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「白鯨との闘い」は、海の神秘と極限状態の人間の描き方が興味深いです。


今回は新作の「白鯨との闘い」を川崎の川崎チネチッタ1で観てきました。ここは一番後ろがベストポジションという妙な作りの映画館で、キャパや座席配置の割にスクリーンは大きめ、でもシネスコ作品では上下が詰まるというつくりです。

作家のハーマン・メルビル(ベン・ウィショー)が老いたトム・ニカーソン(ブレンダン・グリーソン)の元を訪れます。その目的は現在執筆中の小説「白鯨」の取材のためで、難破した捕鯨船エセックス号で起きた事件の生存者であるトムにその顛末を聞きにきたのでした。最初は、話すことを拒否していたトムですが、トムの妻からの口添えもあり、彼は少しずつ事件について語り始めます。1819年、ポラード船長(ベンジャミン・ウォーカー)率いる捕鯨船エセックス号がナンタケットの港を出港します。一等航海士のオーウェン・チェイス(クリス・ヘムズワース)は、捕鯨での実績もあり、家柄だけで船長になったポラードとはうまくそりが合いません。それに、ポラードが無理やり嵐に突っ込むというムチャをするものですから、余計目に船長と船員の対立の構図が出来上がります。さらにまずいことに鯨になかなか遭遇しません。途中で立ち寄った港で、片腕の元船長から、太平洋の沖に鯨がものすごく集まっているところがあるという話を聞きます。ただ、そこには悪魔がいて、その船長は部下を6人失い、片腕もなくしたというのです。このままでは帰れないと、ポラードとオーウェンの意見は一致して、太平洋沖の鯨の群れを求めて船を進めるのでした。

ナサニエル・フィルブルックの書いた本をベースに、「光の旅人K-PAX」「マイ・フレンド・メモリー」のチャールズ・リーヴィットとリック・ジャッファとアマンダ・シルヴァーがストーリーを書き、リーヴィットが脚本化して、「コクーン」「ダ・ヴィンチ・コード」のロン・ハワードがメガホンを取りました。一応、事実に基づいた映画ということになっていますが、まあフィクション部分が大きいんだろうなあって気はしました。予告編を観たときは、またCGまみれの映画なんだろうと思って興味がわかなかったのですが、映画雑誌「映画秘宝」の紹介記事を読んでちょっとだけ食指が動きました。それに、今、映画館でやってる映画に面白そうなのがなかったこともあって、この映画をチョイスしてみました。

冒頭、メルビルがトムの家を訪れ、自分の全財産を渡すから、エセックス号のことを話してくれと頼むシーンから映画は始まります。でも、トムは自分の過去を語ろうとはしません。彼の奥さんがずっとふさぎ込んでいる夫に、話すことで楽になるようにと促して、ようやっと、重い口を開き始めます。で、お話は、30年前のナンタケット島へと移ります。その当時は鯨油は大変高価で取引されていたらしく、たくさんの捕鯨船が鯨を求めて海へ出ていました。物語と主人公となるのは一等航海士のオーウェンでして、捕鯨船乗りとして優秀な実績がありながら、彼は内地の人間だということで、島では差別され、なかなか船長になれないでいました。一方、若い船長のポラードは島の名家のおぼっちゃまで、ベテランのオーウェンとは静かな対立がありました。それでも、鯨をたくさん獲ってより多くの鯨油を持って帰るというところで二人の利害は一致していました。

ナンタケットの街の時代色を出すセットに、背景はCGの画面はそれなりの説得力がありました。海へ出てからのシーンも本当に登場人物が船を操っているように見えましたし、そのあたりの見せ方はさすがだなと思いました。我ながらゲスな映画の見方だと思いつつも、「ライフ・オブ・パイ」のメイキング映像を見てしまっていたので、海のシーンのどこまでが本物でどこから先がCGなんだろうっていう見方になっちゃうんですよね。出てくる鯨は全部CGなんだろうなって思う一方、主人公の乗るエセックス号は実際に外海へ出て撮影したんだろうかなんてことが気になっちゃうあたりは、やな観客だよなあ。

そんな映像技術を気にしつつも、エセックス号が鯨の群れの話を聞いて、太平洋へ出ていくとだんだんとお話が盛り上がってきます。そして、鯨の群れと遭遇することになるのですが、このあたりの映像の迫力はものすごくて、視覚的にも盛り上がります。(まあ、CGなんでしょ?という冷めた突っ込みも込みで)鯨の群れが泳いでいるところへ、小さなボートで突っ込んでいくところは圧巻でしたもの。鯨獲りってのは、長いロープのついた銛で鯨の急所を刺し、それでも逃げる鯨を追って、ロープが尽きる前に鯨が力尽きればOKというやり方のようで、銛で刺した後、ロープが尽きるか、鯨の命が尽きるかというところがドキドキハラハラの見せ場になっています。死んだ鯨を母船へ持って帰ると、鯨から油を取る作業となり、持って帰るのは鯨の油のみということのようです。肉やその他の部分は鮫の餌になっちゃうようなので、もったいないなあという気もしますが、それだけ鯨油の値打ちが高い時代だったようです。

主人公を演じるクリス・ヘムズワースって演技力があるのかないのかよくわからない役ばかりやってるというイメージがあるのですが、こういうサバイバル映画にはふさわしいキャラになっていました。その他の演技陣も自然(CG?←しつこいよ)と巨鯨の影に隠れてしまい、あまり印象に残りませんでした。ハワードの演出もあえて人間を矮小な存在として描いているような気がしました。19世紀の時代を現す表現としてのCGが大変役に立っているのは見事で、ナンタケットの町を、海上の船の視点の揺れる映像でとらえることができるのも、CGあってのものでしょう。また、最近の映画で、CGを使った風景を、空撮(ドローンで撮った感じ)の移動ショットで捉えた映像が増えていますが、それだけ技術が進歩したのと、それを(VFXの会社が)売りにしているんだろうなあってのが伺えました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



鯨の群れにボートで入り込み銛を撃ったのですが、そこへ巨大な白鯨が現れ、巨大な尾でボート破壊します。さらに、白鯨は母船を襲い、船底に穴を空けてしまいます。母船は沈没を始め、オーウェンたちは母船を捨てざるを得なくなります。3艘のボートにありったけの水と食料と帆を積み込んで、太平洋のど真ん中で漂流が始まります。途中で無人島にたどり着くのですが、そこにあった難破者の遺体を見て、ボートで再び海へ出ることにします。その間、白鯨はずっと彼らを追ってきているようで、時には攻撃もしてくるのでした。そして、飢えと渇きによって、みんな心身ともに弱っていきます。最初は、オーウェンのいるボートで、船員の一人が亡くなったとき、それをそのまま海に流さず、解体して食べてしまいます。老いたトムが話せないでいたのはこの事実だったのです。一方、船長の乗ったボートでは、誰が食べられるかというくじ引きが行われます。船長がくじに当たるのですが、彼を殺せない従弟の船員は自らの頭を撃ち抜くのでした。そして、3艘のうち、2艘だけが救助されます。ナンタケット島へ戻ったオーウェンや船長は船主たちに、自分たちに起こったことを全て告げるのですが、それだと捕鯨産業へ痛手を与えることになる、エセックス号は単なる座礁で漂流したことにしようというのですが、オーウェンは嘘をつくのはいやだと拒否。後日、審問会が広がって船長が形だけの証言をすることになるのですが、船長も真実を話してしまい審問会は紛糾してしまうのでした。そして、オーウェンは、無人島に残した仲間を救いに行ったあと、商船の船長となるのでした。おしまい。

食人のシーンは、トムの口から語られるのみで、直接描写はありません。また、食人に至るまでの、葛藤や懊悩といったものも描かれません。極限状態で、そうなるべくしてなってしまったという描き方になっているのが意外でした。誰が食べられるかというくじ引きのシーンも淡々と描かれているのですよ。物理的生理的に極限状態にある人間の行動として、食人はありという視点は意外でした。過去の話だから、淡々と描いたというよりは、極限状態の選択として肯定的なものという印象を受けました。まあ、そこにフォーカスしすぎると、海の神秘としての白鯨がかすんでしまうというドラマ作りとしてのバランスもあったと思われます。ここで登場する白鯨は、何でもお見通しみたいなところがあって、銛撃ちのボートを破壊した後、他のボートを置いといて母船を破壊しに行きますし、漂流中のボートが島を見つけたタイミングで襲い掛かったりと、昔観た映画の「オルカ」みたいな、知性と執念を持っているのです。そんな不思議な存在を持った海の神秘性はすごいでしょって感じの映画です。

映画の後半は漂流シーンになるのですが、このあたりの演出が妙に淡々としているのが不思議な印象でした。お互いを責め合ったり、殺しあったりもせず、すごく静かにお話が進行するのですよ。漂流の間、ドラマチックな展開はほとんどありません。食人の件も、トムの語りだけで済ませるのですが、それを語るシーンで激高することもなく、静かにあったことを語るのです。それは、人間が人間である感情を失って、自然に取り込まれてしまったように感じられました。極限状態での人間ってのは、人としての感情が失われていくのかもしれません。その先に残るのが、理性なのか本能なのかはこの映画でははっきり描いてはいません。でも、自然に追い詰められることで、自然に還るのかもしれないと思わせるところはありました。

この映画を本当にあった話と言って真に受けるのはオススメしません。ただ、海では不思議なことが起こることがあって、後、極限状態では人が人を食べたこともあったんだろうなあっていうくらいに受け止めるのが正解なのではないかしら。実際に漂流者を白鯨が追ってきたという話は素直に信じられる話ではないですもの。それでも、この海のどこかに鯨の楽園みたいなところがあって、それを守る巨大な白鯨がいるというのは、伝説として面白いと思いますし、そう思わせるような事件があったんだろうなあって気がします。そう思うと、人間の存在なんか小さなもので、映画の中で登場人物が今一つ影が薄いのも、納得してしまいます。
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「アンジェリカの微笑み」はオリヴェイラ印のまったり展開な不思議なお話


今回は、新作ながら2010年の映画、「アンジェリカの微笑み」を渋谷のル・シネマ2で観てきました。ここは劇場のキャパの割には大きなスクリーンではあるのですが、ビスタサイズで横が一杯みたいなので、シネスコサイズの上映では上下に詰まるだけなのかなあ。正直、映画館でシネスコサイズの上映で画面が左右に広がらない映画館って、設計の欠陥だと思っちゃうのですが、そういうのは古いのかなあ。

ポルトガルの川沿いの街に住む、ユダヤ人で写真が趣味の若者イザク(リカルド・トレバ)のところに、街の有力者の住むポルタス館から、真夜中にお呼びがかかります。そこの娘であるアンジェリカ(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)が亡くなったので、写真を撮って欲しいというのです。お館に向かってみると、そこには親族が集まっていて、寝椅子には、アンジェリカの遺体がありました。でも、微笑む表情といい、まるで生きているみたい。イザクが、カメラを向けると、フレームの中のアンジェリカが彼に微笑みかけてくるではありませんか。でも、直接見たらば、やはり死んでる。自分の部屋へ帰って、現像した写真を見たら、またも微笑みかけられてびっくり。イザクにとってアンジェリカは頼まれ仕事、ホントに彼が撮りたい被写体は、ぶどう畑で農作業をする人々らしく、畑に出かけては、鍬で畑を耕す農夫を撮影しています。夜中、窓の外にアンジェリカが現れて、イザクを抱きしめると、二人は空を飛んで、夢のような時間を過ごします。と、目が覚めると、それは夢のようです。でも、イザクは段々とアンジェリカに取りつかれたようになっていきます。イザクは果たしてどうなっちゃうの?

106歳で死去したマノエル・ド・オリヴェイラの101歳の時の作品ですって。この人の映画は、「クレーブの奥方」「永遠の語らい」「夜顔」「家族の灯り」などを観ています。この人の演出って、独特の間みたいのがあって、「クレーブの奥方」あたりはまだ普通の映画として楽しめたのですが、「永遠の語らい」以降は、やたら間を十分取って、ゆっくりとしたセリフ回しに、最初はかなり面喰いました。このゆっくりした展開は何なんだと思いながら、それでも観ちゃうという感じでしょうか。いや、「家族の灯り」なんかかなり睡魔と格闘することになりましたから、この監督との相性はいいのかというとそうではなさそう。この映画は、そんなオリヴェイラの超自然ものということで、それなら、そっちのストーリーで最後までついていけるかもしれないと思って、スクリーンに臨みました。

主人公のイザクは、石油関係の技術者だそうで、写真は趣味でやってるようなものなんですが、街の写真屋が旅行に出ているというので、あるお屋敷から声がかかります。亡くなったその家の娘の遺影を撮って欲しいと言われるのですが、この死んだアンジェリカというのが、すごく美人さんで、遺体も寝椅子に横たわっていて微笑んでいます。血色も良くって全然死人には見えません。ファインダーを通してもそれは変わらない美しさ、ところが彼女の表情が動いてイザクに笑いかけるのですよ。実際の彼女は微笑んで眠っているようです。このあたりの見せ方はちょっと面白いなって思いました。死人なのに血色よくってふくよかなアンジェリカが笑いかけても、死んでる彼女とのギャップがあまりないのですよ。日本の怪談なら、アンジェリカは細身で透き通るような色白の薄幸そうな女性になるところなのでしょうが、アンジェリカはすごく健康的で生き生きとした死人なんです。

この後、アンジェリカは、現像した写真の中で、イザクに微笑みかけたり、イザクの部屋の窓の外にピョコンと現れたりするんですけど、幽霊というには、茶目っ気たっぷりでかわいいのですよ。とても死んだ人には見えない、妖精みたいなその姿は怪談っぽくありません。ただ、イザクの方はどんどん彼女に魅入られてしまって、精神的におかしくなっていきます。彼女のお墓に向かって「アンジェェェリィカァァ」と叫ぶあたりで、ああこれは死人に憑りつかれた男の怪談なんだなあって実感しました。二人が抱き合って、空を飛ぶシーンなんてのも登場するのですが、視覚効果にお金がかかっていないのか、昔ながらの技術で撮影された絵にはレトロな味わいもありました。

ただ、それだけだと30分で終わっちゃうお話なのですが、この映画、97分もありまして、その3分の1くらいは、イザクの下宿屋のおかみさんや下宿人の会話になってます。卒業式の呼びかけのテンポでゆっくりとした会話のシーンが結構長い。その内容は、反物質がどうしたのこうしたのというよくわけのわからない会話なので、かなりきょとん状態。そして、残りは、イザクの趣味で写真撮影するシーン。これが、機械を使わないで、歌を歌いながら斜面の畑を耕す農夫のシーン。この農夫の歌がエンドクレジットのバックに流れるので、それなりに意味がありそうなのですが、私には「うーん」という感じでした。その農夫の写真とアンジェリカの写真が、イザクの部屋の窓側に並べて吊るされているのも、意味ありげなのですが、何だかわからない。

ところが、映画を観終わって、映画のパンフレットで、監督へのインタビューを読むと、それらのわけわからないようなところにも、監督は政治的、倫理的な意味合いを込めているようなんですよ。何にも考えてないように思っていたら、饒舌な監督の口から、色々な解説が飛び出すのでびっくり。へえ、と感心する一方で、そんなのわかんねえよとあきらめの気分も。



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イザクはどんどんアンジェリカに心奪われていき、森の中を歩いているときに倒れてしまいます。そして、下宿の部屋に運び込まれたイザクに医者も手の施しようがありません。そこへまた、窓の外にピョコンとアンジェリカが現れると、イザクの体から、彼の魂が抜けだして、アンジェリカと抱き合うのでした。そして、実体のイザクは息を引き取っていたというところでおしまい。

まあ、それだけの話ではあるのですが、本筋の他に色々と思わせぶりなネタが登場する映画でして、その中には、イザクの部屋の下を轟音を上げて何度も通るトラックですとか、下宿屋の食堂にいるかごの小鳥ですとか、イザクがその名のとおりユダヤ人という設定ですとか、農夫たちの作業中に歌う歌の歌詞ですとか、そういうのにも多分、監督は何らかの意味を込めていると思われるのですよ。でも、よくわからない。そんな中で、伝わってくるのは、死んだアンジェリカとイザクは相思相愛らしいということ。アンジェリカには死んだ時に夫がいたのですが、死んだ人妻が他の男に恋したらどうなるのかなんてのも気になってしまいました。これは、不倫する幽霊のドラマなのかと思えば、ちょっとしたブラックユーモアの味わいもあるのですが、インタビュー記事が大真面目だったので、そういう趣を狙った映画ではなさそうです。

アンジェリカを演じたピアール・ロペス・デ・アジャラという女優さんは、実験的な不思議系映画「シルビアのいる街で」のヒロインを演じた人で、知性とかわいさの両方を兼ね備えていて、イザクの心を奪う、アンジェリカにはピッタリの配役でした。彼女の陽性な明るさが、悲劇的な後味を残さず、ちょっと不思議な話だねくらいの後味を残しました。色々と盛り込まれているらしい含蓄部分を取り除けば、日本昔ばなしや民話にも通じる、昔あったホントのお話という印象なのですよ。でも、監督はこの話を現代という設定で作ったようで(本人そう言ってるし)、うーん、やっぱりよくわからない。

「ディーモン 悪魔の受精卵」の「神のお告げ」殺人の一つの答えとして面白いスリラー


最近、買った「新世紀SF映画100」という本の中で、「ディーモン・悪魔の受精卵」という映画が紹介されていたのですが、そういえば、この映画のDVDを買ったまま、まだ観てなかったなと気づいて、ようやっとの鑑賞となりました。廉価版のDVDで画質もよくないのですが、製作・脚本・監督がラリー・コーエンというところで食指が動いてゲットしたものです。

ニューヨークの白昼、発生した銃乱射事件。貯水塔の上にいる犯人の説得に刑事のピーター(トニー・ロー・ビアンコ)が向かいます。乱射犯の学生は「神に言われてやった」と言って、自殺します。そして、パレードの最中、行進中の警官が無差別発砲します。この警官も撃たれて死ぬ間際にピーターの前で「神に言われてやった」と言います。他の事件でも、神のお告げで人を殺したという男が現れますが、ニューヨーク市警はこのことを隠蔽しようとします。ピーターは科学記事の記者に情報を入れて、「神のお告げ」連続殺人事件をニュースにします。一方でピーターは乱射犯の学生が事件直前に一緒にいたというバーナード・フィリップス(リチャード・リンチ)という若い男を追います。フィリップスの家を訪ねるとその母親に殺されそうになったりしますが、処女懐胎で生まれたというフィリップスの正体はつかめません。ピーターには離婚調停中の妻マーサ(サンディ・デニス)と、つきあって3年になる愛人のケイシー(デボラ・ラフィン)が、その関係は清算できていませんでした。そして、怪しげな組織の男がピーターに接触してきます。どうやら、ピーターは特別な選ばれた人間のようなのです。そして、「神のお告げ」連続殺人の真相とは?

テレビの「インベーダー」「刑事コロンボ」の原案、「悪魔の赤ちゃん」「空の大怪獣Q」などで知られるラリー・コーエンが製作、脚本、監督を手掛けた1976年の超自然スリラーの一編です。このコーエンと言う人は、私には「セルラー」「フォーンブース」という電話を使った面白いサスペンス映画の脚本を書いた人として要注意なんですが、この人が監督した映画としては、その昔レンタルビデオで出ていた「スペシャル・イフェクツ」「パーフェクト・ストレンジャー」といった映画を借りて観ているのですが、監督作品はそれほど面白いかなあレベルのものでした。この映画も監督もやっているのでどんなものかなあと、期待そこそこで臨みました。

冒頭は、町中での給水塔という高い場所からの銃乱射シーンで、実際にあった事件をなぞった作りになっています。駆け付けたピーターが給水塔に登って、犯人を説得しようとしますが、犯人は「神に言われてやった」と言って塔から飛び降りてしまいます。同じような無差別殺人が連続して発生、犯人は「神に言われてやった」といって死んでいくのです。これは何か宗教的な動機があるのではないかと思わせるのですが、ニューヨーク警察は市民の動揺を恐れて、それを公にしません。映画の中盤では、「神のお告げ」連続殺人事件という記事が新聞に載ると、同様の模倣犯が現れる始末で、こういうネタは扱いが難しいという状況が描かれます。

一方で、捜査の中でバーナードという謎の若者の存在が浮かび上がってきます。ピーターが訪ねると母親がナイフで襲い掛かってくるのですが、階段から転落死。死体を調べると処女だったということで、バーナードは処女懐胎で生まれたのではないかということになってきます。そして、お話は謎の組織に映ります。オヤジたちが会議室で何やら相談しているのですが、彼らは神のよる指示で動いているようなのです。そして、その組織の一人がピーターを呼びつけて、神に協力するようにと言いますが、ピーターは拒否。すると組織の男は急に苦しみだして絶命。神は遠隔的に人を殺す能力があるみたいです。そんな神なるものが、連続殺人をプロモートするというのはおかしな気もするのですが、組織の会議で、神への恐怖で社会を支配するなんてことが語られまして、ちょっとだけ納得。でも、神と呼ばれるものはどうやら実在して、世界支配を企んでいるみたいなのです。やることがせこいのか、でかいのかよくわからない神なんですが、人を簡単に殺せるくらいのパワーがあるから、人間にとっては厄介な神様のようです。

映画はここから、アラアラな展開となりまして、そう来るかという決着がつきます。神様ってこういう奴なんだぜってのいうのを見せてくれるというと、大体想像がついちゃうかもしれませんけど、そんな感じです。今となっては、それほど目のつけどころが新しいわけではありませんが、映像イメージの斬新さと、低予算ながらの見せ方のうまさで、小さな予算ででっかい話を作り出すのに成功しています。善玉悪玉両方こなすトニー・ロー・ビアンコがミステリアスな役どころを好演しているほか、デボラ・ラフィンの美貌が拝めるのがうれしい映画でもあります。彼女、ほんときれいなのに日本で公開された映画が少ないんですよね。



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組織の男と会った後、地下鉄でもう一人の組織の男と遭遇します。彼は、神がいるという地下の焼却場へと連れていきます。そこには光り輝く中に何やら男の姿が浮かび上がります。どうやら、そいつがバーナードであり、神であるらしいのです。ピーターは焼き殺されそうになって、その場から逃げ出します。さらに処女懐胎の事件があったことを知ったピーターは、その老婦人を訪ねます。若いときに大きな船のような中に拉致され、そこでふわふわと宙に浮いているうちに処女懐胎したというのです。その時の回想映像が登場するので、ああ、これは、宇宙人のアブダクションだと観客は気づくことになります。超自然スリラーだと思っていたら、SFだったのです。そして、その処女懐胎で生まれたのが、ピーターだとわかります。ピーターは、妻と愛人が一緒にいる場所に向かい、二人に別れを告げ、再度、バーナードの住んでいたビルを訪れます。そこには、光り輝く中に神であるバーナードがいました。神は、ピーターは優性遺伝子を持っていたので人間に近く生まれたのだと言い、イエスもモーゼも同じように生まれたのだと言います。バーナードは劣性遺伝子で、二人で新しい人類を作ろうと、服をまくりあげると、彼の腹には女性性器のようなものがぱっくりと口を開けていました。ピーターはバーナードを殴りつけ、その首を絞めると、建物が火を噴いて崩れ始めます。ピーターは命からがらビルから逃げ出しますが、バーナードは炎に包まれるのでした。そして、ピーターはバーナード殺害に容疑で逮捕され、警察署の前で、取材のマイクを向けられます。「なぜ、殺したのか?」「神がそう言ったから。」ピーターの顔のストップモーションとなって暗転、エンドクレジット。

主人公が、ラストでバーナードに会う前に、ヤクザのもとを訪れ、そこで念力(←呼び方がよくわからない)を使ってヤクザを自殺させてしまいます。彼にも、神と同じく人を殺す力があったのです。結局、神は宇宙人であり、処女懐胎した神の子は、宇宙人によって誘拐された女性が受胎した結果生まれた宇宙人と人間のハーフだったというのです。映画の中では、神となる宇宙人は姿を見せないので、神が宇宙人だと断定はしてないのですが、アブダクションとインプラントによって受精した処女から生まれたピーターやバーナードが超能力を持っていることは明確に語られていまして、映画の回想シーンの宇宙船のイメージからも、まあ宇宙人が神だと言ってるようです。解釈次第では、タイムマシンでやってきた未来人が神ということもできますから、そのあたりは曖昧です。でも、神は人間と異なる遺伝子を持った生命体だと断言しているわけでして、そこは神の存在を否定した映画と言えそうです。

そういう神の存在を疑うドラマを、ニューヨークの一角で作ってしまったというところが、小さな予算ででっかい話ということになります。聖書と突き合わせると、ピーターの妻と愛人の存在も別の意味が出てくるのかもしれませんが、そこのところはよくわからないので省略。どっちかがマグダラのマリアになるのかなくらいで勘弁してください。全体としては、スリラータッチなのですが、フランク・コーデルの音楽だけはドラマチックにガンガン鳴ってまして、コーラスも交えて宗教音楽らしさを出しています。狂信的な人間が、「神のお告げ」で人を殺すという事件は実際に起こっていることを考えると、その中には、単なる人間の狂気だけでなく、こんな裏話があるのかもしれないと思わせるところはうまいと思いました。

「フリッジ・オブ・スパイ」はコーエン色は控えめでスピルバーグのうまさが際立ちました。


今回は新作の「ブリッジ・オブ・スパイ」を川崎の川崎チネチッタ6で観てきました。やけに音が迫力あって、前後左右から音が回るし、天井からも音が聞こえてるような気がしたのですが、ドルビーアトモスの仕掛けでも入れたのかしら。特にドルビーのロゴはなかったのですが、ここのスクリーンの上映作品は要チェックだわ。

米ソ冷戦状態の1957年、ルドルフ・アベル(マーク・ライアンス)という初老の男がFBIにソ連のスパイとして逮捕されます。彼はアメリカへの協力を拒否し、裁判にかけられることになります。ソ連が核攻撃してくるという時代の空気の中、有罪確定の一応形だけの裁判ですがそれでも一応弁護人を立てることになり、保険が専門の敏腕弁護士ジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)に白羽の矢が立ちます。アメリカ人全てを敵に回すことになるこの裁判の弁護を受けた彼は、令状なしの家宅捜索といったFBIの捜査の不備を挙げ、真面目に弁護を試みるのですが、判事に「無駄なことはするな」と言われてしまう始末。陪審員は呆気なく有罪の判決を下します。ジェームズは、アベルをソ連との取引のカードとして温存すべきだと判事に進言、アベルは死刑を免れます。そして、アメリカのスパイ機がソ連に墜落し、パイロットのパワーズ(オースティン・ストウェル)がソ連側の手の落ちてしまいます。そして、ベルリンからジェームズへ手紙が来て、どうやらソ連が捕虜交換をしようとしていることを知ります。CIAはソ連との交渉をジェームズに依頼してきます。それは、あくまで私人として、アメリカ政府の与り知らないところで交換しろというのを、ジェームズはやりますと答え、ベルリンへと向かいます。時は、ベルリンの壁が築かれた直後で、もう一人ベルリンのアメリカ人学生プライヤーもスパイ容疑で東ドイツに逮捕されていました。ドノヴァンは、パワーズだけでなくプライヤーも含めて、交換しようと画策するのですが、果たしてうまくいくのかしら。

実際に1957年に起こった米ソの人質交換事件を基に、イギリスの劇作家マット・チャーマンと、「ファーゴ」「未来は今」のジョエル&イーサンのコーエン兄弟が脚本を書き、「ミュンヘン」「ジュラシック・パーク」のスティーブン・スピルバーグがメガホンを取りました。コーエン兄弟の映画とは相性の悪い自分としては、観ようかどうしようか迷ったのですが、評判がいいらしいので劇場へ足を運びました。映画としては、コーエン兄弟のとんがったえげつなさのない、ストレートな娯楽映画に仕上がっていて、最後まで楽しむことができました。実際、国家のやり方は、米ソとも個人の扱いがひどいし、当時のアメリカ人のソ連憎しが狂信的に描かれているし、それなりのとんがった視点を持った見せ方になっているのですが、スピルバーグはブラックユーモアを丸いユーモアに変えて、面白い英雄譚として仕上げています。

主人公のジェームズは保険が専門の弁護士なんですが、そんな彼にスパイの弁護を依頼してくるあたりが、もう何だかやなアメリカの構図が見えてきます。弁護人なんて形だけで、最初から死刑が決まっている裁判に、ジェームズは本気で取り組み、まず懲役30年を勝ち取り、さらに上訴するなんてことをします。おかげで家には銃弾が撃ち込まれたりして大変な状況になっちゃうのですが、それでもジェームズはめげません。特に、印象的だったのは、CIAからアベルとの会話を話せと言われ、それはルールに反すると拒否するところ。「アイルランド系の自分は、ドイツ系のあんたをアメリカ人にしているものは憲法でありルールなのだ」と言い切るジェームズがかっこいいのですよ。アメリカ人は、日本人に比べて正義にこだわるお国柄なのですが、その正義の根本に立ち返る人としてジェームズは行動します。ジェームズが立派な人に見えるというのは、それだけ当時のアメリカが異常な状態だったということになりますし、それを現代の映画で前面に出してくるのは、今のアメリカの中で、正義が一時の熱狂に負けそうな状況にあるのかなって気もしてきます。昔のアメリカ、やばかったけど、今もやばくね?って感じ。大統領選とか。

ジェームズが弁護に熱心に取り組むのには、アベルという男の人柄にもありました。寡黙で冷静、そして祖国に忠実で、強い意志を持った彼にジェームズは敬意を感じるようになります。彼は、自分の国家に忠実なだけで、犯罪者ではないと思うと、たんなる仕事以上に彼に入れ込んでしまうのでした。この映画は、ジェームズとアベルの信頼のドラマでもあります。人と人との間の信頼に比べると、猜疑心と悪意に満ちた組織の在り様は、見苦しくも情けないという描き方になっています。組織というのは、CIAであり、KGBであり、国家であり、国民ということになります。要は人間は群れるとろくなことしないなあってのが見えてくるのですが、そこが狙いの映画ではなさそう。でも、ですよ。スパイ機がつかまりそうになったら自爆しろってCIAは言うし、何かあってもアメリカは知らないからって国務長官はジェームズに自信満々に言うし、KGBはアベルがアメリカに寝返ったと思って始末しちゃいそうだし、ソ連に逮捕されたパイロットはソ連に情報をもらしただろうって嫌われちゃうし、とにかく、組織をバックにした人間はひどい奴らばかり、その究極がアメリカ合衆国をバックにした国民だという見せ方はかなりすごい。自国民をここまで悪く描く映画も珍しいかも。

と、これだけだと、アメリカでは自虐映画にされちゃいますから、後半は、ベルリンでの人質交換劇をドキドキハラハラのエンタテイメントで描きます。トム・ハンクスがユーモアを交えて、アベル一人で、アメリカ人二人を交換しようとする展開は、さすがはスピルバーグ。派手なドンパチはありませんが、スリルとサスペンスで盛り上げます。唯一のドンパチは、ジェームズが電車の窓から、ベルリンの壁を脱出しようとする若者が機関銃で射殺されるのを、目撃するシーン。そのインパクトが強いので、アメリカこき下ろした部分がだいぶ薄まりまして、やっぱり東側はひどいわという印象が残るあたりはうまいと感心。パイロットはソ連が押さえていて、学生は東ドイツが押さえているので、一度に二人の交換はすごく難しそう。ソ連は、東ドイツの学生のことは知らんというし、東ドイツはソ連のついでに交換では国家としてのメンツが立たないとお怒りモード。そんな状況で、あくまで強気の賭けに出るジェームズかっこいい。とは言え、かっこいいだけでは事はうまくいきません。アメリカとしては、パイロットだけ交換できればOKなので、二人にこだわるジェームズの行動は暴走にしか見えないのでした。

演技陣では、トム・ハンクスがケチつけられないほどはまり役でうまく、彼に結果的に振り回されちゃうCIAを演じたスコット・シェパードが渋い好演を見せました。アベルを演じたマーク・ライアンスは儲け役ながら見事で、この映画が賞レースに出てくるのなら、この人が候補になりそう。ヤヌス・カミンスキーのキャメラは、劇場映画らしい深みのある絵で大スクリーンで堪能するものになっていました。音楽は、この時、ジョン・ウィリアムスが病気だったそうで、ピンチヒッターとしてトマス・ニューマンが担当。ウィリアムスに比べると、柔らかい丸みのある音が、ジェームズを描写をするのにはマッチしていましたが、シリアスなドラマを描写する部分は線の細さが出てしまったように思いました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ジェームズは、ソ連にも、東ドイツにも、交換するなら、アベル一人にアメリカ人二人だと宣言します。そして、彼らからの連絡を待っていると、取引に応じるという電話がかかってきます。ただ、パイロットはグリーニッケ橋で、学生は別の場所でという条件付きで。ジェームズたちは、アベルを連れて橋に向かいます。そして、橋の上で、アベルとパイロットの交換となるのですが、学生の身柄が確保できず、立ち往生状態。CIAはパイロットだけでも交換だと言いますが、ジェームズは交換を拒否、アベルも彼に従い動こうとしません。そこへ学生の身柄確保の一報が入り、アベルとパイロットは歩き出し、橋の上で交換が行われるのでした。そして、無事に家に帰るジェームズ。家族にはイギリスへ出張だと言ってあったのですが、彼のやったことがニュースで報道され、驚く妻と子供たち。通勤の電車から見えるアメリカの景色に、東ベルリンで見た光景をだぶらせるジェームズ。エンドクレジット。

ラストで、きちんとアメリカでよかったと思わせるあたりのうまさはさすがというか、お金のかかった映画ははずせないんだろうなあっていう算盤勘定が垣間見えて面白かったです。それでも、ジェームズ・ドノヴァンという人はその後も捕虜交換に貢献したというすごい人らしく、歴史の英雄の一人にスポットライトを当てた映画としての評価は高いのではないかしら。それに、2時間余と結構長めの映画なのに、飽きるところなく、最後まで引っ張ったスピルバーグの演出も見事でした。アメリカにとってはある意味苦い歴史を、まろやかな味わいにまとめたうまさもすごいと感心しましたし、同じくらいの長さの「スペクター」より短く感じましたもの。

「あの頃エッフェル塔の下で」を恋愛ドラマとして感動も共感もできない私。


2016年は映画館に出遅れてまして、やっと今年初の映画鑑賞となりました。渋谷のル・シネマ2で新作の「あの頃エッフェル塔の下で」を観てきました。ここも、ビスタサイズのスクリーンのままで、シネスコ作品を上映してます。これだと、横長画面の構図が楽しめないので、上下にスクリーンサイズを詰めてもらいたいものです。以前はやってたのに、やらないってのは、単なるおさぼりなのか。それとも、そういう風にするのが逆に心遣いなのか。でも、そのメリットって何?

精神を病んでいた母は、ポール(カンタン・ドルメール)が10歳の時に自殺し、父と弟イヴァン(ラファエル・コーエン)と妹デルフィーヌ(リリー・タイエブ)とルーベの街で暮らしていました。高校生の時、ソ連に研修旅行に出かけた時、ユダヤ人の友人マルクの誘いで、ミンスクにいるイスラエル移住が許されないユダヤ人に書類と金を渡す仕事を請け負うことになります。マルクと一緒に美術館見学から抜け出し、金だけでなく、自分のパスポートを渡してしまいます。それが正しいことのように思えたからでした。パリの大学へ進んだポールは人類学を学ぶのですが、ルーべに帰ったとき、憧れの対象であった妹の同級生のエステル(ルー・ロワ・ルコリネ)に思い切って声をかけます。色々な男と付き合って奔放な小悪魔に見えたエステルですが、いつしか二人は本当に愛し合うようになっていました。でも、大学生活がメインのポールは週末しか会うことができません。日々の想いを二人は手紙で交換しあうのですが、エステルの募る想いは、ポールの不在に耐えられなくなっていきます。そんな寂しさを埋めるかのように、彼女は他の男と関係を結び、ポールも他の女を抱く日々が続きます。それでも、お互いの想いは募るばかり、4年後、調査旅行中のポールに、エステルは別れを告げるのでした。そして、外交官で人類学者になったポール(マチュー・アルマリック)は、海外暮らしをしていたのですが、母国へ戻ることを決心するのでした。

「そして僕は恋をする」「キングス&クイーン」などで知られるアルノー・デプレシャンが脚本を書いて、メガホンを取ったラブストーリーの一編です。私にとっては初のデプレシャンの映画となりましたが、フランス映画らしい身を焦がす恋愛ストーリーは、色恋沙汰のまるでなかった私には、敷居が高いというか、手に余るところがありました。若い時に、熱い恋愛をしておくと、色々と思うところ、共感のしどころも出てくるのかもしれませんが、私は全くの他人事として、この映画に向き合うことになりました。

精神に病を持っていた母親が、彼が10歳の時に自殺しますが、そのあたりから、彼は外界に壁を作っているように見えます。「何も感じない」「痛みを感じない」というフレーズが登場しまして、ちょっと変わった男の子としてポールは成長してきます。ソ連のミンスクで、ユダヤ人に自分のパスポートを渡しちゃうというムチャもそういうところから、来ているのではないかと思わせるのですが、一方、その性格が恋愛の時には、彼女との間に温度差を作ってしまうのではないかしら。と、言いたいところなんですが、自分の興味のある学問を勉強している人間なら、恋と学問は並立するもので、自分の全てを恋愛に注ぎ込むなんてできるわけはありません。そんなもんだよなあって、彼の行動は普通じゃね?くらいに感じたのですが、その一方で、エステルに「僕は命がけで君を愛する」なんて言うんですよ。それなら、彼女を最優先にしたれよという気にもなりますわなあ。

私はフランス語がわからないので、実際に何と言っているのか字幕からしか伝わらないのですが、本当に、「命がけで愛する」なんて、ポールは言ってるのかな?ひょっとして誤訳(意訳とも言う)なんじゃない?って気がしてきます。日本人の感覚では、「僕は君を命がけで愛する」なんて言ったら、ドン引きされるのではないかと、オヤジ(私のことね)は思っています。第一、命がけでやるってのは、愛しきれなかったら死にますってことでしょ? そんなことを臆面もなく口にする奴は信用できないって、まず思っちゃいますもの。「俺はお前のためなら死ねる」に匹敵する、こっぱずかしい言葉ではないかしら。それを平気で口にできるのは、言葉にしないと伝わらないお国柄ということになります。うーむ、自分にとっては異文化だな、これは。

そのことがよくわかるのは、二人が交換する手紙が色々な愛の言葉で埋め尽くされているところです。愛情を相手に伝えるために、これほどボキャブラリーが必要なのって気がしてくるほど、そっちの言葉が豊かなのですよ。日本語に訳すともう歯の浮くようなキザというか、言葉を弄すると言いたくなるような文句が並んでいます。そして、その言葉を読むことでさらにポールへの想いが募って、身を焦がすという具合です。そこまで、他人のことを想ったことのない私には、別世界のお話にしかならないのはちょっと悲しいかも。映画の中で、週末の最終日、大学のあるパリへ向かう列車での別れシーンがあります。「行かないで」と泣きすがるエステルを振り切って列車に乗り込むポールなのですが、日曜日の東京駅新幹線の最終前には同じようなシーンがあったとかなかったとか。ですから、本気の恋愛モードに入ったら、日本人も恋の病に落ちるらしいんですが、これも想像も共感もできませんでした。ん? 私がひょっとして何も感じない人間なのかも。

でも、そんなにまで、ヘロヘロになる(←不適切な表現?)恋愛関係だったのが、結局、電話で別れ話をしちゃうのですから、呆気ないものだなあって、妙な感心をしちゃいました。恋愛って冷めると一気にどうでもよくなっちゃうのかなあ。後は別れのくだりが何だか面倒くさいのかも。ともあれ、二人の4年間の濃い関係は結局破局を迎えます。そして、それから20年以上もたったポールが昔やり取りしていた手紙を読み直して、感動したというセリフが登場するに至って、思い出としての熱い恋愛ってのは、まだまだ彼の中に残っているんだねえって、またしても感心。終わった恋愛が、あたかも永遠に輝き続けるかのように見せるラストには、そういう人もいるかもねくらいに思いましたです。恋愛至上主義というのも変ですが、そこまで自分の中心に恋愛を位置づけなくてもいいのでは?と思い至ったのですが、それって、恋愛に縁のない人間の嫉妬じゃんと気付いてしまって、へこんでしまいました。

後、この映画で気になったのは、ポールもエステルも、ルーべにいる自分の友人を見下しているというところ。オヤジになったポールが、郷里の友人のコヴァリエを罵倒するシーンがあるのですが、ドラマの流れからして、そこまでボロクソ言われる必要はないなあって気がしました。若いころから、ポールは友人たちをバカだと思っているところがあって、それがいい大人になっても変わらないってところは、筋が通っていると言えば通っているのですが、正直すごく感じ悪い。エステルも、ポールの妹の友人として登場するのですが、その妹をバカだと思っているようで、それをポールの前でも口にします。それは、二人が「ふたりだけの世界」に浸りきっていたということになるのですが、逆に考えてみれば、誰からも祝福されることのない恋愛ってことにはならないかしら。他人を見下すだけの人間にロクな奴はいないというオヤジの常識が、この二人への共感を拒むのでありました。

デプレシャンの演出は各々のエピソードを面白くドラマにまとめている点は見事だと思いました。だから、後はこういう恋愛、こういう二人にどこまで共感できるかで、この映画の評価が決まってくるのでしょう。私は、共感できなかったのですが、こういう恋愛をする人間がどこかにいるらしいという、人間サンプルを観るくらいの気持ちで、この映画を楽しみました。後、この主人公みたいな奴には絶対に近づくまいと。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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