあ、それより何より、宇宙からのモンスターが航行中の宇宙船で暴れまわる設定が「エイリアン」なわけでして、そのオリジナルと呼ばれるにふさわしいくらいのいいところを持った映画だと言えましょう。ウィルスに侵されて、正気を失った艦長がみんなの足を引っ張るシーンもありますし、いわゆる隔離された空間で起こる人間ドラマとしてありそうなものは一通り揃えてあるところも感心しちゃいました。「エイリアン」と同じ「だだっ広い宇宙空間に閉じ込められた」という設定がきちんと生かされているってところも点数高いです。この映画1本だけ観ても「ふーん、只の安いB級SFだね」と見過ごすところでも、傑作「エイリアン」の元ネタと思って見れば、結構作りが丁寧でよくできてることがわかるってのは面白いと思いました。安いB級SFでも脚本がちゃんとしてると面白いってのは、「地球最後の男」を観た時に思ったのですが、他にもそういう当たりの映画があるんだなあってのは発見でした。

一方の怪物は、人間型のヌイグルミ怪獣で、毛むくじゃらの手足、うろこ状の体に鬼みたいな顔がついてまして、まあゴリラとトロルにあいのこみたいな見た目です。ぶっちゃけ安っぽい作りなのですが、設定だけは丁寧でして、接触するとウィルスに感染してしまうという厄介なやつで、捕まえた人間から水分を吸収してしまうということで、吸血獣という別名も持っています。さらに怪力の持ち主で、出自は火星に昔いた原住民が退化した成れの果てだろうという解釈をされます。そういう手の込んだプロフィールの割には見た目が安っぽ過ぎるという難点はあるものの、それは言い換えれば、脚本がよくできているということになります。ラストで無敵の怪物をどうやってやっつけるのかというところも、B級らしさのない腑に落ちるものになっています。

そして工夫しているなって思うのは、ロケットの作りを5層構造にして最下層に忍び込んだ怪物が上にやってくるので、人間側もだんだん上の層へ追い詰められるという設定です。怪物の背後に回るために、一度、機内を出て、機外を伝って下の層へ下りるという作戦も使ったり、その下層のエアダクトから潜入するときは上のフロアで音を立てて怪物の気を引くとか、上下の構造をうまく使った展開にして、絵的にもわかりやすくしています。着ぐるみ然とした怪物が暴れまわるだけの絵なのに、お話として色々と手をつくしているのがいいところです。これだけのセットで、色々な展開を見せてくれるあたりは、日本での特撮ありきから発展したSF映画では作れないだろうなあ。似たような設定の日本映画だと「吸血鬼ゴケミドロ」がありますけど、怪物と人間の攻防戦の面白さは残念ながらなかったからなあ。(まあ、ゴケミドロは恐怖メインの映画だから趣向が違うのですが)



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怪物は原子炉室に入り込み、そこで放射能を浴びるのですが、それでもダメージはなし。そして、いよいよ一番の上のフロアまで上がってきました。気がつくと、機内の酸素が予想外に減っていました。火星の薄い空気の中で生きてきた怪物は、肺活量がものすごくて、その結果、たくさんの酸素を消費していたようなのです。そこで、生き残った人間はみな宇宙服を着て、怪物を待ち、ハッチを壊して怪物が上がってきたところで、それまで足を引っ張っていたヒューゼンが自分の身を挺してエアダクトを開きます。船内の空気は一気に抜けて怪物は窒息死します。そしてヒューゼンも帰らぬ人となりました。

エアダクトを開くというのは「エイリアン」でも使われていましたが、この怪物はあっさりと窒息死してしまいます。結局追い詰められた人間が最後に一矢報いて勝利を収めるのですが、どことなく苦い勝利感になるあたりは不思議な味わいがありました。ラストは地球で宇宙局のスポークスマンが、軍法会議は不要になったこと、そして火星には友好的な生物のいない地獄の惑星だと言ったところで終わります。まあ、こっちから勝手に行っておいて、相手に好きなレッテルを貼るなんていい気なもんだと、今なら思うのですが、東西冷戦の時代だと、たとえ火星であっても、こっち陣営なのかどうなのかが気になっちゃうのかも。ともあれ、お金がかかっていないので、画面はチープではあるのですが、その割にお話がよくできています。B級でも知恵を使えば面白い映画は作れるという典型的な作品と言えましょう。

「フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック」はマジ怖いSF映画としてオススメ、後味ゾゾゾな映画です。


子供の頃、テレビの深夜映画で観て、よくわけがわからなかった「フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック」が安価なDVDで出ていたのでゲットしました。この邦題はテレビで放映された時と同じでして、今見れば「パニック」はハッタリ邦題でしかないのですが、昔の劇場未公開作品のテレビ放映時にかなりいい加減なタイトルがついていたなあってのを思い出しました。

宇宙で発生した異常気象(← 何じゃそりゃ、その字幕は?)のせいで、地球のアリに異常な行動が始まります。彼らはアリの種類を超えて、思考し議論し、何か行動を起こし始めます。砂漠地帯でのアリの異常な繁殖に気付いたハッブス博士(ナイジェル・ダベンポート)は、暗号専門家のレスコ(マイケル・マーフィ)を助手に指名して、不思議なタワー状の蟻塚が築かれた砂漠の真ん中に、政府のお金でドーム状の研究室を設営して、アリの観察を始めます。しかし、何も起こらず、政府からもそろそろ結果を出せとせっつかれたハッブスは蟻塚を破壊します。するとアリの動きがあり、近所の農場を持つ一家をアリが襲撃し、ドームにも攻撃をしかけてきます。ドームから散布された殺虫剤で一家の人間は娘ケンドラ(リン・フレドリック)を残して全員死亡。ケンドラは、レスコらにドームに保護されます。もう、これ以上は危険だから脱出すべきだと言い出すレスコに、ハッブスはアリとの闘いを楽しんでいるようであり、人間の英知がアリごときに負けることはないという自信があるみたいで、助けを呼ぶ気はありません。翌日、ドームの周りには台形状の蟻塚が囲んでいました。日光が反射してドームに当たる仕掛けになっていて、ドーム内の温度が上昇、業を煮やしたレスコは自ら無線で助けを呼ぼうとしますが無線が壊れていて、中を開けるとアリの死骸がいっぱい。さらに、アリはエアコンに入り込んでショートさせて、温度は上がり放題、コンピュータが作動しなくなります。レスコはアリが苦手とする音波を取り出して、それを大出力で放出して蟻塚のいくつかを破壊するのに成功しますが、エアコンが壊れてしまって、夜しかコンピュータが動かないなか、ドームの中にもアリは入り込んできました。果たして、ハッブスたちは生き残ることはできるのでしょうか。

アート・デザイナーであり、映画のタイトルデザイナーとしても有名なソール・バスが、「未来世界」のメイヨ・サイモンの脚本を演出したSF映画です。1974年の作品だと観た後で知ったのですが、なるほど、あの時代らしいペシミスティックなSFでして、観終わった後味は、「ぞぞっ」って感じ。こういう後味の映画は最近はまずお目にかかりません。社会派ドラマの厳しい結末や、恐怖映画のもやっとした怖さとは違う、もう八方塞り出口なしのスケールのでかい怖さなのですよ。1968年の「猿の惑星」もラストで大スケールの怖さを見せてくれましたが、この映画は、アメリカの砂漠の一画の数日間を描くだけで、宇宙スケールの怖さを感じさせてくれました。怖さという視点からすれば、これはすごい映画かも。後、リン・フレドリックというとびきりかわいい女の子をおがめる映画でもあります。

アリが色々と企んだり攻撃を仕掛けてくるというのを、実際のアリで見せてくるのです。アリのシーンはケン・ミドルハムによる、驚異的な接写撮影により、アリのどアップの映像が登場し、それを見事につないで、アリの演技を演出しています。多分、アリを刺激してそのリアクションを何千通りも試して、ドラマに合致する絵のみをピックアップしているのでしょうが、アリが整然とある意思によって動かされているように見えるのがすごい。一方の人間はたかがアリだとなめてかかっているので、観客は、おいおいそんなにのんびりしていて大丈夫なのかと突っ込みが入ってしまいます。アリの行動を丹念に見せることで、観客は不気味な怖さを感じるようになってきます。

アリたちは、個々の意思というものがなく、集団として一つの意思として動きます。ですから、各々の個体は自己を犠牲にすることもいとわず、通信機やエアコンに入り込んでショートさせてしまいます。その特攻の結果を別のアリが見届けるとそれが女王アリに届くようななのです。アリたちは、女王を中心に一つのシステムを形成し、その末端にいたる兵隊アリまでネットワークは張り巡らされているのです。さらに、その知性は人間の行動パターンを読んで、攻撃をしかけてくるのですよ。そうでなくては、人間側の急所である通信機やエアコンへのピンポイント攻撃を仕掛けられるわけがありません。女王アリを中心に末端の兵隊アリまでが一つの意思に統一されたシステムであり、システムを動かしている頭脳はものすごく冷静で賢いのですよ。極限まで研ぎ澄まされた全体主義社会を相手にしては、つまらない優越感とプライドに振り回されてる人間側にはどう見ても勝ち目はありません。

最初、ハッブス博士はトーテムポール状の蟻塚の群れの前に、研究用ドームを作り、観察をはじめますが、アリはなかなか動きを見せません。そこで、博士は蟻塚を破壊することで、何か動きがあるだろうと先制攻撃をかけてみるのですが、人間側が仕掛けたように見えて、実はアリ側にそう仕向られ、罠にはまったようなのです。どんどん、追い詰められていく3人ですが、アリは人間を直接傷つけるような攻撃は見せません。通信路を絶たれ、外に出ればアリの群れの直接攻撃をうけてしまう状態で、3人は研究ドームに籠城せざるを得なくなります。アリはドームの中にまで入ってきているのですから、3人を殺そうと思えば殺せるのに、なぜか温度上昇の攻撃を加えるだけで、コンピュータや食料を破壊することはしません。人間側は、今やアリに生かされているような状態です。アリは、3人をどうしたいのかがよくわかりません。レスコはそれを不気味に感じるのですが、博士はまだアリとの知恵比べが決着ついてないと思っているようです。

ソール・バスの演出は、ケン・ミドルハムのアリのシーンにサポートされて、じわじわと追い詰められていく人間(といっても3人ですが)の様子を淡々と描いていきます。アリのシーンが大変スリリングなのに比べると、淡泊な演出ではあるのですが、その人間とアリのドラマのテンションの差もラストの怖さへの伏線になっています。博士だちは、単に大量発生したアリの研究のつもりだったのですが、アリの方は全員一体となって人間側へ仕掛けてくるのが、観客に伝わってくるので、これは何かとんでもないことが起こっているのを、登場人物より先に知ることになるわけで、そこに生まれたサスペンスが見事でした。上映時間83分という短めの映画ですが、ムダな説明や人物描写を一切排して、人間対知的生物の、種の存続を賭けた闘いを、砂漠の一画の3人の人間だけで、コンパクトなドラマの中に描き切ったのは、メイヨ・サイモンの脚本の力があってのことだと思います。

博士を演じたナイジェル・ダベンポートはアリの知性に「おお、なかなかやるな」と余裕を見せているうちに追い詰められて逆上してしまう人間様の傲慢さを熱演しています。また、博士に振り回されて逃げ遅れてしまう気の毒なレスコを演じたマイケル・マーフィは、この映画の狂言回しとして驚愕の結末を見届けることになります。ケンドラを演じたのは、「さすらいの航海」「熱愛」の可憐なリン・フレドリックでして、ピーター・セラーズと年の差結婚して、40歳を前に夭逝してしまったある意味伝説の女優さん。この映画でも、この世のものでないキレイさがラストの衝撃に一役買っています。とにかく、話が面白く展開して、ラストで怖い映画ですので、一見をオススメしちゃいます。



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ドームの中には3人。外へ出るための防護服は2着しかありません。険悪になる博士とレスコを見て、ケンドラは自分が犠牲になればいいと、一人で外に飛び出します。そして、アリにつかまってしまうケンドラ。一方、博士は女王アリのいる蟻塚を特定し、攻撃しようと、レスコが止めるのも聞かずに外へ飛び出し、アリの群れのえじきになってしまいます。一人残ったレスコは、防護服を着て、女王アリのいる蟻塚までたどり着き、中へ入ることに成功します。そこは竪穴になっていて、穴の底は広場のようになっています。その中心は砂場です。すると砂の中から人間の指が現れ、徐々に姿を現したのは、エンドラでした。両手をさしのべる彼女を抱きしめるレスコ。彼のナレーションで、結局、アリたちの目的は、レスコとエンドラだったと語られます。彼らは人間でないものに変えられて、アリたちの仲間にされてしまいます。その訳をいずれ知ることになるだろうとナレーションが語り、夕陽をバックにエンド・クレジット。

クライマックス、砂の中から、まず指が現れ、徐々に姿を現すエンドラの怖いこと。姿は、人間のままなのに、完全にこの世のものではなくなっているという絶望的な結末です。最後に、アリたちにとってのアダムとイブになったらしい二人が夕陽をバックに手を取り合ってるラストカットも不気味です。とにかく、これで人類は終わりだねってのが、見事に伝わってくるエンディングでして、予算はなくても、世界の終わりは作れるんだなあって感心しちゃいました。登場人物の中で、感情を顕わにするのが博士しかおらず、他の2人は淡々と事態に対応しているように見える演出が、薄っぺらい人間ドラマをうまく回避して見事でした。終末の始まりの目撃者という位置づけだったレスコが、最後まで感情的にならず、事態を冷静にナレーションするのが、その絶望感にリアリティを与えているのですよ。両親を失ったエンドラとか、逃げられたのに逃げそびれたレスコが、恨み言を言ってもいい筈なのに、そこをあえて押さえて、クライマックスでアリのドラマへシフトチェンジしたのがうまい。語り部の冷静な視点が、この映画に本気の怖さを運んでくるのですよ。最近の映画で、これだけ怖い後味の残る映画は観たことがなかったので、それがすごい新鮮でした。これが幽霊とか悪魔といった、人間らしさを持ったものが対象だと、相手側の怖さを理解できる余裕があるのですが、相手がアリで本当に何を考えているのかがわからないだけに、そのわからない部分と、砂の中から現れるエンドラのイメージが重なって、得体の知れない怖さを感じさせる映画でした。1960~70年代のペシミスティックなSF映画というと、人間が増え過ぎた世界(「ソイレント・グリーン」)ですとか、核戦争後の世界(「赤ちゃんよ永遠に」「猿の惑星」)といった、人間の愚かさが招いた世界の終末というのが多かったのですが、この映画は、人間なんてモノともしないアリによる世界の終わりを描いていて、その視点が大変目新しく、今、観ても古さを感じさせません。

「デビルズ・ノット」を他人事ではないと気付くとこの映画の怖さが見えてきます


今回は新作の「デビルズ・ノット」を沼津ジョイランドシネマの有楽座で観てきました。去年の暮、ここの宝塚劇場で「嗤う分身」を観て、昔ながらの劇場の作りに、街の宝だなんて記事を書いてしまったのですが、2015/2/27で、宝塚劇場と有楽座(後、たぶん成人映画館の沼津シネマ10も)が閉館しちゃうというので、すごくがっかり。まあ、前回も今回も朝1回目の観客が私もいれて2人しかいなかったので、大丈夫かなあって思ってはいたのですが、昔ながらの映画館ってのはもう成り立たないのかなあ。沼津駅のすぐ前にあって、地の利は十分だとは思っていたのですが、もはや駅前も必ずしもよい立地ではなくなっちゃったのかなあ。いい映画やってるのに、お客さんがいないのは寂しいし、これからは、映画ファンのための映画はシネコンの一画を間借りする隙間商売になっちゃうのかも。あ、そうは言っても、シネスコサイズの映画を、ビスタサイズの画面で上下を切って上映するのは減点です。これはブルーレイ上映なのかな。(最近のフィルムじゃない上映方式がさっぱりわからないの。)

1993年の5月、アーカンソー州ウエスト・メンフィスはキリスト教の信仰の厚い保守的な地域のようです。そんな街で、学校から帰って遊びに出た少年3人、スティーブ、マイケル、クリストファーが行方不明になります。警察も総力をあげて捜索を開始、少年たちが向かったと思われるロビンフッドの森で、3人の少年は全裸で手足を縛られて暴行された死体として発見されます。少年が行方不明になった夜、レストランで血塗れの黒人が現れ、そして姿を消していました。一方、警察は、スティーブと顔見知りの少年クリス(デイン・デハーン)に目をつけますが、その証拠を押さえることができないでいました。すると、3人の友人だという少年が犯行現場に居合わせたと警察に証言してきます。その少年の証言により、悪魔崇拝者だと言われるダミアン(ジェームズ・ハムリッシュ)とその友人ジェイソン(セス・メリウェザー)、そして知能障害の傾向のあるジェシーという3人の十代の少年が浮かび上がります。ジェシーは警察に誘導されてダミアンとジェイソンが共犯で3人の少年を殺したという証言をし、警察は3人を逮捕し、世論は死刑も辞さないという方向に動いていました。死刑反対論者で調査会社を経営するロン(コリン・ファース)は、起訴された少年の弁護団に協力を申し出、事件の調査を始めます。裁判が始まってみれば、3人の犯行を証明する物的証拠がなく、ジェシーの証言の一貫性のなさもわかってきたのに、3人は有罪という方向へと流されていきます。スティーブの母親パム(リーズ・ウィザースプーン)も、この裁判から、本当にダミアンたちが犯人なのかどうかがわからなくなってきます。

実際に起こった猟奇殺人事件を描いた実録ドラマです。ジャーナリスト、マラ・レヴェリットの原作を、「エミリー・ローズ」「NY心霊捜査官」のポール・ハリス・ボードマン、スコット・デリクソンのコンビが脚色、「スウィート・ヒアアフター」「クロエ」のアトム・エゴヤンが監督しました。事件の登場人物はすべて実名で登場しますし、この事件が冤罪事件ではないのかというスタンスで描かれていまして、ある意味、明確なメッセージを持った映画と言えますが、事件の真相はこうだというスタンスではないという、中途半端にも見えてしまう作りにもなっています。実はこの事件に関しては、有名なドキュメンタリー映画があり、事件の概要はそのドキュメンタリーで描きつくされているらしいのです。そこへ、改めて劇映画として登場したこの映画が、事件の真相に迫り切れていないということで、いい評価はされなかったらしいのです。でも、この映画で初めて事件について知る、私のような観客にとっては、結構面白い映画でした。

と、申しますのも、この映画は、単なる冤罪事件以上のコミュニティの怖さのようなものを描こうとしているからです。実はこの映画はラストで事件の真相はこれじゃね?という事実を前面に出してくるのですが、脚本と演出はまだ社会的な決着のついていない事件に対する明確な意思表示を避けようとしている節もあります。それをやっちゃうと、ティーン3人を犯人に仕立てたコミュニティと同じになってしまうから、避けているという感じなのです。事件の真相よりも、アメリカの社会の抱える排他性と偏見を描いた映画だと思うと、腑に落ちるところがいくつもあります。この映画で登場するコミュニティが悪魔崇拝をしたというだけの理由で、殺人犯と決めつけ、その偏見が警察、司法までひっくるめて及んでいるという怖さは、サダムフセインが核を持っているという根拠のない決めつけによって戦争を盛り上げたアメリカという国の怖さにつながってくるのですよ。「決めつけ」という言葉を使いましたけど、これは言い換えると「誰かが誰かをスケープゴートにしたいという思い」と言い換えてもいいと思います。小学生の少年3人が惨殺された事件に対して、コミュニティは犯人を欲したのです。そして、その思いを感じ取った警察や司法という公の機関が、3人のティーンエイジャーを生贄として捧げ、コミュニティはその生贄を受け入れることで溜飲を下げたという構図が見えてくるのですよ。

そういう構図が見えてくる怖さは、猟奇的殺人事件の怖さや、冤罪事件の怖さとは別のものと言えましょう。小学生3人を惨殺されたコミュニティは、怒りと怯えから、何らかの解決と安心を欲しがった、そして公的機関がそれを与えて、コミュニティはそれに満足したということではないかしら。そして、その構造は、時として冤罪事件も生むし、場合によっては戦争まで引き起こすのです。さらに、そういう精神構造は、実は誰もが持っている普遍的なものだとしたら、この映画のような冤罪事件を引き起こす可能性は誰もが持っているのです。映画はその構造に疑問を抱いたロンとパムを主人公にして描かれているので、観客は「正しい」立場から、この一件を俯瞰することになるのですが、実は観客も冤罪を引き起こすコミュニティ側の人間なのかもしれないというのが、この映画の怖さなのだと思います。

それは、このコミュニティが熱心なクリスチャンであり、スケープゴートが悪魔崇拝者(とみなされた若者)であることからも、アメリカ人にとっては他人事ではない話だと思えたのです。映画の中で、惨殺された少年の死体がかなりリアルな映像で登場します。それによって観客は、この惨殺事件の犯人は捕まるべきだと感じるのです。そして、悪魔崇拝者であると見なされたダミアンが、あえてその偏見に何も苦情を言わなかった時に、観客もダミアンを犯人だと受け入れることに納得するのではないかしら。ただ、この映画は冤罪事件らしいという雰囲気が既にアメリカ国内にもあるらしいので、観客が簡単にダミアンを猟奇殺人犯だとは思わないだろうなってことがあります。でも、ひょっとしたら、多くのアメリカ人、特にクリスチャンの多くが、まだダミアンを犯人であると思っているのかなって気もしたのです。実際のところ、悪魔崇拝者なら猟奇的犯罪を犯すだろうと思っている人間がどのくらいいるのかわからないのですが、キリスト教って結構排他的なところありますから、熱心なクリスチャンのコミュニティだとまだそう考える人間が結構いるのではないかと、私は偏見込みで思っています。(← 私の偏見の方が怖い?...かも)

また、この映画で、物的証拠がないのに有罪まで持っていかれちゃうってのは、怖い話だと思いました。保険金殺人事件の木嶋早苗被告が決めてとなる物的証拠がないまま、状況証拠の積み重ねだけで死刑判決を受けたのを思い出しました。保険金殺人事件の裁判の詳細までは知らないのですが、この映画では、物的証拠がないまま、検察側は、あやふやな証言や悪魔崇拝者だからといった理由で、ダミアンたちは有罪なのだと陪審員を説得し、有罪判決を導き出しています。アメリカの司法は、推定無罪から始まるという原則からすれば、これはもうコミュニティによるリンチに近いのですが、1990年代のアメリカでまかり通ったという事実は、歴史として記憶しておいたほうがいいかも。その意味で、事件の真相をぼやかした、この映画の存在価値はあると思います。

エゴヤンの演出は、淡々と事件を追っていくというタッチなのですが、そこから上記のようなコミュニティの怖さを感じさせたのはなかなかの曲者だと思います。コリン・ファースとリーズ・ウィザースプーンは、この裁判に疑問を抱く立場の人間なのですが、ラストでは「何もわからない」と語ることで、その疑問を持つ立場の弱さを見事に表現しています。二人の立場が、誰もが認める正義の上に立っていないというのは、この映画の重要なポイントだと思います。疑問を持っても、ほとんどの人がその立場を貫くことができない、だって人間なんだもの。うーん、確かにそうだよなあ、あまり認めたくはないけれど。



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ロンは調査結果をダミアンたちの弁護人に伝え、何とか捜査の不備を立証しようとしますが、バーネット判事(ブルース・グリーンウッド)はこどごとく、それらの証拠を却下していきます。そして、彼らが殺した重要な証拠である、被害者の親友という少年の証言は、別の犯罪でマークされていた少年の母親が警察に売り込んだもので、その母親がダミアンたちについて証言している内容もあきらかにでっち上げの様相が濃いことがわかってきます。つまり、ダミアンたちが殺人を犯したという根拠となる少年の証言とジェシーの証言がことごとく怪しいとわかってくるのです。しかし、それでも、最終的に陪審員は、3人を有罪とし、判事はダミアンに死刑を宣告します。裁判が終わった後、ロンが事件現場を訪れるとそこには被害者の母、パムがいました。「この裁判は、最初から誰を有罪にするのか決まっていたみたい」と彼女は言います。さらに「殺された息子が肌身離さず持っていたナイフを、自分のダンナ(スティーブの継父)の道具箱にあった」と言います。「もう何もわからない」というパムに、「私も何もわからない。ただ、あの3人は無実だ」というロン。そして、ダンナと別れて町を去っていくパム。その後の経過の字幕が流れて暗転、エンドクレジット。

その後、3人は司法取引で、無実を認めつつ、裁判の結果も受け入れるという条件で釈放されたのだそうです。相変わらず事件の真相は確定していません。血塗れの黒人も行方不明だし、3人を犯人だと証言した少年もあれはウソだと認めているようです。それでも、事件の真相はわかっていないという立場をこの映画は取ります。たぶん、そうしとかないと、邪推と偏見がまた別の無実の人間を犯人にでっちあげるかもしれないと思ったのではないかしら。「本当のことは当事者にしかわからない」というスタンスをとった「エミリー・ローズ」の脚本家コンビらしい結末になっています。

「TRASH トラッシュ!-この街が輝く日まで-」は、少年冒険小説の映画化として楽しむのが正解かと。


今回は新作の「TRASH トラッシュ!-この街が輝く日まで-」をTOHOシネマズ川崎プレミアスクリーンで観てきました。初日の初回からプレミアスクリーンでの通常料金での鑑賞。客が集まる映画にはキャパの大きな劇場を割り当てるので、プレミアスクリーンのプレミアの需要はほとんどないのかも。座席がリクライニングなのはありがたいけど。

ブラジル、リオデジャネイロ郊外のゴミ捨て場では、ゴミを拾って暮らしている人々がたくさんいました。そんな中の一人の少年ラファエル(リックソン・テベス)は、ゴミの中からサイフを拾います。中の金を相棒のガルド(エデュアルド・ルイス)と分けて、さらに中を見ると、カギとか数字の書かれたカード、女の子の写真とか色々と入っています。実は、このサイフはジョゼという男が警察に追われてゴミトラックに捨てたのです。ジョゼは警察の拷問を受けて死亡。どうやらそのサイフに何かいわくがあるようで、ゴミ捨て場に警察が現れ、サイフを見つけたら賞金を出すと言い出します。それを知ったガルドは賞金をもらおうと言い出すのですが、ラファエルは何かおかしいと思い始め、地下に住むラット(ガブリエル・ウェインスタイン)に相談をかけると、まずカギは駅のコインロッカーのカギだと言い、3人で駅に向かい、コインロッカーをあけるとそこには一通の手紙が入っていました。その夜、ラファエルは警官のフェデリコ(セルトン・メロ)に拉致され、車のトランクに放り込まれて蛇行運転されるという拷問を受け、サイフのありかを尋問されるのですが、ラファエルは一言もしゃべりませんでした。教会のジュリアード神父(マーティン・シーン)の手当てをうけたラファエルたち3人は、サイフにまつわる謎を解こうと、教会ボランティアのオリビア(ルーニー・マーラ)に頼んで、手紙のあて先の弁護士に会うために刑務所に面会に行きます。果たして、サイフにまつわる秘密とは何なのでしょうか。

英国人アンディ・ムリガンの原作を、「ラブ・アクチュアリー」「アバウト・タイム」の監督であるリチャード・カーティスが脚本化し、「リトル・ダンサー」「愛を読むひと」のスティーブン・ダルトリーが監督しました。映画の柱である3人が英国人で、ブラジルのお話をリオデジャネイロのロケをして撮影したという作品で、ブラジル映画界の人間も多数参加しています。映画の無国籍化というのは、複数国の資本が入っているだけでなく、企画がイギリスで行われて、ブラジルで撮影されるブラジルのドラマという形でもあるんだなあってのが発見でした。まあ、日本でロケしたアメリカ映画もあるわけですから、驚くには当たらないのですが、イギリスとブラジルという取り合わせが妙に新鮮に感じられました。ブラジルというと、申し訳ないのですが、サンバ、貧困そして犯罪という先入観がありました。この映画では、ゴミ捨て場でゴミを拾って生計を立てている人々が登場して、主人公はそこで暮らす一人で、どうやら親はいないらしく、教会の世話にもなっているらしいです。かなり悲惨な状況であるのですが、その悲惨さを前面に出すことはせず、サイフを巡る攻防戦がメインになっています。あえて社会派と距離を置いている点は、議論が分かれると思うのですが、ここを題材にしている割には描きこみが足りないとも言えますし、少年たちに主人公にした冒険活劇として娯楽映画にまとまっているとも言えます。私としては、娯楽映画としてのアベレージを押さえていると思いますが、現代社会の希望を描いたとしたら底の浅い映画かなって気がしました。脚本と監督がブラジルから見て、外国人であることから考えても、リアリティを期待するのは無理かなって思います。最近のハリウッド映画で、日本を舞台にしたとき、ほぼ間違ってないんだけど、何か違う感じなんだよなあっていうのと同じことをブラジルの人も感じたのではないでしょうか。(← これは私の完全な当てずっぽうで、根拠ゼロです、念のため。)

悪の黒幕は映画の最初から登場してきまして、これが市長候補の有力政治家のサントスでして、どうやらサイフには彼にとって都合の悪いものが入っていたようなのです。そして、主人公の少年3人が警察のフェデリコにマークされてしまい、ラファエルは拷問を受けて、その後殺されかかるのですが、警官が少年殺しを嫌って、その結果命拾いします。ラファエルが警察に連れ去られたことを知って、ジュリアード神父は警察署にかけあい、そこにいないことを知ると、もう彼は生きていないだろうと祈りの言葉を唱えます。このシーンはブラジルの警察は不正がはびこっていて、子供の命であっても簡単に始末されてしまうという状況が伺えます。これが本当のことかどうかはこの映画だけでは判断がつかないのですが、映画の中では、警察に目をつけられたら勝ちめのない状況として描かれています。その勝ち目のなさの部分を最後で大逆転できたのかというと微妙な結末になっていまして、紙芝居的なめでたしめでたしになってしまうのは物足りなく感じるところがありました。

後でパンフレットを読むと、この原作が青少年向けに書かれた小説だそうで、それなら、リアルな結末にならないもの許容範囲かなって、後で感じました。この映画では、リアルな段取りよりも、正義というものをスラムに住む少年が実践して、勝利を収めるというところに重きを置いていまして、大人目線のツッコミはどうやら野暮な事のようです。このあたりは、この映画がどの世代を相手にしているかによって評価が変わるところでして、大人相手にするには、結末が甘いとも言えますし、子供相手というのは拷問シーンの血糊が多いかなって評価が分かれてきます。正直なところ、あまり大人目線で観る映画ではないのかなという気がしていまして、殺伐とした内容ながら、語り口には昔話の絵本のような味わいが感じられました。三人の少年ラファエル、ガルド、ラットには、お互いが引き立つような明確なキャラづけがされていまして、3人で臨めば何でもできるというパワーのある描き方になっているのも、子供の観客が感情移入しやすいようになっていますし、本当なら、ものすごい汚い環境であるはずのゴミ捨て場も不快にならない絵作りがされていましたし。また、少年たちが色々とプランを立てて行動すると、それがうまくいかなくなってドタバタする有様をコミカルに描くなど、年少観客を意識した展開になっています。その一方で、悪役の描写はかなりえげつないので、そのあたりの狙いを定めきれていないようにも見えました。社会派の監督と、ファンタジックな題材が多い脚本家が若干の齟齬をきたしているのも。

世界にはひどい環境で暮らしている子供たちがたくさんいると思います。そういう子供たちが大きな正しいことをするという寓話だと思えば、この映画は少年たちの勇気と、未来への希望をストレートに描いた作品と言えましょう。小学生の頃、少年が色々な冒険をする小説を学校の図書室で借りたりして、よく読んでいたなあってのを思い出しました。「宝島」とか少年探偵シリーズなど、挿絵つき小説として、少年が主人公の物語を楽しんでいました。昔は、そこに描かれている荒唐無稽な話を何も疑うことなく、素直に飲み込んでいたのですが、年を重ねるにつれて、そういうものをリアリティのないものとして切捨て、大人向けの読み物へとシフトしていったのですが、この映画は、その少年時代の目で見て、そこにある精神というかメッセージを素直に受け入れるのが、一番楽しめるのかなってところに思いが至りました。いつから、楽天的な結末に眉をひそめるようになっちゃったんだろうなあと思うと、もう子供の頃には戻れないんだなあってしみじみしちゃいます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



刑務所に入れられていた弁護士は、反政府的な活動をしていた逮捕されていたようで、貧しい人たちのための住宅建設をすすめようとしていた人のようです。サイフの持ち主ジョゼは彼のシンパでありながら、悪徳政治家サントスの腹心として信頼を得た後、彼の蓄えていた現金と贈賄の証拠ファイルを持ち逃げしたのです。そして、サントスから賄賂を受け取っていた悪徳警官がジョゼや少年たちを追っていたのです。ジョゼのサイフには暗号が仕掛けられていたと弁護士は言い、彼は自分の持っている聖書と照合すればメッセージがわかると言います。聖書を看守経由で受け取るためには1000レアルの賄賂が必要で、ラファエルたちは、神父の虎の子を盗んで聖書を手に入れます。一方、刑務所へ行ったことがフェデリコに知られてしまい、オリビアが警察に連行されてしまいます。しかし、その直前にオリビアは少年たちの証言をビデオカメラに収めていました。

ラファエルたちは、警察から逃げ回りながら、聖書とサイフに残されたメモを解読し、8桁の数字を導き出します。それは共同墓地の番号でした。そして、ラファエルたちが墓地にたどりつくと、そこにはジョゼの娘ピアの墓がありました。するとそこへ姿を現したのは、生きてるピア、彼女は父親にここに身を隠して自分が来るまで待つようにと言われていたのでした。ピアの墓に何かあることは間違いない、と思ったとき、銃を持ったフェデリコが現れ、ラファエルたちはその墓を壊して、棺おけを開けさせられます。そこには、現金と帳簿が入っていました。フェデリコが少年たちに銃口を向けたとき、隠れていたピアがフェデリコの頭上に墓石の破片を落として、形勢は逆転。フェデリコの銃を奪ってぼこぼこにして、金を持って、その場を去ります。ピアを含む4人は奪った金の一部と帳簿を神父に預け、神父はそれまでの成り行きの証言ビデオをYouTubeに乗せ、帳簿の中身もネットにアップします。そして、少年たちは、ゴミ捨て場に札束をばらまいた後、姿を消します。奪った金で、夢だった海辺の町で毎日楽しく暮らす4人の姿がありました。めでたし、めでたし。

少年たちが警察から逃げ回るシーンは活劇タッチになり、追う警察との攻防はなかなかに見応えがありました。クライマックスで死んでいた筈の娘ピアが実は生きてましたというサプライズがあり、最後は予定調和ですが、帳簿と大金は少年たちのものとなります。そして、悪い政治家サントスは告発されて、正義がなされたという、割と大雑把な結末となります。まあ、細かいところに突っ込みは入れられるのですが、そこは前述のように「まあまあまあ」で収めれば、少年冒険小説の映画化として楽しめる仕上がりになっています。子供向けというのは、追跡シーンとか結構手が込んでいて、007みたいな味わいもあるのですが、メインのストーリーはあくまで少年少女向けのお話と考えた方がいいみたいです。スラムで暮らす親のない少年が悪い政治家をやっつけて、お宝も手に入れてめでたしめでたしという結末ですが、それがどうかしましたか?という感じの映画です。(← 何のこっちゃですが、映画を観て、しばらく考えてからの結論がこれで。)

「毛皮のヴィーナス」面白い、でもこの凝った構図は大画面で観たかったなあ。


今回は新作の「毛皮のヴィーナス」をヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。駅に近いミニシアターとしてはグッドなのですが、フラットな座席是配置にスクリーン位置が低いのが難点。さらにこの映画の鑑賞には、ここのスクリーンは小さすぎたようです。

マゾッホ原作の「毛皮のヴィーナス」を脚色、演出することとなった劇作家トマ(マチュー・アマルリック)は、ヒロインのオーディションでろくな女優がやってこなくてがっかり、オーディション会場である劇場から帰ろうとしていると、そこへワンダ(エマニュエル・セリエ)という女優が遅れてオーディションを受けに現れます。もう他のスタッフや役者も帰った後なので、トマはオーディションは終わったと追い返そうとするのですが、ワンダはガムを噛みながら、何だかんだと言葉をかわして、帰ろうとしません。そのうちに彼女のテンポに乗せられて、トマは自分が主人公役になって、オーディションを始めてしまうことになります。ところが、いざ、ワンダが演じ始めると、これがさっきまでとは別人の高貴で奔放なヒロインのイメージにピッタリ。途中で茶々を入れながら、ドラマをぐいぐいと引っ張っていく彼女の演技力に、トマはオーディションにのめり込んでいきます。ワンダはこの劇の内容をよく熟知しているみたいで、トマへのダメ出しをも始めちゃうのに、それが結構いいところを突いている。まるで、自分のことを見透かしているかのようなワンダに戸惑いながらも、彼女の言葉に翻弄されていくトマ。婚約者と食事の約束をしているのに、どんどん時間が経っていく、電話がかかってくるたびに言い訳しちゃうトマですが、それでもオーディションを終われないのでした。

デヴィッド・アイブスの戯曲「毛皮のヴィーナス」をもとに、アイブス本人と、「ゴースト・ライター」「テス」「死と処女(おとめ)」のロマン・ポランスキーが脚色し、ポランスキーがメガホンを取りました。舞台となるのは、オーディション会場である劇場のみ、そして登場人物も2人だけといういかにも舞台劇らしい物語をシネスコの横長画面上に展開しています。もともと、ザッヘル・マゾッホの書いた「毛皮のヴィーナス」というのがありまして、それを作家のトマが自分流に脚色した台本で、トマ自身が演出もするという設定です。マゾッホといえば、サドマゾのマゾの方として有名な方、と、ここまでは私も知ってるのですが、「毛皮のヴィーナス」がどんなお話なのか、まるで存じ上げないので、映画についていけるのかしらんと思ったのですが、とりあえず元ネタを知らなくても楽しめる映画に仕上がっています。ただ、お話の中心となるのは、SM的嗜好でして、そう意識して見れば、結構エロい。制限なしのGランク映画にしていいのかと思うようなやり取りが主になるのですが、まあ、小学生がこんな映画観には来ないからいいのかな。

舞台で演じられるドラマは、主人公のクシェムスキー博士の部屋を、上流階級らしいドゥナエフ夫人が訪れるところから始まります。二人の会話の中から、クシェムスキーは幼い頃、彼の叔母により、全裸で毛皮の上に転がされて木の枝で鞭打たれたことで、自虐的な嗜好に目覚めたということがわかってきます。そして、ドゥナエフ夫人とクシェムスキーの間に、主従関係が生まれていき、彼は喜んで夫人の奴隷となっていくという、わくわくするお話なのです。わくわくするってのは、私がわくわくするんじゃなくて、作家のトマがどうもそんな感じらしいのですよ。彼としては、そういう特殊な嗜好の男女を使って、ある愛の姿を描こうとしたなんてことを言うのですが、女優ワンダとのやりとりから、あらあら、あなたもクシェムスキーなんじゃない?って雰囲気になってくるのですよ。トマとワンダのやり取りは、時として、舞台の台本となり、時として、トマ、ワンダ本人たちの会話になります。このあたりの、セリフが交錯することで、メタドラマみたいな感じになるのが面白く、ポランスキーの演出にぐいぐいと引き込まれていきます。決して、えげつない言葉のやりとりがされるわけではないのですが、男女の愛を描く背景であるとトマが豪語していたSM的主従関係が、実はドラマの核心であったことがわかってくる展開にぞくぞくするものがありました。

マチュー・アマルリックって、どうもリアルな人間じゃないような感じがして、生理的に苦手な俳優さんだったのですが、この映画で初めてうまい俳優さんだと納得しました。まあ、濃いキャラの持ち主なので、二面性を持つ倒錯した男を演じるのはふさわしいとは思うのですが、冒頭のトマはいかにも普通の演出家に見えるのですよ。これまで、普通のマチュー・アマルリックなんて見たことなかったので、この作品のキャラの触れ幅がすごいと感じられたのかもしれません。一方のエマニュエル・セニエは、単に押しの強いアバズレ風に登場するのですが、その演技力で、トマを魅了し、支配していくワンダという女性をくっきりとエッジの効いた演技で、演じきりました。二人のドラマが進むにつれて、お互いのキャラがどんどん盛られていく(キャラが変化していくのではなく、どんどん拡大していく感じ)という展開なので、役者としてもやりがいがあるだろうなあって感心しちゃいました。

ワンダは最初は、マゾッホの小説をただの女性蔑視のポルノだと切り捨て、トマを怒らせてしまうのですが、オーディションの台本読みを進めていくうちに、戯曲の中で、クシェムスキーは火星がドゥナエフ夫人に隷属していくように、トマもワンダにイニシアチブを取られていきます。最初は、ワンダが自前で持ち込んだ1800年代の上流階級の上着を着て、クシェムスキーを演じていたトマでしたが、今度は執事のような服を着せられて、ドゥナエフ夫人の奴隷の演技をすることになります。まあ、そういう台本を書いたのがトマ本人だから仕方ないのですが。ともあれ、時に我に返った発言もするワンダとトマなのですが、基本は台本に縛られている状態です。つまり、ワンダとトマは、台本に縛られた関係であり、その不自由さのせいで、いつも両者の間には緊張感が漂うことになります。演技にのめり込めば、我を失う、でも、演技は続けなければならない、その緊張感から選ばれる二人の言葉が大変面白いのですよ。これは、日本で翻案して、字幕よりもっとこなれた日本語でやりあえば、相当楽しめるお話だと思います。

ワンダは、単に、トマの本質を暴いているわけではありません。関係者しか持ってないはずの台本を持っているし、彼の婚約者のことも知っている。何でもお見通しだよーんと突きつけられることで、トマはワンダへ頭が上がらなくなっていきます。何しろ、劇の中でも、女主人と奴隷の関係ですからね。しかし、ドラマはさらにもう一捻りしてきます。

音楽は「おとなのけんか」のアレクサンドラ・デスプラが担当し、前作ではエンドクレジットだけだった音楽がドラマの要所要所に流れ、どこかウソ臭い高揚感とコミカルな味わいをかもし出しています。また、パヴェル・エデルマンの撮影は、ポランスキーの演出であろう、縦の構図を意識したドラマ設計に面白い映像を切り取っています。手前にトマ、奥にワンダといった構図や、登場人物が画面の前後に移動するという演出が多く、シネスコの横長画面でも奥行きを意識したカットが多いのが印象的でした。この構図の面白さが、ミニシアターの小さな画面では十分に堪能できなかったのが残念でした。シネコンの中クラスのスクリーンで観たいと思わせる絵になっています。この映画、DVDを待つより、劇場で鑑賞することをオススメします。普通、ここまで手前と奥の両方で俳優が演じる映画ってまずないと思いますから、これは大劇場で観たかったなあ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



クシェムスキーとドゥナエフ夫人の主従関係がピークになったところで、ワンダは、トマに夫人をどう演じてよいかわからないから、演じてみてくれと言い出します。そこで、トマが夫人を演じて見せると、ワンダはその演技を素晴らしいと言い、トマが夫人を演じたほうがよいと言い出します。しかし、そこから先でドラマの中で、クシェムスキーとドゥナエフ夫人の主従関係が逆転をしていくのですよ。最終的には、豹変したクシェムスキーにやり込められた夫人は、木につながれてしまうのでした。そして、舞台の照明が暗転して、場内真っ暗になっちゃいます。するとその闇の中から、ワンダが裸に毛皮をまとった姿で現れ、縛られたトマを挑発するように、踊りながら、彼の周囲を回って、そして、ワンダの視点で、彼女は舞台から遠ざかり、ドアを通って劇場の外へと向かうのでした。トマは縛られたままで舞台に取り残され、暗転、エンドクレジット。

トマの書いたドラマは、どうやら奴隷だったクシェムスキーが、逆転して今度はドゥナエフ夫人を奴隷扱いするという展開だったようです。最初にワンダが言った言葉「女性差別のドラマ」というのは、どうやら当たっていたようです。しかし、その時点で、ドラマを演じる役回りも交替していたので、結局、トマはずっと奴隷状態のままです。ワンダにしてやられたとも言えるのですが、自分で書いたドラマの中で、トマは予期していなかった(と思われる)しっぺ返しを食らうことになります。結局、トマの書いた戯曲は、最後で、主人公がSになるという展開で、いかにも男尊女卑のSっ気たっぷりの男が書いたような物語をたどった結果、トマは自分の中の男尊女卑とその先にあるMっ気に直面させられることになります。これは、トマという一人の人間の中で起こった葛藤を擬人化したドラマということもできます。ワンダは何でもトマのことを何でも知っていてお見通しということからも、実在する人間というよりは、トマのもう一人の人格としたほうが、腑に落ちるものがあります。

トマの中で抑圧されていたMの人格が、トマ自体が自覚しているSの方法で、罠にかけられ、最後には、Sの人格の暴露によって、Mの自分に直面するお話としていいのではないかしら。また、もう皮一枚うがって考えてみれば、トマの婚約者というのが結構怪しいのですよ。彼女も実在しない女性で、トマが自分のS人格を裏付けるために作り上げたものかもしれません。彼としてみれば、自分の本質とは正反対になるようなドラマを書けば、自分の中のM人格を封じ込めるとでも思ったのかもしれませんが、実はその策略こそが、自分の本質に直面する近道になっちゃったということではないかしら。トマにとって不幸だったのは、主従関係が強調されるオーディションというものの存在を甘く見たのかもしれません。オーディションの場での、演出家と主演候補の力関係からすれば、トマはずっと主の立場にいられた筈なのに、自分が主人公を演じてしまったために、立場が変わった自分の居心地よさに気付いてしまったのかなって。ともあれ、1時間半の中で濃密に展開するドラマは、言葉の洪水であり、その言葉を追うことで色々なものが見えてきて、楽しめる映画に仕上がっています。まだまだ解釈の余地はありそうですから、未見の方は鑑賞をオススメします。(できれば大劇場で)

「嗤う分身」は腑に落ちないまま終わってしまって、感想もふにふにしちゃいました。


2014年の最後の映画です。新作の「嗤う分身」を沼津のジョイランドシネマ宝塚劇場で観てきました。ここは古くからある映画館で、頭にジョイランドというシネコンみたいな名前をつけていますが、大画面の昔ながらの作りで懐かしい感じ。デジタル上映なんですが、大画面だとちょっとピントが甘いような印象を受けたのが残念。でも、このクラスの劇場でミニシアター向けの「嗤う分身」が観られるってのはすごくうらやましい。でも大晦日の初回、お客さんは私を含めて2人だけ。駅前でこんないい映画館でシネコンでは絶対やらない映画を上映してくれるのだから、もっとお客さんに入って欲しいわあ。今、私の郷里である静岡にはこういう映画館らしい映画館がなくなってしまったので余計めにそう感じます。沼津の宝塚劇場と有楽座は沼津市の宝だと思いますよ、いやマジで。

時代は不明、人々は大佐(ジェームズ・フォックス)に支配され、労働者は厳しい管理下にあります。ある会社で働くサイモン(ジェシー・アイゼンバーグ)は容量の悪い小心者で、上司からも入院中の母親からも見下されちゃっています。コピー室で働くハナ(ミア・ワシコウスカ)に声をかけたいけど、思うようにいきません。自分の部屋から向かいのアパートの彼女の部屋を覗き見し、彼女が描いては捨てている絵をダスターシュートの中から拾って来たりとストーカーみたいなことしてます。そんなある日、覗いていた望遠鏡に自分を見つめる男が映ります。男はサイモンに手を振るとそのまま階上から飛び降りて死亡。その直後、サイモンの職場に彼とそっくりそのままのジェームズという男が配属されてきます。ジェームズは上司の覚えもいいし、会話も女の子の扱いもうまい。でも、周囲の人間は、サイモンとジェームズがそっくりだと指摘してきません。ジェームズはオドオドキャラのサイモンに恋愛指南をして、ハナとデートすることができました。ジェームズは複数の女を手玉にとり、会社ではサイモンのレポートを横取りして、ますます上司の信任を厚くしていきます。IDカードをなくしてしまったことから、入社するにも面倒なことになってきたサイモンは、ジェームズに言われるままに代理でテストを受けたり、部屋の鍵を渡したり、どんどん自分の居場所がなくなっていきます。サイモンはこのまま全てをジェームズに乗っ取られてしまうのでしょうか。


正直言いますが、この先、この映画のことよく言ってません。よく理解できなかったからなのですが、それは単に自分の理解力が足りないだけという可能性大ですので、この映画を堪能された方は、できればパスしてください。私はどっかで腑に落ちるところのない映画には、文句言っちゃう性質なので。


ドストエフスキーの「分身」をもとに、アヴィ・コリンが原案を書き、コリンとリチャード・アイオワディが共同で脚本化し、アイオワディがメガホンを取りました。自分にそっくりな人間がいるという、ドッペルゲンガーのお話でして、この類の映画というと、今年は「複製された男」という映画がありました。自分そっくりの人間の正体が何者なのかがわからないというところや、そっくりの自分と対面してもそれほど取り乱さないといった似ているところがあります。この映画では、サイモンとジェームズがまるっきり逆の性格なことから、一人の人間の表と裏が具象化したというふうに見えます。見た目はまるっきり同じで人間をジェシー・アイゼンバーグが巧に演じ分けていまして、この俳優さん、うまいんだなってことを初めて発見しました。一見、やさ男なんですが、それが小心者のサイモンと自信家のジェームズに自然に演じ分けられているのに感心しちゃいました。

映画の冒頭から、地下鉄に乗る主人公が男から「そこは私の席だ」と車内ガラガラなのに、どかされてしまうシーンで始まり、その後も、何をされても反論できない、いわゆる、どんくさい系のサイモンの日々の様子が描かれます。地下鉄でIDカードをなくしてしまったため、会社に入る時に守衛にイヤミな止め方をされて、その後一々ビジターの手続きをしないと出社もできなくなっちゃうけど、何も言い返すことのできないサイモン。元が二枚目のジェシー・アイゼンバーグが演じているので、そのキャラに納得がいくまでに少々時間がかかるのですが、ダメ男サイモンは、いつも覗き見していた向いのビルからの飛び降り自殺を目撃してから、人生変わり始めるのですよ。普段、会社でうまく声をかけられないハナとも話ができたし、向うもまんざらでもないみたいだし。でも、会社に自分そっくりのジェームズという男が現れたことで、話がややこしくなります。上司がジェームズにすごく期待をしているらしいのですが、上司も含めて会社の誰もが、ジェームズがサイモンと瓜二つなことに触れないのがまず不思議。要はIDカードで識別される人格が全てであって、その違いがあれば、見た目一緒なんてどうってことないみたいなのですよ。或は、周囲の人間からすれば、サイモンなんて注意を払うに値しない人間だったのかも。

サイモンは役員の娘の教育係でもあったのですが、ジェームズが彼の代わりに娘にレクチャーしても、誰も怪しみません。逆にサイモンがジェームズの代わりに昇進テストを受けても問題ないのですよ。二人が同じ顔をしていることに、誰も興味を持たないけれど、お互い入れ替わっても大丈夫という奇妙な関係のようなのですよ。アイデンティティが曖昧というよりは、映画としての設定が曖昧な感じでして、最後まで観ても映画そのものが何か足元の定まらないあやふやした感じなのです。「複製された男」も訳のわからない映画ではあったのですが、作る側のあやふや感はなくって、わけのわからないものも、そのつもりで作ってるってのが伝わってきたのですが、この映画は何か違うなあって感じが拭えませんでした。展開そのものは面白いと思ったのですが、枝葉の向うに太い幹があるという感じがなくって、収拾できない趣向をとっちらかしたという印象だったのです。まあ、不条理劇ですし、私の理解力も怪しいものなので、ちゃんとした眼力を持った方がご覧になれば、腑に落ちるのではないかと思います。それでも、楽しめたのは、ジェシー・アイゼンバーグとミア・ワシコウスカの主演二人がよかったからで、設定をうまくこなしているので、それなりのリアリティを生み出していました。

時代設定はよくわからないのですが、コンピュータはあるけどかなり古いシステム、パーティで演奏されているのは'50年代のナンバー、さらに劇伴音楽として、日本のブルー・コメッツ(1960年代に活躍したグループサウンズのトップクラスの一つや坂本九のナンバーが日本語で流れています。テレビやエレベーター、地下鉄は古いタイプですし、1940年代に想像された1970年代の未来像がこんなものかなって感じなのです。そして、人々は大佐と呼ばれる独裁者に近い存在の下で管理されているようで、これは社会主義国の首席とか書記長といった役職を想像させます。それらの存在しない時代感や、社会観がこのドラマに、リアルじゃない、ふわふわした感じを与えています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



どんどん、ジェームズによって、自己の存在を脅かされていくサイモンですが、彼に面と向かって反抗することができないままです。しかし、母親の葬式に、ジェームズが自分の顔として参列しているのを見たサイモンは、思わず彼を殴ってしまいます。すると、自分の顔に痛みを感じ、鼻血まででてくるではありませんか。どうやら、ジェームズとサイモンは同じ人間だったようです。もう、ジェームズをやっつけるどころか、一矢報いることもできないのか。そして、サイモンは勝負に出ます。自分の首に傷をつけ、自分の部屋の向かいの窓に立ち、ジェームズに向かって手を振って飛び降ります。下は布のひさしがあり、一度跳ね返って着地するので、死にはしないもののかなりのダメージ。そして、同じダメージを受けているジェームズの部屋へ行き、彼をベッドに手錠でつないで、下へ降ります。そこに何事が起ったのか出てきたハナの腕に倒れこみます。救急車に運ばれるサイモンの前に、大佐の幻影が現れ、彼に向かって祝福の言葉をかけます。君は誰とも違う特別な存在なのだと。

ベッドでジェームズは失血死すると思われるのですが、その時に運命共同体サイモンは死なずに済むのだろうかという疑問は解けない結末でして、共倒れすることがわかっていれば、サイモンも手の込んだことはしないよなあって、思ってしまいました。一応、伏線として、中盤のシーンで、サイモンがジェームズにナイフで首に傷をつけられたとき、その傷はジェームズにはつきませんでしたから、そこに何か意味があったのかもしれないのですが、ラストでやっぱりサイモンとジェームズは両方とも死んじゃうんだろうなと思いつつ、なら、一気にサイモンが自殺すればいいじゃん....(以下繰り返し)

片方を殺せば、もう一方に死んじゃうってのは、ドッペルゲンガーネタでは定番なのかしら、昔観た「世にも怪奇な物語」の2つめのエピソード「ウィリアム・ウィルソン」が同じような展開だったなあってのを思い出しました。この映画のサイモンは共倒れを阻止できたのかどうか。一応、ラストの後味は、ハッピーエンド風なのですが、自分の片割れを殺しちゃうってことは、どういうことなんだろうと考えると、釈然としないところあります。才気あふれるジェームズを殺しちゃうってことで、その才気の部分を取り込めるのならいいのですが、結局、自分の長所を殺してしまうと、結局また、もとのミジメ君に戻っちゃうような気がします。

しかし、そもそもの発端である、ジェームズが現れたのはなぜなのか。映画の中で理由につながりそうなのは、飛び降り自殺を目撃したというエピソードです。ラストで、サイモンがこの行動を再現してみせるのですが、この飛び降りた男もやはり自分の分身を殺そうとしたということなのかしら。そもそも、分身の登場の因果関係は、観客に投げているということなのかも。自分の分身が現れて、それが妙に図々しくて要領いい奴だったら、腹立つし、自分がもっと惨めに見えてくるよなあ。私は、サイモンに近い、オドオド系キャラなものですから、彼には自然に感情移入できてしまいました。分身にいいように扱われて、かつ共依存関係にならざるを得ないとしたら、私も死にたくなるだろうなあ。と、色々な考えが頭に浮かんでくるのですが、結局行きつく先は「で、それが何?」というところになっちゃうので、この映画、ひょっとしたら、思わせぶりなだけかもって、気がしてきました。映像や美術の面白さはあるのですが、ドッペルゲンガーの殺し合いってのは、使い古された題材なのかもしれません。こういうネタで楽しませるなら、正確にはドッペルゲンガーとは違うのですが、「ガタカ」くらいのストーリーを作って欲しいって気がしました。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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