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「わたしに会うまでの1600キロ」は旅ものだけど、ビッチヒロインの人生リセットものでもある、のかな。


今回は、新作の「わたしに会うまでの1600キロ」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ2で観てきました。ここは場内がフラットなので、人の頭が邪魔にならないために、もう少しスクリーンの位置を上げてほしい映画館。まあ、昔よりはスクリーン位置が上がっているようではあります。これ以上上げるとスクリーンが小さくなっちゃうんだよなあ。

シェリル・ストレイド(リース・ウィザースプーン)は、1600キロの自然道を歩くパシフィック・クレスト・トレイルに挑戦します。元夫ポール(トーマス・サドスキー)と友人エイミー(ギャビー・ホフマン)に物資支援も頼みながらの旅は、まず燃料を間違えてコンロを使えないところから始まります。始めてからすぐバカなことをしたと後悔するシェリルですが、それでも彼女は歩みを進めます。よくできた夫がいたのに、クスリとセックスに走る日々を送り、結局離婚することになってしまうシェリル。父親は飲んだくれの暴力夫で、母親(ローラ・ダーン)はそんな男から、子供を連れて逃げ出し、シングルマザーとしてシェリルと弟リーフ(キーン・マクレー)を育て上げます。40歳過ぎてから大学に通い始め、シェリルと一緒の学校に通うようになって、学ぶこと全てに目を輝かせる母親。全てに前向きで楽天的だった母親も、ガンに侵され、45歳の若さでこの世を去ります。その死は彼女にとって大きな損失であり、その後のすさんだ生活にも母親の死は大きな影を落としていたのでした。そんな人生の見直しをするべく始めた1600キロの旅、その中で、色々な人と出会い、改めて孤独と母親の死に直面するシェリルですが、最終目的地へたどり着いたとき、彼女の中で何かがリセットされたようです。

シェリル・ストレイドの自伝的小説を原作に、自らも小説家で「17歳の肖像」の脚本も手掛けたニック・ホーンビィが脚本を書き、「ダラス・バイヤーズ・クラブ」のジャン・マルク・ヴァレがメガホンを取りました。主演のリース・ウィザースプーンはプロデューサーも兼任しています。女性が一人で長距離を旅する映画というと今年は「奇跡の2000マイル」という佳品もありました。どちらも共通しているのは、旅そのものをドラマの中心に据えているところです。映画を旅そのものに特化してしまった「奇跡の2000マイル」に比べると本作品は、ヒロインの過去を旅の随所にフラッシュバックさせるという構成をとっていまして、旅の進行とともにこれまでの彼女の人生が浮かび上がってきます。このヒロインが結構とんでもない奴だったとわかってくるのですが、主人公が原作者であるせいか、クスリとセックスに溺れるヒロインを否定的に描くことはしていません。後、旅によって何かが変わるという見せ方もしてません。ん?ということは、旅が終わってもこいつはビッチなままということになるのかな。それも困るなあ。(実は困ってません)この映画は、ビッチの気分転換の映画ってことになっちゃうのかしら。

観ていると、ヒロインを突き放したい気分になってくるのですが、それを思いとどまらせるのが、ヒロインの母親ボビーの存在です。男運が悪くて、最終的に健康運からも見放されてしまうのですが、それでもちょっとしたことに歓びやうれしさを見つけ、それを表に出すことをはばからない人、ポジティブに自由な人です。逆境にあるときも、しっかりと胸を張って歩くタイプの母親のことを、彼女は忘れることができません。母親が恋しいという思いが映画の中で爆発するシーンがあって、ああそういう関係だったんだなって納得することになります。母親の存在が大きすぎて、その喪失がクスリとセックスに走らせたのかなという気もしたのですが、母親の死との前後関係がよくわからなかったので、はっきりしたことは言えないのですが。

パシフィック・クレスト・トレイル(略称PCT)っていうのは、アメリカの西海岸側を縦断するコースでかなり過酷なものなんですって。途中に多くの中継点があって、そこに荷物を留め置きしておくことができるので、そこへ物資を送ってもらって受け取ることができるという仕掛けもあり、途中に水を補給するためのタンクもあるのですが、一つ間違えると飲料水が底をついたり、雪の中で迷ったりと命にもかかわる可能性のある道です。途中にメッセージを残すノートがあったりして、同じ道を歩く仲間という意識があり、出会う人々の間には不思議な距離感があります。女性で一人で歩いているというのは珍しいらしく、彼女は、トレイル仲間の有名人になっていて、彼女がノートに書き残したことも覚えられていたりします。なるほど、個々は単独なんだけど、その全体として同じ目的と話題を持った仲間という見せ方は面白いと思いました。地域的なコミュニティではなく、目的指向のコミュニティというのは、ネットでつながる人々のような、日常を離れた人間のつながり方として存在するというのが発見でした。そして、トレイルの間は、日常生活から隔離された孤独との戦いとなり、普段考えないことを考え、普段出会わない人と出会うことで、色々な発見があるのでしょうね。と一人で納得している私は、こういうの面倒くさいからパスです。それでも、ヒロインが荷物を背負うのに悪戦苦闘するのにはちょっと共感、最低生活に必要な荷物を全てまとめて背負うがすごく大変そうです。何かの災害時にはこういう状況になっちゃうだろうから、自分も足腰をある程度は鍛えておかないとという気分になりました。(映画とは直接関係ない話ですね、どうも失礼しました。)

ある意味、自分探しの旅になるのでしょうけど、物理的にハードな旅なので、あまり感傷的になる余裕はありません。自分に酔うというよりは、自分の存在が小さくなっていくことによって、自分を客観視することになるという感じでしょうか。映画は旅がヒロインにどういう影響を及ぼすのかは、具体的に描かれませんから、そこはお察しするしかないのですが。マルク・ヴァレの演出は旅の初めから終わりまでを描くことで、シェリル・ストレイドという女性がどういう人間なのか見えてくるようにドラマを組み立てています。その一方で、旅の方は、純粋に旅のエピソードの積み上げという形で描かれていますので、映画としては、旅がメインだけど、フラッシュバックの部分でヒロインが描写されるという、複雑な構成になっています。旅を描いた旅ものだけど、ドラマの中心は回想部分にあるので、純粋な旅映画のようで、ドラマとしては旅はサブプロットという感じなのですよ。

リース・ウィザースプーンはヌードも披露して、ちょっと困ったヒロインの過酷な旅を熱演しています。この人、あんまり美人と思ったことはないのですが、この映画では、かなり濃い存在感を出していまして、やはり映画スターなんだなあってことを再認識しました。ローラ・ダーンもポジティブな母親を存在感のある演技で熱演していますが、この人もスターオーラを出しているのが意外でした。地味な女優さんというイメージが強かったのですが、マルク・ヴァレの演出が女優のスターオーラを出させているようです。地味な内容だけに、女優さんに華を感じさせる見せ方をしているのかも。
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「あの日のように抱きしめて」は読み切れない女性心理はあるけど、見応えは十分。


今回は新作の「あの日のように抱きしめて」を、伊勢佐木町のシネマジャックで観てきました。ウィークデーの夜の回でしたが、結構な混雑でした。

1945年、ドイツ降伏後、顔に大けがを負ったユダヤ人女性ネリー(ニーナ・ホス)は、ユダヤ機関の友人レネ(ニーナ・クンツェフェルド)に付き添われてベルリンに戻ります。ネリーのたくさんある資産を使ってレネは家を確保し、ネリーの整形手術の手配もしてくれます。別人の顔でなく、元の顔に戻りたいと望むネリー。レネはネリーの知人の多くが亡くなったことを伝えます。そして、夫のジョニー(ロナルト・ツゥアフェルト)について、レネは、彼がネリーを裏切ったのだと告げます。どうも、ジョニーの逮捕直後に、隠れていたネリーが摘発され、そしてジョニーが釈放されたという経緯があったようなのです。そんなレネの言葉におかまいなく、ネリーは夫に会いたいと思い、ジョニーを探しに街に出ます。そして、ついにクラブで下働きをしているジョニーを見つけます。ネリーを見たジョニーは、彼女が妻に似ていることから、彼女の妻に成りすまして、一緒に妻の資産をかすめ取ろうと提案します。そこにいるのは本人なのに。それでも、ネリーはジョニーといる時間がうれしくて、彼の提案を飲み、ジョニーの妻になりすます努力をすることになります。やっぱりなりすますのは無理だというジョニーに、それでも試してみてくれというネリー。ネリーの想いは直接ジョニーに届くことはないのでしょうか。

「東ベルリンから来た女」のクリスティアン・ベッツォルトが、脚本を書き、メガホンも取りました。「東ベルリンから来た女」の主演二人がこの映画でも主演しています。収容所で顔に重傷を負ったヒロインが、整形手術で元の顔に戻ったのですが、かつての夫は、彼女を妻に似た女性としか認識できず、何と妻に成りすまして、ネリーの資産をかすめとることを提案してくるのです。そこで、夫に愛想を尽かすのかと思いきや、ネリーはその提案に乗り、夫と一緒にいられることを選ぶのです。彼女の過去が描かれないので、なぜそこまで夫への想いを募らせるのかがよくわからないので、そこが共感を呼びにくいのではありますが、彼女は彼女なりに、夫との関係を修復したいと考えているようなのです。でも、夫ジョニーは妻が収容所で死んだものと思い込んでいます。さらに、筆跡こそそっくりだけど、他の容姿に関するところは、まだ十分に妻に似ていないとネリーに言います。整形手術の結果がどこまでうまく行ったのか。映画の中で、怪我を負う前のネリーの写真が出てこないことから、観客にはよくわからないので、ジョニーがネリーを妻と認識できないところが一種のミステリーになっています。

一方、ネリーは髪を染め、濃い化粧をして、ジョニーの前に現れます。彼女にとっては、かつての姿として、夫の前に現れたつもりなのですが、ジョニーはそれを拒否します。ここで、ジョニーは、彼女が本当の妻かもしれないと思うようになったのか、それとも、本気で妻とは別人と確信したのかというところがミステリーの要素になります。この映画では、ジョニーが、どこから、ネリーを本人だと思うようになるのかがよくわからない描き方をしています。というよりは、どこかで彼女を本人だと思う瞬間があっただろうはずなのに、そういうことがないような見せ方をしているので、それって、本当なのかしらって観客に思わせるつくりになっているのですよ。一方の、ネリーはジョニーの近くにいられるのがうれしくてたまらないという表情を見せるので、それが切なくもまたミステリーの要素になります。だって、ネリーはレネから、ジョニーは妻を裏切ったとさんざん吹き込まれていて、さらに、ジョニーは偽の妻を使って彼女の資産を奪おうとしているのですから、彼女がジョニーを疑っても何の不思議もありません。でも、ネリーはそういう顔を一切見せず、この複雑な状況の中で、彼女なりにジョニーの心を繋ぎ止めようとします。人の心ってのは謎が多く、他人の心なんて理解することは不可能とも言われるのですが、この映画では、ネリーやジョニーの心の底をミステリーとして残しながら、ドラマが展開していきます。

「東ベルリンから来た女」では、冷戦中の東ドイツを舞台にしながら、ハードボイルドなヒロインの心情を一つのミステリーとしてドラマの中心に据えていました。この映画でも、終戦後の収容所帰りという歴史的事実をベースに、夫に裏切られたのかもしれないというヒロインの心情を中心に置いて、ミステリアスなドラマが展開していきます。時代背景をあくまで時代背景として使い切るところに、ベッツォルト監督の面白さがあり、普遍的な男と女のドラマとして成り立たせているのがうまいと思いました。勿論、時代背景もドラマの重要な要素であり、ユダヤ機関のレネは、パレスチナにユダヤ国家を作ろうと息巻いていますし、ネリーの知人の多くは収容所で死に、中にはナチとして逆に殺された人間もいます。親類縁者が次々に亡くなったことで多額の資産が転がり込んできたという事情もありますが、それらは、この複雑な関係を成り立たせるための材料という扱いで、ドラマの中心は、ネリーの心情の中にあり、ラストもそこへ収束していくことになります。

「東ベルリンから来た女」とは全く別のキャラクターをニーナ・ホスは説得力ある演技で熱演しています。怪我が治っていく過程では、傷が残ったほとんどすっぴんの顔で登場するので、中盤、ジョニーの前に髪を染め化粧して別人のように現れるところがインパクトがありました。どうして、そこまでジョニーにしがみつくのかということについては、パンフレットでのニーナ・ホスのコメントで、「全てを失った彼女が再び生きるために、過去であるジョニーが必要だった」というふうなことが書いてあって、ちょっと腑に落ちるものがありました。歴史の中でボロボロになったヒロインがその自分をつぎはぎして人生をやり直すための過程のために、彼女は元夫を求めたという見方は納得できるものがありました。一方で、相手役のジョニーを演じたロナルト・ツェアフェルトは、悪いことをするようには見えない普通の人間をリアルに演じました。リアルというのは、ミステリアスなヒロインに対して、存在感があるという意味のリアルでして、時として偽妻に辛くあたってしまうところもある一方で、彼女へ恋愛感情を抱かないようにしているのは、誠実さの裏返しとも受け取れる彼の演技で、ドラマに奥行が出ました。

音楽が、この映画の中では重要な役割を持っています。ユダヤ人音楽家クルト・ヴァイルの「スピーク・ロウ」という英語詩の歌が、この映画のオープニングからクライマックスまで使われ、そこに時代の空気とヒロインの心情を重ね合わせるのに成功しています。オープニングではインストメンタルのジャズとしてベースのソロから始まり、その後、主人公がレコードで聞く歌として流れ、クライマックスでは、ジョニーのピアノでネリーが歌います。

結末の余韻まで、映画としての完成度が大変高い映画だと思いました。ユダヤ人、戦争、収容所、ナチ、エルサレムなどのキーワードを散りばめながら、一人の女性のハードな再生を描いたドラマとして見応えがありました。特にクライマックス前からラストまでの、ヒロインの葛藤の部分をあえて描き過ぎないように抑え気味にしているところに、この映画の節度を奥行を感じました。ちょっと、とっつきの悪いところはありますが、はまると奥が深い、そんな感じの映画でした。私は1回だけの鑑賞でしたが、再見するとまた新しい発見がありそうです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。




いよいよ、偽妻のお披露目の時が近づくと、ジョニーは、偽妻との再会についてネリーに細かい演技指導をします。感情を表に出さず、キスもせず、お互いが静かにハグする演技をするようにと言われます。そして、ネリーがレネと住む家に戻ってみると、レネは書き置きを残して自殺していました。それは、ジョニーに固執し、新しい約束の地パレスチナへの移住も拒否したネリーに対する絶望のメッセージのようでもありました。彼女の書き置きには、ネリーが連行された直後に出された離婚届も入っていました。ジョニーはネリーと離婚していたのです。そして、お披露目の日、駅で列車を降りたネリーは、ジョニーやかつての友人たちの出迎えを受けます。ネリーはそこでジョニーに指示されたとおりの演技をしてみせます。食事会の後、ネリーはみんなをピアノのある部屋へと招きます。そこでジョニーに「スピーク・ロウ」の伴奏を頼みます。静かに歌いだす、ネリー、だんだんと感情が高まっていくと、彼女の袖口から、収容所での番号の入れ墨が見えているのをジョニーは発見します。1曲歌い切ったネリーのアップ、彼女は身をひるがえすとその場を立ち去ります。暗転、エンドクレジット。

「スピーク・ロウ」は男性への愛の歌ですが、女性の想いとは裏腹にその愛は終わりへ向かうという歌詞です。ただ、そこに女性の愛は失われていないことから、ネリーからの決別を表現したのか、まだジョニーに愛を取り戻す余地があるのかは、私には判然としませんでした。どうともとれる一方で、そこに彼女は自分の全ての想いを込めている、この感じは劇場でご確認いただきたいです。女性心理に疎い私には、ミステリーはミステリーのまま残ってしまったのですが、それでも、映画の満足度は高かったですから、オススメ度はかなり高いです。

「黒衣の刺客」を楽しめなかったのは、私の鑑賞力及ばずか、映像は魅力的です。


今回は新作の「黒衣の刺客」を、桜木町の横浜ブルク13シアター8で観てきました。ここは、ひじ掛けが席ごとに独立しています。これが意外と快適なんですよね。気になるとひじ掛けがあっても有効に使えませんもの、こういうところでサービス点は上がります。ところで、上映されているのは、日本向けのディレクターズカット版だそうで、日本でロケされたシーンなどが追加されてるんですって。

中国の唐の時代、地方の役職の人間が力をつけて朝廷と軋轢を起こしていたころ、中央から地方へと嫁いだ女性の養子であるジィアン(ジェン・チェン)には、幼い頃の許嫁インニャン(スー・チー)がいましたが、ジィアンは別の女性と結婚することになり、インニャンは女道士のもとに預けられ、暗殺者として育てられます。その技術が完全となったとき、インニャンは、暴君となったジィアンを暗殺するという使命を帯びて、親許に帰されてきます。ジィアンの身辺に姿を現しては消えるインニャン。朝廷に与するような発言をした家臣を左遷させるジィアン、その護送の警備をインニャンの父親フォンに命じます。一方で、その家臣を亡きものにしようとする刺客が放たれ、一行を襲撃します。鏡商人の青年(妻夫木聡)の加勢もあり、インニャンの活躍でフォンや家臣の命は守られます。一方、ジィアンの側室フージィが妊娠したことが、正妻のユェンシが妖術を使う道士を使って彼女を亡きものにしようとしていたのでした。

私は初めての鑑賞なのですが、台湾のホウ・シャオ・シェン監督の新作です。この映画で、カンヌ国際映画祭の最優秀監督賞を取ったんですって。チュー・テェエンウェンが脚本を書き、リー・ピンビンが撮影で参加しています。「クローサー」や「トランスポーター」以来、私にはお久しぶりのスー・チーが主役で、刺客を演じるということで、アクションものかしらという期待を持ってスクリーンに臨んだのですが、これが期待とはまるで違う、雰囲気と凝った映像で見せるドラマになっていました。とにかく、人物関係がよくわからなくて、こいつ何者なんだってのが多くて、上の粗筋もはっきり言ってあてにならないです。中盤出てくる女刺客は一体何者で、誰の差し金で動いて、結局どうなったのかもわからないし、ラストもあれはどうなったってことなの?という感じで、かなり困った映画鑑賞になってしまいました。

その一方で、凝った映像作りは印象に残っていまして、薄絹を通して人物を捕える映像とか、そんな天然ソフトフォーカスの中からスー・チーの顔が心霊写真のように浮かび上がる絵は、ストーリーと関係なく、すごいかもって思っちゃいました。後半で、山頂で道士とヒロインの会話の途中から雲がだんだんかかってくるカットなど、狙ってやったとしたら、相当な数のテイクを重ねたのではないかしら。いわゆるアクションの動の絵のこだわりはあまり感じられないのですが、静のショットへのこだわりには相当なものがあるようで、下手にわかりにくいストーリーに気を取られるよりも、個々の映像を楽しむのが正解かもしれません。まあ、それなら、ストーリーをわかりやすくしろよってことにもなるのですが。カンヌ映画祭で、この厄介な人間関係はちゃんと通じていたのかしら、その上で、監督賞くれてるんですよねえ、ホントかなあ。

暗殺者としての技術には長けているインニャンですが、標的に子供がいたりすると情の方が先に立ってしまい、暗殺をためらってしまうことがあります。師匠の道士に言わせると、それではまだ道を究めたとは言えないってことになっちゃうらしいのですが、今度の標的は、かつての許嫁で、さらに子供も3人いるものですから、さらに情が先に立ってしまい、いくらでも殺すチャンスはあるのに、ジィアンにとどめを刺すことができません。さらに、妊娠した側室の命を救ったりしちゃう(これも、側室が助かったのかどうかは映画の中ではっきりしてなくて、なんとなくそう思うだけなんですが)あたりも、暗殺者らしくない、正義のヒロインぶりです。まあ、何が正しくて何が悪なのかよくわからない時代のお話なので、正義のヒロインというのもおかしいのですが、とにかくもミッションに対して葛藤するヒロインをスー・チーは表情を変えずに表現しています。これが女ハードボイルドって感じにならないで、あくまで情のヒロインになっているのは、スー・チーの演技力によるところが大きいです。



この先は一応結末に触れますのでご注意ください。



ジィアンの国は、朝廷との関係がまずくなってきてしまいます。左遷された家臣の言う事聞いとけばよかったって感じなのかな。インニャンは結局ジィアンを殺せなかったことを道士に報告します。子供もいるジィアンを殺せなかったし、朝廷との関係がまずくなって、彼もそう長くないと告げるインニャンに「お前はまだまだだな」みたいなことを言う道士。去ろうとするインニャンに斬りかかる道士ですが、彼女はそれをやりすごします。そして、鏡商人の青年のもとに戻り、彼を送っていくインニャンをロングショットで撮っておしまい。

映像的な面白さは認めるのですが、それがストーリーのわかりにくさを超越するかというと、私にはそこまでのものとは思えなかったので、この映画は、あまり人にはオススメしません。スーチーが魅力的な女優さんであるのは、この映画でも変わりませんし、美術の美しさ、最近珍しいスタンダードサイズの画面など、いいところもいっぱいあるのですが、それらを再確認するためにもう一回観ようかなって気分にはならなかったもので。後、リン・チャンによる音楽も、雅楽と現代音楽をミックスしたような音で、シャープさはあっても、情のヒロインを盛り上げるふくよかさがないのが、私には今一つでした。叙事的というにもスケールの広がりがなくって。でも、カンヌ映画祭の最優秀映画サントラ賞を取ってるんですって。うーん、カンヌってよくわからんわ。でも、評価している人はすごく評価しています。この映画のタイトルで検索したら、絶賛の言葉をあちこちで観ましたから、私の鑑賞力が及ばずということなのでしょう。予告編から、ドラマチックアクションを期待したのが失敗だったのかも。

「カリフォルニア・ダウン」はディザスターとヒーローが4:6くらいの割合で意外と見応えもあり。


今回は新作の「カリフォルニア・ダウン」を109シネマズ川崎2で観てきました。

ネバダ州で大地震が発生します。地震学者のローレンス(ポール・ジアマッティ)は自分の地震予知方法がそれによって裏付けられたと確信します。ロスのレスキュー隊のチーフであるレイ(ドウェイン・ジョンソン)は、ネバダへ向かうことになり、ヘリを修理に行かせるために一人で操縦していたとき、ロスからサンフランシスコにかけて巨大群発地震が発生します。ローレンスの理論はその大規模地震の発生を裏付けていました。ロスにいた離婚調停中のエマ(カーラ・クギーノ)からの連絡を受け、レイは急遽エマの救出に向かいます。崩れかけたビルの屋上からレイはエマを救出するのに成功します。一方、エマの恋人ダニエル(ヨアン・グリフィス)と共にサンフランシスコにいた娘のブレイク(アレクサンドラ・ダダリオ)も大地震に見舞われ、つぶれた車に閉じ込められてしまうのですが、ダニエルはブレイクを置いて一人で逃げ出し、偶然知り合ったイギリス人の兄弟ベン(ヒューゴ・ジョンストン・バート)とオリー(アート・パーキンソン)が彼女を助け出します。ブレイクからの電話を受けたレイは、エマと共にブレイクを救出するために、大きな余震が続くサンフランシスコへ向かうのでした。

ディザスター映画として、世界各国で大ヒットになったそうですが、東日本大地震があった日本では公開が流れそうだったんですって。アンドレ・ファブリツィオの原案を、カールトン・キューズが脚本化し、「キャッツ&ドッグス」「センター・オブ・ジ・アーズ2」のブラッド・ペイトンが監督しました。この手のディザスターものというと、古くは「大地震」「タワーリング・インフェルノ」がありましたし、低予算TVムービーの「大火災」「大洪水」、割と新しめのところでは「ボルケーノ」「ダンテス・ピーク」、ちょっとSFがかってくると「アルマゲドン」「デイ・アフター・トゥモロー」なんてのもディザスタームービーと呼べるでしょう。

この映画では、アメリカの西側にあるサン・アンドレア断層につながるプレートが大規模な移動を起こしたことで大地震が起きたんですって。プレートとか断層とか、子供の頃「日本沈没」がブームになったとき色々と説明を聞いた記憶があるのですが、最近のことはさっぱりで、断層の上に原発があるのはダメじゃんくらいの認識しかありません。(ま、実際のところ、断層の上でなきゃいいでしょって理屈がよくわからないのですが。)ともかくも、その断層に沿って、ロスからサンフランシスコにかけて、大規模な群発地震が起こって、その最大のものがマグニチュード9.6だというから、空前絶後。高層ビルがガラガラと崩れ落ちていく描写はCGによるものですが、なかなかの迫力になっています。映画の後半では、巨大津波がサンフランシスコを襲うのですが、ここは、東日本大地震のあの津波の絵を思い出して、「うわあ」ってなっちゃいました。

主人公のレイは、娘が二人いたのですが、その一人を川下りでの事故で失い、それ以来、夫婦仲も気まずくなって、離婚寸前の状態で、妻にはすでに恋人がいました。そんな状況で、地震が発生し、レイと妻と娘の絆が再生するというお話はよくあるパターンと言えましょう。主人公が人命救助のプロという、特別なスキルを持っているというのは、ヒーローものの典型です。他の人を差し置いて、家族を助けに行くのはいかがなものかという突っ込みが入りやすいところを、この映画では、脚本がうまく回避していまして、自分の家族を助けるという行動に無理がないのですよ。レスキュー隊のチーフが自分の家族を救うために単独行動してるのに、それでも共感できちゃうあたりは、様々な偶然が重なった結果とは言え、うまくできてるなあって感心しちゃいます。レイ一家のドラマを、この大災害で繰り広げられるいくつもの家族のドラマの一つという位置づけにしているのですよ。そうはいっても、ドウェイン・ジョンソンがお父さんですから、普通の展開にはならないんですけどね。

ディザスター映画としての部分は、結構な死人が出ますし、逃げ惑う人の上に、崩れるビルや大津波が襲ってくる描写がかなりリアルで、マジメに作られています。主人公一家が寸でのところで、助かる描写は、あきらかに出来過ぎなのですが、そこはヒーローものとしてのお約束ということもできましょう。それでも、娘が津波の水の中で、懸命に脱出しようとするのですが、力尽きて、父親に「愛してた」と告げるあたりは泣かせるものがありました。ドウェイン・ジョンソンの映画だから、頭使わずにのんびり見られると思っていたのですが、ディザスター映画としてきちんと作られていて、それなりの見応えもあり、クライマックスでは泣かされてしまいました。意外とあなどれないロック様かも。

ディザスター映画というと、オールスターキャストで、グランドホテル形式で色々なキャラクターのドラマが並行して描かれるパターンがあります。「大地震」「タワーリング・インフェルノ」のようなスタイルで、脇役のキャラが印象に残ったり、ドラマとしての厚みがあったりするので、大作映画を観たという満足感があります。その一方で、ヒーローを中心にしたディザスター映画もあるわけでして、「アルマゲドン」ですとかこの映画なんかもそうなんですが、脇役に印象に残る人間を配置できていないのが物足りない印象を受けちゃうってところもあります。冒頭で登場する、主人公の部下とか、後半まで出てくるテレビクルー、さらに地震研究所の助手といったメンツをもっと印象的に描いてくれたら、ドラマとしての厚みが出て、映画を観終わった満腹感も出たと思います。最近の映画って、脇役を生かす演出があんまりされていないように思えるのは、私が単に年をとったせいなのかしら。高いギャラのスターとCGをコントロールするのに一杯一杯で、脇の役者まで手が回らないと言ったら、ひどい言い方になるのかな。

とは言え、1本の映画としては、観ている間はハラハラさせられますし、それなりの感動もありますから、娯楽映画としては、結構いい線行ってると思います。破壊のスペクタクルは、家のテレビよりも、劇場のスクリーンで観るにふさわしく、多少のご都合主義も劇場での鑑賞なら許容範囲と思いますし。ブラッド・ペイトンの演出は、ディザスター大作というよりは、ドウェイン主演のアクションヒーローものという感じで映画をまとめていますが、かなり手の込んだ特殊効果やCGをうまくコントロールしていて、ドラマの流れをイフェクトが妨げることなく、ドラマをテンポよく進めているところは点数高いと思います。シンプルなストーリーで2時間弱を引っ張るパワーは感じたので、またドウェインと組んだ別の映画も期待したいところです。

「ピエロがお前を嘲笑う」を観て思うのは、意外性で売る映画も最近は大変だなあって。


今回は新作の「ピエロがお前を嘲笑う」を桜木町の横浜ブルク13シアター11で観てきました。これ、売り文句が「マインド・ファック・ムービー」なんですって。きっぱり下品。配給元のファントムフィルムは調子に乗り過ぎじゃね?センスいいつもりなのかな。

ハッカー集団クレイのメンバであるベンヤミン(トム・シリング)がベルリンの警察に出頭してきました。自白するにあたっては、停職中のリンドバーグ捜査官(トリーヌ・ディホルム)を指名してきました。ベンヤミンは自分の生い立ちから話し始めます。両親はフランスへと逃亡して、アルツハイマーを発症した祖母と二人暮らしでした。ヒーローになりたいと思いながらピザ屋のバイトをしつつ、同級生のマリへの想いを伝えることができないでいました。彼女のために試験問題を大学のサーバからハッキングしようとしてつかまってしまいます。その罰での奉仕活動をしているとき、カリスマ性を持つ男マックス(エリアス・ムバレク)と知り合います。マックスはベンヤミンのハッキング能力に目をつけ、マックスの仲間に彼を紹介し、4人でハッカー集団クレイを名乗ることになります。システムの穴をついてハッキングをしかけるベンヤミンたちは、メディアの注目を集めるようになりますが、ハッカーからも警察からも無害な小物扱いをされていて、マックスはそれが不満でした。そこで、ベンヤミンは連邦情報局にハッキングしようと提案します。まず、職員のパソコンに潜入し、IDカードを作らせ、監視カメラを操作しながら、サーバ室まで入り込み、自分たちの存在を誇示するメッセージを全プリンタから印刷させるのに成功します。その時、ベンヤミンはデータを盗み出し、自分たちを小物扱いしたハッカー界のカリスマMRXに情報を渡し、存在を誇示しようとしますが、その情報がロシアマフィアへと流れ、ハッカーの一人が殺されてしまいます。結果、クレイがロシアマフィアとつるんで、同類のハッカーを殺したことにされてしまいます。何とかMRXの正体をつかもうとするのですが、逆に彼の罠にはまって面が割れてしまい、ロシアンマフィアに命を狙われることになってしまい、仲間も殺されてしまったベンヤミンは、保護を求めて警察に出頭してきたのでした。

この映画は、宣伝ですごいトリックがあることを売り物にしています。その意外性が「マインド・ファック・ムービー」なる呼称につながっているようなのですが、「シックス・センス」といい「シャッター・アイランド」といい、意外な結末を売り物にした映画って、他のいいところがすっ飛ばかされちゃうこともあったり、映画の内容よりも、前半で結末がわかったなんていう自慢話が幅を利かせたりして、映画の正当な評価がされないことが多いように思います。それでも、その意外性が売り物にしてお客を呼ぶってのは、映画である以上仕方ないのかもしれません。ヒチコックでさえ、「サイコ」でそういう売り方をしているのですから。で、この映画もそういう売り方をしてまして、確かにそこにウソはないのですが、その意外性にカタルシスが薄いので、この映画はそこで語らない方がいいかなって思います。これからご覧になる方は、そこに期待しないことをオススメします。カタルシスが薄いことについては、後述といたします。

バラン・ボー・オダーとヤンチェ・フリーゼによる脚本を、オダーが監督した、ハッカーを題材にした犯罪ミステリーの一編です。ハッカー集団に入ってしまった、ヒーローオタクの若者ベンヤミンが、警察へ出頭して証言する内容が回想形式で描かれます。このての映画が好きな方は「ん、その設定って?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。実際、過去に他の映画で観たような趣向やシチュエーションが色々と盛り込んでありまして、それで先が読めたり、ミスリードされたりしちゃうところがありますから、あまり、他の映画を参考にしない鑑賞をオススメします。

ヒーローになりたいと思っているけど、実際はヒーローオタクである主人公のベンヤミンは、コンピュータ、特にマシン語に強くて、ハッキング能力に長けていました。そんな彼が野心家のマックスに乗せられて、ハッカー集団の一員になってしまいます。このハッカーの世界には、MRXと呼ばれるカリスマみたいなのがいて、みんなは彼に一目置いていました。ハッカーたちが跋扈するサイバー空間とも言うべき場所を、地下鉄の中に仮面の男たちがいるという絵で表現しているのですが、このあたりは、そんな感じが適切な表現なのかどうかは、この手の話にうとい私にはよくわかりませんでした。相手に罠をかけることも、この地下鉄の中で行われるのですが、何で、そういう表現方法になるのかよくわからないまま、半分騙されたような気分で納得してしまいました。ハッキングにくわしい方がご覧になると、あの罠は、実際のコンピュータ上ではこういうことなんだということがわかるのでしょうけど、そこは題材についていけないのが残念でした。

ハッカーたちは、システムの弱点を突いて、情報流出や警告を与えるようなことをしたり、その行動のレベル(迷惑度?)は色々でして、中には営利目的だったり、犯罪そのものをやっちゃうものもいるようです。昔は、システムの上をいくのを楽しむ人間も悪いことをする人間もいっしょくたにハッカーと呼ばれていたのですが、今は、システムを破壊したり、情報を盗んだりする人間はクラッカーと呼ばれて区別され、ハッカーといえば、コンピュータやネットワークの知識に長けた人間を指すようになりました。ベンヤミンのいるクレイがやっていることは、基本的には、ハッキングのいたずらレベルのものなので、犯罪とは一線を画す、いわゆる迷惑行為なのですが、ベンヤミンが盗んだ情報で殺人が行われたことから、物騒な領域へ彼らは足を踏み入れてしまうことになります。

一方で、ベンヤミンは、マリに色々とアプローチをかけてみるのですが、なかなかうまくいかず、彼女の取り巻きにボコボコにされたりして、ハッキングのようにうまくいきません。このマリという女の子がベンヤミンのことをどう思っているのかがよくわからないというのが、後半の伏線として効いてくるところはちょっと感心したのですが、それ以外は、後半へ向けての布石となるものがあまりなかったのは残念に思います。ドラマの前半で散りばめた伏線を回収するという作りになっていないのは、この映画の弱点ではないかしら。前半で伏線を張っておけない事情もあるのですが、それも後述。

演技陣はドイツの役者さんで知らない顔ばかりなのですが、それが却ってドラマに集中できました。捜査官役のトリーヌ・ディルホムは「愛さえあれば」のヒロインですが、今回は別人のようないかついキャラでベンヤミンに翻弄される女性を演じて印象的でした。音楽は、いわゆるテクノサウンドをガンガン鳴らす音楽編成でして、マイケル・カムが音楽としてクレジットされていますが、ボーイズノイズ、ロイヤル・ブラッドといったアーチストの楽曲が映画の要所要所で使われているようです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ベンヤミンはロシアンマフィアに狙われているので、証人保護プログラムを適用して欲しいと言います。ただ、証言の中で、マックスが怪我をした傷がベンヤミンにもあるのをリンドバーグは見逃しませんでした。彼の祖母の主治医に会って話を聞いてみると、ベンヤミンの母親は多重人格の障害を持っていました。それが遺伝性のものであり、覚せい剤のリタリンで増幅すること、さらにベンヤミンがリタリンを常用していたことまでを調べあげ、彼の4人の仲間というのは、彼の中の別人格であることを突き止めます。つまり、マックスやその仲間2人は最初から存在せず、ベンヤミンの中の別人格だったのです。実際、殺されたという仲間の死体は発見されていませんし、マリに話を聞いてみれば、彼とは幼い時以来会ったことがないと言います。こういう病気の場合、証人保護プログラムは適用されないのですが、リンドバーグはベンヤミンに、証人保護プログラムのシステムを操作することを許すのでした。そして、髪の色も変えて別人となったベンヤミンが船上の人となったとき、その横には、マックスとその仲間、そしてマリがいたのでした。ベンヤミンとマックスたちは、自分たちが命を狙われていると知って、ベンヤミンを多重人格者に仕立てて、まずマックスと仲間の存在をなかったことにし、さらにベンヤミンを証人保護プログラムによって、存在を消してしまおうとしたのでした。マリは全てを知って一枚噛んでいたのです。めでたし、めでたし。

多重人格のオチかと思わせておいて、実は、4人の存在を消すための工作だったという二重のオチになっているのは、展開としてはなかなか面白いのですが、物語の前半ではその伏線らしいものは出てきません。工作があくまで、ベンヤミンの面が割れた時点から始まるので、それ以前は全てリアルという設定なのですよ。多重人格オチだと物語の最初から騙されていることになって、その土台を一気にひっくり返すというカタルシスがあるのですが、2つめのオチで、物語の土台は揺るがず、後半ちょこっとだけひっくり返るオチということになり、騙されるカタルシスは半減してしまいました。これは、感じ方の違いだとは思うのですが、もっと前半に伏線を散りばめて、多重人格のオチだけで終わらせてくれた方が映画としてのカタルシスというか満足度があったように思います。2つめのオチをやろうとするのであれば、物語の前半にもトリックをたくさん仕掛けて、偽多重人格とわかったときに、「ああ、あれはこの伏線だったのか」とわかるようにして欲しいと思いました。ただ、それってすごく難しいとは思うのですけどね。確かに2重オチの意外性は面白かったのですが、それが映画全体の面白さにつながなかったと感じてしまったのは私だけかしら。

この映画は、ハリウッドでリメイクされるそうなので、2つめのツイストで、おおっとカタルシスが来る作りにして欲しいなって思います。多重人格オチは、色々な映画で使われ過ぎたこともあって、そのインパクトはかなり弱くなっているように思います。だからこそ、それをもう一度ひっくり返すことをやったのだと思いますが、それによって、騙されるカタルシスが小さくなっちゃうのは、残念な気が。(この映画に、満足された方にはケチつけちゃってごめんなさい)

「ヴィンセントが教えてくれたこと」は後半で不意打ちのように泣かされてしまいました。


今回は、新作の「ヴィンセントが教えてくれたこと」をTOHOシネマズ川崎6で観てきました。ビスタサイズの映画なんですが、シネスコ画面のままの上映。ちょっとしたことなのに、なぜスクリーンサイズを上映サイズに合わせることができないのかな。ちょっと前はやれていたのに。

ニューヨーク、ブルックリン。一人暮らしの偏屈老人ヴィンセント(ビル・マーレイ)は酒とギャンブルに明け暮れ、たまに妊娠中のストリッパー、ダカ(ナオミ・ワッツ)を金で抱くような日々。競馬の借金も抱え、金に困っていました。そんな彼の家の隣に引っ越してきたのが、離婚係争中のマギー(メリッサ・マッカーシー)とオリヴァー(ジェイデン・リーベラー)の親子。学校でいじめられたオリヴァーが、ヴィンセントの家の電話を借りたことから、1時間12ドルで放課後のオリヴァーを預かるようになります。ま、ベビーシッターを請け負うわけですが、ヴィンセントはオリヴァーに喧嘩の仕方を教えたり、バーや競馬場を連れまわしたり、あまり教育上よろしくありません。それでも、オリヴァーのビギナーズラックで万馬券を引き当てたりする一方で、金に困ってオリヴァーの金に手をつけちゃって、競馬ですっちゃったりもします。そんなある日、ヴィンセントは脳溢血で倒れてしまいます。マギー、オリヴァー、ダカもリハビリに協力して、彼は日常生活を送れるまでに回復します。一方、マギーの夫は、オリヴァーの親権を要求する裁判を起こし、そこで、ヴィンセントがやったことが、親権を主張するマギーに不利な証拠となって、結局、親権は半々になってしまいます。オリヴァーは学校で出された課題「自分の身近にいる聖人」の発表の題材として、ヴィンセントを選ぶのですが....。

CMで実績のあるセオドア・メルフィが、自分の体験からインスパイアされて脚本を書き、初の長編映画のメガホンを取りました。原題は「St.Vincent」つまり「聖人ヴィンセント」ということになるのですが、これはオリヴァーの通い始める学校がカソリック校で、聖人についての授業があって、そこで「現代の身近な聖人についての発表」という課題を出されることからきています。このカソリック校がちょっと面白いところで、先生はカソリックなのですが、生徒の宗教はバラバラ、それでも、朝は生徒が順番に彼らなりの祈りの言葉を捧げるというところ。オリヴァーは自分を「推定ユダヤ教」と自己紹介します。みんなそれぞれの神様を持っていて、中には無宗教や無神論者までいる、それらを全て呑み込むことで、学校が成り立っているところに、何かおだやかな微笑ましいものを感じました。この映画には、白黒をつけるとか、決着をつけるということがありません。日々の暮らしの中で起こる様々な事件を、それに抗うことをせずに、呑み込んでいく人間の強さが、おだやかなタッチで描かれていきます。希望に満ちているわけでもないけど、シニカルにもならない、人生をそんなふうに受け止める人々の物語です。最初は起伏のない展開に「ふーん」と眺めていると、ラストでじわじわと来る感動があります。

ヴィンセントは、いわゆる困ったじいさんというか、少なくとも人の模範になるような年寄りではありません。酒、タバコ、ギャンブル、貧乏、ペットは人相の悪い猫、そんな彼が、隣の少年を自給で預かるようになるわけですが、そこで少年のために暮らしぶりが変わるわけではありません。相変わらずダカを家に呼び込んでいますし、オリヴァーを競馬に連れて行っちゃうし、オリヴァーがあてた賞金に手をつけて、結局すってしまったり、その行動は共感を呼ぶものではありません。ダカのお腹の子供の父親は誰か最後までわからないのですが、ヴィンセントとダカはうまが合うのか、彼女はヴィンセントの客としてだけではなく、友人として、リハビリにも付き合います。隣人だから、お客だからというだけで、変わり者の老人の友人として付き合うというのは、よく考えると不思議な気もするのですが、そんな関係が自然とおだやかに築かれていくところがこの映画のいいところです。ダカは、大きいお腹を抱えてストリッパーをクビになってしまい、金に困っていますし、マギーも裕福でなく、ヴィンセントも貧乏なんですが、それでも、友人としての距離感は壊れません。

オリヴァーは、父親が浮気をして、母親との二人暮らしになっていることは知っているのですが、父親のことをそんなに嫌いなわけでもありません。メリッサからすれば、親権を取り合う相手としてのダンナは悪役なのですが、オリヴァーにとっては父親は父親なのです。ヴィンセントは親権裁判では、メリッサに不利な証拠になっちゃうのですが、オリヴァーにとってはヴィンセントは、悪い人ではありません。じゃあ、他のことを捨ててもヴィンセントを擁護して、彼のそばにいたいと願うのかというと、そこまでは思っていません。そんな感じで、一つの価値観で割り切らないところがこの映画の見識となり、そういうものの見方が、ラストの「聖人ヴィンセント」へつながるところに、この映画の持つ力があり、クライマックスでは、私は不意打ちを食ったように泣かされてしまいました。

演技陣では、ビル・マーレイが結構困ったじいさんを飄々と演じていまして、決して、いい人にもならないし改心もしないけど、「聖人ヴィンセント」なのだというところを説得力のある演技で演じ切りました。アクの強いキャラのイメージが強いメリッサ・マッカーシーは、プレシングルマザーとして、リアルな存在感を見せて見事でした。また、こんな映画のこんな役になぜ?と思わせるナオミ・ワッツの腹ボテストリッパーは、女性としての強さと弱さをきちんと表現して、役者としての力量を感じさせてくれました。オリヴァーを演じたジェイデン・リーベラーは子役でありながら大変抑制のとれた演技で、子供らしさを失わない一方で、大人とのやりとりが浮き上がらないところがうまいと思いました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ヴィンセントには、サンディという奥さんがいるのですが、痴呆症で、ダンナの顔もわからない状態で、施設に入院していました。そこへケアの手厚い施設なのですが、料金も高く、その払いがたまっていて、別の施設へ移すことを勧められていました。そして、脳溢血で入院している間に、サンディは亡くなっていました。遺灰を抱いて自宅へ帰るヴィンセント。メリッサは裁判で親権で半々となり、さらにメリッサの家にいる間は父親の送り込んだベビーシッターがつくことなり、オリヴァーはヴィンセントに別れを告げます。一方で、オリヴァーは、「身の回りの聖人」の発表会の題材にヴィンセントを選びます。彼が捨てた写真などをゴミ箱から拾い集め、バーに行って彼についての情報を集め、ダカにもインタビューし、発表の準備を進めます。そして、発表の当日は、ダカが産気づいたふりをしてヴィンセントを学校まで連れ出します。そして、ヴィンセントが昔、喧嘩の日々を送っていたが、ベトナム戦争では戦友の命を救ったことを発表するオリヴァー。ヴィンセントは寛大で、他人のことを思う聖人だというのは、平素の彼からはそうは思われないので、詭弁のようにも見えてしまうのですが、でも見方を変えれば、彼の行動を聖人と表現することができるというところに、この映画の感動があり、泣かせるツボがあります。聖人のメダルをヴィンセントの首にかけて「ありがとう」と言うオリヴァーに、「ありがとう」の言葉を返すヴィンセント。そして、ダカとヴィンセントは一緒に暮らすようになり、ダカはかわいい娘を出産します。ヴィンセントの家で、一緒に食事をとる、メリッサ、ダカ、オリヴァーと同級生。暗転、家の裏庭で、ウォークマンで歌を口ずさみながらタバコをふかすヴィンセントの姿にエンドクレジットがかぶさります。

ダカの子供の父親は誰なのか、ギャンブルの借金はどうなったのか、細かいことは置いといて、なんとなく全ておさまるところへおさまったような、おだやかなエピローグにはじわりとくる感動があります。よく考えるとかなり楽天的なハッピーエンドではあるのですが、それまでのおだやかな展開が、このそこそこの幸せに軟着陸するのがすごく自然に感じられるのは演出のうまさなのでしょう。愁嘆場を一切見せない見識が、ヴィンセントが聖人だなんてウソみたいな話も、そこそこの不幸と幸福も全て呑み込んで、一本の心地よい娯楽映画としてまとめあげていると思います。

「ローラ殺人事件」は殺人ミステリーに恋愛映画としての面白さもあり、小品のようで見ごたえ十分。


部屋を整理していたら、未開封の500円DVDが出てきました。タイトルは「ローラ殺人事件」。監督は「バニーレークは行方不明」のオットー・プレミンジャーではありませんか。これはチェックしなくては。まあ、500円だけあって、画質ははっきり言って悪いです。アカデミー撮影賞を取った映像を堪能するには至りませんでしたけど、これはこれで楽しめました。

有名なデザイナーであるローラ・ハント(ジーン・ティアニー)が、金曜日の夜、自宅で散弾銃で惨殺されてしまいます。警察のマクファーソン刑事(ダナ・アンドリュース)が捜査のために関係者に事実聴取をしています。ローラを一流の女性に育てた有名な批評家ウォルド(クリフトン・ウェッブ)は、ローラが若いシェルビー(ヴィンセント・プライス)と婚約したことを苦々しく思っていました。婚約者のシェルビーはローラがいるにもかかわらず広告モデルのダイアンと浮気をしていました。ローラの叔母アン(ジュディス・アンダーソン)は、シェルビーに金を与え、彼の気を惹こうとしていました。それぞれに怪しいところはあるのですが、ローラを殺したとする決め手に欠けていました。ローラの家には、彼女の肖像画が飾ってありました。聞き込みによるローラの人柄とその美貌が、マクファーソンの心を捕えたのか、彼はその絵を購入しようとしていました。事件は犯人の決め手を欠いたまま、月曜の夜を迎えます。彼女の家では、マクファーソンがローラの日記や手紙などを調べつつ、犯人につながるカギを探そうとしていました。

1944年の映画ということですから、日本で言う戦時中の映画ということになります。ヴェラ・キャスパリーの原作を、サム・ボッフェンステイン、ジェイ・ドラットラー、ベティ・ラインハートが脚色し、「バニーレークは行方不明」「危険な道」のオットー・プレミンジャーが監督しました。前半は殺人事件の捜査もののように展開しながら、だんだんと被害者のローラという女性の存在感が増していき、彼女のヒロインの映画として収束していくというお話は、今なら2時間ドラマのネタになりそうなミステリーなんですが、ジーン・ティアニーの魅力と、ダナ・アンドリュースの刑事の扱いの面白さで、今でも劇場で鑑賞するに足る映画として成り立っています。

マクファーソンのウォルドに対する聞き込みで、殺されたローラという女性がどういう人だったのかというところが見えてくるのが前半でして、広告デザイナーとして、ウォルドに広告コメントを強引に求めてくるキャラとして登場するローラが、ウォルドの目に止まったことで、彼のセンスや人脈を味方につけて、広告業界でのし上がっていきます。でも、ウォルドは、嫉妬深くて、ローラの肖像を描いた画家が彼女に接近するとその画家を批評でこてんこてんにけなしたします。次に、彼女に接近してきたシェルビーに敵意を見せるのですが、シェルビーはローラと婚約し、来週には結婚すると言い出すのです。そこで、ウォルドはシェルビーについての調査書を見せて、こいつはこんな奴だぜ、さらにモデルのダイアンとか、ローラの叔母のアンとも関係があるんだぞと言って、結婚を思いとどまるように説得します。それが功を奏したのか、アンは週末に実家でじっくり考えると言っていたのですが、その夜に殺されてしまったのでした。ローラを演じるジーン・ティアニーが自立しているようで、どこかかよわげなところもあるヒロインぶりで魅力的でした。才能もあって押しの強さもあるヒロインだけに、現代だともっとタフなキャラになりそうなところを、どこか守ってあげたい感じに描かれている、その今風でないところが魅力があるというべきかしら。ファム・ファタール的な展開にもなるのですが、悪女でも蓮っ葉でもないヒロインぶりは、運命の女というのとは一味違う感じがします。複数の男心を翻弄するヒロインだけど、ワルじゃないってところは、原作や脚本に女性が参加しているせいかもしれません。

最初は狂言回し的なポジションだったマクファーソン刑事がドラマの中心になっていくあたりは意外性がありましたし、被害者として登場するローラの存在感がドラマの展開とともに増していくあたりはうまいなあって感心しちゃいました。プレミンジャーの演出は、何で前半で彼女のキャラクターを丁寧に説明するのかと思っていると、きちんと彼女がドラマのヒロインとなっていくあたりの手際が見事で、ミステリーとしても、一風変わったラブストーリーとしても見応えのあるものに仕上げています。また、デビッド・ラクシンによる、この映画のテーマ曲がなかなか有名で、色々な歌手が歌詞をつけてカバーしているんですって。私もこの映画のタイトルテーマを聞いたとき、どこかで聞いたメロディだなって思いましたから、映画音楽としてメジャーな曲なのでしょう。



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捜査の間にいつしか、ローラを愛するようになっていたマクファーソン刑事。死人に恋なんて変態じゃねえ?ってなるところですが、ローラの家で、彼女の肖像画を見つつ、うとうとしていた彼の前に突然死んだ筈のローラが現れます。実際に彼女は実家に帰って、シェルビーとの結婚について考えていたというのです。そして、彼女は自分の家のクローゼットにダイアンの服が入っているのを発見します。どうやら、犯行時間に、留守になっていたローラの家に、シェルビーとダイアンが入り込んでいたようなのです。そして、散弾銃で殺されたのはダイアンだったのです。散弾銃を顔面に食らい、ローラの部屋着を着ていたことから、ローラが被害者のように思われていたのです。ローラからシェルビーとの結婚は思いとどまると聞いて、顔につい笑みが出てしまうマクファーソン。それでは、ダイアンを殺したのは誰なのか。マクファーソンは、ウォルドの家の時計に隠し物入れがあるのを見つけ、ローラの家に同じ時計があることから、そこを開けてみると、散弾銃が隠されていました。嫉妬に狂ったウォルドが、ローラを殺すために彼女の家に行き、そこで間違えてダイアンを殺してしまったのです。それを確信したマクファーソンはウォルド逮捕に向かうのですが、ウォルドはローラの家に隠れて、再度ローラを殺そうと銃口を彼女に向けます。危機一髪のところで、逃げ出したローラは、戻ってきたマクファーソンの腕の中に逃げ込み、ウォルドは他の警官に撃たれて絶命するのでした。おしまい。

それまで、死んだと思っていたローラが突如マクファーソンの前に現れる展開には意外性がありました。まあ、これはジーン・ティアニーのスターバリューを私が知らないからかもしれません。知った人が見れば、タイトルトップのティアニーが死んだままでいることはあり得ないってことになるのかもしれません。それからが面白いのですが、そんなローラがマクファーソンに恋するようになっちゃうのですよ。後半の物語のツイストの後から、突然、ローラとマクファーソンが恋愛関係になり、お互いが少しずつ自分と相手の気持ちを確認しあうのを、短い時間の中でちゃんと見せるのには感心しちゃいました。別れ際に二人がキスするシーンの妙な説得力は、現代の映画では出せない味わいだと思います。ローラを、男を乗り換えてばかりいる尻軽女みたいに見せない演出もうまいと感心しちゃいました。ローラは惚れっぽいタイプだけど、男運がない女性という描き方になっていまして、果たしてマクファーソンと結ばれるのがハッピーなのかどうかは怪しいものなのですが、ミステリーの落とし方としては、これはありだと思いました。

いかにも堅物刑事として登場するマクファーソンが、いつしかローラを、それも死んでる彼女を愛するようになるという倒錯した愛情が、どんでん返しによって、今度は、刑事と容疑者の立場を超えた恋愛模様となり、彼女の無実が証明されるラストで、初めて二人がキスを交わすなんてあたりは、ひねった恋愛映画としても、きちんと成立していました。意外性のあるミステリー映画としてもきちんとしていますし、普通の映画の倍のネタを取り込んで、1時間半弱の映画にまとめているってのは、すごく完成度の高い映画ではないかしら。登場人物が少ないにもかかわらず、犯人探しミステリーのテイストもきっちり作り込んでありまして、ヒチコックの映画や「バニーレークは行方不明」のようなケレン味はないものの、娯楽映画としての点数はかなり高いと思いました。

「イタリアは呼んでいる」はコメディアン二人が笑いをとるけど中身はないぞ。いや、あるのか?


今回は東京での公開は終了している「イタリアは呼んでいる」を静岡の静岡シネギャラリー2で観てきました。静岡の映画ファンにとってのオアシスになっているシネギャラリーですが、静活が映画ファンに背を向けてしまった、この棲み分けってのは、静岡にとっていいことなのかしら。昔、アートシアターミラノの大画面で色々なアート系映画を観た自分としては、どっか納得できないよなあ。まあ、私は静岡市民じゃないし、市民税も払っていないのですけど。

コメディアンのスティーブ・クーガンとロブ・ブライドンが雑誌の企画で、イタリアのグルメ旅行に出かけることになります。二人はミニ・クーパーでイタリアの有名レストランとホテルを巡っていくことになります。また、サブテーマとして、詩人バイロンとシェリーの足跡もたどる旅となります。二人は軽口を叩きつつ、持ちネタの物まねをしながらの珍道中となります。行く先々のレストランでは、土地土地の料理に舌鼓を打ち、豪華なホテルを満喫し、バイロンやシェリーに思いを馳せつつ、アラニス・モリセットのCDを聞きながら1週間の旅は夢のように過ぎていくのでした。

スティーブ・クーガンとロブ・ブライドンが実名で登場しつつ、二人以外の人間は役者が演じるという形で作られたドラマですが、脚本家はクレジットされておらず、「日陰のふたり」「天使が消えた街」のマイケル・ウィンターボトムが監督としてのみクレジットされています。ですから、ちょっと見は、ドキュメンタリー風の作りになっています。でも、クーガンの息子も妻も本人では役者が演じていますから、きちんとフィクションとしての作りこみはされています。でも、シナリオに沿ったセリフを二人が話しているようにも見えません。そういう意味では、ドラマではあるのですが、ドラマとしての要素が大変少ない映画になっています。だって、主人公二人がくっちゃべりながらご飯食べるのを延々と追ってるだけなんですもの。そのしゃべりの方がメインという感じなんですよ。ちょっとした女性とのアフェアですとか、息子との関係とかサブプロットは登場するものの、メインプロットは二人がずっとしょうもないことを言い合ってるだけ。例えば、最初の食事のシーンでは、ミニクーパーから「ミニミニ大作戦」の話になり、そこからマイケル・ケインのものマネになり、なぜかバットマンの「ダークナイト・ライジング」の話になり、さらに、クリスチャン・ベールとトム・ハーディの滑舌が悪いという話に発展して、悪趣味ものマネになっていくのですが、これをヒトネタまるまるやるという演出は、料理人や調理過程をちょっとだけ見せて後は、二人のトークで映画を作っちゃったという感じなのですよ。だから、言い方は悪いけど、この映画、ほとんど内容がないです。映画ジョークの元ネタをたくさん知ってるとたくさん笑えます、それ以外は何もない映画だと言っちゃっていいと思います。いや、そう言い切っちゃよくないのかな。

これが、クーガンとブライドンの素顔を見せている、セミドキュメンタリーなのだというのなら、コメディアンの実相に迫る映画ということもできそうなのですが、どう見ても、主人公二人はコメディアンを楽しんで演じているようにしか見えません。バカを言ってるのも、持ちネタをやるのも、自分の仮想されるキャラクターを演技しているという感じなのです。監督のウィンターボトムと主演の二人がああだこうだと言いながら、セミドキュメンタリー風ヤラセを積み上げたというのがホントのところではないのかしら。いや、ひょっとしたら、全シーン、きっちり台本どおりに、テークを重ねて作ったのかもしれない。そもそも、そのあたりのところを詮索することがすごく無意味なことかもしれない。だって、内容的にどーでもいいような映画なんですもの。

そんな中で、レストランとホテル、そして美しい景色は本物です。つまり、旅ものとしては、ホントのところとして作っているのです。で、それ以外のものについては、詮索するのも野暮なくらいに、適当に作られているのではないか。いやいや、ここに旅があるのなら、人生があって、バディムービーとして、この映画はちゃんと作られているのだということもできます。いやいや、ジョークを連ねたコメディとして楽しむのが正解なのだというのもありかも。そういうことを考えずに、この映画の上映時間を楽しめればそれ以上でもそれ以下でもないというのも一理あるぞ。

というわけで、この映画はどういう映画かは、大体伝わったのではないかと思うのですが、それ以上の解釈を加えるのがすごく難しい映画なんです。そもそも解釈を加えることが野暮じゃないかって気がしてくる映画はそうはないですもの。マイケル・ウィンターボトム監督の映画って、「ひかりのまち」とか好きですし、「アイ・ウォント・ユー」なんかすごく好き、「日陰のふたり」はえらいものを観てしまったという後味だったり、「ウェルカム・トゥ・サラエボ」は何とも言えない後味でしたと、つかみどころのない監督さんだというイメージがあります。そんな監督のフィルモグラフィにこの映画が追加されることで、ますます訳の分からない監督さんになりそうです。

「天使が消えた街」はミステリーかと思ったら、妄想とコカインと「神曲」の映画でした。


今回は新作の「天使が消えた街」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。駅に近い映画館として、いつもお客さんが入っている映画館。会員割引の制度もありがたいところです。

2007年イタリアのシエナで起きた女子大生殺人事件を映画化すべく、映画監督のトーマス(ダニエル・ブリュール)は取材にやってきます。事件の本も書いているシモーン(ケイト・ベッキンセール)の協力を得て、シエナへと向かいます。イギリス人留学生だったエリザベスが共同で借りていた部屋で惨殺されたのです。容疑者として、ルームメイトのジェシカ、その恋人のジョゼフ、そしてバイト先のバー経営者が逮捕され、裁判で係争中でした。事件は、容疑者である美人学生ジェシカに注目が集まっていて、彼女についてのスキャンダラスな報道がテレビや紙面をにぎわわせていました。トーマスは、検事などの関係者に取材を始めます。裏社会に通じる金持ちブロガー、エドゥアルド(ヴァレリア・マスタンドレア)は、何か知っているかのようにジェシカは無罪だと言い切ります。映画のプロダクション側は殺人事件を扱ったスリラーを求めていましたが、トーマスはなかなか脚本が書けません。彼は別れた妻との間で娘ビーの親権争いの真っ最中でした。トーマスはダンテの「神曲」を読み、それを題材にして映画化をしようと考え出すのですが、何しろ事件の真相が判明していない係争中の事件でもあって、どう映画としてアプローチしてよいのか頭を悩ませます。彼は現地の留学生メラニー(カーラ・デルヴィーニュ)と知り合いになり、彼女のつてでコカインを買い、それに頼るかのように事件に迫ろうとするのですが。

映画を観終わってプログラムを読んでから知ったのですが、この映画には元ネタがありまして、それは2007年に起きたイタリアのペルージャで起こった、イギリス人女子学生が自室で惨殺された事件です。その事件では、ルームメイトとその恋人、さらに顔見知りのコートジボワール人が逮捕され、最初の裁判では3人に禁固刑が言い渡されています。ルームメイトと恋人は控訴し、2011年に逆転無罪となっていました。この事件をもとに、フィクションとしての物語を構築し、そのフィクションの中で、その事件をフィクションとして映画化しようとするというお話になっています。「ペネロピ」などのポール・フィラガーが脚本を書き、「パラダイス・キス」「グアンタナモ」のマイケル・ウィンターボトムが監督しました。

映画監督のトーマスは、私生活で奥さんが浮気してさらに娘の親権がとられそうで、仕事的にスランプ状態。この企画で起死回生を狙って、イタリアまでやってくるのですが、事件の実相がなかなかわかりません。マスコミは外国人の美人容疑者のスキャンダラスな噂で騒ぎ立てていますし、捜査のずさんさもあって、彼女が本当に犯人なのかどうかもはっきりしないまま、一審、控訴審と裁判は進んでいました。そんな中で、トーマスはエドゥアルドと関わるうちに、彼が事件の真相に関わっているのではないかという妄想(?)を抱くようになります。映画の中で、彼は事件に深く関わっているようなシーンが登場するのですが、それはトーマスの夢だったりします。夢と現実が交錯する中で、彼はコカインの力もあって、事件の不思議なパズルの世界に取り込まれてしまいます。まあ、こう書くとかっこいいんですが、要は、仕事に行き詰って、コカインをやって、どんどん訳がわからなくなっていくって感じなんです。マスコミのような事件へのゲスなアプローチを潔しとしないトーマスですが、だからと言って、理知的に事件に迫ろうという気もなさそうで、読んでいる「神曲」と夢に出てくるエドゥアルドとコカインに解を求めようとするあたり、何だかやる気なさそうにも見えます。それよりも自分の娘の親権の方が彼にとっては大事なんだから、脚本なんか進まないのはさもありなんな状況なのです。

ただ、このエドゥアルドというのもなかなかの曲者でして、彼の書くブログは世間にそれなりに影響力を持っているようで、さらに裏事情にも、くわしく、トーマスに事件の真相だという脚本を読ませたりします。その脚本の横に凶器と思しきナイフを忍ばせたりして、トーマスをほんろうします。トーマスの夢のシーンの展開もあって、観客もこの男が事件を何か知っているように思えるあたりは演出のミスリードなのかも。ともあれ、映画は、主人公の内面世界を描きながら、あえて客観的に事件の実相に迫ることはしない展開となっていて、最初は、殺人事件を扱ったミステリーみたいなのですが、そういう話ではないことがわかってきます。それよりも、主人公が事件の中から、何をくみ取るのかというのがメインになっているのは、後半になってわかってきます。後半になると幻想的な絵とか、主人公の心理を映像化したものが多数登場してきて、「ん?これは何なのかな」と思わせるところもあるのですが、最後まで観ると、ああそういう感じなのかなって腑に落ちる気分になります。とは言え、私は悲しいかな「神曲」を読んだことがないので、トーマスの思うイメージにまで肉薄することはできませんでした。ダンテの「神曲」ってのは、向こうの人にとっては基本的な教養なのかしら。そこのところで、この映画はかなりハードル高いとも言えましょう。

演技陣は脇役にいたるまで、みないわくありげな印象的な演技で、ドラマを支えています。見たような顔をたくさん見かけたのですが、どうやらそれは気のせいみたいで、それだけ演技陣の印象が強かったということだと思います。特に現地留学生を演じたカーラ・デルヴィーニュは、絶対どこかで観たことあると思ったのですが、本格的な映画出演はこれが初めてということでびっくり。音楽は、ハリー・エスコットという人が担当しているのですが、既成曲がたくさん使われているようで、一番情感の高まる部分では、マックス・リヒターの「ディスコネクト」のテーマとしても使われた曲が流れます。サントラ盤も出ているようなのですが、エスコットの曲がどの程度ドラマに貢献しているのか気になるところです。



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トーマスの妄想がこうじて、エドゥアルドの脚本と一緒にあったナイフが事件に関係あるに違いないと思うようになり、エドゥアルドのもとからナイフを盗み出したりするのですが、それはエドゥアルドに見透かされていました。そして、控訴審の判決が下ることになります。被害者エリザベスのルームメイト、ジェシカとその恋人ジョゼフは無罪となります。群衆から非難を浴びるジェシカとその家族。一方で、悲しみの会見をするエリザベスとその家族。そして、トーマスはエリザベスの恋人だった男性にインタビューに行きます。エリザベスのことをごく普通の娘だったと語る恋人の姿に、トーマスの中でイメージが固まってきます。しかし、映画の企画そのものが流れてしまいます。そして、トーマスのたどり着いた映画は、エリザベスをヒロインとして彼女の日々を描き、、彼女の死後の父親の語りとエリザベスの姿がオーバーラップするものでした。イメージカットのエリザベスのアップから暗転してエンドクレジット。

娘を想う父親としてのトーマスの気持ちが、そのまま、彼の映画のイメージに反映されて、娘を失った父親の想いへの共感が加わって、最後は、殺されたエリザベスの物語として、トーマスの映画は完成されたという見せ方になっているのには、なるほどの納得感がありました。それまで、スキャンダラスな容疑者ジェシカの物語であった事件が、平凡なヒロイン、エリザベスの死の物語として切り取られるあたりに、この映画の面白さがあるように思いましたが、それにいたる過程が、妄想とコカインによるものであったというのは、ちょっと残念なような気がしました。主人公であるトーマスに全然感情移入できなくて、こいつが見つけた物語にそれほどの価値があるものかなって気もしちゃったのですよ。まあ、トーマスの人物描写は、演出が狙ってやっていると思えるところがあるので、そういう映画なんだと思うしかないのかな。と、そこで「神曲」ですよ、と言いたいところなのですが、知らないものを評価できないのが、私にとってはちょっと悲しい鑑賞になってしまいました。とは言っても、文庫本であんなに厚い本を読む気力も起きないんですよねえ。あ、「神曲(まんがで読破)」って本があるぞ、うーむ.....。

「ted 2」は続編としてはアベレージかな、前作ほどの期待はしない方が。


今回は、銀座のTOHOシネマズ日劇1で新作の「ted 2」を観てきました。R15指定で子供が観られないというのは、日本での公開ではかなり不利な条件になるのですが、日劇1での公開ということはそれだけお客が入ると読んでいるってことなのかなあ。

ジョン(マーク・ウォールバーグ)の8歳の時のクリスマスプレゼントだったテディベアのテッド(セス・マクファーレン)が口をきくようになってから早幾星霜。ついに、おなじレジ打ち仲間のタミ・リン(ジェシカ・バース)と職場結婚までしちゃいました。一方のジョンは前作の彼女ロリーと結婚したもののあえなく離婚で落ち込んじゃっています。そして、1年後、テッドとタミ・リンの夫婦仲が今一つうまく行ってません。職場の同僚から「子供を作ればいいのよ」と言われて、なるほど、テッドはタミ・リンに「子供を作ろう」と伝えれば夫婦仲は復活。そこで、サム・ジョーンズやトム・ブレイディの精子をもらおうとして失敗、結局、ジョンの精子でタミ・リンに受胎させようとするのですが、タミ・リンの子宮はクスリとハッパのやり過ぎで使い物にならないことが判明。養子をもらおうとすることになるのですが、ここでテッドが人形であることがネックになって許可が下りません。それどころか、それがきっかけとなって、口座やカード、果てはタミ・リンとの婚姻関係まで無効だという通知が届いてしまいます。そこで、市民権を得るための訴訟を起こそうと弁護士事務所を訪ねると、所長の姪っ子の新人弁護士なら勉強のために無料で弁護させようということになります。その弁護士サマンサ(アマンダ・セイフライド)は、事務所で水パイプ吸ってるトンデモキャラですぐにテッドたちと意気投合。果たして、テッドは市民権を得て、再びタミ・リンと夫婦の関係になれるのでしょうか。

前作の「テッド」と同じく、セス・マクファーレンがアレック・サルキンとウェルズリー・ワイルドと共同で脚本を書き、監督と共同製作と主演(声と動き)までしてますから、かなり彼のワンマン映画になっていると言えそうです。言葉をしゃべるテディベアという設定ながら、オヤジ声でハッパをやめられないという下品キャラのギャップでまず笑えた「テッド」でしたけど、その設定ありきで始まる続編ですから、その設定だけでは笑いをとれないので、今度はどういう趣向を盛り込んでくるのかというところが興味がありました。下品ネタと映画ネタを今回は数を一杯盛り込んで笑いをとってくるそのパワーに感心しましたが、そこは玉石混交の感はありまして、その昔のZAZの「フライング・ハイ」シリーズを思いだしました。(もう知ってる人も少ないのかな、ギャグの物量作戦で来るパロディ映画の数々)

数打ちゃ当たるネタの中で面白かったのは、サマンサが「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラムに似てるというネタ。確かにアマンダ・セイフライドは、よく見りゃ似てるなあって納得。それ以外にも身障者ネタとか、ジョンとテッドの間でかっこ悪い写真を撮りあってはSNSに載せるとか、F・フィッツジェラルドは、なぜFを略しているのかとか、バカバカしいところが笑えました。向こうの映画やテレビを知らないとおかしさがわかりにくいネタもあって、まあ、そこは仕方ないよねって感じでしょうか。

小ネタの方はさておき、メインとなるのは、テッドが市民権を得られるのかというところ。ここでは裁判シーンを意外とマジメに取っているところがありまして、最初の対マサチューセッツ州の裁判では、いいところまでいきかけるのですが、最終的にテッドは敗訴してしまい、彼は市民ではなく、誰かの所有物ということになっちゃいます。ここに黒人が市民権を得ようとして敗訴する判例を挙げるのが面白いと思いました。当時としては、それが当たり前とされたことが今は誤りであるとされるのは歴史が証明しています。テッドもこの後の歴史の中で、市民権を得ることが当然となるであろうという論陣を張るのですが、テッドがおもちゃであることを州側の弁護士に論破されてしまい、結局、テッドは人間じゃないおもちゃだから市民権はないということにされてしまうのです。この結果に、テッドたちは人権派の有力弁護士ミーガン(モーガン・フリーマン)のところへ相談に行くのですが、彼は、テッドの品行方正と言えない行動の数々を挙げ、テッドに市民権を与えようという感情に訴えることができないというのですよ。なるほど、世間の感情を味方につけないと裁判に出ても勝てないというのは、確かに説得力があります。でも、品行方正でないと基本的人権が保証されないってのはおかしな話でもあります。これは、ラストで丸くおさまるのですが、法の公平ってのを考えれば、市民権がその人の素行に左右されるってのは、認めにくいけど間違いだと思います。そういう意味では、結構いいところ突いてるところもある映画です。

とは言え、娯楽映画としての出来栄えは、残念ながら前作には及ばないという印象でした。前作では、ジョンのラブコメ部分が丁寧に描かれていて、そこが好きだったのですが、今回のジョンとサマンサの恋愛模様はあっさりしすぎていますし、テッドが前作と同じようにドニー(ジョバンニ・リビシ)に誘拐されるというのも、取ってつけたようでクライマックスとしても盛り上がりを欠いたように思います。中盤が長いと感じてしまいましたから、こういう映画の続編は90分くらいにさくっとまとめた方がいいのではないかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



最初の裁判では敗訴してしまうテッドですが、有名な人権弁護士であるミーガンに会うためにニューヨークに向かいます。このころには、ジョンとサマンサはいい雰囲気になっています。しかし、ミーガンにテッドの弁護は断られてしまい、やけになったテッドは、いい感じになっているテッドとサマンサを置いて、一人で街に飛び出し、偶然見かけたコミコンに入ると、そこまでずっと尾行してきたドニーに捕まりそうになります。ジョンに電話して助けを求めるテッドですが、そこをドニーに捕まってしまいます。ドニーは、テッドの仕掛けを知って、大量生産しようと企み、彼を解剖しようとします。ギリギリのところで、ジョンがテッドを発見、テッドは無事に救われます。しかし、ドニーはテッドを狙って、展示品のエンタープライズ号をぶつけようとしますが、ジョンが身を挺してテッドを守り、ジョンは展示物の下敷きになってしまいます。意識のないジョンを気遣うテッド、その姿が撮影され、全世界に流れます。病院へ運び込まれるジョンですが、命をとりとめます。そこへ、ミーガンが現れて、ジョンを気遣うテッドの姿を見て、弁護を買って出ることになります。ミーガンの弁護によって、テッドの市民権は認められ、テッドはタミ・リンに再プロポーズ。結婚後、養子をとり新しい生活が始まるのでした。めでたし、めでたし。

一応ハッピーエンドなんだけど、ハッパばっかやってる父親では、親権取り上げられちゃうかも。人権とは何じゃろなというところでいいとこ突いても、結局は下品なオヤジでしたというオチがつくのは、こういう映画のお約束かも。しかし、テッドに市民権をというのは、人間が一番偉いというのがその裏にあるんですよね。格が一番上の人間並みにしてくれって話ですもの。テッドが、テディベアとしては、社会に認知されないってところは、この映画のちょっと面白い視点だと思います。ピノキオは人間になりたがるのはなぜか、テッドが人間並みになりたがるのはなぜか、それはお話を作った人が人間が一番偉いからだと思っているからではないかしら。テッドは、裁判前は、銀行口座もカードもピザの会員権も持っていたのですから、その状態がベストではないのかなあ。法廷で、人権があるのかないのか争わないと気が済まないところに、日本人と違う、向こうの人の価値観が入ってるって気がしました。白黒つけることや正義にこだわる気質のない日本人なら、まあ本人が人格あるって言ってるならいいじゃんという落としどころになりそうです。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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