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2015年のベストテンを作ってみました。

2015年も終わりですので、あまり多くの本数を観ていない中から、ベストテンを作ってみました。選出基準はとにかく面白くて印象深かったもの、それと何か発見のあったものとなっています。今年も映画を楽しむ一方で、勉強になる映画も多かったです。

第1位「デビルズ・ノット」
猟奇殺人事件の犯人をとにかくはっきりさせたいコミュニティが、反社会的な若者を犯人と決めつける怖さを描く映画ですが、そこで事件の真相は明快になりません。何だか、はっきりしない映画だなあって不満を感じたとき、その感情は、とにかく犯人を決めたがった映画の中のコミュニティの人間と同じじゃないかと気づかされると、自分自身にぞっとするというとても怖い仕掛けの画です。冤罪とか他人事じゃないかと思っていると、自分の中にその種があることに気づかされる、そんな怖さを持った映画は初めてでした。初公開は2014年ですが、私は今年観たので、この映画を2015年のベストワンです。

第2位「Re:LIFE リライフ」
もともとラブコメは好きな方なのですが、いい年こいた大人の恋愛ドラマとして、私のツボに大はまりだったのがこの映画。売れない映画脚本家と大学で学ぶシングルマザーの友情的関係から、恋愛感情へとゆっくりと方向転換して、ラストで恋愛映画に落ち着くという作りが大変魅力的でした。主演二人、特にマリサ・トメイが大変魅力的でして、これまでも彼女のファンでしたけど、余計目にファンになりました。好きな映画ということで言えば、今年のベストワンでしょう。

第3位「はじまりのうた」
音楽をきっかけに知り合った男女二人が、その歌を売り出していく過程の中で、各々の人生の再構築を図っていくというお話。音楽ものに弱い自分は、すぐにウルウルしちゃうお話ではあるのですが、主人公の二人が音楽を間に挟んで、友情以上恋愛未満の微妙な関係を取っていくところが、音楽以上によくできていまして、ツボでした。音楽というものを、どう捉えるかの違いをあえて否定しないで、それでも、音楽の持つ力を実感させる演出が見事でした。音楽を糧にして人生を充実させるお話として、すごく繊細で、そして寛容な映画でオススメ度はベストかも。

第4位「顔のないヒトラーたち」
ドイツ国内で、ナチスのやったことを告発するようになるという事実に基づくお話です。若い判事が、国内の批判を浴びながら元ナチスのやったことを告発していく過程はスリリングなエンタテイメントなのですが、それだけのお話ではありません。正義の迷宮に入り込んでしまった主人公がどうやってそれを克服していくのかというところに、見応えト感動がありました。今更過去を掘り起こすことに何の意味があるのか、その問いに一つの見識を示したという点に大変感心しました。それが正しいか、共感できるかは映画を観て確認していただきたいですが、私には共感できるものがありました。また、問題提起という意味でも見応えのある映画だと思います。

第5位「ドローン・オブ・ウォー」
新しい戦争の形態としての、ドローンによるピンポイント攻撃を描いた映画です。主人公はアメリカの基地にいて、ドローンを遠隔操縦して、紛争地域で地上部隊を支援したり、テロリストの掃討をしています。絶対安全な場所からテロリストへの攻撃を加える主人公の姿から、言い訳や情緒を削り取った戦争の本質が見えてくる展開が見事な反戦映画になっています。そして、ラストで主人公の取る行動が、ドローン戦争の持つもう一つの特別な側面をあぶりだし、ネット社会への警鐘にもなっているという欲張りな構成です。

第6位「ドラフト・デイ」
アメフトの一大イベントであるらしい、ドラフト会議の駆け引きを描いたドラマで、アクションも爆発もラブシーンもないけれど、とにかく面白くてラストのカタルシスが痛快な、これぞ娯楽という映画。勝ち目のないトレードをせざるを得なくなる主人公がラストで見せる大逆転がお見事で、観終わって最高の気分になれるという意味では、今年のトップでしょう。ドラフトのルールが込み入っているせいもあって、地味な公開であまり宣伝もされなかったのですが、もっと評価されて欲しい映画でした。

第7位「アクトレス 女たちの舞台」
ベテラン女優が、かつて演じた舞台で、若いヒロインから中年の相手役を演じることになる、その過程を演技陣の力量で見せ切る一品は、映画としての満足度が高かったです。主人公の2人のやり取りのうまさもあることながら、ジュリエット・ビノシュとクリスティン・スチュワートの存在感が見事で、惚れ惚れしちゃいました。ちょっとファンタジー入ったドラマ展開もあって、ドラマとしての充実度と、一粒で二度おいしい映画でした。

第8位「奇跡の2000マイル」
ヒロインがオーストラリアを2000マイル歩くというお話で、すごくシンプルに旅に特化しているところが新鮮でした。出不精な私にも旅の魅力とか旅したくなる気持ちが伝わってくるところに発見があったので、ベストテンに入りました。映像の美しさとかヒロインのミア・ワシコウスカの魅力、適格な演出もあって、映画としてよくできています。

第9位「サンドラの週末」
自分の職場に復職しようとしたら、彼女の復職かボーナスかの投票がされていて、彼女は職を失うことに。覆すには週末に同僚たちを説得して、再投票で結果をひっくり返さないといけない状況。そんな、珍しい設定の中で、ヒロインは週末に同僚の家をまわることになります。多数決を覆すための個人の頑張りを普通の女性がやるっていうところから、透けて見えてくる、自我と善意、そして個々の事情。色々と考えさせられるところが多かったということでは今年のトップではないかしら。こういう視点に触れることで、映画って勉強になるなあってところでベストテン入りです。

第10位「マップ・トゥ・ザ・スターズ」
虚飾に満ちたハリウッドをひたすら悪意で描いたクローネンバーグ監督作品がベストテン入りです。これは、どこがいいとか、勉強になったとかいうことではなく、ひたすらインパクトが強くて印象に残った映画だから。映画館へ足を運んだ時、こういう映画にあたっても、映画を観た満足感があるってのは不思議な感じですが、悪意に満ちているなりに見応えがあったということになるのでしょう。

そんなわけで、ドラマとして見応えのあった「黄金のアデーレ」「あの日のように抱きしめて」、純粋にエンタメとして面白かった「マッドマックス 怒りのデスロード」「ミッション・インポッシブル ローグ・ネイション」などがこぼれてしまいました。SFやホラーが1本も入ってないところに、自分も年を取ったんだなあってしみじみしちゃいます。

次に映画としてはベストテンからこぼれたけど、ここはよかったというピンポイントベスト5を挙げます。 

第1位「海街diary」のつかず離れずの家族関係
美人4姉妹の眼福もあった映画でしたけど、この映画で描かれた姉妹の距離感が大変心地よくって、ああこれだよなあって感心しちゃいました。時には深入りしそうになるけど、引くところは引く、言いたいことは言い、言いたくないことは言わない、そんなさじ加減が細やかに描かれていました。日本映画って、やたら、テンション高く怒鳴りあうイメージがあるのですが、この映画の会話シーンの抑制されたおだやかさは宝物だなって思っちゃいました。

第2位「ジミー 野を駆ける伝説」のダンスシーン
この映画は、内容的にもベストテンに入ってもいい見応えのあるものでした。保守と革新の対立の中で、穏健派がその仲介役になれないところに切なさがあるのですが、恋愛ドラマとしても、切ない展開に見応えがありました。お互い愛し合いながらも10年後の再会で女性は人の妻になっていました。月明りの下で、二人が万感の思いで無言でダンスを踊るシーンは、最近の映画のラブシーンの中でもベストだと思いました。無言で踊る二人を長回しで追う演出も見事でした。

第3位「毛皮のヴィーナス」の縦構図へのこだわり
今年は、あまり映像に凝った映画には当たらなかったのですが、その中で、凝った構図で楽しませてくれたのが、この映画。登場人物2人だけの映画ながら、シネスコ画面に、登場人物を遠くと手前に配置する縦の構図を多用して、見応えのある絵を作っていました。映画そのものも面白かったのですが、シネスコ画面の手前と奥の両方で演技している図ってのはなかなかお目にかかれなかったので、ここで挙げておきます。

第4位「ピッチ・パーフェクト」のアナ・ケンドリック
今年の女優陣は豊作でして、ベストテンに挙げたマリサ・トメイ、ミア・ワシコウスカとクリスティン・スチュワートは素晴らしかったですし、「ANNIE アニー」のローズ・バーン、「海街diary」の夏帆、「カリフォルニア・ダウン」のアレクサンドラ・ダダリオ、「ted2」のアマンダ・セイフライド、「セッション」のメリッサ・ブノワ、「エレファント・ソング」のキャスリーン・キーナーといった面々が印象に残りました。でも、今年のベストアクトレスということでは、実は3年前の映画だけど「ピッチ・パーフェクト」で青春映画のヒロインを全うに演じたアナ・ケンドリックを挙げます。アカペラコーラスがメインの映画ではあるのですが、それをきちんと青春映画としても見せることに成功しているのは、彼女の好演があったからだと思っています。

第5位「マイ・インターン」のまろやかな味わい
コメディとしてそこそこの出来だった「マイ・インターン」ですが、それは毒も恋愛も諍いもないコメディだからだということもできます。なんとなくうまくまとまった感じというのでしょうか。そこには、脚本、監督のナンシー・マイヤーズの人間(特に女性)に対するやさしい視線があってこそだと思います。尖ったところのない展開を退屈させないでまとめるのは大変だと思いますが、マイヤーズはそこのところをうまくクリアして、まろやかな味わいだけど、退屈させずに面白い映画に仕上げることに成功しています。特に、男目線ではあり得ない浮気ダンナの行動と、それに対する妻のリアクションなんか、なるほどこういう収め方もあるのかって感心しちゃいました。ハリウッドの中では、こういう映画を作る芸ってのは地味な才能ってことになるのかもしれませんが、彼女の映画には、他の監督にはないものを感じます。

というわけで、2016年もよろしくお願いいたします。
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「スター・ウォーズ フォースの覚醒」はお話の出し惜しみ感が強い、もっと見せろ。


今回は、新作の「スター・ウォーズ フォースの覚醒」を静岡のシネザート1で観てきました。ここは、スクリーンがとにかく大きいのでこういう映画を観るのにふさわしい映画館です。

ファーストオーダーと呼ばれる帝国軍の残党による組織が再び宇宙侵略を開始した対抗するレイア(キャリー・フィッシャー)を将軍とするレジスタンスは、行方不明になっているルーク(マーク・ハミル)を探すための地図を探すため、惑星ジャクーに、ポー(オスカー・アイザック)を送り込み、地図を手に入れますが、そこへファーストオーダーが現れ、彼は捕まってしまいます。地図はロボットのBB8に託されます。BB8は廃品回収をしているレイ(デイジー・リドリー)と出会います。一方、ファーストオーダーについていけなくなったストームトルーパーの一人がポーを連れて脱走を図ります。彼はポーからフィン(ジョン・ボイエガ)と名前をもらいますが、惑星ジャクーに墜落して別れ別れに。フィンは、レイとBB8に遭遇し、成り行きから、一緒に廃品になっていたミレニアム・ファルコンに乗って、ジャクーを脱出します。しかし、ミレニアム・ファルコンが自動操縦で貨物船に拉致されてしまいます。そこへ現れたのが、ハン・ソロ(ハリソン・フォード)とチューバッカ(ピーター・メイヒュー)。BB8がルークの地図を持っていることを知ったハン・ソロは彼らをレジスタンスの基地へ連れていくことにします。しかし、その途中立ち寄ったタコダナでファーストオーダーの襲撃を受け、幹部カイロ・レン(アダム・ドライバー)によってレイは連れ去られてしまいます。彼女はルークのライトセーバーに感応し、どうやらフォースに縁がありそうです。カイロ・レンは、フォースのダークサイドに魅せられて、ファースト・オーダーのリーダー、スノーク(アンディ・サーキス)を師としていました。このフォースに縁のある二人は対決する運命にあったのでした。

「スター・ウォーズ」の新作は、「ジェダイの帰還」の続きとなるお話ですが、実際の俳優が年を取るくらいの年月が経っているという設定になっています。「帝国の逆襲」「ジェダイの帰還」のローレンス・カスダンと「MI:Ⅲ」「スタートレック」のJ・J・エイブラムスが脚本を書き、エイブラムスがメガホンを取りました。本作から配給がディズニーとなり、20世紀フォックスのファンファーレから「スター・ウォーズ」のテーマへつながるというわくわく感がなくなっちゃいました。まあ、頭にディズニーのロゴを入れなかったところは気を遣ってる感があるのですが。

「スター・ウォーズ」のⅠ、Ⅱ、Ⅲが、どうにも辛気臭いお話で乗れなかったのですが、今回は割と評判がよいようなので、劇場に足を運びました。最初の「スター・ウォーズ」(Ⅳのことね、めんどくせえな)が明るく楽しい宇宙チャンバラだったのが、「帝国の逆襲」でドラマ要素を強化し、「ジェダイの帰還」でエンタメ大作としてまとめていたので、その先をどう展開するかと思ったのですが、新キャラクターを登場させる一方で、ルーク、レイア、ハン・ソロに、チューバッカ、C3-POといった面々を再登場させることで、昔のファンへのサービスもたっぷりという作りになっています。今回の新キャラは、ストームトルーパーからの裏切り者フィンと、廃品回収業を営むレイ。特にレイは闘う強いヒロインに設定されていまして、彼女が新シリーズを引っ張ることになりそうです。そして、敵方のキーパーソンになるらしいのは、マスクをかぶってコーホー言いながらしゃべる滑舌の悪いカイロ・レンなる若造。これがダースベイダー様LOVEな変わった奴で、フォースの暗黒面を極めようと頑張っらっしゃるのでした。

基本は、レジスタンス対ファーストオーダーの攻防戦で、ファーストオーダーの新兵器は惑星吹っ飛ばすのなんか一発でOKという優れもの。実際に星5つを一気に亡きものにしちゃうのですよ。この新兵器の照準がレジスタンスの基地に向けられちゃうので、何とか新兵器を破壊しなくちゃというのがクライマックスになります。で、このクライマックスにもう一つの因縁話の方も並行で動くという展開は、「ジェダイの帰還」のクライマックス的構成になるのですが、新兵器破壊作戦に、主要メンバーが貢献しないというのも、同様な展開でして、その分、ドラマ的な盛り上がりはいま一つになってしまいました。作戦のヒーローであるポーがあんまり目立たなかったってところにドラマ構成の難しさがあるのかなって感じ。

とはいえ、旧作のキャラクターを要所要所に据えたストーリー展開は、昔のファンからその子供世代となる今のファンまで取り込もうという意慾は感じられ、親子で語り合える「スター・ウォーズ」にしようとしているのは、ディズニー的戦略だなあって感心。「スター・ウォーズⅠ、Ⅱ、Ⅲ」のような旧世代を無視したようなやりたい放題が、なくなったところは評価したいと思います。ただ、この映画が1本の映画としてどうなのって言うと、新シリーズのプロローグ以上のものになっていないのは残念。もっと見せろと思わせる部分が多すぎなのですよ。言い方は悪いけど、伏線を張るためだけのドラマになっている節がありまして、何一つ完結するものがないストーリーを1本の映画としては評価できないよねえってのが正直なところです。2時間ドラマの前半を、倍に薄めて引き延ばした感じと言ったら酷いかしら。でも、この映画のラストシーンを観ると、そこで終わるんかい!って突っ込みたくなっちゃいましたもの。

J・J・エイブラムスの演出は、ストーリーを要領よくつないで、テンポよくドラマを進めていきますが、キャラを印象付けるというよりも、ドラマの進行重視という感じでして、プロローグという位置づけで割り切って演出しているような感じでした。単品として楽しませる趣向があまりなくて、続編の期待を取っ払ったら何も残ってないって言うか、とにかく伏線を散りばめるのに手一杯で、続編のための地ならしをしていると言ったら言い過ぎかしら。この映画だけで、「スター・ウォーズ」の新シリーズを評価することはできません。そういう意味では、このシリーズが一区切りできたところで、この映画の評価が見えてくるのでしょう。この映画だけで、言ってしまえば、もったいつけておいて、何もわからんまま終わりやがってってことにしかならないです。

演技陣では、レイを演じたデイジー・リドリーがこの先期待できそうな女優さんとして印象的でしたが、この作品ではキャラが確定していなくて、演技のしがいがなかったという感じなのが、ちょっと気の毒。フィンを演じたジョン・ボイエガも、背負うドラマがはっきりしないので、印象が薄かったです。そんな中では脇役としての立ち位置を演じ切ったオスカー・アイザックが一番の儲け役と言えそうです。新ロボ、BB8は明らかにディズニーの息のかかったキャラになってまして、妙に感情表現するところがあざといというか、かわいいキャラにはなっているのですが、R2-D2にあったロボットならではのペーソスはないので、好みが分かれそう。ルーク、レイア、ハン・ソロは、オリジナルの役者が演じているだけで御の字といったところでしょうか。十代のファンには彼らはどう映るのか興味あります。私のようなオリジナル世代にはしみじみ感が先行しちゃうもので。

後、すごく気になったのが音楽でして、これは劇場の設備のせいかもしれないのですが、音がこもり気味で、さらに音楽が前面に出てこないのですよ。このシリーズの魅力の一つが音楽を目一杯鳴らすところにあるのですが、それがないと魅力半減です。以前に「スター・ウォーズ」のエピソードⅣを、ドルビーデジタル設備のTHX劇場(ワーナーマイカル海老名)で観たときは、楽器の一つ一つが聞き分けられる音響に鳥肌が立ったのですが、それには程遠い音楽だったのは残念でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



カイロ・レンは、レイアとハン・ソロの間に生まれた息子でした。これが、フォースの暗黒面に傾倒していっちゃったわけですが、ハン・ソロは敵基地に乗り込んだ時、彼を説得しようとするのですが、レンはライトセーバーで父親を一突き、ハン・ソロは帰らぬ人となってしまうのでした。ポー率いるレジスタンス部隊は、ファーストオーダーの基地を急襲、新兵器の心臓部を破壊することに成功しますが、それは惑星ごと吹き飛ばすような爆発を引き起こします。一方、レンとレイの一騎打ちとなります。レイはレンを後一歩で倒すところまで行くのですが、爆発の地割れにレンは飲み込まれてしまい、レイはチューバッカに助けられて、レジスタンスの基地へと帰還するのでした。すると、それまで眠っていたC3-POが目を覚まし、空中にルークの居場所を示す地図を描きます。そこへ、BB8の持っていた地図を重ねることで地図は完成。その地図が指し示す場所へ向かうレイ。断崖絶壁の上に立つ男の前に、ライトセーバーを持って歩み寄るレイ、振り向いた男は、年食ったルークだったのでした。おしまい、エンドクレジット。

エンドクレジット2枚目(トップはハリソン・フォード)のマーク・ハミルはラストシーンのみの出演でしたが、続編では活躍する出番があるのかしら。ともあれ、行方不明のルークを探すところから始まって、そのルークを見つけたところでおしまい。でも、ルーク探しはドラマのメインプロットではなく、単に人物紹介のためのストーリーでしかないってところのにこの映画の弱さがあると思います。それは、「スター・ウォーズ」のファンの方にとっては、些細な事かもしれないのですが、私のような、それほど思い入れのない人間からすれば、人物紹介だけの1本の映画でお金を取るって商売はどうなの?ってことになります。確かにスペクタクルシーンもあるのですが、CGで作られた映像にさほどの感動も愛着も感じないオヤジ世代としては、それだけではモトが取れないのですよ。せめて、レイがジェダイになるくらいまでは見せろよ、ルークが死ぬか生きるかくらいのところまでは見せろって思ってしまうのですよ。だって、レジスタンスとファースト・オーダーの戦いとしては、ほとんど進展がないじゃん。というわけで、この映画、私としては、出し惜しみが過ぎるケチ映画ということになっちゃいました。旧キャラへのノスタルジーで引っ張ろうという気持ちはわかるのですが、さほどのファンじゃない身としましては、それだけじゃねえって感じなのでした。

「クリード」は、ロッキーシリーズの続編として王道の作りがうれしいエンタテイメント。


今回は新作の「クリード」を川崎の川崎チネチッタ5で観てきました。ここは毎月23日が感謝デーとかで、大人1100円で映画が観られます。でも、劇場は、スターウォーズと妖怪ウォッチに占拠されちゃってる状態で、こういう普通の人間ドラマの入る余地が少ないのが残念。

母親を亡くして施設に入れられ、暴力沙汰で独房に入れられていたアドニス少年の前に一人の女性が現れます。それは、ロッキーと闘った伝説の男アポロ・クリードの未亡人メアリー・アン(フィリシア・ラシャド)でした。アドニスは、アポロと愛人の間に生まれた子供で、父は彼が生まれる前に試合で命を落としていたのでした。メアリー・アンはアドニスを家に引き取り、英才教育を施し、その結果、アドニス(マイケル・B・ジョーダン)は一流ビジネスマンに成長するのですが、亡き父の映像を見るうちにボクシングへの情熱が湧いてきて、会社も辞めてしまいます。そして、フィラデルフィアへと移り、かつての父のライバル、ロッキー(シルベスター・スタローン)を訪ね、教えを請おうとしますが、拒否されてしまいます。それでも、ロッキーがいたミッキーのジムへ通うようになるアドニス。階下の部屋の住人ビアンカ(テッサ・トンプソン)と仲良くなる一方、ロッキーの元へ何度もコーチをお願いすると、彼もアドニスの様子を見にジムへとやってきます。そして、アドニスはロッキーの家に住み込んで、ボクシングのコーチを受けるまでになります。そして、フィラデルフィアでのデビュー戦で、アドニスは2ラウンドTKOの勝利をおさめます。しかし、その勝利の記事で、彼がアポロの息子であることが暴露されてしまいます。ビアンカと気まずくなりかけ、また、偉大な父親の名前に押しつぶされそうになるアドニスですが、イギリスのライト・ヘビー級王者のコンラン(アンソニー・ペリュー)が自分の最後の試合の相手として、彼を指名してきます。これは、噛ませ犬の扱いだというロッキーですが、アドニスはこの申し入れを受けることにし、打倒コンランのための特訓をロッキーと共に開始するのでした。

「フルートベール駅で」のライアン・クーグラーが原案を書き、クーグラーとアーロン・コビントンが共同で脚本化し、クーグラーがメガホンを取りました。ストーリーとしては、これまでのロッキーシリーズを前提とした後日談という位置づけになっておりまして、それまでのストーリーが伏線となってはいますが、ドラマとしては、独立した物語として楽しめるようになっています。物語の展開は、ストレートがスポーツものになっておりまして、主人公であるアドニスがボクサーを目指して、トレーナーと出会い、彼女と出会い、ビッグマッチに臨むというもの。ひねりやシニカルな視点はなしで、スポーツものの王道の展開になっています。オリジナルの「ロッキー」と違うところは、「ロッキー」の登場人物が、みんな人生の負け犬だった連中が、ロッキーを中心に自分の人生を取り戻すという、お話だったのが、今回は、チャンピオンの私生児だった主人公が、ビッグネームのトレーナーと一緒に、父親の威光から独り立ちするという物語でして、まあエリート二代目の自立といった感じでしょうか。それだと、単なる甘ちゃんなお話になっちゃいそうですが、主人公は、少年時代を、施設で過ごし、喧嘩三昧の日々を送っていたというのがアクセントになっています。

その後、アポロの奥さんであるメアリー・アンに引き取られて、エリート教育を受けるのですが、父親のことを知って、自分も週末ボクサーをやっていたのですが、いよいよ本気でボクシングをやりたいということで、会社もやめて、メアリー・アンの反対も押し切って、フィラデルフィアに引っ越します。そして、今はレストランを営むロッキーに教えを乞いにいきます。最初は断っていたロッキーも、アポロの息子に興味を持ち、彼のトレーナーを買って出ます。ロッキーのレストランに過去にシーンの写真が貼ってあったり、ロッキーの部屋にでかくなった亀がいたり、ロッキーがエイドリアンとポーリーのお墓に話しかけるシーンなんてのもあって、あの「ロッキー」から、ずいぶんと時間が経ったんだなあってしみじみとさせてくれる一方で、新しい世代のアドニスが、すごく小奇麗なキャラとして登場するのが、ちょっと面白かったです。アドニスはいい学校を出て、一流ビジネスマンをやっていたいわゆるエリートで、言葉遣いや立ち振る舞いにも品があります。そんな彼がロッキーに教えを乞うにあたって、フィラデルフィアの一番危険な地域にある小汚いジムに連れていかれるという展開も、アドニスの少年時代へ戻ってやり直す的な意味あいを感じました。

一方のロッキーは、レストランオーナーとして穏やかな日々を過ごしていたのですが、ライバルであり親友であったアポロの息子の申し出を受けざるを得なくなります。それは、アポロの最後の試合を止められなかったということへの償いの意味あいもあったようです。シリーズものの強さは、過去の因縁を説明する過程をカットできるところで、セリフなどで説明しなくても、彼のキャラクターやその人生に想いを馳せることができます。今回のロッキーは、愛する人をみな失い、それでも日々を穏やかに過ごす男をシンプルに演じています。スタローンの老け役への転機として、この映画は重要な作品になるかも。

アドニスが、アポロの息子だということが新聞に出てしまい、そのことをからかわれて、暴力沙汰を起こして、警察を呼ばれてしまいます。父親のビッグネームに押しつぶされそうになるアドニスの姿は、ちょっと意外でした。アメリカのボクシングチャンピオンのステータスがわかっていないからかもしれないのですが、そこまで父親の存在を気にするのかって。そこには、彼がアポロの私生児だったという事情もあるようで、父親にとって、自分の存在って何なのかってところを気にしているようです。そういう葛藤が、映画の中でもっと描かれていれば、試合後のアドニスの言葉の意味も伝わるのですが、そこはあっさりと流していて、父親に対しての自分のアイデンティティへの葛藤の部分は物足りなかったかしら。

クーグラーの演出は、泣きのシーンもストレートに描いて、それが嫌味にならない真面目さが印象的でした。そのおかげで、映画としては素直に盛り上がる感動編に仕上がっておりまして、娯楽映画としてのポイントもかなり高いです。また、1試合を移動カメラ(最近は手持ちとは限らない)で1カットで捉えたりして凝った絵作りにトライしています。ただ、視覚効果に多くのメンツがクレジットされていますので、長い移動ショットですとか、試合の大人数の観客といったところに、視覚効果の手が加わっているように思います。ルートビッヒ・ヨーランソンの音楽は、ハウスミュージック風のシンセサウンドから、オーケストラとコーラスによる盛り上げ音楽まで、色々なジャンルを要所要所で使い分けていまして、新しいアドニスのテーマを作ることに成功しています。一方で、ビル・コンティによる「ロッキー」からの旋律をそこここに盛り込んでいまして、クライマックスで、オリジナルの試合での曲をまるまるアレンジして使うのはやり過ぎじゃない?って気もしちゃいました。ただ、それが画面にきっちりはまるんですよね。あー、やっぱりビル・コンティは偉大だわ。

父親の血を受け継いで、もともとボクシングの素質があったアドニスが、ロッキーのもとでさらにボクシングに磨きをかけて、父親の名前のおかげで、メジャー2戦目で世界タイトルマッチに出られるという、考えてみれば出来過ぎな話ではあるのですが、それを素直にスポーツドラマとしてまとめているのは、クーグラーの脚本の功績でしょう。また、ロッキーとアドニスを並行して描いて、二人が主役のドラマとして仕上げているのは、演出のうまさだと思いました。エンタテイメントとして、よくできていまして、万人にオススメできる映画だと思います。多少、ロッキーシリーズを予習しておくといいかもしれません。「ロッキー」「ロッキー3」くらいを観ておくといいでしょうか。後、お時間あれば「ロッキー4」も。



この先は結末に触れていますのでご注意ください。



アドニスはベビーアポロとからかわれて、ビアンカのライブの前に暴力沙汰を起こしてしまい、ビアンカから別れを告げられてしまいます。一方、アドニスのトレーニング中、ロッキーが倒れてしまいます。病院で検査したところ、悪性のリンパ腫であることが判明します。医者から、化学療法を勧められるロッキーですが、エイドリアンも化学療法の末に亡くなったことから、治療を拒否します。それを知ったアドニスは、ロッキーに治療するように言うのですが、「愛する人はみんな逝ってしまった。自分のやりたいことは、1日愛する妻と過ごすことだ。だが、それは不可能だ。」と返すロッキー。そこへ、イギリスのチャンピオン、コンランからタイトルマッチのオファーが来ます。ロッキーとしてはビッグマッチはまだ早いと思っていますが、自分が噛ませ犬であることも知った上でオファーを受けるアドニス。そして、自分も全力で闘うから、ロッキーにも病気と闘ってくれというアドニスに、ロッキーも応えます。辛い化学療法を受けながら、アドニスのコーチも続けるロッキー。そして、リバプールでのタイトルマッチの日となります。完全にアウェイの状況のアドニスの前に、ビアンカが現れます。そして、ゴングは鳴り、前半は、コンラン優勢の状況となりますが、後半はアドニスがぐんぐんと盛り返し、最終ラウンドに見事なダウンを奪うのですが、コンランが気力で立ち上がったところえゴングとなり、判定で、コンランが勝利を収めます。フィラデルフィアに戻って、早朝、美術館の前にやってくるロッキーとアドニス、二人の姿をとらえたカットから暗転、エンドクレジット。

ロッキーががんにかかってしまう展開は意外性がありましたが、それに対して、ロッキーの取る態度が泣かせました。アドニスのトレーニングにも顔を出す一方で、化学療法ではアドニスの世話になりながら、ロッキーは、アドニスとの二人三脚で頑張ることになります。ジムのスタッフもみんなでアドニスに協力します。この映画のいいところは、アドニスを囲むロッキーやスタッフの存在をないがしろにしていないところにあります。チームとして試合に臨むあたりの描き方が好感を持てました。クライマックスのタイトルマッチは、定番ながら盛り上がる展開になっています。ちょっとセリフが多すぎるのではないかという気もしましたけど、娯楽映画の王道の展開は見事でした。最後にアドニスに勝たせなかったあたりのセンスもマルでして、最後は気持ちよく映画を観終えることができました。ヒットしたら、続編ができるのでしょうけど、変に続編への目配せ(妙な伏線とか)をしなかった点もよかったです。きちんとこの映画で完結できているという点は評価したいです。

「ビザと美徳」は杉原千畝を扱った26分の短編です。この映画も記憶に値する映画としてご紹介。


「杉原千畝」の映画が公開されたということで、過去に同じように彼を題材にした映画があったことをご紹介です。この映画「ビザと美徳」は、私は1999年の8月、横浜のシネマジャックで「夜と霧」との2本立てで観ました。以下は、当時いた映画サークルのHPから転載しています。

1940年リトアニアの領事館には、ナチスドイツに追われたユダヤ人がビザをもらうために列を成していました。杉原総領事(クリス・タシマ)のもとには、日本からもう勝手にビザを出すことまかりならんのお達しが再三来ており、ついには、ベルリンへ出頭せよの電報が来ます。妻の幸子(スーザン・フクダ)は疲労からか3ヶ月の息子に乳も与えられない状況です。これまで、ユダヤ人たちのために不正なビザを発行してきた杉原も妻と3人の息子のことを思うと、これ以上の危険は冒せません。そして、これが最後のビザの発行だと、ユダヤ人夫婦を領事室に通すのですが......。

1998年のアカデミー賞で短編映画賞をとった作品だとのことで、てっきり記録映画だと思っていたのですが、26分の劇映画になっていました。以前、テレビでも取り上げられたことのある、杉原リトアニア総領事の物語です。この人は、1940年当時、リトアニアにいて、ポーランドから流れてくるユダヤ人難民にビザを発行し続け、2000通のビザで6000人の命を救ったと言われる人物です。彼は、ユダヤ人からの感謝と尊敬を受けたものの、その職を追われる羽目になりました。この映画はそういう人がいたことを忘れないために作られた映画とも言えそうです。そして、アメリカで、日系三世のクリス・タシマが監督・主演することで、不思議な距離感(バランス感覚と言い換えてもいいです)が生まれ、日本で作ったら、こうはならないだろうという映画に仕上がっています。

ドラマは1940年のある朝、日本からのベルリン出頭命令を受け、これ以上ビザは出せないとあきらめかかる杉原が、それでもやれるところまでやってやろうと思いを固めるまでの1エピソードを描いています。もともと舞台の一幕劇だったそうで、史実かどうかは怪しい気もするのですが、杉原が表情を変えず、寡黙に葛藤した挙げ句にある決断に至るまでを、短い時間の中で描ききった脚本と演出はなかなかのものです。また、ドラマを絞り切ったおかげで、誰もが、杉原の思いに共感できる作りになり、普遍的な愛のドラマとなり得ているのは、見事だと思いました。

主人公が日本で言う英雄というイメージから、かなり離れたキャラクターになっているのが興味深いところで、寡黙で礼儀正しく、愁嘆場を見せないというのは、ひょっとしたら、向こうの日本人のステレオタイプなのかもしれません。そして、その上に人物としての奥行きをつけたという感じなのです。奥さんに「ビザを出すと約束したのに」と言われて困ってしまうあたりは、なんだか英雄と呼ぶにはウジウジしているように見えますが、その見た目の下の強い意志を見せる瞬間が圧巻です。どちらかと言えば、一見普通の人がある特別な環境に置かれてしまって、その中で勇気ある決断をするというお話のように見えました。とりわけ善意の人間のようにも見えないし、かといって、悪いこともできそうもない、そんなキャラクターをクリス・タシマは好演しています。奥さんの方はなかなかにできた人物のようで、ビザ発行から手を引こうとしている杉原をなんとかその気にさせようとします。そのあたりの心の動きを監督としてのタシマは短い映画なのに、非常に丁寧にタメの演出をしています。もとが舞台劇だからかもしれませんが、ドラマとしては淡々として流れながら、テンションの高さはかなりのもので、26分が相当見応えのある時間となっています。

こういう形で日本の有名人が映画化されることはうれしいことだと思います。その一方で、こういう映画の作られる意味として、杉原という人がいたことを忘れないためというのは大きいと思います。実はこの映画を、「夜と霧」という記録映画と二本立てで観たのですが、どちらもこういう過去があったことを忘れてはいけないという視点が感じられました。「夜と霧」はナチスドイツの収容所の今(1955年)と過去を描いた記録映画で、かなりショッキングな映像もあるのですが、目をそらすことができない説得力がありました。「ビザと美徳」にも、記憶にとどめておくべきことがあるという視点が感じられました。ドイツと同盟国だった日本だけど、その中にも、ユダヤ人の命を救った人がいたということは、忘れたくはありません。もし、この先、日本がまたおかしな方向に進んでいくことがあったとしても、こういう人の存在は理性的な行動への大きな励ましとなるのではないのでしょうか。杉原が自信に満ちてビザを発行したのではなく、躊躇と葛藤の果てに、ビザ発行を続けるというところにも、この映画のお値打ちがあるようにも感じました。流されず、固執せず、熟考の果てに決断を下す、彼の姿勢は普遍的な人のあるべき姿のように思えた次第です。

この映画は、杉原のことを映画化しようと思い立ってから、日系など色々な人からの援助や出資によって、できあがった作品だそうです。そういう意味では、日本の杉原の存在をアメリカの人に知らしめたいという気持ちはあったようです。また、オープニングとエンディングの現在のシーン(本人ではなく、俳優さんが演じているのですが)がカラーで、メインのドラマ部分なモノクロというのは、「シンドラーのリスト」を意識させる構成になっているのが興味深かったです。福岡アジア映画祭実行委員会が配給しているということで、団体へのフィルム貸出しをしているようです。

「パリ3区の遺産相続人」のダメ人間の人生やり直しストーリーは、人生折り返した人にオススメ。


今回は、新作の「パリ3区の遺産相続人」を横浜のシネマジャックで観てきました。ここはスクリーンの前に幕があり、さらにスクリーンサイズをきちんと映画によって変えてくれる、昔ながらの映画館です。

アメリカ人のマティアス・ゴールド(ケヴィン・クライン)はパリのマレ地区のアパートを遺産とした相続したということで、アメリカの家を引き払って、パリにやってきます。アパートを訪ねてみれば、そこはマティルド(マギー・スミス)という老女が住んでいて、「ヴィアジェ」という制度に則った物件で、アパートのオーナーはそこの住人であるマティルドが死ぬまで、毎月2400ユーロを支払わなければならないんですって。彼女は、マティアスの父親を知ってるらしく、昔どうやら恋仲にあったらしいのです。一方、アパートを売って金にしようと思っていたマティアスは、がっかり、とりあえず父の形見の金の腕時計で、そのアパートで暮らすようになります。このアパートにはマティルド以外に、マティアスと同じくらいの年恰好に娘クロエ(クリスティン・スコット・トーマス)も同居していました。自分でこのアパートを買い取りたいと思っているクロエにとってマティアスはあまりうれしくない存在みたいで強くあたってきます。57歳にもなって貯金も友人もいないマティアスは、家の中のめぼしい家具を売って、現金を手にしたり、このアパートを買いたがっているフランソワと接触したりして、クロエをいらつかせます。部屋の中を物色していたマティアスは、父親とマティルドの映った古い写真を見つけます。そこに書かれた愛の言葉から、二人がただならぬ関係だったことが伺えます。でも、マティアスにとって父親は、母親にも自分にも冷たい父であり、まるで愛された記憶がありませんでした。さらに、マティアスは自分の映った写真まで発見するのでした。

劇作家であり「いちご白書」で知られるイスラエル・ホロヴィッツが自分の書いた舞台を脚本化し、メガホンも取りました。57歳にして、金なし、家族なし、友なしの主人公が、パリの老婦人と知り合いになることで、自分のトラウマでもある父親と再び向き合うことになります。普通なら、父親との葛藤を整理するなら、もっと若い世代でやるところですが、これをもう孫がいてもおかしくない57歳のダメ男にさせるというところにドラマとしての味わいが出ました。同世代の私からすると、この年でもこんなことグダグダやって、人生のやり直しを図ることができるんだというところが大変うれしく共感できました。90歳のマティルドに比べたら、57歳のマティアスなんてまだまだ未来ある人間なんだってところが、もう人生この先いい事なんてないよなあと思っていた私には、ちょっとした発見でもありました。ダメ人間のマティアスが、今更、親との葛藤に向き合うことで人生やり直しが効くんだったら、50過ぎてもまだまだ人生捨てたもんじゃないって感じ。

「ヴィアジェ」という制度のおかげで、マティルドが生きている間はお金を払い続けなければいけないマティアス。老人の居住権を守るための制度だそうで、マティルドにとっては期待外れ。無一文のマティアスは、マティルドに払うお金を作るために、娘のクロエが不倫しているのを見つけて、ばらされたくなかったらマティルドに払う金を立て替えろなんて脅したりしちゃいます。いい年こいて、何だかやってることが情けない。一方のクロエなんですが、勤め口の英語学校講師も親がかりで、結婚もせず、親と同居という、どこか親に依存したまま年を取ってしまった女性です。どこか成熟しきれないところは、マティアスもクロエも似たようなところがあります。私もいい年こいて、そういうところがあるので、結構共感してしまったのですが、若い人が見たら結構引くんじゃないかしら。

ケヴィン・クラインは成長しきれない男を軽妙に好演していまして、役者としてのうまさを見せてくれます。一方のクリスティン・スコット・トーマスはいつものしっかりキャラとは違う、どこか頼りなげな中年女性を演じて、こちらもうまい。マギー・スミスはその存在感がすごくて、ちょっとした表情の変化で、様々な感情を語ってみせます。大女優の貫禄の演技という感じでしょうか。ホロヴィッツの演出は、舞台の芝居をそのまま映画の持ち込んだ印象でして、自分語りの部分が不自然に長く感じられてしまいました。舞台でのセリフ回しとしては自然でも、映画というリアルな環境で語るセリフとしてはややくどいという気がしてしまいました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



マティルダの話によると、マティアスの父親と出会ったとき、彼女はすでに結婚していて、マティアスの父親と母親もすでに出会っていました。マティルダとマティアスの父親は愛し合いながら、お互い別の人間と結婚することを選んで、結婚後も逢瀬を重ねていたというのです。マティアスの母親は16回自殺を試みて、最後はマティアスの腕の中で息を引き取っていました。その理由にようやっとたどり着いたマティアス。ですが、マティルダは母親が病死したと聞かされていたので、ショックを受けて倒れてしまいます。一方のクロエは、10歳くらいの頃から、母親に愛人がいて、クロエを理由に家を空けて逢っていたことも知っていました。そして、親から愛されていないと思っていたのでした。当のマティルダは誰も傷つけないように、愛を育んできたと思い込んでいたようで、ここにきて、自分が人を傷つけてきたことに直面することになります。マティアスとクロエは、お互いの似たような境遇もあって、一気に気持ちが接近し、ベッドをともにするのですが、そこで、もう一つの疑問が二人を困惑させます。クロエはマティルダに「自分の父親は誰なのか」と問いただすことになります。「私にはわからない」とすっとぼけるマティルダ。その後、DNA検査で二人は兄妹でなかったことがわかってほっと一息。マティアスの父親の遺灰はアパートの庭にありました。その父親に声をかけるマティアス、立ち上がる彼の前にはクロエがいて、抱き合う二人、それを窓から見下ろすマティルダから暗転、エンドクレジット。

マティアスとクロエが恋仲になるくだりなんて、若い頃観たら、何だいい年こいてこいつら、と思うところなんでしょうけど、彼らと同年代になってみれば、ダメな者同士で恋愛をやり直せるってのはいいなあって思えてしまうから不思議なものです。60を手前にして、父親との和解ができるマティアスもダメな奴だなあって気がしますし、同じ年恰好で家庭持ちの不倫はよくないことだと気づくクロエも似たようなものです。マティルダさえも、周囲のことにおかまいなく、自分の恋愛に没頭していた困った女性であったことがわかってきます。そんなダメな人たちの在り様を甘やかさず突き放さずという視点で描いているのが面白く、共感できるドラマになっています。マティアスの母親を、自殺に追い込む一因となったマティルダも、責めることなく、でも、自分のやったことの結果に気づくのが遅いよと突っ込み入るくらいのスタンスで描いている、そのあたりのさじ加減がいい感じなのですよ。ヘビーな人生ドラマを描いているのですが、それを面白可笑しく切り取るとこんな感じになるのかも。若い人より、人生折り返したくらいの方にオススメしたい映画です。

「007 スペクター」のジェームズ・ボンドの自分探しには、あまり興味が持てなくて。


今回は、新作の「スペクター」を銀座のTOHOシネマズ日劇1で観てきました。ここは昔ながらの大劇場の作りなのはいいのですが、シネコンほど座席の傾斜が十分でないので、前に座高の高い人が座ると画面が欠けちゃいます。もう少し画面を上げてくれるといいのですが。

ジェームズ(ダニエル・クレイグ)はスカイフォールで亡くなったMの遺言ビデオの指令で、メキシコシティでスキアラという男を追跡して大立ち回りを演じて新聞にも載ってしまいます。現M(レイフ・ファインズ)は、彼に停職を言い渡しますが、その足でジェームズは、遺言ビデオの指示とおり、スキアラの葬儀に立ち合い、未亡人ルチア(モニカ・ベルッチ)に接近し、彼女から、スキアラの属する組織がローマで会合を開く情報を得て、会議場の聖堂へ向かいます。そこでは、世界の情報を牛耳ろうとする組織の幹部たちが集まって会議の真っ最中。そこに現れた組織のトップの男フランツ(クリストファー・ヴァルツ)にジェームズは覚えがありました。かつて、孤児だったジェームズを息子のように扱ってくれた恩人の息子だったのです。そして、彼は雪山で父親と共に死んだことになっていました。組織の名はスペクター。これまで、ジェームズと闘ってきたMrホワイト、リンド、グリーン、シルヴァといった連中はみんなこの組織のみなさんだったんですって。そして、組織に逆らったホワイト(イェスパー・クリステンセン)の命が狙われていることを知ったジェームズは、隠遁中のホワイトを訪ねます。彼は、自分の娘マドレーヌ(レア・サドゥ)の安全をジェームズに託して、自殺します。ジェームズは、山の頂上にある診療所に向かい、誘拐されそうになっていた彼女を救い出します。ホワイトがハネムーンで行ったホテルを訪れた二人は、彼の残した座標の場所に向かいます。そこは、スペクターの基地になっていました。フランツは二人を出迎えると、これから行おうとしている計画を語り始めるのでした。

ダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドになってから、これで4作目になります。壮大なお家騒動を重厚なドラマでやって番外編の極みだった前作「スカイフォール」の続きとして始まる今回のお話。007シリーズを手掛けてきたジョン・ローガンとニール・パーヴィスとロバート・ウェイドがストーリーを書き、彼ら3人に「フェア・ゲーム」のジェズ・バターワースが加わって脚本化し、「ロード・トゥ・パーディション」「スカイフォール」のサム・メンデスが監督しました。予告編が、バットマンの「ダークナイト」みたいな重厚(もったいつけてるとも言う?)なものだったので、また「スカイフォール」みたいな重めの内容だったらやだなあって、悪い予感もありました。冒頭は、メキシコの死者の日のお祭りを舞台に銃撃戦から屋台崩し、そして群衆の上をヘリが飛び回るスタントありと見せ場のつるべ打ち。長回しカットもあったりして、これは見せるエンタメになってるんじゃない?という予感。

冒頭でジェームズは停職処分を受けるのですが、勝手に行動していくというパターンは期待させるものがあります。一方、諜報機関であるMI6は存続の危機に迫られていました。国内の治安維持を目的とするMI5に統合させられそうなんですって。ん?またお家騒動をやるのかなという不安。でも、ドラマが進んでいくにつれて、悪の大組織スペクターが登場してくると、昔の007を思わせる展開になってきます。何しろ前作の3つの悪役のさらに上がいたという設定は、仮面ライダーシリーズの敵組織の上に大ショッカーがいたようなもので、それまでの悪役を矮小化しちゃう一方で、お話のステージを1ランク上に上げることになります。派手なアクションシーンも登場して、見せ場にも事欠かない展開は娯楽映画として上々の出来栄えです。雪山での、自動車をセスナで追跡するシーンがなかなかの迫力で、どうやってセスナで車を止めるのかというところを説得力ある絵で見せちゃうのは、お見事。これは第2班監督のアレクサンダー・ウィットの功績でしょうか。でも特殊効果は、クリス・ゴーボールドによるミニチュアや、ILM以下複数社によるCG仕上げがかかっていると思われるので、どこまでが誰の功績なのかよくわからないのですが。

ところが、スペクターの首領であるフランツが登場すると、ドラマがジュームズの過去へシフトしていくんですよ。どうやら、フランツとジェームズには、007になる前に個人的な因縁があるみたいでして、そうなると、世界とスペクターの闘いが幼馴染の因縁対決に収束しちゃうという、私に言わせると「あ、やっちゃった」的な展開になっていきます。マドレーヌに「殺し屋になる以外の選択もあるのよ」と言われて「他に選択肢はなかった」とジェームズがマジメに答えるに至っては、ジェームズ・ボンドの自分探しみたくなってきて、ああ、またそっちへ行っちゃうのかという展開になっていきます。

「スカイフォール」の時も007がMと二人きりで、MI6のバックアップなしでスカイフォールへ乗り込むという展開にすごく無理を感じたのですが、今回も、MI6のバックアップなしで、ジェームズはマドレーヌと一緒にほぼノープランでフランツのアジトへ乗り込んでいきます。そこで、拷問にかけられるもののQの新兵器で脱出して、銃一発で、彼の基地を爆破しちゃうというムチャをしてくれます。ジェームズの行動が、ミッションによるものでも、正義感によるものでもないので、何だか自分探しのついでに敵基地も爆破しちゃいましたという感じなのですよ。何でこういう話にしちゃうのかなあ、こういうお話がドラマチックで好きとおっしゃる方もいるのかもしれませんけど、「スカイフォール」から007がどんどん迷走しているような気がするのは私だけかしら。スパイアクション娯楽映画ということでは、「ミッション・インポッシブル」に負けちゃってるんでないかい? 

サム・メンデスの演出は、前半はテンポよくお話が進むのですが、後半になってからは、何か長いという印象を持ってしまいました。実際、2時間半という長い映画ではあるのですが、その長さを感じさせる007というのは、これまでのイメージとはちょっと違うという感じでした。演技陣も頑張っているのですが、ヒロインであるはずのレア・サドゥが意外と精彩を欠いていたようなのが残念でした。クリストフ・ヴァルツももっと悪の凄みを見せられる人なのに、その見せ場の設定が足りなかったように思います。



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MI5のトップ、マックス(アンドリュー・スコット)は、世界主要9か国の情報を一元化するシステムの稼働を進めていました。ところが、このマックスがスペクターの一味で、スペクターに世界中の情報を集めようとしていました。それを阻止するべく、ジェームズ、M、Qが立ち上がります。システム起動まで、後数十分しかありません。しかし、彼らの乗った車は、スペクターに襲撃され、ジェームズは拉致されてしまいます。廃墟となっているMI6の本部へ運び込まれたジェームズの前にフランツが現れ、ここに爆弾を仕掛けて、さらにマトレーヌもこのビルにいると告げます。タイムリミットは3分。一方、MI5のオフィスにいたマックスの前に現れたMとQは、統合情報システムの起動を阻止することに成功します。ビルの奥に監禁されていたマドレーヌを見つけたジェームズは間一髪でビルを脱出しますが、その瞬間大爆発が起こり、MI6の本部ビルは完全に粉砕されてしまいます。ヘリで逃げるフランツを、ジェームズが追い、ピストルで狙いをつけると、ヘリに見事命中。ヘリは橋の上に墜落します。墜落したヘリから逃げようとするフランツを追い詰めたジェームズは彼に銃口を向けますが、引き金は引かず、Mに後を頼んで、マドレーヌと共に消えていきます。その後、Qの前に再度現れたジェームズは彼からアストンマーティンを奪って、マドレーヌと共に去って行くのでした。暗転、エンドクレジット。

クライマックスは、英国の政府機関、MI6とMI5のお家騒動になっちゃうのは、またまた、うーんという感じ。ラストでフランツを殺さないジェームズも彼らしくありません。最後まで、自分探しをしているって感じなのが、全然ハードボイルドじゃないのですよ。というわけで、後半はジェームズのプライベートにドラマの重心を置き過ぎて、いつもの007のようなスケールの大きさが出ませんでした。特に、ヘリで逃げるフランツが、ジェームズのピストルに撃ち落とされちゃうのはさすがにやりすぎだろうって思いましたもの。ジェームズがマドレーヌを爆破前に発見する偶然もしかり。ご都合主義が過ぎるのは、シリアスなドラマにはそぐわない感じ。これが、豪華絢爛お気楽エンタテイメントとしての007であるなら、ある程度のご都合主義も許容範囲なのですが、ドラマを重くシリアスにしておいて、能天気なご都合主義は、映画としてのバランスを欠いてしまったのではないかしら。そんなわけで、予告編で感じたいやな予感が的中しちゃったという感じの鑑賞になっちゃいました。

「黄金のアデーレ 名画の帰還」は法廷もの歴史ものとして見ごたえある娯楽映画としてオススメ


今回は、新作の「黄金のアデーレ 名画の帰還」を川崎の川崎チネチッタ9で観てきました。ここは、ビスタサイズで横幅一杯なので、シネスコサイズの上映の時はスクリーンが縦に縮む映画館。ただ、最近、ビスタのまま、シネスコ上映する映画館が増えちゃったもので、ここみたいにきちんとスクリーンサイズを変える映画館は貴重な存在になっちゃいました。変な時代になってきたよなあ。

1998年、ロスでブティックを営む未亡人マリア(ヘレン・ミレン)の姉が亡くなり、姉の遺品から、戦時中ナチスに没収された叔母の肖像画の返還をオーストリア政府に求めることができることを知ります。そこで、友人の息子で弁護士をしているランディ(ライアン・レイノルズ)に相談を持ち掛けます。その肖像画というのがクリムトの「黄金のアデーレ」で、時価100億ドルもするというので、ランディも興味を持って、マリアと一緒にウィーンに向かいます。不正に収奪された美術品を持ち主に返還しようというのは、オーストリアの対外宣伝も兼ねての企画ではあったのですが、オーストリアの至宝となっている「黄金のアデーレ」を返還する気はオーストリア政府には毛頭ありませんでした。それに不満なら裁判を起こせるとのことなんですが、オーストリアで裁判を起こすにはその絵の相場と同じ一時金が必要ということで、断念してアメリカに帰ってくるマリア。しかし、ランディはあきらめていませんでした。過去の判例を調査し、アメリカでも、肖像画の返還を求める訴訟が起こせることを知り、今度はマリアを巻き込んで、オーストリア政府を訴える訴訟を起こします。最初は、海外の内政に干渉するなんてできないとたかをくくっていたオーストリア政府ですが、実際に訴訟は成立し、最高裁まで進んでしまいます。今度は、マリアの寿命と天秤にかけた引き延ばし戦術をかけてくるオーストリアに、ランディは最後の提案をすることになるのでした。

実際にあった実話をもとに、アレクシ・ケイ・キャンベルが脚本を書き、「マリリン、7日間の恋」のサイモン・カーティスがメガホンを取りました。粗筋だけ読むと、マリアがオーストリア政府にムチャぶりしたようにも見えてしまうのですが、そういう老女のスタンドプレイのお話ではありません。むしろ、肖像画返還の訴訟を通して、戦時中のオーストリアであった出来事を描いた映画という方が当たっていると思います。マリアは、オーストリアに住んでいたユダヤ人で、絵のモデルであるアデーレは若くして亡くなった彼女のおばさんでした。その絵は、マリアの家に飾られていたものでした。マリアはオペラ歌手のマックスと結婚しますが、その直後、オーストリアはナチスドイツに併合され、ドイツ軍がウィーンへと侵攻してくることで、ユダヤ人はドイツ軍からもウィーン市民からも迫害を受けることになります。このあたりを、結構シビアに描いていまして、それをウィーンで撮影しているってところに、オーストリア人の懐の深さを感じることができました。ナチスドイツの単純な被害者でなかったオーストリア人を描いているところが、歴史ものとしての見応えを感じさせ、それが、肖像画返還にこだわるマリアの複雑な感情となってドラマに厚みを感じさせました。一方で、映画の主人公であるはずの肖像画にまつわる部分の描写は、マリアの叔母の記憶というレベルにとどまっていてクリムトも登場しませんし、絵としての評価云々はドラマでは描かれません。まあ、「ダビンチ・コード」のモナリザの絵みたいな淡泊な扱いになっています。美術映画を期待すると、ちょっとがっかりするかも。私は、ナチスドイツにまつわる歴史ドラマとして堪能しました。後半からラストにかけてはかなり泣かされちゃいましたもの。

アデーレの肖像画は、オーストリアの美術館でトップクラスの扱い、いわゆる国宝みたいなものなので、政府としては、それを元の持ち主に返すことには、最初から応じる気などないのですね。ところが、マリアの叔父や叔母の遺言書と、肖像画がナチスによって没収された時期を照らし合わせてみると、叔母(つまりアデーレ)の遺言が無効で、肖像画のお金を払った叔父に所有権があり、さらに叔父はその所有権を姪であるマリアに残していたことがわかってきます。でも、オーストリア政府は、マリアやランディの言い分には耳を傾けず、決定事項として肖像画の返還はしないと通告してきます。この若いアメリカ人ランディがオーストリアの作曲家シェーンベルクの孫でして、彼がオーストリアを訪れて、マリアと一緒に行動していくうちに、最初は絵の値段に釣られてついてきたのに、だんだんとオーストリア人であるマリアに感情移入していきます。そして、自分のアイデンティティを再認識したランディは、マリアがあきらめた後も独自で調査して、アメリカ国内での訴訟が可能なことを見つけることになります。

映画は、マリアとランディの現代でのやり取りを中心に展開するのですが、要所要所にマリアの回想をたくさん挟み込み、時代に踏みにじられたユダヤ人の姿を浮き彫りにしていきます。ドイツ軍のウィーン入場をウィーン市民は拍手と花で迎え、そして、ナチスによるユダヤ人弾圧に加担するようになります。当時は、そうするしかなかったのかもしれないということもあるのでしょうが、それを過った過去として描いています。マリアと夫のマックスはケルン行きの飛行機の切符を手に入れ、脱出を図ることになります。それは、両親と祖国の両方を捨てていくことを意味しましたが、両親も娘夫婦だけでも生き延びることを願っていました。飛行機に乗り込むまでに、ナチスとの追跡劇がスリリングに描かれ、何とか二人はウィーンを脱出することに成功するのでした。

マリアとマックスの脱出劇がスリリングである一方で、裁判の行方もまたサスペンスの要素があって、娯楽映画としてもかなり面白くできています。カーティス監督の「マリリン、7日間の恋」は題材の面白さの割に娯楽色は今一つだったのですが、この映画できちんと面白い映画を作れる人だというところを見せてくれました。そして、ラストで、ヘレン・ミレンの女優としての見せ場を作るあたりは舞台の演出家なんだなあって納得しちゃいました。裁判ものであり、歴史ものでもあり、最後に一人の女性の半生を描いたドラマとしてまとまるという構成は、脚本のうまさもあるのでしょうが、よくできた面白い映画でした。

演技陣が皆好演でして、ヘレン・ミレンは、自分たち家族を迫害したオーストリアを捨てて、アメリカで暮らすという複雑な立場の女性を重厚に演じ切りました。ライアン・レイノルズは実物より若造のキャラで自分の祖父たちの歴史と向き合う弁護士を熱演。また、脇役にもいいメンツを揃え、ランディの奥さんをちょっとの出番で好感のもてるリアルなキャラに仕上げたケイティ・ホームズの他、ランディの上司にチャールズ・ダンス、最高裁の主席判事にジョナサン・プライス、オーストリアでマリアをサポートするジャーナリストにダニエル・ブリュールなどの面々がドラマを支えています。個人的には昔ファンだったエリザベス・マクガワンが判事の役で登場したのが懐かしかったですが、彼女、監督のサイモン・カーティスの奥さんですって、へぇー。撮影のロス・エメリーは、現代と過去で、色調やライトの当て方を変えるなどして時代色を出すのに成功しています。また、マーティン・フィップスとハンス・ジマーによる音楽はドラマを静かに支えていますが、ラストシーンからエンドクレジットにかけての盛り上げ音楽が見事で、ここでまんまと泣かされてしまいました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



裁判の引き延ばしにかかるのが目に見えている状況で、ランディはマリアの健康を気遣います。オーストリア政府が非を認めて謝罪、補償をするのなら、肖像画をウィーンに置いてもいいという提案もするのですが、オーストリア側は非を認めることは絶対できないと拒否します。そこで、彼は、思い切った手に出ます。それは、ウィーンで、この一件の調停を行おうというもの。しかし、それはオーストリア側に有利に働く可能性が大きく、マリアもその提案を聞いて、ランディを解雇すると言い出します。そして、ウィーンでの調停の場となり、ランディの演説の時、そこにマリアが姿を現します。ランディは「我々が犯した罪を認めるべきだ」と調停者に訴えるのでした。そして、調停の結論は、肖像画はマリアに返還するというものでした。それを聞いたマリアは、自分はオーストリアを許せない一方で、そのオーストリアを捨てた人間だと、この決着に対する複雑な想いで、ランディの腕の中で泣き崩れるのでした。黄金のアデーレはニューヨークの画廊で公開されることになります。ウィーンを去る日、マリアは自分が住んでいたアパートメントを訪ねます。そこはオフィスになっているのですが、中へ入ると映像が過去のものとなり、そこにはアデーレや幼い自分、叔父や父がいます。部屋の奥へ進むと、そこには黄金のアデーレが飾られているのでした。暗転、エンドクレジット。

マリアにとって、オーストリアは不幸な過去の記憶で埋められた場所であり、最初は行くのを嫌がります。また、発言の中で自分はオーストリアを許せないとも言います。そんな、オーストリアが過去の過ちを認め、肖像画を返還する判断を下したとき、自分の感情の行き場を失いかけるのを、ヘレン・ミレンが見事に表現しています。戦争の不幸な歴史を掘り返すことは必ずしも愉快な結果をもたらすとは限りません。だがあえてそれをやることで、過去の過ちと向き合い、未来への糧にすることは必要だとこの映画は訴えています。その視点が、過去の罪をあげつらうことではなく、被害者に対して真摯に向き合う姿勢にあるというのは、先日観た「名もなきヒトラーたち」と同じものを感じました。そういう意味で、歴史の捉え方という意味でも勉強になる映画でした。
プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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