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2016年のベストテンを作ってみました。

2016年の最後に今年のベストテンを作ってみました。十分な本数を観たとは言えませんが、とりあえず面白かったもの、そして発見があったものを中心に10本選んでみました。まあ、要は好きな映画、言い換えると私と相性がよかった映画10本です。

第1位「みかんの丘」
グルジアに住むリトアニア人のおじいさんの家に敵対する二人がケガをして転がり込んだというお話で、戦争の愚かさを描いた優れた反戦映画です。でも、それ以上に面白くできていて、おじいさんがかっこいい。愁嘆場を見せないドライな展開は、山の中のハードボイルド映画として見応えのあるものでした。こういう反戦映画の作り方もあるのかと感心したのと、その作りのうまさで、今年のベストワン映画です。

第2位「アスファルト」
団地で起こった3つのささやかなエピソードは愛というほど大げさではないけど、人間の持つ好意を描いた映画として、ほっこりさせてくれました。演技陣の好演もあり、ちょっと浮世離れしたお話ですけど、好意が人をつないでいくというドラマは、すごく心地よくって、こういう映画好き。年のせいか、刺激の強い映画についていけなくなったってこともあるんですが、今年一番愛おしさを感じさせてくれた映画でした。

第3位「手紙は憶えている」
認知症の老人が元ナチに復讐するために旅に出るというお話。自分の境遇も手紙を読まないと忘れちゃうというおじいちゃんに復讐なんてできるのかと思わせるのですが、その復讐の結末はなるほどと納得してしまいました。第二次大戦の当事者が限界まで高齢化した、今を描いたドラマとしても、執拗な復讐のドラマとしても見応えがありました。そして、何よりも今年の映画の中で、面白さが一番だったのがこれです。

第4位「アイ・イン・ザ・スカイ」
ドローンを使って、テロリストをやっつけようとしたら、パン売りの少女が標的の家の前で店を出してました、さてどうするというお話で、自分の決断を信じる軍人と決断できない政治家の間で時間だけが過ぎていく展開から、攻撃に移ってからの、サスペンス演出がお見事な一品。戦争の持つ嫌な側面を色々とぶちこんで、戦争ってのは誰にとってもロクなもんじゃないってことを見せる映画でした。でも、現実には、人間は戦争から逃げられないという嫌なメッセージも垣間見れちゃうかなり意地の悪い映画で、とにかく作りのうまさ、輻輳するメッセージの巧妙さが光る一品として見応えがありました。

第5位「世界一キライなあなたへ」
全身不随の若者の介護士として雇われた女の子が奮闘するお話で結構ヘビーな結末なラブストーリーなんですが、とにかくヒロインを演じたエミリア・クラークがかわいくて、第5位に挙げちゃいました。仕事がなくてお金のために介護士の職についたヒロインの頑張りぶりの微笑ましさから、後半ラブストーリーへ移ってからの切ない展開まで、成長するヒロインの映画として大変見応えがありました。

第6位「ボーダー・ライン」
麻薬カルテルを壊滅させるために派遣された女性FBI捜査官を主人公にした社会派ドラマのように始まるのですが、お話が二転三転して復讐の物語へとシフトしていくのを、重厚なドラマとして見せた一品です。重苦しいドロドロしたお話をぐいぐいと引っ張っていくドゥニ・ヴィルヌーブの演出が見事で、映画を観たという満腹感があったので、第6位に入れました。ドラマとしてのボリューム感ではこれが一番でした。

第7位「ダーク・プレイス」
幼い頃、姉二人と母親を殺された主人公はその犯人として兄を名指ししていました、というかなり異常な設定で始まるミステリーで、関係者みんなどこか歪んでいるところが、話をややこしくして、真相がなかなか見えないというところが面白い映画でした。自分の記憶が怪しいヒロインのお話ということでは「ガール・オン・ザ・トレイン」も面白かったのですが、苦悩するヒロインに共感できた分、こちらの方に軍配が上がりました。どこか心に引っかかるところのある映画ということでも、印象に残った第7位です。

第8位「虹蛇と眠る女」
オーストラリアを舞台に、子供二人が行方不明になった母親をニコール・キッドマンが熱演した、ちょっと変わった味わいの人間ドラマです。コミュニケーションがうまくとれなくて疎外感にさいなまれる人間がどうやって自分を取り戻すのかというのを、面白い切り口で見せた映画として印象的でした。色々な解釈が可能なお話は、語り口は固いけど、どこか心に引っかかるものがあって、どうにも気になってベストテンからはずせないという感じでしょうか。

第9位「オートマタ」
人間が滅びゆくなかで、その後を担うのはロボットであり、それが自然の流れなのだという見せ方が新鮮な、ペシミスティックSFの一編です。ロボットが人間を滅ぼすというお話ではなく、自然の流れの中で人間が滅び、ロボットが生き残るというのが、面白い視点で、その点だけでもベストテン入りでした。さらに、新しいロボット原則とか、人間型の次の世代のロボットのデザインですとか色々と発見のある映画でもあって第9位です。人間型ロボットが登場するSFとして「エクスマキナ」も面白かったのですが、説得力という意味で、こっちの方を取ります。

第10位「トランボ」
実在した脚本家ダルトン・トランボの半生を描いた実録ものの一編です。この類の映画って、歴史の裏話みたいな味わいはあってもあまり面白くないものが多かったのですが、この映画は、娯楽映画としても面白くできていて、歴史のお勉強にもなるという一粒で二度おいしい映画になっていたので、ベストテン入りです。アカの烙印を押されてハリウッドで仕事ができなくなって主人公が偽名を使って、脚本を書き続けるという展開がなかなかに痛快に描かれていて、個人が組織を出し抜くお話としても楽しめました。

というわけで、骨太ドラマとして見応えのあった「レヴェナント 蘇えりし者」、異常な発端から静かな感動があった「ルーム」、戦争映画として見応えがあった「ローグ・ワン」、エンタテイメントとして大変よくできていた「ブリッジ・オブ・スパイ」といった作品がベストテンからこぼれてしまいました。上記4本はベストテンに入っても全然おかしくない映画でしたから、今年は結構豊作の年だったと言えそうです。


次にベストテンには入らなかったけど、この部分がよかったというのを、「ピンポイントベスト5」として、以下に挙げます。

第1位「人間爆弾 桜花」の特攻隊の生き残りへの冷静で客観的な視点
特攻隊の生き残りの証言を淡々とつづった映画なんですが、証言者をある意味突き放したような冷静で客観的な視点が感じられたのが新鮮でした。作り手が対象にあえて共感しないで、距離を置いていることで、メッセージ性は薄まりましたが、その分、証言者の生きた時代のありのままが見えてくるのは、これまでの戦争体験者の証言ドキュメンタリーにはなかったものでした。なんと言うか、普遍性とでも言いましょうか、純粋な記録としての価値の高い映像になっているように思います。

第2位「サウルの息子」の嫌なライド感
ライド感というと、私は勢いのある臨場感という風に解釈していまして、今年の映画ですと「ジェイソン・ボーン」なんてのは、ライド感のある映画ということになると思ってます。特に「サウルの息子」はアウシュビッツのゾンダーコマンドの主人公をカメラがずっと追い続けることで、収容所を舞台にした映画なのに、そのライド感が半端なく、まるで自分が主人公と一体化して収容所にいるような気分になっちゃうのですよ。こういう題材を扱った映画に、ライド感を持ち込むことで、観客はおぞましい映像体験に放り込まれることになります。スタンダードサイズの映像で、エグい絵を直接見せることなく、ライド感を出すテクニックは見事としか言いようがないです。

第3位「尾崎支配人が泣いたも夜 DOCUMETARY OF HKT48」のプロパガンダ映画としての面白さ
プロパガンダ映画というと、政治イデオロギーの宣伝映画みたいなイメージもありますが、この映画は、アイドルグループのHKT48、引いてはアイドル業界のプロパガンダ映画として大変面白くできていました。アイドルとファンの関係ですとか、頑張るアイドルの存在理由といったものを丁寧に見せることで、なるほどアイドルってあなどれないね、HKT48って応援する価値のあるアイドルだねってことをうまく感じさせる作りになっているのですよ。宣伝映像ということはいわゆるコマーシャルということになるのですが、これはきちんとドキュメンタリー映画の体裁をとっていて、直接のメッセージを言葉にしていないのですが、それでも、きちんとアイドル支持を刷り込む映画になっているのは、面白いなあって思いました。他のAKB48のドキュメンタリーをテレビで観たことがあるのですが、それらには、この映画のような一般人へ向けたプロパガンダ映画の作りではなく、むしろオタクへ向けたメッセージになっていたので、この映画の面白さが際立つように感じました。

第4位「スティーブ・ジョブズ」のケイト・ウィンスレット
今年の女優陣は豊作でして、ベストテンでもあげたエミリア・クラーク(ほんとかわいい)の他にも、「ガール・オン・ザ・トレイン」のヘイリー・ベネット、「ジェイソン・ボーン」のアリシア・ヴィキャンデル、「ミモザの島に消えた母」のメラニー・ロラン、「ある天文学者の恋文」のオルガ・キュリレンコ、「ゴースト・バスターズ」のケイト・マッキノン、「ヤング・アダルト・ニューヨーク」のアマンダ・サイフリッド、「アンジェリカの微笑み」のピラール・ロペス・デ・アジャラ、「トランボ」のダイアン・レインとエル・ファニング、「人生は小説よりも奇なり」のマリサ・トメイ、「マイ・ベスト・フレンド」のドリュー・バリモアなどが印象的でしたが、その中では、やはりドラマを支える演技力ということで、「スティーブ・ジョブズ」のケイト・ウィンスレットが頭一つ抜きん出ていたように思います。まあ、私のミーハー趣味といえば、それまでなんですけど。

第5位「pk」の宗教へのチャレンジが見事
インド映画の「pk」は、SFであり、ラブストーリーでもある大変面白い娯楽映画なのですが、その中心に「神様を名乗る人間への懐疑」を持ち込んでいるのがすごかったです。宇宙人が望みは神様に頼めと言われて、あらゆる宗教の門をくぐるのですが、望みはかなわない、宗教によって神様の代理人のいうことが違う、これはおかしいと言い出すのです。宗教に対するものすごく素朴な疑問から、神様の名を借りた人間の不正を暴くというキャンペーンを展開するというお話は、信仰心の篤いインドでやるのはすごく度胸の必要なことだと思います。それを娯楽映画の中でやるのはすごいなあって感心。これって、信仰に限らず何かの権威を借りて好き勝手言う人はいますから、そういう人全般への警鐘になっているので、日本でもあてはまるお話なんですよね。

今年は、大ヒットした「君の名は」にイマイチ乗り切れなくて、若い人の感性についていけなくなったのかなあってのを実感した年でもありました。これからもオヤジ目線での映画鑑賞記事になりますが、来年もよろしくお願いします。
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「アイ・イン・ザ・スカイ」はゲーム型戦争と臨場感のダブルの見せ方が見事。


今回は、新作の「アイ・イン・ザ・スカイ」を、日比谷のTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。ここは、上映サイズに合わせて、きちんとスクリーンサイズを変える映画館。TOHOシネマズ全部が横着しているわけではないんですね。

ケニアのナイロビにアル・シャバブのテロリストが集まるという情報がもたらされ、イギリス軍のパウエル大佐(ヘレン・ミレン)の指揮のもとに、少数部隊を投入しての捕獲作戦が展開されます。アメリカ軍はクリーチ空軍基地からドローンを操作して、現地の情報をロンドンのパウエル大佐のいる司令部へ送り、ハワイの画像解析班がドローンの画像から顔を認識するために待機するという形で作戦に協力します。ロンドンの政府側のオフィスでは、ベンソン中将(アラン・リックマン)、ウッデール閣外大臣(ジェレミー・ノーサム)たちが作戦の状況を見守っています。当初の隠れ家と思われた家から、ターゲットが移動したことで、捕獲作戦の実行が困難になります。それでも、現地部隊のジャマ・ファラ(バーカッド・アブディ)が小型ドローンをその家に送り込み、ターゲットの存在を確認し、さらにそこで自爆テロの準備がされていることを発見します。捕獲作戦をあきらめていたパウエル大佐は、ドローンからのミサイル攻撃をしようとしますが、法務部は上層部の判断を仰ぐように指示。政府側オフィスでは、攻撃に是非についての検討がされますが、テロリストがアメリカ国籍とイギリス国籍を持っていることと、ケニアという友好国でのドローンからのミサイル攻撃という前例のないことで議論は紛糾、ウィレット外務大臣(イアン・グレン)に話を上げて確認をとるようにということになるのですが、ウィレット大臣はアメリカ市民を殺傷するならアメリカの国務長官の了承が必要だと言い出し、北京にいる国務長官をつかまえる羽目になります。一方、テロリストの隠れ家では、自爆テロの準備が着々と進んでいて、このままでは、多くの市民が犠牲になるという状況になっていたのです。

テレビ映画などで実績のあるガイ・ヒバートの脚本を、「ツォツィ」「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」などで知られるギャヴィン・フッドが監督しました。「ツォツィ」の監督って、「ウルヴァリン」とか「エンダーのゲーム」なんて映画撮ってたんですね、これにまずびっくり。それがまた、今度は会議室での戦争を題材にしたドラマを撮るなんて、振れ幅がでかいのか、何でもやる職人監督なのか。

この映画は、ケニアのナイロビと、ロンドンのイギリス軍司令室と国家緊急事態対策委員会の会議室、さらに米軍基地をネットで結んで展開するドラマです。軍事利用されるドローンを扱った映画では、「ドローン・オブ・ウォー」という映画が、ドローン戦での操縦者のストレスをリアルに表現していて、印象的でした。この映画は、ドローンを扱った作戦を通して、ドローンによる戦争の色々な顔を見せて、その中で戦争の実相に迫ろうとしています。登場人物のそれぞれが、各々の立場で判断、議論する様子を過不足なく描くことで、ドラマにリアリティと奥行きがあり、さらにドキドキハラハラのエンタテイメントにもなっています。この監督さん、「ツォツィ」でも社会派ドラマと人間ドラマの両立が見事でしたが、さらに娯楽映画の腕を上げたようで、この映画、面白くて泣かせて考えさせる映画に仕上がっています。この映画、どこを切ってもうまいなあって感心。

最初は現地部隊がテロリストを捕捉するという作戦だったのですが、ターゲットが場所を変えたことで、ドローンによるミサイル攻撃に作戦変更となります。一応、外相やアメリカにも確認を取って、ミサイル発射ということになるのですが、その標的となる家の前で、少女がパンを売り始めたことで、まずドローンの操縦士のワッツ(アーロン・ポール)が攻撃の再検討を依頼してきます。パウエル大佐としては、自爆テロ準備を目の前にして、攻撃を急ぎたいのですが、法務班も判断を上に投げてしまい、会議室のベンソン中将たちに判断が投げられるのですが、会議室でも議論が紛糾してしまいます。まず、このまま自爆テロを見逃した結果の責任はどうなるのかということ、一方で女の子を犠牲にすればテロリスト側のプロパガンダに使われてしまう。でも、自爆テロでは80人の市民が犠牲が出るであろう。このあたりの葛藤を議論の中でわかりやすく見せるあたりに脚本のうまさを感じました。

一方、アメリカ空軍基地内の操縦室で、ミサイルの引き金を握るワッツ中尉の葛藤を、セリフ抜きでアーロン・ポールの演技だけで見せ切ったのも見事でした。最終的に直接の攻撃の責任を倫理的に負うのは、ワッツ中尉であり、その責任の重さをパウエル大佐は同じようには感じていないところもきちんと見せているあたりも見応えがありました。パウエル少佐の依頼で現地工作員のジャマ・ファラが命の危険を侵す羽目になるあたりで、戦争の非情さをきちんと見せて、パウエル少佐を色々な顔で表現しているのも見事で、ヘレン・ミレンの名演もあって、戦争を行う人間の感情と論理の狭間を突いてくるのは、反戦映画としての味わいもあります。

さらにこの映画で感心したのは、会議室の戦争と、現地の臨場感を並行して描いて、観客に両方を体験させることに成功していることです。司令室や会議室ではカメラから見える範囲で色々な状況を判断したり議論したりしているのですが、その限られた情報の部分で、机上の戦争の怖さを見せる一方で、現地での少女の動きや現地工作員の動きなど、司令室から見えない世界をきちんと描いてその臨場感でドラマを盛り上げるという趣向がうまく機能しています。観客は、会議室の視点で、戦争の駆け引きにドキドキハラハラする一方で、現地の状況に別の視点でドキドキハラハラすることになります。このゲーム感覚と実際の臨場感を両立させたのは、フッド監督の演出のうまさでしょう。いろいろな意味で多重構造となったドラマを面白い映画として見せるのが見事でした。

演技陣はみな好演で、特に、ドローンを操縦するワッツとガーションを演じたアーロン・ポールとフィービー・フォックスの熱演が光りました。また、儲け役ではありますが、現地で少女を救うべく奔走するジャマ・ファラを演じたバーカッド・アブディが印象的でした。ハリス・ザンバーラウコスの撮影は、横長のシネスコ画面に人物をうまく配置した構図が印象的でした。また、ナイロビの明るい映像と薄暗い司令室のコントラストがドラマの空気を見事に表現していました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



少女がパンを売り続けている間に、自爆テロの準備は着々と進んでいました。司令室では、ミサイル攻撃した際の被害状況のシミュレーションを行い、少女のいる場所の被害率が50%を切る攻撃ポイントを提案します。会議室では、自爆テロの犠牲を議論した結果、ウッデール閣外大臣は少女を犠牲にしても攻撃にGOサインを出します。一方、アル・シャバブに誰何されて逃げ回っていたジャマ・ファラが少年に金を渡してパンを買い取るように指示を出します。一方で、攻撃の手順が踏まれミサイルが発射されます。少年がパンを買い、少女は店をたたんで歩き始めたところでミサイルが爆発。煙の中に倒れている少女が微かに動きます。そこへ父親が駆けつけて、重傷の彼女を病院へ運びます。ターゲットの死体をドローンで確認して作戦は終了し、司令室と会議室の人間は散っていきます。その後、病院のシーンとなり、結局少女が亡くなるところを見せて、おしまい。エンドクレジット。

クライマックスでミサイル発射の段取りになると、実際に引き金を引くワッツ中尉に感情移入してしまって泣けてきちゃいました。その後、爆発からラストまでは戦争の悲惨なところを選り抜いて見せられた気がして、ずっと泣かされてしまいました。結局、関係者は誰も少女の生死を確認できないまま、作戦が終了してしまうというところに、戦争の非情さが際立ったように思います。引き金を引いたワッツ中尉に上官が「ゆっくり休んで12時間後に戻って来い」というところで、この一件が既に済んだこととして過去へ追いやられていることを示すのもうまい演出でした。一方で、ラストでベンソン中将が、最後まで攻撃を反対していた政務次官に「軍人に、彼らが戦争の代償を知らないなどと言うな」と言い切り、軍人が戦争をしたがっているわけではないというところも見せます。戦争の色々な顔を、できるだけ多面的な見せ方をしている一方で、末端の引き金を引く人間と犠牲者に感情移入させる演出は、巧妙な反戦映画ということもできましょう。また、会議室の戦争の視点は、テレビで外国の戦争のニュースを見ている自分と似たところがあるのではと思わせるものがありました。

この映画が、2016年の映画納めとなります。来年もよろしくお願いします。

「ローグ・ワン」は戦争映画として見応えあり。「スター・ウォーズ」としては微妙。


今回は、新作の「ローグ・ワン」を静岡のシネシティザート1で観てきました。大きなスクリーンがこういう大作にはうれしい映画館。ここはチケットを予約購入するとQRコードをかざしてノーチケットで映画館に入れるシステムなんだけど、席を間違えたりして、もめることもあるので、そういうときの証明のために、席番号を印刷したチケットは出した方がいいんじゃないの?

ジン(フェシリティ・ジョーンズ)の父親ゲイレン(マッツ・ミケルセン)は帝国軍の科学者として、究極兵器の開発に携わっていました。幼いころに父親と生き別れたジンは、帝国の囚人に身を落としていましたが、反乱軍に拉致されて、彼らの基地へ連れていかれます。ゲイレンが帝国軍のパイロットにメッセージを託して、反乱軍の過激派ソウ(フォレスト・ウィテッカー)に送り込んだというのです。かつてソウに育てられた時期もあるジンにソウへの仲介役を頼みたいのですって。そこで、反乱軍のキャシアン(ディエゴ・ルナ)と共にソウのいる惑星ジェダへ向かい,ソウに再会し、ゲイレンからのメッセージを見ることになります。それによると、ゲイレンは新兵器の中に弱点をわざと作りこみ、その急所を破壊すれば兵器全部を破壊できるというのです。しかし、ジェダはその究極兵器デス・スターのお試しの標的となり跡形もないほどに破壊され、ジンたちは間一髪で脱出しますがソウは爆発の中へ消えていくのでした。ゲイレンのいる惑星イードゥへ向かったジンたちは、ゲイレンを救出しようとしますが、実はキャシアンは反乱軍の将軍から、ゲイランを殺すよう命令されていたのでした。

「スター・ウォーズ」シリーズの中の、エピソードⅣの前日談となるお話を番外編として映画化したものです。ディズニーがルーカス・フィルムを買収して、金になるなら何でもやったる商法で作った映画ってことになるのかな。まあ、アメリカのテレビシリーズによくあるスピンオフ商法とも言えるかも。視覚効果スーパバイザでもあるジョン・ノールと「アフター・アース」のゲイリー・ウィッタの原案を、「アバウト・ア・ボーイ」「ライラの冒険」のクリス・ワイツと「ジェイソン・ボーン シリーズ」「フィクサー」のトニー・ギルロイが脚本化し、「GODZZILA ゴジラ」のギャレス・エドワーズがメガホンを取りました。脚本と監督のうまさがあってか、映画としては息をつかせぬ展開で、そして、クライマックスではかなり盛り上がる内容になっています。

「スター・ウォーズ」サーガを前提に作られているので、帝国軍と反乱軍が戦っていることは既成事実として説明はされません。とある惑星に隠れていたゲイレンを帝国軍が探しに来るところからお話が始まります。まだ、子供であるジンは、そこで母親が殺されるのを目撃し、隠れていたところをソウに救われるのですが、その次のシーンでは帝国軍の囚人になっています。その間の15年間は描かれないのですが、この映画にのヒット次第では、その期間のドラマでまた1本の映画が作れそうだよなあっていう、その商売っ気に感心。何しろ、この映画の結末はエピソードⅣの冒頭になるので、続編は作りようがないのですが、空白の期間を作って、そこに更なる前日談の余地を持たせるあたりはお見事な商魂とお見受けしました。ともあれ、そこから反乱軍に協力させられるジンのお話が始まるわけです。ギャレス・エドワーズは主要登場人物を丁寧にキャラづけして、ドラマとしての見ごたえ十分に見せ場を盛り上げていきます。

映画としては、昔作られた、ドイツ軍対レジスタンスの戦争映画のパターンを宇宙に置き換えたものと言っていいのではないかしら。圧倒的な物量を誇る帝国軍が、少数精鋭の反乱軍にバタバタやられていくけど、最終的に物量にはかなわないというのも、以前、戦争映画で観たことがあります。ジンの父親捜しがメインストーリーかと思っていると、それはドラマ中盤で一応の決着を見せ、クライマックスでは、ジンよりも、キャシアンとその仲間の捨て身の作戦がドラマを盛り上げるのですよ。キャシアンと彼に賛同して作戦に参加する連中は、みんな反乱軍のために、いわゆる汚れ仕事をしてきた皆さんで、ここで帝国軍に白旗を上げては、これまでの自分のしたことが無意味になり、それには耐えられないと、自分の人生のっ価値を再認識するために、反乱軍の命令を受けずにジンの作戦に参加するのです。私は彼らがジンに協力を申し出るシーンで一番泣かされてしまいました。自分の意に沿わない汚れ仕事をやってきた皆さんが、上官の命令に逆らって、生還が困難な作戦に志願するというのがかっこいいのですよ。

そして、クライマックスの作戦では、最初は不意打ちで、帝国軍へかなりの打撃を与えるのですが、後から後から物量で反撃してくる帝国軍にじわじわと追い詰められていくのをリアルな戦争映画のタッチで見せます。武器こそSFっぽいですが、服装はゲリラっぽいし、手榴弾は使うし、銃弾の代わりにレーザーが飛び交うという違いくらいしかない、戦争映画の地上戦の描写が続きます。一方、空では戦闘機が敵味方入り乱れてドッグファイトを繰り広げる見せ場もあるのですが、かつての「スター・ウォーズ」のメインの見せ場であったドッグファイトはどっちかというとおまけ的な位置づけでして、無名戦士たちの地上戦に演出の力点が置かれています。ですから、クライマックスは宇宙戦争的なカラーは希薄で、反乱軍のゲリラ部隊が戦果を残しつつバタバタと倒れていく姿を見せられることになるのですが、ギャレスの演出で、戦争映画として盛り上がるのですよ、これが。帝国軍だけでなく、これまであまり描かれなかった反乱軍の非情な一面も見せることで、孤立しながら戦う主人公のヒロイズムが際立ちました。

また、脚本がうまいのでしょうが、この映画、これまでの「スター・ウォーズ」の中では、一番ストーリーがわかりやすいと感じました。エピソードⅣ、Ⅴあたりは比較的シンプルなストーリーだったのですが、その後に出てきた「スター・ウォーズ」は、展開や人間関係を映画を観ただけでは追いきれませんでした。でも、この映画は、前半をジンのドラマ、後半をキャシアンのドラマと分けて描くことで、二人のキャラも奥行きを持ち、ドラマとしても一直線に盛り上げることに成功しているように思います。ストーリーがわかりやすいから、登場人物にも感情移入しやすくて、泣けるシーンも出てくるという感じなんです。

もう一つ、この映画のいいところは、「フォースの覚醒」で不満だった音楽の扱いがよくなっているところ。「フォースの覚醒」ではせっかくのジョン・ウィリアムスの音楽が、効果音のバックに置かれてしまい、ドラマを支えても、ドラマを引っ張るところまでには至りませんでした。今回は、マイケル・ジアッチーノがウィリアムスのテーマも活用して、彼のカラーに寄せた音作りをしていますが、その音楽が、きっちりと前面に出て、よく聞こえるのですよ。音楽が前面に出ればいいという映画ばかりではないのですが、こと「スター・ウォーズ」は音楽で、映画の世界観を語っているところが大なので、やはり大音量で美しいオケの音を聞かせて欲しいのですよ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



イードゥに現れた帝国軍司令官クレニック(ベン・メンデルゾーン)は、デス・スターの情報漏洩の犯人を突き止めようと技術員たちを尋問し結局みんな殺してしまいます。キャシアンはゲイレンを狙撃しようとするができずに逡巡しているうちに、反乱軍がイードゥを攻撃してきて、ジンたちとも銃撃戦となって、ゲイレンはその混乱の中で爆破によって亡くなるのでした。ジンたちは、デス・スターの情報を持って、反乱軍の基地へ帰還します。反乱軍の評議会はデス・スターの脅威に紛糾、ジンはデス・スターの設計図を奪って、攻撃すべきだと進言するのですが、信用できないと言われて、その提案は却下されてしまいます。しかし、ジンを信じるキャシアンは仲間を集めて、ジンと一緒に帝国から収奪した貨物船を乗っ取って、設計図のある惑星スカリフに向います。スカリフの情報センターに潜入したジンとキャシアンは設計図の場所までたどり着きます。並行して仲間のチアルート(ドニー・イェン)やベイズ(チアン・ウェンたちが騒ぎを起こして、帝国軍の目をそらせます。しかし、帝国軍の攻撃に陽動作戦のメンバーは次々と殺されていきます。一方、ジンたちの行動を知った反乱軍のラダス提督は、彼らの援護のためにスカリフに乗り込んできて、帝国軍と戦闘状態となります。そんな中で、ジンは設計図のデータを反乱軍へ送信することに成功しますが、デス・スターは惑星スカリフを攻撃、抱き合うジンとキャシアンは炎の柱の中へ消えていくのでした。設計図のデータを受け取ったレイア姫は「これは希望よ」と言って、暗転、エンドクレジット。

作戦が成功するとはわかっているのですが、関係者全員死亡というラストは結構びっくりでした。まあ、生き残っても、続編はできないので、じゃあ、全部片付けちゃえということになったのかな。ともあれ、その結果、無名戦士たちの犠牲による、「スター・ウォーズ」裏歴史的な扱いとなって、他のシリーズ作にない異色の番外編として、シリーズ中でも特殊な輝きを持つ作品に位置づけられると思います。ぶっちゃけ「フォースの覚醒」には物足りなさを感じていた私も、この「ローグ・ワン」は大いに堪能させてもらいました。面白くて、見応えのあるドラマになっているのですが、それは戦争映画の部分であって、「スター・ウォーズ」としてどうなのと言われると、「スター・ウォーズなのかな、これ。ジェダイもフォースも出てこないんだけど」って感想になっちゃいますけど。

「みかんの丘」はグルジアの反戦映画だけど、それ以上に面白いハードボイルド戦争もの。


今回は、東京での上映は終了している「みかんの丘」を横浜、関内の横浜ニューテアトルで観てきました。ぶっちゃけ、この映画を横浜で劇場公開する横浜ニューテアトルえらい! お客さんがもっと来てくれないと、こういう企画がなくなっちゃうのがすごく不安ではあります。お客さんは、6人だったけど、劇場で観られてよかったー。

グルジア人とアブハジア人の紛争が続いているグルジア西部のアブハジアに住むエストニア人のイヴォ(レムビット・ウルフサク)は隣家のみかん農家マルゴス(エルモ・ニュガネン)のために、みかん箱を作っていました。そんなある日、マルゴスの家の前で、グルジア兵と、アブハジア人を支援するチェチェン兵が戦闘となります。そんな中でほとんど死亡した中で、負傷したグルジア兵とチェチェン兵をイヴォは自分の家に運び込んで手当をしてやります。比較的軽いケガだったチェチェン兵のアハメド(ギオルギ・ナカシゼ)は、負傷しているグルジア兵を殺してやると息巻くのですが、イヴォの「この家で人を殺すのは許さん」という言葉には従います。頭を負傷して自由に動きがとれないグルジア兵ニカ(ミヘイル・メスヒ)もだんだん回復してきて、アハメドと一触即発となるのですが、イヴォのとりなしもあって、二人の関係は改善していきます。アブハジア兵が家へやってきたとき、アハメドはイヴォと一緒に、ニカがグルジア兵であることを隠して、彼の命を救います。しかし、戦争はある夜、マルゴスの家を焼き払ってしまうのでした。そして、ある日、ロシア兵たちがやってきて、同じ側であるアハメドを疑ってかかり、ロシア兵はアハメドに銃口を向けるのでした。

2015年のアカデミー外国語映画賞にノミネートされた映画だそうで、1980年代後半のコーカサスを舞台に、みかん畑を経営するエストニア人たちを主人公に、戦争の持つ愚かさを描いた人間ドラマです。グルジアとエストニアの共同製作で、ザザ・ウルシャゼが脚本を書いてメガホンも取りました。もともと、イヴォやマルゴスはアブハジアに住んでいたのですが、グルジア人とアブハジア人の戦争が始まると、多くのエストニア人はエストニアへと移住しました。しかし、イヴォの家族もその時にエストニアへ引っ越したのですが、なぜか彼は一人アブハジアに残りました。なるほどプログラムを買って事情を呑み込めたのですが、この紛争は一応は停戦状態なんですが、まだ火種はくすぶっているんですって。

田舎の山の中なのに、突然そこが戦場になる。静かな山の中で突然銃声や爆発音がする。これが戦争のリアルなのかどうかは私には想像がつかないのですが、この映画では、その落差がすごい。やってくるのは、グルジア兵だったり、アブハジア支援のロシア兵だったり、戦争している両方の人間が、外人であるエストニア人の家の前を通り過ぎ、時には立ち寄ったりもする。イヴォはどちらにも与することなく、怪我人を助けたり、死者を埋葬したりします。戦場が舞台のお話なのに、イヴァを通して、戦争は客観視されます。戦争の政治的な事情は一切描かれませんが、一方で、自分の家の前で突然殺し合いが始まり、死体がゴロゴロ転がっているという状況の異常さは、ニュースや歴史では語られない戦争のリアルかもしれないと思わせるものがあります。どこか遠くで行われている政治の駆け引きとは、別のところで末端の戦争が行われている、その末端の戦争が、どこか滑稽なほど愚かしいことだとこの映画は問いかけてきます。

イヴォの家で、ケガをしたグルジア兵と敵対するチェチェン兵が暮らすことになります。チェチェン兵は傭兵で家族がいて、金を稼ぐためにこの戦争に参加しています。グルジア兵は劇団員だったのが戦争になって徴兵されたらしいです。どちらも敵同士だから憎みあって相手を殺そうと思っているのですが、イヴォの家で暮らすにつれて、その感情がだんだんと薄れていきます。なぜ殺しあうほど憎みあっていたのかが、わからなくなっていく感じなのでしょうか。この映画は、意外なほど説明描写がありませんので、そのあたりは察するしかありませんが、人間、憎みあって殺しあうことは自然な状態でないということは伝わってきます。アハメドには故郷に残した家族がいて、年長者であるイヴァには敬意を払います。ニカは、兵士というにはおとなしそうな若者で、ほつれたカセットテープを直しています。個人対個人の間で、二人が殺し合いをする理由はありません。でも、戦争は、二人を相対する陣営に振り分けて殺し合いをさせているのです。それが、たまたま戦闘で生き残って、イヴォの家で介抱されたことから、二人は個人対個人として対峙することになります。そうなると二人が憎みあって殺しあう理由がなくなっていくのです。

この映画の好きなところは、戦争の悲惨な死を扱いながら、愁嘆場が一切ないところです。戦争を呪ったり、戦争反対を口にする人間は登場せず、彼らは自分の思うところを淡々と行動するだけです。その行動だけを映画は追うことで、そこから戦争の持つ愚かな側面が浮き彫りになります。寡黙なイヴォや他の登場人物の行動は、いわゆるハードボイルドものみたいな味わいがあります。その中で、イヴォの倫理観が一本筋を通しているので、非情さは感じません。多くを語らないイヴォのかっこよさには、娯楽映画のカタルシスにつながるものがあります。つまり、この映画は娯楽映画としても観られるのですよ。登場人物の適格なキャラ分けから、そこはかとないユーモアもたたえて、単なる反戦メッセージの映画ではありません。でも、伝えるものが伝わってきます。娯楽映画としての体裁を持ちながらも、きちんと反戦映画になっているのです。

シネスコの大画面をきちんと使いこなしたレイン・コトヴの映像は映画館で観るためのものになっています。また、ニアズ・ディアサミゼの音楽は、素朴だけどドラマチックなメロディが何度も反復され、ハードボイルドな展開の中で、唯一エモーショナルなインパクトを運んできます。サントラ盤は発売されていないようですが、YouTubeでその音楽が確認できます。


87分という短めの時間の中のシンプルな展開で、人間の可能性と、戦争というものの愚かさを明快に描いたという点で、見事な映画だと思います。さらにハードボイルドドラマとしての面白さもあるのですからすごい。こういう映画がこんな地味な扱いでひっそりと劇場公開されるのはすごく残念です。それは、反戦映画だからということだけではなく、面白い映画としておススメだからです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



やってきたロシア兵たちは、アハメドに銃を向けて何者かと問います。チェチェン人だと名乗るアハメドに、それならチェチェン語で話してみろとさらに詰め寄ります。それに逆らったアハメドに、ロシア兵の指揮官が撃てと命じるのですが、それと同時に家の中にいたニカがロシア兵に向かって発砲、銃撃戦となってしまいます。その結果、流れ弾がマルゴスにあたって死亡、さらにロシア指揮官が放った銃弾がニカの命を奪うのでした。イヴォは棺桶を作って、アハメドと一緒に二人を弔います。ニカの遺体は、イヴォの息子の墓の隣に埋められます。イヴォの息子は、紛争が始まるとアブハジア人側について、兵として参加して、グルジア兵に殺されたのでした。アハメドが「殺されていたのが俺だったら、やはり息子の隣に葬ったか」と聞くと、イヴォは「ああ、ただしもう少し離してな」と答えます。アハメドはイヴォに別れを告げて、車に乗り故郷へと向かいます。ニカの持っていたカセットテープをカーステレオにかけるとグルジアの歌が流れ、アハメドの乗る車の空撮ショットから暗転、エンドクレジット。

殺されそうになるアハメドを間一髪でニカが救うのですが、結局、ニカも殺され、さらにミカン農家のマルゴスも殺されてしまいます。このシーンの描き方も一触即発のサスペンスが見事でした。きちんと娯楽映画としてのツボも押さえた上で、そこからメッセージが派生していく作りのうまさが光りました。映画の途中で、イヴォがなぜこの土地に残るのかと聞かれ、「この土地が大好きで、そして大嫌いだ」と答えるシーンが印象的でした。自分の土地になぜ愛憎半ばする感情を持つのかは、ラストでちょっとだけ見えてくるのですが、他にも何かあったんだろうなと思わせるあたりの見せ方で、映画に奥行きが出ました。また、反戦映画にありがちな、戦争の悲惨さをお涙頂戴で見せるのではなく、戦争の愚かさをドライなタッチで見せた反戦映画として記憶するに値する映画と言えましょう。これは劇場で観ることができてよかったです。今年のベストかも。

「神のゆらぎ」は神様の存在を疑わせ、人間のいやな面を見せつける、その冷たい視線が何とも。


今回は東京での公開を終了している「神のゆらぎ」を横浜、関内の横浜シネマリンで観てきました。週末の最終回ってこともあったのかもしれませんが、観客は私一人。劇場貸し切り状態ってのはうれしい話ではあるのですが、ちょっと心細い感じもしちゃいました。まあ、ちょっと作品にクセのある映画ってこともあったのですが、もっとお客がいてもいいよなあ。

エティエンヌ(グザヴィエ・ドラン)と看護師のジュリー(マリリン・キャストンゲ)は、共に家族ぐるみでエホバの証人の信者で、恋人同士。結婚間近に控えているのですが、エティエンヌは白血病でした。輸血による治療が必要なのですが、信仰の理由でそれができません。ある晩、飛行機が墜落して、たった一人だけ生存者がいて、ジュリーはその患者の担当となり、彼のために祈ります。その飛行機に乗る予定だった人々のドラマが並行して描かれます。ギャンブラーの夫とアルコール依存の妻がキューバへ行く予定でした。夫はカジノから妻に電話で空港で合流しようといいますが、妻の心はどこは冷えていました。カジノの老バーテンダーは同僚の女性とダブル不倫関係があり、彼女と一緒にキューバへ行こうとしています。ベネズエラから腹の中にドラッグを隠して持ち込んだ男は、その金を姪っ子に渡そうと考えていましたが、密輸が警察に発覚して、逃亡の身となり、空港の搭乗窓口係の兄に飛行機の乗り込めるように頼み込むのでした。こういった人々の中で、たった一人生き残ったのは誰だったのでしょうか。そして、輸血を拒むエティエンヌに、ジュリーの心は揺らいでいくのでした。

ガブリエル・サブーランの脚本を、ダニエル・グルーが監督した、フランス語のカナダ映画です。エホバの証人のカップルを中心に、飛行機墜落事故の顛末をつづった、ミステリータッチの人間ドラマです。主人公が、エホバの証人(日本だとものみの塔の呼称の方が有名ですね。)だというのがミソでして、だからと言って、エホバの証人の宣伝映画ではありません。どっちかというと、エホバの証人を、一歩引いた冷めた視点でながめています。映画全体が「人間がいくら頑張っても、神も仏もないもんだ」という見せ方になっていますので、むしろエホバの証人からは苦情が来そうな内容になっています。私は宗教に詳してないのですが、エホバの証人のエホバはヤハウェのことだそうで、輸血しちゃいけないとか、格闘技やっちゃいけないといった、実生活で困ることのある制約があるので、時として社会との軋轢を生んでしまうようです。看護師のジュリーは、家族ぐるみの信仰で、同じ信仰を持つ者同士のカップルでもあるので、白血病のエティエンヌを何とか病院へ連れていきたいのですが、信仰の厚い彼氏は、「御言葉に従う」と言って、病院へ行こうとしません。彼の両親も息子の命よりも信仰を優先しているところがあり、却って余計な苦しみを背負っているようにも見え、ある意味、冷たい割り切りのようにも見えます。信仰心のない私には、このあたりの葛藤は理解できないですし、わかりたくもないのですが、理性的判断の前に立ちはだかる信仰ってのは、なかなかしんどいものがありそう。

映画の冒頭は、エホバの証人が集会所みたいなところで、聖書の輪読会をしているシーンです。エティエンヌが登壇して話しています。彼の言い分だと、輸血すると御言葉に従わないことになり、その結果、魂が救われないことになるらしいのです。そして、死は恐れるものではないようなのですよ。でも、自分が日に日に病で死に近づいていて、それに対抗する手段もあるのに、神に祈るしかできないってのは理不尽な話です。そんな形で人間の可能性を縛り付ける神様ってどうなのって思うのですが、当人にとっては、神に従うことの方が優先度が高いので、苦しむしかなくなっちゃう。彼の母親は、そのことを自分への試練だと言って受け入れるのですが、ジェリーはそうは割り切れないようです。

この映画では、主人公二人の信仰と飛行機事故を通して、生と死の境目の危うさというか儚さが描かれています。神の教えにすがって死を受け入れることと飛行機事故に出遭って死から生還することは、どちらも神の思し召しによるものなのでしょうか。ジュリーは同僚の看護師とともに布教のための訪問をするのですが、そこの主人から、「飛行機事故が起こるのは、万能の神は存在しないからだ」と言われて返す言葉を失ってしまいます。この映画は単純に神様なんていないよねという結論を導くお話ではないのですが、人間が何かを信じるってのは、その人が真面目であればあるほど痛みを伴うものだよねということは語っているように思います。飛行機事故で多くの人の人生をまとめて奪う神様ってのは、確かにやり方が荒っぽいという気がしますもの。一方で、神様は、自分の恋人をじわじわと殺していくことを是としているように見える。それらをひっくるめて神の御心だと信じきってしまえば、救われるのですが、神のしもべである前に一人の人間であろうとしたとき、ジュリーは余計目な葛藤をすることになっちゃいます。

私のような信仰のない人間だと、神様には程遠い自分の善悪の判断に全幅の信頼を置かざるを得なくなります。それはそれで、信頼度が低くて、とても胸を張れるものではないのですが、それでも神様と自分の間の板挟みにならずに済みます。ところが、ジュリーの立場は、家族ぐるみの信仰であり、その信仰のコミュニティが自分の居場所であることから、単に神様との関係だけではなく、身近な全ての人間関係との三重の板挟みになってしまうのですよ。「御言葉に従う」ことができなければ、自分の今いるコミュニティから排斥されることにもなってしまいます。そんな面倒なことになるくらいなら、人間である前に神のしもべであることを最優先させた方が遥かに楽な生き方になるのではないかしら。これは別に信仰に限らず、あるコミュニティに属する人にとってはついて回る葛藤なんでしょうけど、信仰ってのは、その中でも厄介な問題をはらんでいるように思います。何しろ相手にしているのが、絶対的存在である神様だけに、コミュニティから排斥されることは、絶対的信頼を置いている神様からも見放されることになっちゃうのです。信仰心のある人には、これは辛い選択だろうなあってことは、何となく想像はつきます。ひとりむせび泣くエティエンヌの姿は、病気の苦しみとそれから逃れることで神様との絆を失ってしまうかもしれないというダブルの苦しみの存在を想起させます。

そのドラマと時系列がずれた形で並行して描かれる、墜落する飛行機に乗る運命にある皆さんの物語はそういう信仰とは別世界の人間ドラマとして描かれます。会社で会議だと言いながらカジノでクスリを決めながら賭け続ける男とか、腹の中のドラッグを仕込んだ運び屋ですとか、いい年したおっさんバーテンダーが不倫で暴走しちゃうとか、皆さんいろいろなドラマを抱えているのですが、どうやらその中のだれかが、飛行機事故の唯一の生存者らしいのです。みんな共感を呼ぶ感じではないのですが、その中で、何が生死を分けるのでしょうか。

ダニエル・グルーの演出は、生と死を境目にある人々を描きながら、そこに神なんていないよねという見せ方をしています。白血病という病気、その治療ができない境遇を、神の試練とか神のお導きなんてとても考えられないという感じなのですよ。むしろ、神の御言葉に従うという行為が、信仰よりも、共同体維持のための踏み絵に見えてしまうあたりは、結構意地の悪い描き方をしていると言えましょう。飛行機の乗客のドラマも、誰が生きような死のうがそりゃ運であって、因果応報も、神のお導きもないよねというクールな群像劇になっています。時制が前後する構成とか、ちょっと小洒落た映画風の作りになっていますが、冷めた語り口はどこか観客を突き放したところがあります。エティエンヌとジュリーのカップルもお互いの愛情よりも、信仰コミュニティのしがらみの方に縛られて、身動きが取れない様子が痛々しいものがあります。結局、人間は、神よりも人間に縛られてしまうんだなあっていうドラマは、神がいてもいなくても、人間は人間を縛るのだというお話に思えました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



飛行機事故の生存者は手術をすることになるのですが、そのためには輸血が必要でしたが、血液型が特殊で、献血できるのが病院にジュリーしかいませんでした。しかし、信仰の理由で彼女は献血ができません。下手に献血しようものなら、信仰を破ったことで、エホバの証人のコミュニティから排斥されてしまいます。それでも、彼女は一大決心をして、手術のために自分の血を提供し、手術は成功するのでした。その患者の身元は、乗客名簿から確認された遺体を削除していって、あのギャンブラーの男だということになるのですが、実は、ドラッグの運び屋の兄が弟を救うために、ギャンブラーの男の航空券で、運び屋をギャンブラーとして搭乗させていたのでした。献血した後、ジュリーはエティエンヌを訪ね、病院へ行こう、そして一緒に出ていこうと言うのですが、彼は信仰を捨てられず、それを拒否するのでした。バスに乗るジュリーの横に同僚だった看護婦がやってきて、あの患者が死んだことを伝えるのでした。ジュリーの顔のアップから暗転、エンドクレジット。

ジュリーは思うところあって、信仰に背いて献血しちゃうのですが、結局、その患者は助からず、ただ愛する人と信仰を失っただけに終わっちゃいます。それも、また神様の思し召しなのでしょうか。それとも、人間を救う全能の神様なんていないのでしょうか。私の信仰観ですと、神様は存在するけど、人間個人個人には興味もないし、ましてや契約を結ぶこともあり得ないというものです。ですから、あれをしろ、これをするなという神様なんてのは、人間が神の姿を偽って装っているのだと思っています。ただし、生きるのに辛い状況にある人が、神様を信仰して、気を確かに持つということの効能を、否定するものではありません。そう考えると、エホバの証人とエティエンヌの関係は、ものすごく不幸だと思います。私は、いらぬ葛藤で人間を苦しめる意地の悪い神様なんていないと思います。むしろ、神の御言葉を変に解釈して禁忌事項を作った人間の罪の深さを感じる映画でありました。別にエホバの証人だけが、そういうことをしているとは思いません。ただ、神様の言葉を解釈するのは人間で、その人間の意地の悪さが反映された解釈が、人々を苦しめているようなことは結構あるのではないでしょうか。人間が人間を不幸にしているのなら、そこは人間が修正して、人間を幸福な方向へ導くことは可能なのではないかしら。

「人間爆弾 桜花 特攻を命じた兵士の遺言」は、特攻のドキュメンタリー以上の、歴史の客観視という視点から見応えあります。


今回は東京での公開を終了している「人間爆弾 桜花 特攻を命じた兵士の遺言」を横浜のシネマベティで観てきました。朝1回の1週間だけの上映ということもあってか、結構お客さんが入っていましたが、私より若い人はほとんどいませんでした。こういう映画にもっと若い人が集まるといいのになあ。

桜花というのは、特攻用の飛行機の名前です。1.2トンの爆弾を装着したエンジンを持たない一人乗り飛行機で、一式陸上攻撃機に装備され、空中で切り離された後は、操縦士が操縦して敵艦の突っ込むというもの。林冨士夫は桜花部隊の第一志願者でした。そして、彼は部隊長となって、多くの兵士を死地へ送り出しました。彼はそれを「鉛筆で殺した」という表現をしています。基本的に桜花部隊は志願者の部隊でした。林自身もこの部隊へ志願した時は、この桜花で自分が死ぬことが決まっていたと言います。生きることは死ぬために生き延びているだけだから、生きることと死ぬことは同じだとも言います。そして、当時は天皇は絶対的な存在で、全ては天皇のものだからという意識がしみついていたようです。桜花部隊の話を聞いたときは、ほとんど即決で「よし行ってやる」という気持ちで志願したのだそうです。それが戦後に天皇が人間宣言した後、特攻隊に対して感謝も謝罪もしなかったことに憤りを感じているのでした。なるほど、特攻というのは戦後は、否定的な意味合いの強い黒歴史になっていますから、その当事者としては思うところがあるようです。

唐突ですが、私は声の大きな人間は苦手です。その勢いに圧倒されると、何だか丸め込まれそうな気がして、大きな声の人の言う事は話半分に聞くようにしていますし、やたら声を張り上げる人の出てくる映画はパスしちゃいます。でも、日本映画って、やたら声を荒げたり張り上げる映画が多いので、それが理由で日本映画をあまり観なくなってしまいました。最近でも「海賊と呼ばれた男」の予告編を観て「岡田准一はなぜあんなにでかい声ばかり出してるんだろう」って引いてしまいました。何かでかい声出す人はこっちをだまそうとしてるんじゃないかって身構えてしまいます。で、この映画の林冨士夫さんなんですが、ほとんど表情を変えずに小さな声でしゃべるんですよね。90歳を過ぎた方にしては滑舌はしっかりしているので、聴き取れないことはありません。で、その抑揚のない語りにすごいリアリティを感じたのです。説得力はゼロに等しく、あったことと感じたことを淡々と述べているだけなのですが、そこに作りものっぽさがないのです。ですから、映画からは直接的なメッセージは一切なく、桜花部隊の当事者による客観的な記録としてすごく価値のあるものになっていると感じました。

映画の作りはすごくシンプルで、ほとんど林さんへのインタビュー映像だけで構成されています。場所や時間は様々で何日もかけて撮影したものから抜粋しているようで、インタビュアーの声も最小限に編集されていて、林さんの語りの映画という印象でした。もう、戦争の当事者が高齢化していて、当事者の証言を残すためのドキュメンタリー映画が、最近になってたくさん作られるようになった、そんな中の一本ではありますが、そんな中では、声高なメッセージやイデオロギー臭のない、ある意味、異色の一編として仕上がっています。

林さんは、死ぬの生きるのといった葛藤はあまりなかったようで、割と簡単に桜花部隊に志願しちゃったようなのです。それは当時の時代の空気と受けた教育からすると、すごく自然な流れのようなのです。そっかー、そういう時代の林さんの行動を、今の価値基準でいいの悪いのとジャッジするわけにはいかんわなー。ですから、部下を死地へ送り出したことにも、気の毒に思ったことはないと言い切ります。そして、その死を大変な名誉として捉えていたのでそうです。一方で、自分で育てた若者を、自分の鉛筆の先で殺すという矛盾に耐えられずに泣いていたのだそうです。なるほど、これは、戦後教育を受けた自分には理解できない世界だわ。共感するのはあきらめて、そういう人もいるんだということを受け入れることにするしかないようです。

でも、彼の上司は、この桜花部隊を愚かな作戦だと言い、彼にもそのことを上層部に進言するようにと勧めたのだそうです。また、彼の部下の一人は勝ち目のない戦況なのに、若者の命を奪うというのはばかげていると言います。林さんはそういう部下に「自分はそういうことを言える立場じゃない」と返したそうです。そういう意見があったとしても、特攻は止まらなかっただろうと林さんは言います。それば今で言う「場の空気」なのかなとも思うのですが、少数意見が黙殺されるのは、今も同じですから、そのあたりは理解できなくもありません。ただ、そのばかげた特攻をやめようというのは、本当に少数派だったのか、それともサイレント・マジョリティだったのかは、この映画では語られない、気になる部分です。

特攻を愛国心や勇気で説明しようという、映画やドラマの声高のメッセージに、拒否反応を感じる私には、日常化した戦争の延長戦として特攻が位置付けられて、そのまま流れに乗って進んでいくという、この映画の見せ方は、新鮮である一方で、恐ろしいことだと感じました。そんな中で、愛国心や勇気のある者は、その流れに逆らう発言をするのだと思わせるものが、この映画にはありました。林さんには、申し訳ないけど、彼はそこまでの勇気や愛国心は持ってはいなかったのではないのかなって。きれいごとでは済まない戦争の中で、普通の人がどう考え、どう行動し、さらに戦後をどう感じたのかを描いたのが、この映画なのではないかしら。林さんは、右にも左にも特別ではない、普通のスキルと感情を持った人なのだと考えると、この映画の裏に隠されたメッセージが見えてくるような気がします。

この映画は実は日本映画ではありません。フランスで製作された映画です。監督は「あん」「淵に立つ」「岸辺の旅」でエグゼクティブ・プロデューサーだった澤田正道ですが、タイトルはフランス語ですし、技術スタッフにはフランス人の名前が多くクレジットされています。一応、日本人が日本人を追ったドキュメンタリー映画ではあるのですが、そこにどこか客観的な視点が感じられています。日本映画なら、こんな淡々とした語りだけのドキュメンタリーに仕上げたりしないでしょう。もっと林さんの感情の揺らぎを導いたり、泣かせるまで追い詰めたりして、そこからキャラクターの強いインパクトを引っ張ってきそう。でも、この映画の淡々とした語りからは、良くも悪くも、林さんが特別じゃない普通の人だというのが見えて来るのです。映画は、あえて林さんの人生やドラマを語らず、あくまで彼の記憶の語りを聞かせるだけの演出となっています。そこには、イデオロギーに脚色されていないシンプルな歴史の証言を撮ろうという意図が感じられます。さらに敷衍するなら、そこに戦争における普通の人の悲喜劇が透けて見えてきます。

この映画を観て、林さんを非難することも共感することも可能ですが、それ以上に、林さんが普通の人であった時代がどんなものだったのかが感じ取れるところが大きいと思います。戦争や時代に振り回される人間の悲喜劇みたいなものが見えてくると言ったら、言い過ぎかもしれませんが、このインタビューだけの映画は、意外と多くのものを語っているように思います。何というのかな、この映画から、戦時中から今までの日本の歴史の流れを知ることができるような気がするのです。日本の戦後、「戦争は悪だから、戦争に積極的だった人はみんな悪」のような空気になり、戦争に関わった人全ての存在がないがしろにされてしまったのではないか。そして、今度は日本が右傾化してくると、「戦後の日本の平和主義は、自虐史観で空理空論の反日だ」とされて、日本の戦後民主化に関わった人々がなかったことにされつつあるのではないかという気がするのです。それぞれの歴史において、その時流から外れた人々を無視しちゃうことを繰り返すと、何も学ばないで、愚かな歴史を繰り返すことになる、そんなことに想いが行かされる映画でした。

単なる特攻の映画ではなく、歴史を客観視することの重要性を考えさせる映画として、オススメしちゃいます。

「シンドバッド七回目の航海」はダイナメーションすごい、お姫様かわいい、シンプルでよくできてる。


先日、ブログの師匠pu-koさんの記事から、「妖婆 死棺の呪い」を観て、その素朴な味わいと豊富なイメージと視覚効果ということで、観たくなった映画が「シンドバッド 七回目の航海」でした。学生の頃、リバイバルされていて劇場で観る機会があったのですが、もう詳細は記憶の彼方。ブルーレイが廉価で入手したので、改めての鑑賞となりました。もともとの映画はスタンダードなんですが、このブルーレイはビスタサイズにトリミングされていたのはちょっと残念。とは言え、私が劇場で観たバージョンはスタンダードサイズの上下をトリミングしたシネスコサイズのバージョンでしたから、それに比べれば画面の蹴られは少ないのでした。

バグダッドの王子シンドバッド(カーウィン・マシューズ)は、チャンドラ国との平和条約を結びます。そして、チャンドラ国王の娘、パリサ姫(キャスリン・グラント)と婚約、彼女を連れてバグダッドへ戻る途中、水を食料を調達するために上陸した島で、巨人サイクロプスに遭遇、そこから逃げ出してきた魔術師ソクラ(トリン・サッチャー)を保護し、バグダッドへと帰ります。ソクラは、残してきた魔法のランプを取り戻すために船を出してほしいと、バグダッドの太守に直訴するのですが却下されます。すると、シンドバッドとの結婚を翌日に控えたパリサ姫に魔法をかけ、10センチの小人に変えてしまいます。ソクラがやったとは知らないシンドバッドは彼女を元に戻すためならなんでもするとソクラに申し出て、呪いを解く薬を作る代わりに、サイクロプスの島へ船を出すことになります。足りない船員は、死刑囚の中から集め、ソクラ設計のクロスボウを積み込んで、出帆するのでした。薬はソクラの邸で作るというので、ちっちゃくなったパリサ姫も同行することになります。しかし、囚人の船員が反乱を起こし、一度は船を乗っ取られるのですが、船は人の気を狂わせる悪魔の海に入り込み、そこでシンドバッドとソクラが形勢を逆転し、サイクロプスの島へと上陸します。姫をもとに戻す薬には巨鳥ロックの卵の殻が必要でしたが、そのためにはサイクロプスの住む谷を越える必要がありました。シンドバッドとソクラは二手に分かれて、ロック鳥の住処へと向かうのでした。

1958年のアメリカ映画です。ストップモーションアニメーションの名人として知られるレイ・ハリーハウゼンが立てた企画から、ケネス・コルブが脚本を書き、美術監督出身で「地球へ二千マイル」「妖怪巨大女」のネイザン・ジュランが監督しました。レイ・ハリーハウゼンのストップモーションアニメによる視覚効果は、ダイナメーションと呼ばれ、映画のメインタイトルでも、ダイナメーションという表示があります。人形のストップモーションアニメを実景と合成するもので、合成するためにブルーバッキングによるとラベリングマット合成や、リアプロジェクションが使われています。この映画はいわゆるB級映画として製作されたそうで、予算もそんなに多くないのですが、ストーリー、映像、音楽は後世に残るものとして、現代も語られているのですからすごい。

お話は、霧の中で船を進めるシンドバッドのシーンから始まります。その船にはチャンドラ国のお姫様が乗っていて二人は婚約してるという状況説明を、ちゃっちゃとさばくジュランの演出はなかなか見事。セットとかをたくさん作れないから、シンドバッドとパリサ姫の出会いとかチャンドラ国の様子は描かないで、船のセットから始めて、セリフに頼らない状況説明がうまいなあって新たな発見がありました。そして、島へ渡ったシンドバッドたちの前にサイクロプスが現れ、魔術師ソクラが魔法のランプを持って現れて、ランプの精ジニー(リチャード・アイアー)を呼び出して、バリヤーを作ってサイクロプスを防ぐのですが、逆襲してきたサイクロプスにランプを奪われてしまうのでした。ここで、うさん臭いソクラと魔法のランプを説明しきっちゃうのもうまい。なるほど、わかりやすくシンプルにお話を進めて、ダイナメーションの見せ場をどんどん見せようという作りが成功しているなあって感心。これが続編「シンドバッド黄金の航海」「シンドバッド虎の目大冒険」となるとストーリーが入り組んでくるので、この作品のシンプルな面白さが際立ってきます。

また、パリサ姫はシンドバッドにぞっこんの結構艶めかしい女性として登場するのですが、ちっちゃくなっちゃった後、メソメソしないで、元気一杯なのがドラマを湿っぽくせず、要所ではシンドバッドを助けたり、活躍するヒロインになっているのが面白かったです。また、魔術師ソクラは、慇懃無礼なところがある一方で実力もある悪役として丁寧に描かれていて、ドラマを支えています。一方のシンドバッドは絵に描いたような強い二枚目になっていまして、善玉悪玉が明快な作りは1958年の映画なんだなあって思わせる一方で、パリサ姫の元気キャラがこの映画のプラスアルファとしていい方向に働いています。

ハリーハウゼンのダイナメーションは、基本、人形のコマ撮りアニメーションなので、若干ギクシャクした動きにはなるのですが、その動きの見事さで、その辺の細かいところが気になりません。サイクロプスやドラゴンが、本当に、そこにいるかのような演出が施されていまして、動きの硬さは気にならないのですよ。「空の大怪獣ラドン」のクライマックスで福岡市が襲われるシーンでラドンの頭を支えるピアノ線がバレバレなんですが、ラドンのドラマに目を奪われて、そのピアノ線が気にならない(正確に言うと、見えてるのに見えない)のですよ。特撮のアラというのは、そのシーンが効果的に動いていれば、気にならないってことはあります。この映画でのコマ撮りアニメーションの弱点は、ハリーハウゼンのクリーチャーへの演出によってほとんど気になりません。ほんとに生き生きと動き回るクリーチャーの存在感が特撮のアラをカバーしちゃうのです。でも、CGを当たり前として育ってきた世代には、こういう映画はどう映るのか気になります。私の世代が「スーパー・ジャイアンツ」の特撮を観て、ちゃちいなあと思ったように、この映画を特撮レベルで切り捨てられちゃうのは残念だなあって気がします。(オヤジになって「スーパー・ジャイアンツ」を観たら、子供向け映画として結構面白く作られていたという発見があったのですが、それはまた別の話です。)

また、この映画が当時のB級映画としては、お金のかかるカラーで作られていたという点も特筆してよいと思います。衣装やセット、クリーチャーが華やかな色彩設計になっていて、大画面に映える色の美しさもこの映画の楽しさに大きく貢献しています。さらに、この映画を華やかにしているのは、バーナード・ハーマンによる音楽です。音楽学校の教材にも使われたというこの映画の音楽は、アラビアンナイトの世界を描写する中近東風の音楽に、活劇の要素を加え、場面によっては、フルオケで鳴らし、活劇シーンではパーカッションのみの音にしたり、クリーチャーをブラスで表現したりと、場面によって楽器編成を変えてダイナミックな音を聞かせてくれます。特に有名な骸骨とのチャンバラシーンの曲は、ブラスをパーカッシブに使い、さらに木琴とカスタネットを加えて、舞踊曲のようなタッチが見事にチャンバラとシンクロしています。この映画のサントラ盤は何度聞いても楽しい音で私の愛聴盤になっています。ネイザン・ジュランの演出は、物語の説明部分をコンパクトにまとめ、撮影の制約の多い特撮部分をたっぷりと見せて、かつ映像としての統一感を出すことに成功しています。それでも、合成カットは若干画質が荒れてしまうのはフィルムによる合成の限界でしょう。

ダイナメーションの見せ場としては、冒頭のサイクロプスの登場から、宴の場での魔術による蛇女、そして、ちっちゃくなったお姫様、さらに再度登場のサイクロプスに、ソクラの城の番犬ドラゴン、魔術による骸骨剣士、そして、クライマックスはサイクロプスとドラゴンの格闘シーンまであり、サービス満点の出来栄えはお見事。これが、ハリーハウゼンの他の作品や他のファンタジー映画に出てくる連中よりも、キャラクターが断然立っているのですよ。そのデザインのシンプルさもあり、動きの見事さもあって、この映画が他の映画とは違う一品として歴史に名を残しているのだと思います。未見の方には一見をオススメします。でも、どっちかというと1958年にこういう映画が作られたという映画史を知る意味でのオススメが大きいかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ちっちゃくなったお姫様が魔法のランプに入ると、そこにはランプの精ジニーがいました。彼は呼ばれたらその呼んだご主人の言う事を聞かなくてはいけないことになっていて、ずっとランプに閉じ込められていると、姫に言います。彼は自由になる方法と、ジニーを呼ぶ呪文を聞き出します。シンドバッドは、サイクロプスにつかまっちゃうのですが、姫の活躍で脱出し、ロック鳥の巣で卵の殻もゲットしますが、ロック鳥の巣に持っていかれちゃいます。そして、その隙にパリサ姫はソクラの城に連れ去られます。シンドバッドはランプの精を呼び出し、ソクラの城に案内させます。それはドラゴンに守られた洞窟の中にありました。ソクラはロック鳥の卵の殻を使って薬を作り、パリサ姫を元の体に戻し、ランプを奪い返そうとしますが、シンドバッドは船に戻るまでと拒否。するとソクラは魔術で骸骨を動かしてシンドバッドを殺そうとします。チャンバラの末、シンドバッドが勝利し、城を脱出しようとしたとき、ジニーが言っていた自由になる方法、火の中に放り込むというのをパリサ姫が思い出し、溶岩の中へランプを投げます。洞窟の出口まで来るとサイクロプスが襲ってきました。そこで門番のドラゴンを解き放つと両者は格闘となり、その隙に二人は脱出します。島の海岸まで逃げてくると、ソクラがドラゴンを連れて追いかけてきます。待機していたクロスボウを発射すると見事にドラゴンに命中。ソクラは倒れ込むドラゴンの下敷きになります。船に戻ったシンドバッドとパリサ姫の前にランプの呪いから解放されたジニーが待っていました。船室はサイクロプスが蓄えていた財宝でいっぱい。二人を乗せた船がバグダッドを目指すところでおしまい。最後のもう一回、コロムビア映画の自由の女神が出ます。

最後に、バグダッドへ戻ってからの二人の結婚式のシーンとかあってもよさそうなのに、そういうのを余計なものとしてカットして、バグダッドを目指す船のショットでおしまいというのもテンポの良いまとめと言えますし、描きたいところだけお金をかけるというB級映画のプロダクションとしてお見事ということも言えます。メイキングによると、バグダッドのシーンはスペインで撮影されたとのことで、セット撮影もスペインで行っているようです。とにかく、お金のかけどころを心得て、贅沢感のある映像が見事に華のある映画に仕上がっています。これは今観ても十分楽しいですし、映画史を知る意味でも観る価値のある映画だと思います。

「MIC メン・イン・キャット」はシンプルさを買いたいファンタジーコメディの拾い物的な一品。


今回は新作の「MIC メン・イン・キャット」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。私は動物って苦手なので、動物メインの映画はあまり観ないのですが、ケビン・スペイシーとジェニファー・ガーナーの名前に釣られて劇場まで足を運んでしまいました。

総合企業ファイヤーブランドのワンマン社長トム・ブランド(ケヴィン・スペイシー)は、新しく建てた自社ビルが北米1位の高さになることにこだわり、一方で株式の公開は否定的でした。後妻のララ(ジェニファー・ガーナー)との間にはかわいい娘レベッカ(マリーナ・ワイズマン)がいますが、なかなか家庭を顧みることはありません。前妻との息子デヴィッド(ロビー・アメル)はトムの会社の社員として働いていました。レベッカの誕生日、彼女は猫を欲しがっていましたが、トムは大の猫嫌い。それでもかわいい娘のためにパーキンス(クリストファー・ウォーケン)のペットショップの門をくぐると一匹の猫がやけにトムにすり寄ってきます。その猫を買って、家へ急ぐ途中、部下のイアン(マーク・コンスエロス)に呼ばれて自社ビルの屋上に行きます。このままでは北米一位になれないことを知り、イアンを怒鳴りつけるトムですが、その時落雷があって、猫とトムは屋上から墜落、途中のロープに引っかかってビルの中へ放り込まれます。と、そのタイミングでトムの意識は猫に乗り移り、トム本体は昏睡状態となります。どうやらパーキンスが何か仕掛けたらしいのですが、トム猫はトムが娘に買ってきたものだろうということでララが引き取って家へ連れてきます。中身はトムの猫は、スコッチを飲んで酔っ払い、家の中でやりたい放題。キャットトレーナーとして連れてこられたパーキンスによき猫でいないと去勢するぞと言われて、一応よき飼い猫として振る舞い、ララやレベッカもトム猫になついていい感じになってきます。でも本体は昏睡状態で、イアンはこの隙に乗じて株式を公開し、会社を乗っ取ろうとしていました。デヴィッドはイアンの企みに気づき、それを阻止しようとするのですが、逆に会社をクビにされてしまいます。しかし、会社の約款には、トムの持ち株は息子に譲渡されるという一文があったのでした.....。

猫に人間が乗り移ったらどうなるというドタバタを描いたコメディファンタジーです。グウィン・ルーリー、マット・R・アレン、ケイレブ・ウィルソン、ダニエル・アントニアッツィ、ベン・シフリンの5人かかりの脚本を「メン・イン・ブラック」のバリー・ソネンフェルドが監督しました。最近はテレビでの活躍が多くて、映画出演は久しぶりのケヴィン・スペイシーがこういう映画を選んで主演するとは意外でしたけど、映画としては肩の力を抜いたドタバタコメディになっていまして、大人から子供まで無難に楽しめる映画に仕上がっています。フランスのヨーロッパ・コープと中国のファンダメンタル・フィルムの仏・中合作映画で、ニューヨークを舞台にしたアメリカ人俳優による英語の映画というわけです。ふーん、最近の映画ってそんな感じなんだ。ハリウッドはグローバルな投資の投資の対象なんですね。IMDBを見たら、この映画の製作費は、3000万ドルですって。それだけお金を集めなきゃならないとなると、世界のあちこちからお金を引っ張ってこないといけないのかしら。

87分という最近のメジャー映画としてはコンパクトにまとまった映画でして、家庭を顧みなかったワンマン社長が猫に変身したら、ちょっとだけいい人になりましたというのを、ドタバタコメディのスタイルでライトな味わいにまとめたものです。「MIB」のソネンフェルド監督作品だけにどこか毒のあるコメディを期待すると、肩透かしを食わされるくらいシンプルなお笑いになっていますが、最後まで楽しく観ることができます。ケビン・スペイシーはコミカルな役どころを楽しそうに演じていますし、ジェニファー・ガーナーは安定の達者な演技でドラマを弾ませてくれますし、クリストファー・ウォーケンもやはり期待を裏切らないお約束の怪演を見せ、子役はお約束どおりきっちりかわいいという、予定調和が心地よい佳品に仕上がっています。ファミリー向けというほどお上品ではないけど、安心して観ていられるコメディとしてオススメできる一品です。こういう映画は、コンスタントに作られて欲しいので、お客さんに入って欲しいと思っています。最近のハリウッドの製作費の高騰は、こういうライトな映画を作りにくくしているように思うので、なくなって欲しくないジャンルとして、お客さんに入って欲しい映画でもあります。

主人公のトム猫は、6匹の猫とCGを使って表現されています。本物の6匹の猫はシーンによって使い分けられていまして、要所要所の擬人的アクションにCGを使っているようです。パンフレットを読むと意外と本物の猫が健闘して、CGは最小限に抑えられたそうですが、動物虐待となりそうなカットは全てCGでしょうから、結構な量のCGが入っているのではないかしら。猫の一人ドタバタで笑いを取るところが多いので、そういう意味ではよく計算されたコメディということができましょう。一方の会社乗っ取りの方のお話はわかりやすい他愛のないお話になっていまして、会社の約款をなかったことにする部下のイアンに息子のディヴィッドが気づくどうかというくらいがドラマらしい展開となっています。

こういうコメディだと、家庭をないがしろにしてきたトムが改心して、家族のために頑張るぞというところをドラマチックに盛り上げて見せるのが定番なんですが、この映画では、そこのところを猫の物憂げな表情でなんとなく感じさせるだけで、それ以上は突っ込まずにクライマックスはトム猫が元に戻れるかどうかを、ドタバタで見せるという趣向になっています。そこで、定番の展開を手堅く見せるソネンフェルドの演出は、職人的なうまさを見せて、きれいにそして、あっさりとした味わいで、ドラマを着地させています。変にドラマチックに引っ張る部分を一切入れなかったのはこの映画の見識でしょう。その結果、他愛ないけど万人が楽しめる映画に仕上がりました。最近のコメディとかアメコミ映画ってあれもこれもと要素を盛り込みすぎなところがあって、その結果、他愛ない話なのに2時間越えの映画になっちゃったりしてるんじゃないかと思っています。好きな人は、その盛り込まれたドラマ部分やサブプロット、ディティールがいいんだとおっしゃるでしょうから、好みの問題というところに行き着くのは百も承知なのですが、そんな傾向の中で、この映画は、人間が猫になりまして、で、結局元に戻りましたというお話を、変に枝葉を伸ばさずにシンプルに映画化したというところに、お値打ちを感じました。変なペット屋のパーキンスの正体はわからないままですし、なぜ猫になっちゃったのかの因縁話もなく、当然のことながら善対悪のバトルシーンもありません。この映画の個性として付け加わった見せ場は、猫の一人芸(本物の猫とCGの合わせ技)というくらいです。それでも、楽しく映画を観終えることができますから、なかなかあなどれない映画と言えるのではないかしら。

シリアス大作の撮影監督のイメージがある「スターゲイト」「ブラックブック」のカール・ウォルター・リンデンローブの撮影は、画面の隅々まで光を届かせて鮮やかな色使いで、都会のファンタジーにふさわしい映像づくりをしています。視覚効果を使った高層ビルのシーンだと逆にリアルな冷たい色使いになるのは、視覚効果部分まで色調をコントロールしきれなかったのかなとも思ってしまいました。また、エフゲニー・ガルペリンとサーシャ・ガルペリンによる音楽は、意外や素朴な音作りで、ドラマチックな盛り上げ部分もセーブした感じになっているのがよかったように思います。



一応、以下に覚書の意味で結末を書いておきます。(書いとかないと忘れちゃうんですよ、よる年波には勝てません。)



病院にいるトムの本体の方が脳死状態になっちゃって、生命維持装置を外すかどうしようかという話になってきます。レベッカは、トム猫が一緒に踊ってくれたダンスから、猫の中身がパパだということに気づきます。会社をクビになったデヴィッドは、高層ビルの改築記念セレモニーで最上階から飛び降りてやると出ていきます。それを見て、あわてて後を追うトム猫。そして、ビルの最上階までたどり着いたトム猫はデヴィッドを止めようとしますけど、間に合わず、一緒に墜落。デヴィッドはパラシュートを開いて、スピーチ中のイアンの前に着地して、会社約款を示して、イアンをクビにします。一方、病院ではトムが息を吹き返してララとレベッカと抱き合います。クビになったイアンは車に轢かれて、その魂は猫の中に入ってしまい、パーキンスのペットショップに並ぶことになります。後日、パーキンスの店をトムとレベッカが訪れて、新しい猫を買いたいと言うと、パーキンスは「8つの命を使い果たして最後の命となった」と言って、墜落して死んだ筈のトム猫を二人に薦めるのでした。めでたしめでたし。で、暗転エンドクレジット。トムが改心したとか、会社がどうなったとか、こまごましたことは一切見せないで、ペットショップのシーンで映画がおしまいというシンプルさは、やはりいい感じで、私は好きです、こういうの。

「ハンズ・オブ・ラヴ 手のひらの勇気」は同性婚についてまじめに考えさせてくれる映画としてオススメ。


今回は新作の「ハンズ・オブ・ラヴ 手のひらの勇気」を川崎の川崎チネチッタ7で観てきました。原題の「Freeheld」は「自由を抑える、維持する、守られる」などのたくさんの意味を込めた言葉だそうで、邦訳するのは難しいタイトルだとは思いますが、エンドクレジットに流れる歌のタイトルを映画のタイトルに持ってこなくてもいいじゃないかと思うのですが。副題の「手のひらの勇気」も歌のタイトルからの派生であって、映画の内容と関係ありません。せめて、いい日本語を見つけられなかったのかしら。

アメリカはニュージャージー州オーシャン郡の警察官であるローレル・ヘスター(ジュリアン・ムーア)は、有能な刑事として相棒のデーン(マイケル・シャノン)と事件に取り組んでいましたが、同性愛者であることを職場に隠していました。そんなある日、ローレルは若い自動車整備士ステイシー・アンドレ(エレン・ペイジ)と知り合い、二人は愛し合うようになります。恋人である前に刑事であることを優先するローレルに時にはステイシーが不満に思い、喧嘩になることもありましたが、二人は家を買って一緒に住むようになり、ドメスティック・パートナー・システムのも登録して公的な関係となります。幸せに見えた二人でしたが、ローレルの肺に腫瘍が発見されます。それも末期の。仕事を休んで治療に専念するローレルですが、余命はそんな長いものではありませんでした。二人で住む家のローンも終わっていない今、ローレルは、自分の遺族年金をステイシーに残そうとするのですが、郡の委員会はローレルの申請を却下します。デーンはここであきらめたらだめだと、二人に公開委員会で直訴することを勧め、ローレルは公開委員会に出席し、改めてステイシーへ遺族年金が渡るように申し出るですが、ここでもあえなく却下。でも、その様子は新聞記事となり、ゲイの活動家スティーヴン(スティーヴ・カレル)が接触してきます。彼はこの二人の一件を同性婚の法制化へ結び付けようと張り切りますが、ローレルはあくまで普通の夫婦と平等に扱って欲しいが全てだと言い、ステイシーは自分たちが政治的に利用されることがうれしくありません。それでも、次の公開委員会の日、スティーヴンは人を動員し、プラカードを持って乗り込んでいき、委員たちに圧力をかけます。それでも、保守勢力の強い土地柄では、ローレルの願いは届きそうにないのでした。

実際にあった話と、その事件を映画化したシンシア・ウェイドのドキュメンタリー映画をもとに、「フィラデルフィア」のロン・ナイスワーナーが脚本を書き、「キミに逢えたら」のピーター・ソレットがメガホンを取りました。お話は1999年の二人の出会いから、ローレルが亡くなる2006年までのお話です。出てくるテレビがブラウン管テレビなのでいつの話かと思ったのですが、21世紀に入ってからのつい最近のお話です。それでも、ローレルは職場で同性愛者であることを隠して仕事してますし、同性愛のパートナーは配偶者として扱われていなかったというのは、そういうのが進んでいるアメリカだと思っていた私には意外な発見でした。ハーベイ・ミルクの頃から時代は大転換を迎えているわけではないんだなあって。アメリカ映画を観ていると、同性愛者のマイノリティ感がないので、そんな風に思ってしまったのですが、それはまだまだアメリカ全体の話ではなさそうです。

この映画の面白いのは、純粋に二人の愛の物語ではないということ。愛だけでは、郡の委員会を動かすことはできず、ローレルの死後、ローンを払えないステイシーは二人の家を手放していただろうなってことは伝わってきます。当事者だけでは、その力はあまりにも小さい。病気のローレルを肉親、友人が支えるシーンも登場しますが、それだけでも、遺族年金はステイシーには下りないのです。そして、同僚や地域の人々、さらに政治活動家といった多くの人が関わることで、事態が動き出すという見せ方は、なるほど、それが民主主義だし、マイノリティを他人事として放っておくのでは、社会は変わらないということが伝わってきます。虐げられるマイノリティカップルかわいそうというお話ではなく、むしろ、彼らの周囲の支援者のおかげがあって、二人の望みがかなうという物語になっており、その分、当事者二人よりも、同僚デーン、政治活動家スティーヴン、さらに委員会の中で、彼らの支援にまわるブライアン(ジョシュ・チャールズ)といった男性陣が印象に残る映画になっています。

映画の前半は、ローレルとステイシーの人目を忍ぶ恋愛の様が描かれます。キャリア志向のローレルは、自分がレズビアンであることが職場にばれることを恐れていました。そのことで、ステイシーに声を荒げることもあって、喧嘩になっちゃうこともあります。それでも、お互い好きだから、一緒に住もうということになるのですが、それでも、そのことは相棒のデーンにも隠したままです。それでも二人は役場に行き、ドメスティック・パートナーシップ制度に登録します。これには色々な審査があって認められる結婚より面倒な制度ではあるのらしいのですが、二人は公的に認められた関係となります。大きな犬も買って、幸せいっぱいな二人、このままいけば、レズカップルとして、二人はささやかで幸せな生活を送ることができましたが、病魔が二人の前に立ちはだかることになります。

公開委員会でのやり取りが新聞ネタになったものですから、二人の関係はコミュニティ全員に知られてしまいます。ステイシーの勤める整備工場に嫌がらせをしにくる人間もいますし、ローレルの同僚にも「レズに俺の税金が使われるのか」という言う者がいます。一方で彼らを支援する人間をいるわけで、二つの政治的意見の闘いが公開委員会の場で行われるという構図が明確になってきます。そうなると、単なる愛とか病気への同情では済まないことになります。スティーヴンの支援は公平な遺族年金が目的ではなく、同性婚法制化への布石です。当人もそれをあえて隠そうとしませんが、人を集めてシュプレヒコールをして圧力をかけるというやり方は、政治団体のそれです。でも、それが社会の空気、郡の空気を「レズのパートナーに遺族年金を支給してもいいじゃないか」へ変えていくようなのです。そして、その流れは、委員会の姿勢を最初の門前払いから少しずつ変えていくのですから、圧力行動あなどれません。つまり、政治というのはパワープレイであり、それが今回のローレルの遺族年金の話にも適用される、というか適用されざるを得ません。ステイシーが「政治的に利用されるのはうれしくない」と思ってみても、政治的な工作がないと委員会は動かないというところをきちんと見せている、その正直な見せ方には好感が持てました。政治活動家を演じたスティーヴン・カレルがコミカルな演技で、この政治の部分をうまく描写して見せて、わかりやすくその重要性を示して見せます。

さて、この映画はあくまで、同性愛を肯定的に描いています(何を今更ですが、ここは大事なところ)。ですから、同性婚を否定する人間は悪役として描かれています。委員の一人は、自分の信念を貫いてどこが悪いと開き直ると、「政治を個人の信念でやっていいのか」とたしなめられます。うーん、個人の信念を守ることは悪いことなのかという気もするのが、いいことを貫けば信念の人となり、悪いことを貫くと偏屈な頑固者として描かれるわけです。そこに若干のプロパガンダ的な善玉悪玉の振り分けがあります。私は同性婚は認めてもいいと思っているくらいのレベルなのですが、もし自分が同性婚反対の立場だったら、この映画は偏向プロパガンダだということになります。この映画はそんな偏向映画なのかどうかは、是非実際にご覧になって感じ取っていただきたいと思います。そして、客観的にこの映画をご覧になることをオススメいたします。そして、この映画の言う同性婚が自分の中で納得できることなのかは、一度自問自答した方がいい命題ではないかしら。

同性婚が正しいかどうかというのはその時代によって変わることですから、今の風向きが永遠に変わらないわけではないのです。同性婚が認められる世の中になった後、それはやっぱり結婚の意味と反するからダメだという変化を望む勢力が増えたとき、今度は保守勢力として同性愛者の権利を守り抜けるのかどうか。その新しい流れの勢いに乗って、同性婚やっぱりダメじゃん、「ハンズ・オブ・ラブ」って過去の誤った歴史の映画だねとか言い出すことにならないように気をつけないとなあって思わせる映画でもあります。何でこんなこと言い出すかというと、最近ではヨーロッパでの極右勢力の台頭だとか、日本でも大東亜戦争は侵略ではなく正しい自衛戦争だったという解釈が息を吹き返しているのを見ると、今のあたりまえが、未来永劫続くわけじゃないよなあって気づかされたからです。だからこそ、同性愛に対する見解も、きちんとなぜOKなのかって考えておかないと、そのうち自分がまた同性愛は反社会勢力だと言う意見になびいちゃうかもしれないです。同性婚に対して「なんとなくOK」ってのは、単にその時流に身をゆだねているだけだから、本気で同性愛の人間を認めているわけではないってことになるのかも。

演技陣では、実在の人物をジュリアン・ムーアとエレン・ペイジが熱演していますが、ソレットの演出は、彼女たちだけに重きを置いていないので、その分、二人の演技の温度あってこそでその存在感が際立ちました。病気の細かい描写がない分、見た目だけでその進行を見せたムーアとそのメイクが見事でした。相棒としての信頼と愛情で行動する同僚デーンを演じたマイケル・シャノンの繊細で力強い演技がドラマの大きな支えになっているのは見逃せません。彼は同性愛をどう思っているのかははっきりと示しませんが、苦しんでいる同僚を助けたいという気持ちでできる限りの支援をするところが胸を打ちますし、同性愛との微妙な距離感の取り方がうまいなあって感心。また、マリス・アルベルチの撮影がシーンをやや引いた絵で捉え、劇場で観るにふさわしい映像のなっていたのが印象的できでした。映画に抒情的よりも叙事的な味わいが加わったのは、彼の絵作りによるところもあると思います。

映画としては、実話ですから意外な展開とかはありませんが、つい最近の歴史の1ページを知ると言う意味で観る価値の映画です。また、自分が同性愛をどう考えているのかを考えるリトマス試験紙としても使えますので、一見をオススメしちゃいます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



公開委員会を重ねるにつれ、マスコミでも大きく取り上げられるようになり、風向きはローレルの方へと変わってきますが、彼女の病気も進行し、がんは脳へも転移して、これ以上の治療は行わないレベルまでになってしまいます。もう残された時間はわずかでした。一方、郡の委員会の人間はそのキャリアから2重の年金を受け取っているという事実を委員の一人であるブライアンから聞いたデーンは、年金帳簿からその証拠をつかみ、委員会にこれ公表しちゃうぞと揺さぶりをかけます。一方、スティーヴンも州知事から委員会へ圧力をかけることに成功します。そして、その公開委員会の日には、デーンも車椅子で参加し、それまで参加していなかった警察署の同僚も傍聴人として委員会に参加します。(←個人的に泣き所)そこで、息も絶え絶えに最後のお願いをするローレル。そして、委員会もついに遺族年金のステイシーへの支給を認めるのでした。ステイシーはローレルの最期を看取り、一人きりになった彼女は、海辺で彼女の思い出に思いを馳せるのでした。おしまい、そして「彼女は二人の思い出の家に今も暮らしている」と字幕が出てエンドクレジット。

最終的には、半分脅迫みたいな形で、委員の承認を得るのですが、役人が一度決めたことを覆すにはそれくらいのことをしないとダメだというのは、日本もアメリカも大差ないというのは面白いと思いました。連邦最高裁判所が同性婚を認め、それが憲法のもとで保証されることを示したのは2015年のことですから、まだまだ同性婚はアメリカ国内でもコンセンサスを得ているわけではないのです。(最高裁と憲法が認めたらコンセンサスだというのは私は違うと思ってます。)それでも、その流れの先鞭をつけたものとして、この一件は価値あるイベントでした。そのイベントを丁寧に描くことで、ローレルとステイシーの愛が浮き上がってくるという作りにしたのは、脚本、監督の見識だと思います。予告編で期待していたよりも、間口の広い見応えのあるドラマの仕上がっていました。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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