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「光をくれた人」は、美男美女と美しいロケーションもいいけど、端正な作りのドラマとして好き。


今回は新作の「光をくれた人」をTOHOシネマズ川崎1で観てきました。ここはシネコンの定番な作りの劇場ですが、もう少しスクリーンを大きくしてくれた方がありがたいかな。

第一次大戦直後、戦争で傷ついたトム(マイケル・ファズベンダー)は、孤島のヤヌス島の灯台守の仕事に志願します。仕事の手続きのために、最寄りの島へ行ったトムは、小学校の校長の娘イザベル(アリシア・ヴィキャンデル)と知り合いになります。厭世的になっていたトムにイザベルは積極的に接していき、そんな彼女の姿にトムも心を開き、二人は結婚し、ヤヌス島で二人の暮らしが始まります。幸せな暮らしが続いていたのですが、子供を立て続けに2人流産したことから、イザベルは傷心状態。そんな時、島に一隻のボートが流れつきます。中には死んだ男と泣いている赤ん坊。トムは、保全局へ連絡しようとしますが、イザベルはそれを押しとどめ、この子を自分の子供として育てたいとトムを説得します。気が進まないトムですが、イザベルに折れて、男の死体を海岸へ埋め、ボートを海へと流してしまいます。それから、2年、娘ルーシーの洗礼のために町へ出かけたトムとイザベル。その時、トムは墓の前で涙を流す女性ハナ(レイチェル・ワイズ)を見かけます。彼女の夫フランクはドイツ人ということで周囲から迫害され、赤ん坊のグレースとボートに乗って暴漢から逃げてそれっきりになっていたのでした。それは、ヤヌス島へボートが流れ着いた前日のことでした。トムは赤ん坊が無事で生きていることを手紙に書いてハナの家へ放り込みます。ハナは娘を探してと警察に持ちこみますが、それだけでは警察は動きません。さらに2年後、ヤヌス島で幸せに暮らすトムの一家のもとに、灯台100周年記念パーティの正体が来ます、そのパーティで、ハナがイザベルに紹介されたことで、イザベルも事実を知ることになります。さらに、トムが赤ん坊が持っていたおもちゃをハナの家に送ったことで、事態は動き出すのでした。

M・L・ステッドマンの小説「海を照らす光」を原作に、「ブルー・バレンタイン」「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ」のデレク・シアンフランスが脚色し、メガホンを取りました。西部戦線で心傷ついた主人公が、静かに暮らそうと選んだ職が臨時の灯台守。しかし、そこで出会った女性に人生の希望を見出して結婚、灯台守の前任者が自殺したことで、正式に採用され、夫婦での灯台守の暮らしが始まります。美しい海と島のロケーションをバックに重いけど見応えのあるラブストーリーが展開します。アメリカを舞台にリアルなキャラクターの描き込みで味わい深いドラマを作ってきたシアンフランスが、今回はストーリー重視のドラマチックな展開での映画を作っているのは意外な感じでしたけど、絵に描いたようなドラマに、主人公トムがドラマに深みと陰影を与えているのは、「ブルー・バレンタイン」「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ」の監督らしいなって感じました。細かいエピソードやカットの取捨選択が見事で、淀みなくドラマを運んでいくところは脚本なのか演出の妙なのか、2時間余の映画に物語がきっちり詰まっている感じは観ていて心地よかったです。ドラマチックな展開を骨太な語り口できっちりと見せる映画を最近観る機会がなかったので、久々に映画ってこういうものだよなあって満足感がありました。

イザベラは2度めの流産の直後で精神的に参っていたときに、流れ着いた赤ん坊を観て、この子を自分の子として育てようと思い立ちます。トムとしては、父親らしき男の遺体もあるし、届け出ようと言うのですが、イザベラはそれを受け入れません。トムとしては、彼女に対する同情と愛情から、それを認めてしまうのですが、実母のハナの存在を知り、さらに心を痛めることになります。ダンナは亡くなったけど娘は生きてることを手紙にしたためて、ハナの家の郵便受けに入れておきます。亡くなったハナのダンナ、フランクはドイツ人で大戦後は周りから差別されて辛い思いをしてきた人なんですが、そんな彼にハナの方からアプローチし、金持ちの父と縁を切ってまで一緒になった仲。生まれて間もない娘グレースと愛する夫を同時に失ったハナの気持ちを思うと、トムとしても黙っていられなかったようです。しかし、ハナの娘グレースは、トムとイザベラの娘ルーシーの娘としてすくすくと育っていきます。誰が悪いという話ではないのですが、落としどころが見つからない展開は、ちょっと意外だけど腑に落ちる方向へと向かっていくのでした。

主役の3人が皆、適役適演でドラマを支えています。マイケル・ファズベンダーは、厭世的になっていた登場シーンから、イザベラと出会って、生気を取り戻すところ、いい感じの二枚目ぶりで演じ切りました。後半、倫理観に悩みながらも一途に妻を愛する様も見応えがありました。相手役のアリシア・ヴィキャンデルは、積極的にトムにアプローチするあたりに奔放な女性観を見せる一方で、その率直さゆえに、トムを板挟みにしてしまう奥さんを生き生きと魅力的に演じて見事でした。ごひいきのレイチェル・ワイズは主役二人の引き立て役である一方、ドラマを行方を左右するキーパーソンであり、かつ敵役になってしまっては意味がないという難役でしたけど、さすがの貫禄というべきか、八方塞がりの中の一筋に光のような役どころを脇役として控えめに演じて見事でした。この人の出る映画はそれだけでチェックしちゃうのですが、今回も期待を裏切らない名演技でした。

アレクサンドラ・デスプラの音楽は、劇中かなりの頻度でドラマチックに鳴っているのですが、それを気づかせないくらいの控えめ采配が素晴らしかったです。こういう題材の映画だと、かつてはジョン・バリーが起用されることが多かったのですが、この映画のデスプラの音楽は、弦の使い方とかピアノとオケのアンサンブルなど、ジョン・バリーを思わせるものがあり、今後、彼がバリーの後継者としてこういう映画の音をつけてくれることを期待させました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



トムがハナの家に置いて行ったおもちゃは、その情報に賞金がかけられ、ついにヤヌス島へ警察がやってきます。トムは逮捕され、娘を盗んだ主犯だけじゃなく、フランク殺しの疑いもかけられてします。子供を奪われて逆上したイザベラは本当のことを証言しません。トムは殺人罪で起訴されることになっちゃいます。一方、ハナの家へ連れ戻された4歳のルーシーは、実名のグレースと呼ばれても受け付けず「私はルーシー、ママに会いたい」と泣きじゃくり、なかなか新しい環境に馴染めません。それでも、子供の柔軟さで、すこしずつハナはおじいちゃんにもなついていきます。トムは殺人の罪で本土へ送られることになります。彼の手紙で、その想いを知ったイザベラは港へ走り、船に乗り込むトムたちに本当のことを告白します。今度はトムとイザベラの両方が投獄されることになっちゃいます。一方、ハナは、亡き夫が迫害されても明るかった頃を思い出し、彼の残した言葉「たった一度だけ許せば、ずっと憎しみを抱くことがなくなる」に、トムとイザベラの減刑を申し出るのでした。そして、30年がたち、イザベラも亡き人となり、一人で静かに暮らすトムのもとをルーシーが娘を連れて訪れます。どうやら、トムとイザベラは、ルーシーに接触しない条件で罪を減じられたようです。トムは、いつか来るであろうルーシーにイザベラが書いた手紙を渡します。「また来てもいいですか」「もちろん」。ルーシーの車を見送るトム。おしまい。

ドラマとしては、亡くなったフランクがすごくいい人だったことから、ハナも憎しみから解放され、トムやイザベラも減刑されるところで泣かされちゃいました。また、ハナの父親が、ルーシーと馬に乗って、「私はルーシーと呼ばれたい」「じゃあ、これからは、ルーシー・グレースという名前で呼ぶね」「いいわ」という会話のシーンにほっこりさせられました。とにかく悪い人が出てこないドラマなのに、事態がどんどん悪い方向へ転んでいくという展開の中で、少しずつ希望が見えてくるエピソードがすごくうれしい感じなのですよ。それも、主役3人でない脇役から出てくるあたりがドラマとしてのうまさを感じました。八方塞がりのようなお話を、フランクの善意や子供の柔軟さが、主役3人の傷を癒していくといういい話なんですわ。そんな中で、トムが最後まで一本貫く愛の形は、女性の観客の涙を絞るのではないかしら。。オヤジな私としては、フランクとハナの愛のドラマにホロリでしたから、人によって、この映画のツボは異なるんだろうなあ。ともあれ、映画鑑賞したという充実感のあった映画として、この映画好きです。美男美女、美しいロケーション、美しい音楽と、こういう映画をもっと映画館で観たいと思わせる映画でした。
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「メッセージ」は重苦しい雰囲気だけどSFらしいSF映画としての面白さはマル。


今回は新作の「メッセージ」を109シネマズ川崎で観てきました。ウィークデーの夜の回だというのに、結構お客さんが入っていてびっくり。地味なSFって印象だから空いてると思ったのですが。

地球上の12か所に突然、巨大な柿の種みたいなUFOが現れます。アメリカに現れたUFOの対応のため、ウェバー大佐(フォレスト・ウィテッカー)は、言語学者のルイーズ(エイミー・アダムス)と物理学者のイアン(ジェレミー・レナー)に協力を依頼します。UFOは18時間おきに下部の入り口が開いて、中に入ると石づくりの広場みたいなところがあって、そこでは重力が歪んでいる状態。そこへ、巨大なタコのようなエイリアンが2体現れるのですが、謎の音声を発するだけで、まるで意思疎通ができません。そこで、音声での会話を置いといて、文字による対話を試みます。すると、エイリアンは文字に反応し、触手の先から煙のようなものを出して、丸い文字のような形を作り出します。ルイーズたちはその図形を表意文字と認識して解析し、彼らとの会話を進めていきます。しかし、各国の足並みは揃わず、中国はUFOへの攻撃を開始しようとしているようです。さらに、各国はお互いの通信を遮断してしまいます。世界が一つになって対処すべき事態なのに。一方、彼女の頭をよぎるのは病気で亡くなっている娘の姿、これは一体何を意味しているのでしょうか。軍の中の過激派がUFOの中へ爆発物を持ち込んで爆発させたことから、政府は現地の部隊に撤退命令を出します。一触即発の状況になっても、会話の糸口を探るルイーズとイアンは、エイリアンとさらに会話を試みます。すると、彼らはこれまで見たこともない複雑な文字の集合体を示してきました。これは、何かを伝えようとしているに違いない。でも、中国やロシアはUFOへの攻撃を開始しようとしていたのでした。

テッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語」を、「ファイナル・デッド・ブリッジ」「ライト/オフ」のエリック・ハイセラーが脚色し、「灼熱の魂」「ボーダー・ライン」のドゥニ・ヴィルヌーヴが監督したSF映画です。世界12か所の突然現れたUFOは、18時間おきにその扉を開き、入った人間と中のエイリアンが会見することを繰り返すのですが、言葉が通じないので、相手がどこから何しに来たのかわからない。でも、攻撃しては来ないので、敵意はなさそう。そんな状況下で言語学者のルイーズが彼らとのコミュニケートのために呼ばれ、エイリアンと対峙することになります。映画の冒頭で、ヒロインに子供が生まれ、その娘が若くして病気で亡くなったことが示されます。そういう過去を持った女性が、エイリアンとのセッションを繰り返すのですが、その合間、合間にも娘のイメージが彼女の頭をよぎります。その娘は彼女に何かを伝えようとしているのでしょうか。

映画はどこか重苦しい雰囲気で進んでいきます。「複製された男」「灼熱の魂」「ボーダー・ライン」など、どれもお話が結構ヘビーなんですが、それにふさわしいヘビーな空気感でドラマを進めていて、それがドラマにうまくフィットしていました。この映画では、ブラッドフォード・ヤングの撮影がわざと焦点深度を浅くして、ピンポイント以外は画面がぼけるという絵作りをしていまして、さらに光源をわからなくした暗めの映像にしていることもあって、何か異様な別世界感を感じさせます。それは、ヒロインの孤立感を浮き立たせることになり、世界規模の大事件を扱っている設定なのに、お話はヒロインのプライベートな世界のお話と展開していくことなります。

エイリアンは映画の前半からその全貌を画面に現しまして、そのタコというかクラゲというか、黒いドゴラみたいなのが、その触手の先から煙のようなものを吐いて文字らしきものを作り出すのです。これは、言葉と文字をテーマにした、意思疎通を題材にした映画なのかなとも思っていると、後半、思わぬ方向へドラマは展開していきます。そして、ラストはなるほど、これはSFだねえって、腑に落ちるのが見事でして、その観客へ挑戦してくるがごとき結末には唸らされてしまいました。なるほど、この映画、一筋縄ではいきません。この映画、かなり面白いですよ。

映画の中盤では、エイリアンの文字をある程度解読するのに成功していまして、そして、何のために来たのかを、彼らの文字で質問するところまで行きます。すると、エイリアンは「武器を提供する」と答えます。武器を提供するって何のこと?彼らは地球人同士で戦争を起こさせようとしているのかなんて展開になってきます。そういう意図を感じられないルイーズは、さらに彼らとの会話を進めようとするのですが、各国は、UFOに対して敵対行動を取り始めます。「とっとと出てけ、さもないと攻撃しちゃうぞ」とまず、宣言するのが中国で、他の国々もそれに追随していきます。

脚本を当て書きされたというルイーズ役のエイミー・アダムスが熱演していますが、この人、色々なキャラを演じてきたけど、こういう知的で孤独なヒロインというのは、私は初めて見ました。こういう重々しいドラマの中のヒロインを演じ切るには線が細いイメージだったので、ちょっと意外でした。また、知的なユーモアを醸し出すジェレミー・レナーというのも意外なキャスティングでして、最近珍しいタイプの映画にふさわしい役者さんが減っているのかもしれないと思ってしまいました。音楽は「ボーダー・ライン」でアカデミー賞にノミネートされたポスト・クラシカルのヨハン・ヨハンソンでして、シンセとシティ・オブ・プラハ・フィルハーモニック・オーケストラにコーラスを加えた編成で、効果音と現代音楽の中間ぐらいの重厚な音を唸らせて、この映画の重量感を出すのに貢献しています。ただ、映画の冒頭とラストでテーマ曲的に流れるのが、同じポスト・クラシカルで有名なマックス・リヒターの曲だったのは、ちょっとびっくり。だって、唯一の明確なメロディを持った聴かせる曲が、音楽担当者のものじゃないんだもの。(ちなみに、このメロディをテーマ曲として使っている映画には、「ディス/コネクト」があります。)

この映画で大きなテーマになっているのは、ネタバレ半分で書いてしまうと、時間の概念です。時間は過去から未来へ流れるもので、その方向は基本は不変です。SF映画では、タイムトラベルとか言って、過去から未来、未来から過去へのワープという見せ方をしているのですが、それは基本は、過去から未来へ流れる時間を前提としたルールの逸脱という概念で捉えられています。この映画では、エイリアンの文字に時制が存在しないことが語られます。そうなると、エイリアンは過去とか未来といった概念を持たないことになります。それだけだと普通のSFなんですが、この映画では、普通の人間が、エイリアンと同じように時間の概念から解放されたらどうなるのかというところまで踏み込もうとしているのが面白いと思いました。まあ、大学の偉い先生たちは研究済のお話なのかもしれませんが、物理学素人の私には、過去や未来の概念がなくなったら人生というものが形而上的にどう見えるのかという問いかけは、結構新鮮なものがありました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



撤退が決まった後も、エイリアンとの接触を試みるルイーズ。彼らがやってきた目的は、3000年後に人類が彼らを救う時が来るので、それまでの人類を救うためなんですって。そして、ルイーズの頭をよぎった娘の姿は、過去の話ではなく、自分の未来なのだということに気づきます。観客も、娘が亡くなったのは過去だと思ってたのに、実は現時点でルイーズは未婚だったことに気づくことになります。彼女は未来にエイリアンの言語を翻訳した本を書きます。その本を思い出して、さらに会話を続けると、彼らの言う武器とは、その時間を超える能力のことらしいのです。未来の世界で、ルイーズは、中国の将軍と会います。そして、彼の口から、ルイーズからの電話が、将軍に攻撃を思いとどまらせたことを知ります。将軍の口から、彼を思いとどまらせた言葉を聞いたルイーズは、現在に戻って、将軍に電話します。そして、中国は攻撃を中止し、各国への情報の開示を始め、各国もそれにならいます。するとUFOは消滅していくのでした。ルイーズは、これからイアンと結婚し、娘のハンナが生まれ、そしてハンナが若くして病気で死ぬことも知っていました。そして、その人生を受け入れる心づもりができているみたいなのでした。おしまい。

クライマックスでヒロインは、自分の未来を見て、現在を変えていきます。いや、現在を変えるという概念もなくなるというべきでしょうか。過去も未来も同じレベルで既に決まっているのをなぞっていくのが人生ということになります。しかし、なぞるという概念自体、過去にあった印をなぞるわけですから、そういう概念もなくなるわけです。このあたりはわかったようなわからないような話になるのですが、時間の概念が変わり、過去や未来といった意識がなくなるってのは、人間の意識の大革命であることは想像がつきます。その人の持つ時間が生きている時間だけなのが人生なんですが、自分の生きていない人生の外の時間も、認識できるようになるのかもしれません。ヒロインはその意識の大革命を受け入れることができたようですが、普通の人には難しいかも。だって、未来は未知、現在の意思決定が未来を変えていくのだというのが、普通の考え方です。それが、未来も過去と同じように決まっているというのは、何だか可能性の芽を摘まれたような気分になります。未来への希望も、過去への後悔もなく、現在を充実して生きていくためには、新しい宗教が必要になるのではないかしら。運命論者になるのとも違う、人生の捉え方をすることで、人間は一つ高い次元へ進むというお話になるでしょうけど、そこまでは、この映画はそこまでは描かれません。そういう意味では、大風呂敷を広げたままで終わっちゃうお話ではあるんですが、色々と考えさせられるという点で、この映画、面白いです。とは言え、ここまで重苦しい雰囲気にする話でもないような。それが、ヴィルヌーヴ監督のハッタリというか、カラーなのかもしれません。

ちなみに、この映画のサントラ盤を買ったのですが、UFOの中の効果音だとばかり思っていた唸り音も音楽だったんだと知って、さらにびっくり。どこまでが効果音か音楽かわからないあたりも、この監督らしいハッタリ演出だったのかも。

「カフェ・ソサエティ」はハリウッド黄金期を懐かしむようでいて、実は普遍的なラブストーリーで、好き。


今回は、新作の「カフェ・ソサエティ」をTOHOシネマズ上大岡6で観てきました。このシネコンは他のTOHOシネマズと比べると、キャパの割にスクリーンサイズが小さいような気がします。

1930年代、ニューヨーク出身のユダヤ人青年ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、ハリウッドの大物エージェントである叔父のフィル(スティーヴ・カレル)を頼って、ハリウッドへやってきます。フィルの雑用係の仕事をもらったボビーは、フィルの秘書のヴェロニカ(クリステン・スチュワート)にハリウッドを案内してもらうことになり、彼女のことが気になって仕方なくなります。でも、ヴェロニカには彼氏がいると軽くいなされてしまってちょっとがっかり。ところが、その彼氏というのが妻子持ちのフィル。でも、フィルは妻と別れることができず、ボビーが、失恋状態のヴェロニカを励ますうちに二人は本当に恋仲になり、結婚を夢見るようになります。しかし、妻との離婚に踏み切ったフィルにヴェロニカの心は揺れ、最後には、彼女はフィルの方を選んじゃいます。傷心のボビーはニューヨークに戻って、ギャングの兄ベン(コリー・ストール)の経営するナイトクラブで働き始めるのですが、ハリウッドで知り合った女性社長のバックアップで、クラブを改装したら大当たり。ボビーは有能な支配人として、ニューヨークで多くの人脈を作って成功します。さらに、クラブの客で離婚直後だったヴェロニカ(ブレイク・ライブリー)と知り合って結婚、子供もできて公私ともに充実した日々を送っていました。ある日、フィルが元カノの方のヴェロニカを連れて、ニューヨークにやってきて、ボビーの店に顔を出したことから、二人の間に昔の感情がよみがえってきちゃうのでした。

ウッディ・アレンが脚本を書いて、メガホンを取った、コメディ仕立てのちょいビターなラブストーリーです。「ミッドナイト・イン・パリ」でパリへの思い入れをロマンチックに盛り上げたアレンですが、今回は、1930年代の黄金期ハリウッドへの憧憬をベースに、ロマンチックなドラマを作り上げました。映画の前半は華やかな夢の都ハリウッドにやってきた青年ボビーのハリウッド成り上がり物語かなとも思わせておいて、その中にボビーとヴェロニカの恋愛物語が出てくると、おや?これはラブストーリーなのかなという展開になってきます。ドラマのキモが見えてこないのは、その他にも、ユダヤ人一家の物語、ボビーの兄ベンのギャング抗争みたいなサブプロットが並行して描かれるからで、後半になってやっとドラマのメインプロットが見えてきます。アレンがユダヤ人だからでしょうか、ユダヤ人ネタがどこかシニカルで笑いを取りますし、邪魔者はみんな殺してコンクリートに埋めちゃうベンの姿もブラックな笑いとして描かれます。夢がいっぱいあったようで、その裏で血生臭いこともあった時代を、冷めた笑いで描いているのがアレンらしいところです。もう80歳になるアレンですが、まだそういう冷めた笑いをやってるんだなあって思う一方、それでもとんがった感じにならないで、まろやかな味わいになっているのは、ベテランの芸なんだろうなあ。

1930年代ハリウッドなのに、ボビーとヴェロニカはルックスや言動が現代風なのが面白いと思いました。時代背景の中で浮いてるのですよ、この二人が。ジェシー・アイゼンバーグもクリステン・スチュワートも今風の見た目とキャラになっていまして、時代感を感じさせないので、主人公二人が現代から1930年代へタイムスリップしたかのような気もしてきます。「ミッドナイト・イン・パリ」とちょっと通じるものがあるのかも。後半、登場するブレイク・ライブリーが時代を感じさせるメイクと衣装なので、さらに二人が際立って見えてきます。そして、ラストは時代を超えた普遍的な恋愛ドラマへと落とし込むあたりにアレンのうまさを感じました。何と言うか、最初はどういう映画かわからないように始まるのに、ラストできっちりロマンチックにまとめてるのが、職人芸的うまさで、観ていて心地良いのですよ。最初、くっついていたカップルが別れて、別の人生を歩むというと「ラ・ラ・ランド」があるのですが(ネタばれご容赦)、私はこっちの方が好きです。こじんまりとまとめた感もあるのですが、必要なシーンを過不足なく積み重ねた後半の展開は、本当にうまいと思いました。こういうタッチの映画をさらりと見せる職人の技は見事で、アレンの次回作が観たくなりました。

今回は、撮影監督にヴィットリオ・ストラーロを招いたというのも売り文句の一つなんですが、これも今までにない絵を作ることに成功しています。1930年代を懐かしむ暖かで柔らかいタッチなのに、画面をよく見ると精細で画面の隅々までをすっきりと見せているのにはびっくり。フィルムではなくデジタル撮影らしいのですが、こういうタッチの映像は初めてでした。アレンの映画は、ちょっとセピアっぽいノスタルジックな絵が多いという印象でしたが、にもかかわらずここまでクリアというのはなかったように思います。

演技陣では、「アクトレス」以来ごひいきのクリステン・スチュワートがここでも抜群にきれいで魅力的でした。ジェシー・アイゼンバーグも現代のあんちゃん風の風貌が、却って、1930年代のドラマの中で、くっきりと浮かび上がり、二人のラブストーリーが際立ってロマンチックに見えるというのは、キャスティングの妙と演出のうまさなのでしょう。この二人以外の面々が、時代を感じさせるキャラクターと風貌で主演二人を盛り立てているという感じで、ロマンチックの見せ方にこういう手もあるんだなあって感心しちゃいました。映画全体を面白く見せて、ロマンチックに盛り上げて、ほろ苦いラストへ落とすという職人芸を楽しむ映画として、この映画、オススメ度高いです。



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フィルがニューヨークに滞在中、ボビーは、元カノの方のヴェロニカを連れてニューヨークを案内します。ボビーがクラブの拡充のためにハリウッドへ行ったときも二人は会うのですが、お互いにまだ好きであることを確認しつつも、それ以上の関係へ進むことをためらいます。ある年の年末、フィルがヴェロニカと一緒にニューヨークにやってきます。会いたいというボビーにそれはできないと答えるヴェロニカ。ボビーのクラブで新年のカウントダウンをしたボビーですが、その目は遠くを見つめていました。一方、同じニューヨークで別のパーティで新年をフィルと迎えたヴェロニカもどこか遠くへ視線を向けているのでした。おしまい。

ラストシーン前に、ボビーの兄のベンの悪行が露見して死刑になっちゃうというエピソードが挿入されます。来世での復活を信じたいベンが、キリスト教へ改宗しちゃうというのが面白かったです。ボビーの母親が「信じてた宗教を捨てるなんて」とお怒り状態なのに、父親の方が「ユダヤ教だと来世がないからなあ」とグチるのも笑えました。そういうおかしさを盛り込みつつ、再会した二人のドラマはシリアスにそして細やかに展開して、ラストでほろ苦い余韻を残して終わります。ラストは、1930年代とは関係ない普遍的な恋愛ドラマに持っていくところにこの映画の味わいがありました。

「幸福なひとりぼっち」の主人公は、高齢化社会においては迷惑なだけの存在になるのでは?


今回は、昨年暮れに公開されたけど、まだ東京でも上映している「幸せなひとりぼっち」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。62席の小さな劇場で、シネスコサイズにするときは、縦にちょっと縮み、横にちょっと広がる作りになっている映画館。

共同住宅に住む59歳のオーヴェ(ロルフ・ラスゴード)は長年連れ添った妻ソーニャを最近亡くして一人暮らし。毎日、共用部分を見回ってチェックしたり、周囲にいちゃもんつけたりするもので、気難しい変人扱いされています。長年勤めてきた鉄道の仕事をクビになったオーヴェは、ソーニャのもとへ旅たとうと首を吊ろうとするのですが、そのタイミングで、隣へ引っ越してきた一家の車が敷地内へ入り込んできたので自殺中断。そこの奥さんパルヴァネ(バハー・パール)が何くれとなくオーヴェに声をかけてくることもあって、何度も自殺にトライするのですが失敗ばかり。その度に頭をよぎるのは、彼のこれまでの人生でした。幼くして母親をなくし、車好きで鉄道員の父親に育てられたオーヴェは、車好きの少年に育ちます。学生のとき、父を事故で失い、そのまま鉄道会社で働き始めます。客車の中で寝込んでしまったときに、ソーニャ(イーダ・エングヴォル)と知り合い、二人は愛し合うようになります。そして、二人は結婚して幸せな夫婦となるのですが、そこにある事件が起こるのでした。さて、現在のオーヴェは、なかなか死ねないでいるうちに、ケガをした野良猫の世話をパルヴァネに押し付けられたり、彼女の子供の面倒を見させられたりしちゃうのですが、どうやら、彼はただの偏屈クレーマーではないことがわかってきます。違法駐輪の自転車を没収したものの、その自転車は、若者が彼女へプレゼントしようとしていたのを知って修理してやったりって、結構いい人なんじゃない? オーヴェって。

スウェーデンで160万人を動員して興行記録を作った映画なんですって。フレドリック・バックマンの原作から、ハンネス・ホルムが脚本を書いて、監督もしています。偏屈な変わり者老人として登場するオーヴェ(老人とは言え、59歳なんですよね、日本だと偏屈老人役としては若すぎる設定ですが、そこはお国柄なのかな。)は、共同住宅でも変人扱いされていて、ご近所さんに怒鳴り散らすキャラとして登場します。それでも、彼は毎日、妻ソーニャの墓を訪れて、妻に話しかけています。どうやら、かなりの愛妻家みたい。でも、43年勤めてきた鉄道会社をクビになり、妻のもとへ旅立とうとするのですが、何回トライしても邪魔が入ってなかなか死ねないというのをコミカルに見せます。隣へ越してきた一家の奥さんパルヴァネはイランから2人の子供を連れてこの国へ来て、スウェーデン人の旦那と結婚して、新しい旦那との子供を妊娠中です。人懐っこい彼女は、とっつきにくそうなオーヴェにも屈託なく声をかけて、色々なことを頼んだりします。そんな彼女に振り回されるうちに、彼女の子供とか、近所の若者といった人々との交流が始まります。もともと人嫌いなわけではなく、曲がったことが大嫌いという性格が、年取って極端な方向へ行ってしまった人のようで、周囲の人のことを「バカめ」と言う一方で、決して嫌っているわけではないので、困ってると助けたくもなるという根っこのところは普通のいい人。

冒頭でオーヴェは毎日共同住宅を見回って、住民がちゃんとルールを守っているかをチェックしています。ルールを守れていない住民には高圧的な態度で臨むものですから、煙たがられてしまっています。ここは、主人公の嫌われ者キャラを説明するために描かれているので、それ以上のツッコミはないのですが、考えてみれば、見回りしてルールが守られているかどうかをチェックしてくれるのは、結構ありがたいことではあります。ただ、このオーヴェは、ルールを遵守しない人をバカと罵倒するのが困りものなので、一長一短というところがあります。昔はもっと近所に怖い頑固オヤジがいたように思うのですが、そういう人間があまりいなくなりました。そこまで、善悪の基準にこだわる人がいなくなったのかもしれませんし、そういうアグレッシブな人を受け入れる余裕がコミュニティになくなってきているのかもしれません。オーヴェはこの集合住宅で浮いた存在ではあるのですが、全ての住人が彼に背を向けているわけではないところがちょっと不思議なのですが、その理由は後半でわかってくることになります。

偏屈じいさん(爺さんというには若いけど)のオーヴェが、職を失い、自殺しようと思い立ったとき、隣に引っ越してきたアラブ系女性パルヴァネとの出会いが、彼に人生の意味付けをしてくれたというお話という感じでしょうか。並行して、オーヴェとその奥さんソーニャのドラマが回想形式で描かれるのですが、それにより、オーヴェの偏屈じいさんじゃない人柄が見えてくるという展開は面白いと思う反面、これって「カールじいさんの空飛ぶ家」の冒頭部をうんと引き延ばした感じじゃね?とも思えてしまいました。ドラマの見せ方として、現在のあまりぱっとしない状況を見せて、実はこの人はこういう過去があってねというのはありなんですが、実は、人生は過去の積み重ねだと思うと、釈然としないものが残るんですよ。今の偏屈さも、過去からの積み重ねなのですから、後半で彼の過去が見えてきたときに、それが腑に落ちるものじゃないと、後出しじゃんけんみたいな反則感が出ちゃうのですね。そういう意味では、ラストですごくいい話に落ち着くのはいいのですが、前半の彼のキャラとうまくつながっていない感じが残念でした。そう考えると「カールじいさんの空飛ぶ家」でじいさんの半生をダイジェストで見せておいて、それでも偏屈じいさんぶりを不自然に見せない演出は見事だったんだなあって、再認識しちゃいました。意外やディズニーあなどりがたし。

日本ではなじみのない役者さんばかりなのですが、その中では朴訥なオーヴェの若い頃を演じたフィリップ・バーグと、奥さんの若い頃を演じたイーダ・エングヴォルが印象に残りました。他の演技陣も適役適演で、コミカルで暖かいドラマを支えています。ハンネス・ホルムの演出は、オーヴェの過去を小出しにする演出でドラマの興味をつなぐのですが、前述のとおり、それが却って、主人公のキャラのつじつまが合わない印象を与えてしまったのは今イチだったように思います。それでも、スウェーデンで大ヒットして、アカデミー外国語映画賞の候補にもなったくらいですから、それなりの評価は得ています。私の見方がひねくれているのかも。後、邦題はどう見ても的外れ。主人公はひとりぼっちだから幸せというわけでも、孤独を楽しんでいるわけでもありません。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



奥さんのソーニャは、若い時にオーヴェと一緒に車に乗っていて事故に遭い、車いす生活を余儀なくされます。もともと学校の先生だったのですが、学校には車いすを受け入れる設備がなくて、教職を失いそうになるのですが、オーヴェは校舎の入り口に自力でスロープを作り、そんな彼の努力もあってソーニャは教職を全うし、多くの人に惜しまれて亡くなったのでした。さて、全身不随のオーヴェの親友は、奥さんが頑張って介護しているのですが、お役所はその彼を無理やり施設に入れようとするのですが、オーヴェたちは役人の不正を盾にして、彼らを追い返すことに成功します。しかし、その後、心臓発作を起こしたオーヴェは還らぬ人となり、集合住宅の住人が彼を見送るシーンでおしまい。

いい感じにまとまっている映画ですが、妻を失ったからと言って、周囲をバカだと見下すようなオーヴェはあまり誉められた存在ではありません。それでも、結構いいところもあるんだよという見せ方は悪くないのですが、ドラマの後半でオーヴェをすごくいい人みたいに持ち上げているように見えたのには違和感を感じてしまいました。奥さんのソーニャがいたから、それなりに許容されていた主人公が、一人になったら結構迷惑な存在になるけど、それでも、彼のいいところをみんなが認めてあげている、そのコミュニティの人々が偉いよねえって感じのお話なのではないかしら。よく、昔は偏屈な頑固じじいがいたという話になるのですが、それを受け入れていたコミュニティの若い世代が偉いのであって、本人は大して偉くないと思っています。これからは、高齢化社会になって、年寄りばっかになるのですから、オーヴェのような偏屈じいさんは、その存在の迷惑度の方が大きくなるのではないかしら。年寄りが少ないから、カバーできてきた時代とは違う現代では、こういうお話は、ファンタジーになってきているのかなって思います。正直、若くない自分としては、年をとってこういうじじいにはなりたくないもんだと、つくづく思うのでありました。

「ライオン 25年目のただいま」は21世紀初頭を描いたドラマとしての存在意義を感じました。


新作の「ライオン 25年目のただいま」をTOHOシネマズ川崎4で観てきました。予告編を観たときはそれほど興味が出なかったのですが、一応オスカーレースに関わってる映画だけに、ささやかに期待しつつスクリーンに臨みました。

1986年のインド、兄グドゥについて石炭泥棒とかして、母子家庭に貧しい家計を助けていたサルーは、兄の夜の仕事に無理を言ってついていこうとしますが、途中の駅ではぐれてしまいます。そして、眠るために入り込んだ貨車は、1000キロ以上離れたコルカタまで、サルーを連れて行ってしまいます。浮浪者として孤児の施設へ収容されてしまうサルー。コルカタの新聞で親探しをしたのですがヒットせず、孤児の里親制度にうまくあたったサルーは、オーストラリアのジョン(デヴィッド・ウェンハム)とスー(ニコール・キッドマン)夫婦に養子として引き取られます。しばらくして、もう一人、施設からマントッシュという少年も引き取られますが、自傷癖の難しい所のある子どもで成人してからもクスリとかに手を出してスーやジョンを悩ませます。一方でサルー(デヴ・バデル)はすくすくと成長し、ホテル経営学を学ぶためにメルボルンの大学へ進みます。ルーシー(ルーニー・マーラ)という恋人もできて、充実したキャンパスライフを送っていたサルーですが、彼の中では、自分をまだ探しているだろう兄や母のことが気がかりでなりません。コルカタから1000キロ以上の距離で、自分のいた場所を探し出そうとするサルー。グーグル・マップとグーグル・アースを使って、自分の足取りをたどろうとするのですが、なかなか自分のいたところを見つけることができません。ルーシーとも別れ、両親とも離れて、故郷探しに没頭するサルーですが、ついに自分の記憶と合致する場所を見つけることに成功するのでした。

実話をもとに、オーストラリア出身のルーク・デイヴィスが脚本を書き、同じくオーストラリア出身のガース・デイヴィスがメガホンを取りました。いちおう括りとしてはオーストラリア映画になるんですって。プロデューサーは英国人ですから、最近は映画も多国籍化していますが、この映画は主要演者、スタッフがオーストラリアってのが面白いところです。でも、映画の冒頭はインドで、幼い主人公が迷子になって、孤児の施設へと送られてしまうお話を結構長く見せます。そして、里親のいるオーストラリアのタスマニア島へ行ってからの成長物語となり、大人となったサルーが、自分の実母と兄に会うべくグーグルアースにのめり込むお話となります。

その昔「ユー・ガッタ・メール」という映画が、パソコン通信というツールを前面に出してラブストーリーを作り、AOLの大いなる宣伝映画(ついでに、スターバックスコーヒーの宣伝にもなってましたが)になっていたのを思い出しました。この映画は、実話ベースとは言え、グーグルの宣伝映画であることは間違いなさそうです。それに、ハッピーエンドであることは、わかりきっているので、そのあたりをどうドラマとして膨らませているのかというところに興味ありました。ともかくも、グーグルってすごいよねというのは、伝わってきましたから、そういう戦略は成功していると言えましょう。何しろ、インドのど田舎まで、グーグルアースは主人公の記憶を追いかけるのですから、そのパワーは恐ろしいものがあります。(昔、グーグルアースで自分の実家を探してみたら、ホントに見つかってびっくりしたことあります。よくも悪くも、そういうご時世なんだなあって。)

実録ものといっても、きっと創作部分はかなり入っているんだろうなとは思うのですが、やはり気になったのは、どうしてそこまで故郷を探すことにこだわるのかという部分でしょう。「母や兄は今も自分を探し続けている」ことに負い目を感じて、故郷探しに没頭するあまり、恋人ともうまくいかなくなってしまいます。サルーは、クスリに走った義理の弟とは違い、優秀な成績で大学へ進学した、養父母にとっては自慢の息子なんですが、そんな養父母への感謝の気持ちよりも、実の母と兄を探すことの方の優先度が勝ってしまうってところが、私にはちょっとついていけないところがありました。確かに「母や兄は今も自分を探し続けている」という理屈はわかるのですが、それなら、もっと幼いうちから、そう思うのではないかと。それが大学に入ってから、そのことに全ての意識を奪われてしまうってのはどうなの?という感じ。まあ、幼いころには、グーグルアースもグーグルマップもなかったから、自分のいた場所を探す手立てがなかったということがあります。だから、グーグルアースというツールができたおかげで、故郷への想いが強まっちゃったということは言えそうです。

部屋にインドのコルカタ(昔はカルカッタって言ってたのが、コルカタなんですって。「軽かったから」なんていうなぞなぞはできなくなっちゃったみたいで残念。)周辺の地図が貼られ、列車に乗っていた時間から、千数百キロの距離で、貯水塔のある鉄道の駅を探すサルーですが、なかなか自分の記憶に残っている風景に出会うことができません。グーグルアースなんていうツールがあるせいで、故郷が見つかるかもという希望を持たされたはいいものの、結局見つからなかったら人生棒に振りかねないくらい入れ込んじゃうのはどうなの?という気もしてしまったのですが、この映画では、そんなサルーの態度に肯定的です。そりゃ結局見つかったから、映画にもなってるのですが、終わりよければ全て良しとは思えなくて。やっぱり、こういうツールはご利益が大きいほど、その裏というか反動も大きいんだろうなって思います。これで、サルーが故郷を見つけられなかったら、引きこもったままになったのではと思わせる展開なんですもの。

それでも、昔なら見つからなかったであろう、サルーの故郷がオーストラリアにいて特定できちゃうってのはすごいことです。そういう時代になったんだなあってのをいわゆるIT的な観点でなく、人間側のドラマとして描いたというのが、この映画の見識ということになるのでしょう。また、インドの孤児をオーストラリアの夫婦が養子にとるというのも、グローバルな現代ならではことですから、21世紀初頭の世界観を描いた映画として、後世に残すべき意味のあるものかもと言ったらほめ過ぎかしら。正直なところ、ドラマとしての面白さはあまり感じず、ガース・デイヴィスの演出も単調に思えてしまったのですが、よくも悪くも21世紀初頭に起きた、その時代を象徴する事件を描いた映画としての存在価値はあると思います。20年後にこの映画を観返した時に、グーグルアースはもっと進歩しているのか、それとも世界は逆にローカライズされているのか、そんなことを考えると、この映画はうまく時代を突いていると言えましょう。

前述の「ユー・ガッタ・メール」で描かれた、パソコン通信の時代からすると、今やメールは、もっとお手軽で同時性の強いLINEとなり、スタバはまだまだ健在で、カフェはコンビニまで浸食してきたわけです。そう考えると「ユー・ガッタ・メール」にも別の価値も感じられて、面白いのではないかしら。

「ゼロ・ダーク・サーティ」や「ローグ・ワン」で大画面で観るにふさわしい絵を切り取っていたグリーグ・フレイザーの撮影は、この映画でも、シネスコの大画面を意識した劇場で観るための映像を切り取っていて、見応えがありました。また、ダスティン・オハロランとハウシュカによる音楽は、最近の映画にしては珍しくテーマを前面に出したドラマチックな音作りが耳に心地よかったです。映画の冒頭で、ドラマが始まる前にきちんとテーマ曲をバックにメインタイトルを流すというのも、最近では珍しい趣向でしたが、それが映画に落ち着きと風格を与えていたように思います。ラストで、母親と対面した本人の映像が流れるのですが、これは必要なのかなあという気もしちゃいました。だって、きっとこの映画は事実を映画化するにあたって脚色してますもの。それを本人を見せることで、作られた部分まで、あったことのように感じさせるのは、実録もの「ドラマ」の客観性を歪めるものにならないかしら。

「マンチェスター・バイ・ザ・シー」はよくできた映画ではあると思うけど、主人公より善意の隣人の方が気になってしまって。


今回は新作の「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を109シネマズ川崎5で観てきました。アカデミー賞で主演男優賞と脚本賞をとったということで食指が動きましたが、あんまり期待するところはない状態でスクリーンに臨みました。

ボストンでアパートの便利屋をやっているリー(ケイシー・アフレック)。仕事はできるが不愛想で評判は今イチ。バーで他の客に因縁つけて殴り掛かったり結構危ない人みたい。そんな彼に、実家のあるマンチェスターから、兄のジョー(カイル・チャンドラー)が持病の心臓病で亡くなったという知らせが届きます。ジョーは離婚していて、息子のパトリック(ルーカス・ヘッジス)がいました。リーは病院へ行き、いろいろな届けを友人のジョージ(C・J・ウィルソン)の協力を得てすませます。持病があったジョーは、万一のことを考えていたようで、リーをパトリックの後見人に指名していました。マンチェスターへ引っ越し資金まで準備してあったと弁護士から聞かされて驚きます。マンチェスターへ戻ったリーを見る町の人々に視線は微妙です。「あー、あのリーね。」って感じ。どうやら、マンチェスターにいたころ、リーには何かあったらしいのです。それは、リーと元妻ランディ(ミシェル・ウィリアムス)の心に大きな傷を残していました。甥っ子パトリックは彼女が二人もいて、アイスホッケーにバンドにといわゆるリア充な高校生活を送っていました。そんな甥っ子の後見人なんか無理だと思いつつも、彼を別れた母親に渡すのも潔しとしないリー、兄の葬儀も済ませて、しばらくマンチェスターにとどまることにしたのですが、果たして、彼のとった選択とは?

「ギャング・オブ・ニューヨーク」などの脚本で知られるケネス・ロナーガンが脚本を書いて、メガホンも取った人間ドラマです。心に傷を持つ主人公が心の安らぎを見つけるまでの物語は大変地味な映画でして、この映画や、同じようなテ展開のドラマ「ムーンライト」といった作品が、2016年のアカデミー賞レースをにぎわわせたというのは、アメリカが今、安らぎとか救いを必要としているのかな。映画は、アパートの便利屋をやっているリーの日常が淡々と描かれ、無表情でいて、時としてキレる危ない男としてリーは登場します。その後、電話で故郷へ呼び返されることになるのですが、病院でジョージや看護師とのやりとりもどこかぶっきらぼうで、今またキレるんじゃないかとハラハラしちゃいました。どうやら、周囲の様子からすると、リーは訳ありの様子で、それも町中の人がそのことを知ってるみたいなんです。映画は、過去の回想シーンをあちこちに交えながら、リーの現在と過去を描いていきます。

リーという人間はいわゆる普通の男らしかったのですが、ある事件をきっかけに人が変わってしまったようなのです。ただの下品で気のいいあんちゃんだったのが、無口で偏屈で一触即発的な空気を持った男になっちゃったのですが、映画は、そんなリーが、甥っ子のパトリックの心配をすることで、少しずつ自分を変えていくというお話になっています。昔見た映画の名言で「他人の心配を始めると自分の心配が消える」というのがあったのですが(これ、映画のタイトル失念しました。ご存知の方いらっしゃるかしら)この映画も、兄の死で自分の苦しみばかり気にしていられなくなった主人公が、とりあえず自分を置いといて、他人のことを考えることで、自分を客観視できるように見えました。

また、人間は一人だといざというときダメなのかなあと思わされる映画でもありました。というより、周囲の人間に支えられてこそ人は生きられるというのをわかりやすい構図で見せた映画ということも言えましょう。ただ、リーは周囲の人間に恵まれていたということは、この映画に希望のファンタジーという側面も与えています。普通の男であるリーに対して、死んだ兄のジョーは人望も厚く、町での信用もありました。ジョーとリーの共通の友人であるジョージもすごくいい人です。そういう周囲の人間に恵まれたからこそ、この物語があり、そこに希望を見出すことができるという点は、すごく重要だと思います。この映画が普通の人だけでは成り立たないというところは、ある種のファンタジーではないかなって気がして。こういう人間ドラマで、どこか問題を抱えた主人公の隣人って、すごくいい人ってことが多いです。目立たないけど、主人公の子供の面倒をみてくれたり、相談相手になってくれたり、そういう善意の隣人って、物語の中で報われることがないのだけど、どこかで報われて欲しいなあって思わせる人。でも、そんないい人って現実にはいないよなあってのが私の見解なので、この映画は、ファンタジー色が濃くなってしまいました。そういういい人に囲まれて生きてきた人なら、この映画を、ダメな人間の自分を取り戻すリアルな物語として受け入れることができるのでしょうが、そこまで性善説になれない私は、この映画にファンタジーを感じ取ってしまいました。うーん、素直に善意の隣人の存在を受け入れらない自分が結構情けないぞ。

演技陣では、アカデミー賞を取ったケイシー・アフレックが、危なげと儚げを共存させた主人公を出ずっぱりで熱演していて見事でしたが、それよりも、再会シーンのわずかな数分で万感の想いを表現したミシェル・ウィリアムスの方が印象に残りました。また、少ない出番で人格者だったことを納得させたカイル・チャンドラーも見事でした。また、ちょっとの出番でお久しぶりのグレッチェン・モルとマシュー・ブロドリックもこの映画のアクセントとしてうまく機能していました。また、レスリー・バーバーの聖歌を思わせる音楽が、静謐な空気をこの映画に運んでくるのに成功しています。マンチェスターの町のインサートカットが多いのも、この映画の静かな空気感を作り出すのに貢献しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



リーとランディの間には3人のかわいい娘がいました。ある晩、酒に酔ったリーが歩いてコンビニへ行って、家へ帰ってみると、家は炎につつまれていて、ランディは狂ったように叫んでいました。焼け跡から二階で寝ていた3人の娘の遺体が発見されます。リーが家を出るとき、暖炉の前にスクリーンを立てるのを忘れたのが原因だったようで、その結果、リーとランディは離婚、リーはマンチェスターを出て、ボストンで便利屋を始めたのでした。リーは事を済ませたらボストンへ戻るつもりでした。後見人になるなら、パトリックも連れていくつもりでしたが、パトリックはマンチェスターに留まりたいとボストン行きを拒否します。どうしたらよいか悩むリーですが、ジョージに頼み込んで、パトリックを養子にしてもらうことにし、ジョーの残した金もジョージに渡すことにします。春が来て、ジョーの遺体を埋葬した後、二人で歩くリーとパトリック。そして、船に乗って釣りに出かけた二人のツーショットから暗転、エンドクレジット。

あらすじだけ書くと味気ないですが、映画は、細かいエピソードの積み重ねで、リーの心の動きを丁寧に綴っていきます。ランディと再会したことで、過去にまた直面してしまって荒れちゃうあたりもリアルでした。ただ、リアルに人間の心の動きを追っていくだけだと、なかなか共感までいかないんだなあってところにも気づいてしまいました。表情を変えない主人公が最後には、少しだけ人生に前向きになるというお話ではあるのですが、どこか人を寄せ付けないリーのキャラクターがスクリーンのこっちとシンクロするタイミングを失ってるって感じでしょうか。同じような展開の「ムーンライト」の主人公は色々な顔を画面に見せることで、その苦悩や怒りに共感できたりもしたのですが、こちらの方は、ああなるほどいるよねえ、こういう人、そういう人をリアルに演じたケイシー・アフレックってすごいねえという感想は持てるのですが、その先の主人公と自分が同じ方向を見て共感するには至りませんでした。こういうドラマなら、もし自分に子供がいて、その子供を自分の不注意で死なせてしまったどうなっただろうなんてことを考えてみたりもするのですが、思考がそこまでいかずに対岸の火事を眺める感じになっちゃったのは残念でした。マンチェスターという町の映像の魅力であるとか、演技陣のアンサンブルであるとか、見どころは結構あるんですが、こちらを覚醒させるまでには至らなかったという感じでしょうか。結局、よくできたお話というところに落ち着いてしまうのかなあ。まあ、映画が心のどこにまで届くかというのは、いわゆる「映画との相性」ということで、観る人によって個人差があるわけですが、そういう意味では、この映画は、私の懐にまで入ってくる映画ではなかったようです。

だからこそ、善意の隣人といった主人公の周りが気になってしまったのかも。善意の隣人であるジョージの葛藤といったものをドラマとして観たいなって思いましたから、主人公にそれほど興味が持てなかったのかな。

「パーソナル・ショッパー」は超自然ミステリーで煙に巻かれます。


今回は新作の「パーソナル・ショッパー」をTOHOシネマズ上大岡2で観てきました。地下鉄の上大岡駅からほぼ直結というところが便利な映画館です。

双子の兄を亡くしたばかりのモウリーン(クリステン・スチュワート)は、セレブのキーラ(ノラ・フォン・ヴァルトシュテッセン)の買い物代行を仕事にしています。なかなかキーラに直接会うこともままならない状況でパリのブランド店を回って、衣服アクセサリーなどを買いまわる日々。一方で、モウリーンの兄は霊媒師で、彼女にもそういう能力が備わっていました。兄の屋敷で、彼からのサインを受け取ろうとするモウリーンですが、彼女の前に現れたのは、兄ではなく、何かさまよっている女性の霊でした。そんな、彼女の携帯に「おれはお前のことを知っている」というメールが届きます。「あなたは死んでるの?生きてるの?」というモウリーンの問いに曖昧に答える相手、確かに彼女の行動をどこかで監視しているかのようなメールなのです。そのメールに何か感じるところがあったのか、彼女からも返事を返して、やりとりをするようになります。「他の人間になってみたいと思わないか?」と何かをそそのかすような文言に、彼女はキーラの部屋で、禁じられていた買った服の試着をするようになります。モウリーンの家へホテルの部屋番号の入ったカードが放り込まれていました。キーラの服を着て、その部屋へ行くモウリーンですが、そこへメールの主は現れません。ある日、キーラのための買い物をして部屋へ戻ってみると、キーラは浴室で惨殺されていて、彼女は警察の尋問を受けることになります。モウリーンにメールしてきたのは、一体誰だったのでしょうか。それは死んだ兄からのメッセージだったのでしょうか。

「夏時間の庭」「アクトレス 女たちの舞台」などで知られるオリヴィエ・アサイヤスが脚本を書いて、メガホンをとった超自然ミステリーです。「アクトレス 女たちの舞台」で大変魅力的だったクリステン・スチュワートを今度は主演に据えて、不思議でいかようにも解釈可能な世界を作り出しました。2016年のカンヌ映画祭で監督賞を受賞したということでも気になっていました。宣伝では、セレブのショッピング代行の部分しか示されていないので、おしゃれなファッション業界の映画かと思っていると、冒頭から夜中の屋敷で霊とコンタクトしようとするヒロインが登場するので、「何じゃこりゃ」的な映画になっちゃったのは、観客にとって、若干不幸なことではないかしら。幽霊ネタだとわかっていれば、こっちもそれなりの心の準備ができましたのに。

また、この映画は、霊的な部分をかなり正面から描いていまして、ヴィクトル・ユーゴーの降霊実験ですとか、神智学と抽象絵画で知られるヒルマ・アフ・クリントですとか、ラップ音を出すフォックス姉妹といった名前が登場します。そういう神秘的なもの、心霊的なものを実在するのかどうか曖昧に見せるのではなく、実際に、画面上に幽霊が登場するので、「え、そういう方向へ行くの」と、さらに驚かされることになります。つまり、死後の霊は存在し、それはその辺をうろうろしているらしい、そんな世界で、ヒロインは謎の相手からのメールに翻弄されることになります。アサイヤスの演出は、各シーンをじっくりと描くことで、あまり感情を表に出さないヒロイン、モウリーンの心の動きを追っていきます。彼女と兄は双子で、同じような心臓の欠陥を持ち合わせていました。兄が心臓発作で亡くなったことは、同様の心臓を持つモウリーンに不安を与えていることは間違いなさそうです。オマーンにいる彼氏とはスカイプで会話するくらいで、クライアントであるキーラと直接会話する機会もほとんどありません。キーラを訪れても話もできず、居合わせたキーラの彼氏であるインゴ(ラース・アイディンガー)との会話から、パリで彼女が孤独な状態であることが見えてきます。

そんなところへ、謎の男(?)からのメールが届きます。彼女を監視しているようなメールに対して、かなりマジに返信してしまうモウリーン。そこまで相手する必要があるのかなと思いつつ、兄とつながりたいけどつながれないヒロインの弱みが、得体の知れないメールにマジ返信しているのかと気づくと、孤独なヒロインが、謎のメールに必要以上に翻弄されるお話なんだというのが見えてきます。「別の人間になってみたくないか」とそそのかされるので、ヒロインに変身願望があるのかとも思えたのですが、どうやらそういうことではなくて、そういうツッコミに弱くなるほど、自分のアイデンティティがあやふやしちゃっているみたいなんです。彼女は、兄と「先に死んだ方が、生きてる方にサインを送る」という約束をしていたという前提があって、兄からのサインを待っているということがあるんですが、それに加えて、他人のお買い物代行というパーソナルショッパーの仕事が、彼女から自我を奪っているように思えてくるのです。自分もあやふやしているし、彼氏もスカイプ越しだし、兄からサインも来ないしという状況で、彼女が自分自身を見失いつつある状況ということが言えるのではないかと。

そんな中で起きる心霊現象って、ひょっとしたら彼女自身の不安定な精神状態が起こしているのかもしれないという解釈もできるようになっているのが面白いと思いました。映画の中の心霊事例として登場するフォックス姉妹というのは霊との交信でラップ音を出すというものでしたが、後年あれは自分の足で出していた音だと告白しています。またポルターガイスト現象が思春期の女の子の身近で起こるので、それは彼女たちが起こしているのかもしれないという説もあります。ラストのヒロインのセリフもその可能性を示唆しているとも言えましょう。そうなると、心霊現象というのは、彼女と霊の相互作用だよねということも言えます。これは、この映画がどうとでも解釈できるような作りにしているから言えるのです。何しろクライマックスのところで何が起きたかを見せないという技を使って、観客を煙に巻いているくらいですから、ホントのところは、ヒロインにも観客にもわからないのですよ。それでも、ラストまで観客を引っ張っていくところが監督賞の所以なのでしょうけど、こういう、本当のところは誰にもわからないという作りの映画をギリギリのところでエンタテイメントに見せているのはやっぱりすごいのかも。ヒロインがきれいな裸を見せてくれるのも眼福でしたし、ヨリック・ル・ソーの撮影は、陰影と奥行きのある絵作りで美しい絵を切り取っています。最後まで、腑に落ちるところのない映画ですが、たまには映画に煙に巻かれるのも面白いかもということで、そういう覚悟でスクリーンに臨めば結構楽しめるのではないかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



モウリーンが自分の部屋でいたとき、例のメールがいくつも届いていました。そして、その主は彼女の部屋の前まで来ていたのです。そして、ドアの下から、またホテルの部屋番号が書かれたカードが差し込まれていました。彼女は、そのホテルの部屋へ出かけます。部屋に入るとまたラップ音が聞こえてきたようです。その直後、誰もいないのにホテルのエレベータのドアが開き、出口の自動ドアが開閉します。そして、その後、キーラの恋人だったインゴがエレベータを出て、ホテルを出るのですが、警察に連行されそうになり彼は銃を発砲して逃げようとします。モウリーンは、兄の奥さんの家へ転がり込みます。そこで、奥さんの新しい恋人と会話するのですが、その後ろを謎の人影が通り過ぎ、彼女が気づいたとき、グラスが割れていました。そして、彼女は恋人に会うためにオマーンへ向かいます。部屋は案内されたモウリーンが隣のドアを開けるとグラスが浮いていて、それが落ちて割れます。ラップ音がして、それは彼女の質問に呼応して響きます。それは兄の霊なのでしょうか。彼女にも確信が持てません。「それとも、全て私の気のせい?」暗転、エンドクレジット。

どうやらメールを送ってきたのはキーラの恋人だったインゴで、彼がキーラを殺したようです。ですが、モウリーンがインゴに呼ばれて行った先のホテルの部屋で何が起こったのか映画の中では描かれないのですよ。透明人間がホテルを出て行ってような絵が挿入され、その後、ホテルを出ていくインゴの絵となります。兄の霊がホテルを出て行ったのか、モウリーンが霊となってホテルを出て行ったのか、そのあたりはよくわかりません。兄の奥さんの家で、モウリーンの背後にグラスを持った男の姿が映り、その後、グラスが割れて、彼女が振り向くというシーンが登場するのですが、この男の正体も不明です。ただ、この男の姿をモウリーンは見ていないので、客観的に存在する霊の姿ということはできましょう。そして、ラスト、ラップ音でモウリーンに存在を誇示する謎の存在は、兄の霊なのか、別人の霊なのか、はたまた彼女が無意識で起こしている現象なのか、これもはっきりしないまま映画は終わります。

結局、彼女はオマーンまで行っても、何かにとりつかれたままということになります。でも、ひょっとして、それは無意識のもう一人の彼女自身かもしれない、という解釈の余地を持っているのが面白いと思いました。映画の中で示される「別の自分になりたいか」というのは、「もう一人の自分」という伏線ではないかということです。そして、双子という一心同体的な関係を考えると、「もう一人の自分」というのは双子の兄のことなのかなという気もしてきて、こうなると思考は堂々巡りになっちゃいます。でも、その堂々巡り感が監督の狙いなのかもしれないという気もしてきます。だって、どうとでもとれる映画になってるんだもん。

「ムーンライト」は黒人ゲイの少年のお話だけど素直にドラマに入り込めて見応えありました。


今回は新作の「ムーンライト」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。来年にはTOHOシネマズ日比谷ができるんだそうで、そうなると、ここはなくなっちゃうのかなあ。シネマスクエアとうきゅうと並んで、ミニシアターの先駆けの映画館なんだけど、ここのラインナップがそのまま新しいシネコンへ移行してくれればいいのですが、新しいシネコンが学園ラブコメとアニメばっかになっちゃったら困るしなあ。

シャロン(アレックス・ヒバート)は、学校ではいじめられっ子。悪ガキに追いかけられていたのを、麻薬のディーラーであるフアン(マハーシャラ・アリ)に助けられます。シャロンの母ポーラ(ナオミ・ハリス)はヤク中で、家に男を連れ込んでいるような人で、シャロンはフアンの家に通うようになります。無口でいじめられてばかりのシャロンのことを唯一気遣ってくれるのはケヴィンだけでした。高校生になってもいじめの対象にされているシャロン。ポーラはフアンがシャロンにくれたお金にまでたかる始末。そんなシャロンが夜の浜辺でたそがれていると、そこへ現れたのはケヴィンでした。ケヴィンに惹かれるものを感じていたシャロン、そして二人はいい雰囲気になります。しかし、学校でいじめのボスが、ケヴィンにシャロンを思い切り殴るようにけしかけます。シャロンを殴って、「もう立つな」というケヴィンに、何度も立ち上がってくるシャロン。そこへ大人たちがやってきてシャロンを助けるのですが、彼はケヴィンもいじめの張本人も告発することを拒否します。そして、教室へ向かったシャロンは、いじめのボスの後ろに立つと振り上げた椅子で思いきり殴りつけるのでした。

今年のアカデミー賞で、作品賞、脚色賞、助演男優賞を受賞した話題作です。タレル・アルバン・マクレイニーの書いたストーリーをバリー・ジェンキンスが脚色し、メガホンを取りました。娯楽映画っぽくなさそうな気がしていたのと、黒人のゲイの映画らしいくらいの予備知識で、あまり期待はしないでスクリーンに臨みました。ゲイを差別する気はないのですが、男同士のディープキスなんて見たくないぜというくらいの嗜好を持った私としては、ねっとりラブシーンを10分も見せられたらかなわないと思ってました。R15+指定ということはそっちの描写があるんじゃないかと身構えてしまうところがあったのですが、幸か不幸かそっちの生臭い描写はなかったので、一安心。R15+になったのはドラッグディーラーが主要な登場人物にいたからのようです。R15+だからオネエチャンのヌードを期待すると、ただマリファナをふかすシーンがあるだけでガッカリなんてのはよくあるパターンですが、中学生にドラッグ見せるのはそんなにダメなのかな、そっち方面のバカさ加減は中学生も高校生も似たようなもんだと思うのですが。

主人公のシャロンは幼くして、オカマ呼ばわりされちゃっている弱々しいタイプで、そのせいもあっていじめのターゲットにされちゃってます。偶然知り合った麻薬ディーラーのフアンが彼を家に招待し、食事までおごってくれたことで、家や学校でつらいことがあったとき、彼はフアンを訪問するようになり、フアンは「自分の人生は自分で選ぶんだ」と励ますのでした。フアンが麻薬ディーラーであり、シャロンの母親もそのお客だという構図は皮肉な感じもしますが、家でも学校でもその存在が疎んじられるシャロンにとってフアンとその妻(愛人なのかな?)の存在は、彼の人生に大きな希望を与えたように見えます。一方でオカマ呼ばわりされるシャロン本人は実際にゲイだったようで、同級生のケヴィンに想いを寄せるようになります。高校生のシャロンとケヴィンが夜の浜辺でその想いを交わらせるシーンが切なくて美しく撮られているのが印象的でして、友人関係が、それ以上のものへなっていく過程は、ストレートもゲイも同じだねって見せ方がよかったです。

それでも、ケヴィンはいじめっ子にそそのかされてシャロンをボコボコにしちゃいます。何度倒されても立ち上がってケヴィンを見据えるシーンは、なるほどこういうシーンも愛情表現として描けるんだなってところが発見でした。その後、シャロンが不意打ちの逆襲に出るシーンはなかなかショッキングでした。そこまで何度いじめられても反抗しなかったシャロンが初めて怒りの感情に駆られる、そのきっかけがケヴィンへの想いだったというところに、この映画の面白い視点を感じました。愛情が暴力への引き金になるというのは、普通の状態ではまずないのですが、ここではいじめられっ子の極限状況で爆発するというのが、なるほどなあって感心してしまいました。しかし、そんなことをすれば、ただでは済むわけもなく、彼は逮捕され、更生施設へ送られてしまうのでした。

映画はシャロンといういじめられっ子のちょっと変わった半生を丁寧に描いていきます。麻薬ディーラーのフアン、ヤク中の母親、ストレートに見えるケヴィンといった、彼を取り巻く人間が、リアルな存在感を見せる一方で、シャロンは自我を前面に出すこともなく、流されているようにも見えます。フアンが言う「自分の人生は自分で選択する」とは程遠い生き方しかできず、この後もそうなっちゃうんだろうなあという見せ方は、救いがないのですが、ラストで一縷の希望と安らぎを見せるところが、この映画のうまさだと思う一方で、これって「ラ・ラ・ランド」のファンタジー感に近いものがあるなあとも思ってしまいました。黒人、ゲイ、貧困、いじめられっ子というマイノリティの四天王の半生を描きながら、そこにどこか落ち着きというか安らぎの瞬間を見せるあたりがアカデミー賞にはまったのかなという気もしました。同じような八方塞がり的主人公の映画として「プレシャス」という映画もありましたが、こちらはちょっと気取った映像と音楽で、イメージビデオの味わいもつけているところが、違うのかもしれません。変に期待を持たせることもせず、突き放すこともしない距離感の取り方が、この映画に安らかな余韻を与えています。

演技陣は、各々のキャラクターを好演していまして、フアンを演じたマハーシャラ・アリは、儲け役ながらこの演技でアカデミー助演男優賞を受賞しました。(彼がムスリムだというところに政治的匂いも感じるのですが、この映画での彼の存在感は見事でした。)ナオミ・ハリスは撮影期間たった3日の参加というのが信じられないほどのインパクトがある演技でした。また、成人したシャロンを演じた も複雑なキャラクターを繊細に演じ切って見事でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



麻薬のディーラーをしているシャロンに、コックをしているケヴィンから思い出したように電話がかかってきます。元気にしているかという電話でしたけど、シャロンは思い切って地元へ戻り、シャロンのダイナーを訪れます。再会を喜ぶケヴィンですが、見た目が全然変わったシャロンにちょっとびっくり、さらに麻薬のディーラーをしていることにかなりびっくり。更生施設で知り合った男から、この仕事を世話されて、その中でのしあがったんだそうです。前半のシャロンを知ってると別人みたいなシャロンに、相当なことがあったんだろうなあってのが想像つくのですが、そんな彼も、ケヴィンからの電話に会いに出かけるのは、彼への想いが消えていないようです。アルコールで酔ったシャロンは、ケヴィンの家へ向かいます。そして、シャロンは「オレに触れたのは、お前だけだ」とケヴィンに告白するのです。驚いたような表情のケヴィン。そして、二人が寄り添うカットになって暗転、エンドクレジット。

シャロンは更生施設で生き残るためにゲイであることを隠し、ドラッグのディーラーの仕事につくことになります。久しぶりに再会した母親は、過去を悔いて、それでもお前を愛していると涙を流します。何を今さらなんですが、それでも母親は母親だという見せ方は、面白いと思いました。肉親ってのは選べないだけに面倒くさいというところがあるのですが、それでも見捨てられないのかなあ。そんなシャロンが、張りつめていたものを、ケヴィンの前だけでは、自分に戻れるという見せ方で、ケヴィンが辛い人生の中のささやかな安らぎになっていた、という結末は切ないものがあります。でも、そんな一方で、自分が自分に戻れる人間がいるということはうらやましいとも思えてしまいました。

リアルなハードな人生を詩的な映像で見せていく手法が成功していましたが、それをサポートしていたのがニコラス・ブリテルの音楽でして、メインのテーマを押し出す音作りではないのですが、ドラマの合間合間に環境ビデオのような映像と音楽が挿入されて、そこで映画の生臭さをうまく抑えているという感じでして、ゲイものが苦手な私でもドラマにのめり込むことができました。

「バーニング・オーシャン」は実録ディザスター映画として見応えあり。


今回は新作の「バーニング・オーシャン」を川崎の109シネマズ川崎3で観てきました。ここは座席配置とスクリーンがずれているので、ちょっと左寄りに座るとスクリーンの真ん中のポジションを取れる映画館。

2010年、トランスオーシャン社の石油採掘技師マイク(マーク・ウォルバーグ)は、メキシコ湾にある石油発掘施設ディープウォーター・ホライゾンへと向かいます。妻(ケイト・ハドソン)と娘と離れて3週間の勤務となるのですが、現場は何だか変な空気。スポンサーであるBP社が日程の遅れにじれていて、テストを端折って採掘をすすめようとしていました。主任のハミル(カート・ラッセル)は、BP社のウィドリンに怒鳴りこんで、きちんとテストをするようにと段取りをとり、まず負圧テストを行うのですが、ここで思うような結果がせず、さらにテストを進めることになります。マイクやハミルが現場を離れたとき、テストは実行されるのですが、その結果から泥水採取作業にゴーサインが出ます。しかし、その直後、大量のメタンガスと原油が吹き上がってきます。作業員たちは何とかそれを止めようとするのですが、ガスに引火し大爆発が起こり、施設全体が炎に包まれてしまいます。シャワーを浴びていたハミルは爆発のショックで吹っ飛ばされて重傷を負いますが、マイクによって助け出されます。次々に救命艇に乗り込む作業員だち。SOSを受けた付近の船舶や、警備隊のヘリも駆けつけるのですが、最終的に11人の犠牲者が出てしまいます。2億1000万ガロンの原油が流出し、大きな環境破壊を招いた大事故となってしまうのでした。

実際に起こった事件をもとに、マシュー・サンドがストーリーを書き、サンドとマシュー・マイケル・カーナハンが共同で脚本化し、「バトルシップ」「ローン・サバイバー」のピーター・バーグが監督しました。いわゆる実録ディザスター映画になるのでしょうが、監督がどんな映画にも冷めたヒネリを入れてくるピーター・バーグというところに食指が動きました。この人の映画は、単純な構成のものが多く、シンプルなプロットで観客をドキドキハラハラさせてくれる職人である一方で、そこにメインからすこしずれた視点を持ち込むことで、シニカルな面白さも上乗せして、観客を楽しませてくれます。この映画も、マーク・ウォルバーグ、カート・ラッセルといったタフガイ系アクションスターを使いながら、ほとんどヒーローらしいことをさせないことで、リアルなディザスター映画を見せることに成功しています。

まず、この事故の原因を、映画の中では、その映像を見せるだけでほとんど説明しません。そこを絵解きしないのかよとも思うのですが、後付けの審問会といったものは見せないで、事件当日の動きだけを見せる構成になっているので、この災害が、人災なのかどうかもよくわからないのですよ。掘削のやり方に問題があったのかどうかも具体的には見せず、ただBP社が40日以上の作業遅れを取り戻すことを最優先して、安全を後回しにした、ようにも見える程度の表現になっています。これは、今も原因について係争中だからなのかなとも思ったのですが、本当のところは何が原因だったのかしら。とにかく、テストはしてから作業しているのに、結局事故は起こったということ。そこで、うかつなことを描いて、BP社のせいと名言しちゃうと裁判沙汰にでもなっちゃうのかな。だから、何となく雰囲気で人災っぽく見せるのが精一杯だったのかも。とか、いろいろと考えてしまうのですが、どっちかというと、災害は思わぬところで起こるよねという見せ方になっているのが、この映画の視点なのかも。

また、主演2人が実際に事が起こったときにそこに居合わせていないというのも面白い作りでして、それなら、現場にいた人間を主人公にしたドラマにすればいいのにと思うのですが、そこはわざとはずしているって感じなんですよ。会社側に啖呵切った主任は、怪我して全然活躍せず、マイクも現場が大変なことになってるときに何してるのかと言えば、家族とスカイプと話し込んでいて、外のことにまるで気づきません。一応、マイクはクライマックスでちょっとだけヒーローっぽい行動をとるのですが、ほとんど人間は起きた災害になすすべがなく、逃げるのが精一杯。そんなようすをバーグの演出は淡々とスリリングに見せます。「淡々」と「スリリング」というのは相反する感じなのですが、事件をそのまま描いているだけなんだけど、観客をとらえて飽きさせないのですよ。娯楽職人としてのうまさが光る演出になっています。途中、みんなを助けるために犠牲になる作業員が誰だかわからないのが、リアルに印象的で、結構泣かせるのですよ。

原油が噴出して爆発するところは、なかなかの迫力ある見せ場になっています。原油噴出シーンは作業員が吹っ飛ばされるあたりのリアルな映像は見ごたえがありましたし、炎のシーンも結構危なげに見せるあたりはうまいと思います。最近の爆破シーンのCG然とした絵に慣らされているせいで、炎のエフェクトはどうせCGなんでしょって冷めて見る癖がついてしまったのですが、ドラマの演出次第で、それがCGかどうかが気にならないというのは、ちょっとした発見でした。演技陣はみんなドラマの中に溶け込んでいて、誰が突出することもないアンサンブルをつくっていまして、役者よりも、事件を見せたい映画なんだなってのが伝わってきました。クセの強いジョン・マルコビッチがちゃんとアンサンブルの中におさまっているのは演出のうまさなのでしょう。

「トランスフォーマー」などで王道のオケ音楽を鳴らしてきたスティーブ・ジャブロンスキーが、今回はシンセ中心のどちらかというと無機的な音作りになっているのが以外でして、ドラマを盛り上げることをあえて避けた演出にうまくこたえているように思いました。ディザスター映画というと、私の世代では「タワーリング・インフェルノ」「大地震」などの多くの登場人物のグランドホテル形式のドラマという印象が強いのですが、そういう映画の味わいもありつつリアルな実録ドラマとしてうまく作ってあります。まず、事件の再現があって、そこにスペクタクルを盛り込んで、さらにリアルな人間のリアクションを積み上げるという作りで、なかなかの見応えの映画に仕上がっています。いわゆる前半から突っ走るノンストップムービーではなく、前半は登場人物のドラマをきっちりと見せる作りは、今の若い人には退屈かもしれないけど、ちょっと懐かしい味わいもあり、主人公達がヒーローにならない面白さもあって、印象に残る一品となりました。

「伊福部昭百年紀 VOL5」は怪獣映画ファンにはうれしいコンサートでした。

今回は映画ではなく、映画音楽のコンサートです。渋谷の大和田さくらホールで行われた「伊福部昭百年紀 VOL5」へ行ってきました。「ゴジラ」「座頭市」などの映画音楽で有名な伊福部昭の生誕百年を祝って、昨年から彼の映像作品の音楽をコンサートで演奏するという企画がありまして、そんお第5弾ということになります。私は、この企画のVOL1,3,4を聴きに行ってます。SF、ファンタジー系映画を中心に演奏されるのが楽しく、今回もそこそこの期待をして行きました。これまで、ずっとこの企画で演奏してきたオーケストラ・トリプティークの演奏で、松井慶太が指揮をしています。これまでのコンサートよりやや編成が小さいのかなという気もしたのですが、なかなかに聞かせどころを心得た演奏で、コンサートを堪能できました。ゲストとしてゴジラシリーズ中期の特技監督の中野昭慶監督が、「クレヨンしんちゃん」のムトウユージ監督とプレトークを行い。中盤では、「ゴジラ」「キングコングの逆襲」の主演者である宝田明氏のトークがあり、彼のためのハッピーバースデーをオケと客席が演奏するという趣向もあり、この企画のファンにはうれしいイベントのおまけもありました。

演目は以下の5つの組曲でした。

1、「PR映画」組曲
伊福部昭は、純音楽以外では、劇映画や記録映画、さらに舞台のための音楽を書いているのですが、その中には企業PR映画のための曲も書いているのだそうです。そのPR映画のために書かれた音楽をまとめて組曲にしているのですが、もとのPR映画がどういうものかわからないので、彼のモチーフ集として聞きました。ある意味、珍しい選曲ということもできるのでしょうが、他の映画で聞いたモチーフもたくさん登場するので、映画のイメージを知らないと楽しめないところもありました。何しろ、多作の伊福部昭の映画音楽では、同じモチーフを色々な映画で使っているので、その映画を知っていてこそ楽しめるものが多いのですよ。まあ、自作のモチーフの流用ということになるのですが、私は、映画の中で最大の効果を出すのであれば、そういうことをしても構わないと思っています。ただ、アメリカのジェームズ・ホーナーが自作の流用をするとバカにしたような評論をする人が多いのに、伊福部昭にはそういうイチャモンをつける人を見かけないのは、フェアじゃないなあって思っています。やってることは同じなのに、扱いが違うのは、映画音楽界ってのは権威主義なのかなあ。


2、「大魔神」組曲
1966年に大映で、「大魔神」シリーズ3作が公開され、3本とも伊福部昭が音楽を書いています。その3本の中の第1作の音楽を組曲にまとめています。第1作は本編演出もあって、時代劇映画としてのカラーが濃い作品なのですが、音楽はオープニングから、低音楽器をフルに鳴らして、スケールの大きな恐怖映画の音を作り出しています。クライマックスでは、低音楽器とパーカッションを中心にオーケストラ全体を鳴らす音づくりで、目いっぱいの盛り上げを聞かせます。編成が大きくないことで、個々のパートが団子状態にならずに、各々が明確に主張してくる演奏になっているのが見事で、このコンサートの中で最も聴きごたえのある一品に仕上がっています。これまで、聴いてきたコンサートの中では、オーケストラ全体を前面に押し出して鳴らすという演奏が多かったのですが、その演奏にこのオーケストラ規模がうまくマッチしていたように思います。(私は音楽とかオケにくわしくないですから、あくまで素人の感想ということでご容赦ください。)

3、「キングコングの逆襲」組曲
面白い設定で、キングコングを東京で暴れさせたという点はよかったのですが、善玉対悪玉の人間ドラマがあまり面白く弾けなかったので、映画としてはまあそこそこという感じの「キングコングの逆襲」の音楽を組曲としてまとめたものです。個人的には、ゆったりとした南国ドラミングから始まるスケールの大きいタイトル曲とコングとヒロインが絡むシーンの曲が好きなので、そこを楽しみにして聞きました。

で、ここで休憩。伊福部昭の映画音楽コンサートなのに、前半では、一切マーチ(実際にはマーチではなく、アレグロって言うんですって)が登場しないことにびっくり。マーチなしでも、聞かせるんですよ。演目の随所にオーケストラ全体をぶん回す聴かせどころがあったってこともあるんですが、ガンガン音が前面に出てくるのが楽しく、こういう音楽があったから、子供のころ、怪獣映画が楽しかったんだよなあって改めて納得しちゃいました。

4、「怪獣総進撃」組曲
東宝がゴジラ映画に終止符を打つべく作った怪獣てんこ盛り映画の音楽です。(まあ、これがヒットしてゴジラ映画は続くことになるんですが。)子供のころ、この映画のソノシートを持ってまして、その中のドラマのバックにタイトル曲や東京襲撃シーンの曲が流れるのを擦り切れるほど聴いてたものですから、懐かしさもひとしお。とはいうものの、前半の重厚なフルオケぶん回し音楽に比べると、怪獣総進撃マーチは曲調も演奏もどこかお行儀がいいというか、小さくまとまった感じがしちゃいました。なるほど、ハッタリを効かせる音だと、この編成のオケがいい方に作用するんだけど、きっちり整った楽曲だと編成の小ささがそのまま音に出ちゃうという感じなのかも。後、追加されたキーボードの音がコンボオルガンとは違う音色でしっくりこなかったのも残念。

5、「伊福部昭 百年紀」組曲
最後の曲は、今のところの最新作「シン・ゴジラ」の中で使われた伊福部昭の音楽のメドレーです。鷺巣詩郎が音楽担当してるのに、既成の伊福部の曲をあちこちで使い、何とクライマックスまで、伊福部サウンドにしちゃった音楽演出には、古くからのファンである私なんかな文句タラタラなんですが、逆にオリジナルを知らない世代には「かっこいい音楽」として好評なようです。個人的には「メカゴジラの逆襲」のテーマ曲が生演奏で聴けるのがうれしかったです。また、このメドレーには、「シン・ゴジラ」に使われていない「宇宙大怪獣ドゴラ」のマーチも入っているのですが、当初の予定では、この曲もクライマックスで使われる予定があったらしいです。ともあれ、最後の楽曲ということもあるのでしょうが、演奏にも力が入っていまして、「宇宙大戦争マーチ」から「宇宙大怪獣ドゴラマーチ」へ展開して、「怪獣大戦争マーチ」になり、最後を「ゴジラVSメカゴジラ」のテーマ曲で締めるところが大変盛り上がりました。音作りがコンサート用というよりは、オリジナルをかなり忠実に再現した演奏になっているのが、うれしい聞き物でした。

で、アンコールは「怪獣総進撃」のクライマックスか、最後の組曲の「怪獣大戦争マーチ~ゴジラVSメカゴジラテーマ」のどちらかを会場の拍手で決めるということになり、後者のフルオケぶん回しの盛り上げ音楽がアンコールとして選ばれたのでした。めでたしめでたし。

伊福部昭のSFファンタジー系の音楽は、この5つのコンサートで掘りつくした感があり、VOL6があるかどうかは、あまり期待できそうにありません。ただ、7/30に同じホールで「佐藤勝音楽祭」をやるんだそうです。山田洋次、岡本喜八、黒澤明作品の音楽に加えて、「ゴジラの逆襲」「ゴジラの息子」「ゴジラ対メカゴジラ」を演奏するんですって。どの程度お客さんが入るのか不安ですが、そういう企画をやってくれるのはうれしいです。でも、私は行かないかなあ。

「午後8時の訪問者」はヒロインの描き方を消化しきれなくて、後味が微妙に。


今回は新作の「午後8時の訪問者」を有楽町のヒューッマントラストシネマ有楽町2で観てきました。大きい方の劇場からのムーブオーバーなのですが、結構な混雑でした。でも、若い人はほとんどいません。私より上の年配がほとんどでして、若い人ってこういう映画全然観ないのかなあ。それって、広告不足ってことになるのかな。

若い女医のジェニー(アデル・エネル)は、診療所の代理医をしていたのですが、その日は研修医のジュリアン(オリヴィエ・ボノー)と気まずくなっていました。診療時間もとっくに過ぎた夜8時過ぎ、誰かがドアベルを鳴らしますが、時間外ということでジェニーはそれを無視しました。翌日、警察が診療所を訪れます。そばの川岸で若い女の変死体が発見され、防犯カメラに何か映っていないかと協力を求めてきたのです。カメラを確認すると、死体で発見された女の子が取り乱した様子で診療所のドアベルを鳴らしているのが記録されていました。どうやら誰かに追われていたようです。あの時、ドアベルに対応していたら、彼女は死なずにすんだかもしれない。そんな思いにとらわれたジェニーは、死んだ女性の身元を調べ始めるのでした。大病院への就職も決まっていた彼女ですが、あえて診療所を引き継ぐことにし、そこで保険診療メインの患者を相手にする一方で、死んだ女性について自分で調べ始めます。彼女の患者で、当日診療所を訪れていた少年ブライアンに、女性の写真を見せたところ、心拍数が急に上がります。彼が何かを隠していると確信した彼女は、ブライアンを問い詰めるのですが、彼は答えようとしません。しかし、彼女の説得であの女性が近所のトレーラーハウスで売春をしていたのを見たと言います。翌朝ジュリアンの父(ジェレミー・レニエ)がジェニーを訪ねてきて、息子の証言を大事にするなと頼みます。一方、研修医のジュリアンは事件の翌日から診療所に来なくなっていました。医師になるのをあきらめて、実家に帰っていたのです。そんなジュリアンを励まし、研修医過程を全うするように励ますジェニー。果たして、午後8時の訪問者の身元はわかるのでしょうか。

「少年と自転車」「サンドラの週末」の、ジャン・ピエール&リュックのアルデンヌ兄弟が、脚本、監督した新作です。今回は、身元不明の死んだ女性をめぐるミステリー仕立てのお話でして、その中から、移民問題があぶりだされてくるという社会派映画になっています。私が観た彼ら二人の作品「ある子供」「サンドラの週末」「少年と自転車」では、主人公のキャラクターが丁寧に描きこまれていて、そこに引き込まれるものがあったのですが、今回は、それらとはかなり趣のことなるストーリー性重視の作品になっています。身元不明の黒人女性が、ストリートで売春していたということがわかってきたり、ジェニーが写真をあちこちで見せまわっていると、ヤクザみたいな男に脅されたりという展開が、ミステリーとしての面白さを運んでくるのですが、私は、その展開よりも、ヒロインが気になって仕方がありませんでした。

ジェニーは、若い女医さんで、腕前も確かなようです。しかし、自分がドアベルに答えなかった相手が死体で見つかったということで、キャリアコースを捨てて、診療所で安い保険診療の患者を相手にすることを選びます。彼女は、研修医のジュリアンに「患者に感情移入しすぎるのはだめ、もっと距離を保たないといけない」とアドバイスします。いつも、コートを着ていて「暑くないか」と聞かれれば、「暑いです」と答えます。いつも、表情を変えずに患者や他人に接します。彼女が人間らしい表情を見せるのは、メインのドラマと関係ないところでそれも一瞬だけです。こういうハードボイルド系ヒロインで思い出すのは「東ベルリンから来た女」ですが、この映画のジェニーは、自分への罪悪感が行動の動機になっているようにも見えるところが、ひたすらハードボイルドしていてそれがかっこよかった「東ベルリンから来た女」とは一味違っているのですよ。罪悪感から行動しているヒロインが、感情を表に出さないで淡々と、死んだ女性の身元を洗っていくというのが、観ていて、どこかしっくりこないのですよ。ミステリーとしての意外性というより、彼女のキャラの意外性の方が際立って見えるのですよ。関係者への問い詰め方とか見てると、相手の気持ちに立っているようには見えず、ひたすら冷静にミッションをこなすヒロインの姿が際立ちます。何というか共感しにくいヒロインなんですよ。死んだ女性の身元を知りたいというのも、結局は自己満足のエゴイズムが動機なのではないかと見えてしまったのは、この映画の読み方を誤ってしまったのかもしれません。

それは、日本とフランスの医師に対する見方の違いかもしれません。彼女は、保険の患者や、老人や子供に対しても礼儀正しく接するのですが、それは日本流の人懐っこさとは違う、プロの医師としての接し方なのです。そして、その冷静な態度を、女性の身元調査の時も崩しません。彼女のバックボーンは一切描かれませんから、彼女のキャラクターはその行動から垣間見るしかないのですよ。彼女のために一時的に墓を確保しようというあたりは、ヒロインはいい人っぽいのですが、自分の行動の是非を他人に確認することがないので、好き勝手やってるだけのようにも見えます。言い方は悪いのですが、どこか上から目線が感じられるのですよ。一方で他人の痛みを察せないのかなという気もしました。大柄な彼女は、子供の患者を診るときは、顔の位置を子供の視線まで下げて会話するのは、子供にやさしいのかなとも思わせるのですが、実際にやさしいんじゃなくて、医師としてのスキルに長けているだけという見え方になっているのが気になってしまって。そう感じたのは私だけかもしれませんが、私には、彼女が何を考え、何を思っているのかが、こっちに届かないという点がすごく気になってしまいました。

プログラムを読むと、監督は「移民を死なせるな」という思いをこの映画に込めているのだそうです。いわゆる義憤というものではないかしら。それは個人から湧き上がる感情というより、公なものになるので、ヒロインの私人としての部分をあえて描かず、ヒロインの物語としなかったのかもしれません。私は、この映画で、ヒロインの人間的な弱みを描くべきとかいうつもりはさらさらないのですが、ヒロインの行動を延々と追うドラマでありながら、ヒロインの内面を見せないところに、うまく乗り切れなかったようです。

後半は、女性の身元がわかり、死の真相も判明するのですが、そこにカタルシスはなく、かなり苦い後味の結末になっています。アフリカからの移民であった彼女が売春を強要されていたという事実にドラマとしての揺らぎを感じたのですが、それ以外は、いわゆるホームドラマ風2時間ドラマ的な展開でして、ヒロインのジェニーはハードボールド探偵のポジションですから、お笑いなしの「家政婦は見た」という感じなのかな。もっともっとドラマチックになったところを、ヒロインの描き方でぐっと抑えたドラマに仕上げたという印象でした。



この先は結末にふれますのでご注意ください。



ジェニーは警察から死んだ女性の身元が分かったと報告を受けます。一方ブライアンの証言から、トレーラーハウスの持ち主に話を聞こうとするのですが、逆にすごまれてしまいます。彼は施設にいる父親のために売春婦を買っていたようなのですが、これは事件とは直接の関係はありませんでした。そして、ブライアンの父親が彼女の診療所に来て、真相を告白するのです。彼は、あの女性を買おうとして、もみ合いになり、逃げた彼女を追って、川岸までいったところ、彼女がつまずいて頭を打って倒れたのを見つけたのでした。彼女はまだ息があったのですが、怖くなった彼はその場を立ち去ったのでした。その追跡途中で、診療所のドアベルを鳴らしていたのでした。自殺しようとする彼をジェニーは押しとどめて、警察へ電話させるのでした。後日、ジェニーの診療所を、以前聞き込みしたネットカフェの受付女性が訪ねてきます。彼女は、死んだ女性の姉で、本名も警察から聞いた名前とは違っていました。姉は、自分の男が、妹に売春させるのを黙って見ていたというのです。彼女はジェニーに礼を言うと、診療所を出ていきます。次の患者である老婦人を、ジェニーが診察室まで連れていく後姿で暗転、エンドクレジット。

ラストで、女性の死の原因が患者の父親であることがわかり、さらに、その姉の男が彼女に売春をさせていたことがわかります。そして、ジェニーはまた普段の生活へ戻っていくという見せ方をしています。事実を知ってもジェニーは相変わらず顔色を変えません。彼女は、まるで事件の傍観者のような立場をとるのですよ。でも、判明した事実は、ジェニーにとっても、うれしいものではなかったはずです。もし、彼女がドアを開けていたなら、あの女性は死なずに済んだということを裏付けるものだったのですから。それでも、彼女は、そのことに後ろめたさを感じているようには見えません。むしろ、冷静にブライアンの父親に警察へ連絡するように促すのです。ジェニーは人間の感情を持っていないのかなって思えてしまう結末に見せ方は、何とも複雑で歯切れの悪い余韻を残します。なぜ、ジェニーは女性の死の真相に迫ろうとしたのでしょうか。それは、罪悪感からではなく、単なる好奇心から? 多くを語らないドラマは、移民の女の子が肉親からも疎まれて望まない売春をさせられていたということのみを示します。こういうドラマの作り方もあるという点では、発見もあったのですが、出ずっぱりのヒロインに、共感していいのか、距離感を置くべきなのかが、最後まで判然としないドラマになっているのは、何というか、この映画を堪能できなかったって感じかなあ。結構、期待してスクリーンに臨んだだけに、この消化不良な後味は残念でした。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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