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「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー 2015」は選曲のよさがうれしいオーケストラコンサートでした。


今回は三鷹市芸術文化センター、風のホールで行われた「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー2015」コンサートに行ってきました。約600席のコンパクトなホールでしたけど、天井の高さがあるので、オーケストラのコンサートにも対応しています。

榊真由の指揮で、東京ガーデンオーケストラの演奏で、ファンタジー映画の音楽を聴かせてくれるというコンサートです。このオーケストラは、音楽大学に通う学生さんがメンバーというもので、その音はプロに匹敵というのが売りです。私はオーケストラにくわしくはないのですが、金管の安定性と弦のユニゾンはプロの方に一日の長があるなという感じでしたけど、オリジナルスコアをたくさん使った曲の顔ぶれが楽しいコンサートでした。楽曲はファンタジー映画を中心に、目玉商品は生誕50周年記念の「サンダーバード」。ワールドプレミアもあるそうで、そこも楽しみでした。結構、若いお客さんもいれば、私と同年代の方もたくさん見かけまして、「ゴジラコンサート」に行ったメンツのナンボかがこっちにも来ているんだろうなあ。

1、「宇宙空母ギャラクティカ」 作曲スチュー・フィリップス
これはよくテレビで使われることも多い、宇宙SFのテーマ曲。こういうコンサートの冒頭にふさわしいファンファーレが聴きモノですが、オーケストラコンサートにありがちなメロディラインが不鮮明になっちゃうところがちょっと残念。シンプルなメロディだけに主旋律で押し切って欲しかったかな。

2、「ミッションインポッシブル」作曲 ラロ・シフリン
これは、テレビシリーズのジャズタッチではなく、オーケストラ用にアレンジされたもので、シャープな勢いはそのままにオケの厚みが加わって、2曲目という地味なポジションながら、演奏的にもかなり聴き応えがありました。

3、「ジェームズ・ボンドのテーマ」 作曲 モンティ・ノーマン
おなじみのテーマのオーケストラバージョン。これは色々なオケのカバー版を聴いているので、ああおなじみのという感じでした。

4、「007 スカイフォール」 作曲 アデル、ポール・エプワース
21世紀に入って、淡白になっちゃった007の主題歌で久々にドラマチックなテーマ曲となったスカイフォールを演奏。オケの演奏だとボーカルのメロディラインがぼけちゃうのがちょっと残念ではあるのですが、この曲をフルオケで聴けるのはうれしかったです。

5、「007は二度死ぬ」 より組曲 作曲 ジョン・バリー
これは、元の曲がオーケストラで鳴らすにふさわしい雄大な曲なんですが、アクションシーンの曲や、宇宙衛星強奪シーンの曲なども入れた組曲になっていまして 、前半の目玉商品になっていました。今のアクション映画にないのはこういう音楽なんだよなあってしみじみしちゃう曲の連続。演奏も見事でした。映画は、あんまり評判よくないのですが、今観るとスケール大きいし面白いんですよ。

6、「ハリーポッターと秘密の部屋」より「不死鳥フォークス」 作曲 ジョン・ウィリアムス
ハリ・ポタは興味ないので、「ふーん」で聞き流しました、どもすみません。

7、「SAYURI」より「会長さんのワルツ」「捨てられた夢」「さゆりのテーマ」 作曲 ジョン・ウィリアムス
なぜ、「SAYURI」がファンタジー?とも思うのですが、ジョン・ウィリアムスの佳曲として、ライブで聴けるのはうれしい限りです。ヴァイオリンソロとチェロソロが入るのですが、だからの選曲なのかな。

8、「サントロペ大混戦」 作曲 レイモン・ルフェーブル
これは、ドタバタコメディにふさわしい、元気のある音楽で、いわゆるライド感が楽しい一品。こういう音楽が最近の映画館で聞く機会が少ないのは、元気な音楽が少ないのか、そもそもコメディが劇場公開されないからなのか。

9、「グレムリン」より「チャイナ・タウン」「ギズモ」「グレムリン・ラグ」 作曲 ジェリー・ゴールドスミス
これは、かわいいギズモのテーマと、にぎやかなグレムリンのテーマが楽しい一品。映画そのものは結構ブラックな味わいもあるのに、ゴールドスミスは明るい楽しい音楽をつけました。ゴールドスミスの来日コンサートのアンコールで「グレムリン・ラグ」が演奏されたとき、会場が手拍子で大盛り上がりになったのも懐かしい思い出です。

10、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 作曲 アラン・シルベストリ
娯楽映画の職人シルベストリの楽曲の中でも映画のテーマをきっちり表現している傑作だと思っているのがこの曲。SFであり、コメディでもあり、青春モノというのがきちんとテーマ曲で表現されているのがお見事。それに、映画のクライマックスがモロにこの曲で表現されているという曲使いのうまさに脱帽。元気のある若々しい演奏がこのテーマにふさわしかったです。

11、「ある日どこかで」 作曲 ジョン・バリー
私が一番好きなタイムスリップの方法を見せる恋愛ドラマの一編。オリジナルはストリングスでストレートに盛り上げるテーマなのですが、このコンサートではピアノソロから入ってストリングスへつなげていくという演奏でした。バリーの独特なストリングスが聴けなかったのはちょっと残念かな。でも、この曲を聴いて、この映画に興味を持ってくれる人ができたらうれしい演奏でした。

12、「ホビット:思いがけない冒険」より「とても真っ当なホビット」 作曲 ハワード・ショア
映画は未見なのですが、「ロード・オブ・ザ・リング」みたいな話なんだろうなと思っていたら、同じテーマが出てきて、なるほどなあって納得。この映画ってヒットしてるのかしら、なんて余計なこと考えてしまいました。

13、「ゲーム・オブ・スローンズ」 作曲 ラミン・ジャワディ
テレビ映画の音楽だそうですが、スケールの大きなドラマチックな音は、歴史ドラマみたいな感じがしました。きちんとフルオケで鳴らしても、音の厚みが感じられるのは、曲としてよくできているのでしょう。

14、「宇宙の7人」 作曲 ジェームズ・ホーナー
「スター・ウォーズ」のバッタモンに、20代のジェームズ・ホーナーが作曲したパクリ感満載のテーマ曲なんですが、30年の年を経て聴きなおしてみれば、そんな悪くないかも。ただ、厚いオケで鳴らしても、重厚さがついてきません。もともとチープなオケで演奏するのが前提で作られているところがあって、こういう曲もあるんだという発見もありますので、未聴の方は一度聴いてみてほしいです。1980年代のオケを使った映画音楽って面白いの多いのですよ。同じホーナーの「モンスター・パニック」とか、ハリー・マンフレディーニの「13日の金曜日」とか、ロバート・O・ラグランドの「ジャガーNo1」、リチャード・バンドの「死霊のしたたり」とかですね。

15、「アバター」より「アイ・シー・ユー」 作曲 ジェームズ・ホーナー
オケで「アバター」と言えば、ダイナミックな活劇音楽を連想するのですが、ここではストリングスのみで愛のテーマを奏でました。甘いテーマはこういう映画には付き物だと思っていたのですが、最近の映画では、愛のテーマのない音楽が増えてきています。それを物足りないと思うのはオヤジだけなのかなあ。

16、「スペース・バンパイア」 作曲 ヘンリー・マンシーニ
今回、一番楽しみだったのは、この曲を生オケで聴けることでした。パワフルなゲテモノSFにさらにパワフルなテーマ曲がついた稀有な作品です。フルオケで鳴らす音楽はこうなんだよなあという期待は裏切られはしませんでしたが、他の楽曲ほどにはオケの音が前面に出てこなかったのがちょっと残念というか不思議でした。ロンドン交響楽団のサントラに比べて、目の前の本物のオケの音の方が迫力を欠いた、なんて書くと怒られちゃうんだろうなあ。書いちゃったから、謝っときます。すみません。

17、「サンダーバード」より組曲 作曲 バリー・グレイ
今回の目玉商品で、メインテーマから、テレビの劇伴サントラ、映画版のテーマに、ラウンジ曲まで入れた豪華版です。テレビを知る人には、まさに映像が目の前に蘇る演奏で、オリジナルに大変忠実に演奏しているのが、うれしい企画でした。しかし、考えてみると、昔のテレビ映画の音楽を、これだけのオケの音で鳴らしていたのかとも思えてしまって、オリジナルのテレビ番組「サンダーバード」ってすごかったんだなあって再認識させられました。やはり、サンダーバードの発進シーンが圧巻でしたが、その他の曲も懐かしくも楽しい演奏でした。これは若い人にはピンと来ないんだろうなあ。

アンコール 1「ジュラシック・パーク」 作曲 ジョン・ウィリアムス
ラストの「サンダーバード」で大盛り上がりした後、意外や(?)アンコールもありまして、その1曲目が「ジュラシックパーク」のテーマでした。個人的には、「ジュラシック・パーク」は映画も音楽も「2」の方が元気があって好きなのですが、ここでは、「ジュラシック・パーク」の2つのテーマ・モチーフをつなげた曲で、オーケストラにふさわしい重厚な音を聴かせてくれています。

アンコール 2「サンダーバード」より「エンド・タイトル」
「サンダーバード」のエンドクレジットをさくっと演奏して、お開きとなりましたが、これで、トータルで約3時間のボリュームあるコンサートになっていたことに気付いてびっくり。オーケストラのみなさんお疲れ様でした。

こういう映画のファンタジー映画の音楽のコンサートってのは楽しいですが、あまりメジャーにこだわらないで、いい曲、面白い曲を演奏してくれると、聴きに来る方にも発見があって楽しめるのだろうなってのが発見でした。「007は二度死ぬ」とか「スペース・バンパイア」みたいな知る人ぞ知る曲がフルオケで聴けるのは、それだけで耳へのご馳走ですし、このコンサートで「ある日どこかで」や「サンダーバード」に興味を持つ人が出てきたら同好の士が増えてうれしいと思った次第です。
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「間奏曲はパリで」の人妻アバンチュールに釈然としない私は意外と保守的なのか


今回は新作の「間奏曲はパリで」を関内の横浜シネマリンで観てきました。映画の始まる前に横浜を舞台にした短編映画「雨の車内で」の上映がありました。映画自体は悪くないのですが、観たい映画の上映前に見せられちゃうってところがひっかかっちゃいました。映画館のどっかに貼り紙とかあったのかなあ。

フランスのノルマンディー地方で、夫婦で酪農を営むグザヴィエ(ジャン・ピエール・ダルッサン)とブリジット(イザベル・ユペール)の夫婦は今もいい感じの日々を過ごしていました。ブリジットの胸にできた乾癬がなかなか治らなくで医者へ行こうかどうしようかと迷っていたある日、隣家に姪とその友達がやってきて誕生パーティを開きます。なんだか賑やかな夜、眠れないでいたブリジットを姪の友人スタン(ピオ・マルマイ)が訪れ、パーティへと誘います。スタンといい雰囲気になるブリジット、いい感じに酔っ払った翌朝気付いてみれば、パーティの後はみんな帰った後でした。そこで、ブリジットは皮膚科の病院へ行くとグザヴィエに告げてパリへと向かいます。で、実際は、スタンが勤めていると言っていた衣料チェーンの店を片っ端から当たっていきます。そして、スタンと偶然の再会を果たしたブリジットは、デートの約束をとりつけます。でも、その時になったら、スタンが友人の子守を頼まれてしまい、そこへ同道することにするブリジットですが、子供が寝付かない状況で、スタンを放って家を飛び出してしまいます。翌日、同じホテルに滞在中の中年男ジェスパー(ミカエル・ニクヴィスト)が彼女を散歩に誘い、いい雰囲気になります。さらに、彼女と義妹が食事しているレストランに偶然彼が現れ、二人でのみに行こうということになります。しかし、グザヴィエがブリジットの向かった皮膚科医が既に廃業していることを知り、パリへブリジットを探しにやってきていて、ジェスパーと仲良く歩くブリジットを目撃していたのです。そんなことを知らず、さらに盛り上がったブリジットはジェスパーとベッドイン。そして、何食わぬ顔して家に戻ってくるブリジットなのですが。

フランスのマイク・フィトゥシが脚本を書いてメガホンも取った、熟年夫婦コメディの一編です。と、言いたいところなのですが、私としてはあまり笑えなかったので、コメディかどうかは観る方に決めてもらうほうがよさそうです。オープニングは牛の品評会で、主人公夫婦の牛が優勝するところからお話は始まります。農場は、グザヴィエとブリジット夫婦、そして使用人の3人で切り盛りしていて、一人息子はサーカスの学校に通っていて、それについて親としては、彼を支援したいと思っています。そこそこにラブラブだし、農場の経営も順調、息子のちょっと変わった進路にも理解があるという、何も問題なさそうな一家に見えます。ただ、ちょっと気がかりなのがブリジットの胸の乾癬。いわゆる湿疹のカサカサ版です。ちょっと見、何不自由もなさそうに見える二人なのですが、パンフレットのあらすじによると倦怠期なんですって。(へえー)確かにちょっと夢見るお嬢みたいなところがあるブリジットと堅実なグザヴィエはキャラの違いはあるものの、その違いがうまく噛み合って長い夫婦期間を乗りこなしてきたようなところが感じられます。元々の違いを倦怠期と言われては、ちょっと気の毒な気もします。

そんな夫婦の間に割って入るかのように登場したのが、姪っ子の友人スタン。当然、ブリジットよりかなり若い。さらにスタンは若い女の子からアプローチかけられているのを断って、ブリジットに親しく話しかけてきます。そんなスタンにブリジットはうれしくなってのぼせ上がってしまうのでした。でも、一夜明けると、パーティの跡は誰もいません。そこで、ブリジットが思い立ったのが、スタンに会いにパリまで行こうってこと。ダンナには皮膚科の医者へ行くとウソをついて、パリで衣料チェーン店をはしごしてスタンを探し回るのですよ。うーん、夢見るブリジットもう既に暴走してないかい。そして、さらにデートにこぎつけたけど、子守の途中のスタンを見捨てて、そのまま帰っちゃう。笑える? 笑えない。正直なところ、スタンを探し回るブリジットにはちょっと笑っちゃったのですが、その後の行動とか何だか刹那的というか、平たく言うと我がまま。そもそも、パーティでお酒飲んで話しただけのスタンを追いかけて、偶然会ったようにするあたりからして、迷惑なおばはんではないかしら。

スタンとお別れしたブリジットなんですが、同じホテルに泊まった中年オヤジのジェスパーと仲良くなってしまいます。スタンにアプローチするところから、ジェスパーと仲良しになるまで、ブリジットに何の葛藤もないので、何だかダンナがかわいそうになってきました。使用人とグザヴィエの会話で、かつてダンナも浮気したことがあるんですが、ブリジットはそれを知った上で、知らんふりして許したことがあるんですって。ですから、ブリジットが浮気したことも水に流せというのが夫婦の機微になるみたいな雰囲気なんですが、ドラマの中のブリジットにはあまり感情移入できないんですよ。別に浮気ドラマが「あ、いけませんわ、私には夫が....」なんていう展開でなくてはならないということはないんですが、楽しそうなブリジットに対して、グザヴィエがマジメすぎて、彼の寝取られ夫に対するシンパシーの方が強くなっちゃうのです。結局、家に帰ってきたブリジットにジェスパーのことを問いただすこともしませんし、結局、それで丸く収まるので文句をつける筋合いはないのですが、何かね、ブリジットまた同じことするんじゃないかって気がしちゃうのですよ。

いや、尻軽女のバカコメディならそれでもありなんですが、ブリジットをそれなりにヒロインとして立てようとしているところもあるだけに、何かねーって感じ。ブリジットを口説くジェスパーもそれなりに分別ある男という描き方をしているので、映画としては、こういうアバンチュールはありというスタンスなんでしょう。そのアバンチュールの結果、夫婦の絆が強まればそれでOKということらしいです。結末は、乾癬を治すために、ジェスパーに教わった死海に夫婦で出かけて、めでたしめでたしとなるのですが、こういうバカンスと同様に時には、息抜きのアバンチュールが必要だみたいな見せ方は、シングルオヤジの私には、すんなり納得できるものではありませんでした。

というわけで、この映画は私にはあまり愉快なものではありませんでした。でも、熟年夫婦としては、最高の顔合わせであるイザベル・ユペールとジャン・ピエール・ダルッサンがすごくいい感じでした。シリアスドラマの多い二人としては、コミカルなドラマで新しい顔を見せてくれる期待もあったのですが、ユペールがはしゃぐ一方で、ダルッサンはマジメというバランスのよくない演出で、せっかくの二人のコメディに見えなかったのは残念でした。原題は「ルーティンワーク」という意味だそうで、変わらない日々からたまには逸れて別のことをしたらどうなるのってお話のようですが、それが浮気ってのはどーなのって感じでした。ラストで元サヤに収まるってことは、スタンやジェスパーとの関係は浮気以外の何物でもなかったことになるだけに、何だかすっきりしませんでした。日本語のうたい文句である「おとなのより道」ってのが、成り行きの浮気ってのはねえ。

「バードマン」はファンタジー風な作りなのに、解釈の自由度がないような。


今回は新作の「バードマン」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。アカデミー賞の作品賞、脚本賞、監督賞、撮影賞を取ったということで、結構の混雑を予想していたら、土曜日の朝1回目でそこそこの入りだったので、ちょっと拍子抜け。まあ、アカデミー賞以外に観に行く理由がなさそうな映画ではあるのですが。

20年以上前に「バードマン」というヒーローキャラが当たった俳優リーガン(マイケル・キートン)は、今は落ち目。そこで、舞台で再起を図ろうと、レイモンド・カーヴァーの短編小説「愛について語るときに我々の語ること」を脚色、演出、主演でブロードウェイにかけようとしています。薬物克服の施設を出たばかりの娘サム(エマ・ストーン)を付き人として親子関係の修復も図ろうとしています。ところがプレビューの前日に共演者の一人が事故で怪我をしてしまい、代役が必要になります。今回ブロードウェイが初めてという共演者のレズリー(ナオミ・ワッツ)が、恋人のマイク(エドワード・ノートン)を連れてきて、稽古は再開。もうひとりの共演者ローラ(アンドレア・ライズボロー)はリーガンの今の恋人ですが、彼女から妊娠を告げられて「え?」の状態となるリーガン。マイクは役者として腕は確かではありましたが天才肌なのか扱いが厄介。その上、初回のプレビューで本物のアルコールを持ち込んだ挙句、ラストをめちゃくちゃにしちゃいます。その上、自分が主役みたいにタイム紙のインタビューで1面を飾っちゃうし、レズリーがいるのに、サムにもちょっかいを出しちゃう。人生の大事な時期にいるリーガン、そんな彼に聞こえてくるのはバードマンの声、彼をバカにしてるような挑発するような言葉でリーガンを翻弄します。果たして、リーガンの舞台は無事に初日をむかえることができるのでしょうか。

「21グラム」「バベル」「BIUTIFUL」のアレハンドロ・G・イニャリトウがニコラス・ヒアコボーネ、アレクサンダー・ディネラシスJr、アルマンド・ボーと共同で脚本を書き、メガホンを取りました。「21グラム」では時制が重層的に遡る構成がケッタイな印象でした。「バベル」はまるで関係なさげな4つのドラマが並行して描かれるというケッタイな構成。「BIUTIFUL」では、シリアスな貧乏話に超自然エピソードが無理やり割り込んでくるのがケッタイな映画でした。イニャリトウという人のストレートなドラマを見た事がないのですが、今回も超自然エピソードの挿入や、全編1カットという仕掛けという変化球バリバリの作りで、これでアカデミー賞の主要なところを押さえちゃうってのはすごいなあと感心。仕掛けにこだわるってところが、映画ならではのマジックをスクリーンに行き渡らせたから受賞したのかなって気もしますが、観客に対する媚びのない姿勢は、私のような娯楽映画至上主義の私には敷居の高い映画でした。役者の良さで最後まで楽しめたのですが、結末には、「で、何なの?」って思ってしまいましたもの。映画に仕込まれた仕掛けの積み上げを楽しめる方にはオススメできますが、ストーリーに共感しながら最後にカタルシスを期待する方には、微妙な感じの映画に仕上がっています。

主人公のリーガンは、かつてヒーローもの映画に3本主演してそこで名を成したことのある俳優さん。マイケル・キートン自身が「バットマン」シリーズ2作に出た後は、映画俳優としてはこれというものに出てないあたり(「ブラインド・フィアー」とか、「サイレント・ノイズ」とかですね、悪くはないんだけど)は、リーガンとキートンに似たようなところがあるのは狙ったキャスティングのようです。そんな映画人の彼が舞台で、脚本、演出、主演を兼任するってのはすごく無謀なことらしいのですよ。映画の後半で演劇評論家のタビサ(リンゼイ・ダンカン)から「舞台もよく知らない映画人なんか大嫌いだから、あなたのことはボロクソに書く」と言われるあたりは面白いと思いました。映画俳優で舞台経験もある人はよくいるようですが、さすがにブロードウェイあたりは映画人には敷居が高いのかなって思ってしまいました。

確かに、この映画の中で、リーガンは演出家らしいことは一切やってませんし、その描き方にはリアリティが感じられないところがありました。彼の意思のベクトルがどっちを向いてるのかよくわからない、あやふやした存在なのですよ。あやふやという言い方は不適切かもしれません。自分が何をやりたいのか、どうなりたいのかがよくわからないのです。自分の再起を賭けた舞台の割には、その出来栄えに関してあまり関心がないように見えます。娘がまたマリファナを吸っているのを見ても、それほどの動揺は見せません。バードマンに挑発されて激高するシーンがあるのですが、その後、彼に何か変わったところが見えるのかというとそれほどでもない。ドラマを支える主人公としては、すごく存在感が希薄な感じがします。彼がちょっとした念力を使えたり、後半の超自然シーンからすると、リーガンは存在しないのか、あるいは彼の夢の中の話なのかもしれないという気がしてきました。「BIUTIFUL」の主人公が霊能力を持っていても、その存在感が希薄にならかなったのに比べると、人間としてのリアリティがないようの思えたのは、私がこの映画を見損なっているのかしら。

その一方で、1カットにこだわった演出の方が饒舌で、1カット内で時間経過を見せたり、時間のスキップ(リーガンのカットが移動していくと、時制が別のリーガンのカットになっている)を見せたり、やりたい放題。ここは、エマニュエル・ルベツキのキャメラが、暗い室内から、ライトのある舞台、そして屋外と光量の異なる世界を1カットでつないで不自然にならないあたりがお見事でした。勿論、要所要所はカットを割っているのにそう感じさせないための視覚効果も入れて、1カットへのこだわりはかなり成功していると思いました。そういう見せ方は、舞台的とも言えまして、背景や衣装を変えながら、登場人物がフレームという舞台を出入りしているようにも見えます。まあ、「で、だから?」ってことにもなっちゃうのですが、そういう仕掛けを駆使することで、何の意味があるのだろうかって考えてしまうことがあります。例えば、喜劇という体裁を取りながらその中に政治批判を込めたりすることがあります。この映画の中にも、目立つ仕掛けの中に目立たないように仕込まれたメッセージというかテーマというものがあるのかもしれない。だとしたら、ひょっとしたら、この映画すごい映画かもしれない。よくわからないところも、すごい映画だからかも、と、思わせるものはこの映画持っていると思います。ただ、実際のところは、作り手の趣味趣向オンリーの映画なのかもしれません。特に後半、リーガンが空を飛び回ったり、市街戦や怪獣まで登場してくると、見せたいために見せているという印象もあるからです。

そんなとらえどころのない映画で、演技陣はみな好演していまして、脇に回ったナオミ・ワッツやアンドレア・ライズボローにも光るところありましたし、エドワード・ノートンの天才肌舞台人ですとか、エマ・ストーンの主役以上の存在感などが印象に残りました。マイケル・キートンは、主役なんだけど実体感のない、言い方は悪いけど中身の薄いキャラでドラマをうまく引っ張っていったのが見事だと思いました。舞台にも、昔のバードマンにも、恋人にも娘にも関心がないようなキャラクターで主演というのは、すごく演じるのが難しかったのではないかしら。後、気になったのが主人公の古くからの友人を演じたザック・ガリフィナーキスでして、クセ者だらけの登場人物の中で、唯一の俗世間のマトモな人を演じていました。最後はこの人がドラマを締めるのかと思っていたら、意外やあの方がラストカットでした。



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舞台の初日は大入りでした。舞台のラストは、妻の浮気現場に踏み込んだ主人公が拳銃で自殺するというもの。リーガンは、そのシーンに本物の拳銃を持って舞台に上がり、自分に向かって引き金を引きます。舞台は悲鳴と大混乱。しかし、弾丸を彼の鼻をつぶしただけで、命をとりとめ、例の批評家からは、「舞台で本物の血を共演者と観客に浴びせた」とかで大絶賛。一晩限りの舞台でしたが、一応は大成功。病院で、顔面包帯のリーガンは、鏡の前で包帯を取ってみれば、なぜか鼻はついている。そして、窓の外を見れば鳥の群れ、そこへ一歩踏み出すリーガン。病室へ入ってきたサムは、父親の姿がないことにいやな予感が顔をよぎるのですが、窓の外へ目を向けた彼女の表情は晴れやかでした。で、暗転、エンドクレジット。

後半は声だけだったバードマンが姿を現し、リーガンはビルの上に舞い上がり、飛び降りたら、空を飛び回るシーンなんか登場しまして、ほとんど夢の世界です。リアリティなんて吹っ飛ばして、ラストも何となくハッピーエンド。うーん、これはどう解釈したらいいものかしら。そもそも、解釈の余地の残し方が姑息というか、とっちらかし過ぎなんじゃないのって突っ込みが入ってしまいました。映画を作ることの技術に長けたイニャリトウが、自分の見た夢をもとに、思わせぶりエピソードで味付けしたと言ったら、言い過ぎかしら。まあ、私の鈍いオヤジ感性では理解できない映画なのだと言われたら返す言葉はないのですが、技術的にすごいことをやっているのに、中身が青い漫画青年の描いた投稿マンガみたいに見えちゃったのですよ。リーガンとバードマン、実体と虚像、人生と舞台、現実と奇跡、といった対になる要素はいっぱいあるのですが、それらを全て並行したまま描いているので、対になっているものが交わるカタルシスが感じられなくて、うーんって感じなんです。(困ったときに「うーん」って表現は便利です。)

最後は、主人公が夢の世界へ飛んでいったようにも見えるのですが、それだと、実像とバードマンの間の葛藤は放り投げちゃうのかという疑問が出てしまいますし。エピローグは主人公が自殺した後の、彼の夢なのかもしれないという解釈もあるのですが、色々と空想を広げることが居心地悪い映画になっているのは、あまり面白い映画だとはいえないのかも。極論すれば、どんな自由な解釈しても、観客が納得できるくらい、ユルい作りの方が楽しめたかも。

「妻への家路」のサントラ盤はヒーリングミュージックとしてオススメ。


しっとり感動できる映画「妻への家路」の音楽を担当したのは、中国の作曲家チェン・チーガンです。中国フィルハーモニック・オーケストラをツァン・イーが指揮し、ピアノソロをリーダーアルバムも出しているラン・ランが担当しました。映画の冒頭は、愛国バレエの練習シーンから始まり、オリジナル曲は静かなシーンから徐々に流れ始め、後半になってフルオーケストラの音楽が鳴るという構成になっています。(かなり大雑把な説明ですけど)

テーマモティーフは大きく分けると2つありまして、ピアノソロによる「Coming Home」が映画の中では一番初めに印象に残る曲として流れます。主人公を描写するやさしい曲調で、耳に暖かな印象が残る一品となっています。もう一つのテーマは「My Beloved,In My Heart」というドラマ全体を支えるテーマ曲。こちらは女性コーラスにピアノ、さらにストリングスで演奏されたバリエーションが5曲アルバムに入っています。さらにもう一つのサブテーマとして登場する「So Near,Yet So Far Away To」もドラマを支える曲になっています。

映画の中で、音楽はそれほど大きな比重は占めておらず、地味に物語を支えるというポジションになっていまして、感情をストレートに表現するものではなく、その情景をやさしく描写する音楽に徹しています。美しいメロディではあるのですが、音楽としてアルバムを聞くと、集中できなくて、つい他のことに目が行ってしまうというのが、不思議な感じでした。音楽は美しいのですが、どこか軽さがあるようで、聞き込むよりは、BGMとして流しておくといい感じという曲が多いように思います。本屋とかマッサージ店のBGMとしていい感じのヒーリングミュージックという感じでしょうか。

ドラマとしてはヘビーな設定でありながら、ドラマチックな展開は冒頭のみの映画で、音楽の果たす役割は、ヘビーさや悲劇性を和らげるのに使われているようで、そのため、音楽として自己主張するところが少ないのが、このサントラ盤の特徴だと思いました。ですから、アルバムを聞いていると眠くなっちゃうところがありまして、就寝前に流す音楽として最適かもしれません。こんな風に書くと、作り手側はそんなつもりで作ったんじゃないと怒られちゃいそうですが、私は、安眠ヒーリングミュージックとしてこのアルバム、オススメしちゃいます。

「ギリシャに消えた嘘」はちょっと古風なミステリーの佳品です。


今回は新作の「ギリシャに消えた嘘」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町で観てきました。今日は初日のせいもあるのでしょうけど、かなりの混雑でにぎわっていました。地味な映画な割には人が多いのは、テレビか何かで紹介されたのかしら。

ギリシャのアテネを旅行するチェスター(ヴィゴ・モーテンセン)とコレット(キルスティン・ダンスト)夫妻と、ガイドをしているアメリカ人青年ライダル(オスカー・アイザック)はお互いの視線が交わったことが縁となり、チェスターはライダルにガイドを依頼することになります。そして、楽しい一日を過ごした後、チェスターとコレットはホテルの部屋へ帰ってくるのですが、そこへ初老の男が訪ねてきて、依頼主へ金を返せと脅してきます。男が銃を取り出したことから、チェスターともみ合いになり、男を突き飛ばすと、頭を打って男は死亡。その男の死体を彼の部屋へ戻そうとしていると、そこへ忘れ物を届けにきたライダルと遭遇。男を酔っ払いだとだまして死体を運ぶのを手伝わせます。そして、チェスターとコレットはホテルを抜け出してライダルの部屋へ転がり込みます。ライダルの伝手を使ってパスポートの偽造を依頼し、パスポートができるまで、クレタ島で時間をつぶすことになります。そこで、新聞を見たライダルは男が死んだことと、チェスターとコレットが指名手配されていることを知ります。チェスターを問いただすととにかくコレットにはだまっていてくれと言います。チェスターは架空の石油会社の株を売りまくって多くの人をだました詐欺師だったのです。そして、そのことをコレットも知っているようでした。でも、ライダルは密告することもなく、チェスター夫妻を助けるのでした。偽造パスポートの受け渡し場所へ行くためにバスに乗り込む3人ですが、そこで乗客に顔を見られたとコレットが逆上してバスを降りてしまいます。パスポートの場所まで歩いて行くことになるのですが....。

「太陽がいっぱい」「見知らぬ乗客」で有名なパトリシア・ハイスミスの原作を、「鳩の翼」「日陰のふたり」の脚本を書いたホセイン・アミニが脚本化し、初メガホンを取りました。3人の男女の関係を軸にギリシャを舞台に展開するミステリーは、どんでん返しとか意外な展開はないですが、登場人物のキャラクターを丁寧に描きこんで、ちょっと古風な味わいながら、2時間ドラマなんかよりはずっと見応えのある1本の映画として仕上がっています。アミニの演出はストーリーの展開で、キャラを描きこむというやり方で、1時間半余の尺を退屈させないで、かつ主演3人の演技をきっちりと見せることに成功しています。

物語そのものはシンプルなもので、誤って殺人を犯してしまったチェスターが妻との逃避行にライダルという青年が協力するというもの。チェスターは50手前の中年男で、奥さんは娘ほども年の離れた若い妻、そして、ライダルも同じく二十台前半の青年で、大学教授の父親を亡くしたばかりで、その父親の面影がチェスターにあったという設定です。なぜ、こんなことを念を押すかというと、私はその関係に映画後半まで気がつかなかったから。この年の差の関係はドラマに意味があるのですが、ヴィゴ・モーテンセンが若いというか年齢不詳なところがあるので、夫婦の間、そしてチェスターとライダルの間に親子みたいな関係があることに気付けなかったのですよ。主演3人は、みんな年齢不詳な見た目をしているのは、この映画にはミスキャストだったかもしれないです。3人の演技には問題はなかったのですが、見た目がチェルシーは設定より若く、コレットとランダルは設定より年上に見えちゃったのは私だけかしら。3人とも好きな役者さんで、この映画でも、キャラに奥行きを与える好演をしてるのですが、メークとかで何とかならなかったのかなあ。それとも、舞台となる1962年では、みんなこんな感じで老け顔だったのかな。日本でも、1960年代のニュースフィルムとか見るとみんな今よりオッサン顔オバサン顔しているから、これはこれで間違っていないのかも。

たまたま死体処理の手伝いをさせられてしまうライダルですが、その後、警察に密告することもせず、チェスターとコレットを助けることになります。そこまで献身的になるのはなぜかというと、コレットに惚れたということもあるのですが、それ以外の理由もあるのかもという見せ方になっています。一方のチェスターは、コレットとライダルの中に何かあるのではという疑惑を抱きながらも、ライダルの好意にすがるしかありません。コレットは夫の悪行は知りつつも、それをとがめるというよりは共犯者であるという認識のようです。金持ちのチェスターに若さだけで擦り寄って結婚したように見えるコレットはしたたかであるようで、その一方でどこか自分の境遇を冷めた目で見ているようなところがあります。3人とも、何かを隠しているようなところがあって、そのミステリアスなキャラクターがドラマ展開の興味をつないでいきます。

観光地ギリシャの美しい絵というよりは、時代を感じさせる押さえた色調の画面に仕上がっていまして、マルセル・ザイスキンドの撮影は渋めの絵を作っています。(ポストプロダクションのデジタル変換で色調を変えたのかもしれませんが)また、アルベルト・イグレシアスの音楽は、控えめな音作りでドラマを支えています。サスペンスのテンションを上げる音作りになっていないのが、彼らしいところではありますが、もう少しメロディアスなモチーフを持ったテーマ曲をつけて欲しかったという気もします。1962年が舞台の映画なら、その当時の映画みたいな、もっとキャッチーなテーマ曲とそのバリエーションによる音作りをして欲しいなとも思ってしまうのですが、これが今風なのでしょうね。オヤジの映画ファンとしてはもう一声、音を張って欲しいところですが、ないものねだりなのかなあ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



パスポート受け渡し場所へ徒歩で向かう途中、遺跡で一夜を過ごすことになります。雨が降り出して遺跡の中へ雨宿りすることになるのですが、その暗闇の中で、チェスターはライダルを殴って気絶させ、二人だけ逃げようとするのですが、コレットと口論になり、コレットは遺跡の入り口から下へ落ちて、そのまま死んでしまいます。チェスターは傷心のままパスポートを受け取って、本土への船に乗り込むのですが、目覚めたライダルも彼の後を追い、同じ船に乗り込んでいました。下船するときに、遺跡で目撃されてしまったライダルが疑われかけるのですが、彼はチェスターを父親だと言って、その場を逃れます。チェスターは、ライダルとフランクフルト行きの飛行機に乗ると見せかけ、ライダルを見捨ててイスタンブールへと逃れます。イスタンブールのホテルにいるチェスターにライダルから電話がかかってきて、チェスターを呼び出します。ライダルはFBIにつかまり、チェスターから自供を得るためにマイクを仕掛けられて、彼の前に現れます。チェスターは、ライダルの態度に不審を抱いて逃走。ライダルも逃げ出し、FBIとの追跡劇になるのですが、最後に追い詰められ、チェスターは銃で撃たれてしまいます。駆け寄ったライダルにチェスターは、マイクの存在を確認すると、自分が男と妻を殺し、ライダルは自分に騙されただけで無関係だと証言して息絶えるのでした。無罪放免となったライダルは、チェスターの墓に花を供えて立ちさるところに、メインクレジット、そして暗転してエンドクレジット。

チェスターはライダルを殺す気はなかったものの、結局見捨ててしまうのですが、最後の最後で、彼の無実を告白して息絶えます。なぜ、最後に彼をかばったのかは明確には描かれません。今風なら、チェスターとライダルの間に同性愛的な感情があったと言うところですが、ライダルの亡くなった父親がチェスターに似ているという話を見せて、二人の間に親子の情に近いものがあったのかもしれないという描き方になっています。一方で、ライダルはコレットの写真や遺品にこだわっているところもあり、コレットへの想いも確かにあったという見せ方になっていますし、コレットがライダルに対して好意を示すシーンもあり、3人の関係は一筋縄ではわからないようになっています。その部分をミステリーとして残しているところに、この映画の味わいがあると言えましょう。色々な可能性が考えられて、それが全て当たりかもしれないという見せ方は面白いと思いました。いわゆる小品と呼べる作品で、傑作でもありませんが、ミステリーの佳作として、楽しめる作品に仕上がっています。

「パリよ、永遠に」は色々なことに気付かされる映画です、へぇーがたくさん。


今回は新作の「パリよ、永遠に」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町で観てきました。駅から近いし、1年更新の1000円のカードを買うと毎回1300円(火、金曜は1000円)で映画が観られるのはなかなかのお得感。

1944年のパリ、ノルマンジー上陸作戦の後、戦況はドイツ敗北の方向へ進んでいました。ドイツ占領下のパリでは、レジスタンスの反抗も目立ってきている中で、ドイツ軍パリ防衛司令官コルティッツ将軍(ニエル・アレストリュプ)のもとにベルリンから、パリ壊滅作戦の命令が届きます。それは、パリの主要な箇所に爆薬を仕掛け、橋を破壊し、セーヌ川を氾濫させて100万人の死者を想定したものでした。各所に爆薬が仕掛けられていて、将軍のゴーサインを待つばかりの状態でした。コルティッツ自身は気が進まない作戦ではありましたが、ヒトラーからの命令に背くことは許されないことでした。彼の駐留する高級ホテルの部屋で、ベルリンの電話を切った時、もう一人の男がそこに立っていたのでした。それは、スウェーデン総領事のノルドリング(アンドレ・デュソリエ)でした。この部屋はもともとナポレオンの愛人がいた部屋で、路地へつながる隠し扉があり、そこから彼は入ってきたのでした。ノルドリングは、コルティッツに停戦の提案をしにきたのでした。彼はフランス軍からの停戦提案の手紙を持ってきていて、コルティッツに渡すのですが、その内容が降伏勧告であることを知り、コルティッツは手紙を読まずに破り捨ててしまうのでした。爆破責任者のヘッケル中尉との電話通信がうまくいかない状態で、ノルドリングは何とかパリ壊滅作戦をやめさせようと、コルティッツを説得するのでした。

第二次世界大戦の時に実際のあったお話をベースにシリル・ジェリーが書いた戯曲を、ジェリーとフォルカー・シュレンドルフが脚本化して、シュレンドルフがメガホンを取りました。お話の大半がホテルの部屋での主演二人のやりとりという、いかにも舞台劇らしい設定を忠実に映画化しているようです。パリを占領していたドイツ軍ですが、ノルマンジー以降、いよいよ敗色が濃くなってきたところで、ヒトラーはパリーの壊滅作戦を出します。ポンヌフ以外の橋、オペラ座、凱旋門、ルーブル美術館、ノートルダム大聖堂などなどあらゆるところに爆薬を仕掛けて、パリを廃墟にしてしまおうという、この期に及んでは戦略上何の意味もない作戦でした。既に廃墟と化しつつあるベルリンの報復と見ることもできましょうが、これはコルティッツにとっても無謀な作戦だったのでした。

よく映画を観ていて思うのは、パリってのは何だか特別な場所だということ。フランス人にとってもそうだし、アメリカのウディ・アレンが撮った「ミッドナイト・イン・パリ」でもパリは憧れの対象らしいことが伝わってきます。文字通りの「パリ・ジュテーム」なんて映画もありました。ヨーロッパの文化を象徴する街なのかもしれませんが、この映画でも、パリはヨーロッパ人にとって特別なところなのだというひしひしと伝わってくるのですよ。だからこそ、この題材が戯曲になり、映画化されるに至ったのでしょうけど、日本の私からすると、そこまで肩入れする街なのかなって気もします。「ナポリを見て死ね」とは言うけど「パリを見て死ね」とは言わないですし。何でそこまでパリなの?ってところがわかると、この映画のお値打ちがずいぶんと変わるのでしょうね、きっと。

コルティッツの電話1本でパリが壊滅状態になってしまうという状態で、レジスタンスも妨害行動を起こしています。爆破装置が破壊されたという報告が入ってきます。そんな中で、ノルドリングはコルティッツに作戦を断念させようと、この作戦によって多くの市民が殺されると説くのですが、それなら、連合軍のハンブルグ攻撃はどうなんだと言い返し、報復行動だと言います。戦争というのは、一般市民を犠牲にして戦況が変わるところがあり、それは現代でも変わりません。軍人であるコルティッツにとって、一般市民を犠牲にすることは、望まないが、戦闘行動としてはありだという考え方のようです。そこで、聖書のアブラハムとかを引き合いに出して説得しようとするのですが、コルティッツは気乗りしないながらも作戦の実行を翻す気はなさそうです。

シネスコサイズの画面がちょうど舞台を見るような感じで、主演二人の演技をじっくりと見せる映像になっています。正直なところを言いますと、二人の駆け引きというのはあまり感じなかったのですが、コルティッツが最初から気が進まない命令にどこで決断を下すかというところが見所になっています。85分という短さは、シンプルで濃いドラマを作るのにちょうどよい尺になっているようです。コルティッツが苦悩している一方で、策士のノルドリングがしたたかな話術で説得しようとするのは、ドイツ人監督のシュレンドルフがコルティッツに感情移入しているのかなって気がしまして、これをノルドリングの視点からドラマにしたら、どういう見え方になるのかなってところにも興味が湧いてきました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



何とかして、作戦中止をさせたいノルドリングに、コルティッツはある一枚の紙を見せます。それはヒトラーが公布した親族連座法という法律でした。コルティッツが命令に背くことをすれば、その罪が家族にも及んでしまうというもの。つまり、彼は愛する家族を人質にとられていたのです。さすがにノルドリングも説得の言葉を失うのですが、その時、コルティッツが持病の喘息の発作を起こして倒れます。彼の薬のありかを聞いて、それを飲ませるのでした。呼吸が落ち着いたコルティッツは、なぜ自分を助けたのかと、ノルドリングに問います。それは自分は外交官で軍人ではなく、そしてパリを救う切り札は君しかいないからだと言いきります。コルティッツにもしものことがあった時、ドイツ軍の中にノルドリングの話をまともに聞く者はいないという読みがあったようです。そして、ノルドリングは、パリ壊滅が中止になった後、ドイツはパニックになり、その隙を狙って、コルティッツの家族をスイスへ亡命させると言います。その時、無線電話機が起爆装置をスタンバイさせたヘッケル中尉のもとに届きます。コルティッツはホテルの屋上に出て、無線機をとるとパリ壊滅作戦の中止を言い渡します。かくして、パリは廃墟になることを免れます。それと時を同じくして連合軍はパリに到着し、パリは解放されるのでした。連合軍の捕虜となったコルティッツは、釈放された後、妻子との再会を果たしたという字幕が出て、エンドクレジット。

ノルドリングは、レジスタンスに情報を流して、パリ壊滅作戦を遅らせる作戦を取りながら、コルティッツの説得に当たっていたらしいということが最後にわかってきます。さすがに権謀術策に長けた外交官らしく詰め将棋のように事を進めていたようです。そのある意味したたかなやり口に対して、ベルリン側は、それを見透かしたようにコルティッツの家族を人質にとっていたわけで、戦争のもたらす非情な駆け引きの狭間でコルティッツは最後の決断を下すことになります。と、まあコルティッツを中心にしたドラマであるので、パリから勲章をもらったノルドリングより、コルティッツの方を持ち上げた描き方になっています。これが、ノルドリング中心のドラマであれば、手を尽くして、頑迷なドイツの将軍をいかに説得したかというお話になり、コルティッツの葛藤をもう少しカットしたドラマになったんだろうなってところに歴史の面白さを感じました。この映画が、ドイツがいけいけどんどんの勝ち戦の時のお話なら、調子こいたドイツの将軍を徹底的に悪役に仕立てることもできたのでしょうけど、もう負けが見えた戦況で、家族を思うドイツ将軍と言う設定では、ちょっとしたさじ加減で、ノルドリングより、コルティッツの方が立派なようにも見せられるんだなっていう発見がありました。その分、ヘッケル中尉は冷酷非道な男という描き方になりましたけど、ここも本当のところは、家族思いの命令に忠実なマジメな軍人だったのかもしれないのです。歴史というのは、観る人の立場とか、それを語る人の思い入れによっては、色々な受け取り方というか描き方ができるんだなって思いました。この映画は歴史的事実に基づいた映画ということになりますが、いわゆる「本当のところ」ってのは、当事者じゃないとわからないんだろうなあ。歴史の事実というのは、それ自体を含む歴史の中で変わっていくものなんだなあってところに思いが行きましたから、この映画から学べるものは多いのではないかしら。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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