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「ナイト・ミュージアム エジプト王の秘密」はマイルドにまとまったファミリー映画。


今回は新作の「ナイト・ミュージアム エジプト王の秘密」をTOHOシネマズ日劇3で観てきました。70ミリが上映できる映画館って、DCPになったら、大きなスクリーンの使い道がないのはもったいないなって思いますです。ちなみに、この映画は最近のハリウッド映画には珍しいビスタサイズでした。

夜になると展示物が動き出すニューヨークの自然史博物館。その魔法の秘密であったファラオの石板が変色を始めました。すると、普通にしてきた展示物の動きがおかしくなります。プラネタリウムの開幕パーティで、ラリー(ベン・スティラー)は、彼らに出し物を演じさせようとするのですが、その場でみんな様子がおかしくなってパーティは大混乱。石板の変色が進みます。アクメンラー(ラミ・マレック)は、この石板の秘密は父親なら知っているかもという話をし、そこで、父親のマレンカレ(ベン・キングスレー)の遺体が展示されている大英博物館に、ルーズベルト(ロビン・ウィリアムス)やジュデダイア(オーウェン・ウィルソン)といったお馴染みのメンバーを伴って向かうことになります。大学進学をやめたいと言っているラリーの息子、ニックも連れて、ラリーの一行は、大英博物館の警備員ティリー(レベル・ウィルソン)をうまくだまして潜入に成功します。変色しつつも石板の魔力は、大英博物館の展示物にも働いて、展示物は次々に動き出し始めます。トリケラトプスの化石に襲われた一行を助けたのは、円卓の騎士のランスロット(ダン・スティーブンス)でした。そして、ラリー達は、マレンカレの展示されているエジプトゾーンに向かうと、そこにはマレンカレとその妻シェプスハレットがいたのですが.....。

第1作が2007年ということですから、8年がかりの3作目となります。マーク・フリードマン、デビッド・ギヨン、マイケル・ヘンデルマンによるストーリーを、ギヨンとヘンデルマンが脚本化し、シリーズの1,2作目を手がけたショーン・レヴィが監督しました。このシリーズ、「ナイト・ミュージアム」「ナイト・ミュージアム2」は、斜に構えたところのない、クセのないファミリー向け映画としてよくできていたのですが、この3作目にもそこそこ期待するところがありました。結果、それほど期待を裏切られることはなかったのですが、まあそこそこの出来栄えになっちゃったのは、こっちの観る目が肥えてしまったからかもしれません。1作目では、夜になると展示物が動き出す博物館という基本設定の面白さで見せ、その映像の面白さで観客を楽しませてくれました。2作目では、世界征服を企む悪役を登場させて活劇タッチの展開が面白く、1作目プラスアルファの趣向で楽しむことができました。さて、3作目で基本設定に何を乗せてきたかというと、石板の魔力が衰えてきたという基本設定を根本から揺るがすトラブルでした。さらに、ロンドンの大英博物館を新たな舞台とするという趣向も盛り込んでなかなか工夫がされています。

この映画、言い方はよくないかもしれませんが、毒にも薬にもならないファミリー向け映画に仕上がっています。そこは映画としての弱点ではなく、このシリーズの強みと言えるものです。第1作では、自然史博物館というちょっと地味目な施設に、色々な楽しいものがあるんだということを示してくれる映画でしたし、親子の絆についても描かれているのは、家族で観る映画にふさわしいものでした。そこに、豪華キャストと大掛かりな視覚効果を導入して、映画としての大作感を出しています。それは、財力にモノを言わせるハリウッド映画そのものですが、そこであえてファミリー向けという的を絞っているのが、私には新鮮に感じられました。今回は、前2作に比べると今一つなのかもしれませんけど、そのベースとなる作りの姿勢である、ハリウッド大作としてのファミリー向け映画は変わっていません。昔、ディズニーがファミリー向けのアニメじゃない映画を色々と作っていた時代もあったのですが、それらは、この映画のような大作ではありませんでした。それを大作に仕立てちゃうあたりのハリウッドの今のパワーを感じさせる映画でした。

視覚効果には、100人以上もクレジットされているだけあって、動く彫像やら、化石やら、人形の類はいっぱい。引きの画面で、いくつもの素材が組み合わされて、CGのモブシーンのごとき状況はなかなかに圧巻です。このシリーズの第1作、第2作では、てんこ盛りのCGをCGと感じさせない自然な絵作りをしてきたのですが、今回は、CGが若干前面に出すぎの感があったのは、ちょっと残念。役者のドタバタ部分が少なかったってことがあるのかも。映画の後半は、魔法の石板の争奪戦になるのですが、そこにあまりドキドキハラハラが感じられなかったのは残念。お宝争奪戦というと「ハムナプトラ」のシリーズが二転三転の畳み込みが見事だったのですが、3作目では息切れしちゃってましたから、3作目ってのは意外と難しいのかもしれません。

そんな息切れしがちな画面を盛り上げていたのは、シリーズ全作を手がけるアラン・シルベストリの音楽でして、オーケストラを縦横に鳴らして、メリハリのある、元気の出るスコアを提供しています。今回は、クライマックスの軸足がはっきりしないところもあったのですが、そこに無理やり活劇調の音楽を鳴らして、勢いで盛り上げていたところで、点数を稼いでいます。演技陣では、第1作めのディック・バン・ダイクやミッキー・ルーニーがちょっとだけ顔を出したりするのが楽しく、ロビン・ウィリアムスやオーウェン・ウィルソン、スティーブ・クーガンといったいつものメンツがリラックスした演技を見せる一方で、今回のゲスト出演者である、ベン・キングスレーがアクメンラーの父を最後まで大真面目で演じているのが面白かったです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



マレンカレに石板の秘密を聞いてみると、その石板はマレンカレが家族と常に一緒にいられるようにと作られたものであり、月光を浴びないと魔力が消えてしまうというものでした。そこで、月光の入る場所へ移動すると、ランスロットが石板を奪って逃走。どうやら、何かの宝物だと思ったようなのですが、それに本人の存在がかかっているという認識はないみたい。ラリーたちがランスロットを追いかけるのですが、石板はますます変色し、ルーズベルトたちも動きが鈍ってきます。ランスロットは博物館を脱出し、ヒュー・ジャックマン演じる「キャメロット」の舞台に乱入するのですが、そこへラリーたちも追いかけてきて、劇場の屋上まで、ランスロットを追い詰めるのですが、ルーズベルト以下の展示物はそこで息絶えてしまいます。それを見たランスロットは自分の非を悟り、石板を返します。ラリーが石板を月に向かって掲げると、みんな元通りに生き返るのに何より。そこで、ニューヨークへ帰ることになるのですが、ルーズベルト以下のメンバーが、この石板とアクメンラーは大英博物館に残って親子で仲良く暮らす方がいいと言い出し、石板は大英博物館に置いていくことになります。そして、ニューヨークへ戻ったメンツは元の場所に戻り、ラリーは自分の博物館での仕事を終えます。そして、3年後、ニューヨーク自然史博物館で、大英博物館展が開かれると、その夜、また博物館は展示物が動き出し、大騒ぎとなります。その様子を外から道路を挟んで眺めているラリーの絵になり、エンドクレジット。

結局、石板を月光にあてるというだけの話なので、あまりドキドキハラハラの入る余地がありませんでした。ランスロットが石板を盗む理由が曖昧なのと、あまりにもあっけなく改心しちゃうのは、ドラマ的にかなり無理しているという感じで、映画としてのテンションが前2作よりも弱くなってしまいました。そして、いつものメンバーが、石板をアクメンラーと両親と一緒にしてあげようというところで、ちょっとホロリ展開となり、ニューヨークに戻った彼らがラリーに別れを告げるところを丁寧に見せるあたりは、最終作として悪くない終わり方だと思ったのですが、ラストでまだ続編が作れる布石で、その余韻が飛んじゃったのは残念。また、ヒュー・ジャックマンが本人役で登場して、そこそこの尺で笑いを取るのはおかしかったです。

ショーン・レヴィの演出はあまり刺激を強くしないで、全体をまろやかにまとめていまして、ファミリー向け映画としての出来は悪くありません。ただ、クライマックスの盛り上げと言うかたたみ掛けまでまろやかにしちゃったので、そこは物足りなく感じられてしまいました。でも、こういうファミリーにターゲットを絞った映画がもっとたくさん作られるといいのにと思いますので、ヒットして欲しい映画です
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「妻への家路」は静かな語り口で時間の流れを感じさせる演出にホロリ


今回は新作の「妻への家路」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ3で観てきました。ここはフラットな場内でスクリーン位置が低めなので、ちょっと頭の大きな人が前に座ると画面が欠けちゃう映画館。もともとシネコン用に作られていない映画館なのですから、全席指定にしちゃいけないところだと思ってます。スクリーン位置を上げるだけでだいぶ印象は変わるのですが。

教師でもあるフォン・ワンイー(コン・リー)の夫であるルー・イエンシー(チェン・ダオミン)は文化大革命で右派分子とみなされて強制労働所へ送られていましたが、ある日イエンシーが脱走したという知らせが、ワンイーと娘のタンタン(チャン・ホエウェン)のもとに届きます。バレエをやっているタンタンは、党の指導に従い、反逆者だる父親に会うことはしないと幹部の前で誓うのですが、ワンイーは、そうはっきりと答えることができません。そして、監視の目が光る中、妻子に会いにきたイエンシーが言い残した待ち合わせ場所をタンタンは密告してしまい、翌朝、駅の待ち合わせ場所で、ワンイーの目の前でイエンシーは逮捕されてしまうのでした。それから3年後、文化大革命も終わり、20年ぶりに釈放されたイエンシーは故郷に帰ってくるのですが、それを出迎えたタンタンはどこかよそよそしく、バレエもやめて紡績工場で働いていました。住んでいた家に帰ってみれば、そこにワンイーはいましたが、夫の顔を見ても、ファンさんだと言い、荷物を降ろそうとしたイエンシーに「出て行け」と言い放ちます。ワンイーは心因性記憶障害にかかっていて、夫についての記憶が欠落していたのです。どうも1年前から精神的におかしくなったようで、普通に生活する上では忘れ物が多いくらいなのですが、イエンシーを自分の夫であると認識できないのです。党員に説明してもらっても納得しないし、唯一残っていた若い頃の写真を見せても、今のイエンシーを夫として認められないのです。何とかして、彼女に自分を思い出して欲しいイエンシーですが、そんなある日、彼が帰郷前に送った荷物が届きます。その中には、彼が書いたが出せなかった手紙が山のように入っていました。荷物を運ぶのと手伝ったイエンシーにワンイーは「同志」と呼びかけ、細かい文字が読めないので、手紙を読んで欲しいと彼に頼むのでした。

ズォウ・ジンジーの脚本を「紅いコーリャン」「あの子を探して」のチャン・イーモウが監督しました。イーモウとコン・リーのコンビを初めて劇場で観たのが「紅いコーリャン」の時でして、もう四半世紀以上も経っていることにまずびっくり。コン・リーは大女優となりこの映画でも貫禄の演技を見せてくれています。チャン・イーモウも「HERO」「LOVERS」といった大作を手がけながらも、「サンザシの樹の下で」「至福のとき」といった小品でしっとりとした味わいの映画も作り続けています。今回は駅のシーンなど手のかかった画面づくりをしていますが、お話としては小品の方へ分類される内容の作品でして、「サンザシの樹の下で」と同じく文化大革命を背景に男女のドラマが展開します。原題は「Coming Home 帰来」というもの。文化大革命で20年離れ離れになっていた夫婦が再会したが、妻は夫の顔を思い出せなくなっていたというもの。3年前に、強制労働所を脱走した夫に妻は会う機会はあったのに扉を開けなかったことを後悔していました。また、娘のタンタンは党の指導に忠実に父親の居所を密告し、それから母親とうまくいかなくなっていることを後悔していました。そんなところへ名誉回復したイエンシーが帰ってきます。夫にずっと会いたいと思っていたワンイーは目の前の初老の男を夫として認識できません。娘のタンタンは密告したことの負い目があって、素直に父親を受け入れることができないのでした。

映画の冒頭は、バレエのレッスンのシーンから始まります。タンタンがバレエの主役をやる実力の持ち主だったのですが、父親が右派分子で脱走者であったことから主役をはずされてしまいます。このことが会いにきた父親を密告する動機にもなっているのですが、親子の情より、党への忠誠の方を重く思っていたタンタンは文化大革命後の、父親への接し方にとまどいを隠せません。その他にもタンタンは家のアルバムから父親の写真を切り取って捨てたりしていて、それらを含めて母親との関係が気まずくなって、タンタンは親の家を出て一人暮らしをするようになっていたのです。一方の母親は、記憶が飛ぶことがちょくちょくあって、家の中は忘れないようにメモだらけ、それでも一人で何とか暮らしていました。父親、大学の教授でピアノが弾けてフランス語を話せるインテリでしたが、そのことからも文化大革命で反右派運動の標的にされたようです。過去に色々とあった3人が何とかして今を乗り越えたいというのがこのドラマのメインとなっています。自分を夫だと認めてくれないワンイーに絶望しかかるイエンシーですが、なんとか過去の記憶を思い出させようとします。しかし、昔の写真も夫を思い出させることはできません。さらには、ピアノの調律師のふりをして、かつて妻に聞かせた曲を弾いて自分を夫だと思い出させようとするのですがこれも失敗。決して、誰かを責めることはしないイエンシーの切なさが画面にあふれていまして、このあたりから場内かなり泣きが入ってきます。しかし、ワンイーに夫からの手紙を読んで聞かせる人として、イエンシーは妻から来訪を待たれる存在になります。目の前にいるのが夫なのに、手紙に聞き入る妻の姿にイエンシーは心が折れかけるのですが、そこで新たに自分で書いた手紙を読み聞かせるようにします。そして、忘れ物が増えたのならあまり外出はしないように、タンタンとも和解してまた一緒に暮らすようにという手紙を書いて、ワンイーの前で読み聞かせると、イエンシーはその言葉に従い、タンタンを家に戻して、また二人で暮らし始めるのでした。

冒頭のイエンシーの脱走に関わるシーンは大変ドラマチックに展開して、テンションの高いドラマになっているのですが、文化大革命後にイエンシーが帰ってきてからは、物語は淡々と進んでいきます。ワンイーが夫を思い出しそうになるのですが、結局それができず、夫の手紙に「5日に帰る」という言葉を信じて、毎月5日に駅に夫を迎えに行きつづけるのでした。イエンシーは何とか妻に夫だと認めてもらおうとしては失敗をますが、悲しげな顔を繰り返すだけで愁嘆場にはなりません。タンタンと母親は一緒に住むことで、どこか和解の感触があるのですが、タンタンと父親の関係はぎこちないままです。そんな微妙な関係をチャン・イーモウは静かなタッチでつづっていきます。ところどころに盛り込まれたささやかなユーモアがゆっくりとした時間の流れを表現する一方で、それでも夫に気付かないワンイーをやさしい視線でとらえていきます。

チェン・ダオミンは、過酷な運命をある種の諦観を持って受け入れているイエンシーを静かに、でも意志を持ったキャラクターで演じました。一方、記憶障害のせいで感情の一部に失われたものがあるワンイーを、コン・リーはいつもの強めキャラとは全く違う演技で演じきりました。そのある意味つかみどころのないキャラクターに時々よぎる感情の見せ方が見事でした。シネスコサイズの映像と時代色を表現した豊かな色彩設計もドラマをきっちりと支えていまして、チェン・チーガンによる音楽も前面に出すぎることなく、静かなドラマをやさしく支えています。



この先は結末に触れますのでご注意下さい。



ワンイーは、手紙を読みに来るイエンシーを待ちわびるようになり、彼が風邪を引いて来られない日は、餃子を持ってお見舞いに行くまでになります。そして、何年もの年がたち、ある月の5日、年老いたイエンシーは人力車のついた自転車で現れ、ワンイーを乗せて駅まで行きます。そして、イエンシーの名前を書いた板を掲げて、駅を降りてくる人々を待ちうけます。そして、列車の乗客が全て降りて、駅舎の門が閉まり、ワンイーとイエンシーだけが残っている絵から暗転、エンドクレジット。

ラストで、ワンイーとイエンシーは一生添い遂げることになったことが伝わってくるのですが、結局、ワンイーは帰らぬ夫を待ち続け、イエンシーは、それに寄り添い続けるのです。ワンイーの視線はあくまで、降りてくる乗客の向こうにいるはずの夫に向けられていて、イエンシーは悲しげにそれを見つめるしかできません。切なくも悲しい結末にはホロリとさせられます。そして、結局、夫は帰ってこなかったけど、娘は帰ってきたから、タイトルの「帰来」は娘のことを指しているのかなってところで、ちょっとだけ納得しました。泣ける話ではあるのですが、その静かな語り口は上品な味わいで、映画としてのオススメ度はかなり高いです。

「イミテーション・ゲーム」は色々なネタを盛り込んでいて、それでも娯楽映画としてまとまっています。


今回は新作の「イミテーション・ゲーム」を109シネマズ川崎5で観てきました。小さな劇場で、その2列が特別席になってまして、普通の人はベストポジションに座れないという、あんまり当たりたくない劇場。

1951年、数学者アラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)の家に泥棒が入りました。ノック刑事(ロリー・キニア)が彼の身元を確かめたら、記録が存在しないのにびっくり。1941年、アランはドイツの暗号エニグマの解読チームに参加することになりますが、それは極秘中の極秘任務だったのでした。天才肌のアランはチームになじめず、また一人で解読マシンの製作に没頭しちゃうので、浮いてしまいます。さらに、アランはチャーチルに手紙を書いて、チームリーダーになってしまいます。そして、チームの2人をクビにして、クロスワードパズルを審査基準にしてメンバーを公募します。その募集でジョーン(キーラ・ナイトレイ)というパズルの達人をスカウトします。彼女の知性と明るい人柄がアランをリードすることもあって、だんだんとチームとしてのまとまりも出てきます。しかし、エニグマは毎日キーを変えるため、1日のうちに解読できないとそれまでの仕事が全部チャラになっちゃうという厄介なもの。アランの作ったマシンも検索パターンが多過ぎて、解読しないうちにその日が終わってしまいます。軍のデニストン中佐はマシン解読を中止させようとしますが、その時、アランを助けたのは、チームの同僚のヒュー(マシュ・グード)たちでした。それでも、マシンはなかなか答えを出せず、その間に、ドイツ軍による侵略が続きます。果たして、アランはエニグマ解読に成功するのでしょうか。

実在の人物、アラン・チューリングの半生を、グレアム・ムーアが脚本化し、ノルウェー出身のモルテン・ティルドゥムが監督しました。最近、女性に人気だというベネディクト・カンバーバッチが主演しているのですが、私は初めて彼をスクリーンで確認しました。なんか、イギリスの野原ひろしみたいな感じのおっさんでした。最近はこういうタイプが受けるのかあって、自分が世間とずれているのを痛感しましたが、映画としては最後まで面白く観ることができました。ただ、これ、どういう映画なのか、20文字以内で説明しろと言われると非常に難しい映画でして、チューリングのプライベートな伝記もののようであり、第二次大戦秘話という趣もありまして、かなり欲張った構成の映画になっていますが、ティルドゥムの演出はそこをうまくさばいて、伝記の部分も歴史秘話の部分も過不足なく盛り込んで、1本の映画としてうまくまとめあげています。

ドイツの暗号エニグマ解読についての事実は、戦後50年秘密にされていたそうで、なぜ秘密にされていたのかということも、この映画から伺い知ることができまして、歴史の勉強にもなる映画でした。映画は、戦後1951年の彼の家に泥棒が入ったことから始まり、戦争中、そしてアランの少年時代が、並行して描かれます。メインとなるのは戦争中なのですが、彼の過去と現在(1951年)が彼のプライベートについての重要なシーンとなっています。もともと数学が得意だったアランは、学校でも浮いた存在で、唯一の親友からもらった暗号の本から、彼はそっちの道に行くことになります。本当に頭が良かったのでしょうが、その自信満々な態度は、チームで仕事をするには不向きでした。同僚からクレームが出ると、首相に手紙を書いて、自分がリーダーになっちゃいます。そんな彼に、同僚と仲良くするようにアドバイスするのが、若いジョーンです。クロスワードパズルの天才の彼女は、チームでもアランの片腕となって活躍します。そして、両親から実家に帰るように言われたジョーンに、それなら、と、アランはプロポーズします。ジョーンもアランに心を惹かれていて、エニグマ解読の仕事にも充実感を感じていたようです。女性が極秘事項に触れることが難しい状況があることが、アランの口から語られますし、当時の女性の地位を考えると、エニグマ解読のような国防上重要な仕事をするのは、すごいことだったようです。一方、他の同僚であるヒューやジョン(アレン・リーチ)たちは、最初のうちは、自分たちのように文書の解読をせず、機械の配線ばかりしているアランに批判的なのですが、だんだんと彼のマシンが唯一の希望だと考えるようになり、彼に協力するようになり、また、アランもチームの中に溶け込もうとするので、チームの結束は強くなります。しかし、なかなか解読の方は進みません。キーのパターンを全件検索するには、マシンはパワー不足だったのでした。

ある時、バーで暗号の聞き取りをしている婦人部隊の女性が、電文の最初に必ず同じフレーズが入ってくるから、きっと送信しているドイツ軍の通信兵には恋人がいるのだろうと冗談交じりに語るのですが、それを聞いて、アランがひらめき、それがチーム全員に伝わります。電文にはどこかに決まったフレーズがあるから、それをマークすれば、全てのパターンを検索しなくてもよいということだそうで、彼らは天気の報告とハイル・ヒトラーがあるフレーズを探し出し、それをマシンに入力します。すると何時間も答えを出せないでいたマシンが停止し、暗号キーを割り出すことに成功します。これで、アランたちの努力が報われ、イギリス軍が優勢に立つことができます。しかし、この解読が成功したことで、アランたちの仕事はさらに極秘事項になるのでした。

エニグマ解読の話から、突然、アランがジョーンにプロポーズする話になってくるので、「???」という気分になるのですが、アランという人を描くこともやろうとしているらしいということが見えてくるとまた別の趣が出てきます。両方の部分が興味深くもあるのですが、映画全体から見えてくるのは、戦争の非情さというところに集約されていきます。まあ、その部分は前面には出てきませんので、映画の1エピソード的な扱いなのですが、連合軍の勝利という結末に至るまでの犠牲については考えさせられるものがありました。

ベネディクト・カンバーバッチはアランという人間をしっかりと作りこんでの熱演でしたが、どんな役も自分に取り込んでしまうキーラ・ナイトレイの演技の方が光っていたように思います。その他のマシュー・グード、マーク・ストロング、ロリー・キニアといった脇役陣はタイプキャストではありますが、そのキャラクターにうまくマッチしていました。しかし、マーク・ストロングという役者さんはこういう役どころばかり演じてるなあって感じでして、キャラが役を縛るタイプなのかなって、気がして、ちょっと気の毒。何だかんだ言っても、主役を演じた「記憶探偵と鍵のかかった少女」よりも、今回のMI6の幹部の方がはまっているのですから、仕方ないってところもあります。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



エニグマを解読できたことで、ドイツ軍の通信電文はほとんど掌握できるようになったのですが、それはあくまでドイツ軍がエニグマが解読されていることを知らずに使い続けている間だけの話でした。そこで、エニグマが解読されたとわからないように、戦争を勝利に導く必要がありました。エニグマが解読できずに、連合軍が負け戦のように見せながら、要所要所を押さえて、ゆっくりと戦争を進める必要がありました。その為には、民間人の旅客船を見殺しにすることも必要で、また、エニグマ解読による勝利も別ルートで情報が漏れたように見せかける必要がありました。その必要性を見抜いたアランたちは、イギリス軍にはその事実を知らせず、MI6にのみ事実を伝え、情報操作を依頼するのでした。それによって、エニグマ解読の事実は隠蔽されたままで、連合軍の勝利が導かれていったのだそうです。「そうです」ってのは、そのあたりは映画の中では描かれなくて、ラストの字幕で語られるのみの扱いになっているからです。そして、戦争の勝利とともに、エニグマ解読にかかわる、書類やマシンは全て焼却されたのでした。

一方、アランのプライベートな秘密とは、彼がゲイだったということ。1951年の窃盗事件は、アランが買った男娼が仲間を誘って、家に忍び込んだものだったのです。そして、当時ゲイであるという理由だけでわいせつ罪で逮捕されることがあったのです。少年時代に、自分の性癖に気付いたアランは、仲良くしてくれた親友に暗号で「Ilove you」の手紙を送ろうとするのですが、その時、親友は結核で亡くなっていたのでした。校長からそのことを聞かされて、彼の病気のことを知らなかったアランは愕然となり、それがずっと彼の心の傷になっていました。そして、暗号解読マシンに、親友の名前をつけ、クリストファーと呼んでいたのでした。ジョーンにプロポーズしたのもジョーンがエニグマ解読チームから抜けないようにするための方便だったのです。そのことに悩んだアランは最後には、自分とは結婚できないから、実家に帰ってちゃんとした人生を歩むように、ジョーンに告白するのですが、ジョーンはこのプロジェクトに価値とやる気を見出していて、今さら、私を追い出すのは許さないと言い切るのでした。

さて、窃盗事件から、ゲイであることが警察に知られたアランはわいせつ罪で逮捕され、懲役の代わりに薬物治療を受けることになり、その副作用に苦しむことになります。それでも、家にマシンを作って研究を続けてきたアランですが、逮捕の3年後に自殺するのでした。彼の名誉が回復したのは、ゲイへの法的差別がなくなったごく最近のことだったのでした。

アランがゲイであることは映画の中盤でわかるのですが、それまでにもそれらしき雰囲気はなんとなくありまして、カンバーバッチの天才肌ばりばりゲイ控えめのバランス演技は見事でした。また、政府機関の仕事の上で存在した男女差別に対して、ジョーンが正面から立ち向かっていたらしいことも見えてきまして、このあたりの、ナイトレイの天才肌控えめ自己主張しっかりのバランス演技も見事でした。そういう世相を盛り込みつつ、コンピュータの原型と言われるチューリング・マシンの開発を描き、そして、暗号解読から、それによる情報戦という現代戦争の非情さまで描くという、刺身5点盛りか、焼き鳥盛り合わせみたいな、贅沢だけど、それぞれちょっとずつみたいな味わいの映画に仕上がっています。一品料理に絞り込むこともできたのでしょうけど、そうしなかったことで、映画の娯楽性は増したように思います。そういう意味では第二次大戦以降の現代史の入門編としても、楽しめる映画だと思います。情報戦とはどういうことか、イギリスのゲイ差別ってどんなものだったのか、公職への女性の進出っていつごろから?とか興味を持ったところの歴史を紐解いていく出発点になりますと言ったら、褒め過ぎかしら。

「ブルックリンの恋人たち」は歌を聞き取れないと超あっさり風味になっちゃう。


今回は、新作の「ブルックリンの恋人たち」を川崎のTOHOシネマズ川崎8で観てきました。シネスコサイズの画面のまま、本編もビスタサイズでの上映ってのに、どうもなじめないのですが、そういうところを細々言うのはオヤジくらいで、若い人は気にしないのかな。

アフリカで民俗学の研究をしているフラニー(アン・ハサウェイ)に、母親(メアリー・スティーンバージェン)から、ストリートミュージシャンをしている弟のヘンリー(ベン・ローゼンフィールド)が交通事故に遭ったと連絡が入ります。ニューヨークへ戻ってみれば、弟は昏睡状態でいつ目を覚ますかわからない状態。実家に戻って弟の部屋を覗いたメラニーは、彼の作った歌のCDと、有名なジェイムズ・フォレスター(ジョニー・フリン)のポスターと彼のコンサートチケットがありました。そのチケットを持ってコンサートへ行き、その終わりにジェイムズに声をかけてCDを渡します。ツアー中の彼は、その翌日、弟の病室を訪れて、弟のために1曲歌ってくれます。フラニーは、ヘンリーが好きで通っていた歌手巡りをしようと思い、ジェイムズを誘ってみると、ツアーの合間ということで付き合ってくれるとのこと。フラニーは弟の好きなアーティストの音楽を聞かせることで、目を覚ますかもしれないと希望をつないでいました。そして、何度か会うようになるうちに、フラニーとジェイムズはお互いに惹かれるようになるのですが、彼のニューヨークコンサートの終わりをもって、二人には別れのときが訪れるのでした。

ケイト・パーカー・フロイランドが脚本を書き、監督としての長編デビューを飾ったラブストーリーの小品です。87分という短めの映画ですが、その中で、主人公と有名人のささやかな恋の顛末を描いています。オープニングでアフリカらしきところで女性たちの儀式の写真を撮っているヒロインの姿が印象的なのですが、彼女の民俗学者という肩書きが本編の中では全然かかわってこないのが意外でした。1週間ほどの期間での、男女の出会いと別れを大変シンプルに描いています。物語を追うだけなら1時間もかからない内容なのですが、映画の各所で歌のシーンがあって、それが結構長めの尺を使っていまして、歌ものと言ってもいい内容になっていました。歌詞の意味とかには、私、大変無頓着なもので、そこから映画のテーマですとか、メッセージを聞き取ることができなかったので、映画としては大変ライトな味わいに感じました。登場人物にリアリティがないのですよ。それは、あえて狙ってやっている節がありまして、ニューヨーク歌紀行に恋愛ドラマのおまけがついているみたいなのです。

ヒロインは弟の事故から、実は弟について何も知らなかったことに結構驚いています。まあ、ずっとアフリカに行ったきりだったから、知らないのも当たり前なのですが、そこで、弟の部屋にあったものから、彼の足跡を追っていくというのが、ドラマの発端です。普通のドラマなら、弟の死からそういうふうになるところですが、この映画では、弟は昏睡状態というのが、不思議な味わいになりました。この弟が昏睡状態でいるところもドラマの重要なキーになっているのかというと、そういうワケでもなく、恋愛ドラマは定石、いやかなり単純化された定石で進んでいきます。私がこれまで観て来た恋愛映画の中で、一番軽いテイストでまとまっていまして、そのあまりにもシンプルな展開には、何と言うか物足りなさを感じてしまいました。もっと、主人公の内面に迫るドラマですとか、ドラマが薄いかわりに映像に凝ってみるとか、そういう一工夫があってもいいように思っちゃったのですよ。余分なところを切り捨てて、シンプルな恋愛ドラマにしたかったらしい、監督の意図は伝わってくるのですが、それじゃあ娯楽映画にならないよなあ。

ヒロインのアン・ハサウェイは、普通の人っぽくない美貌の持ち主でして、「インターセプター」とか「ダークナイト・ライジング」のようなリアリティとは一線を画す映画では大変魅力的に輝くのですが、こういうライトなラブストーリーですと、その美貌が浮いてしまって、逆に存在感がなくなってしまうのですよ。どういう過去があって、今は何をして稼いでいて、どういう恋人や友人がいるのかというところが一切描かれませんので、その人間像が彼女の美貌から読み取れないという感じ、通じますでしょうか。また、相手役のジョニー・フリンはシンガーソングライターで、舞台俳優としても活躍しているそうなのですが、正直言ってヒロインに見た目も存在感も見劣りするのが残念でした。彼の歌唱が良いのか悪いのかは私は語れるほどの知識がないのですが、少なくとも私には、ヒロインの弟が心酔するだけの歌唱力もスター性も感じませんでした。主人公の内面を描かないドラマであるなら、見た目、特に第一印象がすごく大事だと思っているので、もっと濃いキャラか、うんと二枚目を持ってこないと、この映画を支えられないのではないかしら。

あまり、深く突っ込むのヤボと思えるくらいのシンプルなドラマでして、二人が仲良くなるのに何の障害もなく、また、別れにも特に痛みはなく、一週間の夢みたいなお話なんです。こういう雰囲気だけの映画も嫌いではないのですが、それならもっと全般的なビジュアルは凝ったものにして欲しかったです。新人が、脚本と監督を兼任するというのは、作り手にとってはすごい冒険だと思うのですが、よく全部任せたよなあって思いましたです。脚本に才気があっても、演出力があるとは限らないんだよなあって感じでした。1時間半弱の映画なのに、中盤が退屈に感じられたのも、見せ方が今一つだったのではないのかと。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(まあ、大した結末じゃないですけど)



フラニーは、弟の好きなものを彼の枕元に運んで、何とか彼を目覚めさせようという努力を続けます。そんな彼女のおかげか、ヘンリーはついに目を覚ますのでした。そして、フラニーとジェイムズは一度は結ばれるのですが、彼のツアーが終わり、ニューヨークを去っていくのでした。彼女は、次のコンサート地であるフィラデルフィアの劇場まで足を運びます。そのコンサートで、ジェイムズは二人が一緒に居た時に作った歌を聴衆に披露するのでした。フラニーは、ジェイムズの楽屋に「ありがとう」のメモを残して、ニューヨークへ帰っていくのでした。

ヒロインが身を引く結末も悪くないのですが、ジェイムズにとってのフラニーの方が身分違いというか高嶺の花に見えてしまうので、普通の女性と大スターの恋バナにはならず、「へえー」という感じで、結末を眺めることになりました。二人の関係にどこかすごく高まる瞬間があれば、それをピークにしたドラマの余韻も感じることができたのですが、残念ながら、フロイランドの演出はどこが山場なのかがわからないまま、ドラマにピリオドをつけてしまいます。わざとそういう素っ気ない演出を狙ってやっているような雰囲気もあるのですが、それじゃ、娯楽映画にならないだろ、って突っ込み入っちゃいます。「はじまりのうた」がよかったせいで、この映画に期待するところが大き過ぎたのかもしれません。ちょっと話が違うのですが、昔「オーシャンズ11」を観て、お祭りみたいな豪華キャストを揃えておきながら、娯楽映画としての面白さが感じられなかったのと、同じような気分になっちゃいました。せめて、主人公二人のキャラをもっと肉づけしてくれたらよかったのに。それとも、監督はこの話を1時間半に収めるという賭けでもやったのかしら。

「フォックスキャッチャー」の暴力衝動のテンションが怖い


今回は、新作の「フォックスキャッチャー」を有楽町の角川シネマ有楽町で観てきました。この映画館は十分な傾斜があるにも関わらずスクリーン位置が低すぎて前に人が座ると画面が欠けちゃうという作りに難ありの映画館。いい映画やるんだから、もう少し環境整備して欲しいわあ。

ロス五輪のレスリングの金メダリスト、デビッド(マーク・ラファロ)とマーク(チャニング・テイタム)のシュルツ兄弟は、両親が離婚してからは、デビッドがマークの父親代わりの存在となっていました。しかし、家庭を持ち、社会人としても安定しているデビッドに比べると、マークはレスリングオンリーの朴念仁で、さらに優秀な兄に対して、依存する気持ちと独立したい気持ちの狭間で劣等感に悩まされていました。そんなマークにデュポン社の御曹司ジョン(スティーブ・カレル)が声をかけてきました。自分もレスラーであるジョンは、マークを支援して、彼とアメリカに金メダルをもたらしたいと言います。レスリング選手の境遇が恵まれていないことに憤りを感じていたマークは、ジョンの申し出に賛同し、彼の邸の一角に居を構え、立派な練習場に選手を集めて強化練習を始めます。ジョンは自分を選手たちのパトロンではなくコーチであり、人生の指導者であると位置づけます。ジョンはデビッドも誘うようにマークに言うのですが、デビッドは家族が大事であり、コーチの契約もあるので、ジョンのところへ引っ越してくるのは無理だと言い、マークにはチャンスだから一人でやってこいと励まします。フランスでの世界大会には、ジョンの家で練習したマークが出場し、またデビッドも出場して、二人とも金メダルを取るのでした。しかし、マークはジョンに誘われて、酒とコカインにはまっていきます。練習も、今一つ力の入らないマークに、ジョンはデビッドを呼び寄せてチームの副コーチに据えてしまうので、マークは精神的におかしくなっていくのでした。

実際に起こった事件をもとに、E・マックス・フライとダン・ファターマンが脚本化し、「マネー・ボール」「カポーティ」のベネット・ミラーが監督しました。コミカルな「マネー・ボール」とは違う、主人公の心の闇を追った「カポーティ」のタッチに近い重厚なドラマではありますが、娯楽映画のギリギリの線にいまして、ちょっと斜に構えて、演技陣の登場人物なりきり演技や特殊メイクを楽しむくらいでないと、真正面から映画に対峙すると、ややしんどいものがあります。「カポーティ」のような主人公の心理が観客の心を蝕んでいくような凄みはなかったものの、その寒々とした空気感と狂気の瀬戸際感が見応えのあるドラマになっています。

兄弟でオリンピックのレスリングの金メダリストであるデビッドとマークの兄弟ですが、堅実な社会人であるデビッドに比べると、マークはレスリングオンリーで人付き合いもうまくないようで、その屈折したキャラクターの根本にあるのは、常に自分の上にいると兄と比較されてしまうことにあるようで、自分でも、兄にはレスリングでも実人生でもかなわないってところがかなりのコンプレックス。でも、兄は離婚した両親に代わって自分の面倒をみてきてくれた恩人であることはきっちり認識しているので、余計目に鬱憤の持っていきどころがありません。そんな、モヤモヤしているマークに、大金持ちであるデュポン社の御曹司ジョンが、全面的にバックアップしたいという申し出をしてきます。オリンピックで金メダルを取ることはアメリカにとっての誇りであるのに、アメリカは、レスリングやそのメダリストにきちんと報いていないと力説するジョンに、マークはすごく共感します。でも、この二人の出会いのシーンからどこか妙な雰囲気がただよっています。ジョンはどこを見ているのかわからないような表情で、自分の言いたいことを力説します。マークは余りにも簡単にジョンの言葉に乗せられてしまうので、こいつ大丈夫なのかなって思わせます。一方のジョンも、何を考えているのかよくわからない緊張感を漂わせて、すごく情緒不安定に見えて、大丈夫かこいつって感じなのですよ。映画は二人のシーンが多いのですが、どちらもいつ感情を爆発させてもおかしくない緊張感をはらんでいまして、その不気味な緊張が最後まで続きます。

昔、こういう気分で映画を観たことがあるなあって思い出したのが、「マッド・マックス」(第1作目の方ね)でした。「マッド・マックス2」が有名になりすぎて、やや影が薄くなっている第1作ですが、この映画の全編に張り詰めたハードバイオレンス一歩手前の緊張感がすごく怖かった記憶があります。どのシーンでも、次の瞬間、血塗れの生首が飛び出してきてもおかしくないテンションの高さがありまして、直接の暴力描写のないシーンでもいつも暴力への衝動がみなぎっていたのですよ。それが、面白いと言えば面白い、怖いと言えばかなり怖い映画になっていました。この「フォックスキャッチャー」でも、実際の暴力描写は極めて少ないのですが、暴力に向けての衝動を常に抱え込んだ感じでドラマを観ることになりまして、ジョンが警察官と一緒に銃の射撃訓練をしているシーンなんかがそれだけで、かなり怖い。いわゆる暴力の予感を運んでくるのです。キチガイに刃物と一言で語りつくせない怖さが、ジョンの立ち居振る舞いの中にあります。もう一方のマークの方は底は浅いのですが、暴力衝動をコンプレックスで押さえ込んでいるような、やっぱり危ないタイプの人。二人の違いは、その暴力衝動が、ジョンは外へ、マークは内面へ向かっているように見えるところなのですが、二人が相互依存関係に見えてくるので、映画を観ている最中、ずっとはらはらさせられます。ワクワクのあるはらはらではなくて、すごくやな感じのはらはらなのですよ、これが。

マークは、よくできた兄との関係の中で抑圧された自己を抱え込んでいるのですが、一方のジョンは母親(ヴァネッサ・レッドグレーブ)との関係がうまく行っていない問題を抱えていました。レスリングが好きだからこそ、マークを招いたジョンですが、ジョンの母親は、レスリングを下等なスポーツとして嫌っていて、所有の名馬を使った馬術に価値を感じていました。そんな母親のことなんかスルーすればよいのですが、ジョンはそのことに異常なコンプレックスを感じていて、レスリングで世界一のチームを作るのも、母親を見返したい、母親から愛されたいという感情があったのです。チームを作った最初の大会で、優勝したとき、チームの若者たちと酒を飲んだときにその感情を吐露してしまい、周囲にドン引かれてしまうジョン。でも、金にものを言わせるジョンに誰も逆らうことはできません。そんな中で唯一思い通りにならないのがマークでした。兄のデビッドを連れて来いと言っても、無理だという。デビッドをチームに招けばチーム練習に参加しなくなる。でも、ジョンは、マークの人生のコーチでありたいと思い続けているのです。最初のうちは両思いだったのですが、だんだん、ジョンの存在がマークにとっての厄介者になってきます。ジョンとしては、マークを初めチーム全体を率いるコーチとして尊敬と信頼を得て、父親のような存在になりたい、その様子を母親に見せて、母親の愛情を取り戻したいと考えています。世慣れた兄のデビッドはそのあたりを察して、ジョンをうまく立てようとするのですが、そこまで頭の回らないマークにとっては、ジョンはメンタルをかき乱す存在になってしまいます。

さらに厄介なことに、オリンピック選考会の最初の一戦でふがいない試合をしたマークを、ジョンが何とか励まして、オリンピックの選手団にまで押し上げてしまいます。マークは自分が兄なしでは何もできないことを痛感すると共に余計目に兄に頼り、ジョンを無視するようになっていきます。チームのメンバーの中で一番目をかけてきたマークに拒否されることに、ジョンはショックを受けます。そこは何とか大人の判断で乗り切ろうとするのですが、その後、母親が死に、ソウルオリンピックでマークが負けてしまうことで、ジョンの中で何かが切れてしまうのでした。

ジョンはそれなりの強さを持った人間として描かれています。一方のマークは単純で思慮も足りないし、レスリング以外は何の取得もないような人間になっています。その関係は、ジョンがデビッドもチームに欲しいと思った時点で破局の種はまかれていたのです。ジョンに認められたマークはやっと兄の呪縛から解放され、「デビッドの弟」ではない、マーク・シュルツとして一本立ちするはずだったのです。それが、結局、デビッドがいないとダメな自分という烙印をジョンにまで押されてしまったので、そりゃ自暴自棄にもなりますわなって感じ。でも、あまり同情する気になれないので、マークがダメ人間にように見えてしまうからでしょう。このあたりを、チャニング・テイタムが普段とは別人のように演じきりました。愛嬌のないスポーツバカのリアリティは見事だと思いました。一方で、デビッドを演じたマーク・ラファロはマルチプレイヤーらしいうまさで、良識ある社会人を好演しています。レスリングシーンは相当練習したようで、素人の私は、レスリングのメダリストに納得しちゃいましたもの。また、「カポーティ」のフィリップ・シーモア・ホフマンと同様、演技とメイクの合わせ技で別人になりきったスティーブ・カレルは、他にどこにもいないジョン・デュポンという男の存在感を見せました。そこまで、素顔を変える必要があるのかとも思いましたが、そこがないと、もっとヘビーなドラマとなって、娯楽映画を逸脱しちゃっただろうなって思いました。それでも彼の怪演によって、全編に渡って気味の悪いテンションを張り巡らすことに成功しているのがすごいと思いました。ホントにいつこいつが切れるのかってずっとはらはらしちゃいましたもの。

映画の中盤で、ジョンが自分の主催するレスリング大会に出場して優勝しちゃうというエピソードがあります。ジョンの側近が決勝で負けた相手に金を渡すシーンがありました。ジョンには知らせずにやったことであり、笑えると言えば笑えるのですが、ここでジョンという人間がすごく惨めというかみすぼらしい人間に見えてくるのが面白いと思いました。惨めだけど、一触即発の暴力衝動を持つオヤジなんて、迷惑なことこの上ないのですが、その存在感にリアリティを与える意味で、この八百長優勝シーンは印象的でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ソウルオリンピックで敗退したマークは、ジョンのチームを去っていきます。そして、ある雪の日、ジョンは、デビッドの一家が住む宿舎を車で訪れると、出てきたデビッドを車の中から射殺しちゃうのでした。「どうして、思い通りにしないんだ」という叫びと共に。そして、広大な敷地の中を逃げ回った挙句、ジョンは逮捕されます。マークは一時は異種格闘技に出たりしていたのですが、最後には故郷に戻ってレスリングの指導をしているとのこと。そして、ジョンは獄中で死亡したという字幕が出て、おしまい。

マークが、ジョンのもとを去っていったからということもあるのでしょうが、ジョンが兄のデビッドの方を殺してしまうのが意外でした。でも、憎しみの対象の決め方としては、実は理にかなっているなあって納得もしちゃいました。自分が望んでスカウトしたデビッドでしたが、結局、彼の存在が、マークをジョンから遠ざけてしまったのですから、デビッド憎しの気持ちはわからなくもないなあって。ただ、デビッドからすれば、言いがかりもはなはだしいお話でして、そこに暴力の狂気があったということもできましょう。でも、狂気の結果なら、マークの方を殺しただろうと思うと、ジョンは結構正気の顔を持っていたのかもしれないってところに思いが至りました。実際になぜジョンがデビッドを殺したのかは、映画の中では説明されないのですが、マークがジョンの存在を脅かしたように、デビッドもまたジョンの存在理由を侵したのかもしれないのです。「こいつさえいなけりゃ」と思う気持ちは、狂人なりに筋が通っているように思えました。もう母親に、自分を認めてもらうことはできないし、目をかけたマークは結局潰れてしまった、もう何も残っていない彼が怒りを向けられる対象は、デビッドと自分しかいなかったというのは、大変不幸で迷惑な話と言えましょう。その不幸を2時間以上かけて延々と見せられたのかと思うと、やな疲れも残るのですが、ドラマとしては、ジョンとマークが不幸な出会いをしたというよりは、デビッドの存在が全ての歯車を狂わせたという見せ方になっているのが面白いと思いました。死んだデビッドや残された家族にはたまったものではないのですが、こういう形の不幸な出会い(ジョンとデビッド)と破局もあるんだなあってのは、人生、不幸の種はつきまじというところでしょうか。

「アメリカン・スナイパー」はそのドラマ性の希薄さが狙いなのかな


今回は、新作の「アメリカン・スナイパー」を静岡シネシティザート2で観てきました。キャパの割に画面大き目で傾斜もあって観やすい映画館です。

テキサス生まれのロデオの名手クリス(ブラッドリー・クーパー)は、ある日テレビでテロによる大使館爆破事件を観て、自分は父親に教えられた正義を実行する人間になるんだと思い立ち、軍の訓練生となり、過酷な教練に耐えて、ネイビー・シールズの狙撃兵となります。そして、バーで知り合ったタヤ(シエナ・ミラー)と結婚しますが、結婚式の日に出撃命令が下ります。そして、彼は4回イラクへ派兵され、アルカイダの掃討作戦で狙撃兵として活躍します。自爆テロの女子供を含めた敵兵士を射殺することで、彼は多くのアメリカ兵の命を救い、一躍伝説の英雄となります。そして、名誉除隊するのですが、その後、PTSDに悩まされたクリスは、他にも多くの帰還兵たちが精神的に苦しんでいることを知り、彼らの支援をするようになるのでした。

実在の狙撃兵クリス・カイルについて書かれた「ネイビーシールズ狙撃手」を原作に、ジェイソン・ホールが脚本を書き、クリント・イーストウッドが監督しました。イラク戦争の英雄を描いた映画というと、爆弾処理兵を描いた「ハート・ロッカー」が思い浮かぶのですが、あの映画とはかなり趣の違う中身になっています。まず、一番に違うのは、国民的には英雄とされている主人公を、「ハート・ロッカー」はある意味憧憬の視線で描いていたのですが、この映画では、突き放した形で冷静な視線で描いているということです。冷静というと聞こえはいいのですが、多くのアメリカ兵の命を救った男をかなり冷たい突き放した描き方をしているのです。ドラマの作り手として、手抜きしているのではないかと思えるほど、クールな視点は、観客に、この映画に対する共感も批判も許さないようなところがあります。正直なところ、この映画の主人公クリス・カイルには共感できないところもあります。明らかにイラク人とアメリカ人は別物扱いで、イラク人を狙撃することに何の後ろめたさも感じていないようです。その銃口は女子供でも容赦ありません。その一方で、彼の国を愛する気持ちや、家族への愛情は本物のようです。自分と同じようにPTSDに悩む帰還兵に対する支援活動をしているのも、自分と同じ境遇にある人間への思いやりが感じられます。

完全な人間はいないですから、クリス・カイルのような、ほめようもあれば、けなしようもある人間がいても決して不思議ではありません。では、この人物が映画の主人公になるような特別な存在である理由は何でしょうか。そりゃもちろん狙撃兵として優秀で、多くのアメリカ兵の命を救ったという点で、彼は特別な存在であり、目立つ人間です。でも、自爆テロをしようとした女子供を射殺したのは、事実らしいですし、そのことに罪の意識を感じないのはどうなのってところは、非難の対象になるかもしれません。特に、イラク戦争を批判したい人にとっては、その批判材料の一つとして使いやすいのは事実でしょう。一方で、イラクへ派兵された兵士を守りたいと思う人には、彼を真の愛国者であり、兵士の命を救った貢献者として扱いたいであろうことは想像がつきます。どちらの側に立った人間にとっても、彼は自分の考えを裏付ける存在なのですが、映画は、どちらへも加担することなく、中立の立場を取っているように見えます。この映画から、何かのメッセージを感じ取るとすれば、それは映画からというより、その人が持っているイデオロギーなのかもしれません。そういうリトマス試験紙的な映画だと思えば、この映画のドラマ性の希薄さが納得できるように思います。

例えば、一番ドラマチックになりそうな、自爆テロの母子を射殺するシーンも、その描き方は意外なほど淡々としています。このシーンが予告編で流れたときは、大変スリリングでテンションの上がるシーンだったのですが、本編で観ると、一番サスペンスが高まったところで回想シーンとなり、そのシーンへ戻ったときには、サスペンス要素がかなり薄れています。わざと娯楽度を外した描き方は、その後で、射殺された男の持っている火器を、通りかがった子供が構えるのに、クリスが照準を合わせるシーンでも、同様にかなりクールな見せ方になっています。子供が撃たれるかどうかが普通ならすごいサスペンスになるはずなのですが、その前に、クリスは子供を射殺していますから、子供が撃たれるサスペンスではなく、子供が武器を捨てるかどうかのサスペンスになるのですよ。サスペンスには違いはないと言われそうですが、そのレベルに大きな差があります。娯楽性を優先するなら、前の子供の射殺を後悔しているクリスを見せるところですもの。

そんなわけで、映画としての見応えとしては、素材の割には淡泊な感じになってしまいましたが、そこを狙ってやってるのかなって気もしてしまって、一筋縄ではいかない映画のように思いました。クリス役のブラッドリー・クーパーには、「ハート・ロッカー」のジェレミー・レナーのような鬼気迫るものはなく、普通の人のオーラで演じ切っているのがすごいと思いました。ひょっとしたら、私の感性が鈍ってしまって、映画の訴えるものを受け損ねているのかもしれませんが、この映画の題材と味わいのギャップを感じたのは私だけなのかしら。ちなみに、私はイラク戦争は、戦争にしなくてよいものを戦争に持って行って、多くの人の命を奪ったイベントだと思っています。でも、自爆テロに狙われたアメリカ兵を救うために母子を射殺したクリスの行動は非難されるものではないと思います。それよりは、母子を自爆テロに、そしてクリスを戦場に追い込んだ、本当の悪がいると思うからです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



精神的に傷を負った帰還兵のために時間を割いていたクリスですが、ある日、その一人の青年と射撃に付き合うことになるのですが、そこでクリスはその青年に銃で撃たれて帰らぬ人となってしまうのでした。クリスの葬儀の実写シーンにかぶってエンドクレジット。実際に、射殺されるシーンは映像にはなく、クリスの家にいかにもアブなそうな青年が迎えに来るところで暗転し、彼が殺されたことが字幕でのみ示されます。青年が迎えに来る前のクリスと家族の様子が不自然に長い尺挿入されていまして、そこで空の銃を妻に向けたりするクリスになぜか悪い予感でハラハラさせられます。その何か起こりそうで起きない感じで不安なサスペンスを引っ張って、最後に字幕で落とすあたりも、娯楽映画のツボを大きく外していると言えましょう。

というわけで、映画として面白かったかと言われると微妙、ただ扱っている題材が重いので印象に残る部分は多いですが、新しい発見というより、自分がふだん思っていることを再認識させられたという感じの印象でした。それは、どうにでも受け取ることが可能が作りになっているからだと思いました。そこのところは自分で考えてね、という趣旨の作品なのかもしれませんが、映画にメッセージや娯楽を期待する私には、物足りなさも残ってしまう映画でした。

まだ上映中の「6才のボクが、大人になるまで」から見える子供時代への憧憬。


今回は新作の「6才のボクが、大人になるまで。」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ2で観てきました。ここは開館当初は銀座界隈の映画館では、小規模のミニシアターの走りだったのですが、いつの間にか、中堅どころの普通の映画のロードショー劇場になっちゃいました。それだけ、でかいキャパの映画館がつぶれて、小規模の劇場が増えてきたんだなあってしみじみ。有楽座も閉館しちゃいましたしねえ、昔のニュー東宝シネマ1、当時はキャパが800くらいありました。その地下にあったニュー東宝シネマ2でも400のキャパあったし。マリオンができたころは、日劇3(当時は日劇プラザ)の600席ってのは小さいというイメージだったのに。

シングルマザーのオリヴィア(パトリシア・アークエット)には、子供が二人、姉のサマンサ(ローレライ・リンクレイター)は勉強もできる活発な女の子、弟のメイソンJr(エラー・コルトレーン)はオリヴィアが学校に呼び出されちゃう問題児。週末は元ダンナで、二人の父親であるメイソンSr(イーサン・ホーク)が、子供たちと週末を過ごすために迎えにやってきます。そして、オリヴィアは実家のあるヒューストンへ引っ越して大学へ通うようになります。その大学の講師であるビル(マルコ・ベレラ)と子連れ同士再婚をします。ところが、この新しいダンナがアルコール依存症のDV男だったから大変。義理の兄弟同士は仲良かったのですが、ついに破局となって、ダンナの家からメイソンとサマンサを連れて文字通り逃げ出すことになります。ミュージシャン志望だったメイソンパパは保険の仕事をするようになり、彼女もできて再婚。オリヴィアもヒューストン近郊の大学の講師となって、生活も落ち着いてきます。新しい中学でメイソンは新しい友達を作り、一方、オリヴィアに新しい元軍人の堅物のボーイフレンドができます。高校になったメイソンは写真に凝り始めて、学校へ行っても暗室にこもっちゃう日々、そんな中でカノジョもできて、失恋もして、家の家計を考えて奨学金で大学へ進むことになるのでした。

「ファーストフード・ネイション」「ビフォア・ミッドナイト」といったちょっとひねった面白さを持った映画を作っているリチャード・リンクレイターが脚本、監督を兼任し、プロデューサーとしても参加しています。去年(2014年)の秋に公開されて、もう五ヶ月に渡ってロードショー公開されているという地味だけどヒット作という映画です。一人の少年の6才から18才までを描いたというだけなら、どこにでもありそう(?)な映画なのですが、それだけの話で2時間45分という歴史大作並の尺を取っているってところがまずすごい。さらに、12年間を描く映画を実際に12年かけて作ったというのがもう一つすごい。尺の長さに尻込みしていたのですが、評判がなかなかよいようなので、じゃあって感じで映画館へ足を運びました。アカデミー賞では、パトリシア・アークエットが助演女優賞を受賞したそうですが、タイトルではトップなのに助演女優扱いなんだなあ、へえー。まず、観終わっての最初の感想が、2時間45分が意外と短く感じられたこと。銀河テレビ小説の総集編を観ているような感じだからでしょうか、盛り上がりのあるドラマ展開でもないのに、エピソードが淡々と並んでいるのが、お気楽に観られたのかもしれません。そして、その次に思ったのは、これ12年かけて撮るほどのお話かしらってこと。映画としては面白くできていますし、メイソンやサマンサが成長していくの見られますし、オリヴィアがおばさん体型化していくのもよくわかりますし、実録モノとしての面白さはありました。でも、「で、だから?」と思ってしまったのは、私の感性がドン鈍りになっているのでしょう、多分。12年もかけて撮影したのはすごいことだと思うのですが、2時間45分の1本の映画して観ると、一気に観てしまうせいか、「で、だから?」って気がしちゃいまして。これをテレビの1クールくらいかけて観たとしたら、その変化やディティールに目が行って、「おお、すごい!」ってことになるのでしょうが、映画館で観ると、少なくとも私の映画の見方では、その12年のディティールを堪能するところまではいきませんでした。家でDVDを観るとまた違う感想を持てるのかもしれません。あのIMDBで8.2というスコアはなかなかないですからね、私は色々と見損なっているようです。

メイソンの両親のキャラクターには、当時の時代背景を反映させているようでして、ママは仕事をやめて大学へ通って、大学の講師として再就職するという地方のキャリアウーマンの一つのパターンを演じています。ラストで大学へ行ったら、もう自分は子育てからは卒業、後の子供の人生は自分で何とかしなさいと言い切るあたりが面白いキャラクターだと思いました。高校卒業したら、後は自分で何とかしろというのはアメリカでは普通の文化なのでしょうか。これだとパラサイトシングルなんて絶対できないし、実家暮らしさえ無理ということになりますから、日本だったら結構大変。一方、パパはミュージシャン志望で一時は無職だったようですが、保険の仕事に就いて、かわいい女性と再婚もします。週末はこまめに子供に会いに来るところは、離婚した後も子煩悩なお父さんという感じ。政治的にはリベラルで、9.11のブッシュをボロクソに言うシーンがありますが、これはリンクレイター本人を反映しているのではないかしら。

メイソンの小学校時代から、大学入学までが描かれているのですが、成長していくに連れて、ドラマとしては面白くなくなっていくってのは面白いと思いました。面白くなくなっていくというのは、言い過ぎかもしれませんが、要は中学から高校に行くに連れて、他の映画で観たことあるような定番パターンになっていくのですよ。ビール飲んでハッパやって、彼女と一晩明かしてと、既視感が先に立ってしまうのは、結局、大人になるに連れて、つまんない人間になっていくのかなって気がしたのです。メイソンはカメラマンとしての才能があるようで、ひょっとしたらそれで身を立てるのかもしれませんが、誰でも一芸はあるってのも、ある意味定番なのかもしれません。それに比べると、小学生の頃のメイソンはすごく生き生きとしていて、継父のDVという辛い目にあっても、結構タフなところを見せます。それが、中学、高校に進むにつれて、どこにでもいるような普通の少年になっちゃうのは、もともとそういう脚本だったのかしらん。だとすると、Boyhood(これが原題)という少年時代が一番輝くのは、小学生の頃だと言いたいのかなという気もしてきました。ちょっと「スタンド・バイ・ミー」みたいな後味が残る映画でもありました。同じメイスンでも、小学生時代と高校生時代とでは、感受性も違うし、嗜好も変わります。そして、みんな普通のつまらない大人になっていく様子を描いているような気がしました。ラスト、合同ハイキングでメイソンはある女の子と知り合い、ちょっといい雰囲気になるのですが、それが次のフェーズに進む寸前で画面は暗転してエンドクレジットとなります。

映画の後半は年相応に落ち着いていく主人公が描かれるのですが、その分、前半の子供時代のメイソンは輝いていたのになあって思ってしまいました。やはり、人間が、純粋な希望や好奇心や無心さで満ちているのは、子供時代なんでしょうね。知恵が増えてくるに連れて、邪心がどんどん芽生えてきて、普通のつまんない人間になっていく。純粋さは、パターンに囚われない自由な発想や行動を生みますが、それ大人になってくるとみんな同じような背伸びしたり、恋愛したり、人生の岐路に悩んだり、それが悪いことではないけれど、子供の頃より選択肢はせばまり、みんな似たような選択をし、想定内の経験を積んでいく。そして、子供時代は無限だった未来に限界が見え始めてきます。そういう変遷を短い時間(2時間45分のことね)で見せられると、自分が一番生き生きしていたのは、小学校低学年くらいだったことを思い出してきました。そして、初老のオヤジになると、その子供時代の純粋さは忘れてはいないけど、でもそれは錆付いたブリキのバッチのように輝きは失われてしまっています。この映画を観て、自分に照らし合わせてみると、人生の華は小学校低学年の頃だったなあって気がしてきました。メイソンがそんな感じに見えたのですよ。未知の可能性に満ちていた子供時代から、中学、高校へと進むうちに可能性や未来が削られて、選択肢が狭まっていく。そんな儚さがこの映画からは感じられました。そっかー、大人になるってことはこういうことだったんだよなあって再認識したという感じでしょうか。まあ、監督が描きたかったものとは違うのでしょうが、人生、先が見えてきたオヤジにとっては、子供の頃はよかったなあっていう映画に思えてしまいました。

一つ、ヤボなつっこみを承知で言わせていただくと、主人公のメイソンが結構二枚目に成長しちゃうのは、面白みに欠けたのかも。ここは、意表を突いてデブオタクになっていて、もてない、どんくさいキャラになっていたら、お話も別物になったのかなあって気もしました。ちょっとアウトロー入った二枚目キャラが似合っちゃうのは、計算どおりだったということなのかしら。姉のサマンサがファニーフェイスで、どこにでもいそうなおねえちゃんになっていたのは、計算外だったのかな。監督の娘さんだそうですから、キャスティングした時点でこうなることを読んでいたとしたら鋭いと思います。脇役キャラとしてすごくいい感じの女優さんになってますもの。

原題の「boyhood」というのは何才くらいまでをさすのかが気になりました。大学生になっても、まだboyhood(少年時代)なのかなあ。この映画を観ていると、中学生になったあたりから、かなりメイソンのキャラが変わってくるので、小学生あたりを少年時代と呼ぶのかなとも思ってしまったのですが、高校生になっても少年時代でもないようなって気がして。そう思うと、人生で一番キラキラしている少年時代から、だんだん中学、高校へ進むにつれて普通の若者になっちゃう主人公を描いて、小学生くらいの少年時代の時間は、そのときは気付かないけど、大切な人生の宝の時間だと言っているのかもしれません。と、言うより、私がこの映画を観て、そう思ったってことなのですが。

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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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