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「スポットライト 世紀のスクープ」はヒーローの英雄譚というより幸運な巡りあわせの奇跡の物語


今回は新作の「スポットライト 世紀のスクープ」をTOHOシネマズみゆき座で観てきました。かつてのみゆき座と比べるとミニシアターになってしまったのは残念ですが、前の劇場はフラットな座席で前に人が座ると画面が欠けちゃうような映画館でした。昔の映画館を懐かしむ気持ちもありますが、最近のシネコンの見やすい作りになっているのは、やっぱり映画館も進歩しているんだなあ。

タイムズ傘下に入ったボストングローブ紙に新しい編集局長マーティ・バロン(リーヴ・シュライバー)が赴任してきます。彼はインターネットに存在を脅かされつつある新聞にはより内容ある記事が必要と考え、ゲーガン神父が80人もの児童に性的虐待を加えた事件をもう一度洗いなおせという指示を出します。しかし、それは購読者の53%がカソリックであるこの地域では危険な賭けでもありました。その任を受けたのは「スポットライト」という連載記事を書いているロビー(マイケル・キートン)のチームでした。一度は小さなコラムで扱ったネタを蒸し返すのに反対はあったのですが、バロンはそれを押しのけ、ロビー以下マイク(マーク・ラファロ)、サーシャ(レイチェル・マクアダムス)、マット(ブライアン・ダーシー・ジェームズ)が取材を開始します。まず新聞社は裁判所に封印された文書の開示を求める訴訟を起こします。一方で、この類の事件を扱う弁護士たちに当たっていくのですが、守秘義務をたてになかなか話そうとしません。ゲーガン事件の原告側弁護士ガラペディアン(スタンリー・トゥッチ)は変人と言われていましたが、マイクの説得に被害者のインタビューの場を設けてくれます。被害者団体のサヴィアノに取材すると彼はボストンにそういう神父が13人はいると言います。しかし、それを事件がならないのは、公式の裁判になる前に、当事者の弁護士同士が金銭的な解決をしてしまうらしいのです。事件はゲーガン神父一人にとどまらず、教会全体を敵に回す大きな話になってきます。


今回はストーリーの最後まで一気に書いてますのでご注意ください。(ラストでどんでん返しはありません。)


実際にあった事件をもとに、TVで実績のあるジョシュ・シンガーと「扉をたたく人」のトム・マッカーシーが共同で脚本を書き、マッカーシーがメガホンを取り、アカデミー賞の作品賞と脚本賞を受賞しました。神父による子供に対する性的虐待が存在し、被害者は年を取ってからも苦しんでいること、そしてその事実を教会がもみ消している事実を報道した新聞記者のお話です。事実に基づくというだけに、変なご都合主義やドラマチックな事件が登場しないので、ドラマとしては結構地味な展開を見せます。そもそも、この事件を再調査するように言い出すのは新任のユダヤ人の局長というところからして、この事実が公になったきっかけは大変偶発的なものなのです。それまで、ずっと続いてきて、知っている人間は目を背けてきた事実が、いわゆる部外者の指摘によって、公になるという展開は、すばらしいのか、そういう偶然がなかったらずっとそのままだったのか、色々と考えさせられるものがあります。

この人でなし神父は、家庭環境のよくない貧しい子供を狙って餌食にしていたというから、かなり悪質です。それに信仰の対象である神の代弁者でもある神父にひどいことをされても、なかなか人には言えないし、信仰そのものが揺らいでしまう可能性だってあります。日本人の私には、人としての信仰の重要性はよく理解できていないところがあるのですが、それでも、日々の暮らしの支えの根底が揺らいじゃうのではないかしら。いや、根底は揺らがずに自責の念だけが心を傷つけ続けるのかもしれません。教会は、そういう神父が出ると、事を隠蔽して、他の教区へ異動させたり、病欠という形でほとぼりを冷ますことをやっているようなのです。ロビーたちは教会の公式年鑑の神父の教区を調べると病気療養とか休職という形を取った後、短期間で教区を変わっていることを見つけ、その該当する神父を挙げていくと、ボストンで87人の神父が何かやったらしいことがわかってきます。こんな話どっかで聞いたことあるなあと思ったら、日本でも問題教師が出ると、まず犯罪者になることはなく、学区を転々としたり、教育委員会などの子供に接触しない職場へ移されるという話を聞いたことあります。どっちも、子供を絶対的に押さえつけられる権力を持った立場を利用しての行動ですから、こういう話は海の向こうの他人事ではありません。今は、昔よりは教師の犯罪は公になってきていますが、被害者の心の痛手は、加害者が罰せられるのとはまた別の問題として残り続けます。そういう事件を再び起こさないためには、加害者を守る隠蔽システムを壊す必要がありました。

一方、ゲーガン事件の封印されていた資料が、ガラペディアンが教会側からの訴訟によって、裁判の証拠として公になります。勢いづくスポットライトのチームですが、ロビーはそれだけでは足りない、何万とあるケースの一つなら、枢機卿が謝罪して終わりだというのです。そして、リストアップされた87人の神父について、被害者への取材が始まります。多数の神父が子供への性的犯罪を犯しても、教会はそれをもみ消してきたことの確証が得られたとき、ようやっと掲載にゴーサインが出ます。そして、記事が出た日曜日、スポットライトのオフィスには、多くの電話がかかってきます。それは被害者からの電話でした。ロビーたちが電話の応対をしているところで暗転、エンドクレジット。

実は何年も前に、被害者団体のサヴィアノは神父の幼児虐待の証拠を新聞社に持ち込んでいました。また、教会側の弁護士からも問題神父のリストが持ち込まれていたのです。それを見過ごしていたのは当時のロビーだったと後半でわかって、彼の慎重さが、その時の悔恨からくるものだったとわかってきます。最初にこのネタが持ち込まれた時、実際に記者が取り上げたとしても、どこかでストップがかかっていたかもしれないと思うと、この物語はある意味、奇蹟の巡りあわせによるものだと再認識しちゃいました。だからこそ、記者たちをヒーローのように描くことを意識的に避けてるのかなってのは後から気づきました。

演技陣は個性的な皆さんを揃えているのですが、それぞれが役になりきって、リアルな存在感を見せていて、普段の個性を殺しているところがありました。マイケル・キートンも「バードマン」とは別人の普通の人ですし、レイチェル・マクアダムスやマーク・ラファロといった面々もあくまでドラマのパート以上の存在感を示しませんでした。それはマッカーシーの演出によるものなのでしょうが、その結果、映画としては劇的な事件を描いているのに、味わいは淡々としたものになっています。登場人物がそれぞれのドラマを持っているのは十分伝わってくるのですが、それを劇的に盛り上げるのではなく、起こった事実のエピソードをつなぐという演出なのですよ。そして、ラストでこの記事が元になり、神父の性的犯罪が公になった地名がたくさん登場することで、この記事が起こした出来事の重みを感じさせると言う仕掛けは成功していると言えましょう。

現実の事件のダイジェストのような作りなのですが、そこから、単に教会を糾弾することはしないという姿勢が伺えました。まあ、映画の観客にカソリックもいるでしょうから、そこに気配りはあるんでしょうが、それは記者たちを単にヒーローにしていないという視点もありまして、作り手が事件の関係者に肩入れをするのを避けているのかなという気がしました。そうすることで、どこにでも隠蔽される事実があり、その体質を改善するためには、誰か努力と巡りあわせが必要なのだということを語っているように思いました、というのは考え過ぎかしら。でも、単に、局長、スポットライトチーム、ガラペディアン弁護士がいただけでは、この成果はなかったのですから、そこに神の手が加担したと言えなくないのですよね。

ハワード・ショアの音楽が、ピアノを中心にシンセに小編成の楽器による地味めの音にまとめているのも、映画の静かな味わいに貢献しています。また、最近の映画音楽では珍しい、テーマモチーフのアレンジを展開させて、各所に展開するという、昔ながらの音作りをしているのが印象的でした。
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「さざなみ」を観ると、結婚ってめんどくさいよなあって思うシングルオヤジでした。


今回は新作の「さざなみ」を川崎の川崎チネチッタ1で観てきました。こういうミニシアター向けの作品を、東京まで足を伸ばさなくても、シネコンで観られるのは大変ありがたいことです。そこは地方のシネコンでも同様のようで、シネコンの利点ではあるのですが、それでも上映回数が少なかったり、上映期間が短かったりするのは残念でもあります。この状態を打破するためには、大人向けのいい映画に大人がもっと足を運ぼうよってことなんですが、なかなか難しいみたい。この映画もタイトルや売り方からして、ちょっとハイソな映画マニア向けなんだよなあ。

イギリスの田舎町に住む老夫婦ジェフ(トム・コートネイ)とケイト(シャーロット・ランプリング)は、1週間後に結婚45周年の記念パーティを控えていました。そこへトム宛の1通の手紙がやってきます。その手紙には、ケイトと知り合う前のジェフが仲良くしていたカチャという女性の遺体が氷河の中から発見されたことが書いてありました。1962年に谷に落ちた彼女の遺体が冷凍されたままで氷の中に埋まっているというのです。最初は遺体を確認しに行きたいと言い出すジェフですが、ケイトに止められて一度は断念します。でも、天井裏の物置から彼女の写真を探し出したり、地球温暖化の本を図書館から借りてきて、氷河のことに思いを馳せたり、どうもカチャに心を奪われているように見えます。さらに、カチャの思い出話になったとき、ケイトの「もし、彼女が死んでいなかったら彼女と結婚したか」という質問に「結婚しただろう」と答えてしまうのでした。さらに旅行会社へスイス旅行の相談に行ってるのもわかって、ケイトはジェフが自分に不満があると感じるようになります。そして、結婚45周年の記念パーティの日を迎えるのでした。

デヴィッド・コンスタンティンの短編小説をもとに、「ウィーク・エンド」のアンドリュー・ヘイが脚本を書き、メガホンも取りました。45年間連れ添った夫婦に起こった小さな事件は、二人の間に決定的な溝を作ってしまうのか、それとも二人はそれを乗り越えていくのかを、日常生活の描写の中でスリリングに描いた一品に仕上がっています。結婚して45年、子供はいないけど、二人は仲良く暮らしてきていました。二人とも職をリタイアして平凡な夫婦生活を送ってきたらしいことが伺えます。そんな、ダンナのところに一通の手紙が舞い込んだことから、二人の間にささやかな波風が立ち始めます。端を切ったのは、昔の彼女の遺体発見にジェフがすごく動揺したことでした。禁煙していた筈のタバコを吸い始め、遺体の確認にスイスへ行くと言い出します。ケイトは、近所の散歩もしないダンナに山なんか登れないと言って説得して一度はスイス行きを断念します。

それからの、ジェフの態度に、ケイトは、元カノのカチャの影を感じるようになります。彼女の写真を探し出したり、カチャとの昔のころを語り始めたり、氷河についての本を借りたり、言動行動が全てカチャにつながるようなことばかり。それは、自分に不満があるからではないかしらとケイトは思うようになっていきます。しかし、私のような男目線で見てみれば、自分が昔愛した女性が氷河の中から発見されたということは、すごくロマンチックで、重大な出来事ではあります。今の妻に何の不満がなくたって、その事件に心を奪われてしまうことは容易に理解できます。しかし、ケイトはジェフの思考がカチャへ傾くことは、自分の否定だと思っているようなのですよ。この男目線と女目線の違いがこの映画のキモになっているようでして、最後まで、ジェフとケイトはお互いの感情を理解できないままなのです。そこで間に立つ友人なり子供なりがいたら、二人の関係はそう悪化することもなかったのでしょうけど。自分の思うところを相談する相手のいなかったジェフとケイトは自分だけで自分の感情を処理しようとして深みにはまっていくように見えます。

この映画では、どっちが良くって、どっちが悪いという描き方をしていないのですが、自分と同じ目線に立てる方に肩入れしたくなるような作りになっています。ですから、カップルやご夫婦でご覧になると、ケイトとジェフの諍いがそのまま観客に乗り移る危険があります。だからと言って、同性同士で観て、異性をこきおろせばOKという映画でもないので、なかなか厄介な映画だと言えそうです。アンドリュー・ヘイは、ケイトとジェフの二人を平等に描いているので、どちらにも感情移入できるようになっているところはなかなかの曲者ぶりと言えましょう。そして、理屈ではどういったところで、結局はどう思うか、つまり感情の問題だというふうに描いていますので、結婚経験のない私でもわかりやすい映画になっています。ただ、そう考えたとき、この映画の邦題の「さざなみ」ってのは、男目線からのタイトルだなってのは、ちょっと気になりました。原題直訳の「45年」にした方がフェアなんじゃないかい? とはいえ、45年間も夫婦をやっていたら、この程度の波風ならいくらでもあっただろうにと思うのも、まんざら外れてはいなさそう。じゃあ、よくある夫婦の諍いの一つだと言うには、ちょっと結末が苦いような気もします。このあたりは本編をご覧になって見極めていただきたい映画です。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ケイトはジェフにスイス行きの件を問い詰めます。すると、ジェフはまたカチャの話を始めるので、ケイトはそれを遮って「彼女の名前を言わないで、この家には彼女の匂いがしみ込んでいる」と言い放ちます。その後、ケイトは「あらためてやり直しましょう」とジェフに告げます。そして、結婚45周年の記念パーティの日がやってきました。ジェフはケイトのために朝食を用意したりと気を使っているみたい。彼女に記念のプレゼントも用意していました。そして、パーティはつつがなく進み、ジェフのスピーチになります。これまでの45年を振り返ってケイトに感謝の言葉を述べるジェフは感極まって泣き出してしまいます。それをどこか固い表情で見守るケイト。そして、昔二人で踊った曲がかかり、ジェフとケイトはホールの真ん中で踊ります。そして、踊り終えた時のケイトの表情は固まったままフェイドアウト。エンドクレジット。

ジェフにしてみたら、若い頃の思い出にちょっと浸っただけなのに、ケイトはそれを現在と地続きだと思われたのは心外ではないかというのが、男目線ってところでしょうか。一方、45年間積み上げてきたものが、若い頃一時付き合った女性との思い出に負けちゃってるように感じたケイトに共感される女性もいらっしゃるのではないかしら。どっちかが歩み寄れば事態は改善すると思うのですが、そうはならないところが面白い映画でした。ひょっとしたら、熟年離婚して、ケイトはカチャの呪縛から解き放たれて自由の風を感じるかもしれないと思う一方で、このまま、カチャの影に居心地悪さを感じながらの結婚生活を送るのかなって気がします。一方のジェフは、離婚されたら、その理由を理解できないまま、一生終わるかも、さもなくば、妻の不満に気づかぬまま、のほほんとした日々を送るかも。どっちにしても、八方丸く収まる結末になりそうもないところに作者の悪意を感じると言ったら、考え過ぎかしら。

結婚してから、45年たてば、ジェフにもケイトにも当たり前だと思っていたことが、ある日、ダンナの元カノの話から、当たり前じゃないことに気づいてしまうと、事は厄介なんだなあって、傍観者の視点で眺めてしまいました。それが、結婚してすぐの頃なら、当たり前じゃないことを容易に受け入れることもできるのに、45年積み重なった当たり前がひっくり返ると結婚生活の根底が揺らいじゃったのかなあ。未婚オヤジの見解だから、全然説得力ないですね、はい。

「グランド・フィナーレ」を理解するには、初老の私ではまだまだ若いのかも


今回は新作の「グランド・フィナーレ」を、川崎の109シネマズ川崎5で観てきました。ここは上位シートが鑑賞のグッドポイントをかなりでかく締めているので、振りの客は何だか差別されてる感があります。

スイスの山の中のリゾートホテルには、色々な人が集まっています。その客の一人フレッド(マイケル・ケイン)の元に英国女王の特使がやってきて、彼の作曲した名曲「シンプル・ソング」をフィリップ殿下の誕生日に指揮して欲しいと頼んでいますが、彼はその申し出を個人的な理由だと言って断ってしまいます。フレッドの友人ミック(ハーヴェイ・カイテル)も同じホテルに泊まっていました。映画監督であるミックは自分の最後の作品の脚本を若いスタッフと一緒に執筆中です。フレッドの娘レナ(レイチェル・ワイス)は、父親が無気力になっていることを心配して、マッサージ、サウナ、健康診断などのたくさんのメニューを予約しています。ところが、レナの夫ジュリアンが新しい恋人ができたと言い出したものですから、レナは大ダメージを受けて、同じホテルで傷心の日々を送ることになってしまいます。再び女王の特使がやってきてフレッドを説得するのですが、彼は再度断り、それは、「シンプル・ソング」は妻のエミリーのために書き、彼女しか歌えない、でももう彼女が歌う事ができないので演奏することはできないのだと言い切るのでした。同じホテルに宿泊している映画俳優のジミー(ポール・ダノ)は、当たり役のロボットキャラにイメージが固まってしまうのが不満で、ヒトラーのメイクをしてホテル中を引かせたりしちゃいます。さて、フレッドは女王陛下の前で「シンプル・ソング」を指揮することになるのでしょうか。

「グレート・ビューティ 追憶のローマ」でアカデミー外国語映画賞を受賞したパオロ・ソレンティーノが脚本を書き、
メガホンを取りました。スイスのリゾートホテルに集まった人々のスケッチを交えながら、音楽家であるフレッドの日々を描いていきます。フレッドは色々な曲を書いているのですが、「シンプル・ソング」という曲だけが有名になってしまって他の曲が正当に評価されていないらしいんですって。さらに、娘のレナから、幼い頃から、父は音楽だけにしか興味がなくて、家族を顧みることがなかったって言われちゃうのですよ。そんな人生も、もう終わりを迎えてきているという実感があって、友人の映画監督のミックとの会話は、最近若い頃のことをちっとも思い出せないとか、小便が気持ちよく出たことがないとか、もっぱら老いの確認みたいなのばかりです。この二人は親友らしいのですが、でも、お互いにシリアスな悩み弱みを語ることはなく、いい事だけを話すという距離感が長く続いてきたらしいのです。なるほど、その距離感だと良い関係が長続きしそうだなって結構納得しちゃいました。

音楽家の父親と、その娘の確執といったもの登場するのですが、そこにあまり踏み込みません。レイチェル・ワイスが長回しのアップで父親への想いをぶちまけるシーンはあるのですが、それがドラマの本筋には出てきません。さらに、主人公フレッドの音楽との関わりといったものもあまり見えてこず、あまり主人公にドラマチックな事件が起きないのが、ちょっとした意外性になっています。音楽活動からリタイアした老人のささやかなバケーションと日々という描き方になっているのですよ。マイケル・ケインは年を取っても、聡明で、ユーモアのある音楽家を軽いフットワークで演じていて、そこに老いの哀れのようなものを見せないのが印象的でした。

一方、映画監督のミックは、まだ現役の映画監督だと言うキャラを前面に出してきます。若いスタッフたちと一緒に新作の脚本を練っていて、次作は自分の遺言だなんて言ってます。主演女優は彼が育てた名女優ブレンダ・モレル(ジェーン・フォンダ)と決まっていて、彼女だからこそ、プロダクションが維持できているという状況でもありました。しかし、ミックに関わるエピソードの方には、色々な意味で「老い」や「死」のイメージがつきまといます。ラストシーンで、主人公が死の床でブレンダと話しあう件のセリフがなかなか決まりません。スタッフたちも色々と提案するのですが、その死の瞬間の言葉が決まらないのです。ミックにとって死が身近になったしまったから、死のシーンが書けないとでも言うように見えました。また、後半で登場するジェーン・フォンダも、クローズアップを繰り返すことで徹底的に「老いの残酷」を見せつけてきます。若い頃にはあった才能や才気といったものが老いとともに失われていく様が結構リアルに描かれているのですよ。これに比べたら、フレッドのドラマはのほほんとしたものです。

映画はスイスのリゾートホテルのスケッチをいろいろと盛り込んでありまして、週末の余興で、歌手とか楽団とか芸人たちがパフォーマンスをするを丁寧に見せています。夜間の中庭のステージを囲むようにして、宿泊客たちが、余興を眺める絵はなかなかに神秘的な雰囲気がありまして、そこでされる会話も何か意味深なものを感じさせます。映画俳優のジミーがなかなか自分の当たり役のイメージを脱却できないで悩んでいるというのも印象的なエピソードでした。彼は、演じる時に感じていた恐怖を捨て、自分の欲望に忠実であろうとすることで、自分を取り戻していきます。そこには、当たり役以外の演技も観てくれている人がいるという発見があったからこそと言えます。少女が、彼の当たり役以外の主演作について、彼の前で語るシーンはさりげないエピソードながら、ささやかな感動がありました。

この映画の予告編を観た時は、全体に流れるハイソな香りがちょっとやだなという印象だったのですが、実際に本編を観てみると、そういう金持ち臭さというのはありませんでした。でも、音楽家が主人公というには、音楽へのアプローチはそれほど深いものはなく、人間と音楽の関係に踏み込むものではありませんでした。一方で、親子関係のエピソードもそれほど深入りしておらず、ドラマ性の薄い映画とも言えました。ただ、スケッチ風の物語の中から、原題の「若さ」とは逆の「老い」が垣間見えてきたのは、私が年を取ってきたせいなのかもしれません。そういう意味では、若い方がこの映画をご覧になるとどんな印象を持たれるのか興味があります。



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ミックのところに、主演女優のブレンダが直接会いにやってきます。それは、ミックに自分はその映画に出演しないことを伝えるためでした。彼女には、別のテレビシリーズの仕事が決まっていたのです。さらに、彼女は、最近のミックの作品はクソだと言い切ります。若い頃の才能は枯渇していて、もう何も残っていないのだと。それがわかっているから、あえて出演を断るし、だからこそ直々に伝えに来たのだというブレンダにミックはショックを受けます。彼女の出演がなければ、このプロデューサーは手を引くことはミックにもわかっていました。ミックは、フレッドにこのバケーションが終わったらどうするかと聞きます。「また日常に戻るだけさ」と言うフレッドに、ミックは「そんな日常は自分にはないんだ」と言い、ホテルの窓から身を投げます。そして、フレッドはベネツィアの病院に行き、老女の向かって昔を懐かしんで話をしています。それこそが、彼の妻のエミリーであり病気で廃人状態になっていたのでした。お話は、フィリップ殿下の誕生日パーティのコンサートの日となり、BBC交響楽団と歌手のスミ・ジョーが舞台に上がります。そして、そこにフレッドが現れて、「シンプル・ソング」の演奏を指揮するのでした。

唯一ドラマチックな展開となるのは、ブレンダの登場から、ミックの自殺までの流れでして、ここでドラマに緊張の糸が張られるのですが、その後のエピローグも淡々としたもので、「シンプル・ソング」の演奏もそれ自体のパワーを感じても、ドラマとしての感動を誘うものではありません。ミックの自殺の後、フレッドは主治医から、健康診断の結果を聞くことになります。結果は、どこも悪いところはない健康体だということでした。フレッドが自分自身に感じていた「老い」は年相応の正常なものだったのでした。このことと、そしてミックの死が彼が断わり続けていた「シンプル・ソング」の指揮を引き受けさせることになったようです。無気力症と娘に言われていた彼に何が起こったのかを映画は明確には語りませんが、ジミーが悟った欲望に忠実に生きることとは、何か関係はありそうです。まあ、もともと老いを何となく感じていたフレッドが、自分の未来に対して、改めて欲望を感じる価値があると発見したのではないかしら。もう少し自分が年を取ったら腑に落ちる映画なのかも。

「ボーダーライン」は一見社会派のようでそうでないところが見応えあり


今回は新作の「ボーダーライン」を川崎の川崎チネチッタ11で観てきました。ここは座席の背もたれが高くて、頭すっぽりおさまるタイプなので、前の人の座高を気にしないで楽しめる映画館です。

FBIの誘拐対応で、有能な捜査官だったケイト・メイサー(エミリー・ブラント)は、アリゾナ州での誘拐事件の人質救出のために強行突破で踏み込んだところ、そこには数十体の腐乱死体があり、さらに爆発が発生、ケイトも軽症を負います。その事件は麻薬カルテルが絡んでいることがわかってきます。ケイトは麻薬カルテルを壊滅させる作戦の長である特別捜査官マット(ジョシュ・ブローリン)からの指名を受け、戸惑いながらも作戦に参加することになります。マットと共に作戦に参加するために飛行機に乗るとそこにはアレハンドロ(べネチオ・デル・トロ)という謎めいた男がいて、マットやケイトと一緒に作戦に参加することになります。最初の仕事はメキシコのファレスという町から、重要人物と思しき男を連行すること。重装備した大男たちと一緒に車に乗り込むケイトたち。国境付近で渋滞に巻き込まれた時、武装した男たちの乗り込む車を近くに察知したマットたちの部隊は、機関銃を発砲して武装した連中を皆殺しにしてしまいます。それを見たケイトは違法行為だと非難するのですが、マットには相手にされません。運んだ男は、麻薬カルテルのアメリカでのトップ、ディアズの兄でした。マットたちは、ディアズ側に揺さぶりをかけて、彼らのトップである麻薬王ファウスト・アラルコンの居場所を突き止めようとしていたのです。アレハンドロはかつてメキシコで検察官だったらしいのですが、何か目的があって、マットと同行しているように見えます。一方で、法を無視するようなやり方をするマットに対して、ケイトは反感を持つのですが、果たして、この麻薬カルテルとの戦争に、ケイトたちは勝利を収めることができるのでしょうか。

テイラー・シェリダンの脚本をもとに「灼熱の魂」「複製された男」のドゥニ・ヴィルヌーブがメガホンを取った犯罪アクション映画の一編です。アクション映画というと、何か華やかですかっとする内容かと思われちゃいそうですけど、中身はかなりハードでヘビー。麻薬に蝕まれるアメリカがメキシコで麻薬カルテルを潰そうとするお話を派手な銃撃戦を交えて描いていますが、そこにはヴィルヌーブの映画らしい捻りの効いた展開が待ち受けています。冒頭で、壁の中に隠された惨殺死体をアップで見せる悪趣味演出で、この映画は、普通の展開はしないぞと宣言してきます。その結果、映画には常に緊張感が流れ、登場人物の一挙手一投足に凄みが感じられる映像が展開していきます。

ケイトは、誘拐事件の対応では有能な捜査官ではありましたが、麻薬に関しては初心者でした。そんな彼女を、対麻薬カルテルの作戦に選んだマットには何か意図があるようです。マットに同行するアレハンドロは何を考えているのかがよくわからない男ですが、麻薬カルテルに関する情報を持っているようです。ディアズの兄を護送するシーンはメキシコの制服警官が前後を警備するのですが、マットはメキシコの警官もカルテルに買収されているかもしれないから、信用するなと言い切ります。そんな中で国境近くの渋滞の中で起きた銃撃戦は、一般市民を巻き込みかねない激しいものでした。渋滞の中から銃撃戦へ発展するまでの緊張感あふれる演出が見事で、ロジャー・ディーキンスの撮影もあって、見応えある見せ場になっています。

その後、カルテルにさらに揺さぶりをかけるべく、資金洗浄屋を押さえて、ディアズの口座を凍結させます。これでディアズを逮捕できると言うケイトに、マットは逮捕はしないと言い切ります。不満を抱えたケイトは、バーで知り合った同僚の友人警官テッドとベッドインにまで至るのですが、途中で彼が資金洗浄屋と同じ金を束ねるリボンを持っていたことから、男と格闘になり、逆に殺されかかるところをアレハンドロに助けられるのでした。テッドは、カルテルに買収されていた警官の一人で、捜査状況を知るためにわざとケイトに近づいたのです。もう誰も信じられないケイトは精神的にかなりの打撃を受けてしまいます。しかし、翌日、マットの元に出頭すると、そこでは、国境を人知れず越えられる、秘密のトンネルの襲撃作戦がねられていました。アメリカのディアズがメキシコのアラルコンに呼び出されたことをキャッチしたマットたちは、ディアズを追ってアラルコンの居場所を探ろうとしているのです。そして、ケイトも結末を見届けるべく作戦に参加するのでした。

麻薬に関しては私は知識もないのですが、メキシコのカルテルとコロンビアのカルテルがしのぎを削っているようなのです。そんな中でマットたちは台頭してきたメキシコのカルテルを潰そうとしているようです。アレハンドロは何か理由があって作戦に参加していると思われるのですが、それははっきりと見えてきません。そんな中で、超法規的な作戦を決行するマットには、政府の上部からの権限がついているようです。そんな感じで色々なことがよくわからないままお話が進むのにドラマのテンションを落とさずに引っ張っていくヴィルヌーヴの演出は見事でした。ただ、時々挿入される警官親子の描写がよくわからなくて、一応、クライマックスでその警官が登場するのですが、それでもあれは何だったんだという演出になっていたのが気になってしまいました。

とにかく、人の命の値段が安い無法地帯のお話でして、今、自分の住んでいる場所が平和でよかったと再認識させられる映画です。麻薬が金を産み、その一部が貧しい人に行くことで成り立っている社会。麻薬カルテルが死の恐怖で、人々を黙らせている町。そういう場所が本当にあるらしいということはかなりショッキングでした。麻薬そのものが怖いというより、それを金にする人間が怖いのだということは、なんとなくわかっていたのですが、それを実感させられる映画です。かなりヘビーではありますが、ドラマとして観客をぐいぐいと引っ張っていく、エンタテイメントとしてのパワーも持っています。

ヒロインを演じたエミリー・ブラントは美人さんですけど、映画の主演を張るには華がないという印象を持っているのですが、今回は華のなさが却ってリアルな女性の在り様を表現していて、映画の内容とピタリとはまりました。ベネチオ・デル・トロは最初ミステリアスに登場するのですが、クライマックスはヒロインを差し置いて主役になっちゃうのが面白かったです。ジョシュ・ブローリンもつかみどころのないキャラクターを達者にこなしていて見事でした。あまり存在感がないところがこの役どころではリアルに感じられ、ベネチオ・デル・トロとのコントラストになっているのもうまいと思いました。ヨハン・ヨハンソンの音楽は、低音のパルス音を駆使したシンセ音楽で、タンジェリン・ドリームにジョン・カーペンターを加えたようなサウンドが映画の緊張感を盛り上げました。



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マットたちは砂漠の真ん中へ夜に到着し、そのトンネルに向かいます。マットは「交戦規定は自由射撃」と宣言すると、トンネルの中へ入っていきます。早速、中では銃撃戦となり、ケイトは道に迷ってしまいます。アレハンドロは、トンネルの向こう側の出口に出ます。すると、そこには麻薬を積んだパトカーがいます。彼は、そのパトカーを運転していた警官に銃口を向けます。そこへケイトが飛び出して、アレハンドロを止めようと銃口を向けますが、彼はケイトに発砲。ケイトは防弾チョッキは着ていましたが、ショックで倒れ込むと、アレハンドロは警官にパトカーを運転させて走り去ります。トンネルの入り口に戻ったケイトは、マットから、アレハンドロがかつて麻薬王を追い詰めようとして逆に妻子を惨殺されたことを聞きます。アレハンドロはそのパトカーを使って、大ボスのもとへ向かうディアズの車を止め、警官を射殺、ディアズの足を撃って、ディアズに大ボスの家まで運転させます。そして、ディアズの部下とディアズを射殺すると、家族で食事中の大ボス、アラルコンの前に現れます。子供だけはと命乞いをするアラルコンの目の前で、アレハンドロは彼の妻子を射殺し、その後、アラルコンに向けて引き金を引くのでした。事の真相を知って呆然とするケイトの前に銃を持ったアレハンドロが現れ、この作戦が全て合法的なものであったことを認める書類にサインするように言います。「それはできない」と言うケイトの首に銃口をつけて、さらにサインを強要してきます。泣きながらサインをするケイト。去っていくアレハンドロに向かって、銃口を向けるケイトですが、彼を撃つことはできませんでした。そして、メキシコでは、子供たちがサッカーのゲームをしています。そこに機関銃の音が聞こえてきてゲームは中断。でも、またすぐにゲームは再開されるのでした。おしまい。

ラストで、アレハンドロがアラルコンへの復讐のために、この作戦に参加し、アメリカ側も、それを承知で立てた作戦のようです。マットの正体はCIAでしたが、単独での国外活動が許されていないことから、ケイトを巻き込んだということもわかってきます。ケイトの正義感は、この麻薬戦争の中では、ほとんど相手にされません。そんな状況で、ケイトは全てを公にしようと決意していたのですが、アレハンドロに脅されて書類にサインしてしまいます。そんなケイトの葛藤よりも、アレハンドロの復讐心に重きを置いたクライマックスからラストにかけての展開が、人間のドロドロした部分にフォーカスするヴィルヌーヴらしい演出だなあと感じました。社会悪を告発する映画というよりは、復讐物語に仕上がっているのですよ。そして、復讐物語として、見応えのある映画でした。

「ルーム」は奇妙な味わいから、透明感のあるささやかな感動へ。


今回は新作の「ルーム」を川崎の川崎チネチッタ12で観てきました。ここは大劇場の作りの映画館なんですが、この映画自体はミニシアター向けの感じです。東京では、日劇1で上映してるし、ちょっと不思議な感じです。

部屋で目を覚ましたジャック(ジェイク・トレンブレイ)は、5歳になった今日も、いつものように周囲のものにおはようを言って一日が始まります。彼にとっての世界は、ママのジョイ(ブリー・ラーソン)と暮らす狭い部屋の中が全てでした。テレビの世界は偽物、本物なのは部屋の中にあるものだけ。そして、日曜に差し入れにやってくるオールド・ニック(ショーン・ブリジャーズ)が本物。でも、実は、ジョイは7年前、高校生だったときに、ここに誘拐されて閉じ込められていたのでした。そして、オールド・ニックに犯されて生まれたのがジャックでした。閉じ込められた納屋の中でジョイはジャックをずっと育ててきたのですが、もう限界にきていた彼女は、ジャックだけでもこの部屋から脱出させようと計画を立てます。最初は、ジャックが高熱を出したことにして、病院に連れて行かせようとするのですが失敗。そこで、ジャックが死んだことにして、カーペットに包んだジャックを外へ運び出させることにします。いやがるジャックに死体の演技をさせて、今度は、オールド・ニックにジャックを運び出させることに成功します。途中の一時停止のところで、ママの言いつけどおり車から飛び降りるジャック、オールド・ニックに連れ戻されそうになるのですが、通りがかりの人がそれを見とがめてくれたおかげで、オールド・ニックはジャックを置いて逃走。ジャックは警察に保護されるのでした。

エマ・ドナヒューの原作「部屋」をドナヒュー自身が脚色、「FRANK フランク」のレニー・アブラハムソンがメガホンを取りました。主演の「ショート・ターム」のブリー・ラーソンがアカデミー主演女優賞を獲得しました。異常な設定で始まる映画ではあるのですが、最後には不思議な透明感で包まれるという、言い方は悪いですが、「奇妙な味わい」を持った映画に仕上がっています。子供ネタですし、いくらでも感動的に盛り上げることもできたのでしょうけど、そこをわざと突き放したような客観的な視点で描くことで、異常な状況の登場人物に共感できたのが意外な発見でした。そして、映画全体を包む透明感が、ラストで人間の強さへつながっていくところに静かな感動がありました。

先に書いた粗筋は、映画の前半部分でして、後半は、実家に戻ったジョイとジャックがどうなるかというお話です。こういう非日常的な題材を扱っていながら、ドラマは意外なほど静かに進みます。というより、ジャックの脱出行だけがドラマチックに描かれていまして、それ以外は、ジョイとジャックの日常のスケッチという描き方で、ドラマらしい動きはほとんどありません。前半は、納屋の中でのジョイとジャックの日々の暮らしが丁寧に描かれます。日曜日には生活品を持って、ジョイを抱きに来るオールド・ニック。その時にはジャックはクローゼットで寝て、出てこないようにしているのですがある日、オールド・ニックがベッドで眠り込んでいるとき、ジャックはクローゼットを出て、彼に見とがめられてしまいます。その時、ママは逆上して、彼に襲い掛かるのですが、逆に死ぬほど首を絞められて青息吐息。これが契機となって、ジョイはジャックだけでも、ここから逃がそうと決心して、そのチャンスを狙うようになります。そして、死んだことにしたジャックを脱出させようとすることになるわけですが、ジャックの脱出がオールド・ニックに知られたら自分が殺されるかもしれないという覚悟の上での行動なのが泣かせます。とはいえ、そこをドラマチックに盛り上げることをしないアブラハムソンの演出によって、淡々とその行動のみが描かれていきます。

ジャックが逃げたことを知った後、オールド・ニックは逃走したらしく、ジョイも保護され、二人は無事に再会することができます。それまで、納屋の中とテレビしか知らなかったジャックにとって、新しい世界は全てが脅威のように見えるのですが、そこは子供ならではの柔軟さで周囲を受け入れていきます。むしろ、母親を含めて周囲の人間の方が厄介な現実に立ち向かうのに困難さを抱えてしまうのでした。考えてみれば、自分が子供の頃は、自分の家の中だけだったのが、近所の町内に世界が広がり、そして、バスや電車で移動する世界へと広がっていきましたから、世界が拡大するということでは、ジャックの場合と似たようなところがあります。初めて行くところ、初めて会う人には何も言えなくて、母親の後ろに隠れてしまったのは、ジャックと同じ反応だったように思います。そして、広がった世界に戸惑いながらも、その世界の中の自分を確認していくという作業を積み重ねていくというのも同じではないかしら。

ところが大人の世界は厄介です。ジョイの父親(ウィリアム・H・メイシー)は、誘拐犯に犯されてできたジャックを直視することができません。別居していたジョイの母親は何とか娘と孫を受け入れようとしますが、うつ状態に入ってしまった娘にしてやれることがありません。テレビの取材が来るのですが、「生まれてきたジャックをずっと身近に置いておくような必要があったの?」という不躾な質問をぶつけられて、精神的にダメージ食らってしまいます。そんな厄介な大人の世界に比べると、ジャックは、ジョイの教育のせいもあって異常な環境でも、普通の感性を持った子供に育っていたので、環境の変化に柔軟に対応していくのでした。以前いた部屋が懐かしいと言い出すあたり、ジャックは普通の子に育ってるんだなあって感心しちゃいました。

母親を演じたブリー・ラーソンは「ショート・ターム」の時のように生身の女性をリアルに演じて見事でした。異常な環境で、子供を希望に正気を失わなかった強い女性だけど、元の生活に戻ってきたら、自分の人生に起きた過去に押しつぶされそうになってしまうのを、熱演しています。こういう演技がオスカーを取るというのは、オスカーの選考基準も変わってきているのかも。また、ジャックを演じたジェイコブ・トレンブレイは、演技を感じさせない自然な子供らしさをうまく表現していまして、この年頃のかわいさと小憎らしさを両方見せているのは演出のうまさなんだろうなあ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



せっかく実家に戻ってきたけど、ジョイのうつ状態は改善せず、ついには自殺未遂事件を起こしてしまいます。入院した母親の不在で、ごねるジャックですが、それでも祖母ともいい関係を作り、近所に友達もできます。ある日、退院してきたジョイに、ジャックが昔いた部屋を訪ねたいと言い出します。警察の許可をもらって、監禁された部屋へ入ってみれば、中にあったものはほとんど証拠品として運び去られていました。ジャックは、こんな狭い部屋だったのかと驚きつつ、部屋にあった、椅子や鉢植えに「さよなら」を言い、部屋から出ていきます。ジョイはそんなジャックを見て、自分も声にならない声で部屋に「さよなら」を告げて、ジャックの後を追うのでした。おしまい。

柔軟に立ち直っていくジャックに背中を押されるように、ジョイもまた新しい人生を歩み始めるんだろうなという余韻を残して映画は終わります。異常な発端から、正気の結末に着地するまでを淡々と見せることで、ドラマの見応えというよりは、登場する人間の見応えを感じさせる映画になりました。それは、過酷な状況でも、人間はそれを跳ね返せる強さを普通の人も持っているということではないかしら。この映画が、普遍的な物語として着地していると考えると、この映画の価値がまた見えてくるのかもしれません。

「砂上の法廷」はまっとうな法廷ミステリーで、面白くまとまった小品としてマル。


今回は新作の「砂上の法廷」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ2で観てきました。ここはフラットな劇場なので、もう少しスクリーン位置を高くしてくれないと前にちょっと座高のある人に座られると画面が欠けちゃうんですよね。全席指定で逃げ場がないんだから何とかしてほしいわあ。

大物弁護士ブーン(ジェームズ・ベルーシ)がその息子(ガブリエル・バッソ)に殺されるという事件が起きます。ブーンの友人でもあったラムゼイ(キアヌ・リーブス)が息子の弁護を引き受けることになりますが、彼は警察にもラムゼイにも一切口を開こうとはせず、裁判は進んでいきます。ブーンの隣人たちの証言からブーンの妻(レニー・ゼルヴィガー)が、ブーンから虐待を受けていたらしいこと。また、息子に対しても威圧的な態度を取っていたことがわかってきます。しかし、現場にいた警官は息子が「自分がするべきことだった」と証言していたり、凶器のナイフから彼の指紋が検出され、彼の手が血で汚れていたなどのことから、警察は彼を犯人だと信じ切っているようです。ラムゼイは警察や彼の乗った飛行機のキャビンアテンダダントの証言にウソがあることを見抜きますが、それを証明することはできません。どうやら、息子がブーンを殺したことは間違いない事実だと思ったラムゼイは、その原因が父親であるブーンにあることを証明して、無罪を勝ち取ろうとするのですが、それまで沈黙していた息子が法廷で証言すると言い出して、事態は一変してくるのでした。

法廷ミステリーの一編です。「悪魔を憐れむ歌」のニコラス・カザンが書いた脚本を「フローズン・リバー」のコートニー・ハントがメガホンを取り、謎解きミステリーの中に細かい人物描写を書き込んで、なかなか面白い映画に仕上がっています。物語は冒頭から法廷シーンでして、そこで、少年の弁護士であるラムゼイが少年が一切口をきかないことから、非常に困難な事件を扱っていることがわかってきます。検察側は、この殺人を謀殺であるとして、第一級殺人として有罪だと陪審員に語ります。一方で、少年が何もしゃべらないことから、ラムゼイは冒頭陳述をすることもできません。

そして、検察側の証人が登場して、少年とブーンの間に諍いがあったことを証言し、彼に父親を殺す動機があったことを示唆します。警察は、少年が犯人だと断言する根拠は長年の勘だと言い切り、最初から他の可能性を捜査することもしていないようです。鑑識は、息子が犯人ではないかもしれないという証拠を握りつぶしています。キャビンアテンダントもブーンについて何か隠し事をしているようです。要はみんな「真実のみを証言する」と宣誓しながら、結構ウソついてるらしいのです。でも、映画そのものは観客をだますことはしてなくて、客観的に事実と証言を並べて見せてくれるので、アンフェアな感じにならないところはよくできていると思いました。時々、映画の回想シーンが実はウソでしたなんてのがあるんですが、それはないだろって思いますもの。

それでも、事件の全貌は、法廷でも、観客に対してもはっきりしたものが見えてきません。でも、可能性として見えてくるのは、息子が母親をかばっているのではないかということ。画面に登場する回想シーンでもそれを示唆するような編集になっています。そこでは、息子が母親に「自分がやった」と言い切っています。でも、それって???

コートニー・ハントの演出は、裁判に隠されたウソを暴きながら、誰が何を隠しているのかをわからないドラマに仕立てあげることにしています。そして、隠された真実が最後まで続く展開は面白いと思いました。ミステリーとしてだけ観るのであれば、2時間ドラマのスケールの小品とも呼べる作品なのですが、真実の行方がどこかひねくれているので、よく考えてみると一筋縄ではいかないぞと気付かされます。ただ一点残ってしまった矛盾が残念ではあったのですが、そういう意味では、よくできた法廷ドラマということになるのかしら。

演技陣では、有能なのか無能なのかよくわからない弁護士をキアヌ・リーブスが好演しています。レニー・ゼルヴィガーは色っぽい人妻を好演してますが、童顔だった彼女も年とったねえという印象で、この先、また違うキャラを演じられそう。その他の演技陣では、そもそもの発端を演じたジェームズ・ベルーシがふてぶてしい悪役を怪演しました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



裁判で、息子は、父親から性的虐待を受けていたと証言します。それは、警察には言わずに裁判まで黙っていたことでした。法律にくわしく、弁護士志望だった彼は、下手に警察で証言するとそれが隠滅されてしまうことを恐れたらしいのです。そこで、裁判は、謀殺という線からはずれていきます。ブーンは妻を虐待していただけでなく、息子まで性的虐待をしていたのだとわかってきたからです。そして、息子の殺人の動機を裏付けていたキャビンアテンダントの証言にも信ぴょう性がないことがわかってくると、形勢は逆転。最終的に無罪を勝ち取ることに成功するのでした。しかし、無罪になった息子はラムゼイに言います、「お前の時計が現場に落ちていた」と。実は、ラムゼイとブーンの妻は不倫関係にあり、虐待される妻を見かねたラムゼイがブーンを殺したのです。裁判所の椅子で頭を抱えるラムゼイの絵から暗転、エンドクレジット。

結局、犯人はラムゼイだったのですが、息子はそれを知っていたとすると、裁判での行動が不可解なことになります。彼が母親をかばった行動なら納得がいくのですが。息子がラムゼイの時計に気づいたのは裁判の後半だったからというのであれば、一応は筋は通るのですが、そこが気になってしまいました。そこが辻褄があうと、母親をかばった息子の一方で、母親は息子が殺したと思っているという結末になり、お話の落としどころを観客にゆだねるところが面白いと思いました。人はみんなウソをついているという前提に立てば、息子がブーンに性的虐待を受けていたかどうかも怪しいのですが、そのあたりをはっきりさせないで、全てがウソを含んでいる可能性のままの決着になるのは、なかなかリアルなものがあります。誰もが少しずつウソをついている、そして、それまでずっと裁判の行方を見ていたラムゼイの助手(ググ・バサ・ロー)が、裁判での関係者のウソを見抜き、最終的にラムゼイに不審の目を向け始めるところにドラマの余韻が出ました。真実はまだ落としどころを見つけていないという見せ方でドラマにささやかな奥行が出たと言う感じでしょうか。

殺人事件の犯人が、当の弁護士だったというのは、なかなかミステリーとしては意外性がありましたが、単に意外性に頼らない作りになっているのが好感が持てて、作り手のうまさを感じました。小品と言える出来栄えではあるのですが、一本の娯楽映画として楽しめました。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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