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「プラネタリウム」は物語というより一幅の絵を見て楽しむような感じの映画。


今回は新作の「プラネタリウム」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。ここで上映する映画と相性がいいのか、よく足を運ぶ映画館です。

1930年代、ヨーロッパを巡業中の霊媒姉妹ローラ(ナタリー・ポートマン)とケイト(リリー・ローズ・デップ)はパリでも降霊術のショーを行っていました。姉のローラは巧みな語りでショーを仕切る一方で、ケイトは観客の関係者の霊を呼び出して自分の口から霊の言葉を伝えます。そんな二人に映画プロデューサーのコルベン(エマニュエル・サランジェ)が自宅での降霊術の実演を希望します。彼の家で降霊術を行うと、コルベンは何者かが彼のそばに来て、彼に触れ、首を絞めるのを実感します。コルベンは姉妹と契約し、降霊術を撮影して、霊の姿をフィルムに記録しようとします。再現フィルムを作ろうとして失敗したコルベンは、ローラを女優として映画を作ることを考えます。それも霊媒の役でローラを使おうというのです。姉妹は、独身のコルベンの家に招かれ、そこで暮らすようになります。ローラは、女優としての野心を持ち始めます。そして、親子ほど年の離れたコルベンに惹かれ始めるのですが、コルベンは色々とお盛んなのに、ローラをその対象とは思っていないようです。映画のロケでローラが南仏へ行っている時、ケイトはコルベンと二人で超心理学の実験室で降霊実験を行います。放射能を発生する危険な機器を使った実験も実施し、フィルムに一瞬、霊のようなものを撮影することに成功します。大喜びのコルベンですが、彼の映画への情熱、そして投資は会社の中で非難のまととなっていました。部下の重役も一瞬の心霊映像は、不明瞭で映画では使えないと言い、ローラ主演の映画の監督も降りてしまったことで、コルベンの立場は危ういものになっていくのでした。

過去の2作品で評判となり、カンヌ映画祭でも賞を取ったことがあるレベッカ・ズロトヴスキが、ロバン・カンピヨと共同で脚本を書き、メガホンを取りました。第二次大戦直前のパリを舞台に、アメリカ人霊媒姉妹とフランス人映画プロデューサの数奇な運命を描いたドラマです。霊媒姉妹のモデルとなったのはラップ音で有名になったフォックス姉妹(晩年にラップ音は自分の足の関節を鳴らしていたと告白しています。)で、プロデューサーのモデルとなったのは、フランス初のトーキー映画を作ったパテ社のベルナール・ナタンだそうですが、実録ものではなく、物語はフィクションとして自由に作られているとのこと。霊媒姉妹と映画プロデューサーのある意味不幸な出会いの顛末とでも言いましょうか。ちょっとつかみどころのないドラマですが、不思議な余韻が残るものに仕上がっています。

霊媒姉妹という設定はドラマの中ではそれほど重要な意味を持ってはいませんでして、どういう過去があるかはわからないけど、気丈で野心家のローラが異国の地で、降霊術から、映画の世界で生き抜いていく様がメインで描かれていきます。その一方で、コルベンという映画プロデューサーが姉妹の降霊術にはまり込んでしまい、その地位を追われていくお話が展開していきます。コルベンは、フランス映画をもっと発展させるために投資をすべきだということを言って、会社の総会で非難されてしまいます。でも、彼にとっては、映画は未来へつながる投資の対象だったようです。そんな時に、霊媒姉妹の降霊術で心霊体験しちゃったものですから、霊を映像化することに、映画の新たなる可能性を見つけたみたいなんですが、周囲からは変な人と思われちゃう。もともと映画にのめり込んじゃうことで周囲から引かれていたのに、さらに心霊ですからねえ。周囲はこいつをトップに置くのはやばいんじゃないのかって思われてしまいます。ローラが心霊から映画にのめり込んでいくのに対して、逆に映画から心霊にのめり込んでいくコルベンの姿は、どこか似たものがあるのかも。心霊も映画も、当時は最先端の技術であり、ある意味神秘的な存在であったという見方もできるのですが、映画はこのあたりをドラマチックというよりも、ちょっと小洒落た感じにまとめているのが面白かったです。まあ、その分、ドラマとしての深みは今イチという感じではあったのですが、こういう映画もありかなって気がしました。時代背景ですとか、結末のアンハッピーな感じとか、ドラマチックなお話ではあるのですが、そこに歴史に翻弄される3人のリアリティよりも、存在の儚さが印象に残ってしまいました。そのあたりが、神秘的だけど本物でないプラネタリウムというタイトルにマッチしていたように思います。原題が「プラネタリム」なんですよね、この映画。

姉妹は二人ともまず美形でして、姉の凛とした感じと妹の幸薄い感じのコントラストが、一幅の絵を見るような映画になっています。ナタリー・ポートマンは撮影時35歳くらいの筈ですが、それを感じさせない、背伸びした女の子を演じているのが見事でした。リリー・ローズ・デップは感情を表に出すシーンがほとんどなくて、ポートマンのぐいぐい来るキャラにかすんでいるところは気の毒でもあるのですが、その儚げな感じがこのキャクラターにフィットしていました。エマニュエル・サランジェは、この役どころなら、もっと若い人でもよかったような。ズロトウスキの演出は、色々と訳ありに見える主演3人の過去をあえて描かないことで、寓話タッチのドラマに仕上げています。そんな中でロビン・クデールの音楽が、ドラマの空気を先取りするように流れるので、リアルさと一線を画した味わいになっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



コルベンはポーランド人ということもあって、会社での地位もフランス国籍も奪われ、逮捕もされちゃうのです。一方、実験の放射線のせいかケイトは白血病にかかってしまうのでした。数年後、かつての知人と出会ったローラの口から、ケイトは亡くなり、コルベンはドイツ軍によって東欧へ送られたらしいことが語られます。しかし、知人のつてで、ローラは女優の道に戻り、劇中映画のローラのアップで暗転、エンドクレジット。

ありゃあ、コルベンもたぶん死んじゃったんだろうなあっていうラストはかなり悲惨。ケイトも白血病で死んじゃうんだもんなあ。でも、実験の放射線からの白血病は安直だよなあって気もするし、人間ドラマとしての深みが感じられないのは狙ってやっているのかな。降霊術が本物かガセかどうかというところははっきりとはさせません。ケイトの能力についてローラは本当のところはわからないと言います。ですから、本当に霊を呼んで自分に憑依させているのか、生きてる人の心を読んで演じてるのか、その人の過去が見えるのか、どうとでも解釈できそう。ただ、いわゆるイカサマではなさそう。メンタルなマジックなのかもしれないけど、とにかくケイトには普通の人にない能力が宿っているようです。そんな能力を持ってしまったために、普通の人生を歩めなかったかわいそうな女性のお話でもあるのですが、映画はそこにフォーカスしていませんし、ここまで大変だったろうなあとお察しできる過去についても言及していません。コルベンの過去についても匂わせる程度の見せ方で、なかなか登場人物に感情移入しにくい映画でした。

ラストで、ローラ演じるナニーが、窓の外を見るのですが、そこには絵に描いた星空があります。それをプラネタリウムというタイトルにつなぐのも、何か安っぽいなあって気もして、余韻としては今一つなんですが、大人のためのおとぎ話だ思えば、視点の面白さで楽しめました。ドラマというよりは、一幅の絵画を見るような感じの映画として面白かったです。主演二人が眼福でしたし。
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「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー 2017」はジョン・ウィリアムスの渋い楽曲が聴きものです。


今回は映画音楽のコンサート「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー 2017」を錦糸町のティアラこうとう大ホールで聴いてきました。一昨年、三鷹で「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー 2015」を聴いて、選曲がおもしろかったので、今回もそこそこ期待するところありました。小林健太郎指揮のフィルム・シンフォニー・オーケストラによる演奏でした。曲数が多くて、なかなかのボリュームのコンサートでした。

前半は色々な作曲家の映画音楽、後半はジョン・ウィリアムス特集という構成になっています。今年でウィリアムスが85歳ということで、記念コンサートが海の向こうでも行われているんですって。とはいえ、私は、ジョン・ウィリアムスには、ジェリー・ゴールドスミスほどの思い入れはないので、やっぱりそこそこの期待かしら。

1、ユニヴァーサル映画ファンファーレ(ジェリー・ゴールドスミス)
映画会社のロゴのバックに流れる音楽というと、アルフレッド・ニューマンによる20世紀FOXのファンファーレが有名ですが、1997年に作曲されたという最近のロゴのバックの曲としてはかなりメジャーなのではないかしら。

2、キャプテン・アメリカ/ファースト・アベンジャー(アラン・シルベストリ)
アメコミ映画は興味がなくって、「ふーん」って聞き流しちゃいましたけど、威勢のいい音に仕上がっているのは、さすがシルベストリと感心。でも、この人のベストだと思っている「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に比べると何か淡泊だよなあって印象になっちゃいます。

3、プレデター(アラン・シルベストリ)
1980年代、シルベストリの脂が乗りきっていたころのSFアクションの音楽です。この頃の映画がシルベストリの音と相性がよかったということも言えるのですが、パーカッションをフルにつかったインパクトのある曲は、、シルベストリ版「ターミネーター」とも言える出来栄えでした。オーケストラの演奏は、サントラのようなタイトな音になりきれておらず、ライブとしては面白いけど、テンション上がるサントラの再現という意味では今イチかしら。

4、ナイト・ミュージアム(アラン・シルベストリ)
ファミリー向けCGコメディとしてよくできていた映画を、シルベストリは端正な音をつけました。ファンタジックでアクションっぽいところもあり、コミカルな味わいはさすがは職人芸だと感心。きっちりオケを鳴らしますという音作りはこういうコンサートに向いてるのかもしれないけど、でも、どっか地味かもって気もしちゃって。

5、007ムーンレイカー(ジョン・バリー)
今回のメニューの中で一番期待していたのがこれでした。映画自体は未見でしたけど、007が一番ド派手アクションに走ったいわゆるバブル期の作品だったので、大掛かりなアクション音楽を期待したのですが、意外とおとなしめの楽曲ばかりだったのが、やや物足りなかったです。音としてはおなじみのジョン・バリー節ではあるので、安心して聴ける音楽ではあるのですが、それ以上のものではなかったです。

6、ヒックとドラゴン(ジョン・パウエル)
CGアニメとしては評判がよかったですが、私は未見の一篇。前回のコンサートですごく評判がよかったのでその再演ですと紹介され、曲が始まると、なるほどオケをフルに鳴らす元気のいい音楽で、楽しい演奏になってました。飛翔するドラゴンを描写した音で盛り上がるところが印象的でした。

7、ラスト・サムライ(ハンス・ジマー)
東洋風味にジマーのドラマチックなハッタリが乗った、彼の曲の中でも比較的メジャーな曲ではあるのですが、演奏的にはあまり盛り上がらなかったのは不思議でした。

8、パイレーツ・オブ・カリビアン3部作(ハンス・ジマー、クラウス・バデルト)
娯楽大活劇の音楽で、オーケストラをフルに鳴らす曲で楽しい演奏ではあるのですが、どっか盛り上がりを欠いてるという印象を持ってしまったのが残念。聴いてる私が中盤息切れしちゃったのかな。

これで前半終了。15分の休憩の後、ジョン・ウィリアムス特集です。

9、スター・ウォーズ:エピソードⅣ:新たなる希望(ジョン・ウィリアムス)
スター・ウォーズの最初の作品から、戦闘シーンの曲が演奏されました。コンサート用という感じがしないめりはりの効いた演奏で大変聴きごたえがあって盛り上がりました。映画の編集のテンポが音を聴いているとよみがえってくるのですよ。映像のイメージがスコーンと湧いてくる感じが見事でした。

10、ポセイドン・アドベンチャー(ジョン・ウィリアムス)
ちょっと意外な選曲ではありましたが、パニック映画のはしりともいうべき作品にドラマチックで重厚な音をつけています。ただ、コンサート用にアレンジされているのか、フレーズの繰り返しが間延び感を感じさせるところがあって、そこはちょっと残念でした。

11、タワーリング・インフェルノ(ジョン・ウィリアムス)
1970年代のパニック映画の頂点のタイトル曲は、飛行するヘリをバックに流れる大変かっこいい盛り上がるもの。これかなり期待してました。構成的にはかなり長いタイトルをそのまままるまる再現していて、そこはマルだったのですが、演奏が今一つテンポに乗り切れていないというか、コンサートライブの限界を感じさせてしまったのが残念でした。サントラ盤だとタイトな演奏が、コンサートだとめりはりが発散しちゃう感じになることが時としてあるのですが、今回はそんな感じでした。

12、JFK(ジョン・ウィリアムス)
地味な選曲ですが、静かでドラマチックな曲はなかなかの聴きごたえでした。トランペットソロが前面に出てくるのですが、演奏のせいか、ホールの音響のせいか、ホーンセクションが前面に出る曲だと、ストリングスが聞こえなくなっちゃうのが気になりました。ホーンセクションも、音量で攻めてくる一方で、圧が足りないという印象で、ホーンセクションが鳴る曲の印象がみんな今一つに聞こえてしまいました。

13、世にも不思議なアメイジングストーリー(ジョン・ウィリアムス)
スピルバーグ製作のテレビシリーズのタイトル曲。テレビシリーズらしい、ミステリアスにこじんまりまとまった感じが、劇場映画のウィリアムスとは別の味わいで面白かったです。昔、彼はテレビシリーズを相当手がけていますから、彼にとって特別な仕事ではないのでしょうけど。

14、宇宙戦争(ジョン・ウィリアムス)
恐怖SFにウィリアムスが現代音楽風のとがった音楽をつけています。個人的に、曲としても演奏としてもこのコンサートのベストというべきもので聴きごたえがありました。明確なメロディラインが出てこないけど聴かせるあたりがウィリアムスの底力なのでしょう。

15、マイノリティ・リポート(ジョン・ウィリアムス)
近未来犯罪SF映画ですが、ここではアクションシーンではなく、ストリングスメインの静かな曲をチョイスしています。映画のイメージを表現した曲ではありませんが、こういう曲もあるんだよ的な面白さはありました。

16、BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント(ジョン・ウィリアムス)
実写とCGアニメを組み合わせたファンタジーですが、ここでは、カートゥーンを思わせるアクションにシンクロした音作りをしているのが面白く、フルートを4台使う編成の面白さもあり、色々と実験的な音楽になっているので、聴きごたえがありました。これ、彼が80歳過ぎてからの作品ですからね、まだまだ現役なんだなあって。

17、レイダース失われたアーク(ジョン・ウィリアムス)
ノンストップアクションの走りじゃないかあ。とにかく面白い活劇映画を大作として作ろうとした映画に、ウィリアムスはめりはりの効いたオーケストラ音楽で、ドラマを目一杯盛り上げました。コンサートでは活劇シーンからクライマックスの盛り上り曲を一気に鳴らして楽しませてくれます。おなじみレイダース・マーチも演奏されるのですが、そのパートが短いのが残念かな。

18、遥かなる大地へ(ジョン・ウィリアムス)
アイルランド移民のお話なので、アイリッシュサウンドから始まって、ドラマチックな音になり、西部劇風音楽に盛り上がるという構成が楽しく、楽曲として聴きごたえがありました。コンサートの最後にこの曲を持ってきたのは大成功でして、オーソドックスなウィリアムス音楽を堪能できました。

アンコール1、SAYURI(ジョン・ウィリアムス)
映画としてはあんまりメジャーとは言い難いし、テーマ曲も有名じゃないんですが、バイオリンソロをフィーチャーした曲を、聴いてみれば、これいいねって感じになる小品といったところでしょうか。短い曲でしたけど、ウィリアムス特集には入れてほしい1曲ってことになるのかな。

アンコール2、インディ・ジョーンズ魔宮の伝説(ジョン・ウィリアムス)
ラストはやっぱり盛り上げたいということで持ってきたのが、悪趣味系ドタバタ活劇のテーマ曲。ボレロ調の導入部から、フルオケへの盛り上げで、コンサートの締めに、十分な満足感をもたらすことに成功しています。

というわけで、色々とケチをつけちゃうところもあるのですが、ジョン・ウィリアムスのなかなか聴けない楽曲をライブで堪能できたのが、うれしいコンサートでした。ただ、あまりお客の入りはよくなくて、ホールの前の方は空席が目立っていたので、来年もこの企画をやれるのかとちょっと不安になっちゃいました。かつての、戦争映画音楽のコンサート「男たちへ」がお客の入りが悪かったのを思い出しちゃいました。こういう掘り出し物系映画音楽のコンサートをもっとやってほしいのですけど、やっぱりサントラってマニアのものなのかなあ。

「アメイジング・ジャーニー 神の小屋より」は信仰心があると逆境にも強くなれるよというお話、悪い話ではないけれど....。


今回は、新作の「アメイジング・ジャーニー 神の小屋より」を川崎チネチッタ3で観てきました。ここは、チネチッタの中でもちっちゃい劇場になるんですが、後ろの席に座るとスクリーンの大きさもあって、なかなか快適な映画鑑賞ができます。

熱心なクリスチャンの奥さんナン(ラダ・ミッチェル)と3人の子供と暮らすマッケンジー(サム・ワーシントン)は幸せに暮らしていました。夏休みの週末、子供を連れて湖畔のキャンプ場へ出かけます。マッケンジーが、長女のケイトがボートから落ちたのを助けに向かったちょっと隙に、末娘のミッシーが姿を消します。現場に残ったテントウムシのピンから、彼女が連続誘拐犯に誘拐されたと判明、警察による大々的な捜索網がひかれますが、山小屋で血に染まったミッシーの着衣が発見されます。その後、一家はどんよりとした空気に支配されて、マッケンジーも自責と憎悪に苦しめられていました。そんなある日、彼に「あの山小屋で待ってる」というパパからの手紙が届きます。「パパ」とは、妻が神のことを呼ぶときの名前です。何者かのいたずらかとも思うのですが、隣人の車を借りて、殺人現場の山小屋へと向かうマッケンジー。そこに待っていたのは、パパ(オクタヴィア・スペンサー)とイエス(アブラハム・アヴィヴ・アラッシュ)とサラユー(すみれ)の3人。どうやら、三位一体の「父」と「子」と「精霊」らしいんです。でも、マッケンジーはミッシーを奪った神を赦せなくて、3人を受け入れることができません。そんな彼に3人は色々なものを見せます。果たして、マッケンジーは人生を取り戻すことができるのでしょうか。

ウィリアム・ポール・ヤングのベストセラー小説「神の小屋」を、アンドリュー・ランハム、「ドラゴン・キングダム」のジョン・フスコ、「ショート・ターム」のデスティン・クレットンの3人が脚色し、脚本家としての実績のあるスチュアート・ヘイゼルダインが監督しました。とんでもない事件に遭遇して、人生どん底状態にある主人公が、信仰によって癒されるというお話でして、キリスト教色の濃い映画です。信仰のない私は、こういう映画に結構興味がありまして、昨年の「神は死んだのか」みたいな宗教プロパガンダ映画なのかなって予感もあったのですが、信仰がないと現世でもひどい目に遭うんだぞという映画ではありませんでした。人生の苦痛を癒し、乗り越えるためには、例え方便だとしても神様はいた方がいいかもって思える作りにはなっています。とは言え、信仰のない私には、「何じゃそりゃ」映画になっちゃっています。

主人公のマッケンジーは子供の頃、熱心なクリスチャンでありながら、酒乱で母親に暴力を振るっていた父親の酒瓶に毒を仕込んで殺した過去を持っています。そのことで、彼が罪に問われることはなかったようですが、ずっと心の傷として引きずってきました。そして、誘拐犯によって娘を失って、さらに心が荒んでしまったマッケンジーでしたが、パパ、イエス、サラユーとの会話を通して、少しずつ、信仰と心の平静を取り戻していきます。このままだったら、娘の死を引きずって、自分や残された家族の人生がめちゃくちゃになっちゃうところを、神とイエスと聖霊によって癒されることになります。なるほど、こういう時に信仰があるのはありがたいねえということもできます。でも、その一方で、人間が精神的に弱っているときに、宗教はつけ込んでくるんだなという、斜に構えた見方もできる映画にもなっているのは面白いと思いました。事件前は、キリスト教とは若干の距離を置いていた信者だった主人公が、ラストではより熱心な信者に変わっています。娘をあんな失い方をしなければ、そこそこの信者でいられたのが、事件で受けた心の傷を癒すために、信仰にどっぷりはまってしまったという感じなんです。ものがキリスト教だから、そういう見方にはなりにくいのですが、これが創価学会や幸福の科学だったら、不幸を食い物に信者を増やしていると思われても仕方ないようなお話なんです。でも、その不幸を乗り越えて新しい人生を歩めるようになるというお話を受け入れられれば、信仰のご利益侮りがたしという映画でもあります。

私に信仰心がないのは、2つ理由がありまして、親が宗教に興味がなかったので、自分が大人になってから、自由に宗教を選択する立場にいたということがあります。ですから、信仰しない選択もできたというわけです。もう一つの理由は、神様と直接会話できないというところでして、所詮、誰か人間の言葉で間接的にしか語られないってところ。その間に入る人間が信用できなくて、所詮、神様なんて人間が他の人間を思うように動かしたい時の方便でしかないと思っています。この映画では、主人公が直接、神と対話するシーンが登場します。実際にそういうことが可能なら、私も少しは神を信じようと思うのですが、この映画はあくまで人間が創作したお話ですからね、何を言っても、それは人間の言葉であって、神の言葉じゃないですもの。

この映画のプログラムを読むと、この映画に登場する会話やエピソードは聖書からの引用がいっぱい入ってるんだそうです。ですから、聖書を読んでる人にとっては、この映画が、聖書の絵解きになっていて、腑に落ちる部分がたくさんありそうですが、聖書を読んでいない私にとっては、神ってのは肝心なところをはぐらかしてばかりいるんだなあって印象しか残りませんでした。主人公のマッケンジーは、全能の神が人間を愛していると言いながら、幼いミッシーの命を奪ったことを怒っています。そして、神への信仰を失いかけるのですが、結局、何となく言いくるめられて、神への信頼を取り戻しています。神は受け入れるべき善なる存在だと、主人公を説得にかかるあたりは、信仰のない私には、どうにも納得できませんでした。そこんところは聖書を読み込んでいると「何となく」ではなく、根拠のあるものとして受け入れられるのでしょうけど、やっぱり全能の神は、娘の誘拐犯も創造しているわけですから、善なる存在ではないよなあ。映画の中で、ちょっとだけ、悪とか悪魔という言葉が登場するのですが、あれも世界のうちと考えるなら、悪は排斥されるべきと思いますが、どうも、悪は神の管轄外みたいな表現のしてるのですよ。神は、善なるものだけど、神の作った世界には、善と悪が存在する、でも、神は世界の全てをコントロールしてる、そのあたりが矛盾してるなあって思っちゃったのですよ。私的に納得できるのは、神は、善も悪もひっくるめた世界を作った、清濁併せ呑む絶対的な存在だという理屈です。それを全ての人間を愛してるとか、神は自らの犠牲も払っているとか言われても、何だか、自分の都合に合わせて立ち位置を変える風見鶏にしか見えなくて、どうにもしっくりきません。

この映画のパパたちを見ていると、この世の不幸とか悪といったものについて、責任も興味も持っていないみたいなんです。それって人間に対して冷たくないかとも思うのですが、あの畏れ多い神様が、人間一人一人を愛してるってのは、すごいことでしょ? だから、ちっちゃい人間の皆さんは神を信じて敬いなさいという感じなんです。神をありがたいものだという考えがあると、神の愛が存在したら、それは畏れ多くも素晴らしいことなんですよってのは、「神はありがたいもの」という前提のない私には「ふーん」としか言えないのですが、そのあたりは、個々の人間と神様の関わり方によって違っているのでしょう。そうなると、神と人間の関係ってのは、すごくプライベートなものだということが見えてきます。この映画でも、傷心の主人公だから、神との対話で信仰が厚くなり、心の傷も癒えていくのですが、これが現世で絶好調の時だったら、主人公はこんなに素直にパパたちの言うことに耳を傾けなかったでしょう。逆に、主人公が、幼い頃から、篤い信仰が刷り込まれた人であったなら、もっと素直にパパたちの言葉を受け入れたでしょう。そう思うと、ここで描かれている神と子と精霊は、絶対的な存在ではなく、人間一人一人でその在り方が異なる、相対的な存在ということになりそうです。神は時として、その存在をかくし、またある時は、傷ついた心を癒し、さらにまたある時は、信仰を求める存在って感じかしら。

ヘイゼルダインの演出は、パパやイエスを丁寧に演出して、手堅くドラマを積み上げていきます。もともとウソみたいな話で、いわゆる信仰にまつわる絵解きファンタジーとも言うべき内容ですが、ハッタリや説教臭さがないので、宗教のありがたみとその限界の両方を感じ取れるようになっているのは面白いと思いました。神を恨んでいた主人公が簡単に説得されちゃうところを除けば、宗教ってのが、不幸な人の癒しになるというのは納得できましたし、神の愛なるものがやっぱりどっか怪しいよねってところも再認識しちゃいましたから、私にとっては発見もあった面白い映画でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



パパたちは、マッケンジーに、死んだ彼の父親を連れてきます。生前の自分の行動を謝罪する父親に対して、自分の謝罪するマッケンジー。これで、親子は和解できたようです。翌日、パパがネイティブ・アメリカンのおっさん(グレアム・グリーン)の姿になって現れ、マッケンジーを森の中へ連れて行きます。そして、マッケンジーに犯人を赦せと言います。万感の想いで「やつを赦す」という言葉を絞りだすマッケジー、そんな彼をパパは洞窟に招きます。そこには娘のミッシーの遺体がありました。白布に包んで、遺体を運ぶマッケンジー。パパたちと一緒にミッシーを葬るのでした。パパは、マッケンジーに帰るのかと聞くと、ここにいたい気持ちもあるが、家へ帰ると答えるマッケンジー。そして、彼が、車を走らせていると大型トラックに衝突され、気がつくと病院にいました。隣人によると、マッケンジーは山小屋へ向かう途中で事故に遭ったんだそうです。だとすると、山小屋での経験は、夢?臨死体験? でも、そのおかげで彼は人生に前向きになり、家庭の中も明るさを取り戻していくのでした。(そうナレーションで説明されるんですよ。だから、そうなんでしょうね。)おしまい。

臨死体験の話だと腑に落ちるところがあって、それなりに信仰心のある人だと、こういう臨死体験をするのかもって気がします。逆境において信仰がある方が立ち直れるというお話としてはよくできています。それ以上に神様アピールしないところは好感が持てました。不信心な人は死んじゃう映画よりはずいぶんマシと言えましょう。とはいえ、逆境ってのは信仰を取り戻すにはいい機会だというお話ですから、見方を変えると、宗教は弱ってる時につけこんでくるということも言えます。神様を信じて、私の言うこと聞きなさいって言う人間が信用できない私を、信仰に目覚めさせるには至らなかったようです。

「ザ・ウォール」は社会派でないイラク戦争もの、面白いです。


今回は新作の「ザ・ウォール」を横浜ブルク13シアター13で観てきました。ここはブルク13で、一番小さな映画館で、シネスコサイズの画面になるときは縦が縮む作りですが、それでも、スクリーンの小ささは感じさせないあたりは作りがうまいのかな。

イラク戦争も終局に差し掛かった頃、米軍の狙撃兵アイザック(アーロン・テイラー・ジョンソン)とマシューズ(ジョン・シナ)は、イラクのある村で、瓦礫の壁の向こうに潜んでいるらしい敵と対峙していました。その周辺には、何者かに狙撃されたアメリカ兵の死体が転がっていました。ほとんどの兵士が頭を一発で撃ち抜かれており、敵は相当の腕前のようです。でも、ずっと動きがありません。ついに業を煮やしたマシューズが起き上がり、死体と壁を確認に向かいます。マシューズがどこかから飛んできた銃弾に倒れます。彼を救出すべく飛び出したアイザックも足を撃たれて、壁のそばに隠れます。無線で声をかけてもマシューズから応答が来なくなり、通信機もアンテナを撃たれて使用不能。孤立無援のアイザックの無線に、救援に向かうから位置を教えろという声が聞こえてきます。これで助かると安堵したアイザックですが、その声のイントネーションに奇妙なものがあるのを感じて、逆に質問して問いただすと、実はイラクの狙撃兵だということがわかります。やけに親しげに話しかけてくる相手は、アイザックのプライベートなことを質問してきます。アイザックは、精神的に翻弄してくる相手の位置を特定しようとしますが、敵はかなりの距離を置いているようです。撃たれた膝の出血はなかなか止まらず、このままでは失血死ですが、下手に動けば敵に狙撃される状況で、アイザックは生き残ることができるのでしょうか。

ドウェイン・ウォーレルのオリジナル脚本を、「ボーン・アイデンティティ」「フェア・ゲーム」のダグ・リーマンが監督しました。この監督さん、前述の面白い映画も撮る一方で、「Mr.&Mrs. スミス」とか「ジャンパー」みたいな何だかなあという映画も撮ってるので、どんなもんかなあ程度の期待でスクリーンに臨みました。戦争映画なら、「ダンケルク」より、こっちの方が食指が動くってこともありました。最近は大作系の映画に魅力を感じなくなっちゃったのかも。実際、観てみれば、砂漠の廃墟みたいなところのみが舞台で、登場人物が3人のみという小品で、90分という短めの上映時間でずっとサスペンスをつなぐという面白い映画でした。ドラマは、石を積み上げた壁にへばりつくアイザックの描写がほとんどでして、そういう意味では、棺桶の中だけで展開する「リミット」や、車の中だけでお話が進む「オン・ザ・ハイウェイ」と同じ作りと言えるのですが、炎天下の砂漠を舞台に密室劇にしているのが、面白いところです。見せ方次第では、舞台劇にもできそうな題材でして、そのシンプルな作りの中で、生きるか死ぬかのドキドキハラハラを持続させるリーマンの演出は見事でした。私にとって、彼の作品の中では、これはかなりの当たりでした。

どこから来てるのかわからない銃弾に撃たれて、壁の背後に避難したアイザックですが、通信機のアンテナも壊されていて、基地への救援要求は出せないし、水のボトルも撃たれて、ほぼ空の状態です。撃たれた直後は話していたマシューズからも応答がなくなります。無線の相手は、通信機も水も狙って狙撃したと言います。膝を撃ったのも、止血が難しい場所だからで、間もなく失血死するぞと脅してきます。相手は、アイザックと話をしたいと、彼のプライベートを知りたがっているみたいです。アイザックも相手の位置を知りたいこともあって、彼と会話を始めます。その会話から、アイザックと敵狙撃兵のキャラが見えてきて、ドラマとしての興味をつなぎます。相手は、NATO軍の銃弾で狙撃してきており、どうやらアメリカで狙撃兵としての教育を受けたらしいです。アメリカ軍の自分の国に入ってきて武器で攻撃してきていること責めます。もともと、彼は教師をしていたそうで、イラク人側の事情が垣間見られるのが面白いのですが、この映画はイラク戦争の意味を問う社会派の映画ではありません。あくまで、サスペンススリラーの舞台としてイラク戦争を選んでいるのです。娯楽としてのサスペンスの舞台にイラク戦争が使われるというところに、もうあの戦争も歴史の1ページになってきたんだなあって感じました。戦時中だったら、それを題材にした娯楽映画は作れないですからね。イラクには大量破壊兵器はなかったことを前面に出した、「フェア・ゲーム」や「グリーン・ゾーン」にあった政治的な視点がなくなっていますが、その分、イラク戦争を客観視した表現がされています。

映画の冒頭で、壁の周辺に5,6人のアメリカ兵の死体が転がっているところを丁寧に見せたり、中盤の無線によるアイザックと敵の会話をじっくりと描くところが、ラストへの伏線になっているのはうまいと思いました。込み入った話ではない、シンプルな構成なのですが、極限状況のサスペンスから、ミステリースリラーとしての味わいが出てくるうまさは、本編をご覧になって確認してください。とにかく、敵は物凄い腕前を持った狙撃兵でして、手負いのアイザックには勝ち目がなさそうなのですが、それでも、この先どうなるんだろうと思わせて、観客を引っ張っていく脚本は見事です。「エンド・オブ・ウォッチ」でリアルな絵を作ったローマン・ヴァシャノフが撮影を担当し、シネスコサイズの画面で、主人公に張り付いたカットを多用して、閉塞感のある映像を作り出すことに成功しています。スーパー16のフィルムによる撮影だったそうで、その分、ざらついた臨場感のある画質でサスペンスを盛り上げています。全編ほとんど一人芝居のアーロン・テイラー・ジョンソンの熱演がシンプルなドラマの緊張感を下げずにドラマを引っ張っています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



アイザックは、会話のバックに聞こえる音から、敵がかなり離れたガレキの山から、狙撃してきていることを割り出します。そして、壁のそばの米兵の死体から、バッグを持ってきますが、通信機は使い物になりませんでした。一方、死んだかと思っていたマシューズの意識が戻り、銃を取って敵を攻撃しようとします。アイザックは敵の位置を彼に教えて、敵には無線を使って話しかけ注意を引こうとしますが、マシューズの行動は敵に読まれていて、彼は頭を撃ち抜かれて死亡。アイザックは壊れている通信機からアンテナを外して自分の通信機につないで基地へ連絡を取ろうとしますが、敵の狙撃兵がアイザックを名乗って、異常なしと報告しているのを傍受します。敵は、アイザックから個人情報を聞き出して、彼になりすまして、米軍ヘリをここへ呼び寄せようとしているのでした。遠くから二機の米軍ヘリの音が聞こえてきました。意を決したアイザックは、マシューズの銃を取り、壁を壊して自ら標的となり、相手の位置を探します。ガレキの山から狙撃してきた敵の位置を確認して、銃弾を放つアイザック。ガレキの山からの銃撃は止まり、米軍のヘリに収容されるアイザック。しかし、基地へと向かうヘリが狙撃され、ヘリは二機とも墜落してしまいます。さらに友軍ヘリの応援を呼ぶ通信が入るところでおしまい。

映画の後半で、アイザックがこの戦場で、旧友を誤射したことを、相手に告白するシーンが印象に残ります。自分はずっとウソをついてきた、初めて正直になったと叫ぶアイザックの姿は痛々しくもあるのですが、そういう戦争秘話をあくまでサブエピソードの扱いにとどめています。映画の本筋は、サスペンススリラーの部分でして、最初に登場するアメリカ兵の死体の一人もアイザックと同じような目に遭い、彼を名乗った敵狙撃兵によって、アイザックたちが呼び寄せられていたことがわかり、敵はアイザックを名乗ってヘリを呼び寄せ、さらに墜落させたヘリを名乗って、さらに応援を呼ぶという結末はかなり怖いです。リアルな戦争映画というよりは、ホラー映画へシフトするラストは、娯楽映画として大変面白くできていて、うまいなあって感心しちゃいました。映画の後半で、敵が伝説の狙撃兵ジューバだとわかるという展開もあるのですが、敵の正体は不明なままの方が怖さの余韻が出たように思います。
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einhorn2233

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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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