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「バニー・レークは行方不明」は当事者不在?のミステリーとしてはかなりの上出来。


今回は、本やネットの噂が気になっていた「バニー・レークは行方不明」のDVDをゲットしました。女の子が行方不明になるんだけど、その先に「ゴーン・ガール」にもつながる展開があるとか、期待するところ結構あったのですが。

アメリカからイギリスへ引っ越してきたアン(キャロル・リンレー)は、雑誌記者の兄スティーブン(ケア・デュリア)の上司の家に身を置いた後、アパートに引っ越すことになり、保育園に娘のバニーを預けに行きます。先生がいなかったことから、待ち合わせ場所の「1日目の部屋」へ子供を置いて、料理人の女に言づてをして、引っ越し荷物の受け取りのために新居へと移動します。そして、保育園の終わる時間に迎えに行ってみれば、バニーはおらず、保育園の先生の誰もそんな女の子は見ていないと言います。アンは、スティーブンを呼んで園の中を探し回るのですが、見つかりません。通報を受けた警察のニューハウス警視(ローレンス・オリヴィエ)が捜査を開始するのですが、アンがアメリカから来たばかりで、バニーを見た人間が誰もいないことから、本当にバニーが存在するのかを疑い始めます。一方、不慣れな土地で娘が行方不明になったアンがウソを言っているようにも見えません。果たして、この事件はどういう決着がつくのでしょうか。

イヴリン・パイパーの原作を、ジョン&ペネロープ・モーティマーがラストを変えて脚色し、「或る殺人」「危険な道」のオットー・プレミンジャーが監督しました。引っ越した先のロンドンで、保育園に置いてきた4歳の娘がいなくなります。娘を誰も見ていないというのです。自分の子供がいなくなったのに、その子供を見た人間がいないというと「フォーガットン」ですとか「フライト・プラン」といったサスペンス映画を思い出します。もし、周囲がみんな自分をだましていない限り、自分の方がおかしい、存在しない子供をいなくなったと騒いでいるのは自分の方ではないかという不安が生まれてきます。「フォーガットン」や「フライト・プラン」は、母親の視点から物語が進むので、母親の不安に感情移入しながら、ドラマが進んでいきます。この1965年の映画は、そこを客観的に描いているところで、同じ設定でも別のサスペンスが生まれました。

まず、映画の最初に登場するのは、アンではなくて、兄のスティーブンの方です。兄ということは、ドラマが進んで本人が自己紹介するまでわからなくて、最初はアンの夫か恋人だろうと思っていると、実はそうじゃないとわかり、アンがシングルマザーだということもわかってきます。アンは、バニーを保育園の部屋に置いてきたシーンから登場します。その後、先生が見つからないので、料理人の女性に娘のことを頼んで彼女は家に帰ります。家には運送屋が荷物を持ってきているので、娘の荷物も広げます。そして、娘を迎えに行くと、バニーはどこにもいないということになります。ここまで、娘のバニーは画面に一度も登場しません。アンはいかにも線の細い神経質タイプの女性なので、どこか変かもって印象を与えます。スティーブンは、バニーがいなくなったことに保育園に腹を立てて、あちこち探し回り、警察にも連絡します。でも、スティーブンが園長に、「アンは子供の頃、架空の友達を作って、バニーと名前をつけて遊んでいた」なんてことを言って、それがニューハウス警視に知れてしまい、バニーの存在が余計目に疑われちゃうことになっちゃいます。

ニューハウス警視は、この事件を最初は幼女失踪事件として捜査を始めるのですが、まずバニーの存在を確認しなければと思うようになります。スティーブンと警官がアンの新居に帰ってみれば、バニーの持ち物だけが全てなくなっていました。彼女の存在を裏付けるものがないのですよ。アンにしてみれば、娘がいなくなって大変なのに、警察はその娘が実在しないんじゃないかって疑っている、ということでかなりまいっちゃっています。観客もこのあたりになると、バニーが実在しないのではないかという気分になってきます。何かの事情で、アンは架空の娘をいるもんだと思い込んでいるのではないか。それに、妙に親密な兄との関係も関わっているのではないか。しかし、アンは、娘の人形を修理に出したことを思い出します。この人形で娘の存在を証明できると張り切るのですが....。

キャロリ・リンリーは線の細いヒロインを熱演していまして、実際にバニーが存在するのかどうか観客を不安にさせる演技で、ミステリーを引っ張っていきます。一方のローレンス・オリヴィエは、飄々とした演技で、英国人らしい警視を演じていまして、何を考えているかを表に出さない分、映画のミステリー度は上がったように思います。デニス・クープのモノクロのシネスコ画面が映画館で観るための絵になっていて、構図の切り取りが見事でした。何というか映像の情報量が豊かな構図というのでしょうか、こういう絵を見せてくれる映画は劇場で観たいよなあって気分になりますもの。ポール・グラスによるどこかのどかな音楽が、後半の展開の意外性につながりました。また、アンのアパートにあるどこかの部族の仮面や、深夜の人形修理屋の不気味な佇まいなどに、サイコスリラーっぽい味わいもあり、なかなか着地点が見えない作りになっているのは面白いと思いました



この先は結末に触れますので、未見の方は読み飛ばしてください。



アンは夜遅く人形修理屋を訪ねるとまだ店は開いていて、店主は預かり証を確認すると、勝手に取って帰っていいとアンに告げます。地下の人形置き場でバニーの人形を見つけたアンがそれを持って、1階へ上がるとそこにはスティーブンがいて、彼女を殴って失神させ、人形を燃やします。スティーブンは彼女を精神病院に担ぎ込むのですが、目覚めたアンは病院を脱出して、滞在していたスティーブンの上司の家に向かいます。一方、ニューハウス警視も、アン母娘の乗った船の記録を見つけていました。アンは、スティーブンが暖炉で、バニーの荷物を燃やしているのを発見します。さらに、彼は車のトランクからバニーを運び出します。スティーブンは、妹のアンに異常なまでの愛情を持っており、アンの愛情の対象となるバニーが邪魔になっていたのでした。目覚めたバニーをスティーブンが殺そうとするところを、アンが止めに入り、「一緒に遊ぼう」というと、幼児化したスティーブンもそれに同意します。何とか隙を見て、バニーを連れて逃げようとするアンですが、なかなかうまくいきません。しかし、幼児化したスティーブンと遊んでいるうちに、警察が現れ、スティーブンは逮捕され、アンとバニーは無事保護されるのでした。

車のトランクを開けると、そこにバニーが眠っていたというシーンはなかなかショッキングでした。それまで、バニーの存在があやふやだっただけに、実在するとわかるところでドラマの様相が一気にサイコスリラーへと変わっていきます。スティーブンの異常性については、保育園の園長が薄々気づいていたようで、他にも伏線は張られていたのですが、アンの方にも異常性が感じられる見せ方をしていて、ミスリードも成功していたように思います。クライマックスは、狂った兄から、娘を守ろうとするアンの奮闘が描かれていまして、バニーを殺そうとするスティーブンに「遊ぼう」と誘って、彼を幼児化させて、何とか隙を見つけようとします。最後は、娘を殺そうとするスティーブンに向かって「一緒に遊ぼう、でないと一生遊んであげない」と言い、スティーブンにブランコを漕がせているところに警察がやってきます。連行されるスティーブンをバックに、娘を抱いて歩いていくアンのアップから暗転して、エンドクレジットとなります。

クライマックスでは、ポール・グラスの音楽もホラータッチの現代音楽となり、サイコサスペンスとして見ごたえのあるものになっています。映画は、1日の中で、事件が発生して解決するまでを描いていまして、時間が経っていないので、スティーブンの画策したことのボロが出ていないことにも説得力があり、それでも警察側も船の乗客にアンとバーニーを見つける(スティーブンは1日後の船で来たとウソの情報を警察に言っていた。)というお手柄をあげてるあたり、そこそこ華を持たせていると言えます。クライマックスで、ヒロインはそれまでの線の細い女性というイメージから、強い母親として娘を守ろうとします。キャロル・リンリーの演技もその落差をうまく熱演していまして、彼女のキャラクターの変化がドラマの意外性にうまく機能していました。ケア・デュリアは、こういうキャラがうまくはまっていて、「あ、やっぱり」という感じになるのがおかしかったです。とはいえ、前半の落ち着いたミステリーがサイコスリラーに変わるという意外性をプレミンジャーの演出は、うまくさばいているので、私にとっては結構以外な結末となりました。

近年の「フライト・プラン」や「フォーガットン」に比べれば、ミステリーとしての落とし方はフェアですし、クライマックスの腰砕けもなく、最後までスリリングに展開してますから、当事者の実在を疑うミステリーものとしては、かなりうまくできてるのではないかしら。
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「奇跡の2000マイル」は純粋な旅もの映画としてオススメ、ヒロインが◎。


今回は新作の「奇跡の2000マイル」を有楽町スバル座で観てきました。こんな映画、誰も観に来ないだろうと高をくくっていたのですが、意外とお客さんが、それも年配のお客さんが入っていたのでびっくり。ここは上映時にスクリーン前の幕が開く、今は珍しい映画館です。

1975年のオーストラリア中央部のアリス・スプリングスにロビン(ミア・ワシコウスカ)という女性が愛犬ディギティと共に降り立ちました。彼女はここから、インド洋まで2000マイルを徒歩で歩こうというのです。都会に住んでいた彼女がそういうことを思い立ったのはなぜか、その理由はわかりませんが、彼女はそこで働き、ラクダの調教を習い、ラクダ4頭を手に入れ、ナショナルジオグラフィック社の援助を受けて、2000マイルの徒歩の旅をスタートさせます。援助の条件は、旅の様子をカメラマンが撮影するというもので、カメラマン、リック(アダム・ドライバー)が旅の要所要所で合流して彼女とラクダ4頭、犬1匹を撮影するのです。一人旅の興を削ぐイベントではあるのですが、自腹では2000マイル踏破するには不足なので仕方ありません。彼女は、キャメルレディとして有名人になっちゃっていました。起きて、ラクダに荷物を積み、歩いて、夜はラクダから荷物を降ろして眠る、そんな単調な生活の中では、時にはテンション下がっちゃうこともあるし、ちょいトラブルも発生しちゃいます。リックがアボリジニの秘密の儀式を隠し撮りしたおかげで、アボリジニの聖地を迂回せざるを得なくなっちゃうとかですね。それでも、後で出会ったアボリジニの老人がガイドを買って出てくれたおかげで、迂回しないで進むことができます。そして、ガイドなしで2カ月間の砂漠を横断することになるのですが.....。

ロビン・デヴィッドソンが自らの旅を書いた手記を原作に、マリオン・ネルソンが脚本を書き、一風変わった小品「ストーン」のジョン・カランがメガホンを取りました。実際の自然の風景を美しくそして厳しく描いて、サブプロットの入らない、純粋な旅もの映画になっています。ロードムービーというと、色々とドラマ的な要素が入ってくるのですが、これはドラマチックな要素がほとんどなくて、純粋に旅だけを抽出した作りになっていて、旅もの映画という方が似合っているように感じました。ラクダ4頭と犬一匹の砂漠道中に特化したお話なのですが、最後まで退屈させないのは、ミア・ワシコウスカという女優のパワーがあったからと言ったら誉め過ぎになっちゃうのかな。でも、その位、この映画の彼女の存在感がすごいのですよ。シンプルな旅ドラマをきちんと娯楽映画として面白く仕上げたのは、カランの緩急をわきまえた演出もあるのですが、ヒロインがきちんとドラマを支えていることが大きいと思いました。

映画の冒頭で、ロビンはラクダを手に入れるためにラクダ牧場で働き始めるのですが、そこの主人は約束の8か月がたってもラクダをくれる気配なく、そこを出て別のラクダ商人のところで働き始めます。そこでラクダの調教についてのスキルを磨き、最終的に3頭プラス子供のラクダを手に入れ、ようやく旅に出られるようになります。かなり気の長い展開ではあるのですが、ジョン・カランの演出は淡々とドラマを進めていきます。最初はテントに住んでるのですが、その後は屋根のない廃屋へ移り住み、友人たちが訪ねてくるあたりで、その時間の経過を感じさせるのですが、そのゆっくりとした時間を手際よく見せる演出で、退屈しないで物語を追うことができます。

旅に出てからもエピソードの拾い方と時間の省略がうまく、実際は同じことを繰り返す単調な旅なのに、ドラマとしてのメリハリが出たのは脚本のうまさでしょうか。ロビンが衝動的にカメラマンと関係を持っても、そのロマンスを旅の邪魔と言い切るあたりが面白く、その気になったカメラマンとの距離感が旅の経過と共にいい位置に落ち着いてくるあたりは、旅のサブプロットとしていい感じに機能しています。また、途中で彼女が聖域を通るための案内人となるエディというアボリジニのじいさんがいい味を出してまして、ほとんど言葉が通じないのに年がら年中しゃべっていて、そのうちにロビンとコミュニケーションがとれてくるあたりのおかしさも好印象でした。

でも、ラクダと犬だけ連れた徒歩旅行はかなりストレスになるようで、途中でくじけそうにもなるのですが、それでも最後まで旅を続けようと決意するあたりをドラマチックにならない見せ方にしているあたりにドラマの見識を感じました。感傷的な部分を極力抑えて、旅の経過だけを淡々と描くことで、旅そのものが映画の中心となり、旅の主体であるヒロインの存在感がくっきりと際立ったように思います。単調になりがちな画面の所々に回想シーンをイメージショット風にインサートする趣向も成功しており、語りすぎないドラマの中で、ヒロインの強烈な存在感が印象に残ります。それは、そういう演出にこたえたミア・ワシコウスカがすごいということになるのですが、そのあたりは実際に本編をご覧になって確認していただきたいと思います。

ラクダと犬を従えたヒロインの絵は大変美しく、ラクダをこれほど丁寧に撮った映画は珍しいのではないかしら。アナモフィックレンズを使った35ミリフィルムを使った撮影は、オーストラリアの大自然を見事にとらえていまして、オーストラリアの太陽の光の圧を感じさせる映像は、フィルム撮影ならではと思わせるものがありました。太陽の光の厚さが感じられる風景は、旅の過酷さとヒロインの強い思いを見事に描いていまして、映像のパワーを感じさせられました。

途中で、愛犬を失うというアクシデントはありましたけど、最後に彼女は2000マイルを踏破し、海までたどり着きます。そこでは、カメラマンのリックが彼女を迎えるのでした。抱き合う二人。海の中へ潜るロビンを正面から捉えたショットから海中の絵になってエンドクレジット。大きなサプライズのあるお話ではありませんし、ヒロインが何かを克服するとか発見するといった感動的なお話でもありません。旅そのものとヒロインに焦点をあてた構成が、純粋な旅の映画としての見応えを運んできます。それは、映像の力と、ムダを削いだ演出と、ヒロインの存在感によるものだと思います。ちょっと、これまで観てきた映画とは趣を異にするのですが、こういう映画も悪くないなって思わせるものがありました。単純なロードムービーよりももっと旅に純化した映画という感じでしょうか。後、付け加えるなら、ワンコとラクダの好助演も見どころと言えましょう。

「ターミネーター 新起動 ジェニシス」は、掟破りとお約束のバランスが今一つかなあ。


今回は、新作の「ターミネーター 新起動 ジェニシス」を横浜ブルク13スクリーン11で観てきました。映画が始まる前に、ドルビーサラウンド7.1のロゴが出まして、これ劇場では初めて見ました。ちょっと昔は、映画が始まる前の音響のロゴが出て、それで映画のワクワク感がさらに増していたなあってのを思い出しました。定番のドルビーデジタルのロゴにはそう興奮しなかったのですが、たまに当たる、DTSとかSDDSのロゴを見ると、それだけで映画への期待感が増したものです。

1997年、人工知能スカイネットが人類を敵とみなし、核攻撃を仕掛けてきました。生き残った人間をジョン・コナー(ジェイソン・クラーク)がまとめて抵抗軍を作り、2029年、スカイネットに総攻撃を仕掛け、勝利を収めたかに見えました。しかし、スカイネットはタイムトラベル装置を起動させ、1984年にT-800型ターミネーター(アーノルド・シュワルツネッガー)を送り込みます。ジョンはそこまでの事情は、母親のサラ・コナーから聞いて知っていました。そこで、子供の頃に助けたカイル・リース(ジェイ・コートニー)を1984年に送り込み、サラ(エミリア・クラーク)を守らせようとします。そして、1984年に舞台が移ると、火花の中から全裸のターミネーター登場。するとそこへちょっと老けた別のターミネーターが「待ちくたびれたぜ」と登場し、両者は格闘となるのですが、何者かに撃たれて全裸のターミネーターは絶命。一方、1984年にタイムトラベルしてきたカイルの前に、T-1000型液体金属のターミネーター(イ・ビョンホン)が現れて、カイルを追跡してきました。居合わせた警官も犠牲になり、絶対絶命のカイルを救うのがなんと武装したサラ・コナーだったのです。彼女が9歳の時、T-1000型ターミネーターが両親を殺し、そこへ現れたT-800型ターミネーターに助けられ、ずっと彼と逃亡生活を送ってきたようなのです。さらに追跡してきたT-1000を酸のトラップで溶かすことに成功します。タイプトラベルの後、カイルの頭にそれまでとは違う過去の記憶が甦ってきます。どうやら、過去が変わったらしいのです。T-1000のCPUチップを使って、タイムトラベル装置を動かし、1997年に行ってスカイネットを破壊しようとするサラに、カイルは自分の新しい記憶から2017年へ行くべきだと言います。そして、二人は未来へタイムトラベルすることになります。

1984年に公開された「ターミネーター」は、低予算SFながら、アイデアの面白さで大ヒット。そのあと、続編が3本作られて、展開的に行き詰ってしまい、ここで、お話をリニューアルすることになりました。第一作と第二作をベースに、「シャッター・アイランド」のレータ・カログリディスと「ドラキュリア」のパトリック・ルシエが脚本を書き、テレビでの実績のあるアラン・タイラーが監督しました。

お話としては、映画の前半で「ターミネーター1,2」の設定がひっくり返されるところを見せ、後半では、新しい展開が追加されます。一応、この映画でお話は通るようにはなっていますが、「ターミネーター1,2」を予習しておいた方がお話がわかりやすくなっています。お話のひねりの部分が、オリジナルを知らないとわからないからでしょう。1作目は、1984年を舞台に、サラ・コナーを守るカイル・リースがターミネーターと闘うというお話になっているのですが、時間軸のずれが発生していて、その1作目のストーリーはなかったことになっちゃっています。なぜかというと、コナーの子供時代にターミネーターを送り込んだ人がいたからで、1984年の時点で、サラ・コナーは戦士として覚醒しちゃっているのです。なるほどねえ、こうすれば、お話が破綻しないで、新しいストーリーを始められるなあって、おいっ。1作目をチャラにしてもいいんかい。つまんなかった第4作でもそれはやってないぞ。というわけで、1作目にあった、未来の嵐への予感とか、カイルの切ない恋物語とか、いいところが全部なしになっちゃっています。

その代わりに登場するのが、サラとT-800ターミネーターとの親子みたいな関係で、彼はサラを守るという使命以上の感情のようなものをサラに持っているように見えるのです。ロボットだけど表皮は経年劣化するという設定で、シュワちゃんが年を取ったターミネーターでも、無理のない設定を作っています。ともあれ、カイルの説得が勝って、二人は2017年にタイムトラベルします。そこでは、世界中のコンピュータやスマホをつなぐジェニシスというシステムが稼働する前日でした。このジェニシスがスカイネットとなって人間を攻撃してくることになるので、稼働する前に破壊しなければならないのです。それも24時間以内に。えー、ここであえて野暮な突っ込みをさせていただきたいのですが、なぜ、もっと前の時期にタイムトラベルして確実に破壊する機会を増やさないのでしょう。SFの設定で、そこへしかタイムトラベルできないからという制約をつけるならまだしも、そこを狙って行かなくてもいいじゃない。まあ、そういうのってのは、ギリギリまで、印籠を出さない水戸黄門みたいなもんで、このジャンルのお約束なのかな。

それでも、映画としてはアクションの見せ場をつないで面白くできています。J・K・シモンズが1984年にカイルとサラに命を助けられた警官として、2017年に登場するというお遊びもうまく機能していますし、後半登場する意外な敵役も映画を面白くするのに貢献しています。ただ、お約束が多すぎるというか、ディティールが荒っぽすぎて、うーん、という結末になってしまいました。娯楽映画というお約束を否定したくはないのですが。

音楽は、オリジナルのブラッド・フィーデルから、ローン・バルフェにバトンタッチしています。この人、ハンス・ツィマー一家の人で、ツィマー作品に参加してきて、「ダークナイト」の追加音楽などを担当している人ですって。さらに音楽総指揮としてハンス・ツィマーが参加しているせいか、ツィマー作品と言われても納得しちゃう音になっています。そうは言っても、フィーデルのテーマは要所要所で使われていますが、フィーデルのシャープな音よりは、ツィマー一家のハッタリ系音楽のカラーが強くなっています。エンドクレジットで、「ターミネーター」のテーマが流れるのですが、これもツィマー流アレンジがされているので、何だか別物っぽい味わいになっています。

演技陣では、シュワちゃんがターミネーターを渋く決めてかっこよかった以外は、あまり印象に残る人はいませんでした。特に主演ともいうべき、カイルとサラのキャラクターが今一つ曖昧で、感情移入しにくかったのは、娯楽映画としては減点でしょう。エミリア・クラークは熱演しているのですが、オリジナルのリンダ・ハミルトンにあった地球の運命を背負う骨太感に欠けていたように思います。アラン・タイラーの演出は、視覚効果をコントロールして、脚本を映像化するのにいっぱいいっぱいという印象で、ドラマとしての見ごたえを作り込むまでには至っていないように感じました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



2017年のハイウェイに電光とともに出現したカイルとサラは警察につかまってしまいます。車にひかれたので病院に収容されるのですが、そこに現れたのが何とジョン・コナー。T-1000の擬態ではないかと疑うのですが、彼しか知らないことを知っているので、どうも本物らしい。逃げようとした3人の前に現れたシュワちゃんは、ジョンに向かってショットガンを発砲。ジョンは金属と同化して、もう人間ではなくなっていました。彼は、カイルがタイムトラベルした直後、スカイネットによって、金属人間に改造され、頭の中も人類征服を目論むスカイネットのものになっていました。MRIの磁気を使って足止めして、その場を脱出してヘリでジェニシスのサーバがあるサイバーダイン社へ向かうサラ、カイル、シュワちゃん。しかし、ジョンがヘリで追跡してきます。サイバーダイン社の入り口に、ジョンを鉄柱で足止めしておいて、地下のサーバ室へ向かう3人。爆弾を仕掛けていると、そこへジョンが現れ、シュワちゃんとジョンが格闘になります。サーバ室にある、タイムトラベル装置にシュワちゃんがジョンを押さえて乗り込み、スイッチを入れます。人間の肉体以外のものが入ると強力な爆発現象を起こす装置に、金属と同化したジョンが入ったことで、タイムトラベル装置は大爆発を起こし、ジェニシスは木端微塵となります。シュワちゃんは吹っ飛んだ先が液体金属の中で、そこでバージョンアップしちゃっているのでした。そして、スカイネットが壊滅した世界で、ジョン、カイル、シュワちゃんは旅立っていくのでした。めでたしめでたし。でも、サイバーダイン社の瓦礫の中で何かが動き出していたのでした。って、まだ続きやるんかい! 9歳のサラにシュワちゃんを送った人間がわからないままなのも、続きでのお楽しみってか?!

前半のヒーローであった悪役が、スカイネットの手に落ちて、改造されて新型ターミネーターになっちゃうという展開には意外性がありました。そして、サイバーダイン社襲撃になるのですが、これが表門から簡単に入れちゃうのはちょっと無理してないか。建物全部を支配しているスカイネットがサーバ室への侵入を許すあたりが何かツメの甘さを感じてしまいました。とにかく、タイムトラベルできるのであれば、作戦を前倒しすれば、もっと先手を打てる筈なのですよ。シュワちゃんは、1984年から2017年まで、サラとカイルを待ってたのですから、どこかでジェニシスの息の根を止められるはずだし、一方で、ジョンも、サラとカイルに合流する前のシュワちゃんをやっつけておけば、ジェニシスサーバーを危険にさらすこともなかったわけです。そんな先回りのいたちごっこを繰り返したらドラマが成立しなくなるってのは、その通りなんですが、そもそも、9歳のサラにターミネーターを送り込んだという時点で、不毛ないたちごっこの土台はできちゃっているんですよね。黄門様が、正体を明かす口上をやってるときに吹き矢でやっつけちゃえみたいなことをやっちゃって、お約束を壊してしまっているので、それなら何でもありじゃんってことになっちゃう。それでも、冒頭の掟破り以外は、娯楽映画のお約束で話を進めようとしたので、ちょっと無理が出ちゃったという感じでしょうか。

「マッド・マックス 1&2」の音楽はもっと評価されていいような気が。



「マッド・マックス 怒りのオフロード」が公開されて、また注目されている、そのオリジナルと言われる「マッド・マックス」「マッド・マックス2」の音楽を担当したのは、「ジャンボ・墜落/サバイバー」「エルム街の悪夢/ザ・ファイナルナイトメア」などで知られるオーストラリアの作曲家ブライアン・メイです。クイーンのブライアン・メイとごっちゃな扱いをされちゃうことが多いのですが、確かに映画音楽家としてのブライアン・メイは知る人ぞ知るというランク(勿論、サントラファンの間では有名人)なので、有名人のブライアン・メイに間違えられてしまうのもやむなしというところがあります。でも、サントラ紹介のところでごっちゃにされるのは面白くないなあ。

1作目の日本公開時には、メインタイトルとエンドタイトルを串田アキラの歌う日本製の主題歌に置き換えて上映されました。これがなまじかっこよかったものですから、その年の「ロードショー」の映画音楽ベストテンに「マッド・マックス」がランキングされてしまいました。私も日本製の主題歌とは知らなかったので、輸入盤のサントラ盤を買ったとき、メインタイトルの音楽が違うと不思議に思ったものです。その後、テレビ放映時に流れたのがサントラ盤の曲だったので、差し替えていたのかと納得。

さて、第一作目の「マッド・マックス」の音は、オーケストラによる、衝撃音を中心にした活劇音楽になっています。映画の暴力性をそのままオーケストラで表現したような音作りで、アクションシーンでは、打楽器と金管楽器によるインパクトある音が連発します。その中に短いテーマモチーフを入れていたり、ファンファーレのようなフレーズを入れたりして、アルバムとしても、現代音楽として聞ける音楽に仕上がっています。インパクト主体の音であっても、きちんと音楽として成立させるあたりに、ブライアン・メイのうまさを感じます。サックスやストリングスによる、マックスの愛のテーマも入れているあたりが、映画音楽として王道の構成と言えるのではないかしら。

追跡シーンの音楽もオーケストラによるパワフルな音が続きます。映像はドライで暴力的なのですが、音楽でエモーショナルな部分を補っているとも言える音作りになっています。荒っぽい音楽のように聞こえるのですが、そのドライさとエモーショナルな部分のバランスが大変うまく、単なるアクションをサポートするだけの音になっていないところに聞きごたえがありました。それでも、近未来の荒廃した空気感を、音楽が見事に表現しており、単なるヒーロー映画ではない、シリアスなバイオレンス映画としてのドラマチックな音楽に仕上がっています。




これが二作目の「マッド・マックス2」になりますと、世界がさらに荒廃し、暴力がすべてを支配するようになります。そこで、ブライアン・メイは、一作目の研ぎ澄まられたバイオレンス音楽に、世紀末的なスケール感を加えることで、映画もろとも進化させることに成功しています。一作目では金管楽器を衝撃音をサポートするような扱いだったストリングスが数も厚くなり、メインタイトルはストリングスメインのドラマチックな音から始まります。これは、状況説明のモノクロ映像のバックに流れるもので、そのスケールの大きな音から、前作の地方都市と隣接する砂漠くらいの世界観を、一気に地球規模へ広げることに成功しています。一作目が近未来バイオレンスだったのが、ここからは、近未来SFの世界へ入っていくということを音楽で見事に表現しています。

カーチェイスシーンの音楽も、前作の原始的、暴力的なサウンドから、活劇調の濃い音楽になっており、映画としても音楽としても娯楽度がアップしています。前作のような愛のテーマはなくなり、パワフルなアクションを描写するのに力がそそがれています。打楽器や金管楽器は活躍するのですが、前作のような暴力的インパクトを表現する衝撃音は少なくなり、アクションを描写し、映像を盛り立てるために、使われています。

その結果、前作より、パワフルで厚みが出て、スケールの大きな音楽になっています。オーケストラの編成も大きくなっていまして、製作費の上昇が音楽にも反映されているように思います。これが、新作「マッドマックス 怒りのオフロード」になると、音楽の物量的スケールがさらにでかくなるのですが、音はすごいけど、音楽としての厚みは、前作にかなわないかなあ。

「スタートレック3」でジェームズ・ホーナー追悼。サントラ盤としては彼のベストではないかしら。


映画音楽作曲家として有名なジェームズ・ホーナーが亡くなったということで、彼のアルバムから「スタートレック3」をご紹介します。若くしてロジャー・コーマンの下で「宇宙の7人」「モンスター・パニック」などのオーケストラ音楽を提供し、そのすぐ後、30歳になる前に、メジャー大作「スタートレック2」や「クルール」「ブレインストーム」に抜擢され、天才少年という称号をもらったいわゆる才人。音楽家としての主張よりも、その映像に一番効果的な音をつける職人として、見事な腕前を持っていましたが、その一方、色々な作品(自作も含む)パクリの多い人というイメージも強かったです。映画の中で効果を上げることを最優先するが故に、サントラ盤にすると、すごく退屈な音楽になっちゃうものもありましたけど、その確かな職人芸で、色々な監督の映画に音楽を提供し、「タイタニック」でアカデミー作曲賞まで獲っちゃったのですから、確かな実力を持った人なのでしょう。

私はパクリと言われても、その原本を知らないことが多くて、あまり気にしないことが多かったのですが、彼の作品の中では「モンスター・パニック」「ゴーリキー・パーク」「この森で、天使はバスを降りた」「マイティ・ジョー」あたりがお気に入りです。静かなタッチの音楽でもいい感じの音を作る人なのですが、「タイタニック」「アバター」「トロイ」などの大作のイメージが強い人です。一方で、「薔薇の名前」「サンダー・ハート」のような実験的な音楽も書くだけにつかみどころがない印象もあるのですが、やはり、映画を支えるアンダースコアの職人というところに落ち着くのだと思います。映画の中で、マックスの力を出す音楽だけに、サントラ盤で聞き直すと、映画館ほどの感興が得られないものも結構あるのですが、映画音楽の持つべき機能に特化した音楽の作り手という意味では、最近の効果的だけど味気ない音楽の先駆けとも言えるのかもしれません。(うーん、褒めているんだか、けなしてるんだかわからないな、これでは)

「スタートレック3」は、シリーズの3作目です。1作目は、ジェリー・ゴールドスミスが映画用の「スタートレック」のテーマを書いているのですが、2作目を担当したホーナーは、ゴールドスミスのテーマを使わず、また新しいテーマ曲を書いて、シリーズに新たな空気を呼び込むことに成功しました。3作目は2作目のモチーフを使って、シリーズものらしい音作りをしているのですが、単に音楽の再編集版になっていないところがこの映画の買いどころです。まず、オーケストラ、特にストリングスが厚くなり、全体にまろやかで芳醇な音になっているところが見事でして、指揮者(ホーナー)も編曲者(クレイグ・マクリッチー)も同じなのに、演奏も音も明らかによくなっているのですよ。まあ、2作目は活劇音楽に徹底しているから、勇ましいとがったタッチの音になるのでしょうけど、ほぼ同じモチーフで、今回はもっと奥行のある音楽になっているところが面白いと思いました。何て言うのかな、大味なホーナーの音楽の中では、細やかな音作りがされているような気がします。

メインテーマ、クリンゴンのテーマともに、フルオーケストラを縦横に鳴らすもので、きちんとメロディがあって、それが聞き手をわくわくさせる期待感があるのですよ。単にテンションを上げるための効果音ではなく、音楽としてきちんと心に届いてくる音になっているのは、最近のアクション系映画の音楽とは一味違うものになっています。ですから、音楽だけ切り取って聞いても、聞きごたえがありますし、音楽から広がるイメージがあります。そういう音楽が少なくなっているように思うのは、私が単に古い人間で、古い映画音楽へのノスタルジーもあるのですが、それだけではない音楽の違いがあると思ってます。



「フレンチアルプスで起きたこと」のお父さんは大変、でもお母さんも気の毒?


今回は新作の「フレンチアルプスで起きたこと」をヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。何だか隣のおじさんが酒臭くて気になっちゃいました。自分も食べ物の臭いとか加齢臭には気をつけなくては。

フランスのアルプスのスキー場へ、バカンスでやってきたスウェーデン人一家。トマスと奥さんのエバ、そして娘のヴェラと息子のハリーの4人家族。1日目は家族でスキーを楽しんだのですが、2日目、ゲレンデに面したテラスレストランで食事をしていると、爆発音が響き、人工的な雪崩が発生します。トマスたちは最初は面白がってスマフォで撮影していたのですが、雪崩がどんどんレストランの方へ近づいてきて、みんなパニック。エバはヴェラとハリーを抱えてテーブルの下に避難するのですが、トマスは携帯かかえて一人で逃げてしまいます。雪崩はレストランの手前で止まり、雪煙がもうもうとする中、しれっと戻ってきたトマスに、家族はお怒り状態。エバは、ホテルに帰ってから夫婦で友人カップルと飲んでるときに「あなたは、私たちを置いて一人で逃げた」としゃべっちゃいます。しかし、トマスは「それは、相互の認識の違いで、自分の認識を押し付けるな。」と逃げたことを否定します。そんな風に夫婦仲が悪くなってくると、子供もそれを察知して、余計目に家族関係が気まずくなってきました。果たして、バカンス中にお父さんの失地回復はなるのでしょうか。

カンヌ国際映画祭で「ある視点」部門審査員賞を受賞したスウェーデンの映画で、アメリカでリメイクの予定もあるそうです。スウェーデンのリューベン・オストルンドが脚本を書いてメガホンを取りました。普通にスキーを楽しんでいた家族だったのに、雪崩がきたときに、お父さんが家族をほっといて一人で逃げちゃったもので、関係がややこしくなっちゃいます。お父さんは、最初のうちは「逃げてない。それは、お互いの認識が違うだけだ」なんて、お母さんにうそぶいちゃうのですが、その時に撮影していた映像が残っていて、逃げた証拠になっちゃって、さらに気まずい。

お父さんにとってみれば、それほど考えてやった行動ではなかったのでしょうが、それをお母さんに追及されちゃうとぐうの音も出ない。そこで、「見解の違いだ」と苦し紛れの答えで煙に巻いたつもりだったのですが、お母さん、それで納得しません。で、他人の前でその話をするんですよ、お父さんに聞こえるように。もう、いたたまれなくなっちゃうお父さん。でも、お母さんにしてみれば、父親たるもの、何を置いても自分の子供を守るのが当たり前なのに、一人で逃げちゃうし、その事実を否定しちゃうし。こんなダンナを自分の子供の父親にしておいていいのかしらなんてことまで考えてるっぽい。

子供にしてみると、お父さんとお母さんの仲が悪くなっちゃうのが最大の問題で、ひょっとしたら離婚しかねない雰囲気を察して、気が気ではありません。楽しい筈のバカンスが家庭の危機になっちゃいます。この映画は、お母さんを中心にドラマが展開しますので、最初はお父さんの不実っぷりが目立つのですが、だんだんと何もそこまで追い詰めなくていいのにという気分になってきます。それは、「お父さんはかくあるべき」ってところに縛られ過ぎな気がしてくるのですよ。お父さんがこんなに責められるのは男だからってところが見えてくると、ふーん、男はつらいわねえってところも見えてきます。ちょっとしたことが発端なのに、そこから、男と女の違い、根に持ち方とか、期待されるイメージとか、事実の受け入れ方についての男女の違いがだんだんと見えてくるのは面白いと思いました。

オストルンドの演出はゆったりとしたテンポでドラマを進めるので、起伏の少ないドラマは若干退屈に感じてしまうところもありましたが、目のつけどころの面白さで最後まで楽しめました。シネスコサイズの画面を広く使ったフレデリック・ウェンツェルの撮影が印象的でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



お母さんに追い詰められたお父さんはどう出るか? これがオイオイ泣き崩れちゃうんですよ。「こんな自分がイヤになる。お母さんだけじゃなく、僕もボクの被害者なんだよー、オーイ、オイオイ。」それを見て、どこか冷めちゃうお母さん。むしろ、そんなお父さんを見て、子供たちがお父さんに抱き付いて一緒になって泣き出しちゃう。「お父さんは悲しいことがあっただけよ」と子供たちに説明するお母さんに、「ほら、こっちきて一緒になって」と家族一体感を強要する娘が笑いをとります。そして、翌日、吹雪の中、一家でスキーに行くのですが、途中でお母さんがはぐれてしまいます。遠くで「助けてー」の声が聞こえて、お母さんを助けに雪の中に消えるお父さん。子供たちが不安になっていると、お父さんがお母さんを抱えて帰ってきました。うん、これでめでたしめでたし。そして、スキー場からの帰りのバス、つづらおりの山道で、運転が何だか危なっかしい。あまりの危険運転に、お母さんブチ切れて、バスから降りると言い出すと、他の乗客もバスから降りてしまいます。バスはそのまま行ってしまい、残った乗客は山道をとぼとぼと歩いて下ることになります。「ありゃあ、バスから降りたのは早まったかなー?」って雰囲気で、山道を歩く一行から暗転、エンドクレジット。

ラストはまた、お父さんの踏ん張りどころが見えてきます。言い方を変えるなら、ここでまたお父さんがヘタこいてしまうんでないかいって予感で映画は終わります。人間、色々なところで、自分の値段を試されることがあって、相場が高値のお父さんは大変だよなあって気がします。ラストカットの後、お父さんがお母さんに「お前がバスを降りるって騒ぐからこうなった」なんて言っちゃったりしたら、せっかく仲直りの雰囲気だったのが全部パーになってしまいます。考えようによっては、こういう地雷が生活の中にはいっぱいあって、たまたまそれを踏んでしまったことで、それまでの信頼とか権威があっけなく壊れてしまうから、大変だよという映画かもしれません。私のようなシングルオヤジには、この映画のお父さんの災難(?)は他人事として距離を置いて観ることができましたけど、家庭持ちの男性には、この映画は他人事ではないでしょう。この映画のお父さんのように、開き直って泣き崩れることができたら、どんなに楽なことか。お父さんは大変だなあとしみじみ。と、思うのは私が男だからでしょう。女性がこの映画をご覧になったらまた、別の感想を持たれるのではないかしら。

「オン・ザ・ハイウェイ」は、ドラマが薄い分、仕掛けを楽しむ映画なのかな。


今回は新作の「オン・ザ・ハイウェイ」を恵比寿のEBISU GARDEN CINEMAで観てきました。一時期閉館していたのが、内装をちょっと変えて再開したようです。ただ、上映方法に文句あり。ビスタサイズの画面のまま、シネスコサイズの映画を上映するんですよ。この映画みたいに黒味の多い映画だと、ビスタサイズに上映されているのか区別がつきにくく、横長の構図がよくわからなくなります。映画のサイズに合わせてスクリーンフレームをきちんと移動して欲しいものです。校庭の野外上映会じゃないんだから。なまじ、おしゃれなミニシアターの雰囲気を出してるだけに、がっかり感も大。500円出してカード作っちゃったんだよなあ。

建設会社の現場監督アイヴァン(トム・ハーディ)は翌朝に高層ビルの土台にコンクリートを流し込むという大きな仕事が控えていました。そして、今夜は家で家族とサッカー観戦の約束をしていました。でも、彼は、その両方をすっぽかす決断をしていました。明日の作業の確認を電話で部下のドナルに指示し、自宅には今夜は帰れない旨を伝えます。実は、彼が一度だけ不倫した相手ベッサンが妊娠し、今出産でロンドンの病院に運び込まれていたのです。2カ月の早産な上、へその緒が胎児の首に絡まっているという状態でした。アイヴァンとしては、妻のカトリーナを愛しているし、ベッサンは一度きりの過ちだという認識はありましたが、それでも一人で出産しようとしているベッサンを見捨ててはおけないのでした。夜のハイウェイをロンドンに向けて車を走らせるアイヴァン。果たして、彼の行き着く先は?

「イースタン・プロミス」「マダム・マロリーと魔法のスパイス」の脚本で知られるスティーヴン・ナイトが脚本を書き、メガホンを取りました。1時間半弱のドラマが一台の車の中だけで展開するというお話で、この限定された空間で展開するドラマというのはいろいろありまして、棺桶の中でお話が展開する「リミット」ですとか、車の中からカメラが出ない「逃走車」といったものがありますが、これらの映画はミステリーサスペンスの体裁を取っています。そんな前例を知ってたものですから、車の中だけで展開するというこの映画をミステリーサスペンスだという先入観で臨んでしまったのですが、実際のところは、ストレートな人間ドラマになっていたのが意外でした。プライベートなトラブルが発生した主人公が、ひたすらロンドンに向かって車を走らせる間に何本もの電話がかかってきたり、またかけたりすることでドラマが進んでいきます。

主人公のアイヴァンは9年の実績を持ち、上司からの信頼も厚い現場監督です。そして、明日は高層ビルの土台のコンクリートを流し込むという大仕事が控えていました。ところがそれをすっぽかして部下のドナルに全部まかせて、自分は電話で指示しようというのですから、上司のガレスはお怒りモード。シカゴの本社からは新しい現場監督を送って、アイヴァンはクビということになってしまうのですが、それでもアイヴァンはドナルに指示を出し続けます。一方、サッカー観戦のために家に帰る予定でもあったアイヴァンは自宅に電話して、帰れなくなったことを告げます。そして、妻を子供たちから引き離して、その上で、自分が一度だけした浮気で、相手が妊娠して、今出産のための病院へ向かっているという事実を告げます。妻のカトリーナはそんなアイヴァンを許せないと泣きお怒りモードに。とはいえ、アイヴァンが愛しているのは、妻と二人の子供であり、浮気相手のベッサンに対して愛情はなく、単に相手を妊娠させてしまったという責任感が、彼をロンドンに走らせていたのです。

トム・ハーディは、車を運転しながら電話するだけの演技で、一人の男の人生の転機を演じています。そこは、実験的というか挑戦的な演出に対して、演者としてもやりがいがあったことだと思うのですが、なかなか主人公のキャラクターが見えてこないので、共感も反発もしにくいドラマになっているのは、監督が狙ってやっているのかしら。そうだとしたら、娯楽映画としては今一つということになっちゃうのかな。車を走らせる主人公の絵ばかりなので、視覚的なメリハリがあまりなく、それなら、主人公のキャラに共感や反感を感じさせて、ドラマへの興味をつないでくれないと、単調なドラマという印象になってしまいます。

主人公のキャラクターづけということになるのでしょうか。映画の中で、アイヴァンは後部座席に向かって話しかけるシーンが何度も登場します。どうやら、アイヴァンの亡くなった父親は、とんでもないクソ野郎(映画の中では、bastardと呼ばれてます)だったらしく、自分はそうはならないぞという思いが、彼の行動の動機になっているような見せ方になっています。そして、後部座席にその父親が見えているらしく、アイヴァンはその父親に向かって「お前のようにはならない」と語りかけるのです。父親の存在がトラウマとなっているらしいのですが、どっかアブナい人のようにも見えます。一人で出産しようとしているベッサンの病院へ向かう気持ちはわからなくもないのですが、それを電話で妻に伝えるあたりは、どこか自己中な気もします。大事な仕事をすっぽかして部下に押し付けてるのに、部下に対してすまなそうな様子もありません。この映画の中で、起きているゴタゴタは全てアイヴァンが原因としか思えないのですが、当人はそういう自覚がなさそうに見えるので、うーん、何だか面倒くさい奴だなあと印象が残ってしまうのですよ。それがリアルな人間の在り様だと言うのであれば、それもわからなくもないのですが、そんな人間のドラマを、こういう凝った仕掛けで描く必然性はあるのかなって気がしてしまったのです。娯楽映画として観ると、腑に落ちるところが少ないって感じかしら。



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ベッサンは帝王切開の手術を受けることになります。明日のコンクリート投入は、部下のドナルがうまく動いたおかげで、何とかなりそうなところまでこぎつけます。一方、カトリーヌは夫が許せず、もう家に帰ってくるなとアイヴァンに宣言します。そして、ロンドンに車がたどり着いたころ、ベッサンから電話がかかってきます。路肩に車を止めるアイヴァン。そして聞こえてきたのは元気な赤ん坊の泣き声でした。アイヴァンの車をロングでとらえた後、ハイウェイの絵になって暗転、エンドクレジット。

映画が始まってから、1時間半弱の間に、アイヴァンは、職と妻を失い、新しい命を得たのでした。というわけで、その短い時間の中での、アイヴァンの人生の転機を描いたドラマということになります。まあ、これで終わり?と思うくらい、ドラマとしての進展はないのですが、その一方で、ここで終わりにしたことで、ドラマにそれなりの余韻が出たのも事実です。うーん、帯に短し襷に長しという感じかなあ。ただ、娯楽映画としては、もう少し、アイヴァンのキャラクターを描き込んで欲しかったように思います。ちょっと曖昧すぎて、とっつきにくくなってしまったように思います。

むしろ、車の中だけで展開するドラマという趣向がメインということであれば、主人公のキャラが曖昧でも、仕掛け(語り口)を優先して、人物描写にあえて時間を割かなかったという見方もできます。車の中だけで、1時間半だけ使って、主人公の人生の転機を描いたところを楽しんでねということであるなら、トム・ハーディの存在感が希薄なのも許容範囲になるのかもしれません。まあ、そう考えた方が、この映画を楽しめそうな気がします。製作総指揮に「つぐない」のジョー・ライトが入っていることからも、仕掛け優先の映画と思った方がいいかも。

「おみおくりの作法」のサントラは、音楽だけでも心の琴線に触れる音。


半端に甘い結末が今一つなじまなかった「おみおくりの作法」ですが、この映画の音楽を担当したのが、「サイダー・ハウス・ルール」や「ジャスティス」で泣かせるメロディを書いたレイチェル・ポートマンです。デビッド・ネルとロバート・ズィーグラーが指揮をしてロンドンで録音されています。

主人公の単調な日々を描写する音楽がやさしさと切なさを運んできます。スパニッシュギターやピアノの奏でるシンプルな旋律に、メインテーマがクラリネットやケルティック・ハープ、アコーディオンが主旋律を順番に取りながら音楽は展開していきます。これが温かいけど胸を打つメロディなのですよ。感動を盛り上げるというよりは、心の琴線に触れる音になっています。

この音は、主人公を描写しているのですが、もっと言うと、主人公の心の動きと、彼をとりまく運命の両方を描写していると思いました。そこから、生きることの切なさが伝わってくるあたりに、この音楽が映画の向いてる方向を見事に伝えていると思います。

サントラ盤は、映画の感動を再確認するという役割で聞かれることがメインでしょう。でも、この映画の音楽は、音楽それだけを聞いても、何か心に訴えるものがあります。映画を観ていない人が、この音楽を聞いても、きっと何かを感じることができると思います。それも、テーマ曲だけ聞くのではなく、アルバム全体を聞いてみることをお勧めします。テーマ曲を聞いてみて、あ、これちょっといいかもと思われた方には、アルバムの購入をオススメしちゃいます。私も映画を観た直後に聞いたときは、ああ、あのシーンの曲だと思いながら聞いていたのですが、何度も聞き返すうちに、このアルバムの持つ音楽の力に魅了されました。(と、AMAZONのページを紹介しようとしたのですが、プレミア価格になっちゃってました。どこかで相応なお値段で発見できたら是非。)


「セッション」は陰湿な復讐劇に神が降りた瞬間の奇蹟なのかな


今回は東京での公開は終えている「セッション」を、静岡シネギャラリー大ホールで観てきました。天井の高いちょっと昔のミニシアターという感じの劇場で、画面の下にむき出しのスピーカーが置いてあるのはご愛嬌ですが、何か特別なロングランとか観客数が集まりそうな映画を上映するときに使われるホールでして、普段の小さな劇場よりかなり格上感はあります。

音楽の名門、シェイファー音楽院へ入学したニーマン(マイルズ・テラー)は、ドラムの練習をしているとき偶然伝説の教師フレッチャー(J・K・シモンズ)の目にとまり、彼のスタジオ・バンドに入ることを許されます。フレッチャーの指導はスパルタ式で、バンドは彼のやり方に萎縮するところもありましたが、全米でトップクラスの実力となります。最初の練習で恫喝され、泣くまで追い詰められたニーマンはその悔しさをばねに一人で猛練習して実力をつけていきます。そして、コンテストで主奏者タナーの譜面をニーマンがなくしてしまったことから、その場でニーマンが演奏することになり、そして、彼は、フレッチャーから主奏者として認められることになります。そこで、ちょっと調子に乗ったニーマンは演奏の妨げになるからと付き合ってた彼女に別れを告げ、チャーリー・パーカーのように早世して名を残すんだなんてことを口走ったりしちゃいます。すると、フレッチャーはニーマンの後釜としてかつてニーマンと同じバンドにいたコノリーを連れてきて、3人のドラマーを競わせるようなことをします。そして、ニューヨークでのコンテストで、ニーマンは集合の時間に遅れてしまい、コノリーを奏者に指名したフレッチャーに、絶対自分がやると言い、急いだレンタカーで事故を起こして、血まみれになりながらも、コノリーの席を奪い、ドラムを演奏するのですが、意識が朦朧として、演奏は途中で中断。すると逆上したニーマンがフレッチャーにつかみかかり、ニーマンは退学処分となってしまうのでした。

この映画を予告編で観たとき、これはドラム版「あしたのジョー」か「巨人の星」なのかなって思いました。スパルタ英才教育による師弟関係を描いた感動のドラマではないかと。最初のうちはそんな感じもしたのですが、後半は違う方向へとドラマが走り始めて、マカロニウエスタンみたいな展開になってびっくり。さらに、その上に付け加わったラストでさらにびっくりという感じで、意外性のあるドラマとして楽しめました。あの珍品「グランドピアノ狙われた黒鍵」の脚本を書いたデイミアン・チャゼルが脚本を書き、監督も手掛けたのですが、全編に張り巡らされた緊張感で、一気にドラマを引っ張っていく演出力はただものではないパワーがありました。スポーツ根性ドラマのドラム版かと思ったのですが、そもそもそういう期待を持つのは、私のようなスポ根アニメになじんだ日本人くらいのものみたいでして、むしろ師弟の愛憎劇、もっというならサイコスリラー的な味わいのドラマになっています。さきほど、マカロニウエスタンみたいだと書いたのは、手の込んだ復讐劇でもあるからでして、そういう意味では、芸術家の心の闇は深いのだという映画だとも言えそうです。

と、いいつつ、じゃあ、この映画が人間の奥深いところを描いているのかというと、そういうわけではなくて、主役の二人のキャラは意外と浅いのですよ。人間としての深みを感じるところはありませんでした。でも、キャラ以外に深いなあって感じさせるものがありました。それは、音楽や芸術ってのが、人間のキャラとか愛憎とかを超越する深さを持ってるんだなあっていう発見でした。正直、感情移入したくもないニーマンとフレッチャーなのですが、彼らを根っこのところでつないでいる音楽の持つパワーってのがすごいんでないかいって感心してしまったのです。

「感情移入したくもない」ニーマンとフレッチャーなんですが、二人ともミュージシャンと指揮者としての腕前はすごいものを持っているのです。ふたりともいわゆるアーチスト、それもかなりハイレベルの。でも、高い芸術性を持った人間が必ずしも人格的に良いわけではありません。「芸のためなら女房も泣かす」ではありませんが、アーチストの私生活がボロボロだったりするのは珍しい話でなく、その秀でた分野で一流でも人間としても一流とは限らない、逆に他のところではクズかもしれないのです。私のような凡人からすれば、ニーマンという若造はドラムはうまいのかもしれないけど、彼女との別れ方は最低だし、従兄どうしのけなしあいとか見ると、かなり安っぽい奴なのですよ。一方の、フレッチャーは、最初の威厳と威圧感はすごいと思わせるのですが、後半になると意外と馬脚を現しちゃうのですよ、こいつも。そして、スポ根風ドラマが、師弟の愛憎劇になっていくので、ありゃあ、だいぶ想像したのは違ってたなあって気付かされることになります。それにやってることはかなり陰湿が復讐合戦だからなあ。

ところが、その恩讐の彼方に見えてくるのが、音楽なのですよ。人と人をつなく絆としての音楽は、この愛憎劇の中でも揺るがない力を持ち続けるのです。下衆の極みの復讐合戦がドラマのメインなのに、音楽がその根っこをぐっと押し上げて、何だか感動じみたものまで運んでくるのです。音楽というのは、芸術という言葉に置き換えてもいいと思います。音楽、絵画、スポーツその他諸々が人間の良否善悪を超えて、生まれてくるというのは、ある意味、人間の可能性が無限大だということもできますし、素晴らしい芸術を生み出す人間がクズ同然でも驚くにあたらないということになります。人間と芸術の関係を考えたときに、この映画は、そういう面白い関係性を描いていると言えましょう。恨みつらみが芸術に昇華するというとかっこよさげですが、芸術が偉大でも、それを生んだ人間は矮小な存在なんだぜという見せ方は、意地の悪さもあるけど、いいところ突いてるなあって感心しちゃいました。

演技陣では、アカデミー助演男優賞を受賞した、J・K・シモンズが威厳と人間的弱さの両方をうまく表現して、いつものコミカルな脇役とは全く別人のようなパワーを見せつけました。ニーマンを演じたマイルズ・テラーは、努力家なのに謙虚なところのないイヤな奴をリアルな演技で演じ切りました。この主演二人以外はあまり演技のしどころがなかったのですが、その中では、一時的にニーマンと付き合うことになるニコル役を演じたメリッサ・ブノワがどこか気になる女優さんで、次回作に期待です。



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フレッチャーの教え子の一人がうつ病にかかって自殺していました。そのことを学校側から聞かされ、ニーマンはフレッチャーの指導がどういうものだったのかを学校側に密告してしまいます。その結果、フレッチャーは学校の職を追われてしまいます。ある日、ニーマンはジャズクラブで演奏しているフレッチャーを目にします。彼はニーマンに声をかけ、自殺した生徒の関係者に密告されて職を追われたという話をします。そして、自分が第二のチャーリー・パーカーやジョー・ジョーンズを発掘したかったんだと言います。そこには、自殺した生徒やニーマンに対する反省の色はありません。むしろ、自分を理解しない世間に対する恨みごとを並べるのです。そして、新しくバンドを組むのでニーマンにドラマーとして参加しないかと言い出します。

熟考の末、ニーマンはそのバンドに参加することにします。そしてコンサートの日、幕があがるとフレッチャーは、ニーマンに「お前が密告したことを知ってるぞ」とささやいて、ニーマンの知らない新曲の演奏を始めます。当然、譜面もない曲に、まともな演奏ができるわけもなく、他の楽団員からも白い眼で見られて、大恥をかかされます。一度は舞台を降りかけるニーマンですが、舞台に引き換えると、勝手にドラムを叩き始め、そして楽団員にキューを出して「キャラバン」の演奏が始まります。驚くフレッチャーですが、そのニーマンの演奏には何かが憑りついたかのようなパワーがありました。そして、フィニッシュ前のドラムソロを延々と続けるニーマン、それを見ているうちに我を忘れて彼に向き合いキューを出すフレッチャー。そして、フレッチャーの指揮で、バンド全体が曲をフィニッシュさせると、暗転、エンドクレジット。

スカウトも観ている大ステージでの演奏で、知らせない曲を演奏させるというフレッチャーの復讐もえげつないですが、それ以前にフレッチャーの指導を密告するニーマンもかなりいやな奴です。自分が時間にルーズだから、演奏に間に合わなくなりそうになったのに、逆上して退学になったのを、フレッチャーに逆恨みして、密告するのは、かなりのワル。そう思うとラストの復讐合戦は、人間の行動としては見苦しい限りなのですが、ドラムの演奏としては、そこに一つの芸術が生まれてしまうのです。そして、それは、相憎み合うニーマンとフレッチャーによる総合芸術ともいうべきドラムプレイでした。人間の身勝手さとは別の次元で生まれてしまう芸術。それは言い方を変えると腐った人間に神が降りた瞬間なのかもしれません。いや、そんなことはない、彼らは文字通り血の出るような鍛錬を積んできたのだから、腐った人間じゃない、一流のアーチストなのだということもできましょう。うーん、どっちなんだろう、動機の不純さを神様が許したのだとしたら、彼らは一流のアーチストなのかな。でも、個人的にはお近づきになりたくないお二人なのでありました。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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