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「シン・ゴジラ」は地味め展開だけど面白くできてます。後、昔のゴジラ映画はアナーキーだったんだと再認識しちゃいました。


今回は新作の「シン・ゴジラ」を川崎の川崎チネチッタ8で観てきました。この劇場特有のLIVEサウンドによる上映ということでしたが、音の立体感追加というよりは、低音増強という感じの音でした。まあ、追加料金を取らないところは良心的だとは思うのですが、もっと増強してもよかったかも。

東京湾で発見された無人船。そこに火山噴火のような活動が発生し、何じゃこりゃと思っていると、何か巨大生物が現れ、川を上っていくではありませんか。まあ、海生生物なら上陸はないだろうと高を括っていたところ、何とこれが上陸しちゃいます。建物を破壊しながらウネウネと進む怪物に、政府は前例がないからどうしていいかわからない。とにかく進路の住民を避難させて自衛隊に攻撃させようとしますが逃げきれてない人がいて攻撃断念。ところがこいつが急に背伸びしたかと思うと形態を変え、何だか恐竜っぽくなって、海へと消えます。対策本部では、内閣官房副長官の矢口(長谷川博己)以下のスタッフが怪物の正体をつきとめようとしますが、怪物の通過後に放射線反応があったことが判明。何だかややこしいことになってきます。怪物は再度鎌倉に上陸しますが、今度はさらに大きくなり、形態も2足で立った形になって、再び東京へ向かいます。多摩川を防衛線にして自衛隊の火器を総動員して攻撃するのですが、怪物を止めることができません。怪物の出現を予告していた博士のデータから、怪物はゴジラと命名されます。そして、博士のデータを解析してゴジラの弱点を見つけようとするのですが、なかなかうまく行きません。ゴジラは都内に入り、米軍が空から攻撃を仕掛けることになるのですが、ゴジラは口と背びれから熱線を放射し、戦闘機は全滅、東京は火の海となり、首相以下、政府高官も帰らぬ人となります。果たして、どう見ても無敵ゴジラを倒すことができるのでしょうか。

今回の「シン・ゴジラ」はまず、過去のゴジラ映画と一切の因縁なしの独立した映画になっています。ですから、21世紀に初めて日本にゴジラが現れたというお話でして、そういう意味では、全てを一新した新しいゴジラと言えましょう。監督は、「エヴァ」の庵野秀明と「進撃の巨人」の樋口真嗣が担当し、特技監督として樋口真嗣と、特撮研究所の尾上克郎があたり、視覚効果の筆頭には白組がクレジットされ、ゴジラ映画としては万全の布陣で臨んだと言えそうです。庵野が書いた脚本は、もし今の日本に怪獣が現れたというドラマを行政側から描いていまして、情報の錯綜とお役所仕事で対応が遅れちゃうといった状況をリアルに描くことに成功しています。全く新しい設定のゴジラということで、過去の因縁とかバックボーンがない分、コジラのキャラは弱くなっちゃいましたが、その分、人間側のドラマが丁寧に描かれて、新しいタイプのディザスター映画になっているところは面白いと思いました。でも、主人公は政府側の人間でして、この映画には一般市民は名前のある役では登場しません。ですから、怪獣版日本政府のプロジェクトXという趣の映画になっていまして、やたらと「日本がぁ」とか「日本という国のぉ」というセリフの多い展開は、最近のテレビ番組の「日本バンザイ」的な流れと似たものがあります。後、アメリカの犬としての日本が、アメリカの思うようにはならないよという見せ方をしているのも面白かったです。そういう意味では、オリンピックのテレビ番組なんかと同じ、日本の国威発揚を政府寄りの立場から描いたという感じになってまして、ある意味アナーキーなオリジナルの「ゴジラ」シリーズとは、映画としての毛色はかなり異なっています。

今回のゴジラは、60年前に各国が海に廃棄した放射性廃棄物を食べて成長した謎の生物という設定になっていまして、体の中で核分裂を起こして、それをエネルギーに生きているらしいのです。そして、一度暴れるとエネルギーを使い果たして、それを再充電するまでの間はおとなしくしているという設定です。冒頭で、東京湾に現れた巨大生物は、海蛇の頭にゴジラの胴体がついたような感じで、「あれ、こいつゴジラじゃなくね?」と思わせるのですが、これが途中で進化することで段々とゴジラに近い見た目になっていきます。通常火器ではビクともしないというゴジラなんですが、体内に原子炉を抱えたような作りになっていることがわかると、血液凝固剤を与えれば凍結できるらしいということがわかってきます。一方で、国連多国籍軍はゴジラを熱核攻撃で葬りさる計画を日本政府に突き付けてきます。熱線放射でエネルギーを使い果たし、エネルギー充電のためにおとなしくなっているゴジラですが、これが再び動き出したら、熱核攻撃が行われてしまう。その前に、ゴジラ凍結作戦を実行し成功させないと東京に核が落とされるのです。クライマックスは、ゴジラ凍結作戦となり、攻撃部隊よりもゴジラに血液凝固剤を飲ませる工兵部隊が活躍するというあたりがなかなかの見せ場になっています。

登場人物がすごく多い映画でして、たくさんの人間がゴジラを倒し、日本を守るために奔走するという展開を監督は要領よく見せていきます。全員脇役みたいな映画で、その脇役が引き立つように見せる演出は、これまでのゴジラ映画にはなかったもので、そういう意味では、これまでのゴジラ映画にない見応えを持った映画だと言えます。また、特撮は、CGとミニチュアを併用しているようで、ゴジラはCGで表現されています。特撮スタッフがものすごくたくさんクレジットされますが、全体して特撮カットはそれほど多くないように思われました。特にゴジラの画面に登場するカットは意外と控えめになっていまして、ゴジラは主役というよりは狂言回し的な扱いになっているのは面白いと思いました。

主演の長谷川博己は、娯楽映画の主役としては地味なキャラなんですが、群像劇のようなこの映画の中では、その地味さが、いい方に作用しています。逆に竹ノ内豊と石原さとみは、ドラマの中で浮いてしまった感がありました。特に、石原さとみはかわいいんだけど、何でこんな役をやってるの?って感じで、登場シーンがドラマの流れを止めてしまったのが残念。逆に儲け役でしたけど、首相を演じた大杉蓮と、彼の死後、臨時首相を演じた平泉征は、ドラマの流れにうまく乗る一方で印象に残る演技で爪あとを残しました。また、防衛大臣役の余貴美子ができる大臣というキャラを好演。また、数少ない若い女性の登場人物の市川実日子が、リアルな登場人物のキャラの中で、アニメ風キャラになっていて、変な意味で目立っていたのが面白かったです。石原さとみといい、女優の扱いが何かおかしいんですよね、この映画。

後、賛否両論になるんじゃないかと思ったのが、音楽演出でして、「エヴァ」の鷺巣詩郎がオリジナル音楽を提供していて、対策本部の描写音楽などにいいところを見せるのですが、ゴジラの描写の要所とか、クライマックス部分に伊福部昭の音楽を使っているのですよ。クライマックスのゴジラ凍結作戦では、「宇宙大戦争」のマーチが延々と流れるのにはびっくりでした。それゴジラ音楽でもないじゃんって。予告編で流れるコーラスを交えた壮麗な音楽は、冒頭の変態前のゴジラの暴れるシーンで流れるので、これがゴジラのテーマと思わせるのですが、この曲は映画の後半には使われていません。ひょっとして、編集に時間がかかりすぎて、音楽を入れ直す期間がなくて、テンプトラックの伊福部昭の既成曲を本編にも使ったんじゃないかと勘ぐっちゃうくらい、私からすれば、やってることが荒っぽいという印象でした。

この映画では、いつもの東宝マークの後、明朝体の東宝マークが出て、本編が始まります。やはり、ゴシック体の東宝マークでは気分が出ないということなのかな。(ここは私も同意)また、人物、場所、兵器に一々字幕が出る演出は、正直馴染めませんでした。ドキュメンタリータッチを狙ったのかもしれませんけど、主要人物だけ字幕に出せば十分で、後は画面がうるさいという印象を持ってしまいました。どうせ、細かいお役所関係は、字幕が出ても全部理解できないのだから、もっとさっさと展開させろよって思っちゃいました。119分という上映時間は、この内容にしては長いという印象でした。地味なドラマを積み上げるという作りはいいのですが、その分、メリハリを欠いている気がして、後半はちょっと長いかなあ。石原さとみ(好きなんですけどね)の出番を全部カットし、後お役所仕事をもう少し削って100分くらいの収めたら、もっとスッキリしたような気がします。

ともあれ、日本のゴジラの前作「ゴジラ FINAL WARS」に比べたらずいぶんと面白い映画に仕上がっていますので、怪獣映画としてはオススメできます。変にオタクに目配せしない真面目な演出もあって、映画を観終わっての満腹感もあります。ただ、前述のように、アメリカの犬じゃない日本政府バンザイ的なメッセージは、最近のナショナリズム高揚傾向に迎合している感があるので、私には素直に受け取れないところもありました。昔のゴジラ映画は自衛隊が活躍しても、決して、国家に迎合してはいなかったのですが、時代の波は、こういう映画にも及んでいるだなあって。

後、劇場で驚いたのは、子供が見当たらなかったこと。結構な入りだったのですが、子供はゴジラよりもアニメやゲームの方がいいのか、まるで見かけませんでした。私(初老)より年上と思われる人が結構多かったというのにもびっくりでした。まあ、子供が観たら、政府や役人の動き回るだけの中盤は退屈しそうだから、これでいいのかもしれません。
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「素敵なサプライズ ブリュッセルの奇妙な代理店」は設定はブラックコメディ風で、本編は割と素直なコメディ、で後味がちょっとブラック。


今回は東京での公開が終わっている「素敵なサプライズ ブリュッセルの奇妙な代理店」を関内の横浜ニューテアトルで観てきました。プログラムは入荷しなかったそうでゲットできませんでした。

大富豪ヤーコブ(イェルン・ファン・コーニンスブルッヘ)は唯一の肉親であった母親が亡くなり天涯孤独の身となって、自殺しようと思い立つのですが、意外と思うように運ばず失敗の連続。海辺に出かけたとき、やってきた車から降りた車いすの男が絶壁から姿を消すのを目撃します。その場の残されたマッチに書いてあったブリュッセルのエリュシオン社へ向かうヤーコブ。そこでは社長のジョーンズ(ヘンリー・グッドマン)が待ち構えていて、彼の素性をチェックして、この社がやっている裏家業である「自殺の手伝い」に契約しないかと持ち掛けてきます。コースは色々ある中で、予告なしに死が訪れるサプライズコースを選択するヤーコブ。そこで、自分用の棺桶を選んでいると、同じ目的でエリュシオンにやってきたアンネ(ジョルジナ・フェルバーン)という女性と知り合いになります。屋敷も売りに出し、使用人も金を渡して解雇して、死を待つばかりになったヤーコブですが、すぐに死が訪れないので、知り合ったアンネをダンスに誘います。ヤーコブは愛していた父親を亡くしてからは、全ての感情を失った人生を過ごしてきました。そして、アンネとダンスに行ったり、自宅に招いたりしているうちに、これまで起こったことのない感情の変化に気づきます。何かおかしいと感じたヤーコブは、お迎え(サプライズ)が来るのをちょっと待ってくれと、ジョーンズ社長に相談に出かけるのですが、それは無理だとあっさりと断られてしまうのでした。

オランダのマイク・ファン・ディムが脚本を書き、メガホンも取ったややブラック風コメディの一品です。自殺お助け会社というと思い出すのは、自殺用品専門店が舞台の「スーサイド・ショップ」というアニメ。あのアニメはハッピーエンドではあるけど、ブラックの味わいがかなり濃いめでした。この映画もそっちの映画なのかな、オランダ映画ってブラック度がきついのかなあとかいやな予感もしたのですが、とりあえず、笑える映画でありますようにという気分でスクリーンに臨みました。自殺お助け会社のエリュシオンは、目のつけどころはいいとは思うのですが、やり方が爆破とか崖から突き落とすとか結構荒っぽいので、こんなので客がつくのかと思うのですが、それでも結構商売になっているという設定です。

大富豪の主人公ヤーコブは、母親を看取ってからは、もう死にたくて仕方ないらしく、色々と試してみるのですが、いざとなると邪魔が入ってうまくいきません。偶然知ったエリュシオン社と契約して、いつ死ぬかわからないサプライズコースというのを選んで、自分が殺されるのを待つことになります。エリュシオン社で知り合った同じくサプライズコースを選んだ女性アンネから電話がかかってきたので、会いに行ってダンスに誘います。彼女もいないのに、毎週母親とダンスに通っていたので、ダンスは上手。ダンスホールでの評判も悪くありません。お邸に高級車をたくさん持っていて、車好きのアンネに「すごーい」とか言われても「ふーん」てな感じ。道の向こうから暴走トラックがやってくるのを認めると、アンネの手をとって、一緒に逝こうなんてことをするかなり変わり者。変わり者の主人公と、自殺お助け会社という取り合わせで、あえて普通のドラマに落とし込まないあたりに、ディム監督の才気を感じました。妙な方向へ話が進んで、日本人だったら、想像がつかないオチが待っていまして、これは国民性の違いもあるのでしょうが、映画として、面白くできていました。お迎えを延期しようという中盤からは、ドタバタコメディの体裁をとっていて、胃にもたれるようなブラックさはありませんので、お気楽に楽しめる映画にはなっています。

それまで、全ての感情を殺して生きてきたヤーコブなんですが、アンネといると何だか楽しい気分になるのですが、彼はこれを体の変調だと思って、それが解決するまでサプライズを待って欲しいと社長に掛け合います。一方のアンネも死を待つだけだったのが、ヤーコブと出会ってからは、だんだんその気がなくなってきます。しかし、そんな申し入れは受けられないと社長は一蹴。銃を持った連中がやってくるのをモニター画面で確認したヤーコブは、銃を奪って逆襲し、事務所を強行突破して、アンネを待たせてあった車で逃げ出そうとするのですが、それでも会社の車が追ってきて、発砲してきます。これには、アンネの方がぶち切れて、車の運転を変わるとカーチェイスの末に会社の車を大破させちゃうのでした。そして、逃げ込んだホテルで一晩明かすことになるのですが、二人はお互いを愛し合うようになっていたのでした。

もう死にたいって思っていた二人が出会って愛し合うようになるというベタな展開となるのですが、一方で会社の皆さんは、契約不履行にしないために二人を殺すべく、追ってくるのですよ。あんまりブラックな要素はないけど、話としては面白くなってきます。前半の厭世的な雰囲気が明朗コメディの方へシフトチェンジするのですよ。ところで、ヤーコブは死にたい気分マックスの時に、家屋敷を全部売り払うという契約をしていましたが、その契約は48時間キャンセルしないと確定するというものでした。そして、この48時間の間に上記の事件が起きているのですよ。段々と展開の予測がついてきますでしょ?

とは言え、この映画の面白いというか、日本人にはわかりにくいというか、ハートウォーミングな結末へと持っていくのはいいのですが、それと並行して、エリュシオン社も栄えていくだろうという見せ方になっているのですよ。先に結末を言ってしまうのも何なんですが、この映画、エリュシオン社を悪役にしていません。へえー、そういう落とし方もあるのかって感心しちゃったのですが、こういう世の中では、エリュシオンのやっていることは成長産業だということになるんですって。そこのところは、ブラックユーモアとして笑っていいものかどうか迷うところがありました。自殺以外の方法で、自分の死を選ぶってことって、そんなにニーズがあるのかしら。でも、それも死の一つの受け入れ方であり、選択肢が広がるということからすれば、一歩進んだということになるのかも。ともあれ、この映画のうたい文句に「コーエン兄弟を彷彿とさせるブラックコメディ」とありましたが、私には、コーエン兄弟の映画より、ずっととっつきやすくて楽しめました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



アンネが氷を取りに部屋の外へ出ると、会社の皆さんに拉致されてしまいます。ホテルの裏で待ち受けていたのは、社長で、何とアンネは社長の養女、社員の皆さんもみんな社長の息子だったのです。つまり、アンネはサプライズ要員として、ヤーコブに接近していたのでした。そして、社長から明日の正午までに仕事を済ませろと厳命されるアンネ。そして、翌朝、ヤーコブとアンネは身を隠すために湖畔の別荘に向かいます。そこで、アンネのバッグから銃が発見されて、彼女がサプライズだということがばれてしまいます。でも、アンネはヤーコブを本気で愛するようになっていましたし、ヤーコブも想いは同じでした。そして、死ぬのはやめたということになったので、家屋敷も売るのはよそうということになります。代理人に電話をして、契約はキャンセルなのを伝えるのですが、実は代理人はヤーコブを裏切っていまして、家屋敷を売った金で自分も潤いたいので、キャンセルを伝えませんでした。何となくいやな予感のしたヤーコブは契約の場へ向かおうということで、空砲を撃って、死体袋に隠れて、会社の皆さんの目をごまかして、契約の場である銀行へ向かうのですが、時間は過ぎていました。しかし、代理人がキャンセルを隠蔽したことが明らかになり、家屋敷はヤーコブのもとに残ることになります。アンネと結婚したいヤーコブですが、その条件に会社の一員になれと言われるのではないかとやきもき。そして、社長から最初で最後のエリュシオンの仕事を請け負うことになります。

その契約者の家へ行くと、ヤーコブを迎えたのは、彼の家の執事長のムラーでした。長いことヤーコブに仕えてきた彼は、自分の最期を愛する人に看取って欲しいと願い、ヤーコブを呼んだのでした。そして、ヤーコブの前で息を引き取るムラー。これで、ヤーコブとアンネは結ばれて、めでたしめでたし。海辺で踊る二人の姿にエンドクレジットがかぶさります。

と、いうわけで、執事長のムラーの死をエリュシオン社が彼の望むようにコーディネートし、まだまだエリュシオン社は発展するぞという見せ方で終わります。死に方は色々と選べるようなので、これからもお客がつきそうだというのは、それだけ人生に絶望する人が増えるであろうということらしいのです。不正がばれて、解雇された代理人を見て、ヤーコブとアンネが、あそこにもお客候補がいるよなんて話すシーンが登場しますので、世の中には死にたい人が多いんだよってことなのでしょう。でも、死にたい気分から、やっぱり愛する人と生きたいよねって宗旨替えをするヤーコブのような人間もいるのですから、そう死に急ぐこともないよというお話でもあります。じゃあ、どっちやねんということになるのですが、どうもどっちもありだと言いたいみたいなんですよ、この映画。選択はご自由にって感じです。でも、ラストの執事長の死を見ると、エリュシオンがいてもいいかなって思えてくるから不思議です。そういう視点の面白さもある一品として、この映画楽しめました。ハッピーエンドではあるんですが、そこのプラスアルファで、観客に色々と考えさせるあたりのうまさもありました。

「シング・ストリート 未来へのうた」は、いい大人が昔若かったころを思い出しちゃう映画です。


今回は新作の「シング・ストリート 未来へのうた」を川崎の川崎チネチッタ2で観てきました。シネスコ画面になるとき、画面が上下に縮むだけという作りは、昔のシネコンだなあってしみじみするところもありますが、神奈川県のシネコンの中で今もトップクラスにある劇場だと思います。ところで、この映画のプログラムは、LPレコードのジャケットサイズで900円もしました。今(2016年)のプログラムの相場は720円ですが、あまり、装丁に凝って値上げするのは勘弁して欲しいわあ。(まあ、買う方も買う方なんですが)

1985年のダブリン、コナー(フェルディア・ウォルシュ・ピーロ)は、父(エイダン・ギレン)と母、兄ブレンダン(ジャック・レイナー)、姉アン(ケリー・ノーントン)の5人暮らしですが、父親が失業したことで、私立から公立の中学へ転校させられちゃいます。荒れた中学でオカマ呼ばわりされて、結構きっつい日々を送ることになるコナーですが、校門の前のアパートに住むラフィーナ(ルーシー・ボイントン)という一つ年上の女の子に一目ぼれ。彼女に声をかけたら「モデルよ私」と言われたものだから「俺バンドやっててミュージックビデオ撮ってるんでモデルやってくれない?」と言い返しちゃいます。そこで友人を集めて即興のバンドを結成します。バンドに一家言を持つ兄の影響下にあるコナーは、それなりのセンスもあるしルックスもいいので、相棒のエイモンの協力を得て、1曲目が完成し、ビデオもラフィーナをモデルにして完成、そこそこのものが出来上がります。それに気をよくしたコナーたちは、バンド名を「シング・ストリート」として、次々に曲を作っていきます。コナーとラフィーナの関係も急接近するのですが、彼女は親のいない子供の施設に住んでいてエヴァンという大人の恋人がいました。ラフィーナはモデルになるためにエヴァンと一緒にロンドンに行くのだとコナーに言います。そして、最新作のビデオ撮影の時、彼女は撮影現場に現れなかったのです。

「ONCE ダブリンの街角で」「はじまりのうた」で知られるジョン・カーニーが脚本を書いて、メガホンも取りました。彼の作品は音楽を扱ったものばかりですけど、今度のは、1980年代のバンドと当時のミュージック・ビデオを題材にした青春映画の作りになっています。そして、オリジナルの歌もいっぱい入ってまして、音楽ファンにはうれしい内容の映画になっています。彼の作品は人間ドラマを深く見せるよりも、音楽で語る部分が多くて、その音楽の使い方がうまいというところがあります。私も、1980年代のミュージックビデオを楽しんだクチですので、「シング・ストリート」の歌うナンバーがすごくピンとくるというか、はまりやすいのですよ。この時代の音楽をうまくオリジナルで表現した映画に「ラブソングができるまで」という佳品もありましたけど、この映画は青春映画としてもいい感じに仕上がっています。

不況のダブリンでは、コナーの家も例外に漏れず経済的に厳しい状況で、父も兄も無職の状態。コナーも公立中学へ転校になるのですが、そこは教室でタバコふかしたり、食堂で喧嘩が起きたりとかなり荒れた状態。さらに生徒の家庭も貧困や暴力で荒れていました。1980年代って日本の中学高校が今とは比べものにならないくらい荒れていましたから、どこも似たような状況だったのかなあ。ともあれ、甘いマスクのコナーはオカマ呼ばわりされたり、不良っぽいのに絡まれたり大変。そんな彼が、彼女にいいところを見せたいがためにバンドを作って、ミュージックビデオを作り始めるのです。ここで、バンドができるまでの映画を期待しちゃうと、残念ながらそういう葛藤はありません。むしろ、そっちよりも、ちょっと訳ありヒロインとの恋愛模様の方がメインになります。彼らが作る楽曲も、色恋に悩む主人公の気持ちを反映したような内容になっているので、全体としてシンプルでわかりやすい構成になっています。

コナーたちにとっては、アイルランドを出て、どこかよそへ行くことが夢みたいなんですよ。こういう感情、他の映画でも見たことあるなあって思ったら、アメリカの田舎を舞台にした映画だと、大体、若者は田舎から都会へ出たがっていたなあってのを思い出しました。地元の閉塞感から、大都会への解放感というのは、どの時代の若者も感じるものなのかもしれません。40~50キロ海を渡ればそこはイギリスという立地条件も、そういう想いを募らせる要因なのかな。ラフィーナがロンドンへ行くのよって、コナーに告げたとき、コナーは別れの悲しさと共に、うらやましいという感情も抱いたみたいですし。

私は音楽に詳しくはありませんけど、1980年代に起きたミュージック・ビデオのブームは音楽に新たな視覚的な要素を加えて、音楽の楽しみ方を広げた時代だと思っています。コナーや兄たちは、デュラン・デュランの「リオ」のミュージック・ビデオを見て、素晴らしいと言ってるのですが、その横で、ビートルズ世代の彼らの父親は、楽器も持たず歌ってもいない映像なんて、と、その良さが理解できません。ですから、ミュージック・ビデオを作るということは、旧世代には理解できない最先端の行動だとも言えます。私は楽譜にも楽器にも縁のない人間でしたけど、「デュラン・デュラン」ですとか「デペッシュ・モード」「ペット・ショップ・ボーイズ」「a-ha」なんかのミュージック・ビデオを楽しんで、時にはCDを買って聴いたりしてましたから、そのかっこ良さに憧れる感じは理解できるものがあります。

バンドを作って、ビデオも作るようになったコナーは、ビジュアル系にも走り、メイクをして学校に行くようになります。それを校長に見とがめられて、無理やり化粧を落とされたりもするのです。私はあのビジュアル系ってのは苦手なので、この映画で、コナーがメイクしているのを見て、「わっ、ナルシスト、キモッ」とも思ってしまったのですが、当時、デビッド・ボウイとかにはまった世代だとああいうのも理解できるんだろうなとも感じました。好き嫌いは人それぞれですからね。また、英語力がない私は、歌詞がほとんど理解できなかったのですが、それは当時ハードルになりませんでした。歌詞の意味がわからなくても、聴いてみていい感じなのは好き、感じよくないのはパスで、それで充分楽しめました。ノリノリのメロディの歌詞が、実はスコーンのレシピであろうと、人の悪口だろうと、その辺はあまりこだわりがありません。最近の歌は日本語でも歌詞が聴き取れないのが多いので、ますます歌詞のステータスは私の中では下がっています。まあ、そういう音楽の聴き方をする人間もいるということでご容赦のほどを。

また、この映画では、バンドの音楽が体制への反抗の意図をもって演奏されるシーンも後半ちょっとだけ登場しますが、そこに重きを置いていないのは面白いところです。70年代のフォークに比べると、80年代の音楽は確かに政治性とかメッセージ性は薄めになって(うまく隠して作り込まれているとも言えるのかな)いますが、それでも、過去の世代へ向けての反抗というスタイルをちょっとだけ見せるあたりは、作者のエクスキューズを感じてしまいました。

「シング・ストリート」の歌う楽曲は全てこの映画のためのオリジナルですが、私にはどれもみないい感じに聞こえました。実際のところのレベルはわかりませんが、少なくともあの時代の音楽を思い出させるには十分な佳曲だと思いました。ノリのいい曲あり、バラードあり、となかなかにバラエティに富んでいて、楽しめるもので、後で、サントラCDをゲットしてしまいました。でも、彼らの音楽が、プロデューサーの目に留まって、本格的にバンド活動を始めたりするわけではありません。クライマックスは学校のダンスパーティで、彼らの演奏が行われるシーンです。当時の公立学校は男女別々で、そういう機会でもないと、学校で男女が同席することはなかったようです。そんなパーティの場で彼らのライブが繰り広げられることになります。

バンドやろうぜというお話から、主人公の恋愛模様になり、ラストは若者の希望の光を見せて、映画は終わりますので、大変後味のよい映画に仕上がっています。人生の機微を丁寧に盛り込んであった前2作に比べると、やや甘いという印象も受けてしまうのですが、若い主人公のお話では、そういう苦みを隠し味に使うのは難しかったのかなって理解しました。登場人物の中では、主人公の兄を演じたジャック・レイナーとラフィーナを演じたルーシー・ボイントンが印象に残りました。この二人はこの先、他の映画でもお目にかかることがありそうです。後、儲け役ながら、音楽万能で、主人公の曲作りに協力するエイモンを演じたマーク・マッケンナの飄々とした味が大変好印象でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ロンドンへ行った筈のラフィーナがいつの間にかダブリンへ戻っていました。ほとんどノープランでロンドンへ行ってもモデルになれるわけはなく、エヴァンとも別れてしまったのでした。いよいよコナーの両親は別居することになり、家も売ることになり、家庭の状況は悪くなるばかりです。そして、ダンスパーティで、シング・ストリートはライブを行い、大いに場を盛り上げます。後半にはラフィーナも姿を現します。最後の曲は、封建的な校長を茶化したナンバーで、パーティは大盛り上がり。最後のナンバーを演奏し終えると、コナーとラフィーナは手に手を取ってパーティ会場を抜け出して、兄に、二人でロンドンに行くから、港まで運転してくれと頼みます。そこには祖父のボートがあり、それに乗って、海へ乗り出していくコナーとラフィーナ。海は荒れて、雨も降ってきます。それでも向こう岸に向かう二人の姿を映して、暗転、エンドクレジット。

最後に二人して未来の土地へと向かっていくというと、昔懐かしい「小さな恋のメロディ」みたいです。コナーは、書いた楽譜と撮ったビデオを荷物にまとめて、イギリスへと向かいます。彼らの音楽が向こうで認められるという勝算はまるでないのですが、とにかく行動しないと収まらない、若さの衝動と行動力がいい感じの余韻を残します。ラストで、若さとその希望を歌う歌がボートの二人のバックに流れます。その先、二人はどうなったかって? そんな野暮なことは聞いてくれるなと言わんばかりに、若さの今が持つエネルギーを称賛する結末は、見様によっては甘いですが、これを作った作り手の年齢を考えるとちょっと切なくもあるのでした。

「山河ノスタルジア」は今の中国の時代の流れが垣間見えるところが好き。


今回は東京では公開の終わっている「山河ノスタルジア」を静岡の静岡シネギャラリー2で観てきました。この映画館に「地獄の黙示録」のチラシがあってちょっとビックリ。こんな小さなスクリーンでこの映画上映するんかなあ。

1999年の山西省・フェンエンで、タオ(チャオ・タオ)は電器店を営む父親と二人暮らし。幼馴染のリャンズー(リャン・ジンドン)とジンシェン(チェン・イー)とは同じ距離を取って付き合ってきたのですが、25歳になり、そうも言ってられなくなってきます。実業家のシンジェン(チャン・イー)はタオにつきあってくれと告白してきます。炭鉱労働者のリャンズーは戸惑うタオにどうするのかと言い、タオは「二人とも友達だ」と言い切ります。リャンズーの働く炭鉱をシンジェンが買い取り、リャンズーとシンジェンの仲は決裂。リャンズーはフェンエンの町を去っていきます。そして、タオはジンシェンと結婚するのでした。そして、15年後の2014年、炭鉱で体を壊したリャンズーが妻子を伴い、フェンエンへ帰ってきます。タオはジンシェンと離婚し、息子は夫が親権を持ち、上海で暮らしていました。ジンシェンは投資家として上海で成功していました。タオは病床のジンシェンを訪ね、お金を渡すのでした。そんなある日、タオの父親が急死し、タオの息子ダオラーは急遽フェンエンに呼ばれ、祖父の葬儀に立ち会わされます。悲しみの実母に迎えられたダオラーはとまどうことばかりですが、少しずつタオとダオラーは親子の関係を取り戻していきます。さらに時間がたって2025年のオーストラリア。大学生となったダオラー(ドン・ズージェン)は大学生となりホテルでバイトをしながら、ジンシェンと一緒に暮らしていました。ジンシェンは中国語しか話せず、ダオラーは英語は話せる一方で、中国語はあまり得意ではありません。大学生活に疑問を持ち、何にも興味を持てないでいました。そんな彼が母親ほども年の離れた中国語教師ミア(シルビア・チャン)と恋愛関係になります。ダオラーは彼女と接する時間の中で、実母タオの記憶が甦ってくるのでした。

「プラット・フォーム」「長江哀歌」などで知られるジャ・ジャンクーが脚本を書き、メガホンも取った一品です。この監督の映画は初めてなのですが、映画のプログラムによると撮る映画どれも映画祭に参加したり賞を取ったりしているようで、アート系(映画祭系とも言うべきか)の映画を撮っている監督さんのようです。まず娯楽映画であることが映画の評価の基準になる私には若干ハードルの高い映画かなあという気もしましたが、2時間余のドラマを退屈することなく楽しむことができました。この映画、1999年のシーンはスタンダードサイズ、2014年のシーンはビスタサイズ、2025年のシーンはシネスコサイズになるという作りになっています。1999年がスタンダードサイズというのは、1999年を知る身にとっては、そんなに昔じゃないだろうという気もするのですが、今の20代の人にとっては、子供時代のお話になっちゃうのだなあ。また、シネスコサイズは、ビスタサイズ画面の上下が切れるという上映になっていたのはかなり残念。これは正式にこういう上映スタイルなのかはわかりませんが、時代に応じてサイズを分けているのであれば、シネスコサイズは最大画面になってくれないと、演出意図が表現されていないのではないかしら。最初からシネスコサイズの状態で、左右トリミングの上映は可能だと思うのですが。

映画の主人公となるのはタオという女性で、彼女の半生が、中国の現代史のように描かれるのが印象的でして、天安門事件以降の現代の中国が発展していく時間の流れを静かに捉えられているところが興味深く感じられました。オープニングでは、若者たちが、ペット・ショップ・ボーイズの「GO WEST」に合わせて踊っているシーンでして。1999年当時、中国で流行っていたらしいというのがまず面白かったです。それは中国の西洋志向をわかりやすく表現しているのかもしれませんが、日本も中国がそうは変わらないじゃないかという発見にもなります。タオ、リャンズー、ジンシェンの三角関係からドラマが始まるのですが、小学校教師のタオ(彼女が教師であることは画面から読み取れなかったのですが、プログラムにはそう書いてあったので)と、実業家のジンシェン、炭鉱労働者のリャンズーという階級を代表する立場の3人になっているところが面白かったです。1999年は石炭は良い投資対象になっていたらしいことも伺え、また、恋愛の中にもプライドが持ち込まれるのが日本人とはちょっと違う文化だなという発見もあって、三角関係の成り行きを楽しめました。タオがどっちとも同じ距離を取りたいと思いながら、だんだんジンシェンと親しくなっていく過程がリアルで、ありがちなお話なのですが、チャオ・タオの存在感がそこにドラマとしての重しになっているように思いました。

このチャオ・タオという女優さん、どっかで観た顔だなあって思ってたら「ある海辺の詩人」のヒロインでした。あの映画でも、控えめな表情と情感あふれる演技が素晴らしかったのですが、この映画では自己主張もする現代のヒロインを強さを持って演じていて見事でした。舞台となる山西省のフェンエンという都市は、北京や上海に比べると田舎という感じでして、日本でいう地方都市のポジションになっているようです。産業も文化も一通りあって、お祭りの文化も継承されていて、冬は寒いという場所。首都圏とは違う文化の場所は、監督の出身地だそうで、彼の故郷への思い入れも入っているようなのですが、そこはドラマの前面には出てきません。炭鉱と製鉄で有名なところだそうで、1999年の時点では炭鉱が盛況なのですが、2014年では廃坑の波が押し寄せてきています。2025年の中国は画面には登場しないのですが、9年後のフェンエンはどうなっているのか、監督はあえて描かなかったのは、やはり故郷への想いと不安の両方があるからではないかと感じました。

2025年の未来のオーストラリアでは、移民した中国人がコミュニティを作っているようで、若者向けの中国語スクールがある一方で、母国語しか話せない年配者たちの在り様がリアルに描かれています。ジンシェンは今も投資をしているのか、一生遊んで暮らせる蓄えがあるのかどうかは描かれません。また、2014年に登場するダオラーの養母も画面には出てこないのは離婚したのかも。そんな中で、母親の記憶のないダオラーが、50過ぎのミアといい仲になってしまうというのはかなりびっくりでした。彼女から、母親の記憶を取り戻すってのは、個人的には気持ち悪い若造だなあという気もするのですが、そこでドラマはタオの物語へつながるということになります。ミアは母親に会いに行くべきだと勧めます。それは、やる気も希望も見失っているダオラーに自分のルーツ探しを勧めているように見えます。もう少し平たく言うと「自分探し」ということになるのかもしれません。中国人でありながら、お金持ちの子供として国際スクールへ通い、中国語より英語の方が得意な子供というのが、今の富裕層にはいるのかなあなんて思っちゃいました。これもまた中国の一つの流れなのかしら。

大した結末ではないので、ここで書いてしまいますが、オーストラリアでダオラーが中国の実母に思いを馳せている頃、フェンエンで料理をしていたタオは、どこからか、自分の名を呼ぶ声を聴くのです。周囲を見てもそこには誰もいません。犬を連れて表へ出たタオは雪の降る中で、一人であの「GO WEST」の曲にあわせた踊るのでした。で、暗転、エンドクレジット。ふーん、タオと息子のつながりってのはこのレベルのものなんだなあって思うべきか、ああこういう境遇でも母と息子はちゃんとつながっているんだなあって感心すべきなのか、私には判断がつかなくて、どう解釈したもんだろうと困ってしまいました。ただ、「GO WEST」を踊るタオを見て、彼女はいい人生を送ってきたんだなあって思わせるところが後味のいい映画になっています。まあ、その一方で、リャンズーやジンシェンが幸せとは言えない境遇になってしまっているわけですから、八方丸く収まっているわけではありません。それでも、フェンエンの留まったタオが一番幸せそうに見えるあたりに、監督の故郷への想いを汲み取ることができるのかも。

音楽を担当したのは日本人の半野喜弘で、ギターソロとか小編成ストリングスによるミニマルミュージックで、ドラマの静かな空気感をサポートしていて好印象でした。製作には日本のオフィス北野も参加していて、プロデューサーの一人に、ビートたけしの事件の時によくテレビに出ていた森昌行が名を連ねています。ところで、この映画、英語題は「Mountains Depart」という詩的ないい感じなものなんですが、邦題の「山河ノスタルジア」ってのは正直言って意味不明。てっきり中国のちょっと昔の田舎の山とか川が出てくる映画だと思ってしまいましたもの。現代の中国の地方都市が舞台のドラマにこのセンスはないわ。

「ある終焉」は派遣看護士の仕事ぶりを描いた映画です。それ以上読み取るのはちょっと難しくて。


今回は、新作の「ある終焉」を、静岡の静岡シネギャラリー2で観てきました。静岡で映画を観たいと思ったら、ここへ来るしかないという映画館です。開館当時は何てちっちゃいスクリーンだろうと思ったものですが、慣れてみれば、家でDVDを観るのとは違う、映画館での映画鑑賞気分になっているから不思議なものです。

デビッド(ティム・ロス)は、派遣看護士のベテランでして、死を迎えつつある患者に対しての看護でも実績があります。映画はそんな彼の日常を丁寧に描写していきます。ガンの末期患者サラについた彼は、彼女の身の回りの世話全てをこなして、その最期を看取り、葬儀の場にも立ち会います。脳溢血で体が動かなくなった老人には、リハビリの手伝いもしつつ、下の世話までしていくのですが、家族にセクハラで訴えられたりもしちゃうのでした。彼には別れた妻と娘がいて、さらに癌で早逝した息子がいました。息子の病気に気づけずに救えなかったというのが、彼の中ではトラウマになっているようですが、それを表に出すことはせず、淡々と日々の仕事をこなしていくのでした。そんな彼がついた患者は、癌で、化学療法も効かなくなっていました。見込みのない化学療法を続けることを拒否した彼女は、デビッドに自分を死なせて欲しいと頼むのでした。

メキシコの「父の秘密」で有名なミシェル・フランコが脚本を書き、メガホンを取りました。カンヌ映画祭で脚本賞を取ったそうですが、カンヌ映画祭で賞を取ったからといって面白い映画とは限らない(「黒衣の刺客」とか)と思っている私としては、多大な期待をしてはいけないと思っていました。ただ、安楽死を扱った看護士の映画ということで、それは面白そうという予感を持ってスクリーンに臨みました。しかし、映画に何か期待して臨むというのは、その映画を楽しめていい時もありますが、その期待が外れるとちょっと残念なことになります。今回は、私はどうやら誤った期待をしてスクリーンに臨んでしまって、その分、映画を楽しみ損ねてしまったようです。

この映画は、安楽死をメインの題材にした映画ではありません。人の死を看取る看護士の日々を淡々とつづったもので、安楽死はその中の1エピソードでしかありません。てっきり、安楽死をドラマのクライマックスへ持ってくるのかと思っていたら、この映画にクライマックスもありませんでした。素直に最初から画面に展開される景色を受け入れてればよかったのですが、クライマックスを期待していたので、観終わって「あれ?」と思っちゃいました。それ以上にラストが「あれ?」なんですが、それは後述。

主人公の看護士デビッドは、どんな患者にもベテランらしい看護を見せて、家族よりも介護される当人から信頼されています。患者から距離を置いているようでいて、時には葬儀に顔を出したりしますし、患者の趣味に興味を持って調べたり、サラという患者が亡くなった後、バーで「妻のサラを看取ったところだ」なんて話したり、どこかキャラクターに不安定なところがあります。それは、彼が過去、息子を病気で亡くしていることに起因しているみたいです。息子の病状にもう少し早く気づけば死なずに済んだのにという思いが彼にはあるようなのですよ。そんな心の傷があるのに、人に死に直面しやすい派遣看護士なんて職業をやっているのは不思議な気がします。どうも、彼の行動の一貫性のなさや、行動理由の不明瞭さは、監督がわざと作り込んでいるようなところがあります。この映画の設定の居心地の悪さは、実際にスクリーンで確認して欲しいと思います。何だか主人公の行動に腑に落ちないものを感じつつ、でも物語は淡々と進み、様々な病気に苦しむ人の姿を描いていきます。そういう意味では、次々と現れる患者のドラマに比べて、デビッドのドラマは少なすぎるように思います。暇があるとジムでランニングしている彼の姿は、仕事のストレスに潰されそうなのかなと思わせる一方で、仕事に対する一定の距離感がプロフェショナルを感じさせもするのです。

登場する患者は、末期がんの女性とか、脳梗塞で体が動かなくなった老人とか、先天的に体に障害を持つ少年とかさまざまでして、そんな患者たちにデビッドは感情を表に出さないポーカーフェイスで接していきます。そして、体を洗ったり、下の世話をしたり、患者のそばに寄り添ったりと、看護士の仕事を淡々とこなしていくのです。死に直面した人間の気持ちを正面から受け止め、でも感情移入しないで真摯に対応するってのは、結構至難の業なのですが、デビッドはそれを見事にこなしているように見えます。ティム・ロスの自分の存在感を消してしまう演技が見事で、そこにいるようでいない存在を表現しています。その存在感のなさが時として不気味に見えることもありますし、看護士としての頼もしさとして感じられるあたりが面白いと思いました。この映画は一つの事物が色々な見え方をする作り方をしていまして、死への恐れを描いていると思うと、生きる苦痛が見えてきたり、死はゆっくりとやってくるように見せていて、その一瞬は突然にやってくるというふうにも見せるのです。安楽死も苦痛からの脱出のようでいて、その実際の現場はまるで殺人のような見せ方をしたり、一体何を言いたいのかよくわからないような、観客を煙にまくような演出をしているように思えたのですが、これは観る人によって感じ方が分かれるところだと思います。死というものを色々な角度から見せる映画ということもできるのかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



デビッドは、安楽死を希望する女性マーサの望みをかなえてやります。それは、苦しまずに死ねる薬の投与で、結果、彼は疑われることなく、マーサを安楽死させ、次の患者の看護を始めるのでした。そして、いつものように歩道をランニングするデビッド。やけにそのシーンが長く続くので、嫌な予感がし始めたところで、横から飛び出した自動車にはねられてデビッド死亡。おしまい。

ラストカットは、歩道をランニングするデビッドを前から延々と長回しで映します。途中で車が横から出てくるのをやりすごすシーンとかあったりして、インサートカットにしては長すぎると気付くと、これ、まさかあれやるんじゃないかと思わせ始めるのですよ。そして、やっぱり横から現れた自動車に跳ね飛ばされるデビッド。でも、カメラは動かないで歩道を映しておしまい。こういう、急に車に轢かれるオチって何度か見たなあって思い出したのが「最狂絶叫計画」といったナンセンスコメディのみなさんでした。何で、こういうオチにしたのか、その演出意図は不明ですが、私のようなデジャブ感のない人からすれば結構なビックリショック演出となります。で、冷静に考えて、これは余計だよなあというのが私の結論でした。普通にランニングしたままフェードアウトしても映画を終えることは可能な内容なんですもの。そこに至るまでに眠ってしまった観客を起こすためにやってるくらいにしか感じられないのは残念でした。

それでも、看護士の在り様を追うことで、人がどういう風に死と向き合ったりやり過ごしたするのかが垣間見られる映画としての見応えはあり、介護作業のリアリティを感じさせた点での演出力もあったと思います。でも、何か、それらの良さがラストで台無しになってるような気もしちゃうわけでして、ああいう不慮の死ってのは、そこまでに描かれたリアリティとは趣を異とするよなあって気がして。カンヌ映画祭で賞を取った映画ってのは、素直に見ちゃいけないものが多いのかなあ。

後、ちょっとだけ言うと、この映画に登場する患者たちは基本的にジェントルだなあって思いました。日本でこういう映画を作ったら、老人はもっと癇癪もちで、安楽死を望む女性は泣き叫ぶ情緒不安定な人になったように思います。生きる見苦しさのリアリティはあえて描かなかったのかなあ。まあ、そういうガチャガチャした患者だと、デビッドのキャラも物静かではいられなくなるだろうし、映画を支配する静謐な空気感は出せなかっただろうから仕方ないのかも。

「ブルックリン」は普通の女の子の物語にささやかな感動。


今回は新作の「ブルックリン」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。

1950年代、アイルランドで姉と母の3人暮らしだったエイリッシュ(シアーシャ・ローナン)は、神父の紹介でアメリカで働くチャンスを得て、ニューヨーク行きの船に乗ります。寮に居を構え、デパートで働き始めるエイリッシュですが、あっという間にホームシックにかかってしまい、職場でも元気がありません。アイルランド出身のフラッド神父(ジム・ブロードベント)はそんな彼女を励まし、大学の会計士のコース受講を勧めてくれます。そんなある日、アイルランド出身者のダンスパーティで、トニー(エモリー・コーエン)というイタリア系の若者と知り合います。彼との関係が深まるにつれて、エイリッシュは見る見る明るい自信に満ちた女性に変わっていきます。そして、彼女はトニーとの未来をまじめに考えるようになります。そんな時、アイルランドから姉が急死したという知らせが届き、彼女は一度母国へ戻ることになります。そんな彼女を待っていたのは、いいところの息子さんのジム(ドーナル・グリーソン)でした。周囲の人間はみんなエイリッシュをアイルランドに引き留めようとし、ジムとは世間公認のカップルになっていきます。しかし、彼女は帰国前にトニーと婚姻届けを出していたのでした。

コルム・トビーンの小説を、「わたしに会うための1600キロ」のニック・ホーンビィが脚色し、「BOY A」のジョン・クローリーがメガホンを取りました。アカデミー賞の作品賞と脚色賞にノミネートされたということもあって、期待を持ってスクリーンに臨みました。映画の冒頭で、アイルランドでのエイリッシュの生活があまり楽しいものではないことが描かれます。そして、アメリカへ渡る機会を得て、期待と不安を抱えたヒロインは単身ニューヨークへ向かうことになります。意地悪おばさんから、それって姉に母親の面倒を一生見させることだねとかイヤミを言われたりもするのですが、アメリカにはアイルランドにはない希望があるように見えたようなのです。不安と希望が半々で、ニューヨークにやってくるのですが、最初は孤独感からホームシックになっちゃいます。

このあたりの描き方はすごくストレートというかわかりやすい展開になっていまして、実家の姉からの手紙を何度も読み返してはよよと泣き崩れていたのが、ダンスパーティで知り合ったトニーと仲良くなったら、ホームシックもすっかり治って、デパートでの接客態度も別人のよう。言い方は悪いけど、すごく単純な女の子だなあって共感できるのですよ。大学にも通うようになって、簿記を学び、姉のような会計士になりたいという夢に近づきつつあるという、アメリカへ渡ったことが彼女の人生をいい方向へ向かわせたようです。彼氏のトニーはイタリア系の移民一家の息子で配管工をやっています。ガテン系のトニーですが兄弟で建設会社を起こそうと頑張っています。お互いにぞっこんのラブラブな関係でこのまますんなりと結婚まで行くとさらにありがちな展開になるのですが、物語はここで一波乱起こしてくれます。

エイリッシュのことを気にかけてくれていた姉の突然の訃報に、エイリッシュはとるものもとりあえず帰国しようとします。でも、それは1か月以上トニーと離れ離れになることを意味してました。絶対戻ってくるからとトニーに約束するエイリッシュですけど、彼はそれだけでは我慢できないということで、二人は結婚届を出すことになります。そして、エイリッシュは、フィオレロ夫人となってから、自分の故郷へと戻ります。すると、母親とか周囲が彼女をアイルランドにとどまるように仕向けてくるのですね。エイリッシュとしては、アメリカのダンナのもとに帰りたい。でも、母親を一人置いていくのに後ろ髪を引かれる想いもあり、さらに、姉のしていた会計士の仕事も任されてるうちに帰りそびれて、ずるずると故郷に滞在することになります。友人から紹介されたジムとも何となくいい関係になって、彼の両親に会いに行ったりして、どんどん関係が深まっちゃうのですよ。アメリカからトニーの手紙が何通も届くのですが、封も開けずにそのままになっちゃっててホントにこれでいいの?エイリッシュ。

一念発起して渡ったアメリカで新しい人生の基盤を築いた筈のヒロインですが、一時的な帰国がどんどん引き伸ばされていってしまうあたりの描き方も、ホームシックからの立ち直りと同じくらい、ありがちな展開として描かれていきます。故郷を捨てたヒロインが戻ってみれば、他国のことも知ってるというアドバンテージを持っちゃうあたりは、なるほどという説得力がありました。単に故郷でくすぶっていた頃とは別人のような洗練された(ように見える)女性として、ジムにも魅力的に映ったようです。では、彼女はどっちを取るのか、それともどっちも取らない選択をするのか。彼女の選択はなかなかスリリングな様相を呈してくるのではありますが、ここで思わぬ後押しが入るのはちょっとご都合主義で残念な感じでした。

「ハンナ」「つぐない」「天使の処刑人」などで色々な役どころを演じているシアーシャ・ローナンですが、今回はいわゆる「よくいる感じの」女の子をリアルに演じていまして、ヒロインの成長物語ということでは、NHKの朝のテレビ小説のような味わいも出ました。そんな普通の感性のヒロインが、その身の丈なりの人生の選択をするのがささやかな感動を運んできます。脇を固める面々もキャラクターが際立つのは悪役のポジションになるおばさんくらいで、寮母さんやヒロインの母親、寮友なども控えめなキャラクター設定がリアルな存在感を表して印象的でした。ジョン・クローリーの演出も時代描写を丁寧にしつつも、ドラマチックな演出は控えめにして、普通の女の子の人生を細やかに描写しています。



この先、結末に触れますのでご注意ください。



故郷で何となく踏ん切りがつかないまま、ジミーに惹かれていく日々を送ってきたエイリッシュに、雑貨店の意地悪おばさんが声をかけてきます。彼女の親戚がニューヨークの役所に婚姻届けを出しに来たエイリッシュとトニーを目撃していたのでした。そのことで、ねちねちと絡んできたおばさんを一蹴した、エイリッシュはすぐに船便の予約をとり、母親に自分が結婚していたことを告げ、アメリカへ帰ると告げるのでした。そして、ニューヨークで、仕事を終えたトニーが外に出てみれば、道路の向かいで彼を待っているエイリッシュの姿を見つけるのでした。めでたし、めでたし。

遅かれ早かれ、アメリカへ戻るのか、アイルランドに留まるのかの選択をすることにはなるエイリッシュでしたけど、結婚していたことが故郷に知られてしまう事態になって、アメリカへ戻る決心をします。じゃあ、それがなかったらどうなっていたのだろう思うと、故郷に留まっちゃった可能性もあったように思います。故郷にいれば、母親も安心するだろうし、ジミーだって結構いい男だし、仕事だってある。そんなことはない、愛するトニーを裏切るなんてあり得ないとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。でも、私は、エイリッシュがそれほどの人格者じゃない普通の女の子にしか映りませんでしたから、ずるずると故郷に留まっちゃったんじゃないかって気がしています。そのうちに、トニーがアイルランドまでやってきてひと悶着起こしたかもしれないって予感もありましたし。でも、映画はエイリッシュがアメリカへ戻るというまっとうな選択をしておしまいということになります。でも、やっぱり並の弱さを持った人間なら、既婚者であることがばれなかったら、アメリカへ戻らないで、別の波乱の人生になりそうな予感がしました。ともあれ、彼女は、意地悪おばさんのいやがらせに後押しされて、アメリカへ戻る決心がついたわけですから、あの嫌なおばさんに感謝しなければいけないのかも。

彼女の場合は、国を渡ったという距離感があったのですが、これは日本で地方から東京へ出て仕事をしている女性のドラマにしても成り立つお話でして、それこそ、NHKの朝のテレビ小説にもなりそうな題材だなあって思いました。東京で生活の基盤を築いた女の子が、田舎へ帰ってまた別の生き方を提示されて、どっちを取るか迷うという話なら結構ありそうですもの。そういう意味で、感情移入しやすい映画であり、それは「わかりやすい」というところにつながったのだと思いました。

「ダーク・プレイス」はサイコスリラー風から、意外とまともな人間ドラマに.....。


今回は、新作の「ダーク・プレイス」を横浜のムービル4で観てきました。この映画館に来るのは久しぶりでしたけど、フラットな座席配置は、全席指定には不向きだなあって改めて実感。また、シネスコサイズのままで、ビスタ上映する今風の映画館になっちゃってるのも今イチかなあ。

1985年のアメリカ、カンザス州の田舎町で、母親とその娘2人が惨殺されるという事件が起きました。ただ一人、窓から逃げて無事だった8歳の三女のリビーは、警官からの質問に家族を殺したのは兄のベン(タイ・シェリダン)だという証言をします。ベンは裁判にかけられて実刑を受け、28年が経過します。有志の支援金や実録本の収入で食いつないできたリビー(シャーリーズ・セロン)に、ライル(ニコラス・ホルト)という若者が声をかけてきます。謝礼を払うから、彼の主催する「殺人クラブ」に来てほしいというもので、そこでは昔の殺人事件の見直しをするという変な団体でした。クラブメンバーは、リビーの事件の真犯人ではないという見解を持っており、さらに金を積むから、リビーに協力して欲しいと言い、経済的に困窮していた彼女はその申し入れを受けることになります。まず、服役中の兄のベンに面会するのですが、これという情報を得られません。事件当時、中学生だったベンは、当時流行った悪魔崇拝にはまっていました。また、金持ちの娘ディオンドラ(クロエ・グレース・モレッツ)と付き合っていて、彼女はベンの子供を身ごもっていました。そんなところへ、ベンが近所の娘たちに性的イタズラしたという話が持ち上がり、彼は警察にマークされることになります。母親はそんな息子に心を痛めていましたが、さらに悪いことに家賃が払えず、持っている農場から追い出される寸前の状態でした。そんな状況下で起きた殺人事件、一体、犯人は誰だったのでしょうか。

「ゴーン・ガール」のギリアン・フリンの原作をもとに、「サラの鍵」のジル・パケ・ブランネールが脚本を書き、メガホンを取りました。猟奇殺人で始まるお話ではあるのですが、そこから先のミステリー展開は、意外やまともな人間ドラマが展開されて、後味も悪くない、ミステリーの佳品に仕上がっていました。そういう意味ではショッキングな冒頭から、新しい人生への希望を見せた「サラの鍵」と似た構成のお話とも言えそうです。殺人事件の生き残りとして、そして兄を犯人と名指しした少女として生きてきたリビーの人生は、普通の人のそれとはかなり違っています。そのあたりを、シャーリーズ・セロンがきっちりと演じてみせていまして、彼女をキャスティングするだけの役どころを熱演しています。もう30代の後半なんだけど、人生斜に構えた少女のようなキャラがリアリティを感じさせるのが見事でした。少女のリビーのアップに、警官の声で「みんなを殺したのはベンだね」と言われて、うなずく彼女が何度かインサートされます。この瞬間に、リビーの人生は大きく変わってしまったのだということを印象づけていまして、果たしてこのうなずきが、本当に犯行を目撃したことを意味しているのかどうかもミステリーの要素となります。

でも、この映画のキーパーソンは、リビーよりも兄のベンの方です。中学生だけど、当時流行りの悪魔崇拝にはまって、わけのわかんないことをノートに書き綴ったり、髪を黒く染めたりして、母親を心配させています。いわゆる反抗期なんだけど、その反抗の形が、悪魔崇拝になったという感じでしょうか。実は彼女のディオンドラとその連れも、そっちの人で、ベンはそれに感化されていたという事情も描かれます。回想シーンで描かれるベンは、厄介な思春期ボーイではありますが、本当に家族を殺すことまでするかしらと思わせるところがミステリーになります。でも、悪魔崇拝って、日本では特殊な趣味の人くらいの扱いですが、クリスチャンの国だと、反コミュニティであり、社会の敵ということになっちゃいます。「デビルズ・ノット」でもそのあたりが描かれていたのですが、この映画でも、裁判で物的証拠が弱いのに、リビーの証言だけで有罪になっちゃったようなのです。裁判でも、悪魔崇拝をいきがって発言しちゃったようで、それも心証悪くしたようです。悪魔崇拝のヤバさと、思春期の危うさの両方を見せて、観客を惑わせるタイ・シェリダンの演技が見事でした。彼の演技は、この映画のミステリーの面白さにかなり貢献していると思います。

映画は、回想シーンと現在のシーンが交互に登場して、事件の全貌が少しずつ見えてくるという構成を取っています。現在のドラマでは、リビーがベンに面会に行き、その腕に女性の名前の入れ墨を観て取ります。ベンは妹が会いに来てくれたことを素直に喜んでいますが、でも事件のことで何か隠してることがありそうです。次に、リビーとライルは、ベンに性的イタズラをされたと証言したクリシーに会いに行きます。その結果、事件がでっちあげであったことがわかってきます。小学生だったクリシーがライルのことを大好きになっちゃうのですが、ライルは年長者の分別でやんわりと断ってしまいます。それを根に持ったクリシーは、友達も巻き込んで、ベンが女の子たちにイタズラしたと証言したのでした。

一方、ベンとリビーの母親は、たまに現れる元夫は金をせびるだけのサイテー野郎の上に、賃貸料が払えず、家と農場から追い立てをくらっていて、金に困っていました。その上に、ベンの弁護士料も払わなきゃならない状況でかなり追い詰められていました。ブランネールの演出は、ベンが殺人事件の犯人とは思えない、でもやったかもしれないというくらいの見せ方でドラマを引っ張っていきます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



そして運命の夜がやってきます。ディオンドラに駆け落ちしようとそそのかされたベンは、そのための金を盗もうと、二人で家に忍び込みます。すると長女に見つかったディオンドラがもみあいとなります。一方、母親は、自分の保険金を子供に残そうと、委託殺人の契約を結んでいました。役所の職員だったその男は、母親の金に困っているのを見て、委託殺人を持ち掛けていたのでした。そして、男は、家に来て母親を殺害しますが、そこでディオンドラが騒ぎを起こしたことで、次女も起き出してきた結果、男に銃で殺されてしまい、長女はディオンドラに絞殺されてしまいます。唯一、窓から逃げ延びたリビーだけが生き残ったのでした。

一方、現在のリビーは、行方不明になっていたディオンドラを、兄の入れ墨の名前をヒントに探し出し、彼女の家を訪れます。ディオンドラは、リビーの訪問に驚きを見せず、そして、ベンとの間に生まれた娘を彼女に紹介します。化粧室で、母親の十字架のネックレスを見つけたリビーは、ディオンドラが殺人現場にいたことを確信します。そして、帰ろうとしたリビーをディオンドラの娘が殴りつけます。真相を知ったと気づいたディオンドラがリビーを殺そうと銃を向けますが何とか家を脱出して森の中に逃げ込み、ライルに助け出されるのでした。その後、母親を殺した男が逮捕され、逃亡したディオンドラも逮捕され、ベンは釈放されることになります。ベンは、自分の子供の母親を守るためにその罪をかぶっていたのです。ベンに面会したリビーはもう昔のような兄妹の関係には戻れないと告げるのでした。おしまい。

クライマックスは、惨劇の夜とディオンドラの家を訪問したリビーをカットバックで見せていくのですが、このあたりの展開がドタバタしてしまったのはちょっと残念。事実は、母親は委託殺人によって殺され、次女はその巻き添えとなり、長女はディオンドラに殺されてしまったのです。全てを知っていたベンが口を閉ざしていたことが事を厄介にしていたのです。映画はラストで、ベンもリビーを新しい人生を歩みだすであろうという予感を示すので、後味は悪くありません。ミステリーとして見たとき、「殺人クラブ」のシーンで、委託殺人の犯人を追っているメンバーが登場するので、一応の伏線もあり、母親の窮状、長女のキャラなどが丁寧に描かれているので、真相は腑に落ちるものがありました。いわゆる小品の部類に入るのでしょうけど、娯楽映画としてもよくできていて、楽しめました。
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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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