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「マッハ!無限大」はデカ盛りアクションをのんびり楽しむのをオススメ。


今回は新作の「マッハ!無限大」を川崎チネチッタ1で観てきました。プログラムも作られていないあまり扱いのよくない映画みたいです。タイのアクションスター、トニー・ジャーの映画はこれが初めてですが、アクションがすごいというくらいの予備知識はありました。共演のジージャー・ヤーニンの主演作「チョコレート・ファイター」がアクション映画の傑作(と私は思ってます、アクション映画くわしくないけど。)だったので、それなりの期待はありましたが、基本、配給会社の押しが弱い映画はそれなりの出来栄えだというのを、銀座シネパトスでよく経験してきましたので、まあ、そこそこの期待でスクリーンに臨みました。

タイの山奥で、像のコーンと暮らしていたカーム(トニー・ジャー)のもとに、像を買いたいという胡散臭い男たちが現れます。カームは、弟のようなコーンを売るなんてとんでもないと連中を追い払うのですが、その直後、コーンが何者かに誘拐されます。像を買いに来た男に会いに行ってみれば、男は既に殺されていました。その姪っ子のピンピン(ジージャー・ヤーニン)と妹のスースーがおじさんをカームに殺されたと思って、襲い掛かってきます。さらに警察にも追われることになるカームですが、かつての知り合いでシドニー警察のマーク刑事(ペットターイ・ウォンカラムオ)と出会い、彼から、要人暗殺計画がすすめられていることを知ります。像を誘拐したLC(RZA)は、たくさんの武道家の部下を持っていて、その中のNo2(マレッセ・クランプ)がピンピンのおじを殺したのです。さらに、LCはカームを捕えるべく町のワルを総動員して襲ってきます。一方で、ピンピンもおじの敵とカームを追っていました。果たして、カームは象のコーンを救出することができるのでしょうか。

トニー・ジャーが主演した「トム・ヤム・クン」の続編です。監督のプラッチャヤー・ピンゲーオと、アクション監督のパンナー・リットグライは前作からと同じ面々でして、トニー・ジャーとマーク刑事役のペットターイ・ウォンカラムオが前作からの引継ぎです。第1作が2005年で、この続編は2013年の映画ですから、8年後の続編ということになります。前作は未見ですが、誘拐された象を巡る争奪戦だったようで、今回も象が誘拐されたところから物語は始まります。

お話はすごく単純なんですが、それをつなぐアクションシーンがものすごく長いです。追跡劇にしても、ハリウッド映画の3倍くらい長い。それに、敵味方の入り乱れ度もすごい。この映画では、象を追うカーム、カームを追うLCの部下たち、そしてさらにカームをおじの敵と思っているピンピン姉妹という皆さんが激しいアクションを繰り広げるので、何と言うか手当たり次第って感じなのですよ。それでも派手な見せ場を作るのには成功していまして、まずは、低層ビル街の屋上でのオートバイに追われるカームのアクションシーン。オートバイが狭い屋上の隙間を走り回るので、かなり大変なアクションをしているようで、細かくカットを割るのも無理ないかなって気はしますが、映像として一番工夫されていたのがこのシーンだったように思います。屋上から人の乗ったオートバイが地面に叩きつけられるシーンはあれは生身の人間だったのかしら。CGやワイヤーは使っていますが、要所要所に痛そうなシーンをはさんでくるところに迫力があります。そして、屋上のバイクをやりすごすと、そのまま路上での追跡シーンとなり、オートバイや自動車がカームを追いかけてきます。そして、橋の上から足にロープがからまって落下するシーンまで行って、やっと一区切り。(落下シーンはワイヤーの補助があることがエンドクレジットのメイキングシーンで示されます。)うーん、長いよ、屋上でのアクションの切れがよかっただけに、路上に降りてからちょっと息切れしちゃった感じでしょうか。ストーリーを忘れさせるくらいの長いアクションシーンってのはどーなのよって気がしちゃいましたです。その次の見せ場は、No2とカームとピンピン姉妹の3つ巴アクションとなるのですが、とにかくNo2がメチャメチャ強いので、カームもピンピンもやられっぱなし。そして、スースーがNo2によって殺され、カームはLCの前に引っ立てられてしまうのでした。

お話を追うとすごくシンプルなんですが、アクション中心で、展開の先が読めないという面白さはありました。主人公の象へのこだわりは1作目で描かれているのでしょうか、そこはもうお約束のようになっていまして、象のためなら何でもしちゃう主人公が、象を追いつつ、自分も追われてしまうというあたりがドラマとしてのヒネリになっていたかも。ジージャー・ヤーニンは本筋とは関係ないサブキャラなのですが、何かあると登場しては、主人公を攻撃してくるという設定になっています。最初は、彼女抜きでストーリーを作ってあったのを後から、彼女の出番を足したように見えてしまいましたが、実際のところはどうだったのかしら。女学生風ルックスで登場するのですが、拳法が滅法強くて、さらに鍼の達人らしく、妹の持病の発作も鍼で治すし、敵に鍼を打って動きを止めるなんて芸当までできちゃうのです。まあ、設定のリアリティ云々言い出したら、こういう映画は楽しめないですから、何でもアリの世界です。そういう意味では、のんびり楽しむにはちょうどいいかなって感じにまとまっています。お話の展開が大雑把なのは、別にこの映画でなくても「エクスペンダブルズ」シリーズやスティーブン・セガールの映画で慣れっこになっていたのですが、それでも、もう少し、ドキドキハラハラがあってもいいかなあって気もしちゃいました。とはいえ、悪人の皆さんの痛そうなやられ方も迫力ありましたし、アクションを目一杯見せたいという意図は伝わってきました。

トニー・ジャーのパワフルなヒーローぶり、ジージャー・ヤーニンの健気さも感じさせる女ヒーローぶりはなかなかの見ものでした。悪役側はRZAが意外と本気でアクションしているのが発見でしたが、No2の強さが今一つ伝わってこなかったのが残念。見る人が見ればすごいアクションをしているのでしょうけど、素人目には、一見して有無を言わせない強さというかハッタリが見えてこなかったのですよ。RZAと体型が似ているのも、強さが際立ちにくかったのかも。映画としては、銀座シネパトスのロードショーがふさわしいくらいの出来栄えだったように思います。「チョコレート・ファイター」みたいにアクションシーン毎に設定を工夫してくれていたら、もっと点数が上がったのですが、後半は、ストレートな格闘勝負を何ラウンドも見せられちゃったから、そこは残念。



この先は結末に触れますからご注意ください。



LCが象を誘拐した目的は、カームに要人暗殺をさせるためでした。象とカームの体に電撃装置をつけたLCは、まず自分の商売敵である大富豪の暗殺をカームにさせようとします。ほとんど正面突破で富豪を拉致して、ビルの屋上まで連れて行き、ノドを掻っ切ったように見せかけて、自分は屋上から真下のプールに落下。カームの死体を確認しにきたLCの部下を倒し、現場に居合わせたマーク刑事に電撃装置をはずしてもらいます。そして、象に爆弾を仕掛けて要人殺害を企むLCを阻止するためにプーケットに向かいます。一方、ピンピンもおじの死体の状況が妹の殺され方と同じと知り、本当の敵はNo2としって、彼女もプーケットに向かいます。そして、島では象が友好親善の使節として授与されるセレモニーと並行して、カーム、ピンピン、LCの部下たちとのアクションが延々と繰り広げられます。最後は、カーム、マーク刑事、ピンピン、No2、LCの対決となり、No2はピンピンの鍼によって倒され、LCは象の牙についた爆弾と一緒に吹っ飛ぶのでした。

クライマックスは、カームとNo2の闘いが4ラウンドくらいありまして、もう決着がついたのかと思っていると、まだNo2が生きててというパターンで、これはもう早く決着つけろよって気分になっちゃいました。最後にピンピンに叔父と妹の敵討ちをさせるために生かしといたらしいのですが、そうするなら、No2に匹敵する敵はもう2,3人用意しておいて、もっとバリエーションのある闘いを見せて欲しかったなと、格闘技素人の私は思ってしまったのでした。基本的に期待したものは見せてくれてはいたのですが、それプラスアルファがなかったのか、記事にしちゃうと厳しめの評価になっちゃうのですが、派手なアクションをとにかくお気楽に楽しみたいと思える方には、この映画、買いです。後、この映画がちょっと物足りなかったかなって方には「チョコレート・ファイター」をオススメしちゃいます。これはよくできてましたから。
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ゴジラ音楽祭で、映画の音楽生オケ演奏企画がよかったです。


記事にするのが遅くなりましたが、先日2015/1/18、NHKホールで上演されたゴジラコンサートに行ってきました。昭和29年の「ゴジラ」の音楽だけ抜いた版を上映して、そこへ東京フィルハーモニーオーケストラの生音をかぶせるというもの。昨年一度上演されて好評だったものの再演となります。去年の公演にも足を運んだのですが、なかなかに聴きごたえのあるものでした。1時間半強の映画に音楽は40分弱ですから、それほど音楽が鳴っている映画ではないのですが、実はこのオリジナルの「ゴジラ」は音楽の扱いがあまりよくなくて、当時の録音のクオリティだけとは言い難い問題点がありました。それは、クライマックスで主人公二人がゴジラ退治の新兵器を持って海に潜っていくシーンでして、音楽が鳴っているらしいくらいにしか聴き取れないのですよ。どうして、ここで音楽のボリュームを絞ってしまったのかはよくわからないのですが、明らかに音楽を殺す演出になっています。ゴジラのために書かれた音楽が、このシーンだけ明らかに手抜きだから、音量を絞られたとは思えなかっただけに、このクライマックスがすごく気になっていました。

オリジナルの音楽は、40人編成くらいのオーケストラによる演奏だったそうで、その倍くらいの人数で演奏するにあたっては譜面の書き直しが必要だったそうです。さらには、当時の譜面が残されていない曲もあって、それに対しては、今回の指揮者である和田薫氏が譜面への聴き起こしをしたのだそうです。当時は、映画は娯楽の王様で、製作本数も今とは比べものにならなかった時代の映画音楽の記録を掘り起して再現するのは大変だろうなあって改めて感心しちゃいました。

映画は「協賛 海上保安庁」というクレジットの後に東宝マークが出て、ゴジラの足音と咆哮が聞こえてタイトルが出ます、せり上がり式タイトルで「音楽 伊福部昭」と出るタイミングで、テーマ曲が始まり、そして、テーマがもりあがったところで「監督 本多猪四郎」と出て、海のカットになり、船上でのギターとハーモニカの曲から海が光るカットになって船が沈没するという展開になります。映像では何が起こったのかよくわからないシーンのバックに伊福部の緊迫感のある曲が見事に効果を上げています。目の前にオーケストラがいるので、どうしても音楽を意識して聞いてしまうのですが、そういういつもとは違う鑑賞環境が、その映画に新しい発見を与えてくれます。どういうシーンで無音になり、何をキーに音楽が鳴り始めるのかということを意識することで、音楽演出の視点から映画を楽しむことができました。例えば、有名なゴジラのテーマ(タイトル曲)は、実は人間側がゴジラを迎え撃つテーマとして使われているということが再確認できます。映画を一度観ただけでは、意識しにくいのですが、ゴジラのテーマは、自衛隊がゴジラ迎撃に出発するシーンや、ジェット戦闘機隊がゴジラに攻撃を仕掛けるシーンのバックに流れ、ゴジラを描写するシーンでは使われていません。ゴジラを描写する音楽は、ファンの間では「ゴジラの恐怖」として知られる、ゆっくりとした低音楽器中心の曲です。そして、災害描写のシーンでは音楽を流さない演出もされており、ドキュメンタリータッチのシーンと、ゴジラという空想世界のシーンを交互に組み合わせながらドラマのテンションを上げる演出がされています。

ゴジラ襲撃の夜が明けて、焼野原になってしまった東京を描写する静かな曲は、映画「ビルマの竪琴」にも使われている、鎮魂歌のような音で、負傷者が廊下にもあふれているで野戦病院のような病院を映し出します。悲惨なシーンであえて静かな曲を選んだ伊福部のセンスも見事ですし、このシーンは細かい演出が、見返した方が泣けるのですよ。そして、芹沢博士がゴジラ撃滅のための新兵器に使用を決意するシーンでも、音楽はキーとして使われています。それは、女学生たちの歌う「やすらぎよ光よ」のコーラスでして、その祈りにも似た歌声が芹沢博士の心を動かすというベタな演出がみごとにはまりました。辛気臭い演出ということもできるのですが、やはり音楽の力ってのはあなどれないのですよ。また、歌の歌詞が結構泣かせるのですが、映画の中だと完全に聞き取れないのが残念でして、当時の録音では仕方ないのかもしれません。それでなくても合唱の歌詞って聞き取りにくいですからね。

そして、主人公二人が潜水服に身を包んで海に潜るシーンがクライマックスとなるのですが、実際、このあたりは淡々とした演出であまり盛り上がりません。水中シーンばかりで動きに乏しいというのもあるのですが、ドラマとしては、芹沢博士が新兵器を使う決心をするところがピークみたいな描き方なのですよ。そして、その後のゴジラの息の根を止めるくだりは、長いエピローグみたいな感じなんです。特撮も東京破壊シーンに比べて地味だしチャチな印象を与えますし、このゴジラ撃滅シーンの処理はかなり控えめ。音楽もほとんど効果音に隠れて聞き取れませんし。ところがここで、大変ドラマチックな曲が鳴っていたというのが、この生オケ演奏での発見というか、この上演の目玉商品となっているのですよ。伊福部の曲は、野戦病院のシーンに流れた曲から始まり、結果的にゴジラと一緒に心中する芹沢博士をオーケストラで描写する音楽になっていまして、彼が帰らぬ人となるシーンとゴジラの死の両方を合わせて音楽はドラマチックに盛り上がります。オーケストラをフルに鳴らして、ゴジラと博士の死を悼む音作りになっているのですが、実際の映画では、この盛り上がる音がほとんど聞こえてきません。そして、ゴジラの死が確認された後、登場人物みんなが博士の死を悲しむあたりでようやく音楽は聞こえてくるようになりまして、映画の最後を描写して音楽もコーダとなります。

ここから先は憶測にしかならないのですが、伊福部の音楽は、ゴジラと博士の死を重ね合わせて、戦争の悲劇を、静かにしかし、かなりストレートに描写していまして、娯楽映画としては意気が上がらないものになっています。そこで、映画の娯楽性を上げるために、スペクタクルを前面に出すように、修正をかけたのではないかしら。でも、音楽はそこの悲劇性を正面から描写しているので、今回のように音楽を前面に出して、全部聞かせると映画はよりドラマチックになる一方で、ゴジラと博士のイメージがかぶってゴジラの巨大さとか怪物性が薄れてしまうということにもなりました。ゴジラオタクの私にしてみれば、そういう奥行の出るのはウェルカムなのですが、単純に怪獣映画を楽しむには、お話をややこしくしてしまっているとも言えますし、娯楽スペクタクルをより辛気臭くしてしまったとも言えましょう。そういう意味では、音楽のボリュームを絞る演出もわからないことはありません。

そんなわけで、この生オケ音楽による「ゴジラ」上映は、演出の発見があり、鑑賞の新しい視点を提供してくれたということで、意味あるものでした。最近、昔の映画を画質補正したり、音質をクリアするなどして、リニューアルするのをあまり好きではなかったのですが、こういう形で音楽を再現するのはありだと気付いてみれば、リニューアルによって新しい発見があるかもしれないかなって思えるようになってきました。画質がクリアになることでそれまで見えなかったものや演出が見えるようになる、音質のクリア化によって、オフのセリフの意味が聞き取れるようになることで、演出の意図が変わってくるってことがあるかもしれないかなって。

ともあれ、ゴジラファンであり、かつ伊福部ファンである私には大変うれしい企画でした。この次はこういう生オケ企画で「モスラ対ゴジラ」をやって欲しいのですが、あれはさすがにオーケストラの人が死んじゃうからダメなんだろうなあ。シティ・オブ・プラハ・フィルハーモニック・オーケストラの再録音みたいな企画でもうれしいんだけどなあ。

「はじまりのうた」は歌モノ映画としていい感じ、そして友情以上恋愛未満の関係がちょっと切ない。


今回は新作の「はじまりのうた」を川崎チネチッタ5で観てきました。ここの椅子は頭まですっぽり覆うタイプなので、前の人の頭が邪魔にならない作りになっているのがご贔屓の映画館。昔の静岡ミラノもそんな感じでした。(← 話古過ぎ、ローカル過ぎ。)

かつての敏腕音楽プロデューサー、ダン(マーク・ラファロ)も今は自分が設立したレコード会社をクビになってドン底状態。そんなときにバーのライブで、歌手スティーブ(ジェームズ・コーデン)のゲストとして一曲歌ったグレタ(キーラ・ナイトレイ)の歌声に聴きほれて、オレにプロデュースさせてくれと売り込みます。グレタは自分が歌手で一発あてようという気はなかったのですが、その時、恋人だったミュージシャンのデイヴ(アダム・レヴィーン)が、新しいアルバムの録音でスタッフの女の子と浮気して、別れた直後だったこともあり、ダンの話にのってみることにしました。ダンは、奥さんミリアム(キャスリーン・キーナー)と娘バイオレット(ヘイリー・スタインフェルド)と別居中で、パブのビール代にも事欠く有様でしたが、金がなくて仕事をしたいミュージシャンを集めて、ニューヨークの街全体をスタジオとして、ゲリラ録音をするという企画を立てて、実行に移します。グレタの書いた曲は素晴らしく、それを街頭でノー編集で録音するというやり方でアルバムは出来上がっていきます。一方、グレタは、スティーブの携帯に彼への別れの歌を吹き込むのですが、それがかえって彼の心をグレタへ向けてしまうことになります。ダンは、曲の録音に娘バイオレットを招き、彼女にギターを弾かせることにします。その事がきっかけで、ミリアムとの関係も修復されていくことになるのでした。

「Once ダブリンの街角で」のアイルランド出身のジョン・カーニーが脚本を書き、演出もした音楽ものの一遍です。前作では、アイルランドのダブリンが舞台でしたけど、今回はニューヨークを舞台にして、キャストもハリウッドスターを集めて、プロダクションが2周りくらい大きくなっています。前作では、苦い生活感と音楽による主人公たちの結びつきが感動的だったのですが、今回は前作の苦さをほどほどに押さえて、ある種のサクセスストーリーとしての味わいを出しました。ヒロインのキーラ・ナイトレイは自分で歌って、上手かどうかは置いといて魅力的なシンガーとしての底力を見せてくれています。また、どんな役でもそつなくこなすマーク・ラファロがうまくヒロインを引き立てていて、演技者としての懐の深さを見せてくれています。この人は主役やっても脇役やってもうまく、いい人も悪い人も同じテンションで演じ切ってしまう、まさに役者という人。この映画でも、いいところと欠点の両方を持ったダンという人間をリアルに演じていまして、そのリアルな存在感がこの映画の落としどころに説得力を与えています。

グレタは、恋人のスティーブと一緒に曲を作ったりしていたのですが、スティーブが映画の中の歌で注目されて、アルバムを出すことになり、その録音に彼がロスへ行ってる間に、スタッフの女の子とできてしまい、それを彼の新曲から敏感に感じ取ったグレタは、スティーブを詰問し、「実は...」という話になり、二人は別れてしまいます。グレタはかつての友人スティーブの部屋に転がり込んだのですが、そのタイミングでダンと出会ったのでした。

グレタとダンが男女の関係になるのかと思っていると、そうはならないところがこの映画の面白いところです。お互いに好感を持っているのに、恋愛感情まで届かない感じ、「Once ダブリンの街角で」でもうまいと思ったのですが、この映画でも、相手のことを思いやり、相手の才能を認めつつも、グレタはスティーブンへ向ける視線を、ダンに向けることはなく、ダンも元妻への想いをグレタへ転嫁することをしません。それでも、外で二人が口論になり、一人で去っていくダンを、グレタが追いかけて後ろから抱きしめるのをロングの1カットで見せたシーンはほろりとくるものがありました。恋愛感情とはちょっと違う、でも友情と言うには切ない二人の感情の流れを、ジョン・カーニーの演出は丁寧に見せてくれます。監督はひょっとして、恋愛嫌いなのかと思わせるほどに、男女の感情の交わりを拒否する一方で、お互いを想い、寄り添う関係を巧みに描くあたりのうまさは憎いほどに見事。ですから、ダンの元妻も、グレタの元カレも決して悪役にもならないし、引き立て役にもなっていないあたりのドラマの作りに感心。

この映画の中での音楽の役割は人それぞれに違っているようです。グレタにとっては、音楽は自分を表現するための道具であり、デイヴにとっては想いを伝える道具であり、ダンにとってはアートと金の両方の顔をもった存在として描かれています。歌モノ映画を観ていると、すぐ涙腺がゆるんでしまう、私にとっては、心を動かす恐ろしい何かということになりましょうか。登場人物それぞれが、自分にとっての音楽というものを持っているのですが、自分にとっての音楽と、相手にとっての音楽との違いについては、割と寛容な態度をとっています。この寛容さってのが意外と大事なのかなって気がしました。音楽に対する価値観の違いを相手に押し付けない感じ、音楽が音楽として相手の心に入っていき、相手がどう音楽を聞き取るのかは本人に任せるという姿勢は、もう一度考え直してもいいことかなって気がしました。この映画の中で、売れないレーベルの出した新機軸として「音楽を、そのアーチストが解説する」ってのをやろうとして、ダンに一蹴されるシーンがありまして、そんなことまでしなきゃならないほど、音楽を発信する側は不寛容になり、受け取る側は鈍感になってしまったのかなあって思えたのです。まあ、DVDのオーディオコメンタリーも、映画の裏話やメイキングならともかく、監督がこのシーンの意図するところはなんてやりだしたら、親切なようでいて、押しつけがましい不寛容さということにはならないかしら。

「Once ダブリンの街角で」でも、監督がミュージシャンらしいいいシーンがありましたが、この映画では、冒頭のバーでグレタがギター一本で歌うシーンで、ダンにだけドラムやバイオリンが見えてきて、アレンジされた曲として聞こえてくるところが素敵でした。監督はこのシーンを効果的に見せるために、まずグレタがギター一本で歌うシーンをきっちりと見せて、さらに時間軸を戻して、今度は同じシーンに伴奏のアレンジ付の同じ歌を聞かせるという技を使っていまして、なるほど、音楽のアレンジでずいぶんと印象が変わるんだなあってのを実感できました。後、ヘッドホンを2本分に分けるアダプタで、二人で一緒に同じ曲を聞くシーンというのもありました。これはお互いのプレイリストを聞くことで相手への理解が深まるという流れで使われる小道具として使われ、これによって、ダンとグレタの関係がより深まるというのがいいシーンになっています。

恋愛映画ではないのですが、男女の機微がたくさん描かれていまして、最近の恋愛ものに物足りなさを感じている方にオススメしたい一品です。何というか、観てる最中も観終わってからもいい気分になれる映画です。後、ヒロインのキーラ・ナイトレイのギター姿が誰かに似てるなあって思ってたら、NMB48の山本彩さんでした。アイドルオタクネタで失礼しました。(でも雰囲気がよく似てるんだもん)




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路上ゲリラ録音によるグレタのアルバムは完成します。ダンの娘が参加したことをきっかけにダンとミリアムの関係も修復に向かいます。グレタには、デイヴからよりを戻してほしいと連絡がきますが、彼女はデイヴに会って、もうその気がないことを告げます。デイヴは、グレタを自分のコンサートに招き、彼女が作った歌を歌って自分の想いを伝えますが、それを聞いたグレタは、改めて別れを確信し、夜の道を自転車で疾走します。ダンとグレタは完成したアルバムを、ダンがもといた会社に売り込み、ダンは経営陣に復帰します。ところが、グレタはアルバム1ドルで私家版としてネット販売すると言いだし、ダンもそれを了承します。ネットでアルバムは大人気となり、一方ダンはまた会社をくびになってしまうのでした。

グレタはデイヴとの関係を清算し、アーチストとして新しい一歩を踏み出します。ダンも、ミリアムとヨリを戻し、新しい関係が始まります。というわけで、グレタのうたをきっかけに、グレタとダンの人生が新しい一歩を踏み出すということで「はじまりのうた」というのは、うまい邦題をつけたものです。原題は「Begin Again」というこれも映画の内容をよく表したシンプルでいい題名だと思います。それでも「ビギン・アゲイン」という邦題にしなかった配給会社にやる気を感じます。

「ワイルド・カード」は今風の映画とはちょっと違うけどこういう映画を楽しめる余裕が欲しいかも。


今回は横浜ブルグ13シネマ11で新作の「ワイルド・カード」を観てきました。パンフレットが出てないって言うんでやな予感がしたんですよねえ。それに、「明日に向かって撃て」のウィリアム・ゴールドマンが原作と脚本ってのが売りなんだけど、1970年代に活躍してたんですよ、ゴールドマン。これ、同姓同名の別人じゃないのって予感もしちゃいました。ウィリアムもゴールドマンもそれほどの珍名さんとも思えませんし。

舞台はラスベガス。用心棒として著名(?)なニック(ジェイソン・ステイサム)の元恋人ホリー(ドミニク・ガルシア・ロリンド)が、マフィアの二代目ダニー(マイロ・ヴィンティミリア)にレイプされた上に暴行を受けてひどい状態で病院の前に捨てられます。彼女はニックを呼びつけ、自分をこんな目に遭わせた男を捜してくれと頼みます。あまり気が進まないながら、犯人を突き止め、そこへ乗り込んで、ダニーとその手下二人をボコボコにしちゃいます。ホリーはダニーの局部をハサミで切り落とすと脅して恨みを晴らし、ダニーの持ち金5万ドルをニックと山分けして姿を消します。一方、ニックは50万ドル持って5年間コルシカ島で暮らすのが夢でして、その2万5千ドルを元でにブラックジャックに臨みます。そしたら、ツキにツキまくって、何と、50万ドル勝っちゃいます。そこで、チップを換金しようとするのですが、待てよ、これで50万ドルキャッシュにしてコルシカ島へ行けたとしても、その後は金がなくなって、ここへ戻る羽目になる。そこで、ニックは50万ドルのチップをさらにブラックジャックの大勝負に出ます。ところが、17でさらにカードをヒットしたらブタ。ディーラーは16でした。結局、無一文に戻ってしまうニック。そこへダニーの手下どもが現れ、カジノで大立ち回りをして、ベガスのボス、ベイビー(スタンリー・トゥッチ)に呼び出されてしまうのでした。

ウィリアム・ゴールドマンの原作を本人が脚本化し、「将軍の娘」「エクスペンダブル2」の娯楽職人サイモン・ウェストが監督しました。ウィリアム・ゴールドマンって私が学生の頃「大統領の陰謀」「マジック」「遠すぎた橋」で知られる名脚本家ですが、あれから40年近くたってるのにまだ現役なの? 同姓同名じゃね? とか思ったのですが、IMDBで調べたら、これが本人。さらにこの映画、1987年にバート・レイノルズ主演で映画化されているのですよ。なるほど、リメイクってわけかって納得。ステイサムとウェストのコンビは「メカニック」もど派手にリメイクしてたなあって思い出しました。ラスベガスを舞台に用心棒のニックが事件に巻き込まれていく様を描きます。アクションシーンは「トランスポーター」「エクスペンダブルズ」とステイサムと縁のあるコーリー・イェンが担当しました。アクションシーンは多くないのですが、傭兵上がりの殺しのプロらしい凄みのあるアクションを見せてくれています。

ニックは結構有名な用心棒らしく、その日の朝は、サイラス(マイケル・アンガラノ)という若造がベガスで遊びたいから付き添って欲しいと言ってきます。そして、ロキシー(アン・ヘッシュ)のいるダイナーへ行くと、ホリーからの呼び出し電話が来ます。彼女の家へ行ってみれば、ひどい顔の彼女が、自分をレイプしてボコボコにした男を告訴したいから探して欲しいと言います。どうやら、ニックには彼女に借りがあるみたいです。問題のホテルへ行って、人相と借りている部屋から、マフィアの息子ダニーが犯人と判明します。彼女にそれを知らせると復讐したいということで、彼女に手を貸すことになり、部屋へ乗り込んだニックは手下二人をボコボコにした後、ダニーを椅子に縛り付けて彼女に渡し、ホリーは自分がされたのと同じことをして、ダニーの局部にハサミをあてて脅しまくり。その後、ダニーの5万ドルを山分けして、ホリーはいずこかへと姿を消します。で、ダニーはブラックジャックにいどむわけです。なじみのディーラー、カサンドラ(ホープ・デイヴィス)のテーブルでツキにツキまくることになります。

ドラマは犯罪もののようで、ちょっとだけアクションもののようでありながら、ニックという主人公の人間ドラマになっています。ただ、ニックという人物への描きこみは、さらりと流して、全編92分にまとめあげていますので、ドラマとしての深みは今一つですが、そこは娯楽職人サイモン・ウェストだけあって、滅法面白い娯楽映画にまとめあげています。ニックという男は用心棒としては凄腕でして、銃を使わずに人を殺せるスキルに長けています。男気もあって、ベガスの人間からは信用されています。でも、金があるとすぐギャンブルに走ってしまう、いわゆるギャンブル依存症、それも勝っているうちはやめられず、負けて、すってんてんになるまでやめることができません。そんな自分なのに、なぜかベガスから出ることができないというキャラクター。一方で、何やらすごい過去があるらしく、殺しの腕前は一級品です。でも、ヒーローっていうには、カジノでのあたふたぶりがちょっとした愛嬌にもなっています。ジェイソン・ステイサムの演じたキャラの中では、ストイックさに欠ける部分が人間臭くもある、面白いキャラクターになっています。ラスベガスから出て行きたいのに出て行けない男のドラマというと大げさですが、ニックのちょっとした転機を描いた映画ということもできましょう。

若いサイラスという男は、23歳というのにソフトウェアで大金持ちです。でも、度胸もパワーも足りないので、ニックに対して憧れの感情を持っていて、ニックのようになりたいと思っていますが、それを言ったら、自分で行動を起こせと一蹴されてしまいます。それでもラストでは、主人公を助けて感謝されるというおいしいキャラクターになっていまして、坊ちゃん風見た目のマイケル・アンガラノが好演しています。また、ニックに絡む女優陣に、ドミニク・ガルシア・ロリンド、ちょっとお久しぶりホープ・デイヴィス、かなりお久しぶりアン・ヘッシュなど印象的な面々を揃えることで、ニックのキャラを立てています。

アクションはメインではなく、犯罪ドラマが中心でもなく、色恋沙汰もなく、ニックというキャラを深堀りしているわけではないのですが、1時間半の映画としては、結構楽しめる出来栄えでして、こういう映画もありなんだな、というか、昔はこういう映画が劇場に結構かかっていたんですよね。今はあるジャンルに特化した映画が増えて、普通のドラマにサスペンスやアクションを肉付けするという形の映画は少なくなってしまいました。こういう映画を楽しめる、余裕を持った映画鑑賞ってのも、たまにはいいかなって気がしました。



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ベガスのボス、ベイビーに呼ばれた先には、ダニーがいて、ニックが突然現れて手下二人を撃ち殺して、5万ドル奪って逃げたと言い出します。どうやら、ダニーはかっこ悪いところを見せた部下を殺してしまったようです。ニックは、ダニーの局部に傷があるから確認しろと言い、ダニーが拒否したことから、ベイビーはニックを信用して自由にしてくれます。そして、ダイナーに行って食事しようとしているとサイラスが現れ、ニックにコルシカ島への切符と50万ドルを渡します。そこへ、ダニーの送り込んだ部下が現れます。するとサイラスが彼らの気を引き、ダイナーの裏手に連中を誘い込むと、ニックは、ダイナーのスプーンとナイフを武器に大立ち回り。5人を皆殺しにし、サイラスに感謝の言葉をかけて、ニックは車でベガスを去っていくのでした。

ダイナーの裏での闘いは、銃なしで人を殺せるというニックの噂を裏付けるものでした。殺し優先のアクションとでも言うのでしょうか。これまで観てきた殺陣とは一味違ってまして、スティーブン・セガールの殺陣に見栄えを加えたという感じでしょうか。アクションシーンは3回しか出てきませんし、時間も短いですが、なかなかインパクトの絵になっています。細かいカット割とスローモーションを使ってはいるのですが、ステイサムの動きをきちんとフォローして迫力のある映像になっていました。

「おやすみなさいを言いたくて」のサントラ盤は映画と同じく美しいテーマと怖い音楽が共存しています。


ホームドラマがメインのようで、サブプロットがずしんと重い「おやすみなさいを言いたくて」の音楽を担当したのは、「約束の旅路」「オーケストラ」などで知られるアルマンド・アマールです。「約束の旅路」ではドラマチックな音を鳴らして印象的だったのですが、今回は、メインとなるテーマは、家族を舞台にしているせいか、小編成によるおだやかなタッチの音にまとまっています。小編成のストリングスとピアノによって、シンプルなフレーズを繰り返していくもので、叙情的というにはどこかクールな印象もあって、ドラマと若干距離を置いたテーマになっています。

家族を描写する音楽では、ピアノをメインにバックをストリングスが支える曲が多く、家族の和気藹々というよりは、ヒロインの孤独感を感じさせる音が多いです。一方で、中東の難民キャンプや自爆テロのシーンに流れるサスペンスタッチの音楽では、シンセとパーカッションを使った不安な音を聞かせて、緊張感を高めていくスリリングな音作りがされていまして、ストリングスの使い方とかエンニオ・モリコーネを思い出させます。

中東の紛争地域を舞台にしているだけあって、中東風の打楽器やハミングを使った音も聞かれますが、そういった描写音楽にはほとんどメロディラインのない、アンビエント風の音になっています。その分、テーマ曲のメロディが際立つわけですが、実はテーマのメロディよりも、アンビエント風というか現代音楽風の曲がドラマをきっちりサポートしています。テーマがドラマから距離を置いて鳴る一方で、効果音に近い音楽がドラマに寄り添って、観客の感情を揺さぶってくるのです。最近の映画は、その効果音に近い音楽ばかりでテーマ曲のメロディ(メインとなるモチーフ)を持たない映画が多いので、こういうテーマ曲を明確に持った映画は珍しいと言えるかもしれません。

このサントラCDは日本盤でして、こういう地味な公開の映画のサントラ盤を出すのは珍しいことです。サントラの終わりには、エンドクレジットで流れる、アーネ・ブルンによる「デアリング・トゥ・ラブ」が収録されていて、これは日本盤だけのボーナス・トラックだそうです。ラストで、残酷な現実に打ちのめされるヒロインと観客の心を癒す曲として、美しいメロディを聴かせてくれています。

「おみおくりの作法」は残酷な現実を描いているのか、希望へと人を導くのか。


今回は新作の「おみおくりの作法」をシネスイッチ銀座1で観てきました。ここの1階席はフラットな座席配置で、スクリーン位置が低いので、ちょっと座高の高い人が前に座ると画面が欠けちゃうのですよ。前後の座席配置を左右に半席ずつずらしている工夫は認めちゃうのですが、それでも頭半分出る人の後ろに座ると画面が欠けちゃうのです。全席指定なのですから、ちょっとくらい頭のでかい人が前に座っても大丈夫な位置まで画面を上げてもらいたいです。

ロンドンのケニントン地区の民生係ジョン・メイ(エディ・マーサン)の仕事は、孤独死した人の家族を探し、それでも見つからない時は葬儀を代行すること。当人の宗教を調べ、弔辞の原稿を書き、その人にふさわしいBGMを捜す、そんな仕事に彼は誇りを持っていまして、参列者のいない葬儀であっても、亡くなった人のために精一杯のことをしていました。ある日、自分のアパートの道路を隔てた向かいのアパートの部屋でビリー・ストークというアル中の男が孤独死の状態で発見されます。窓から外を見たとき真向かいの部屋なのに、そこにそういう男が住んでいたことも死んでいたことも知らなかったことに驚き、そして彼に興味を感じ始めます。彼の部屋を調べてみたとき、アルバムの中に若い娘の写真があり、ひょっとしたら、この女性がビリーの娘かもしれないと思い、彼はビリーの人生を遡ってみることにします。ビリーが最後に同棲していた女性を訪れ、さらにパン工場で働いていたという同僚を訪ね、ホームレスの仲間から話を聞き、収容されていた刑務所の所長から意外な事実を知り、フォークランド紛争時の戦友のいる老人ホームも訪問します。しかし、ジョンは上司から、1件1件の処理に時間をかけすぎるということから合理化を理由にクビを言い渡されてしまいます。それでも、最後の仕事だからきちんとやらせて欲しいとジョンは食い下がり、とうとう写真の女性、ビリーの娘ケリー(ジョアンヌ・フロガット)までたどり着きます。しかし、それまで会ってきた人々と同じく、ビリーの葬儀には立ち会わないと言われてがっかり。役所に帰って葬儀の日程を決めていたジョンにケリーから電話がかかってきます。どうやら、彼女は葬儀に来てくれるみたい。その打ち合わせの場で、ケリーは、ジョンに好意まで示してくれるのです。孤独な葬儀立会いを機械的に繰り返してきた彼の人生に転機が訪れたようです。

「フル・モンティ」「クローサー・ユー・ゲット」のプロデューサーで知られるウベルト・パゾリーニが脚本を書き、演出も手がけました。実際に孤独死した人を葬るお役人というのがいるのだそうで、そこからお話をふくらましたんですって。孤独死した人の部屋を訪ねて、その人の情報を集め、家族にも連絡を取り、それでも引き取り手のない人の葬儀まで行うという仕事。彼は毎日判で押したような決まりきった日々をおくりながら、その死んだ人のために出来る限りの葬儀を行ってきました。上司に言わせると、葬儀というのは、残された家族のためにやるものであって、家族もいない孤独死した人間に葬儀は必要ないと言います。でも、ジョンはそれに反論します。このあたりの死者に対する敬意が、ビリー・ストークという男の過去をたどっていく発端にもなっています。その途中で、解雇を言い渡されてしまうのですが、まあ税金の使い道として、死んだ人間に時間や手間をかけるよりは、とっとと片付けて、その分生きてる人間へ税金を向けるってのは正しいような気がします。でも、正しい間違っているという次元を超えて、ジョンは自分の仕事に価値とやりがいを感じているようなのです。死んだ人の宗教、残された部屋の中から、その人の歴史を探し出して、その死を悼む言葉をつづるジョン。そんなジョンが、向かいの建物の部屋で死んでいたビリー・ストークという男に、何か特別なものを感じるようになるところから、ドラマは動き始めます。

ただのアル中のじじいだと思っていたビリーですが、その過去には、色々ないい事も積み上げてきたことがわかってきます。ジョンはあまり表情を変えないのですが、たぶん、そういうビリーを発見することが楽しくて仕方ないのではないかなって気がしました。ビリーの人生の価値や意味を見つけることが、ジョン自身の人生の価値や意味を見つけることにつながっていたからかもしれません。ちょっといつもとは違うものを飲んだり、ビリーの真似事をしてみたり、ジョンの中で何かが変わり始めるのですよ。でも、なぜビリーのせいで、ジョンが変わるのか、そこのところは実はよくわかりません。説明されないから類推するしかないのですが、それでも何人もの死者を見取ってきたジョンが、今回だけいつもと違っていることは確かなようなのです。

私が人の死について一番感じることは「去る者は日々に疎し」ということ。死んじゃえば、人間は忘れられてしまうということ。特に孤独死なんて、生きてる時点で忘れ去られているようなものですから、死んだことがニュースになっても、その人の生きた人生なんてないのと同じになっちゃう。ずいぶんと冷たい言い方ですが、そう言っちゃうのは、シングルオヤジの私は孤独死がほぼ確定だからです。だから、自分の葬式なんていらないと思っていますし、手間のかかる生ゴミにはなりたくないなあってのが希望かしら。そんな、忘れられた人々をジョンは彼なりのやり方で弔っています。その動機は死者への敬意なのでしょうか。でも、葬儀なんて死んだ人のためじゃなくて、生き残った人が死んだ人を偲ぶためのセレモニーだというのは一つの真理だとも思うわけでして。丁寧に弔うことが、ジョンにとっての自己満足かもしれないのです。うーん、えげつない言い方だなあ。でもですよ、今回、向かいの部屋に住んでいたビリー・ストークが孤独死して、彼を弔うためにその人生を調べ始めたのは、必ずしも、ビリーのためだけとは思えないのですよ。道を隔てて同じ部屋に住んでいたビリーが、自分の未来にかぶったのかも。だから、忘れ去られて死んだビリーの人生に意味があるのなら、自分の人生にも意味があると思ったのではないかしら。それまで、忘れら去られて死んだ人のために仕事をこなしてきたジョンが、今回だけは自分のために、ビリーの人生の価値を見つけたいと思ったんじゃないなって気がしたのですよ。いやいや、ジョンはいつも死んだ人のために仕事してきたのだから、今回だけ自分のためにビリーのことを調べたというのは何か違う。その違うの部分がうまく説明できないから、やっぱり自分のためにやったのでは?

論理的な結論は出ないのですが、私は今回の仕事はジョンが自分自身のためにやったのではないかと思います。だから、ビリーがすごくつまらない嫌われ者だったら、がっくり落ち込んだことでしょう。でも、ビリーは人の記憶に残る人間でした。それだけ意味のある人生を送っていたビリーが、ジョンに生きる希望を与えた物語だとしたら、お話の全体像が変わって見えてきます。ビリーがジョンを励まして、その励ましによってジョンの人生が輝き始めたのだとしたら、この映画ってすごく意地の悪いオチを持ってきたと言えましょう。この映画の結末は感動的であるようで、ある意味すごく残酷。このあたりは劇場で確認していただきたいのですが、私はその結末の残酷さに泣けてしまったのですよ。すごく切ない結末だなあって、「仕立て屋の恋」を思い出してしまいました。「あ、あの感じ...」ってピンときた方、ネタバレになってしまったら、ごめんなさい。でも、見ようによっては感動的な顔もある映画ですので。

地味なスタッフキャストに音楽だけはメジャーなレイチェル・ポートマンが素朴で美しい音をつけていたのが印象的だったのですが、彼女、この監督の奥さんなんですって。主演のエディ・サーマンはどこか世間離れしたやさしそうではかなげな主人公を好演していたのですが、この人、「アリス・クリードの失踪」の誘拐犯コンビのおっさんの方だったと知ってびっくり。俳優さんだから色々な役を演じられるのでしょうけど、この落差はすごいわ。パゾリーニの演出はゆっくりとしたカット割で、起伏の少ないドラマづくりをしていますが、そのタッチが91分という長さとマッチして、小品の佳作という味わいの映画に仕上がりました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ビリーのお葬式の後に遠回しながら、ケリーとのデートの約束をしたジョンは何だかウキウキ。ところが、そのウキウキのままでバスに衝突、彼は還らぬ人となってしまうのでした。ビリーのお葬式の日、意外や娘のケリーを始め、ジョンが訪ねた人全員がビリーのために集まりました。ただ、ジョンを除いてですが。姿を現さないジョンにケリーは沈んだ顔です。その日、時を同じくしてジョンのお葬式も行われていました。でも、彼の葬儀の立ち会う人は誰もいませんでした。見送る人のいない葬儀の横を通り過ぎていくビリーの葬列。ジョンの墓の前に花をたむける人もいません。すると、どこからかビリーが姿を現し、ジョンの墓の前に立ちます。どこからか、たくさんのジョンが弔った人々が集まり、ジョンの死を悼むのでした。暗転、エンドクレジット。

ジョンの人生に光が射し始めたときに、彼を自動車事故で殺しちゃうなんてあんまりです。そして、ジョンの葬儀は、最低でも立ち会っていたジョンすらもいない、さびしいものでした。ジョンに好意を持っていたケリーは、ジョンの死も知らず、彼の葬儀にも一瞥をくれただけで、結局、ジョンの死は忘れ去られてしまうのでした。ただ、彼の弔いによって、忘れ去られなかった人たちはジョンを忘れていませんでした。まあ、感動的な気はするけど、それよりは、葬儀の場での、ジョンとケリーのすれ違いの切なさの方に泣かされてしまっただけに、最後に死んだ人たちがジョンのために集まってくるシーンは余計なような気がしました。映画としては、そこに救いを入れたのでしょうけど、その直前のシニカルな結末に泣けてしまった私には、余計な余韻かなって思ってしまいました。人生は思うにまかせず、去る者は日々に疎しなんだよなあ、やっぱり。

「ANNIE アニー」をローズ・バーン目当てに観に行きましたが映画も結構楽しめました。


今回は新作の「アニー」をTOHシネマズ川崎4で観てきました。前作の「アニー」もその昔、劇場で観たことあるのですが、映画そのものにはあまり興味を惹かれませんでした。でも、ごひいきのローズ・バーンが出ているということで足を運んでみました。そういう動機で観た映画としては、まず元が取れる映画でした。彼女、結構出番多くてクレジットでも3番目のいいポジションでしたから。

ニューヨークに住む孤児アニー(クワベンジャネ・ウォレス)は、補助金目当てのミス・ハニガン(アンジェリーナ・ジョリー)の元、同じ境遇の少女4人と暮らしていました。そんな彼女が道で車に轢かれそうになったのを偶然にも携帯会社の社長であるウィル(ジェイミー・フォックス)が助けます。彼は市長選に立候補したもののなかなか市民の支持を得られないでいたのですが、この動画がネットにアップされたことで、これを使って自分のイメージアップを図ろうということになります。選挙参謀のガイ(ボビー・カナヴェイル)と側近のグレース(ローズ・バーン)は、アニーを探し出し、彼女をウィルとの昼食会へと誘います。ガイがそこでやるならもう一つと、ウィルにアニーと一緒に暮らしてはどうかと提案、子供嫌いで潔癖症のウィルもいやいやながら承諾します。アニーがウィルと一緒にメディアに出ることで支持率は大幅アップするのですが、心優しいアニーにウィルもだんだん本気で里親になろうかな、なんて思い始めちゃうのでした。しかし、更なる支持率アップを狙うガイはもう一つのドラマを仕掛けるのですが....。

もとはミュージカルの「アニー」をアライン・ブロッシュ・マッケンナと「ステイ・フレンズ」のウィル・グラックが脚色し、グラックがメガホンを取りました。前にも一度アルバート・フィニー主演で映画化されているのですが、今回は主演二人が黒人というのがちょっとだけ目新しいかも。(その昔、ダイアナ・ロスの「ウィズ」もありましたからね)前の映画はもっと悲しいけれど頑張る的ムードがあったのですが、今回はカラリとしたタッチでドラマがてきぱきと進んでいき、ドラマチックではないけれど、明るい青空の下が似合う「アニー」に仕上がっています。

アニーが大富豪であるウィルと一緒に過ごすことにちゃっかり乗り気なのもおかしいですし、悪役であるミス・ハニガンがそんなに悪い奴じゃないところとか、善玉悪玉も線引きを曖昧にしているところがこの映画のよさかなって思いました。ウィルだって、子供嫌いのやな奴からだんだんと変わっていき、ミス・ハニガンもアニーのことを想っている自分に気づくという展開になっていくのを穏やかなドラマにまとめているのが好感が持てました。最初から善と悪でしっかり色がついてるのは、選挙に勝つためならなんでもやるガイと、アニーのこともウィルのことも好きなグレースだけでして、そこで、単純明快な勧善懲悪なお話にもなっています。これは、セックスコメディ「ステイ・フレンズ」をカラリと陽性のラブコメに仕上げたウィル・グラックの演出によるものだと思っています。

「レ・ミゼラブル」で、歌い手のドアップばかりでしんどかったのに比べると、この映画は、歌うシーンは引きのカットが多く、舞台の美術が実景に変わっただけという見せ方で、このくらいの絵がちょうどいいよねっとところに収まっているのも点数高いです。どのナンバーも腹の底から声を出す歌唱になっていないので、ドラマの展開の中に自然に歌が入ってくる感じもよかったようです。(← これって、単に「レ・ミゼラブル」をディスってるだけかも)シネスコサイズの画面を、舞台風景の枠みたいになっているので、いい感じの舞台を眺めているような雰囲気になってくるのは、マイケル・グレイディのキャメラによるものでしょう。この人のフィルモグラフィを観ると、この映画がキャリアの中で一番の大作のようなので、これからどんどんメジャー映画に出ていく人なのでしょう。

今回は、私はローズ・バーン目当てで映画館に足を運んだのですが、今回は「ブライスメイズ」のようなコメディエンヌとしてでなく、脇役だけどヒロインというパートを好感の持てるキャラで控えめに好演しています。「トロイ」以来のファンなのですが、だんだんと演技の幅を広げつつあるのがうれしく思いました。歌って踊るシーンもありますし、意外と何でもやるんだなあって感心。もう一人、キャメロン・ディアズも悪役だけど憎めなくて、最後はいい方に寝返るというおいしい役どころを、おいしくこなしていました。この人はコメディに出るとやさぐれ感が半端ないのですが、そのキャラクターがドラマのアクセントとしてきちんと機能していたのは、監督のうまさなのかもしれません。この人の映画を観るたびに面白い年の取り方をしてるなあって思うこと多いのですが、そういう年齢に応じてキャラを変えてくるのが、役者としてのうまさなのでしょう。ジェイミー・フォックスも、濃すぎないキャラで子供が観てもくどくならない演技が好感を持てました。そう考えると、この映画では登場人物がみんなほどほどのキャラにコントロールされているということになるのでしょう。あまりドラマチックにするのを避けたという印象なのです。最初から最後まで徹底した悪役であるボビー・カナヴェイルだけが暑苦しい演技で、悪役キャラをアピールしていますが、後はキャラの奥行よりも、ドラマの展開、歌うシーンに力を入れた映画ということが出来ましょう。「ハッシュ・パピー」の時は大して演技してないという印象しか残らなかったクワベンジャネ・ウォレスが、今回はきっちりと演技して女優らしいところを見せてくれました。これが、後々「マップ・トゥ・ザ・スターズ」のベンジーのような、酒とクスリに溺れちゃうことがないようにと祈るばかりです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ガイが考え出した、ウィルのさらなるイメージアップの作戦とは、アニーに本当の親が見つかったというドラマを見せること。でも、本当の親がまだ名乗りでる気配がないことから、偽の両親をでっちあげ、アニーの情報を覚えさせて、メディアに登場させるのです。両親が現れたと知ったアニーは喜ぶのですが、どこか心にひっかかるものがある。ウィルも本気で里親になろうと思い始めたところだったので心中複雑。それでも、アニーの幸せのために両親が見つかったことを喜んでみせて、彼らにアニーを渡します。その辺の事情を知っていたミス・ハニガンがウィルに真実を告げると、ウィルたちはヘリコプターでアニーの乗った車を追跡。彼女が行くところで写真に撮られ、ネットにアップされるので、だんだんと居場所が狭められていき、とうとう、パトカーとヘリが偽両親の車を押さえます。そして、ウィルは、再びアニーと一緒に暮らすこと、そして市長選から辞退することを宣言します。アニーに促されて、ウィルはグレースに自分の想いを伝え、抱き合う二人。そして関係者みんなで歌い踊って、盛り上がったところでおしまい。

アニーの偽両親が現れてから、追跡シーンになるあたりは定番の展開なんですが、グリックの演出はコミカルだけどダレることなく、とんとんとドラマを運んでいき、アニーとウィルの再会シーンもさくっと捌いて、娯楽職人らしいところを見せてくれます。全体的にとびきり感動的とか、パワフルな展開ではなく、予定調和をいい感じで見せて、歌でアクセントをつけたという感じなのです。登場人物があまり歌い上げないミュージカルというのは、ミュージカルのファンの方には物足りないかもしれませんけど、映画としてはこれが正解だと思います。歌よりも登場人物の心の動きを前面に出して、映画らしさを出したのだと解釈しました。その分、感動は少な目だけど、娯楽映画としてはかなりいい線いってるのではないかしら。

「マップ・トゥ・ザ・スターズ」を観終わった後の寒々とした感じがすごい


今回は新作の「マップ・トゥ・ザ・スターズ」を新装開店した横浜シネマリンで観てきました。こんな題材の夕方1回だけ上映の映画なんて、客は自分一人だろうと思っていたら、それでも20人ぐらいいて意外でした。ただ、関内というと、新装開店してすぐに閉館しちゃった関内アカデミーの例もあるだけに、気をつけないと(←何に?)

舞台はハリウッド、映画スターのハバナ(ジュリアン・ムーア)は自分の母親である伝説の女優クラリス(サラ・ガドン)を題材にした映画に出演したがっているのですが、どうやら別の女優がキャスティングされそうでやきもきイライラ状態。そんな彼女の前に、若い頃の母親の亡霊が現れ、彼女のことをボロクソにけなしています。子役のスターであるベンジー(エヴァン・バード)は、薬物中毒になっちゃうのですが、事がおおっぴらにならず、父親の人気セラピスト、スタッフォード(ショーン・キューザック)と母親のマネジャ、クリスティーナ(オリヴィア・ウィリアムズ)はほっとしたところでした。同じ頃、ハリウッドにやってきたのは、顔の左半分にヤケドの跡がある娘アガサ(ミア・ワシコウスカ)。脚本家志望のリムジン運転手ジェローム(ロバート・パティンソン)と知り合いになるアガサですが、ペンフレンドであるキャリー・フィッシャーの紹介でハバナの個人秘書という職にありつくことができました。ハバナはスタッフォードの上客でしたが、ハバナから新しい秘書のことを聞いたスタッフォードはそれが自分の娘アガサであると確信します。6,7年前のある事件でアガサはベンジーに死ぬ思いをさせ、自分も大ヤケドを負ってしまったのでした。その当時のアガサは弟ベンジーと結婚ごっこをやってたんですって。火傷だけでなく、精神的に病んでるとされたアガサは病院に入れられていたのですが、18歳になって、そこを出てきたらしいのです。そんな彼女に必要以上に動揺するスタッフォードとクリスティーナ。なぜ、そんなに娘を恐れるのかしら。

テレビでの実績のあるブルース・ワグナーの書いた脚本を「スキャナーズ」「コズモポリス」のデビッド・クローネンバーグが監督しました。ハリウッドを舞台にある一家の崩壊を描いたドラマになるのですが、その本筋以外のところでも、悪意に満ちたハリウッド描写がいっぱい出てきまして、観終わった後は、心が寒々とする、ある意味ホラーな一本です。一応はリアルな人間のドラマを描いているのですが、舞台がハリウッドというだけで、そこは魔窟の形相を帯びてきます。そこに棲む人間は誰もがどこか尋常じゃない感じ。そんな人々のドラマに対し、クローネンバーグは「危険なメソッド」の時のような淡々としたタッチで、「コズモポリス」のようなリアリティの希薄な世界を作り出しました。

ハバナはチャイニーズシアターの前に手形を残している有名映画スターで、業界内の評価も悪くないらしいのですが、どこかに人間的な弱みを抱えているのか、スタッフォードのセラピーの常連客でもあります。このセラピストというのもハリウッドでは結構流行っているそうで、かなり胡散臭いのもいるらしいです。スタッフォードのセラピーは、ツボマッサージをしながら、相手に色々なことを言わせて、抑圧されていた感情を表に出そうというもの。畳の上で施術するのがいかにも怪しげです。スタッフォードの息子ベンジーは子役としてものすごい金を稼いでいる一方で、酒と薬、特に薬の過剰摂取のスキャンダルのもみ消しをしたところのようです。同じ病院にいた重病の女の子を見舞ったら、そのすぐ後に彼女が死亡。そしたら、死んだ彼女がベンジーの目に前に現れるようになります。これが本当に霊なのか、ベンジーの幻覚なのかはっきりしたことはわからないのですが、彼に、破滅へ向かう前兆となって、彼の心をかき乱すことになります。このベンジーは天才子役のステレオタイプのような描き方で、金銭感覚やプライドが普通の子供とはまるで違ってしまっています。自分の主演ドラマで脇役の子役が目立つとあからさまに嫉妬の感情をぶちまけますし、まあ、13歳にして典型的なやなガキということになります。このベンジーが6,7歳の頃、姉のアガサと結婚ごっこみたいなことをずっとやっていて、ある日、その儀式の後、アガサは弟に大量の睡眠薬を飲ませ、家に火を放ったのです。ベンジーは消防士に救助されて病院へ運ばれて事なきを得るのですが、アガサには体のあちこちに火傷の痕が残ってしまい、それから施設へと送られていたのでした。そんな姉がハリウッドに帰ってきたらしいと知って、大きく動揺するスタッフォードとクリスティーナ。彼らにとっては自分の娘とは言え、疫病神が帰ってきたという認識のようです。ひどい両親だと思う一方で、アガサも自分の両親と距離を置いた見方をしています。そんなアガサが職にありついたのが、ハバナの私設秘書という、まあ下働きみたいな仕事でした。

ハリウッド、天才子役という枠をとっぱらうとちょっとワケあり家族ドラマということになりましょう。「ヒストリー・オブ・バイオレンス」からマフィアの殺し屋という設定をとっぱらうと家族ドラマになるのと同じように、ちょっと尋常でないシチュエーションで、普遍的ホームドラマを描いたというのが、この映画のポジションのようです。ただ、ホームドラマと見るには毒が強過ぎて、異常なシチュエーション設定によって、何とか毒味が和らげられているという感じなのですよ。それでも、観終わった時の寒々とした空気は、バッドエンドのホラー映画にも負けていません。彼の映画を全て観ているわけではないのですが、後味の悪さとしては「戦慄の絆」に匹敵していると思います。結構有名な俳優が出ているのにも関わらず、登場人物がみんな生理的に気色悪いというのは、デビッド・リンチの「ツイン・ピークス」につながるものがあります。ゲップが出るほど下衆な女優を演じたジュリアン・ムーアはその存在そのものが肥大した腫瘍みたいな感じですし、実質的な主人公であるミア・ワシコウスカも地獄から帰ってきた天使みたいな、得体の知れない薄気味悪さです。そういったフリーキーな皆さんがさらに気色悪いドラマを展開するのですから、そりゃ後味も寒々とするわなとは思うのですが、どこからがリアルでどこまでが超自然なのかもはっきりしないまま、夢か現か幻かのまま、映画を終わらせるあたりの意地の悪さは、「危険なメソッド」の観客の突き放し方と似たものがありました。ですから、私にとっては、人様にオススメできる映画ではないのですが、便座に座ったジュリアン・ムーアがミア・ワシコウスカと会話しながら「あー何か便秘気味だわ、ブリブリブリー」ってのを観たい方はお試しのほどを。




この先は結末に触れますのでご注意ください。



スタッフォードとクリスティーナの間には秘密がありました。それは二人が兄妹だということ、別々に育てられて、大学で出会い、兄妹と知らずに愛し合うようになったというものでした。スタッフォードはアガサのいるモーテルを訪れ、二度と姿を現すな、1万ドルやるからどっか行けと脅していきます。それでもアガサはベンジーや母親を訪れ、母親の結婚指輪を盗み出します。一方で、アガサはジェロームといい雰囲気になり、本気で付き合うようになるのですが、アガサがそのことをハバナに言っちゃったら、今度はハバナがジェロームを運転手に指名、自分の家の前で、アガサにあてつけるようにカーセックスしちゃいます。アガサは、家に入ってくると、昨日遅刻したアガサを罵倒、クビを言い渡します。すると、それまでオドオドしていたアガサが映画賞のトロフィでハバナを撲殺。そこへやってきたベンジーに父親の結婚指輪を盗むように言います。スタッフォードが家に帰ってみると、クリスティーナが焼身自殺の真っ最中。火だるまになった妻をプールに突き落とすスタッフォード。その後、ベンジーが家へ帰ると、父親はプールの横のチェアで放心状態。ベンジーは父親の結婚指輪をはずすと、アガサと合流します。二人は大量の薬物を飲んだ後、結婚指輪の交換をして、結婚の誓いの言葉を唱えて、横たわる二人。カメラがぐんぐんと上へ上がっていって暗転、エンドクレジット。

近親相姦で生まれた姉弟が、やはり近親相姦的な感情で結婚しようとするあたりは、親の因果が子に報いという横溝正史的な展開となります。その結果、一家は崩壊、父親を残してみんな死んじゃうという結末は、「うへあ」という感じの後味の悪いものでした。その前に、ベンジーは、主演のドラマで、脇役の子役が目立っているのに嫉妬した結果、そのガキが病院で死んだ女の子に成り代わったタイミングで首を絞めて殺しかけてしまいます。そのおかげで、主役ドラマを降ろされることになり、八方塞がりの状態でした。一方、ハバナは、自分の母親を題材にした映画の主演になりたかったのに、監督は他の女優を選んでしまって、一度は落ち込むのですが、その女優の息子が急死し、母親役が自分に転がり込んできて、ラッキーでハッピーな状態のところをアガサに殺されてしまったわけです。また、ベンジーにとっての死はおぞましいものではなく、むしろ解放の意味合いがあったという、まさに、禍福は糾える縄の如しのようなお話なのでした。

ところどころに笑いを入れたつもりなのかもしれませんが、映画を通して伝わってくるのは、ハリウッドの薄汚さばかり。こんなところでウダウダ生きているくらいなら、死んだ方が自由だという、あまり実人生のお手本にはしたくない、でも認めちゃうかなという事実なのです。クローネンバーグに、ハリウッドを糾弾したり揶揄するつもりはなさそうなのですが、彼特有の生理的不気味演出の対象がハリウッドだっただけに、そのハリウッドの無間地獄的な禍々しさが前面に出てしまったように思います。いつも、どこかに政治的な視点を入れるクローネンバーグ作品には珍しく、政治的な立場への言及のない映画でして、それがさらに生理的気色悪さを増幅させたのかもしれません。

「ドラフト・デイ」のサントラは映画のわくわく感とカタルシスを与えるのに貢献しています。


久々の痛快娯楽編「ドラフト・デイ」の音楽を担当したのは、活劇からラブコメ、ホラーもこなす、映画音楽のテリトリーが大変広いジョン・デブニーです。そのどれもが皆水準以上の出来栄えという安打率の高い人。今回はアメフトのドラフト会議の日を舞台にし、メインテーマとなる曲はスポーツ番組のタイトルのようなわくわくするタッチのオーケストラ曲で、期待感を高めて盛り上げてくれます。一方、人間ドラマの方に入るとシンセとストリングスを主体にしたアンダースコアで、ちょっとラブコメ風の音をつけています。それでも、要所要所の厚めのストリングスで余韻を残すあたりの職人芸が見事です。

映画では、色々なチームに話が飛ぶたびにそこの本拠地の空撮が入るのですが、そのバックに太いオーケストラで盛り上がる音をつけていて、これが映画のわくわく感につながり、次の展開への期待が高まるのですよ。パーカッションを前面に出しつつ、ホーンとストリングスによるダイナミックな音が聞き応え十分。ただ、サントラ盤でも映画の尺しか流れないので、一曲長めのをCDには入れてほしかったわあ。

一方でコミカルな部分は、エレキギターのリフやピアノでちょこまかとした音をつけ、スケールの大きな音のメリハリも十分で、ドラマの緩急を音楽が見事にサポートしています。全体的に大らかなドラマを弾ませる音をつけておりまして、デブニーの音楽が映画の娯楽性に大きく貢献していると言えましょう。

作曲と指揮をデブニー自身が担当しているのですが、スコアをオーケストラ・マセドニア・ミュージック・エンタテイメントが製作しているとCDのライナーには書かれています。これが、どういう団体なのか気になるのですが、検索してもうまくヒットしませんでした。オーケストラを指すのか、それとも、楽譜を持ち込めば、オケを編成して録音までしてくれる会社なのかが不明なのですが、音としてはCDで聞いても、映画館の音に負けない迫力のあるものでした。


「ジミー、野を駆ける伝説」は色々なことを考えさせられる映画でした。


今回は、新作の「ジミー、野を駆ける伝説」を川崎チネチッタ2で観てきました。こういう映画をシネコンでやってくれるのはすごくありがたいのですが、土曜日の朝の初回、観客は私も入れて4名でした。横浜、川崎の皆さん、こういう映画も観に行きましょう。そうでないとシネコンにかからなくなって、渋谷や銀座まで行かないと観られなくなっちゃう。後はシネマジャック&ベティに頑張ってもらうしかなくなっちゃう。

1920年代にアイルランドでは、イギリスとの条約締結に向けた賛成派と反対派の内戦が勃発し、その時、土地の借用権を巡るトラブルに、先頭に立って実力行使したということでジミー・グラルトン(バリー・ウォード)はアメリカへと逃れます。しかし、アメリカも大恐慌に見舞われ、10年後の1932年、ジミーは故郷へと帰ってきます。かつての恋人だったウーナ(シモーヌ・カービー)も別の男と結婚して2児の母になっていました。かつて住民の交流の場として、ジミーを中心に作られたホールは閉鎖された状態で、若者たちから、あのホールを再開して欲しいと請われたジミーはのかつての仲間の手を借り、建物の修繕をして、ホールを再開します。歌や美術の教室が開かれ、そして夜は老若男女がダンスに訪れる場所として住民の憩いの場となるです。しかし、シェリダン神父(ジム・ノートン)や保守派の人間にとってはそれは伝統の破壊と堕落であり、さらには共産主義への入り口として映っていました。シェリダン神父は説教の場でジミーやホールに集まる人間を非難し、家々を訪ねて様々な圧力をかけてきます。正面からの衝突は避けたいジミーたちは、シェリダン神父にホールの運営に参加しないかと提案しますが、それならホールを教会へ寄進しろという神父の言葉に交渉は決裂してしまうのでした。ホールの存在を快く思わない人間の嫌がらせはいよいよはっきりとした形として行われるようになり、ジミーたちは不安になりながらもホールの運営を続けようとするのですが....。

実在したジミー・クラルトンという政治活動家を題材に「この自由な世界で」のポール・ラヴァティが脚本を書き、「麦の穂を揺ら風」「ルート・アイリッシュ」のケン・ローチがメガホンを取りました。冒頭で「inspired」と出るので、実録ものではなさそうなのですが、1930年代にジミー・クラルトンという政治活動家がいたのは本当のことのようです。彼が共産主義者だったのかどうかは明確には描かれていないのですが、労働者の立場で政治活動をし、労働者側への影響力を持っていたようです。そんな彼がある事件で当局ににらまれて、アメリカへ逃亡し、その10年後に帰郷したところから物語は始まります。恋人だったウーナは結婚していましたが、お互いのまだ相手を想いあっています。そんな中でホールが再建されるのですが、10年前と同じようにシェリダン神父は、ホール、そしてジミーを目の敵にするのでした。アメリカのジャズなんか持ち込んだりして、英国の堕落文化に住民を染めさせようというのがけしからんってのがあるようで、さらには、ジミーは共産主義者で、ホールに集まる人間もそのうちに共産主義に染まっちゃうなんてことを言い出すわけです。

じゃあ、この映画は保守対リベラルの対立構造で成り立っているのかというとそうでもないのですよ。もっと現実的な穏健派と過激派の関係の方がドラマの中から見えてくるのです。教会の中にもシーマス神父(アンドリュー・スコット)のように、連中のやることなんか知れてるんだから放っとけばいいと言う人間もいます。リベラル側では、ジミーは穏健派なのですが、「事を大きくしてもっと大きな流れを作るべきだ」というIRAの人間もいます。どちらも歩み寄れる人材を擁しているにも関わらず、その過激派の行動が事態を悪化させ、穏健派の希望を摘み取り、正面対決をせざるを得なくしてしまうのです。この映画の中で、ジミーは人に対して暴力を振るうことはしません。アジテーションっぽい演説をぶつシーンがありますが、その中でも敵をやっつけろ的な発言はしていないのです。それでも、ジミーは警察に追われて、逃亡者になってしまいます。彼が、どうして政治的な運動のリーダーになっちゃったのか、そして本当に共産主義者だったのかどうかが映画の中で描かれません。ただ、どうやら穏健左派くらいのポジションであるという見せ方をしています。人格者であり、人望もあり、シェリダン神父でさえ、彼を敬意を表するに値する人間だと評価しています。それでも、穏健派は争いの仲介役になれないというところにこの映画の切なさがあります。

同じようにアイルランド国内での対立を扱った「麦の穂を揺らす風」と比べれば直接の殺し合いのシーンがないだけ観ていて気分が落ち込むことは少ないのですが、神父側の言い分があなどれないところがドラマに普遍性を与えています。外から来る文化は堕落しているから認めない、宗教者が認める教育しか受けさせないという理屈は、イスラム国にもあてはまる理屈で怖いとは思うのですが、リベラル側だって、自分たちの新旧取り混ぜた文化しか認めたくない、宗教者でない人間が人を教育してどこが悪いというのは、どこか似通ったものを感じてしまうのですよ。私自身の意見では、教会側よりは、ジミーサイドに立ちたいのですが、両者の対立は力でしか決着がつけられないものではないかと思えてしまうのですよ。穏健派の理性が両者の落としどころを見つけて、そこへうまく流してくれればいいのですが、現実の歴史は決してそんな風にはならなくて、憎悪が暴力を生み、暴力は復讐の言い訳を与え、さらに暴力を加速させるという図式です。そういう流れを描いたのが、「麦の穂を揺らす風」でしたけど、この映画はそこまで血生臭くはありません。でも、普通の人々の日々の暮らしが、宗教や政治的な力によって抑圧される構図がリアルに描かれています。抑圧というと、悪い意味になりますが、宗教の側からすれば、人々を導き、生活を律するということになるのでしょう。でも、力と恐怖によって人々を押さえつけ、自分の思うように他人を動かしたいのが正直なところではないかと。この映画でも神父の説教に地獄に落ちるみたいな脅迫じみた言葉が登場しますし、宗教ってやっぱり怖いわって思っちゃいます。じゃあ、宗教全面否定の社会主義がいいのかというと、とてもそうは思えない。どちらに振り切っても、あまりいいことはなくて、その中間あたりに現実的な落としどころがあるのだけれど、前述のように穏健派の意見はあまり通らないから、どっちか極端な方向へ傾いてしまうしかない。この映画でも、どこか他にやりようがあるだろうと思っているシーマス神父の言い分が全然相手にされないあたりに、対立や紛争が終わらない理由があるように思いました。

この映画はそういう政治的なお話とは別に、ジミーとウーナのかなわぬ恋の物語も描かれます。10年という時間は再会してみれば大したことではなくなっちゃうくらい、二人は愛し合っていたのですが、今はもう人の妻であるウーナはその想いに身を任せるわけにはいきません。それでも、夜のホールでジミーがアメリカ土産としてプレゼントしたドレスを着て、月明かりの下で、二人が無言でダンスをするシーンは、この映画の中でもっとも情感が盛り上がり、印象に残りました。募る想いをダンスの一挙手一投足に込めるところが悲しいようで、切ないようで、でも、すごくエロいのですよ。このシーンに尺を割いて長回しで見せたことで、この映画は恋愛映画としても一級品となりました。最近の映画の中でも、このダンスシーンは屈指の名シーンでした。

プログラムを読むと、この映画はフィルムで撮影されたようで、録音用のテープが足りなくなりピクサー社に残っていたのを送ってもらったそうです。フィルムの状態で編集されたそうで、そういうフィルムによる工程で作られた最後の映画になるかもって書いてありました。それでも、最後の仕上げはデジタル処理をしたのだそうです。もう映画はフィルムで作る時代ではなくなったんだなあってしみじみする一方で、今の撮影方式の映画は100年200年先もきちんとスクリーンで観られるのかなあってのは気になります。技術の進歩は新しい方式、デバイスを開発していきます。それにより古いデジタル方式が淘汰されないような仕掛けが必要ですよね。フィルムなら100年前の映画が今も観られるし、デジタル処理してクリアな画像にすることもできます。その偉大なフィルムの利点が、今のデジタル映画の工程に生かされているといいのですが、このあたりは、私はまるで知らないので、希望を述べるだけになっちゃいます。

ケン・ローチの演出は、主人公のジミーを政治活動のリーダーにしては穏やかなキャラクターの人間として描ききりました。また、対立するシェリダン神父も、ジミーの人格を評価しつつも、人々を啓蒙教育するのは教会だと自負していて、ホールで行われるダンスなんて宗教的堕落だと思っちゃっていますから、ホールをつぶすことに何の躊躇もありません。この手強いキャラは、立場をひっくり返してみると、ジミーも同じ手強さを持っていると言えましょう。どちらも、考え方の違う人間とは対立し、また支持者も持っているという点でも同じです。でも、この映画では、ジミーは善玉で、シェリダン神父は悪玉になっています。なぜ、そうなっちゃうのかを考えてみると、意外と答えが出てこないのですよ。女子供が支持しているからジミーの方に分がありそうな気もしますが、これが思慮の浅い女子供が新興宗教にはまった図とどうちがうのか、もちろんケン・ローチはジミーを支持しているのですが、当時の理性的な市民がどちらを支持するかと言われれば、五分五分ではないかという気がします。それだけに、中庸な立場をとる宗教側のシーマス神父がジミーと同じポジションのような気がします。ただし、えげつないことをするのは宗教側です。一方で、ジミー側の過激な友人は保守勢力打倒を推し進めようとしているのです。



この先は結末に触れますので、ご注意ください。



ジミーのホールにかつてのIRAの友人が駆け込んできます。ある一家が地主に家を追われてしまったので、その奪還に手を貸して欲しいと言います。ホールのメンバーも意見が分かれますが、結局友人の頼みを聞いてジミーが先頭に立った集団が農場の家に押しかけ、封鎖されていた家を開け放つのです。地主の手下も追い散らして、こういうことをまたやったらタダではすまないぞと友人たちは啖呵を切ります。そこでジミーはみんなに演説をぶちます。そんなことをしていたせいか、保守派のいやがらせはより過激になり、ある夜ダンスに人々が集まったホールに向かって銃弾が撃ち込まれます。そしてついにホールは夜中に火が放たれて灰になってしまいます。焼け跡で呆然とするジミーたち。さらに警察はジミーを逮捕しにやってきます。10年もアメリカにいたから、不法入国者として強制送還させるというムチャな因縁をつけてきます。ジミーは逃亡し、友人たちが彼をかくまうのですが、それも長くは続かず、ついに、彼は捕えられ、港に向かうトラックに乗せられてしまうのですが、そんな彼のトラックを若者たちが自転車で追います。そして、ホールで学んだことを子供たちに伝えていくと、彼に言います。そして去っていくトラックを見送る若者たちから暗転、その後、ジミーは残りの人生をアメリカで過ごし、アイルランドは最後まで彼の入国を許さなかったという字幕が出て、エンドクレジット。

ラストで若者たちが、ジミーに、ホールで学んだことを伝えていくというシーンはちょっとだけホロリとしちゃいました。結末としては事実に沿っているので、ドラマチックな逆転はないですし、ウーナとの恋が再び燃え上がることはありません。それでも、若者の希望としてジミーの存在があったことがわかるあたりは、作り手の想いがこちらにも伝わってきました。歴史の中で、どちらかというと地味で、大きなことを成したわけでもないジミー・グラルトンにスポットを当てることで、アイルランドに流れた自由の風を感じるとともに、その後の歴史にも想いを馳せることができる映画です。ジミーは社会主義者のようではありますが、社会主義が希望として描かれる時代が割と最近まであったことも覚えておく必要があると思います。その当時もアカと言われて差別されたりもしたのですが、今は社会主義は、差別されるほどの存在感もない終わったコンテンツになっちゃっています。それでも、対立する意見はあり、他人の意見を宗教や権威で封じ込めようとする人間は今もいっぱいいます。そんな中で、自由というものを考え直すのもいいかなっていう時代になってきたように思います。この映画では、共産主義が力を持ってくるのは貧困に原因があると、シーマス神父は言います。日本も、バブル崩壊以降、あまり景気のいい話がありません。貧富の差は広がっているように思えます。衣食住が多少足りなくても、人は自由を選択する権利があるってことを再認識させてくれる映画ではないかしら。

それにしても、2015年が始まって1ヶ月で「毛皮のヴィーナス」「デビルズ・ノット」「ドラフト・デイ」にこの映画と、ベストテン候補に4本当たるってのは、今年は結構すごいかも。
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einhorn2233

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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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