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「マネー・ショート 華麗なる大逆転」はシビアな内容を娯楽映画にまとめたところがすごい。


今回は新作の「マネー・ショート 華麗なる大逆転」を銀座のTOHOシネマズ日劇1で観てきました。ここは、予告編のビスタサイズからシネスコサイズになるときちゃんとスクリーンサイズを変える映画館。そんなことを特筆するような時代が来ようとは。

2005年、変わり者の投資家マイケル・バーリ(クリスチャン・ベール)は、不動産抵当証券の事例を調べていましたが、格付けがAAAの物件に、サブプライムローン(低所得者向け住宅ローン)といった返済がリスキーなものまで含まれているのを見て、数年以内でデフォルト(債務不履行)になるだろうと確信。CDSという金融派生商品を買いあさります。債権が破綻したときの保険みたいなものですって。どの銀行も不動産抵当証券は絶対安全だと信じているので、CDSを買う人間なんていいカモみたいな扱いです。このCDSの大量買いを知ったドイツ銀行のジャレド・ベネット(ライアン・ゴズリング)は、ヘッジファンドマネジャーのマーク・バウム(スティーブ・カレル)にCDSの大量買いを勧めます。マークのスタッフは懐疑的でしたが、マークたちは実際に低所得者住宅やローンブローカーを調査し、本当に不動産抵当証券が破綻寸前であることを確認します。一方、若い投資家のジェイミーとチャーリーは、ウォール街で大きく儲けたいと考えて、このCDSに目をつけ、元銀行家リガート(ブラッド・ピット)の指導を仰ぎつつ、CDSを買いまくります。そして、サブプライムローンの債務不履行(デフォルト)が公になり不動産抵当証券が大暴落する、筈だったのですが。

マイケル・ルイスの原作を、「ライフ・ボブ・デビッド・ゲイル」のチャールズ・ランドルフと「アザーガイズ 俺たち踊るハイパー刑事」のアダム・マッケイが共同で脚本化し、マッケイがメガホンを取りました。リーマンショックが世界を揺るがす前にそれを予見していた人々の行動を描いた実録ものです。私はリーマンショックが起こったとき、アメリカで何が起こっていたのかさっぱり理解できてなくて、後になって池上彰の番組で「へえー、そういうことだったのか」と知ったくらいのモノ知らずなので、この映画を観ると、リーマンショックについて、もう少し知ることができるかなくらいの気持ちでスクリーンに臨みました。「華麗なる大逆転」という邦題は、まるっきり的外れで、ブラピが出てるから「オーシャンズ11」風のパッケージにしちまえということなんでしょうけど、ダサイを通り越して不真面目なレベル。配給は東和ですから、昔の東宝東和の大風呂敷宣伝を思い出しますけど、ネタがマジだから、これは笑えない。

映画は、マイケル・バーリとマーク・バウムの物語を並行して描いていきます。その経過の中で、不動産抵当証券ですとか金融派生商品についての説明がドラマに割り込むような形で挿入されます。映画の登場人物がカメラに向かって話しかけたり、有名人が突然解説を始めたりといった手法で、できるだけわかりやすく状況を説明しようとしています。それでも、私なんか話についていくのが精一杯の鑑賞になっちゃいましたから、ある程度の予備知識は必要な映画なのではないかしら。(話についていけない私がアホなのか。)以下、私が理解した(と思っている)ことをもとに書いてますので、大外れなことが書いてあるかもしれませんので、ご注意ください。

そもそもの発端は、不動産ローンの債権を商品として売り出すようになったことなんですって。基本的に不動産ローンって、手堅く返済されるっていう実績があって、さらにその中でも信頼性の高い、AとかAAAのランクの債権を商品にしていたので、その商品の信頼性もAとかAAAのランクに位置付けられたようなのです。このランク付けをしたのが、格付け会社で、それなりの信用のあるランク付けでした。しかし、その不動産抵当証券がどんどん売れるものですから、さらに需要を満たすために、低所得者層向けのサブプライムローンと呼ばれる回収が危ういローンの債権までも、商品として売り出すようになります。でも、そういうリスキーなローンの債権はうまくAAAの債権に混ぜて売られていたので、不動産抵当証券のランクは下がらず、格付け会社もAAAを付け続け、誰も、それが破綻するとは思っていなかったというのが前提となります。それにいち早く気づいたマイケル・バーリは、その債権の保険であるCDSを大量購入するのです。これは、絶対健康と言われている若い人の保険料が安いことに目をつけて、その人が早死にすることを見抜いて保険金をたっぷりかけちゃおうというものです。手を下さない保険金殺人と言ったらひどい言い方かもしれませんが、それくらいの意味あいを持ったものだったのです。まさか死ぬとは思ってない保険会社は、保険料収入が上がるので、ウェルカムでその保険を売りまくるという寸法です。CDSを大量買いしているバカがいるという噂を聞きつけた、銀行員のベネットはその先見性を見抜いて、バウムに話を持ち込むのです。

銀行嫌いのバウムですが、最初はその話が本当かどうか躊躇し、リサーチに低所得者住宅のある地域に赴きます。そこで、ローンが払えないでいる連中がたくさんいること、また、ローン会社がノーチェックでどんどんローン契約をしている事実を知り、これはヤバいと思うようになります。なるほど、不動産抵当証券ってのが、いつ債務不履行による破綻を起こしてもおかしくない状況だったという話は、日本のバブル時代の「土地は無限に値上がりする」という神話が崩壊するのと似たようなところがあります。

映画は超シリアスな話をコミカルなテンポで運んでいきます。これは、脚本と演出のうまさなのでしょう。小難しい話をできるだけとっつきやすいように、娯楽映画の形で描いています。社会派映画であり、娯楽映画であるという二つの要素をきちんと両立させています。そして、2008年に起こった事件を再認識させようというところに、ハリウッドの持つパワーを感じさせました。勉強になって面白い映画を狙って、それはかなり成功しています。豪華な演技陣をこういう題材の映画にそろえたという点も、お金のかけどころをよく知ってるプロデューサーが噛んでいるんだなあって感心。この監督さんは、バカ映画「アザーガイズ 俺たち踊るハイパー刑事」でも、アメリカのネズミ講をテーマに映画の中で解説することをやってましたから、もともとこういうネタをやりたい人だったのでしょう。今回は、社会派がメインではありましたが、きちんとバカ映画のテイストも持ち込んでいたのは見事でした。

演技陣では、クリスチャン・ベールのカリスママネートレーダーぶりが際立ちましたが、それ以外では、若手投資家を演じたフィン・ウィットロックとジョン・マガロが印象に残りました。プログラムに名前も載っていないのですが、マークの妻を演じたマリサ・トメイが狂気に満ちたドラマの中の正気の人として印象に残りました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



サブプライムローンの債務不履行がマスコミでも騒がれるようになっても、不動産抵当証券のランクはいっこうに下がる様子はなく、CDSの価格も上がりません。マークはこれはおかしいと、格付け会社にクレームを入れるのですが、格付けを下げれば顧客を失うから、下げられないと言うのです。そして、破綻の予兆は黙殺されたまま、大暴落の日を迎えることになります。それまで、出資者からボロクソ言われていたバーリはでかい商売から足を洗い、マークはCDSをぎりぎりのところで売り逃げることに成功します。そして、リーマンショックはアメリカだけでなく世界に大打撃を与えたのですが、また、今になり、似たような金融派生商品が全世界で売られるようになっており、リーマンショック再びとも言うべき不気味な状況になっていることが字幕で語られます。なるほど、単なる過去の話じゃないんだなあ。これって、ホラー映画の結末で、殺人鬼がまだ死んでなかったっていうありがちな結末に通じるものがあります。なるほど、今や現実は安物ホラー映画並みになってきているんだなあって結構びっくり。というか、どこか狂っている現実に、折り合いをつけなくてはいけない時代になってきているとは、何かついていけないって感じ。

理屈では、その商品の価値が落ちれば値段が下がるはず、一度、失敗した商品は再び市場に出回ることがない、と思うのですが、現実世界では、それと逆のことが起きているというのはずいぶんと理不尽な話です。これが独裁国家ではない、民主主義の法治国家であるアメリカで堂々と行われているということを恐ろしいと思うべきか、結局、民主主義は金を持っている人間だけが得をする制度なのだと達観すべきなのか、少なくとも、自由公平なアメリカンドリームは存在しないというシビアな結論へと導かれるリアル系ホラーとも呼ぶべき映画なのかもしれません。知らなきゃ騙される、知っても抗えない、そんな無常感を描いた映画というのはさすがにうがちすぎなのかな。ともあれ、勉強になる映画ではありましたが、後味はすごく悪い映画でもありました。この後味の悪さは決して映画の評価を下げるものではありません、後味が悪いからこそ、この映画の存在価値があるとも言えるのですから。
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「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」はちょっといい話にまとまる小品としてオススメ。


今回は新作の「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」を川崎のTOHOシネマズ川崎2で観てきました。

93歳のシャーロック・ホームズ(イアン・マッケラン)は日本へ旅を終え、隠居生活の海辺の家へと帰ってきました。もう兄も友人ワトスンも帰らぬ人となっている今、家政婦のマンロー夫人(ローラ・リニー)と息子のロジャー(マイロ・パーカー)を相手に養蜂と回顧録を書く、静かな日々を送っていました。実は、ホームズの最後の事件について彼は記録を残そうとしているのですが、なかなか思い出せなくて困っていました。記憶力の低下は彼自身もよく認識していて、関わり合いのある人間の名前は袖口に書いて、会話で詰まらないようにしていました。彼が記憶の糸をたぐっていったその事件とは、トーマス・ケルモット(パトリック・ケネディ)が妻のアン(ハディ・モラハン)の様子がおかしいというものでした。2度の流産の後、アルモニカという楽器を習い始めてから、その先生に傾倒して正気を失っているというのです。アルモニカの先生のせいだとトーマスは決めつけているのですが、ホームズは彼女を尾行していって、別の結論にたどり着くのですが、最終的に彼はその事件を解決することができなかったのでした。

ミッチ・カリンの原作を、「カサノバ」「ある公爵夫人の生涯」のジェフリー・ハッチャーが脚色し、「愛についてのキンゼイ・レポート」のビル・コンドンが監督しました。この映画での、名探偵ホームズは、ロンドンで多くの事件を解決したホームズの活躍を、ワトスンが小説化して、一躍有名人となっているという設定です。ですが、93歳にして、彼は海辺の田舎町で隠居生活を送っていたのです。それは、最後の事件が彼にとってのトラウマとなって、探偵業から引退させていたのです。ホームズは、その事件の関係者であるトーマスの妻、アンの写真を見つけ、その写真から記憶の糸を手繰り寄せて、事件の記録を書き残そうとするのですが、その全貌をなかなか思い出せないというのが、メインのストーリーとなっています。そして、サブプロットとして、ホームズが家政婦の息子ロジャーに養蜂を教える話、そして、ホームズのファンだという梅崎(真田広之)という日本人に招かれて日本へ旅をした話。現在進行形なのは、ロジャーとのエピソードだけで、後の2つはホームズの回想の中で描かれます。最後の事件の全貌が明らかになっていくにつれて、ホームズの隠居生活の理由がわかり、そして彼の晩年の人生が見えてくるという趣向は、物語としての面白さがありました。

ホームズは蜜蜂を飼っているのですが、だんだんと数が減少しているのが気がかりでした。家政婦の息子ロジャーに養蜂を手伝わせながら、書きかけの事件簿を読ませて、感想を聞いたりしています。ロジャーは聡明で、ホームズのような洞察力があり、ロジャーと一緒にいるときのホームズは楽しそう。曾孫くらい年の離れたロジャーとの関係は、孤独な晩年のホームズにとって大きな潤いとなっているようです。日本での旅行では、山椒をゲットしてきます。健康によく老化を防ぐ効果があるとかで、梅崎から山椒のある場所を紹介されます。それが、戦後間もなくの瓦礫の山の広島で見つかるという展開もあります。原爆ドームの目と鼻の先の瓦礫の中から山椒が見つかるというのは、意図するところがあるのでしょうけど、なかなかピンと来ないところがありました。セットを組んで、エキストラもたくさん使って日本のシーンが丁寧に撮られているだけに、その演出意図が読み取れなかったのはちょっと残念でした。

また、彼の最後の事件は、ワトソンが小説化しているという設定で、さらに映画化もされていて、その映画をホームズ自身が観て「何じゃこりゃ」という珍景もあります。映画の展開は、事実とは異なる脚色がされていましたが、それはワトスンの思いやりだったことが物語の後半に判明します。ロジャーがホームズの書斎から、アンの手袋を発見したことで、さらに記憶が甦り、事件の真相がわかるのですが、それは彼にとって苦い思い出だったのです。

ホームズを演じたイアン・マッケランは93歳のもうお迎えが来そうなおじいさんと、回想シーンの老紳士をきっちりと演じ分けていて見事でした。メーキャップのうまさもあるのでしょうけど、60歳と93歳を演じ分けるってのはなかなかに大変そう。ローラ・リニーは学はないけど人のいい家政婦ぶりを好演しました。この人がこういう役を演じるようになるなんて、と、ちょっとしみじみ。また、12歳のロジャーを演じたマイロ・パーカーがマッケランと五分に渡り合っているのにはびっくり。真田広之は、ちょっとつかみどころのない日本人キャラを手堅く演じています。ドラマとしては、ミステリーの色が濃いのですが、それによって、老ホームズがちょっとだけ変わっていくところが見どころになっています。93歳の老ホームズがもうお迎えまぢかのような風貌なのですが、それでもどっこいしぶといじいさんぶりを見せるのを、ささやかな心地よさを持って描かれています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



梅崎がホームズを日本へ招いたのには理由がありました。それは、外交官であった梅崎の父に、英国に留まるように勧めたから。結局、父親は日本へ帰らず、梅崎も彼の母親も寂しい思いをしてきたのです。父親に家族を捨てるように勧めたホームズということらしいのですが、本人には記憶がありません。一方、アンの手袋を手にしたホームズにどんどん記憶が甦ってきました。ホームズはアンを尾行し、彼女が毒薬を買い、男に金を渡すのを目撃します。それは、アンが夫を殺そうとしているかのようでしたが、ホームズはそれを彼女の演技であると見抜きます。そして、2回流産した彼女が人生の幕引きをしようとしていたことを看破するのです。ホームズの推理を聞いたアンは、自分の気持ちを理解してくれたホームズに、どこかへ行ってしまいたいと言うのですが、ホームズは愛する夫のもとへ帰りなさいと諭してしまいます。その直後、彼女は地下鉄に飛び込んで死んでしまいます。それ以来、ホームズは探偵家業から足を洗い、隠遁生活を送っていたのでした。

その事件の手記を書き上げるホームズ。時を同じくして、ロジャーが蜂に刺されて瀕死の状態で見つかります。彼は、蜜蜂の減少の原因が、近くにできたスズメバチにあることを見つけ、スズメバチの巣に水をかけて、逆に攻撃されてしまったのでした。ホームズは、ロジャーは自分にとっての宝であり、一緒にいて欲しいとマンロー夫人に頼むのでした。そして、退院したロジャーから養蜂を習うマンロー夫人、そしてそれを見つめるホームズ。何だかめでたしめでたし。

甦った記憶はホームズにとって愉快なものではありませんでした。ワトスンはそれを知って、逆に荒唐無稽な最後の事件の小説を書いたのでした。ホームズは、梅崎に手紙を書きます。梅崎の父親は立派な人で、英国のために尽くしたと。彼がそのことを思い出したのかどうかははっきりしない(多分、思い出してない)のですが、梅崎の想いへの共感を感じたようなのです。年を取ってから、それも93にもなってから、性格がおだやかに丸くなるってのは、人間の可能性を示すいい話だよなあって思っちゃいました。

「人生は小説よりも奇なり」はしみじみ感からほのぼのした後味へつながるまろやかな味わい。


今回は新作の「人生は小説よりも奇なり」を、川崎の川崎チネチッタ10で観てきました。銀座のミニシアターで上映されている映画が、地方のシネコンで観ることができるというのはありがたい限りです。チネチッタはコンスタントにこういう映画を上映してくれるのがうれしい映画館です。ミニシアターよりいい設備、大きなスクリーンで観られたリするのも点数高いです。

元画家のベン(ジョン・リスゴー)と音楽教師のジョージ(アルフレッド・モリーナ)は39年連れ添ったゲイのカップルですが、今度ようやく正式に結婚式を挙げました。ところがそのことでジョージが教会の音楽学校をクビになってしまい、収入が減り一緒に住んでいた部屋も手放すことになってしまいます。その結果、二人の住む場所がなくなってしまい、結局ベンは甥っ子のエリオット(ダーレン・バロウズ)の家に、ジョージは同じアパートのこれまたゲイカップルの警官テッドとロベルトの部屋に居候することになります。エリオットには小説家の妻ケイト(マリサ・トメイ)と息子のジョーイ(チャーリー・ターハン)がいましたが、突然の老人との同居は戸惑うこと多く、仕事で家にいないエリオットに対して、家で執筆活動しているケイトには、ベンの相手をするのが仕事の邪魔だし結構なストレスになっちゃいます。ジョージの方は毎晩友人を連れてパーティ状態の部屋で、落ち着いて寝ることもできません。我慢できなくなったジョージは、エリオットの家のベンを訪ねて泣き崩れてしまう始末。ベンはエリオットのアパートの屋上で絵を描き始めたりもするのですが、新しい引っ越し先はなかなか見つからないのでした。

アイラ・サックスとマウリツィオ・ザカリアスの脚本を、サックスが演出した、しみじみ系ドラマの一編です。「しみじみ系」というのは何となくつけた名前です。ゲイの老カップルが結婚したら、職を失って、別居居候状態になっちゃうというお話で、そこで大きなドラマチックな展開があるわけでもなく、ベンとジョージの二人の様子をスケッチ風に描いた作品なので、しみじみ系と呼んでしまいました。ハートウォーミングな要素がもっとあれば、「ほのぼの系」に、笑いの要素がもうちょっとあれば、ヒューマンコメディという呼び方もできましょう。それでも、手堅い演技陣による、ドラマには、リアルな人間観察と、人間関係の希望が感じられるもので、ちょっといい感じの映画に仕上がっています。

面白いのは、居候ベンと甥っ子の奥さんケイトのやり取りで、ケイトとしては仕事に没頭したいのに、ベンが色々と話しかけてくるので、仕事を中断されてイライラ。このあたりは、舅と嫁の関係そのものなんですが、どっちが悪いという見せ方になっていないあたりに演出の妙がありました。ジョン・リズゴーとマリサ・トメイという名優同士の絡みのうまさもあって、印象に残るシーンになりました。このジョン・リズゴーの枯れた感じに対して、アルフレッド・モリーナの情熱的な感じがいいコントラストになっているのですが、それでも二人はラブラブだというのが伝わってくるのが、面白かったです。同世代の男女カップルで、この人生積んでもまだまだラブラブという感じが出せただろうかと思うと、同性愛カップルのラブコメってのは、まだまだ未開拓の分野なんだなあっていう発見もありました。

また、ベンがジョージの家庭のゴタゴタに付き合わされてしまうという居候ならではの大変さも描いていまして、居候ってのは、受け入れる方も世話になる方も楽じゃないよというところをリアルに感じられる映画になってます。この気まずい感じは、日本もあちらも同じなんだなあって妙なところに感心しちゃいました。映画は、ドラマティックな展開はないのですが、愛する二人が一緒に暮らせない切なさ少々、居候の大変さそこそこ、家族内のゴタゴタを隠し味というくらいのバランスで、ゆったりと進んでいきます。ベンが、若いジョーイに愛のことを知ってるかと質問するシーンがあります。気になる女の子がいるんだけど、声をかけたことはないと答えると、ベンは今度会ったら絶対声をかけろと言うのですが、このシーンがラストの余韻につながっているあたりはうまいと思いました。

原題は「LOVE IS STRANGE」というもので、まあ「愛は不思議ね」くらいの意味あいでしょうか。そんな話じゃないよという気もするのですが、映画の底に流れる雰囲気を何となくつかんでいるという感じで、味わいのあるタイトルになっています。一方の「人生は小説よりも奇なり」という邦題のセンスのなさはひどいです。映画のどこを切っても「奇」の部分なんてないですもの。むしろ、普通の人の感情が織りなすドラマを繊細にしみじみと描いているのですから。ちょっと洒落てみたつもりが大ズッコケのタイトルだと言ったらひどいかしら、配給のコムストックさん。まあ、映画の内容からして、邦題のつけにくい映画だとは思うのですが、でも、これはないよなあ。


この先へ結末に触れますのでご注意ください。



二人の居候別居が解決しないまま日が過ぎて、ある日、ベンは屋上で絵を描いた後、階段から落ちて右手を骨折してしまいます。それに心臓にも何かよくない兆候がありみたい。一方で、ジョージは、居候先のパーティで同じくゲイの若者と知り合い、彼の部屋が間もなく空くことを知り、そこを借りることにします。ジョージとベンは二人で飲みに出かけた帰り道、ジョージはベンに是非個展を開くようにと進めるのですが、それは無理だよというベン。場面は、変わってジョーイがジョージの部屋を訪れます。ジョーイは、ジョージに、ベンの遺品である描きかけの絵を持ってきたのでした。ジョーイに持っていけばというジョージですが、それを辞退するジョーイ。通りに出たジョーイを女の子が待っていました。スケボーで通りを走り出す二人、その向こうには夕日が輝いています。で、暗転、エンドクレジット。

ラストで、ベンがジョーイにつながっていることで締めるあたりは、なかなかいい感じの後味となりました。登場するエピソードは全てありがちというか、それほど目新しくもないしドラマチックでもありませんが、それぞれのエピソード全体の持つ雰囲気の暖かさがこの映画のお宝と申せましょう。老年ゲイカップルが主人公だから、しみじみ系という言い方をしましたけど、若いジョーイのドラマでもありますから、全体的には何と言ったらいいのかしら。ともあれ、ベンの死後をエピローグに持ってくる意外性が唯一ドラマチックと言える展開でしたけど、そのエピローグで、暖かな余韻を残して、映画全体の空気感をほのぼのとしたものにしています。ベンとジョージのラブラブにせよ、居候の気まずさにせよ、家庭内のゴタゴタにせよ、あまり突っ込まずにまろやかなタッチに抑えているところに、物足りなさを感じる方もいるかもしれませんが、このくらいのほのかな味わいも結構いいんでないかいと私は思ってしまいました。

「虹蛇と眠る女」は人間が伝説と同居する場所が舞台の不思議系ミステリーとして見応えあり。


今回は新作の「虹蛇と眠る女」を川崎の川崎チネチッタ3で観てきました。ここは傾斜のきつい作りで、このシネコンでもキャパの小さな映画館です。

オーストラリアの砂漠地帯の小さな町にキャサリン(ニコール・キッドマン)は、薬剤師の夫マシュー(ジョゼフ・ファインズ)と、15歳になる娘リリー(マディソン・ブラウン)、息子のトミー(ニコラス・ハミルトン)と住んでいました。事情があって、一家はここへ引っ越してきたのですが、トミーは土地に馴染まず、夜中に外に出ては一人で歩き回っていました。ある晩、夜中に出かけるトミーの後を、リリーが付いていくのを、マシューは目撃します。そして、翌日、二人の子供は姿を消します。学校へも行っていなかったというのです。警官のレイ(ヒューゴ・ウィーヴィング)は、この暑さで外にいたら、2,3日しかもたないといい、捜索隊が組まれて、砂漠地帯の捜索が開始されます。友人関係もあたるのですが手掛かりは得られません。リリーは、前に住んでいたところで、学校教師と問題を起こしていました。そして、この町でも、若い連中と遊んでいるという噂が立っていました。キャサリンはリリーの部屋でアルバムを見つけます。そこには、関係を持ったと思われる若者の写真と日記のような詩のような文章が書き連ねられていました。そこにも書いてあるのですが、キャサリンとマシューの夫婦仲は冷めていて、そのことにキャサリンは孤独を感じていたのでした。捜索隊による捜索が続けられるのですが、手掛かりも見つからないまま、どんどん時間だけが過ぎていくのでした。

フィオナ・セレスとマイケル・キニロンズの脚本を、この映画で長編劇映画デビューとなるキム・ファラントがメガホンを取った、心理ミステリーの一編です。虹蛇というのは、原住民アボリジニの伝説に登場する架空の動物で、神隠しに関係しているらしいことが、アボリジニの老婆の口から語られます。それは、砂漠に代表される大自然の象徴であり、人智の及ばない世界を指しています。そんな超自然的な匂いを漂わせながら、映画はキャサリンを中心に展開していきます。ニコール・キッドマンにとって母国のオーストラリア映画は久しぶりの出演だそうですが、自然と欲望と孤独に翻弄されるヒロインを熱演しています。決して超自然スリラーではないのですが、全体を包むこの世のものでない感じですとか、幻想的な映像が、不思議な味わいの映画に仕上げています。

リリーは15歳とまだ幼いのに美形で、男の目を惹くものを持っています。前の場所で、学校教師と問題を起こしたというのも、リリーの方から挑発したのではないかと思わせるものがありました。それは、誰かを愛したい愛されたいという感情の発露だったようで、彼女の日記のようなアルバムには、愛情に飢えた想いがストレートな言葉で綴られていまして、母親のキャサリンはそれを読んで愕然とします。その中には、キャサリンのことを、女としては終わっているなんて書いてあるものですから、キャサリンは図星を指された気分になっちゃいます。リリーは、家の雑用を頼んでいた頭に障害を持った若者バーティとも関係を持っていたようです。キャサリンは、レイには、このアルバムのことを知らせるのですが、は、夫のマシューには黙っていました。また、アルバムの中にはバーティの写真も入っていたのですが、バーティの姉と付き合っているレイは、その写真だけをシュレッダーにかけてしまいます。

映画の中の誰もが秘密を持っていて、そこにコミュニケーション不全が発生しています。そんな状態を補完するのがセックスだという見せ方になっているのは、ちょっとびっくりでした。夫婦仲は冷めているのに、キャサリンとマシューは衝動的にセックスをしますし、まだ15のリリーでさえ、何か満たされない想いをセックスにぶつけているようなのです。砂漠という過酷な自然条件に囲まれて生活していると、精神的なものと肉体的なものをわけ隔てしているハードルがどんどん低くなっているようなのです。子供二人が行方不明になるという異常事態を通して、その精神と肉体のきしみのようなものが大きくなっていくのですが、ラストでは救済のイメージが登場します。

夫のマシューは英国人で、この土地に疎外感を感じているようです。町の住人と親しくすることもなく、孤立しちゃってるものですから、自分が正しいと思い込むしか選択肢がありません。そんな態度がさらに、他人との壁を作っちゃっているようなのですが、それはもうどうしようもない感じになっています。キャサリンの誘いにも応えませんし、リリーのことを自分に全然似てなくて、おまえにだけ似てるなんて、キャサリンに平気で言っちゃうあたり、孤独な唯我独尊オヤジという感じなのです。ジョセフ・ファインズは繊細だけど、その繊細さゆえに厄介な父親を好演しています。ラストで、彼だけが、救済から見放されちゃうのは、ある意味自業自得ではあるのですが、どこか気の毒な人生でもあります。

ファラントの演出は、主演3人にじっくり演技させて、ちょっと不思議な事件のリアルなリアクションを引き出しています。色々な役柄に挑戦するニコール・キッドマンですが、ここでは、生身のヒロインを熱演していて、見応えがありました。年齢不詳の美貌にも、そろそろ寄る年波が感じられるようになりましたが、そこに年相応の生臭い役を選ぶあたり、彼女はよく自分を認識しているんだなあって感心してしまいました。フルヌード(ロングショットだから、ボディダブルかも)にも挑戦しています。この映画、人間と伝説が地続きであるオーストラリアの砂漠地帯だからこその物語展開になっていまして、孤独にとらわれた人間が、どうやって孤独を克服して、自分を取り戻していくかというお話として、面白い映画だと思いました。その他にも色々な解釈の余地を持った映画ですので、一見をオススメしちゃいます。



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マシューは、砂漠地帯の捜索隊が入っていない方向へ車を走らせ、脱水状態のトミーを見つけます。ショック状態で何も言わないのでリリーの行方はわからないままです。キャサリンは、トミーに詰問するのですが、彼は母親にも何も答えません。レイの家を訪ねて、彼の体を求めるキャサリンですが、レイは彼女を拒否します。そして、彼女は一晩を砂漠の中で過ごし、翌日、町に全裸で現れて保護されます。トミーの口から、リリーは車に乗ってどこかへ去ったことが判明します。マシューが家に連れ帰ったキャサリンは正気を取り戻し、マシューは、あの頃に戻りたいと泣き崩れるのでした。砂漠の山岳地帯の空撮画面に、リリーの詩のようなナレーションが流れ、暗転、エンドクレジット。

キャサリンは夫にもレイに受け入れてもらえず、大自然に抱かれることで、癒されたのではないかと解釈しました。人間同士のつながりが失われていったときに、どこに救いを求めるのかというお話なのではないかしら。キャサリンは、アボリジニの虹蛇の伝説を知り、その伝説の舞台である大自然に身をゆだねることで、自己を取り戻したのではないかと。一方、リリーは自分の心の声に素直に従うという選択をして、結局、別の(人間)世界へ旅立って行ったように思います。どちらも、自分の周囲に壁が作られてしまって、孤立しているのですが、あくまで人間界にとどまったリリーに対して、キャサリンはあっちの世界へ行ってしまったという感じでした。きっと、リリーはどこか別の場所で別の人間として新しい人生を歩みだすんだろうという後味は、人間は極限状態の孤独の中でも、何とかそれでも生きるための選択をするという、強さのようなのものを感じました。

人間界と一線を画す伝説が残るオーストラリアの砂漠の町という設定で、コミュニケーション不全に陥った人間が、どうやって克服するのかというお話と思うと、この映画、示唆するところが多いと思います。ネットや情報が行き届いた大都会では、大自然と交わるという選択肢はあり得ないのですが、自然と神秘が息づいている環境では、まだ、人間が自分を取り戻すためのそういう選択ができるのかもしれません。一方で、大自然との接点を失いつつある都会人は、人間関係の絆にすがりついて生きていくしかないのかなって気づくと、都会人には切ない物語になるのかもしれません。キャサリンの夫のマシューは、大自然と交わることも、自分の心の声に忠実に生きることもできないまま、失われた人間関係にすがったままなのですから。

「オートマタ」は久々のペシミスティックSFで見せ方がちょっと新鮮。


今回は新作の「オートマタ」を川崎の川崎チネチッタ12で観てきました。ここはキャパもスクリーンも大きい大劇場の風格のある映画館です。シネコンのある意味理想形の映画館と言ったらほめ過ぎかな。

太陽風の異常は、世界を砂漠化し、世界中の人口も今や2100万人になっちゃっています。ROC社の人型ロボット、プルグリム型が開発され、彼らは砂漠化阻止のために働かされる一方、人間生活の中でも色々な作業を請け負っていました。そんなロボットには2つのルール(プロトコル)がありまして、一つは「生命体に危害を加えない」、そしてもう一つが「ロボット自身で修理・改造をしてはならない」というものでした。ところがある日、刑事ウォレス(ディラン・マクダーモット)が自分を修理していたというロボットを銃撃して破壊します。ROC社の保険部のジャック(アントニオ・バンデラス)は、そのロボットが実際に内部を改造されていて、中に現役ロボットの部品まで入っていることを確認、不正エンジニアが裏でロボットの改造を行っていると睨みます。そこで部品を取られていた現役ロボットのもとを訪れると、ロボットは自らの体に火を放っていわゆる自殺。これは、自分で改造を加える行為であり、ロボットの第2プロトコルが何者かによって破られていることを意味していました。ジャックは、スラムの性サービスロボットのクレオをマークして、ロボットを改造できるデュプレ博士(メラニー・グリフィス)にたどり着きますが、彼女にも第2プロトコルを破ることはできないと言います。ところが、自殺したロボットの中枢であるバイオカーネルをクレオの適用してみたところ、クレオは自分で自分を修理し始めるではありませんか。しかし、デュプレ博士は何者かに殺され、ジャックも命を狙われますが、そんな彼を車を走らせて助けたのはクレオでした。そして、怪我をしたジャックをクレオと2体のロボットが環境汚染されている砂漠地帯へと連れ出します。街へ戻りたいというジャックの要望に彼らは従いません。一体、ジャックはどこへ連れていかれるのでしょうか。

スペイン出身のガベ・イバニェスが脚本を書いてメガホンを取ったペシミスティックSFの一編です。太陽風の異変は地球に放射線を降り注がせ、地球のほとんどが砂漠化され、人間が住んでいる地域でさえ、大気と雨が汚染されていて、人類にあまり未来はないって雰囲気。ジャックは、ロボットの保険の調査員で、奥さんは臨月。彼としては、まだ汚染が少ないらしい海岸地域へ引っ越したいと思っています。上司のボールド(ロバート・フォスター)にそのことを告げるのですが、いい家に住めて、保険も使える今の状況は幸せだと説得され、ロボット改造の一件の調査を継続することになります。街の周りには、防護壁が張り巡らされており、その下には貧困層が住むスラムが広がっていました。一方、ROC社も新しいロボットを製造するパワーがないらしく、古いロボットを修繕しては使いまわしていました。ジャックは、ロボットの顧客から、飼い犬を殺したとクレームをつけられ、そんなことはあり得ないとつっぱねる日常でした。

そんな明るい未来を実感できない世界で、ロボットが自分で自分を修繕しているという疑惑が生じるのです。ロボットのルールというと、アシモフのロボット3原則(人間に危害を加えない。人間に服従する。自分を守る。)がまず頭に浮かぶのですが、それ以上に「自分で自分を修繕、改造しない」というルールを前面に出してくるところがこの映画の面白いところです。ロボットが自己学習によって、自分を改造していったら、人間の知性を超えたレベルへと進む可能性がある、それを阻止するための歯止めとして、ロボットに自分自身を改造させないとしたのです。そのルールである第2プロトコルはロボットが作ったもので、それは簡単に破ることができない筈でした。最初のロボットは、そのプロトコルがなかったのですが、それが無尽蔵に進化する可能性を知り、それに第2プロトコルを作らせて、ロボットは廃棄したのです。だから、人間に第2プロトコルは破られる筈はなかったのですが、その異常事態が起こっているというのです。

なるほど、ロボットが自己改造することによって、人間の理解を超えたものに進化する可能性があるというのは面白い視点です。さらに、この映画では、自己改造するロボットは感情を持つようになります。なぜ、そうなるかは、一応何となくわかるようになってるのですが、感情を持つってことは人間に近づくわけです。そこに、神は自分に似た人間を作りたもうたという、人間が最高という発想があるのが面白いと思いました。人間を超える存在になっていく過程で、果たして感情が必要になるのかって考えると、人間の知性を超えてしまえば、人間を人間たらしめる概念なんて不要でしょう。それが人間モドキになっちゃうところに、人間の空想力の限界を見てしまったような気がしました。確かに、ロボットが人間が理解できない知識や論理を持つというシーンは登場するのですが、ロボットが人間っぽくなっちゃうというのは、ドラマ的にはわかりやすいけど、SF的にはこじんまり感が出ちゃったかなあ。

それでも、ペシミスティックなSF映画は久しぶりなので、観た後味は、うれしい再会という感じでした。私が子供の頃は、「猿の惑星」「地球爆破作戦」「ソイレントグリーン」「ノストラダムスの大予言」といった暗い未来観に基づいた映画がいっぱいありました。もう人類は破滅の方向へと向かっているという世界観は、世紀末とリンクして、それなりの説得力を持って、子供をビビらせていました。21世紀になってからは、良くも悪くも明快な未来像を描いた映画は「ターミネーター」シリーズくらいで、少なくなってしまったので、若い人にはこういう映画は新鮮に映るのではないかしら。

映画としては、それほどのお金をかけずに退廃しつつある未来世界を描写するのに成功しています。ブルガリアの撮影所で撮影されたとのことで、スタッフも現地の人が多数(名前が、~VAとか~Vで終わる人)クレジットされています。以前は、ジャン・クロード・ヴァン・ダムの低予算映画が色々と作られていたのですが、だんだんとメジャーになってきたようです。視覚効果のプロデューサーのスコット・コールターは、ヴァン・ダム映画でも視覚効果のスーパバイザだった人です。低予算で、それなりのスケールを出そうとしたとき、ブルガリアはこれからも映画撮影の場として使われていくのかも。ロボットはCGとマペットの両方が使われているようですが、人間と絡むシーンはマペットメインのようです。いかにも人間の工業生産物らしいデザインがリアルで、映像に説得力がありました。また、荒廃した砂漠地帯のロケーションはブルガリアで撮影したそうですが、放射線で汚染された空気感がよく出ていたように思います。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ROC社は、ジャックが何者かと結託して、ロボットの第2プロトコルを解除したのだと判断して、彼とその黒幕を抹殺すべく追手を砂漠地帯へと送ります。さらに、子供を産んだばかりのジャックの妻レイチェル(ビアギッテ・ヨート・スレンセン)を赤ん坊ごと拉致して砂漠地帯へ送ります。一方、ジャックは汚染地帯で体がボロボロになりながら、ロボットたちの目的地につきます。そこには、人間はおらず、一体のロボットが彼らを迎えます。ロボットは突然変異的に第2プロトコルが解除され、そして、自分を改造し、さらに他のロボットも改造し、原子力電池を入手して、新しい形態のロボットを作ろうとしていたのです。ジャックは、ロボットから、人類はもう滅亡し、その後をロボットが引き継ぐ、それは自然の流れなのだと言われて納得します。そして、ロボットたちは、集めた部品から人間型とは異なる新しいロボットを作り出します。それが、人類亡き後を引き継ぐものらしいです。追手がやってきて、銃撃戦となるのですが、最終的にジャックとレイチェルと赤ん坊が生き残り、ロボットたちに別れを告げます。瀕死のジャックを乗せて車を走らせるレイチェルは「ジャックの言ったとおりだった」と海にたどり着いたようなことを言った後、画面は暗転しエンドクレジット。

最後に果たして海にたどり着いたのかどうかはよくわからない結末になっています。もう人間が生きられる海岸地帯は存在しない、ジャックの夢の世界であるかのような見せ方で、人間の時代は終わったという印象で映画は終わります。新しい形態のロボットは、犬と虫のあいのこみたいな形で、言葉はしゃべりませんけど、あえて人間形態にこだわらないところは面白いと思いました。滅びゆく人類がロボットを作り、そのロボットが人間の知識も含めて、人類を継ぐという展開はなるほどという説得力があり、一方で、「サイレント・ランニング」を思い出しました。自己改造できるロボットであるなら、自分を修繕して、さらに生き延びることができるでしょう。そう考えると人間ってのは環境の変化に弱いから、種の存続ということでは難しいんだなあ。ただ、昔のペシミスティックSFだと、地球の環境を変えちゃうのは人間自身だという自業自得的な展開が多かったのですが、この映画では太陽の変化による地球汚染という天災になっているのが、目先が変わって面白いと思いました。これだと、神の意志によって人類が滅んで、ロボットに置き換わるという、自然淘汰という流れが明確になるからです。そんな自然淘汰の物語を、滅ぶ人類残るロボットという構図で切り取ったSF映画として記憶に残る映画になりました。

「クーパー家の晩餐会」はクリスマスシーズンの定番映画、手堅いハッピーエンド。


今回は新作の「クーパー家の晩餐会」を川崎の川崎チネチッタ8で観てきました。

クリスマスイブの日、クーパー家では、家族がみんなで集まってパーティを行うのが恒例でした。ですが、今年はいつもと様子が違うようです。主人のサム(ジョン・グッドマン)と奥方のシャーロット(ダイアン・キートン)は離婚することを決めていたのです。シャーロットの父バッキー(アラン・アーキン)は毎日通うダイナーのウエイトレス、ルビー(アマンダ・セイフライド)をかわいがっていましたが、彼女が店をやめると言いだします。シャーロットの妹エマ(マリサ・トメイ)は姉になぜか引け目を感じていて、ブローチを万引きして捕まってしまいます。サムの娘エレノア(オリヴィア・ワイルド)は妻帯者と不倫中ですが、空港で出会ったジョー(ジェイク・レイシー)と仲良くなり、彼に恋人という体で家のパーティに出てくれとお願いします。離婚している息子のハンク(エド・ヘルムズ)は失業中であることを3人の子供にも両親にも隠して就職活動中。みんなそれぞれの事情を抱えながら、クーパー家のクリスマスディナーに集まってくるのでした。

「微笑みをもう一度」「ニューヨークの恋人」などのスティーヴン・ロジャースが脚本を書き、「アイ・アム・サム」
「コリーナ・コリーナ」のジェシー・ネルソンがメガホンを取りました。アメリカにはクリスマスシーズン向けの映画ってのがあるんでしょうか。日本で年末に忠臣蔵をやるように、その季節の映画があるのだとしたら、まさに季節ものの映画。ある意味定番ですから、そんなにとんがった内容ではなく、ご家族みんなで無難に楽しめる、毒にも薬にもならないって感じの映画。アメリカでの公開は11月中旬だったようですから、多分季節の映画というのは当たっているのではないかしら。そういうジャンルがあるとしたら、まあその典型みたいな内容のお話です。結構、豪華なキャストがちょっとだけ波風の立つ家族模様から、ラストでみんな揃ってハッピーエンドを演じるのですから、変にひねくり回すより、素直に楽しめる娯楽映画にまとまっています。

40年も夫婦をやってるサムとシャーロットですが、最近どうもうまく行ってないみたいで、離婚しようって方向に向かっています。サムは離婚に乗り気ではありませんが、シャーロットの意思は固いみたい。でもシャーロットとしては、クリスマスディナーは円満家族で過ごしたいから、それを隠しておきたいと思っています。ジョン・グッドマンとダイアン・キートンという芸達者な二人が会話の妙を見せるのですが、「ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります」なんかに比べるとライトというかゆるめの演出が、映画の味わいになっています。おじいちゃんのバッキーが、お気に入りのウエイトレスといい感じになっているというのも、生臭くならない程度の味わい(ま、彼女目当てにダイナーに通ってるだけの関係なので)に収めています。ハンクの失業も親子関係がギスギスするようなところまで行っていないので、プレゼントのクオリティをどうしようかというレベルで収まっています。

娘のエレノアが空港で出会った軍人のジョーに、クリスマスディナーで、恋人を演じてくれと持ち掛けます。境遇も支持政党も違うジョーは最初はとまどうものの、何となく二人はいい関係になっていきます。このあたりの恋愛展開もまあ定番という感じ。そんなライトな展開の中でアクセントになっているのが、シャーロットの妹エマの存在。何事につけ姉に勝てるところのない彼女はコンプレックスの塊で、姉へのプレゼントを探しているとき衝動的に万引きしちゃいます。でも、あっけなくつかまって警察へ連れていかれるのですが、その連れていかれる途中の警官とのやり取りが他のドラマと並行して描かれます。あわれっぽく泣き言を言ったり、堅物だけどゲイのおまわりさんにカウンセリングもどきのことをしたりと、よくわけのわからないキャラクターで、誰を演じてもうまいマリサ・トメイがこの役を扱いかねている感じがしました。キャラ設定に無理があるのか、ぶっとんだキャラをシリアスに演出した監督の責任か、全体をまろやかにまとめている映画の中で、妙にひっかかる存在になってしまったのは残念でした。

そして、サムの家にみんなが集まってきます。楽器を弾いてみんなで歌を歌ったり、ベタな感じですけど、いい家族の姿がそこにあります。それぞれ、思うところやお悩みもあったりするのですが、クリスマスを祝えないほどのダメージにはなっていません。いや、40年連れ添った夫婦が離婚の危機なんて、かなりでかい話ではあるのですが、クリスマスディナーの方が大事だという見せ方なんですよね。このあたりの感覚が、アメリカの常識レベルなのか、いわゆる理想の家族(アメリカの「サザエさん」みたいな感じ)なのかわからないのですが、この映画ののほほんとした味わいは、理想の家族の方なのかもしれません。

それなりに楽しくディナーしてると、遅れてエマがやってきてまた微妙な雰囲気になってしまいます。さらに、停電になって、電気がついてみれば、おじいちゃんのバッキーが倒れていたので大騒ぎ。一家は病院で待機状態。そこで現れた医師がエレノアに色目を使うので、ジョーが尋ねてみれば、このドクターが彼女の不倫相手なんですって。でも、エレノアはそんな医師よりも、最終的にジョーを選び、二人は改めて抱き合うのでした。そして、サムとシャーロットは離婚を思いとどまり、ハンクはウエイトレスのルビーといい雰囲気になってきます。病院のカフェで一家が集まって音楽に合わせて踊るところでめでたしめでたしとなります。そして、これまでずっとナレーションしてきたのが、サムの家の飼い犬だったことがわかって、おしまい。

劇場映画というには、クセがなさすぎというか、テレビの2時間ドラマくらいのテンションなのですが、豪華キャストをほどよく采配して、のんびり観るにはいい映画です。こういうジャンル、作りの映画もあるんだなという点では、ちょっとした意外性もあります。演技陣の中では、脇で目立ちそうなところを手がたく抑えたアマンダ・セイフライドがうまいと思いました。この人も色々なジャンルの映画で、色々な役どころを演じる人ですが、主演も多い彼女が、ここでは脇役の一人として、きちんと自分のパートを演じ切っている感が好印象です。エリオット・デイヴィスのキャメラがシネスコサイズの手持ちを多用していたのは、こういうドラマには不似合いではないかと思ってしまいました。もっと安定した絵をきっちり切り取った方がこういうドラマには似合っているのではないかしら。このあたりは私の好みですね。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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