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「婚約者の友人」は切ないお話だけど面白くて、歴史の悲劇としても見応えあり。


今回は新作の「婚約者の友人」を静岡の静岡シネギャラリーで観てきました。静岡の映画ファンのオアシスでもあるこの劇場なんですが、シネスコサイズの映画をビスタサイズのままで上映するようになっちゃいました。これやられると、暗い画面でシネスコサイズのフレームの構図がわからなくなっちゃうのですよ。これが嫌で恵比寿ガーデンシネマへも行かなくなっちゃったんですが、静岡の映画ファンは他に選択肢がないのですから、ちゃんと上映サイズに合わせてスクリーンサイズも変えてほしいものです。(上下が縮むのならそれでもいいんです。シネスコフレームが明快になりますから。だからスクリーンサイズ変えて、マジで。)

1919年、第一次大戦で敗戦した直後のドイツ、アンナ(パウラ・ベーア)は戦争で婚約者のフランツを失っていて、彼の両親と一緒に住んでいました。父親の医師ハンス(エルンスト・ストッツナー)は最愛の息子を亡くしてふさぎ込んでいて、母親のマグダ(マリエ・グルーバー)もアンナも心配していました。アンナはある日、婚約者の墓の前で花をたむける男を目撃します。その男は昼間ハンスの診療所を訪ねてくるのですが、ハンスは男がフランス人だというだけで追い返してしまいます。その男が気になるアンナは改めてその男アドリアン(ピエール・ニネ)を家に招きます。アドリアンはフランツの友人でパリで彼に会ったと言い、どうやらフランツの留学時の友人らしいことがわかってきます。フランツの両親はアドリアンに亡き息子の面影を見出し、アンナは彼に婚約者の友人以上の感情を抱くようになります。また、家に来てというアンナをアドリアンは町の舞踏会へ誘います。フランツの両親から見てもお似合いのカップルのアンナとアドリアン。しかし、アドリアンは、アンナに、これ以上隠してはおけないとある事実を告白するのでした。

エルンスト・ルビッチ監督の「私の殺した男」の原作となったモーリス・ロスダンの戯をベースに「エンジェル」「危険なプロット」のフランソワ・オゾンが脚本を書き、メガホンを取りました。戦死した婚約者の友人が現れて、沈み込んでいたヒロインや、婚約者の両親が明るさを取り戻していくのですが、その友人には秘密があったというミステリー仕立てのお話です。しかし、映画の中盤で、友人の秘密が明らかになった後の展開に、オゾンらしい味わいがあり、ミステリーよりも切ないヒロインの物語にシフトしていくという構成は意外性もあり、見応えのあるドラマに仕上がっています。前半はどっかで見たことあるようなお話が展開していくので、先が読めるところもあるのですが、後半は「えぇっ?」という展開になって、最後は「は?」って感じ。全然伝わりませんね、是非、本編をご確認ください。これ、面白かったです。

アンナという女性のキャラクターがなかなか面白いのですよ、婚約者が亡くなって沈み込んでいたのですが、婚約者の墓の前にたたずむ二枚目を家に招いたり、舞踏会で積極的に踊りに誘ったり、かなり今風の女性になっています。むしろ、謎めいたアドリアンの方が線が細いというか繊細な感じなんです。まあ、アドリアンのそういうキャラクターあってのこのお話ではあるのですが、この強いヒロインぶりがなかなか後半泣かせるのですよ。特に、彼女が婚約者の両親のために心を尽くす展開がなんかいい感じ。まだ嫁姑の関係にもなっていないのに、ああ健気な嫁だなあって感心。でも、お話がいいお嫁さん(婚約者だけど)のお話でクローズしないのが切ないのです。

また、メインのストーリー以外にも、サブプロットとして描かれる戦争の傷跡も今風の視点でなかなか見せるものがあります。もともとはそんな敵対意識はなかったのに、戦後、ドイツもフランスもお互いにナショナリズムの高揚とともに憎みあう関係ができてしまう。さらにもう一歩踏み込んで、老人が戦争を始めて、若者を戦場に送り込んだというところもちゃんと見せます。最近、この視点で戦争を描く映画がなくて、かつて「遠すぎた橋」で「上の連中が戦争を始めて、下の者が死ぬんだ」と論破した事実をきちんと描いた映画って「プライベート・ライアン」くらいしか思い浮かびません。この映画はもっとシビアに「息子を戦場に送ったのは父親だ」と言い切るのにはドキリとさせられました。

映画は、アドリアンの正体がわかって、一山越えるのですが、その後、正体を知ったアンナが、それでもアドリアンの事を想い続けてしまうところが、新たに別のドラマを生むという展開になっています。オゾンの演出は、前半を古風なドラマのタッチで、1950年代の映画を思わせる展開を見せるのですが、後半で今風の視点を取り込んで、そこに切なく悲しいヒロインの強さを見せて、見応えがありました。アンナを演じたパウラ・ベーアは、撮影当時20歳だったそうですが、精神的に成熟した女性の健気さ、強さ、切なさを見事に演じ切りました。一方で、相手役のピエール・ニネは、善意と繊細さゆえにもたらされる悲劇を、あっけらかんと演じて、この映画にどうにもならない人間の業のようなものを感じさせ、ドラマに痛い奥行きを持たせることに成功しています。この若い二人に比べると、老人たちの描き方はある意味ステレオタイプではあるのですが、その時代の空気を的確に表現していたように思います。フランス人を嫌う頑固者オヤジであった婚約者の父親が、「自分たち父親が若者を戦場へ送った」と言うシーンが印象的で、演じたエルンスト・ストッツナーの一本筋の通った男っぷりがかっこよく、そんな彼がアンナの幸せを願うあたりにホロリとさせるものがありました。

この映画、最初はモノクロで始まるのですが、映画で情感が高まるシーンになるとカラーになるという仕掛けになっています。これが効果的だったかどうかは微妙なところもあるのですが、モノクロとカラーの各々のシーンで伝わってくるものが違っていたのも事実です。また、要所要所にクラシックの既成曲を使う一方で、フィリップ・ロンビが作曲したストリングスによるオリジナル音楽が、繊細なドラマ部分を支えて印象的でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



実はアドリアンはフランツの友人ではありませんでした。戦場で二人は対峙し、アドリアンがフランツを射殺していたのでした。アドリアンはフランツのポケットにあったアンナへの手紙を発見し、赦しを請うためにドイツまでやってきたのでした。告白されたアンナは、両親にも事実を告げるというアドリアンを押しとどめ、自分が伝えると言い、アドリアンはフランスへと帰っていきます。しかし、アンナは真相を呑み込んで、フランツの両親には、アドリアンは母親が急病で帰ったと嘘をつきます。その後、アドリアンからの手紙が来るのですが、その中身とは違う内容を、ハンスたちに伝えるアンナ。でも、アドリアンへの想いが募るアンナが書いた手紙は宛先不明で戻ってきてしまいます。思い切ってアドリアンに会いにフランスへ行くというアンナに、快く送り出すハンスとマグダ。この二人も、アンナがアドリアンと一緒に幸せになってほしいと望んでいたのでした。アンナは、パリへ向かって、古い住所や在籍していたというパリ管弦楽団などをたどって、大きなお屋敷に住むアドリアンに再会します。でも彼には幼馴染の恋人ファニー(アリス・ドゥ・ランクザン)がいたのです。戦争から帰ってきた傷心のアドリアンを支え、ドイツへ行く彼を励ましたのもファニーでした。アドリアンは、亡くなったフランツの代わりになれたらとまで思いつめていたようです。でも、彼はアンナの気持ちを理解できないのか理解していないふりをしているのか、うまくはぐらかします。何とも言いようのない気分で、お屋敷を去るアンナ。あくまで、善意の人間として彼女を送るアドリアン。彼女は、アドリアンの思い出話に登場したルーブル美術館のマネの「自殺」という絵の前でたたずんでいます。隣の男性に「この絵がお好きで?」と聞かれ「生きる希望が湧いてきますの」と答えるアンナ。暗転、エンドクレジット。

アドリアンがフランツを殺していたというのは、想定の範囲内でしたので、「おー、なるほど」という感じで眺めていました。アドリアンの帰国後、思いつめたアンナは入水自殺を図るのですが、通りがかった男に助けられます。ここで、彼が「死は戦争だけでたくさんだ」というセリフが印象的でした。その後、アンナがパリへ向かうという展開は意外性がありました。そう来るかと思ったのですが、実際に会ったら別に恋人いましてというのにさらにびっくり。どうも、アンナへの好意は罪の意識からくる善意だったことがわかってくると「は?」って感じになってきます。どうも、アドリアンは、ものすごく繊細で、自責の念が強い上に、人並みの善意を持ち合わせていたという厄介なキャラクターだったようです。ちょっと笑っちゃうところもあるのですが、アンナにしてみれば、そんな自責からくる善意を好意だと思って真に受けちゃったわけですから、「わあ、恥ずかしい」というか自覚のある痛い女になっちゃったわけです。これまでの展開で、本当に幸せになって欲しいと思っていたこっちとしては、「何じゃそりゃ?」というツッコミが入ってしまったのですが、アドリアンをあくまで善意の人として描き切ったところに、逆にオゾンの悪意を感じてしまいました。だって、彼を悪役にできないんだもの。何とも言えない表情になっちゃうアンナの切なさにこっちも胸をしめつけられちゃいました。でも、アドリアンを責められないというところが余計目に切ないのですよ。そんな八方塞がりのままで、終わっちゃうので、「は?これで終わり」という後味になるのが、映画としての終わり方としては、大変面白い、でもやっぱり切ないなあって、これって、オゾンの術中にまんまとはまってしまったのかも。だって、アンハッピーなのに、映画を観た満足度は高いんですもの。そして、観終わって、これって、戦争の悲劇だったことに気づくと、さらにじわじわくるものがある映画でした。今年のベストテン入りは確定ですね。
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「不都合な真実2」は地球温暖化の仕掛けの予備知識がないと懐疑的になっちゃうかも。


今回は新作の「不都合な真実2」を川崎のTOHOシネマズ川崎3で観てきました。この映画の前作「不都合な真実」は、2007年の1月にシネコンでの鑑賞でした。こういうドキュメンタリーがシネコンで公開というのは珍しいのではないかしら。

クリントン政権の時の副大統領アル・ゴアが気候変動をテーマに世界のあちこちで講演を行い、地球温暖化防止活動を進めています。その様子は10年前の前作「不都合な真実」で描かれていました。それから、10年、彼は今も精力的に活動を続けています。あの映画から、彼は色々なメディアで攻撃を受けました。それは、実際には存在しない地球温暖化の危機を煽っていると言われていたようです。彼は、自分の言葉を広める人々のためのレクチャーをしていて、彼らを温暖化の語り部として育て、さらに自分と同じ考えを持つ人間を増やすという、キリストの布教活動みたいなことをやっているのです。なぜそれが必要か、それは地球温暖化がどんどん現実の災害として人々を苦しめているからです。グリーンランドの氷河が消えていく一方で、マイアミの街は満潮になると水浸しになっています。台風は猛烈な豪雨をもたらすものに形を変えつつあり、一方で大干ばつが難民を生み出しているのです。どれも、地球温暖化から演繹的に導かれる結果であり、科学者は何十年も危機を語り続けていたのに、政治は彼らの言葉に耳を貸すことはなかったのでした。でも、この10年で地球が温暖化しているというのは世界的に認めらる事実として認識されるようになり、地球温暖化を止めるための京都議定書が作成され、そして、2015年パリで行われた世界の首脳が地球の温暖化について語り合う気候変動枠組条約締約国会議COP21が開かれ、ゴアもパリへと向かい、24時間情報配信を行っていました。しかし、パリで同時テロが発生し多くの人が命を落としてしまいます。犠牲者への追悼の言葉で始まるCOP21ですが、インドは発展途上国が化石燃料を使う権利を主張し始めたことで、話し合いは行き詰ってしまうのでした。果たして、パリ協定の行方はいかに?

ドキュメンタリー作家であるジョン・シェンクとボニー・コーエンが監督した、アル・ゴアと地球温暖化についてのドキュメンタリーです。前作は、テレビドラマの演出家デビッド・グッゲンハイムが監督しましたが、前作では地球温暖化についての絵解きというか説明的なくだりがあったのを、今回は説明的な部分はカット、地球温暖化は有無を言わせぬ真実だという前提のもとで、パリ協定の批准をクライマックスにアル・ゴアの精力的な活動を追うドキュメンタリーになっています。私は前作で、二酸化炭素が温室効果の大きな原因であるという根本の理屈が理解できず、話半分に聞いてしまったんですが、今回の続編では、そういう基本的な説明はありません。今も氷河が溶け続け、海水の水位が上がっているという事実を見せるだけです。二酸化炭素による地球温暖化は、もう既成事実として存在し、そこに疑義を挟む余地はないという感じなんです。世界の首脳が集まって二酸化炭素減らす会議やってんだから、もう二酸化炭素が気候変動の原因だってのは間違いないでしょ? はあ、そうですか。何だ、これは~? のっけから、前作での置いてけぼり気分がそのまんまじゃないか~。その上、その会議のシーンにインサートされるのが、「オバマはそんなことしてる暇があったら他にすることあるだろ?」ってコメントしてる大統領になる前のドナルド・トランプ。こいつがそういうなら、地球温暖化は本当にシリアスな問題なんだなあってのが刷り込まれるわけです。

前作では、地球温暖化の原因は、特定のガスによる温室効果だと説明していました。でもって、温室効果を作り出すガスにはいくつか種類があって、その中の一つに二酸化炭素があるんですって。まあ、そこまでは物理的に説明できるのですが、地球温暖化を導く温室効果に一番貢献しているのが二酸化炭素だよってところがどうもはっきりしない。ネットで調べたレベルでも、そこのところがすっきりしない。温室効果はあるらしい、それによって地球温暖化が起こるらしい、すると気候変動が発生して、地球が大変なことになります。そこまでは、何となく納得しちゃうのですが、で、二酸化炭素はどこにどの程度かかわっているのか。どこは「温室効果」、どの程度は「?」。こんな感じ。

そこで門前払いしちゃうと映画を楽しめないので、そこに目をつぶると、この地球温暖化によって豪雨と干ばつがもたらされるのですって。で、実際に地球は21世紀に入ってから平均気温が単なる偶然以上に上がり続けていると映画は語ってきます。そして、風力エネルギーや太陽エネルギーによる発電施設に切り替えていこうと、この映画は語り掛けてきます。太陽エネルギーってあの太陽光発電のことですよね、日本では詐欺商法でよく聞くのですが、あれにお金を使いましょうということなんですよね。うーん、日本だと今二つくらいイメージが悪いかも。でも、この技術をインドへ無料提供することで、パリ協定を批准へと導くのですから、きっとこの映画でいうところの太陽エネルギーによる発電は、日本の詐欺商法の太陽光発電とは別のものなんでしょうね、きっと。

原因は何だかすっきりしないのですが、現在も海水の温度が上がっていて、台風は強力化し、干ばつも何百年ぶりの規模のものが発生していて、それによる死者とか土地を追われた難民が増えているのですから、何とかできるものなら、何とかしなくちゃいけない。そのためには、二酸化炭素を減らすために、石炭や石油といった化石燃料を燃やしてエネルギーを得ることをやめなくちゃいけない。あ、また二酸化炭素? その根拠は? 何て言いだしたら、また前作を観たときの疑問に戻ってきちゃう。最優先の課題が化石燃料の封印? 再生可能エネルギーへの転換? 疑問がどうにも払拭できないのは、私が天邪鬼なのかしら。世の中全て利害関係で動いているとすると、アル・ゴアは太陽光エネルギー会社のでっかい広告塔ではないのかという下司な疑問も浮かんできちゃうのですよ。地球が危機に直面している今この時に何を言ってるんだって怒られちゃいますね。でも、知ったかぶりするのもかっこ悪いので、わからないものはわからないって言っときますね。実はわからないのではなく、知らないだけなのかもしれないけど、「地球温暖化反対」とは言えるけど、「二酸化炭素を削減しろ」とは言いにくいのですよ。

でも、この映画は地球温暖化に対して、必ずしも悲観的でないのが、結構好印象なのは事実です。アル・ゴアは、自分の信念に基づく行動があちこちで批判や攻撃を受けながらも、少しずつ前進していることに希望をもっています。宗教系の映画のように、私を信じないと世界が滅ぶとか地獄に落ちるぞといった脅しをかけてくることはしません。地球温暖化は事実であり、それを止めるために二酸化炭素の排出量を減らさなくてはいけないという信念は揺らぐことはない一方で、自分の運動が一進一退を繰り返して、前進はしているけど、思うほどには進んでいないことについて、誰も責めないし、ぐちもこぼさないという姿勢には好感が持てます。ラストで自分のやっていることは、公民権運動やゲイの権利を認めさせる運動と同じだと演説するシーンが出てきます。今は反発も受けるかもしれないけど、最後に歴史が自分の正しさを証明してくれるという自信がそこには伺えます。歴史がアル・ゴアをどう語るかは確かに興味深いものがあります。

また、この映画のいいところは、発展途上国が二酸化炭素削減に反対するのを悪役に位置付けていないところです。産業革命以降、先進国は化石燃料をフルに使って経済を発展させてお金儲けをしてきたじゃないか、ようやく後進国も遅れてバスに乗ろうとしてるのに、そこではしごをはずすのかと、インドの代表はアル・ゴアの申し出を拒否します。正しいか間違っているかというレベルで語るならば、インドの言い分は筋が通っていて正しいと思います。でも、今そこにある地球温暖化の危機の前では、インドにそこは一つ泣いてくれないかと言わざるを得ないようなのです。そこで、太陽光発電の技術提供と費用の低金利融資を申し出ることになります。こうなると正しい正しくないの問題ではなく、問題解決のための駆け引きということになります。勿論、それが悪いということではないのですが、そうなると駆け引きを技術的にうまくやった方の勝ちとなります。地球の危機の話から、ぐっと生臭い勝ち負けの話にレベルダウンするのですが、地球上の人間を一つにまとめるにはそうするしかないというところもこの映画は見せてくれます。

そういう意味では、この映画は、地球温暖化防止の啓蒙映画であった前作とは違います。正しい目的を実現するために、アル・ゴアが起こす行動を見せていく、アル・ゴアのドラマになっていますので、その目的の部分の是非には触れていません。ですから、この映画から、地球温暖化ってどういうことかを学ぼうとするのは難しいです。地球温暖化を防ぐためにどういう行動がとられているのかについて知ることができる映画です。映画は、ラストの字幕で、この目的のために、あなたの時間を使ってね、そして、この目的のために投票してね、と地球温暖化を防ぐ行動をとってねと、観客に語り掛けるのです。語り口が穏やかなので、脅しやアジテーションという感じがしないのは、うまい映画だと言えましょう。

ちなみに撮影映像やカット割り、編集が大変うまく、その映像の語り口に乗せられると、見終わって「そうかー、地球温暖化を防ぐためには、太陽光発電と風力発電を推進する政治家を選ばないと」という気分になってきます。それがいいことか悪いことかは観る人が判断しなければいけない、と言いたいところですが、多少は懐疑的な視線も持っていいのかなって思いました。すべてを真に受けちゃうってのは、ユリ・ゲラーのスプーン曲げの映像を見て超能力を信じちゃうのに近いと思うからです。ユリ・ゲラーは大変うまい見せ方のテクニックで、超能力の存在を視聴者に信じさせました。それと同じことがこの映画では絶対に起こっていないと断言できる人はいないと思います。

「ザ・サークル」はヒロインが最後まで賢くないままなのが気になりました。


今回は新作の「ザ・サークル」を日本橋のTOHOシネマズ日本橋9で観てきました。このシネコンは作りが凝っているのか、入り組んだ劇場配置になっていて、一見さんだと、トイレから戻ってこれなくなりそう。

田舎でテレフォンアポインターをやってくすぶっているメイ(エマ・ワトソン)に、学生時代の友人アニー(カレン・ギラン)から世界最大のSNS企業であるサークル社の面接の話が転がり込んできます。難病の父(ビル・パクストン)とそれを支える母(グレン・ヘドリー)を見て、何とかお金を稼ぎたかったメイには降ってわいたようないい話。サークルの重要ポストにあるアニーの口添えが効いたのか、メイは面接に合格し、サークルの一員となります。最初は新しい仕事に慣れなかったメイでしたが、徐々にその世界の人になっていきます。実家にあった、地元の友人マーサー(エラー・コルトレーン)の作った鹿角のシャンデリアをSNSにアップしたら、マーサーが鹿殺しとバッシングされてしまい、彼から絶交を言い渡されます。そのショックで、無断で小屋からレンタルのカヤックを持ち出して漕ぎだしたら、船と衝突して転覆。しかし、サークル社のシーチェンジと呼ばれる監視カメラシステムのおかげで、救命隊がすぐに駆け付けて救出されます。メイは、サークル者の経営者ベイリー(トム・ハンクス)に呼ばれ、サークル社のイメージを体現する大役を仰せつかることになります。それは、24時間シーチェンジカメラに自分を監視させて、それを世界に配信するというもの。彼女はあっという間に億のレベルのフォロワーを得ますが、両親はメイと関わることでプライバシーがなくなることで、疎遠になってしまいます。そして、シーチェンジを上回るソウルサーチという人物特定システムが開発され、そのお披露目のプレゼンをメイが行うことになり、その場で、逃亡中の殺人犯を探し出して捕獲することに成功します。さらに一般人の探索エキビジョンをすることになり、観衆はメイにマーシーを探せとリクエストし、メイは仕方なく、マーシーを探索の対象とするのですが....。

デイブ・エガーズの原作小説をもとに、エガーズとジェームズ・ポンソルトが脚本化し、ポンソルトがメガホンを取った、ネット社会を題材としたスリラーです。サークル社というのは、どうやらアップルとフェイスブックを一緒くたにしたハード、ソフトの両方を作って統合サービスを提供する会社らしく、様々なコンテンツをそのシステムのもとで管理しているようです。そんな会社に就職したメイが、どんどんネットサービスの中に取り込まれて行って、自ら進んでプライバシーを提供して、広告塔になっていくという、そんなお話です。SNSに加入することで、そのIDを使って様々なサービスが受けられるようになり、全米の8割が登録しているというのですから、相当な規模の会社です。独占禁止法違反で、議員に睨まれることもあるのですが、逆にその議員の弱みをつかんで、司法にチクるなんてこともやってるようです。そんな大企業の陰謀に巻き込まれたヒロインの運命はいかにというお話になるのですが、あんまりお話的に盛り上がりを欠いてしまったのはちょっと残念でした。でも、作り手はメインストーリーよりも、ディティールの方に色々作り込んだ感があり、そっちの方が気になる映画になっているのは、狙ってやっているのかしら。

ネット社会の恐怖を描いた社会派サスペンスという触れ込みだったのですが、ネット社会の怖さを中心に据えて、そこに大企業の陰謀を加えたのではなく、大企業が陰で悪い事しているというよくある話にSNSをまぶしたという感じのお話になっているのは、期待していたのとはちょっと違いました。今、そこにあるネット社会の怖さは、我々は身をもって感じているので、この映画のように、今さら陰謀論みたいな曖昧なアプローチをしなくても、もうわかってるからって言いたくなっちゃうのですよ。世界中に散らばった監視カメラが、そのうち人間のプライバシー空間を侵食してくるかもという怖さは、IOT(Internet of Things)とかAIスピーカーといったキーワードで聞かされてますし、全ての人間の行動を記録して分析するというのはビッグデータというキーワードがあちこちで語られています。でも、この映画で語られるのは、ネット社会が進展すると、大企業が悪さするかもしれないよ、というあまり具体性のないレベルなので、陰謀論の世界にとどまったままです。現実の方が先を行ってるように見えちゃうのは原作小説が書かれた時期が古いのかな。

ヒロインが自分の私生活を24時間カメラに監視させて、人間の透明化を図るというのは、どっかのユーチューバーがやってそうな気もするし、やってもそれほど面白くなさそう。でも、この映画では、彼女の24時間をずっと見てる暇なネット市民がかなりたくさんいるという見せ方をしてます。まあ、見た目かわいいエマ・ワトソンが私の24時間全部見せますなんて企画をやったら、最初に1日くらいは見ちゃうかもしれないけど、そんなにみんなヒマじゃないと思うのですが。それとも、結構ヒマな人っているのかな、Iphone買うために、3日前から並ぶ人がいるくらいだから。うーん、しがないサラリーマンの私には、ネットのヒマ人のみなさんの存在には、リアリティを感じられないのですが、実際のところはどうなんだろう。

ともかくも、メインストーリーとしてはそれほどの発見もなく、面白いとも思えないのですが、そんな中でも「おお?」と思うところがいくつかありました。ヒロインは、入社直後は仕事を覚えるのに精一杯なのですが、そこへ同僚がやってきて、「業務後のサークル活動に出てないね」「SNS更新してないね」とか言ってくるのですよ。そして、サークルのサークラーとして、そういう相互のつながりが大事なんだよって、メイを諭します。何じゃそりゃ、それって日本で言うなら、仕事の後に飲みニケーションをとれとか、社員旅行に参加しろとか、社員同士でLINE交換しろっていうのと同じじゃん。元々、そういうのやらないのがアメリカの会社だと思っていたのですが、この映画では、最先端企業がそういうことをしろと言ってるのですよ。へえー、日本で仕事明けに飲みに行くぞみたいな、業務外のコミュニケーションを重視するようになってきてるの?ってところがかなりびっくりの発見でした。まあ、実際のアメリカの大企業がそういう方向へ向かっているかどうかはわからないのですが、最先端企業はそんな感じだよという見せ方にはかなり驚かされました。

また、ヒロインのメイは、どうもベイリーの提唱するネットによる未来にすごく積極的でして、サークル社のSNSのIDを使って、選挙や投票をやらせよう、選挙民は全部サークル社のSNSに登録させようとか言い出すのですよ。まあ、勝手に盗んだカヤックでおぼれそうになった時、サークル社の監視カメラシステムのおかげで命を救われたということもあるんでしょうが、それにしても、簡単にサークル教の信者になって、その広告塔になっちゃうってのはかなり軽率、というかバカ。その時点でネットの怖さをマーシーが警告しているのに、それを無視した挙句の行動ですからね。で、このメイのバカさは、田舎者だからという見せ方をしているのが気になりました。そう感じたのは私だけかもしれないのですが、このヒロインはすごく騙されやすい人として登場します。サークル社に就職して、その会社の大きさに目を丸くして、キャピキャピしちゃうところは、都会に出てきた田舎者そのものです。そんな彼女が疑問を感じないままサークル社に取り込まれていく展開は、田舎者を見下したお話のように思えてしまったのです。メイがちゃんとネットリテラシーを持ったスマートな女性だったら、こんなことにはならなかったと感じさせる作りになっています。これを狙ってやったとしたら、田舎者の情報リテラシーは低いというのは、意外だけどいいところ突いてるという気がします。

この映画に登場するシーチェンジというシステムは小型監視カメラをあちこちに置いてデータを集めて分析して監視してというもので、それによって市民にとって有用な情報が安く作れて、社会システムを低コストで最適化できるというものです。でも、その集めたデータから一部を抽出して並べ替えると、特定個人のプライバシーが丸裸になってしまうというリスクを持っています。そのリスクは、悪意を持った人間によって現実のものになりますが、悪意のある人間の存在を無視できれば、そこにもたらされる社会的利益は計り知れないものがあるという理屈です。とは言え、悪意を持ったことのない人間なんてほとんどいませんから、そこに、悪意によるデータ活用ができない仕掛けが必要になります。これがセキュリティとかコンプライアンスとか呼ばれて、IT業界の課題となっています。でも、悪意をシステム技術で排除するのは大変でコストもかかりますから、まずは利益の上がるところから手をつけていくと、危機管理は後回しになります。なんていう怖さを、この映画で描いてくれたら、「おお、いいとこ突いてる」と思うのですが、そこまでのツッコミはこの映画にはありませんでした。何でもかんでも事件だと思えばすぐカメラを回して、世界へ配信する連中は登場して、観客をイラっとさせるのですが、それらがどう使われるのかという怖さへの言及がないので、なんとなく不愉快な世界だよねのレベルにとどまってしまっています。また、メイをサークル社に誘ったアニーの描き方も、もっとサークル社の秘密を握ったキーマンとして描かれるのかと期待させておいて、単に過労でリタイアするだけというのは肩透かしもいいところ。単に、サークル社はブラック企業だったというのを表現するだけの役どころというのは残念でした。

メイというのは、正直言ってあまり賢くない女性として登場するのですが、後半でネット社会の怖さに気づいて逆転に出るのかなと期待させます。一応、サークル社への逆襲に出るのですが、結局、彼女がネット社会を理解して賢くなることはなく、映画の前半と大して変わらないまま映画が終わっちゃうのには結構びっくりでした。これは狙ってやってるのかな。田舎者にはこういうのは理解できないだろという上から目線の視点が感じられたのは私だけかしら。だって、後半には賢くなってくれないと、映画としてのカタルシスが弱くなっちゃうんだもん。この、最後まで聡明でない田舎者ヒロインを、賢そうなエマ・ワトソンが演じてるってのはミスキャストだと思いました。ラストシーンで、カヤックを漕いでるヒロインがドローンカメラに囲まれるのですが、そのカメラに向かって満面の笑顔を向けるところが何とも悲しいというか情けなく見えてしまって、こういう役は、聡明キャラのエマ・ワトソンにはふさわしくないと思いました。もっと頭悪そうなかわいい系の女優が演じたら、ネットの深淵にいるヒロインの不気味なアンハッピーエンドの余韻が出たと思います。

演技陣は、ヒロインがあやふやしていることもあって、他のキャラもあまり目立つところがなく、ジョークを交えてプレゼンするトム・ハンクスだけ生き生きしてましたが、彼も悪の部分が描かれないので、ヒロインとの対立構造が成立しないのはドラマの盛り上げを欠いてしまいました。これが遺作となったビル・パクストンとグレン・ヘドリーが演じたヒロインの両親がリアルだったのが印象的なくらいかしら。また、「バットマン」「シザーハンズ」のダニー・エルフマンが彼にしては珍しくシンセとサンプリングによるクールな環境音楽を作ってドラマを支えていますが、ドラマ部分が薄いので、彼の厚い音はややオーバーに聞こえてしまったように思います。でも、音楽はそれだけ聴いても結構いい感じなのでサントラはゲットしたいと思います。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ソウルサーチのエキジビジョンで、マーサーを探すことになるのですが、ネット会員が、マーサーの家に携帯のカメラを持って押しかけて、彼を追いかけます。車で逃げるマーサーをさらに追跡していくネットのみなさん。そして、前から飛んできたドローンカメラに衝突したマーサーの車は橋から転落してしまいます。数日会社を休んで、復帰したメイは、再びカメラを着けるとベイリーに告げ、プレゼンの場にベイリーと一緒に出ます。事前に彼女は、以前に知り合っていたかつての共同経営者タイ(ジョン・ボイエガ)に連絡を取っていました。そして、社員の前のプレゼンの場で、ベイリーに自分と同じように24時間カメラをつけるように進言し、さらにタイがハッキングしたベイリーの全てのデータを公開し、社員に送付するのでした。そして「サークル社も変わる必要がある」というメイ。場面変わって、カヤックを漕ぐメイに、何台ものカメラがやってきて、そのカメラに微笑みかけるメイ。画面分割で世界中の映像が画面いっぱいになって暗転、エンドクレジット。

ベイリーの全ての情報がオープンになるのですが、ベイリーが何か悪いことをしたという展開ではありません。まあ、つつけば埃は出てくるのでしょうけど、ベイリーが裏で何をしたのかは一切描かれませんので、大企業の悪事を暴露したというカタルシスはありませんし、これでは、マーサーは無駄死にだよなあって感想になっちゃいました。というわけで、ストーリー的には娯楽映画としての面白さはなかったのですが、それ以外の部分で、ちょっとだけ気になるところのある映画でした。この後、メイは、また賢い人に騙されちゃうんだろうなあっていう後味は面白いと言えば面白いのかもしれませんが、それなら、もっと悪意に満ちたブラックコメディにして欲しかったです。

「エル ELLE」は先の読めない展開からシニカルな面白さで満足度高し。


新作の「エル ELLE」を横浜の港南台シネサロン2で、2回目の鑑賞してきました。(1回目のTOHOシネマズ川崎2で観た時に記事を書けなくて)ここは小綺麗で本当にいい映画館、なのに土曜日の初回に5人しかお客さんがいないのはすごく残念。ご近所には映画ファンはいないのかなあ、電車に乗らずにこんな面白い映画が観られるのに。私からすると港南台の近所に住んでる人がすごくうらやましい。

ゲーム会社の社長ミシェル(イザベル・ユペール)は、自宅で突然押し入ってきた暴漢にレイプされてしまいます。しかし、彼女は警察を呼ばず、部屋を掃除し、風呂に入り、普通の生活に戻ります。彼女には、若い恋人を持つ母親イレーヌときつい恋人に振り回されるダメ息子ヴァンサン(ジョナ・フロケ)がいて、共同経営者アンナ(アンヌ・コンシニ)とは親友ながら、その夫ロベール(クリスチャン・ベルケル)と愛人関係にありました。彼女のミシェルの父親は、過去にものすごい犯罪を犯していて、服役中。ミシェルは見知らぬ人からそのせいで見知らぬ人から嫌がらせを受けてしまうレベルの有名人。会社では、元々がゲームメイカーではない社長であるせいか、ワンマンぶりが社員から反感を買ってしまっています。友人にレイプされたことを平然と報告するミシェル。そんな彼女は、今、向かいの家のダンナ、パトリック(ロラン・ラフィット)が気になって仕方がなくて、クリスマスのパーティに彼とその奥さんレベッカ(ヴィルジニー・エフィラ)を招待して、テーブルの下で彼にちょっかい出したりもします。そして、彼女の前に再びあの覆面の暴漢が現れるのでした。

フィリップ・ディジャンの原作を、デヴィッド・バークが脚本化し、「ロボコップ」「ブラックブック」のポール・ヴァーホーヴェンが監督した一品です。ヴァーホーヴェン監督の映画は、ハリウッド進出後の「ショー・ガール」「氷の微笑」「スターシップ・トゥルーパーズ」などを観ています。どれも、娯楽映画として面白くできているのですが、さらにそれに斜に構えた毒を盛ってあって、それが独特なヴァーホーヴェン・カラーを生み出していました。人間の中の、あまり表に見せたくない部分をスクリーンに映し出す、悪意を持った映画を作る監督という感じでしょうか。この映画も、冒頭から、ヒロインが自宅でレイプされるというショッキングなシーンで始まるのですが、そこから先のヒロインの描き方が、こちらの予想の斜め上を行くのですよ。レイプされたヒロインが床の掃除をして風呂に入るシーンを見せ、そこへ訪ねてきた息子と何もなかったように会話をする、普通のドラマとは違う描き方をしていて、「お、これは?」と思っていると、どんどん普通の映画の斜め上の展開となっていきます。警察を呼ばないのはまだしも、自分がレイプされたことを友人たちと食事中に平気で告白する。何か変じゃね、こいつとも思うのですが、そこが演技と演出のたまものというべきか、そういう女性もいるんだなあという存在感と説得力があるのですよ。

ミシェルという女性は、49歳で、母親は整形を重ねて若いツバメと結婚しようと言ってます。息子ヴァンサンは、何だか頼りにならないクズっぽい若者できつい奥さんの尻に敷かれっぱなし。父親は39年前にご近所27人殺しをやった凶悪殺人犯で、仮出所を申請してまたテレビに登場しています。ゲーム会社の共同経営者アンナは息子を産んだ病院で知り合い、息子の乳母をやったという過去があり、そのダンナのロベールとミシェルは不倫関係。元ダンナのリシャール(シャルル・ベルリング)は売れない小説家で、大学院生のエレーヌ(ヴィマラ・ポンス)と交際してます。で、さらに向かいの家のダンナのパトリックが気になってしょうがない。なんだか「境遇の大盛全部乗せ」みたいなヒロインなんですが、そんな彼女を、イザベル・ユペールが大変間口の広い演技で怪演しています。この怪演というのは、強烈なキャラクターを大熱演しているのではなく、普通にひょうひょうと、この大盛ヒロインをこなしているのですよ。彼女は、強いと言えば強いかもしれないし、エロいと言えばエロいかもしれないし、エゴイスティックと言えばそんな感じ。でも、それが大きく振れないので、普遍的な女性の姿というのにも見えるのですよ。こう書くと女性の方からクレームがガンガン来そうですけど、すごい女性だけど、どこにでもいそうな感じがするのですよ。ユペールが、ミシェルという女性を、特別な女性のように見せない演技でさらりと演じているところが、怪演だと思ったのです。すごい女性だと思うけど「ピアニスト」や「アスファルト」で感じさせる特別なヒロインという匂いがしないのです。

二度観たからかもしれないけど、すごい境遇にいるヒロインなのにそのリアクションにどこか「あるある感」を感じてしまったのです。殺人狂の父親、色キチの母親、クズの息子、ダメ元ダンナといった皆さんに囲まれているにしては、ミシェルという女性は普通っぽく見えてしまって。まあ、性癖が変わっているってところは、後半にわかってくるものの、言動や行動がそう常識を逸脱してないのです。なのに、大盛全部乗せの境遇を飄々と乗り切っちゃうのがすごく不思議。やっぱりすごい女性なのかな、それとも、女性はみんなこういうすごさを隠し持っていると言うべきか。色々な感じ方のできる映画ですから、ぜひご覧になって男女問わず感想を聞きたい映画です。私は、かなり女性が怖くなる映画でした。もうちょっとミシェルが強烈キャラだったら、特別な人なんだなあって安心できたけど、環境次第で女は誰でもミシェルになっちゃうんじゃない?って言う怖さとでも言いましょうか。

でも、この映画、今年一番の面白さではないかと思っています。目が離せない展開、期待を裏切られる快感、充実した演技陣のリアルなドラマに、たっぷりのシニカルな笑いと見どころがいっぱい詰まっていまして、映画を観た満足感が十分で、かつ後味も悪くない。原作や脚本が面白いのはもちろんでしょうが、やはりヴァーホーヴェンの見せ方のうまさなのだと思いました。悪意のある笑いというところでは、彼の「スターシップ・トゥルーパーズ」が好きなのですが、あれはぶっとびSFという設定でしたけど、今回は普通の人間ドラマでやってのけたのですから見事だと思います。ストーリーだけを語るとホラーな後味になりそうなのに、映画が終わると、どこかすっきりしたものが残るという不思議な映画です。エロと暴力がPG-12レベルでありますが、これはオススメ度高いです。

演技陣では、強烈な存在感のユペール以外でも、彼女とのコントラストがおかしいアンヌ・コンシニが魅力的でしたし、クズ息子のジョナ・フロケの好演が印象的でした。また、元夫のガールフレンドを演じたヴィマラ・ポンスのかわいさが際立って印象的で、この先、他の映画で再見したい女優さんでした。ステファーヌ・フォンテーヌの撮影は、シネスコサイズの画面なのに手持ち映像を駆使して、ヒロインの周囲を動き回る映像が面白いと思いました。また、最近のヴァーホーヴェン映画の常連である元アート・オブ・ノイズのアン・ダドリーが、シリアスドラマのオーケストラ音楽をつけていて、そのどこかミスマッチな感じがこの映画のおかしさと重厚さ(相反してる言葉だけどそんな感じ)を支えています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



二度目の襲撃の時、ミシェルは反撃に出て、その覆面を取ると正体は向かいのご主人パトリックでした。翌日、平気な顔で会社へ行くパトリック。ミシェルは父親に会いに刑務所に行くとその日の朝に自殺していました。その帰り道に事故に遭って動けなくなったミシェルは電話がつながらず結局パトリックに助けてもらいます。一方、下らない理由で仕事をやめて、奥さんにあいそを尽かされた息子のヴァンサンが転がり込んできます。パトリックは、ミシェルとヴァンサンを夕食に招待し、ミシェルを地下室へ連れ込みます。体を投げ出すミシェルでパトリックはこれでは抱けないと言い、ミシェルがパトリックを殴ると、パトリックは殴り返し、事に及ぶのですが、それを快感によがるミシェルに冷めてしまうパトリック。ミシェルの会社でビッグプロジェクトのゲームが完成し、その披露パーティが開かれます。ミシェルはパーティの仕切りを息子に任せます。パトリックもパーティにやってきます。ミシェルはアンナに、自分がアンナのダンナと寝ていたことをばらしてしまいます。そして、パトリックと一緒に先に家へ帰るミシェル。帰りの車の中で、こんな病的な関係はおかしい、警察へ行くとパトリックに告げるミシェル。家へ帰ったミシェルを再度覆面を被ったパトリックが襲います。ミシェルに覆いかぶさったパトリックですが、そこへ駆けつけたヴァンサンが手近の木の棒でパトリックを殴りつけ、パトリックは頭を割られて死亡。そして、引っ越していくレベッカを見送るミシェルのところに、ヴァンサンとジョジーがやってきます。二人仲良くなったみたいでミシェルもうれしそう。父親の墓の前に立つミシェルの前にアンヌがやってきて、ダンナを追い出したと恨み言を言うのですが、やっぱり二人は仲良しみたいで、ミシェルの家に引っ越していい?という話になります。そんな会話をしながら去っていく二人のロングショットから暗転、エンドクレジット。

うーん、パトリック殺されるかーとちょっとビックリでしたが、まあ、それもありかなと思わせる展開ではありました。それよりも、ラストで、ミシェルだけでなく、クズだった息子、ダンナを寝取られたアンヌを幸せそうに見せて、ハッピーエンドになっちゃうのにはかなりびっくりでした。結局、禍福は糾える縄の如しということなのかもしれませんが、そのあっけらかんとした後味のおかしさは、27人殺しとか変態レイプのお話とのミスマッチがすごい、というかこれは一体何の映画だったんだろうという気分になります。昔の方がもっと悪趣味な結末をつけてきたヴァーホーヴェンにしては、意外なハッピーエンドのおかしさは、劇場で確認する価値があります。これ、今年のベストかも。面白いんだもん。

「リュミエール」って単なる技術の発明者じゃない映画芸術の先駆者でした。


今回は新作の「リュミエール」を、横浜のシネマジャックで観てきました。ここは幕の開閉があり、観易い位置に車椅子用のポジションがあるという点で点数高いです。前日の読売新聞の夕刊で丁寧な紹介記事があったからでしょうか。こんな映画なのに、お客さんの入りもかなりよかったです。

映画の発明というと色々と解釈が分かれるところですが、1895年、フィルムに映像を記録してスクリーンに上映する方式のシネマトグラフを作ったリュミエール兄弟が今の映画の父と言われているようです。そのリュミエール兄弟は、1422本の作品を残していまして、その中の108本を選んで見せるという映画です。

フランスのリュミエール研究所の所長であるティエリー・フレモーが、脚本、監督、編集、ナレーションを担当しました。ちょっと見、ドキュメンタリーかと思わせるのですが、中身は、リュミエール兄弟の作った映画108本をそのまま上映するというもの。そこに「動物の謝肉祭」で有名なカミーユ・サン・サーンスの音楽をかぶせています。当時は、フィルム撮影の制限で、1つの作品に50秒という時間制限がありました。この映画で紹介される作品も1本の長さが大体50秒になっていまして、それを順番に見せていくだけの映画なので、正直、途中で眠気に襲われたりもしたのですが、各々の映像には色々と発見があって面白かったです。

リュミエール兄弟というのは、すごくお金持ちだったそうで、シネマトグラフの開発には、その財力にものを言わせていた部分も多いようです。私も知っているのは、工場の出口から出てくる従業員を映したものと、列車が駅に入ってくる映像でして、この映画の中でも、最初に登場するのは前者の「リュミエールの工場の出口」でして、驚くことにこれが3つ登場するのですよ。3テイクというか、3バージョンというか、どうもきちんと演出して撮っているらしいのです。以前、映画の本で、ここで登場する工員がいい服を着ているので、ドキュメンタリーじゃないという解説をしていたのを読んだことがあります。この後も登場する作品の全てが、ドキュメンタリーというよりは、きちんと演出が施された映像になっているようなのです。実際にそこで起こったことを撮影しているのでしょうから、それがドキュメンタリーか演出かという線引きは難しいところでしょう。でも、リュミエール兄弟の映像の多くに、映っていることへの作り手に演出が入っているのは事実のようです。

観客を恐怖に陥れたという「ラ・シオタ駅への列車の到着」という映像にも、演出が入っているようです。それは単に映っている人間をコントロールしているというだけでなく、構図とか映像の切り取り方に、作り手のセンスが盛り込まれていることを意味しているんですって。確かに右手奥から、左手手前に迫ってくる列車の構図の奥行きの作り方は、絵になってますし、列車側を黒みにし、ホーム側を白みしてコンストラストを出しているのも演出でしょう。確かに、家庭で撮った8ミリフィルムやホームビデオの素人映像とは明らかに違うのですよ。スクリーンに映して「絵になる」映像がそこに刻み込まれているというのは、考えてみれば驚くべきことかも。ちゃんとアートになっている、絵画をフィルムの上で動かしたものが映画なんだという見せ方なのですよ。単に、そこにあるものをありのままに記録しましたとのは違う、作り手の意図が作り込まれた映像になっているのです。

ナレーションの説明を聞くと、被写体となっている人も撮影されていることを意識していて、わざと大げさに演技したり、尺を意識した動きをしたり、ちょっとおめかししてたりしてるんですって。確かに「鍛冶屋」という作品では、作業してる鍛冶屋がネクタイ締めていたりするのですから、映画に撮影されるってことは、特別なことだったようです。記念写真を撮られるのと同じような感じで、カメラマンにポーズ取ってとか指示されているって感じなのかな。それでも、街中の映像を撮ってる作品などは一応ありのままを撮影していることになるのでしょうけど、それでも、そのアングルとか被写体、カメラの移動などに、絵を作るんだというアートな意志が感じられるのは面白いと思いました。特に船の進水式の映像なんて完成度が高く、これは素人の絵ではないと思わせるものがたくさんありました。

また、50秒の中でショートドラマみたいなものを作っているものあり、中には編集とトリックを使ってサプライズを見せるものまであり、お金を払って観に来るお客さんを楽しませようという意図を感じさせるものがありました。最初は、動く絵そのものが驚きだったのに、さらにその内容で、観る者を楽しませようという意図が入ってくるのは、よく考えれば自然な流れなのかもしれません。でも、この映画は、リュミエールがシネマトグラフを開発した1985年から1905年までのほんの10年の間の作品をピックアップしてますし、実際、そういう観客への娯楽を意識した作品は、1985年の2年後にはいくつも作られているのですから驚きです。そして、そこでは見られない映像を観客に見せるべく、世界のあちこちにカメラマンを派遣しているのですから、その興行者としてのセンスは素晴らしいものがあります。こうなると動く絵葉書という感じになるのかな。とにかく、スクリーンの前に座ると、動く絵が観られる、それも笑える絵が観られる、外国が観られるなどなど、映画の可能性が一気に花開いているのは見事だと思います。動く絵が作られ始めて、ほんの数年で、映像の中身がものすごいスピードで進歩していたんだなっていう発見があるのですよ。ハード技術の進歩よりも、ソフトウェアの進歩がすごいという感じですね。

その中でも感心したのは、ニュース映像という括りで紹介された、洪水の後の街の様子をとらえたもので、水たまり、馬車、野次馬の3つの対象のスクリーン上での配置が見事。今のニュース映像だってこうきれいに決まらないよなあっていう映像は、どこまで計算されていたのかと思ってしまいます。映像そのものに芸術的価値を感じるものが結構あるのですよ。いくつもの要素を1つの画面の中に取り込んでいるものや、カットの最初では映っていなかったものが、前景の対象物の移動によって見えてくるなんてのは非常に凝った演出と言えるのではないかしら。リュミエール兄弟の作った映像には、単なる動く絵以上の芸術性や娯楽性があり、さらに外国の様子を映像化するというニュース性といったものが含まれていました。だからこそ、彼らの作った映像は今、現代の視点で観ても、映像として価値のあるものになっているのでしょう。単なる映画という新技術の歴史の証拠以上の魅力を、今もなお有しているのです。

まあ、1422本の中から、108本を選り抜いているので、出来のいいものがピックアップされているのだろうなとは思うのですが、それでも、ほんの数年間で、前例のない中で、これだけのクオリティの映像を作ったというのは、すごいことです。リュミエール兄弟に芸術的なセンスがあったということになるのかなあ。でも、この映画のナレーションでは、兄弟のことを芸術家だとは言ってません。むしろ、上手な記録者という感じでの紹介になっているのですが、そもそも映画の良し悪しの基準もない時点で、これだけのものを作るセンスは、単なる上手下手では語り切れないものがあると思います。

映像は、フィルムとして残されていたものを、できる範囲で復元したらしいのですが、100年経過しても、復元できるくらいに保存が効く、フィルムという媒体はすごいよなあってことも実感できる映画でした。今、DCPによって上映されているデジタル映像が100年後まで保存するのは、結構大変なことだと思うのですよ。技術の進歩は方式やフォーマットをどんどん変えて行ってるのが現状ですもの。100年間も変わらず継承されてきたフィルムというフォーマットの強さもまたすごいということになるのでしょう。

リュミエール兄弟というと、映画の発明者というイメージしかなかったのですが、この映画を観て、今の映画芸術の先駆者でもあったことがわかったのは、この映画からの大きな発見でした。また、小さな発見では、映像の中で、F・トレウェイという芸人が帽子を様々な形に変えるネタを見せるのですが、これが早野凡平の「ほんじゃーまあの帽子」という芸の元ネタだったことがあります。(これ、個人的には大きな発見なんですけど)

「少女ファニーと運命の旅」は歴史を描いたドラマとして子供にもオススメできます。


今回は東京での公開を終了している「少女ファニーと運命の旅」を、港南台の港南台シネサロン2で観てきました。ここは、ちゃんと幕の開閉やスクリーンサイズの変更を行う映画館。その昔、ビデオシアターだったので、ノーマークだったのですが、フィルムからデジタル上映になったら、この映画館をチェック要だったと最近気が付きました。って、気が付くのが遅いよ。

1943年のフランスはナチスドイツの支配下にありましたが、ユダヤ人を支援する組織が、ユダヤ人の子供を田舎の施設にかくまっていました。13歳のファニー(レオニー・スーショー)は二人の妹と一緒に2年そこにかくまわれていたのですが、密告者によって、そこを出ることになります。移った先の施設ではマダム・フォーマン(セシル・ドゥ・フランス)は妹たちに甘いファニーに調理人の手伝いを言いつけます。戦況は変わらず、この施設にもドイツ軍の手が延びてくると危惧したマダム・フォーマンは子供たちをスイスへ逃がすことを決意します。子供たちを班に分けて列車を乗り継いでスイスへ抜けようというプランです。ファニーの班には料理人のエリーが付くのですが、乗り継ぎ駅でエリーが逃亡。そこへ現れたマダム・フォーマンはファニーを班のリーダーに指名します。ただでさえ心細いのに、そんなリーダーなんてできないというファニーに、マダム・フォーマンは「あなたならできる」と励まします。次の待ち合わせ場所アンヌマスへ行く途中駅で橋が爆破されたとのことで列車は運転打ち切り。途方に暮れる子供たちですが、リヨン経由でアンヌマスへ行けるルートがあるとのこと。しかし、リヨンはドイツ軍だらけで絶対行きたくないとファニーは別のルートを探します。他の子供が見つけたアンヌマス行きの貨物列車に乗り込み、何とかアンヌマス駅までたどり着いたファニーたちですが、そこに現れたのはマダム・フォーマンではなく、見知らぬ若者。彼に従って越境請負人のトラックに乗るファニーたちですが警察の検問に引っかかって、学校の教室に監禁されてしまうのでした。

実在する人物ファニー・ベン・アミの実話に基づいてアン・ペレイニャとローラ・ドワイヨンが脚本を書き、ドワイヨンがメガホンを取りました。「ポネット」のジャック・ドワイヨンの娘さんだそうです。助監督を務めて長編映画は3本めだそうです。こういう子供の出てくるナチスドイツを題材にした映画って、のどかな日常に、虐殺が割り込んでくる怖さを描いた「やがて来たる者へ」を思い出してしまうので、この映画も予備知識がなかった分、どういう結末になるのかドキドキものの鑑賞となりました。で、ネタバレ上等で言ってしまいますと、この映画、ショッキングな虐殺シーンや死体の山が登場したり、死の恐怖の直接描写がある映画ではありません。確かにドイツ軍に追われるサスペンスはありますが、全体的な刺激はまろやかで、子供にも見せられる映画になっています。こういう歴史があって、子供でもこんな思いをして生き延びたんだよということを教える映画として、この映画はオススメできます。確かにドイツがフランスを征服していた頃で、ドイツはユダヤ人を収容所に集めて虐殺していたという歴史の予備知識は必要になりますが、それは大人が教えればいいことで、小学校の高学年以上であれば、この映画を理解することができると思います。何で、こんなことを書くかと言いますと、最近の映画で「子供に見せたい」という視点で語られたり、宣伝されたりすることが少ないからです。で、この映画は「子供に見せたい」映画ではないかと。ちなみに「やがて来たる者へ」は子供にはオススメしません。かなり刺激強い映画で、私的にも結構堪えましたので。

勉強不足の私は、フランスにこういうユダヤ人の支援組織があったとは知りませんでしたので、その点では勉強になりました。物語は、そこで2年間暮らしていたファニー3姉妹が、密告によって、そこを追われるシーンから始まります。フランスは、ドイツに降伏後、ドイツのユダヤ人狩りに積極的に協力していたという黒歴史があり、それを題材にした映画もありますが、この映画でも、フランス警察がユダヤ人狩りをしていたということが描かれます。しかし、その一方で、ファニーたちをかくまってくれる支援組織があったり、ファニーたちを見逃してくれる大人たちの存在も描かれます。そんな中で、ドイツ軍は存在そのものが恐怖というか、絶対悪という描き方をされていまして、やはり、歴史の中では、彼らのやったことは許されるべきではないと今も判断されていることが伺えます。

ファニーたちは、子供だけで列車移動することになるのですが、その描き方は、ドキドキハラハラさせるものではありますが、隣り合わせの死の恐怖を前面に出すことはせず、冒険小説的な味わいもあって、ファニーに感情移入しながら映画に乗ることができました。子供ならではの、ムチャしたり、可愛かったりという見せ方もリアルで、生きるか死ぬかの旅ではありますが、あくまで子供目線で描かれているのが、陰惨な展開をうまく避けています。周囲の大人たちのドラマを描かない作りを、ツッコミが甘いというか、焦点を絞り込んだと思うかで、評価が分かれるところですが、前述のように「子供に見せたい」映画として、この映画を評価している私からすると、これは見識だと思います。警察やドイツ軍に連れ去られる大人のシーンは登場しますので、彼らのそれからの運命を思うと恐ろしいものがあるのですが、映画は子供たちから離れません。

ファニーはリーダーシップがあるとか特別強い女の子という描き方をされていないのですが、周囲の子供たちが普通の子供として描かれているので、誰かが後押ししなきゃいけないと思わせ、だとするとファニーしかいないよなあって言う見せ方になっています。大人はマダム・フォーマンしか信用できない状況下で、子供たちだけで、フランスの田舎を、道路を避けて歩いて移動するわけですから、これってすごく大変なことです。地図もないまま、スイスまで行こうというのがムチャだと思わせるのですが、ここで偶然が彼らを救うことになります。

ローラ・ドワイヨンの演出は、1時間半強の時間の中で、テンポよくドラマを進めていき、その中で、様々な人間を登場させることで、当時の時代の空気を手際よく描写しています。子供たちも自然な演技で、溜めの演技をさせない演出で、リアルな子供を表現することに成功しています。特にヒロインであるはずのファニーを特別なキャラにしていない演出がうまいと思いました。たくさんのお金をかけてはいないようですが、駅のセットに群衆を配したところなどピンポイントにお金をかけて、安っぽい絵になっていないのも好印象でした。ラストのまろやかな締め方もあって後味がいい映画になっているので、オススメ度高いです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



子供たちはスイスの林間学校へ向かうフランス人の子供たちとして、フランス名を持って移動するのですが、途中で警察の検問を受けたとき、同じトラックに乗っていた赤ん坊連れの女性が、警察に子供たちの正体を密告してしまい、学校に監禁されてしまうのです。食事も与えられず、監禁されていたファニーたちは、外で掃除していたおばさんに出してもらって、教会で食事をもらうのですが、そこも危ないと判断して、脱出します。そして、廃屋を見つけて、そこで終戦を待とうと思うのですが、食べ物もなく、小さい子たちが空腹から口にした木の実で食あたりになってしまい、ファニーと年長のヴィクトールが近くの農家へ助けを求めます。農家の主(ステファン・ドゥ・グルート)は、彼らを密告せず、食事と一夜の宿を提供してくれます。しかし、そこへドイツ軍がやってきて農場を徴発すると宣言。ヴィクトールの隠し持っていた大金を使って、子供たちは越境請負人を雇い、スイス国境近くまで運んでもらいます。そして、国境へ向かい鉄条網の隙間を抜けてスイス国内へたどり着きます。しかし、振り返ると途中に女の子が一人残されていて、フランス側にはドイツ兵がやってきています。ファニーは戻って女の子をおぶって再度スイスへ向かって走ります。しかし、ドイツ兵が発砲してきます。ファニーは、料理人のエリーに言われたようにジグザグに走り、スイス国境を越えることに成功するのでした。ラストで現在のファニーの姿が画面に映って暗転、エンドクレジット。

ラストで一気にデッドエンドに持っていくのかという危惧もありましたが、子供たちは誰も欠けることなく国境を越えることに成功したのはよかったです。ラスト前、どうやって国境を越えてよいかわからず、たどり着いた廃屋で終戦を待とうなんて言い出すのもリアルに感じられました。ともあれ、歴史の中で、こういうことがあって、幼い子供が生きるか死ぬかの目に遭ったという事実を知らせる意味があったと思います。でも、今、この時間でも、生きるか死ぬかの状態の子供はいるでしょうから、今につながる過去として認識しないといけないのでしょう。また、そういう子供たちを命の危険を賭して守ろうとした人々がいたという事実も忘れてはいけないという映画でした。そういうことを子供の鑑賞にも堪える形で作ったという点で、この映画の評価は高いと思います。ちなみに、ファニーは美人でもかわいい系でもないので、萌え要素はありません、念のため。

「シンクロナイズド・モンスター」は真に受けず、珍品として楽しむことをオススメします。


今回は新作の「シンクロナイズド・モンスター」を川崎の川崎チネチッタ10で観てきました。ここはチネチッタの中でも中規模タイプの映画館ですが、スクリーンサイズが結構あるので、シネコンっぽさは少なめ。

ニューヨークで、Webライターをしていたのですがクビになり失業中のグロリア(アン・ハサウェイ)は、酒浸りの暮らしをしていて彼氏のティム(ダン・スティーブンス)から別れを告げられてしまい、田舎の空き家になっている実家に帰ってきます。そこで小学生時代の同級生オスカー(ジェイソン・サダイキス)に出会い、彼の厚意で、彼のバーで働くようになります。そのころ、韓国のソウルでは、突然巨大な怪獣が現れては消えるという事件が発生していました。8時5分になると現れる謎の怪獣、でもそのポーズが自分の癖に似ていると気づいたグロリアは、自分の行動を思い返すとその時間は酔っぱらっていてあまり記憶がなかったのですが、近所の公園にいたみたい。その公園の遊具の配置がソウルの街並みに似ていることに気づくと、今度はその時間にわざと公園に入ってポーズを取ってみます。すると、そのタイミングでソウルに怪獣が現れてグロリアと同じポーズをとるではないですか。オスカーとその仲間の前で再度実演して見せるグロリア。オスカーが公園に入ると、ソウルに今度は巨大ロボットが出現します。そして、つまずいて転んだせいで犠牲者が出たみたいで、落ち込むグロリア。おわびメッセージをハングルで書いて、その気持ちを伝えるのですが、一方オスカーは自分が巨大ロボットになれることが気に入ったのか、またその時間に公園に入って暴れようとします。それを止めようとするグロリア。ソウルでは、ロボットをとめようとする怪獣が一躍ヒーローみたいになっちゃうのでした。この怪獣は25年前にも一度現れたということを聞き、小学生当時のことを思い出そうとするグロリア。一方で、いい人じゃなくなったオスカーは友人たちにもグロリアにも辛くあたるようになり、またしても、ソウルで暴れようとするのでした。

スペイン出身のナチョ・ビガロンドが脚本を書いてメガホンも取ったブラックなファンタジーの一編です。アメリカの田舎町の公園が、ソウルの街とシンクロして、ヒロインはそこに入ると怪獣になっちゃうというお話はかなりぶっとんでいまして、出落ちみたいな映画になるのかと思いきや、設定こそコミカルながら、後半は結構シリアスに展開するお話が意外な味わいになってます。他に似たような映画がないけど、傑作というのとはちょっと違う、いわゆる珍品というのがふさわしい一編でして、そんな珍品だけど、ヒロインがかわいくて最後まで観ていられるという感じでしょうか。これまで普通より1ランク上の女性を演じることの多かったアン・ハサウェイが、珍しく等身大のダメヒロインを演じていまして、これが結構はまっていてかわいいのですよ。彼女の演技の幅を広げた映画ともいえそうです。珍品だけど。

彼氏に振られたグロリアが、田舎町の実家に帰るとそこは空き家になっていて家具もない状態。とりあえずマットレスを買ってきてベッド代わりにしようとするグロリアですが、そんな彼女に声をかけたのが、小学校の同級生であるティム。失意の底にある彼女に優しく接するいい人として登場し、無職の彼女に自分のバーで働かないかとも言ってくれます。このあたりの展開だと、グロリアとティムがいい仲になっていくのかなって期待させるのですが、意外やそうならないところにこの映画のおかしさがあります。どこか1テンポ外したような展開が最後まで先の読めない映画になっていまして、その外し方が許容範囲と思えれば、楽しめると思います。とは言え、なぜグロリアが公園に入ると怪獣がソウルに現れるのかという具体的な説明は一切ありませんから、SF映画ではないですね。そう思うとファンタジーということになるのかもしれませんが、描かれる人間キャラのリアルな生臭さは夢も希望もないブラックな笑いを運んできますし、笑い飛ばすにはシリアスな展開ありで、やっぱり珍品だと思ってスクリーンに臨むのが無難かも。

まず、ヒロインのグロリアが結構変なキャラで、酒飲むと記憶がなくなっちゃうし、オスカーに世話になってるのに、その連れの若い二枚目に自分からアタックして簡単に寝ちゃうし、共感呼ぶかどうかは置いといても、あまり誉められた女性ではありません。その一方で、いい人として登場するオスカーですが、こっちも段々とグロリアにきつく当たり始めます。自分がロボットになってソウルを破壊できる能力があるとわかると余計目に行動がおかしくなってきます。それまで、片田舎でくすぶっていたバーのオーナーが世界中に注目され、強大な力を持つようになったということで、突然暴君になっちゃうんですよ。どうも、コンプレックスの塊だったのが、ロボットになれることでタガがはずれちゃったという感じ。俺の言うこと聞かないと、ソウルの街を破壊するぞって、グロリアを脅すあたりの痛さは、わからなくもないなってところが、不愉快だけど面白いと思いました。自分が怪獣化して、街を好きなように壊せるという事態になったことはないのですが、それまで誰からも顧みられることのない人生を送っていたら、突然、他人の生殺与奪の権利を持つわけですから、周囲を見下ろして、偉そうに振舞いたくなる気持ちは理解できるものがあります。私ももしオスカーの立場になったら、気分が暴君化するかもしれないですもの。そういう態度や行動の理由を、この映画では「自分を嫌いだから」と論破していまして、なるほど、それはあるかもって納得してしまいました。そういえば、私も自分が嫌いなところありますので、この映画のオスカーに近親憎悪みたいな持ってしまうのかも。

怪獣とロボットがソウルで暴れるシーンは都市破壊シーンは抑え目ですが、プチ「パシフィック・リム」風の映像になっています。ベア・マクレアリーの音楽は、オーソドックスなシリアス音楽をつけていて、この映画のシリアス部分を支えています。エリック・クレスの撮影は、全体的に画面が暗めなのが気になりました。アメリカの田舎町ってどっか陰気な雰囲気でもあるのかな。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



グロリアとヨリを戻したいとやってきたティムとグロリアの前で、オスカーは挑発的な言葉を投げ、でっかい花火をバーの中で爆発させて、二人をびびらせます。グロリアは25年前の朝、オスカーと学校へ向かった時のことを思い出します。世界の街のジオラマを作るという宿題を持って学校へ向かう二人。その時、風が吹いてグロリアの作ったソウルのジオラマが飛んで行ってしまいます。茂みの中を探していると、グロリアは、自分のジオラマを踏みつけてメチャクチャにしているオスカーを目撃します。その怒りのエネルギーが奇跡を起こしたらしいのです。そして、いい人の顔をしていたオスカーが実は嫉妬とコンプレックスの塊だったことを思い出すのでした。一方、すっかり暴君と化したオスカーは、ロボットになってソウルの街で暴れまわり、止めようとしたグロリアをマジでボコボコにしちゃいます。グロリアは単身ソウルに向かい、再び現れたロボットに対峙します。すると今度は、アメリカにいるオスカーの前に巨大な怪獣が出現し、逃げようとするオスカーをつかまえると、遠くへ投げ捨ててしまいます。危機が去って喜ぶソウル市民たちを横目にバーに入るグロリア。女性のバーテンダーに「どんでもない話を聞かせましょうか。」暗転、エンドクレジット。

子供の頃から、オスカーは優秀なグロリアに嫉妬していて、それを表に出さずに陰で色々やっていたということらしいです。その本音を押さえて、いい人ぶっていたのが、協力なパワーを持ったら、その本音の部分が表に出てしまったということになるのかな。でも、グロリアも、アルコール依存で男に振られる自分が嫌いだったようで、その点では、彼女もオスカーも似た者同士だったようです。そんな、コンプレックスや自己否定を吹っ飛ばすラストはそれなりの解放感を感じさせるのですが、その展開が尋常でないので、どこまで共感したものか判断がつかないところがあり、後味的には微妙なものが残りました。ともあれ、尋常でない設定、尋常でない決着をそれなりに楽しめれば、珍品としての面白さはありますから、大きな期待をしない方にはオススメしちゃいます。また、アン・ハサウェイのダメヒロインぶりが大変キュートで眼福でしたから、物語にはまれなくても、彼女でモトは取れる映画だと思いました。

ラストで、香港にいるヒロインが、アメリカの田舎町に巨大な怪獣になって現れるのには、「何じゃそりゃ」って突っ込みしか出ないのですが、そうしないと収集がつかないお話ではありました。設定のおかしさだけだと、出落ち映画になっちゃうのですが、そこに人間のコンプレックスのエピソードを盛り込んで、ドラマとして肉付けしていまして、それは成功しているように思いました。でも、マトモな映画だと思って観ると「何じゃそりゃ」しか残らない映画ではありますので、やっぱり珍品として楽しむのが正解でしょう。

「ノクターナル・アニマルズ」は、アートでハイソな感じがちょっと取っ付きにくい不思議な味わいのミステリー。


今回は新作の「ノクターナル・アニマルズ」を109シネマズ川崎3で観てきました。川崎のシネコンとしては3番手なのですが、以前よりスタッフの感じが良くなったという印象あります。何かあったのかしら。

アートギャラリーのオーナーであるスーザン(エイミー・アダムス)はいい暮らしをしてますが、夫のハットン(アーミー・ハマー)は仕事を理由に彼女を避けてるみたいで、夫婦関係はあんまりよくないみたい。そんな彼女のオフィスに20年前に別れた元夫のエドワード(ジェイク・ギレンホール)から「夜の獣たち」という小説の原稿が届きます。「君との別れから着想を得て書いた小説だから乾燥を聞かせて欲しい」というメッセージがついてました。週末も仕事だと言ってニューヨークへ向かう夫を見送ったスーザンは、元夫の小説を読み始めます。その小説は、夜のハイウェイで、妻と娘を乗せた車を走らせるトニー(ジェイク・ギレンホール)のシーンから始まります。すると、彼の車の前を2台の車が執拗に塞いできます。娘が車に向かって中指を立てて挑発すると今度は車をぶつけてきて停めようとします。路肩に停車させられると、相手の車からレイ(アーロン・テイラー・ジョンソン)以下3人の男たちが降りてきて、トニーたちを車から降ろすと、トニーに絡んだ挙句、妻と娘がレイの車に乗せられて連れ去られてしまいます。トニーも自分の車を運転させられて、荒地の中に置き去りにされます。彼は、ハイウェイまで歩いて出て、警察に届け出ます。担当のアンディーズ警部補(マイケル・シャノン)と共に記憶をたどって、置き去りにされた場所へ向かうと、そこには、全裸で縛られた妻と娘の遺体が放置されていたのでした。トニーとアンディーズは犯人を特定し、逮捕にまで至るのですが、証拠不十分で不起訴になってしまいます。一体、こんな小説で元夫は何をスーザンに伝えようとしているのでしょうか。でも、スーザンは、エドワードに会って話をしたいとメールを送ると、待ち合わせ場所はまかせるという返信がありました。一方、小説はさらに恐ろしい結末を迎えることになるのです....。

ファッションクリエイターとして確固たる地位を持ち、「シングルマン」を監督しているトム・フォードが、オースティン・ライトの原作小説を脚色し、メガホンも取りました。「シングルマン」は、私にとっては結構ハードル高くて、主人公の感情がなかなか入ってこなかったという記憶がありますが、この映画は、ミステリー仕立てという宣伝がされていたので、今度は行けるかもという予感で、スクリーンに臨みました。映画の冒頭で、シリアスなテーマ曲が流れてタイトルが出るという、最近珍しい作りなのですが、タイトルバックは太った中年女性が全裸で踊っているというかなりインパクトがあるもの。何じゃこりゃと思っていると、これがヒロインのギャラリーの展示物だとわかるのですが、一気にアート気分になってきまして、ちょっとハードル高い映画なのかなといういやな予感もしてきました。

ヒロインのスーザンは夫ハットンと豪邸に住むセレブです。うわあ、こういうハイソな階級の人のドラマなのかあ、「シングルマン」みたいな感じになってきて、これはやばいかも思い始めると、映画は小説の世界へ入っていきます。映画は、現在のスーザン、小説の世界、過去のスーザンとエドワードという、3本のドラマが並行して描かれていきます。大学で出会ったスーザンとエドワード、エドワードは物書きとしての才能がある繊細な男で、スーザンもそこに惚れるのですが、二人の結婚を反対するスーザンの両親。もともとお金持ちでハイソな家のお嬢さんスーザンに、エドワードのような弱い男は似合わないと言う母親(ローラ・リニー)に、「私はお母さんとは違う」と反抗し、結婚するスーザンとエドワードですが、やっぱりうまくいかなくて、大学で知り合ったハットンに乗り換えたという過去があったのです。「もうやっていけない」というスーザンに「愛しているという現実から逃げるな」というエドワード、そんな痛いやり取りが彼女の頭をよぎります。小説を読んでいくにつれて、スーザンの持つ後ろめたさがどんどん増していくようなんです。

一方の小説の中身は、親子3人が夜中のハイウェイで変なのに引っかかってしまい、妻と娘がレイプされて殺されてしまうというかなり陰惨なお話です。主人公トニーは、典型的な田舎のクズであるレイにいたぶられた挙句に、妻と娘を連れ去られてしまいます。最初に穏便に済ませようとしたトニーですが、娘がレイを何度も挑発してしまい、事態がどんどん悪い方向へ向かうのが、すごくやな感じに展開します。どっかで反撃に出たら、最悪の結末は避けられたかもしれない、いや、反撃は無理だろうなあという描き方のさじ加減が見事でして、後半、トニーはずっと後ろめたさに悩まされることになります。このどっかで思い立てば最悪の結末が回避できたかもしれないというところが、スーザンの後ろめたさを刺激するのかなと解釈したのですが、スーザンがこの小説のどこをどう感じたのかを明確に表現しないので、なかなかスーザンに感情移入できなかったのは、残念でして、これは「シングルマン」を観たときと同じ感想になっちゃいました。

スーザンはいわゆる成功したセレブみたいなんですが、一方で長くやってる夫婦関係は冷え切ってようで、仕事だと言いながら、女と会っている夫を感じつつ、何も言い出すことができません。そんな彼女の後ろめたい過去を突いてくる小説に心動かされるスーザン、という展開なんだろうなあって思いつつ、それがうまく、私の心に届いてこないという感じがもどかしく感じられました。何のこっちゃと言われそうですが、何となくそういう事を伝えたいんだろうなあって気がするのですが、届かないって感じなんです。小説の主人公トニーの後悔の思いは単純にすごく伝わってくるのですが、スーザンのドラマは、アート風でどこかお高くとまったハイソな感じなので、実感が伝わってこないのですよ。私がアートとかハイソな感じに対して、劣等感を感じているのか、共感できなくて、このトム・フォードという監督さんと、相性がよくないのかも。見せ方のうまさとか、要所要所に挿入される思わせぶりなアート作品など、見どころは多いのですが、それらに敏感に反応するほど、自分にはセンスも品格もないってのに気づかされる映画なのかも。そもそも、相手の芸術的才能に恋愛感情が喚起されるとか、繊細さに惹かれるということが、私には身近なものとして理解できないので、対岸の火事みたいにしか見えなくて。

スーザンは小説から、自分の過去を思い出しているうちに、自分の後ろめたさが後悔にまで変わっていくようです。今の満たされない状況から脱出するにも、元夫との関係を修復すべきなのかもと感じているように見えます。実際に、そういうセリフが出てくるわけではないので、私の思い違いかもしれないのですが。でも、過去におけるスーザンとエドワードがラブラブになって破局に至る経緯はよくあるパターンだと思います。他の男に乗り換えることだって普通にあるだろうと思うのですよ。実際、スーザンはそのことを過去の過ちとして封印して生きてきたようです。エドワードは、その安定した彼女の感情をかき乱す小説を送ってきたのです。でも、小説に描かれる後ろめたさと後悔の念より、その小説のストーリーのインパクトが強いので、この小説に嫌悪感より、後悔を感じてしまうスーザンの繊細さについていけなかったです。やっぱり、繊細でハイソな人間の世界は、ゲスな自分の住んでる世界とは違うんだなという思いを強くしました。

「つぐない」から「アベンジャーズ」まであらゆるジャンルの映画を手掛けるシーマス・マッガーヴェイの撮影は、人間を絵のパートのように捉えたカットが印象的で、映画館で観るための絵を作っています。また、「シングルマン」のアベル・コジェニオスキの音楽は、オーケストラによる不安なサスペンスタッチで映画の空気をシリアスドラマにしています。どこか、バーナード・ハーマン風になっているのが、最近の映画に珍しく、この音楽も映画のアート感をアップさせています。演技陣では、アカデミー賞にノミネートされたマイケル・シャノンと、典型的クズ(ホワイト・トラッシュって言うんでしたっけ)を熱演し、ゴールデン・グローブ賞を獲ったアーロン・テイラー・ジョンソンが光りました。今のエドワードが姿を見せないのに、その存在感を示した演出に答えたジェイク・ギレンホールも見事でした。また、1シーンだけの出演ながら、ローラ・リニー、アンドレア・ライズボロー、マイケル・シーンといった面々がドラマに厚みを与えています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



小説の中では、レイは釈放されてしまいます。落胆するトニーにアンディーズは自分はもう肺がんで長くないことを告げ、法を超えて正義を実行する覚悟はあるかと問います。トニーがその提案に乗ると、アンディーズは自分の小屋にレイとルーを連れてきて手錠をかけ、トニーに銃を渡して二人を撃つように促します。その時、アンディーズが発作で咳き込んだ隙に二人が逃げ出します。ルーはアンディーズによって射殺されるのですが、レイは逃走。トニーはレイを追い、妻子が殺された現場にいるレイを探し出し、銃を向けます。レイはあざ笑うようにバールを隠し持ってトニーに詰め寄りますが、トニーに射殺されるのですが、その一瞬、トニーも一撃をくらいます。顔半分つぶれたトニーが気づいて小屋の外へ歩みだすのですが、そこで倒れて息絶えるのでした。小説を読み終えたスーザンは、エドワードの子供をハットンと一緒に堕胎しに行ったことを思い出していました。その後、病院を出ようとすると、そこにエドワードが立っていたことも。ドレスアップして待ち合わせたレストランへ向かうスーザン、しかし、エドワードはそこに現れないのでした。待ちぼうけのスーザンのアップから暗転、エンドクレジット。

ラストで、エドワードがかなりの恨みをスーザンに持っていることは伝わってくるのですが、20年たってから小説を送るってのはどういう事情なんだろうという気がしました。そこまで怨念を温めていたのか、エドワードのプライベートで何かよくないことがあったのか。このあたりの事情も常人の私にはピンと来なくて、もう少し因縁を説明してほしいと思いました。そこまで語らないところがいいんだよという意見もあるのでしょうが、そういう見せ方にも気取ったアート感覚を感じてしまいました。やたら、「アート」という言葉を使って、この映画をこき下ろしてしまいましたが、これって、自分の芸術コンプレックスの裏返しなんでしょうね。そういう自分のやなところに気づかせる映画でもありました。まあ、映画自体がヒロインの自分のやなところを突き付けられるお話ですから、その趣旨には沿っているのかも。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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