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「アデライン、100年目の恋」は美形ヒロインと怒涛のラストにインパクトあり。


今回は、新作の「アデライン、100年目の恋」を川崎の川崎チネチッタ1で観てきました。ここはチネチッタでも1番小さな劇場なんですが、最後列でないとスクリーンが大きすぎて見づらいという変な作りの映画館。今風のシネコンではまずお目にかかれない劇場になってます。

1908年生まれのアデライン(ブレイク・ライヴリー)は、結婚して娘ももうけたのですが、夫を事故で失い、29歳の時、彼女自身も車を運転中、川に落ちて死にかけます。その時、彼女に稲妻が落ちて、大復活。さらにその副作用で歳をとらなくなってしまいました。最初のうちは、同世代から若いわねえって言われるくらいだったのですが、政府関係者に目をつけられ、拉致されそうになったので、身を隠し、娘とも別れ、名前を変えては、国内を転々として暮らしていました。そして、2014年、彼女はジェニーとして、サンフランシスコで図書館職員として働いていました。ホテルのニューイヤーパーティでエリス(ミキール・ハースマン)と知り合いになります。実は、エリスは図書館の理事で、以前から彼女を知っていて、猛烈にアプローチをかけてきます。もう、次の名前と暮らす土地を決めていたアデラインは、エリスと距離を置こうとするのですが、彼女自身もエリスに魅かれ始めていました。彼の家に招かれたデートで結ばれた二人。エリスは、自分の両親の結婚40周年のパーティにアデラインを招きます。しかし、アデラインを見た、エリスの父親ウィリアム(ハリソン・フォード)の顔色が変わりました。彼女は、ウィリアムが昔愛した女性の生き写し、というか、その当人だったわけですが.....。

J・ミルズ・グッドルーとサルヴァトーレ・パスコヴィッツの脚本を、「セレステ&ジェシー」のリー・トランド・クリーガーが監督した、恋愛ファンタジーの一篇です。オープニングで、偽のIDカードを受け取る謎の美女が登場するので、ミステリータッチの映画かと思いきや、そこで彼女の素性や不老になっちゃった経緯がナレーションと回想シーンで語られます。一度は停止した心臓が落雷でよみがえるなんて、フランケンシュタインかジェイソンみたいなんですが、このあたりの語り口は大まじめ。その蘇生の過程で、遺伝子に異常が起きて、歳をとらなくなっちゃったんですって、へえー。でも、それって周囲から見たらすごく変。FBIにまで目をつけられて拉致されそうになった彼女は逃走。名前を変えながら、アメリカを転々としていたのでした。なるほど、昔のテレビ映画「逃亡者」のパターンですね。行く土地土地での出会いと別れのエピソードをつなげばテレビシリーズにもできそうなお話です。歳をとらない歴史の目撃者ということでは、SFテレビ映画「タイムトンネル」みたいなシリーズにできそうな感じ。もう、おばあちゃんになっている娘のフレミング(エレン・バーンステイン)も登場し、見た目不思議な親子の会話もいい感じのアクセントになっています。

で、現代のサンフランシスコで、ジェニーことアデラインは、図書館に勤めています。昔のニュースフィルムのアーカイブを観ながら、過去を思い出すアデライン。そんな彼女が若いお金持ちエレンと恋に落ちちゃうのです。すごく美人だけど、どこか存在感が希薄なルックスに、ブレイク・ライブリーが見事にはまっていまして、歴史の中でただよう女性にぴったりなヒロインになっています。存在感が希薄というのは、言い換えると彼女の見た目に時代感がないってことが言えます。歴史のどこにでもいそうな女性、どの時代でも美人なルックスがこのウソみたいなドラマに説得力を与えています。とは言え、説得力という視点から言うと、この後、映画はぶっ飛んだ展開をしてくれるのですが。

アデラインは恋愛とか結婚に腰が引けています。逃亡生活を送っているということもあるのですが、パートナーと一緒に年を取っていくことができないのでは、愛情ある人生を送ることが難しいと思っています。まあ、確かに尋常な関係ではありません。「ぼくのエリ、200歳の少女」みたいに、転々としながら隠れて暮らすことになるのかしら。まあ、ぼくエリは吸血鬼だという理由がありましたけど、アデラインは年を取らない以外は普通の人間ですから、ハードルは低いと言えば低いわけです。頑張って乗り越えられないハードルではないのかもしれないけど、アデラインは過去にもいくつか恋を葬ってきたようです。まあ、見た目美人なアデラインですから、声をかけてくる男性がいくらでもいただろうことは想像がつきます。でも、考えてみると、彼女が全方位美人だということは、逆に共感しにくくなってるのかなって気がします。並の器量の女性なら、そういうお悩みもないでしょうからねえって、イヤミの一つも言いたくなります。いやいや、この映画は、美女と金持ち男性のハーレクインロマンス、夢の恋物語ですから、そういう共感はそもそも求めていないのでしょう。オヤジ目線だと、色々と突っ込みどころが出てくるのですが、それは野暮というもの。でも、オヤジの鑑賞としては、結構、冷静にこの映画をながめてしまうので、色々と突っ込みどころが出てきてしまいまして、その突っ込み鑑賞が楽しいとも言えます。

さて、それでもアデラインは、エリスの猛烈アタックになびいちゃって、彼の両親の結婚記念パーティに招かれちゃうのですが、エリスの父親ウィリアムが昔アデラインの彼氏だったので話がややこしくなってきます。ウィリアムは、アデラインにプロポーズするつもりだったのですが、それを察したアデラインが姿を消したという過去があり、その彼女にそっくりな(本人だけど)息子の恋人を見て、奥さんが嫉妬するほど動揺しちゃいます。アデラインはあれは自分の母親だと言って、その場をとりつくろうのですが、とにかくエリスのパパにするとアデラインは特別な女性であり、また、実はアデラインにとっても特別な女性だったのでした。まあ言いようによって、親子ともども虜にしちゃった罪な女ということになるのですが、それは本人のせいじゃないし、アデラインはどっちも本気で愛してる(片方は愛したですね)のですから、話は厄介な方向に向かいます。

「セレステ&ジェシー」で男と女の腐れ縁をシニカルに見せたリー・トランド・クリーガーですが、今回はぶっ飛んだ設定と展開を臆面もなくストレートに演出していまして、演技陣も変に斜に構えたところのないまっとうな演技でドラマを支えています。そんな中では、おばあちゃんなのに、母親の前では娘みたいに見えるエレン・バーンステインが出色の名演技を見せてくれます。また、デヴィッド・ランゼンバーグの撮影がシネスコ画面をシャープでクリアな映像で切り取っていたのが印象的でした。変にファンタジー色やノスタルジックな感じにしないところに私は好感が持てました。マイケル・ダナのサポートをしていたというロブ・シモンセンの音楽はオケによる厚い音を聞かせていますし、エンドクレジットの歌も作曲していまして、ドラマチックな恋愛映画の音楽に仕上げています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ウィリアムは、アデラインの手に残っていた傷から、彼女が自分が若いころ愛したアデライン本人であることを見抜いてしまいます。そして、その事情を呑み込んだ上で、息子のためにとどまって欲しいと懇願します。しかし、アデラインはもうここにはいられないと、エリスに置手紙を残して、一人車を走らせるのでした。それを追うエリス。車を停めたアデラインは、自分の娘に電話して「もう逃げない」と宣言し、引き返そうとした瞬間、トラックに衝突して、車から放り出されてしまいます。そこで、またしても呼吸が止まり、救急隊員の電気ショックで復活したアデライン。その場にかけつけたエリスに全てを話し、二人はめでたく結ばれます。1カ月後、パーティへ行こうと身づくろいをしていたアデラインは髪の毛の中に1本の白髪を見つけます。トラックとの衝突事故の時、80年前の事故と同じような偶然が重なり、彼女の遺伝子に与えられたショックによって再び歳を取る体に戻っていたのでした。めでたし、めでたし。

いやあ、ラストで、最初の事故と似たような偶然が重なって、再びアデラインの加齢が始まるというのにはびっくり。これは、素直に感動していいのか、笑い飛ばせばいいのか、「そんなアホな」と突っ込めばいいのか迷うところです。演出としては大まじめにやっているのですが、いかんせん、オヤジ感性ではついていけませんでした。ハッピーエンドにケチをつけるつもりはないのですが、基本設定をチャラにする決着ってどうなのって気がしてしまって。確かに、一寸法師もこぶとりじいさんも、最後は主人公が主人公である理由のハンディキャップがなくなるというハッピーエンドだから、そういう話のどこが悪いと言われれば返す言葉はないのですが、難病の主人公のお話で、ラストで病気が偶然治りましたというのは、シリアスなお話だったら反則だとも思ってしまうのですよ。でも、そもそもハーレクインロマンスをシリアスなお話だと思うのが間違っているのかも。全ては、浮世離れした美男美女が織りなすお約束の世界だと思えばいいのかもしれません。とはいえ、途中までSF風シリアス展開だと思って観ていた私にとって、この映画は、最終的に「なんかケッタイな話」に落ち着いてしまったのでした。アデラインの加齢が止まったまま、二人が結ばれたという結末だったら、感動までいかなくても、感心して観終えることができたのですが。
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「サバイバー」はジョヴォヴィッチ、プロスナン共演でかなり期待したのですが。


今回は、新作の「サバイバー」を川崎の川崎チネチッタ5で観てきました。何度も書いてますが、ここは上映素材に合わせてスクリーンサイズをこまめに変える映画館。何で、それだけのことをはしょるのか、TOHOシネマズ。

ロンドンの米国大使館に派遣されてきたエリート外交官のケイト(ミラ・ジョヴォヴィッチ)の任務は、米国へ不正入国してくるテロリストを阻止することでした。ある日、ケイトはガスが専門の医師がアメリカ入国のための米国査証を申請してきたのを不審に思い、医師の身辺捜査を開始します。しかし、イギリス警察のアンダーソン警部(ジェームズ・ダーシー)から不当調査の抗議を受け、大使のクレイン(アンジェラ・バセット)からも注意を受けます。しかし、医師は実際にテロリストの一味でした。テロリストのボスは邪魔者であるケイトの始末を名の知られた時計屋(ピアーズ・ブロスナン)に依頼します。時計屋は、ケイトたちが昼食をとるレストランに爆弾を仕掛けますが、たまたまケイトが向かいの店に友人のプレゼントを買いに行ったタイミングで爆発。さらに居合わせた時計屋に銃口を向けられて、その場を逃げ出すケイト。さらに同僚のビル(ロバート・フォスター)からも撃たれそうになり、もみ合いの末、彼を撃ち殺してしまいます。状況から、彼女が犯人と疑われ、イギリス中に指名手配されてしまいます。彼女を信頼する上司のサム(ディラン・マクダーモット)は、彼女を助けようとしますが、思うようにいきません。一方、ガスによるテロ計画は着々と進んでいるのでした。

「シークレット・サービス」のフィリップ・シェルビーが脚本を書き、「Ⅴフォー・ヴェンデッタ」「推理作家ポー最後の5日間」のジェームズ・マクティーグがメガホンをとったサスペンススリラーです。特殊訓練を受けたわけじゃない、普通の事務屋がテロの濡れ衣を着せられて、孤軍奮闘するというストーリーは、男性が主人公の映画だと古くは「コンドル」なんて映画がありましたし、「今そこにある危機」とか色々出てきますが、女性が主人公というのは珍しく、ヒロインを演じているのがミラ・ジョヴォヴィッチということで、そこそこの期待を持ってスクリーンに臨みました。




ところが、その期待は裏切られちゃいました。この先はそういう文章になっていますので、この映画を堪能された方や、これから御覧になる予定のある方はパスしてください。




ケイトは、アメリカへの入国のための査証を発行するところで怪しい人間をチェックして、詳細な調査を加える仕事を大使館に持ち込んだことで、ベテラン係官のビルからは疎んじられていました。ケイトが怪しいと思った医師の調査を始めると、製薬会社と英国の内務大臣を通して、抗議が飛んできます。それでもくじけずに調査の手をゆるめないケイトを殺すために、レストランに爆弾が仕掛けられるのです。さらに、たまたま、席をはずしていたものですから、爆弾テロの犯人にされてしまいます。さらに、凄腕の殺し屋である時計屋が彼女を追うのですから、もう彼女に勝ち目はないように見えます。ところが、ケイトは結構軽々とピンチを脱しちゃうのですね。うーん、何というのかなヒロインのキャラというか、強さがよくわからないのですよ。例えば、自分が追われてるとわかってるのに、居場所をトレースされるIDカードを捨てずに持っているスマートならざる部分と、凄腕の殺し屋の追跡を何度も振り切っちゃうあたりのスーパーヒロインぶりがうまく一人の人間の中に収まってこないのですよ。

どうも、演出としては、事務方ヒロインのサバイバル逃避行を描こうとしている節があるのですが、テロを防ぐために単身ニューヨークに乗り込んでいくなんてのは、007風のスーパーヒーローのやることなんですよね。せっかくのミラ・ジョヴォヴィッチも、普通の女性を演じていいのか、スーパーヒロインを演じていいのか困っている感じがして、彼女の魅力が前面に出てこないのは、かなり減点。どんな映画に出ても(「フォース・カインド」だって)、魅力的だった彼女が、何だか居心地悪そうなのは何だかがっかり。プログラムを読むと彼女は、元軍人で優秀な成績を上げて、そのご褒美にロンドンの米国大使館の特別任務を任されたんですって。そんなバックボーンは映画の中で説明されていたのか気付かなかったのですが、だとしたら、もっとハードなキャラで凄みを出して欲しかったわあ。

一方、相手役の凄腕殺し屋ピアーズ・ブロスナンなんですが、こっちは、雰囲気づくりはOKなんですが、女性一人殺すのに段取りが悪すぎで、その上、何度ももうちょっとのところで取り逃がしちゃうあたりは、かなりマヌケなキャラになっちゃってるのが、これまた減点。そのくせ、非情なキャラを出したいのか、関係者をムダに殺していくあたりの無節操さは、敏腕というには程遠いキャラになっちゃっています。そもそも、大使館の事務方女性一人殺すのに、確実に相手を捕捉できないまま爆弾を爆発させるなんて、とても優秀な殺し屋のやる仕事ではありません。ケイトにしろ、時計屋にしろ、キャラの描き方が大雑把で、せっかくの役者の良さを殺してるって言ったら言い過ぎかしら。1990年代のシュワちゃんやスタローンの大味アクション映画を、ジョヴォヴィッチとブロスナンでやってるって感じなのですよ。この大味さは、どっか見たことあるんですよ、確かに。

ケイトは、彼女を殺そうとしたビルの家へ向かいます。すると、そこでは上司のサムが彼女を待ち受けていました。ビルは、アフガニスタンで従軍中に捕虜になった息子を助けるために、テロリストに協力していたのでした。そこへ、ケイトのIDカードを追いかけてきた時計屋が爆薬を爆発させ、ケイトは無事でしたが、サムは重傷を負ってしまいます。ケイトは、友人から金を借り、大使館へ忍び込んで、偽の旅券を作って、空港へ向かうのでした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



例のガスの知識を持った医師がニューヨークに向かったことを知ったケイトは、旅券を偽造して単身ニューヨークに向かいます。タクシーでダウンタウンへ向かう途中、テレビでタイムズスクエアのニュー・イヤー・イベントの様子が映っているのを観て、ピンとひらめいた彼女は、タイムズスクエアへ進路変更。実際、テロリストたちは、タイムズスクエアのクリスタルボールに可燃性ガスを仕込み、時計屋が狙撃して大爆発を起こさせようとしていました。例の医師を見かけたケイトは彼を追い、時計屋とあるホテルに入るのを確認、そのホテルの屋上へ向かうと、時計屋がクリスタルボールを狙撃しようとしていました。そこでケイトと時計屋は格闘になり、時計屋はビルの屋上から落下していくのでした。

ケイトは、不意に襲ってきたテロリストのボスをやっつけちゃいますし、さらに殺し屋も対マン張ってやっつけちゃうというスーパーヒロインぶりがすごい。すごいけど、それが映画としての面白さにつながらなかったのは演出の責任でしょう。後半の偶然が重なる展開は説得力なく、ノープランでニューヨークに渡ったケイトが、タイムズスクエアでテロを阻止しちゃうってのはご都合主義の大盤振る舞いになっちゃっています。それを一口で言うなら、「大味」ってところに落ち着くでしょう。かつて、そういう大味な映画がたくさんあったことは事実ですし、そういう映画を結構楽しんだ自分もいるのですが、それでも、この映画、堪能するには至りませんでした。ミラ・ジョヴォヴィッチとピアーズ・ブロスナンという面白い役者を使いながら、この程度の映画では、期待を裏切られた感は否めないですもの。ジャン・クロード・ヴァン・ダムやスティーブン・セガールの映画で、これくらいやってくれたら御の字で、オススメ度も上がるのですが、うまい役者で大味なのを作られると困ってしまうのですよ。特に、ミラ・ジョヴォヴィッチはいつもアベレージ以上の映画に出てくれている女優さんなので、彼女にとってもこれは残念な映画ではないかしら。

「ジョン・ウィック」はマンガチックで、どこか奇妙な味わいのバイオレンスアクション。


今回は新作の「ジョン・ウィック」を、川崎のTOHOシネマズ川崎6で観てきました。シネコン上映の特徴として公開2週目以降になると一気に上映回数が減っちゃうというのがあります。上映開始してからすぐに観に行かないと観たい時間で観られないってのは、何とかならないのかな。「ピッチ・パーフェクト2」はもう少し後で行きたいのだけど、観られる時間で上映されてるかしら。

妻を亡くし、彼女が遺してくれた子犬と暮らすジョン・ウィック(キアヌ・リーブス)の愛車に目をつけたのが、ロシアンマフィアのボス、ヴィゴ(ミカエル・ニクヴィスト)のドラ息子ヨセフ(アルフィー・アレン)。夜中にジョンの家に押し入り、車を奪い、ついでに犬を叩き殺してしまいます。これを知ったヴィゴの顔色が変わります。ジョンは引退した殺し屋で、その腕は最強と言われて、誰もが一目を置いていました。愛する妻と静かに暮らすために、引退し、妻を心から愛していたジョンは、その形見の犬を殺されて激怒、ヨセフへ復讐すべく、封印してあった武器を再び手にします。ヴィゴも黙って見ているわけもなく、ジョンに次々に刺客を送り込むのですが、ジョンの後には死体の山が残ります。ヴィゴは、ジョンの友人でもある凄腕の殺し屋マーカス(ウィレム・デフォー)にも、ジョン殺しを依頼します。ジョンは、殺し屋たちの定宿コンチネンタル・ホテルに部屋を取り、ヨセフのいる店の乗り込んで、大銃撃戦を繰り広げるのですが、後一歩のところで、逃げられてしまいます。翌日、ジョンは、ヴィゴの個人資産の隠し場所である教会を襲撃し、ヴィゴのゆすりの種や現金を灰にしちゃいます。果たして、ジョンは、妻の形見の子犬の敵を取ることができるのでしょうか。

デレク・コルスタッドの脚本を、スタントマン出身のチャド・スタエルスキが初メガホンを取った、バイオレンスアクションの一編です。伝説の殺し屋ジョン・ウィックが、飼い犬を殺されたことから、その復讐に立ち上がるというマンガみたいな話を、アメコミを意識した映像やアクションで派手な一編に仕上げています。単純なストーリーでひたすらドンパチするという映画でして、ドラマらしいドラマはなく、殺し屋界の掟といったバックグラウンドもあるんですが、とにかくひたすら強いジョン・ウィックの一風変わった復讐劇をのんびり楽しむというか、ちょっと不思議な味わいの映画なんです。犬の復讐のためにロシアンマフィアをまるごと敵に回すというあり得ない設定をあえて、説得力を持たせる演出をせず、その設定をひたすらストレートに展開させるので、そこに不思議なユーモアが生まれました。

主人公の妻の葬式から物語は始まります。闘病生活の末の死でしたが、死の直前、妻はペットショップに犬を発注していたのでした。子犬と中年男の穏やかな生活が始まったと思ったのも束の間、ロシアンマフィアのボスの息子に押し入られて、犬も車も失ってしまいます。それを知った、車のディーラーやマフィアのボスの言動から、バカ息子がとんでもない奴を相手にしてしまったことが観客にもわかってきます。ボスは10人以上の部下をジョンの家に送り込むのですが、ジョンはそいつらを手際よく射殺していきます。一人あたり2発の弾丸を急所にぶちこんで確実に殺していきます。プログラムによるとこのアクションは、ガン・フーと呼ばれるガンアクションの形の展開形だそうで、狭い空間で至近距離の相手をハンドガンで確実に殺していくのに適しているんですって。なるほど、ジョンのガンアクションは、距離を置いて射撃するのではなく、ホントに至近距離の相手に発砲して確実に相手を仕留めるというアクションなのですよ。クラブのような人込みでのアクションでも流れ弾で他人を殺傷しないで、確実にターゲットの息の根をとめていきます。「マトリックス」のような動きの大きさで見せるアクションではないので、スローモーションを使わず、その無駄のない動きのスピードで見せるので、ちょっと見は地味だけど、やってることはすごいという感じなのです。

殺し屋の業界も描かれるのですが、これもどこかマンガチック。殺し屋が仕事をする時の定宿があって、そこへ色々な殺し屋が泊まっているのです。そのホテルで仕事をするのはご法度でして、この映画の中では、ジョンを狙う女殺し屋が宿泊中のジョンを襲うというタブーを侵してしまいます。また、殺した死体の始末をする専門部隊がいまして、殺し屋が呼ぶとどこからともなく現れて、死体をいずこへと運び去るのです。昔観た、「ニキータ」では掃除人と言われていたなあなんて思い出しました。この始末チームのチーフをデビッド・パトリック・ケリーが演じているのも懐かしかったです。もうおじいちゃんになってましたけど。

ジョン・ウィックの復讐だけのドラマですが、スタエルスキの演出はアクションシーンを生かしながら、よく言えばスタイリッシュ、別な言い方をすればマンガチックに、独特の世界を構築することに成功しています。殺し屋業界の描き方がアクセントになっていて、その掟社会の中で、すっくと立つジョン・ウィックの姿がかっこよく際立ちました。とにかく、殺し殺されの死体の山ができる映画なのですが、あまり殺伐とした印象にならず、どこかユーモラスでもあるのは、演出のうまさなのでしょう。キアヌ・リーブスの真面目に演じているのか、どこかはずしているのかわからない演技も、この映画の味わいに貢献しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



旧友のマーカスは、ヴィゴから、ジョン殺しの依頼を受けながら、実際はジョンをバックアップして、要所要所で彼の命を救っていました。ジョンはヴィゴを脅して、息子の居場所を聞き出し、その息の根を止めます。一方で、マーカスの裏切りを知ったヴィゴは、彼を拉致して拷問の末に惨殺します。それを知ったジョンは逃げようとするヴィゴを追跡します。ヴィゴの部下を次々と殺して、最後のヴィゴと1対1の対決となり、激闘の末、ヴィゴの息の根を止めるジョン。しかし、ジョンも深手を負ってしまいます。動物病院へ忍び込んで傷の手当てをして、そこの1匹の犬を連れて、家へと向かうジョン、暗転、エンドクレジット。

クライマックスは、ヴィゴとナイフでの闘いになり、それまでとはまた違う見せ場を作っています。まあ、銃撃戦だとジョンが強すぎるので、若干ジョンをピンチにしないとドラマにならないと思ったのかも。ラストは新しい犬の相棒を見つけたジョンの絵で終わるので、続編を意識しているんだろうなあ。よく考えると、殺伐とした殺し合いの映画でも、犬は殺さないのに、この映画ではそのタブーを冒頭でやっちゃってるところからして、定番を外しているんですよね。その後の展開も、定番を外してきてますから、そういう意味で奇妙な味わいの一編ということができるかもしれません。

「白い沈黙」は好きな映画ですが、オススメ度は微妙、好き嫌いがわかれそうな映画。


今回は新作の「白い沈黙」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ2で観てきました。事前のネット予約のチケットの販売機の数がないので、窓口で番号を言ってチケット入手した方が早いのは、もともとシネコンの作りじゃなかったから。映画館の作りもシネコンのスタイルでないと不便を感じる時代になったというべきか。

アメリカ国境近くのカナダの街、ナイアガラフォールズの街で、マシュー(ダイアン・レイノルズ)とティナ(ミレイユ・イーノス)の娘キャスがダイナーの前に停めておいた車の中から、ほんの数分の間に忽然と姿を消してしまいます。地元の警察で、未成年への性犯罪を担当するダンロップ(ロザリオ・ドーソン)とコーンウォール(スコット・スピードマン)がこの事件を担当しますが、これという情報を得ることができません。そして、8年後、キャス(アレクシア・ファスト)は、誘拐犯ミカ(ケヴィン・デュランド)の家の隠し部屋に監禁されたまま17歳になっていました。ミカは、ホテルの清掃員であるティナの目につくところにキャスのトロフィーや乳歯を置いて、彼女の心を翻弄して楽しんでいました。マシューとティナは離婚していて、マシューは車を走らせて、娘を探す日々を送っていました。一方、警察のコーンウォールは、ネット画像を調べて、キャスが児童誘拐組織の一味として利用されていることを突き止めていました。ミカは、一度、父親に会わせてやるとティナに提案していました。何を考えているのかよくわからないミカなのですが、同じ嗜好の人間がダンロップによって逮捕され、彼からダンロップを殺すように脅されていました。雪に閉ざされた世界の裏に不気味に息づく未成年虐待組織、そんな歪な物語が静かに展開していきます。

「スウィート・ヒア・アフター」「クロエ」「デビルズ・ノット」のアトム・エゴヤンが原案を、デビッド・フレイザーとエゴヤンが脚色し、エゴヤンがメガホンを取りました。少女を誘拐して8年間も監禁しているという猟奇的な犯罪を扱った映画ではありますが、ミステリーやサスペンスとは一味違う映画に仕上がっていまして、何と言うのかな、「雪」「誘拐」「監視カメラ」の三つの言葉を使った三題話という感じでしょうか。あるいは、現代の「本当は怖いおとぎ話」というのが結構当たっているかもしれません。淡々とした語り口と、要所要所から湧き上がる不気味な悪意は、エンタテイメントとは一線を画しているところがありますが、それでも、どこか惹かれるところのある映画に仕上がっています。思い出したのは「ハメルンの笛吹き男」の伝説とその実態の解釈の関係でして、神隠しと誘拐という関係の絵解きの部分に似たものを感じました。

映画の冒頭で、誘拐犯が隠し部屋に若い娘を閉じ込めているシーンが登場し、行方不明の種あかしをしてしまうあたり、普通のミステリーの展開ではありません。誘拐犯のミカが隠しカメラで女性を監視しているのですが、これがホテルで働く娘の母親ティナ。犯人は、娘を誘拐し、その母親を監視している、その目的は何なのか、それは謎のままなのですが、警察の描写から、その正体がおぼろげながら見えてきます。未成年への性犯罪を担当するダンロップのチームに殺人課の敏腕刑事コーンウォールがやってきます。そこで、コーンウォールと観客は、未成年への虐待をネットに乗せて楽しむ連中がいるという事実を知ることになります。どうやら、誘拐犯のミカもそういう組織の一員らしいのですが、もう若い娘になっているキャスを隠し部屋に閉じ込めたままでいます。キャスには、逃げたり逆らったりすれば父親を殺すと脅しています。キャスは、自分を誘拐した男が誰かわからないので、逃げ出すこともできないまま8年間という時間が経っていたのです。ミカは、キャスを他の子供を誘い出すエサに使っていて、スカイプのチャットで若い娘と仲良くなって、待ち合わせの場所を設定したりしているようです。

子供への性的虐待を楽しむ連中がいるというのは、おぞましくも理解できちゃうのですが、それが、雪で覆われた田舎町にまで魔手を広げていたというのには、ホントかどうかはわからないです。行方不明の子供が多いアメリカなら、ありうるのかと思わせるところもあり、映画のバックボーンに不気味な怖さを感じさせるものがあります。また、その田舎町のあちこちに悪意の隠しカメラが仕込んであるというのも、リアルなのかファンタジーなのかわからない不思議な怖さを運んできます。これまでの映画なら、都会の暗部として描かれたものが、雪の山の中に置かれることで、リアリティから離れたおとぎ話のような味わいを感じました。田舎の怖さを描いたスリラーというと「悪魔のいけにえ」や「ブレーキ・ダウン」と言った傑作があるのですが、それらの濃い恐怖とは違う、どこか親近感のある恐怖がこの映画には流れています。それは、この映画の語り口が淡々とエピソードを追うという作りになっているせいかもしれません。都市生活者から地続きの怖さが、雪に覆われた町の異世界感とアンマッチなのですが、そこがこの映画の面白さというか、インパクトになっています。

そんな映画全体の奇妙な空気感とは別に、主人公夫婦や警察官の描き方は細やかでリアリティを感じさせるものがありました。父親のマシューは、自分が目を離した数分間で娘がいなくなったことで自責の念に囚われていて、それをずっと引きずっています。母親のティナは、夫のせいではないと理屈ではわかっているのですが、面と向かうとつい夫を責めてしまう、それ故に夫と別れざるをえなくなります。一方、捜査する側もダンロップは幼い頃に誘拐された過去を持ち、未成年への犯罪に対して容赦ない姿勢で臨みます。コーンウォールは、父親のマシューが経済的に困窮していたことから、彼が金に困って娘を売ったのではないかと疑います。各々のキャラクターの思うところにはそれぞれに説得力があり、人間ドラマとしての見応えがあるのですが、そのリアルな人物描写が、全体の空気感とどこかアンマッチに感じられるのが面白いと思いました。

一方で、犯人側の描写は、説明が不十分で、一体どういう組織が動いているのか、犯人側の全貌はまるでわかりません。ただ、誘拐犯のミカのバックには組織らしきものがいて、その組織の行動部隊の女性がいることもわかってきます。また、街のあちこちに監視カメラを置いているらしいのですが、その仕掛けの部分も曖昧です。ミカ自身が幼児趣味の変質者なのかどうかもはっきりしないのですが、キャスとのやり取りにはどっか変態っぽい感じもあります。キャスに対して直接の虐待があったのかどうかもはっきりとは描いていません。このあたり、誘拐犯側の描写はリアリティのない、寓意的な悪という描き方になっているのが、不思議な味わいなのですが、これは全体の空気感と整合性が取れているように思われます。

アトム・エゴヤンの演出は、雪に覆われた町をバックに、誘拐、盗撮犯をどこかファンタジーの鬼か悪魔のようなポジションに置き、その被害者や警察をリアルに描くという、一風変わった見せ方で、怖いおとぎ話を作り出しています。普通の、誘拐ミステリーとどこが違うのかと聞かれると説明するのが難しいのですが、現代を舞台に「昔々、こういうことがあってね」というお話を描いているという感じなのですよ。演技陣では、母親役のミレイユ・ユーノスが儲け役とは言え、見事な演技で印象に残りました。誘拐犯役のケヴィン・デュランは、リアルな犯罪者というよりは、ファンタジーの悪魔みたいなキャラを巧みに演じています。また、最近よく見るブルース・グリーンウッドがこの映画でも脇役として登場して、存在感を見せます。善悪どっちもこなせるところは、一時期のサム・ニールみたいで、重宝な役者さんなのでしょう。後、この映画のポスターのうたい文句が「空白の8年間に何があったのか」なんですが、そこんところは描かれていないですから、広告に偽りありです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



マシューがおびき出された先には、キャスがいました。ほんのつかの間の再会の後、マシューは麻酔銃で撃たれてしまいます。一方、ダンロップに逮捕されたいとこから、彼女を殺すように脅されたミカは、一味の女性の協力を得てダンロップを誘拐し、ワゴン車の中に監禁します。また、ミカは、キャスに手紙を書かせて朗読させていました。ミカは自分の心を揺さぶるような文章を書くようにキャスに要求します。彼女をインスパイアするエピソードを得るために、一味の女性が記者を装って、誘拐された頃のキャスのスケートのパートナーだった男の子から話を聞こうとします。それをたまたま目撃したマシューは、その女を追うと、女はダイナーで、ミカと合流します。マシューは警察に連絡し、女の車に自分のGPS付きの携帯電話を仕掛けます。そして、ダイナーで、マシューは二人に絡んで、女の携帯を奪い、カーチェイスになったりもするのですが、最終的にマシューは逃げおおせ、警察はGPSでミカの家へたどり着き、銃撃戦の末、キャスを救出し、ミカと女を射殺します。そして、警察の捜査により、監禁されていたダンロップも救出されます。かつて選手だったスケートのリンクで再び滑り出すキャスのアップから暗転、エンドクレジット。

後半で、犯罪サスペンス風の展開になるのですが、そこをあまり盛り上げずにあっさりと事件の決着をつけてしまうところが、この映画の雰囲気とうまくマッチしていたように思います。悪夢のような8年間から解放されたキャスが新しい人生を歩み始めるところをストレートに描いているところも、おとぎ話の結末という気がしました。今風の映画にするなら、PTSDとか、組織の目が光っているといったアンハッピーな要素を描くこともできたでしょうが、それをしないところにこの映画の味わいがあるような気がします。誘拐犯一味をリアリティを薄めに描くことで、ラストのキャスに、悪夢から覚めた解放感を与えることに成功しています。とは言え、この映画、私には結構面白くはまったのですが、何じゃこりゃと感じた方もいらっしゃるのではないかしら。そういう意味では、好きな映画なのですが、オススメ度としては微妙というところに落ち着いてしまいます。

「パパが遺した物語」って、ヒロインの今の人生を指すの? ずいぶんとひどい物語を遺してくれたような。


今回は新作の「パパが遺した物語」を、川崎の109シネマズ川崎5で観てきました。ここも、発券は全部機械になってしまいました。あのお姉さんたちはどこへ行っちゃったのかしら。

ピューリツァ賞を取った作家ジェイク(ラッセル・クロウ)は、妻に車の中で浮気を追及されているときにトラックにぶつかり、妻は死亡、本人には発作性の後遺症が残ってしまいます。同乗していた娘のケイティ(カイリー・ロジャース)は無事でしたが、ジェイクの精神科入院で、彼の義妹エリザベス(ダイアン・クルーガー)のもとに預けられます。退院したジェイクですが、復帰第1作は書評で散々に叩かれてしまいます。時々起こる発作を抱えながら執筆活動を続けるものの、エリザベスがケイティを養女にしたいと言い、ついには、ジェイクから、養育権を奪う訴訟を起こします。弁護士料のためにも金が必要なジェイクは、娘を題材にした小説の執筆を始めます。で、お話がぐんと飛んで大学院で心理学を学ぶケイティ(アマンダ・セイフライド)のお話になります。人を愛することができないと言いつつ、誰とでも寝てしまう困ったタイプの女性であるケイティですが、父親のジェイクのファンだというキャメロン(アーロン・ポール)と知り合いになり、これまでの寝るだけの男とは違う、心の安らぎを感じるようになります。一方で、複雑な家庭事情から口をきかなくなった少女ルーシー(クヴェンジャネ・ウォレス)のソーシャルワーカーとなるのですが、少しずつルーシーが心を開いてくれることがケイティの励みになります。本気で愛し合うようになるケイティとキャメロンですが、愛するものを失う怖さがケイティを怖気づかせてしまいます。果たして、ケイティは、本当の意味で人を愛することができるようになるのでしょうか。

ブラッド・デッシュの脚本を「幸せのちから」「スマイル・アゲイン」のガブリエレ・ムッチーノが監督した人間ドラマの一編です。有名な作家ジェイクの半生と、その娘の今を並行して描いていくドラマです。この構成、最近、観たような気がするなあって、思い出したのが「私に会うための1600キロ」でした。どちらも、親との別離による心の傷を癒すお話という点でも似たところがあります。死別した親への想いに捕らわれた主人公が立ち直るってのは、流行りなのかしら。



私はこの映画とは相性がよくなかったようで、この先はなぜ相性がよくなかったかを書いています。未見の方や、この映画を堪能された方は、ここから先は読み飛ばしてください。




大学院で心理学を学びながら、ソーシャルワーカーもやっているケイティですが、心はなぜか隙間風。それを一時的にも埋めてくれるのは、好きでもない男とのセックス。そんなことを繰り返しているので、彼女はやらせてくれる女として有名みたいなんですが、そんな彼女にも、体目当てじゃないキャメロンがアプローチしてきて、それまでとは違う展開になりかかります。ケイティが誰とも寝ちゃうサセ子になったのは、どうも父親を失ったからというのが大きいらしいというのが映画が進むにつれてわかってきます。でも、その辺の事情ははっきりとは示されないのですが、父親が死んだらサセ子になったなんて、全然共感を呼ばないんですよね。それで、父親と娘の関係がどんなものだったのかというのが、今のケイティのドラマと並行して描かれます。

奥さんと車の中で浮気のことで言い合いになっているときに交通事故に遭い、ジェイクの奥さんは死亡、彼は一人で娘ケイティを育てようと決心します。しかし、彼には事故の後遺症で時々発作が起こる状態で、医師から入院するように勧められ、義妹夫婦に一時的に幼いケイティを預けることにします。7か月後に退院して、ケイティを引き取りに来たとき、義妹は、ケイティを養女に引き取りたいと言い出して揉めちゃいます。ジェイクは入院でも完治したとは言い難く、時に発作に悩まされながら、執筆活動をすることになります。しかし、再起第一作は批評でも売り上げでも失敗作となり、さらに、義妹が親権訴訟を起こしてくるので、ジェイクはますます経済的に苦しくなります。それでも、ケイティは父親が大好きで、彼と一緒にいたいと思い続けるのでした。

ムッチーノの演出は、とにかくジェイクの父の愛は絶対的なものとして描いていて、そこに批判の余地は入らないという見せ方をしているのですが、そんなに父親に愛された娘が、誰とでも寝るサセ子になっちゃったのはなぜなのかがドラマの中からは見えてきません。父親のせいじゃないのかって思うところなのですが、父親としてのジェイクは絶対善という見せ方なので、単にケイティがふしだらな娘というだけにしか見えません。これは最後まで観てもその印象が変わりませんでした。でも、それじゃケイティがかわいそうじゃないか、さらにそんなケイティにマジメに惚れたキャメロンはもっとかわいそうだと思うのですが、ドラマの中では、そこに救いは存在しません。父親目線で映画を観ると、幼いケイティは無条件にかわいい存在で、そんな彼女に愛情を注ぐ父親の気持ちもわかるのですが、そこに何か歪なものがあったから、ケイティがあんなふうになったんじゃないのとも思ってしまうのですよ。でも、この映画では、父親ジェイクへの批判はタブーみたいになっちゃっているのが気になりました。

映画を観ていて何か窮屈な印象を持ってしまったのですが、それはどうやら、父親の絶対的な存在にあるような気がしました。彼を長所も短所もある普通の人間として描いてくれたら、人間関係の微妙なアヤがケイティの精神を歪ませたのかもしれないと思う余裕も出てくるのですが、とにかく父親は、絶対的にいい人であり続けるので、ケイティがサセ子になっちゃったのは自己責任みたいに見えてくるのですよ。これは、映画をご覧になっていない方には説明しにくいのですが、とにかく父親の絶対的な存在が、この映画から人間ドラマとしての潤いを奪っているって言ったら、言い過ぎかしら。(言い過ぎなのかな、多分。)窮屈な印象というのを別の言葉で言い換えるなら、「押しつけがましい」という感じでしょうか。ムッチーノの演出が、ジェイクは善、義妹や奥さんは悪みたいな構図を押し付けてくるのが、どうも不自由な映画鑑賞になってしまったような気がするのです。どういう解釈も可能な人間関係の妙の部分を、これはこうだと押し付けてくる感じがしてしまったのですが、これはラッセル・クロウ演じる父親に、うさん臭さを感じてしまったからかもしれません。

大人になったケイティは、キャメロンと一緒に暮らすようになってからも、二人のベッドに男を連れ込んでやっちゃうものですから、さすがのキャメロンも愛想尽かして出て行ってしまいます。ケイティはカウンセリングが必要なかなりヤバい状態にあることがわかってくるのですが、そんな彼女が思うことは、死んだ父親が恋しいということ。すんげえ不幸なヒロインだと思うのですが、最後には、もう一度キャメロンの部屋を訪れて、やり直したいという気持ちを伝え、キャメロンが彼女の部屋の前で待っていて抱き合う二人でエンドクレジットとなるのですが、これで、全てが解決したとは思えない。きちんとした精神科の治療を受けないと、ケイティは、また男を連れ込んで同じことをするだろうという後味しか残りませんでした。なぜなら、彼女は父親との決別ができていないから。それなのに、何となくハッピーエンド風にまとめられるのは、これまた押しつけがましいよなあって思ってしまいました。ケイティは、既に死んでる父親に取りついた生霊みたくなっていて、その不自然な状態に対する不安を紛らわせるために、刹那的なセックスに走っているように見えます。父親の霊を祓うのではなく、ケイティを父親からお祓いしないと、ケイティの生霊は自由になれなさそうなのに、そこをどこかに置き忘れてるんじゃないかなあって気がして、何だか、困った映画を観てしまったという印象が残ってしまったのでした。

「マイ・インターン」はコメディの面白さもあるけど、人間を見る視線のやさしさが心地よくて好き。


今回は新作の「マイ・インターン」を日本橋のTOHOシネマズ日本橋6で観てきました。ここは、傾斜がある座席はいいのですが、スクリーンが下にあるので、前に座高の高い人が座るとスクリーンが切れそうになるのは、何とかならないかしら。

元工場だったところをオフィスに改造したビルでファッションサイトを経営する社長ジュールズ(アン・ハサウェイ)は2年で会社を一気に大きくした立身出世の人です。そんな彼女の会社で福祉事業として65歳以上の人を雇うシニア・インターン制度を始めます。そこへ応募してきたのは、電話帳を作る会社の部長だった70歳のベン(ロバート・デ・ニーロ)でした。彼は面接に合格し、ジュールズの直轄の部下となります。しかし、年長者を扱いかねてるジュールズは、ベンになかなか仕事を作りません。でも、ベンの人柄から、彼は会社の中でいつの間にか居場所を作ってしまいます。そんなある日、飲酒の運転手をベンがとがめたことから、ベンがジュールスの運転手となって、彼女の家にも通うようになります。ジュールズにはかわいい娘とペイジとジュールズのために家庭に入ったダンナのマット(アンダーズ・ホーム)がいましたが、仕事が忙しすぎるのか、夫婦の時間は少な目状態。一方、会社では、社長の経営をサポート&制御するためにCEOを置いてはどうかという話が持ち上がっていて、その候補者への面談が進められていましたが、ジュールズのお眼鏡にかなうCEOは現れません。ちょっと弱気になるジュールズを、ベンは長年の経験に基づく言葉で励まし、ベンは彼女の信頼を得るようになり、だんだんと仕事も任されていくようになるのですが....。

「ホリデイ」「恋愛適齢期」のナンシー・マイヤーズが脚本を書き、メガホンも取ったコメディの一編です。会社を定年退職した男がファッション会社のインターンとして再就職するというお話で、これをロバート・デ・ニーロが演じるという意外性のあるキャスティングが成功し、会話の間も楽しい、娯楽映画の一編として楽しめました。この監督さんは「ハート・オブ・ウーマン」でメル・ギブソンを、「ホリデイ」でケイト・ウィンスレットをコメディに使って成功している実績のある人だけに、こういうキャスティングもありなんですが、デ・ニーロもいつもと一味違う演技を見せて、新しいキャラクターに挑戦しているのが新鮮でした。「プラダを着た悪魔」の後日談映画のように宣伝されていますが、これは、ファッションはあくまで背景で、中身は、ナンシー・マイヤーズの女性映画でして、その描き方のひねりが効いていて、感心するところも多く、ホントによくできた娯楽映画でした。彼女の映画は、元ダンナのチャールズ・シャイアと組んでいたころからのファンでして、1980年代から上質のコメディを作り続けています。

シニア・インターン制度なるものがあって、それが会社としての社会福祉事業になるってのは知りませんでした。流行の最先端を行く、ネットのファッションサイトの会社で、人生リタイアした人間を再雇用するっていう設定が面白いと思いました。ここの社長は、若くて既婚子供一人ありという女性で、仕事をしていたダンナが彼女のために家庭に入って主夫をしているという設定も面白く、マイヤーズの脚本は女性らしい視点をあちこちに盛り込む一方で、それをさらにひねって男性目線でも共感できる展開で、ドラマを引っ張っていきます。電話帳工場の部長だったベンが、インターンになったものの仕事をもらえないというところから始まるのですが、ベンはそれでもめげずに、持ち前のキャラクターで会社の中で若い連中に慕われていくという展開がうまい。そこそこ偉かった筈のベンが若い社員ばかりの会社で、変に威張ったりしないで、自分の孫くらいの上司や先輩を立てていくという柔軟さは、この人、なかなかすごいと感心。社長のジュールスは若いやり手社長で、高齢者のインターンなんて使うのも面倒くさいと思って、最初のうちは仕事を与えないですが、それが逆に、ベンが会社の人間になじむ暇を与えることになり、いつの間にか、会社の中で居場所をキープしているのです。偶然、ジュールズの運転手になっちゃうベンは、彼女の家に入り込んだり、自動車の中のプライベートにも接するようになります。ジュールスはその何となく首を突っ込んでくる感じを嫌って、配置換えを指示するのですが、ベンの人柄に好感を持つようになり、ベンもジュールスの信頼にこたえようと頑張るので、二人の間にいい関係ができてきて、そこに単なる上司と部下という関係から、お互いに敬意を抱く友人関係が生まれていきます。マイヤーズはテンポよいコミカルな展開の中で、二人が近づいていく過程を丁寧に見せていきます。

単にほのぼの展開なだけのお話ではなく、ドタバタコメディのエピソードも入れますし、シリアスな夫婦の危機を見せたりと、欲張った構成の映画でして、2時間のボリューム感に、中身をきっちりと詰め込んだ娯楽映画としても、この映画、評価しちゃいます。あれもこれも盛り込んで、退屈させず、でもまろやかにまとめるってのは、相当な演出力がないとできないと思ってます。ホラーならホラー、笑いなら笑いに一点集中した映画の方が、作りやすいし、評価もされやすい一方で、色々な材料を過不足なく取り込んだ幕の内弁当みたいな映画は、過小評価されやすいところがあります。この映画は、ベタな笑いに、家族愛、男女の恋愛観にサクセスストーリーまで盛り込んでいて、それでも映画としてよくまとまっていて、満足度が高い仕上がりになっていますから、オススメ度高いです。こういう映画が評価されるようになると、面白い映画が劇場にかかるようになるのではないかしら。

ロバート・デ・ニーロの飄々とした演技に対して、アン・ハサウェイはやり手社長だけど、家庭が今一つうまく行っていない人妻をコミカルに熱演しています。シリアスドラマで熱演というのは、イメージがつかみやすいですけど、コメディでシリアスなキャラを熱演というのは、つかみどころがない感じです。でも、これは劇場で本編を確認していただけるとわかると思いますが、ホントそんな感じなんです。「レ・ミゼラブル」よりも、この映画の方に彼女の女優としての底力を感じましたもの。また、主演二人を囲む会社の同僚を演じた若い俳優連がスター二人をきっちりと立てて、笑いをとってドラマを支えています。そんな中で出番少ないのですが、ルネ・ロッソは、デ・ニーロの恋人として存在感を見せました。主役二人の間に恋愛感情を感じさせるとドラマが濁ってしまうので、ちょっとの出番でも、デ・ニーロの相手役としてインパクトを与えるキャラとして彼女のキャスティングは成功しています。スティーヴン・ゴールドプラットの撮影は、屋内、屋外ともに明るい映像で、人物をきっちりと浮き立たせて、ドラマの豪華感に一役買っています。こういう映画には、こういう華のある絵が欲しいなって思う映像になっています。

マイヤーズの脚本、演出は細かいエピソードに味がありまして、ジュールスのキャリアウーマンが娘のママ友の間ではあまり評判がよくないとか、社長の助手の横にベンが引っ越してきたので、働きが認められていないと泣いちゃう女の子のエピソードとか、ちょっとだけスパイスの効いたエピソードを盛り込んでいます。その他にも、女性社長と男性社員の関係とか、女社長の気負いの部分とか、主夫とキャリア妻との夫婦関係など、面白い視点で描いた部分が多く、それらが、この映画のボリュームとなって、厚い作品に仕上がっています。メインエピソードとなるCEOの話も、会社に首まで浸かっているジュールスが、家庭での時間を取り戻すための決断だというところが、この映画のスパイスとなって後半の展開に効いてきます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



会社にCEOを迎えるべく、何人もの候補者に面接するのですが、女性蔑視だったり、ファッション業界を舐めていたり、なかなかこれはという人がいません。ある日、ベンはジュールスの娘を彼女の友達の誕生会に連れていってやるのですが、その帰り道、ダンナのマットが他の女性とキスしているのを目撃してしまいます。何となく気まずいベンは、ジュールスと視線を合わせられなくなるのですが、出張先のサンフランシスコのホテルで、逆に彼女から、夫が浮気していると告白されてしまいます。ジュールスはそれでも、夫との関係を再構築したいと願いますが、ベンは二人のヨリが戻ることには懐疑的です。そして、最後に面談したCEOの候補は、ジュールスも好感を持ち、その男にCEOを頼むことになります。しかし、翌朝、オフィスにジュールスを訪ねてきたマットは、自分のために仕事の権限を他人に譲るのはやめてくれと言います。マットにとってジュールスは大事な女性だから、幸せになって欲しいから、やりたい仕事をやって欲しいと言うマットと抱き合うジュールス。CEOの話はおじゃんとなります。ジュールスがベンを探すと彼は今日は休暇を取ったとのこと。彼の恋人に聞いて居場所を探すと、公園で他の仲間と太極拳をしているベンを発見。ジュールスもそこに混じって、太極拳を始めるところで、暗転、エンドクレジット。

ダンナの浮気を知ったジュールスは、その現実に直面するのがいや、そして、二人が別れるのはもっといや。一方のベンはこの二人はもうダメだろうと思っているのが面白かったです。そして、ラストは、浮気をした夫の方がジュールスに歩み寄ることで、二人の破局は回避されます。こういう展開はベンの想定外なんだろうなって思えてくると、なるほどこういうところにジェネレーションギャップが出てくるのかと、妙に納得してしまいました。マットが浮気をしたのも、ジュールスのために家庭に入ったものの、そこで自信を失い、妻との時間も作れなかったためというのも、今風の展開と言えますし、その事実に対して、ジュールズが弱いからこそ、関係修復したいと願うというのも意外と言えば意外です。このダンナの浮気に対する、作者の視点はすごくやさしいですし、それを糾弾できないジュールスも、妻のためにCEOを入れることをやめさせようとする夫のマットもやさしいと言えましょう。白黒つけたがるアメリカ文化とは一線を画す人間関係を、肯定的に描いているあたりは、マイヤーズの女性ならではの目線ではないのかなって思い至りました。これまでのラブコメなら、絶対に敵役で最後にぎゃふんと言わされる浮気夫のマットに、華を持たせる意外性を、心地よい決着として見せるあたりのうまさは、職人娯楽映画以上のメッセージを感じさせました。仕事中毒に近い敏腕女性社長も、昔ながらの文化を引き継ぐシニア・インターンも、職を辞して家庭に入る専業主婦も、各々の悩みや共感できる部分があるってことを丁寧描いて、懐の広い映画になっているのが、私のお気に入りになりました。一言で言うなら、いい感じの映画、それもすごくいい感じの映画。

「顔のないヒトラーたち」はとっつきの良い娯楽映画としてもオススメ、勉強にもなります。


今回は新作の「顔のないヒトラーたち」を、有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。ウィークデーの夜の回にしては、かなりお客さんが入っていました。

1958年、ドイツでは既に戦争犯罪が時効になっていました。若い検事ヨハン(アレクサンダー・フェーリング)は交通違反の裁判ばかりの日々でしたが、いつかは大きな事件を扱いたいと思っていました。そんなある日、ジャーナリストのトーマス(アンドレ・シマンスキ)が検事局を訪れ、もとナチの親衛隊が教職に就いていると告発に来ました。検事たちはトーマスを相手にしなかったのですが、ヨハンだけは、事実関係を調査するために教育委員会と米軍の記録部をあたり、その教師の記録に空白の期間があることを発見します。ヨハンはトーマスのつてで収容所にいたシモン(ヨハネス・クルシュ)に会い、彼の持っていたアウシュビッツの記録をもとに、元ナチの犯罪を暴こうと思い至ります。そのことを検事総長のバウアー(ゲルト・フォス)に知らせると、彼は捜査の責任者にヨハンを指名します。しかし、検事局の中でも、今更、終わった過去を掘り出すことよりも、この国の未来へ目を向けるべきという意見が強く、またヨハン自身がアウシュビッツのこともよく知りませんでした。国際アウシュビッツ委員会のラングバイン(ルーカス・ミコ)の協力を得て、かつての収容者の聞き取り調査を始めます。その内容はヨハンにとって驚くべきものでした。義憤にかられるヨハンに、バウアーは、この捜査は迷宮を探るものだ、自分を見失うなと忠告します。ヨハンは、親衛隊の中でも、特に死の天使と呼ばれた医師メンゲレの逮捕に取りつかれたように取り組みます。アウシュビッツの虐殺にはヒトラーだけではなく、一般市民が進んで参加しているという事実、そして、かつての親衛隊が、今も普通の社会生活を営んでいるという事実を告発し、彼らを殺人で有罪にしようとやっきになるのですが、それは、若い世代が父親に犯罪者だったかを問うことを意味していました。そして、ヨハン自身もその当事者であることに直面することになるのでした。

1963年にフランクフルトで開かれたアウシュビッツ裁判に至るまでの経緯を描いた実話に基づくドラマです。ジュリオ・リッチャレリとエリザベト・バルテルによる脚本を、リッチャレリが監督しました。今でもドイツは、反ナチを国是としていますが、そのきっかけとなったのがこの裁判だったのだそうです。今では、世界中の誰も知っているホロコーストやアウシュビッツ収容所ですが、1958年当時のドイツでは、特に若い人の多くがそれを知らなかったというのは驚きでした。そんな時代に、自分たちの同国人が戦争中に行った犯罪を告発するということがどれほどのことなのか、きっと多くの軋轢を生んだのであろうことは想像がつきます。1000万人いたというナチスがヒトラーの死と共にみんないなくなったわけではないことは察しがついても、彼らのホロコーストに加担した罪を告発しようというのは、すごいことだと思います。多くの批判や脅迫を受けたらしいことが、この映画にも出てくるのですが、この映画は、そういうドロドロしたところを見せるのが中心ではありません。それよりも、自国の犯罪を告発する若い世代であるハンスがどうやって、正義の迷宮から抜け出るかまでを描いていまして、それは、どのようにドイツが成熟していったのかというプロセスとだぶらせて描いているところが見事で、単なる勧善懲悪にならない、人間の成長と国家の成長の過程を力強い演出で描いています。決してヒロイズムに走らず、元ナチを犯罪者として裁くことにどういう意味があるかというところに肉薄したドラマは、大変見応えがあるもので、単なるヘビーなドラマだと思って敬遠しちゃうのはもったいないです。娯楽映画としても、面白くできていますし、歴史への向き合い方という視点からも学ぶところの多い映画でした。

ヨハンは、最初はアウシュビッツの存在を知りませんでしたが、収容者の聞き取り調査をするうちに、その残虐行為を知り、そこにいた親衛隊員を告発しなければならないとどんどん突っ走っていきます。親衛隊員だった人間の今を確認しにいくと、そこにいるのは教師だったり、人の好さそうなパン屋だったり、あまりに普通の人間でした。だからこそ、余計に許せないと憤ります。彼らに罪を償わせることが正義だと、使命感に燃えるわけです。アウシュビッツにいた親衛隊員は8000名いましたので、その全てを告発しようと息巻くのですが、だんだんヨハンは自分の正義以外のものが見えなくなっていきます。メンゲレは南米に潜伏して、時折ドイツに帰ってきていました。それを知っている人間もいるのですが、彼の支持者もいたようで、彼は逃げおおせていました。イスラエルのモサドも彼を追っていて、バウアーは彼らとも連絡を取っているのですが、そこに微妙な力関係があることが、ヨハンには理解できません。そもそも、元ナチスが山ほどいる国で、ナチスを告発しようということは、多くの国民を敵に回すことになるのですが、そのことの重さにヨハンは気づいていません。若者が年長者を犯罪者と疑う国になることを、憂う検事もいるのですが、ヨハンはそれこそ望むところだと言い切ります。正義の迷宮の中で、ヨハンはだんだん自分を見失っていきます。検事総長は、かつて収容所にいた人で、ヨハンに期待を持って支援するのですが、そんな彼もヨハンの暴走に黙っていられなくなります。

リッチャレリの演出は、前半で、アウシュビッツで行われた戦争犯罪がドイツ国内で知られていない状況を描き、さらにそこで行われた残虐な行為の証言を見せます。そこで、ヨハンの行動を正義の鉄槌のように描くので、ドイツでもやっと戦争中の犯罪を自分で裁こうとするようになったと思わせるのですが、それがそう簡単でないという見せ方を政治の世界でなく、ヨハン個人の葛藤として描いているところが見事です。一人の人間の中でも、完結できない正義に対して、それを無理なことだと突き放すことをしないで、不充分かもしれないけれど、一つの解を見せているところに、この映画の感動があります。それは、劇場で確認する価値のあるものだと思います。また、ヨハンの恋人との関係は、ドラマの中で重要な位置を占めていまして、二人の関係がドイツの未来を表しているところもうまいなあって感心しました。この裁判によって、引き裂かれたように見えるドイツがまた、一つになる未来が、この恋人たちの成り行きにかかっているのではないかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



一緒になってナチを告発していたジャーナリストのトーマスも、実は党員として、アウシュビッツにいたのでした。殺人に加担しなかったけど、それを見て見ぬふりをしていたことを、トーマスは恥じていました。ヨハンは、その告白を許すことができません。そして、ヨハンは母親の言葉から、戦争で行方不明になった父がナチだったことを知ります。米軍の記録からもそれが確認され、彼は大ダメージを受けてしまいます。そうなのです、当時の多くのドイツ人がナチだったのです。望んで参加した人もいれば、周囲に流された人もいました。でも、ナチ=悪として告発することが正しいことなのか、自分にその資格があるのか、その答えを出せず、酒に溺れたヨハンは、検事総長に辞表を出してしまいます。一方、元収容者で、病気で倒れたシモンから、自分の代わりにアウシュビッツに行って祈って欲しいと頼まれたヨハンは、トーマスと一緒にアウシュビッツに向かいます。当事者になったとき、親衛隊員と同じことをするかもしれない自分には、彼らを裁くことはできないと言うヨハンに、トーマスは、この裁判は被害者のためにアウシュビッツの記憶を残すためにあると説得します。フランクフルトに戻ったヨハンは、検事総長に再度、検事として働きたいと申し出ると、彼はヨハンの辞表を取り出して破り捨てるのでした。そして、1963年、いよいよ公判の日がやってきます。法衣に身を包んだヨハンが法廷に入り、ドアがしまったところで暗転、エンドクレジット。

アウシュビッツ裁判を正義の行使ということではなく、被害者のため、そして歴史を忘れないために行うという視点は、なるほどという説得力がありました。ドイツの国の中を正義と悪に分けるための裁判だとしたら、今のドイツはなかったんだろうなって思いましたもの。そう考えたとき、日本は、自国の戦争犯罪を自国で裁いていないということは、自国の汚点を忘れないための行動をしていないんだなってところに思いが至りました。日本軍が、アジアに進出したとき、そこで何をしたかということは、まるで知りません。それでも「戦場にかける橋」のようなことがきっとあちこちであっただろうし、戦後も残るアジア人蔑視の文化は、きっと向こうで何かやっただろうなって思わせるものがあります。でも、戦争犯罪も連合国に告発されることで、被害者意識が生まれ、加害者としての日本人の意識は、当事者の沈黙によって、どこかへ行ってしまったのではないかという気がします。1958年のドイツ人がアウシュビッツを知らなかったように、今の多くの日本人が知らないことがまだあるのではないかということに気づかされる映画でした。そういうことを抜きにしても、ドラマとしての見応えと感動のある映画としてオススメ度は高いです。

「しあわせへのまわり道」は初老男女の恋愛未満を描いた小品としてマル。


今回は、東京での公開を終了している「しあわせへのまわり道」を横浜のシネマベティで観てきました。しばらくご無沙汰のうちに、整理券の順番入場になっていたり、1回無料のスタンプカードのスタンプの数がのつかない増えていたりと、ちょっとずつ変わってきているようです。

ニューヨークの文芸評論家ウェンディ(パトリシア・クラークソン)は、21年連れ添ったダンナのテッド(ジェイク・ウェバー)が突然、若い女と浮気して自分から去って行ったことで大ショック。娘のターシャに会いに来てと言われるけど、運転免許のない彼女は田舎暮らしは無理だと拒否。そんな彼女にタクシーの運転手のダルワーン(ベン・キングスレー)が忘れ物を届けに来てくれます。ダルワーンは昼間は運転教習の講師をしていました。そこで、ウェンディはダルワーンの運転の講習を受けることにします。初日は、腰が引けて、やめると言ったりもするのですが、ダルワーンにうまく乗せられて、路上教習を始めるウェンディ。「運転中は平常心を保つことが大切」というダルワーンは信心深いシク教徒であり、品のよいインド人紳士でした。そんな彼に、ウェンディも敬意と好感を持つようになり、二人の距離はゆっくりと接近していきます。一方、ダルワーンは故郷の妹が決めた花嫁を迎えることになっていました。初対面の花嫁ジャスリーン(サリター・チョウドリー)との結婚生活が始まるのですが、英語も話せないしウェンディほどの教養もないジャスリーンにダルワーンはつい辛く扱ってしまい、異国の地で外へ出るのも心細いジャスリーンの気持ちを思いやることができません。ウェンディは運転免許試験を受けてみるのですが、残念ながら不合格。すっかり自信をなくした彼女は、ダルワーンの講習も断ってしまうのですが...。

「ニューヨーカー」誌に掲載されたキャサ・ポリットのエッセイをもとに、サラ・ケルノチャンが脚本を書き、「死ぬまでにしたい10のこと」「あなたになら言える秘密のこと」のイザベル・コイシェがメガホンをとりました。物書きであるキャサ・ポリットが運転を習うことで離婚の痛手を乗り越えたというエッセイをベースにして、書評家の主人公が夫に去られた痛手から人生をやり直すまでをライトなタッチで描いた、90分の小品です。これまでのコイシェの作品は、人の生死にかかわる人生の転機をテーマに描いた映画が多かったですが、今回は初めて他人の脚本で軽いコメディタッチのドラマにまとめあげています。

ヒロインのウェンディは、それなりの社会的地位のある文芸評論家で、割といい人生を送ってきたつもりだったのですが、夫が若い娘に走ったことで大ダメージを受けてしまいます。娘のいる田舎に行きたいとも思うけど、彼女は免許を持っていません。ニューヨークで暮らすだけなら、車は必需品ではありません。確かにそうなんですよね。私も横浜暮らしで電車通勤なので、車を買っても結局ほとんど乗らずじまいで廃車にしちゃいました。でも、田舎で暮らそうと思ったら自動車が必需品というのは、日本もアメリカも同じみたいです。そこで、たまたま忘れ物を届けに来てくれたタクシー運転手が路上教習の講師もしていたことから、運転を習おうかなって気になります。ターバンを巻いて、落ち着いた紳士な言動をするダルワーンに、ウェンディは誠実さを感じ取り、好感を持つようになります。ダルワーンも、そんな彼女に好意を抱くようになります。でも、ダルワーンには新婚の奥さんがいます。このあたりが面白いのですが、敬虔なシク教徒であるダルワーンは家族がアレンジした結婚を素直に受け入れるのですが、一方でウェンディへの想いも募ってきてしまうもので、自分の心を扱いきれなくなってきます。ウェンディにも、そんなダルワーンの気持ちが伝わってくるので、困っちゃうのですね。でも、この映画はそこを大人の分別でさらりと乗り越えます。そして、ダルワーンも妻への思いやりを欠いていたことを反省するようになります。

男と女が出会えば、恋愛感情が芽生えて、それが一気に花開くのが映画なわけですが、この映画ではその定石をちょっと外して、二人の距離が近づくけれど、でも交わらない、そんな関係を面白おかしく描いたドラマということもできましょう。ダルワーンが新婚なら、ウェンディも妹に紹介されたリッチマンと即ベッドインというふうに、それぞれの色恋沙汰を持っているのですよ。でも、運転教習のときが楽しいというか幸せそうなんですよね。どっちにとっても、講師と生徒という関係がすごく心地よいらしいのですよ。至近距離なのに、明らかに一線が引かれた関係。でも、それでも惹かれてしまうってのは、年がいっても切ないものがあります。ベン・キングスレーとは、プライドと恋に困っちゃう中学生っぽさの両方を巧みに表現して、役者の底力を見せてくれます。一方の主役である筈のパトリシア・クラークソンは控えめな受けの演技で、映画の味わいを柔らかいものにしています。もう10歳若いと、もっとガチャガチャしたセリフの多いコメディになったのでしょうけど、アラフィフ女子のそこそこの奥ゆかしさと下品さのバランスが落ち着いたドラマにまとまっています。監督のコイシュが同年代ということもあるのでしょうけど、クラークソンのリアルな見せ方が大変面白いと思いました。その結果、ヒロインよりも、相手役であるキングスレーの方が印象に残ってしまったのは、狙ってやったものなのか、たまたまそうなったのか、ちょっと気になるところです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ダルワーンの奥さんジャスリーンは生理用品に困って、街に出たときに、知り合った奥さんと友達になります。ダルワーンが家に帰ってみれば、そこには、ジャスリーンの奥友達がいっぱいいてびっくり。さらにジャスリーンが今まで見せたことのない楽しそうな顔なのにびっくり。それから、ジャスリーンは英語学校へ通うようにもなり、見る見る元気になっていくのでした。一方、一度の不合格でもうやめたという気分になってたウェンディも気をとりなおして、もう一度試験を受ける気になり、ダルワーンの講習を受けるようになります。そして、再試験を受けて見事に免許を取ります。そこで、ダルワーンと一緒にクルマ屋へ行って、車選びをするウェンディ。この後もまた会いたいというダルワーンに、そういうのダメ、だってあなたはいい人だからと諭すウェンディの目に一筋の涙。ダルワーンは夜の仕事をやめ、ジャスリーンと一緒にいる時間を増やそうと言います。そんな夫に、うれしいというジャスリーン。そして、ウェンディは、娘のいる田舎へと車を走らせるのでした。めでたし、めでたし。

ダルワーンは悪い人ではないらしいのですが、ジャスリーンのいいダンナさんではありません。彼女の気持ちを思いやることができず、細かいことにケチをつけたりするもので、ジャスリーン異国の地で孤立無援状態。奥トモと偶然出会ったおかげで、彼女のアメリカでの本当の生活がスタートすることになるのですが、その偶然がなかったらかなりヤバイ状況でした。そして、ダルワーンも若干反省して、妻のための時間を割こうと思い至ることになります。そこはまあハッピーエンドなんですが、そこに至るまでのダルワーンは、奥さんがいながらジャスリーンに惹かれているのですから、かなり困ったダンナです。この映画は、そんなダルワーンを悪者にしてないのが、不思議な味わいになりました。女性監督だからこその視線なのかな、この映画の視線は、ウェンディに対しては冷静なのですが、ダルワーンに若干肩入れしているところがあります。どっちも困った初老の男女なんですが、そんな困った男女の間にほんのりと恋の灯りがともったお話は、都会のおとぎ話として、いい線いってるのではないかしら。

「ドローン・オブ・ウォー」は、戦争の本質が垣間見れる反戦映画としてオススメ。


今回は新作の「ドローン・オブ・ウォー」をTOHOシネマズ川崎プレミアスクリーンで観てきました。ここは椅子が豪華で座席配置もゆったりしているのですが、特別料金で上映することがなくなってしまい、普通料金で観られるようになってからは、あんまり豪華感がなくなっちゃったんですよね。ちょっと椅子がいいだけの映画館。

アメリカ軍が戦争に無人戦闘機を導入するようになったのは、2000年代に入ってからで、その最も盛んであった、2011年、空軍のジェット機乗りのイーガン少佐(イーサン・ホーク)は、紛争地域でのテロリストの攻撃や地上部隊の支援のために、ラスベガスの空軍基地で、無人戦闘機の操縦をする日々を送っていました。彼には、妻のモリー(ジャニュアリー・ジョーンズ)と二人の子供がいました。紛争地域に長期間送り込まれていた時に比べれば、家族との時間も増えて、いい暮らしになってはいるのですが、イーガンは酒に溺れるようになり、妻との関係も冷え切っていました。ジョンズ大佐(ブルース・グリーンウッド)のもとで、毎日、画面の向こうにいるテロリストを掃討していくイーガンですが、時には女子供を巻き添えにしてしまうこともありました。同僚のジマー(ジェイク・アベル)たちは、このテロリストをつぶしていく戦いを正義の戦争と割り切っていましたが、新任のスアレス(ゾーイ・クラヴィッツ)はこの戦争のやり方はテロリストとどこが違うのかと疑問を持っていました。さらに、イーガンのチームは、CIAの指揮下で行動することになります。CIAは、紛争地域でないところのテロリストの集まるところへも攻撃せよと命令してきます。そして、一度爆撃したところへ、救助に現れた人間を一掃するためにさらに攻撃せよと言い出します。時には、攻撃の記録を残すなという命令下で、市場の近くへの爆撃もさせられ、イーガンはさらに疲弊し、行動がおかしくなっていくのでした。

「ガタカ」「シモーヌ」などテクノロジーと人間の関係についての映画を撮ってきた、アンドリュー・ニコルが脚本を書き、メガホンを取った、事実に基づく戦争映画です。主人公のイーガンは、ラスベガスの空軍基地のオペレーションルームで無人戦闘機を操作し、アフガニスタンやパキスタンといった地域で偵察や攻撃を行っています。毎日、家族と暮らす家から車でラスベガスの歓楽街を通って、基地へ通勤しています。そして、そこでは、画面の向こうで命のやり取りが行われているのです。上司のジョンズ大佐は、実戦経験もあるイーガンを高く評価しており、セスナでの短期間の飛行訓練から赴任してくる他の連中より一目置いていました。一方で、イーガンは再び戦闘機に乗ることを希望していました。

無人戦闘機による攻撃というのは、テロリストがいると確認された場所へ、レーザーで照準を合わせミサイルで攻撃を加えるというもの。発射してから、5~10秒後に着弾し、画面が爆発の煙に包まれると、その後、何人殺したかをカウントする戦闘評価が行われます。でも、やっていることを見ているとテレビゲームと大差ありません。そんな簡単に命が奪われるのを、現場を遠隔に確認しながら、何度もやっていれば、善悪の判断が鈍っていくのにはうなづけるものがあります。また、その1万キロ先の死に思いを馳せていたら、そのストレスは相当なものになるでしょう。新しい形の戦争ということもできるのかもしれませんが、単に現場の兵隊が機械に変わっただけということもできます。それまで、前線より離れた司令部で作戦を指揮していたのが、直接兵士となる機械を操作するようになったとも言えましょう。戦争は理不尽で非情な殺人がついて回るのですが、現場の兵士はそれ以前に自分の命が危ないのですから、戦争の持つえげつなさに直面することが少なくなるのではないかしら。一方、無人戦闘機をエアコンの利いたオペレーションルームで操作して行う戦闘行為では、自分の身の安全が保証されているので、その戦闘行為の是非について思い悩む精神的な余裕が出てきてしまったということもできます。でも、イーガンの同僚の兵士は、そんな戦闘行為でも、テロリストを一人でも多く殺せば、それだけアメリカ国民の命を救えるのだという自負というか一種の割り切りがあり、一般人も巻き込む攻撃行為への後ろめたさも少ないようです。

直接、現場で行う戦闘行為と、無人戦闘機を操作して行う遠隔の戦闘行為には、戦争という括りの中では、同じことになるのかもしれませんが、この映画では、CIAの命令がテロリストに関与していると思われる人間を殺すためなら、その近くに居合わせた一般人も巻き添えにすることを容認しています。そういう非情な命令を下すCIAの人間には、居住地域にいる一般人や女子供を巻き添えにすることに何の躊躇もありません。一方で、実際に引き金を引く無人戦闘機のオペレータには、その行為をアメリカ人を守るための戦闘行為と割り切る人間と、戦争犯罪として葛藤する人間がいます。ここで、どちらか一方が正しいというのは、不毛なような気がします。それは正しい戦争と正しくない戦争を区別するのと同じことになるからです。でも、この映画で、戦闘員が絶対安全な場所から、テロリスト掃討のために居住区をミサイル攻撃するという戦争を見せることで、戦争の本質に一歩近づいたような気がします。自己犠牲、ヒロイズム、兵士の連帯感といったものが削ぎ落とされた戦争を見せることで、言い訳のできない戦争の本質が見えてくるように思います。

また、この映画の中で、無人戦闘機ならではの戦争の形を見せるシーンもありました。ある家を集中的に監視していると、そこの家の女使用人をちょくちょくレイプしにやってくる男がいます。レイプの現場を何度も目撃する一方で、それは戦闘上の標的ではないので無視しなくてはいけません。イーガンやスアレスは義憤にかられる一方で、ジマーはそれを冷静にながめています。その義憤は、戦争とは無関係のものですから、ここでどうこう思うべきではないのでしょうけど、イーガンたちは、幸か不幸か神の視点に立ってしまっているのですよ。日本流に言うなら、お天道様はお見通しだぜということになるのでしょうが、それが戦争のおまけみたいについてくるので、それもイーガンたちにはストレスになります。本当に悪い奴に手を出せない一方で、罪もない一般市民を殺しているというストレスは、善悪でものを判断する人間だったらたまらないものがあります。正義でものを考える人間の方が、割り切りができて、ストレスがかかりにくいのかもって気がしてきました。ジマーは一つの正義をよりどころにして、戦闘行為の全てを割り切っています。一方で、行為の善悪を気にしていくと、イーガンやスアレスのような葛藤にさいなまれることになります。ジマーには兵士の視点しかありませんが、イーガンやスアレスには明らかに自分に与えられた神の視点を意識していまして、その結果、単なる将棋の駒になりきれません。それは、現実の戦場でも同じようなものだとも言えるのですが、安全な場所で豊富な情報を把握しながら、人の命のやり取りをする方が、個々人が行為の責任を実感しやすいようなのです。その結果、戦争の善悪にまで考えが及ぶようになるイーガンはそのストレスでおかしくなっていきます。

イーガンを演じたイーサン・ホークはだんだん壊れていく主人公を丁寧に演じています。ニコルの演出は、主人公の壊れていくプロセスを家庭人のイーガンの姿として描写していくので、その壊れ方がわかりやすく、リアリティがありました。その他の演技陣も各々のパートでリアルな人間の在り様を見せて説得力がありました。ゾーイ・クラヴィッツは、自分の良心との葛藤に何とか打ち勝とうとする強い女性を演じています。また、中間管理職的な立場のジョンズ大佐は、自分の立場と職務に忠実であることを優先し、個人としての葛藤を呑み込んでいますが、そのあたりをブルース・グリーンウッドが貫禄の演技で見せます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



CIAからの攻撃要求のレベルは段々とエスカレートしていきます。最初の攻撃の後、その場にやってきた子供を乗せたトラックも攻撃するように指示してきます。イーガンはわざと無人戦闘機の通信が中断したように見せかけ、そのミッションを回避してしまいます。その結果、イーガンは降格することになり、CIAの仕事からも外されてしまいます。妻の前で自分の仕事について語るようになるイーガン。言動がおかしくなり、妻が仕事を休むように言うのですが、それを振り切って基地へと向かうイーガンに、妻は子供を連れて姉のいるリノへと旅立ってしまいます。また、戦闘地域での偵察の日々を送るイーガンですが、ある日、画面に同じ女性を何度もレイプしていた男が映ります。彼は、居合わせた他のメンバーに休憩を取るように言い、オペレーションルームに一人こもって、あのレイプの男に照準を合わせます。ミサイルは彼は命中、一時は被害者女性を巻き添えにしたかにも見えたのですが、彼女の無事を確認します。そして、オペレーションルームを出たイーガンは妻のいるリノへと向かうのでした。おしまい。

最後にイーガンは戦闘行為から離れた神の視点で、攻撃を実行してしまいます。それが、ずっとストレスに悩まされてきた彼にとってのガス抜きだったのか、それとも、彼が完全に壊れてしまったことの表現なのかは、映画の中でははっきりと説明しません。でも、一つ見えてくることは、義憤とも思えた彼の感情は、一般人を巻き添えにするCIAのやり方と紙一重だということです。極論すれば、自分の正義に基づいて人を殺すのが戦争だということもできます。そう考えたとき、CIAとイーガンにどんな違いがあるのか、そんなに大差ないんじゃないのかという視点は大変面白いと思いました。そして、彼は仕事を放棄して妻のもとへと向かうのですが、結局、彼にはストレスが強すぎて任務は遂行できなかったということになるのでしょう。そして、ストレスにさらされようが、どんな葛藤をしようがしまいが、戦争は戦争だというところに落ち着いてくるのではないかしら。そこに善悪の判断の入る余地はなく、戦争をするのに正義は必要だけど、その正義があてにならないから、戦争はしてはいけないということになるのでは? 現代の戦争がゲームのようになると、そこに見えてくるのは戦争の本質なのだという視点が大変面白い映画だと思いました。この映画では、実際にジェット機を操縦しているイーガンの戦争は善であり、無人戦闘機を操縦する戦争は悪だということは語っていません。ただ、テクノロジーの進化によって、戦争の殺人の側面だけが、抽出されてきたのがこの映画で描かれる世界であり、そこで人間は戦争の本質に向き合わなければならなくなるのではないかしら。それは、個人で飲み込むにはあまりにも大きくて重すぎるので、個人は、逆に戦争に飲み込まれるしかないのではないかという描き方は、問題提起として、大変鋭いものがあると思いました。個人と戦争の関係を描いた反戦映画として見ごたえがありました。ただ、娯楽映画としての要素が少ないので、とっつきはよくありません。それでも、じっくりと噛みしめる価値のある映画だと思います。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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