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「We Are Perfume」はPerfumeのドキュメンタリーだけど、彼女たちがアイドルに見えちゃうのは、それでいいの?


今回は、新作の「We Are Perfume」を静岡の東宝シネセブン5で観てきました。ここは、96席という小さなキャパで、フラットな場内に小さめのスクリーンという作りの映画館。感じとしては、静岡シネギャラリーを一回り大きくしましたというところでしょうか。(静岡のごく一部の映画ファンにしか通じない説明ですね、どうも失礼しました。)

もう今年でPerfumeも15周年なんですって。そんな彼女たちの3回目のワールドツアーに密着したドキュメンタリーです。かしゆか、あーちゃん、のっちの3人によるテクノポップユニットとして、アーティスト、歌手、アイドルのミックスされたポジションで人気者ですが、その3人の3回目のワールドツアーとして、台北、シンガポール、ロスアンゼルス、ロンドン、ニューヨークで行ったコンサートを追ったものです。私、アイドル結構好きなのですが、Perfumeの場合は、彼女たちの楽曲である「ポリリズム」を聴いて、へえ、面白いなあと思ったのがきっかけです。その後、歌っているのを見て、へえ、かわいい子が歌ってるんだなあって興味が出て、アルバムをゲットしたりしちゃいました。コンサートとかは行ったことないのですが、テレビに出てるとチェックしちゃうくらいのファンです。もともとテクノポップが割と好きでして、ペット・ショップ・ボーイズをよく聴いていたのですが、そのかわい子ちゃん版というのが、Perfumeに対する印象でした。

彼女たちの歌は、シンセで加工されたところがありまして、そこがテレビ出演した時に口パクだと言われちゃうのがちょっとかわいそうな気もしてますが、最近は生声に近い歌を聴かせることが多くなってきました。まあ、そんなことは映画とは関係ないんですけどね。映画は、コンサートの合間のプライベートの時間も追いながら、彼女たちの素顔に肉迫していきます、と言いたいところなんですが、それほど深い突っ込みはありません。コンサートの合間に3人でショッピングや食事に出かけるシーンもあるんですが、いかにも、アイドルのプロモーションビデオのノリなんですね。後、個々のメンバーへのインタビューも挿入されるのですが、そこから見えてくるのも、Perfumeとしての、かしゆか、あーちゃん、のっちの姿でして、Perfumeから一歩引いた、20代後半の3人の女性というものは浮かび上がってきません。いやいや、もう3人ともPerfumeと一体化してるから、Perfumeじゃない彼女たちというのは存在しないのよ、ということかもしれませんが、ディープなファンではない私からすれば「そんなことないやろ」と下司な突っ込みが入ってしまいます。別にプライベートを暴露しろとか、泣いて見せろとか言うつもりはさらさらないのですが、一人の大人の女性として、彼女たちってどんな人なんだろうって好奇心は、この映画に対して期待してはいけないということなのかしら。

それなら、彼女たちの音楽性についての思うところを聞きたいと言うのもダメなのかな。この映画では、個々のメンバーの他のメンバーに対する思い(感想に近い)が語られますが、最先端技術を使った音楽に対して、彼女たちはどう思っているのかっていうところは一切出てきません。彼女たちのステージは、CGやプロジェクションマッピングを使ったもので、その未来的ビジュアルのもとでのパフォーマンスは最先端っぽい感じ(表現が貧弱だなあ、ボキャブラリーが貧困ですみません)が素晴らしいのですが、そういうのを彼女たちが望んでやっているのかどうかなんて聞いて欲しかったわあ。

というわけで、このドキュメンタリーは、ワールドツアーの舞台裏と、オフの3人、そしてインタビューという単純な構成になっています。そんな中から、ステージを降りると、割と普通の女の子なんだよってところが見えてはくるのですが、あくまでそれはアイドルプロモーションのレベルなので、あくまでPerfumeの枠内でということになります。彼女たちがPerfumeから離れた瞬間を見せてくれたら、ファンとしてはちょっとはうれしい驚きがあるのですけどね。

ツアーの舞台裏で面白いのは、コンサートの後で、みんなで集まって「ダメ出し」をするところ。そこで、あそこがダメとか、ここをこうした方がいいとか言い合って、次のコンサートの曲目(今はセットリスト言うんですってね)を変えたりするんですって。こういうところをもって見せて欲しかったかなって気がします。すごくたくさんのスタッフが海外も同行するのですが、彼らが何をしているのかってのも気になりましたし、Perfumeの海外での知名度ってどの程度のものなのかってのも知りたかったです。海外のファンのコメントはいっぱい出てくるのですが、そこもありきたりなレベルなので、ファンなら気持ちよく聞くことができるのでしょうけど、ちょっと物足りなくも思ってしまいました。

というわけで、この映画、Perfumeの3回目のワールドツアーのドキュメンタリーでして、それ以上のものでも、それ以下のものでもありませんでした。まあ、私のようなライトなファンには、Perfumeをいっぱい見られて、それだけで眼福なのですが、彼女たちにより興味を持っている人には物足りないかもしれません。この映画では、彼女たちがいわゆるアイドルでしかなくて、アーティストの部分が見えてこなかったのですよ。それとも、実はPerfumeってのは、アーティストというより、頑張り屋さんのアイドルだったのかしら。

この映画の監督さんであるサド・タケトシという人はNHKの関連会社の人で、Perfumeのドキュメント番組を手掛けてきた人だそうで、そういう意味で、テレビ番組の延長に作られた映画らしいのです。でも、お金を取って見せる映画と、テレビ番組はやはり違うと思うのですよ。もう少し対象に肉迫してほしいってのが、2000円(この映画は特別料金で2000円均一なんですよー、なんでー?)払って、スクリーンに臨んだ観客の要望なのであります。まあ、NHKは観客から金取って番組作ってるから、映画と似たようなもんだってところもあるんですが、スクリーンに映す映像だってのは、少しは意識して欲しいわあ。

とは言え、Perfumeビギナーの人には、かわいい女性3人が海外でコンサートして拍手喝采を浴びてるってのは、結構インパクトありますし、そのキャッチーな音楽も耳に残りますでしょうから、見応えを感じることができると思いました。ただ、Perfumeビギナーが、2000円払ってこの映画観るかというと、そんなわけないよなあ。
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「サヨナラの代わりに」は意外とシビアなアプローチ、後、ダンナはちょっとかわいそう。


今回は新作の「さよならの代わりに」をヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。ここは、年1000円の会費で、映画が毎回1300円で観られて、金曜日だと1000円で観られるという会員カードがあります。ここはラインナップが面白いので、来られる機会のある方には結構お得な制度です。

ケイト(ヒラリー・スワンク)はダンナのエヴァン(ジョシュ・デュアメル)と充実した暮らしを送っていました。そんな彼女が35歳で、筋肉の力が徐々に失われていくというALSという難病にかかってしまいます。1年半後、歩行器と車椅子で暮らすケイトは自分を患者としてしか扱わない介護人をクビにして新しい候補者を探していました。そこへやってきたのが大学生のベック(エイミー・ロッサム)。やたらと男を取り換えるような暮らしをしていて、料理も介護もやったことがなく、エヴァンの反対を押し切って、試しに1日使ってみれば、口は悪いし、きちんと介護もできないし、ジュースすら作れません。それでも、ケイトはベックを採用することにします。それは、彼女が自分の話を聞いてくれそうだから。でも、ベックは遅刻ばかりで仕事やる気があるのかも怪しい。ベックは歌手志望で店で歌う機会ももらうのですが、いざとなると歌えない。そんなある日、エヴァンが友達と飲んで夜遅くまで帰ってこないのを気になったケイトはエヴァンのPCを、ベックに持って来させ、メールを開くように言います。性格はズボラだけど、そういうところに倫理観のあるベックは拒否します。それでも、ケイトの懇願にメールを開くと、そこには浮気の証拠メールが。ショックを受けたケイトは、家を出てベックに頼んで彼女の部屋へ転がり込んじゃいます。ケイトを探すエヴァンに、ケイトは別れを宣告し、ベックはケイトの家に住み込んで世話をするようになるのでした。

ミシェル・ウィルジェンの原作小説を、シャナ・フェステと「ベイ・マックス」のジョーダン・ロバーツが脚色し、舞台の実績もあり「最後の初恋」も監督したジョージ・C・ウルフが監督しました。いわゆる難病ものですが、患者と介護人の友情に焦点をあてて、死を受け入れることと正面から向き合うドラマに仕上げています。ALSという病気は一度かかってしまうと、病状が良くなることはなく、進行を遅らせることができるかどうかというレベルの難病だそうです。ケイトは愛する夫と暮らしていましたが、病気になってからは、彼のいるときは、身の回りの世話をしてもらい、彼が仕事に行ってる間は介護人を雇って世話をしてもらっていました。でも、ケイトはベテランの介護人をクビにして、経験もないずぼらな大学生ベックを介護人として雇うことにします。なぜ、ケイトは彼女を選んだのかはよくわからないのですが、ベックはケイトの傍記に全く気を遣わない、家事一般はまるでできないと、家に置くにはいいところなく、その上、遅刻の常習者です。でも、ケイトは彼女をクビにしません。そんなある日、ケイトの夫の浮気が発覚したところで、二人の関係に転機が訪れます。夫のi-padをベックに持ってこさせて、メールを開けるように言います。そういうのはしたくないベックは拒否、それでもの懇願にメールを開けてみれば浮気の証拠が。そこで、ベックが彼女を自分の部屋へ連れていき、二人の距離は一気に縮まります。

この後は、ベックがケイトの家に住み込んで、彼女の病気の進行を見守ることになります。プールで同じALSの女性とそのダンナと知り合いになったり、ベックのルームメイトや、恋人未満のボーイフレンドを家に招いて感謝祭のパーティをしたりします。いつの間にか、ベックはケイトの介護や家事を身につけて、パーティの料理まで作るようになっています。いつの間に?という気もするのですが、ウルフの演出は時間の経過を結構ぞんざいに扱っているように見えます。ある意味、大雑把な演出なのですが、トータルな時間の経過よりも、個々のエピソードが際立つようになりましたので、それはそれでありなのかも。

ケイトは悪くなる一方の病気と自分自身の中では折り合いがついてるように見えます。でも、ダンナの人生が自分のせいで不自由になっちゃうのに耐えられません。ダンナが浮気したのは許せないけど、ダンナが浮気した原因が自分の病気のせいだと思う事に耐えられないって感じ、すごく共感できました。私は因果と丈夫なシングルオヤジですが、自分に大事な人がいて、自分の病気でその人の人生を食いつぶしてしまうとしたら、それはすごく引け目になるでしょうし、引け目に直面する度に痛みを感じることになるでしょう。浮気したダンナは確かに悪いけど、妻にあそこまで拒否されるとつらいよなあ。ダンナの方もずっと引け目を抱えたまま、妻の死を待つ人生になっちゃうんだもん。この映画では、ケイトを悪く描く部分がないので、相対的にダンナ悪い人みたくなっちゃってますが、結局、相互に負い目を感じるようになってしまうのでは、その関係を維持するのは難しそうです。「生きてくれさえすればいい」って、日本映画の決めセリフにありましたけど、現実はそうはいかないってところを、オブラートにくるみながらも、結構シビアに描いています。病状が進むにつれて、呼吸が苦しくなってむせることが多くなり、言葉も不明瞭になって、ベックが彼女の通訳までやるようになります。

ヒラリー・スワンクは、難病であってもプライドは保ちたいと願う女性を強めの演技で熱演しています。自分の病気が他人の人生を削り取ることに耐えられないという部分は見ていて痛くなるようなところもあり、単なる強いヒロインに終わっていないところに奥行きが出ました。エイミー・ロッサムは、人生これからだけど、何をしていいのかわからないえ日々をやり過ごしてきた女性を丁寧に演じていまして、ある意味、病気以外は完全無欠なケイトに対して、欠点だらけのベックにリアリティを与えることに成功しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



そんな時に、ベックとの関係は、ケイトにとって、負い目を感じない丁度よい距離感でした。ところが、ある日、ベックの母親が、ケイトの家にやってきて、今、ベックがケイトと一緒にいることは結局何も生まない不毛な時間だと言い切ってしまいます。自分のためにベックの今と未来を浪費させる負い目に直面させられたケイトはベックを有無を言わせず追い出してしまうのでした。ベックの母親を、ごひいきマーシャ・ゲイ・ハーデンが演じていて、ちょっとの出番で説得力のある演技を見せます。そして、ケイトは実家へと帰り、ダンナも彼女に付き添うようになります。そして、とうとう人工呼吸器でないと生きられない状態まで病状は悪化します。ケイトの呼吸器を外すかどうかの判断を彼女はベックに委ねていました。それは、色々あったけど、彼女への信頼の証でもありました。ベックはケイトの想いを汲んで、呼吸器を外し、家へ連れて帰る決断をします。まだ意識があり、言葉も多少は話せるケイトにとっても望む決断でした。もう長いことはないことを知っている二人は、お互いに感謝の言葉を交わします。その時が来たことを悟ったケイトは、朝まで誰も部屋に入れないようにとベックに告げます。しかし、咳き込んで苦しむケイトを見かねたベックは彼女のもとへ行き、ケイトを抱きしめて最期を看取るのでした。家の前で呆然と座り込んでいるベックに彼女を好きな青年が寄り添うところで暗転、バーでケイトにインスパイアされた歌を歌うベックにエンドクレジットが被さります。

ケイトが人工呼吸器なしで生きられなくなってからは、ウルフの演出はできるだけ省略を排して、死に向かうケイトとそれを看取るベックを丁寧に見せます。ケイトの最期は、現実音をオミットして、音楽を流し、ケイトを抱きしめるベックのアップで見せるのですが、ここも死をぎりぎりのところまで見せようという意図が感じられました。ベックの人生はこれから始まるんだよという余韻も心地よいものでした。最後にケイトが家に帰るとき、ダンナも一緒に付き添うのですが、死へと一直線に向かっていくケイトを見るのに耐えられなくなり、最期の時には姿を消しています。まあ、ケイトとベックのお話なので、脇役は途中退場しちゃうのもやむなしなんですが、ダンナのケイトへの愛情が薄いように見えちゃうのはやっぱりダンナお気の毒かも。基本、ダンナも善意の人なんですが、逆境にタフになれなかったというだけで悪役みたいにされちゃうのはねえ。

「RE:LIFE リライフ」は中年男女のラブロマンスものとして大好き


今回は新作の「RE:LIFE リライフ」を川崎のTOHOシネマズ川崎4で観てきました。映画館の注意事項で食べ物の匂いなんてものあるご時世なのに、ビールを売ってるってのは、どうも納得できません。と、いうより嫌いなんですよ、ビールの匂い。オップコーンのバターのきついのや、香水とか気になるものはあるのですが、ビールは別格にやだ!

かつて、オスカーを取ったこともある脚本家のキース(ヒュー・グラント)ですが、最近は停滞気味。電気もとめられちゃう状況で、それまで避けてきた大学講師の仕事を受けざるを得なくなります。ニューヨークの近くのビンガムトンという片田舎の大学で脚本コースの講師をすることになり、引っ越し早々、脚本コース志望の女の子カレン(ベラ・ヒースコート)とベッドインできて出足は上々。クラスの受講者も顔で選ぶという傍若無人ぶり、初講義で一か月の休講を言い渡したりして、大学のお局教授ににらまれてしまいます。シングルマザーの大学生ホリー(マリサ・トメイ)がキースに脚本の批評を執拗に求めてくるので、キースはやむなく彼女もクラスに加えます。ホリーは、クラスで何を教えていいのか困るキースに助け船を出したり、街の名所の回転木馬を案内してくれたり、単なる生徒というよりも大人の友人として接してくれます。それでも、キースとしてはカレンとイチャイチャするほうが楽しい。でも、生徒と講師が恋人関係になるのは大学のルール違反、下手をすればクビになると聞いて、キースもちょっとは思い直すようになります。一方、脚本コースのクラスは、キースが段々やる気を出してくるに連れて、授業の質も、生徒の書いてる脚本の質も上がってきます。そして、大人に気遣いのできるホリーにキースは徐々に心惹かれていくのでした。

「トゥー・ウィーク・ノーティス」や「ラブソングのできるまで」でヒュー・グラントと組んだ実績のあるマーク・ローレンスが脚本を書き、メガホンを取りました。過去に1発当てた映画でオスカーを取ったものの、後は鳴かず飛ばずの脚本家が地方の大学の講師になって、生徒に脚本を教えることで、人生のやり直しに直面するというお話。最初はハリウッドから都落ちしたのがイヤでイヤでしょうがない主人公は、脚本クラスにも全然ややる気を見せません。自分のタイプのカワイコちゃんと二人のオタク男子を選んでクラス編成しちゃいます。その上、最初の講師の懇親会で、お局教授の専攻であるジェーン・オースティンをこきおろした挙句、セクハラ発言までして、にらまれてしまいます。このダメ人間をヒュー・グラントが飄々と、観客の反感を買うギリギリのラインで演じて、物語をコミカルに運んでいきます。ただ、ダメ男だけのお話だと共感を呼びにくいところを、ホリーという分別と思慮のある女性を登場させることで、大人のドラマとして見せていくあたりが見事です。ホリーを演じたマリサ・トメイが抜群によくって、大人になりきれない中年脚本家と対照的な、大人の思慮分別を嫌味にならないキャラになっています。元ダンサーで10歳くらいの娘が二人いて、大学の購買部で働きながら、大学生をやってるシングルマザーを、地に足の着いた女性として演じ切りました。前から彼女のファンで彼女の出ている映画は見逃さない私は、彼女を見ているだけでこの映画のモトを取れました。後半、ドラマが大人の恋愛ドラマへ傾いていっても、映画がぶれないのはマリサ・トメイだからできた技だと思ってます。

最初、脚本クラスを受ける生徒はみんな30ページの脚本を書くことになっていて、それを手直ししながら講義は進んでいきます。オタク学生がキースをうならせる才能を持っていて、キースのアドバイスで手直ししたものをエージェントに持って行ったら映画会社と契約まで行ってしまうというエピソードも登場します。面白いと思ったのは、脚本で大事なのは、書きたいと思う動機だということ。キースがオスカーを受賞した脚本のそもそもの動機は、死を恐れるようになった5歳の息子のためのおとぎ話だったと、彼は言います。そして、脚本を書いている途中での行き詰まりを打ち破る力になるのがその動機だというのです。今、私はブログに映画についての文章を書き続けているわけですが、その動機は、観た映画の印象や記憶を忘れる前に書き留めておきたいというところにあります。ですから、ブログ記事を書いてて行き詰ったら、感想とか思うところをすっとばかして、映画の記憶に残っているところだけ書き出すなんてこともやってます。映画の脚本と感想を同次元に語るのはナンセンスなのですが、日記であれ、ブログであれ、脚本であれ、物を書くときって、なぜ書きたいのかと思い返してみるのは結構大事なことなのかなって気付かされました。なぜ、書かなくてはいけないか、いやいや別に書かなくていけないものじゃない、じゃあ、なぜ書きたいのか、そこの理由を意識できれば、書くのが面白く、楽しくなってくる。理由がわからず惰性で書いてると、その時間がだんだん苦痛になってくる。かなり低レベルな話で恐縮なのですが、ともかくも、動機を意識していると、書くのが楽しくなってくるってのは、何を今さらの発見ではあるのですが、もう少しブログを続ける理由を見つけたような気分になりました。

映画は、冒頭で、キースが生徒と寝ちゃって付き合うようになるという展開で、その関係がドラマのメインであるように思えるのですが、その関係がお局教授の耳に入ってしまい、自主退職するか、査問会を受けるかいずれかを選択することになっちゃうことで状況が変わってきます。一方で、大人の友人として接してくれるホリーの存在が、キースにとって大きなものになってくるのです。このあたりのドラマのシフトの仕方が大変自然に、かつ微笑ましい感じで描かれているのが、この映画の大きな魅力になっています。最初は、キースの恋人だったカレンが、だんだんとクラスの一人の生徒となっていき、一方でホリーが一人の生徒から、友人以上の存在になっていくあたり、マーク・ローレンスの演出は、グラントに大芝居をさせず自然にその経過を演じさせて、ドラマとしてのうまさを見せてくれます。また、最初は講師であったキースを友人として、さらに友人以上の存在として見るようになっていくホリーを、自然な女性のたたずまいで演じ切ったマリサ・トメイが見事でした。一応、コメディタッチでドラマは進みますし、J・K・シモンズをはじめとする大学側の人間たちが笑いを取るのですが、キースとホリーのドラマはすごく真面目に撮られているところも好感度高かったです。ドラマチックな盛り上がりはない、キースとホリーの関係を微笑ましく思うとともに応援したくなるところが、この映画のうまい、そしてにくいところです。

映画の脚本クラスを題材にしているだけに、お話の中にも映画のネタが多数登場して笑いを取ります。ディズニーとタランティーノや黒澤、ベルイマンを同一レベルで扱えるのかと生徒が言い合うあたりも面白いと思いました。どんな映画であっても、その映画の価値は観る方が決めるものだと、私は思っています。娯楽映画とか芸術映画というジャンルはあるとは思いますけど、そこに上下関係はなく、観た個人の価値観による評価が、観た人の数だけあるのではないかしら。そして、その先にあるのは、評価に対する共感と反感、もっと突き詰めれば、好きか嫌いかというレベル。好きか嫌いかを語るにしては、長々と文章を書いてるじゃないかと言われそうですが、それは自分の好き嫌いに誰かが共感してくれたらうれしいからです。うーん、単なる好き嫌いと言いきっちゃうと自分の書いてるものが、すごく低レベルのような気もしてきましたけど、私のブログに書いてあるのを突き詰めると、好きか嫌いかなんですよね。

一方、映画を作るのは、観客のためじゃない、自分のために作るのだという人もいるでしょう。そういう人はお金を作るか、パトロンを見つけるかして、自分の思い通りの映画を作ればいいのだと思います。自分の子供のために映画を作りたければ、そうすればいい。そして、誰にも見せずにしまっておけばいいのです。お金を取って、人に見せようとするのであれば、お金を払ってくれた人にそれなりの対価を払う必要はあると思います。そして、お金を払った人はその対価として、その映画を評価できる、もう少しくだけた言い方をすると、その映画に対して言いたいことが言えるのではないかしら。今のYouTubeなんてのは、タダで観たものを評価の対象にすることができます。対価は観た人ではなく、公告屋さんが払ってくれるなんて、手の込んだ時代になってきました。何だか話が映画から離れてしまいました。文章がぶれぶれですね。この映画は、ぶれないところがいいなんてほめておきながら。

ともかくも、この映画、売れない脚本家の部分は、映画界の裏話的なところがあって、まあまあの面白さなのですが、中年男女の友情からの恋愛ドラマとして観ると、すごく好きな映画ということになります。それは主演二人のよさもあるのですが、男女の関係をこういう風に積み上げるのかってところの描き方が大変魅力的なのですよ。もっと言うなら、いい大人でもこういう恋愛をしてみたくなるドラマだと言ったらほめすぎかしら。ともかく、私のストライクゾーンにはドはまりの映画でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



最初は、辞めるか査問会かという二者択一を迫られたキースは講師を辞める方を選択します。脚本クラスの授業で、辞職することを宣言しますが、オタク生徒の脚本の映画に名を連ねるために生徒と一緒に、プロデューサーと面談しているうちに気が変わってきます。そして、大学に戻って、査問会を受けると言い、お局教授にも改めて謝罪します。彼女はもう一度やり直したいというキースの気持ちを汲んで留任を許します。その足で、キースは購買部で働くホリーを訪ねて、彼女にもう一度教師をやり直すこと、そして二人の関係をやり直したいことを告げると、彼女もそれを受け入れるのでした。学期が終わるのがいつか気にするキースに笑顔で応えるホリー、外へ出ると、この土地では珍しい快晴のお天気なのでした。めでたし、めでたし。

キースが、ホリーの働くレストランに出かけて、仕事中の彼女と痴話げんかみたくなっちゃうシーンとか、ラストで購買部で愛の告白をしてると、後ろに人が並んでいて苦笑されちゃうといったシーンのおかしみが、ちょっとしたドラマのスパイスになっているのにも感心しました。それに、ドラマ的にはラストでやっと二人の恋愛関係が始まるというところもいい感じの結末としてツボでした。

「ローマに消えた男」は双子の寓話に政治的な暗喩がありそうで、見つからない、かな?


今回は新作の「ローマに消えた男」を恵比寿ガーデンシネマ1で観てきました。ここは、新しくなって、シネスコの映画をビスタサイズのまま上下が切れた形で上映します。これだと、暗い画面だとシネスコサイズの映画なのか、ビスタサイズなのかがわからなくなり、シネスコサイズの画面の構図を楽しめないのでいらつきました。フレームサイズを上映サイズに合わせないとそのサイズを堪能できなくなるってことに映画館が無頓着すぎます。シネスコフレームでビスタサイズの映画を上映するのも同じことで、暗い画面だとシネスコサイズなのか区別がつかなくなります。何で、そういうところに気を回してくれないのかなあ、プンプン。


イタリア最大野党の書記長であるエンリコ(トニ・セルヴィッロ)は、党の支持率が低迷していて政治生命の危機に立っていました。ストレスに押しつぶされたエンリコは失踪、側近のアンドレア(ヴァレリオ・マスタンドレア)が探し回るのですが、見つかりません。エンリコの妻アンナ(ミケーラ・チェスコン)から、エンリコにはジョヴァンニ(トニ・セルヴィッロ)という双子の弟がいることを知り、彼を代役に立てようとしますが、ジョヴァンニは精神病院を退院したばかりで、薬の服用が必須という状態でした。しかし、アンドレアはこの男に党の運命を賭けてみることになります。失踪したエンリコはパリの元カノ、ダニエル(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)の家に転がり込みます。彼女の夫と娘もうさん臭いオヤジを暖かく迎え、ダニエルの仕事場である映画の撮影現場で小道具係の代役として働かせてもらって少しずつ元気を取り戻していきます。ます。一方、ジョヴァンニは、エンリコに成りすまし、記者の取材や集会の演説でウィットに富んだコメントをして、どんどん点数を稼ぎ、党の支持率を上げていきます。党大会の演説では、ブレヒトの言葉を引用して会場を感動させ、首相や大統領との会談でも、彼は相手の心をとらえて魅了します。しかし、それは彼の狂気のなせる業でもありました。そんな時、エンリコを演じるジョヴァンニが姿を消してしまい、アンドレアはショックを受けます。そのころ、エンリコもダニエルの前から姿を消していました。

「そして、デブノーの森へ」のロベルト・アンドーの原作を、アンドーとアンジェロ・バスキーニが脚色し、アンドー自身がメガホンを取りました。双子なのに、性格も知識も異なる兄弟が入れ替わるというお話は寓話のようでもありますが、主人公のエンリコは政党の書記長という立場で、結構生臭いお話のようでもあります。エンリコは党の支持率がガタガタでその立て直しを迫られています。選挙を直前に控えて、党の状況から右派与党との共闘も考えねばならないほど追い詰められていて、その状況の責任はエンリコにあるということで、党大会でもヤジられる始末。そんなストレスから、エンリコは失踪してしまいます。行先はパリのかつての恋人ダニエルのところ。夫も娘もいるのにダニエルは彼を暖かく迎えてくれます。そこで、少しずつ元気を取り戻し始めるエンリコ。一方、側近のアンドレアは、エンリコが病気で入院中ということにして時間を稼いで、彼の双子の弟ジョヴァンニの存在を知って彼に会いに行きます。精神病院を出たばかりのジョヴァンニは、兄の替え玉を演じることを躊躇なく承諾します。若い頃、彼の替え玉を演じたことがあったようですが、二人は最近は25年間音信不通でいました。とにかく二人は見た目がそっくりなので、アンドレアら側近は、ジョヴァンニをエンリコの替え玉に使おうということになります。そして、ストレスで憔悴しきっていたエンリコは一晩で、笑みをたたえた陽気な別人のような男として公の場に姿を現すのでした。

ジョバンニの部屋は本だらけで、大学教授か哲学者みたいな風情のジョバンニは、政治家というには、ストレートな物言いで、記者に接し、その言動は、爆弾発言として新聞に載ります。新聞社の社長に挑発されても、ウィットに富んだ返しで相手を黙らせたり、エンリコとはまるで別キャラなのですが、それでも見た目がそっくりなので、病気から復帰したエンリコとして、彼は多くの人の支持を集めることになります。この映画では、現在のイタリアでは、多くの人が虐げられていて、人々を力を失いつつあるという描き方をしています。そして、その現状を打破するためには野党勢力が情熱を持って政治を変えることだという見せ方になっています。そういう意味では、かなり政治的な意図を持った映画のように見えます。ジョバンニが党大会でする感動的なメッセージは、単に現状を憂うだけでは、変化は起こらず、国民一人一人の情熱こそが政治を変えていくというもので、それを、政治家のエンリコではなく、狂人のジョバンニに言わせることに、演出の狙いがあるようです。政治というものを政治家や党というものから、もう一段人間のレベルまで落とすことで、何かが変わるという見せ方で、そこに希望を残す結末になっています。ある意味、政党というものには期待できない、最終的に個人、特に個人の情熱が社会を変えるというのは、抽象的な理想図であり、それができないから政党が右往左往しているというところなんですが、それを否定的に描くのはどうなのという気もします。現状のイタリアの政治に対する期待度が高いから、そういう理想図を描けるのかなっていう気もしました。日本だと、こういうことを言っても響かないくらい、閉塞感が高いですから、イタリアはまだ政治に希望があるのかも。

エンリコが訪れた場所は、ダニエルの仕事場所である映画撮影現場。そこで、倒れた小道具係の代役をするようになり現場スタッフと仲良くなります。ダニエルの娘も突然の侵入者であるエンリコに心を開きますし、何だかいい感じの人間関係を築くことは上手なのは、さすがは政治家というべきか。弟が偽の自分を演じて好評なのは新聞で読んで知っているのですが、それに腹を立てるのでも嫉妬するのでもなさそう。エンリコが何を考えているのか今一つ伝わって来ないのは狙ってやっているのか、たまたまそうなっちゃったのか、よくわからないのですが、とにかく政治家としての日々を逃げ出せたことには満足しているみたいです。じゃあ、彼自身のアイデンティティがどうなっちゃったのかというと、行き場を失ってしまったようなところがあります。それは、従来の政党の形にこだわった政治が行き詰ったことと対になっているようにも思えます。最終的に果たしてエンリコは自分の居場所を取り戻すことができるのでしょうか。

演技陣では、主演で二役を演じたトニ・セルヴィッロがオーバーアクトの寸前でうまい役者ぶりを見せます。イタリアで助演男優賞をとったヴァレリオ・マスタンドレアは、二人の兄弟に翻弄される政治参謀を手堅く演じて印象的でした。また、スクリーンではお久しぶりのヴァレリア・ブルーニ・テデスキが魅力的な元カノを好演しています。昔の恋人を好きなんだけど、どこかでぎりぎりの一線を引いている女性を細やかに演じて、この映画の中で一風変わったヒロインになっています。昔よりほっそりしたという印象があるのですが、単に年を取っただけなのかも。アンドーの演出は、エンリコとジョヴァンニを細かいカットバックで並行的に描くという見せ方を何度も使っていまして、そのうちにどっちがどっちかわからなくなってくるカットもありました。そこは狙っているのかな。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



姿を消したジョヴァンニを探し回るアンドレアですが、彼を見つけることができません。一方で、ダニエルに置手紙を残してどこかへいなくなるエンリコ。夜中の街を車で走り回るジョバンニ、そして、子供の頃のジョバンニとエンリコのイメージカットが重なり、双子の間に何かがあったかのような見せ方の後、アンドレアが捜し疲れて、エンリコの家へ帰ってきます。そこには、エンリコが座っていて、「君たちは狂人に賭けて勝利した」と言います。何も言い返せないアンドレアが引き上げようとすると、鼻歌を口ずさみ始めるエンリコ、彼はジョヴァンニなのか?含み笑いから、高笑いにかわるエンリコかジョヴァンニの姿を映して暗転、エンドクレジット。

ラスト近くで、ジョヴァンニとエンリコがカットバックされていくうちにどっちがどっちかわからなくなっていきます。幼い双子の少年のカットがインサートされ、何か特別な意味があったかと思わせて、ラスト、エンリコの家にいる男は、エンリコなのか、ジョヴァンニなのか判然としないまま映画は終わってしまいます。私は、ラストで二人の兄弟は一人に合体したかのような印象を受けました。政治のエンリコ、哲学のジョヴァンニが合体することで、政治の現実と理想が合体して、新しい希望の変化を遂げた瞬間というふうにもとれたのですよ。でも、政治の理想のと現実を、どうして双子に例えることができるのかというと、ちょっと無理があるかなという気もするので、この解釈はあてにならなそうです。とは言え、かなり政治的な意味づけがされている映画のようなので、こういった視点から見ていくと何かメッセージが得られる映画なのではないかしら。

「夏をゆく人々」のファンタジーとしての後味がどこか不思議な味わいのカンヌグランプリ。


今回は、東京での上映は終了している「夏をゆく人々」を関内の横浜シネマリンで観てきました。岩波ホールで上映する映画を横浜でやってくれるというのはありがたい限りです。

イタリアの片田舎で昔ながらの養蜂を営むヴォルフガング(サム・ルーウィック)は、妻アンジェリカ(アルバ・ロルヴァケル)と4人の娘、そして居候の中年女性ココと一緒に暮らしていました。養蜂に関しては長女ジェルソミーナ(マリア・アレクサンドラ・ルング)と一緒に作業してまして、かなりの作業を彼女に託すというか依存している状況です。思春期を迎えるジェルソミーナには、一家の跡取りみたいな扱いをされることには、若干の抵抗があるみたい。そんなある日、湖の島に家族で遊びに行くと、そこではテレビの「ふしぎの国」という番組が収録を行っていました。番組では、エトルリア文化の遺産や、今も伝統に則った生活をする人々を取材していまして、そういう文化を引き継いでいる家族を募集していました。コンテスト形式で優勝者には賞金も出るとのことで、ジェルソミーナは応募してみたいと言うのですが、父親に「くだらない」と一蹴されてしまいます。でも、一家には、役所から蜂蜜精製施設の衛生上の改善命令が出ていまして、そのためのお金が必要でした。そんな時、父親は家族で内緒で「少年更生プラン」として犯罪歴のある少年マルティンを預かることにしてしまいます。母親は、娘たちに危険だと反対しますが、父親は勝手に話を進めてしまうのでした。彼は言葉をしゃべらないのですが、美しい口笛で家族みんな、特にジェルソミーナを魅了するのでした。蜜蜂は農協の推薦する除草剤によって多くが死亡してしまい、養蜂そのものが難しくなってきていました。一方、村は、テレビでエトルリア文化が紹介されることで、観光化を期待する空気がありました。ジェルソミーナは両親に黙って「ふしぎの国」のコンテストに応募してしまいます。するとテレビ局の人間が両親の留守にやってきて、蜂蜜製造所を見てコンテストに出場することを決めてしまいます。それを知った父親はお怒り状態なんだけど、ジェルソミーナは大丈夫なのかしら。

カンヌ映画祭でグランプリを受賞した映画なんですって。この間「黒衣の刺客」を見て、カンヌって自分には合わないらしいと気づいたので、あまり期待しないでスクリーンに臨みました。ただ、養蜂家の一家という設定がちょっと魅力なので劇場に足を運んだのでした。イタリアの新進監督アリーチェ・ロルヴァケルが脚本を書きメガホンも取った一品です。舞台はイタリアの田舎でエトルリア文化の遺跡がある歴史ある土地。そこで、一家で養蜂業を営んでいるわけですが、父親は一家の長として君臨していて、長女のジェルソミーナは当たり前のように養蜂にこき使われていました。ジェルソミーナは13歳くらいでしょうか、思春期を迎え、女性としての意識と自我が生まれてきて、そんな日常に疑問を感じるようにもなってきました。次女のマリネッラは何か理由をつけて仕事をなまけたり母親に甘えたりしてジェルソミーナをいらつかせたりします。三女と四女はまだまだちびっこで家の中を賑やかしています。映画は、養蜂の日々を丁寧に描写していきまして、蜂を相手になかなかの重労働をこなしているのをリアルに見せてくれます。たくさんの蜂を相手の危険な作業から、蜂蜜の精製作業まで、それは伝統に沿った昔ながらの方法らしいのですが、お役所からは、食品衛生上の指導が来ていまして、施設の改装のためにお金が必要な状況でした。なのに、父親は金を軽蔑しているところがありまして、金より大切なことがあると豪語しています。そんな一方で、教会の蜂の巣駆除をしたときはがめつく料金を請求するところもあり、昔かたぎなのか、社会不適合者なのかよくわからない父親なのですが、このオヤジに一家が振り回されている感はあります。

ただ、それは今風でない伝統的な家族の形という描かれ方で、必ずしも非難の対象というわけではありません。昔ながらのこういう一家がいてね、という描き方がちょっと意外に感じられました。これって、自分が、今風が善で、昔ながらは悪という構図で描かれたドラマに慣らされているのかなって気がしました。あるいは、何かについて、それを善悪、好悪という二択のどちらかに分けなきゃいけないと思い込んでいる自分がいるのかもしれません。そこにあるものを、そこにあるものとして受け入れられなくて、善悪のレッテルを貼らないと気が済まなくっているのは、自分が老化して思考が硬直し始めたのかなって気がしてきました。若い頃の方がこういう設定をそういうものだと素直に受け入れることができたのに、年を取るってのは結構怖いことだわねえ、って、映画とは違うところで発見がありました。

ヒロインのジェルソミーナは、テレビの撮影で司会をしているミリーという女性に魅せられます。単に美しいだけでなく、自分の知らない世界へつながっている彼女に憧れを感じるジェルソミーナ。ミリーを演じてるのがモニカ・ベルッチですから、その存在感は抜群で、なるほど誰でも惚れ惚れとするよなあという説得力があります。彼女の番組で行う「ふしぎの国」コンテストに出場したいと言うジェルソミーナ。優勝すれば賞金が入るし、テレビで蜂蜜の宣伝もできるし、家族にとってもいいことだらけの筈なのに、父親は「くだらない」と一蹴。自分の周囲が変わらないまま時間が過ぎていくことが幸せらしいのです。子供も成長して巣立っていくだろうに、そういうことは考えたくもないタイプ。ジェルソミーナはそんな父親に反抗することができません、と言うか逆らうという選択肢は彼女の中にはないようなのです。そんな彼女にできる精一杯のことが、親に黙って「ふしぎの国」コンテストに応募することでした。彼女の変わらない日々の中に新しい風を吹き込むイベントになるはずでした。

父親はドイツの「少年更生プラン」なるものに申し込んで、盗みと放火の前科のある少年マーティンを引き取ってきてしまいます。母親は娘の心配をするのですが、父親はそういう意識は微塵もありません。父親はマーティンを息子のように扱って仕事を仕込みたいと思うのですが、言葉を一言も話さないマーティンは期待ほどには動いてくれません。でも、口笛が上手なマーティンに、ジェルソミーナは好意を感じます。ジェルソミーナはあまり感情を表に出さないのですが、彼に対する態度にほんのちょっとだけ感情の揺らぎが出ます。ジェルソミーナを演じるマリア・アレクサンドラ・ルングは演技経験のない素人からの起用だったそうですが、年頃の女の子の細やかな情感を表現していて見事でした。演出の力もあるのでしょうけど、実際に蜂の群れを相手に養蜂シーンを撮ったりしていて、本人もかなりの頑張り屋さんだなあって感心。

ドラマはリアルな養蜂一家の日々の繰り返しから、非日常のイベントであるテレビ番組が入ってきて、さらにマーティンという少年が家に入ってくることで、ジェルソミーナに取って何かが変わり始めるという流れでドラマは進んでいきます。そして、クライマックスからラストに向かって、映画は非現実のファンタジーが入り込んできて、不思議な後味を残して映画は終わります。映画として面白いかというと面白いシーンも多いですし、登場人物もよく描かれているのですが、ラストの締めのせいで、不思議な映画という印象が残りました。ジェルソミーナの存在感も曖昧になっちゃう後味で、映画的な面白さもあやふやしたものになっちゃったように思いますが、そこが面白いという見方もあると思うので、お時間のある方には一見をオススメしちゃいます。他の方の感想も聞きたくなる映画です。

ちょっと気になったエピソードは、母親がジェルソミーナに「実は」と何かを伝えようとするところ。そこで母親は妹に呼ばれて、それっきりになってしまうのですが、この一家は、何か秘密があるようです。それは映画の終わりまで何かわからないのですが、ラストでココが「家には秘密があるべき」というようなことを言うので、この映画の中で、秘密というものは何か意味があるようです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



結局、一家は「ふしぎの国」コンテストに出場することになります。古代風の衣装を着て、湖の中の島の遺跡に向かうとそこには7家族が招かれていて、各家族にインタビューされます。ジェルソミーナは、マーティンの口笛に合わせて口の中から蜂を出して顔に止まらせるという芸を見せて周囲をびっくりさせたりしますが、コンテストは他の家族が優勝します。何となくいい感じになっているジェルソミーナとマーティンを外に連れ出したココは二人に抱き合うように仕向けますが、触れられるのが嫌いなマーティンが逃走、警察が捜索するのですが、結局見つけ出すことができませんでした。ジェルソミーナは彼を探し出すと宣言して、単身もう一度島へと向かいます。遺跡の奥に入っていったジェルソミーナはそこでマーティンを見つけます。遺跡の中で寄り添って眠る二人、揺れる炎の影が動いて飛び跳ねて楽しそうな二人が幻のように映ります。外のベッドで一家そろって眠っているところへ、ジャルソミーナが帰ってきます。「お前の居場所はここにある」とベッドに入るように促される彼女が口笛を吹くと、庭のラクダが歩き始めます。カメラがベッドに戻るとそこには誰もいません。そして、家を映すと、そこにももう誰も住んでいないのでした。暗転、エンドクレジット。

ラストに家に帰ってきたジェルソミーナのシーンは、彼女が見た夢のように思えました。彼女には帰ってくる場所があることを示してはいるのですが、さらに誰もいなくなるラストはどう解釈していいのか困ってしまいました。ふーん、何だかリアルな思春期少女のお話だと思っていたのに、ラストはファンタジーっぽくなっちゃうんだなあって。ラストで彼女は、帰る居場所はあるんだけど、それでも家族から去って行ったような後味が残ってしまったのですが、このあたりは見る人によって感じ方は様々だと思います。私にとっては、やっぱりカンヌってケッタイなものを推す映画祭なんだなあってのを再認識することになりました。少女、思春期、養蜂、ファンタジーといったキーワードの取り合わせとしては、すごく魅力的ですし、映画としても「黒衣の刺客」のような理解不能なものではないですし、それなりに面白かったです。このロルヴァケル監督の次回作には期待したくなりました。

「ピッチ・パーフェクト2」は音楽のパワーで魅せる映画、前作と趣が違うところは好み分かれるかも。


今回は新作の「ピッチ・パーフェクト2」を川崎のTOHOシネマズ川崎7で観てきました。ここの映画の半券は、同じビルの食堂で1割引きなんかに使えるのですが、考えてみたら、消費税分出してもらってるようなものだと気づいて、ありがたみが今イチになった、せちがらいご時世だなあとしみじみ。

バーデン大学のバーデン・ベラーズは、アカペラコンテストで全米3連覇を成し遂げて、大統領の誕生日のイベントでも、ステージに上がるのですが、エイミー(レベル・ウィルソン)の衣装が破けて御開帳となってしまい、優勝者のパフォーマンスツアーも国内大会出場も停止、部員勧誘も禁止という厳しい処分を受けてしまいます。そこでその抜け穴を指摘して、世界大会なら出られるねということになり、そこで優勝したら処分取り消しの約束ももらいます。世界大会で何と言っても強敵なのは、ドイツのダス・サウンド・マシーン。人数、技術、パワーともにベラーズを上回っているように見えます。一方、ベラーズのOGの娘エミリー(ヘイリー・スタインフェルド)がベラーズに入団します。一方、ベラーズのリーダー、ベッカ(アナ・ケンドリック)は、音楽プロデューサーを目指して、音楽レーベルのインターンとして働き始め、プロデューサーにデモを聴いてもらえるまでになりますが、自分がインターンしていることをベラーズのメンバーには切り出せないでいました。一方、最近まとまりを欠いているベラーズの結束を固くするためにクロエ(ブリタニー・スノウ)は、OGのオーブリー(アンナ・キャンプ)の研修施設にみんなを集めて合宿をすることになります。果たして、バーデン・ベラーズは世界大会で、ダス・サウンド・マシーンに勝つことができるのでしょうか。

今年、日本公開された「ピッチ・パーフェクト」は、音楽ネタの毒のある笑いを盛り込んだ快作でしたけど、その続編がもう登場です。まあ、あちらでは、3年後の続編ということですから、若干、主人公たちも年を取ってはいるんですが、アカペラという題材の良さもあって、今回も肩の凝らない娯楽作品として楽しめる映画に仕上がっています。ここで言うアカペラ選手権というのは、リズムセクションも伴奏音楽も全て人の声で演奏して、さらにその上に歌をかぶせていくというもの。扱う楽曲は基本的に有名な誰もが知っているナンバーで、そこにダンスなどのさらなるパフォーマンスを乗せて、エンタテイメントに仕上げたもので。そのステージの迫力はなかなかのものがあります。楽器パート、人声パートのハーモニーは、人の心を動かすパワーがあって、ステージシーンだけで映画は成り立っちゃうところがあります。前作と同様に即興歌合戦のシーンもあって、音楽パートは前作と同じクオリティで楽しませてくれます。

前作の脚本を手掛けたケイ・キャノンが今回も脚本を書き、出演者の一人でプロデューサーでもあるエリザベス・バンクスがメガホンを取りました。前作では、新入生のベッカがジェシーと知り合い、二人の恋模様とトレブル・メーカーズとの確執を中心にドラマが展開したのですが、今回は、ベラーズの他のメンバーにもスポットが当たって、ベッカの出番はやや控えめになり、集団ドラマとしてのカラーが濃くなっていますが、バンクスの演出は多彩な登場人物をさばききれていないところもあって、ドラマとしての盛り上がりは今一つかなって感じになっちゃってます。アナ・ケンドリックが主人公だった前作の方が映画としてまとまっていたように思うのは、彼女が濃いベラーズのメンバーたちに対する突っ込み役になっていたからだと思います。今回は、ベラーズの一人として一緒にボケに回ってしまったので、その分ドラマの締まりがなくなったと言ったらひどい言い方かしら。ともあれ、青春映画という基本フォーマットの上に、アカペラコンテストというネタを盛って、面白い映画を作り上げた前作とは違い、今度は、アカペラコンテストを基本ベースにしてその上に「友情、団結、勝利」という「少年ジャンプ」的ドラマを組み立てていまして、そういう意味では、ドラマの構造からして異なる映画になっています。

前作は、オープニングゲロから毒のあるネタがたくさん入っていたのですが、今回は、毒はやや抑えめになっているのは、監督のバンクスのセンスかもしれませんが、続編ということで、あじわいをまろやかにしているのかもしれません。アカペラコンクールでの優勝に向けての展開では、アカペラコンクールでの楽曲は既成曲という不文律に逆らって、オリジナル曲を使うというところがキーポイントになっています。アカペラコンクールの世界ではオリジナル曲はご法度みたいになっているシーンを見せる一方で、敏腕音楽プロデューサーはベッカのデモテープを既成曲の切り張りだと一蹴して、オリジナル曲を入れることを勧めます。そして、世界大会では掟破りのオリジナル曲を入れることで優勝する(あ、結末言っちゃった、ごめんなさい。)のですが、それがどのくらいすごいことなのかは今一つ伝わってこなかったのは残念。

ドイツのダス・サウンド・マシーンは、ハードなダンスとビートの利かせがかっこいいアカペラ集団になっています。オンナの媚を武器にしない分、ベラーズよりも潔く、パフォーマンスで勝負するところが、ベラーズには勝ち目がなさそうに見える強敵ぶりが見事でした。個人的には、その昔のジャネット・ジャクソンの「リズム・ネイショイン」を思い出してしまいました。世界大会で、このパワー集団にベラーズがどうやって勝ったのかは、劇場で確認していただきたいのですが、これでベラーズが勝ったのか今一つ説得力がなかったのは今イチでした。勢いの演出で優勝しちゃったことになってるのですが、ここはベラーズにもうひとネタ盛って欲しかったなって思いましたです。いや、盛ってるネタはあるんですが、それは優勝にはつながらんだろうってものだったので。


演技陣では、今回はベッカの見せ場が減った分、アナ・ケンドリックのファンは不満かも。また、新人として登場するヘイリー・スタインフェルドがどこかで見た顔だと思っていたら、「はじまりのうた」のマーク・ラファロの娘を演じていて、「ラスト・ミッション」でのケビン・コスナーの娘役でした。化粧がケバくなってすぐにはわからなかったのですが、1年で3本もお目にかかるのは何かの縁だと思いますので、今後注目していきたいと思います。賑やかしのアダム・ディヴァインも今年は「マイ・インターン」に続いて3本目の鑑賞で印象に残りました。

ともあれ、音楽のパワーで最後まで楽しむことができましたが、映画としては前作とは趣も違うものになっているので、好みは別れるかも。私は前作の青春映画の部分と毒の部分が好きでしたので、今回はちょっと物足りなくもありました。後、クライマックスはデンマークのコペンハーゲンでのアカペラ世界大会となります。世界各地から集まってきたアカペラチームもちょっとだけ登場するのですが、こういう世界大会ってのは本当にあるのかしら。

「アクトレス 女たちの舞台」は映画的興奮がいっぱいで、女優陣もお見事


今回は新作の「アクトレス 女たちの舞台」を有楽町のヒューマントラストシネマ2で観てきました。ここは、シネスコサイズの上映時は、ビスタサイズから上下が縮んで左右が伸びるという懐かしい作りの映画館。

フランス出身でハリウッド映画でも活躍する大女優マリア・エンダース(ジュリエット・ビノシュ)は、新人だったころの自分を発掘してくれた劇作家ヴィルヘルムの授賞式でスイスへ向かっていました。個人秘書のヴァレンティン(クリステン・スチュワート)が突然の彼の訃報を伝えてきました。彼の舞台「マローヤのヘビ」で若いヒロインを演じたマリアはその女優人生をスタートさせたと言っても過言ではなく、彼女は大変ショックを受けます。一方で、若い演出家による「マローヤのヘビ」のリメイクが進んでいて、彼女は、かつて演じた若いヒロイン、シグリットではなく、そのヒロインに翻弄される中年女性ヘレーナの役をオファーされ、ヴィルヘルムの追悼の意味も込めて、その役を演じることになります。ヴィルヘルムの奥さんの計らいで、スイスの山の中の彼の家にヴァレンティンと滞在し、劇の役作りをすることになります。一方、彼女が若いときに演じたシグリット役はハリウッドの新進女優で問題児のジョアン(クロエ・グレース・モリッツ)が演じることになります。山の中をハイキングしながら、ヴァレンティンと本の読み合わせをするマリアですが、若いシグリットに振り回されて自滅していくヘレーナという女性に拒絶反応が出てしまい、役作りがうまくいきません。果たして、「マローヤのヘビ」のリメイクは無事に初日を迎えることができるのでしょうか。

「イルマ・ウェッブ」「夏時間の庭」で知られるオリヴィエ・アサイヤスが、ジュリエット・ビノシュをヒロインにイメージして脚本を書き、メガホンも取りました。ベテランの大女優が自分が新人の時に演じた舞台のリメイクに、別の役で出演することになり、その中から新しい女優人生を模索していくというドラマです。実際に、芸術映画にもハリウット映画にも出演しているジュリエット・ビノシュが同じような状況の大女優マリア・エンダースを演じていまして、女優裏話的な面白さもある映画ではあるのですが、それ以上にドラマとしての内容が濃く、鑑賞後の映画を観たという満足度の高い映画でした。スイスの美しいロケーションと「マローヤのヘビ」という珍しい気象現象という魅力的な映像を背景に描かれる大女優の葛藤が見ごたえがあり、さらに彼女を取り巻く若手女優も素晴らしい演技で、映画としての完成度が高いと思いました。何というのかな、観ていてぞくぞくする感じ、映画的興奮に満ちた映画という意味では今年のナンバーワンではないかしら。示唆に富んだ展開は、全部を読み切れないところもあったのですが、それでも、この映画への満足度が損なわれることはありませんでした。できればミニシアターの小さな画面でなく、大劇場で観たかったなという映画でした。

「マローヤのヘビ」という戯曲は、中年の女社長ヘレーナが、若いシグリットという女性に魅せられ、自分の個人秘書にして溺愛するのですが、奔放な彼女に翻弄された挙句、最後には全てを失って自殺してしまうというお話だそうで、若かったマリアはこのシグリットを演じて女優として認められるようになったという因縁の作品でした。今度は、シグリットに振り回されるヘレーナ役のオファーを受けて、役作りをすることになります。若い個人秘書ヴァレンティンをシグリット役にして、役作りを始めるマリアですが、どうもヘレーナ役がすんなり自分に入ってきません。どうやら、自分はシグリットであり続けた人生だったので、若さに憧れ、翻弄される中年女性を受け入れることができないようなのでした。そんなマリアに、ヴァレンティンは、シグリットとヘレーナは表裏一体の関係であり、決してヘレーナが一方的な負け犬ではないと説得し、マリアを役作りに取り組ませようとします。

この大女優と個人秘書の関係が大変丁寧に描かれていまして、世間の事に疎くなっているマリアが対外的なことで、ヴァレンティンにかなり依存していて、その一方で、ヴァレンティンもマリアのために心を尽くすことに満足感を得ているという相互関係がリアルに伝わってきます。映画の7割は二人の会話で成り立っていまして、その密度の濃い会話がドラマの見応えにかなり貢献しています。ヴァレンティンを演じたクリステン・スチュワートの演技と存在感がすごくて、彼女はこの映画でセザール賞の助演女優賞を取りました。大女優を演じる大女優ビノシュを相手に五分のやりとりをするスチュワートが何だかかっこよくって惚れ惚れしちゃいました。アメリカで「トワイライト」シリーズで若者人気を得た彼女ですが、ここでは青春スターの片りんも見せない見事な女優ぶりでした。そして、マリアとヴァレンティンの関係が、「マローヤのヘビ」のヘレーナとシグリットの関係と自然とかぶってきます。映画の冒頭では、女優と秘書の関係が事務的に描かれるので、そんな感じはしないのですが、二人でスイスの山の中で、「マローヤのヘビ」の読み合わせを始めると、二人の関係がすごく密なものに見えてきます。ちょっとした言葉のリアクションやしぐさの中で、二人の親密な関係が適格に表現されていて、このあたりにもドラマを観る醍醐味がありました。

面白かったのは、ヴァレンティンが、色々と言葉を尽くして、マリアを「マローヤのヘビ」に取り組ませようとするのですが、それにマリアが応えなくていらだつところ。ただの本の読み合わせの相手なら、自分である必要はないと言うヴァレンティンには、なぜ自分の言葉がマリアに届かないのだろうという不満があります。でも、マリアはマリアで彼女が一緒にいない状況は考えられず、辞去をほのめかすヴァレンティンを「一緒にいて」と抱きしめます。ヴァレンティンからすれば、成功して成熟した女性マリアですが、なぜか必要以上に若さにしがみついてしまう彼女が理解できなかったりします。そういう二人の心の駆け引きの部分がすごくよくできているのですよ。これは映画館でご確認いただきたいのですが、二人の会話からの潤沢な情報量には、ドラマを楽しむ快感がありました。

一方の相手役ジョアンは演技力は認められているものの、ハリウッドで問題ばかり起こすトラブルメーカーでもありました。彼女は、マリアに会いにスイスにまでやってきます。それも妻帯者の恋人の作家を連れてきます。恋人も同席の上でマリアとヴァレンティンと会うあたりはなかなかのものです。ハリウッドのヒーローものでスターになった若い女優ジョアンを演じるのが「キックアス」のクロエ・グレース・モレッツというのは、セルフパロディみたくもあるのですが、彼女も女優を演じる女優として存在感を見せて見事でした。大女優マリアに対して憧れと敬意を表するので、マリアとしてはすっかり彼女に気をよくしてしまいます。ジョアンは、スキャンダラスな事件も起こすのですが、その一方で、正直で知的で強い女性でした。若くして、この知性と強さはすごいと思うのですが、そういうキャラを納得させるモレッツの演技が只者じゃない感を漂わせて印象的でした。出番は少ないものの、マリアと対照的な、若くて世間なれした女性としての存在感を示しました。それに、かっこいいクリステン・スチュワートとも対照的なかわいい女性になっているあたりも、うまく彼女が引き立ちました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ある日の朝、マリアとヴァレンティンは珍しい雲の形である「マローヤのヘビ」を見に山の上に出かけます。ふと、そこにいた筈のヴァレンティンが姿を消します。そして、ロンドンで「マローヤのヘビ」の稽古を重ねているところへ、ジョアンの恋人の奥さんが自殺未遂事件を起こしてしまいます。またしてもスキャンダルの前面に立たされるジョアンですが、彼女は恋人を気遣い、気丈なところを見せます。リメイクの「マローヤのヘビ」はガラス張りのオフィスという現代的な舞台装置で上演されます。マリアは、エレーナが少し目立つような演出をジョアンに提案しますが、ジョアンはにこやかに却下します。若い映画監督がSF映画のヒロインをマリアにオファーしてきます。監督は、シナリオを彼女にあて書きしたものだからと説得しますが、マリアはそれは若いジョアンのような女優にこそふさわしいと断ります。監督は、時間や年齢を超越ヒロインだからと食い下がりますが、マリアはそれを笑顔で否定します。そして、舞台の幕が開き、演技を始めるマリアのアップから暗転、エンドクレジット。

スイスの山の中で、ヴァレンティンが突然姿を消してしまうのは、不思議な印象を残します。彼女が消えることで、マリアの中に変化がもたらされたようで、以降のマリアは、自分の老いと成熟に正面から向かい合っているように見えます。そして、自分を重ね合わせて嫌悪していたヘレーナの役を受け入れ、若いシグリットを客観的に見ることができるようになります。ヴァレンティンは、マリアがこだわり続けた若さそのものだったのかもしれません。それが、身近からいなくなることで、彼女は一皮むけたのかなって、私は解釈しましたが、これは色々な解釈が可能だと思います。

マリアという女優は、若い時に演じたシグリットに囚われて、自分の人生もシグリットとして演じたのではないかしら。そのシグリットの若さを身にまとうために、個人秘書のヴァレンティンを側近に置いていたのかなって気がします。しかし、若さにとらわれていれば、自分の老いと成熟という事実に直面することができません。その葛藤が、ヴァレンティンとの間の関係に反映され、彼女ときまずくなった挙句、彼女が姿を消したということは、若さへのこだわりへの決別を意味したのかなって思いました。色々な読み方ができると思いますが、女優陣の演技、緻密な演出、魅力的な映像があいまって映画として大変見応えのあるものになりました。私にとっては、まさに色々な意味で魅せる映画でした。

「未知空間の恐怖 光る眼」は説明しきらない分、観客の想像力に恐怖をかきたてます。


今回はpu-koさんのブログで紹介されていた「未知空間の恐怖 光る眼」をDVDで追っかけ鑑賞しました。ごひいきジョン・カーペンターの「光る眼」のオリジナルなので、興味があったのですが、観るきっかけがなくって、ようやっとの鑑賞となりました。

イギリスの片田舎ミドウィッチの村で突然、村人や動物が意識を失って倒れてしまいます。連絡が取れなくなったのを不審に思った軍隊が向かうのですが、ある境界線を越えると意識を失い、ガスマスクをしても防げないという不思議な状況に手の出しようがありません。しかし、数時間後、また突然に村人も動物も目を覚ましました。村人のゼラビー博士(ジョージ・サンダース)も自分に起こった事の説明ができません。その後、村の女性全員が妊娠していることがわかります。それも、意識を失っていた時期に妊娠したというのです。博士の妻アンセア(バーバラ・シェリー)も妊娠を喜ぶ一方で、覚えのない妊娠に自殺を図る娘も出てきます。そして、通常より早い臨月から生まれた赤ん坊はみな普通より成長が早く、また、眼が光ると、人間を思い通りに動かすという特殊能力を持っていました。みるみるうちに成長した子供たちはみな金髪で光る眼を持ち、集団で行動し、村人から薄気味悪がられていました。博士は、彼らの知能の高さに驚き、研究の対象と考えていましたが、政府は、何とかしなければいけないと思っていました。ロシアでも、同じことが起こり、子供たちを軍で制圧しようとして失敗し、核ミサイルを撃ち込んで村ごと消滅させていました。人間の心を持っていないように見える子供たちと何とか心を通わせようとする博士ですが、果たしてうまくいくのでしょうか。

ジョン・ウィンダムの「呪われた村」を原作に、「タワーリング・インフェルノ」のスターリング・シリファントが脚色し、さらにジョージ・バークレイとウルフ・リラが加筆した脚本を、ウルフ・リラがメガホンを取りました。ジャンルとしてはSFホラーということになるのでしょうが、わざと詳細を説明しきらない構成が観客のイメージを膨らませる映画に仕上がっています。原作だと、宇宙人がミドウィッチの女性を妊娠させたということが明確に書いてあるそうなのですが、映画では、そのあたりから曖昧でして、村全体がある時間だけ一斉に昏睡状態になり、その後、女性たちが皆妊娠していたという事実のみが描かれるのですが、その理由ですとか因果関係はよくわからないまま物語は進んでいきます。なるほど、この程度の説明でも、観客には何が起きたのかが伝わるのだなあって感心しちゃいました。ただ、何のために子供たちが生まれたのかはわかりませんし、意識を共有する子供たちが、自分が何者なのか知っているのかどうかも不明です。3年ほどで、小学生くらいにまで成長し、集団で行動し、村でみんなをビビらせています。そりゃそうだ、普通の人間の発育じゃないし、眼が光ると人間をコントロールしちゃうし、今や、人間の心を読めるようになっているようなのです。このあたりのスリラー演出は、見た目は普通だけど、全員金髪で目が怖い子供が並んで道を歩いているだけで、ぞっとさせる怖さを運んでくるのが見事です。

どうやらわかってくるのは、集団昏睡の時間に女性たちに何者が受胎させたということ。そして、それは普通の子供じゃないということ。しかし、その出自は最後まではっきりしません。どうやら宇宙人が侵略してきたらしいということを匂わせるのですが、でも侵略の目的も方法も曖昧なままです。ただ種の異なる何者かが村に入ってきて、無言の力で村を牛耳ってしまうという見せ方はかなり怖い。そもそも侵略というのも当たっていないような気がします。でも、彼らのような子供が増えて、世界中がミドウィッチ村みたくなったら、それは人類にとって大きな脅威です。子供たちの正体がよくわからない故に底が見えない恐怖が伝わってくるあたりの演出はうまいと思いました。全てを説明しきらないけど、何か怖いことが起こっているというのを表現した脚本の功績かもしれませんが、SF色は弱めながら、ホラー色のかなり高い映画になっています。こういう感じのホラーSFはあまりなく、今観ても新鮮で、よくできた娯楽映画としてオススメ度高いです。



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金髪の子供たちは教会に集められ、ゼラピー博士が経過観察をすることになるのですが、そこへ村の男たちが松明を持って、彼らを殺そうとやってきます。しかし、男たちのリーダーは、子供の光る眼に我を失い、松明を落として火だるまになってしまいます。ゼラビー博士も事がここに及んで、彼らと意思の疎通をし、共感を得て、共存する道が不可能だと確信するようになります。博士は時限爆弾を持って、子供たちのいる教会へ向かいます。頭の中ではレンガ塀のことだけを考えるようにして、子供たちから心を読まれまいとする博士。子供たちはその心の壁を壊そうとします。レンガ塀が壊れてその先の時限爆弾が見えた時、教会は大爆発を起こし、燃え盛る教会の絵に「ジ・エンド」。

ジョン・カーペンターのリメイク版で、スクリーンにレンガ塀の絵が出てきて、何だこれはと思ったのですが、オリジナルの演出だったとは知りませんでした。子供たちに心を読まれないようにするために、レンガ塀のことだけを考えるというのを映像化していたとはなかなか見事な演出だと感心しちゃいました。とにかく、博士が子供ごと吹っ飛んじゃってお終いなので、結局、子供たちが何を考えて何をしようとしていたのかは不明なままのが、不気味な余韻を残します。見た目は似ているけど、人間とは種の異なる子供たちが、人間とどういう関係を築こうとしていたのかは、リメイク版の方ではもう少し説明があって、優秀な種が劣等な種を駆逐するとか、それが進化なのだと、子供たちは怖いことを言います。この映画では、そこまでは語られないのですが、彼らは自分たちを受け入れる里親を要求します。そして、家族を作っていくことで、新しい種を増やそうとしているのかなと匂わせる程度なのですが、その程度の奥ゆかしい見せ方の方が説明しきらないだけに余計目に怖い後味を残します。そういう意味では、この映画は、観客の想像力に働きかけて怖がらせる映画だと言えましょう。映画史に名を遺すだけのことはある映画です。

「ロマンス」はお話の全貌がつかめるまでが長い、面白いお話ではあるのですが。


今回は、東京での公開は終わっている「ロマンス」を静岡のシネギャラリー1で観てきました。デジタル上映ですから、当然ステレオのデジタル音響なのですが、デジタル化前のフィルム上映の頃は、このクラスの映画だとDTSステレオというアナログ4チャンネルステレオ音響が標準でした。ドルビーステレオは映画史に名を残してるけど、DTSステレオとかウルトラステレオなんて死語になっちゃうんだろうなあ。既に死語なのか。

北条鉢子(大島優子)は小田急ロマンスカーのアテンダント、要は車内販売員です。今日も新宿から箱根湯本行きのロマンスカーでコーヒーやお弁当を売っています。すると、乗客の一人のおっさん(大倉孝二)がポテトスナックをワゴンからかすめとるのを目撃。鉢子は、その男をつかまえて箱根湯本駅で駅員に引き渡すのですが、そのタイミングでおっさん逃亡。それを追いかけてつかまえるのですが、自分の乗るロマンスカーは出発してしまいました。後の電車で新宿に戻ろうとすると、例のおっさんが声をかけてきます。無視していたら、いつの間にか、鉢子がゴミ箱に捨てた手紙を拾って読んでいるではありませんか。おっさんはその鉢子の母親からの手紙を読んで、母親が死のうとしてるんじゃないかと言いだします。鉢子の母親は、父親と離婚してから、色んな男を連れ込んできて、幼い鉢子は肩身の狭い思いをしてきました。おっさんは、鉢子の手を取って駅から引きずり出し、レンタカーを借りて、母親を探そうと言いだします。手紙には、母親が思い出の地である箱根に旅に出るという趣旨のことが書いてあったのです。突然の意外な展開に文句を言いつつも、鉢子は、おっさんに連れられて母親探しの旅をすることになってしまうのでした。

「百万円と苦虫女」「四十九日のレシピ」などで知られるタナダユキが脚本を書き、メガホンを取った変則ロードムービーの一篇です。私は彼女の映画は「赤い文化住宅の初子」「百万円と苦虫女」を観ているんですが、あまり共感しにくいヒロインなのに、観ているうちに応援したくなる、そんな不思議な味わいの映画の監督という印象がありました。この映画では、元AKB48の大島優子が、母親との確執に右往左往するヒロインを演じています。ダメダメな彼氏がいるけど、そんな彼氏とも別れられないでいるヒロインは、仕事での成績は上々で、後輩のミスもカバーしてくれる頼りになる存在です。でも、販売品を万引きするおっさんにはかなりきつい言葉をつかう気の強い女の子です。でも、その過去では、父と別れて男を何度も変える母親を許せないでいました。

一方、彼女を母親探しに引っ張り出した万引き男は、桜庭という映画プロデューサー、娘がいますが、離婚してから会っていないらしい、どこか調子のいい男。軽口を叩きながら、初対面の鉢子をリードして、箱根を引っ張りまわすのですが、彼は彼の事情がありそうです。タナダユキの演出は二人のやりとりにコミカルな間をつけて笑いをとろうとするのですが、劇場内はしーんとしちゃってました。これは、コメディなのかシリアスなのか、特におっさんの妙に高いテンションに観客が置いてけぼりを食ってしまったのかもしれません。また、要所要所に挿入される、鉢子の回想シーンがシリアスなので、笑いの部分がはずまないんですよね。母親のせいで、いじめに遭ったり、母親の彼氏とのぎこちない関係、男に捨てられた母親がその時だけ鉢子にやさしくなるといったエピソードが切なく描かれていきます。そんな過去を持つ鉢子ですから、母親が死ぬかもしれないとか言われても、ましてや見ず知らずのおっさんに探そうとか言われても、あんまり乗り気になりません。一方のおっさん桜庭は、自分を万引き扱いした鉢子に馴れ馴れしく話しかけて、なんやかんやで一緒に箱根ドライブに誘い出しちゃう得体のしれない人。そんな二人のロードムービーと言えば言えなくもないのですが、、出会いから旅(箱根ドライブ)までの展開にリアリティがないので、これはどういう映画なんだろうって気分になってきます。

小田原城、箱根登山鉄道、大涌谷、芦ノ湖と二人は回っていくのですが、当然のごとく母親は見つかりません。また、その間に、鉢子の回想として、両親が離婚前に幼い鉢子といっしょに箱根旅行をした楽しい記憶がインサートされてきます。彼女にとって箱根は数少ない両親との楽しい思い出の場所だったようです。とは言え、その思い出の場所をなぜか初対面のおっさんと一緒にまわってる自分に「何してるんだろう、自分。」という突っ込みが入ってしまう鉢子なのでした。そういうつかみどころのないヒロインのつかみどころのない旅は、なかなかその全貌が見えてきません。大島優子はよく見りゃかわいい位のよくいる若い女性を存在感を出して好演しています。そのリアルな存在感と、おっさんとの箱根巡りというふわふわした展開が今一つマッチしなくて、「ふーん」という感じで眺めていると、クライマックス近くになって、ようやくお話の全貌が見えてくるという構成なので、なかなかお話に乗れないという難がこの映画にはあります。笑いのシーンにピンと来ないのも、お話に乗れなかったからだとわかるのは映画が終わるころでした。最終的にヒロインは、自分も母親と似たようなものかなと気付くのですが、それでも母親を受け入れられずに、突っ張って生きていくんだろうなって見せ方になっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



鉢子とおっさんは何となくその日一日を一緒に過ごしてしまいます。ところが日が暮れてから道に迷ってしまい、たどり着いたところは山の中のラブホテル。そこで一緒に泊まることになっちゃいます。母親との記憶がよみがえる鉢子。母親の人生って何だったんだろうという同情と共感から涙する彼女を抱きしめるおっさん。ここでおっさんが彼女をベッドに押し倒すのですが、彼女は抵抗しません、でもおっさんも我に返り、自分ってダメだなあってしみじみ。実は彼は出資者から集めた映画のための金を溶かしてしまい、出資者から訴えられていたのでした。それで、現実から逃げ出したくなって、箱根にやってきて、偶然遭遇した鉢子の境遇に乗っかって一日をやり過ごしていたのでした。そして、夜が明け、二人は東京へと戻ってきます。改札を出た二人はお互い別れを告げ、自分の日常へと戻っていきます。鉢子は前日の失踪について上司に謝罪し、再びロマンスカーの勤務につくのでした。

クライマックスはラブホテルのシーンで、ここでは長回しを使って二人の演技をじっくりと見せる演出になっています。それまでの軽快な感じは影を潜め、シリアスな二人のやりとりが続きます。そして、なぜおっさんが鉢子を引っ張りまわしたのか、鉢子が母親をどう思っていたのかがわかってきて、お話の全貌が見えてきます。それまでのふわふわした展開からしますと、その全貌はなーんだというレベルのものですので、ちょっと肩透かしを食ったような気もしますが、主演二人の演技で最後まで付き合うことができました。それでも、ヒロインが弱気になって、それでもしぶとく生きていこうとする振れ幅の大きさがもっとわかりやすく描かれていたら、この映画に対する評価も上がったのになあって、残念に思いました。

おっさんが映画プロデューサーということで、「最近の若者は映画を観ない」「E.T.も知らないのか」とグチるところがおかしかったです。アメリカ映画だと映画ウンチクを語り合う登場人物が普通に登場するのですが、日本だとこういうグチにしかならないところに、日本の映画館客事情が伝わってきます。また、小田急や箱根登山鉄道が協力していて、箱根観光映画の趣もあるのですが、その部分は、テレビの2時間ドラマのタイアップものの方に一日の長があったように思います。もっと観光映画らしく、箱根のいいところをより華やかに見せてくれた方がドラマの娯楽度が上がったように思いました。

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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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