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「マギーズ・プラン」は不倫・略奪婚の後日談なのに妙なおかしさのあるコメディ、私のツボに大はまり。


今回は新作の「マギーズ・プラン」を、有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。初日の初回の割にはお客さんの入りはよくないようで、確かに売り文句の少ない映画だからかなあ。

ニューヨークの大学で働くマギー(グレタ・ガーウィグ)は、恋愛が6か月以上続かない体質。30過ぎても結婚できそうにない彼女は、大学時代に数学ですごく才能があった、今はピクルス屋をやっているガイ(トラヴィス・フィメル)の精子をもらってシングルマザーになろうと決意。そんな時に、文化人類学者のジョン(イーサン・ホーク)と知り合います。彼の奥さんはコロンビア大学の教授で、家事とか子育ては彼の仕事になっていて、小説を書きたいのに思うに任せない状態。そんなジョンに小説を読んでもらえないかと頼まれたマギーは、それを快諾して、二人のなんとなくいい関係になります。ガイから精子提供を受けたその日に、マギーはジョンから求愛されます。で、場面は変わって、2歳の娘を連れたマギーと小説執筆に没頭するジョンの姿。マギーとジョンは結婚し、マギーは仕事をしながら、自分の娘とジョンの連れ子二人の面倒もみて忙しい日々を送っていました。でも、ジョンは元妻ジョーゼット(ジュリアン・ムーア)と何かと連絡を取っているようで、その一方でマギーへのケアはあまりありません。だんだんと今の夫婦関係への不満が募っていったマギーは、ジョーゼットに、ジョンとのよりを戻すことを提案します。ジョーゼットは最初はそれを一笑に付すのですが、カナダでの学会を機に、その申し出を受けます。ジョーゼットは、ジョンに偶然を装って遭遇し、二人の間にかつてあった感情がよみがえってきます。お互い、すっかりその気になった二人。カナダから帰ってきたジョンは、マギーにジョーゼットのことを告白し、彼女のもとへ戻るのですが、マギーの元カレで、共通の友人であるトニー(ビル・ヘイダー)がその裏を漏らしてしまったことで、ジョンは、ジョーゼットのもとからも姿を消してしまうのでした。

カレン・リナルディの原案から、「50歳の恋愛白書」のレベッカ・ミラーが脚本を書き、メガホンも取った、恋愛コメディの一編です。マギーの前に現れたジョンは、鬼嫁の尻に敷かれて、小説家になりたいのに思うに任せない男性に見えたようで、そこで、マギーは、いわゆる不倫からの略奪婚をしちゃうのです。不倫からの略奪婚の部分は映画の中では一切描かれないのが面白いところで、ジョンがマギーに求愛してから、お話が一気に3年後に飛ぶのです。で、略奪婚後の生活が、ジョンは小説の完成に集中して、それ以外のことはマギーが全部面倒見るということになっちゃってるのですが、ジョンは、何かと元妻ジョーゼットと連絡をとっているようだし、マギーのことをタフな女性だからといって、優しい言葉をかけてくれるわけでもない。そんな愛情の感じられない関係を続けられないと悩んだ末に、マギーはジョーゼットにジョンとよりを戻さないかと提案します。そんなマギーに「人の家庭を破壊しておいて、今度はやっぱりうまくいかないからって、返品してハッピーエンドにするの」と返すジョーゼット。

そりゃあそうだ、不倫、略奪婚しといて、やっぱりダメだから元へ戻すなんて提案なんて、あまりにも身勝手。と、言いたいところなんですが、この映画、そんなマギーを否定的に描いていないのですよ。マギーは、ちょっと変わったところはあるけれど、誠実でマジメな女性として描かれています。一方のジョンも、マギーのヒモ化した情けない男という描き方ではなく、よくある普通の男というキャラに設定されています。その二人の、存在のリアリティと、お話の展開のギャップがおかしいのですよ。また、マギーや元彼トニーとの会話の間が笑いをとります。なんだこれはというようなお話の展開に対しての登場人物のリアルな存在感とか、妙な間の取り方とかが、オフビートな笑いを誘います。これは、好みの問題もあるかもしれませんけど、私はこの映画にはまりました。面白いですよ、これ。

マギーは、すごくマジメで、目の前にあるものに対して積極的に関わっていこうというポジティブな人間です。でも、その方向がどこか変なところがあって、恋愛に道徳的割り切りを持ち込もうとして、元彼トニーから愛情はそんなもんじゃないと諭されたりもします。でも、今の愛情のない生活を送っていくのは娘にもよくないことで、もし別れるのなら、早い方がいいと考えて、元妻により戻しの提案をして呆れられてしまうという感じ。何かこの妙な前向きさを、どこかかわいく見せるあたりに、グレタ・ガーウィグの演技とミラーの演出のうまさがあります。暖かいタッチの絵作りもあって、全体のトーンがハートウォーミングコメディになっているのですが、これも、不倫、略奪婚の話とのミスマッチとして面白い趣向になっています。私はこの雰囲気がおかしくて、映画のあちこちでクスクス笑っていたので、周りのお客さんには変な人に思われたかも。

この映画のおかしさは、演技陣によるところも大きく、グレタ・ガーウィグの生臭さと不思議ちゃんの両方の顔を持たせた演技がまず見事だったと思います。また、下手をすれば、ヒロインの加害者にも被害者にもなりうる難しい役どころであるジョンを不完全なよくいる人として演じたイーサン・ホークがコミカルに演じています。また、最初は鬼嫁のように登場して、その一方で夫の一番の理解者であるジョーゼットをジュリアン・ムーアがいつもの熱演キャラとは違う、リアルな脇役として、やや控えめに演じているのにも感心。とにかく、巧い演技陣がいい感じのアンサンブルを作って、どこかオフビートが笑いを生んでいるのが楽しい映画です。

で、このドラマはどこへ着地するのかというと、とにかくなるようにしかならないよねってところまで見せて、着地しないまま終わるのがまたおかしかったです。ラストの「え??」という感じは、劇場でご確認いただきたいのですが、どこかつかみどころのなかったマギーのキャラなら、この結末の先もまだあるだろうなと思わせるところがまたおかしい。この映画がどこまで笑いを取りにきているのかはわかりませんが、私には最初から最後まで、どこか変でおかしな笑えるドラマになっていました。マギーみたいな女性は、その前向きさと真面目さが魅力ではあるのですが、どこかずれた感じが地雷のようでもあり、それは別の見方をするとかわいくも見えるという込み入ったキャラになっていまして、そういう女性をヒロインしているところが私のツボだったのかもしれません。年末に観ていたら、ベストテンに押し込みたくなる、そんなおかしな魅力を持ったヒロインであり、映画でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ジョーゼットと二人の連れ子もマギーとジョンの家に来て、生活するようになります。ジョーゼットは、ジョンの小説を読んで全部焼いてしまいます。ジョンを呼びつけてその灰を見せ、その小説の評価をすると、ジョンは「やっぱり、君は、僕の最高の理解者だ」ということになっちゃいます。一方で、マギーと娘の仲睦まじい日々の映像が流れ、その娘の誕生日に、スケートリンクには、マギーとジョーゼットとジョンの3人が一緒に楽しんでいるのでした。娘はやたらと数字が好きで何かと数字で表現する子、それを見ていたトニーと奥さんは「数字が好きなのは、どっちにも似てないわねえ」と話しています。すると、スケート場に元数学の天才のピクルス屋ガイがやってきます。ガイを見つけたマギーの表情が輝き始めたところで暗転、エンドクレジット。

映画の冒頭でガイの精子提供は失敗したとマギーは言ってたのですが、本当のところはどうだったんだろうというオチは、何じゃそりゃってなもんなんですが、ガイを見つめるマギーの笑顔が、え、まだこの先に新展開があるのと思わせるのが、またおかしい。「ダーティ・グランパ」も家族再生をテーマにしているように見せておいて、実はひたすら下品コメディだったように、この映画も、マギーをヒロインにした人生なんか置いといた、ひたすら笑い(それも大笑いではなく、積み上げる小笑いの方)をとるコメディとして観た方が正解なのかもしれません。もし、この映画に教訓めいたものがあるとすれば、人生はどうあがいてもなるようにしかならないっていう、身もふたもないものなっちゃいそう。そんな、なるようにしからならない人生で、マギーが色々と考えた結果の小さなドタバタを笑ってやってくださいという映画なのではないかしら。この、全体を通して、こちらの予想の斜め上をいくマギーの小さなドタバタをシニカルに見せるのが普通のコメディなのでしょうけど、そこを突き放さずに、さらにハートウォーミングな味わいでくるんだあたりに、さらにオフビートな笑いが上乗せされたという感じでした。うーん、この何重にもこっちの期待を裏切っていく感じ、うまく説明する文章力がないのが残念です。
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「パシフィック・ウォー」は面白い題材を扱った映画だけに、作りのB級っぽさが惜しい。」


今回は、桜木町の横浜ブルグ13シアター2で新作の「パシフィック・ウォー」を観てきました。ここは100席の小さな映画館でスクリーンも小さめ、シネスコサイズの時は縦が縮みます。それでも、きちんと縦にスクリーンサイズを変えるのは、「ル・シネマ」より偉い。

太平洋戦争も終盤、アメリカは戦争を終結させるべく原爆の使用に踏み切ります。原爆を本土から空輸は無理として、巡洋艦インディアナポリス号に原爆を積み込み、大統領の特命で秘密裏にテニアン島へと運ぶことになります。隠密行動なので護衛艦もつかず、ジグザグ航行もできない高速運転で、艦長のマクベイ(ニコラス・ケイジ)は、原爆をテニアン島まで届けます。そして、任務を終えて、次の任務地へ向かうことになるのですが、秘密作戦でこの艦がテニアン島にはいないことになっているからという理由で、またしても単独で任務地へ向かうことになります。護衛艦もソナーもないインディアナポリスは潜水艦からの攻撃にはほぼ無防備状態でした。そこへ日本軍の潜水艦イー58が、インディアナポリスを発見し、至近距離から魚雷攻撃をしかけます。不意打ちを食らったインディアナポリスは反撃することもできないまま撃沈され、その寸前にマクベイは乗務員全員に退艦命令を出します。しかし、海上に逃れた乗組員も、次々にサメの餌食になっていくのでした。

実際にあった事件をもとに、キャム・キャノンとリシャール・リオンダ・デル・カストロの脚本を、「ニュー・ジャック・シティ」やTVシリーズでの実績があるマリオ・ヴァン・ピープルズがメガホンを取りました。映画の冒頭で、「A Mario Van Peoples Film」と出るのが最近の映画としては珍しかったですが、冒頭の戦闘シーンが、CG見え見えの安っぽい絵なので嫌な予感がしてきました。主演がニコラス・ケイジというのも微妙なB級感が漂いますし、予備知識のなかった私は、不安な気分でスクリーンに臨むことになりました。

映画の冒頭では、インディアナポリスに乗り込む直前の乗組員の若者のドラマが描かれ、三角関係になっている二人の海兵隊員とか、喧嘩して艦内に監禁される白人と黒人、色々なことを書き留めている黒人兵などの登場人物が説明されます。一方で、日本軍の潜水艦イー58の様子が描かれるのはちょっとびっくり、若干日本語が不自由な日本兵のやり取りは仕方ないと思いつつ、人間魚雷回天が登場してきてちょっとびっくり。そして、出航したインディアナポリスは、割とあっけなくテニアン島へ着いちゃいます。あれれ、そっかー、原爆運ぶ途中で何か起こる話じゃないのかーってちょっと肩透かし気分になっていると、次の目的地へも護衛艦なしで向かうことになり、その途中で、潜水艦と遭遇することになります。至近距離から魚雷攻撃を受けて、インディアナポリスは撃沈。1196名いた乗組員は攻撃でかなり犠牲になり、海の放り出されたのは900名程度でした。しかし、沈没前に発信したSOSを、インディアナポリスの存在を知らない基地は日本軍の罠ではないかと無視し、救援隊を出しませんでした。海に放り出された乗組員はいかだや非常用ボートで太平洋を漂流することになりますが、負傷者の血の匂いにサメが集まってきて、次々と犠牲になっていきます。艦長のマクベイは、爆発で海に放り出されたところにいかだがあって生き延びていました。一方の潜水艦も救助隊が来ないことを知って、アメリカ軍に漂流者の一報を入れるのですが、基地ではそれも無視していたのでした。

映画のメインは生き残った乗り組み員が海を漂流してからになります。負傷者が死んでいき、生きているものが次々にサメに食われていきます。海に浮かんでいる人間が突然海中に引きずり込まれていくシーンもなかなか怖いのですが、漂流している人間のすぐそばをサメがうようよしているのを上からとらえたショットが結構怖いです。直接の残酷描写は少なく、あえてスリラー映画の見せ方をしない淡々とした演出は、乗組員のドラマに重点を置いたということもできるのですが、ピープルズの演出は、どこがドラマの山場なのかわからないまま、全体をあっさりと処理しているので、ラスト近くでようやっとドラマのエンジンがかかるという印象になってしまいました。たくさんの登場人物の群像ドラマになってはいるのですが、どれも描き方が浅くて、CGや映像の安っぽさもあって、テレビ映画みたいに思えてしまったのは残念。

この映画のポイントは、原爆輸送におけるアメリカ軍の失態を描いて、そこで責任を負わされたマクベイ艦長の名誉回復をしようというものです。そういう話だったのかとわかるのは、映画も終盤になってからなので、淡々としたサバイバル劇で、映画として物足りないかなと思わせちゃう構成は失敗だったかも。129分の長さの映画ですが、漂流シーンはより短くまとめた方がいいのかとも思ったのですが、ラストで当時の乗組員の本人が登場するので、彼らの体験を映像化するという意図もあったようなのです。それなら、もっとドラマをうまくさばいて欲しかったなあってのが正直なところです。

しかし、どこの国でも、組織の失敗を誰かに押し付けちゃうということはあるんですね。まあ、この映画の場合は、アメリカ軍の秘密裏に護衛もなしに派遣した軍艦が、想定どおりに日本軍の潜水艦に攻撃され、さらに救助依頼が無視された結果、1196名の乗組員のうち、317名しか生き残れなかったということなんですが、そのニュースを日本降伏のニュースの下で小さく報道し、その責任をマクベイ艦長一人に押し付けちゃうなんてことをしちゃう。艦長としては、命令に従ってやれることはやったのですが、結果、上層部や他部署の責任まで押し付けられちゃうというのは、ずいぶんとひどい話です。彼の名誉回復が2000年になってされたという話がラストの字幕で出てくるのですが、時間が経っても、後で間違いを認めることができるのは、アメリカの良さでもあると思いました。日本で、マクベイ艦長みたいな人が現れても、せいぜい週刊誌の記事になるか、テレビのドキュメンタリーで放送されるくらいで、公に名誉回復なんてことにはならないでしょうから。

それでも、この映画は、太平洋戦争の裏話として、大変興味深い題材を扱っていまして、そういう意味での一見の価値はあります。もっと予算をかけて、映像を充実させたら、評価が上がると思います。でも、IMDBによると製作費はこれでも4000万ドルだそうですから、B級映画とは言い難いですね。

そういうわけで、作られた意図はすごく意味のある映画なんですが、その作りが、思いほどには足らなかったというところでしょうか。ラストは結構盛り上がるのですが、それまでがややたるいという印象になってしまって、さほど面白い映画にならなかったのが残念でした。ニコラス・ケイジ以下の演技陣も頑張っているのですが、あまり印象に残るキャラがいなかったのも残念でした。まあ、戦争映画ですから、個々の印象が薄くなるのは、それはそれでリアルでありなんですが、この映画は、兵士個人のドラマを作り上げようとする意図があったので、その割にはドラマ薄めだよなあって印象になっちゃってました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(と、言いつつ、もう触れちゃってますが。)



漂流していた乗組員も次々にサメの餌食になっていきます。そこへ、潜水艦をさがしていた米軍の攻撃機が油跡を見つけて、攻撃しようとしてきます。爆雷を落とす寸前で漂流しているいかだを見つけます。救援隊の要請をしたとき、その近くの偵察機が着水して、多くの乗組員を偵察機の翼や機の上に上げて、サメの襲撃から救います。そして、艦隊が救助にやってきて、317名が収容されます。このニュースは即報道されず、日本が降伏した後に新聞の小さな記事となり、さらに、マクベイ艦長の責任を問う軍法会議が開かれることになります。マクベイ艦長は死んだ部下の悪夢や、脅迫電話に悩まされることになります。そして、軍法会議の場で、まず退艦命令が適切に出されたかどうか、そして、ジグザグ航法をとらなかった点で、その責任を問われます。乗組員の証言から退艦命令については無罪となるのですが、ジグザグ航法をとらなかった点では、旧日本軍の潜水艦長が出廷して「インディアナポリスは至近距離にあり、ジグザグ航法をとっても、魚雷攻撃からは逃れられなかった」と証言したのにもかかわらず、有罪の判決が下ります。判決後、マクベイは、元潜水艦長を追って声をかけます。潜水艦長は、こんな理不尽な判決は日本ではあり得ないと言い、二人は「お互い、命令でやったことだが、お互いを許すには時間がかかるだろう」と言葉を交わすのでした。その後、マクベイはピストルで自殺するのでした。実際の、救助の映像や、今の生き残りの乗組員の証言映像が流れて、エンドクレジットとなります。

帰還してからは怒涛の展開と言いましょうか、一気に畳みかけるようにお話が進んで、乗組員たちが傍聴席で見守る中で、マクベイ艦長は有罪になってしまいます。日本軍の潜水艦長の橋本の回想シーンで、攻撃時に人間魚雷の回天を使用をためらって、通常魚雷で攻撃するくだりが登場します。日本軍人を血の通った人間として描いているのが意外だったのですが、この橋本という人は、マクベイの名誉回復に尽力したということがラストの字幕で示されるので、ああなるほどと納得しました。そういう意味でも、太平洋戦争秘話として、この映画の存在価値はあると思うので、余計目に、もう少し頑張って作ってくれと思っちゃうのです。戦争大作の予算に足りないのなら、安っぽいCGなんか使わずに、軍法会議をもっと丁寧に見せるといった見せ方の工夫もあったろうになあ。

キネマ旬報ベストテンを見て、あれ?と思ってしまって

映画雑誌のキネマ旬報のベストテンが発表されたんですって。私は中学生の頃から「キネマ旬報」を読み始めて、中年になって卒業しました。映画音楽の記事がつまらなくなったからというそれだけの理由なんですが、以降は「映画秘宝」から映画の情報を仕入れるようにしています。で、2016年のベストテンが出たのですが、それが以下の通りです。

■日本映画ベスト・テン

1位 この世界の片隅に
2位 シン・ゴジラ
3位 淵に立つ
4位 ディストラクション・ベイビーズ
5位 永い言い訳
6位 リップヴァンウィンクルの花嫁
7位 湯を沸かすほどの熱い愛
8位 クリーピー 偽りの隣人
9位 オーバー・フェンス
10位 怒り

■外国映画ベスト・テン

1位 ハドソン川の奇跡
2位 キャロル
3位 ブリッジ・オブ・スパイ
4位 ランボ ハリウッドに最も嫌われた男
5位 山河ノスタルジア
6位 サウルの息子
7位 スポットライト 世紀のスクープ
8位 イレブン・ミニッツ
9位 ブルックリン
10位 ルーム

ああ、面白いなあって思ったのは、日本映画のベストテンの1位と2位。「この世界の片隅に」と「シン・ゴジラ」ですって。で、あれだけヒットした「君の名は」はベストテンに入っていません。あれだけヒットした「君の名は」をベストテンに入れないまでは、キネ旬らしいと思うのですが、ヒット作である「シン・ゴジラ」を2位にしちゃうあたりが、何だかキネ旬らしくないなあって思うし、さらに1位にアニメですからね。それも世間でも評判の高い「この世界の片隅に」です。世間の評価とシンクロしようとするなら、「君の名は」はベストに入れてほしいと思いますし、映画の中身にこだわるなら「シン・ゴジラ」は圏外と思うのですが、どこへ行こうとしているんだろうなあ、この雑誌は。

後、外国映画ベストテンで驚いたのは、私事になるのですが、10本とも、私が観た映画だったということ。私はシネコン中心で映画鑑賞していまして、マイナー系映画はたまに観る程度なので、キネ旬のベストテンに入るような映画は、観てないことが多かったのですが、今回はちょっと違うのですよね。この中で、いわゆるミニシアター系映画というのは、5位の「山河ノスタルジア」と8位の「イレブン・ミニッツ」くらいで、他は普通にシネコンで公開された映画です。これは二通り考えられまして、いわゆる「キネ旬が選ぶ映画」をシネコンが上映するようになったということか、或いはキネ旬がメジャー系映画に迎合したのか。それとも、キネ旬の選者があまり映画を観ない人になったのか、さらに敷衍すれば、配給会社がメディア向け試写会をしなくなったのかなとも考えてしまいました。ちょっと世間とずれた高尚な選択が、キネ旬の持ち味と思っていたのですが、これでは、読者のベストテンと言われても納得しちゃうような選択ではないかしら。これなら、ブログの色々な方のベストテンの方が次に観る映画の参考になるなあって思ってしまったのでした。

ベストテンを、追っかけ鑑賞のガイドみたいに使っている私としては、キネ旬のベストテンにちょっとびっくりなのでした。

「ダーティ・グランパ」は下品コメディとして笑い飛ばすのをオススメ、ホントくだらない。


今回は新作の「ダーティ・グランパ」を川崎のTOHOシネマズ川崎4で観てきました。R15+指定ということで、おねえさんの裸でも見せてくれるのかと期待したのですが、ドラッグの描写があるせいでの指定のようです。子供が観られない映画といえば、エロだというのは、昭和の話みたいで、今は、残酷、ドラッグ、おっぱいレベルでひっかかるようですから、R15+やR18+だからと言って、お気軽に期待できない時代になってしまいました。

若手弁護士のジェイソン(ザック・エフロン)は、メレディス(ジュリアン・ハフ)との結婚を1週間後に控えて、祖母の葬儀に出席します。すると、祖父のディック(ロバート・デ・ニーロ)が、フロリダへ妻との思い出旅行に行くから、運転手やってくれと言われちゃいます。まあ、一泊二日だしとつきあうことにするジェイソンですが、このじいちゃん、かなり元気、祖母の最後の言葉「好きに生きて」というのを実践するんだと張り切ってます。途中のダイナーで、高校時代のシャディア(ゾーイ・ドゥイッチ)と再会。ディックは、自分を大学教授で、孫をカメラマンだと紹介。彼女の連れのレノーア(オーブリー・プラザ)は、そんなディックをいけてると感じ、じいちゃんも彼女とやりたいと盛り上がります。フロリダへ着いてからも、二人は、大学生のパーティに混ざって、ドラッグもきめて、羽目をはずしてやりたい放題。翌朝、海岸で素っ裸で目を覚ましたジェイソンはメレディスからのテレビ電話に大慌て、挙句に警察に拘留されて、ディックに引き取りに来てもらう始末。そんなジェイソンとシャディアはなんとなくお互いに惹かれあうようになるのですが、張り合っていた学生コンビが、ディックとジェイソンの正体、そしてジェイソンが来週結婚ということを暴露してしまいます。怒ったシャディアに説明できないまま、ジェイソンは帰ることになり、メレディスとの結婚披露の食事会に臨むことになるのですが.....。

ジョン・M・フィリップスの脚本を「ボラット」「ブルーノ」の脚本を書いたダン・メイザーがメガホンを取りました。それだけだと観る気は起らないのですが、あの「ステイ・ヘイヴン」の元気ヒロインだったジュリアン・ハフが出ているというので食指が動きました。映画の中身は、おじいちゃんと孫がフロリダに旅行することで、人生がちょっと変わるというお話で、その柱にあるのは、ボーイ・ミーツ・ガールのラブコメディの定番パターンなのですが、そこへ、セックスとドラッグをたっぷり盛り込んで、ゲスの極みのような映画に仕上げています。とにかく下品ということでは、「ボラット」や「ブルーノ」に近いものがあります。それを、ロバート・デ・ニーロがやるのですから、いかに時代とは言え、ちょっと恐ろしいものがあります。

ラブコメの部分はシンプルで、結婚を控えたジェイソンがかつての同級生のシャディアと再会して、自分の人生を見直して、やっぱりこっちがいいやってことになるもの。ただ、その部分を真面目にやってるのかどうかわからない節がありまして、ただ、下品なことをやりたいだけなんじゃないのかという印象なのですよ。同じように下品ネタで突っ走る「ted テッド」が、きちんとラブコメの部分を真面目に作って、普通のお客さんも楽しませていたのとは違う、とにかく、下ネタのやりたい放題を並べたという感じなんです。顔にチンコの絵を描いて喜んでるあたりは、小学生レベルですもの。そういう意味では、下品だけで暴走した「ムービー43」に近いかも、それにラブコメの柱を無理やりこじいれたみたいな感じかしら。(ずいぶんな言いぐさですね。でも、そんな感じ。)

とにかく、じいちゃんは二言目には「やりたい、やりたい」ですから、ジェイソンとしては、口あんぐりで、どう扱ったものか困っちゃう。でも、このじいちゃん、いろんなことを知ってるし、喧嘩も強いとあって、どうも只者ではありません。若いレノーアとやることを楽しみにしていて、レノーアも大学教授というふれこみのこのじいちゃんを気に入ってるみたいです。一方のジェイソンはドラッグで羽目を外してしまって、最終的には警察署に拘留されちゃいます。そこの警官は、ドラッグディーラーのタン・パム(ジェイソン・マンツォーカス)とやけに仲良くて、彼のやってることを知ってても、簡単に釈放しちゃうというもう無茶苦茶な展開。フロリダなんだから、何やってもいいんだよーみたいな展開は、フロリダをコケにしているのかと思ってしまうのですが、とにかく、全編、ご陽気ドラッグ万歳みたいな空気になっているのは、バカ映画の王道という感じでしょうか。それとも、アメリカだと、これを単にバカと笑えない、シャレにならない部分があるのかしら。

それでも、一応、言い訳のように親子のドラマが絡んできます。それは、じいちゃんが自分の息子(ダーモット・マロニー)を育て損なったという罪の意識があって、孫には息子と同じ轍を踏んで欲しくないと思って、この旅行を仕組んだのでした。ふーん、てな感じになっちゃうのは、ドラッグやって羽目をはずすことが人生やり直しになるの?って突っ込みが入っちゃうからです。ですから、そういう真面目風のドラマの部分も笑い飛ばすネタとして考えた方がこの映画は楽しめそう。とにかく、反モラル万歳なお話なので、それを真面目なメッセージと受け取るか、バカネタとして笑い飛ばすかは観る人次第なんですが、バカだねーって笑い飛ばす方が健康的なような気がします。

演技陣としては、下品で胡散臭いじいさんをロバート・デ・ニーロが熱演していますが、ザック・エフロンのおじいちゃんとしては若作りすぎるような気がしちゃいました。でも、あんまり枯れた感じになると、やりたい感が足りなくなって、ラストの落ちが効かなくなるので、難しいところです。私の若い頃のおじいちゃん俳優というとジョージ・バーンズとか、バージェス・メレディスになっちゃうのですが、一見しておじいちゃんとわかる彼らに比べると、ロバート・デ・ニーロはまだ若さを引きずってる印象があるんですよ。一方のザック・エフロンは、じいちゃんに振り回される孫を受けの演技で見事にこなして役者としての力量を見せました。お目当てのジュリアン・ハフは、いわゆる恋敵のポジションの嫌われキャラになるのですが、ヒロインのゾーイ・ドウィッチが地味目でインパクトが弱いせいか、ハフのコミカルな魅力が引き立って見えたように思います。(← これはひいき目かも)こういう役もこなせるのであれば、今後の彼女には期待大です。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



メレディスとの結婚お披露目もかねた食事会に出席するジェイソン。メレディスとジェイソンが掛け合いでデュエットしながら、二人のラブラブ映像が流れるという趣向になるのですが、ディックはそこへ、ジェイソンがフロリダで羽目をはずしている映像を割り込ませます。場内騒然、スクリーンを背にしたメレディスは気がつかないのですが、ジェイソンはそれを見て、やっぱり結婚はできないと宣言、会場の外では、ディックが待っていて、シャディアは1年間の船上生活のためにバスで港へ向かっていると伝えます。ディックは、かつてグリーンベレーの特殊工作員で、情報網や格闘スキルとか只者ではなかったのです。そして、ドラッグ・ディーラーのタン・パムのアイスクリームワゴンでシャディアの乗るバスを追いかけて、途中から追ってくるパトカーを振り切って、バスを止め、シャディアに告白するジェイソン。そして、彼はシャディアと一緒に自然撮影のための船に乗り込むことにするのでした。家に帰ったディックを待ち構えていたのは、レノーラで、二人は大盛り上がりでベッドイン。1年後、ディックとレノーラの間に生まれた赤ん坊の洗礼の場に、名付け親として、ジェイソンとシャディアが立ち会うのでした。めでたし、めでたし。

ラブコメの王道、いさかいがあって、思い直して、追いかけて、再会、ハッピーエンドという王道な作りにはなってますが、そこにも下品ネタをいろいろ盛り込んで笑いを取ります。一番、笑えたのは、タン・パムがアイスクリームワゴンを使う理由が、これからは子供たちにもマーケットを広げていくからというもの。やっぱりバカ映画として笑い飛ばすのが正解です。

「彷徨える河」は色々な方向へ想像が広がるのが面白くて、見応えあります。


今回は、新作の「彷徨える河」を関内の横浜シネマリンで観てきました。ここは、スクリーン前の幕の開閉があり、上映サイズに合わせてスクリーンサイズを変える映画館。後、もう少しスクリーン位置を上げてくれると、前の人の頭が気にならなくなるんですが、何とかならないかしら。前回の「神の揺らぎ」では貸し切り鑑賞だったのですが、今回は土曜日の初回ということもあってか、こんな地味な映画なのに、そこそこお客さんは入っていました。ここで上映がなかったら、存在も知らなかった映画だけに、シネマリンにはこういう映画をどんどん上映していただきたいものです。

コロンビアのアマゾン川の奥地、民俗学者テオドール(ヤン・ベイヴート)は、重い病気で苦しんでいましたが、滅びたと言われていた先住民族の生き残りのシャーマン、カラマカテ(ニルビオ・トーレス)を訪ねて、治療を頼みます。白人を嫌っていたカラマカテですが、テオドールに同行したマンドゥカの説得もあってか、薬となる聖なる植物ヤクルナを求めて、ジャングルの中を進んでいきます。テオドールの日記から起こした本を読んだ植物学者エヴァン(ブリオン・デイビス)は、ヤクルナを探しにジャングルを進み、一人で暮らす年老いたカラマカテ(アントニオ・ボリバル・サルバトール)に出会い、一緒にヤクルナを探しに行くことになります。カラマカテはもう自分は抜け殻で昔のことも思い出せないといいます。時間軸のずれたカラマラテの物語が、アマゾンのジャングルの中で並行して進んでいくのでした。

南米のコロンビアの映画で初めてアカデミー外国語映画賞にノミネートされたんですって、へえー。アマゾン流域の原住民を題材にした映画なんですって、ふーん。全編モノクロの5.1chステレオ音響のシネスコの映画ですって、ほおー。と、あまり興味や期待を持たずにスクリーンに臨んだのですが、これが面白かったです。主人公のカラマカテが白人と一緒に聖なる植物ヤクルナを探す旅の中で遭遇するエピソードから、コロンビアの歴史が見えてくるという作りは、戦前戦中時代のエピソードを連ねてその時代を描いた「この世界の片隅に」と似たところがあるので、ちょっと感心。フィクションのドラマの中に、歴史の空気を織り込んでいくという作りは共通したものがあります。コロンビアのシーロ・ゲーラがジャック・トゥールモンドと一緒に書いた脚本を自ら監督しました。民族学者のテオドールと植物学者のエヴァンはどちらも実在の人物で、彼らの日記をもとに、お話を構成しているようなのですが、ヤクルナという植物は架空のものだそうです。まあ、どこまで本当でどこからが作り話なのかよくわからないところも「この世界の片隅に」に似てますね。

映画は、ジャングルをヤクルナを探す二つの旅が並行して描かれます。カラマラテは一人で暮らしていますが、彼の部族は白人によって殺されて彼が生き残ったようなのです。部族の生き残りと白人の取り合わせは不思議な感じがしますが、彼らが遭遇するエピソードも、原住民と白人の歴史を示すものです。そのカギとなるのはゴムとキリスト教です。ゴムが豊富なジャングルに白人たちは入植し、現地人を奴隷扱いしたらしいことが映画の中で示されます。エヴァンに同行する友人マンドゥカも、もとは農園で酷使されていたのをエヴァンのおかげで自由になっていて、エヴァンが現地人のことを白人世界へ伝えることで彼らの地位が向上することを期待しています。それでも、途中のジャングルでゴムの木から樹液を取っている片目片腕の男を楽にしてやるんだと銃を向けるあたりに、彼の受けた虐待の根深さを感じさせるのが圧巻でした。

そして、ゴム栽培の他に、もう一つの白人が持ち込んだキリスト教についての描写もかなり辛辣です。もともとは自然崇拝の文化を持っていたらしい原住民を洗脳した怪しげな新興宗教としてキリスト教を描いているのですよ。さらに、キリスト教は、それを信じない人間を悪魔と呼んで滅ぼそうとする狂信的な集団として登場するのですよ。明治維新に、それまでに八百万の神々を信じていた人々の上に天照大神を強引に割り込ませて、天皇を全部ひっくるめた神様にしちゃったのと似たところがあるような気がします。(私は、天皇が現人神ってのは、明治の新興宗教だと思ってるのですが、これには依存のある方もいらっしゃるでしょうね。)南米を舞台にしたキリスト教の布教に関するドラマというと「ミッション」とか「コロンブス」とかを思い出すのですが、あれは白人目線のドラマであり、実際にキリスト教に改宗する現地人目線で描けばこういうことになるのは、言われればそうだよなあって納得しちゃいました。キリスト教を布教するということは、程度の強弱はあれ、そこにいる人を洗脳するわけですもの。日本へ来た宣教師の映画「沈黙」がもうすぐ公開されるようですが、これもやっぱり白人目線の映画なんだろうなあ。キリスト教へ帰依する日本人を「洗脳された」とは描かないよなあ、きっと。

後、得体の知れない白人が、「自分は神だ」と名乗って、原住民を従わせたコミュニティを作っているというエピソードも登場します。原住民へ対する差別意識と山師根性が垣間見えるのですが、こういう白人が一人や二人ではなかったらしいとプログラムにあるのを読んで、ヨーロッパで食い詰めたような怪しげな白人が、未知の土地で何かやったろうという感じで、渡ってきたんでしょうか。一つ間違えば(?)キリスト教を布教した英雄にもなってしまったのかもしれない皆さんの薄気味悪さをこの映画はカラマカテの目を通して、嫌悪感を感じさせる描き方をしています。開拓民と原住民の軋轢については、アメリカへ入植した白人とネイティブアメリカンの対立として、多くの映画で描かれてきていますが、南米への入植者と原住民との関係を原住民の視点から描いた映画は、私には初めてだったので、この映画、大変インパクトがありました。

白人がもたらしたゴム農園とキリスト教により、それまでの文化・生活を脅かされるようになった原住民の生き残りであるカラマカテにとって、白人は敵でしかないのですが、彼は白人のヤクルナ探しに協力します。なぜなのかは、映画の中で明確には語られないのですが、そのミステリアスなキャラクター設定によって、カラマカテはアマゾン一帯の原住民の象徴として描かれています。そして、二人の学者は、侵略してくる白人と原住民との物語の傍観者という位置づけになり、ヤクルナ探しの旅は、歴史を目撃する旅となるのです。

モノクロの映像にしたのは、カラー映像では、実際のジャングルを伝えきれなかったからだと、プログラムに書いてありましたが、確かにモノクロ映像によって、深淵なジャングルを観客のイメージの中に膨らませるのに成功しています。この映画を通して、観客は、この国の風景、人間、歴史へ思いをはせることになります。観るものの想像力をかきたてる映画ってのはそうはないですから、この映画、一見をおススメしちゃいます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



カラマカテとテオドールは、ヤクルナのある場所へとたどり着きますが、そこでは、ヤクルナの木を栽培して、その栽培したヤクルナを皆が楽しんでいました。栽培したものでは、神聖な薬にはならないとカラマカテは憤り、ヤクルナの木に火をつけます。そこへ武装した連中が襲撃してきて、カラマカテやテオドールは散り散りとなります。一方、年老いたカラマカテは1枚だけその葉を残していました。彼はそれを処方して、エヴァンの体に吹き込みます。どうやら彼は色々なことを思い出したようです。そして、テオドールへ渡せなかったヤクルナを贖罪の意味も込めてエヴァンに与えたようなのです。エヴァンが気がついたとき、カラマカテは姿を消しており、エヴァンは一人で帰途へ着くのでした。おしまい。

白人がもたらした文化によって、ヤクルナは俗化し、その神聖さを失います。そして、老いたカラマカテの死を予感させる結末は、それまで受け継がれてきた文化の終焉を思わせるものになっています。白人たちは、この地に様々なものを持ち込んでいるのが伝わってくる作りになっていまして、それは、暴力であり、自然への冒涜であり、人間同士を争わせる過激な信仰であり、継続してきた文化の否定だったりするのです。確かに、白人の持ち込んだ文化による、進化発達もあったとこの映画は語っていますが、その一方で失ったものの大きさに思いを馳せる内容になっています。歴史を見直すことは大事なのはもちろんであるのですが、それ以上に、見る立場を変えることの重要性を再認識する映画でした。それは単に、数の問題ではないということにも気づかせてくれました。もともと、入植者がマイノリティで、原住民がマジョリティの筈なのに、マジョリティの文化が破壊されることの意味はもっと考えるべき問題なのかなって気がしました。(まあ、文化人類学的には自明なことなのかもしれませんが、私には、そこがこの映画を観て得られた発見だったので。)

「この世界の片隅に」はヒロインの成長物語として見応えあり。でもこのリアリティは本当のこと?


今回は、昨年の11月からまだ公開されている「この世界の片隅に」を、川崎の109シネマズ川崎1で観てきました。シネコンでのロングランってのは結構すごいことだと思ってますけど、興収的には「君の名は」の10分の1なんだよなあ。

浦野すず(のん)は広島で育ったのんびりした女の子。ぼーっとしてるところもあるけど絵が上手で、同級生の水原(小野大輔)とほのかな相思相愛。19になったすずは、海軍の書記官である北條周作(細谷佳正)に見初められ、呉市の北條の家に嫁ぎます。夫や義両親から大事に扱われる一方で、小姑の径子(尾身美詞)の当たりはちょっときついけど、呉の暮らしは楽しいものでした。戦争が進むに連れて、物資は不足し、配給も十分でない中で、彼女なりの頑張りで、日々を過ごしていくすず。しかし、戦況が悪化していくと、呉は戦艦が停泊する軍港であったことから、米軍の標的となり、空襲により大きな被害を被ることになります。

クラウドファンディングという全国から支援金を集める方法で製作費を集めたということでも話題になったアニメーションです。2007年から2009年にかけて漫画雑誌に連載された、こうの史代の原作漫画をもとに、「マイマイ新子と千年の魔法」の片渕須直が脚本を書いて監督もしました。映画は昭和8年の広島から始まり、昭和20年の終戦までの、北條すずの人生を描いたものです。作りとしては、短いエピソードをつないだもので、のんびり屋のすずさんの生活を追っていくと、そこに段々と戦争の影が忍び寄ってくるという展開です。とにかく評判がよいというので、それなりの期待を持ってスクリーンに臨みました。

素朴なヒロインの絵柄に、当時の街並みや風景のリアルな再現という仕掛けで、戦前、戦中の空気を見事に表現しています。生活の描写はどこまでリアルなのかは私には判断つかないのですが、当時を知る人の生の考証が得られる最後のタイミングである今、この映画が作られたことはそれだけでも意義のあることではないかしら。当時の習慣や風俗といったものがドラマの中できちんと描写されていて、エピソードの中に切り出されるあの時代の中で、おっとりしたすずさんの真面目な生き様が丁寧に、そしてコミカルに綴られていきます。のんの声は、素朴でのんびり屋のすずさんのキャラクターを見事に観客に投げ伝えてきます。善意の人だけど、時には落ち込んだり、嫉妬したり、怒ったりという等身大のヒロインを共感できる形で描き切ることに成功しています。また、視点をあえてすずさんから逸らさず、全てを彼女目線で描くことで、あの時代の戦争が庶民にとってどういうものだったのかが、おぼろげながら見えてくる映画でもあります。日々の生活目線の視界に段々と戦争が見えてくる怖さの描き方も見事でした。とは言え、全体の割合で言えば、笑えるシーンの方が多く、すずさんの「困ったねえ」「ありゃあ」といったセリフ回しのおかしさもあり、戦争の悲惨さを前面に出した映画ではありません。

すずさんの旦那さんもおとなしい人で、旦那さんも義両親もみな彼女を「すずさん」と「さん」づけで呼びます。昔なら、旦那はもっと威張ってたんじゃないか、嫁は舅姑からもっときつい扱いをされたのではないかという気もするのですが、北條家の皆さんは、すずさんほどでもないにしろ、みんなどこかおっとりした人ばかり。小姑がちょっときつめの物言いをする人ではあるのですが、すずさんをいじめるわけではありません。そんな人たちに囲まれたすずさんの日々は結構楽しそうで、日々の暮らしに追われて幸福感なんて感じることのない、現代の我々からするとうらやましくも思えてきます。ひょっとして、あの頃も幸せに生きたすずさんに名を借りた、戦前戦中もそんな悪い時代じゃなかったというノスタルジー映画なのかなとも見えてきます。この映画では、舅や旦那がすずさんに威張ったり、姑が嫁をいびったりすることも出てきません。それってよく考えると、でき過ぎな家族のように思えるので、余計目に過去の過剰な美化を感じてしまうところもありました。戦後昭和のメディアで描かれてきたこの時代は、軍人が威張って、庶民は汲々として、天皇と戦争が全ての生活の中心だった暗い時代でしたが、この映画を観ると、そうでもないよねということになります。少しずつ歴史が書き換えられているのかなあって気もしちゃうのですよ。特に、この映画だけ観ると、あの頃は、今よりも男尊女卑がなかったように見えるのですが、私にはそうは思えません。奥さんに旦那が威張り散らす老夫婦なんて、ちょっと前にはあちこちで見かけましたもの。

しかし、戦争も終わりごろになると、悲惨なエピソードがたくさん出てきて、戦争(正確にいうなら負け戦)がもたらす災厄がメインとなってきます。でも、戦争にまつわる悲しかったり残酷だったりするエピソードの中でも、すずさんはおっとりしたままで生活目線を崩しません。あれ、すずさんって結構強い人なんじゃねというのが見えてくるのが面白かったです。ああ、この映画はすずさんの日々の暮らしの中に潜む強さを描いているんだなあってわかるのは、映画も終わりに近くなってからです。ずっと、おっとり暮らしてきたすずさんが終戦のラジオ放送を聞いて、心の拠り所を失って泣き崩れるところは、結構ショッキングでした。そっかー、あんなのんびり屋さんでも、戦争の勝利を信じて、辛い日々をやり過ごしてきたのかという驚きと、戦争が終わったことより負けたことが悲しいすずさんへの驚きという二重のびっくりのシーンでした。反戦を前面に出した映画だったら、こういう描き方はしなかったでしょう。でも、当時のメンタリティとしてはそっちの方が自然だったのかなあ。戦後教育では、戦争協力とか戦争賛美が徹底的に否定されていたので、戦前の庶民はみんなが戦争反対だったかのような風潮がありました。でも、実際には、庶民は戦争を賛美し、戦争の負けを受け入れがたい空気を自ら作り出していたのではないかなという気がしています。このあたりは、本当のところがよくわかりません。戦後、みんなが負けた戦争について口をつぐんでしまったので、何が善良だったのか、何が愚かだったのか、庶民は何を考えていたのかがよくわからない、そして、本当のことを言いにくい空気が戦後ずっとあったように思います。この映画が、その時代の真実を突いているのかどうか、私にはよくわからないのですが、この映画が賞賛されればされるほど、この映画で描かれた文化や思想が、当時の真実として未来に根付くかもしれないという気がします。映像、特にこの映画のような素朴な絵のアニメーションのプロパガンダ効果には絶大なものがありますから。

本当のところはどうなのかを置いとけば、この映画はすずさんの成長物語として、大変見応えのあるものになっています。それは自分の強さに無自覚だったすずさんが、生きていくことの強さに気づくお話とでも言うのでしょうか。何も考えずに生きてきたようで、すずさんの持つ強さは、映画の最後には、さらに悲しみや苦しみも呑み込むほどにまで成長しているのです。さて、その強さは誰にでも備わっているのか、誰もがすずさんほどに強くなくちゃいけないのか、そのあたりまで、この映画は示しません。でも、すずさんの強さは、周りの人間も強くしていくと思わせるあたりに、この映画のうまさがあると感じました。すずさんは誰かと出会うことで、成長し、より強くなり、その誰かも強くする。この映画は、そんなすずさんの「出会いと成長」の物語だと思うと腑に落ちるものがあります。とっつきやすいお話で、笑いもあり、泣かせどころも少々で、見応えは十分ということで、おススメできるアニメーションです。実写でやったら、血生臭くなっちゃう部分をイメージ画像で見せたり、セットやCGでやったらお金がかかりすぎる時代描写を絵にすることで、アニメーションならではの映画に仕上がっているところも見逃せません。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



空襲のあった夜から義父が家に帰ってこず、家族は大変心配していたのですが、病院にいたことがわかり、すずさんと姪っ子の晴美が病院へ見舞に行くのですが、その帰り道に空襲に遭います。警報解除後、不発弾の近くを歩いていて時限装置が爆発、晴美は帰らぬ人となり、すずさんは絵を描く右手を失います。そんな中、空襲は頻度を増し、自分の居場所を失ったすずさんはもう広島へ帰ると周作に泣いて訴えます。しかし、そんな日々をやり過ごしているうちに広島に原爆が落ち、すずさんは呉に自分の居場所を見つけるべく、ここに置いてほしいと周作に頼むのでした。戦争が終わって故郷へ戻れば、父母は亡くなり妹は原爆症で苦しんでいました。周作と一緒に広島の街を歩いていると、原爆で母親を失った少女が右手のないすずさんを母親だと思い込んで付いてきます。周作とすずさんは少女を家へ連れ帰ると、少女の体からは虱がいっぱい出てきて、こりゃお風呂沸かさないとね、と、すずさんの家の全景から暗転、エンドクレジット。

かわいい姪っ子と右手を一度に失うシーンはリアルな描写ではなく、爆発で意識を失ったすずさんの夢のイメージショットとして描かれます。比較的具体的な戦争の絵が出てくるのは、最後にすずさんが連れてくる少女の過去の回想イメージで、彼女の母親が血だらけで死に、蠅のたかった母親を置いて、少女が一人で歩き出すところくらいでしょうか。その子が虱まみれというのも、それまでの描写のタッチとは違うリアルな絵となっています。その少女のリアリティとすずさんの未来がかぶるあたりに見せ方の妙があると言えましょう。子供時代は空想と現実の区別がついていないところもあったすずさんですが、戦争を乗り切って、新しい生活へ踏み出すという力強いラストになっていたように思います。

強いヒロインであるすずさんを、おっとりしたキャラに設定したことで、生きていくことの愛おしさを見せることに成功しているのはうまいなあって感心しちゃいました。もっとしっかりしたキャラだったら、生きていくことの強さ、逞しさは強調できたのでしょうけど、愛おしさや共感にまではつながらなかったでしょう。そういう意味では、すずさんのかわいさがドラマに大きく貢献していて、それってアイドル映画の作りにもなってるのではないかしら。

「とうもろこしの島」は静かな映像詩という味わいに引き付けられます。


今回は、2017年の映画初めということで、東京での公開は終了している「とうもろこしの島」を関内の横浜ニューテアトルで観てきました。ここはロードショーの終了した映画を遅れて公開したり、シネコンで公開しない映画を公開してくれる映画館。この映画も、東京の単館公開作品で、ここで上映されなかったら見逃していたでしょう。こういう映画を横浜で上映してくれるのはありがたい限り。「みかんの丘」とか「これは映画ではない」なんていう映画もここで観たのですが、お客さんが入ってないのが気がかりです。今回もお客さんは6人でしたけど、こういう映画の上映をやめてほしくないわあ。

グルジアとグルジアからの独立を図るアブハジアは戦争状態。そんな中で、グルジアとアブハジアの境界にあるエングリ川は、春の雪解けとともに、肥沃な中州を作ります。地元の農民はそこで冬の食料となるとうもろこしを育てていました。春になって川にできた中州に老人(イルヤス・サルマン)がやってきて、そこへ木を持ち込み、小屋の基礎を作ります。次にやってきたときは、孫娘(マリアム・プトゥリシュヴィリ)が一緒についてきます。老人が小屋を組み立てるのを眺めたり、時には手伝ったりもする孫娘。そんなところに通りかかるアブハジア軍のボート。そして、小屋が出来上がると、老人は中州の土を耕し始めます。耕された土にトウモロコシの種をまく孫娘。そして、とうもろこしは芽を出し成長していきます。ある日、とうもろこし畑の中で孫娘は負傷したグルジア兵を発見します。老人は言葉も通じない若い兵士のけがを手当てし、食事も与えます。孫娘はそんな兵士に心を惹かれます。孫娘が兵士に水をかけて、二人がふざけていると、老人がそれを見とがめます。そして、いつの間にか、兵士は姿を消しているのでした。

グルジア出身のギオルギ・オヴァシュヴィリ、ルロフ・ヤン・ミネボー、スグザル・シャタイゼが書いた脚本を、オヴァシュヴァリが監督しました。ほとんど川の中州だけを舞台に、セリフを極力排した、非日常な空間の中で展開するドラマは、現代の昔話のように淡々と展開します。映画の冒頭は、老人が中州に小屋を建てるまでをセリフなしで見せます。これは一体どういう映画なんだろうと思っていると、孫娘が登場して物語が動くのかと思うと、それでも小屋が建って、土を耕して、とうもろこしの種をまくという描写が続きます。その中に、ちょっとだけアクセントになっているのが、川を通りかかるアブハジア軍のボート。そして、川の向こうから孫娘に声をかける若い兵士。でも、そこからドラマが発展するわけではありません。孫娘も小屋に引っ越してきて一緒に暮らす日々が始まるのですが、淡々とした描写の中に絵画のような構図が見えたりして、観客はその映像世界の中に取り込まれてしまいます。

主人公である老人と孫娘に生活感がなく、バックボーンもほとんど語られません。孫娘の両親が亡くなっていて、老人が親代わりだということが示されるだけです。孫娘は最初は人形を持って登場するのですが、一方で女の顔を見せるときがあり、兵士たちからは女として見られるシーンも登場します。この危うげな年頃の孫娘は時としてどきりとするような女の顔を見せるところがあり、老人は彼女に気を使っているようです。主人公二人の描写にはほとんどセリフがなく、まるで昔話の絵本を見るようで、不思議な時間感覚にとらわれます。そこへ兵士のボートが登場すると現実の今に引きずり戻されるのですが、その分、老人と孫娘の時間感覚の麻痺したような空間が際立ちました。

ドラマが動くのは、とうもろこしが背の丈以上に育ってから、敵方の負傷した兵士が転がり込んできたところ。敵方の兵士とわかっているようですが、老人は彼を介抱し、食事を与えます。元気を取り戻してくる兵士に孫娘の方が興味を持ってちょっかいを出し、二人が水辺でじゃれあっているところを老人が見とがめられ、孫娘は中州を追い出されてしまいます。別の日には、アブハジア兵がやってきて、敵兵士を探していると言います。グルジア兵は川の中へ身を潜めてその場はやりすごすのですが、その後、いつの間にか姿を消します。ドラマらしいエピソードはそれくらいで、後はとうもろこしの刈り取りのシーンへとなります。

同じく紛争中のグルジアを描いた「みかんの丘」では、反戦のメッセージをストレートに感じることができたのですが、この映画からは反戦のメッセージは意外なほど感じられませんでした。ただ、静かな中州の時間の流れを破るものとして戦争の影が位置付けられています。川の流れのようにゆっくりと流れている時間に、時折聞こえてくる銃声や、姿を現す重装備した兵士に反戦の空気があるのですが、それは大きな時間の流れの中の微かな揺らぎにしか見えないところが大変印象的でした。映画のクライマックスも戦争と関係ないところにありますので、映画全体の印象は、繰り返される季節と時間の流れを描いた映像詩という感じになっています。オヴァシュヴィリ監督の演出はドラマ性の少ない物語でも、映像の力で観客をぐいぐいと引っ張っていきます。シネスコ画面の映像は、美しい絵を切り取っています。ただ、移動ショットが多すぎたという印象でちょっと饒舌に感じられてしまったのが残念でした。美しい映像はもっと落ち着いた絵でじっくり見せてほしかったと感じてしまいました。まあ、好みの問題ではあるのですが。

主演の老人を演じたイルヤス・サルマンはトルコの俳優さんだそうですが、演技をしていないような存在感を見せて。ドラマの民話のタッチに貢献しています。孫娘を演じたマリアム・プトゥリシュヴィリは、ずぶの素人だそうですが、まるで女優のようなリアルな演技力で、子供と大人の狭間のいる存在が危うげな少女を熱演しています。クライマックスでの彼女の涙がすごくインパクトありました。とは言え、寓話的な味わいからすると、この二人には現実的な存在感が希薄で、一方で兵士を演じた演技陣の生身の存在感とのコントラストが際立ちました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



とうもろこしの刈り取りが遅れたのか、全てを刈り取る前に雨の季節になってしまいます。老人と孫娘がとうもろこしを刈り取る間も雨は降り続け、中州はどんどん流れて行ってしまいます。もう小屋の周りしか陸地が見えなくなり、二人はとうもろこしを積んだボートに乗り込もうとします。孫娘が乗り込んだボートは川の流れに流されてしまい、ボートに乗り損ねた老人の上に潰れた小屋が覆いかぶさります。そして、季節は移り、また新しくできた中州に、別の老人がやってきます。中州の土を掘ってみると、そこからあの孫娘の持っていた人形が出てきます。その泥を払って船に置く老人。暗転、エンドクレジット。

クライマックスは荒れ狂う風雨の中でとうもろこしを刈り取る老人と孫娘のシーンです。川は増水し、中州の畑はどんどん流れて行ってしまうシーンは迫力がありました。貯水池に畑を組んで撮影したそうで、大自然の猛威が老人を呑み込んでいく様を寓話的に見せています。この映画はリアリティとは別の視点で作られていまして、そこに、先述のような現代の昔話の味わいが出ました。それは、アブハジアという国をよく知らないことによる異国情緒なのかもしれません。ひょっとして、あの中州での出来事がアブハジアではよくある当たり前のことかもしれなくて、そうだとしたら、現代の昔話という表現は失礼なものになっちゃいますね。でも、この映画の寓話的な味わい、時間の流れの描き方が好きです。多くを語ることなく、映像で観客を引き付けて最後まで見せ切ってしまうパワーは見事だと思いましたです。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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