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「インフェルノ」は巻き込まれサスペンスとしては面白いんだけど期待したものとちょっと違う。


今回は新作の「インフェルノ」を川崎の川崎チネチッタ12で観てきました。LIVEサウンドによる上映ということで、スクリーン前にスピーカーを増設して低音を補強した音響での鑑賞となりました。

地獄の悪夢から目覚めたラングトン教授(トム・ハンクス)が目覚めたのは、イタリアのフィレンツェの病院の一室でした。記憶がはっきりとしないラングトンに、医師のシエナ(フェシリティ・ジョーンズ)が銃弾が頭をかすめて朦朧とした状態で病院にかつぎこまれたのだそう。そこへ、警官の恰好をした女が現れ、看護士を射殺、シエナはラングトンを連れて逃げ出し、彼女のアパートへ逃げ込みます。パソコンで自分宛のメッセージをチェックすると友人のイニャツィオから「我々の盗んだものは天国の25に隠した」というメイルがありました。ラングトンの上着に入っていたバイオチューブの中にはポインターが入っていて、それを壁に照射するとボッティチェリの地獄の見取り図が現れます。その中にあったゾブリスト(ベン・フォスター)という名前を検索すると、富豪の生化学者で、世界のために人間の人口を減らすべきだという結構危ない人でした。どうも、この人がやばいウィルスを開発したらしく、さらに3日前に彼は自殺していたのです。アメリカ領事館へ電話したところ、例の警官の恰好をした女がまた現れ、さらに、かつてラングトンと恋愛関係にあったシンスキー(シセ・バベット・クヌッセン)率いるWHO(世界保健機構)の連中までが、ラングトンを追ってきます。彼とシエナは逃げながらも、なぜ自分がフィレンツェにいて、ウィルスがどうなっているのかを探ろうとします。どうやら、事態は一刻を争う状況になってきているようなのでした。

「ダヴィンチ・コード」「天使と悪魔」のダン・ブラウンの原作を、「ジュラシック・パーク」「天使と悪魔」のデヴィッド・コープが脚本化し、「ラッシュ」「白鯨との闘い」のロン・ハワードが監督しました。ラングトン教授シリーズの前2作はハッタリと蘊蓄の面白さでサスペンスを盛り上げた面白い作品だっただけに、そこそこ期待するところありました。まあ、突っ込みどころもいっぱいあった映画でしたけど、そこのところを映画の勢いで楽しませるパワーがありました。今回は、冒頭から地獄のイメージショットが何度も挿入されるホラータッチの展開から、よくわからないけど追われるラングトンが謎解きしながら逃げ回るスリラータッチになっています。前2作では、事件が起こってラングトン教授が呼ばれるというパターンだったのですが、今回は冒頭から、怪我してるは、幻覚見るは、完全にラングトンが巻き込まれ主人公になっちゃっています。今回のネタはダンテの神曲でして、彼にまつわるラングトンの蘊蓄が事件の謎を解いていくという展開になっています。また、「ダヴィンチ・コード」と同様のものすごい手の込んだダイイングメッセージのミステリーでもあります。

映画は、WHOのブシャール(オマール・シー)に、教会の尖塔に追い詰められたゾブリストが飛び降りて自殺するシーンで始まります。そこから、病院で目覚めて、地獄の幻覚に悩まされるラングトンのお話になります。そこから先は、よくわからないけど追われるラングトンの逃走劇となり、巻き込まれたシエナと一緒に、殺人ウイルスの謎に挑むという展開になります。WHOだけでなく、危機統括機構という施設組織の総監シムズ(イルファン・カーン)もラングトンを追っていました。金持ちの依頼を受けて動く、汚れ仕事も含む、よろず引き受け業らしいのですが、すごい情報網を持っています。シムズは、部下にラングトンの殺害指令を出し、彼を追い詰めていきます。一方、WHOはウイルスを追っているのですが、ラングトンがそのウイルスのありかを握っていると思っているようで、それで彼を追っているのでした。このあたりは、正直わかったようなわからないような展開でして、前2作と同じく勢いで見せる映画になっています。作りとしては、「天使と悪魔」に近い、かなり大味な映画になっていまして、ライド感を楽しめればいいかなくらいの映画に仕上がっています。ハッタリは買いますし、観ている時はその展開も楽しめるですが、観終わってすぐ内容を忘れちゃう感じなのですよ。

ポインターにあった地獄の見取り図にあった文字をアナグラムして「探せ、見つけよ」という言葉を導き出したラングトンは、ウフィッツィ博物館へ向かいます。この後、ゾブリストの残したメッセージを追うのですが、ダンテのデスマスクを前日にラングトンが友人と盗み出している映像が見つかって、そこからも逃げる羽目になります。そして、メールのヒントから見つけたデスマスクには、ウイルスへとつながるメッセージが残されていました。そして、ヴェネツィアへと向かうラングトンとシエナ。一方、シムズは、依頼主でもあるゾブリストからのメッセージを見て、今日中に殺人ウイルスが世界中にばらまかれることを知り、自らフィレンツェに赴き、シンスキーに協力を申し出ます。

殺人ウイルスをどっかの国に売り付けて金にしようとする者まで現れるので、話はさらに厄介な方向に向かいます。盛沢山なお話を2日間という時間に凝縮して、勢いで見せちゃう作りは、それなりに成功していまして、観ている最中は、あまり突っ込み入れずに映画を楽しむことができました。その中でちょっとしたアクセントになっているのが、人口増加によって、人間は遠からず滅びるというゾブリストの主張。そのため、殺人ウイルスで人口を今の半分にしようというのです。映画の中で、この話は狂人の戯言ではない、説得力のあるものとして描かれていまして、彼の主張に共鳴するものが、彼の死後も、ウイルスの蔓延をサポートしようとするのが、後半のサスペンスにつながっています。「ダヴィンチ・コード」の時より、かますハッタリのベクトルが変わったという気がするのですが、個人的には半端にリアルよりも、「ダヴィンチ・コード」の時のような大嘘かましてくれた方がこういう映画にはお似合いのように思いました。

トム・ハンクスは今回は巻き込まれ主人公なので、ラングトン教授のキャラにうまくはまらなかったのが残念でした。また、これまた巻き込まれヒロインのフェシリティ・ジョーンズも、キャラの軸がぼけてしまったのかあまり印象に残るところがありませんでした。オマール・シー、イルファン・カーンという個性的な面々もドラマの中であまり生きなかったような気がして、全体に役者の扱いがもったいなかったかなって気がしました。また、ハンス・ツィマーの音楽が前2作ほどのハッタリがなく、いわゆる普通のサスペンスアクションの音づくりになっていたのも、減点。大嘘、大ハッタリをかます映画として前2作を楽しんだ私としては、その期待には応えてくれなかったという感じでしょうか。ネタとしてもダンテは地味だったのかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ブシャールはウィルスをどこかに売ろうと二人を独断専行で追跡していました。ラングトンとシエナは、ゾブリストの謎を解いて、ウィルスがイスタンブールにあるところまで突き止めます。しかし、ブシャールに追い詰められたシエナはラングトンを見捨てて、一人で逃亡。彼女はゾブリストの恋人で、彼の遺志を継いでウィルスを蔓延させようとありかを探っていたのでした。ブシャールにつかまったラングトンを救ったのは、危機統括機構のシムズでした。彼は、シエナの依頼で、ラングトンを拉致して、病院へ運んだと思わせ、そこでシエナと一緒に逃亡するように仕向けて、ラングトンにウィルスのありかを割り出させようとしていたのでした。しかし、シムズもゾブリストの意図を知って、WHOに協力を申し出て、ラングトンを探していたのです。シムズ、ラングトン、そしてWHOのシンスキーは、ウィルスの拡散を阻止すべくイスタンブールへと飛びます。ウィルスは地下の貯水槽に仕掛けられていました。その夜はそこでコンサートが行われていましたが、シエナたちが、爆弾を持ってやってきます。WHOのメンバーは、ウィルスを探し出し、何とか確保しようとしますが、シエナは爆弾を爆破させ、ウィルスのビニール袋は密封容器に入れられていたもののショックで破裂。そこで、容器の蓋を開ける開けないの格闘になり、ラングトンがからくも勝利をおさめて、ウィルスの拡散は免れたのでした。めでたしめでたし。

ラストはラングトンの肉弾戦になっちゃうあたりも、これまでのパターン破りのようで、どうやらシリーズも3作目ということで、色々とそれまでと違うことをやろうとした節があるのですが、それがこちらの期待してたものと違っていたのは、私には残念でした。新しいパターンの展開を歓迎する方もいらっしゃるでしょうから、そこは好き好きということになると思います。私は、のっけから地獄のイメージがばんばん画面に出てくるのに「何じゃこりゃ」と思ってしまって、その先の展開の乗れなくなっちゃったもので、こんな感想になってしまいました。巻き込まれノンストップサスペンスとしては、決して悪い出来ではないのですが、何だか期待したのと違うなあっていう違和感が残っちゃいました。
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「手紙は憶えている」は、認知症老人が元ナチを追い詰めるって、本当にできるの?


今回は新作の「手紙は憶えている」を川崎のTOHOシネマズ川崎で観てきました。シネスコ画面のまま予告編からビスタサイズの本編までの上映。なら最初からビスタサイズにしとけよと思うのですが、それだけの手間を省くほど経営苦しいんですかね。

老人ホームの一室で目覚めたゼブ(クリストファー・プラマー)は妻の名を呼びますがそれに答える人はいません。彼の妻は1週間前に亡くなり、彼自身も認知症が進行していました。同じホームの友人マックス(マーティン・ランドー)と、妻の喪が明けたら、ある事を実行することを約束していました。マックスは彼の病状を知っていて、彼の境遇とやるべきことを全て手紙に書いて、彼に渡します。実は、ゼブもマックスもアウシュビッツの生き残りでした。彼らの家族を死に追いやったナチのオットー・バリッシュがルディ・コランダーと名前を変えてアメリカ国内に潜んでいるという情報を得て、車椅子と呼吸器の離せないマックスが、金やチケットを手配しました。ゼブは、4人いるルディ・コランダーを訪ねて、本物のナチを探し出して殺そうというのです。でも、認知症は進行しており、彼は記憶が薄れる度に、マックスの手紙を読み返して、自分が今やっていることの確認をしなければなりません。最初に訪ねたコランダー(ブルーノ・ガンツ)はアウシュビッツに行っておらずバリッシュではありませんでした。次に訪ねたコランダーはドイツ人でしたが、同性愛者ということで収容所に送られた側の人間でした。次に訪れたコランダーは既に亡くなっていましたが、息子のジョン(ディーン・ノリス)がいて、彼の遺品を見せてくれました。どうやら、ジョンの父はナチだったようです。では、この男がオットーだったのでしょうか。そして、ゼブの復讐の旅もここで終わりを告げることになるかしら。

ベンジャミン・オーガストのオリジナル脚本を「デビルズ・ノット」「白い沈黙」のアトム・エゴヤンが監督したサスペンスミステリーの一編です。ナチの戦犯追及の執拗さはメディアでもよく語られているところです。映画でも「マラソンマン」「ブラジルから来た少年」なので、その様子が描かれていますが、戦後70年も経った今、戦犯もその被害者も高齢となり、生き残っている人も数少なくなってきています。そういう現代で、アウシュビッツの生き残りの老人が、家族を奪ったナチ将校に復讐しようという話は、見た目ちょっと滑稽である一方で、その執念には怖いと思わせるものがありました。ゼブという老人は、半分ボケちゃっているのですが、マックスからの手紙を事あるごとに読み返しては、バリッシュへの憎しみを甦らせるのです。その様はある意味滑稽ですが、そこまでして復讐の念を忘れないようにするあたりに、このドラマの不気味さが出ました。ダイナーで手紙を読んでいたら、コーヒーをこぼされてあたふたしちゃうところなど、笑えるのですが、手紙がないと復讐できなくなっちゃうのですよね。観ていて、このじいさん大丈夫なのかな、最後まで復讐を忘れずにやり遂げることができるのかというところにサスペンスが生まれます。

ゼブはそれほと人懐こいタイプではありませんし、見た目はちょっといかつい感じなのですが、ゼブは老人だからということで、行く先々で、親切に扱われるのが面白いと思いました。そのおかげで、認知症なのに一人旅を続けられるのですよ。どこか滑稽にも見える旅なのですが、そこにある強い意志が一本通っているところにドラマの奥行が生まれました。70年という時間を超えた復讐の物語なのですが、その実行が1通の手紙が頼りだというのは、ちょっと頼りなくもあるのですが、それでも、ゼブは見つけたコランダーを確認しつつ復讐を遂行しようとするのです。ちょっとおかしくて、そして怖ろしいロードムービーということになるのでしょうが、エゴヤンの演出は、近作の「デビルズ・ノット」「白い沈黙」のような俯瞰的な視点でドラマの空気感を出すのではなく、ゼブの行動を丹念に追って物語を綴っていくことで、ミステリーの面白さも出すことに成功しています。淡々とした展開ではあるのですが、そこに引き込まれるものがあり、面白いのですよ。アウシュビッツの後日談という重い設定ではあるのですが、そこにきっちりと作り込まれたドラマは娯楽映画としての見応えも十分です。彼の行く先々で、サイレンの音、スピーカーからの声、収容所のような部屋割りなど、収容所を想起させるものが何度も登場するのも面白く、それがきちんとドラマの伏線にもなっているのは見事でした。

また、メインプロットではないのですが、ゼブが3人目に訪問するコランダーの息子が警官なんだけど、父親の影響でナチの信奉者だという展開が結構怖いです。最初は、ゼブを亡くなった父親の友人だと思って歓迎するのですが、彼がユダヤ人だと知ると、ものすごい剣幕で彼を罵倒するのですよ。ユダヤ人差別もきっちり父親から継承されているようです。ハーケンクロイツを父親の部屋に飾っていて、父親の友人もナチらしいです。アメリカは色々な人種が集まっているし、そういうのがいてもおかしくはないのでしょうけど、こういうふうに見せられるとやっぱり怖いです。70年越しで元ナチを追う人間もいる一方で、そのナチズムに染まっている次の世代がいるというところに、この映画の現代性を再認識します。そっかー、この映画は現代の今を描いた映画なんだなあって。

メインのお話は、主人公の復讐譚なのですが、それが本当にうまくいくのか、本物のオットー・バリッシュに出会えるのかというところのサスペンスにどんどん引き込まれていきます。アウシュビッツの後日談のという重い題材を扱っているのですが、それを認知症の老人の復讐というドラマにしたことで、娯楽映画としてもかなり面白く仕上がっていますので、何だかヘビーな話だと思って敬遠しないでご覧になることをオススメします。正直、面白さで言ったら、今年のベストワンではないかしら。

演技陣では、やはりクリストファー・プラマーが認知症の老人を演じて貫禄を見せます。一方で、復讐をバックからサポートするマックスを演じたマーティン・ランドーが執念の男を熱演していて、登場シーンは少ないながら、見せ場をさらいます。登場する老人を演じる面々は皆実年齢より年上を演じているので、メイクで老け込ませていまして、ユルゲン・プロクノフなどはほとんど特殊メイクのレベルで、元ナチかもしれない男を好演しています。マイケル・ダナの音楽が、ゼブの危うい復讐を描写する不安を煽る音作りでドラマの空気を支えているのも見事でした。ポール・サロシーのキャメラは、登場人物の演技をじっくりと追うキャメラワークで、物語で見せるドラマを支えています。



この先へ結末に触れますのでご注意ください。(マジ読まない方がいいです。)



3人目のコランダーはナチのコックで、探していた男とは別人でした。息子のジョンは、ゼブがユダヤ人だと知り、彼を罵倒し猛犬をけしかけてきました。ゼブは、犬とジョンを射殺し、そこを去ります。そして、4人目のコランダーを訪ねます。その時、クレジットカードを使ったことで、息子のリチャード(ヘンリー・ツェニー)が彼の居所を見つけ、タクシーの行先を聞いて、父親の後を追います。訪ねたゼブ(ユルゲン・プロクノフ)を迎えたコランダーは、意外にも彼を歓迎します。そんな彼に銃を向け、顔まではわからないがその声は憶えている、お前がオットー・バリッシュだと言うゼブ。驚いた顔をしたコランダーは、家族の前で、自分はアウシュビッツの犠牲者ではなく、ナチ側の人間で多くの人を殺したと告白します。しかし、自分はクニヴェルト・シュトルムで、オットー・バリッシュではないといい。ゼブに向かって、お前がオットー・バリッシュだと言います。そして、身分をごまかすために連番の囚人番号の入れ墨をしたと彼に言います。ゼブはコランダーを射殺し「思い出した」と言って、自分のこめかみに銃口をあてます。その事件のニュースが老人ホームで流れています。本人は何をしていたのかわからなかったのかねえと老人たちが話していると、マックスが「殺されたのはクニヴェルト・シュトルム、ゼブはオットー・バリッシュで、彼はちゃんと自分のしたことをわかっている。」と言うのでした。おしまい。

私は察しが悪いのか、この結末は読めませんでした。物語にうまく乗せられていたということもあるのですが、その語り口のうまさは見事だったと思います。途中で、収容所を連想させるアイテムがいくつも登場するのに、ゼブは全然動揺しないとか、銃を買う時に使い方を紙に書いてくれというくらいのゼブが至近距離でないジョンの心臓と頭を撃ち抜くあたり、でき過ぎじゃないかと思ったりもしたのですが、それも彼がナチだったという伏線だったと気づいて感心しちゃいました。なるほど、ミステリーとしてもよくできてるわ。また、飛行機で行けるところへの移動をわざと陸路にして、ゼブを肉体的にも追い詰めていくマックスの念の入った復讐も見事。ラストで、全てがマックスの復讐として決着するという見せ方もうまいと感心しちゃいました。

また、この映画はねつ造された記憶をネタにしたミステリーでもあります。子供が大人になって、後から植え付けられた記憶によって、親に性的暴力を受けたという訴訟が実際にアメリカで起きて、問題になったそうです。記憶というものはそれくらい脆いものであるのですが、その現代的な題材を、復讐譚のトリックとして使っている点でも、この映画よくできていると思います。認知症で、記憶が怪しくなっているゼブに、自分がアウシュビッツの犠牲者だという記憶を刷り込んで、二人の敵を一気に葬るという手の込んだ復讐をするマックスの執念には恐れ入るばかりですが、元ナチの追及というところで、納得させられてしまいました。元ナチの追及というドラマとしても、復讐のミステリーとしても見応えのある面白い娯楽映画になっているあたり、脚本の面白さもさることながら、エゴヤンのドラマ語りのうまさが大きく貢献していると思いました。

「われらが背きし者」は渋い展開のスパイスリラーですが、わかりやすい人間ドラマとして見応えあり。


今回は新作の「われらが背きし者」をTOHOシネマズ川崎4で観てきました。晩秋は、お正月映画までのつなぎで色々な映画がばたばたと公開されるのですが、一番掘り出し物に出会うことも多いので、劇場に足を運ぶのが楽しみな季節でもあります。

夫婦仲が今一つのペリー(ユワン・マクレガー)とゲイル(ナオミ・ハリス)は関係改善の意味も込めて、モロッコに旅行に来ていました。レストランで食事中、ゲイルに仕事の電話がかかってきて、席を外したとき、同じ店にいた、ディマ(ステラン・スカルスガルド)というロシア人が声をかけてきました。ディマは彼をパーティに招き、テニスに誘ったりとやけに親しげです。彼の娘の誕生パーティに夫婦で招かれたペリーとゲイルですが、ディマは、ペリーにUSBメモリを託し、これをイギリス政府の人間に届けて欲しいというのです。彼はロシアン・マフィアの帳簿係だったのですが、マフィアのボスが政府側と結託し、さらにイギリスにマネーロンダリングのための銀行を設立しようとしていました。既に、もう一人の帳簿係がマフィアの手によって消されていたので、イギリス政府に銀行設立の賄賂を受け取った人間のリストを渡して、家族の保護を頼もうとしていたのです。ペリーはそのメモリを受け取り、空港の税関で政府側に引き渡します。でも、ぺりーは、MI6のヘクター(ダミアン・ルイス)に尋問を受け、尾行までつけられちゃいます。ヘクターはかつての上司で今は政治家のロングリッグ(ジェレミー・ノーサム)がこのロシアン・マフィアの銀行設立に一枚噛んでいるのを知り、上層部の承認を受けないまま、作戦を遂行することにします。ディマがペリーがいるところでないとMI6と接触しないと言い出したことで、ペリーとゲイルは、ヘクターたちと一緒にパリに向かうことになります。パリには、ディマが娘と一緒に来ていましたが彼らの周囲にはロシアンマフィアがうろうろ。そんな中で、ディマはヘクターに情報を渡すのですが、それでは不充分と言って、賄賂の口座番号を求めてきます。果たしてディマとその家族は無事にイギリスへ入国できるのでしょうか。

「裏切りのサーカス」「ナイロビの蜂」のジョン・ル・カレの原作を「日陰のふたり」「鳩の翼」のホセイン・アミニが脚色し、テレビでの実績があるスザンナ・ホワイトが監督した、スパイスリラーの一編です。主人公ペリーは大学教授で、詩を教えているという、スパイとはすごく縁のなさそうな男。そんな彼がたまたまロシアン・マフィアの男に声をかけられたことが縁で、家族を含めて、彼らの亡命に巻き込まれてしまうというもの。そういう意味ではいわゆる巻き込まれ方のスリラー映画ということもできるのですが、要所要所で、ペリーは選択を迫られたとき、ディマを見捨てることもできたのですが、それをしなかったことで、単なる巻き込まれ方のパターンとは違う味わいが出ました。妻のゲイルも最初はロシアン・マフィアに巻き込まれるなんてと思いながらも、子供たちの命を救いたいというところで夫と行動を共にすることになります。もう一人のキーマンとなるMI6のヘクターはかつての上司の不正を暴こうとして失敗し、逆に息子の麻薬所持を密告されたという過去を持っていて、その上司が政治家として、この銀行の設立に一枚噛んでいるのを知って、ロシアン・マフィアからの金の流れを暴こうとしているのです。そういう意味では、ヘクターにとっては、ディマは自分の仕事を実行するための持ち駒の一つであり、ペリーとゲイルはその持ち駒を生かすための一般市民ということになります。一方で、ディマは自分の家族を何としても助けたいと思っていて、ぺりーとゲイルも彼の家族を助けるためならということで、MI6に協力することになります。

しかし、イギリス政府は、新しく設立される銀行の不正を暴くのにロシアンマフィアの手を借りることには消極的で、さらにそんな奴を入国させるなんてとんでもないと突っぱねてきます。それでも、ヘクターは独断専行で事を進め、ロシアンマフィアの金を受け取ったイギリスの政財界の人間を告発しようと画策するのです。スパイスリラーというと、巨大な組織とちっぽけな個人の闘いとか、非情なスパイの世界が前面に出てくるのですが、この映画では、ストーリーは確かに個人と組織の闘いなんですが、その見せ方は人間臭いドラマになっています。ペリーとゲイルがディマのために行動するのは、ほとんどボランティアの世界ですし、マフィアの帳簿係であるディマは家族思いのよき父という描き方をされています。ヘクターも作戦を指揮する非情な男という側面を持ちながらも、ディマと家族の命を救うべく動き回る男として描かれています。

ストーリーは二転三転するといった込み入ったものではなく、最近のこの類の中ではかなりシンプルなものでして、そのシンプルなストーリーをホワイトがきっちりと人間ドラマに仕上げて、2時間弱にまとめています。映画が終わったとき、「え、これで終わり?」と思ったのですが、それには2つ理由がありまして、1つは時間が短く感じられたこと、もう1つは派手な見せ場をクライマックスに持って来なかったことがありました。それでも、1本の映画を観たという満足感はありましたし、後味も悪くなく、面白い映画だったという感想を持てました。最近、あまり観ないタイプの映画ではありましたけど、こういう渋いドラマもいいよねと思わせるものがありましたから、機会があれば一見をオススメします。「裏切りのサーカス」のように、人間関係を反芻しながら見るような、頭を使わせる映画ではありませんが、ドキドキハラハラのサスペンスもあり、スパイ戦の非情さも描かれまして、なかなかの見応えの一編です。

ホワイトの演出は、マフィアや政府側の動きをあまり描かず、ペリーとヘクターの視点でのみドラマを展開させていきますので、事態の全貌がわからないつくりになっています。あくまで個人の視点というレベルから逸脱しない展開は、客観性を欠く見せ方である一方で、臨場感と不安感を感じさせるのに成功していまして、登場人物に感情移入しやすいドラマになっています。その結果、非情な組織に対して、普通の人間がジタバタするドラマとしての見応えも生まれました。あくまで人間を描くことにこだわったドラマは、結構新鮮な感じがして、スパイものなのに、派手な見せ場がなくても、映画として成り立っていることに感心しちゃいました。

ドラマが大きく動くのはスイスのベルンで、マフィアが新設銀行の関係者に賄賂を送るシーンでして、ディマがマフィアのボスと賄賂の受け渡しを行っているのと並行して、アインシュタイン記念館に出かけた家族を保護するという展開になります。このシーンの前に、ヘクターが独断専行で事を進めているので、MI6側のメンバーが3人しかいなくて、ペリーとゲイルも作戦に協力せざるを得なくなるというシーンがあります。ここでもペリーは手を引けたのですが、ヘクターと一緒にベルンへ行くことになっちゃうのですよ。ディマのためにそこまでやるのかということを明確には説明しないままドラマは進むのですが、そういうこともあるんだろうなと思わせるあたりは演出の妙なのでしょう。ともあれ、ベルンで、ディマとその家族は、ペリーの協力もあって身柄を確保されるのですが、イギリスの外務省が彼らの入国を拒否したため、一時的にアルプス山中のMI6の隠れ家に身を寄せることになっちゃいます。

この映画を支えているのは、ドラマとしての面白さもあるのですが、主演の4人の好演も大きいと思います。4人とも激しく感情を表現するような見せ場はないのですが、それぞれのキャラを物語の展開の中できっちりと表現していまして、特にステラン・スカルスガルドのマフィアの帳簿係と子供の父親の二つの顔を破綻させないで表現した演技が見事でした。また、前半は権力側の人間として登場するダミアン・ハリスが、ポーカー・フェースの向こうに人間味を垣間見せていくのを好演しています。ユワン・マクレガーは、巻き込まれた割には、自分から火中の栗を拾いに行ってしまう善意の市民をうさん臭く見せずに演じ切りました。スーパーヒーローとは程遠い主人公をリアルに演じて、ドラマを嘘臭くしていないあたりは見事だと思いました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ロンドンからの連絡で、まずディマだけをロンドンに迎えるためヘリを送るとのこと。一方、隠れ家にいたディマの娘が彼氏に電話してしまったことで居場所が割れてしまい、追手がやってきます。ペリーと家族は地下室に避難して、ヘクターの部下とディマが迎え撃つと、銃声と人の倒れる音。ペリーが外に出て、ディマを探すと、彼は追手に殴り殺される寸前、ペリーはディマに渡された銃で追手を射殺します。翌朝、ヘリの待ち合わせ場所に向かうディマにペリーも同行することにし、ゲイルと家族は別の隠れ家へと向かいます。迎えのヘリが来た時、ディマは急にペリーに、自分は一人で行くから家族を頼むと言って、ヘリに乗って飛び立つディマ。しかし、ヘリは飛び立った直後爆発してしまいます。そして、家族はイギリス政府に保護されたことが示されます。自宅で料理をしているヘクターを、ペリーが訪れ、ディマが遺した拳銃を渡します。ペリーが帰った後、ヘクターは銃口の中にメモを発見、そこには、ロシアン・マフィアから賄賂を受け取った人間の口座番号が記録されていたのでした。おしまい。

ヘリに乗り込む前に何かを感じ取ったのかディマはペリーに一緒に来るなと言います。そして、ヘリが爆発した後は、家族がロンドンに着いたシーンがちょっと映った後、エピローグのヘクターの家のシーンになるという、あっさりとした展開になっています。そこでおしまいなので、「え、もう終わり?」という感想を持ってしまったのですが、大きなドラマチックな山場をあえて作らない見せ方が新鮮に見えてしまったことは、前述のとおりでして、キャストも地味で、派手な見せ場もない映画ですが、それでも面白く作ってあるのは、原作の強みもあるのでしょうが、脚色や演出がきちんと人間ドラマを描いているからだと思います。どっちかというと小品の部類に入る映画ですが、読書の秋に観るにふさわしい渋い逸品としてオススメしちゃいます。

「戦場からのラブレター」は第一次大戦を生き抜いた女性の実録ドラマとして見応えあり、でも邦題はひどいよね。


今回は、日本では劇場公開されず、DVDスルーになった「戦場からのラブレター」をDVDをゲットしての自宅鑑賞となりました。そもそも、この映画を観ようと思ったきっかけは、ブログの師匠pu-koさんの記事を拝見したからでして、後、主演が旬のアリシア・ヴィキャンデルで、音楽がごひいきのマックス・リヒターで、DVDが1000円だったという3つの理由で食指が動きました。

1914年のイギリス、いいところのお嬢さんであるヴェラ(アリシア・ヴィキャンデル)は弟エドワード(タロン・エガートン)と友人のビクター(コリン・モーガン)と楽しい日々を送っていました。そして、ローランド(キット・ハリントン)と恋に落ちます。ヴェラは、大学に進んで物書きになりたいと考えていましたが、両親は彼女に幸せな結婚を望んでいました。そんな両親を弟が説き伏せ、ヴェラはオックスフォード大学を受験して見事に合格します。しかし、第一次世界大戦が始まり、大学進学予定だったエドワードもローランドも軍へ志願することになります。自分ののんきに勉強している場合ではないと考えたヴェラは自ら看護奉仕隊に志願し、ロンドンの病院で働き始めます。前線から休暇で戻ってきたローランドは、戦場での過酷な体験で我を失いかけていましたが、ヴェラはそんな彼を励まします。彼は、ヴェラに求婚し、次の休暇の時に結婚しようと約束します。そして、ヴェラのもとに彼がクリスマス休暇に戻ってくるという連絡が来るのですが.....。

ヴェラ・ブリテンの自伝的小説を原作に、ジュリエット・トウィディが脚本化し、テレビやドキュメンタリーで実績のあるジェームズ・ケントがメガホンを取りました。幸せな人生が待っていると思われたヒロインの前に戦争というものが立ちはだかるというお話でして、後年、ヴェラ・ブリテンは平和主義者としての活動を続けたのだそうです。両親がちゃんとしていて、弟も優秀らしく、弟はヴィクターを姉の彼氏と考えていたのですが、後から現れたローランドのことをヴェラは好きになり、二人はお互いに愛し合うようになります。それでもロンドンで二人きりのデートはできなくて、叔母さんが同行するという珍妙なデートシーンが登場します。これを見ても、彼女がいいところのお嬢さんらしいことが伺えます。DVDの解説だと、彼女の家は中流階級だと説明されているのですが、日本の中流とはかなりレベルの違う中流だと申せましょう。

二人が愛し合うようになるのと同時に国際情勢はきな臭くなっていき、ヴェラが大学に合格する頃には、イギリスはドイツと戦争状態となります。エドワード達も学業に励んでいる状況ではないと軍に志願していきます。エドワードも父親の大反対にあうのですが、ヴェラも一緒になって父親を説得します。戦争ってどういうものかという実感もなく、すぐに終わるだろうからという何の根拠もない言葉で父親を説得するヴェラ。しかし、戦争はどんどん拡大していき、ローランドもフランスへ出兵し、当初は弱視で不合格になっていたビクターも兵士として戦場へ旅立っていきます。そうなるとヴェラも勉強している場合じゃないと思い始め、従軍看護士としてまずロンドンの病院で働き始めます。休暇でロンドンに帰ってきたローランドに再会すれば、戦場で人格が壊れかかっています。この映画は、戦場とか野戦病院の状況が描かれますが、「プライベート・ライアン」のようなリアルなグロ描写はありません。そこを物足りないと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、ドラマ重視の演出になっていまして、インパクトのある映像でドラマが霞まないようにしていると解釈しました。ともあれ、そんなローランドを励ますヴェラですが、彼女もこの時点では戦争そのものへの嫌悪感を持っているわけではありません。しかし、戦争は、ヴェラから色々なものを奪っていくのです。

「エクスマキナ」のロッド・ハーディの撮影が美しく、シネスコの大画面の引きのショットは映画館で観たいなあって思わせるものでした。やっぱり、家のテレビだと、映像のよさは半減、というか、よくわからないのですよ。この絵を劇場の大画面で見たらきれいなんだろうなあって想像しても、想像力だけでは補えきれないものがあります。やはり、映画は劇場で観ないと絵のよさはわからないというのを再認識させられました。マックス・リヒターの音楽は、幸福なヴェラのシーンで美しい旋律を聞かせ、後半の戦争に突入してからも、上品なタッチを崩さないで、ドラマの統一感を支えています。

後年の彼女は、平和主義者として活動したそうなのですが、ラスト近くで登場する政治討論会(みたいの)のシーンで、彼女が敵味方の問題ではなく戦争そのものがいけないことではないかという趣旨の発言をして、労働者階級の人々から「何、こいつ?」みたいに見られてしまいます。前線の野戦病院で、ドイツ兵の看護もした彼女からすれば、戦争の当事者でない銃後の人間が、戦争の勝ち負けを一喜一憂するのは、戦争の本当のところを知らない人々ということになるのでしょう。でも、銃後の人間をそういう括りで、ある意味見下してしまうのはいかがなものかとも思ってしまいました。政府のプロパガンダを真に受けて、充分な情報もないまま、肉親の死傷と、戦争の勝利のみを突きつけられたら、ヴェラのような見解を持つのは難しいでしょう。そう考えると、労働者階級の人々にとって第一次大戦というのはどういう戦争だったのかというところに興味が出てきました。一方で、戦争そのものの負の側面を小説として世に問うたヴェラ・ブリテンの功績も認めたいところです。現代は、情報化社会になって、市民がどういう情報を知っているのか、与えられているのかということの重要性が強く認識されるようになりました。単に、戦争賛成だから愚かであるとか、戦争反対だから左翼だとか、単純な決めつけはしない方がいいね、という世の中になってきました。今だからこそ、情報操作の視点から、この時代のお話を見直してみるのも意味のあることではないかと気づかされる映画でもありました。

演技陣はみなツボを押さえた演技で、当時の空気感を出すことに成功しています。アリシア・ヴィキャンデルは、今の活躍が納得の、力強いヒロインぶりが見事でした。戦争に翻弄されながらも我を失わない強さに説得力がありました。また、彼女の両親をドミニク・ウェストとエミリー・ワトソンが演じてまして、彼らもそういう世代になったんだなあってのにちょっとしみじみ。ヒロインを囲む男性陣の品の良さを感じる好演でドラマをささえています。ヴェラのことをずっと好きだったんだけど、ローランドと愛し合う彼女によき友人として接しようと努めるヴィクターを演じたコリン・モーガンが、そのいい人ぶりで泣かせます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



クリスマス休暇でローランドの帰ってくる日に、彼の訃報が届きます。鉄条網修理中に狙撃されたそうで、苦しまずに死んだと言われるのですが、その後、ヴェラがその隊にいた兵士を探し出して話を聞くと、被弾後、何時間も苦しんで死んだのだと知らされます。ビクターは負傷して視力を失って、ヴェラのいる病院に運び込まれ、ヴェラは彼に一生付き添いたいと言いますが、ヴィクターはそれを笑顔で断り、数日後に帰らぬ人となります。弟のエドワードはフランスへ送られ、ヴェラも志願して、フランスの野戦病院の勤務につきます。重傷者たちが運び込まれる血生臭い仕事の中で、戦地を移動したエドワードが彼女のいる病院に運び込まれます。ヴェラは必至で看護して、エドワードは一命を取り止め、再び戦場へと向かうのでした。そして、彼女は実家へと連れ戻され、家事を取り仕切ることになりますが、再びロンドンの病院で働き始めます。そこへ、エドワード戦死の報が届き、彼女は、愛する弟、愛し合った人、彼女を愛した人全てを失ってしまいます。そして、終戦、彼女は大学へ戻りますが、戦争で傷ついた彼女の心は閉ざされたままでした。そんな彼女を後輩の学生が彼女の心を開き、新しい人生へと歩み出すのでした。おしまい。

戦争が愛し愛される者みんなを奪ってしまうという展開ですが、ラストでそれでも彼女は立ち直って、新しい人生と向き合うという結末は、悲惨なお話の中の希望となり、後味は悪くありません。波乱万丈のドラマを、2時間強の中できっちと語りきったジェームズ・ケントは職人的うまさを見せました。ヒロインに愁嘆場を演じさせなかった演出も、ドラマに骨太な味わいを加えていて、背筋を伸ばしたヒロインの成長談として、見応えのある映画に仕上がっています。それだけに、映画館で観たかったよなあ。

「ミモザの島に消えた母」はいわゆるミステリーホームドラマ、でも主人公や展開に共感できないのはお国柄の違い?


今回は、東京での上映を終了している「ミモザの島に消えた母」を、横浜のシネマジャックで観てきました。ここは、最近椅子を新しくしたということなんですが、結構お客さんが入ってるのかな。昔を知る私には、10人以下のお客さんが普通だった映画館に新たに投資できるようになったんだなあってしみじみ。今回も結構お客さんは入ってましたけど、若い人はいませんねえ。若い人はマンガ原作の映画しか観に行かないのかなあ。

離婚したアントワーヌ(ローラン・ラフィット)の母親クラリスは30年前に、ノアールムーティエ島で溺死体で発見されていて、そのことがずっと気にかかっていました。妹アガット(メラニー・ロラン)と共に島へ向かい、かつての家を訪れます。そこでは、当時の使用人だったベルナデットが今の家主のもとで働いていました。クラリスの遺体は、湾の向こう側で発見されたと聞き、アントワーヌは改めて疑念が湧いてきます。父親のシャルルにその話をしたいけど、何だかうまく言い出せない。アガットはそんなことを今更蒸し返す兄の気持ちが理解できません。そして、島からの帰り道で口論になったアントワーヌとアガットは交通事故を起こし、軽傷で済んだアントワーヌに対して、アガットはリハビリが必要な重症を負います。その病院は、かつて母親の遺体が運び込まれた病院でもありました。彼は、エンバーミングをするアンジェル(オドレイ・ダナ)と知り合い、仲良くなっていきます。さらに、ベルナデットから預かった母親の遺品の中に、ジャン・ウィズマンという名前の入った時計を見つけます。父親に聞くと、それは中古の時計を母親に贈ったもので、元からあった刻印だと一蹴されてしまいます。そんなとき、アントワーヌの長女マルゴが、自分の悩みをアガットに相談したとき、アガットの脳裏に母親にまつわるある記憶が甦ってくるのでした。果たして、母親の死には何か秘密が隠されているのでしょうか。

「サラの鍵」のタチアナ・ド・ロネの原作を、フランソワ・ファブラがエマニュエル・クールコルの協力を得て脚色し、ファブラがメガホンを取りました。ミステリーではあるのですが、30年前の話ということもあって、警察は関与せず、あくまで基本はホームドラマになっています。そういう意味では、日本の連続ドラマにありそうな題材と言えましょう。(2時間ドラマは必ず警察が出てきますから、ちょっと別物ですね。)主人公のアントワーヌは、30年前の母親の死について、父親も祖母もほとんど触れないのですが、その死に方が死に方なので、何か自分の知らない事情があるのではないかとずっと思ってきたみたいです。一方の妹は、母親の死を過去のものとして受け止め、父の後妻のアンヌ・ソフィーを母親だと思ってずっと暮らしてきました。島で過去を掘り返そうとする兄を見て「過去に囚われている」と指摘した妹に腹を立てたアントワーヌは車を暴走させた挙句に交通事故を起こしちゃいます。

ここまで観てアントワーヌって情緒不安定な変人じゃね?と思ってしまったのですが、映画は彼を主人公として展開していくので、「へえー、こいつが主人公のまま話が進むんだ」とびっくり。妹が大けがしたのも、危険運転した彼のせいなんですが、そのことについて、彼が責められることもないし、彼が妹に負い目を感じることもないってのは、日本のドラマではあり得ない展開でして、これがお国柄の違いなのか、原作者の倫理観なのかはちょっと気になっちゃいました。この映画は、警察沙汰の犯罪を暴く映画ではないので、こういう「いいことと悪いことの区別」が重要な要素になってきます。そこのところで、主人公に共感できないのは、お話が成立しにくくなっちゃうのですよ。母親の死の疑問を30年温めてきて、40歳になって調べ始めるというのも、あまり説得力がありません。そんな気になることなら、結婚前とか、子供ができる前とかに気持ちの整理をつけないのかよと突っ込み入っちゃうのですね。これが犯罪ミステリーなら、多少の無理も許容範囲なのですが、この映画は基本的にホームドラマなので、登場人物のキャラクターは重要なんですが、このアントワーヌの行動はかなり変、こういう行動が許容されるのは、家庭事情がよほど異常な場合ではないかしら。まあ、映画の後半で、その家庭事情がわかってくると、情緒不安定な変人アントワーヌにも、若干同情の余地が出ては来るのですが。

そう考えると、アントワーヌの父親シャルルも情緒不安定なところのある、面倒臭そうなオヤジですし、妹のアガットも線の細い繊細な感じで、どこか父親に怯えたようなところがあります。そんなどこか不安定一家に対して、アントワーヌの彼女として登場するアンジェルが常識人らしいところで、彼を支えるところは、ドラマの救いという感じでした。アントワーヌ、アガット、父親、祖母、後妻の家族関係がどうもうまく行ってないので、母親の死に何か事情がありそうな予感で、映画は後半急展開することになります。

演技陣は、どこか共感呼びにくいキャラクターなりにリアルに好演しているのですが、主人公に感情移入できないホームドラマってのはどうなんでしょうねえ、やっぱり。そんな中で、ちょっと弱めキャラではあるのですが、その線の細さも含めてメラニー・ロランがかわいいのですよ。「複製された男」「リスボンに誘われて」でも、きれいな人だなあって思いましたけど、今回の兄にも父にも気を遣っちゃう控えめメガネっ娘がいいんですよ。フランスの石原さとみだなあって勝手に思っちゃいまして、ドラマには乗れなくても、彼女を見ていて元をとってしまいました。うーん、眼福眼福。

この映画で描かれる秘密は、日本でもありそうな家庭の事情でして、そういう意味では納得できるところはありました。しかし、その事情で死人が出ちゃうってところは、この一家は特別だということになるのでしょうけど、その結果はほぼ家庭崩壊になっちゃうところは結構リアル。ラストで若干の救いは見せるのですが、後味のいい結末ではありません。こんなことを掘り返して要らんことしてしまったなあっていう後悔も出そうなお話なのですが、この映画では、そういう意識は一切なくって、「よくやった」的な見せ方になっています。このあたりも、お国柄なのか、原作者の倫理観なのか気になるところではあります。いや、過去を白日のもとにさらしたのはよくやったとは思う一方で、その暴露のやり方というか、TPOがえげつないなあって気がして、アントワーヌやっぱりどっか病的だよなあ。

舞台となるノアールムーティエ島というのは、干潮の時だけ、本土との間に道路が出来て、車でも移動できるというロケーションで、ミモザの名所があることで有名なんですって。だから、こういう邦題になっているんですが、原題は「Boomerang」とイメージがだいぶ違います。でも、どこがブーメランなのか、最後まで観てもよく理解できませんでした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



アントワーヌの長女マルゴは、自分が同性愛者であることを悩んでいて、それをアガットに相談します。それを聞いたアガットは、母親の死亡する少し前、母親クラリスが別の女性と抱き合ってキスをしていたのを思い出します。時計に刻まれていたジャン・ウィズマンというのは、英語名ジーンのフランス読みでした。ジーンは、クラリスの絵画教室の先生で、クラリス愛しさから、島を訪れて、彼女にアプローチし、そして、お互い愛し合うようになります。そして、二人は子供(アントワーヌとアガットね)を連れてロンドンへ駆け落ちしようということになります。しかし、クラリスと祖母との間で、嫁姑の関係がよくなく、駆け落ちのことを知った祖母は、子供二人を使用人ベルナデットの家に預け、クラリスにジーンへ別れの手紙を書くよう脅します。ベルナデットはその手紙をジーンのいるホテルへ届けて島へ戻るのですが、そこにはクラリスがいて、手紙を届けたことを知ると、満潮になり始めた道に車を走らせ、そのまま帰らぬ人となったのでした。ベルナデットと彼女の夫は、ずっとその秘密を抱えて苦悩してきましたが、祖母が亡くなり、その葬儀の日、アントワーヌとアガットに全てを告げます。アガットは、葬儀の場で父親を責め立て、父親は子供たちを守るためにも口をつぐんだのだと告白するのでした。その後、アンジェルと暮らすようになったアントワーヌのもとに、アガットが訪れ、二人はまた仲の良い兄妹に戻ります。そこへ、ジーンからメールが届き、そこには生前のクラリスの動画が添付されていました。母親の動画を見つめる兄、妹。そして、島を見つめるアントワーヌとアンジェルの絵から暗転、エンドクレジット。

同性愛と嫁姑の確執があきらかになり、その裏にある事実を探るために、クリスマスカードに母親とジーンのツーショット写真を入れて、父や祖母に贈るなんてことをやって、顰蹙を買っちゃう主人公なので、やはり共感も同情もできないよなあ。その後、祖母が亡くなり、その葬儀の日に、元使用人から溺死の真相を知らされるのですが、結局、使用人夫婦が何も悪くないのに、他人の罪に巻き込まれて、30年間一番苦しい思いをしてきたことになるのではないかしら。ところが、映画の中で、彼らの苦悩が報われることはないのですよ。そんな扱いが、至極当たり前のような描き方をされるのですが、それって気の毒過ぎるんでないかいと思ってしまいます。この描き方もお国柄の違いなのかなあ。所詮、使用人だからってぞんざいな扱いをされているようなところもあって、フランスも意外と階級社会なのかなって思わされる展開でした。

そんなわけで、私には、こんな主人公がヒーローのように描かれ、被害者である使用人夫婦が何のケアもされないってところが、納得できませんでした。それが、お国柄の違いだとすれば、自分の倫理観はフランスでは通用しないってことになるのでしょう。そういう意味で、発見のある映画ではありました。ミステリーとしての面白さよりは、ラストまで、母親の死の真相を隠し通そうとする、父親と祖母のエゴの部分に、意外と見応えがあったなあって、後になって気づきました。

「君の名は」は絵がきれいでお話が面白い、でもオヤジ感性ではついていけないところもありまして。


今回は大ヒット中の「君の名は」を、川崎の川崎チネチッタ8で観てきました。このスクリーンには、チネチッタ独自の音響装置「LIVE ZOUND」が装備されています。今回は映画よりも、この音響の確認のために劇場まで足を運びました。スクリーンの横と下に追加スピーカーが置かれ、全体の音に厚みがつき、低音が増量されています。隕石のシーンなどに迫力ある音になっていましたから、SF映画なんかだとかなり迫力出そう。映画の始まる前に「LIVE ZOUND」のロゴが出たのにはびっくり。追加料金なしの音響アップはうれしい限りで、他のスクリーンにも装備してくれないかしら。

岐阜県の山の中の町、糸守町に住む高校生、三葉(上白石萌音)は自分が東京の高校生、瀧(神木隆之介)になっているという夢を見ます。一方、東京の高校生の瀧も、田舎の高校生の三葉になっている夢を見ていました。その翌日、三葉は友人たちから、昨日の自分が別人のようでおかしかったという話を聞きます。どうやら、突発的に、三葉と瀧は心が入れ替わるらしいのです。週に2,3度のペースでその入れ替わりが発生するようになり、互いの私生活を壊さないために、お互いに入れ替わった時の記録を取るようになります。そんな交換日記のようなことをしながら、三葉は、瀧がバイトの先輩ミキ(長澤まさみ)と仲良くなるのをサポートし、瀧は、三葉に新しいキャラを加えて人気者にして、何とかこの異常事態に対処するようになります。そんな入れ替わりの日々を送っていくうちに二人はお互いを意識しあうようになり、会いたいと思うようになるのですが、そんな時、三葉の町に事件が起こるのでした。

新海誠が脚本、編集、監督をしたアニメーションです。この人の作品は「秒速5センチメートル」をDVDで観たことがあるんですが、結構面白い映画を作るなあくらいの印象でした。一方、「君の名は」は今年の映画の中では大ヒット作でして、動員数1000万人、興行収入150億円を超えたってのをネットニュースで読みました。そんなにヒットしてるってのは一体どういう映画なのかという興味に、劇場の「LIVE ZOUND」への興味もあって、劇場に足を運びました。まず、目を惹いたのは、舞台となる田舎と東京の絵がリアルなこと。なるほど、これは映画を観た人が舞台となった場所へ足を運ぶ「聖地巡礼」なるイベントには向いてるわなって感心。全体として細かく描写された背景、さらに光や雨の描写などに、見た目の魅力は十分。まあ、それだけでは、1000万人(まあ、リピーターもいるんでしょうけど)は集まらないですから、どういうお話になるんだろうって期待が湧いてきます。

主人公の2人は高校生。最近、シネコンでは、高校生の恋愛映画がそれこそひっきりなしに上映して、私にはどれがどれだかわからない状態なのですが、そういう高校生の恋愛映画の変化球という位置づけはできそうです。何しろ、二人の心が入れ替わっちゃうという、異常な設定ですからね。それも、ずっと入れ替わったままになるんじゃなくって(それだと「転校生」ですね、懐かし。)、週に2,3回というかなりの頻度で発生するというのですから、結構入れ替わってんじゃねって言えるくらい。そうなると、自分が相手の一部であり、相手も自分の一部であるという、恋愛ソングの歌詞にもなりそうな緊密な関係になってきます。でも、方や飛騨の山の中、一方は東京の新宿ですから、なかなか会うことも難しい。でも、相手のことはすごくよく知っているという関係。最初は、お互いの私生活が脅かされることから、悪態を突き合ったりもするのですが、だんだんとお互いが気になってくるという、ありがちな展開。そもそも心が入れ替わるなんてありえないことなんですから、この関係は「運命の二人」であることは間違いはなさそう。それに、彗星の接近のニュースが何度も登場して、余計目に運命感を強めます。

入れ替わった二人を、彼らの友人は「昨日ちょっと変だったよ」程度の認識で付き合ってくれるのがおかしかったです。三葉にしても瀧にしても、お互いにきちんと学校に通って、友人ともうまくやっているいわゆるリア充でして、変に問題を抱えていないところも、余計なドラマの余地が入らない設定になっています。それでも、三葉は、「こんな町出て行ってやるぅー」とか叫んだりする今風な女の子。瀧は、バイト先の年上の女性の先輩に憧れていたのですが、彼の中身が三葉の時にいい感じを見せてデートまで持ち込んだりといい感じになってきます。そのあたりの展開は微笑ましいものがありました。三葉と瀧は心が入れ替わるということは、いわゆるすれ違いの関係でして、そこは昔の有名なラジオドラマ「君の名は」と通じるもがあります。でも、単なるすれ違いドラマなら、二人が出会ったところで大団円になるのですが、この映画は、二人が出会えない仕掛けをしていまして、そこに入れ替わり以上のファンタジーの要素をぶち込んできます。へえー、そっちへ話を持っていくかということになるのですよ、これが。演出のうまさもあって、観ているこっちはその展開に乗せられて最後まで観てしまいましたから、そういう意味では面白い映画に仕上がっています。クライマックスの盛り上げも見事だったので、エンタテイメントとしての点数はかなり高いです。ただ、観終わった後味がどこかすっきりしないものが残っちゃったのですね。何かこう、絵面の美しさに騙されちゃったけど、ドラマの芯がないんじゃないかって感じなんです。というのも、これゲームっぽくねえ?って気がしちゃったんですよ。世界観のないアドベンチャーゲームというとひどいのかな。自分探しゲームの中で、ミッションが次々に現れて、それをクリアしていくという展開なんですが、そのミッションに行き当たりばったり感があって、統一感のある筋が見えなかったのです。これはオヤジの感性が鈍いだけかもしれませんです。若い方はここから太いドラマを読み取ることができるのかも。

後、細かい演出の部分が、オヤジ感性と微妙にずれてたところがありまして、観ていて「そこまで見せる?」感が強くて、何か饒舌な感じがしたのですよ。そこまで因縁話を説明しなくてもいいんじゃない?とかですね、二人の記憶を消していく必然性なくね?とか、最終的には、出会わなくてよくね?とか思っちゃったんですよ。「秒速5センチメートル」の演出はオヤジ感性にしっくりくるところがあって好きだったのですが、何かこう、若い人に媚びたというか、わかりやすさに走ったのかなって気がして、ラストシーンは何だか気恥ずかしさを感じてしまいました。そういう意味では、運命に翻弄される二人の結末に、もっと自由な未来を見せて欲しかったなって気がしました。運命に取り込まれた二人のドラマがそこで終わっちゃったような見せ方でないかい?って、これ、この映画を堪能された方にケンカ売ってることになっちゃうのかしら。見所多いし、お話の展開も面白かったのですが、小説を読んだという後味ではなくて、ゲームを一通り終えた後味になっているのですよ。私は、劇場で観る映画には、物語としての満足感が欲しいので、ゲームクリアしただけでは、ちょっとなあっていう感じになっちゃいました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



瀧が記憶を頼りに、飛騨へ向かい、三葉を探しますが、そこでわかったことは、糸守町が3年前の彗星接近時に発生した隕石の墜落によって町のほとんどが失われていたということ。そして、その犠牲者の中に三葉の名前を発見して愕然とする瀧。二人の入れ替わりは場所だけでなく、3年という時間も隔てて発生していたのでした。瀧はそれでも、三葉だった時の記憶をたどって、糸守神社の御神体のある場所を探し、そこに供えられたお神酒を飲むことで、再度入れ替わりをすることに成功します。その日は彗星の最接近日、瀧になった三葉は、友人とともに何とか町の人々を救おうと画策します。発電所にダイナマイトを仕掛けて爆破し、町の災害放送をジャックし、被害を免れた高校へ町民を避難させようという計画です。その前に、瀧になっている三葉は、御神体の場所へ向かうと、三葉の心になっている瀧がいました。そこで二人は初めて自分の体と心でお互いを確認し合います。お互いに自分の体と時間に戻った二人。三葉は人々を救うために町へと向かい、瀧は自分の生活へと戻っていきます。三葉が町長である父親を説得したことが功を奏し、町民の多くの命が救われるのでしたが、その経緯の中で、二人は相手の記憶を失っていくのでした。そして、さらに5年後、就職活動中の瀧は、昔、自分が糸守という町が気になっていたという記憶くらいしか残っていませんでした。一方、三葉も東京で暮らしていました。すれ違っても気づかない二人。そんなある日、電車が並行して走っていたとき、並走する電車の中に、お互いの姿を認め、はっと気づく二人。電車を途中下車して、彼女を探す瀧の前に、三葉が姿を現します。そして、二人同時に「あなたの名前は?」。おしまい、エンドクレジット。

二人の関係で、隕石が墜落する前日に三葉が東京に瀧に会いに行っていたことがクライマックスで示されます。三葉は、電車の中に瀧を発見するのですが、それは三葉を知らない3年前の瀧でした。瀧に声をかけた三葉ですが、彼はけげんな顔をするだけ。そして、電車が止まって、降りようとする三葉に、瀧が「君の名前は」と声をかけ、彼女は「みつは!」と答えて、ドアが閉まる寸前に髪留めの組紐を瀧に渡すのでした。その組紐を誰からのものか忘れたまま、瀧はずっと身につけていたということが示されます。なるほど、瀧にとっては初対面じゃなかったんだねーということになる、いい話なんですが、私には、こういう因縁もいらなくねと観終わった後で思っちゃいました。

というわけで、面白い映画であることは、認めちゃうのですが、その感性の部分では、私のオヤジ感性とはちょっと違うかなって気がする映画でした。でも、これが若い人に受けているというのは、一つの発見でして、ああ、若い人とは感性がずれてるんだなあってのを実感する映画でもありました。私の同世代の方がこの映画をご覧になってどう思われたのかすごく興味あります。私と同じことを感じる方がいれば、ジェネレーションギャップかなとも言えるのですが、誰もそう思わないのであれば、私は偏屈なジジイになっちゃうんですよね。

でも、やっぱり、「運命の二人」が運命に忠実に一緒になることが、本当に幸せなのかなって思っちゃうのですよ。二人が自由な選択をしないで、運命の導きに身を委ねることが、美しいとは思えなくて。なーんていうとかっこよさげですが、要は、三葉と瀧が一緒になった後、「入れ替わりなんていうケッタイな出会いのせいで、とんでもないのと一緒になってしまった」なんて後悔するんじゃないのってゲスな発想であります。ひょっとして、これって「スキー場の恋」の変形パターンなのかも。(若い人は、ご存じないかもしれませんが、スキー場だとお互いが実物よりよく見えてしまって、恋愛に発展しちゃうということがあって、そういうパターンを「スキー場の恋」と呼んでました。)

「メカニック ワールドミッション」はB級アクションとして突っ込みどころ多いけど、作りは丁寧、楽しめました。


今回は、新作の「メカニック ワールドミッション」を川崎の川崎チネチッタ9で観てきました。2年前に「エクスペンダブルズ3 ワールドミッション」というB級アクション映画があるのに、また、同じタイトルを使うなんて、配給会社のやる気のなさを感じさせます。

前作の「メカニック」で、死んだと思わせて姿を消したビショップ(ジェイソン・ステイサム)は、リオで静かに暮らしていましたが、かつて同じ少年兵士の訓練を受けたクレイン(サム・ヘイゼルダイン)が部下を送り込んできて、殺しの仕事を依頼してきます。そこで大立ち回りをしてクレインの部下をやっつけたビショップは、タイの島へ移動しますが、そこでジーナ(ジェシカ・アルバ)という女性と知り合い、いい感じになります。実はジーナは、カンボジアで孤児の施設を運営していたのですが、クレインに脅されて、ビショップに接触するために島に送り込まれたのです。そして、クレインはビショップとジーナを拉致し、世界を牛耳る武器商人3人を事故に見せかけて殺せば、ジーナを返すと脅迫してきます。仕方なく、ビショップは、アフリカを牛耳る武器商人と、アジアを牛耳る武器商人を事故に見せかけて殺害し、一度はジーナの救出に向かうのですが失敗。最後のターゲット、マックス(トミー・リー・ジョーンズ)を殺すためにブルガリアへ向かいます。武器商人であるクレインは、自分のライバルを次々と殺して、世界の武器市場を牛耳ろうとしていたのです。一計を案じたビショップは、マックスに接触し、彼を死んだことにして、逆襲に出ようとするのですが、果たしてジーナを救出することができるのでしょうか。

1972年のチャールズ・ブロンソン主演の「メカニック」は、ベテラン殺し屋と若い殺し屋が師弟関係を持ちながらお互いの寝首をかこうとする陰気なスリラーだったのですが、21世紀になって、派手なアクション映画としてリメイクされ、この映画はその続編にあたります。前作では新旧の殺し屋の駆け引きみたいなものは残っていたのですが、今回は単純な単独ヒーローアクション映画になっていまして、前作との関連もほとんどなくなっています。ですから、ジェイソン・ステイサムが目一杯大暴れするアクション映画として楽しめればそれでよしという作りになっておりまして、それ以上でもそれ以下のものでもありません。フィリップ・シェルビーの原案を、シェルビーとトニー・モッシャーが脚本化し、ドイツで映画演出の実績を持つデニス・ガンゼルがメガホンを取りました。ちょっと昔に量産されたジャン・クロード・ヴァン・ダムやスティーブン・セガール主演のB級アクションみたいなところもある一方で、海外ロケとか派手な爆破などのお金がかかった映画になっています。脇にもジェシカ・アルバ、ミシェル・ヨーにトミー・リー・ジョーンズまで登場して、それぞれきちんと演技してまして、特に、こんな映画でも、トミー・リー・ジョーンズがちゃんと自分の出番をこなしていて、単なる顔見せになっていないのには感心。そんなわけでこの映画、結構面白く仕上がっています。

主人公がムチャクチャ強くて、ほとんどピンチになることがないので、へんにドキドキしたりテンション上がることなく、安心してのんびり楽しむことができるのが、こういう映画のよさだと思っています。ジェーソン・ボーンシリーズに比べたらテンションが上がらないから、物足りないと思う方もいらっしゃると思いますが、ああいうのとは別ジャンルの映画として鑑賞する方が、ジェイソン・ステイサムやジャン・クロード・ヴァン・ダムの映画は楽しめると思います。この映画でも、クレインの部下が監視しているのに、ジーナとラブラブになっちゃうシーンを結構な尺を割いて見せたりして、その後、あっさりジーナが拉致されちゃうなんて、もう脱力系ご都合主義の展開なんですが、それも許せちゃうのがこういう映画。リアリティがないとかヤボな突っ込みは言いっこなしで、主人公の無敵ぶりを楽しむ映画として、この映画はよくできています。ドイツ出身のデニス・ガンゼルの演出はストーリーをトントンと進めて、アクションシーンも同じテンポでさばいて、主人公の無敵ぶりをきっちり見せる一方で、アクションシーンは結構すごいことをやっていて、その一方で、役者の演技も見せて、ジェシカ・アルバの水着ショットもおまけについてくるのです。何というか、ノリの軽い娯楽映画にサービス精神をいっぱい詰め込んだ感じを、ガンゼルは丁寧に作り込んでいます。

基本はアクション映画ですから、一番の見せ場はアクションシーンになるわけですが、第2班監督に007シリーズのヴィク・アームストロングを起用して、きちんとお金もかけて見せます。派手な銃撃シーンあり、シャープな格闘シーンもあり、でもビショップが無敵なのでハラハラせずにのんびり楽しめちゃうってのは、結構難しいさじ加減だと思うのですが、それをきちんとこなしているということで、この映画の評価結構高いです。それは、細かいところにきちんと手間暇かけていて、手抜きをしてないからだと思っています。

殺しのプロのビショップなのですが、前作同様、やることは正面突破ばかりなのがおかしく、その結果、クレインに阻まれて、なかなかジーナを救出できないという展開も何となくご愛嬌に映ってしまうのは、私が前作を観ていて、かつそこそこ楽しんだからかもしれません。まずは、凶悪犯の振りをしてマレーシアの刑務所に潜入、そこでボス扱いされている武器商人を事故に見せかけて殺すこと。これがどうやって殺すのかと思ったら、仲良くなって後ろから襲って首をしめて殺すという、これも正面突破型です。次の標的は、ビルの屋上の張り出しプールで泳ぐのが趣味という武器商人のプールの底を抜いて落下させるというもので、ここはこの映画の中唯一プロの殺し屋らしいやり方をしています。でも、それ以外は、ジーナ救出のために、クレインを追っていくときも正面突破ばかりやって、それでも敵のザコを何人もやっつけちゃうのですよ。クライマックスもほぼノープランの正面突破なんですが、変にひねった展開にならないので、安心して観ていることができます。

格闘シーンは細かいカット割りをしているのですが、それでも結構迫力あったのは、編集のうまさなのでしょう。ダニエル・ゴットシャルクの撮影もわかりやすい絵作りをしていまして、「ジェイソン・ボーン」のような何やってるのかわからないカットがないのはよかったです。音楽のマーク・アイシャムは基本はアクションをサポートするパーカッシブなシンセ音楽がメインなのですが、ラブシーンなどのおとなしめのシーンにきちんとオケによるドラマチックなスコアを入れているのが点数高く、安い音楽になっていないところも、この映画の評価を上げています。だいぶほめちゃいましたけど、B級アクション映画というジャンルの中で、面白くできているという評価でして、アクションの迫力とかライド感は「ジェイソン・ボーン」の方が上です。それでも、派手なアクションをのんびり楽しませてくれる映画ですから、そういう映画だと割り切れる方にのみオススメします。個人的には、「ジェイソン・ボーン」より、こっちの方が好きです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ブルガリアの共産党施設を改造したマックスのアジトは、その地下に潜水艦を置いているというすごいもの。マックスの個室へ忍び込んだビショップは、マックスと取引し、潜水艦の基地で爆破を起こして、マックスを死んだものにして、クレインの部下を基地へおびき出し、機関銃や爆弾の罠を仕掛けて、来た連中を全滅させ、クレインのクルーザーへ乗り込みます。次々と部下をやっつけるビショップは、ジーナを救出するのですが、クレインは船の自爆装置を起動させます。ビショップはジーナを線水球の中に押し込めて脱出させ、クレインと一騎打ちになり、最後にはクレインを仕留めるのですが、その直後にクルーザーは自爆。生存者はいないという事になったのですが、実はビショップは錨の格納場所に隠れて無事で、カンボジアへ戻ったジーナの前に、ビショップが姿を現します。マックスがパソコンでクルーザーの残骸を調べていて、錨の格納場所を見つけて、ビショップの生存を確認したところで暗転、エンドクレジット。

ラストカットがビショップでなく、マックスというところは、大スターに敬意を表したのでしょうけど、小洒落た決着になりました。ビショップが不死身のヒーローなので、意外性のかけらもない結末なのですが、このお約束感をきちんと描いているところがこの映画のいいところ(だと思っています)。というわけで、最後まで、きっちり作られたお気楽娯楽アクションとして、この映画、かなりいい線いってると思います。別にヨイショしているわけではないですよ。こういうアクション映画が好きで、劇場でこういう映画をもっと観たいとマジで思っています。昔は、この映画ほどお金のかかっていないB級アクションがよく銀座シネパトスで公開されていましたが、映画の製作費が高騰しているってこともあるんでしょうけど、なかなかこの類の映画が劇場公開されなくなっちゃいました。この映画ほどお金をかけてなくてもいいから、B級アクション映画がもっと劇場にかかるようになるといいなあ。

「人間の値打ち」はお金のやな面が見えてくるミステリー、どこか引っかかる感じ。


今回は久しぶりに渋谷のル・シネマ1で新作の「人間の値打ち」を観てきました。かつてのミニシアターの雄であったル・シネマですが、シネコンに慣れた体で行くと、座席の狭さが気になるようになりました。まあ、それはいいとしても、ビスタサイズの画面のままでシネスコサイズの映画を画面の上下が切れる形で上映したのにはびっくり。昔は、シネスコサイズの映画の時は、スクリーンもちゃんとシネスコサイズになっていたのに。こういう上映の仕方だと、暗い画面では、シネスコサイズのフレームがわからなくなるので、シネスコサイズならではの構図を楽しむことができません。観客も映画も作り手も舐めた上映方式は何とかならないものなのかしら。それとも、もうル・シネマは映画を楽しむための場所ではなくなってしまったのかな。初日だからってサービスのパスタもらったけど、そういうのいらないから、ちゃんとシネスコサイズの画面を切って、シネスコの映画を上映してくれないかしら。恵比寿ガーデンシネマもそうだったんだけど、何か理由でもあるのかしら。まあ、オヤジの観客が一人減ったからって、向こうは痛くもかゆくもないのはわかってはいるのですが。

イタリアのミラノ郊外の丘の上にあるお金持ちの投資家ジョバンニ(ファブリツィオ・ジフーニ)の高校生の息子マッシ(グリエルモ・ピネッリ)にはセレーナ(マティルデ・ジョリ)という恋人がいました。そのセレーナをマッシの家に送ってきたのは、不動産屋の父親ディーノ(ファブリツィオ・ベンティボリオ)は、ジョバンニに取り入って、彼のファンドへ投資しようとします。恋人の心療内科医ロベルタ(ヴァレリア・ゴリノ)に内緒で彼女の家を抵当に70万ユーロを借りて、ハイリスクの投資をしちゃうのでした。そして、クリスマスの日、高校のパーティで、ジョバンニとその妻カルラ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)、ディーノとロベルタが同席します。その席で、高校の年間トップ賞が発表されることになっていて、マッシが候補だったのですが、残念ながら彼は落選。その後、友人たちとのパーティでぐでんぐでんに酔っ払って、セレーナが呼び出され、彼を家まで送ることになります。その同時刻に、パーティのウェイターが自転車で帰宅途中に車の接触され、瀕死の重傷を負います。翌朝、マッシの車には傷が残っていましたが、彼は酔っ払っていて記憶がありません。一方、マッシの母親カルラは、暇をもてあましたお金持ちマダムの酔狂とでもいうのか、街の劇場再建の運営委員会というのを立ち上げ、ボロボロの劇場を新たに街の文化基地にしようとしていました。ダンナのジョバンニがお金を出していたのですが、株価が予想外の動きをして、ファンドは大暴落、劇場もマンションに売り払わなければならない状況に追い込まれていました。ディーノの70万ユーロも10分の1になり、ジョバンニに泣きついて呆れられてしまいます。果たして、お金持ち一家をめぐる事故の真相はいかに。

アメリカのスティーヴン・アミドンの原作を、イタリアのフランチェスコ・ブルーニ、フランチェスコ・ピッコロ、パオロ・ヴィルズィが共同で脚本化し、ヴィルズィがメガホンを取りました。2014年のイタリア・アカデミー賞の作品賞、脚本賞、主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞、編集賞、録音賞を取った映画だそうで、2013年の映画ですって。へ、2013年?3年前の映画が今頃公開ってのは何かわけありの映画なのかしら。ちなみに原作の原題は「Human Capital」で、直訳すると「人的資本」、ウィキペディアによると、資本として捉えた人間が持つ能力(知識や技能)を指すそうで、新しい経済学では、人的資本は投資の対象になるんですって、ふーん。この映画は、ラストで、その人をお金で換算した時の価値もヒューマン・キャピタルになると示されます。映画の内容は、人的資本について語った映画かというと、何か違うって感じもするのですが、投資家の家のお話で、人間のお値打ちについて語った映画とは言えそうです。また、ラストの字幕にドキリとさせられたのですがそれは後述。ともあれ、ちょっと気になる映画に仕上がっています。

映画は4つの章に分かれていまして、第1章はディーノ、第2章はカルラ、第3章はセレーナを中心に同じ時間軸が描かれます。(登場人物のそれぞれを同じ時間軸で描くというと、ガス・ヴァン・サント監督の「エレファント」を思い出しました。)第4章は最後のまとめ章となっているのですが、そこで物語の全貌が見えてくるという構成を取っています。最初に登場するディーノは、娘のボーイフレンドの父親に取り入って金儲けをしようという下司な男です。ジョバンニに見せる卑屈な笑顔が気持ち悪いオヤジなんですが、こいつは恋人名義の家を担保に70万ユーロを借りて、ハイリスクなファンドに投資してしまいます。それが焦げてしまっても、恋人にも謝るわけでもなく、小物のくせにやることがえげつない。さらに、ドラマの後半でとんでもなくサイテーな行動に出るのですよ。ファブリツィオ・ベンティボリオがこのクソオヤジを見苦しいやな奴として演じ切って見事でした。不動産屋を経営しているので、それなりの能力はあるんでしょうけど、人となりはクズ。この男の最低ぶりに比べると、投資家のジョバンニは家庭を顧みないところもありますが、それほどひどい人間としては描かれません。ともあれ、ディーノは、この映画に登場する人間の中でお値打ち度は最低ってことになりましょう。

カルラは、お金はあるんだけど何か満たされない元女優のマダム。そんな彼女が崩壊寸前の劇場を見つけ、これをダンナの金で再建させようと思いつきます。運営委員会なるものを立ち上げて、劇場を街の文化スポットにしようとするのですが、その委員会の一人である演劇講師と何となくいい仲になっちゃうのですよ。何か満たされない感じの金持ち有閑マダムをヴァレリア・ブルーニ・テデスキが見事に演じています。この人、こういうキャラをやるタイプの女優さんじゃないのに、きちんとドラマの中の困った人妻になりきっているのがすごい。家に呼んだ演劇講師と一度の過ちを犯してしまった後、劇場再建がボツになって、ふと我にかえるあたりが圧巻でした。そういう人間ドラマをパオロ・ヴィルズィの演出はテンポよくさばいて、先の見えないドラマを引っ張っていきます。

3人目のキーパーソンとなっているセレーナは、ミッシと付き合っていたのですが、別れて友人の距離を置こうとしていました。自分の父親がミッシの父親に取り入っているのを恥ずかしくも思ってました。もう別れた彼氏であるミッシから迎えに来てと言われると迎えに出かけちゃう結構やさしいところも持っています。そんな彼女は、事件の起きた頃、大麻保持で新聞に載ったことのあるルカという男の子と付き合っていました。絵がうまくて繊細なルカは、叔父の持っていた大麻の罪をかぶって逮捕されてしまったのでした。実の母親がいない者同士ということもあり、お互いに惹かれるものがあったのでしょう。セレーナを演じたマティルデ・ジョリはヌードも披露して、この映画の中の良心みたいな女の子を熱演しています。同じく、映画の中の良心のような存在となるロベルタを演じたヴァレリア・ゴリノが相変わらずきれいでした。「レインマン」「インディアン・ランナー」などでアメリカで活動していた頃はかわいかったですが、最近はイタリアでの活動がメインみたいで日本での公開作品が少ないのが残念。ミステリーの「湖のほとりで」以来、久々にスクリーンでの再会となりました。結構ファンだったんだよなあ。

ひき逃げ事件を通して、セレーナとミッシの家族のいろいろな事情が見えてくるというドラマでして、その見せ方のうまさで、ドラマを見たなあという満足感は得られましたから、ミステリータッチのホームドラマとしては結構おすすめできます。でも、ドラマの最後の字幕で、「事故の被害者の遺族には、自動車保険から約22万ユーロの慰謝料が支払われた。慰謝料は被害者の推定収入、遺族の人数などから導かれ、保険の世界ではこれが「人的資本」即ち「人間の値打ち」である」と出るのショックでした。これまでのドラマは置いといて、理不尽な事故で死んだ人の値打ちが2500万円ってのは安くないかいって気がしちゃったのですよ。人間の値打ちって、そんな金額レベルのものだと思うと切なくなります。一方で、今日、心臓病の女の子を助けるために3億円必要だという街頭募金を見たもので、「人的資本」、「人間の値打ち」って何なんだろうって考えさせられてしまいました。



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警察はミッシが酔っ払い運転で事故を起こしたと決め込んで捜査を進めていました。しかし、事件の真相は、警察の思惑とは異なるものだったのです。事故の夜、セレーナはルカと一緒にいました。そこへ、ミッシから電話がかかってきたので、セレーナはミッシを迎えに行くのですが、それにルカもついてきてしまいます。そして、セレーナの車にぐでんぐでんのミッシを乗せると、ルカがミッシの車を運転して、2台でミッシの家へ向かうのですが、その途中で、ルカの運転する車が自転車と接触事故を起こしてしまったのです。ミッシは酔っ払っていて記憶がありませんし、ルカは一度大麻でつかまっているので、今度つかまると大変なことになると、セレーナはルカに真相を黙っているように言います。そのやりとりメールを見つけたディーノは、ルカが真犯人だという情報をカルラに98万ユーロで売り付けます。一方、セレーナは、真相をロベルタに打ち明け、二人でルカに会いに行くと、彼は自殺未遂を起こしていました。彼は大麻の一件の濡れ衣は晴れたようで、接触事故と被害者の保護をしなかった罪で1年の懲役となります。セレーナがルカに面会に行くところで、暗転、エンドクレジット。

結局、事故を起こしたのは、セレーナの新しいボーイフレンドのルカだったとわかるのですが、その後のディーノが娘のメールを盗み見して、ルカの情報をカルラに売るという最低の行動に出ます。ロベルトはまともな女性なんですが、何でこんなクズに引っかかったのかということが理解できませんでしたし、そのゆすりに近い行動の結果、ディーノは何の報いも受けていないようなんですよ。そのあたりをすっきりさせず、ただセレーナとルカが順調に愛を育んでいますという見せ方で映画を締めくくり、さらに先述の字幕を見せるので、人間の値打ちって何だろう、さらに、その値打ちって正当な評価されてないよなあって気がしてくるのですよ。クズのディーノは最低なことをしてピンチを切り抜け、事故の被害者は2500万円程度の命の値段をつけられてそれでおしまい。何かシビアな現実を突きつけられたようで、ドラマの見応えは感じるものの、どこか釈然としないものが残ってしまう映画になっちゃいました。後、結局、何をするにもお金がないとダメなんだねえっていうお話になっているのも、確かにそうなんだけど、目の前のその事実をどんと置かれると切ないものがあります。それらを、セレーナとルカのカップルの未来への希望だけで、全部チャラになるかというと、そうもならないのですよ。

「ジェイソン・ボーン」は新しいヒーロー誕生のアクション映画として上出来、前3作のボーンとは違うけど。


今回は、新作の「ジェイソン・ボーン」を川崎の川崎チネチッタ12で観てきました。LIVE SOUNDによる上映ということで、スクリーン前に追加の低音増強用スピーカーが置かれていまして、通常上映より重低音が響く音響効果はこの映画では特にクライマックスのカーチェイスシーンで効果的でした。「シン・ゴジラ」の時とは違うスピーカーが配置されていたのですが、細かいことは、ま、いいか。追加料金取られるわけじゃないし。

ギリシャで賭けレスラーをやっていたボーン(マット・デイモン)の前に、元CIAのニッキー(ジュリア・スタイルズ)が接触してきました。彼女はCIAをハッキングして、ドレッドストーンを含むCIAの秘密作戦情報を盗み出していました。その中に、彼女はこれから始まるアイアンハンド作戦を発見し、さらにドレッドストーンのファイルにボーンの父親の関与を発見し、ボーンに協力を求めてきたのでした。しかし、アテネで二人が落ち合った時、既にCIAの手は回っていました。サイバー部門のヘザー(アリシア・ヴィキャンデル)がニッキーを特定していたのでした。CIA長官のデューイ(トミー・リー・ジョーンズ)は、ボーンに恨みを持つ暗殺者(ヴァンサン・カッセル)にボーンを殺す指令を出して、アテネに送り込みます。暗殺者の狙撃によってニッキーは死亡。ボーンは、彼女の残した鍵でハッキングしたファイルを手に入れ、ベルリンのハッカーに解読させようとしますが、そこにもCIAの追手がやってきます。しかし、そこで、彼は自分の父親がドレッドストーンの発案者であったことを知り、さらに父親はテロで殺されたのではなく、CIAに殺されたことを知るのでした。一方、デューイは、IT企業ディープドリーム社のソフトを使って情報収集のためのアイアンハンド作戦を進めていましたが、社長のガルーアはCIAのやり口に嫌気が差してして、手を引きたがっていました。ヘザーは、デューイのボーン追跡に疑問を持つようになり、ベルリンでは彼に追手の存在を教えたりもしていました。自分の過去を探し求めるボーンは、元監視者であった男に会うべくロンドンに向かいますが、そこにはヘザーと暗殺者が彼を待ち構えていたのでした。

ジェイソン・ボーン3部作は、記憶を失っていた主人公が自分が、CIAのドレッドストーン作戦の暗殺者であったと知ってCIAに一矢報いるというお話を大変面白く作っていて、世界でも大ヒットしました。巨大な組織に対して、個人が闘いを挑むというところがまず面白いのですよ。さらに、愛する人を失った殺人マシーンであった男が、そんな過去の自分を否定しながら、一人の人間として闘い、勝利するというお話が共感を呼び、最後にはカタルシスもあるという、よくできた娯楽映画でした。その後、姉妹編としての「ボーン・レガシー」なんていう珍品も登場したのですが、3部作の完結した9年後に続編ができるとは思いませんでした。監督、主演は前作と同じということで、3部作の内容を引き継いだ続編だと思っていたのですが、これがちょっと違う感じの映画に仕上がっているのが意外でした。派手なアクションシーンのつるべ打ちというのは、同じなのですが、登場人物の人間味がやや薄れ、その分、リアルでハードなアクション部分が前面に出て、ライド感で見せるアクション映画に変わっていました。つまり、一匹狼ジェイソン・ボーンのハードボイルドなアクションシリーズの1作目という趣に仕上がっているのですよ。ブログの師匠であるpu-koさんの「やっちまったな」という記事を拝見していたのですが、なるほど、これは過去の3本とは別物の映画だと納得してしまいました。

3部作の後、この監督・主演コンビで「グリーン・ゾーン」という映画を作っているのですが、これがひたすらリアルなアクションシーンだけをつないだ映画になっていまして、ストーリーを最小限の説明でさばいた後は、これでもかとアクションや追跡シーンを見せる作りになっていまして、今回の「ジェイソン・ボーン」は、この「グリーン・ゾーン」のタッチに近い作りになっています。「ハート・ロッカー」のバリー・アクロイドの撮影はシネスコだけど手持ちカメラのアップの構図を多用することで、臨場感と迫力のある絵を作っていまして、ライド感あふれる映像に仕上げています。その結果、「グリーン・ゾーン」は政治的問題を扱ってはいるのですが、アクション映画としてものすごく面白くできていました。

今回の前3作と大きな違いは見た目だと思います。前3作の撮影監督はオリヴァー・ウッドで、アクションシーンこそ手持ちカメラを使っていましたが、ドラマ部分はシネスコサイズを意識した、引きの多い落ち着いた絵作りをして、それがドラマ部分をじっくり見せることに成功していました。今回は、「グリーン・ゾーン」でも迫力ある絵を作ったバリー・アクロイドが撮影を担当し、ドラマ部分もアクション部分も全編に渡って手持ちカメラのアップの絵を使って、リアルな迫力を出しています。その結果、ドラマをじっくり見せるシーンはほとんどなく、ドキュメンタリータッチの展開となり、前3作とはかなり印象の異なる映画に仕上がりました。また、グリーングラスも、前3作にあった登場人物の人間臭さを掘り起こす演出を一切やめて、事件をそのまま映し出すタッチの演出に変えているので、ボーンやデューイ、ヘザーといった面々が何を考えているのかよくわからない映画になりました。じゃあ、登場人物のキャラを掘り下げない映画が面白いのかというと、これがグリーングラスのうまさで、アクションを切れ目なくつなぐ演出で観客を飽きさせず、2時間余の映画を一気に見せきってしまいます。

じゃあ、キャラを掘り下げないから役者の演技のしどころもないんでしょ?と言いたいところですがさにあらず、要所要所のちょっとしたカットで、役者にもきちんと演技をさせていまして、特にトミー・リー・ジョーンズはCIA長官というよりはマフィアのボスみたいなデューイを熱演して存在感を見せました。美形のアリシア・ヴィキャンデルも、腹に一物あるエージェントをリアルに演じて単なるアクションの添え物になっていません。冒頭出てきてすぐ死んじゃうジュリア・スタイルズにもちゃんと見せ場を作ってあるし、それぞれの役者がきちんと立つ演出をしているのですからすごい。一方で、チネリフェ島で撮影したという、アテネの暴動の群衆シーンのリアルさも見事でして、その中でアクションやカーチェイスを見せちゃうあたりは、うまいなあってさらに感心。アクションシーンの第2班監督として007のスタントコーディネーターをしていたサイモン・クレーンが参加していまして、彼の力によるところも大きいのかしれませんが、アテネやラスベガスでの群衆シーンとかホントよくできているのですよ。

とにかく派手なアクションで見せる分、知恵を使ってCIAを出し抜くカタルシスとかはありませんので、今回のボーンはあまり知的な顔を見せてくれませんし、知性に裏打ちされたユーモアの部分も残念ながらほとんどありません。そういうドラマ的要素を削って、体を使うアクションだけでつないでいくことで、新しいジェイソン・ボーン像が立ち上がってくるのですが、前3作のボーンのファンだった方には、新しいジェイソン・ボーンは「何か違う」と感じるかもしれません。かく言う私のその一人ではあるのですが、でも映画を観ている最中はしっかり楽しんでしまいまして、そのライド感あふれるアクションシーンの連続はよくできてるのは認めざるを得ません。「キャラが曖昧でアクションだけ」というと「ボーン・レガシー」みたいなんですけど、面白さはこっちの方が断然上ですから、アクション映画好きな方なら、ご覧になって損はないと思います。

音楽は、前3作を担当したジョン・パウエルと「ドラゴン・キングダム」「ファインド・アウト」のデヴィッド・バックリーが共同で担当しました。音のタッチは前3作よりも、同じくパウエルの担当した「グリーン・ゾーン」に近く、延々と続くアクションシーンのバックでドコドコ鳴ってるパーカッシブな音楽は映像を盛り上げるという目的に最大限に貢献していると申せましょう。でも、アクションシーンで音楽はほとんど耳に残らないというサブリミナル的な効果音になっちゃっているのは、ちょっと残念でもあります。



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暗殺者はヘザーの指揮下で動いているように見せかけて、デューイの直接指揮の元で、ヘザーの部下を皆殺しにして、元監視役ともどもボーンを殺そうとしますが、最後の詰めでボーンに逃げられてしまいます。ヘザーは、デューイがガルーア社長を脅していて、ベガスで何かありそうだとボーンに告げます。ヘザーはデューイのことをすごく嫌ってるみたい。舞台はベガスのハッカーの大会の場になり、そこでディープドリーム社のシンポジウムがあり、社長、デューイ、ヘザーが同じ舞台に上がることになっていまして、デューイは暗殺者に社長を殺させようとしていました。そこへボーンも現れますが、ヘザーがボーンに寝返ったことをデューイに知られてしまい、社長とヘザーが暗殺者の銃口にさらされます。しかし、間一髪で暗殺者を見つけたボーンが発砲、社長は狙撃されちゃいますが急所は外れて命は無事。そして、ホテルの部屋へ戻ったデューイの前にボーンが現れると、デューイはボーンに愛国者なんだから戻って来い、他に行くところはないとうそぶきます。そこへデューイの部下が駆け付け銃撃戦となり、デューイがボーンを射殺しようとしたとき、ヘザーの撃った銃弾がデューイを仕留めます。ホテルの外へ出た暗殺者はSWATの装甲車を奪って逃走、それを見つけたボーンも車を奪って追跡し、ベガスの街で大カーチェイスの後、二人は肉弾戦となり、最後はボーンが暗殺者を仕留めます。ワシントンへ戻ったヘザーの前にボーンが現れ、彼女はボーンにCIAへ戻るように勧めるのですが、彼はそれに答えずいずこへと消えていくのでした。

ラストでボーンに会う前、ヘザーは情報長官に会って、ボーンをCIAへ戻して使うという提案をし、それがうまくいかなければ、ボーンを始末すると語っていたのですが、ボーンはその会話を録音していて、ヘザーの車にレコーダーを残していました。舌打ちするヘザー、で、映画はおしまいになります。と、まあ、登場人物、誰をとっても共感を呼ばないようにできていまして、ボーンですら、自分の過去を知るために手段を選ばない男として描かれていまして、そんなハードボイルドなヒーローの映画として続くとしたら、どんどん悪役がエスカレートしていくんだろうなあという予感がする結末でした。ボーンが愛国者だというセリフが何度も出てくることからすると、ひょっとして、新しいジェイソン・ボーンは、21世紀の「ランボー」を狙っているのかも。

「ある天文学者の恋文」は濃い恋愛ミステリーとして、隙がない見事な作り。


今回は、新作の「ある天文学者の恋文」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ2で観てきました。ここは場内がフラットで、前の席に座高の高い人が座られちゃうと、画面が欠けちゃう困った劇場。今日はちょっとデカめの人が前に座ったもので大変。指定席だから、別の席へ移るわけにもいかないし、無理な姿勢での映画鑑賞になっちゃいました。

天文物理学の大学教授エド(ジェレミー・アイアンズ)は親子ほども年の差のある恋人エイミー(オルガ・キュリレンコ)とラブラブ状態。エイミーは映画のスタントの仕事をしながら大学で天文学を学んでいます。エドの仕事の関係で、しばらくメールやDVDのビデオメールのみのやり取りが続いていたある日、エイミーは大学の講義で、エドが亡くなっていたことを知ります。でも、メールとか昨日まで届いていたのに。さらに、エイミーのところにエドからのDVDやメールが送られてくるのです。エドは本当に死んだのか。エイミーは彼のメッセージに導かれ、エディンバラから、イタリアのサン・ジュリオ島へと向かいます。その中で、エイミーはエドが様々な人にエイミーへのメッセージを仕掛けたらしいことがわかってきます。そして、このメッセージを止める方法も彼女に伝えてきました。サン・ジュリオ島のエドの別荘で、彼からのビデオメッセージを見ていたエイミーは思わず画面を止め、DVDを暖炉の放り込んでしまいます。そのDVDで、エドはエイミーの彼女の過去に触れていたからです。その過去とは、20歳の彼女が、父親を乗せて運転していた自動車で事故を起こしてしまい、父親を死なせてしまっていたのでした。そのことで、彼女は自分を責め、彼女の母親からの電話にも出ようとしませんでした。エドはそのことを知っていて、死ぬ前に彼女の母親にも会いにも行っていたらしいのです。そして、母親との関係を修復するように言うエドに腹を立てたエイミーは、メッセージを止める手続きをしてしまうのです。すると、以降、本当にエドからのメッセージは届かなくなります。そこで、メッセージの配達会社を訪ねると、実際にはまだ手紙や荷物が残っていたのですが、電報が届いて、エドに返送されたというのです。一時の怒りでしてしまった行動を後悔するエイミーですが、もう彼女はエドからのメッセージを受け取ることができないのでしょうか。

「ニュー・シネマ・パラダイス」「鑑定士と顔のない依頼人」のジュゼッペ・トルナトーレが脚本を書いて、メガホンを取ったミステリー仕立てのラブストーリーです。大学教授とラブラブなヒロイン、エイミーは彼の訃報を聞いて愕然とするのですが、彼の亡くなった日以降も、彼からビデオレターやメールが届くので、本当に彼が死んだのかどうか困惑しちゃうというところからお話は始まります。トップシーンは二人の別れの前のラブシーンで、これが恥ずかしくなるようなラブラブぶりなのが面白く、天文学者らしく空の星を使った愛の言葉を交換するあたりは、これはちょっと浮世から離れた恋愛ドラマなのかなって予感になり、その後もその予感通りに展開していくのです。この恋愛は、一歩間違うと身を滅ぼすことにもなりかねない強い、そして深いものだというのが、わかっていきます。そういう意味では、共感を呼ぶお話というよりは、一幅の絵を観るような気持ちで、ある愛情の形を鑑賞することになります。エドの仕掛ける、リアリティとは一線を画した愛情表現は、はっきり言って重いですし、常軌を逸したようなところもあるのですが、それを肯定的に見せたのは、このドラマがリアリティを排した寓話的な味わいになっているからだと思いました。リアリティがないからこそ、この二人の愛のドラマを素直に受け入れらるという感じでしょうか。まあ、私が恋愛経験があまりないからそう感じるのかもしれませんけど。身を焦がす恋愛経験をされた方なら、きっと他人事とは思えない共感をお持ちになるかもしれませんが、それは私の想像の及ばない世界なので、自分としては、異世界の寓話のようなつもりでこの映画を堪能しました。それでも、泣かされたところはあるんですから、この映画、なかなか手強いのですよ。

もともと、エドはメッセージを届けるタイミングを計って、サプライズを仕掛けるのが好きだったようで、それが彼の死後も続くことに驚き、届けられるメッセージを不思議に感じながらも、それを楽しみにして待つようになります。でも、彼が彼女の人生の傷について説教じみたことを言い出した時、思わず、そのメッセージを中断させる段取りを取っちゃいます。それは、自分の名前を11回綴ったメールをエドに送ることでした。父親の死に責任を感じ、母親を遠ざけてしまい、スタントの中で死を望んでいるのではないかと、エドに言われて、エイミー逆上しちゃったのです。でも、それは彼女にとって、耳の痛いものであっても、もっともな、そして愛情にあふれた忠告でした。彼女は、運送屋や、エドの弁護士を訪ね、彼からのメッセージが回収されちゃったことを知って、すごく後悔します。そして、母親に会いに行き、和解したとき、彼からのメッセージを母親から受け取り、何とか、彼からのメッセージを再開させる方法はないかと色々と試したり、彼の過去を知る人間を訪ね歩くのですが、うまく行きません。絶望にとらわれながらも、彼女は、自分の言葉をメッセージとして記録し始めます。送る相手もいないメッセージの中で、彼女は自分と向き合い、言葉を積み重ねていくのでした。

エドは頭の中の星状の腫瘍ができて、それがもとで亡くなったのでした。亡くなる前3週間は別荘にこもって、手紙やビデオメッセージを作っていたと、エイミーは島の人間から聞きます。彼女が、そんなエドにどうやって、もう一度近づくことができるのかがドラマの要となっています。そんな中で、永遠についてのエドの考察が面白いと思いました。彼は、人間は基本的に永遠を持っているものだが、誰もが一度過ちを犯してしまうことで、その罰として永遠を失ってしまう。彼にとっての過ちとは、もっと早くエイミーと出会わなかったことなんですって。言葉のレトリックだと言ってしまえばそれまでなんでしょうけど、永遠と人間をつなぐ言葉としてはありかなって気がします。また、エドの専攻する天文学が、既に死んだ天体の光を受け取り、その生と死を学ぶというところに、彼の死生観をかけているのも、なるほどうまいねって感心しちゃいました。後、並行宇宙とか共時性とか、難しい言葉が色々と並ぶのですが、私のアホな頭ではついていけなくて。きっと、天文学や物理学に詳しい方だと、もっといろいろと感じるところが出てくる(或いは、何言ってんだこいつと思うか)のではないかしら。

この映画、どこかファンタジックな味わいもあるけど、かなり濃い恋愛ドラマになっています。そのドラマを支えたのが、映像と音楽でした。ファビオ・ザマリオンの撮影は、落ち着いた色使いとシャープな絵が美しく、特に、横長のシネスコサイズで切り取った構図がどの絵もすばらしかったです。画面のサイズをきっちりと計算した横長の絵は、映画館の大画面で鑑賞するのにふさわしい、ホント、隙のない絵という感じで、見応え十分。そして、エンニオ・モリコーネの音楽も、ワンパターンに陥らない音作りが見事で、今回はエレキギターを印象的にフィーチャーしたミニマル風なテーマと、シンプルでやさしいフレーズの愛のテーマが聴き応え十分。この映像と音楽のサポートがあったからこそ、浮世離れしたストーリーが心の琴線に触れたのだと言っても過言ではありません。

ジェレミー・アイアンズは、すごい手の込んだことをする変わり者の大学教授を愛情深いおじさんに見せることに成功しています。オルガ・キュリレンコは、最初は色のついていないキャラで始まり、ドラマの進行に従って、影や奥行きが肉付けされていくという役柄を、好感の持てる形で演じきりました。ヒロインの成長物語としても観ることができたのは、彼女の好演があってのことでしょう。夜の町へ消えていく彼女のラストショットで、思わず泣かされてしまったは、私だけかしら。



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エイミーは、暖炉に捨てたDVDを復活させようとしたり、彼の娘から渡されたビデオカメラから他の映像も探そうとしますが思うように行きません。そんな時、サン・ジュリオ島の漁師が彼のバッグを持っていてその中のマイクロカードを見つけて、映像を再生させると、そこには病気と闘いながら、何度もビデオメッセージにトライするエドの姿が映っていました。それを観て泣き崩れるエイミー。彼女は、エドとの会話を思い出して、メッセージを再開させる方法を発見します。そして、彼女はエドからのメッセージを受け取り、彼のアドバイスを受けながら、大学論文を書き、学位を得ることができます。卒業式の日、また彼から花とメッセージが届き、指示に従って弁護士に会いにいくと、エドがエイミーにサン・ジュリオ島の別荘を残したことを知らされます。サン・ジュリオ島の別荘には、彼のDVDが置いてあり、それには彼の最期のメッセージが遺されていました。そして、自分がモデルとなった彫像の展示会へ行くエイミー。そこにはスタントの仲間ジェイソンがいました。連絡先を教えてくれというジェイソンに、こちらから連絡するというエイミー。夜の街へ消えていく彼女から暗転、エンドクレジット。

彼女がモデルとなった彫像というのは、彼女の体で型を取ったものなんですが、その型を取ったときに彼女がエドを想って泣いてしまったことで、型どりが失敗していました。しかし、彫刻家は、その涙で歪んだ顔の失敗作に、心からの悲しみを見出して、それを作品として仕上げたのでした。他にも、スタントのエピソードなどにドラマと交錯するところも多く、すごく盛りだくさんの映画になっています。その大盛り感は、ちょっとあざといかなと思ってしまうところもあるのですが、先述のとおり、映像と音楽が素晴らしく、全編に渡る隙のない作りは、文句のつけようがないって感じ。私は、こういう濃い恋愛物語は若干距離を置いて、客観的に見てしまうので、そんな冷めた感想も持ってしまうのですが、主人公の二人に共感できれば、いい意味ではまれる映画になっていると思いました。ともあれ、お話としても面白いですし、作りとしても見事にうまい、そんな映画は、正直なかなかないですから、機会があれば、一見をオススメしちゃいます。

「世界一キライなあなたに」はヘビーな内容より、ヒロインに大はまりしてしまった。かわいいわあ。


今回は、映画の日で、新作の「世界一キライなあなたと」を、川崎の川崎チネチッタ7で観てきました。

イギリスの田舎町で勤めていたカフェが閉店になって職を失った26歳のルイーザ(エミリア・クラーク)は、失業中の父親からも金が必要と言われ、即始めた求職活動で、大富豪一家の息子の半年間の介護係の職を得ます。息子のウィル(サム・クラフリン)は交通事故で脊髄を損傷してしまい首から下がほとんど動きません。何とか車椅子の操作はできますが、結構気難しい若者みたいです。彼の母親(ジャネット・マクティア)から介護人というより友達になって欲しいと言われるルイーザは持ち前の明るさで接するのですが、なかなか打ち解けることもなく、妹のトリーナ(ジェナ・コールマン)に愚痴ったりしているうち、ある雨の日、彼の希望で映画「神々と男たち」を観ることで、二人の会話が弾むようになり、ウィルも笑顔を見せるようになります。しかし、ある日、ルイーザは、ウィルがスイスで尊厳死をする選択をしていることを知ります。ショックを受けるルイーザですが、トリーナから、だったら残された時間に色々な楽しいことをさせたらいい、うまく行けば死ぬ気も変わるかも、と言われて一念奮起。ウィルを競馬やコンサートに誘います。でも、あまりにウィルに入れ込むものだから、恋人パトリック(マシュー・ルイス)との関係が気まずくなっていきます。それでも、ウィルの気持ちを変えたいと願うルイーザの努力は果たして実を結ぶのでしょうか。

ジョジョ・モイーズの原作小説を本人が脚本化し、舞台の演出家であるシーア・シェアイックが初めて長編映画のメガホンを取りました。この映画は恋愛映画だという前情報しかなく、キャスト・スタッフとも知らない名前ばかりだったので、パスする予定だったのですが、音楽がごひいきのクレイグ・アームストロングだったので、じゃあ観てみようかなという気になり、スクリーンに臨みました。結論から言いますと、この映画、観てよかったです。悲惨なお話ではあるのですが、元気なヒロインの視点から離れないでストーリーが展開するので、お話が湿っぽくならず、素直にヒロインに感情移入できて、そして結構泣かされてしまいました。

ルイーザはすらっとした美人ではない、どっちかというとちんちくりんでファニーフェイス。八の字眉の困り顔がどこかかわいいキャラクター。一方のウィルは端正な二枚目で知性もお金もある男。しかも、家がお金持ちで順風満帆な人生を送ってきたのに、事故に遭って、全身不随になって、人生に絶望していて、何回か自殺未遂もしているようです。そんな二人が仕事の上で出会い、お互いに惹かれあうようになる、というとありがちな展開なんですが、ウィルはスイスへ行って尊厳死をするつもりでいたのです。ここで、お話が人生の尊厳とか、命の価値とかいった展開になると、すごくヘビーな方向へ行っちゃうのですが、あえて、ウィルの心情に深入りしないで、それをルイーザがどう受け入れて、どう出るのかというところにドラマの焦点をあてているので、言い方は悪いですが、シリアスな葛藤をうまく迂回して、ルイーザの愛と成長のドラマにまとめ上げています。なるほど、ハードな設定でもこういう見せ方があるのかって感心すると同時に、表情がくるくる変わるルイーザのかわいさにすっかり心を持っていかれてしまいました。何て言うか、ヒロインにはまっちゃったのですよ。

彼氏持ちのヒロインが、仕事で始めた介護で、その相手に、最初はいい感じを持っていなくて、それがだんだん仲良くなり、死を望む彼に同情から、だんだんと恋愛感情へとシフトしていく。そんな流れをシェアイックの演出は、テンポよく流れるように展開させていきます。見せ方次第では、二股ヒロインとか、自殺願望者への同情の上から目線とか、気になるところも出てきそうなお話なのに、そこをすっきりとさばいた手腕は見事だと思います。ウィルの態度に対する、ルイーザの気持ちを彼女目線で描写していくので、あまり突っ込みが入るタイミングがなかったとも言えます。ルイーザのキャラクターをすごく素朴で単純な女性に設定していることもあり、簡単に恋愛ドラマへと発展しないところもうまい設定だと思います。要は、ルイーザが恋愛ヒロインになかなかならないのですよ。何かいい子だなあって思っているうちに、恋愛ヒロインになっていくのですが、実際に恋愛ドラマになるのは、ドラマもかなり後半になってからなのです。そこまで、いい友人でいたルイーザが、ウィルへの思いのたけをぶつけるシーンには、結構泣かされてしまいました。ウィルのルイーザへの思いが最後までよくわからないところもあるのですが、それだけに、ルイーザの想いには共感できるところが多かったです。

ウィルの尊厳死への希望を、ウィルの父親(チャールズ・ダンス)は認めているのですが、母親はそれを受け入れることができません。ルイーザの家族が、ウィルの事情を知ったとき、彼女の父親はその思いを認めるのですが、母親の方はそんなのあり得ないといいます。両方の意見を見せることで、この映画は彼の選択を許容することも拒絶することもしないという立場を取っています。ですから、それをウィルの独善的なわがままかもしれないし、ひょっとしたらルイーザへの愛情表現かもしれないという見せ方になっています。そのどうともとれるウィルの行動に対して、ルイーザの一途なストレートな想いが際立ち、胸を打つのですよ。うーん、やっぱり、私、この映画にはまってしまってるわ。

ヒロインのドタバタぶりのおかげで、タッチはラブコメなのに、設定はヘビー。そのギャップのある展開が、クライマックスで一つにまとまるあたりに、脚本、演出のうまさを感じました。演技陣はヘビーな設定を支えるだけの重厚なドラマを支えていまして、要所を固めた面々が見事でした。特に、ウィルの下の世話までして、全てを知る介護人のネイサンを演じたスティーブン・ピーコック、金のことばかり言ってるようで最後に娘の後押しをするルイーザの父親役のブレンダン・コイル、そしてヒロインの相談役となる妹役のジェナ・コールマンといった面々がドラマに厚みを加えています。特にジェナ・コールマンはこれから要チェックかも。音楽は既成曲をたくさん使っているのですが、その一方で、スコアを担当したクレイグ・アームストロングはドラマチックな音をあえて避けて、優しい音楽で、ヒロインを描写していて見事でした。やはり、この人の音楽で、映画を選んでよかったと実感しました。まあ、ケチつけるとしたら、全然、映画の内容とシンクロしない邦題かな。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ウィルを励ますべく、ルイーザは、介護人のネイサンを伴ってモーリシャス島へ旅行に行くことになり、彼氏のパトリックとのベルギー旅行を断ってしまいます。そんな、ウィルに入れ込む彼女からパトリックは去って行きます。モーリシャス島の旅行を楽しんだ、ルイーザとウィル。雷雨の夜、二人はキスを交わし、お互いの愛情を確認するのですが、ウィルは旅行の後、スイスへ行くとルイーザに告げます。ウィルを愛しているから、二人で幸福になりたいから死なないでと泣き崩れるルイーザに、こんな人生を送ることには耐えられないし、君を失望させたくないと言うウィル。旅行から帰って、その場で介護の仕事をやめると宣言するルイーザ。しかし、父親から、他人は変えられないけど愛することはできると諭されて、ウィルを追ってスイスへと向かうルイーザ。そして、彼の両親とともに彼の最後の時間をともにするのでした。彼からの手紙を読んだルイーザは彼が行きたがっていたパリへと向かいます。彼は彼女の未来のためにいくばくかのお金を残していました。パリから、またルイーザの新しい人生が始まるのでした。おしまい。

死を看取った後、死んだ人間が行きたがっていた場所へ行き、人生を新たにするという結末はどこかで観たことあると思っていたのですが、これ、シャロン・ストーンが死刑囚を演じた「ラストダンス」と同じ趣向だなあって後で気づきました。あの映画では、パリではなく、タージマハルだったのですが、人が誰かの死を乗り越えて、新しい人生を踏み出すというところで、共通点がありました。ともあれ、この先、ルイーズに幸あれと思える結末は後味の良いものでした。こういう題材の映画で、いい感じの後味になるのは意外でしたけど、それはやっぱりヒロインの素朴で明るいキャラがあったからこそだと思います。ヒロインを演じたエミリア・クラークは、「ターミネーター・新起動ジェネシス」で、サラ・コナーを演じた女優さんです。サラ・コナー役を演じたときは、ハードなヒロインには似合わない感じで物足りなかったのですが、この映画では、困り顔の素朴な善意のヒロインが見事にはまりました。

「ハドソン川の奇跡」は実録、ミステリー、人間ドラマ、スペクタクルと欲張った構成できちんとまとまったのがすごい。


今回は新作の「ハドソン川の奇跡」を川崎の川崎チネチッタ5で観てきました。ここは背もたれが高い席で、頭がすっぽり隠れてしまうタイプで、前の席の座高を気にしないで済む映画館。

2009年1月15日、ニューヨークのラガーディア空港を離陸したエアバスは、離陸直後、鳥の群れと衝突し、両エンジンが破壊されてしまいます。40年パイロットをしているベテランのサレンバーガー機長(トム・ハンクス)はグランド・コントロールからの戻るか最寄り空港への着陸指示を無視し、ハドソン川への着水を選択します。彼の冷静な操縦によって、機は無事に着水し、155人の乗員乗客は無事でした。一躍、ヒーローとなるサレンバーガーでしたが、彼を待っていたのは、国家運輸安全委員会の調査でした。争点となったのは、ハドソン川へ着水しなくとも、引き返すか最寄り空港へ着陸することが可能ではなかったかということ。サレンバーガーは、両方のエンジンが稼働せず、他の選択はなかったと自信をもっていましたが、調査委員会の報告で、左のエンジンはまだ停止していなかったというのです。さらにコンピュータのシミュレーションでは、あの状態でラガーディア空港へ引き返しても無事に着陸できたという結果が出たことで、サレンバーガーの判断が誤っていたのではないかという流れになってきます。もし、そうであれば、彼は職も年金も失うことになります。一緒に操縦していた副操縦士のスカイルズ(アーロン・エッカート)はそんな彼を励ましますが、彼は自信を失いつつありました。しかし、ニュース番組の「これは奇跡のタイミングでした」という言葉に、ある事を思いつき、実際にシミュレーションを他の操縦士にもやってもらうことを要求します。そして、サレンバーガーとジェフは公聴会の日を迎えるのでした。

実際に起きた事件をもとに、「パーフェクト・ストレンジャー」のトッド・コマーニキが書いた脚本を、「父親たちの星条旗」「アメリカン・スナイパー」のクリント・イーストウッドが監督しました。155人の命を救った機長が、その判断の是非を問われて葛藤するというお話です。ハドソン川に不時着した旅客機の話は、日本でもニュースになりましたが、その後日談までは知る由もありませんでした。プログラムによると、アメリカ国内でもこの後日談はあまり知られることがなかったそうで、そのことがイーストウッドが映画化した動機にもなっていたとのことでした。

映画は、大変凝った構成になっておりまして、映画は、155人の命を救った機長がホテルで悪夢をみるシーンから始まり、国家運輸安全委員会(NTSB)の調査に向かうサレンバーガーとスカイルズの様子が描かれます。彼らは事件から、精神的なダメージを受けているようで、夜も眠れず、サレンバーガーは自分の機が墜落する幻覚を見ちゃったりするのです。155人の命を救ったヒーローなのに、精神的に参っているのは意外な気もしましたが、それだけの事故だったんだと再認識させられます。事件当日の様子は、回想シーンとしてまず当日の離陸するまでが描かれ、映画の中盤では離陸してからの鳥衝突からハドソン川不時着、そして脱出から救出までの事件の概要がリアルに描かれ、クライマックスの公聴会の席で、不時着時のコクピットでのやり取りが描かれるという3段構成になっています。見せ場になっているのは、中盤の不時着から、フェリーやヘリによる乗客の救出シーンです。この映画、IMAXカメラで撮影されたそうで、その絵もIMAXで上映されることを意識されたものになっていまして、かなり見世物チックというか、スペクタクルな見せ場になっています。IMAXでの上映を意識して、画面の隅にあまり物を置かないで、画面の中心に旅客機を据えているあたりは、IMAXで観たら、かなりの迫力なんだろうなあって気がしました。こういう題材の映画にしては、アクション映画並みに音がでかくて低音も効かせているのは、IMAX前提の映画なのでしょうね。

不時着した機内に水が入ってきて、乗客は機の翼の上に避難し、そこへ居合わせたフェリーが救助に向かう展開を、リアルな見せ場に盛り上げる演出は見事で、臨場感十分だけど無駄のない展開にイーストウッドのうまさを感じました。ドラマチックではない、ドキュメンタリータッチなのですが、多くの人がよってたかってみんなを助けようするってのは、感動的なんですよね。感動スペクタクルの映画としてもこの映画、かなりいい線いってるのではないかしら。

でも、メインのドラマは、判断ミスを問われたサレンバーガー機長がNTSBの調査の結果、どうジャッジされるかというところにあります。事故後の機長の様子を追いながら、果たして彼の判断は正しかったのかどうかが、ミステリーの形で描かれます。確かに旅客機1機を川に沈めちゃったのですが、保険屋も絡んでその責任を追及しなくちゃならないのもわかるのですが、事件の直後から、テレビでは英雄扱いなのに、一方で容疑者みたいな扱いを受けるのはたまらんなあという気がします。また、コンピュータシミュレーションに裏打ちされないと、事故時の人間の判断が許容されないというのは、理屈ではそうかもしれないけど、人間様に対する扱いとしては理不尽ではないかしら。私は結末を知らなかったので、彼が職を失うかどうか結構はらはらさせられました。97分という今や短めの部類に入る映画ですが、人間ドラマであり、事件の再現スペクタクルもあり、さらに裁判ミステリーの味わいもあるという欲張りな構成の映画なんですが、そのどれもがきちんとこなれていて、楽しめるように作ってあるのはお見事な映画と言えましょう。

演技陣は、トム・ハンクスがいつもとは別人のようなキャラとメイクで実在の人物に化けました。また、脇のローラ・リニーが少ない出番でいかにいそうな奥方をリアルに演じて印象的でした。その他、アーロン・エッカートを除くと知らない俳優さんばかりでしたけど、それぞれにリアルな存在感を見せて、ドキュメンタリータッチのドラマを支えています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



公聴会の場で、実際の操縦士を使ったシミュレーションが公開されます。それは、引き返しても、最寄りの飛行場へ行っても無事に着陸できるということを示します。しかし、サレンバーガー機長は、そのシミュレーションを行うのに操縦士は事前に練習したのではないかと指摘します。実際の事故の場面では前例のないことへの判断をする必要があるのだから、その人的要因が加味されないのはおかしいと主張します。そこで、NTSBは、状況判断のための時間35秒を置いてから、航路変更をするというシミュレーションをすると、今度は両方のパターンで着陸に失敗します。そして、コクピットでのボイスレコーダーが再生され、そこでサレンバーガー機長とスタイルズ副操縦士のやりとりから、彼らの判断が最良のものであり、サレンバーガー機長だったからこそ、155人の命を救えたのだということが証明されるのでした。

映画は、NTSBの調査委員がサレンバーガーに敬意を表するところが山場になっていまして、英雄である彼が、疑惑の目を向けられたけど、でもその疑惑がきれいに晴れましたというところを映画は協調して終わります。わざわざこういう見せ方をするのは、その経緯がアメリカでもあまりポピュラーじゃないからなのかという気がします。いわゆる、英雄談の裏話的な扱いになっているのが面白いと思いました。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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