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「ブレードランナー2049」はヴィルヌーヴのハッタリ重厚演出がすごい、雰囲気に乗れれば面白いです。


今回は新作の「ブレードランナー 2049」を川崎のTOHOシネマズ川崎5で観てきました。ここはこのシネコンの最大のスクリーンで大劇場の作りになってます。こういう映画は、大画面、大音響がふさわしいです。チネチッタのLIVE ZOUND版と迷ったのですが、実際観てみるとこれが想像以上の低音大音響で、これ、LIVE ZOUNDだったらやかましかったかも。後、820円のプログラムなんだけど、文字が小さい上に色が薄いので読みにくいったらありゃしない。これからは、年寄りがどんどん増えるんだから、プログラムも年寄りの目にやさしくしないと嫌われちゃうぞ。

ネクサス社の作った人造人間レプリカントの旧タイプ、ネクサス8型は、人間に反抗したりするものだから、生産中止となります。その後、ウォレス社がネクサス社を買収して、新型レプリカントの生産を再開し、旧タイプのレプリカントは解任(殺害)の対象となります。しかし、人間界に紛れ込んだレプリカントもいて、ブレードランナーがそれらを追跡、廃棄する任を担っていました。ロス警察のブレードランナー、K(ライアン・ゴズリング)は、人間ではなく新型のレプリカントで、人間もどきとして差別の対象となっていました。そんな彼が潜伏中の旧型レプリカントを射殺します。彼のいた農場に埋められていた箱には、人骨が入っていました。それを分析したら、30年前に出産時に亡くなった女性だと判明、さらに骨の中にレプリカントのIDが見つかります。レプリカントが生殖能力を持つなんて一大事です。Kの上司(ロビン・ライト)は、女性の調査と生まれた子供の解任をKに命じます。Kは、ウォレス社製のホログラフィのジョイ(アナ・デ・アルマス)と暮らしていました。ジョイは感情を持ち、Kを愛しているように見えます。遺骨にあったIDを調査するためにKはウォレス社へ向かい、そこでレプリカントのラヴ(シルヴィア・フークス)に面会します。社長のウォレス(ジャレッド・レト)はレプリカントに生殖能力を持たせようとしていましたが思うように進んでおらず、レプリカントの子供がいることを知って、ラヴにそれを探し出させようとします。Kは、農場の木に彫られた日付から、生まれた子供がかつて孤児院にいたらしいことを知り、その孤児院へ向かうのですが、そこでKは自分に植え付けられた記憶と同じ光景を目にします。レプリカントの記憶を作っているアナ・ステライン(カーラ・ジュリ)に遭い、自分の記憶の意味を知ろうとします。一方、ラヴはKをマークしてレプリカントの子供を見つけようとします。さらに、他の連中もKを追いかけているようなのです。果たして、レプリカントの子供は見つかるのか、そして、デッカード(ハリソン・フォード)はいつ登場するのか....?

1982年の「ブレードランナー」の続編が35年後に作られました。前作の脚本を書いたハンプトン・ファンチャーの原案をもとに、ファンチャーと「エイリアン・コヴェナント」のマイケル・グリーンが脚本を書き、「灼熱の魂」「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーヴがメガホンを取りました。何で今頃という気もするんですが、1982年の初公開された「ブレードランナー」は1992年にディレクターズカット版が、2007年にはファイナルカット版が公開されたりしているので、若い人でも知ってる人はいるのかな。この映画を楽しむには、前作の予習は必須でして、観てないと人間関係とかついていけないところが一杯出てきますのでご注意ください。アンドロイドが子供を作るなんていう発端も、前作の恋愛感情を持つというレプリカントという設定の上に追加しているのを知らないと、単なる「どっひゃー」なお話になっちゃいますからね。

でも、人造人間が繁殖するってのはすごい展開だよなあ、そういう生臭いお話をヴィルヌーヴはやたら重々しい雰囲気で進めていきます。何かこう、映画の空気が重いというか湿度が高い感じなんですよ。「ボーダー・ライン」や「灼熱の魂」なんて確かにヘビーなストーリーではあるんですが、ヴィルヌーヴは、物語を上回る重々しい演出をするので、何だかすごいものを観ちゃったような気分にさせられるところがありました。言い方を変えると、物語を上回るハッタリをかます演出でして、この映画でも、ストーリー以上に重々しい見せ方をしています。必要以上の長回しとか、やかましいくらいの重低音の効果音を駆使して、何だかすごいものを見せられている気分を煽っていく演出は、その狙いにおいては成功していると言えましょう。それは、前作のリドリー・スコットの「ブレードランナー」「ブラック・レイン」のタッチに近いものがあります。特にストーリーが回り出すまでの前半は重くて湿った雰囲気だけで展開していくと言っても過言ではありません。でも、2時間44分をそのタッチを崩さずに通して、観客を飽きさせないというのは、演出力があるということになるのでしょう。

主人公のKは、レプリカントなので、人間からは差別されていまして、なるほど見た目は一緒でも人間とは一線を引かれちゃうのかなあって思う一方で、ホログラフィのジョイに心癒されるところがあるみたいで、中身も人間と大差ないみたいです。前作では、人間とは異なるレプリカントという描き方をしていて、ダメ人間デッカードと寿命を制限されたレプリカントの追跡劇にどこか儚さを感じたのですが、今回の主人公は、レプリカントか人間かという違いの儚さも感じさせず、思考も感情も人間と同じになっているのですよ。さらに、旧型レプリカントほどには強くないみたいで、痛みもあるみたいだし、怪我もするという、余計目に人間との境界線が曖昧になっています。だから、愛し合うのもありだし、子供作るのもありでしょ?と言われると、私みたいな古いオヤジだと「えー、ロボットがエッチして、子供産むの? エロきしょくない?」って思っちゃいます。私には、「悪魔の赤ちゃん3」か「チャイルド・プレイ チャッキーの種」かと思っちゃうくらいゲスいネタに思えるのですが、ヴィルヌーヴのヘビーな演出は、それがリアルで人間の未来に関わるどえらい事のように見せることに成功しています。やっぱ、ハッタリも徹底してやれば、それは映画のパワーになるのでしょう。

後、この映画で驚いたのは、この映画で新たなお話を盛り込んで、それをクローズさせてないってこと。続編とか、スピンオフが作れそうなネタを盛り込んであるんですよ。続編を映画で作って、スピンオフをケーブルテレビでシリーズ化できるかも。これまでの映画の続編とか、スピンオフというのは、たまたま当たったから、続きをでっち上げたり、サブプロットを膨らましたりして作っているのですが、この映画では、そのための布石をわざと作って、映画の最後で、一切触れずに放ってあるんです。ですから、続きやサブプロットは、オープンな状態で、後から好きなように料理できますってのが見え見え。ですから、この映画だけでは、よくわからんって後味にしかならないので、どうも締まりの悪い映画になっちゃっています。そんな話はどうでもいいんだよ、この映画は、Kとデッカードの話なんだから、と言われればそれまでなんですが、前作の「ブレードランナー」は一応、蒔いた種を刈り取って終わってましたよねえ。

ヴィルヌーヴの演出は、凝った絵をたくさん積み上げてデストピア感を出すのに成功しています。途中の孤児院のシーンなんて、でかいセットに子役エキストラをいっぱい集めて(遠くにいる連中はCGかもしれないけど)、かなりお金と手間をかけてます。その他にも、街のセットとか、ラスベガスのセットなど、雰囲気作りにお金かけてますってのが伝わってくるのがすごい。また、CGだけでなく、街のセットには、「ロード・オブ・ザ・リング」「サンダーバード」のWETAスタジオがミニチュアチームを編成して腕を奮っていまして、ハッタリ演出のためにきっちりお金を使って、安っぽい絵になっていないのが見事でした。

演技陣では、「スクランブル」でB級ネエちゃんと呼んでしまったアナ・デ・アルマスがビリング3枚目(ゴズリング、フォードの次)というすごい扱いになっててびっくり。すごい人だったんだねえ、この人。確かにKを愛するホログラフィというヒロインポジションの役どころを熱演しています。このジョイが垂れ目のかわいいアニメ系の萌えキャラになっているのが面白かったです。主人公は人造人間のくせにオタクなんかい?って突っ込み入っちゃいます。ケバい娼婦とジョイのホログラフィが重なって、主人公に抱きつくシーンなんてのは、オタクにとっては夢みたいなバーチャルリアリティではないかしら。その一方で、冷酷レプリカントのラヴの非情な悪役ぶりがお見事でしたが、最近の映画では、非情な女悪役というのはよくあるパターンなので、作り込んだキャラだとは思うのですが、既視感が出ちゃったのは残念でした。

撮影が、コーエン兄弟作品や「レボリューショナリー・ロード」「愛を読む人」のロジャー・ディーキンスで、重厚演出にふさわしい凝ってるけど落ち着きのある映像で、視覚効果を加えても統一感のある映像を作ることに成功しています。音楽は、最初は「メッセージ」のヨハン・ヨハンソンが担当していたのですが、途中でリジェクトされて、「ダンケルク」のベンジャミン・ウォルフィッシュとハンス・ジマーが担当しました。前作のヴァンゲリスのアンビエント風の音を踏襲していまして、さらに低音増強効果もあって、「ダンケルク」の音作りに近いものがありました。ただ、ヴァンゲリスの愛のテーマに相当する曲が入ってなくて、今風の効果音に近い音楽になっているのは、ちょっと残念でした。まあ、愛のテーマを入れるシーンのない映画だってこともあるんですが、ヴィルヌーヴのテンション高いまま突っ走る演出だと心安らぐ音楽を入る余地はなかったってことはありましょう。

ひどい言い方しちゃうと、この映画は、前作のエピローグと新しい物語のプロローグだけで、本筋がないという「スターウォーズ フォースの覚醒」みたいな作りになっていますので、この映画一本だけで、評価できないってところがあります。でも、ブレードランナーってのはこういう雰囲気で、こんなテーマをベースにしてるんですぜってのが伝わってくるので、ブレードランナーの大枠を説明しているということは言えましょう。ただ、私はエッチして子供を作るアンドロイドってのはどうにも気持ち悪いので、こういうのは苦手です。それが、マイノリティとなって反乱を起こすというのは、新しい「猿の惑星」の焼き直しみたいですし。前作の儚げな感じのお話が、骨太のスケールの大きな話へ膨張するのも、あんまり好みじゃないってところがあります。じゃあ、レプリカントでありブレードランナーでもあるKの物語としてはどうなのって言われると、ライアン・ゴズリングの静かな熱演もあってなかなか見応えがありました。自分は何か特別な運命を背負ってるかもって感じるようになってからの展開は面白かったです。まあ、近未来デストピアものとして、リッチな雰囲気を楽しみたい方にはオススメできます。35年前のような驚きはありませんけど、しっかりとした世界観はかなり見応えがあります。また、ハードボイルドな展開のようだけど、ヘビーで湿っぽい感じが面白くて、こういう映画の作りもあるんだなっていう発見もありました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



調査に行った孤児院で、Kは自分の記憶にあった焼却炉を発見し、記憶の中で、隠しておいた木馬を見つけてびっくり。これは実在の人間の記憶なのか、ひょっとしてレプリカントから生まれたのは自分なのかもって思い始めます。ジョイは「そうよ、あなたは特別なのよ」ってKの思いを後押しします。そして、木馬の残留放射線から、あった場所が特定され、Kとジョイはかつてのラスベガスへ飛びます。生物反応を見つけて、かつてのホテルのような建物に入ってみれば、そこにいたのが年くったデッカードでした。そして、埋められていた人骨はレイチェルのものであり、生まれた子供を隠すために色々画策されたことを知ります。しかし、そこへラヴとその部下が追跡してきます。ジョイは元の装置を破壊されて消滅。Kはボコボコのされ、デッカードはウォレス社へ連れ去られます。そんなKを助けたのは、Kの部屋を訪れた娼婦でした。彼女もレプリカントで、旧型レプリカントは集団で逃げ延びていたようで、いよいよ反撃ののろしを上げようとしていました。リーダーの女レプリカントは、レイチェルが子供を産んだときにその場にいたらしく、生まれた子供の元に旧型レプリカントの反乱を起こすとKに告げます。そして、レイチェルの産んだのは女の子だったとも。Kは、自分じゃないのってちょっとがっかり。リーダーは、レイチェルの娘の居場所を吐いてしまう前にデッカードを殺すようにKに依頼するのでした。そして、ウォレス社で口を割らないデッカードを、ウォレスは地球外植民地へデッカードを護送するようにラヴに指示します。その護送中のスピナーを、Kのスピナーが襲撃し、海岸へ墜落したラヴのスピナーにKが乗り込み、デッカードを助け出そうとして、ラヴと格闘になり、最終的にはKはラヴの息の根を止め、デッカードを救出します。Kは、デッカードとレイチェルの娘であったアナ・ステラインの研究所へ連れていきます。ラヴとの闘いで負傷して虫の息のKの上に雪が降り注ぐところで暗転、エンドクレジット。

後半で、突然、レイチェルの娘が旧型レプリカントの反乱の旗頭になるという話が出てきて、「何じゃそりゃ?」となるのですが、レプリカントの反乱は描かれることなく、Kがラヴを仕留めて、デッカードを娘のところに送り込んだところでおしまい。一応、Kのドラマとしては終わりなんだけど、デッカードと娘の物語は放置状態となります。こんな形でお話を終わらせるのは無責任だと思うのは、私は古い人間なんでしょうね。きっとこの話の続きは、映画やTVドラマで作られることが前提なんでしょう。ともあれ、旧型レプリカントと新型レプリカントと人類という三者対立の構図は明確になりましたし、旧型レプリカントをレジスタンスに位置付けることもわかりました。で、この先、レプリカントの反乱が起こって...って、オリジナルから話を広げすぎなんじゃないかって気がしますが、そう思うのは私だけかしら。どんどん話を「因縁話」と「集団抗争」へと広げるのは、最近のハリウッド映画の傾向のように思えるのですが、そこまで話を膨張させる必要があるのかしら。この先、タイトにまとまった短編小説の味わいのSF映画は作られなくなっちゃうのかなあって思わせる結末でした。確かに映画の製作費が高騰しているから、映画という事業で元を取るためには、当たるネタはどんどん話を拡張させて、色々な形で稼げるようにしないといけないのかもしれないけど、オリジナルの「ブレードランナー」の結末、エレベータの前でサクッと暗転して終わる味わいがなくなるのは、つまらないという気もしちゃうのでした。
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「女神の見えざる手」はヒロイン含めた手厚い演技陣のドラマに見応えあり、オススメ。


今回は、新作の「女神の見えざる手」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ2で観てきました。もうすぐ日比谷に新しい東宝のシネコンができるけど、その時、ここはなくなっちゃうのかなあ。場内がフラットで見やすさが今イチなシャンテ2と3はどうでもいいけど、シャンテ1は残して欲しいなあって思います。シャンテがメイン館となる映画があるわけで、それがシネコンにまとめられたら、どういう扱いにされちゃうのか、すごく不安。

アメリカの政治へ裏から動かす存在となっているロビイスト。その中でもエリザベス・スローン(ジェシカ・チャスティン)は、政治家やメディアから一目置かれる存在でした。彼女に、新たな銃規制法案を廃案へ持っていくためのロビイスト活動の依頼が大物政治家サンドフォードから持ち込まれるのですが、彼女はそれを一蹴してしまい、上司のデュポン(サム・ウォーターストーン)は激怒します。一方、そんな彼女に銃規制法案を可決させたいロビー会社の社長シュミット(マーク・ストロング)が金額を提示してヘッドハンティングしてきます。彼女はそれを受け、現在の会社を辞めて、自分のスタッフを引き連れてシュミットの会社へ移ろうとしますが、若い部下のジェーン(アリソン・ヒル)は彼女に反旗を翻して、スローンの同僚だったパット(マイケル・スタールバーグ)と共に元の会社に留まるのでした。シュミットの会社へ移ってからは、様々な手を尽くして法案の票集めに奔走します。そんな中で自分のチームのメンバーを監視し、、敵方のパットと内通していたスタッフを告発したり、銃規制に詳しいエズメ(ググ・バサ・ロー)の過去を宣伝活動に利用したりと、勝つためには、相手の先を読み、手段を選ばないやり方は、シュミットや部下からも浮いていきます。一方、彼女の息の根を止めるために、過去のロビー活動を調べ上げ、その中に違法性のある活動を洗い出し、スパーリング上院議員(ジョン・リズゴー)による聴聞会に、スローンを引きずりだすことに成功するのでした。

イギリスの弁護士だったジョナサン・ペレラが初めて書いたオリジナル脚本を「恋に落ちたシェイクスピア」のジョン・マッデンがメガホンを取りました。映画のトップで、リュック・ベッソンのヨーロッパ・コープのロゴが出てびっくり。その後にフィルムネイションのロゴが出て、この映画、仏米合作映画ということになってるんですが、どこかアメリカを一歩引いた視点で捉えているのが面白い映画でした。「天使の見えざる手」という邦題も結構いいところついてまして、まずキャッチーで、何だろうこの映画と思わせる効果もあり、実際に観終わってからじわじわくるところもあり、最近の洋画の邦題としてはかなり点数高いです。アメリカのロビイストを題材にしたというので、日本人の私には興味深い内容でしたし、そこに銃規制というネタを今そこになるネタを盛り込んで、なかなかに尖った映画になっています。そこに銃規制のプロパガンダ映画という臭いもするのですが、そのプロパガンダのやり方を見せるという二重構造になっているのも点数高く、娯楽映画としても面白くできています。社会派エンタテイメントというジャンルになるのでしょうが、マッデンの演出は登場人物を丁寧に描写して人間ドラマの娯楽映画に仕上げていまして、社会派の部分があくまで背景に置かれているのが面白いと思いました。色々な意味で楽しめる映画になっています。

ヒロインは、典型的なキャリア志向の仕事人間でして、不眠症なのにさらに眠れなくなる薬を常用しています。なぜそこまで頑張るのかなんですが、とにかく勝ちたい人らしいんですよ。そして、一つ目標を決めたら、勝つための手段を選びません。ロビー会社というのは、クライアントの要望に従って、ロビイストの私情とは無関係に、ロビー活動をします。ですから、純粋にビジネスライクに行動するのであれば、スローンは、クライアントの要求に答えて、銃規制法案を廃案にするための活動をするところなんですが、彼女はそれを拒否します。そして、銃規制法案成立を目指す中小ロビー会社へと移り、銃規制法案成立のキャンペーンを推進します。元いた会社のメンバーはそれを面白く思うわけもなく、彼女の行動をマークして法案つぶしにかかります。議員は次の選挙で当選することが一番大事なので、その地方の票数を稼げる人間の言うことを聞くことになりますので、そのキーマンを押さえるべくロビイストは画策することになります。その中で、面白かったのは、銃規制反対の陣営の方が金をいっぱい持っているので、銃規制推進は無理だという空気が流れているのですが、スローンは女性団体を焚きつけて票と金を集めようとするのです。銃規制反対の陣営も、最初は、女性に銃の必要性を訴えるロビー活動を仕掛けようとしてますし、なるほど、銃規制のカギは女性が握っているんだなという見せ方にはちょっと感心。

日本人的には、銃規制廃案のクライアントを切って、銃規制法案成立のために会社を移るヒロインはかっこよく見えるんですが、でもロビイストにとって、クライアントの要求の良し悪しなんて問題ではなく、倫理の葛藤をオミットして、クライアントのために動くのが仕事です。そう考えれば大口顧客にノーと言うのはプロらしからぬ行動です。身内に銃で撃たれた人がいたのか、彼女のバックグラウンドは語られないのですが、ともかく、彼女は銃規制を法制化することが正しいことだと信じているようです。そこまでは、日本人観客の私にはウェルカムなんですが、その実現方法はかなりえげつない。まずスタッフを全然信用してなくて、自分のやろうとしていることはギリギリまで伏せておきます。銃規制のキャンペーンのためには、スタッフのプライベートを断りなしに利用し、そのことについて、私は勝つためには何でもやると開き直ります。「目的は手段を正当化する」ってのがあてはまるのかな。でも、彼女の目的は、銃法制化よりも、ゲームに勝つことだから、ちょっと違うかな。でも、ゲームに勝つのが目的とは言え、銃規制廃案のゲームから、銃規制成立のゲームに乗り換えたということにはなるから、そこには彼女の銃に対する想いがあったということになるのかも。

でも、元の会社からすれば、彼女は何とか蹴落としたい敵ではあります。そこで、かつての同僚や上司は、彼女が在籍中の仕事の記録を洗い出し、法に触れるものを見つけようとします。すると、彼女の元部下で移籍を拒否したジェーンが、スローンの最後の仕事の中から違法となる記録を見つけ出します。社長のデュポンは上院議員に金のルートを切るぞと脅して、聴聞会に彼女を召喚するのでした。一方、スローンは自分の部下の過去を使って、大きな勝負を仕掛けていきます。

主演のジェシカ・チャスティンはいつも睡眠を覚醒させる薬を飲み続けるちょっと病的なヒロインとして登場するのですが、ラストでハードボイルドヒロインに化けるところが面白く、彼女の演技がドラマを引っ張っていきます。特別な美人とは思えないチャスティンですが、長回しのアップに耐える演技力はすごいと思いましたし、さらに、彼女を囲む脇役陣が知った顔から知らない顔まで皆お見事で、演技陣の頑張りがドラマの面白さを引き出しています。私の若い頃、よく映画館で観た、ジョン・リスゴー、サム・ウォーターストーン、チャック・シャマタといった名バイプレーヤーがおじいちゃんになって渋く映画を支え、新しい世代のマーク・ストロング、マイケル・スタールバーグといった脇役陣がドラマに厚みを与えています。なぜかどこかに出ているディラン・ベイカーまで顔を見せててとにかく演技陣が厚いのですよ。そして、儲け役の女性陣のダグ・バサ・ロー、アリソン・ヒルが印象に残るように配されているのは、演出のうまさなのでしょう。

デンマーク出身のセバスチャン・ブレンコーの撮影は、シネスコ画面に登場人物の一人一人を丁寧に捉えて、ワンシーンの中の各々の役者がきちんと印象に残る絵作りをしているのがうまいと思いました。音楽は、ポストクラシックの人で「サラの鍵」「ディスコネクト」など映画音楽の仕事も多いマックス・リヒターですが、いつものエモーショナルな音を控えめにして、ドライなインダストリアル系の音作りをしていたのが意外でした。最初、音楽で聴いてたらハンス・ジマーが「インフェルノ」「フロイト×ニクソン」のメンツを集めたのかなと思ってしまいましたもの。エンドタイトルでリヒターの名前が出たときはちょっとびっくりでした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(未見の方は読まない方がいいですよ。)



銃規制にくわしいスタッフのエズメは、学生時代に学校内銃乱射事件の生存者でした。そのことを知ったスローンは、彼女に断りなく、その過去をテレビの生放送の討論会で暴露し、スタジオに連れてきていた彼女にスポットライトが当たるように仕向けます。それからのエズメは、銃規制の語り部としてアメリカ各地を飛び回ることになるのですが、ある空港で銃規制反対の男に銃を突き付けられ、危機一髪のところを偶然通りかかった男の銃によって救われます。彼女を救った男は時の人となり、銃規制反対の陣営は息を吹き返します。一方、スローンは、各地の女性団体や女性社長をあたって、銃規制の支持団体と1,500万ドルを集めるのに成功します。銃規制反対の資金力にはかなわないまでも、かなりの票を集めつつあったのですが、エズメ銃撃事件で状況はわからなくなってきます。そして、聴聞会が始まり、最初は権利を盾に無言で突っ張っていたスローンも、老獪なスパーリング上院議員によって口を開かされ、自分の過去を語り始めることになります。さらに、聴聞会側は証人として、スローンが買っていた男娼のロバートを召喚します。しかし、偽証罪に問われる状況でロバートは、スローンと面識はあるが、金で肉体関係を結んだことはないと言い切ります。そして、最後の聴聞会でスローンは意見陳述を許されます。すると、彼女は、上院議員とデュポン社長の密談の盗撮映像をネットにアップしたことを明かします。聴聞会は大混乱となり、最終的に銃規制法は可決されるのですが、スローンは実刑を受けて刑務所に入れられてしまいます。面会で訪れた弁護士に「不正な書類はわざと仕掛けたのか」と聞かれ「実刑で5年だから」と答えます。どうやら自分だけが罪を被るように仕組んだらしいです。そして、出所する彼女のカットから暗転、エンドクレジット。

スローンは会社を辞める時に、自分の腹心のジェーンをスパイとして残しておいて、ずっと敵方の動きをモニターしながら、相手の先の手を打っていたというのは、なるほど、もともとやりかねないキャラだったなあって、びっくりした後に納得してしまいました。そんな中で彼女に計算外だったのは、男娼のロバートが聴聞会に現れたところで、ここでドラマ的にもハラハラ度が盛り上がるのですが、ロバートが彼女に買われていないと驚きの証言をします。全て計算ずくのドラマの中で、唯一、情が前面に出るシーンでした。孤独なスローンが心を通わせたのは、男娼のロバートだけだったというのが、ささやかなペーソスが感じられるエピソードとして印象に残りました。このエピソードで、勝ち負けのゲームの世界で生きるヒロインの別の顔を見せた脚本が見事だと思いました。

ラストの逆転劇は、違法な盗聴・盗撮によるものです。しかし、手段の良し悪しという倫理観より、違法なやり方でも派手に仕掛けた方が勝つという結末は、ロビー活動の怖さを示しています。でも、銃規制は正しいんだというプロパガンダ的な顔も持ってまして、色々な問題提起をしつつも、娯楽映画として楽しませるというハリウッド映画のいいところを持った作品と言えましょう。まあ、アメリカをかなりシニカルな視点で捉えた映画になってまして、これは脚本、監督がイギリス人だというのが大きいのかも。(プロダクションのトップはフランスですしね。)さらに、よく描き込まれたヒロイン、厚みのある脇役陣が、見応えのあるドラマを作り出していますから、映画としての面白さで言ったら、今年のトップクラスでしょう。観終わって、ラストのどんでん返しが要らないんじゃないかと思ったくらい、人間ドラマとしての満足度が高かったです。とは言え、ラストのどんでん返しのおかげで、孤独でタフなヒロインのハードボイルド映画という顔も見えたので、そこは一長一短と言ったところです。

ところで、この映画、「反トランプのエンタテイメント」ということで、賞レースに上がってこないかなって期待もちょっとだけあるんですが、アメリカでの評判はどうだったのかしら。

「アトミック・ブロンド」は色々な要素を全部乗せしたような映画だけど面白く作ってあります。でも、まずはヒロインかっこいい。


今回は新作の「アトミック・ブロンド」を川崎の109シネマズ川崎シアター1で観てきました。ここはエグゼクティブ・シートというちょっとお値段と座り心地のいいシートが前後も真ん中あたりにある映画館。会員になると普通の値段で使えるみたいなんですが、会員特典にもうちょっと何かつけてくれると入会するんだけど。

1989年、ベルリンの壁崩壊の直前のベルリンでのお話。イギリスのMI6の諜報員ガスコインがKGBの殺し屋バクティンに殺され世界中の各国機関のスパイ名簿が奪われてしまいます。MI6のグレイ(トビー・ジョーンズ)はそのリスト奪還のために敏腕諜報員であるロレーン(シャーリーズ・セロン)をベルリンに送り込みます。ベルリン支局のMI6のエージェントであるパーシヴァル(ジェームズ・マカヴォイ)と合流するはずが空港で待ち構えていたのはKGB。彼らを一蹴すると、そこに現れるパーシヴァルなんですが、こいつが得体の知れない男で、何か隠しているみたい。リストを手にしたバクティンは姿を消していて、KGBのプレモヴィッチも彼を追っていました。また、フランスの諜報員デルフィーヌ(ソフィア・ブテラ)も、ロレーンに接近してきます。ロレーンは独自に調査に乗り出すのですが、行くところ行くところに警察やKGBがやってきて、彼女の行動はリークされているみたいです。一方、リストの提供者であるスパイグラス(エディ・マーサン)はリストの内容を全て暗記して、西側へ逃げられるようにパーシヴァルに接触してきていました。そして、市民デモに紛れて、スパイグラスを西側へ逃がす作戦が実行されることになります。

アントニー・ジョンストンとサム・ハートによるグラフィックノベルを、「300」シリーズのカート・ジョンスタッドが脚本化し、アクションコーディネーター出身で「ジョン・ウィック」を共同監督したデヴィッド・リーチがメガホンを取りました。1989年のベルリンを舞台にした女諜報員のハードアクション編ですが、そこに当時流行った音楽をシーンのあちこちに差し込んで、ミュージックビデオ風の凝った映像で、アクションは派手、ストーリーは結構シリアスなスパイものという、ハイブリッドな映画に仕上がっていて、これ、意外と面白かったです。一言で説明するのは難しいですが、まず戦うヒロインがかっこいい映画というのが前面に出てきます。でも、画面の色調は抑え目で暗い画面は、007系というより、ジョン・ル・カレの映画みたいなタッチ。それに80年代の音楽が乗るので、かなり不思議な盛り合わせになっています。

ヒロインはバスルームのシーンで登場するのですが、体中傷だらけ。顔にもひどい青あざがありますし、ボコボコにされた後みたいなんです。そして、彼女はロンドンのMI6の本部に呼び出され、上司の前で尋問を受けることになります。そこにはなぜかCIAのカーツフェルド(ジョン・グッドマン)も同席します。そして、ロレーンの口からベルリンで起こったことが語られるという回想形式の構成になっています。冒頭からヒロインが満身創痍というのが、まず普通の映画ではないのですが、発端だか見ると、シリアスなスパイものみたいです。そして、ベルリンの空港で彼女を迎えに来た車の中でのアクションとなり、おや、これは女ヒーローものなのかなという感じになっていきます。ロレーンのアクションは、屈強な男とやりあうリアルで重めのもので、マッチョでもなく、大柄でもないヒロインが、大男からマジに殴られるので、かなり痛そう。そういう殴り合いだと、従来の映画だと、女性の方が最後には力負けして、男に組み敷かれちゃうというのがパターンなのですが、このロレーンは、華奢な見た目で、最終的に打ち勝っちゃうのがすごい。そんなタフなヒロインである一方で、若いフランスの諜報員デルフィーヌとレズ的な関係になっちゃうのが面白いところです。

冒頭から、ガラの悪い口の利き方をするビッチ臭の濃いロレーンなんですが、だんだんと単なるアバズレ風の見た目のところどころに信念のようなものを垣間見せるようになり、だんだんとヒロインに肩入れしたくなってくるのは、うまい構成だと思いました。登場した時はビッチだったのが、物語の進行に伴ってヒロインとしての肉付けがされていくのですよ。どんな役でも手堅くこなすシャーリーズ・セロンですが、こんな劇画調の映画の中でも、きっちりとヒロインとして映画を盛り立てていきます。後、この人、昔から脱ぎを厭わない人でして、この映画でも自然に脱いでます。ただ、この人、美人さんだし、スタイルもいいのに、脱いでも色っぽくならないんですよね。でも、その自然な脱ぎも含めて、彼女かっこいいのですよ。クライマックスのアクションでは、長回しの移動カメラで、狭いビルを舞台に、拳銃やらその辺にあるもの何でも使っての殺し合いになるのですが、これが迫力満点。お互いにヨレヨレになりながらトドメを刺そうとするあたりのリアルな見せ方もあって、かなりの盛り上がりとなりました。また、撮影時は40歳くらいだと思うのですが、これくらいの年齢だと、MI6の有能な諜報員という設定に説得力があるんですよね。対照的に若いフランスの諜報員(これが初仕事というセリフもあり)を登場させることで、プロフェショナルでガチ強いヒロインが説得力を持って際立ちました。

クールでタフなヒロインと対照的に、生臭いキャラになっているのが、ベルリン駐在員のパーシヴァルでして、東ベルリンと西ベルリンの間を行ったり来たりしながら、色々なことをやってるらしい。殺されたガスコインとは旧知の仲で、リストを暗記しているスパイグラスも押さえています。酸いも甘いも噛み分けたキャラのようでもあり、何か腹に一物持った男のようにも見えます。ロレーンにも何か隠しているようですし、中盤では、リストを売ろうとしていたバクティンを殺して、リストを奪ってしまいます。でも、そのことはロレーンにも本国にも報告しません。一体、何を考えているのかよくわからないのですが、ラストで結構意外な正体を現します。

そんなハードなスパイ戦のバックに流れる音楽は、昔聞いたことあるものが多くて、80年代の独特のビートが懐かしくもかっこよく映像を盛り上げます。そんな懐かし感のある雰囲気の中で、派手なアクションが抑えたタッチの画面で展開します。言葉の表現が変ですが、映像的には地味目だけどやってるアクションがすごいって感じ、伝わりますでしょうか。先ほど触れた長回し肉弾戦(ホントにワンカットでやってるかはわからないです。うまくつないでいるのかもです。)の他にも、車載カメラが周囲360度回りながらのカーチェイスなど、なかなかの臨場感で見応えがありました。リーチの演出はあれもこれもと欲張って盛り込んだ内容を手際よくさばいて、1本の面白い映画に仕上げるのに成功しています。趣向が先走りしてドラマがおろそかになりそうなところを、演技陣の頑張りで、エスピオナージものとしての味わいも出たという印象で、エディ・サーマン、ジョン・グッドマン、ティル・シュヴァイガー、ビル・スカルスガルドといった脇役陣の好演が光りました。特に最近、よくお目にかかるエディ・マーサンは、主役も脇役もやれば、善玉も悪役もこなす人ですが、この映画では、渋い脇役として、ドラマのシリアス部分を支えています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



スパイグラスをデモに紛れさせて西側へ脱出させるという作戦を実行にうつすのですが、なぜかKGBはそれを知っていて狙撃チームで待ち受けていました。デモ隊に傘をささせるというロレーンの作戦で狙撃を免れるのですが、陰からパーシヴァルがスパイグラスを撃ちます。負傷したスパイグラスをビルの中へ避難させるロレーンですが、そこでKGBの連中との銃撃戦から肉弾戦となります。ヨレヨレになりながらも、相手を皆殺しにしるロレーンですが、盗んだパトカーで脱出しようとしたところ、さらにKGBの追跡車に追われ、最後には運河に車ごと落とされてしまいます。車に挟まれたスパイグラスは溺死、何とか車を抜け出したロレーンは、KGBに情報を流していたのがパーシヴァルだと知り、デルフィーヌにもそれを伝えます。逃げようとしていたデルフィーヌを、パーシヴァルは殺害。リストと共に高飛びしようとしたパーシヴァルは、ロレーンの銃弾に倒れるのでした。そこで、ロレーンの報告は終わり、彼女はリストは発見できなかったと報告します。MI6はこの一件はなかったことにして事態の収拾を図ります。その後、パリで、ロレーンと会っていたのがKGBのブレモヴィッチ。彼は、ロレーンからリストを受け取ると、部下に彼女を殺させようとしますが、彼女の早撃ちは、そこにいたKGBの面々を皆殺しにしてしまいます。そして、ロレーンは、飛行場に向かうと待っていたプライベートジェットに乗り込みます。そこで彼女を待ち受けていて、リストを受け取ったのはCIAのカーツフェルドでした。やっと彼女のミッションは終了したのでした。

KGBと通じていたパーシヴァルは、死に際に、ロレーンに向かって「あんたは賢すぎるから、自分には無理だと思ってKGBに殺させようとした」なんてことを言います。結局、全てお見通しみたいに見えていたパーシヴァルが、ロレーンを恐れていたとわかると、結構こいつ小者だったというのがわかるあたりが面白かったです。さらにリストには、ロレーンの正体も書いてあったと彼は言って死ぬのですが、その後、ロレーンがKGBとつながっているのかなと一瞬思わせて、実はCIAの手先だったとわかるラストは結構意外ではありました。ただエピローグで二転三転するのは、ドラマとしては、ごちゃごちゃし過ぎだし、ロレーンの孤高のかっこよさが若干薄まってしまったので若干減点。それでも、非情なエスピオナージものとしてラストは締めたかったんだろうなってところは伝わってきました。このストーリーだと、ナレーションか字幕で処理しそうなエピローグ部分に派手な銃撃戦を持ってきたところは、観客へのサービス精神は感じました。

また、映画の途中で、不自然にカーツフェルドが登場するシーンがあって、何か変だなと思わせる部分はあったので、全ての黒幕がカーツフェルドだったというのは、驚くにはあたらないのかもしれません。ともあれ、ベルリンの壁崩壊の裏でこういうスパイ戦争があったんですよというお話を、見せ方は劇画調、お話としてはシリアス展開で見せたというのは成功していると思います。でも、ちょっと考えてみると、この映画、色々な映画からの趣向を全部乗せという感じで作ってあるんですよね。「ジェイソン・ボーン」シリーズとか「裏切りのサーカス」「我らが背きし者」などのジョン・ル・カレ原作もの、さらに女肉弾戦は「エージェント・マロリー」のようでもあり、女ハードボイルドというなら「東ベルリンから来た女」の味わいもあります。その上に、MTVを盛って、80年代サウンドのおまけつきですからね。でも、映画として全部乗せの胸焼け感はなかったですから、そこは監督の采配がうまかったのかしら。

「僕のワンダフルライフ」子供向け絵本のようなお話だけど、丁寧に面白く作ってあって楽しめました。


今回は新作の「僕のワンダフルライフ」を川崎のTOHOシネマズ川崎1で観てきました。この映画、吹き替え版と字幕版が半々の上映となっています。子供がターゲットってことかなのかな。

主人公の犬は、車に閉じ込められているところをイーサン少年とそのお母さんに助けられ、その家で飼われることになります。ベイリーと名付けられた犬はイーサンと大の仲良しとなります。高校生になったイーサンはハンナという彼女ができて、2人と1匹はよくつるむようになります。アメフトで大学進学を勝ち取ったイーサンですが、それをねたんだチームメイトが彼の家に放火し、窓から飛び降りた時に足を負傷したイーサンは大学を断念、ハンナにも別れを告げ、祖父の家にベイリーを預けて、農業学校に進みます。その間にベイリーに寿命が来るのでした。と、気づくとベイリーは警察官カルロス(ジョン・オーティス)の飼い犬エリーに生まれ変わり、今度は警察犬としての人生を歩むことになります。今度の飼い主は過去がありそうな孤独な人で、エリーはそんな彼に寄り添うようになります。自分の娘を母親から誘拐した父親を追跡した際、撃たれそうになったカルロスを救うために犯人の銃弾に倒れるのでした。次に生まれ変わったのは大学生マヤの飼い犬ディノ。孤独だった彼女に彼氏ができて結婚し、子供に恵まれるまで、ディノは彼女の人生を見守るのでした。さらに次に生まれ変わったのがワッフルズという犬でしたけど、飼い主からあまり構ってもらえず、大きくなり過ぎたということで捨てられてしまいます。そして、家をさがして歩き回るワッフルズは通りかかった公園で懐かしい臭いに気づくのでした。

W・ブルース・キャメロンの原作を、キャメロン、キャスリン・ミション、オードリー・ウェルズ、マヤ・フォーブス、ウォーリー・ウォルダースキーの5人が脚色し、「ショコラ」「HACHI 約束の犬」のラッセ・ハルストロムが監督しました。脚本が5人かかりというのは、5人でわいわい議論しながら作ったのか、5人でリライトにリライトを重ねたのかはわかりませんが、かなりの難産ではなかったのかしら。1匹の犬が輪廻転生をくり返して、元の飼い主に巡り合うまでを描いたファンタジーです。「アナと雪の女王」のオラフの声を担当したジョシュ・ギャッドが主人公の犬を演じて、彼のナレーションによって物語は進んでいきます。よくテレビの動物番組で、動物を擬人化した一人称のナレーションを聞くことがありますが、私はあれって結構サムいと思ってまして、動物が何考えているかなんてわからないし、ましてや人間の発想をするってのは、無理があるんじゃないかって。そんな私ですから、この映画、のっけから期待するところなかったのですが、他に目についた映画がなくって、何となくスクリーンに臨みました。

で、どうだったかというと、これ、面白かったです。絵本を読むような味わいなので、犬が人間らしい口を利くのも意外と抵抗がなく、素直に楽しむことができました。前半、若干過剰に感じられた犬のナレーションも、ラストの盛り上がりに一役買っていて、全体として丁寧に作られたドラマが心地良い映画に仕上がっています。何度も生まれ変わる主人公が必ず犬に生まれ変わっていくという設定も、絵本のおとぎ話の世界だと思えば、ツッコミ入れる気にはなりませんし、ドラマとしての作りがすごく丁寧で、観ていて退屈したり、「何じゃそりゃ?」ってなるところがなくて、犬好きでも動物好きでもない私でも、この映画楽しめましたから、犬が好きな方には余計目に堪能できるのではないかしら。

主人公が様々な犬に生まれ変わり、様々な飼い主に接していくなかで、飼い主の幸せを自分の使命のように感じるようになっていくという展開は、出来過ぎ感ありありなんですが、人間と犬の間でコミュニケーションが取れないところがきちんと描かれているので、まあ、そういうこともありかもくらいに受け入れることができます。この映画に登場する人間は、犬を犬という友人として扱っていて、擬人化したり、自分の希望する姿を犬に押し付けることをしません。なので、関係が近づき過ぎないところに、好感が持てました。犬は犬なりに思うところがあるんだよ、という見せ方は、子供向けの絵本のタッチにふさわしい設定になっていまして、そのさらりとした味わいが、ラストでぐっと盛り上がるのが見事でした。

ハルストロムの演出は、要所要所に犬目線のカットを入れて、主人公の感情を表現することに成功していますし、人間ドラマの見せ方も犬に見える世界だけ描くことで、思い入れのない淡々とした味わいになっています。そうなると、ドラマとしての奥行きがなくなっちゃうのですが、ハルストロムの丁寧な演出は、そこの物足りなさを感じさせずにラストまで観客を引っ張っていきます。初期の「ギルバート・グレイプ」の頃は映画作家風の監督さんだったハルストロムですが、「サイダー・ハウス・ルール」の頃からお話の語り部職人のうまさを見せるようになりました。語り口のうまさは「HACHI 約束の犬」や「親愛なる君へ」などの原作もので発揮されてきました。一方で、元のお話が今一つだと映画も今一つな感じになっちゃうのですが、この映画は、典型的な絵本のようなファンタジーを、丁寧かつ素朴な語り口で、最後まで観客を引っ張っていきます。実話じゃないし、リアルでもないお話というので、監督の自由度が高かったのかなって気がしていまして、特にロングショット主体の絵の切り取り方が、絵本のタッチを映像化していて見事でした。テリー・ステイシーの撮影がうまいのかもしれませんが、人と犬を一つの画面でロングに捉えた絵が多くて、感情を盛り上げない絵作りが、この映画に一定の節度と品を与えていることは確かだと思います。

人間側の主人公は、強いて挙げれば学生時代のイーサンということになるのでしょうが、人も犬も、時間の経過とともに入れ替わり立ち代わりするので、唯一最初から最後まで変わらないのは、犬のナレーションだけですからね。そんな構成で、最初から最後まで通して登場する人間キャラがいないドラマなのに、ちゃんと1本の映画としてまとまっているのは演出のうまさなのでしょう。レイチェル・ポートマンの音楽も、メインテーマやほのぼの系優しいサウンドなのですが、場面や展開によって色々な音楽をつけていまして、それでもトータルな音としてきちんとまとまっています。絵作りの丁寧さも含めて、様々な職人芸がこの映画を支えていまして、その結果、私みたいな動物が苦手な人間でも、素直に楽しめちゃいましたから、この映画、かなりオススメ度高いです。作りのうまさという点では、今年のベストかも。まあ、感動とか人生観が変わるとかそういうお話ではないんですが、よくできた映画として堪能できました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



公園を彷徨っていたワッフルズが気づいた臭いはベイリーだった頃のものでした。そして麦畑を通っていくとさらに懐かしい臭い。その先にいたのは年を取ったイーサン(デニス・クエイド)でした。農場の家で一人暮らしをしているみたい。ワッフルズことベイリーは、イーサンの家に押しかけて居座って、最終的にイーサンの飼い犬になっちゃうのでした。そして、いろいろとアピールして、自分があのベイリーであることをイーサンに伝えることに成功します。一方、公園でかいだ臭いは、ハンナの匂いでした。ベイリー(姿はワッフルズね、面倒くさいな)は、ハンナ(ペギー・リプトン)の家までついていっちゃいます。ベイリーのつけてた名札から、飼い主がイーサンであることを知ったハンナはベイリーをイーサンの家まで届けてあげます。ハンナは孫もいましたけど、ダンナが亡くなって、故郷の町へ戻ってきていたのでした。改めて、ハンナに昔のことを詫びて、告白し直すイーサン。そして、二人は結ばれるのでした。めでたしめでたし。

クライマックスは、見た目ワッフルズのベイリーが、自分がベイリーであることを大人のイーサンに伝えるところになります。昔を思い出させるために、あれこれ奮闘するベイリーがなかなか泣かせるのですよ。本気でそんなこと考える犬がいるのかよーというマジな突っ込みは忘れて、ホロリとさせられちゃいましたから、ファンタジーとしてうまくできてるのでしょう。子供の読む絵本みたいな内容で、それをきっちりと1本の映画と仕上げているのはお見事でして、子供むけの話とわかってるけど、大人でも楽しめる映画になっているのは、点数高いです。ホント、よくできてるんですよ、この映画。

「ブレードランナー ファイナル・カット」は主人公がかっこ悪いけど、やっぱり面白い。


今回は、1982年に公開された「ブレード・ランナー」の「ファイナルカット」というのを、川崎の川崎チネチッタ8で、観てきました。続編の「ブレード・ランナー 2049」が公開されることからの特別リバイバルということになるのでしょうか。続編が公開されるときに、よくテレビで前編が放映されることがありますが、その劇場版だと思えばいいのかな。LIVE ZOUNDによる上映でして、低音がぐんと響く音響はこういう映画でも有効でした。

レプリカントと呼ばれる人間そっくりのアンドロイドがタイレル社によって開発され、彼らは宇宙開拓の最前線で過酷な労働に従事していました。そんな中でレプリカント6人が脱走し、スペースシャトルを奪って、地球にやってきます、既に2人は死亡。さらに一人はタイレル社に従業員として入り込もうとして失敗、その時、彼をテストしていたレプリカント捜査官(ブレードランナー)が死亡。既にリタイアしていた凄腕ブレードランナーのデッカード(ハリソン・フォード)が呼び戻され、逃亡したレプリカントの「解任(要は殺すこと)」の任務につくことになりました。デッカードはまずタイレル社の社長に会い、その秘書レイチェル(ショーン・ヤング)に紹介されます。彼女をテストしたところ、レプリカントであることがわかるのですが、彼女自身はそのことを知らされていませんでした。一方、逃げたレプリカントのリーダー、ロイ(ルトガー・ハウアー)は、自分たちに設定された寿命を伸ばす方法を探していました。レプリカントの技術者を脅すと、それはタイレルの社長にしかできないと聞き、彼の友人であるセバスチャン(ウィリアム・サンダーソン)に、レプリカントのブリス(ダリル・ハンナ)が接触します。レイチェルは、デッカードの部屋を訪ね、自分の正体を知ってしまってショックを受け、姿を消します。デッカードは、逃げたレプリカントのいたホテルの遺留品から、クラブを特定、ダンサーをしていた女レプリカントを射殺するのですが、もう一人のレプリカントに襲われて絶対絶命。そのレプリカントを射殺し、彼を救ったのはレイチェルでした。残るレプリカントはロイとブリスの2人。しかし、上司は逃げたレイチェルも殺せという命令を出すのでした。

フィリップ・K・ディックの原作をもとに、ハンプトン・ファンチャーとデビッド・ピープルズが脚本を書き、リドリー・スコットがメガホンを取りました。私は劇場公開時にこの映画を観てなかったのですが、その後、ビデオブームで、この映画が注目されるようになり、特にサラウンド音響効果のサンプルとして有名となりました。私は、ビデオが有名になったときに、レンタルビデオで劇場公開版を観ました。デッカードのモノローグが入る、ハードボイルド探偵ものの雰囲気を持ったSF映画という感じでしょうか。エンドクレジットはスピナーから見る飛行シーンが流れるバーションです。しかし、この後、ディレクターカット版というのが登場し、デッカードのモノローグはなくなり、エンドクレジットも黒地のシンプルなものになり、さらにデッカードがユニコーンの夢を見るカットが追加となっていました。この夢シーンが、デッカードもレプリカントだということを示唆するものだという解説がついてたのですが、私には「何のこっちゃ」と思った記憶があります。このディレクターズ・カット版は、私は今は亡き、東銀座の松竹セントラルで劇場鑑賞しました。その後、さらにファイナル・カット版というのが登場しました。今回、観たのはこのファイナル・カット版というもので、実際、エンドクレジットに「Final Cut Version」と出ます。さらに、追加のスタッフ(特に視覚効果チーム)がクレジットされていまして、視覚効果をさらに修正しているようです。

この映画が話題になったのは、雑然としたスラムのような近未来のLAの描写でして、これが未来のイメージなのってところが新鮮でして、複数の言語が飛び交い、ネオンのでっかい広告には日本語でわかもとが登場したり、看板も中国語や日本語がやたら登場するのが、自分が日本人だから余計インパクトありましたし、何だかえらく荒廃した感じの未来像は、若いSFオタクやSFXオタクをくすぐる要素がいっぱいでした。また、シド・ミードがデザインに参加し、ローレンス・G・ポールが担当した美術と、ジョーダン・クローネンウェスの撮影による映像がすばらしく、全てのカットが隙のないかっこよさだったのも、映画の大きな魅力となっています。これにダグラス・トランブル、リチャード・ユリシッチ、デビッド・ドライヤーによる視覚効果が加わって、最先端の科学設備と小汚いどぶ板横丁が同居する不思議な世界が作りだされました。これは、監督のリドリー・スコットのこだわりがあったようで、破綻なくまとめあげた世界観は、今観ても新鮮で、映像としての見応えは半端ないです。映画館で再見できてよかったです。

また、当時から話題となっていたのは、寿命が定められたレプリカントたちの行動に哲学的なにおいがあったこと。これも、文化人っぽい人々のハートをくすぐったようです。レプリカントは能力は人間よりはるかに優秀、感情も人間なみに持っているのですが、それだと人間より優位になっちゃうことが危惧されて、4年という寿命を設定されています。ロイたちはこの寿命を延ばすために脱走したのです。でも、人間だって能力が衰えていって最終的に迎える寿命があるわけですから似たようなものではあるのですが、彼らは不自然に歪められているということになるみたいなんですね。人間の寿命だって、医学の進歩で不自然に歪められてる(当時は健康寿命なんて言葉はなかったですし)ので、ロイの行動動機がそれほどすごいものとは思えなくなってきたように思います。35年前のカルチャーを知るという意味でも、面白い映画ではないかしら。私は、現代の感覚と若干の違和感を感じたのですが、今の若い人はこの映画の感覚はすんなりと入ってくるのかなあ。

また、最初のバージョンはハードボイルド探偵ものみたいなモノローグから始まるので、あまり気づかないのですが、よくよく見るとデッカードはハードボイルドなヒーローと呼ぶにはかっこ悪いのですね。レプリカントを破壊するための特殊な銃を持って、丸腰のレプリカントを殺しまくる(と言っても映画の中では女2人だけですが)というのは、見た目に美学を感じられないのですよ。レプリカントは、高温低温にも耐えうる強靭な体を持っていて、力もあるしスピードも速いので、普通の人間にはとても太刀打ちできないので、特殊な銃で確実に仕留めるしかないのですから、丸腰の相手であろうと、逃げる相手にも発砲しないと仕事にならないのです。でも、あんまりかっこいい仕事でないことがだんだんわかってきます。それに、デッカードがレイチェルに「あんたレプリカントだよ」とか「あ、やっぱり冗談だよ」とか言うあたりもヒーローにしてはかなりかっこ悪い。さらに、その後の口説き方が、はっきり言ってかっこ悪い。クライマックスも、ロイに追われてびびって逃げ回るだけのデッカードにハードボイルドの香りはありません。その人間臭いところがいいという見方もありますが、覚悟のあるロイやレイチェルといったレプリカントの引き立て役に近いポジションになっているのは面白いと思いました。

このデッカードのキャラで思い出したのが、リドリー・スコットの犯罪サスペンス「誰かに見られてる」でして、主人公の刑事トム・ベレンジャーが有能刑事のような設定だけど、実はすごくかっこ悪いのですよ。ああ、デッカードから、この映画への流れなのかって、個人的に納得してしまいました。女性に助けられちゃうってところも似てますし。この「誰かに見られてる」未見でしたら、ちょっとだけオススメします。拾い物的な面白さの映画だと思います。

ディレクターズカットが、デッカードがレプリカントだというのが、やたら騒がれたという記憶があります。まあ、ほんのちょっとだけ変えたバージョンの宣伝ポイントがなかったからってこともあるんですが、この映画で確認しても、彼がレプリカントだったら何なの?っていう最初の印象は拭えませんでした。彼がレプリカントだとすると、デッカードは身内を処分するためのレプリカントということになって、未来のゾンダーコマンドみたいなポジションということになるのかな。そう考えても、だから?って印象なのは、私の感性が鈍いのかも。

ヴァンゲリスの音楽はシンセ中心の音作りが近未来の雰囲気を出していたのですが、レイチェルのシーンで、愛のテーマというか、レイチェルのテーマ曲が流れるのがよかったです。昔の映画はこういう内容のSFでも、美しいメロディラインを持った愛のテーマを作っていたんですよね。最近の映画音楽は、生理的に興奮やを誘うものが多くて、感情に訴える音が少なくなっているように思います。今の映画音楽の作曲家だったら、レイチェルとデッカードのラブシーンに美しいメロディを持つテーマ曲をつけないんじゃないかなあ。新作にハンス・ジマーはどういう音をつけてるのかしら。まあ、彼の最近の作品からすると愛のテーマは期待できないかなあ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ロイはセバスチャンを連れて、タイレル社の社長のもとへと向かいます。自分の寿命を延ばせと迫るロイに、色々と試したがダメだった、限られた命を有効に生きてくれと言う社長。逆上したロイは社長の顔をつぶして惨殺します。一方、デッカードはセバスチャンの部屋と向かいます。そこで待ち構えていたブリスに襲われますが、間一髪で彼女を射殺します。そこへ現れたロイによって、ビルの屋上に追いつめられ、絶体絶命のデッカード。しかし、ロイにも寿命が近づいていました。隣のビルへ飛び移ろうとして失敗してぶら下がり状態。詩のような言葉を語りながら、ロイですが、最後の瞬間、落下寸前のデッカードを助けるのでした。そして、静かにその寿命を終えるロイ。自分の部屋へ戻ったデッカードは、レイチェルを連れ、逃亡の旅に出るのでした。二人の乗ったエレベータのドアが閉まって暗転、エンドクレジット。

最後の最後までかっこ悪いデッカードは、ロイにその命を救われますが、その後のきょとん顔からすると、なぜロイが自分を助けたのか理解できていないようです。デッカードの相棒兼お目付け役のガフ(エドワード・J・オルモス)に、遠回しにレイチェルの身の危険を示唆されて、彼女のことを思い出して、二人で逃げ出すというのも、最後までかっこよくない主人公でして、それでも映画として面白いという後味が残るのが不思議な映画ではあります。今、見直しても、色褪せてないのは、やっぱり絵が美しいこと。荒廃した町のディテールまで作り込んだセットに動く光を加えた映像は今みてもかっこいいですし、光と影を組み合わせた奥行きと潤いのある絵作りは見事です。特に、セバスチャンの住む廃ビルとか部屋の装飾なんてホント素敵。レプリカントの哲学的な設定は、AIが現実化された現代では、若干時代遅れ感もあるのですが、それでも雰囲気づくりのネタとしてはドラマに有効に働いています。主人公デッカードのヘタレ感は、当時としても斬新な主人公になるのでしょうし、今見てもああこういうのが主人公の映画なんだなあって感じられる目新しさがありました。でも、この映画を観て、新作の予告編を観ると、新作への期待がだんだんしぼんでいくのは、ちょっと困りものかな。新作は、あまり期待しないでスクリーンに臨むことにします。

デジタル音響の記憶

もうフィルムで映画を観ることもないだろうなあって思ったら、一時期流行ったフィルム上映でのデジタル音響も記憶の彼方に消えつつあることに気づいて覚書です。

「スター・ウォーズ」から日本中の映画館にドルビーステレオの音響設備が浸透し、地方の小さな劇場でもドルビーステレオは標準装備となりました。とはいえ、その効果は、映画館の音響設備次第だったところもあり、大劇場の迫力と同じものを小さな劇場に期待するのは無理でした。それでも、どこの映画館でもステレオ音響で映画を楽しめるというのは、ドルビーステレオの大きな功績だと思っています。私の地元である静岡でも、20世紀の終わりには全ての劇場にドルビーステレオは標準装備になっていましたもの。磁気4チャンネルステレオの設備が限られた劇場でしか普及しなかったのを考えるとこれってすごいことだと思います。最初はスペクタクル映画とかアクション映画での迫力を出す音としてのドルビーステレオも普通のドラマや恋愛ものといった音の迫力関係ない映画でもドルビーステレオが使われるようになり、ドルビーステレオが映画の音響の標準となっていきました。

そして、ドルビーステレオの音質をさらに向上した、ドルビーステレオのスペクトラルレコーディングという設備が大劇場に普及していきましたが、私の耳では、ドルビーステレオとの違いは認識できませんでした。ただ、2本の光学サウンドトラックから、4チャンネルステレオ音響を再生するドルビーステレオ(後、同じ形式のウルトラステレオとかDTSステレオ)は、チャンネルごとの音の独立性が今一つという欠点がありました。そんな中で、スクリーン前の左、中、右のチャンネルに、劇場の壁の右と左、さらに低音の1チャンネルを加えた5.1chの立体感を持った高音質の音響設備が導入されます。ドルビーステレオがアナログ音響だったのですが、この新しい音響設備はデジタル録音された音を再生するということで、従来以上の音質が得られるものでした。

このデジタル音響設備で、日本で最初に上映されたのは、スピルバーグの「ジュラシック・パーク」という認識があります。DTSという耳新しい名前は、何かわくわくさせるものがありました。音をフィルムではなく、CD-ROMにデジタル録音されたものを、フィルムに刻まれた同期信号を使って再生するというもの。私は、新宿スカラ座で、DTS方式の「ジュラシック・パーク」を観ましたが、冒頭の嵐のシーンの音響のすさまじさ、中盤の静まり返ったパーク内の音響で、なかなかすごいなあって思った記憶があります。後、日比谷スカラ座で観た「シンドラーのリスト」などもDTSの映画として印象に残っています。フィルムじゃないところから音を取って再生するDTSは、音声信号を圧縮して記録するドルビーデジタルより、音がいいんじゃないかって勝手に思っていて、フィルム上映の晩年、たまにDTS上映を見つけると、うれしくなってその劇場へ足を運んだ記憶があります。まあ、実際に聞き分けて、ドルビーデジタルとDTSの音の区別はつきませんでしたけど、DTSには何か希少価値があったんですよね。

一方、フィルムそのものにデジタル音響を記録する方式も開発されます。この方式はドルビーデジタルが有名ですが、SDDS(ソニー・ダイナミック・デジタル・サウンド)というのもあって、後者は日本で限られた劇場にのみ装備されていたと思います。これらによって、ちょっといい映画館では、デジタル音響設備が標準となり、特に数を増やし始めたシネコンではその普及が進みました。

私が個人的にインパクトがあったのは、DTSで観た「バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲」、「スター・ウォーズ エピソードⅣ」といったところでしょうか。前者では、壁面から左右別々の効果音が明確に聴けたことに感心しました。また、後者では、音楽の美しさ(個々の楽器の音が聞こえてくるくらい音の粒立ちがよい)が大変印象的でした。また、ドルビーデジタルで観た映画では、日比谷映画で観た「ストレンジ・デイズ」のバーチャル・リアリティのシーンの音響効果がすごかったです。動き回るカメラの位置に合わせた左右からの音響で、まるでその場にいるような臨場感がありました。また、数は少ないながら、SDDSの映画も見ていまして、日劇での「チャーリーズ・エンジェル」、丸の内ピカデリーでの「シークレット・サービス」、日比谷スカラ座での「ダイ・ハード3」、渋谷東急での「アナコンダ」などがSDDSによる上映でした。SDDSも希少価値という意味で、観に行った劇場がSDDS上映だと、それだけで何か得したような気分になったものです。

デジタルサウンドの上映前には、その音響のロゴが出るのがお約束でして、個人的にはDTSのロゴが出るとなぜかわくわくしたという記憶があります。フィルム上映の晩年には、ドルビーデジタルが主流で、DTSの上映には希少価値があったということがあります。また、デジタル音響のフィルムには、通常のドルビーSRのトラックも入っていて、デジタル再生ができなくなったときに、そちらに自動的に切り替わるという仕掛けがありました。私も一度だけ経験がありまして、「バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲」の上映中、突然音がこもったようになったことがあります。DTSでの再生ができなくなって、ドルビーSRに音響が切り替わったようなのですが、確かに別物の音だなあって実感した記憶があります。

実家の静岡では、静岡オリオン座と有楽座、そして静岡ピカデリーにDTSが装備されました。有楽座では「バード・ケージ」、ピカデリーでは「パーフェクト・ストーム」をDTSで観ていますが、ドルビーデジタルが装備されてからは、DTSによる上映はほとんどなくなったように記憶しています。また、DTSで記憶しているのが、昔の川崎チネチッタは、6つのスクリーンにDTSが装備されていたのですが、ドルビーデジタルがチネグランデしか装備されていなかったことです。川崎駅ビルの小さなチネBeという劇場にもDTSが装備されていまして「ドーベルマン」「8人の女たち」なんて映画を、DTSで鑑賞しています。

当時、ちょっと不思議だったのは、70ミリ映画でデジタル音響を再生するフォーマットがなかったということ。70ミリ映画では、磁気6チャンネルのドルビーステレオが使われ続け、デジタル音響への移行がないまま、フィルム上映はなくなってしまいました。70ミリに変わるものとして台頭してきたのが、IMAXですが、追加料金なし、35ミリ上映と同じ値段で、70ミリ映画が観られた時を思うと、世知辛い世の中になったものです。

ドルビーデジタルで印象に残っているのは、まだそれほどドルビーデジタルが普及していない頃、「ボーイズ・オン・ザ・サイド」という映画を渋谷東急で観たときに、ドルビーデジタルのロゴが出たこと。ああ、こういう普通の映画でもドルビーデジタルの上映されるくらい、この音が劇場での標準設備になりつつあるんだなあって感じた記憶があります。普通のドラマでは、5.1chあっても、壁面のスピーカーはほとんど鳴ることはないのですが、それでもドルビーデジタルにするんだなあって。まあ、今のDCP上映でも、5.1chと謳いながら、壁面スピーカーがほとんど鳴らない映画はいくらでもありますから、驚くにはあたらないのでしょうが、当時、ドルビーデジタルの出始めは派手に音響効果を鳴らす映画で使われるという先入観がありました。それが普通の映画でも、ドルビーデジタルが使われるようになり、ドルビーデジタルが映画館の標準となっていったのでした。

ついでに低予算の日本映画は、なかなかデジタル音響にならず、大予算の映画以外のほとんどは、DTSステレオが使われるようになっていました。なぜかは知らないのですが、たぶん、ドルビーステレオより安上がりだったんだろうなあって勝手に思っています。

「スクランブル」はB級アクションの味わいがマル。でも結構お金かかってる?


今回は新作の「スクランブル」を静岡のシネシティザートシアター7で観てきました。このシネコンでも重低音体感上映という仕掛けを1スクリーンにつけて、追加料金なしの上映をしています。こういう劇場側の工夫は大歓迎です。配給側が、センサラウンドとかサーカムサウンドといった追加料金なしの仕掛けを提供してくれなくなっちゃいましたからねえ。昔は3Dだって追加料金なしだったのに。

兄弟で車泥棒をやっているアンドリュー(スコット・イーストウッド)とギャレット(フレディ・ソープ)は、4000万ドルで落札されたクラシックカーを輸送中のトラックから盗むことに成功します。しかし、彼らは拉致され、車のオーナーであるマルセイユの麻薬王モリエール(シモン・アブカリアン)の前に連れ出されます。殺される寸前、ギャレットがモリエールに対抗組織のクレンプ(クレーメンス・シック)の1962年製フェラーリを盗み出すことを提案します。モリエールはそれを了承、1週間以内に盗み出せということになります。アンドリューは恋人のステファニー(アナ・デ・アルマス)に知りあいのスリのデヴィン(ガイア・ワイズ)を紹介してもらい、爆破屋やドライバーを揃えて、計画を練ります。モリエールははとこのローランを監視役として兄弟のもとに送り込み、かつ彼にクレンプへのつなぎ役をやらせます。クレンプに車泥棒の名人ということで接近したアンドリューとギャレットですが、ローランの密告で逃げるのではないかと思われて、ステファニーが誘拐され人質状態。さらに悪いことに兄弟をマークしていたインターポールまで割りこんでくるし、クレンプは兄弟がモリエールとグルであることも知っていました。四面楚歌状態の兄弟ですが、作戦を実行するしかありません。果たして、ファラーリを盗み出し、ステファニーを無事に救出することができるのでしょうか。

「顔のないスパイ」「ワイルドスピードX2」の脚本コンビ、マイケル・ブラントとデレク・ハースが脚本を書き、アメリカのTVシリーズで実績のあるアントニオ・ネグレがメガホンをとった犯罪アクションの一遍です。舞台はフランスのマルセイユでメインの言葉は英語という作り。プロデューサーにリュック・ベンソンの下で映画を撮っていたピエール・モレルが参加していることもあってか、かつての「TAXI」や「トランスポーター」シリーズの味わいに近いものがありました。ロケーションを生かしたカーチェイスシーンはいかにもフレンチアクションという感じで楽しめました。今風の無国籍映画という感じなのかな、ともあれ大きな期待はしていなかった分、結構楽しめる映画に仕上がっていました。

主人公の二人がいかにもそんじょそこらのアンちゃんという感じでして、盗みのプロフェッショナルというには線が細いというか、説得力を欠くところがあるのですが、そのチンピラ風兄弟が、フレンチマフィアの大ボスに脅されて、フェラーリを盗む羽目になって右往左往するというお話です。物静かな兄アンドリューに、チャラい系の弟ギャレットというコンビぶりはなかなかいい感じでして、これに水着美女二人が絡むというあたりは、娯楽アクションのお約束を押さえていると言えましょう。一方のダブル悪役というポジションになるマフィアの皆さんは結構怖いキャラになっていまして、いわゆる若造コンビが大物ヤクザを出し抜くアクション映画として、まっとうというのも変ですが、定番の手堅い作りになっています。

カーアクションシーンはCGも交えているようですが、狭い山道での追跡シーンなど結構はらはらさせるところもあり、いかにもCG然とした「そんなことないやろー」というようなシーンがなかったのはマルでした。ヒロインのアナ・デ・アルマスとガイア・ワイスのB級美形感もこの映画のタッチにあってまして、お気楽に楽しめるアクション映画としてかなりいい線いってると思いました。アントニオ・ネグレの演出は、ミステリー風の仕掛けの部分をサラリと流して全編を一昔前のアクション映画に仕上げていまして、その単純なつくりが、後半の展開で、「お、これ結構面白いじゃん」という印象を与えることになりました。モリエール、クレンプ、インターポールと3者に脅される羽目になってしまった兄弟がクライマックスの作戦実行シーンでどう出るかというところが結構盛り上がりました。お話としてはかなり荒唐無稽なものを、軽いタッチでさくさくとまとめたことで、突っ込み入れる気になることなく、お気楽に楽しめたという感じでしょうか。

ノリとしては、昔のB級アクションなのですが、エンドクレジットで登場するスタッフの数にびっくり。作りとしては超大作じゃないの? 確かに安い感じはしない映像ではあるのですが、こういう内容をビッグバジェットで作る時代になったのかなあってしみじみ、私が若い頃に観たB級アクション映画ってのは、アメリカの田舎で安く作ってたという印象があります。役者の顔ぶれは、B級だけど、器だけA級予算ってのは、何かしっくりこないのですが、今は時代が変わったのでしょうね。グローバルな市場で売らなきゃいけない、そのためにはクオリティを上げないとダメで、そのためにはB級アクションにも大金を投じなければいけなくなったのかなあ。安く作って、そこそこ儲けるという商売は成り立たないのかしら。

主演の4人はキャラ設定以上に若作りになっているので、B級感がありあり。ヒロイン二人を演じたアナ・デ・アルマスとガイア・ワイスもセクシー美形ではあるのですが、やっぱりB級映画にふさわしいレベルで、この映画の味わいにうまくはまっています。そうは言っても、「TAXI」のマリオン・コティヤールみたいに、この先、大化けするかもしれないので、一応、要チェックという感じかしら。主役のアンちゃん二人も印象に残るキャラではありませんでしたが、その存在感の薄さがこの映画にはふさわしいのかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



クレンプにコケにされたモリエールは激怒して、アンドリューの作戦に自分も参加すると言い出します。そして、作戦当日、モリエールはアンドリューたちとの待ち合わせ場所に赴くと、そこに待っていたのはインターポールの刑事二人。モリエールを逮捕しようとしますが、モリエールは二人が偽物と見抜き、そこで銃撃戦となります。一方、大型バスを盗んで、ターゲットに向かうアンドリューたち。門を破壊しようとするが爆薬が作動せず、あせる彼らの前で門が開くと、そこに立っていたのは拉致されていたステファニー。アンドリューのターゲットは、クレンプのフェラーリではなく、モリエールのクラシックカーのコレクションで、クレンプもグルだったのでした。車に乗り込んだドライバーたちは港のフェリーへと向かうのですが、そこへモリエールの車が追跡してきます。うねる山道でのカーチェイスの末、ローランの車はトラックと衝突して爆発。港まで追ってきたモリエールの車も、デヴィンの運転するバスによって海に叩き込まれるのでした。パリのエッフェル塔の前にいるアンドリュー、ギャレット、ステファニーの前に、デヴィンの運転するフェラーリがやってきて、次の仕事やろうぜというところで暗転、エンドクレジット。

後半の意外な展開は見せ方もうまく、私は素直に騙されちゃいました。カーチェイスは結構頑張っていますが、クライマックスの橋の破壊シーンはもろにCGなのでハラハラするには至りませんでした。それでも、お話の展開で結構楽しめましたから、B級アクションとしては及第点だと思います。登場人物のキャラづけに時間を使わずに、1時間半ちょいにまとめたセンスは買いです。でも、やっぱりバジェット的にはB級じゃないんだろうなあ、この映画。

追伸
ウィキペディアで調べたらこの映画の製作費は、約3000万ドルでした。ハリウッド映画にしてみたら、並の予算ってことになるのかな。

「ドリーム」はドラマとしては薄味だけど、いい話をわかりやすく描いているところがいい。


今回は新作の「ドリーム」をTOHOシネマズ川崎4で観てきました。川崎はシネコンが駅の近くに3つあるのですが、ラインナップが似てきてるのは、ちょっと困りもの。色々な映画を上映して欲しいですもの。川崎駅へ来れば、東京でやってる映画全部観られるという風になればいいのに。

1961年のヴァージニア州ハンプトンのNASAに黒人の女性たちが計算手として働いていました。黒人の地位はまだ低く、州法で分離政策が取られていました。リーダー格のドロシー(オクタヴィア・スペンサー)は、彼女たちの部屋を取り仕切っていたのですが、管理職としての待遇を受けられないのが不満です。技術部へ派遣されたメアリー(ジャネール・モネイ)は、その能力を認められ、上司から技術職試験を受けるように勧められるのですが、技術職を受ける条件に白人専用の高校を卒業するという条件があり、涙を呑む羽目になります。夫に死に別れた3人の子持ちシングルマザーのキャサリン(タラジ・P・ヘンソン)は、その数学能力から宇宙特別研究本部に配属になりますが、そこは白人男性ばかりの部署で、一人だけ黒人女性のキャサリンは職場で浮いてしまうことになります。何しろ、黒人用トイレへ行くために1キロ近く先の別棟へ行かねばならない日々。上司のハリソン(ケビン・コスナー)は、人工衛星でも有人宇宙飛行でもソ連に先を越され、宇宙へ飛行士を送るために躍起になっていました。失敗したロケットの原因を、キャサリンが墨塗りされた限定データから指摘したことから、ハリソンは彼女の実力を認めるようになりますが、それでもまだNASAにおける女性の地位は低く、さらに黒人は法的に平等な存在ではありませんでした。そんな中で、宇宙開発が進められ、キャサリンたちは重要な役割を担うようになるのでした。

実在するNASAの3人の黒人女性技術者のドラマを映画化したもので、マーゴット・リー・シェトリーの原作をもとにアリソン・シュローダーと「ヴィンセントが教えてくれたこと」のセオドア・メルフィが共同で脚本化し、メルフィがメガホンを取りました。月着陸前の宇宙開発時代、ソ連に先を越されていたアメリカが躍起になっていたころ、NASAにいた黒人女性たちの頑張りを描いたものでして、歴史の裏話的な映画になるのかな。まだまだ、人種差別が州法として残されていて、水飲み場とかトイレが黒人と白人が分離されています。キング牧師がテレビで希望の演説をしていたころのお話でして、そういう時代に、黒人女性が計算のためにNASAで働いていたってのは、私には発見でした。コンピュータが導入される前は、軌道計算とかを人力でこなしていたようなのです。さらに、単に計算するだけでなく、数値を解析し、数式を組み立てて、ロケットの動きを予測する技術が求められていました。そんな中で、キャサリンとメアリーとドロシーは単なる計算手に留まらない技術者として、NASAの歴史にその名を残しているんですって。

また、当時はコンピュータが宇宙開発に導入され始めた頃でした。コンピュータはとんでもない速さで計算を行う機械という位置づけでしたが、まだ扱いが難しい代物で、NASAの1ルームに持ち込まれたIBMマシンはなかなか思うように動かなくて、IBMの技術者が右往左往している状態でした。それを横で見ていたドロシーは自分たちが今やっている計算の仕事が取って代わられるという危機感から、当時のコンピュータ言語であるFORTRANを勉強し、自分のチームにも学ばせて、プログラマーとして生き残らせようというエピソードが登場します。なるほど、コンピュータのやる仕事を人手でやっていたんだってこともわかりますし、コンピュータという新しい技術に対して、生き残り策をとるドロシーってすごいってことも伝わってきます。このエピソードも含めて、映画は、難しい計算式のことがわからなくても、彼女たちがどういうニーズにこたえていったのかが何となくわかるように作られていまして、わかりやすい映画に仕上がっています。

ただ、その分、リアリティという点では、ツッコミが入りそうな部分もあるのですが、わかりやすさを優先した結果、すっきり見やすい映画になっているので、そこは一長一短というところでしょう。2時間ちょっとの上映時間の中に、NASAの宇宙開発の流れから、主人公3人のNASAでの仕事ぶり、さらにキャサリンのプライベートまで盛り付けているので、各々のエピソードがやや薄めになっちゃってまして、テレビの3時間のスペシャルドラマみたいな味わいになっているのは好みが別れるところかも。個人的には、キャサリンの再婚のエピソードはいらなかったように思いましたし。

ヒロインを演じた3人は、黒人で女性という当時のハンディをものともしない元気なキャリアウーマンを元気に演じています。本当はもっと大変なことがあったと思うのですが、そこを湿っぽい展開にしなかったメルフィの演出で、人種差別の黒歴史映画になっていないので、シンプルな娯楽映画としてよくできています。白人でも女性はなかなかNASAの中枢には入れないエピソードも描かれていまして、脇役として登場するキルスティン・ダンストがいい味を見せて、今後バイプレイヤーとしての展開を期待させました。NASAの中で、彼女たちを評価する人間が二人しか登場しないのですが、実際のところはどうなったのかなってのは気になってしまいました。二人から支持者がいないのなら、もっとひどい扱いを受けていそうな気もするのですが、そこまで冷遇されてるようでもなく、かなりドラマとしての脚色がされているように思いました。アメリカの現代史のブラックな部分を強調せずに、黒人女性3人の活躍にスポットライトを当てたいというのが伝わってくる内容になっています。そういう意味では、こういう黒人女性がNASAで活躍したんだよという以上の話は真に受けない方がいいのかも。

面白い映画ではあるのですが、ドラマとしての重みを感じなかったのは、監督が最初からそのつもりでやっているんだと思います。あまり、陰気な話にしないで、1960年代の黒人女性の活躍を描いて、子供にも見せられる話にしようとしたのではないかしら。この映画のわかりやすさと明るさは、リアリティという点では今一つでも、彼女たちの存在を多くの人に知らせるという意味で、いい方に作用しているのだと感じました。


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なかなか思うように動かなかったコンピュータが作動するようになると、計算手は要らなくなってきたけど、今度はプログラマーが必要となってきました。先んじてFORTRAN言語を勉強してきたドロシーたちはプログラマーとして名乗りを上げ、コンピューター室へ配転となります。メアリーは、白人ための高校へと通うことが許され、技術者の試験を受けられるようになります。キャサリンは、その数学能力を買われて、女性が参加できないNASAのトップの会議にも出席できるようになります。有人宇宙船マーキュリーの発射時、コンピュータの計算に誤りが見つかります。飛行士のグレンは、キャサリンがOKを出すのなら飛ぶといい、事務所の彼女ヘデータが運び込まれ、彼女の検算結果を知って、グレンは宇宙へと飛び立ち無事に生還するのでした。その後、3人がNASAで各々が重要な地位で活躍したことが示されて、エンドクレジット。

年を取ってからも、NASAで彼女たちが活躍したのだというのはすごいことだと思います。女性の地位が低くて、人種差別が法に規定されていた時代でも、アメリカンドリームはあったんだという描き方は、いい話ではあるんですが、あれから半世紀たった今の人種差別は完全に払拭できていると思えないので、後味はちょっと微妙。こういう差別に対しては、差別された側が、権利を勝ち取るというのがアメリカ的なサクセスストーリーではあるのですが、私には、それまで差別意識を持っていた白人が変わったからだという気がしています。それまで、生まれてからずっと人種差別を当たり前のものとして思ってきた人間の意識が変わるというのは、すごく大変なことだと思いますが、そういうところの葛藤は、映画で描かれることは少ないように思います。差別意識を普通に持っていた白人が、人種差別を人種差別として認識して、改善しようとする映画がもっとあっていいように思うのですが、そういう宗旨替えのお話こそが、黒歴史になっちゃうのかもしれません。

「ダンケルク」は前半のハイテンションなライド感から、娯楽映画の面白さへとつなぐ作りがッマル。


今回は、新作の「ダンケルク」を川崎チネチッタ8で観てきました。川崎チネチッタの売り物であるLIVE ZOUNDという音響装置による上映でした。ライブ感を出すために16個のスピーカーと4個のサブウーファーを追加して迫力のある音をだすという仕掛けです。

1940年、40万の英仏連合軍はドイツ軍によって、フランス北端の海岸地帯ダンケルクに追い詰められていました。英国軍による撤退作戦は民間の船舶も動員して行われようとしていましたが、海岸へ終結した兵士にドイツ空軍の爆撃機、戦闘機による攻撃が実施され、乗り込んだ救助船も魚雷攻撃で沈められるという状態でした。若い兵士トミー(フィン・ホワイトヘッド)は、市街地で銃撃を受け、命からがら海岸へ逃げ込んできます。そこで知り合ったギブソン(アナイリン・バーナード)とアレックス(ハリー・スタイルズ)と共に救助船に乗り込むことに成功するのですが、その船は魚雷攻撃で沈没、命からがら海岸へたどり着くのでした。一方、民間人のドーソン(マーク・ライランス)は、兵士を救出するために、息子とその友人を連れて、自分の小型船でダンケルクに向かっていました。その頃、イギリス空軍のファリア(トム・ハーディ)は3機編隊で撤退の支援のためにダンケルクに向かっていましたが、その途中でドイツ空軍と戦闘状態になり、隊長機は撃墜されてしまうのでした。果たして、ダンケルクの撤退作戦は成功するのでしょうか。

「ダーク・ナイト」「インセプション」のクリストファー・ノーランが自ら脚本を書いてメガホンを取った戦争映画です。第二次大戦の連合軍のダンケルク撤退作戦を題材にした実録風フィクションということになるのでしょうが、実際の事件を映画化したことは間違いありません。映画は、海岸へ逃げ込んだ若い兵士トミーのドラマと、兵士救出に志願した民間人ドーソンのドラマ、そしてダンケルクへ向かう戦闘機のパイロットのドラマが並行して描かれます。でも、海岸のドラマは1週間の物語、救助船のドラマは1日、戦闘機のドラマは1時間という時間軸で描かれ、最後に3者のドラマが1本のまとまるという構成を取っています。ですから、バラバラの時間軸で3つのドラマが並行して描かれて、それらがラストで1つのドラマになるという、ちょっとわかりにくい構成になっています。一応、字幕で異なる時間軸らしいことは示されるのですが、ある程度、予備知識がないと映画の流れに乗り遅れちゃうかも。

この映画、IMAXの70ミリカメラで撮影されているとのことで、通常のDCP上映では、ビスタサイズで画面の上下に黒枠が入っているという変則的な画面になっています。昔の70ミリ映画のフォーマットのフィルムを35ミリのビスタサイズの画面に縮小して上映しているという感じなんです。そこまでフレームサイズにこだわらなくてもいいと思うのですが、その結果、画面の小さい映画館だとビスタサイズより小さいサイズの上映になっちゃうんですよね。これって、IMAX劇場をひいきしすぎな気がします。普通の映画館でもシネスコサイズのフレームいっぱいの上映すればいいのに。

映画は、ドラマを語るというよりは、その現場にいるという臨場感を優先していまして、観客は映像と音響によって、戦場に放り込まれたような緊張感に包まれます。観客は登場人物の限定された視界の中でドイツ軍におびえることになります。この劇場のLIVE ZOUNDの効果もあったのでしょうけど、音響の迫力もすごくて、特に前半は重低音の効果音が常に流れていて、非日常の戦争という空間に観客は放り込まれることになります。冒頭からしばらくは、物語が見えて来ないので、かなり怖い映画になっています。戦争映画の冒頭のインパクトというとスピルバーグの「プライベート・ライアン」が思い浮かびます。あのオマハビーチの惨劇はものすごいインパクトがありましたもの。でも、この映画は、戦場の怖さをビンビンに伝えてくるのですが、手足が吹き飛んだり、内臓がはみ出たりという描写はありません。そういう血生臭い描写はわざと避けているようです。それでも、怖くてドキドキハラハラするいやなライドはたっぷりでして、そういう意味では、直接描写を避けて、戦争のリアルを感じさせた「サウルの息子」に近いものがありました。

映画の前半は追い詰められた兵士たちの追体験をしているような気分になりますが、そこにリアルな血生臭さがないことから、怖いけど、リアルな戦争とはちょっと違う感じはします。でも、船室にいて、突然魚雷攻撃を受けて、一気に水の中に閉じ込められる怖さはきっちり描いているので、そこに監督独特のノーラン・ワールドが展開します。この「独特の」というところに、クリストファー・ノーランの映画の奇妙な味わいがあります。私が勝手にそう感じているのですが、彼の映画は、「なんとなく重厚感」というところがあると思っています。バットマンの一連の作品群は、アメコミ映画に重厚なドラマを持ち込んで、映画に大作感を出してヒットさせました。これの後に続くアメコミ映画が主人公を悩ませたり因縁話を前面に出して次々にヒットさせてハリウッド映画の一つの流れを作りました。それ以降も「インセプション」「インターステラー」とかで、シンプルなお話を色々と厚みをつけて、大作に仕上げてきています。一言で言っちゃうとハッタリのきつい映画を面白く作る人だという印象があります。重厚さを映画の面白さの要素として使いこなす人という感じでしょうか。

ところが「ダンケルク」では、「なんとなく重厚感」が希薄なんですよ。具体的な戦争へのライド感がメインでして、ラスト近くで、ダンケルク撤退作戦への関与者への敬意と謝意を示すところはあるのですが、それがとってつけたような感じでして、戦争の怖さとドキドキハラハラで観客を楽しませようとしている方を強く感じました。妙なハッタリをやめて、素直に映画の面白さを前面に出してきたという気がします。そういう意味で、私はこの映画、「インセプション」や「インターステラー」よりも好きです。戦争を題材にしたホラー映画として面白かったですし、その中で戦争の持つ色々な側面を盛り込んでいる点も買います。でも、戦争を哲学的に捉えようとか、戦争の本質を深く掘り下げようといったハッタリを感じさせないので、すごくスリムな映画に仕上がっているように思います。

そんな中で、ハッタリ感を出しているのが、ハンス・ジマーの音楽でして、低音シンセを効果音のように鳴らして、音楽だけは重厚に鳴り響きます。でも、ホラー映画の音作り、お化け屋敷のBGMと思えばこういう音作りもありかなって気がします。演技陣は、たまたまそこに居合わせた人として登場するので、バックボーンはよくわからず、感情移入もできないままですが、個々の存在感が見事でした。狂言回し的に登場するケネス・ブラナーだけは役者感が強くなってしまって浮いてしまったのは彼にとって気の毒だったかも。また、儲け役として、唯一、キャラが描きこまれていたキリアン・マーフィーが印象的でした。



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海岸へ打ち上げられていた船に乗り込んで満ち潮を待つトミーたちですが、その船をドイツ軍は攻撃してきます。一方、ファリアと一緒にダンケルクに向かっていたコリンズの機はメッサーシュミットととの交戦で海面に不時着するのですが、危機一髪のところをドーソンの船に救われます。そして、ダンケルクの海岸に民間の船が兵士を救出に集まってきます。しかし、そこへドイツ機が攻撃してきますが、ファリアの活躍で多くの兵士の命が救われます。最終的に35万人の兵士の救出に成功して、英国の戦意は高揚していくのでした。

前半の戦場のリアルなライド感から、後半はエンタテイメントとしてのドキドキハラハラの映画にシフトしていきます。さらにファリアをヒーローっぽく見せる演出をしたり、セリフで状況を説明することをしたりと、娯楽映画的な作りが前面に出てきます。前半の緊張感でずっと走られたら観ているこっちが耐え切れなかったでしょうから、後半でタッチが変わるのは、私にとっては正解でした。ラストは歴史映画として締めるのも、うまくまとめているように思います。ノーラン監督が、これまでの彼の映画にあった過剰な重厚さをそぎ落とした作品として、この映画買いです。

ただし、LIVE ZOUNDによる音の圧がすごかったので、通常上映だったら、上記の評価は多少変わるかもしれません。

「パターソン」はこういう娯楽映画もあるのかという発見もあって、映画としても楽しい。


今回は新作の「パターソン」を川崎チネチッタ7で観てきました。東京のメイン劇場だとミニシアターになっちゃう映画を、シネコンの大きなスクリーンで観られるのは有難い限り。

パターソン(アダム・ドライバー)は、パターソン市でバスの運転手をしています。奥さんのローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)は、家の中の物を作るのが好きで、週末のバザーでカップケーキを売るのを楽しみにしています。パターソンは自分の手帳に詩を書き溜めているのですが、ローラはその詩を賛美し、本にすべきだと勧めます。昼間はバスの運転をし、帰ってくると、愛犬の散歩がてらバーに寄るのが毎日の習慣。そこでは、常連客のささやかな人生のドラマが垣間見られます。映画は、月曜日の朝に始まり、火曜日、水曜日と、パターソンの日々の生活をスケッチします。あまり、替わり映えのしないパターソンの1週間が描かれていくのでした。

1980年代「ストレンジャー・ザン・パラダイス」でカンヌ映画祭で賞を取り、日本でもアートな作家として紹介されたジム・ジャームッシュが脚本を書いてメガホンを取った作品です。1980年代、当時の深夜番組で、やたら彼が持ち上げられていて、彼の映画をいいって言うと、何だか映画ファンより1ランク上のアートファンみたいに見えるって雰囲気がありました。私はそういうアートな映画には興味がなくてスルーしちゃったのですが、とにかく、やたらと持ち上げられてたなあっていう記憶があります。と、言いつつ、彼のフィルモグラフィを見たら、私も彼の映画「ナイト・オン・ザ・プラネット」「ゴースト・ドッグ」「コーヒー&シガレッツ」「ブロークン・フラワーズ」と4本も観てることに気づきました。この4本は毛色は違えどそれぞれに面白さを持った映画でしたけど、1980年代のヨイショぶりを納得させるほどのものではなかったです。そんな彼の久々の新作ということで大した期待はしてなかったのですが、この映画の予告編に何か惹かれるものがあってスクリーンに臨みました。

映画は、主人公の1週間の生活を淡々と描いたもので、何か大きな事件とかは発生しません。朝、ローラと一緒にいるベッドから一人で先に起きてシリアルを食べて、バスの車庫に向かいます。そして、バスを運転し、詩を書き、家に帰って、妻と会話して、バーで一杯やるという一日を繰り返します。そこは映画ですから、日によってちょっとずつ違いはあるのですが、特にドラマチックなことは発生しません。そもそもパターソンは毎日の繰り返しについて不満を感じているわけでもなく、妻と犬との生活をそこそこ楽しんでいるようです。楽しむというほどテンションは高くないのですが、日々の暮らしを静かにこなしていくパターソンが何だかいい感じなのですよ。そして、彼の日々の暮らしがいい感じ。愛おしいというと大げさですけど、こういうのいいなあって気持ちになってくる映画。なるほど、こういう形で観客を気持ちよくさせる娯楽映画もあるんだなあって感心しちゃいました。

七日間のそれぞれがちょっと違っているので、同じことを繰り返すのは、朝起きてバスの営業所に向かうところと家に帰ってくるところぐらいですが、穏やかな日常を描いたドラマに感じられるあたりの匙加減は見事。同じことの反復では映画として退屈しちゃうけど、そうはならず、観客は同じ日々の繰り返しの中でパターソンについて小さな発見を積み重ねていきます。各々のエピソードには笑いも散りばめてあり、悪役も登場させず、ドラマとしての起承転結とか山場とかを作らない構成になっています。日常をこういう見せ方をすることで、観客は同じような日を繰り返すパターソンにどこか好感を感じつつ、退屈することなく映画を楽しんでしまいます。これってドラマ作りの技術がすごい映画だと言えましょう。映像のつなぎとか、エピソードの取り上げ方とかがうまくて、それが娯楽映画作りのテクニックとして成功しているのですよ。アート系映画という意味で、色々なテクニックを使っている映画ということもできると思います。映像もかなり凝っていますし、普通の人の生活に詩を書くことを盛るという趣向も目新しいですし、主人公の一人称ナレーションなど、いわゆるアート系映画の味わいが濃いのですが、それらのテクニックによって、最終的に観客を心地よく映画館から送り出す娯楽映画に昇華させているところがこの映画すごいところだと思います。

パターソンはあまり高給取りには見えません。でも、仕事をきちんとこなします。仕事人間ではないけど、いやいや仕事をしてるようでもありません。淡々とした日々を楽しんでいるのかというと、そうでもなさそうだけど、不幸を抱えているようでもありません。奥さんを愛しているけど、溺愛というわけでもなく、彼女へ、愛情とささやかな尊敬の眼差しで接します。飼い犬のブルドッグへ見せる、ほどほどの愛情ですとか、パターソンって突出したものがない人なんですよね。強いて挙げれば、詩を書くことが彼の特別さではあるんですが、それもあくまで自分の手帳の中の世界ですからね。そういう意味では、社会的にはほとんど知られることのない人。そんな並の人の日常が娯楽映画として成り立ってしまう、そのことによって並の人の人生にお値打ちがあるのもしれないと思わせるという感じでしょうか。

実在するパターソンの街がドラマの中でフィーチャーされていまいて、そのあたりは「マンチェスター・バイ・ザ・シー」とか「海街diary」みたいな味わいで、リアルな街を映画の中に置くことで、登場人物の存在に奥行きを与えることに成功しています。でも、この映画のパターソンはその存在感を前面に出してこないのが、他の映画とちょっと違っています。

そんな普通の日常のドラマの中にアート映画風に割り込んでくるのが、繰り返し登場する双子のイメージです。ローラの夢の話に始まり、町の風景とか、バスの乗客にやたらと登場する双子。結局、そのイメージの正体は最後までわからないのですが、監督がアクセントをつけたかったのかな。アダム・ドライバーは「スター・ウォーズ」や「沈黙 サイレンス」「ヤング・アダルト・ニューヨーク」と色々なキャラを印象的にこなす俳優さんですが、この映画では、この3作のようにキャラを前面に出さないで、その存在感を薄める演技で、ドラマの空気になっている感じで好演しています。彼を囲むゴルシフテ・ファルハニ以下の脇役陣は、インパクトのあるキャラでドラマに彩りを与えています。



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ローラは、土曜日のバザーにカップケーキをたくさん作って持っていくとこれが全部売れて結構なお金になります。その夜は、夫婦で昔の映画を映画館で観て、外で食事してきて、ちょっと特別な気分。でも、家に残していたブルドッグが、パターソンの詩を書き溜めていた手帳をボロボロにしちゃいます。もう修復不可能なレベルにまでボロボロにされちゃって、さすがのパターソンもへこんでしまうのでした。日曜日、公園へ出かけたパターソンは、パターソンの町出身の詩人のファンでこの町へやってきたという日本人の詩人(永瀬正敏)と出会い、彼と話をすることでちょっと元気が出てきます。彼から新しいノートをもらい、またパターソンは詩を書き始める予感。月曜日の朝が始まるところで暗転、エンドクレジット。

週末にちょっとした事件が起こります。パターソンが書き溜めた詩が全部おじゃんになっちゃうのですが、ここでパターソンは表情は変えないけどへこんでるらしいことが伝わってきます。でも、日曜日の日本からの詩人との出会いで持ち直して、またいつものような一週間が始まるというラストは心地良い余韻を残しました。日本から来た詩人との出会いというのは、そこそこの事件ではあるのですが、あくまで通りすがりの人との会話というテンションで描かれるので、日常からの逸脱にはなっていません。特別なことが起こらない人の一週間を、娯楽映画に仕上げているという点で、発見のある面白い映画だと思いますし、娯楽映画として楽しめて、1本で2度おいしい映画ではないかしら。
プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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