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「キャロル」の同性愛を普通の男女の恋愛のように見せる感じが面白い。


今回は、新作の「キャロル」を川崎の川崎チネチッタ7で観てきました。

1950年代のニューヨーク、デパートのおもちゃ売り場の販売員テレーズ(ルーニー・マーラ)は、娘のためのプレゼントを買いに来たキャロル(ケイト・ブランシェット)と目が合います。キャロルが売り場に手袋を、マーラが郵送してあげたことから、二人は知り合いになります。テレーズにはリチャード(ジェイク・レイシー)という彼氏がいて、彼は彼女との結婚を考えていました。一方のキャロルは夫のハージ(カイル・チャンドラー)と離婚を進めていましたが、娘の親権をめぐって対立している状態でした。そんな二人が意気投合するのですが、ハージがテレーズへ娘の接見を禁止したことにショックを受けたキャロルが車で旅に出るということになり、テレーズに一緒に行かないかと誘います。テレーズはそれに喜んで同意します。キャロルの運転する車であてもなく西へ向かう二人、そして小さな町のモーテルで、二人は女性同士の関係を結ぶのでした。しかし、ハージは探偵に二人を追わせ、二人の情事を録音していました。それが契機となり、キャロルとテレーズは別れてしまうのでした。

「見知らぬ乗客」「太陽がいっぱい」で知られるパトリシア・ハイスミスが別名で書いた小説を、フィリス・ナジーが脚本化し、「エデンより彼方に」「アイム・ノット・ゼア」のトッド・ヘインズが監督しました。まだまだ同性愛への偏見が強かった1950年代の二人の女性の恋愛ドラマということになるのでしょうか。でも、レズビアンを一つの性癖という見せ方をせず、テレーズとキャロルが惹かれあう様子を男女の恋愛ドラマと同じような自然な流れで描いているところが新鮮でした。キャロルは、幼馴染のアビー(サラ・ポールソン)ともそういう関係になっていて、そのことが離婚調停で彼女が親権を奪われる理由になっていました。本人にも、その自覚があるキャロルが、テレーズを誘ったとも見えるのですが、そこのところを両者が自然に惹かれあってそうなっちゃったという見せ方になっているのですよ。すごく繊細そうなテレーズとキャロルの二人をケイト・ブランシェットとルーニー・マーラが静かに熱演していまして、恋愛ドラマとして、この映画を堪能しました。

二人の出会いはおもちゃ売り場で、キャロルがテレーズを見つけたから。どちらからともなく視線が合ったということもできましょう。キャロルがテレーズの売り場に手袋を(わざと?)忘れていったのは、彼女がテレーズの視線を感じたからかもしれません。そして、キャロルの家にテレーズが招かれるのですが、そこへハージが現れて、キャロルと口論になり、テレーズとも気まずくなってしまいます。ハージとしては、キャロルとは別れたくないのですが、キャロルには夫の存在が耐えられないものになっていました。そこへ親権の争いが起こり、キャロルの同性愛的な行動が、調停を夫に有利に進めさせていたのです。その辺の事情がわかってきても、テレーズのキャロルへの想いは募るばかり。二人で旅行に行くことになって、リチャードが反対するのも振り切って、彼女はキャロルの車に乗り込むのでした。

二人の共通点は、ともに孤独であったことが挙げられましょう。ルイーズには、彼氏はいるけど同性の友人はいないようですし、職場でも仕事を楽しんでいるようでもありません。一方のキャロルは裕福な夫のおかげで、いい暮らしをしていますが、仕事優先で、家庭に忠実な妻を要求する夫についていけなくなっていました。ルイーズには漠然と、そしてキャロルには具体的に満たされない感情がありました。そんな二人が意気投合したときに、同性愛的な要素が入ることが自然であるかのような見せ方になっています。運命の二人というよりは、成り行きでそうなっちゃったという感じが強いと私は思ってしまったのですが、これは人によって感じ方が違うところでしょうね。この映画では、同性愛の二人を運命の出会いとか、神のお導きというよりは、「ボーイ・ミーツ・ガール」の変形「ガール・ミーツ・ガール」という、ありがちな展開のように見せているように感じ、そこが面白いと思いました。二人が肉体関係になるのも、男女の恋愛ものと同じような位置づけ、自然と距離が縮まってなるようになったという感じなんです。そこには、同性愛が男女の恋愛と同じようなものだという視点があって、そういう見せ方を1950年代という偏見の強い時代で描いたというのが面白いと思いました。あの当時なら、もっととんでもないこと、もっとハードルが高いことだと思われたであろうことが、自然の成り行きで描かれているのですよ。

でも、それが二人が盗聴されていることがわかって、現実に引き戻されます。二人の情事のテープは、ハージとの親権争いで、キャロルに徹底的に不利な材料となります。それを知ったキャロルは、モーテルから姿を消します。ルイーズが目を覚ましたとき、そこには、キャロルの幼馴染アビーがいて、彼女がニューヨークに戻ったことを伝えます。二人の関係は、これで終わってしまうのです。キャロルもルイーズも出会う前の日常へと戻っていくのでした。

トッド・ヘインズの演出は女優の演技を丁寧にすくい上げて、主演二人の演技を引き立てています。また、二人の恋愛関係をどこかクールな視線で描いているのも印象的でした。決して、演出が恋愛ドラマに溺れることなく、主人公の二人もどこか冷めたところがあるのですよ。キャロルもルイーズとの関係より、娘に会えなくなるほうが重大。ルイーズもダメージはあるものの、それは普通の恋愛の破局と同じレベルのものなので、時間がルイーズの傷をいやしていくのです。テレーズは写真が好きで、いつかはカメラマンになる夢を持っていました。リチャードの友人から、新聞社の仕事を紹介されていて、キャロルと別れた後は、その仕事について充実した日を送っていました。一方のキャロルは娘の親権を夫に渡す代わりに面会権を得ます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



キャロルは、街に出てルイーズを見かけます。ルイーズは新聞社で忙しい日々を送っているようです。キャロルはルイーズにメモを渡し、ホテルの店で再会します。キャロルは、働き始めたことをルイーズに告げ、今度新しい家に引っ越すので一緒に住まないかと申し出るのですが、ルイーズはやんわりと断るのでした。その後、ルイーズは知り合いのパーティに、キャロルは顧客との食事会に赴きます。パーティでどこか所在無げなルイーズは、パーティを抜けて、もう一度ホテルへと向かいます。顧客へと歓談中のキャロルへゆっくりと近づいていくルイーズ。キャロルの視線がルイーズを捉えたところで暗転、エンドクレジット。

ラストシーンで、ルイーズがキャロルへとじわじわ近づいていくところをなぜかサスペンスの演出をしているので、この先ルイーズがとんでもないことやらかすのではないかとハラハラさせるのですが、二人の視線が合ったところで映画はそこで終わってしまうので、ああ、これは一応ハッピーエンドなんだと気付くことになります。一度は別れた二人が結局はよりが戻るまでの展開(つまり後半)は淡々とした味わいでお話が進むので、二人の盛り上がった感情はどこへ着地するのかしらってところが、ちょっとしたサスペンスになっています。ラスト前のパーティでのルイーズの居場所のない感じは、まだ癒されない孤独を抱えていることを示していますが、心を再びキャロルへ向けることになるのかどうかってところがまたハラハラポイントになり、さらにラストで必要のないサスペンス演出をしているのは、これは映画の遊びなのかなって気もしました。ともあれ映画としては面白くできていまして、特に秘めた想いを繊細に演じ切ったルーニー・マーラの好演が光りました。

レズビアンを題材にしていますし、女性同士のラブシーンも登場する映画なのですが、意外なほど生臭さがありませんでした。それは、1950年代という時代色が映画にある種の行儀の良さを与えていたのかなって気がしました。二人の関係を禁断のそれと見せなかったのは演出の腕だと思うのですが、二人の関係が特殊な性癖ではなく、普通の人間の間に起こりうる感情の高まりに見えたのは、古風なメロドラマの体裁をうまく当てはめているからではないかしら。ですから、二人の関係は決して糾弾されるものではないし、悲劇的なものにもならないのです。同性愛への差別を明示的に見せない展開も、この映画が、現代の許容される同性愛の視点を持っているように思います。それでも、二人の関係が社会的に弱点になってしまうというところは、現代にも似たような空気がまだ残っているのを表現しているように感じました。同性愛差別の強い時代でのレズカップルの成り行きを性差別を明確に見せないまま、悲劇的結末にしないドラマは、同性愛が一応は社会的に認められてきている現代だからこそ、色々と示唆するところがあるのではないかと。
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「スティーブ・ジョブズ」って偉人がいたという前提で観る映画なのかな。


今回は、新作の「スティーブ・ジョブズ」を銀座のTOHOシネマズ日劇3で観てきました。フラットな場内に大きなスクリーンで前に座高の高い人が座ると画面の下が欠けちゃうというシネコン前の映画館です。スクリーン位置にはまだ余裕があるのだから、もっとスクリーンを上に上げればいいのに。

アップル社の創始者であるスティーブ・ジョブズ(マイケル・ファズベンダー)は、APPLEⅡの後継機であり、新しいコンセプトで作られたマッキントッシュの発表会に臨んでいました。しかし、パソコンがしゃべる機能が不十分で観客の前に見せられないことにご機嫌斜め。マーケティング担当のジョアンナ(ケイト・ウィンスレット)はそんなこと大したことじゃないとスティーブを説得しますが、彼は納得しません。そこへ元恋人クリスアンとスティーブの娘リサがやってくるのですが、リサは自分の娘じゃないとけんもほろろの対応です。それから4年後、マッキントッシュの失敗でアップル社を追われたジョブズはネクスト社でキューブという教育用パソコンの発表会の日となります。その頃は、リサのために家を買い養育費も払っていましたが、クリスアンの浪費にジョブズは不満でした。リサはジョブズと暮らしたがっているようですが、ジョブズはそれに応えません。さらに10年後、iMacの発表会、業績不振のアップル社に再び招かれたジョブズのリターンマッチの晴れ舞台。ジョアンナは、ジョブズとリサの不仲に心を痛めていました。果たして二人の仲は修復するのでしょうか。

えー、スティーブ・ジョブズってアップル社の創始者だってことは知ってますがそれ以上のことは何も知りません。アップル社のコンピュータとの唯一の接点は学生時代の研究室でアップルをつかってパックマンをやってたくらいで、使うパソコンはWindows、スティーブ・ジョブズって有名人だよねくらいの認識です。iPhoneもiPodやiPadも使ってませんから、何の思い入れも事前知識もないままにスクリーンに臨みました。何しろマッキントッシュってパソコンがあったなあくらいの認識で、あれが結局失敗に終わったなんてことはこの映画で知りました。

彼のプレゼン力がすごいというのは、テレビのニュースでやっていたiPodかiPadの発表会で何となく知ってはいました。その発表会の裏話だけで映画を作ったというアイデアは面白いと思いました。「ソーシャル・ネットワーク」「マネー・ボール」のアーロン・ソーキンが書いた脚本は、回想シーンも交えながら、ジョブズの人物像に迫ることに成功しているように思います。会話中心のドラマを高いテンションを維持した「スラムドッグ・ミリオネア」「28日後」のダニー・ボイルの演出も見事だと思います。まあ実録ものというのは、どこまでが本当かというのは、鵜呑みにはできないのですが、この映画で描かれるジョブズは、信念の人、切れ者、自信家、そして、やな奴って感じでしょうか。信念を貫く人っていうのは、言い方を変えると周囲との折り合いをつけるのが苦手ってことです。切れ者ってのは、相手へ自分の考えを伝えるのが下手ということの裏返しとも言えます。自信家ってのも、その自信が揺らいじゃうと意外と弱くなっちゃうところがあります。そんな、表裏一体のジョブズの人となりに切り込んだのは面白いと思いました。ただ、それは、ジョブズが世紀の偉人であるという前提で観ると面白いということになるわけで、その前提の知識に疎い私のような人間からすると、他人への思いやりに欠ける、お山の大将にしか見えなくなっちゃうのが辛いところです。

大発明家エジソンが金がからむとえげつないなんてのは、大発明家が前提にあるからこそバランスが取れるわけで、そこがないと、単なる守銭奴になっちゃいます。そういう意味では、この映画を楽しむためには、ジョブズの功績についてある程度知っておく必要があるようです。それとも、ジョブズの功績は世界の常識レベルのことなのかなあ。で、後から映画のプログラムを読んでみたのですが、それでも、彼の功績のすごさはピンと来なくて。確かに一家に一台コンピュータという発想を実現したのはすごいと思う一方で、彼がいなくても他の誰かがやったんじゃないの?と思ってしまうのは、現在の状況を当たり前と受け止め過ぎているのかも。

この映画の中から見えてくるジョブズ像は、他人の意見と折り合いをつけるのが下手な人という感じです。AppleⅡやマッキントッシュに、他人に触らせないような仕掛けをしたり、機能性を追うあまり、価格面で妥協できなくて、結局売れないものを作っちゃったり。特に、アップルの立ち上げメンバーの一人ウォズニアックに「AppleⅡの開発チームに謝辞を言ってくれ」というのを頑なに拒んじゃうところは、折り合いつけるつけない以上に、技術者に対する敬意がないなあって、すごくやな感じ。確かにマッキントッシュやiMacの発表会だから、前の機種の話はしないというのは筋が通らなくもないのですが、過去にアップル社を支えてきた機種の開発者へそういう態度はいかがなものか。というより、こいつ嫌いって思っちゃいました。天才は人格者とは限らないのですが、その人格の部分で、すごくやな感じなのですよ、この映画のジョブズは。そんな彼の本質を知りつつも、仕事のサポーターとして、彼を支えるジョアンナは偉いなあって感心。要は、ジョブズとジョアンナを合わせると一人の人間としてバランスが取れるけど、ジョブズ単品では言い方は悪いけど悪徳興行師みたいなのですよ。本当のところは知りませんが、この映画のジョブズは実際にはものづくりはしていなくて、企画力とプレゼン力で勝ち抜いてきた人という印象なので、余計目に、口八丁だけど手は一丁みたいなキャラになっちゃっています。

娘との確執も、最初は娘と認めていないし、次は金を出してるからいいだろのスタンス。娘が19にまで成長して、やっと父親らしいことを言うのですが、正直、何を今さらの感あり。それが天才ジョブズのもう一つの不器用なキャラなんだよという見せ方なのですが、単にダメな父親というだけの話に私は思えてしまいました。映画スターのプライベートはひどい奴とかいうのと同じレベルなのですよ。天才にもこういう側面もあったというところに、彼の人間臭さを感じて好感を持てるかと言われると私はノーだよなあ。

そんなジョブズの「やな奴展示会」みたいな映画の中で、彼がアップル社のCEOに引き抜いたジョン・スカリー(ジェフ・ダニエルズ)とのエピソードには、普通の人間としてのジョブズの顔が見えて、印象的でした。ジョブズがアップル社を追われるのに、スカリーが一役買っていたのかというあたりから、業績不振からスカリーが解雇された後も、対立することはあっても、スカリーには一応の敬意を払い、友情を感じているようなのですよ。技術者に対しても、こういう態度で接していればよかったのに。

ジョブズが偉人という前提があれば、この人の内面に踏み込んだ映画として楽しめるのかなという気がしましたが、パソコンの創始者くらいの認識では、何か関わり合いになりたくないなあ、周囲の人は大変だったんだろうなあという映画にしかならないです。そこに人間的な奥行を感じることができるかどうかは、観る人によるでしょうね。ある分野における天才なんだろうなってことは伝わってきましたが、ここで言う天才ってのは、一人だけで何かできるわけじゃなくて、他人とうまく出会い、他人をうまく使うことに長けている人を指すみたいなんです。企画力が天才的でも、それを実現するには、多くの人間のサポートが必要です。そのサポートの受け方がうまいということにもなるのでしょう。ただし、新しいことを始める時の人の動かし方はすごいけど、そのことが過去のものになったときの切り捨て方の冷淡さも天才的なので、そこが彼をやな奴にしているのかもしれません。ジョブズはリサのことも最初は過去のものとして切り捨てようとしてますもの。でも、過去機種の開発チームは切り捨てたジョブズも、親子の情を完全に切り捨てられなかったというところなのかな。でも、それって、誉められるほどのことでもないような。

ジョブズに共感できるところがなかったお話ではあるのですが、それでも演技陣の充実でドラマとしての見応えを感じることができました。マイケル・ファズベンダーは才気と自信あふれるやな奴を熱演して、その存在感を示しました。また、ジョブズの良心ともいうべき存在のジョアンナを演じたケイト・ウィンスレットは、賞レースに入りそうな名演ぶりでした。この女優さんはどんな映画に出ても、見事な演技で観客を楽しませてくれる、この人を追いかけて映画を観てハズレのない人です。14年というタイムスパン(マッキントッシュの発表からiMacの発表まで)をきちんと感じさせるあたりも見事でした。さらに、ジョブズに振り回される面々を演じたジェフ・ダニエルズ、セス・ローゲン、マイケル・スタールバーグも、天才肌のジョブズとは一線を画すキャラを的確に演じ切りました。

「ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります」は二人の名優の演技と会話を楽しめれば、それで充分。


今回は新作の「ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります」を、銀座のシネスイッチ銀座1で観てきました。1階席だったのですが、前の席にちょっと座高の高いおっさんが座ったら、画面が欠けてしまって、最後まで気になっちゃいました。ほんのちょっと高いだけなんで、おっさんよりも、劇場側でもう少し画面の位置を上に上げて欲しいと思いました。

ニューヨークのブルックリンを一望できる5階建てアパートの最上階には、画家のアレックス(モーガン・フリーマン)と元教師のルース(ダイアン・キートン)の夫婦がかれこれ40年も住んでいます。このアパートの難は、エレベータがないところ、そして、ついにここを売り払って引っ越そうということになり、周旋屋の姪リリー(シンシア・ニクソン)に頼んで部屋の内覧会をすることになりました。その前の日に、愛犬ドロシーがヘルニアに入院したり、橋の上に乗り捨てられたタンクローリーがテロリストによるものだという騒ぎが起きたりしまして、内覧会の当日になっても、ドロシーは入院中で手術をすることになり、タンクローリーの1件は、ニューヨークにテロリスト潜伏というビッグニュースになっていました。交通規制がかかっていて、不動産の話をするには不向きな日ですが、それでも内覧会には色々な人が訪れて、二人の部屋をチェックしています。一方、部屋を売るなら新居を探さなくちゃということになり、新聞広告から、他の家の内覧会に足を運ぶアレックスとルース。やっとルースが気に入った部屋が見つかり、93万ドルのオファーをしたら、トップの値段になり、即入金というところまで話が進んでしまいます。一方、部屋を売る方も言い値の競争になっていて、もう少しでいい値段がつきそうな状態。果たして、アレックスとルースは無事に部屋を売って、新居を手に入れることができるのでしょうか。

ジル・シメントの原作小説を、「結婚しない男」「スリーメン&リトルレディ」のチャーリー・ピータースが脚本化し、「リチャード三世」「ファイヤーウォール」のリチャード・ロンクレインがメガホンを取りました。ニューヨークの老夫婦の数日間を二人の若い頃の日々を回想で挟みながら描いて、その中から、二人の人生が垣間見えてくるという構成の映画です。舞台劇の映画化かと思うほど、ほとんどが会話のシーンで展開するのですが、さすがに、フリーマンとキートンは、不自然にならない見事な演技でドラマを引っ張っていきます。ちょっとした会話の間とか、リアクションがうまいので、会話の洪水なのに、安心して観ていられるのがさすがという感じでした。意外な顔合わせではあるのですが、隠居風のフリーマンと、チャキチャキおばちゃんのキートンの夫婦ぶりがしっくりくるのが発見でした。あまり、ドラマチックな展開はないけど、主人公の人生に深みが感じられるのは、フリーマンとキートンの好演があってのことだと思います。何というか、「いい感じ」の映画に仕上がっているのですよ。全編を通して流れる空気感(← あ、雰囲気のことです。最初からそう言えばいいんですけど。)がすごくチャーミング。老夫婦のお話なのに、枯れてなくて、どこか暖かくて弾んでいるのが、何というか、その、「いい感じ」なんですよ。

この年齢の黒人と白人の夫婦ということで、結婚したころはまだ世間の風当たりが強かったことがちょっとだけ語られます。最初は、アレックスの絵のモデル(それもヌード)にルースが雇われたのが出会いで、それから仲良くなって、ルースの家族からは祝福されなかったけど、それを押し切って結婚。アパートの5階に引っ越してきて、暮らすようになり、アレックスの絵も売れるようになってきます。でも、ルースの不妊症が発覚して、二人の関係も気まずくなりかけるのですが、アレックスは、自分を責めるルースをやさしく抱きしめて、その危機を乗り切るのです。回想シーンに、あまりドラマチックなエピソードは出てこず、むしろ二人が淡々と40年を積み上げてきたんだなというのを見せる展開になっています。細々あったことも、うまく乗り切ってきた夫婦二人の余裕のやり取りが、この映画の空気を穏やかにまとめあげています。ああ、こういうやり取りができる夫婦になりたいものだわって、シングルオヤジも思ってしまいましたもの。

家の内覧会をすると、色々な人が、彼らの部屋を見に来ます。なかなかキャラが立つ皆さんが集まってくるのは楽しい展開になっていまして、あまり部屋を売ることに乗り気でないアレックスが、ボソっと言うセリフもおかしく、定番の展開ながら、ロンクレインの演出は淀みがありません。実際、ニューヨークで15日間という短期間で撮影された、インデペンデント系の作品なんですが、その軽さのようなものが、名優二人をいい方に盛り上げるのに成功しているように思います。他愛ない話の中から、奥行きのある人間の人生が見えてくる、なぜ見えてくるのかというと、演じてる二人に人生の重みが感じられるから。なぜ、人生の重みが感じられるのか、それは演ずる人の演技がうまいから、ということが言えそうです。

一方、並行して描かれるテロリスト騒ぎのエピソードが印象的です。もともとは、タンクローリーが橋の上で乗り捨てられていたという事実が発端だったのですが、その運転手がテロリストで、タンクローリーには爆弾が仕掛けられていて、さらには、マンハッタンを逃走中というふうに、話がどんどんでかくなっていきます。確証はないのに、メディアはテロ気分をあおり、マンハッタン全体がテロリストの存在に恐れおののくようになっちゃうというのを、テレビ画面の映像で、何度も見せていきます。ホントは、テロでも何でもない出来事なのに、メディアがあおるせいもあって、市民もテロ気分になっちゃうってのは怖い話です。実は、戦争に至る一番の近道は、メディアが恐怖を煽ることだって言います。このテロリスト騒ぎは、まさにそんな感じで、市民がおかしな方向に踊らされちゃっているのですよ。冷静になって、事実を吟味しないと、またアメリカはおかしな方向へ進むんじゃない?というメッセージが含まれていますし、これが映画の後半に影響を及ぼすのはうまいと思いました。アメリカなら、広告代理店が、タンクローリー乗り捨て事件に、メディアやネットを煽ってテロ騒ぎを起こすぐらいのことやりかねないですもの。何のためかって?防弾チョッキを売るためかも、或いは戦争を始めるためかな。

ジョナサン・フリーマンの撮影は、シネスコサイズの画面で暖かい色調の絵を作って、映画の持つほっこりした雰囲気を映像でサポートしています。また、音楽が久しぶりのデビッド・ニューマンなのがうれしかったです。ライトなコメディ音楽ではあるのですが、彼らしい厚みが感じられましたもの。ドラマチックなスコアで本領を発揮すると、非常にいい曲を書く人なので、この後、また思い切りオケを鳴らせる映画で腕を振るってもらいたいものです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ルースが気に入った部屋の周旋屋は、すぐに小切手を切らないとまた競売にすると言ってきます。一方で、二人の部屋の値段の競争も続いています。ルースとしては、値段の高い方ではなく、部屋を借りたい意志を手紙にしてきた女性二人のカップルに売りたいと思うようになり、アレックスにたしなめられてしまいます。ともあれ、ルースとアレックスは、買いたいと思っている部屋へ小切手を持って出かけます。そこでは、持ち主の夫婦がもっと値を上げたい、いや売ろうと揉めてる最中。そして、テレビ画面では、例のテロリストが警察に投降する実況中継が。どうやら、橋の上でタンクローリーの事故を起こした若い運転手が怖くなってその場から逃げてしまったというのが事の真相だったとわかってきます。その放送を観ていたアレックスは、「この部屋、買うのやめた。売るのもやめる。」と宣言して帰ってしまいます。後を追うルースにアレックスは「自分たちは、必要もないことに追い回されてる。テロリストのニュースに踊らされてるのと同じ」だと言います。ちょっと考えて、ルースも冷静になり、結局、部屋を売らなきゃならない理由なんて特になかったことに気づくのでした。そして、結局、引っ越す話はなかったことになり、愛犬ドロシーも退院して、元通りの5階まで階段を使う生活に戻ります。いつまで続けられるかはわからないけど、その日が来るまでは、二人でこのアパートで暮らしていこうというところでおしまい。めでたしめでたし。

内覧会で気に入ったアパートにオファーをかけたら、言い値がトップで即保証金を払えと言われて、ルースは浮足立っちゃいます。ここで決めなきゃって、舞い上がっちゃうのですが、アレックスはそんなに急いで、大きなことを決めなくちゃだめなのかと文句を言います。そして、ニュースのテロリスト騒動が全くのデマだったことを知ったアレックスが「やめよう」ときっぱり。長い人生、一緒にやってきた時間のテンポからすれば、1日で住むところを勢いで決めるってのはどーなのってところはなかなか説得力がありましたし、それもそうねで冷静になるルースもだてに40年も夫婦やってない、あうんの呼吸がありました。そして、この内覧会の1件が、アレックスとルースの人生のささやかなエピソードになるという締め方もよく、考えてみると他愛のない話(家売ろうとしたけどやめた、というだけの話)だけど、ほのぼのと楽しむことができました。ホント、いい感じの会話劇でした。

「尾崎支配人が泣いた夜 DOCUMENTARY OF HKT48」はアイドルへの夢の在り様を描いたなかなかあなどれない逸品。


今回は、新作の「尾崎支配人が泣いたも夜 DOCUMETARY OF HKT48」を川崎のTOHOシネマズ川崎4で観てきました。ウィークデーの夜の回なんてガラガラだろうと高をくくっていたら、かなりの入り、それも8割がオヤジばかりでびっくり。ビール臭いオヤジに挟まれて、ディープなオヤジ空間での鑑賞となりました。

AKB48の姉妹グループとして、2011年、博多を拠点とするHKT48が誕生しました。2012年に、スキャンダルを起こしたAKB48の指原莉乃が、HKT48に制裁措置として加入することになります。経験の浅い若いメンバーばかりの中で、指原はHKT48をリードし、グループを全国区に知らしめ、支配人として活躍することになります。そんな彼女が、HKT48設立からの、膨大な記録映像から、1本のドキュメンタリーとして監督したのが、この映画なのでした。

えーと、ですね、アイドル結構好きなんですよね。以前もPerfumeのドキュメンタリーを観に劇場に足を運んだのですが、アーティストとしてのPerfumeにスポットを当てた内容になっているので、そこには3人(←Perfumeは3人グループなので)の素顔に迫るというものはなかったので、それは、アイドルファンとしましては、ちょっと踏み込み甘いんじゃないかなってところもありましたが、彼女たちの売り方がアイドルじゃないということでもありました。AKB48を始めとする、アイドルたちは、ファンに近しい存在であり、そのプライベートなキャラクターの部分が彼女たちの売りにもなっています。この映画では、HKT48にいる女の子たちの、(いわゆる)素顔に迫ることで、アイドルグループとしての彼女たちをより身近に感じることができるという寸法です。ちなみに私は、アイドル好きと言っても、コンサートや握手会に行くようなコアなファンではなく、テレビを観て「へえー、この子かわいいね」と言うくらいのライトなファンということになります。(← いいオヤジが、それでも十分ディープなアイドルファンじゃねえかと言われたら、否定する言葉ないです、はい。)

HKT48は、博多に劇場を持っています。映画のオープニングでは、まず劇場の舞台が映ります。そこには選抜の女の子たちが集まって、わいわいとやっています。選抜というのは、メンバーの中から、選ばれた人という意味で、例えば次の新曲の選抜という言い方をします。歌の選抜に選ばれた子は、テレビの歌番組などに出られて、メディアへの露出も多いということになります。そこへ、上野遥という劇場にばかり出ていて選抜になったことのない女の子が入ってきますが、選抜の「わいわい」の中に入ることができません。監督の指原が彼女にインタビューすると、やはり劇場にばかり出ている自分と、メディアへの露出の多い選抜との間に壁を感じているんですって。同じ、HKT48というグループの中にいても、いわゆる売れてる子と、そうでない子の間の格差があって、当人もそれを感じているんですって。結構、序列のはっきりした組織の中で、彼女たちなりに思うところは多いようです。

選抜の中にも序列があります。歌を歌うときの立ち位置で、その子のランクづけがされてしまうのです。トップに君臨するのは、センターと呼ばれて、真ん中で歌を歌える女の子。その一方で後ろの列の端っこにポジションされちゃう子もいます。さらに、前作で、選抜だったのが、選抜外(アンダーって呼ばれます)になっちゃう子がいます。また、入った当初は、研究生という肩書なのですが、その後、頑張りが認められると、正規メンバーに昇格するという流れになっていますが、後輩が先に昇格して、自分は研究生のままだったりすると、そこに格差を実感することになっちゃいます。彼女たちのイベントの中に握手会というのがありまして、ファンがCDを買って握手する権利を得て、各々のメンバと握手して、ちょっとだけお話するというものですが、そこにも、たくさんのファンが並ぶ人気の子と、ファンの列も閑散としている不人気の子がいます。その序列、格差を、彼女たちは文字通り目の当たりにすることになります。映画の前半では、この序列に一喜一憂する女の子の本音をインタビューによって、綴っていきます。

AKB48グループというのは、ステージだけでなく、オフステージでも、レッスンの場でも、カメラが回っています。それが、こういうドキュメンタリーを作るときの映像素材になります。映画の中で、劇場ではずっとセンターだった女の子が、デビューCDでは、センターの座を後輩の新人の子に取られてしまい、悔しくて泣いちゃう様子をカメラは追います。また、そのセンターになった子が次の曲では、さらに後輩にセンターを譲ることになるといったドラマチックな展開になり、そこでもまた、彼女たちの悲喜こもごもが、その当時の映像と、現在のインタビューの両方で語られます。インタビューでは、「あの時はすごく悔しかったけど、今思うとああなってよかった」みたいなコメントも聞けるのですが、その当時の映像の悔しそうな顔やボロ泣きの様子を見ると、若い女の子も、熾烈な競争にさらされて大変なんだなあってのが伝わってきます。映画の前半はこんな感じで展開しまして、リアルな競い合う女の子の姿が描かれます。映画がずーっとそのトーンだったら、アイドルって大変なんだなあってところで、映画は終わっちゃうのですが、この映画は、女の子たちの仲の良い様子も映しながら、もう一つのテーマを提示してきます。映画の監督など初めての指原莉乃の演出は、構成のうまさが目につきました。きちんとHKT48を売り込むメッセージとともに、アイドルってのはこういうものなんだよというのを映画の後半では明快なタッチで語っているのですよ。きちんとアイドルへの想いとファンの想いの両方を描くことで、そこに一つの希望の姿を見せてきます。アイドル映画として、結構あなどれないのですよ、これが。

また、映画のメイキングを並行して見せることで、指原監督が、この映画の観客層をどこに位置付けるか悩む姿も見せてくれます。HKT48には、コアなファンがいて、そういうコアなファンが映画館へ足を運んでくれていることは百も承知。だから、そういうコアなファンへのサービスをしなくちゃいけない。でも、ライトなファンや、これからHKT48に興味を持って欲しい人にも観て欲しいので、楽屋落ちだけの映画では、ダメだとわかっちゃいるけど、困ったなあという監督の様子も映画の中で見せちゃいます。ああ、ここまで映画の裏側を見せることで、映画のターゲットを説明しきっちゃおうというのはうまい演出だと感心しちゃいました。この映画には、ドキュメンタリー映画としての監修者がついていて、新人監督にアドバイスしているようなのですが、監督が、題材の当事者でもあるということをうまく映画の面白さにつなげることに成功しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(まあ、ネタバレしてどうってこともない映画ですが)



映画の後半では、総選挙の様子が登場します。これは、買ったCDについてる投票券を使って、お気に入りのメンバーに投票して、それで、AKBグループ全体の順位を決めちゃおうという、ランク付けの極致ともいうべき企画です。そこには、メンバー自身の葛藤や競争もありますが、ファンが自分のごひいきの子を上位にランクづけしたいという競争でもあります。この映画の監督でもある指原莉乃は、AKBグループ全体の1位というすごいポジションを取ります。また、HKT48の女の子たちも自分の順位にファンと一緒に一喜一憂することになります。この順位や、劇場やメディアでの貢献度などが総合されて、選抜メンバーが決まります。あるシングルCDでの、メンバー選抜の過程が描かれるのですが、そこで、坂口理子というメンバーの中でも年長組の女の子にスポットライトが当たります。彼女には、コアなファンがいて、何とか彼女を上に上げたいと思っているおっさん(私と同年齢くらいでしょうか)のファンのインタビューにも熱いものがありました。

そんな坂口理子が、そのシングルで初めて選抜メンバーに選ばれます。それは誰かが選抜からはずれることも意味するのですが、周囲のメンバーは彼女の初選抜入りを一緒に喜んでくれます。ファンのおっさんはそれを知って男泣きです。そして、握手会の場で、おっさんと坂口理子が言葉を交わすシーンも登場します。アイドルなんて人気商売、浮き沈みもあるシビアな世界ですけど、それでも、アイドルとファンが同じ方向を向いて、同じ想いを共感できる瞬間がある、それだから、アイドルをやっていること、アイドルのファンでいられることはいいよねという見せ方は、なかなかにいいところを突いてると思いました。そして、「HKT48はそういうファンの夢を託せるアイドルグループなんですぜ、ダンナ」と語りかけてくるあたりに、指原監督のうまさが光りました。

後半の山場となるのは、昨年の紅白歌合戦にHKT48が落選しちゃうところです。その前の年、初出場でトップに歌っていたHKT48だけに、何となく、今年も行けそうな予感はあったのですが、あえなく落選。それを、指原支配人がメンバに伝えます。すごく残念で悔しそうな様子が伝わってくるのですが、その言葉をついで、尾崎支配人が何か言おうとすると、今度は尾崎支配人が涙で言葉にならなくなってしまいます。これがタイトルの「尾崎支配人が泣いた夜」ということになるのですが、ここで、「まだまだ、HKT48は夢を託せるグループなんだから応援してね」という無言のメッセージにつなげる展開には、ちょっとだけホロリ。

ラストは、この映画のための主題歌が作られ、その選抜が発表されることになります。そこで、映画の冒頭では、選抜メンバーに近寄ることをためらっていた、上野遥が選抜入りし、さらに、彼女がセンターを務めることが伝えられます。それまで、劇場で、指原のアンダー(代理を務めるメンバーのこと)をずっとやってきた女の子、選抜には全然縁がなくてテレビに出ることもなかった女の子が、この映画の中で改めてフィーチャーされ、最後にセンターとなるあたりの、構成のうまさは見事であり、そこにアイドルグループHKT48の希望と未来を感じさせるエンディングとなっています。そういう地味に頑張ってきた子にスポットライトが当たる機会を作ることで、この映画は単なるドキュメンタリー以上のアイドルについてのメッセージを持った映画に仕上がったと言えましょう。見様によっては、全てが演出のあざとさを指摘できないこともないのですが、そういうことを言いたければ、アイドルなんて興味持つ必要もないと言い切るようなある種の潔さも感じられました。そして、この映画の観客が、映画を通して、アイドルと想いを共有できる瞬間があれば、ラッキーという視点は、意外とクールでかっこいいじゃんとも思ってしまったのでした。

「オデッセイ」は脇役が引き立つ集団ドラマになってる演出がお見事。


今回は、新作の「オデッセイ」を川崎の川崎チネチッタ8で観てきました。前回、チネチッタ6で観た「ブリッジ・オブ・スパイ」より、大きな劇場なのに、音響の迫力が今イチだったのはどういうことなのかしら。期待したのに。

有人火星探査船アレス3は、予想以上の嵐に遭遇した結果、ミッションを中断して地球へ帰還することにします。しかし、着陸船への移動中、植物学者のマーク・ワトニー(マット・デイモン)が突風で飛ばされて行方不明になります。船長のルイス(ジェシカ・チャスティン)は、彼が死亡したものと判断し、彼を見捨てて他のクルーと共に地球への帰還の途につきます。しかし、マークは奇跡的に一命を取り止めていました。自力で居住施設までたどり着き、傷の手当をするのですが、この後、次の宇宙船が来るのは予定では4年後でした。それまで、生き延びるための水と食料を得るための彼の闘いが始まります。居住施設の中に火星の土と糞尿を持ち込んで、感謝祭のためのジャガイモを刻んで植えて、栽培することを始めます。一方、地球では、火星の居住施設の周囲で何やら動きがあることから、マークが生きているらしいことに気づきますが、今の状況では、彼が生き残っているうちは救助できないということからその事実は伏せられました。一方、マークは無人探査船の通信機を使って地球との交信に成功し、彼が想定以上の日数生存できる可能性も伝わり、地球から物資補給船が送られることになります。NASAの長官(ジェフ・ダニエルズ)は事態を公表し、世界が注目する中で、マークの救出作戦が開始されるのでした。

アンディ・ウィアーの小説を原作に、テレビシリーズでの実績があるドリュー・ゴダードが脚本化し、「エイリアン」「ブレード・ランナー」のリドリー・スコットがメガホンを取った、SF超大作です。ハンガリーのスタジオに巨大なセットを組んで撮影されたそうで、火星の風景にはチュニジアの砂漠までロケしているのだそうです。映画の前半は、火星に取り残されたマークがいかにして前向きにサバイバルに立ち向かうのかというところ。火星にたった一人取り残されたというのは、この映画の場合、即死亡を意味していないのが、まず面白いと思いました。怪我の治療をして一息ついたとき、まだ、酸素も水も食料も結構残っているのですよ。ただ、計画通りだと次に探査船が来るのは4年後だから、それまで生き残っている必要があるということ。それはじわじわと飢え死にしちゃうという、ゆっくりと来る死に立ち向かうことになります。この映画の中では、時間の経過は大変ゆったりとしています。一分一秒を争うような展開はほとんど出てきません。むしろ、何日のオーダーで生き残れるか、何日のうちに補給船を送れるかということが、語られていくのです。通信だって、24分かかる距離の火星です。全てがその時間をかけて行われることになります。その分、ドラマは感情に左右されることの少ないじっくりとした展開となります。

そういう意味ではドラマチックな要素は少ないのですが、映画は科学と人間への信頼を柱に展開します。ひたすら前向きなマークは、逆境でもユーモアを欠かさず、生きるか死ぬかの日々の恐怖を、船長の残した音楽の趣味への不満として表現します。その一方で、持てる科学の知識を駆使して、目前の問題に取り組んでいきます。一方のNASAは、最初はマークの死によって、火星探査の予算が打ち切られることを気にしていたのですが、今度は再び見殺しにしちゃうことにさらに及び腰になります。そんなNASAですが情報の隠蔽はしないというポリシーを崩さず、マークが生きていることを公表し、物資の補充のための宇宙船を送ることにするのです。妙な陰謀論ですとか、悪役になる人間が登場しない展開は「アポロ13」を思い出させる部分もありますが、スコットの演出はあくまで科学に対しての信頼を崩しません。運を天に任せるのではなく、全ての知恵を総動員して、マークを生き延びさせようとするというスタンスは一歩間違うときれいごとに過ぎてしまうのですが、スコットの演出はそこを娯楽映画としての面白さをかぶせることで見事にクリアしています。次々に困難が発生しつつも、一直線に進むドラマの淀みない展開が映画のパワーになっています。その中で、1回だけ登場するルール破りがドラマのアクセントになっていまして、そこに人間ドラマとしての可能性を加えています。

演技陣では、マット・デイモンの一人芝居もいいのですが、脇の面々の方に目が行ってしまいました。特にNASAの長官を演じたジェフ・ダニエルズと、ヘンダーソンを演じたショーン・ビーン、乗組員の一人を演じたどんな映画に出てもおいしいところをさらってしまうマイケル・ペーニャ、火星でのマークの姿を追うオペレータを演じたマッケンジー・デイヴィスといった面々がいい意味で引き立つ演出になっているのですよ。個々のキャラが沈み込んだ感じの「プロメテウス」とはうって変わって、集団劇の良さを見せたスコットの演出のうまさがあると思います。ハリー・グレッグソン・ウィリアムスの音楽は、電子音楽によるドキュメンタリータッチで始まって、後半はオケによる盛り上げ音楽と、毛色の違う音をうまく使い分けて、科学ドキュメンタリータッチの前半と、ドラマチックな大救出劇のクライマックスの両方を見事に支えています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



物資補給船は発射直後に墜落。また、火星では、居住施設のシートが破れて栽培中のじゃがいもが全滅し、食料の補給が中断して危機的状況になります。一方で、中国の衛星が燃料の補給を協力することになります。そして、科学者の一人が今地球に戻りつつあるアレス3に中国の衛星の燃料を補給して火星へ戻して救出するという提案をします。NASAの長官は、補給船の再度打ち上げか、アレス3による救出かの選択で前者を選択します。しかし、何者かが、アレス3へその情報を漏らしたため、乗組員たちは全員一致で、マーク救出に再び火星へ向かうことを決め、NASAのコントロールを外れて、燃料補給地点へと向かいます。ここに及んでNASAもアレス3によるマーク救出を全面支援することになり、マークが、救出地点へ行くためのバックアップを開始します。そして、100日以上をかけて火星へ戻ったアレス3へ、アレス4の着陸船に乗ったマークが打ち上げられ、世界中の見守る中で、ルイス船長は、宇宙に飛び出したマークをキャッチして、地球に帰還するのでした。めでたし、めでたし。

ルールを破って、アレス3へ、マーク救出作戦をリークするヘンダーソンが、この映画のアクセントになっていまして、出番は少ないながらも、ショーン・ビーンが腹芸オヤジを演じて印象的でした。若い頃は血気盛んな敵役が多かったのですが、「リベリオン」あたりから、頼りになる脇役キャラのイメージが強くなってきたビーンがいいところをさらいます。ラストでは4年後のアレス4のミッションでの、その時の登場人物を見せながら、エンドタイトルがかぶるという締め方もよく、最後まで娯楽映画として楽しませてくれる一本に仕上がっています。

主人公となるのは、マット・デイモンとジェシカ・チャスティンなんですが、結果的に脇役の方が引き立つ映画になったという点でも評価高いです。最近の映画は脇役の扱いがよくないというか、印象に残る使われ方がされないことが多いのですが、この映画では珍しく脇のキャラがみんな立ってるのですよ。中国人の補給船チームの主任ベネディクト・ウォンとか、ラストでカップルになってる、ケイト・マーラとセバスチャン・スタンとか、挙げていけばきりがないけど、そういうみんながヒーロー的なドラマで、役者をうまくさばいたリドリー・スコットって結構すごい人だなあって再認識しちゃいました。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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