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「ベストセラー 編集者パーキンスに捧ぐ」は端正に作られた映画、でも題材が私には馴染みがなくって。


今回は東京での公開は終了している「ベストセラー 編集者パーキンスに捧ぐ」を静岡の静岡シネギャラリー1で観てきました。ここでは、会員制度がありまして、映画ファンにはかなりお得なシステムになっています。私は帰省時にしか来る機会がないので、スタンダード会員になったのですが、3,500円でタダ券が2枚ついて、後、土日1400円は結構お得感あります。もっと行く機会があればハイグレードな会員がお得な仕掛けになってします。しかし、ここは若い人はほとんどいません。初老の私よりも若い人もちらほら。でも、結構席は埋まってるんですよ。

1929年のニューヨーク、スクリブナーズ出版社の名編集者マックス(コリン・ファース)の元に分厚い原稿が持ち込まれます。他の出版社ではNGになったトマス・ウルフ(ジュード・ロウ)自伝的小説です。マックスはその原稿を一気に読み上げると、翌日訪れたトムに「この本を出版する」と宣言し、前金を渡します。マックスは新しい才能を見つけたことを喜んでいるようにも見えます。有頂天のトムが家に帰ると、愛人でパトロンの人妻アリーン(ニコル・キッドマン)が彼を迎えます。さて、そこから、編集者マックスによる添削が始まります。まあ、削除ってことになるんですけど、マックスは300ページを削ると宣言、マックスとトムは一緒に原稿をまとめ、出版にこぎつけます。その結果は大成功。処女作「天使よ故郷を見よ」はベストセラーとなります。そして、次回作に取り掛かるマックスとトムですが今度のはもっと大作。マックスは妻(ローラ・リニー)や子供とのイベントもすっぽかし、トムもアリーンとの時間を作る暇もなく編集に没頭します。アリーンはマックスにトムを奪われたと感じて、マックスの事務所に訪ねてきて銃を向けたり、トムの前でクスリを飲んでみたり、とかなりご乱心。それでも、トムはアリーンのもとへは戻らないのでした。次の作品「時と川の」もベストセラーとなり、トムは大作家として認められるようになります。アリーンは、マックスに今度はトムはあなたを手放すと予言します。ある晩、マックスは、友人のフィッツジェラルド(ガイ・ピアース)とメンタルを病む妻を家に招き、トムに引き合わせようとしますが、酔ってやってきたトムはフィッツジェラルドやその奥さんに暴言を吐いて、マックスを怒らせてしまいます。二人の仲はそれきりとなってしまうのですが.....。

実在した人物である編集者マックス・パーキンスと作家トマス・ウルフを主人公に描いた実録ドラマでして、A・スコット・バーグの原作をもとに「ヒューゴの不思議な発明」「007/スペクター」のジョン・ローガンが脚本を書き、イギリスの有名な舞台演出家マイケル・グランデージが初めて映画のメガホンを取りました。原題は「天才(GENIUS)」というもので、これはマックスを指すのか、トムを指すのか、その両方なのかは私にはわかりかねたのですが、とにかくすごい才能を持った二人の映画ということは何となくわかりました。

何で「何となく」なのかというと、作家と編集者の関係ってのがよくわからないという、こちらの事情があります。物書きじゃない自分にしてみると、作家が物を書くまではわかるけど、その先の編集者が何するのか、作品にどこまで関わってくるのかがまず知らない。というわけで、この映画を観ながら、編集者ってそういうことをするんだねって学習していった次第です。映画の冒頭、マックスは原稿と赤鉛筆を手に、文章の添削をしています。赤線で文字を消したり、修正したりという作業です。ほう、編集者ってのは作家の書いた原稿にどんどん手を入れていく仕事なんですね。それもかなり無造作にやってます。作家の書いた生原稿は編集者の手で、大幅に手直しされるんだということを知りまして「へー」と思ったわけです。こんなふうにノー推敲、ノー校閲でブログに文章を書きなぐっているお気楽な身分からしますと、何だか面倒くさそうな話だなあ、くらいの感想です。よく、映画の脚本が初稿から何回もリライトされるというお話は、映画雑誌などから知ってはいました。一方、小説なんかの原稿は第一稿からどういうふうに本になるのかって、知ってもいなかったし、興味もなかったのですが、この映画によると、少なくとも編集者による大幅な手直しが入ってから、読者の手に届くようなのです。この「大幅な」という表現も、かなりいい加減でして、私は、どの程度の手直しが入るのかはよく知りませんし、この映画でも、例えば、3割の文章は書き直しになるといった定量的表現では描かれないので、よくわからないのですよ。で、何を言いたいのかと申しますと、私、この映画の一番のポイントである、作家と編集者の関係を「へー」レベル以上に理解できなくて、何かピンと来るところのない映画になっちゃったのです、残念ながら。

もう少し、作家と編集者の我というか、エゴのぶつかり合いみたいなものがあるのかなあ、とか、編集者は文章を削るだけでなく、もっと膨らませろとか言うのかなあとか、思うところはあったのですが、その辺がよくわからないままだったので、マックスがすごい尊敬されている部分、編集者の作品に占める比重といったものがピンと来なくて、マックスのすごさが「ふーん」くらいにしか感じられなかったのは残念でした。きっと、作家と編集者の関係、両者のせめぎ合いといったものは周知のこととしてこの映画は作られているのでしょう。そういう意味では文筆業を知らない人には敷居の高い映画のようです。それでも、演技陣のおかげもあって、マックスってのは変わったところもあるけど、仕事ですごいプロフェショナルなんだなあとか、トムは、やなところもあるけど、物書きとしては才能あるんだろうなあってところは、伝わってきましたから、映画としてつまらないかというとそうでもないんですけど、私のようなド素人には隔靴掻痒感が否めませんでした。

むしろ、愛人でパトロンでもあるアリーンが、マックスとの編集も含めた執筆に没頭するトムを見て、自分が捨てられたように感じて苦しむ姿の方が、わかりやすくて共感できるものがありました。どうやら、ウォール街の金持ちの奥さんらしいのですが、家族への愛情があらぬことか、マックスの才能へ向けられたという感じを、ニコル・キッドマンが熱演してまして、メインのドラマがピンと来なかった分、彼女が登場すると画面が引き締まってドラマが動き出すという印象を持ってしまいました。ますますこの映画のツボを外した鑑賞になっちゃったのですが、彼女がマックスに銃を向けたり、トムの前でクスリを飲んでみせたりするのが、何か気の毒に思えて、感情移入できちゃったのが不思議です。舞台演出家のグランデージにしても、動きの少ない主人公二人のやり取りよりも、アリーンのサブプロットの方が扱いやすかったのかなって後で思いました。

マックスはあくまで自分は黒子に徹する存在だと自分を認識していました。時には、「自分がしていることは、傑作に手を入れることで駄作に変えてるんじゃないか」と思い悩むこともあります。一方のトムは、マックスの力量を理解しているだけに、ベストセラーの功績のどこまでがマックスのもので、自分にはどれだけ残されているんだろうなんてひがんじゃうのですよ。それでも、2作目もベストセラーになると、さすがにトムも自信を持つことでき、謝辞にマックスの名前を入れる余裕が出てきます。自信を持つと同時に調子に乗って、マックスの友人である作家のフィッツジェラルドのことをバカにしたような言動を取るものですから、マックスを怒らせてしまい、二人の関係はそこで終わってしまいます。

演技陣は皆熱演でして、コリン・ファースはほぼ完ぺきにマックス・パーキンスというキャラクターをスクリーン上に表現しています。毎度のことながらうまいねえって感心なのですが、完璧すぎるのも、なかなか感情移入しにくい人になっちゃうんだなあってことも感じさせました。「ブリジット・ジョーンズの日記」ではもっと遊びのあるキャラを軽妙に演じている人なので、それだけ演技の幅の広い人なのでしょう。ジュード・ロウも、天才肌の作家を手堅く演じていまして、そのうまさが光りました。一方で、ニコル・キッドマンはうまさ以上の存在感を見せて、ドラマの中の台風の目のなっていたように思います。また、脇でガイ・ピアースとドミニク・ウェスト(この人、私の中では「フォーガットン」の人というイメージがあります。本人は不本意だろうなあ。)が実在の有名作家を印象的に好演しています。ベン・デイヴィスの撮影は逆光を多めにつかったローな絵が多く、小劇場の小さなスクリーンでは堪能しにくいものでした。テレビでも不向きでして、大劇場の大画面で観るのにふさわしい映像になっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



旅に出たトムは旅先で倒れます。彼の母親がマックスを訪ねてきて、トムが脳腫瘍であることを告げます。もう手のつけられないところまで進行していた腫瘍は、彼の命を奪ったのです。葬儀に立ち合った後、マックスに病院から郵便が届きます。封筒の中には、病院でトムがマックスに宛てて書いた最後の手紙が入っていました。そこには自分の死の予感と再びマックスと仕事がしたいことがしたためられていました。それを読んで涙ぐむマックスから暗転、エンドクレジット。

事実とは言え、トムの最期はあっけないものとして描かれています。才能は若くして失われましたが、彼が人生を長らえたらもっと多くの傑作を残したかもしれませんし、筆力の衰えで過去の天才として苦悩したかもしれないです。どっちにしても、彼の残した小説は天才と称されるものだったのですから、それはアメリカ文学にとっての大きなギフトになりました。そして、マックスはその後も色々な作家と組んでベストセラーを生み出したそうですから、彼の天才もアメリカ文学界にとっての大きなギフトでした。

映画としてのストーリー展開が淡々としていて、どこがクライマックスなのかわからないまま映画が終わってしまったので、トータルな印象は淡泊なものでした。その結果、前述のようにサブプロットのアリーンのエピソードが印象に残ってしまいました。編集者と作家のドラマというところは、私にとっては目新しかったのですが、そこへの突っ込みも深くなかったので、どこか物足りなさを感じさせる映画になっちゃいました。その一方で演技陣の見事さや、美術やセット(多分CGも)による時代の描写といった見所も多い映画でした。端正に作られた映画だとは思う一方で、どこか物足りなさが残ってしまったのは残念でしたが、これは、映画との相性の問題だろうなって思います。すごく丁寧に作られたですし、見どころも多いので、他の方のオススメできる映画なのではないかしら。
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「PK」はインド娯楽映画に宗教テーマまで盛り込んだ大盛り映画としてオススメ。


今回は新作の「PK」を川崎の川崎チネチッタ10で観てきました。ここは、このシネコンでも中堅どころの劇場なんですが、やけに音響効果がよかったです。映画がサラウンドチャネルをいっぱい使ったものだったのかもしれませんが、他の劇場よりも音に包まれる感がありました。以前「ブリッジ・オブ・スパイ」を観たときもおなじように音の良さを感じたのですが、何か違いがあるのかしら。

インドの荒野に宇宙船から降り立った全裸の男は、胸につけていたペンダントのようなリモコンを通りがかったじいさんに盗まれてしまいました。で、お話変わってベルギーのブリュッセルでインド人の研修生ジャグー(アヌシュカ・シャルマ)は、ダフ屋のチケットを取り合ったのが縁でサルファラーズという青年と知り合い、愛し合うようになります。でも、彼はイスラム教徒のパキスタン人でした。ジャグーの父は信仰する導師様に相談すると、サルファラーズは絶対裏切ると言い切ります。そこで、ジャグーは彼に結婚しようといいますが、約束した時間に彼は現れず、別れを告げる手紙が届けられるのでした。傷心のジャグーはデリーに戻ってテレビの仕事を始めます。ニュースのネタを探していたジャグーは、神様探しのビラをまいている変な男(アーミル・カーン)と知り合います。PK(ヨッパライの意味だそうな)と呼ばれているその男が言うには、自分は宇宙から来たんだけど、宇宙船を呼ぶリモコンを盗まれて、自分の星へ帰れない。人間の言葉を知って聞いてみるとそんなことは神様に頼むしかないと言われた。で、神様に願いをかなえてもらおうと、神様のいるというところをあちこち回ったんだけど、望みはかなわない。ヒンズー教、イスラム教、キリスト教、シーク教などなど神様巡りしたのに神様は行方不明だと彼は言います。最初はどこか頭がおかしな奴だと思っていたジャグーですが、彼が手を握ると、彼女の心の中が伝わったので、どうやら本物らしいと納得。さらに、彼が言うには、宇宙船を呼ぶリモコンは、例の導師様がヒマラヤで拾ったという石と同じなんですって。そこで、ジャグーは、導師様からリモコンを取り戻すため、PKと導師様を公開討論させようという企画を思いつきます。まず導師様の神殿にPKを送り込んで、導師様に彼をぶつけてみます。PKが言うには、導師様のような代理人は神様から話をしてもらうとき、間違った相手につながってしまうので、本当の神様の言葉を伝えられないのだそうです。そんな彼の論理がメディアに乗ると、神様の代理人のつなぎ間違いがあちこちで指摘され、宗教家のインチキぶりがどんどん暴露されていき、人々の信仰心がなくなっちゃう事態に。そこで、導師はPKとの公開討論をやると言い出します。テレビで導師様とPKが対決することになるのですが......。

快作「きっと、うまくいく」の監督・主演コンビの新作です。アビジャート・ジョーシーとラージクマール・ヒラニの脚本をヒラニがメガホンをとりました。「きっとうまくいく」は社会問題やらミステリーを盛り込んで、青春ドラマで人情話という、大盛りドラマになっていたのですが、今回の「PK」はオープニングはSFなんですが、すぐラブコメ風になり、さらに信仰とは何だろうという大テーマへ発展し、最後は切ないラブストーリーに落ち着くという、やっぱりこれまた大盛りのドラマになっています。2時間35分という長尺作品ながら、その長さを感じさせない波乱万丈の展開は、王道の娯楽映画の作りになっているものの、そこへ宗教のテーマを盛り込んだことで、他で観たことのない映画に仕上がってまして、重厚な見応えと発見がありました。と、言ってもインド映画でおなじみの歌や踊りは随所に挿入されていまして、それらの仕掛けで観客を飽きさせないサービス精神もきっちり取り込まれています。ジャグーとサルファラーズのラブラブぶりだけで1曲歌いあげてしまうあたりの力技は笑っちゃうけど、あなどれないって感じでしょうか。

映画の冒頭で、「この映画は特定の宗教を非難する映画ではありません」という字幕が出まして、「へえ、何とまあ大げさな」と思ってしまったのですが、ドラマが進むに連れて、冒頭の断り書きもあったほうがいいなと思うくらい、宗教の痛いところに突っ込みを入れた映画になっています。無信仰の人が多い日本でも、ここまで言うとやばくねと思うことを、宗教の信仰の厚いインドでやってのけているのですよ。

宇宙から来て帰れなくなった主人公は、言葉を覚えて、なんとかリモコンを取り返そうとするのですが、彼の話を聞いた人は皆「そんな話は神様にお願いするしかないなあって言われちゃいます。そこで、彼は神様にお願いして望みをかなえてもらおうと、ありとあらゆる宗教の門を叩いて、その教えに従うのですが、リモコンは戻らない。そこで神様の探し人のビラを配ったりもするのですが、それでもうまくいかない。そもそも各々の宗教の神様の代理人の言うことが違うので、果たして本当に神様の言う通りにしてるのかどうかも疑わしくなってきます。そんな時、ジャグーのところにかかってきた間違い電話を聞いて、はたと気づくのでした。代理人は神様とつながっているつもりでいるけど、その電話はかけ間違いで、神様以外に誰かの言ういいかげんな話に騙されてるんじゃないかって。それを聞いたジャグーは、導師様と彼を公開討論させようと思い立つのです。そして、まず、導師様の神殿に乗り込んだPKが導師様に議論をふっかけてその様子を撮影してニュースに流してみます。それに反響があって、インド中から、神様のかけ間違いの事例映像が送られてきます。

そうなるとそれまで神様を前面に立てて、好き勝手やってきた連中は困ったことになります。なるほど、宇宙人が地球にやってきて初めて宗教に触れたという設定がうまく効いていまして、宗教に対するものすごく素朴な疑問が浮き彫りになるというのは、面白いと思いました。まあ、私のような無信仰で、宗教を客観的に見ることができる人間には、すごくすっきりと入ってくるものがありますが、生まれてこの方、ずっと親から代々続いた宗教を信じているような人からするとこういう疑問はどういうふうに映るのか気になりました。信じるというより、信仰が生活レベルで染み付いている人からすれば、導師様のような神様の代理人の言うことが「神様への間違い電話」の結果だったなんて想像するのも難しいのではないかしら。

また、この映画の面白いところは、創造主である神様の存在は疑っていないということ。その絶対的な神様が人間とつながるときのつながり方が問題だと言ってます。だから、神様が一人なのに、色々な宗教があって、それぞれに言うことが違ったり、他の宗教を排斥するなんておかしいよね、という理屈は、人間とは一線を画す宇宙人が言うだけに説得力があります。この映画は、そのことに明快な答えを出しません。あくまで問題提起までに留めています。でも、神様は一人なんだから、インドとパキスタン、ヒンズー教とイスラム教の対立なんて、なくてもいいじゃんというメッセージは伝わってきます。何ていいこと言うPKなんですが、ジャグーに恋しちゃうんですよ。(ジャグーに惚れちゃったPKの歌をまたフルコーラス歌い上げる趣向もあります。)

でも、PKはジャグーの手を握ったとき、ベルギーでのサルファラーズとの楽しい日々と悲しい別れを知っているので、彼女にその気持ちを伝えることをためらいます。宇宙人がジャグーに恋しちゃうってのもずいぶんな話なんですが、そこを1曲歌われちゃうとそんなこともあるんだねえと納得させられちゃうから不思議です。大抵のことは歌にしちゃえば説得力が増すのかもしれません。そんなとき、過激派が駅で爆破事件を起こし、以前困っていたPKを助けてくれたおじさんが巻き添えを食って死んじゃうという事件が起きます。これがあまりに唐突なので、いらないんじゃないかという気もしたのですが、監督のインタビューを読むと、宗教から発生する暴力を描きたかったからとのこと。確かに宗教は、貧しい人を騙したりお金を取ったりする以上に、暴力で人を傷つけるということを、映画は伝えたかったようです。

演技陣では、主演のアーミル・カーンが瞬きしない演技で素っ頓狂な宇宙人を熱演しています。また、ジャグー役のアヌシュカ・シャルマが整った美人さんとは違う、ファニーフェイスの親しみやすいかわいいお嬢さんなのがよかったです。また、導師様を演じたソウラブ・シュクラが、ある時は滑稽な一方で、要所では鋭い悪役ぶりで印象的でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



公開討論の場で、導師様は、神様を信仰することで多くの人が心の平穏と希望を与えられていること強調し、PKはそれらの信仰心に水を差すことで何をしたいのか、お前は他の宗教の回し者ではないかと論陣を張ります。それに対して、PKは自分も神様を信じることで辛いときに救われたと導師様の言うことに同意します。でも、神様の代理人は時として間違ったことを言うと指摘し、導師様がジャグーに言った「サルファラーズは裏切る」という予言は間違いだと言い切ります。導師様はその後の事情を知っているので、自信満々で自分が間違っているなら、あのリモコンの石をPKに渡すと言い切ります。そこでジャグーは別れの日にあったことを告白するのですが、別れの手紙が本当にサルファラーズからジャグーに宛てたものなのかと怪しいとPKは当時の状況から指摘します。そこで、サルファラーズに電話するのですが、彼の携帯番号はもう使われておらず、彼の通っていた大学も個人情報は教えてくれません。そこで、彼がバイトをしていたベルギーのパキスタン大使館へ電話したところ、何と、彼がそこへ毎日電話をかけてはジャグーから連絡ないか聞いていたのでした。電話はサルファラーズにつながり、二人の誤解は解け、PKはリモコンを返してもらって、自分の星へ帰れることになります。宇宙船が降りてきたインドの荒野に降り立つPKとジャグー。ラジカセの電池を山ほどカバンに詰め込んでいるPK。一体、何を聞きたいのかと思ったジャグーがテープを聞いてみると、彼が録音したジャグーの声が山ほど。そこで、彼女もPKの気持ちを知るのですが、気づかぬふりをして彼を送り出すのでした。そして、1年後、PKは他の仲間も連れてまた地球へ降り立つのでした。おしまい。

基本的に宗教の部分への問題提起をして、言いたいことを言った後は、映画は冒頭のラブストーリーの続きに戻って、別れた二人を結びつけ、そしてエピローグでPKは自分の星へ帰ることになります。PKはジャグーのことが好きだったけど、彼女の気持ちを知って身を引くという結末はちょっとだけ切ない別れになるのですが、さらに1年後にまたPKがやってくるというのはちょっと余計なエピソードだったかも。ともあれ、「きっとうまくいく」とはお話もテーマもまるで違う映画ですが、色々なネタを大盛りにして楽しませてくれたという点では共通したものがありました。難しいことを抜きにして、誰にでも楽しめる映画として作っているのですが、そこへきっちりメッセージを盛り込んでいるところは、ハリウッド映画のいいところをうまく取り込んでいるなという印象でした。ケチをつける前に楽しめばいいじゃんというメッセージも伝わってくる映画でして、その心地よいサービス精神は、一見をオススメいたしますです。

「ガール・オン・ザ・トレイン」はアル中ヒロイン思い込んだら大暴走の巻でござる?


今回は新作の「ガール・オン・ザ・トレイン」をTOHOシネマズ川崎6で観てきました。シネスコサイズの画面での、ビスタサイズの上映。偏屈ジジイのように何度も言いますが、スクリーンサイズくらい上映サイズに合わせて変えなよ、昔はやってたんだからさあ。

2年前に離婚したレイチェル(エミリー・ブラント)はアル中でヘロヘロ。そんな彼女が毎日乗る電車の窓から、ある家の女性を眺めては、「ああ、理想の女性、理想の夫婦なんだわ」なんて勝手に思い込んでいました。その2軒隣の家は、かつて自分が元夫トム(ジャスティン・セロー)が元愛人で今は妻のアナ(レベッカ・ファーガソン)とふたりの間に生まれた赤ん坊の3人で幸せに暮らしていました。レイチェルは未練がましく電話しては、同居人にたしなめられる日々。そんなある日、レイチェルは朝の電車の窓から、あの理想の女性が夫じゃない男とキスしているのを目撃しちゃいます。どういう理屈か、彼女の不倫にむちゃくちゃ憤ってしまったレイチェルは夕方、帰りの電車でその家の最寄り駅で降りて、彼女に何かしてやろうと、その家に向かう途中、トンネルの中に入ったとき、何者かに殴られて意識を失います。気が付いてみれば、自分の部屋で血塗れでいました。その翌日、彼女を刑事が訪ねてきます。例の理想の彼女メガン(ヘイリー・ベネット)が失踪したというのです。レイチェルは目撃されて、マークされたようなのです。そこで、彼女は、自分なりに彼女を発見したいと、メガンの夫スコット(ルーク・エバンス)を訪ねて、失踪の日の朝、ポーチで知らない男とキスしてたことを伝えます。スコットは、その男が妻の精神分析医アブディッチ(エドガー・ラミレス)ではないかと疑いを持ちます。それで、何を思ったか、レイチェルはアブディッチの患者として通院を始めるって、うーん、かなり変だぞ、この女。

ポーラ・ホーキンスの原作をもとに、「セクレタリー」「クロエ」のエリン・クレシダ・ウィルソンが脚本を書き、「ヘルプ 心をつなぐストーリー」のテイト・テイラーがメガホンを取りました。いわゆるサスペンススリラーということになるのですが、ヒロインが尋常じゃない人なので、そこに不思議な味わいが出ました。ドラマは、時々過去のシーンが挿入されるという構成になっていて、それによって事情が少しずつ見えてくるというもの。そのパズルのピースが揃った時には、即、種明かしの結末になるので、ミステリーとして楽しむ映画としては今イチかもしれません。それよりも、アル中ヒロインの先の読めない行動を追っていくドラマとして楽しめました。

レイチェルは、完全にアルコールに依存しちゃっていまして、ペットボトルに酒を入れていつも飲んでるかなり困った人。ダンナに浮気されて妻の座を追われたという事情はあるにしろ、2年たっても元ダンナにしょっちゅう電話をかけたりして、あまり関わり合いになりたくないタイプの女性。そんな彼女が電車の窓から見えた女性(メガンのこと)を見て、勝手に妄想を膨らませていくという、もう「変」を通り越して「怖い」感じ。彼女、アルコールを飲むと記憶がなくなって、後で色々なことをやって、「えー、そうなの」ってびっくりするタイプ。私の偏見では、いわゆるクズ。いるんですよ、酒飲んで色々やっておいて、酔って覚えてないっていう人。よく公務員が事件を起こしたときの決めゼリフが「酔っていて、記憶にない」ってのをニュースでよく見かけます。いや、酔っていようが酔っていまいが、やった行動が問題なんだからね、と思うのですが、「あれは酒の上のことだから」なんて決めゼリフもあって、酔っ払いに甘い文化があります。浴びるほど酒を飲むのは、気の毒な事情があってね、というところまでは、わからなくもないのですが、酔っ払った時の行動の責任を持てないのなら、酒を飲むのをやめるか、人のいない無人島とかへ行ってくれと思っちゃうのですよ。身内にアル中がいないから、きつい言い方になっちゃうのですが、こういうタイプをヒロインにする映画は珍しいです。飲んだくれのヒーローが登場する映画もありますが、ここまで迷惑な存在ではないような。

さらにレイチェルは、アル中以上に思い込みが強くて、電車の窓から見えるメガンを理想の女性、かつての幸せな自分と重ね合わせて、羨望の眼差しを向けるのです。会ったこともないのに。さらに、その理想の女性がダンナ以外の男とキスしていたからといって、直接家まで訪ねて行こうなんで正気の沙汰ではありません。その直後に記憶が飛んだら、血塗れで自分の部屋にいて、メガンが行方不明になっちゃっているのですから、こいつ何かやったに違いないと思うのですが、当人としては、理想のメガンを探す手伝いをしたいと俄然やる気が出ちゃうのですよ。思い込みの強い女はマジ怖いです、いやマジで。彼女は友人の家に転がり込んで2年も居座っていて、さらに会社も酒でクビになっていたのですから、怖い上にダメな人。

一方のメガンという女性にも事情があるようで、映画はレイチェルの暴走と並行してメガンの過去を描いていきます。若い頃、子供を生んだことがあり、ダンナのスコットは嫉妬深くて束縛するタイプ。そんな彼女の心の拠り所は精神科医のアブディッチだけ。彼に迫ったりもするのですが、彼は理性で、その誘惑を拒みます。いわゆる尻軽タイプなのかもしれません。行方不明になったのも他の男と逃げたのかも。アブディッチは警察に参考人として尋問されますが、結局証拠不足で釈放されるのですが、そうなると、失踪した日の朝、メガンとキスしていた男は誰だったのでしょうか。それとも、そんな男なんかいなくて、レイチェルの妄想だったのでしょうか。

テイト・テイラーの演出は、レイチェルの心理を追う演出になっていまして、その細やかさは認めるものの、ミステリーとしては、今一つだったのは、ちょっと残念でした。いわゆる謎と真相の見せ方がスマートじゃないと言ったら言い過ぎかしら。ボロボロのヒロインを演じたエミリー・ブラントは、こういうキャラにきっちりとはまった熱演で、どこかあやふやしたドラマを引っ張っていきます。この人、メインのヒロインを張るには華がないなあって思っていたのですが、こういう役だとすごくリアルで説得力がありました。要はリアルに「うへぇ」ってな感じだったのですよ。また、メガンを演じたヘイリー・ベネットのどこか幸薄いはかなげな感じが印象的でした。でも、レイチェルと同様、メガンも気の毒な事情はあるしろ困ったタイプの女性です。また、愛人から本妻にランクアップして幸せに暮らしているアナもどこか共感を呼ばないタイプでして、そこをレベッカ・ファーガソンがうまく演じていまして、ラストの彼女のサプライズが後でじわじわくることになります。

トマス・ウィンダーベアの「光のほうへ」「偽りなき者」を手掛けたシャルロッテ・ブルース・クリステンセンの撮影がそのシーン毎の最適のカットを押さえていて、ドラマをわかりやすく支えています。絵そのものが目を惹くのではないのですが、ドラマを盛り上げる絵を確実に撮っているというところに後で気づきました。ダニー・エルフマンの音楽は彼にしては乾いた不安をあおる音作りで渋くこの映画をサポートしています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



森の中でメガンの死体が発見されます。彼女は妊娠していましたが、その父親は、夫のスコットでも精神科医でもありませんでした。メガンが失踪した当日、レイチェルが目撃した彼女のキスの相手は精神科医のアブディッチでした。でも、彼女の浮気相手は別にいました。それはレイチェルの元夫のトムだったのです。レイチェルは、記憶を失ったトンネルへ行き、全てを思い出します。メガンに「この売女」とどなりつけたとき、トンネルの向こうに止まった車からトムが現れて、彼女を突き飛ばし、メガンと一緒に車に乗り込んで去っていったのです。さらに、彼女は、過去に夫から聞かされた酔っ払った時の行動は、トムがでっち上げた偽の記憶であることも知るのでした。実はトムは女癖が悪くて会社もクビになっていたのでした。一方、アナは夫の隠し携帯を見つけ、そこにメガンからの留守電を聴き取り、夫の浮気を確信します。レイチェルは、アナを訪ねて、すぐに一緒に逃げようと言いますが、そこへ現れたトムに殴られて気を失い、さらに首を絞められて殺されそうになり、傘立てで殴って逃走、さらに引き留めようとするトムの首にワインオープナーをぶち込みます。それを見ていたアナは、虫の息のトムの首に刺さったオインオープナーをグリグリグリってやってとどめを刺します。逮捕された二人は正当防衛が認められたようです。メガンの墓を見舞い、自分、メガン、アナの絆は永遠よというモノローグでおしまい。(← おいおい、ってこれは私の突っ込み)

森の中で、メガンはトムに妊娠を告白するのですが、俺の子供なら堕ろせというトムとメガンは言い合いになり、トムが突き飛ばしたメガンは頭を打って重傷。そんな彼女にトムはとどめを刺したのです。いわゆる痴情のもつれからの殺人事件だったのですが、これをアル中女を主人公にしたら、複雑なミステリーに仕上がったという感じでしょうか。特に、レイチェルの酔って失った記憶が、トムの吹き込んだウソの記憶に置き換わっていたというのは、「ねつ造された記憶」のミステリーでもあります。ただ、このトリックが本編に生かされず、ヒロインのキャラ付けのみに使われたのはミステリーファンとしてはちょっと物足りないかも。

ラストで、レイチェルが自分とメガンとアナの絆は永遠だというのには、「あ、やっぱりこいつヤバい奴だ」とぞっとさせられました。レイチェルとメガンは会ったこともないのに、レイチェルの中では永遠の存在になっちゃっているのですから、思い込みの強い女ってやっぱり怖いわあ。あ、別に男女差別はする気ないです。思い込み強いのは男でも怖いですから。(← 言い訳)

レイチェルがスコットの家に行ったこと、また、その後、記者を逃れてきたスコットを部屋に泊めたことで、警察はレイチェルがスコットを誘惑したと勘違いして二人の仲を疑うようになるのですから、彼女の行動を裏目裏目に出てばかり。ラストも結果的に、アナを殺人の共犯にしちゃうわけですから、正直、こいつ疫病神だよなあ。というわけで、彼女を被害者にすると、ミステリースリラーになるのですが、彼女主体のお話として考えるとサイコホラーにも思えてきます。社会的には気の毒な女性ということになるのでしょうが、レイチェルの正体は別のところにあると言えそうです。それとも、女性なら、彼女に共感できるところがあるのかしら。その方がもっと怖いかも。まあ、私は記憶をなくす酔っ払いへの偏見があるから、そう思えるのかもしれませんけど。

「マイ・ベスト・フレンド」は聖人君子じゃない人々の細やかなドラマとしてマル。


今回は新作の「マイ・ベスト・フレンド」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。今年はお正月映画が何なのかチラシや予告編を観てもよくわかりません。スターウォーズ以外のお正月映画って何なのかしら。

ジェス(ドリュー・バリモア)が小学生の時にアメリカからロンドンへ引っ越して来て以来、ミリー(トニ・コレット)は大の仲良し。ファーストキスのときも初体験のときも二人は一緒にいたくらい、いつも一緒の二人。ミリーはミュージシャンだったキット(ドミニク・クーパー)と結婚し、子供も二人できて、音響会社でばりばりのキャリアウーマン。一方のジェスは環境保護活動家として働いている時に知り合った整備士のジェイゴ(バディ・コンシダイン)と知り合って結婚しましたが、なかなか子供ができません。そんなある日、ミリーに乳がんが見つかります。化学療法を受けることになるミリーをジェスは病院へ付き添って支えます。そして、何とか化学療法を乗り越えたミリーですが、医師から両乳房の切除を勧められて大ショック。一方不妊治療から、体外受精を行って妊娠に至ったジェスは大喜びな時なんですが、ミリーにそれを伝えることができません。そして、ミリーの手術は成功するのですが、両乳房を失った彼女は自信喪失し、キットとの間も気まずくなってしまい、バーテンの男と勢いで寝てしまうのでした。それでも、何とか二人の関係を修復したいキットは、彼女の誕生日にサプライズパーティを仕掛けるのですが、これが却ってミリーが切れさせてしまいます。パーティをぶっちぎるミリーを追うジェス。タクシーでブロンテの小説「嵐が丘」の舞台であるヨークシャーへと向かうミリーとジェス。しかし、そこで二人の友情に亀裂が入ってしまうのでした。

自身の乳がんの経験があるモーウェナ・バンクスが書いた脚本を、「トワイライト~初恋~」「マリア」のキャサリン・ハードウィックがメガホンを取りました。二人の出会いから今までの人生がダイジェストで流れた後、本筋の冒頭で、ミリーがガン宣告を受けるシーンが登場するので、「ああ、これは死病映画なんだな」ってところから、スクリーンに向かうことになります。映画に「死病映画」というレッテルを貼ることは、作品に対して失礼になることもあるのかもしれませんが、そういう映画のジャンルは存在するので、どうしても、そういう映画だという先入観で、映画を観てしまうことになります。そこにどういうプラスアルファを絡めるかというところで、その映画を評価しちゃうところがあります。病気に兄弟愛を絡ませた「ジョーイ」、少年の友情を絡めた「マイ・フレンド・フォーエバー」、大人の恋を絡めると「エレジー」なんて映画になり、それぞれが映画としても評価が高いです。この映画も、がんのヒロインのドラマであるのですが、その描き方は、かなりリアル。がんという病気が必ずしも死と直結するとは限らなくなり、それでも死因としての上位を占めているという現状では、がん宣告された人が「私、死ぬんだわ」とメソメソさせると、がんと闘う患者や家族から、怒られそうなところがあります。一方で、手術で簡単に治りましたというのも、実際に苦しんでいる人が大勢いる現状では、やっぱり怒られてしまいそう。そういう意味では、がんを扱うのは、リアルに走り過ぎても、ファンタジーにしても、苦情が出てくるという難しいジャンルになってきているように思います。がん患者を、聖人のように見せても反感を買うだろうし、悪役にしたらもっとクレームがつきそうだしと、作る方が色々頭をひねるんだろうなって気がします。

そんな前提で考えると、この映画のヒロインであるミリーは、聖人ではないし、結構、わがままなところもあり、そして、ダンナに触れてもらえないさみしさを、バーテンダーとの浮気で埋めるなんてことをしちゃいます。それまで、二枚目のダンナとかわいい二人の子供との充実した生活を送ってきたヒロインが、病気で、幸せのサイクルを狂わされてしまうところをリアルに見せています。生活感のある描写の中に、がんという病気が割り込んでくる様をハードウィックの演出は丁寧に描写していて、それによるミリーのダメージをリアルに感じさせるあたりは見事でした。ミリーの家の近所に母親のミランダ(ジャクリーヌ・ビセット)が住んでいて、子供の面倒をみてくれたりしているという設定になっていて、病気の娘を、色々と気遣うのですが、どうにもならなくなると、ジェスに電話でヘルプをかけるあたりの人間関係の機微が細やかに描かれているのも点数高いです。

映画の粗筋だけ述べると、すごく重い空気の映画のように思えますが、決して沈んだ内容の映画にはなっていません。それは、要所要所に笑いを盛り込んでいるからでして、会話のあちこちに盛り込まれたユーモアの数々は、あー、こういう会話は日本人苦手そうだなあと思えるのですが、こういうやり取りがあったら、日々の生活ももっと弾むよなあと思えるもの。ちょっとしたことなんだけど、笑える瞬間が重い内容のドラマをふっと救い上げる感じはうまいなあって感心。特にミリーの二人の子供が笑いを取るところは、何だか見ていてほっとさせるものがありました。

その一方で、化学療法で髪が抜けるところとか、乳房切除の後をしっかり画面で見せるあたりはかなりリアル。CG技術のおかげでこういうシーンを映像化できるようになったのでしょうけど、こういうシーンを見せられると、ヒロインへうかつな同情はできないなあって、気が引き締まるところもありました。一方で、そういうところ見せられる家族の辛さもきちんと描いているのは点数高かったです。何て言うのかな、全体的にすごく細かく気配りがされている映画になっているのですよ。ですから、ミリーのことを第一に考えるジェスがダンナと諍いになって、また仲直りしている感じとか、ジェスと言えども、ミリーとキットの夫婦仲にまで入り込めないところとかが、すごく自然というか、納得できて共感できるようになっています。バーテンダーと浮気しちゃうミリーの行動にも、嫌悪感を感じる前に「さもありなん」と思えてしまうあたりにドラマづくりのうまさがあります。

演技陣では、トニ・コレットがキャラの強いミリーを熱演していて見応えがありました。色々な役を演じてきた彼女ですが、この映画では、輝くキャリアウーマンから、死相の出た病人まで、ものすごいふり幅の大きな演技を見せて、女優としての横綱相撲を見せてくれます。一方で、相手役のジェスを演じたドリュー・バリモアがいつものようなキャラを前面に出す演技ではなく、受けの腹芸を見せて、女優としての新局面を見せてくれました。「炎の少女チャーリー」以来の彼女のファン(←ロリじゃないよ、いや、そうかな?)である私としましては、主役のようで脇役という難役をきちんとこなす彼女に惚れ惚れでして、またこの先の展開が期待できる女優さんだなって思いましたです。また、最近、あちこちで見かけるバディ・コンシダインがドリューのダンナを演じてきっちりとはまったのがうれしい発見でした。ただのおっさん脇役ではなかったんですね、この人。この先、要マークだわ。また、私的にはものすごいお久しぶりのジャクリーヌ・ビセットがトニ・コレットの母親をコミカルに演じていたのも印象的でした。年齢は感じさせるけど綺麗なんですよね、そのあたりは美魔女とはちょっと違うのが魅力的でした。

エリオット・デイヴィスのキャメラは、引きの絵で落ち着いた絵をきっちりと作る一方で、寄りの手持ちの映像は、シネスコ画面のサイズを無視しているのがちょっと気になりました。これは好みの問題になるのでしょうけど。また、ハンス・ツィマー一派(RC)の出世頭になるのかしら、ハリー・グレッグソン・ウィリアムズの音楽が、クレイグ・アームストロングを思わせるしっとりとしたやさしい音で、画面を支えているのが印象的でした。この人は、ファンタジー、SFなどの派手目な音の多いイメージなので、ちょっと意外な発見でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ヨークシャーで二人の泊まったホテルは、実はミリーの浮気相手のバーテンダーの実家で、彼が今は働いていたのです。ミリーは彼を自分の部屋は呼んで一夜を共にしますが、それを知ったジェスは激怒。ダンナや子供がいるのに身勝手すぎると責めるジェスに、ミリーはそれはそうだと開き直り、二人の友情は決裂してしまいます。そんなミリーに脳腫瘍が見つかり、もう余命があまりないことが知らされます。何度かためらったのち、ミリーはジェスを訪ね、お互いに近況を交換しあい、二人は和解するのでした。しかし、病気は進行し、ミリーはホスピスへ入ります。そして、静かに死を迎えようとしていたミリーに、ジェスから電話がきます、「子供が生まれそう」。ミリーは母親の助けを借りて、力を振り絞って起き上がると、ジェスの病院へ向かい、彼女の出産に立ち会うのでした。そして、ホスピスで寝たきりとなるミリーに寄り添っていたジェスがちょっと目を離したときに彼女は息を引き取るのでした。1年後、二人目を妊娠しているジェス、そしてミリーの子供たち、キット、ジェイゴが仲良く食事をするシーンとなり、母親のミランダの横には新しい彼氏がいます。暗転、エンドクレジット。

映画の頭で、ジェスが分娩室で苦しんでるシーンが登場するので、これがいつか来るだろうと思っていると、ここにミリーが立ち会うというのがうれしいサプライズとなります。石油基地で仕事中のジェイゴとスカイプでつながると、ジェイゴの同僚も一緒になって出産を見届けることになるというお笑いも入れて、クライマックスを盛り上げます。その後、エピローグとして、ミリーの死をきちんと見せます。ここで、彼女の死のエピソードを入れるか、1年後へ話を飛ばすか、どっちがいいのか迷うところですが、この映画では、ミリーが悲しまず悔いのない人生を終えたことを見せるのです。

こういう映画を観た時、若い頃は、その早過ぎる死に不公平だと苛立ちを感じたりしたものです。ところが自分が老いを感じ、人生の下り坂に差し掛かってくると、その感じ方が変わってきました。人間、遅かれ早かれ誰も迎える死なんだから、時期よりもその迎え方が肝心だよなあって思うようになってきたのです。それは、単に長生きするのが幸せとも思えなくなってきたこともありますし、若くして死ぬことで多くの人の記憶に残る人生に、若干のうらやましさを感じるようになったからということもあります。人の人生は、長さでは測れないし、一方でその生き方を客観的に見て判断しても、真実には届かない、そんな気がします。この映画のミリーは、がんという病気で、不本意な死を迎えることにはなったけど、映画を観ている限りは、充実したよい人生だったように見えます。でも、それは客観的に見たらという条件付きでして、彼女本人から見て、どうだったのかなあと考えてみると、色々と悔いや思い残すところのある人生だったのかもしれないですし、本人にしかわからないことなのかも。いや、本人にもわからないことなのかもしれません。だから、人はよかれと思う方向を模索することになるのですが、なかなかその方向が見えないってところが現実なのかもしれません。この映画の、ミリーの言動や行動には、そういったことを考えさせるものがありました。普段、あまり考えない人生について、ちょっとだけ想いを馳せるきっかけになる映画ではないかしら。

「妖婆 死棺の呪い」はドラマチックじゃない民話調の語り口が楽しい素朴な味わい。


今回は、ブログの師匠pu-koさんの紹介記事にあった「妖婆 死棺の呪い」をDVDをゲットして観ました。1967年のソ連の映画なんですが、過去にテレビで放映されたことがあり、キネマ旬報のテレビで公開された映画の紹介記事を読んだことがあって、気になっていました。幼い頃、この話とそっくりな水木しげるのマンガを読んだことがあって、それもこの映画の興味につながっていたのですが、なかなか観る機会がありませんでした。今回、pu-koさんの記事を拝見して、それなら観てみようということになりました。

神学生のホマーは、学校が休みに入って、友人二人と旅に出ます。途中で夜になり、立ち寄った村の家に無理を言って泊めてもらいます。そこには、不気味な老婆が一人で住んでいて、寝ているホマーのところに老婆が現れて、彼に無言で迫ってきます。逃げようとするホマーの背中に乗る老婆、すると不思議なことにホマーの体は、老婆を背負ったまま空を飛んでいきます。着陸したホマーが老婆を棒でなぐりつけると、老婆は息も絶え絶えの美しい娘に変身します。ほうほうのていで大学まで逃げてきたホマーに、土地の名士からお呼びがかかります。瀕死の娘がホマーを指名して祈ってほしいと言ってるというのです。無理やり名士の家に連れていかれるホマーですが、既に娘は亡くなっていました。その娘とは老婆が変身した娘でした。名士はホマーと娘の関係をいぶかるのですが、とにかく教会で三日三晩の祈りをして欲しいと言い、それが無事に済めば大金をやるが、逃げたらただじゃ済まないと脅してきます。そこで仕方なく、ホマーは夜、教会で娘の遺体と二人っきりになります。チョークで聖なる円を書いて、その中で祈りの言葉を述べるホマー。すると娘が起き上がり、ホマーを探し始めます。円の中のホマーは見えないようで、いらだつ娘ですが、朝がやってきて、娘は棺の中に戻ります。二晩めの夜、目を覚ました娘の棺が教会の中を飛び回り、ホマーを探し回ります。髪が真っ白になってヘロヘロのホマーは、逃亡にも失敗、教会で最後の夜を迎えることになります。

ニコライ・ゴーゴリの原作を、アニメや特撮の名匠アレクサンドル・プトゥシコとコンスタンチン・エルショフ、ゲオルギー・クロバチョフが脚本化し、エルシェフとクロバチョフが監督し、プトゥシコが総監督として仕上げました。映画の冒頭で、「聞いた話をそのまま書き留めた」というゴーゴリの言葉がテロップで出ます。実際に、お話としては、論理性とか、因果関係がまるでわからない怪異譚になってまして、「遠野物語」のような民話的な味わいの濃いお話になっています。あの老婆は何なんだとか、本当の娘はどこへ行ったんだとか、後から理屈をつけても、意味のないことです。単なる不思議なお話は、全体を通した、どこかすっとぼけた語り口とうまくマッチしていまして、ドラマチックな要素がないことが、この映画を成功させていると思います。

主役のホマーは共感を呼ぶヒーローではなく、かなりいいかげんな不良神学生でして、そんなどこにでもいそうな若者が妖怪に目をつけられてひどい目に遭うというお話です。ホマーが禁忌に触れたとか、バチあたりな悪さをしたというわけでもないのですが、変な老婆にちょっかいを出され、空を飛び回らされ、逆襲したら娘に変身されちゃうという、まるで脈絡のない展開は、純粋に不思議としか言いようがありません。その後も、名士の娘が死の間際にホマーをご指名かけて、行ってみれば、死体が起き上がって襲ってくる。何の因果でというと、何の因果もなくて、たまたま妖怪に見初められちゃったのが運のつきというのは、理不尽だけど、それだけに作り話に思えないリアリティがあります。でも、こんな迷信そのもののお話が共産主義のソ連で作られたのは面白いと思います。

映画としては、カットによって映像のタッチが異なっていたり、ピントが合ってないカットがあったりして、技術的にどうなのってところもあるのですが、民話的なタッチがそんな稚拙な部分もありかなという気分にさせるから不思議です。合成カットで同じ人間を3人登場させたり、棺が宙を舞うシーンなどでも合成カットを使っているのですが、今の技術からすれば、つたなく見えちゃうところもあります。でも、それが素朴な感じで民話っぽく見えてきます。日本昔話で切り絵タッチのアニメを見せられると、何だか素朴っぽくていいなあって感じと同じで、今、観るから、この映画を民話として楽しめるというところがあります。CGばりばりのファンタジー映画を観ちゃった後だからこそ、この映画が余計目に楽しめるというのは、意外というか皮肉な発見でした。



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3日目の晩、聖なる円の中で聖書の祈りをとなえるホマーの前で、またしても娘は目を開きます。娘は吸血鬼や食人鬼といった妖怪たちを呼び出すと、教会のあちこちから妖怪たちがわらわらと現れます。それでも、円の中のホマーを見つけられない様子。娘は老婆に姿を変えてホマーを探し回ります。しかし、そこへ、ヴィーというドザエモンのテディベアみたいな妖怪が呼ばれてきます。ヴィーの重い瞼を持ち上げると、その眼にはホマーが見えるらしいのです。「ほら、そこにいる」というヴィーに妖怪たちは一気にホマーに襲い掛かります。そんな混乱の中で、朝が来て、妖怪たちは慌てて逃げ出すのですが、一部は逃げ遅れて教会にその屍をさらし、老婆はその姿のまま棺に横たわり、ホマーは息絶えていたのでした。

クライマックスの妖怪たちがぞろぞろ現れるシーンは、「妖怪百物語」や「センチネル」のクライマックスを先取りしたものとして、なかなかの迫力がありました。ホマーが死んじゃうのはびっくりでしたけど、そんな不思議な話でねという結末としてはありなのでしょうね。また、娘の死体が老婆になっちゃうってことは、結局、娘は魔女だったということになるのか、娘は魔女に体を乗っ取られていたってことになるのか、どう解釈しても筋道だてるのは無理みたいです。その理不尽さがこの映画の面白さなのでしょう。でも、伝説とか民話の世界にはそういう話もあるのでしょうね。「遠野物語」とか「まんが日本昔話」にも、そういうわけのわからない話がありましたもの。

で、このお話なのですが、私が昔、漫画雑誌(「少年キング」だったかな)に掲載されて、水木しげるの漫画に似ているのですよ。小学校低学年の頃の記憶なのであいまいなところも多いのですが、覚えているのは、若い僧が死んだ娘のために三日三晩の経を唱えることになるということ。夜になると娘がよみがえるが、魔法陣の中に入ってる僧を見つけることができない、最後の夜には妖怪が一杯現れる、その中の土精という妖怪のまぶたを持ち上げると僧の居場所がわかってしまう、僧は妖怪に襲われるがそのゴタゴタで妖怪たちは鶏の声を聴き損じて、日の光を浴びてミイラになってしまう、既に老僧となっている僧がそのミイラの由縁を語っていた、というところでしょうか。この漫画と映画はかなり共通点が多いことが今回確認できました。大きな違いは、水木しげるのマンガでは、主人公が死なないことでしょう。水木しげるは、海外の作品を自分のマンガに翻案していますが、このマンガは、原作を取り込んだのか、映画を取り込んだのか、どっちなのかしら。ともかくも、幼い頃からの疑問が一つ解決しました。ネットで検索すると、この水木しげるのマンガのタイトルは「死人つき」だそうです。

「ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期」は40代女子のラブコメとしてよくできてて面白いと思うのは私だけ?


今回は新作の「ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期」を、有楽町のTOHOシネマズ日劇3で観てきました。もともとシネコンの作りじゃない、フラットな場内ではあるのですが、スクリーン位置がそこそこ高いので、前に人がいても割と楽に映画鑑賞できる映画館。ところでこの映画、プログラムが作られていません。よほど、お客の入りが期待されていないのかしら。秋口に公開される映画って、色々な意味で扱いが悪いのかなあ。

あのブリジット・ジョーンズ(レニー・ゼルヴィガー)も43歳。かつての彼氏ダニエルは飛行機事故で行方不明、もう一人の彼氏マーク(コリン・ファース)は結婚しています。それでもテレビ局のプロデューサーとして仕事に頑張る日々を送っていました。同僚に誘われて出かけた泊りがけコンサートで出会ったジャック(パトリック・デンプシー)と勢いでベッドを共にしてしまいます。その1週間後、友人の子供の洗礼式に出たら、離婚調停中のマークと再会、ここでも盛り上がった二人はベッドイン。そして、しばらくしたらブリジットの調子が変、彼女は妊娠していたのでした。でも、父親はどっちかわからないので、ジャックとマークの両方に子供ができたことを告げたものの、どっちかわからないのって言い出せなくて、右往左往しちゃいます。二人ともブリジットの妊娠を喜んで、求愛してくるのですが、モテモテの彼女は果たしてどういう決断を下すのでしょうか。

1作目の「ブリジット・ジョーンズの日記」が2001年、続編が2004年ですから、10年以上間を置いて続編が出るってのはすごいってのが観る前の感想でした。レニー・ゼルヴィガーもコリン・ファースも年取っちゃってるだろうから、無理矢理若作りの痛い映画になっていたらやだなー、観ていて辛くなるのちょっと、という危惧もありました。そういうやな期待を払拭するためか、映画は、ブリジットが43歳の誕生日を一人で過ごしているシーンから始まります。30代独身ヒロインの色恋のドタバタを描いた1作目から、映画の中でも10年以上経過しているという設定でとりあえず安心。そして、43歳のヒロインの妊娠騒動が今回のメインのお話になっています。で、結論から言いますと、意外と面白かったです。43歳のヒロインのラブコメとしてかなりいい線いってます。40代のキャピキャピヒロインの妊娠ドタバタというと、いやな予感が先に立ちそうな気もするのですが、ヒロインはちゃんとかわいいですし、生臭くなりすぎないセンスと、悪人の出てこない展開が心地よいドラマに仕上がっています。40過ぎのヒロインが、同じ頃2人の男とエッチして妊娠して、父親がどっちかわからないなんて、一見ドン引きな発端なのに、楽しく観ることができましたから、なかなかあなどれない映画です。

原作者のヘレン・フィールディングと、「ボラット」「ブルーノ」のアラン・メイザーに、女優でこの映画にも女医さん役で出演している「いつか晴れた日に」「ナニー・マクフィ」シリーズのエマ・トンプソンが共同で脚本を書いて、1作目を監督したシャロン・マグアイアがメガホンを取りました。脚本の3人の顔ぶれがムチャクチャな取り合わせなんですが、この取り合わせの妙が、この映画をいい方向に活性化しているのかもと後で思いました。サシャ・バロン・コーエン映画のお下劣さを、ナニー・マクフィーのファミリー映画的味付けでまろやかにまとめているという感じでしょうか。なるほど、あなどれない映画に仕上がっているわけだわと、勝手に納得しちゃいました。考えてみれば、40過ぎのオバさんの、ものすごいゲスな話なのですから、下手をすれば、観客ドン引きになりそうなところを、率直なヒロインぶりで、何となく共感させちゃうあたりは、かなりうまい。これ、20代の女の子でも成り立つストーリーなんですが、それを40代へいい感じにシフトさせていまして、ヒロインが人間としての未完成感を出すことで、成長過程の女子の物語に仕上げています。これって、ある意味、離れ業の映画と言えそうです。イギリスの40代女子のコメディというのが、一番的確な表現かも。日本のラブコメでも、こんなストーリーをこなせるのは30代女子が限界でしょうから、それを40代まで引き上げた功績は大きいのではないかしら。この映画がヒットすれば、40代までラブコメの裾野が広がったことになり、その分野への開拓者として記憶に残ることになるかも。(ちょっと、持ち上げすぎ。)

レニー・ゼルヴィガーが演じているブリジット・ジョーンズは、仕事もそこそここなしているけど、キャリア志向とはちょっと違う、背伸びしない身の丈をわきまえた女性です。ストレス発散はセックスよと友人とコンサートキャンプで知り合った男とあっさり寝ちゃう軽さもあって、その後は、ジャックとマークの間で揺れる恋心に正直に困惑しちゃう乙女のハートも持っています。達観したり、割り切ったところがないのが、いわゆる普通の40代の女性と違う、40代女子なのかなと気付くと、その率直なヒロインぶりに共感できるのですよ。(あ、これは、私のオヤジ目線でというのが前提です。女性目線だと嫌われちゃうのかもしれないですね、こういうタイプ。)斜に構えたり、偉そうなことを言わないブリジットって、オヤジ目線からすると、ある意味、理想の女性とも言えます。それなりに積んだ経験とか年齢を鼻にかけないで、自分の意見を謙虚に主張するブリジットは、その根っこのところはマジメで素直な女性です。でも、どっか抜けててドジっ子なところは、いい年なのに成熟感がありません。そういうヒロインがいてもいいじゃんという視点で作られていますので、これを「気色悪い、ぶりっ子オバサン」として切り捨てる人もいるかもしれません。でも、私みたいに、そういう生き方の「40代女子」がいてもいいと思う人間ならば、この映画は、共感できるヒロインのドタバタラブコメとして楽しめるのではないかと思います。で、私は、この映画を、ゲスい設定の40代女子のコメディとして面白く、そして大変うまく作ってあると思います。

二人に事情を説明すると、二人ともブリジットの産婦人科や、妊婦スクールに付き添います。堅物の弁護士マークに比べたら、婚活産業でお金もちのジャックはスマートで明るいキャラなので、ブリジットは惹かれるのですが、10年来の長い付き合いのマークもまた捨てがたいいい男です。そんな彼女が、どっちを選ぶのかというところが、この映画のクライマックスとなるのですが、そこをドラマチックにしないで、あっさり自然に見せた演出は好感の持てるものでした。ブリジットが二人のどちらかを大決心して選択するのではなく、自然の流れの中で決まっていくという展開は、どちらかを敵役にしない見せ方として成功しています。

レニー・ゼルヴィガーは場面によっておばさんにも乙女にも見えるあたりは、演出の見せ方のうまさでしょう。個人的には眼鏡っ子ブリジットがかわいくてツボにはまりました。また、演技陣は脇役にうまいメンツを揃えて、ドラマに厚みを加えていまして、特にブリジットの両親を演じたジム・ブロードベントとジェマ・ジョーンズの二人の好演が光りました。ドラマの舞台がロンドンということで、英国の俳優さんが参加しているのでしょうか、アメリカのラブコメよりも、脇役の層の厚さを感じさせて、主人公たちがドタバタをやっても、全体の雰囲気は落ち着いたものになっています。アンドリュー・ダンの撮影も、華やかさよりも落ち着いた人間ドラマの絵を作っているのが印象的でした。音楽はあちこちに既成曲を挿入していて、ドラマを彩っています。ちょっとだけ聞こえるスコア音楽はごひいきクレイグ・アームストロングによるものですが、この量ではサントラ盤は出ないだろうなあ。



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ジャックは、マークに自分はブリジットと寝た時に避妊はしてないとウソをつき、マークは身を引いて、ブリジットに連絡を取らなくなります。ジャックは、そのことの非を認めて、ブリジットにそのことを告げます。パスワードを忘れて、ATMにカードを吸い込まれ、荷物もそこへ置き忘れたブリジットが家にも入れず、雨に濡れているところへ、マークがやってきて彼女を部屋へ送ってくれます。そこで産気づいてしまったブリジットは、タクシーも呼べず、行きつけのイタリア料理店の宅配トラックで病院へ向かうのですが、途中でデモ渋滞で、歩く羽目になります。マークがブリジットを抱き上げて運ぶのですが、その重さに限界が。そこへジャックも駆け付け、二人で彼女を病院へ運びます。分娩室へ入ったブリジットに、手を差し伸べるジャックとマーク。でも、ブリジットが両手で握り返したのはマークの手でした。そして、無事に男の子が生まれるのでした。そして、1年後、教会にウエディングドレスで現れるブリジット。彼女の息子を抱えたジャックもいますが、花婿はマークでした。かくして、ようやくブリジットも身を落ち着けることになり、めでたし、めでたし。おしまい。

ブリジットの気持ちが、やっぱり、マークへとだんだん流れていくのを自然に見せたセンスがよかったです。一方でジャックを悪役とか負け犬のように見せなかったのがうまいと思います。誰も悪役にしない采配で、映画の味わいもまろやかなものになり、後味もよかったので、この映画の点数、私は結構高いです。単品の映画としては面白かったけど、シリーズものとして物足りなかった「ジェイソン・ボーン」「インフェルノ」に比べて、シリーズものとしての満足度もあり、笑いもあって楽しめました。ラストで、死んだと思ったダニエルが生きていたという新聞記事がアップになるのもおかしかったです。

私はこの映画をオヤジ目線で褒めてますけど、女性の目から見ると、このヒロインがどう映るのか興味あります。若い女性と、40代女性とで、また見え方が変わってくるようにも思えるので、その世代ごとの評価を聞いてみたいところです。日本での40代女子のステータスってどんな感じなのかしら。私は、「あり」だと思っているのですが。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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