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「マクベス」の映画版って、心中ものの味わいがあるのが意外、何か原作と違う。


今回は新作の「マクベス」をTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。昔から傾斜十分の観やすい映画館として有名なのですが、最近のシネコン仕様と考えたらこの観やすさってもう当たり前なんですよね。逆にシャンテ2,3のフラットな作りでは、今では観にくい映画館ということになります。できた当時は、シャンテ2なんて観やすい劇場とか言われていたのですが、今はもうそう言われることはないでしょう。シネコンの観やすさの基準はどんどん上がっているように思います。

スコットランドのダンカン王(デビッド・シューリス)は反乱軍を相手に苦戦していましたが、勇猛果敢なグラミスの領主マクベス(マイケル・ファズベンダー)たちの働きで、反乱軍を鎮圧します。荒野を行くマクベスと親友バンクォー(パディ・コンシダイン)の前に4人の魔女が現れ、マクベスはコーダーの領主となり将来は王になる、バンクォーはその子孫が王となると告げます。そして、ダンカン王はマクベスにその働きにより、コーダーの地を与えます。魔女たちの言葉が本当なら、自分には王の座が待っているのかと戸惑いながらも喜ぶマクベス。しかし、マクベスの妻(マリオン・コティヤール)はダンカン王を暗殺し、王の座を奪うのだとマクベスをたきつけます。その言葉に従い忠誠を誓っていたダンカン王を自ら手にかけるマクベス。彼は、王殺害の罪を王の付き人2人になすりつけ、彼らに反論の隙を与えずに殺してしまいます。ダンカン王の息子マルコムはマクベスの企みを知り、自らの身の危険を感じてイングランドへと逃げます。こうして、マクベスは王の座につきます。さらに、バンクォーの子供に王の座を奪われることを恐れたマクベスは、バンクォー親子を殺し屋に襲わせます。バンクォーは死にますが息子は何とか生き延びます。再び魔女に出会ったマクベスは、マクダフ(ショーン・ハリス)に注意しろと告げられます。マクベスはイングランドへ逃げたマクダフの代わりに彼の妻子を火あぶりにして殺してしまいます。それを聞いて打ちひしがれるマクベス夫人。そして、彼女は息を引き取ってしまうのでした。イングランドの援助を得て兵を興したマルコムやマクダフに対して、マクベスの軍は有象無象の集まりでしかありません。そして、マクベスにマクダフの復讐の剣が迫るのでした。

シェイクスピアの作品はどれも有名ですが、彼の四大悲劇の一つとして知られるマクベスを、ジェイコブ・カーショフ、マイケル・レズリー、トッド・ルイーソの3人が脚色し、オーストラリアで舞台デザイナーでも知られるジャスティン・カーゼルがメガホンを取りました。原作の戯曲にあったコミカルな味わいの部分を全てカットし、荒涼とした自然をバックに血生臭いドラマを独特な世界観で展開しました。原作とはかなり印象の異なる作品になっています。オープニングは、マクベスと夫人が幼い我が子を火葬するシーンで始まります。この子供を失ったことが、全ての発端であるかのような見せ方になっているのは、原作にない趣向でして、この後も子供が印象的なシーンがいくつか登場してきまして、ここにドラマのカギがあるような見せ方になっています。

私には、この時代の王とか領主、兵士のメンタリティはまるで知識がないので、現代人の私の目を通したマクベスという視点で、話を進めさせていただきます。ですから、今風解釈になっちゃうのはご容赦のほどを。さて、マクベスというのは、勇猛果敢な戦士であり、王に対する忠誠を誓ってもいました。それが、荒野で4人の魔女に「あんた王になるよ」と言われて、それを妻に伝えたら、「あんた、王を殺して自分がなっちゃいなさい」とけしかけられ、後ろめたさも抱えたまま、犯行に及んでしまいます。当時のスコットランドでは、下剋上は当たり前の生き馬の目を抜く状態だったのかなあという気もするのですが、そういうことをするのに奥さんの「あんた男でしょ」という後押しがあったからこそのマクベスの裏切り行為なのです。奥さんは自分は悪だよって開き直って、ダンナに暗殺をけしかけるのですが、それは、ダンナを王にしてあげたいという、山内一豊の妻的ないじらしさとは思えません。むしろ、自爆行為のように見えてくるのですよ。そうやって王を殺してハッピーという人間はこの映画には登場しません。奥さんだって、「これであたしも女王なのだわ、おーほっほっほ」とかいうタイプじゃないので、何だかみんな不幸そう。原作で唯一ハッピーオーラを出していた魔女のみなさんでさえ、妙なおすまし顔というか、悲劇的な雰囲気を作っちゃっています。

何で、こんな悲しみと絶望に満ちた下剋上なのか、どうもよくわからないのですが、マクベス夫妻は、子供を失ったことで、人生の楽しみとかなくしちゃってるように見えます。「もうね、あたしたちにはどう転んでも不幸のズンドコしかないんだわ、ふふん」「王になる?それはうれしいかも。でも、死んだ息子は帰ってこないんだけど。」こういう不幸でのたうつ夫婦って、どこかで観たことあるなあと思ったら、マイケル・ウィンターボトム監督の「日陰のふたり」を思い出しました。こっちも子供絡みでとんでもない不幸に嘆きのたうつ夫婦が登場するのですが、その位、マクベス夫妻も不幸な状態からお話が始まったようなのですよ。ですから、魔女の予言にそそのかされたのは、ほんのきっかけで、後はどうにでもなれ的なやけっぱち行動のお話なのではないかしら。そしたら、想像以上にダンナが暴走しちゃったものだから、奥さんも「ここまで極悪非道やったら、死んだ息子に顔向けできない地獄行きだわ。」と憤死しちゃったという解釈もありかなって気がします。原作だと、忠臣であり、優れた武人であったらしいマクベスですが、この映画だと、何だかヤケクソの毒食らわば皿までみたいなところがあります。時々、我に返って「ああ、俺って罪深いじゃん」と後悔するものの、王という行き着くところまで行き着いちゃったから、後は坂を転がっていくしかないって、開き直っているようなところがあります。

これは、原作にあった「森が動かなきゃマクベスは大丈夫。マクベスは女の腹から生まれた者には殺せない」という魔女の予言の扱いが小さくなっているせいもあります。原作だと、マクベスはこの予言を頼りに自分の命を長らえようとしている節があるのですが、映画では、最初から「どうせ行き着く先は地獄だ」という諦観が感じられるのですよ。周囲にすごい迷惑をかけまくるマクベス夫妻の心中物語みたいな味わいがしてきます。マクベスや奥さんがもっと悪に徹してくれれば、魔女の高笑いで映画も終われたのでしょうが、これでは、関係者全員不幸で、魔女も何だか意気上がらない結末になってしまいました。

じゃあ、不幸なマクベスを暴走させる発端となる4人の魔女の正体とは何なのでしょうか。マクベスが元から、ダンカン王を殺そうとしていたとは思えません。魔女の言葉を真に受けたとしても、そのうち、食あたりか何かで王が死んで、その後釜に座れるのかなくらいに鷹揚に構えることもできたでしょう。ところが、奥さんは魔女の言葉に敏感に反応してしまいます。奥さんは子供の死に囚われていて、死に対する感度が高かったのかもしれません。或いは夫と自分の破滅を早めようとしたのではないかしら。してみると、魔女は、死の予言者、死神ということもできましょう。マクベスとバンクォーの死を伝えにやってきた死神だとしたら、神妙な顔で、不吉な予言をしていたということになって、腑に落ちるところがあります。

ラストで、バンクォーの子供が死んだマクベスの剣を取って走り去っていくのですが、これは、死神の呪縛にかかっていない子供だけど、マクベスやバンクォーのような生き方をなぞって、そのうち死神の言葉を聞くことになるんだろうなあって解釈しました。原作を読んだときは、あまり自分の想像力の働く余地がなかったのですが、映画を観るとかなり自由な解釈ができるお話になっているのは、意外でした。それは、原作のセリフで説明している部分を極力カットして、イメージ風画像を積み重ねた演出のせいではないかと思っています。原作とはかなり違う味わいの映画ですが、これはこれで面白いと思いました。特に、コミカルなセリフをカットして、荒涼とした風景をぐんと増やして、殺伐とした空気感を出しているのは面白いと思いました。ちょっときどった感じの映像とか音楽によって、アートっぽい心中物語に仕上がっているという印象になりました。

というわけで、舞台の「マクベス」を一度も観たことない人間が、多少色をつけた映画版を見ると、こんな感想になっちゃいます。きっと大外れなんだろうけど、冒頭の子供の死が全ての発端に思えるようなドラマづくりに見えちゃったのですよ。一方、演技陣は、アートな演出の駒という感じで、私には、あんまり印象に残りませんでした。原作より存在感の増したマクベス夫人を演じたマリオン・コティヤールが思わせぶりな演技を見せたことで、心中のイメージが余計目に強まっちゃったように思いました。
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「神様メール」の神様は人間みたいに「人の不幸は蜜の味」。どっちがどっちに似たのやら。


今回は新作の「神様メール」をTOHOシネマズ新宿11で観てきました。このシネコンは初めてなのですが、人が多くて、ロビーとか通路の閉塞感が強かったです。川崎だとこういうことはないのですが、人の集まるシネコンでは致し方ないのかなあ。そのうちには、この人混みに慣れていくのかな。

神様(ブノワ・ポールヴールド)は現代のブリュッセルに住んでいて、人を不幸にすることばかり考えては、パソコンに打ち込んで、それがうまくいくとウヒウヒ喜んじゃう変なオヤジでした。それでも、一応、家庭を持っていて、奥さん(ヨランド・モロー)と娘エア(ピリ・グロワーヌ)が、出入り口のないアパートの一室で奥さんや娘を威圧するDVオヤジとして君臨していたのです。エアは神様の仕事部屋のパソコンを見つけて、そのやってることの下司さを知ってうんざり。父親への反抗心もあって、世界中の人に余命をメールしちゃいます。これで世界は大混乱というか、みんな諦観入っちゃって、人類はある意味進歩しちゃいました。神様としては自分の威厳の一部が失われてしまってわけで、怒り心頭。下界へ使徒を探しにでかけたエアを追って、神様も下界へ降りるのですが。

トマ・グンズィグと「トト・ザ・ヒーロー」「八日目」のジャコ・ヴァン・ドルマルが書いた脚本を、ドルマルがメガホンを取りました。神様がブリュッセルに住んでいて、DVなとんでもないオヤジだったという設定がまず面白いと思いました。創世記も、神様はまずブリュッセルを作ったんですって。色々な動物を作ったんだけど、街を動かすには適当じゃなくて、結局自分に似せた人間を作ったという話が出てきて、パロディというよりは、ブラックな寓話という味わいになっています。エアはすなわち神の子ですから、当然お兄さんのイエス・キリストも登場し、神様の部屋には、最後の晩餐の絵があって、エアが使徒を増やしていくと、そこに新しい使徒が描き込まれていくという趣向があります。

神様の部屋にあったファイルを適当に6部選んだエアは、下界に降りて、彼らに会いに行き、それぞれの物語を記して、新・新約聖書を作ろうとします。下界で最初に出会ったホームレスの老人に書記を頼んで、エアは6人の使徒の福音を記録していきます。片腕が義手の美人さん、冒険家になりたかった男、自称性的妄想者の男、余命を知って殺し屋になった男、夫との関係も冷めた寂しい主婦、女の子になりたかった病気気味の男の子、6人の使徒は、自分の余命を知って、それぞれの残りに人生をどう生きるかを見直します。その結果、冒険家になりたかった男は公園の小鳥に導かれて北極圏まで行きます。美人さんと殺し屋は、エアの仕掛けた運命的出会いの結果、愛し合うようになります。性的妄想の男は、その妄想の発端となった女性と再会しお互いの愛情を確認します。愛情を失っていた主婦は動物園のゴリラとの間に愛情関係を築くことになります。余命を知った人間はあらためて自分の人生を見直して、自分で人生の選択をすることになります。もう神様のお世話にならなくてもよくなっていくのです。

この映画の面白いのは、神様が人間の不幸を喜ぶ、どこにでもよくいそうなおっさんだということ。ただ、神様として、世界のルールを作れるものですから、人を不幸にすることが本当にできちゃうから厄介。全ての不幸の種は神様がやってましたという視点は意外といいところを突いてると思います。そして、その結果、神様は部屋に引きこもってテレビを見ながら他人の不幸だけを楽しんでいて、他の楽しみを持たないクズ男として描かれることになります。なるほどなあ、自分の幸せなんて感じることも興味もなくって、他人の不幸だけをほくそ笑む人間って、このご時世だと結構いそうな気がします。うーむ、ネット引きこもりは神様だらけじゃないか。そんな父親に育てられたにもかかわらず、エアは全うに他人の幸せを喜べる子供に育っていました。また、神の子はキリストみたいに奇跡を起こすことができるんですが、神様本体にはそういう特殊能力は備わっていないようなのです。ですから、仕事部屋から1歩外に出ると、神様のゴタクを並べる普通のオヤジになっちゃうのですよ。神様は本当は人間なんか全然愛していないのが事実で、神の子がそれをフォローする意味で「神の愛」なんて言葉を記録に残したってのがおかしかったです。この映画における何でもできる神様だけど、外へ出れば何もできない神様ってのは、信仰の核となる神の存在について、結構いいところを突いてると思いました。神様があがめられたリするのは、預言者といったスポークスマンが一生懸命言葉を補って、神様をよいしょしていたからだったというのは、なるほど、そういうものかもなあって納得しちゃいました。だから、本当の神様がこんな根性の悪い、自己チューなオヤジであることも、すんなり入ってきました。もっと、信仰に篤い向こうの人々がこの映画を観たら、この神様をどう解釈するのか、興味あるところです。

また、もう一つ発見したのは、余命を知られてしまうと神の存在感が半減してしまうということ。エアが全ての人間に余命を知らせたことで、それぞれが距離を置いて拝んでいた神様を、自分の中に取り込んで相対化しちゃうらしいのです。そして、神様を信じることよりも、残された人生をどう生きるかを自分で決断することになるようなのですよ。そこには、神様とのお約束とか神様のご指示とかはどうでもいいみたいなところがあるようで、神との契約の呪縛から逃れて、本当に自分のしたかったことと向き合うようになるみたいです。まあ、いわゆる原理主義者にとっては困ったことになるのかもしれませんが、そういう人たちは、余命を知っても、日々の生活や信条を変えないで、残りの日々を過ごしていくのでしょうね。この映画で出てくる6人の使徒のうち、美人さん以外は、自分の余命を知って、生き方を変えるという選択をすることになり、美人さんも最終的には新しい相手(殺し屋)と恋に落ちることになります。

ドルマルの演出は聖書を笑いの種にしつつ、不幸の種をばらまく神様と、幸せと愛を創造する人間という図式で、人間の可能性を描いているように見えます。一方で、神様の奥さんは野球好きなだけで、DV夫に何も言えない自堕落な主婦のように見えるのですが、後半、彼女が意外な活躍を見せます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



エアは出会った使徒たちの記録をとって、新・新約聖書の作成を続けます。そんな彼女を追ってきた神様は結局わけのわからないことを言う暴漢として、ウズベキスタンへ送還されちゃうことになります。6人の使徒に出会ったエアは、一番死に近いウィリーの最期を見届けようと、他の使徒たちと一緒に彼の望む海辺へと向かいます。海岸は同じように、そこで死を迎えたい人と送る人とでごった返しています。そこへ一機の旅客機が墜落してくるではありませんか。一方、神様の家では、奥さんが一人で掃除をしています。掃除機の電源を取るためにパソコンの電源を抜いたものですから、パソコンがリセットされてしまい、奥さん=女神が入力できるようになっちゃいます。そこで、のほほんと自分の好きなように世界を作り替えちゃう女神さま。飛行機の墜落は回避され、余命の制限もどっかへ行ってしまい、みんなめでたしめでたしとなって、新しい神様による新しい未来が始まるのでした。

前半でぼーっとしていたおばさんが、最後に神様に取って代わる女神になっちゃうのはおかしいと言えばおかしいのですが、それは神様なんて、誰でもなれるってことにも通じると思うと、結構ブラックな笑いを運んできます。それがメインのお話ではなくて、神の子であるエアが色々な人間を使徒にしていく過程でのちょっとシュールなコメディがメインなんですが、私には、この神様の誰でもなれちゃう感の方が印象に残ってしまいました。神様はいい加減で気まぐれ、人間側の預言者がそこをうまくフォローしているから、神様はその威厳を保っているに過ぎないってのは、信仰の歴史をうまく絵解きしているように思います。この映画の神様は、最後はウズベキスタンに送られて工場で洗濯機を作る羽目になっちゃうのですが、まあ人の不幸を喜ぶろくでなしの神様に天罰が下ったのかなと思うと、世界ってのは意外とうまくできてるような気がしてきます。また、神は人間を自分に似せて作ったと言いますが、他人の不幸を喜んで、人のいやがることをする神様に似ちゃったんじゃしょうがないよなあというお話でもあります。そして、人間世界は神様に似てない人間の愛と善意で支えられていることに気づくと、神様より拝む対象は他にあるよねって気づかせられます。

使徒の物語はどれもつかみどころのないもので、聖書のパロディが入っているのかなという気もしたのですが、悲しいかな私聖書読んでないものですから、その部分の面白さ(あったのか?)は理解できませんでした。エアが、使徒たちの胸に耳をあてると音楽が聞こえてくるという趣向は楽しかったのですが、それが思いつきの趣向以上の発展を見せてくれなかったのは残念でした。全体的な印象も、思いついた面白そうなことをとりあえず並べてみましたという作りなので、浅いなあって感じでした。そんな中で、神様ってホントは根性の悪いろくでなしなんだよってところだけ、私にはヒットしたようです。私は無神論者ではないのですが、神様は人間のことを全然気にかけてない、気まぐれで道理の通らない相手だと思っているので、こういう映画を観ると、ああ自分と似たようなこと考えてる人もいるんだなって発見があって、そこは面白かったです。傑作ではないし、感動もほのぼのも、そこそこの小品なのですが、どこか気にかかるところを見つければ、結構はまれる映画なのかも。

やっと今年のアカデミー賞にちょっとだけコメント

大体、公開している映画を一通りみたかなってところで、遅まきながら、今年のアカデミー賞のコメントさせていただきたいと思います。まるっきり時期外れではあるんですが、旬の時期はほとんどの作品を未見なので何も言えなくて。

脚色賞 「マネー・ショート 華麗なる大逆転」チャールズ・ランドルフ 、 アダム・マッケイ
これは、映画を観たら納得でした。映画ならではのわかりやすさをプラスすることで、表層的ながらも、観客は一連の事件のことをわかった気分になっちゃう。半分、騙されたような気分になりながらも、わかりやすい説明は心地よいですから、これは娯楽映画としての満足度が高いということになります。そんな中で、きちんと伝えたいメッセージを持った映画ですから、ハリウッドの一番得意とする分野のいいサンプルということになりそうです。

脚本賞 「スポットライト 世紀のスクープ」 ジョシュ・シンガー 、 トム・マッカーシー
重いテーマやメッセージを持ちつつ、娯楽映画としても面白い映画を作っちゃうというのは、ハリウッドのお家芸であり、それはハリウッドの良心とも言われます。そのツボにはまる映画が「スポットライト」と言えましょう。娯楽映画としては、まじめすぎるところもあって、最高の作品なのかというとそうとも思えないところがあります。他の候補「ブリッジ・オブ・スパイ」の方が映画としては面白いものに仕上がっていますが、ハリウッドの良心に重きを置いた受賞ということになるのかしら。同じく候補作である「エクス・マギナ」が早く近所の映画館で公開されないかなあ。

作曲賞 「ヘイトフル・エイト」 エンニオ・モリコーネ
これは、受賞作だけ観てないんですが、やっぱりモリコーネはこれまでの功績賞ってことなんでしょうね、きっと。「天国の日々」や「ミッション」が受賞してないことを考えると、「ヘイトフル・エイト」で受賞ってのはファンからすると微妙な気がしますもの。他の候補作は、どれも映画の中で、きちんとドラマを盛り上げる縁の下の力持ち的なポジションをきちんとこなした作品でした。その中では、アンビエント音楽で、候補になった「ボーダー・ライン」のヨハン・ヨハンソンは注目しておいてよいと思います。他の候補者、トマス・ニューマン、カーター・バーウェル、ジョン・ウィリアムスは、今回の仕事でオスカーを受賞してもおかしくない内容でしたけど、ヨハンソンはどう転んでも受賞はしそうもない音楽です。(私のサントラ記事参照)こういう音楽がオスカー候補になるってことは、アカデミー作曲賞の間口もだいぶ広くなったんだなあって思いますです。個人的にヨハンソンの音楽が好きなので、こういう形で、彼が映画音楽作曲家として注目されることはうれしく思います。


助演女優賞  「リリーのすべて」 アリシア・ビカンター
「リリーのすべて」を観ていないので、実はコメントできないんですが、他の候補になっている「キャロル」のルーニー・マーラ、「スポットライト」のレイチェル・マクアダムス、「スティーブ・ジョブス」のケイト・ウィンスレットがみな素晴らしかったので、それらを押さえたビカンターはすごかったんだろうなあ。個人的には、自分が好きってこともあるんですが、助演女優という意味では、「スティーブ・ジョブズ」のケイト・ウィンスレットがピカイチだったと思っています。明らかに主人公の脇のポジションで、それ以上の動きはしないのに、その人の人生や奥行を感じさせたところが見事でした。主演俳優にとっては、手強い競争者であり、作り手にすれば、ドラマに奥行を与えてくれる人として、ウィンスレットってすごいよなあって、出る映画を観る度に実感します。レイチェル・マクアダムスは、脇役のポジションを手堅い演技で、安心して見られる女優さんになってきてこれも感心。ルーニー・マーラはほとんど主演女優なんですが、役に恵まれたということもあって、女優の力がついてくるのはこれからだろうなという印象でした。作品賞候補から、他に助演女優賞候補を探してみると、「ルーム」のジョアン・アレン、「マッド・マックス」のシャーリズ・セロン、「マネー・ショート」のマリサ・トメイなんてのもエントリーされてほしいところでした。

助演男優賞 「ブリッジ・オブ・スパイ」マーク・ライランス
候補者の顔ぶれを見ると、激戦区だったんだなあって思うのがこの助演男優賞です。マーク・ラファロ、クリスチャン・ベールなどは群像劇での主役みたいなものですから、むしろ助演男優賞という括りで損をしていると思いますね。シルベスタ・スタローンの演じた役どころも助演という括りには収まりきらないものでした。助演男優という括りに一番はまっていていたのが、トム・ハーディとマーク・ライアンスで、儲け役だったのが、ライアンスだったのではないかしら。私の感覚でもこの中から一人を選ぶというのはすごく難しいと思いましたもの。ただ、主演者を引き立てるという意味での助演者というのであれば、その演じた役どころのポジションからして、トム・ハーディが一番頑張っていたのかなって気もします。

主演女優賞 「ルーム」 ブリー・ラーソン
「ブルックリン」と「JOY」が未見なので、コメントしにくいところもあるのですが、「ショート・ターム」で印象的だったブリー・ラーソンがオスカー受賞というのは、うれしい意外性でした。「ショート・ターム」を知ってないとぽっと出のネエちゃんと思われそうですが、それなりの実績の上に成り立った賞なんだというのは、声を大にして言いたいですね。とは言え、これは演じた役どころが珍しかったというのもあると思います。そういう意味では、「さざなみ」のシャーロット・ランプリングとか「キャロル」のケイト・ブランシェットなんて、今回の役は定番感がありますから、賞をもらうには不利だったのではないかしら。「ブルックリン」がもうすぐ公開されそうなので、そちらに期待です。

主演男優賞 「レヴェナント 蘇えりし者」レオナルド・ディカプリオ
これも2本が未見なので、コメントしづらいところなんですが、ディカプリオの受賞は、この1本だけの受賞というよりは、これまでのノミネート→落選の数も勘定に入れた受賞なのではないかしら。スターが体を張ってこれだけの演技をしたんだよってところが、評価されてるってところもあるんでしょう。後、アカデミー協会が好きなイニャリトウの映画だというのも無視できないと思います。演技という点で言うなら、「スティーブ・ジョブズ」のマイケル・ファズベンダーの偉人だけどリアルやな奴ぶりの方が個人的には点数高いです。「トランボ」や「リリーのすべて」は映画館へ足を運ぶほどの魅力を感じなかったので、この先も観ることはなさそうです。

監督賞 「レヴェナント 蘇えりし者」アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
他の候補から比べると、イニャリトゥが頭一つ出ている感はします。「バードマン」のうさん臭さを殺して、さらに最新の視覚効果による見世物としての面白さを加えた作品として、この映画は、見事にイニャリトゥ監督の映画になっていると思いますもの。それに続く監督としては、小難しいネタをわかりやすく絵解きした「マネーショート」のアダム・マッケイと、最後までテンション落とさずに突っ走った「マッドマックス」のジョージ・ミラーが続くと思います。一方、あれだけ面白い映画を作った「ブリッジ・オブ・スパイ」のスティーブン・スピルバーグが候補に入っていないのは不満ですね。この5人の候補に負けてるとは絶対思えませんもの。

作品賞  「スポットライト」
この映画が監督賞を取らずに作品賞を取ったというのは、アカデミー協会の意図するところがよくわかる裁量だったように思います。個人的感想をぶっちゃけて言わせていただきますと「スポットライト」の演出は手堅いけど、それ以上のプラスアルファがなかったように思います。中盤で、子供にいたずらしたことあると言う神父のシーンを除けば、一切の毒気を抜いてあるって感じでしたもの。でも、アメリカの信仰の基本であるキリスト教(厳密にはカソリックになるのですが)を敵に回しかねない題材を扱って、最終的にカソリックの顔を潰さずに、社会性があって、リベラルも喜ぶ映画を作ったってことが偉いという受賞だと思っています。そういう意味では、この映画の功績をプロデューサーが受賞するというのはまことに的を射た采配だと思います。でも、それと映画としての評価はまた別のものではないかなとも思うわけでして、映画というのは、その出来上がったものだけを観て判断するものじゃないときもあるという、いいサンプルだったように思います。映画のパワーで勝負するなら、「レヴェナント」の方が上のような気がしますもの。ですから、アカデミー協会も、昨年「バードマン」に作品賞くれちゃったことを後悔したんじゃないかなあ。(これは、下衆な勘ぐりですけど)

その他の受賞
外国語映画賞の「サウルの息子」は、ユダヤ人強制収容所を扱った映画で、こういうアプローチがあったのかというところがすごく新鮮で、他の候補作は未見でも、どこかで賞を取るに値する映画だと思いました。また、撮影賞を受賞した「レヴェナント」のエマニュエル・ルベツキは、視覚効果をこれでもかと使いながら、最終的に映像をコントロールしたところを評価されての受賞ではないかと勝手に勘ぐっています。何しろ、視覚効果に、色調補正、フレーム修正まで可能な今の映画撮影では、撮影監督が映像の全てをコントロールすることが難しくなっています。そんな中で、最新視覚効果をこれでもかとぶちこみながら、監督と共同で映像の隅々までコントロールしたことは、すごいことなんではないかしら。

また、技術部門で、美術賞、編集賞、メイクアップ賞、録音賞、音響編集賞、衣装デザイン賞を「マッドマックス 怒りのデスロード」がほぼ独占状態というのがびっくりでした。そもそも、この映画がアカデミー賞でこれだけノミネートされるってこともびっくりでしたし、受賞もしちゃうってのがまたすごい。へえ、この映画がアカデミー協会で評価高いのかあって、びっくりと同時におかしくもありました。元をたどればオーストラリア映画の世界進出の起爆剤になったバイオレンスアクションで、それを40年近くたって、オリジナルの監督がリメイクした映画なんですからねえ。でもって、中身は「マッドマックス2」のスケールアップ版だったというのですから、まさかハリウッドで評価されるとは思わないですよ。それでも、いいところを全部ほめたら、6部門も受賞しちゃったというのはあらためてすごいことだと感心。

「レヴェナント 蘇えりし者」は見世物とサバイバルの2本立てで見応えあり。


久しぶりの映画館ということで、遅ればせながら「レヴェナント 蘇えりし者」を川崎のTOHOシネマズ川崎5で観てきました。このシネコンで最大500席を要する大劇場の作りですが、このキャパの映画館であるなら、スクリーンはもう少し大きい方がいいのかな。

19世紀のアメリカ、ヘンリー(ドーナル・グリーソン)率いる毛皮ハンターたちは、ヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)親子を案内人に、獲物を確保しつつあったとき、先住民アリカラ族の襲撃を受け、多くの仲間を失います。命からがら船で逃げだしたもののミズーリ川はアリカラ族の支配下にあることから、ヒューの提案で陸路を取って砦に向かうことになります。それが気に入らないジョン(トム・ハーディ)はヒュー親子に絡むのですが、ヘンリーにいさめられます。そんなヒューがグリズリーに襲われ重傷を負います。担架で運んでいたのですが、山岳地帯に入るところで、もう運べないとなって、ヒューの息子ホークとジム(ウィル・ポールター)とジョンが残って、ヒューを看取ることとなります。しかし、アリカラ族がいつ襲ってくるかもわからない地帯で、ジョンはヒューを殺して一行を追おうとしますが、そこをホークに見とがめられ、逆に息子を殺してしまいます。そして、ジムを言いくるめて、瀕死のヒューを置き去りにして一行を追うジョン。しかし、ヒューは死にませんでした、瀕死の体を引きずって、ジョンたちを追います。そして、その跡を追っていくアリカラ族。彼らは、誘拐された娘を探していたのでした。ヒューは驚くべき精神力で、大自然と闘い、そして生き延びていくのでした。

「モーテル」「アパートメント」などホラーで実績のあるマーク・L・スミスと「21グラム」「バベル」「バードマン」のアレハンドロ・G・イニャリトウが、マイケル・パンクの原作を脚色し、イニャリトウがメガホンを取りました。レオナルド・ディカプリオがアカデミー賞の主演男優賞を、撮影のエマニュエル・ルベツキが撮影賞を取りました。9カ月に渡る大ロケーションをする一方で、視覚効果をフルに活用して、リアルだけど幻想的な映像を作り出すことに成功しています。自然光による撮影にこだわる一方で、殺し合いや長回しの映像では、視覚効果の最新技術を使っているようで、エンドクレジットで、SF映画並みの数の視覚効果スタッフがクレジットされています。全シーン1カットというトリッキーな映像を作ったイニャリトウとルベツキのコンビは、ここでも異様な長回しや上下左右に動き回るカメラワークを見せています。主人公が熊に襲われて重傷を負うシーンを移動する1カットで見せるという大技を見せます。熊は多分CGでしょうから、襲われたディカプリオが徐々に傷を負っていくのでカットを割っている筈なんですが、そこを1カットで見せちゃうというのがすごい。トリッキーと言えばトリッキーなんですが、その凝りようがイニャリトウのスタイルということになりそうです。リアリティという意味では、あり得ない映像で、そこに現代の最先端の映像魔術を駆使しているというのがすごいということになるのでしょう。冒頭の川辺のシーンで、次々に罠師が矢に刺されて死んでいくのを、移動ショットで見せるのですが、これもどうやって撮影しているのかよくわからない、リアリティという意味ではあり得ない映像なのですが、それを本当に起こっていることのように見せちゃうというのは、ある意味ライド感がすごいということになります。つまり、見世物としての観客へのサービス度がでかい映画なのです。アートっぽい展開、観念的な映像を盛り込んでいるにもかかわらず、まず俗な見世物としてよくできてるし、そこを狙ってるのは明快です。「バードマン」では、その見世物感が鼻につく部分もあるのですが、この映画では、見世物としての仕掛けをドラマの中にうまく溶け込ませて、物語に迫力を与えることに貢献しています。

予告編で観た時は、息子を殺されたディカプリオがトム・ハーディに復讐するお話だという印象が強かったのですが、2時間37分の本編を観てみると、復讐そのものが前面に出てこないのがまず印象的でした。じゃあ、3時間近い長丁場を何で見せるのかというと、サバイバル描写で見せきるのですよ。ディカプリオが熊に襲われて重傷を負った後、自分で何とか回復して、アリカラ族から逃げながら、ジョンを追うのですが、その間、傷に火薬で火をつけたり、川を漂流したり、馬のはらわた取り出して、その中に入って寒さをしのいだり、そういうシーンがメインになっているので、あれ、復讐の方へ話が行かないじゃんてことになっていきます。ディカプリオが一人芝居のシーンが多く、そこでは一切セリフを口にしないので、何かに憑かれたように生き抜く主人公の描写は、純粋に一人の人間の生への渇望を描いているように見えるのですよ。後半、ヘンリーたちに救出されたヒューがヘンリーに経緯を話すシーンで初めて、復讐を口にします。それまで、復讐を考えてなかったわけではないのですが、映像はサバイバルのみに重きを置いているので、復讐よりも生き残ることの重さが観客にはメインで伝わってきます。回想シーンですとか、時には、ヒューの幻想として登場する亡き妻の姿も、復讐よりは、ヒューの生き延びる理由として登場します。ですから、復讐は物語の中であまり大きな比重を持っていないようです。

この映画で描かれる世界では、生き残るのは大変なこと。大自然はそれだけで、人間を死に至らしめる過酷さを持っています。さらに、西洋人と先住民との殺し合い、先住民の部族同士の殺し合いなど、死はそんじょそこらに転がっています。先日観た「サウルの息子」のユダヤ人収容所も毎日が死と隣り合わせでしたけど、「レヴェナント」の世界も死は日常茶飯事で、人間はたやすく殺し殺される関係にあります。そんな中では、愛する者を殺されたことに対する復讐は、存在レベルが後ろへ押し下げられているようなのです。生き残ってこそ、復讐もできる。まず生き残らないことには、復讐も思い出すらも跡形もなくなってしまう。映画の途中で、一人で旅をするポーニー族の男が登場するのですが、彼もまた家族を殺されているのに、その復讐に対しては淡泊で、復讐は人間のものではなく、創造者のものだと、ヒューに語ります。このセリフがクライマックスで再び登場するのですが、映画はこれをうまく使い切っていないのがちょっと残念。

トム・ハーディ演じるジョンは、先住民に頭の皮を剥がれたことがあってその傷が痛々しく残っており、先住民を野蛮人として見下しています。この映画の中で、彼は徹底した悪役として登場するのですが、中盤の主人公のサバイバル行を見ていると、ジョンもまた自分の信じるものに従って生き残ることを模索しているという意味で、主人公との共通項が感じられるのが面白いと思いました。確かに卑劣な奴ではあるのですが、殺し殺される世界の中では、ジョンもまたヒューと同じちっぽけな存在なんだと思うと、生き残ることと卑劣さを比べると、人でなしの卑劣さも小さなことだと思えてきます。逆に言えば、自分たちの生きている世界は、正しいことと悪いことを考える余裕のある恵まれた世界なのかもしれません。イニャリトウの映画では「BIUTIFUL」の世界もまた、善悪を云々する余裕のない生き残ることの優先度の高い世界でした。そういうサバイバルの世界を描くことが好きな監督なのかな。

じゃあ、サバイバルだけの映画なのかというと、復讐を終えた主人公の前に亡き妻が姿を現すラストから察するに、そのサバイバルとしての生を支えているのは愛だと言いたげなのです。でも、幻想的なシーンの儚さからか、愛ってのは饒舌すぎるかなあって気もしちゃいました。人間が生き残ることを支えるのは、生そのもので、命の根源ではないかと思わせるシーンが続いた後なので、何だか最後っ屁っぽいなあって気もしちゃうのですよ。クライマックスのヒューとジョンの1対1の対決は銃を失ったナイフによる接近戦ですごい痛そうなリアルな殺し合いです。血もいっぱい出るし、生き残るための殺し合い。そんな殺し合いの挙句、ヒューはとどめを刺さず、ジョンをアリカラ族のいる川下へ流して、彼らにとどめを刺させます。それが、復讐を創造主の手に委ねたことになるのかどうかは微妙な感じなのですが、それによって、復讐の達成感から、自分を救うことになります。ヒューは砦へ向かう途中で、アリカラ族の娘をフランス人から助けたことから、アリカラ族はヒューの命は奪いませんでした。一応、お話は全てを語り終えて結末を迎えます。でも、後味として残るのは、やっぱり生き残ることなんだよなあ。善悪を超えて、生き残ることが大事だってお話だと思いました。ヒューが死んじゃったら、彼の奥さんも消えてなくなっちゃうし、思い出の記憶もなくなってしまうんですもの。

「ボーダー・ライン」のサントラは、重低音の現代音楽として聴き応えあり。


久しぶりのサントラ記事です。骨太な復讐劇を描いた「ボーダー・ライン」の音楽を担当したのは、ポストクラシカルのミュージシャンとして、何枚ものリーダーアルバムを出しており、映画音楽でも「プリズナーズ」「悪童日記」「博士と彼女のセオリー」といった実績のあるヨハン・ヨハンソンです。彼のリーダーアルバムでは、抒情的な耳にやさしい音楽が多いのですが、麻薬戦争を扱った映画では、そういう甘さを一切封印した、重くてハードな音を作り出しています。

冒頭の曲は、ヒロインが護送車で誘拐犯のアジトへ向かうシーンで流れる曲で、低音の腹に響くようなパルス音にさらに低音ブラスのような音の咆哮がかぶさるというもので、タンジェリン・ドリームの「ザ・キープ」を低音強調したような音になっていまして、このオープニングが映画全体のカラーを決定していると言っても過言ではありません。

全編、シンセの音かと思っていたのですが、CDのライナーを見ると、編曲者としてヨハンソンとアンソニー・ウィーデンの名前がクレジットされ、さらに指揮者としてウィーデンの名前が挙がっています。オーケストラ部分はハンガリーのブダペストで録音されているようです。この注釈がなかったら全部シンセの音だと思ってしまうくらい、無機質的なドライな音になっています。パフォーマーとして、パーカッションやチェロのソロ、ボーカルといった面々もクレジットされており、シンセのアンビエント音楽の枠ではくくりきれないものがあり、オーケストラとシンセによる現代音楽というのが、正しい位置づけのようです。

第一印象は効果音みたいな音楽だなあって思ったのですが、現代音楽として聞き直してみると、そこに個性の強さが感じられ、シンプルなメロディの反復だけでない、エモーショナルな顔も確認できます。しかし、悲劇的な音を歌い上げていてもそこに抑制の効いた音の絞り込みがされており、基本的には、低音部を全面にだしたアンビエント風な音楽になっているように思います。その個性の強さは、エンニオ・モリコーネの「遊星からの物体X」を思わせるものがあります。モリコーネはストリングスの使い方でその個性を出していましたが、この「ボーダー・ライン」ではパーカッションによる低音の使い方が音楽に一本筋を通しています。

これだけ、重量感のある音楽を流すと映画本編の方がその音に振り回されてしまうことがあるのですが、この映画は本編も重厚で緊迫感あふれる演出で統一されているので、その重低音がさらにドラマを盛り立てるという、いい相互作用を作り出しています。



「サンマとカタール」は製作意義は感じるけど、お金を取る映画としては物足りない。


今回は、新作の「サンマとカタール」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。この劇場で、日本のドキュメンタリー映画を上映するのは珍しいです。私もドキュメンタリーをしばらく劇場で観てなかったなあということでスクリーンに臨みました。

2011年の東日本大震災の際、津波で街の9割、町民の1割を失った、宮城県女川町で、復興が進みつつあります。町全体を更地にしてから、土を盛り上げて、居住地域を高台にして、駅からは新しい商店街を作ろうというものです。そして、毎年、復幸祭というイベントを行ってきました。その復興のモニュメントになっていたのは、大型冷蔵施設のマスカーです。これは、カタールによるカタールフレンド基金の援助によって実現したもので、それによって水産加工業が復興するのです。そして、2015年の復幸祭の日が来て、町外からも多くの人が集まって大賑わいとなります。みんなに振る舞われるさんまには、復興への希望が込められているのでした。

テレビディレクターであり、ドキュメンタリーの実績もある乾弘明が監督した女川町を題材にしたドキュメンタリーです。東日本大震災で津波に町がのまれる映像はテレビで何度も放映されていました。町の平らな部分を津波が根こそぎ持って行ったというショッキングな映像だったという記憶があります。この映画は、その町が被災してから5年目の様子を追ったものになっています。まず、登場するのは、女川町の若手のリーダーである阿部さん。サンマの昆布巻きを作っているマルキチの経営者であり、復幸祭の実行委員長です。お祭りなんてという声もききながらも、毎年復幸祭を行ってきた中心人物。工場や家を失いながらも、女川町の留まり、母親と一緒にマルキチを復興させています。彼を中心にした復幸祭の実行委員会の様子をカメラが追います。

そして、町の水産業を立ち上げるためにまず必要だった冷蔵冷凍施設、マスカー建設のエピソードを関係者にインタビューします。天然ガスで裕福なカタールは、採掘技術で世話になった日本に大変友好的で、1億ドルの支援を申し出てくれました。その一部を使って、マスカーは建設され、水産業復興の礎となりました。カタールという国と日本がそういう関係にあるというのは初めて聞きました。なるほど、日本の技術がこういうところにも貢献してるんだなといううれしいエピソードになっています。

2015年3月には女川駅が開通し、例年の復幸祭は、かつてない盛況となります。そして、12月には駅前商店街とプロブナードが完成して、完成イベントが行われるのでした。そこに、女川出身の若手芸人の阿部美奈さんも笑いで華を添えます。居住地域の開発はまだまだこれからですが、復興は確実に歩みを進めているのでした。

と、まあ、女川町の復興を描いた映画ですが、誰かを非難したり批判することをしないように作ろうとした意図が伺えて、それはそれでいい話の記憶を残したいのはわかるのですが、大震災の後の町のドキュメンタリーと言うには、何か物足りなさも感じてしまいました。そんな中で印象に残ったのは、女川の数少ないお酒の飲めるお店で、自分の母親が津波にのまれるのを目の当たりにした人のエピソードです。酒飲みながら、そのエピソードを淡々と話すあたりに、この災害と生活が地続きであることを実感させ、他人事ではない災害の恐ろしさを認識しました。また、もう一つの印象に残ったエピソードは、女川原発についての話でして、この映画では、原発の存続についての話は一切出てきません。ただ、津波でも無事だった原発施設を避難場所として提供したという話だけが出てくるだけです。そして、原発をどういう言うよりもまず町が復興しなくてはいけないという発言が出てくるあたりは、原発がどうこう言うのは、部外者の方なんだなあってのが伝わってきて、興味深かったです。当事者にとっては、生き残って、町に留まって、町を再建するのが最優先なんだという、よく考えてみれば当然のことを再認識することになりました。

ドキュメンタリー映画としては、浅く広くエピソードを拾って、女川町の復興にスポットライトを当てたということになるのですが、お金を払って観る映画としての出来栄えは、今イチ感が拭えませんでした。テレビのドキュメンタリーが狭く深く題材に迫っているのに比べると、お金を取って、この程度なの?という気がしちゃったのですよ。誰も悪者にしないという製作姿勢は、それはそれで立派だと思うのですが、それじゃあ、順風満帆なの?という素朴な疑問が出てきちゃうのですよ。人間のやることですから、善意だけでは解決できない意見の相違や文化のギャップみたいなものが出てくるように思うのですが、それがまるでなさそうに描かれると、何か隠してるんじゃないかと、ゲスなオヤジの邪推が入ってしまいます。

ドキュメンタリーが撮影した素材の選択と編集によって、演出が施されていることは十分承知の上で、スクリーンに臨んでいます。そこに監督の意図とか、想いが入ってくると思うのですが、この映画では、そこがよく伝わってこなかったです。「サンマとカタール」というタイトルをつけるなら、サンマ漁の推移ですとか、カタールとの交渉経緯とかを描いて欲しかったところですが、そこもあっさり流されているし、登場する人物も広く浅く描くにしては少ないのですよ。少ない人物に焦点を当てるのであれば、もっと突っ込みが欲しいし、広く浅く描くのであれば、もっとたくさんの人の声を聞かせて欲しいと思いました。きつい言い方になりますが、政治的プロパガンダ映画のような味わいがあるのですよ。この時期にこの題材で、映像を残すことはすごく意義のあることだと思うのですが、その残し方は何だか物足りないよなあって思ってしまいました。もっと深いところへ突っ込むのはテレビドキュメンタリーへ期待しなきゃいけないとすると、お金を取るドキュメンタリー映画の存在意義が揺らいじゃうと思うのですが。

サントラシングル盤の記憶

実家の静岡に帰ってきているのですが、戸棚の中から昔買ったサントラシングルが色々と出てきたので、忘れ去られてしまう前に書き留めておきたいと思います。以降、オヤジの昔語りになります。

最近の人には、まずレコード盤から説明しなくちゃならないのかもしれないけどそこはパス。最近は、サントラ盤がLPで復刻されたりし始めたので、直径30センチのレコード盤の存在は知られてきていると思います。同じレコード盤でも直径17センチのシングル盤はさすがに復刻されることなく、歴史の中で忘れ去られようとしています。今、お目にかかれるのは、中古レコード店の一角でくらいでしょうか。片面に1曲か2曲、演奏時間はせいぜい3分から5分しかなく、レコード盤の真ん中の穴がでかいので、ドーナツ盤と呼ばれていました。LPレコードが1分間に33回転(正確には、33と1/3回転なんでしたっけ)なのに対して、45回転で音楽を鳴らし、LP盤というのに対してEP盤と呼ばれていました。

私がサントラ盤を買い始めた頃、LP盤は1500円から2500円、シングル盤は500円が相場でした。曲数換算から言えば、シングル盤は割高になるのですが、学生の1か月の小遣いでは、しょっちゅうLP盤を買う余裕はなく、映画で聞いて欲しいと思った曲は、まずシングル盤でゲットすることから始めました。今のように無造作にAMAZONでCDを発注しちゃうのは、当時は考えられないくらい贅沢なことだったわけです。

また、当時は映画音楽というジャンルがあって、その中にサントラ盤がありました。ということは、サントラ盤じゃない映画音楽のシングル盤もあったわけで、スクリーンミュージックリフレクションとか本命盤と呼ばれるサントラとは別楽団の演奏によるシングル盤も結構レコード屋の店頭に出ていたのですよ。スタンリー・マックスフィールド・オーケストラとかミシェル・クレマン楽団とかあまり聞いたことのない名前の楽団が演奏していたのですが、これは日本のスタジオ・オーケストラがあちら風の名前をつけていたんじゃないかなあ。

また、シングル盤のサントラ盤にも2種類ありまして、シングル盤の他にLP盤も出ているものと、シングル盤しか出ていないものがありました。LP盤も出ているサントラ盤ですと、その後、CDアルバムとして再発されることもあるのですが、シングル盤のみのサントラ盤は、後で、CDアルバムが出る機会もないまま、それきりになることが多いように思います。そういう意味で私が持っているシングル盤の中では、ジェフ・ウェインの「黄金のランデブー」、カルロ・ルスティケリの「プレステージ」、バーブラ・ストライザンドの「アイズ」なんてのは、結構貴重盤だったりします。また、サントラ盤発売時はシングル盤しかリリースされなかったのですが、だいぶ時間がたってから、CDアルバムがリリースされたものがあります。ジョン・ウィリアムズの「ミッドウェイ」、ファビオ・フリッツィの「サンゲリア」、ジョルジュ・ドルリューの「真夜中の刑事」なんてのがあります。ですが、買ったシングル盤を見ると、LP盤が買えなくて、シングル盤で我慢したと思しきものがほとんどで、「ロッキー」「ロッキー2」「イルカの日」「白い家の少女」など、後でLP盤を買いなおしているのがほとんどです。

今聴きなおしてみて感じるのは、レコード針を盤面に置いて、3分くらいで終わりになってしまうのが、すごく気ぜわしい感じです。続けて聴こうとするなら、そのたびにレコードをかけ替えなくてはならないのがすごく億劫な感じ。CDだと一度かけたら1時間近く放っておけるのに比べたら、音楽を聴く作法が昔は違っていたんだなあってのが実感です。その分、その1曲に集中して聴いていたってことになります。アイドルの歌を1曲気入れて聴くってのなら、ともかく、サントラ盤の地味な曲をシングル盤で聴くってのは、オタクな趣味だったなあってしみじみしちゃいます。

「サウルの息子」の寓話的展開と臨場感のすごさのアンマッチが只者じゃない


今回は東京での公開を終えている「サウルの息子」を、静岡の静岡シネギャラリー1で観てきました。もう静岡の映画ファンはここでしか観る映画がない状況になってしまっているのは、あまり喜ばしい状況と言えないのがちょっと悲しいかな。

ナチスドイツの強制収容所で、ユダヤ人の死体処理をするユダヤ人部隊、ゾンダー・コマンドであるハンガリー系ユダヤ人サウル(ルーリグ・ゲーザ)は、いつ自分が処分される日がくるのかわからない状況下で、移送されたユダヤ人たちをガス室へと促し、そして衣服から金品を外し、死体を運びたし、ガス室をまたきれいにする仕事に従事していました。そんなある日、ガス室での虐殺で生き残った少年がいましたが、ドイツ軍医はその少年を殺してしまいます。それを見たサウルはその少年の遺体を自分の息子だと言いだし、解剖されることになっている遺体を何とか正式な形で葬儀を行い、埋葬させようとします。そのためには葬儀を行うためのラビを探そうとするのですが、自分のいるコマンド部隊にはラビはおらず、よその部隊にもぐりこんでラビを探し出そうとするのですが、それも失敗してしまいます。また、ゾンダー・コマンドの中で反乱を起こそうとしている連中から、ブツの運び屋を頼まれるのですが、それも失敗。しかし、その時、処刑間際の囚人の中にラビを発見したサウルは、自分の「X」が書かれた上着を彼に着せ、ゾンダー・コマンドに紛れ込ませることに成功します。しかし、ドイツ軍はゾンダー・コマンドの中の70名を処分すること決定していました。果たして、サウルは息子の葬儀を執り行うことができるのでしょうか。

カンヌ映画祭でグランプリを取った映画なんですって。はあ、「黒衣の刺客」にグランプリをやったカンヌでしょ?それだけじゃあなあって思っていたら、アカデミー賞で外国語映画賞を取ったというので、食指が動きました。ひょっとしたらすごい映画かもしれないと思ったのですが、一方で、ナチスドイツの強制収容所が舞台で、さらに虐殺の雑用をさせられていたゾンダー・コマンドを題材にした映画だということで、すごくヘビーな内容、描写かもしれないとちょっとビビったのですが、これがR15+指定でない、子供でもOKなG指定ということで、劇場まで足を運びました。実際にスクリーンに臨んでみれば、直接な描写はほとんどないのですが、内容的にはすごいヘビーなもので、あまりお気楽に他人にオススメできる映画ではないのですが、ナチスドイツのやった虐殺について描いた映画として、大変見応えのあるものでした。サウルの物語はフィクションなのですが、映像と音響によって、観客が、実際に収容所にいて、ゾンダー・コマンドになったような重い気分になれるという映画です。

この悪趣味なライド感というのは、撮影と音響効果によるところが大きいです。映像は主人公のサウルのアップを多用し、彼を前から後ろから撮った絵に焦点を合わせているので、背景は常にぼけた状態になっています。そして、ぼけた背景や画面の外はガス室だったり死体の山だったりするので、普通の想像力があれば、容易に地獄絵図の中に身を置くことになります。音響もオフの音を取り込むことで、画面に映っていない場所での悲鳴や銃の音、焼却炉の音などがリアルに聞こえてくるのですよ。また、あえて画面の焦点深度を低くするためか、スタンダードサイズのフィルム撮影をして、上映時もスタンダードでの上映となっています。そのせいか、画面が狭くて、フレームの外を想像しながら鑑賞することになるのです。一方でステレオのリアルな音響が、50席の小劇場でも、十分に臨場感を伝えてきます。

クララ・ロワイエとネメシュ・ラースローの共同脚本を、ネメシュがメガホンをとったのですが、物語は、なかなか全貌が見えてこない不思議な作品でした。前半、主人公が少年の遺体を正式に葬儀したいと考えていることが示され、それは自分の息子だからというのですが、周囲の人間はサウルに息子なんかいないと言い切ります。ですから、物語が進むに連れて、ひょっとして少年がサウルの息子ではないんじゃないかという気がしてきます。そして、サウルが収容所のあちこちを行き来して、ラビを探して、最終的に囚人からラビを探し出してしまうところまでいくと、何かリアリティというより寓話的な味わいになってくるのですよ。うかつな行動をとれば即銃殺されちゃう死と隣り合わせの環境でサウルだけ死なないのは出来過ぎだよなあって。でも、そう考えると、同胞たちの虐殺にある意味加担してしまっている自分自身の贖罪の気持ちが、実在しない息子を生み出して、その葬儀を何としてもやりたいと駆り立てたのかも、と思うと腑に落ちるものがあります。登場シーンからサウルはずっと感情を押し殺したような無表情で、ゾンター・コマンドとしての仕事をこなしています。他の連中も似たような感じなのですが、それでもまだ感情ある人間として描かれていまして、サウルだけは感情を無にして生きているように見えます。それは、少年の遺体を発見してからも表情を変えず、ただ行動だけが仕事を放棄してもラビを探すといった無謀なことをするのです。表情を変えないだけに、逆にそれが行動への強烈な意思と見えてくるあたりに説得力があったように思います。

物語としてはサウルが少年の葬儀をしなければならないと行動するというのを1本の柱として、その一方で、強制収容所での虐殺からその後始末までを、観客は追体験させられることになります。こういう強制収容所を描いた映画で、そのリアルさが怖かった映画に「戦場のピアニスト」がありましたが、こちらの方が物語にのめり込む余裕がなくなるくらい、収容所の描写が痛いので、映画を観た重量感というか「どよん」感は、こちらの方が上でしょう。「悪趣味なライド感」というのは、単にけなしているのではなく、それくらいヘビーな時間だったことを指しています。決して直接描写を「ほーら見てごらん」と眼前に突き出してくるのではないのですが、画面の外とかぼやけた遠景の中で、この世の地獄が展開しているのが想像できてしまうのが、はらわたに応える映画になっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



サウルは少年の遺体を自分の寝床に運んできて、夜が明けてから、穴を掘って埋めようとするのですが、そこへゾンダー・コマンドへの招集がかかり、狭い部屋に押し込まれます。そして、ガス室の控室へ連れて行かれると、そこには、ゾンダー・コマンドだった連中の衣類がぶる下がっているではありませんか。生き残っているゾンダー・コマンドは騒然となって、銃撃戦が始まります。少年の遺体をかついだままサウルは右往左往して、ついには、収容所の外へ逃げ出します。しかし、ドイツ軍の追手は近づいてきており、一緒に逃げた仲間とともに、川を渡ろうとするのですが、そのとき、少年の遺体は川に流されて行ってしまうのでした。逃げ延びた仲間たちと小屋の中で小休止していると、その入り口からドイツ人の少年が中を覗き込んでいます。それを目にとめたサウルは初めて柔和な笑顔を見せるのでした。すると、カメラの視点はそのドイツ少年に移り、走り去る彼を追っていくと、ドイツ軍の追手とすれ違います。さらに走り去る少年を追うカメラ、背後から銃声が聞こえてきます。そして、森の中へ消えていく少年、しばらく森を映したままの絵が暗転して、エンドクレジット。

結局、サウルは少年を弔うことはできませんでした。それ以前に収容所内の武力による反乱に巻き込まれてしまうのです。これは、前々から計画されてきたことがわかってきます。サウルが受け取りに失敗したブツとは、収容所を破壊するための爆薬で、ゾンダー・コマンドの中の反乱派は、銃などを集めて機会をうかがっていたようなのです。実際にアウシュビッツで武力反乱が一回起きたという記録があるそうで、これはその歴史的事実に基づいているのだそうです。サウルの息子への想い、或いは贖罪の気持ちは、銃弾によって打ち砕かれてしまいます。それが歴史的な流れで言えばそうなるしかない結末なのが見ていてつらいところです。ラストでサウルが満面の笑みを見せるのですが、それは救いにはならず、観客の絶望をダメ押しする結果になるのは狙ってやっているのかなあ。正直ラストの少年は登場させなくてもよかったような気もする結末でした。

ただし、ナチスドイツのやったことを題材にした映画としては、虚実織り交ぜた作りのアプローチには斬新なものを感じましたし、ヘビーさの中のいやなライド感も含めて、映画の持つパワーも感じさせるあたりは見事だったと思います。カンヌグランプリ侮りがたしと印象が変わりました。

「追憶の森」は日本が舞台だということは異文化のお話なのかな。


今回は新作の「追憶の森」をTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。ここは階段状の座席で観易いってこととあと、映画の上映サイズにあわせてスクリーンサイズも変えるってことで、好きな映画館です。

何か訳あり風の男アーサー・ブレナン(マシュー・マコノヒー)は、東京行きの航空券を買い、着いたところは自殺の名所青木ヶ原樹海でした。森の中でどんどん入って、薬の瓶を空けようとしたとき、他にも森をさまよっている男がいるのに気づきます。その男(渡辺謙)は森の出口を探しています。アーサーは来た道の方向を指さすのですが、その道は行き止まりになっていました。二人で道を探しているとき、アーサーは崖を落下して腹部にひどい怪我を負ってしまいます。回想の中で、アーサーは、妻のショーン(ナオミ・ワッツ)との間に問題を抱えていました。彼の浮気から転職した結果、年収2万ドルとショーンの稼ぎに及ばない状況。ショーンもアーサーの浮気以降酒量が上がり、アルコール依存症になっていて、二人の間には諍いが絶えませんでした。しかし、ショーンの脳に腫瘍が発見されることで、二人の関係は良好になりつつありました。そして、手術も成功し、かつてのような笑顔が二人に戻ります。なのに、アーサーは青木ヶ原にいるのです。なぜ、彼は自殺を図ろうとしたのでしょうか。そして、謎の日本人と二人で、樹海から抜け出すことができるのでしょうか。

日本では「リミット」で知られるクリス・スパーリングが脚本を書き、「エレファント」「ミルク」のガス・ヴァン・サントがメガホンを取りました。ジャンル的には、超自然モノということになるのかな。大人のための寓話という言い方もできるかもしれません。わざわざ死に場所を探しに青木ヶ原までやってきた主人公アーサーの不思議な体験を描いたドラマです。自殺の名所として青木ヶ原が世界的に有名だなんて、ホントかなあと思いながらも、ネットの時代ならあるかもなあって気もしました。ともかくも、主人公のアーサーはこの森に死に場所を探しにやってきたのです。ところが、そこに邪魔が入ります。傷だらけの体で森の出口を探す男が現れると、アーサーも彼を放っておけなくなります。自分のコートを着せかけて、自分のシャツを包帯がわりに傷の手当てをしてやるのでした。ところが今度は、自分ががけから落ちて、木の枝が横っ腹を貫く怪我を負ってしまい、男に助けられることになります。男は自分の名をナカムラタクミと名乗り、妻の名がキイロ、娘の名はフユだと言う、何か得体の知れない奴です。ともかく、タクミは森を出て家に帰りたいと言います。彼は職場で左遷されて、追い出し部屋に入れられて、死にたくなっちゃったらしいのです。アーサーにしてみれば、職場の待遇が死につながるなんて信じられないのですが、タクミはマジでそう言うのでそういう人もいるのかなと納得します。

タクミに言わせると青木ヶ原はカソリックで言うところの煉獄であり、霊(スピリット)の集まる場所なんだそうです。だから、死にたい人が外国からもやってくるし、一度入ったら出られない場所でもあるらしいのです。そして、タクミとアーサーは樹海に取り込まれてしまったようなのです。そういうスピリチュアルな話をするのに、わざわざ日本を題材にしたのが面白いと思ったのですが、プログラムの記事を読むと、話は逆で、自殺の名所として有名な青木ヶ原が目に留まって、そこから物語を広げていったのだそうです。にしても、キリスト教では自殺は罪ですから、青木ヶ原も禁断の場所になりそうなものですから、アーサーは罪人ということになるのかしら。それは、後半で、この物語が彼の贖罪の物語になってくるところからも伺えますし、異文化の日本人を登場させたのも、あえて自殺の罪の意識を客観的に見せようとしたのかもしれません。タクミは、死んだ人がいたところに花が咲くなんてことも言います。それはどこの文化なのかわかりませんが、死者に対する慰藉の気持ちが伝わってきます。

回想シーンになると、アーサーと妻のショーンの夫婦仲がよくない様子が描かれます。ショーンはやたらアーサーに攻撃的な態度を取ります。自分は不動産販売の仕事で忙しく働いているのに、アーサーは浮気で仕事をやめて、大学の非常勤講師になり、その薄給な状況から抜け出そうともしない。やたら、攻撃的なショーンの態度は観客には不快に映るのですが、よく話を聞いてみれば、それもまたやむなしかなあという気もしてきます。しかし、ショーンの病気がわかったことで、二人の仲は再び接近します。ショーンも自分の態度を反省し、アーサーは妻につきっきりで看護しようとします。リスクのある手術も何とか乗り切るのですが、手術の前にショーンはアーサーに言います、「死は怖くない、でも病院で誰にも看取られないで死ぬのが怖い。アーサーには自分にふさわしい死に場所を見つけてほしい」と。では、アーサーが選んだ樹海は、彼にふさわしい死に場所だったのでしょうか。

ガス・ヴァン・サントの演出は樹海の静謐な空気感に、スピリチュアルな感覚を重ね合わせて、あの世とこの世の境界線での物語を静かに語っていきます。マシュー・マコナヒーは、どこか秘密を抱えているような主人公をミステリアスに演じて、ドラマを最後まで引っ張っていきます。一方の渡辺謙は、謎の人物なのに、リアルな存在感を見せて、こいつは一体何者なんだろうと観客に思わせるのに成功しています。ドラマチックな要素が少ない111分を二人の演技で見せ切ったのは、演出のうまさでしょう。アメリカ映画にしては、曖昧な結末になっているのですが、それでも腑に落とさないと気が済まないところに微笑ましさを感じました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ショーンの脳腫瘍の手術は無事に成功します。しかし、別の病院へ移送中に、救急車にトラックが突っ込んで、アーサーの目の前でショーンは亡くなってしまうのでした。そして、結局妻に何もしてやれなかったという罪の意識が彼に自殺の場所を探させたようなのです。アーサーは葬儀の場「自分は妻の好きな色も好きな季節も知らなかった」と泣き崩れます。さて、樹海のアーサーとタクミは、雨のために発生した洪水に押し流されながらも、自殺者のテントにたどり着き何とか暖を取ることもできたのですが、タクミはもう動けないと、アーサー一人を送り出します。アーサーは絶対に助けを連れて戻ってくると約束して、一人出口を探します。その時、自殺者の持っていたトランシーバーが誰かの声を捕え、アーサーはそれに応えます。それがレスキュー隊に伝わり、彼は無事に発見されます。しかし、捜索してもタクミの方は発見されませんでした。アーサーは再び樹海の中に入り、自殺者のテントを発見し、その傍に自分のコートが落ちているのを見つけます。それを持ち上げるとそこには一輪の花が咲いていました。アメリカに帰り、学生に講義をしていると、彼のメモを偶然見つけた日本語のわかる学生が「キイロ、フユ」の意味を色と季節だと教えてくれます。それを聞いて微笑むアーサー。二人と思い出の地、レイクハウスを訪れ、樹海にあった花を植えるアーサーの絵から暗転、エンドクレジット。

妻の名前がキイロで、娘の名前がフユってのは、ハリウッドのなんちゃって日本かと思っていたのですが、ラストでちゃんと意味があったことがわかってきます。でも、これで、タクミとショーンが関連づいてしまったので、若干理に落ちてしまったのが残念でした。でも、タクミの正体を明かさなかったのはアメリカ映画には珍しいと思います。じゃあ、タクミは何者かというと、あの世とこの世の狭間にいて交通整理をする天使みたいなポジションなのかな。渡辺謙の天使ってのも柄じゃないと思うのですが、ショーン本人がタクミに姿を変えたというよりは、ショーンがタクミに夫のことを託したという方がしっくりくるのですよ。このしっくりくるという感じ方はその国の文化によるところが大きいでしょうから、作り手としては、別の意味合いを込めたのかもしれません。

でも、死んだ人からメッセージが来るお話ですから、あの世とこの世はどこかでつながっているというのが、前提になります。そして、死後の世界はあるんですという映画でもあります。死んだ人が生きてる人を見守っているというのは、欧米ではよくある話なのかしら。今思いついた映画だと「ダーク・ウォーター」があるんですが、あれは日本映画のリメイクだしなあ。後は「スター・ウォーズ」のオビ・ワン・ケノービとか、なかなか思いつかないです。あまり、欧米にない考え方だからこそ、舞台を極東の日本まで持ってくる必要があったのかもしれません。日本だとすんなり受け入れやすいお話ですけど、欧米の人には、異文化の例として受け入れられるのかしら。

映画としては、過去の回想と現在の樹海のドラマをうまく組み合わせて、観客の興味を引っ張る脚本が成功していまして、後味も悪くありません。樹海の映像はアメリカのあちこちで撮影したそうですが、統一感のあるというか、ホントに青木ヶ原でロケしたような映像になっています。
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