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「沈黙 サイレンス」は自明なものが自明でなくなる怖さを描いているけど、クリスチャン向けには説明不足?


今回は新作の「沈黙-サイレンス-」をTOHOシネマズ上大岡3で観てきました。ここは、劇場のキャパの割にはやや画面が小さめという、シネコンにしては珍しい映画館。後ろに座ると画面の迫力がなくなるし、前に座ると画面を見上げることになっちゃうんだよなあ。

江戸時代の初期、激しいキリシタン弾圧のあった長崎で、宣教師のフェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が棄教したという知らせがヴァリニャーノ神父(キアラン・ハインズ)のもとに届きます。フェレイアの弟子であるロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)は、その知らせを信じられず、ガルペ神父(アダム・ドライバー)とともに、フェレイラ神父に会い、日本での宣教活動を続けるために、中国でガイドのキチジロー(窪塚洋介)を雇って、長崎の近くのトモギ村に上陸します。二人はトモギ村のキリシタンから歓迎され、炭焼き小屋に姿を隠して、布教活動を続けます。しかし、トモギ村にも奉行のイノウエ(イッセー尾形)が率いる役人が現れ、村の長であるじいさま以下、4人を人質に連れ去れります。その中で、キチジローだけは踏み絵をして釈放され、残り3人は処刑されてしまいます。これ以上はトモギ村にはいられないと、村を脱出したロゴリゴとガルペ。しかし、ロドリゴはキチジローの密告により役人に捉えられ、奉行所の牢に、他の隠れキリシタンと共に入れられてしまいます。奉行のイノウエは、ロドリゴに対して、キリスト教は日本の風土には合わないと言い、棄教するように勧めてきます。通訳の役人は、ロドリゴはそのうちに棄教するだろうと思っているようです。隠れキリシタンの一人がロドリゴの前で突然斬り殺されます。それをどうすることもできないロドリゴ。キリシタンがこんな辛い目に遭っているいるのに、沈黙したままの神に、彼の信仰も揺らぎ始めるのですが.....。

遠藤周作の原作「沈黙」を、「エイジ・オブ・イノセンス」「ギャング・オブ・ニューヨーク」のジェイ・コックスとマーティン・スコシージが脚色し、スコシージがメガホンを取りました。多くの日本人俳優が参加し、主たるロケを台湾で行っています。ポルトガル人宣教師の受難のお話を日本人は日本語をしゃべるのにポルトガル人は英語という微妙に詰めが甘いかなという気もしますが、向こうの人には、ヨーロッパ人から見た東方見聞録的なお話に見えるんだろうなあ。そう考えると、拷問や処刑満載の映画は、キリスト教宣教師の地の果て地獄めぐりということになるのでしょうね。私たち日本人とは、見え方が相当違うんだろうなあ。とにかくキリスト教の教えを世界中に広めるということに何の疑いも持っていないロドリゴは、キリスト教を迫害する幕府の人間は神の試練のように考えているようです。キリスト教を迫害する人間を悪魔のようには描いていないのは面白いと思うのですが、そう思うのは日本人くらいで、向こうの人から見れば、キリスト教徒を迫害する日本人は悪魔のように見えてるんだろうなあ、きっと。未開の地で、キリスト教徒が徹底的に迫害される地獄絵図の映画なんて、オスカーとかとは無縁のサブカル映画になっているのではないかしら。

キリスト教徒への迫害も単に殺したり拷問するだけじゃなく、宣教師にそれを見せつけ、布教をやめないと、教徒がもっとひどい目に遭うぞと脅してくるのです。お前らがキリスト教なんて持ち込んだせいで、彼らがこんな目に遭うんだぞと言われたら、何のための布教なんだろうと、信念が揺らぐのもごもっとも。ただ、キリスト教の信仰が自明のものである観客には、そのへんの揺らぎがうまく伝わらないんじゃないかなって気もするのですよ。神を否定し、神を信ずるものを虐待する日本人は悪魔にしか見えないのではないかしら。私のような宗教に無縁な人間には、キリスト教という自明なものを否定せざるを得なくなるまで追い詰められるロドリゴには、人間として共感できるものがありますし、もともと八百万の神々がいる日本への侵略の先兵としてキリスト教がやってきたという図式も理解できます。「彷徨える河」で描かれた、現地文化を洗脳するキリスト教という視点も私にはありますので、宗教というものを武器にした国家間のパワープレイというのも見えてきます。でも、この映画は、お国の事情とか、洗脳して入り込む宗教といった視点の説明は一切ありません。

とにかく、ひどい目に遭う信者たちだけが前面に出てくるので、キリスト教が自明である人にとっては、ただの残酷ショーにしかならないでしょう。自明なものが、自明でなくなったときの人間の葛藤の物語として大変面白い映画ではあるのですが、熱心なクリスチャンには、その葛藤の意味すら伝わらないような気がします。何で、クリスチャンに伝わらないのかというと、映画の中盤で、井上から「なぜ、他国にまでキリスト教を広めようとするのか」と質問されたロドリゴが「真理は一つだから」と答えているからです。真理は一つ、真理はキリスト教にあるという確信のもとに、キリスト教以外のものを信じるのは間違っていて、間違いを正してあげようという理屈のようなんです。未開の原住民に真理を教えてやろうという上から目線なのが、気に食わないところもあるのですが、その根っこにあるのは、善意です。また、周囲がみんなクリスチャンという文化で生きてきたロドリゴにとってみれば、キリスト教は、毛一本の疑いの入る余地のない自明なものです。そういう人々に自明なものが、実はTPOによって自明でなくなると、説明するのはかなり大変ではないかと思います。そういう意味で、キリスト教の熱心な信者に向けての映画とすれば、かなり不親切というか説明不足の映画のような気がします。映画を観ていた私が、この映画が転びバテレンの話だったと気づいたのは、ラスト近くになってからですから、キリスト教の信者だったら、この映画のテーマに気づくまでの迫害地獄絵図に、映画への拒否反応が出ちゃうのではないかなあ。

とはいえ、私個人としては、この映画、面白かったです。キリスト教徒の受難に対して、ロドリゴは自責の念にもとらわれてしまいます。殺されたり拷問されるくらいなら、踏み絵をすればいいじゃないと彼は思うのですが、それでも信者の中には絵を踏まずに殺される者もいます。なのに、神は何の救いも希望もロドリゴに与えず、沈黙したままです。ロドリゴはこの葛藤を自分の中に抱え込んだまま壊れそうになります。だって、これまで生きてきた中で一番自明だったものの存在が揺らいじゃうのですもの。クライマックスで、ロドリゴは彼を赦すというキリストの声を聞きます。まあ、そういう声を聞いたと信じるところで、自己崩壊を踏みとどまったということなのでしょうが、それはある意味、棄教という行為への妥協の方便とも取れます。でも、どんな形であれ、神からの赦しがなければ、ロドリゴは生きていくことができないと思うと、宗教ってのも大変だわって、同情しちゃうところがあります。

普通に暮らして、普通に信心していれば、こんな葛藤はないでしょうし、神を信じることで生活が充実していくこともありましょうから、だから宗教はよくないと言うつもりは毛頭ありません。でも、このような極限状態で、人間が人間として生き延びるためには、神様を裏切る瞬間が出てくるのもやむを得ないと感じさせるものがありました。日本人キリシタンとして登場するキチジローというキャラクターが、ロドリゴの行動を正当化させるような立ち位置で登場するのが面白いと思いました。キチジローは、熱心な信者である一方で、役人に追いつめられるとすぐに踏み絵も踏んじゃいますし、ロドリゴの居場所を密告したりもします。それでも、最後までロドリゴのことをパードレとして慕いつづけますし、ロドリゴの方も赦しを乞う彼を受け入れることで自分の心に安らぎを見つけているように見えました。人間同士の絆をとりもつものとしての宗教というのもありなんだなという気になりましたです。

スコシージの演出は、2時間半余の長さをじっくりと、そしてぐいぐいと観客を引っ張っていきます。演技陣では、主役のアンドリュー・ガーフィールドの熱演が光りました。宗教者としての尊厳と、人間としての揺らぎの両面を見事に表現しています。一方で、儲け役ながら、リーアム・ニーソンとイッセー尾形のうまさも印象的でした。キリスト教を否定するのではなく、その限界をロドリゴに示す役どころとして、面白い演技をしているのですが、クリスチャンの人には、彼らの言葉は単なる悪魔の囁きにしか聞こえなかったかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



役人によって捕らえられたガルペ神父は、ロドリゴの目の前で処刑されようとする信者を救おうとして、自ら命を落とします。そして、ロドリゴはフェレイラと引き合わされます。棄教して日本名を持ち、日本人家族も持つフェレイラは、ロドリゴに棄教するように説得します。その説得も拒否するロドリゴは、処刑場に引き出されます。そこでは、すでに棄教した元信者が逆さづりの刑でじわじわと殺されているところでした。ロドリゴが棄教すれば、彼らの命を助けると言われ、踏み絵を目の前にした彼の耳にキリストの声が聞こえてきます。そして、彼は踏み絵に足を乗せ、棄教します。ロドリゴは日本人妻をめとり、フェレイラとともに、輸入品のチェック係をすることになります。そして、日本で一生を終えた彼が荼毘に付されることになったとき、棺桶の彼の手の中には小さな十字架があったのでした。

沈黙する神への不信感と、それでも信じたいと思う気持ちが、彼にキリストの声を届け、何とも形容しがたい余生を彼に送らせることになります。ロドリゴという個人が幕府の力にねじ伏せられたという結末と解釈すると、信仰というのはあくまで当人の個人の問題のようであり、それを幕府が危険なものとして容認できないのは、政治的問題ということもできます。しかし、ずっと自明なものであった信仰は、最後までその灯を消すことはなかったというのは、信仰心のない私にも理解できるものがありました。また、信仰とは突き詰めると個人の選択となるのだという見せ方も面白いと思いました。普通は、そこまで突き詰めることはないですし、その必要もないのですが、この映画では、その普通じゃないことを描いています。それは、当事者にしてみれば愉快なことではない、直面したくないことを描いているので、特にキリスト教の信者の人には、楽しい映画ではないように思えます。何事もそこそこのところで納得できているのが、一番で、究極の選択なんてしたくないよなあってことに気づかされる映画でもありました。だって、神を裏切ったロドリゴを非難するのは簡単だけど、自分があの立場になったとき、原住民を見殺しにして神への忠誠を取るのが正しいことかってやっぱり悩みますもの。いや、でも中には信仰を最優先する人もいるのかもしれないし、それを称賛する人もいるんだろうなあ。宗教、そして神様ってのは人としての倫理を超えちゃうことがありそうですもの。だから、宗教が苦手なのかもしれませんです。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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