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「ブルーム・オブ・イエスタディ」はホロコーストものというより、地雷同士の変な恋愛ドラマ、後味は悪くないけど。


今回は新作の「ブルーム・オブ・イエスタディ」を横浜のシネマジャックで観てきました。ここはなかなか観られない映画を上映してくれるありがたいミニシアターですが、どんな映画でも混んでるんですよね。いいことなんだけど、昔のガラガラの頃もちょっと懐かしい。

トト(ルース・アイディンガー)はドイツの州立の中央研究所でホロコーストを研究してますが、獣医の妻ハンナ(ハンナー・ヘルツシュブルング)と養女サラの3人暮らし。結構情緒不安定で、研究所の教授から「アウシュビッツ会議」の責任者を任せてもらえず、指名された同僚バルサダールとの口喧嘩から、突然殴りかかって怪我させてしまいます。そんな時に教授が急死し、会議の開催が危なくなってきます。そんな時に研究所にフランスからの留学生を迎えることになり、その世話係をトトが任されます。やってきた留学生ザジ(アデル・エネル)は、空港のお出迎え時点でベンツ大嫌いをぶちかましてきて、どっか変なキャラ全開。ユダヤ人の彼女の祖母は、アウシュビッツの犠牲者なのですが、ベンツのガストラックで殺されたと思い込んでいるようでベンツが大嫌い。妻子あるバルサダールと恋愛関係にあるみたいです。一方のトトは、妻ハンナが浮気しているのを知ってて黙認しているみたいです。でも何かあるとトトは妻に話さずにはいられないという微妙な関係。実はトトは、祖父がナチの親衛隊の偉い人で、その祖父を告発する内容の本を書いていました。そんな状況で、二人は「アウシュビッツ会議」のスポンサーを降りると言い出した大女優を説得しに向かい、その帰りにはドライブインでまた暴力沙汰を起こしてしまいます。でも、そのせいか、二人はどんどん距離を縮めていき、ザジは、トトに、かつてトトの祖父とザジの祖母がラトビアのリガの学校で同級生であったこと、それを知ってトトに会いたいと思い続けていたことを告白します。でも、トトは妻を嫌ってるわけでもなさそうですし、ザジもバルサダールとの恋愛関係が続いているようですし、これって恋愛ドラマに発展するのかしら。

「4分間のピアニスト」が有名なクリス・クラウスが脚本を書いてメガホンを取ったラブコメ風ドラマの一編です。この映画、日本では「ナチの幹部の孫と、アウシュビッツ犠牲者の孫が恋に落ちる」という売り方をしてまして、「恩讐の彼方」的なドラマチックな映画という期待がありました。そして、実際にスクリーンに臨んでみると、ホロコーストよりも主人公二人の強烈な個性の方が前面に出てくる恋愛ドラマになっていまして、その恋愛ドラマにホロコーストが影を落としているという作りになっています。今のドイツでホロコーストが日常生活にどこまで影響を与えているか、その感触を伺い知れるとも言えますが、ホロコーストの研究所という舞台を考えると、センシティブな環境の特別な二人の成り行きと考えた方がよさそうです。

トトはまず情緒不安定で、奥さんへの精神的依存度が高い男として登場してくるので、あまり共感を呼ばない男。仕事には真面目に取り組む姿勢はあるんだけど、研究所の中でも浮いちゃっていて、他人に見下したような態度をするところは、私のような日本人には、関わり合いになりたくないタイプの典型。会社の同僚にこんなのがいたら、異動願いを出したくなるタイプと言ったら通じますでしょうか。日本なら完全にくずに近いアウトローキャラなんですが、ドイツだとこういう男はどういう風に見られるのか気になるところです。一方のザジも、やたらとテンション高くて、愛人がいるのに、トトにもモーションをかけてくるのが、私には理解できない地雷系の人。こういう地雷でアウトローな二人でも、ホロコーストを背負ってることがあるというのが発見という感じでしょうか。お互いの第一印象は最低なのですが、行動を共にする羽目になって、だんだんとお互いに惹かれあうようになるというのは、ラブコメの定番パターンなんですが、妻帯者トトと愛人ザジという組み合わせはそう簡単に恋愛関係にはなりません。そういう意味では、ラブコメの設定を使って、ひねりの効いたラブストーリーに展開するのは、なかなかないパターンですが、それが面白いかというと、二人の痛さの方が目についてしまって、私は乗り切れませんでした。これは好みの問題だとも思います。日本映画だって、アウトローの恋愛沙汰を描いた映画がたくさんあるわけで、そういう映画に乗れる方であれば、この映画、結構楽しめるのではないかしら。ホロコーストを背負ったダメ人間二人の恋愛模様の成り行きは、かなり意外な着地を見せますから、主人公二人に拒否反応が出なければ、オススメ度はあります。

映画のプログラムの解説を読んで知ったことなんですが、ラトビアのリガにいたドイツ人とユダヤ人という関係で、片や親衛隊将校で、片やアウシュビッツの犠牲者とすると、トトの祖父がザジの殺害に関与した可能性がすごく高いことになるんですって。だとすると、ザジは、トトの祖父の犠牲者の孫ということになります。ザジはこの関係に何かの運命を感じてるみたいなんです。単なるドイツ人とユダヤ人の関係でないつながりですね。でも、その相手を男女の関係に誘惑するのはどういう意図があるのか、彼女の行動には理解できないところがあります。一方のトトは、祖父の悪行を本にしたことで一族から総スカンを食っています。各々に結構複雑な事情があることが見えてくるのですが、それ以上に二人の内面が壊れているみたいで共感を呼ばないのは狙っているのか、それも笑ってねというユーモアのつもりなのか、このあたりはお国柄の違いを感じてしまいました。国によって、笑いのツボ、シリアスのツボは違うんだろうなあって感じさせる映画でもありました。

かなりハチャメチャな展開になりますから、普通のラブコメを期待しない方がいいです。情緒不安定な二人の成り行きを笑って楽しむくらいの余裕を持った鑑賞ができれば、楽しめるのではないかしら。私は、感情移入する隙のないまま、後半の展開には呆気にとられちゃいましたから、そういう意味では、この映画に乗り遅れたというか、取り残されちゃいましたので、「シンクロナイズド・モンスター」と並ぶ今年の珍品の一本になっちゃいました。

トトを演じたラース・アイディンガーは、終始攻撃的なんだけど結構メンタル弱いという困った奴を好演しています。また、ヒロインを演じたアデル・エネルが「午後8時の訪問者」の女医さんというのは最後まで気づきませんでした。繊細なようで、やっぱり攻撃的なヒロインを演じて、あの女医さんとはまるで別人で、女優さんだなあって感心。二人ともかなりキャラが濃いのですが、後半でさらに隠された一面が上乗せされるので、そのキャラの濃さで、ホロコーストのインパクトが薄まったような気がします。これは、演出が狙ってやったものかどうかはわからないのですが、映画としての意外性は出ました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



いい感じになった二人は出張先のウィーンで結ばれることになりそうなところで、トトが自分はインポテンツで、妻ハンナの浮気相手も自分が選んでいたんだと告白します。そして、二人を結びつける発端となった地、ラトビアのリガへ向かいます。そこで、祖父母が机を並べた学校を訪れ、そして虐殺の跡であるルンブラの森を行き、祖父母の過去に思いを馳せるのでした。そのリドの宿で二人は初めて結ばれます。その翌朝、ザジは自殺未遂で発見されます。自殺未遂は5度目なんですって。そして、妊娠を確信したというザジの言葉を、トトはなぜか真に受けちゃって、妻ハンナに別れを告げて家を飛び出しちゃいます。一方、トトと一緒になるというザジに、愛人のバルサダールは、彼女を刑務所に連れて行き、服役中のトトの兄に会わせます。トトは若い頃はガチガチのネオナチでユダヤ差別主義者だったのです。それを知ったザジはトトに別れを告げます。あれは17歳の頃までだと言うトトを、ザジは拒否して去っていくのでした。それから5年後、ニューヨークの空港で、トトとザジは偶然再会するのでした。トトは結局妻とよりを戻したようで大きくなった娘(養女)を連れています。ザジは今はインド人の女性と暮らしているとのことで、可愛い子供を連れていました。彼の娘から、ザジの子供の名前を聞いて、はっとなるトトで暗転、エンドクレジット。

ザジの子供の名前は、ザジが読んでいた詩の本に登場する女王の名前でした。ひょっとしてそれって俺の子?という余韻なのですが、まあ、それはドラマの意外な結末というよりは、ちょっとしたおまけ的な趣向でしょう。トトとザジは、お互いの祖父母が、殺し殺される関係だったという事実は、乗り越えることができました。でも、トト本人の過去がネオナチだったというのは、ザジの許容範囲外ということで、トトに別れを告げることになります。トトにすれば、生まれた時からネオナチの環境で育ったのを、17歳でそのしがらみを切り捨て、ナチを告発する本を書くにまで至ったのですから、そこを非難されるのは気の毒な気がします。それは、どんなに良い人生へ方向転換したところで、生まれた事が罪だから何をしても無駄だと言われるようなものです。そこだけは、トトに同情しちゃいました。一方のザジも何度も自殺未遂をしているメンタルを病んだ女子だったというのは、意外でしたけど、その弱さが、トトの過去を受け入れられなかったのかと思うと、悲恋映画の結末ですよね、これは。

エピローグを5年後に設定し、二人が破局を乗り切って、各々の人生を生きているというのを見せるところはよかったです。ある意味破壊的なアウトローキャラの二人が、そんな二人でもちゃんと生きてるよって確認できたことは、この映画の後味をかなり良くしていると思います。あんな形で破局しちゃったら、双方の傷が大きいだろうなあってことは想像できますから、それでも二人は人生立て直したというのは、うれしい余韻でした。そう思うと、珍品と呼ぶのは適切でないのかもしれませんが、とにかく、トトとザジのキャラが強烈すぎて、その二人の恋愛のプロセスがすごく変だったのですよ。
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「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」はドラマをキャラが支え切れていない気がして。


今回は新作の「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」を川崎の川崎チネチッタ8で観てきました。LIVEZOUNDによる上映でして、さすがに爆破シーンの重低音はお見事な迫力なのですが、ジョン・ウィリアムスのフル・オケの音が今一つだったのはちょっと残念、これはもとの音源が今一つだったのかな。以前、再上映で観た1作目(エピソードⅣ)のDTSによる音が素晴らしかっただけに、迫力が出ると音のクリアさは犠牲になるのかしら。

レイア(キャリー・フィッシャー)に率いられたレジスタンスは、ファーストオーダーの艦隊に追い詰められていました。ポー(オスカー・アイザック)は戦陣を切って艦隊を翻弄しますが彼の命令違反が戦果は上げたものの爆撃隊を全滅させてしまいます。超空間を移動してレジスタンスの艦隊ですが、ファーストオーダーの艦隊はそれすら追跡してきます。カイロ・レン(アダム・ドライバー)の攻撃によりレジスタンスの指導者たちは全滅、レイアも昏睡状態となります。レジスタンスの敵の追跡装置を破壊してそのすきに超空間へ入れば逃げ切れると、整備士のローズ(ケリー・マリー・トラン)とフィン(ジョン・ボイエガ)が敵艦のシールドを破るコード解除にくわしいプロを探しにカジノ都市カントバイトへ向かいます。一方、レイアの使者として、ルーク(マーク・ハミル)の元に向かったレイ(デイジー・リドリー)は、最初は相手にされないものの、自分が何かに目覚めつつあることを伝え、ジェダイの教えをルークから受けることになります。時々、レイの精神はカイロ・レンとつながるようになります。これは何の前兆なのでしょう。一方、レイはフォースを学ぶとともにそのパワーを増強していきます。カントバイトでコード破りのプロDJ(ベネシオ・デル・トロ)と知りあったフィンとローズは彼を連れて、敵艦に潜入するのですが....。

「スター・ウォーズ」もいよいよ8作目、前作の「フォースの覚醒」は、長いイントロダクションという感じで設定説明だけで物語が進まないのが不満だっただけに、今度は少しは話が進むんだろうなという期待はありました。今回は、「ルーパー」のライアン・ジョンソンが脚本を書いて、監督もしているということで、「誰それ?」とも思ったのですが、私の中では「ルーパー」は出オチ映画として評価高くないので、そんな期待はできないなという気もしました。でも、脚本と監督を兼任したと言うと、ワンマン映画じゃんという気もするのですが、どうせ、ディズニーやらルーカスやらから、色々と制約がかかった映画づくりだろうことは想像がつきますから、まあアベレージを外すことはないでしょうけど。

で、面白かったのかというと、番外編「ローグ・ワン」で見せた、無名の兵士たちの犠牲の部分を本編にも取り込んで戦争ものとしての面白さはありました。でも、レイ、カイロ・レン、ルーク・スカイウォーカーといったフォース関係の皆さんのドラマに、私は乗れませんでした。特に他の映画ですごくいい感じの演技を見せているアダム・ドライバーのカイロ・レンがあやふやキャラでドラマを支え切れてないという印象が強く、またデイジー・リドリー扮するレイも、重いドラマを支えるには力不足な感じがしてしまって。語るドラマのスケールの大きさに比べて、駒となるキャラが負けてるって感じがしたのは私だけかなあ。確かに「帝国の逆襲」で軽いノリの若者ルークに、重いドラマを乗っけた時も確かに無理してる感はあったのですが、それよりも前作のノリにこんな展開あり?という意外性が、アービン・カーシュナーの演出力もあって大変盛り上がりました。その後、陰気な因縁話になったエピソードⅠ~Ⅲは、子供若造が主役のドラマにリーアム・ニーソンやユワン・マクレガーといったベテランを配して、それなりの重みを作ることに成功していました。(正直、お話は辛気臭くて嫌いですけど)ところが、今回(前作もかな)はドラマの重しになるポジションのキャラクターがいないのですよ。なので、軽い皆さんがシリアスなドラマをやるという作りになってるのですよ。キャリー・フィッシャーやマーク・ハミルに、アレック・ギネスのポジションは務まらないといったら酷い言いぐさかしら。

映画としての構成は、ファースト・オーダーの艦隊に追い詰められるレジスタンスの艦隊のお話、レジスタンスを追跡から逃がすために敵艦の追跡装置を壊そうというフィンたちのお話、そして、レイがルークからジェダイとフォースを学ぶお話、この3つのストーリーが並行して描かれ、最後に一つに収束するという構造になっています。その間に激しい戦闘シーンが挟まれていて、レジスタンスの兵士が次々に死んでいくのを結構ドラマチックに見せます。前述のように「ローグ・ワン」で成功した戦争映画の部分を取り込んでいるのは、ドラマを盛り上げるのに成功しています。フィンとローズのエピソードは、本編に「ローグ・ワン」を割り込ませた感じですが、それも含めて戦争映画の部分でテンション上がるので、映画としてはなかなか見応えがありました。一方、レイとカイロ・レンのお話が今一つ面白くないのですよ。ルークがフォースとは何かというのを説明するシーンも何か軽いし、カイロ・レンが善としても悪としても突き抜けない小者だし、レイもフォースを扱うにしては単に気の荒いおネエちゃんになっちゃってるし、何というのかな、物語に魅力が感じられなかったです。若い二人の成長物語なのかなと思ったら、そういう話にもならず、未成熟な主役二人で大人のストーリーを作る背伸び感だけが残ってしまって。

演技陣では、主役陣に魅力を感じられず、脇役のベテラン、ローラ・ダーンとベネシオ・デル・トロの二人が存在感を見せました。ジョン・ウィリアムスの音楽は、ドラマチックな展開を支えていますが、前作と同様、あまり前面に出てこないのが物足りなかったです。ライアン・ジョンソンの演出はそつのなさは感じるものの、最後の惑星での攻防には、もうこのエピソードいらなくね?と思ってしまったのは、ドラマのテンションの配分がうまくないのかも。見せ場をたっぷり盛り込んでいるのはいいのですが、この物語で2時間半は長いんじゃないかなあ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ファーストオーダーの艦隊に追跡され燃料が尽きかけていたレジスタンスの艦隊は、全燃料を輸送船に移し、それによる脱出を図ります。しかし、シールドのない輸送船の脱出は賭けでした。敵艦へ潜入したフィンですが、DJが寝返って、フィンとローズはとらわれてしまいます。さらに輸送船の脱出もDJのタレコミで敵の知ることになり、シールドのない輸送船は次々に破壊されていくのでした。レイは、ルークから、カイロ・レンをかつて弟子にしたのだが暗黒面に入り込んだ彼がルークを襲って逃げたと聞きます。しかし、実際は暗黒面へ落ちたカイロ・レンを恐れたルークが彼を殺そうとしてためらった時に気づかれたのでした。レイはルークのもとを去り、カイロ・レンのもとへ向かいます。カイロ・レンは、彼女をファーストオーダーの最高指導者スノークのもとへ連れて行きます。スノークはレイを殺そうとしますが、反抗する彼女に注意が向けられた一瞬の隙を突いて、カイロ・レンのフォースが、ライトセーバーを遠隔操作してスノークを真っ二つにします。カイロ・レンは、レイに一緒に宇宙の新秩序を作ろうと手を差し伸べるのですが、それを拒否。一方、次々に破壊される輸送船を見て、戦艦に一人残っていたホルド提督(ローラ・ダーン)が敵艦隊の方向へ超高速移動で突っ込んで自爆。何とか目的地の惑星へたどり着いたわずかなレジスタンスの前にカイロ・レン率いるファーストオーダーがやってきます。そこへ、現れたルークに、ファーストオーダーは集中砲火を浴びせるのですが、彼はびくともしません。カイロ・レンは一人で降りてきてルークと対峙し、剣を交え、ルークを討つのですが、それはルークの幻影でした。ルークの幻影で時間を稼いだおかげで生き残ったレイア、ポー、フィンたちは、レイの操縦するミレニアム・ファルコン号に救助されるのでした。そして、レイアとレイは遠くの惑星でルークが息を引き取ったことを感じるのでした。おしまい。

ファーストオーダーの最高指導者スノークがあっけなく殺されて、カイロ・レンがファーストオーダーのトップになっちゃうってのはすごいと思いましたが、ハッタリかました割にスノーク弱すぎない? ルークは結局何をしたかったの?単なる時間稼ぎのために死んだの? などなどツッコミどころが結構あるのは、脚本が弱いのか、観客を丸め込む演出の勢いが足りないのか、何か、後半が尻すぼみ感なんですよ。続編への伏線として、全部説明しきらなかったのか、最後に息切れしちゃったのかがはっきりしなくて、これって演出の詰めが甘いのではないかしら。というわけで、私にはこの映画、今一つの気分になっちゃいました。「ローグ・ワン」が面白かっただけに、多少の期待はあったのですが、結局よかったのは「ローグ・ワン」的な部分だけで、ジェダイやフォースはオワコンになっちゃったという印象が残ったのは、「スター・ウォーズ」も幕引きにかかったということなのかしら。

「否定と肯定」を観ていると真実とか「信じていること」が揺らいできて、考えさせられます。


今回は、新作の「肯定と否定」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。予告編でなぜか「ドラえもん」の新作をやっていました。ドラえもんの甲高い声がやけに耳障りに感じられたのですが、これって年を取ったってことなのかしら。

アメリカの大学で歴史学を教えるデボラ(レイチェル・ワイス)は、自分の著書「ホロコーストの真実」の中で、ホロコースト否定論者のアーヴィング(ティモシー・スポール)のことを非難していました。すると、自分の講演会にアーヴィングが現れ、討論をふっかけてきます。動揺しながらもその挑発をやり過ごしたデボラですが、その2年後、アーヴィングは、デボラを名誉棄損で訴える訴訟をロンドンで起こします。デボラは、イギリスから著名な弁護士ジュリアス(アンドリュー・スコット)を呼んで、示談に持ち込まずに裁判に持ちこむことにします。しかし、イギリスの裁判は、立証責任を原告ではなく、被告が持っているので、彼女にとっては不利な状況となっていました。デボラは、ジュリアスに弁護を依頼し、彼は法廷で弁論する法廷弁護士にランプトン(トム・ウィルキンソン)を指名します。ランプトンは自らアウシュビッツを訪れ、そこで虐殺の検証調査が不備だったことを指摘します。ジュリアス以下弁護団は、裁判でホロコーストの有無を議論することを避けるために、アウシュビッツの生存者に証言させることをやめ、さらにデボラが証人に立つこともやめることにします。当初、単純な自明なホロコーストを巡る単純な裁判だと思っていたデボラは、弁護団の方針に不信感を覚えるようになります。アウシュビッツで、死者への敬意を欠いた態度をとるランプトンへも良い印象を持てません。そんな状況で裁判が始まります。弁護団は、アーヴィングの論旨の不統一を突いて、意図的な歴史の改ざんを証明しようとするのですが.....。

実際に2000年のイギリスであった裁判をもとに、「ダメージ」「愛を読む人」のデビッド・ヘアーが脚本を「ボディガード」「ボルケーノ」のミック・ジャクソンが監督した実録ドラマです。不勉強で、こんな裁判があったなんて全然知らなかったのですが、ホロコーストの有無が裁判の論点になりかかったことがあったというのは結構びっくりでした。ホロコーストはなかったという人がいるってのは、月着陸はなかったのと同じレベルのドンデモ理論くらいに思ったいたのですが、アーヴィングがネオナチの集会で大歓迎されちゃうあたり、結構本気でそう思っている人もいるらしいのですよ。この映画を観る限りでは、進化論を否定する創造科学ほどの理論武装はしていないようですが、テレビや集会でその話をすると支持者が結構いるようです。そんなアーヴィングが仕掛けた訴訟の理由はこの映画では描かれないのですが、イギリスの裁判なら、デボラ側が名誉棄損がなかったことを証明しなければならないので、自分に有利だと思ったのかもしれません。名誉棄損が認められれば、アーヴィングのホロコースト否定論にも、イギリスの裁判所のお墨付きがつくという読みは鋭いものがあります。歴史の真偽を裁判所で問うことなんて、普通はない筈ですが、名誉棄損の真偽を、歴史の真偽に置き換えることができるというレトリックは、一見ばかばかしいようで、筋道立てて否定するのが難しいことに気づかされます。

ですから、デボラと弁護団はこの裁判に負けるわけにはいかないのです。しかし、証明責任を全うすることの困難さを知る弁護団と、自明の事実を法廷に持ち込めば勝てると思っているデボラとの間で認識のギャップが生じてしまうところに、この法廷ドラマの面白さが生まれました。余裕で勝てると思っているデボラとかなり厳しい闘いだと望む弁護団、そのあたりの見せ方のうまさが、ドラマにリアリティと独自の視点を与えています。弁護団は、アウシュビッツの生存者を裁判で証言させることを断念しますが、デボラは彼らも望んでいるのだし証言させろと言います。でも、証言させれば、詳細な証言を要求された挙句、ちょっとでも間違いがあれば、そこを責められ、侮辱された挙句、生存者の証言全てが否定されると、弁護団は生存者の証言をさせないのです。一方で、彼らはアーヴィングの著書や日記から、事実と矛盾する記述や、差別主義者であるという言動を見つけ出そうとします。アーヴィングは、自分の書いた本の間違いを指摘されると、間違いをすることもあるとあっさり認めます。間違いがあったからと言って、それで彼の全てを否定できないのです。そこで、弁護団は、その間違いが意図的に行われたことを立証しようとし、その動機として、彼が差別主義者であることを立証しようとするのです。

なるほどなあ、アウシュビッツの有無を裁判の焦点にすることは賢明なやり方じゃないというところには納得してしまいました。また、裁判の場に詰問されることに不慣れな老人を引っ張り出しても、彼らを傷つけるだけで、さらに裁判を不利な方向へ持っていってしまうというのは、裁判ってのは普通の道理が通用しない世界なんだなあって痛感させられます。そんなシビアな空間だからこそ、感情や場の空気に振り回されないということもあるのでしょうから、難しいものがあります。裁判のプロである弁護団は、とにかく勝訴するために万全の策を取り、それはデボラをいらだたせもするのですが、ジュリアスやランプトンのクールな態度の裏にある真摯な情熱に気づき、彼らを信頼するようになっていきます。ドラマの主眼を、ホロコーストではなく、裁判そのもの、そして被告と弁護団の人間ドラマに置いたのは成功しています。とは言え、「ホロコーストはなかった」というキャッチーなフレーズで目を惹いておいて、別の観点のドラマを見せるってのは、詐欺じゃねえのという気もします。でも、物語のキモは、その「論点のすり替え」にあるのだと気づくと、なるほど、そういう映画なんだねって納得しちゃうのでした。

でも、メインとなる裁判シーンは比較的クールに展開するのに対し、アウシュビッツのシーンは思い入れたっぷりの演出になっているのに、若干の違和感を感じてしまいました。2カットだけ、当時の回想映像が紛れ込むところがあって、これは監督が無理に差し込んだものなのか、それとももっと多くのカットを入れろというのを監督がここまで押さえ込んだのか、どっちにしてもドラマ的に浮いているという印象でした。今のアウシュビッツを見せるシーンは意味があると思うのですが、過去の回想映像を見せちゃうのは、それが事実であることを映画が裏付けることになってしまい、この映画のキモがぶれるように思います。別に映画が中立である必要はないのですが、この映画は、過去を証明することの困難さを語っているので、それを見せちゃうと、裁判の意味や、弁護団の努力がぼけちゃうのですね。まあ、ヒロインがそれだけホロコーストに思い入れがあるということではあるのですが、他のシーンでは、彼女の思い入れの強さを客観的に描いて、それが映画の良識に見えていたので、ちょっと残念でした。細かいところにツッコミ過ぎですね、ども、失礼しました。

実際、自分の知識だけで考えると、ホロコーストがあったかどうかを自信を持って論じることはできません。私のホロコーストの知識は、歴史の授業、映画、テレビドラマくらいでしょうか。ホロコーストについての専門的な本は読んだことがありません。だから、ホロコーストがあったという根拠は「みんなが言ってるから」くらいの理由しかないのです。もし、近所がネオナチばかりだったら、「みんなが言ってるから」ホロコーストはなかったと思っちゃうんじゃないかな。実際、南京大虐殺があったかなかったか(程度の問題は置いときますね)という話も、中国に住んでたらあったと思っちゃうだろうし、日本のネトウヨの中にいたらなかったって信じちゃいそうですもの。本当のところは、自分から手を伸ばしてフェアな情報を手に入れないと判断できないのですが、「フェアな」がなかなか明快にならないもので、ついそこそこのところで妥協しちゃうんですよね。でも、その妥協ってのは、実は聞きたい話だけ受け入れて、聞きたくない話はオミットしてることがあるっていうのも、この映画では指摘されます。アーヴィングは、ホロコーストの記録から、都合のいい単語だけ抜き出して、さらにないものを盛ったりして、自分の望む結論を導いちゃうって論破されます。

でも、デボラの方も「ホロコーストの真実」なんて本を書くあたり、ちょっとどうなのって気がします。真実というのは、たくさんの事実を取捨選択して、その人の中で作られるものだと思ってます。ですから、みんなが本気でものを考えたら、真実は人の数だけ作られるのではないかしら。でも、それを面倒だと思う人が多いから、他人の真実を自分の真実に取り込んじゃう、っていうのが宗教というか信仰ですよね。ですから、「ホロコーストの真実」ってのは、ホロコーストのことはこの本を信じなさいって言ってると思うのですよ。その姿勢は、ホロコーストはなかったってのを他人に信じさせるのと同じアプローチのような気がしちゃって。肯定派も否定派もやり方は同じようなもんだなあってわかると、どっちが正しいのか見極めるのは大変だよなあ。この映画でも、そこのところをわかってるのか、ホロコースト否定派のティモシー・スポールには悪人っぽい顔をさせ、肯定派弁護士のトム・ウィルキンソンには善良そうな演技をさせています。そういう見た目で区別しないと、どっちが正しいのか伝わらないくらい難しい問題なのかも。

演技陣では、儲け役ながら、誠実な第三者を演じたトム・ウィルキンソンの演技が光りました。一方、肯定と否定の当事者を演じたレイチェル・ワイスとティモシー・スポールには、あえて人間的奥行きを感じさせない演技をさせていたように思います。ごひいきのレイチェル・ワイスも今回は演じるキャラの魅力が出ておらず、演技が大変だったろうなあと察せられます。さらに大変だったのが、ティモシー・スポールで、一切の奥行きを与えられないキャラクターだけど、存在感を示さねばならない役を見事に演じ切りました。共感も憎悪も感じさせてはいけない役どころというのは、結構大変なのではないかしら。ハリス・ザンバーラウコスの撮影は自然光を意識したとのことで全体にやや暗めの絵が落ち着いた味わいを出しています。ハワード・ショアがロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラを指揮した音楽は、最近の映画では珍しい、地味な映画に重厚な音をつけて、ドラマを強めに支えています。ミック・ジャクソンの演出は、ドラマよりも事件を描くというスタンスで、登場人物に入れ込まない距離をおいたものになっていて、そのクールな視点がドラマにある種の格調を与えることに成功しています。なのに、ラストに高らかに勝利感を歌い上げたのは、この映画にはそぐわない気がしちゃいました。

結末は周知の事実なので、書いちゃいますけど、デボラはこの裁判で勝利します。それはホロコーストがあったことが法廷で認められたわけではありません。アーヴィングが自分の意見を述べるときに、事実と違うことをあたかも事実であるかのように述べたこと、自分の望む結論を導くために事実をねつ造したことが証明されて、アーヴィングの名誉棄損が認められなかったということでした。なるほど、弁護団が、その方向へ裁判を進めて、判事がその流れに乗って判決を下したということができそうです。アーヴィングは弁護士も立てず、まさに孤軍奮闘だったのですが、持論のために事実を曲げちゃダメだよなあ。彼は、自分の日記をデボラの弁護団の要請の答えて、全部渡したりして、そこから差別主義者の証拠をつきつけられちゃうのですよ。脇が甘いというか、何か滑稽なマヌケになってて、正直、この映画の中では、そんな悪い奴とは思えない、大言壮語するオヤジという感じなのですよ。さらに、デボラも、ジュリアスやランプトンがいなかったら、アーヴィングと似たようなレベルの人間というふうに見えたのは、私だけかしら。

ホロコーストを語り継ぐことの重要性は認めちゃうし、アーヴィングみたいに、否定論にこだわっちゃうことの滑稽さも伝わってくるのですが、ここで遡上に上がったものが、ホロコーストではなく、もっと議論の余地が残る、従軍慰安婦問題だったら、どういうドラマが成り立つのかなって、気になってしまいました。この映画の裁判では、ホロコーストの有無を感情的に論じることはしませんし、その有無を論じることすらしません。だからこそ、アーヴィングの記録修正による事実の誤認識が認められたのですが、こういう歴史修正の問題をそこまで冷静に議論できたのは、やはりイギリスの裁判制度が優れていたからだという気がします。デボラの弁護団は、陪審員制を拒否して、判事の単独判断にゆだねたのですが、もし陪審員制を取り、陪審員がホロコーストの有無を議論し始めたら、目もあてられない状況になったことが予想がつきます。この裁判で、ホロコースト肯定派が勝利したのですが、それは本当に優秀な弁護団にプラスアルファの運があったからだということを覚えておくべきだと感じました。

自分が何を知っていて、何を知らないか、何をもって客観的に信じることができるのか、自分は知らないと思っているけど意識的に知ることを避けているのではないか、などなど、自分を振り返って、色々なことを考えさせられる映画でした。うーん、考えれば考えるほど、自分が一番信用できなくなる映画という感じ、伝わりますかしら。

「イメージズ」はサイコスリラーだけど、精神を病んでるヒロインを短絡的に狂人扱いしてるのが気になって。


今回は、映画ブログの師匠であるpu-koさんのブログで紹介されていた「イメージズ」をDVDでゲットして観ました。双葉十三郎氏の「ぼくの採点表」では、☆☆☆★ というあまり高得点ではありません。本文を読んでも、あまりついていけなかったという感じでして、どんな映画なのか気になりました。1972年の映画ですが、日本では劇場未公開だったようですが、それでも「ぼくの採点表」に載っているということは、試写会は行われたけど、お蔵入りになったということなのかな。

妊娠中の人妻キャスリン(スザンナ・ヨーク)は、童話を書いているのですが、変な女性からの電話を受けて、精神的にまいってしまい、郊外の別荘に夫のヒュー(ルネ・オーベルジョア)と一緒にやってきます。広々とした田舎の景色の中に、キャスリンはもう一人の自分の姿を見つけます。さらに、別荘に着いてみると、そこには飛行機事故で死んだ彼女の恋人であったルネ(マルセル・ボズフィ)が現れて、彼女に語りかけてきます。買い物に出かけたヒューが、知り合いのマルセル(ヒュー・ミレー)と娘のスザンヌ(キャスリン・ハリソン)を連れて帰ってきて、一緒に夕食を取ることになります。マルセルは、やたらとキャスリンにベタベタして、どうやら過去に二人は関係があったみたい。食後、マルセルが帰る段になったら、ヒューとマルセルが入れ替わっているではありませんか。一体、何が起こっているのかって、どうもキャスリンの方がおかしいらしい、そして、そのことに彼女自身も自覚があるように見えます。正気と狂気の境界線で微妙に揺れ続けるキャスリンが仕掛けたとんでもない行動とは....?

有名な監督さんだけど、私は、「三人の女」「バレエ・カンパニー」「今宵、フィッツジェラルド劇場で」くらいしか観ていない、ロバート・アルトマンが脚本を書き、メガホンも取った1972年の作品です。映画の冒頭から、変な電話に振り回されるヒロインがどっかおかしいと思っていると、突然、夫が死んだ恋人に変わり、次の瞬間には元に戻っている。ああ、これは心を病んだヒロインのドラマだなってわかってくると、今度は、ヒロインがヒロイン自身を見つめるシーンが出てくる。うーん、こうなるとドラマのどこまでが客観的事実でどこから先がヒロインの幻覚なのかわからなくなってきます。なぜ、ヒロインがそうなっちゃったのかは一切描かれないのですが、どうやらセックス絡みのトラウマを持ってるみたいだということがおぼろげに伝わってきます。過去には、色々あったけど、今はダンナであるヒューと平和に暮らすことが彼女の表向きの望みです。でも、過去の恋人の幻影が出てきて、会話しちゃうってことは、現在が心休まる状況ではないのかもしれません。

そんな状況が現実と幻覚が入り混じってキャスリンの周りで展開します。基本、ダンナは本物で、死んだ恋人は幽霊か幻覚ってことになるんだろうけど、冒頭のシーンで、ヒロインがメンタルやられてるってのが伝わってくるから、多分、幻覚。幻覚だけど、結構きちんとしゃべるし、痛がったり血を流したりする、かなりの存在感のある幻覚です。さらに、ダンナと友人のマルセルが入れ替わったりするあたりで、かなりヒロインの幻覚がやばい状況にあるのが伝わってきます。また、一方でもう一人の自分をあちこちで目撃するのは、ドッペンゲルガーか二重人格か、と、異常心理のてんこ盛りな展開は、ちょっとやり過ぎなんじゃないかなって気がしてきました。特に、鏡を使った映像をこれでもかと意図的に盛り込んでいるのも、何と言うか、盛り過ぎじゃないの?って気もしてきます。

こういう状況に追い込まれるヒロインなら、神経質で線の細いキャラクターになりがちです。この映画も冒頭は、そんな感じの繊細キャラなんですが、物語が進むにつれて、どんどんたくましく(ふてぶてしく?)なっていくのですよ。自分の身の回りで、あり得ない出来事が続発したら、先立つ感情は恐怖だと思うでしょ? でも、さにあらず、それらの超常現象をさらりとやりすごして、幻覚を笑い飛ばしちゃう。pu-koさんの記事を拝見したときに、これ、ひょっとして「呪われたジェシカ」みたいな、超自然ホラーなのか、サイコミステリーなのか曖昧な怖さを持った映画なのかなって期待したのですが、少なくとも超自然ホラーの要素はありません。でも、サイコスリラーとしては、「サイコ」でくくれるネタを全部乗っけましたという感じが説得力を欠いてしまったように思います。スザンナ・ヨークの生々しい存在感は、この映画にリアルな人間ドラマの味わいを与えていまして、そこに後半の展開の布石があったというのは、うまいキャスティングだったように思います。

色々な目配せを盛り合わせている点は、面白いと言えば面白いのですが、最後まで目配せだけで、種明かしをしないので、ドラマとしては弱いという印象を持っちゃったのは、私がこの映画を読み切れていないのかな。でも、この映画を観て思い出したのは、「サイコ」のラストで、精神科医が異常心理の説明をきちんとやったのは偉大だったなということでした。スリラーファンには、蛇足だとか説明過剰とか言われちゃう説明なんですが、これがあるから、全てのドラマのピースが収まるところに収まったのです。一方、この映画は、彼女の病状をとっちらかしたままのような気がしちゃったのですよ。昔は、こういうメンタル弱い女性は、それだけでホラーの対象となっていたのかもしれませんが、メンタルを病むのは当たり前になった現代では、きちんと病状を絵解きしてくれないと、ただの「キチガイ」括りになっちゃうのですよ。これは、時代の要請ってやつなのでしょうね。そう考えると、「サイコ」のラストの説明は、狂気を病気と定義しなおしたわけで、当時としては、未来を見通した画期的なことだったのではないかしら。

スザンヌ・ヨークが怪演したキャスリンというヒロインは、子供のための童話を書いていて、その童話の彼女による朗読がBGMのようにドラマのバックに流れます。童話の作者はヨーク自身だそうで、それをアルトマンが映画に採用したそうですが、この朗読によって、画面の彼女の他に、別の彼女がいるんじゃないかという印象が刷り込まれるのはうまい仕掛けだと思いました。まあ、これに鏡に映るヒロインとか、ヒロインの若い頃に似た女の子の登場とか、うまいけど盛り過ぎ感もあるんですけどね。また、キャスリンが、夜、夢なのか現実なのかわからない世界で、夫、死んだ恋人、夫の友人の3人と次々とセックスするというシーンが出てくるのですが、この性に奔放な女性は、キャスリンの過去なのか、隠された人格なのか、それとも彼女の願望なのか、はっきりとしないのですが、そういう生身の性を感じさせる肉感的なキャスリンに、スザンナ・ヨークはぴったりとはまりました。男を挑発する感じとか、アグレッシブななまめかしさがありまして、そこが怖いと言えば、怖いです。メンタル病んでるというと、ヒステリックになることはあっても、基本は弱弱しいイメージがあるんですが、その期待を裏切るおかしさは狙ってやってるんだろうなあ。

今年亡くなったビルモス・シグモンドのキャメラは、シネスコサイズの画面に沈んだ色使いで、荒涼としたロケーションをとらえて、独特の世界観を作り出しています。場所をどことか特定していないのですが、アイルランドでロケしたとのことで、その場所がわからない感じは、ひょっとして全てがヒロインの内的世界かもと思わせるところがあります。音楽を担当したのがジョン・ウィリアムスですが、ピアノの流麗な音楽から、ツトム・ヤマシタのパーカッションによる現代音楽に交互に切り替わるあたりに、ヒロインの二重人格のイメージを表現しているみたいです。視覚的にも、音楽的にも、サイコイメージの盛り合わせだよなあ、やっぱり。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



元の恋人ルネの幽霊(?)は棚の銃を持ち出して、キャスリンを挑発します。そんな彼に向かって半笑いで銃をぶっ放すキャスリン。胸を撃たれて血を流して倒れ込むルネ。でも、その後、何事もなかったように彼女は振舞うのです。さらに、やたらちょっかいかけてくるマルセルに、挑発するような視線を向けて近寄っていくキャスリンですが、背後にハサミを隠し持っていて、そのハサミでマルセルの胸を突き刺します。血まみれの死体と化したマルセルに、家に入ってきた犬は死体の匂いを嗅ぎつけます。でも、その後、家に入ってきたスザンヌは当然見つけていい筈の死体に気がつきません。スザンヌを家まで送ると、そこにはマルセルがピンピンしているではありませんか。じゃあ、スザンヌは誰も殺していないの? 家への帰り道、キャスリンは道を歩いている自分自身を見つけます。最初はやりすごすのですが、家に着いて、そこに転がっているルネとマルセルの死体を見て、再び道を引き返します。彼女の車のところへやってきたのは、もう一人のキャスリン。「なぜ、車に乗せてくれないの」と言う彼女に、「あなたを私の中から追い出したいの」と答えて、彼女をひき殺してしまうキャスリン。彼女が自分の家に帰ってシャワーを浴びていると、そこに現れたのはもう一人のキャスリンでした。「私が殺した筈なのに」と叫ぶキャスリン。そして崖下に死体となって転がっている夫のヒューが映った後、パズルをしている女の子(多分スザンヌ)が映り、スザンヌの声で童話が語られて、エンドクレジット。

ルネはもともと死んでるし、マルセルも死んでないという見せ方ですが、最後にヒューは本当に死んでしまったのでしょうか。どこまでが実際にあったことで、どこからがキャスリンの幻覚なのかはっきりしまいまま映画は終わってしまいます。確かにキャスリンとヒューが入れ替わるというラストの仕掛けは、その前に、ヒューとマルセルが入れ替わるシーンがあるので、一応の伏線はあるのですが、その結果として、ヒューが死んだかどうかはわからない。その曖昧さに面白さを感じられるかどうかで、この映画の面白さが違ってくると思います。幻覚の話なんて、他人の夢の話を聞かされるのと同じだから、何がどうなろうが、論理性の欠片もないんじゃないの?って思うと、まるでつまらない話だねってことになります。(他人の夢の話を聞かされてもつまんないじゃないですか、あれと同じ感じ。)

もう一つ、この映画でキャスリンが殺人を犯す理由を描いていないのが気になりました。あの「サイコ」でさえ、殺人の理由がおぼろげながら伝わってきたのに、この映画は、精神を病んだヒロイン=キチガイだから殺人も犯すよねという見せ方なのですよ。キャスリンは自分を悩ます存在を人生から取り除きたいのだというのは、本人がそう言うのでわかるのですが、なぜ取り除きたい=殺人になるのかは描かない。やはり、昔(1970年代ですが)の映画だと、精神を病んでいる=キチガイ=殺人鬼という図式がまかり通ってしまうのかなって気がしました。今のサイコスリラーでは、理由なき殺人を犯すキャラクターは人間として描かれていないことが多く、登場しても、ホラーのための道具みたいな扱いになっているように思います。あるいは確信犯的な快楽殺人鬼とかですね。この映画のような、精神を病んだ等身大の人間が、殺人鬼になっちゃうってのは、今の映画には見られなくなったパターンだなって気づかされてしまいました。そういう意味では、精神を病んだ人間に対する扱いが悪かった時代の映画なのかな。

「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」は沖縄の現代史を確認する意味で勉強になりました、オススメ。


今回は、東京では上映を終了している「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」を、横浜の港南台シネサロン2で観てきました。こういう映画だからということもないのでしょうが、観客はみんな私より年上のいわゆるお年寄りの方ばかり。こういう映画に若い人が足を運ぶことはもうないのかなあ。

太平洋戦争の民間人も巻き込んだ戦場となった沖縄。最初は、沖縄に民主主義をもたらす希望の存在であった米軍ですが、だんだんと占領軍としての顔を見せてきます。基地を最優先する米軍は沖縄の市民に対して民主的と呼べない圧政を引きました。沖縄における政治力と経済力の両方を握った米軍へ表立って反対の意を唱えることは困難な状況下で、瀬長亀次郎は沖縄の市民の権利を取り戻すための活動を開始します。1946年にうるま新報(現、琉球新報)社長に就任。翌1947年、沖縄人民党結成に参加。1952年の第1回立法院議員選挙では最高得票数で当選を果たします。彼の演説は多くの人々を魅了し、力づけるものでした。反米軍の姿勢を取る亀次郎に対し、米軍は彼を要注意人物としてその行動を監視し、攻撃してきます。亀次郎は、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑で逮捕され、弁護人なしの裁判で、懲役2年の判決を受け投獄されてしまいます。それでも、彼は信念を曲げず、1年半後に出所した時、多くの市民が彼を出迎え、そして、彼は政治活動を再開し、その時に那覇市長選に出馬し当選してしまいます。それに対し、米軍は銀行取引の停止や、水道の停止といった市民を巻き込むいやがらせで対抗、不信任決議も何度も出され、さらに米軍の公職選挙ルールの改定により、彼は11か月で市長の職を追われることになります。その後も、彼のシンパを議会へと送り込み、多くの市民の支持を得て、政治活動を続け、1970年には本土復帰した沖縄県から衆議院議員として国政にも参画、終始、沖縄の民主的統治、沖縄の本土並み復帰を訴え続けたのでした。

TBSの報道番組「ニュース23」のキャスターを務めた佐古忠彦が初監督した、沖縄の瀬長亀次郎を生涯を追ったドキュメンタリーです。実際のところ、沖縄の戦後史はよく知りませんでしたが、沖縄でよく色々な形での反米軍の集会やデモが行われているのはテレビで観ていました。一方、ネットでは、ネトウヨの皆さんが、集会やデモに参加する人々を反日だとかプロ市民とか揶揄しているのも見てまして、何が本当のことなのかがよくわからなくなっていました。そんな中で、沖縄の戦後史についてのドキュメンタリー映画ということで食指が動きました。作ったのは、ネット上では、反日偏向報道メディアとして、テレビ朝日と並んで、ネトウヨの目の敵にされているTBSです。あんまり真に受けるのも、どうかなあと思いながら、スクリーンに臨むことになりました。

映画は、太平洋戦争で、唯一国内で戦場となった沖縄の惨状から始まります。終戦後、沖縄は米軍の統治下におかれるのですが、市民が収容所に入れられていたというのは初めて知りました。(すみません、その位、知らないのですよ、沖縄のことを。)アメリカ兵が沖縄女性を何人もレイプしても、米軍はそれを罰するどころか、そんなこともあるくらいの態度をとったことから、その後、アメリカ兵が市民へひどい犯罪を犯しても、逮捕されることなくうやむやにされたことが描かれます。米軍で働く人々の待遇も悪く、組合活動すら自由にできませんでした。軍の用地を拡張するということで、市民の土地を強制的に収奪したり、要は戦争に負けた国の人間というひどい扱いを日本国が主権を回復した後も、沖縄は受け続けていたのです。一方で、朝鮮戦争の特需景気で、本土の経済復興はどんどん進んでいきます。沖縄は、戦時中は本土決戦準備の時間稼ぎのための捨て石となり、戦後も本土復興のための陰の犠牲を強いられていました。そんな状況下で、瀬長亀次郎は政治活動を開始するのです。彼は沖縄人民党に結成当時から参加し、1952年の第1回立法院議員選挙では最高得票数で当選を果たします。この選挙後に開催された琉球政府創立式典において、座ったままで宣誓拒否という反米軍の姿勢を行動で表したため、米軍と市民の両方に大きなインパクトを与えることになります。

映画は、ここから、カメジロー vs アメリカ軍という構図で展開していきます。瀬長は、沖縄の人々の平等な扱いと、最終的な本土への返還を求めて活動を進めていきます。彼にはカリスマ的な魅力があったようで、彼の演説を聞くために何万人という人が集まり、演説を聞いて熱狂したというのです。元知事が、若い頃、彼の演説を聞きに行ったという話をするのですが、亀次郎が自分の言いたいことを言ってくれて、まるでそれを自分が言ったような気分になり、演説を聞いた後は元気になって帰ることができたというのです。それだけ、人心をつかむ能力に長けていたのでしょうし、また、民衆の視点に立って、彼らを苦しめる米軍と対峙することを勇気をもって実行したのです。その人柄は、彼を監視、拘束する役目の警察官もシンパに取り込んでしまうほど魅力的であり、その人としての魅力と政治家としてのスキルの両方が合わさったとき、沖縄の基地を運営し、沖縄を統治する立場の米軍にとって大きな脅威だったのです。

米軍は、瀬長を共産主義者としてマークし、政治活動を妨害したり、彼を攻撃するビラをまいたりもします。そのやり方は、とてもフェアと言えるものではない、えげつないものでした。沖縄の中でも、政財界の人間は、米軍側について、瀬長を攻撃したのです。沖縄にも色々な考えの人がいたでしょうから、単純に、沖縄 vs 米軍、沖縄 vs 本土なんていう構図を描くことはできないのですが、多くの市民が瀬長の行動を支持していたのは間違いなさそうです。国会議員になってからも、沖縄返還が県民の望んだレベルに達していないと当時の佐藤総理にかみつくシーンが登場します。年をとっても沖縄のために行動するという信念がぶれなかったようです。その姿に、アメリカの言うような共産主義者という顔も、ネトウヨの決まり文句の反日というイメージもありません。平等を前面に出しているのは、米軍や日本政府の沖縄の扱いがフェアでなかったというところにあるのでしょうし。

安保体制の維持と日本の防衛のためには、米軍の基地を国内に置くことは仕方ないという意見もあるようですが、単に基地があるから反対だというわけではないということがわかるという意味で、この映画は観る価値があると思います。安保のおいしいところだけ持ってってる国民と、その被害を被っている国民がいて、それを為政者も国民も放置してきたということ、それに対して「それはフェアじゃない」と声を上げた瀬長亀次郎という人間がいたということは、記憶しておくべきことだと思います。過去のことはもういいじゃないかという人には、沖縄の人にとっては過去は地続きなのだという点を知っておくべき映画だとも思いましたし。

沖縄と基地の関係をこの映画は描き切れているとは思えないのですが、沖縄に雇用をもたらした基地ではあるのですが、その雇用の仕方はかなりブラックらしかったことが描かれているのは注目されてよいと思います。また、沖縄人民党に関与したり、集会に参加しただけで解雇していたという話が出てきます。それって、いわゆる赤狩りの公職追放じゃんと思うと、日本にも赤狩りの犠牲者がいたんだということを再確認することとなります。

面白いのは、当時、沖縄にいた元アメリカ軍人にインタビューしていて、当時の統治の仕方は間違っていたと言わせたところでしょうか。また、アメリカが瀬長を冷静に分析して、その人間的魅力や政治力を認める文書が出てくるシーンもあり、そういうことをきちんと記録に残しているのは、当時、何が間違っていたのかを確認する材料にもなるし、それが公開可能な形で保存されているのは、アメリカ偉いかもって思うところあります。そういう記録の裏付けもあって、当時の行動は誤っていたと認めることもできるのでしょうし。

映画は、最近の沖縄での市民集会の様子を見せて、瀬長亀次郎がいた時代がまたよみがえってきているという締め方をしているのですが、それはどうなのかなという気はしました。その理由は、最近の集会に若い人の姿があまり見えないということです。昔のデモのフィルムにはもっと若い世代がたくさん参加していたのですが、最近の集会は年配の方が中心のようです。瀬長亀次郎が演説していたころとは、集会の様相が変わってきているように見えたのですよ。そういう意味では、今の若い人に、瀬長亀次郎という人がどう語り継がれ、どう受け止められているのかを見せてくれたら、映画により奥行きが出たと思うのですが、沖縄の現代史の映画ではなく、瀬長亀次郎の生涯を描いた映画なので、そこは仕方ないのかな。

「サーミの血」は差別される立場の女の子の人生の選択を描いて考えされるところ多いです。


今回は、東京でも9月からまだロングラン中の「サーミの血」を横浜の港南台シネサロン2で観てきました。ここは、ビルの中の映画館で天井も高くなく、座席もフラットに配置されているのですが、前の人の頭が鑑賞の邪魔にならないようにできるだけスクリーン位置を上に上げています。その分、キャパの割にスクリーンサイズは小さくなっているのですが、快適な鑑賞ができるよう配慮が感じられる映画館です。

現代のスウェーデン、おばあさんが妹の葬式に息子の車で向かっていますが、かつての故郷へ帰ることがあまりうれしくないみたい。サーミ族の出身らしいのですが、サーミ族は盗人でひがみっぽいとか悪態ついちゃっています。葬式を終え、親戚の家に泊まろうという息子を拒否して、一人ホテルに泊まるおばあさん。彼女は教師をしていたらしいのですが、そんな彼女が外を眺めているシーンから時間が遡ります。おばあさんの少女時代エレ・マリュ(レーネ・セシリア・スパルロク)は妹のニェンナ(ミーア・エリーカ・スパルロク)と一緒に、母親の元を離れ、サーミ族の子供だけが通う寄宿学校へ行くことになります。そこでは、サーミ語は禁止され、スウェーデン語の教育が行われています。民族服を着た子供たちは村の人間からは白い目で見られ、ラップ(ランド)人としてバカにされていました。学校にお客さんが来るというので、みんなで出迎えれば、そのお客さんの男女は、エレ・マリュの体を無遠慮に調べて、さらに裸にして写真に撮っていきました。どうやら、子供たちは彼らにとって人類学の研究材料だったようです。ある日、エレ・マリュは先生の洗濯物を盗み、それを着て村のダンスパーティに紛れ込みます。ニコラスという若者と知り合いになるのですが、探しに来たニェンナのせいで素性がばれて、連れ戻されてしまいます。子供たちの中でも勉強ができたエレ・マリュは進学したいと先生に申し出るのですが、サーミ族は脳が劣っているから、都会へ出たら生きていけない、だからこの学校を出たらサーミ族へ戻るしかないと言われます。エレ・マリュは寄宿学校を抜け出し列車に乗って都市に出てニコラスの家を訪ねます。彼の家に泊まったエレ・マリュはニコラスと結ばれるのですが、翌日にはそこを追い出されてしまいます。その後、彼女は都会の学校に紛れ込むのに成功しますが、そこで学費の請求書を渡され、金に困った彼女は再度ニコラスの家を訪ねるのでした。

北欧のスカンジナビア半島の北部にトナカイ遊牧民のサーミ族が住んでいます。ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ロシアに分布していることになるのですが、この映画では、スウェーデンに住むサーミ族の女の子が主人公です。実際にサーミ族であるアマンダ・シューネルが脚本を書き、初メガホンを取りました。2016年の東京国際映画祭でグランプリを取った作品です。1930年代が舞台となっているそうで、そうなると現代のシーンは2000年くらいになるのかな。1930年代のスウェーデンでは、サーミ族は他のスウェーデン人より劣等な人間として扱われ、子供たちもサーミ族のための学校で制限された教育を受け、その後は遊牧民に戻るという選択肢しかないという政策が取られていました。この映画のヒロイン、エレ・マリュは勉強ができたこともあり、サーミ族の外の世界への憧れが他の子供たちよりも強く、何とかしてサーミ族を離れて、都会へと行こうとするのですが、思うようにはなかなかならないというのがドラマの中心になっています。

年を取ったエレ・マリュはサーミ族のことを悪く言い、サーミ族として一生を終えた妹の葬式にも出たがりません。なぜ、そうなったのかが、回想のドラマの中でおぼろげながら見えてくるという構成になっています。息子と孫娘はサーミ族の親戚の家に泊まり、トナカイのマーキングを観に行くヘリコプターに乗ります。どうやら、そういう観光コースがあるみたいです。ホテルの宿泊客がトナカイの遊牧をしている連中はオートバイを唸らせてうるさいとか話しているシーンも登場し、あそこは自然保護区なのにねえと言ってるあたりに、現代のサーミ族がどういう状況にあるのかが伺えます。彼らは昔の文化を継承しつつ現代の文明を取り入れて暮らしているのに、彼らをとりまく目は、彼らを過去に閉じ込めて、そのままにして眺めていたいというのが感じられるのですね。映画の冒頭10分でサーミ族を取り巻く状況が見えてきて、それが過去の政策の延長線にあることが、回想シーンから見えてくるという構成をとっています。でも、この映画はサーミ族の過去と現在を描いた映画ではありません。私も最初はそういう民族差別の歴史を描いた映画だと思っていたのですが、物語が進むにつれて、これはサーミ族ではなく、エレ・マリューという女性の物語だということが見えてきます。サーミ族という自分の出自を嫌って、新しい世界を知りたいと願うけど、その選択ができないことを知り、最終的にサーミ族を離れ、教師としての人生を送った彼女の今が最後に語られるのですが、そこに苦い後味が残るあたりに、色々と考えさせられるものがありました。

彼女はある意味、自分の望む人生を選択できたようなのですが、それは自分の出自を否定する人生だったようなのです。どうして、そういう人生を選択するに至ったのかが、この映画で描かれるのですが、これが故郷を離れて都会に出て働く地方出身者と同じ目線なのが発見でした。ただ、彼女はサーミ族の血を背負っていました。国家から劣等な人間として差別され、他のスウェーデン人からも、差別され、バカにされるという境遇は、日本の都会に出てきた地方出身者に比べたらものすごく過酷、そして、その扱いはどう見てもフェアじゃありません。そんな自分の境遇を否定したい彼女は、サーミ族であることを隠し、クリスティーナと名乗って、ダンスパーティや、都会の学校に潜り込みます。こんな感じ、他の映画でも見たことあるなあと思ったら、アメリカ映画でもよく見るパターンでした。自分の住んでる田舎がものすごく嫌で、早く都会に出たいと願う若い女の子が登場する映画を結構観ましたもの。

でも、そんなアメリカの田舎の子と、この映画のヒロインが大きく違うのは、自分の出自がわかると差別されちゃうということでしょう。ニコラスの誕生パーティに紛れ込んだエレ・マリュに、文化人類学を専攻するニコラスの友人が興味津々で質問してきたり、民族歌を歌ってよと要求されちゃうあたりの痛い扱いは、友人に悪意がないだけに、観ていて辛いシーンでした。同じ人間なのに、研究対象として見られる屈辱感。学校に来た客人が実は研究者で、彼女たちの細かい身体測定をして、全裸にして写真を撮るシーンの残酷さなど、ひどい話だとは思うのですが、太平洋戦争直後、米軍が被爆者を研究対象として扱ったことを思い出すと、そう他人事ではないのですよ。また、映画のパンフレットでも言及されるアイヌ民族への扱いも、やはり研究対象としての視線、扱いがあっただろうことは想像がつきます。本などで「アイヌ研究で知られる××博士」なんてのを見たことありますからね。きっと、アイヌ民族に対しても、サーミ族と同じような視線や扱いがあったんだろうなってことに気づかされます。でも、この映画は、同じ人間という扱いをされないサーミ族がかわいそうとか、彼らの権利が認められていくという歴史を描いたものではないのが面白いところです。それよりも、そんなふうに特別扱いされる自分の出自を嫌ったヒロインが何を考え、何を思うのかというドラマなのです。

エレ・マリュは頭がいい女の子です。その聡明さによって、自分たちの扱いの不当さに気づき、それが怒りに変わり、それが境遇を変えようという行動につながるのだという見せ方をしています。他の子たちは、与えられた境遇をそのまま受け入れ、未来が可変だということに気づかないまま一生を終えるという見せ方です。聡明さが、怒りや希望、そして行動を生むという見せ方はなるほどと思う一方で、言い方は悪いけど、そこまで頭が回らない他の子は、今ある現実を受け入れて耐えるしかないということになります。でも、それが悪いことだという見せ方はしていません。エレ・マリュは他の子供たちから明らかに浮いてしまうので、彼女の方が異端者というか、悪目立ちしているようにも見えます。そもそも、自分の生まれて育ったサーミ族を嫌って、自分がそこ出身であることを隠そうとするのですから、それはそれで困った子になっちゃうのでしょう。でも、そうしないと自分の望む自由な選択ができないのですから、それを責めるのも酷です。私は日本で普通にサラリーマンの子供として、自由な選択のできる立場で育ちましたから、彼女の葛藤は他人事としてしか理解することができませんけど、とにかく何かにすがってでも、自分を変えたい、進学したいという彼女の姿には共感できるものがありました。

しかし、年を取ってからのエレ・マリュが、自分のアイデンティティについて悩んでいるように見えたのには考えさせられるものがありました。普通に生きていれば、自分のアイデンティティなんて意識することもないでしょう。でも、彼女は、葛藤の末に自分の出自を否定して人生を歩んだことで、普通なら知る必要もない「アイデンティティ」なんて言葉と向き合うことになります。そんなことに頭を悩ますことのない人生が幸せだと思うのですが、その不幸のルーツをたどると、サーミ族差別にたどりつくわけで、アイデンティティってのは人を不幸にする言葉なんだと改めて認識してしまいました。

アマンダ・シューネルの演出は展開にまどろっこしさを感じるところもあるものの、現代から時間をさかのぼる導入部や、ラストの現代へ戻ってからの処理にドラマとしてのうまさを感じさせました。また、ヒロインの行動を淡々と追う展開はドラマチックな要素が少なくて、その分、盛り上がらなかったような印象もあるのですが、あくまで一人の少女のドラマとしてとらえるなら、このくらいのテンションがちょうどいいのかもというのは後になって気付きました。そういう意味では「サーミの血」というタイトルは、サーミ族全部を背負ったドラマのような印象を与えるので、もう少し他のタイトルの方がよかったかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ニコラスの家に借金を頼みにいくと、そこでは彼の誕生日パーティの真っ最中。彼の友人はエレ・マリュの出自を知って民俗歌を歌ってと要求、途中まで歌ってみたもののいたたまれなくなった彼女は席を立ちます。ニコラスは彼女に自分の家に帰るようにすすめます。そして、自分の故郷へ帰るエレ・マリュですが、彼女は母親に自分はここを出たい、学費のために父の遺品が欲しいと言います。そんな姉を責める妹ですが、母親は彼女の父親に遺品の銀のベルトを渡すのでした。そこで舞台は現代に戻ります。年老いたエレ・マリュは再び教会へ赴き、妹の遺体に謝罪の言葉をささやくのでした。そして、一人で歩いて山を登り、かつて自分の住んでいたサーミ族の集落へ向かいます。バイクとテントが並ぶ集落をさまようエレ・マリュの姿からフェードアウト、エンドクレジット。

後半の展開は思い切った省略で、サーミ族を去ることを決断し、母親からその許しをもらった後、現代へ一気にドラマが飛び、その間に、彼女がどういう人生を送ったのかは一切描かれません。ただ、彼女が最後にサーミの血を捨てたことへの後悔が描かれるのですが、ここはどう受け取るべきか迷うところでした。自由と希望を求めた彼女の人生はきっと充実したものだっただろうということは察せられるのですが、その一方でずっとその出自を否定したことに、後ろめたさがつきまとっていたようなのです。そういう意味では、アイデンティティが人を苦しめる映画だということも言えるのではないかしら。その一方で自分の出自に誇りを持つことも否定できないので、難しい題材を難しい角度から描いた映画だと思います。後味すっきりの映画ではなく、考えさせられるところの多い映画ですが、こういうことが世界のあちこちで起こっていることを知る意味でも、観る価値のある映画だと思います。

この映画のプログラムは、この映画のバックグラウンドであるサーミ族の歴史について書かれていますし、サーミ族である監督や主演女優のインタビューもあり、映画を補完する意味でも、読む価値のあるものだと思います。ただ、このプログラムに紙片が挟まっていて、「本パンフレットに出ている「サーミ族」という表現の「族」という言葉が「非文明的」「未開」「粗野」といったイメージを連想しかねないものであるため、「サーミ人」と訂正いたします」と書いてあったのが気になりました。「族」ってのは、「民族」の族だし、「みゆき族」とか「ウラル・アルタイ語族」といった使い方もされている言葉なので、それ自体にそんな意味があるという認識はありませんでした。確かに、「食人族」というふうに「非文明的」「未開」なイメージを与える使い方もありますが、「族」だけでそんな意味合いはないと思います。でも、悪いイメージに使われる言葉は、それ自体ないことにしちゃうという風潮は何かおかしい。そのうち、今度は「未」は「未開」につながるから使っちゃダメとかなりかねないですもの。使い方を規制するんじゃなくて、言葉そのものをなくしちゃおうってのは、知恵ある人間の行動としてはかなり浅はかで、人間を愚かなものとして卑下していると思うのですが。

「人生はシネマティック」は面白い題材を扱った映画だけど、人間ドラマとしては今一つで。


今回は新作の「人生はシネマティック」を、有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。ウィークデーの最終回で、こんな地味(?)な映画なのに、劇場は結構な混雑でした。駅からすぐという地の利があるのかもしれません。

1940年のロンドン、ダンケルクの撤退作成の後、若者の多くは出征し、残った市民は度重なる空襲におびえる日々を送っていました。コピーライターの秘書カトリン(ジェマ・アータートン)が、情報省映画局のトム(サム・クラフリン)にとまり、新作映画の脚本家に雇われることになります。カトリンの夫エリス(ジャック・ヒューストン)は売れない画家で、戦争で足を負傷して徴兵されず空襲監視員をしていました。カトリンは、ダンケルクの撤退作戦で双子の姉妹が父親の漁船で兵士の救出を行ったという事実の映画化を任され、双子に取材すると実際は船の故障でダンケルクまで行けなかったのですが、そこを隠して報告すると映画化の話が進み、制作会社へ出向したカトリンはトムとレイモンド(ポール・リッター)の3人で脚本を書くことになります。しかし、ストーリーを組み立てていく中で、物語や登場人物は変わって行ってしまうのにカトリンはびっくり。でも、それが映画づくりだと彼女は知ることになります。イギリス軍から横やりが入り、アメリカ人を登場させろと言ってきて、アメリカ人の空軍大尉を無理やりに役を作って、割り込ませることになるのですが、これが演技素人でNG続出。映画の出演者の一人であるアンブローズ(ビル・ナイ)は注文多くて扱いづらいし、トムとカトリンはロケ地で脚本の修正を続けるのですが、そのうちに二人の間がいい雰囲気になっていくのでした、が!.....。

テレビシリーズの脚本の実績のあるギャビー・チャッペの脚本を、「17歳の肖像」「ワン・デイ 23年のラブストーリー」のロネ・シェルフィグが監督しました。第二次大戦中のロンドン近辺を舞台に国威高揚のための映画を作る皆さんのドラマです。主人公となるのは、脚本家としてスカウトされたカトリンです。兵役に取られてしまったコピーライターの代理で作った広告がトムの目に留まり、情報映画局に勤めることになります。でも、給料は男性よりかなり安い。彼女の旦那は、戦争で足を負傷した売れない画家です。ウェールズから二人でロンドンに出てきたものの生活の苦しさからカトリンにウェールズへ帰るように勧めるくらいの状況です。それにしょっちゅう空襲があって、死と隣り合わせの日々です。カトリンは新しい映画の脚本作りに入ります。ダンケルクの撤退作戦で、民間人の立場で船をダンケルクへ船を出して多くの兵士を救出した双子の姉妹がいたという新聞記事から、彼女たちを映画化して戦意高揚させようというのが映画局の考えでした。それまでにも、戦意高揚のための短編映画を映画館で上映してきたのですが、あんまり評判がよくなかったみたいで、この映画に対する期待は結構大きかったのでした。ところが本人に取材してみれば、二人は出航したもののエンジン故障でダンケルクへはたどり着けず、途中まで行って、そこで船に乗り切れない兵士を収容していたのです。ですから、新聞記事の話はまるっきり嘘じゃないけど、まるまる本当でもなかったことがわかります。でも、その取材結果をカトリンは正直に報告せず、脚本化のGOサインをもらうのでした。

そして、トム、レイモンド、カトリンの3人で脚本作りに着手するのですが、カトリンの想像以上に、トムとレイモンドはお話を脚色して、事実にないことまで映画に盛り込んでいきます。まあ、今も昔も「事実に基づく」映画なんて、事実と異なる脚色を加えて、物語のエンタメ度を上げ、感動を盛り上げているのですから、驚くにはあたらないのですが、この映画がそれを是としているのか、ヤラセだから非としているのかは曖昧です。その後、双子の姉妹がダンケルクまで行ってないことがわかってしまい、役人たちが3人のところにやってきて企画の中止を告げるのですが、「姉妹がダンケルクへ向かったことは事実だから」「この姉妹だけじゃないダンケルクへ向かった全ての民間人のドラマなんだ」とか、役人を言いくるめて映画の製作を進めさせちゃいます。

まあ、所詮実話の映画なんてそんなもんだということになるのでしょうけど、それが当たり前のように言われると、そうは言うけど、結構、実話の映画化って真に受けちゃう人もいるんだよって言いたくなりました。かく言う私も学生の頃は、本に書いてあることは本当の事、実話の映画化は本当の事が描かれていると思ってました。いい大人になってから、本も映画も鵜呑みにすると大変なことになると目覚めたわけですが、そういう私は懐疑的なキャラになっちゃってますから、実話の映画を本当にあったこととして受け入れる人はまだいるのではないかしら。でも、100年前から、実話もかなり大胆に脚色されていて、それが当たり前だったという見せ方は、ちょっと考えさせるものがありました。実話とかドキュメンタリーとかノンフィクションって言われちゃうと、それは本当の事を言ってるんだとつい思っちゃう自分がいることはいるんですもの。特に映画という音と映像の両方で攻めてくるメディアは、心にすんなりと入ってくるので、受け入れやすいんですよね。でも、作る方には、本当のことを伝える意図はあまりないという構図は何かうれしくないんだよなあ。この映画のテーマはそういうところではないですし、物語の中の小さなエピソードではあるのですが、映画作りを題材にした映画だけに、魚の骨みたいに引っかかるものがありました。

映画の本筋は、カトリンがトムと映画作りを進めていく中でだんだんといい感じになっていくところにあります。映画がクランクインしているのに、撮影現場でタイプで脚本を打ってる状況はどうなんだろうとも思うのですが、現場でどんどん脚本に変更が入るらしいです。そんな中で、カトリンは監督や俳優からも信頼されるようになり、トムも一目置くようになるのです。でも、人妻ですからねえカトリンは。そんなカトリンとトムが一緒にいるうちにお互いに好意を持つようになるというのは今イチ不自然というかドラマをひねり過ぎという印象になっちゃいました。映画の撮影エピソードはコミカルで笑えるものが多いのですが、カトリンとトムの成り行きは何か笑えないって感じで、このドラマはどこへ行くつもりなんだろうって不安になってきます。特にトムは仕事ができることを鼻にかけた自信家の男なので、あまり共感を呼ばなくて。そういう意味では恋愛ドラマの部分は今一つでした。カトリンは魅力的な女性ではあるのですが、ダンナに対する態度が微妙なところもあって、誠実さを感じさせなくて、そこがリアルな女性像なのかもしれないけど、この題材の映画にリアルな生臭い不倫沙汰はふさわしくないような気がして。

また、ちょっとしたスパイスとして、当時の男尊女卑に空気を盛り込んでありまして、女性だからという理由だけで給料に差をつけられちゃうヒロインがお金に困って昇給を掛け合うところや、政府側のお目付け役みたいに登場するフィルという女性とカトリンが女性の立場ということで、仲良くなっていくあたりは、共感できるものがありました。また、ドイツ軍の空襲によって、死と隣り合わせの状況にあるロンドンという背景描写も映画に奥行きを与えていまして、セバスチャン・ブレンコーの落ち着いた色使いの撮影もあり、時代色がうまく表現された中で、映画作りのお話がファンタジー風のタッチで展開していきます。

演技陣では、ジェマ・アータートンがカトリンを魅力的な人妻という見せ方で好演していますし、ビル・ナイは安定して憎めない老人をコミカルに演じています。また、最近よく見るエディ・マーサンが、ビル・ナイのエージェント役で少ない出番ですぐ死んじゃう役どころながら印象に残る好演を見せてくれています。少ない出番できちんとドラマの中で爪痕を残す脇役って最近は少ないという気がしてまして、彼のような存在感のある役者さんは要チェックですね。同様に脚本家トリオの一人を演じたポール・リッターもその存在感で要注意かも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ロケ先で、トムはカトリンに思いを伝えるのですが、それをかわして、ダンナの絵の個展のためにロンドンへ帰るカトリン。しかし、帰ってみればダンナは他の女と寝ている現場に遭遇して、カトリンは彼に別れを告げて、ロケ地へと戻ります。そして、彼女は改めて自分のトムへの想いを確認するのでした。二人はこうして結ばれるのですが、セット撮影でロンドンのスタジオに帰ったとき、倒れてきた機材の下敷きになってトムは還らぬ人となります。撮影は終了したもののラストの壊れたスクリューを直すシーンの撮り直しが必要になり、役者も揃わないで、みんなが頭を抱えていると、カトリンが男じゃなくて姉妹自身に修理させればいいと提案し、撮り直しに成功して映画は完成し、劇場公開されると大ヒット。さらに次の企画にカトリンは挑むことになるのでした。めでたし、めでたし。

カトリンのダンナが浮気してたってのは、無理やりな展開だよなあって気がしていたら、その直後、トムを殺してしまうのにさらにびっくり。何か、カトリンのドラマをひねりすぎて、その結果、映画作りの部分が霞んでしまって、ドラマが散漫になってしまったような気がします。あれもこれも盛り込みたいのはわかりますし、カトリンの物語を中心に置きたいのもわかるのですが、恋愛部分と映画作りのバランスがよくなかったのかも。後、映画と直接関係ないのですが、この映画観る前に「ダンケルク」が公開されたのはラッキーでした。あの映画を観ておいたおかげで、この映画のストーリーが理解しやすくなりましたもの。「ダンケルク」で予習したおかなかったら、実話がどう脚色されていったのかが、よく理解できなかったかも。

「パーティで女の子に話しかけるには」は70年代若かったオヤジ世代の私に大ハマリ、全部懐かしい感じ。


今回は映画の日に、初日の「パーティで女の子に話しかけるには」を川崎の川崎チネチッタ6で観てきました。ミニシアタータイプの映画を中規模クラスの劇場で観られるのはシネコンのアドバンテージですね。映画の日にしてはお客さんは今イチでしたけど。

1977年のロンドン郊外に母親と二人暮らしのエン(アレックス・シャープ)はパンクにはまっていて友人のヴィックとジョンとつるんではクラブに通う日々。今日もボディシーア(ニコル・キッドマン)がマネージャをしているディスコーズのライブに紛れ込んで、打ち上げにも行こうとしたところ道に迷ってしまいます。そこへ、奇妙な音楽が聞こえてきて、その音の方へ行ってみると、古い一軒家が何だか騒がしい。ドアをノックすると奇妙な衣装の女性が出てきます。三人は中へ入れてもらうと、中にも不思議な未来風の恰好をしたみなさんがいて、踊ったり歌ったりしています。何かのパーティに紛れ込んだと思った三人は盛り上がってしまいます。ヴィックはボディラインも露わな服を着たステラという女性と事に及ぼうとするのですが、何か様子がおかしい。エンは家の中を見て回っていてザン(エル・ファニング)という女の子と知り合いになります。奇妙な服装の皆さんは外国からの旅行者らしいのですが、コロニーがどうのとか、マニュフェストは個人尊重とか、何か言ってることが変。体を借りてるとか言い出すに及んではどうも人間じゃないエイリアンの集団のようです。三人は何か変だと家から逃げ出すのですが、エンを追ってザンもついてきます。48時間の猶予しかないけど、エンの言うパンクを体験してみたいんですって。そして、自分の家へザンを連れ帰るエン。ザンは言葉がちょっと変だけど、かわいいし、エンのことも好きみたい。二人のラブラブな時間が過ぎていくのですが、そういう自由に好きなことをするのはエイリアンの世界では規則違反らしく、ザンは他のエイリアンから注意されたりもするのです。エンとザンの宇宙を越えるラブラブの行方はいかに....?

「コララインとボタンの魔女」の原作者ニール・ゲイマンの短編小説をもとに、フィリッパ・ゴスレットと「ラビット・ホール」のジョン・キャメロン・ミッチェルが共同で脚本化し、ミッチェルがメガホンを取りました。1970年代後半のロンドン、パンク文化が盛り上がっている時代を舞台に、ケッタイなSF映画を作り上げました。私は、パンクというものが全然わからない、というか知らないので、この映画、最初は食指が動かなかったのですが、チラシのエル・ファニングがあんまりかわいいものだから、劇場まで足を運んでしまいました。この娘、西洋風のクドさのないすっきりした顔立ちが日本人のオヤジにもぴったりはまるんですよねえ。(←何を言ってるんだ私は)で、中身の方は期待しないでスクリーンに臨んだのですが、これが70年代を学生時代で過ごした私にぴったし大ハマリだったのですよ。これは正直びっくりでした。何だこの懐かしさというかあるある感は! 私は全然パンクもブリティッシュ文化も知らないのに。

メインのお話は、地球人の体を使って旅行に来ていた宇宙人の中のザンという女の子が、パンク大好き少年エンと出会い、地球での経験を深めたい、パンクを知りたいってことで、48時間もらって、エンと一緒に行動するというもの。この映画でのパンクは大人たちの抑圧に反発する自由を象徴するもの、ただ、公民権運動みたいなシリアスなものではなくて、上っ面っぽいというか若気の至りというか、若いから許されるというレベルのものです。まあ、日本で言うならヤンキーと尾崎豊の中間くらいのポジションかしら?(←かなりいい加減)大して苦労もしてないのに、解放だとか自由だとかをライトだけど、ちょっと背伸び気分ではしゃいでるって感じ。日本でも、70年代のテレビとか映画に出てくる若者ってこんな感じだったなあって懐かしくなってしまいました。

さらに、回顧気分を盛り上げるのが、宇宙人の設定でして、見た目は、当時のサイケファッション風のかっこして、シンセサイザーの音楽をバックにゆっくりした動きで踊ってるんですが、これもあるあるなんですよ。80年代以降の宇宙人の粘液質の部分が一切なし、言い換えるとリアリティのないバラエティ感覚というか、低予算映画的な宇宙人ってのも、ああ、こういうのをカウンターカルチャーとか言ってたなあって、もう懐かし感がたまりません。宇宙人がすごく管理されたシステムの中で自由がない状況にあり、その中で、ザンがエンと出会うことで自由と愛に目覚めるという、70年代の学生が大学ノートに書いたSF小説みたいな展開には、「うわー、何かこっぱずかしい」感がありあり。

宇宙人だけど、宇宙船といったメカニックは一切登場しません。一方で、宇宙人の口から語られるのみの設定はやたらややこしい。宇宙人はどこから来たのかは不明だけど、6つのコロニーに分かれていて、PTと呼ばれる保護者と子供の関係があり、旅の最後に子供は保護者に食べられちゃうといった設定があります。でも、スター・ウォーズ以前のSFだから、ディティールの部分は甘々で、辻褄が合わないところもあるけれど、細かいことは気にしない。やたらと議論はするけど、バトルはしない宇宙人という設定は、予算のない学生演劇か自主映画みたいで、これも今風でない、懐かしさがいっぱい。また、エル・ファニングのかわいさも、よく見れば、70年代風で、当時のファッション系コマーシャルに出てくる中性的なモデルの雰囲気があります。なるほど、当時刷り込まれたイメージがあるから、彼女に萌えなのかー、納得。(←気持ち悪いよ)

パンクの方は全然わからなかったけど、ボディシーアを楽しそうに演じるニコル・キッドマンが映画を食っちゃってるのが面白かったです。パンクバンドのマネージャで地元のイコンとして局所的に君臨している感じがおかしくて、この人、どんな役でもこなしちゃう演技名人だと思うけど、変なキャラをやらせると突き抜けちゃっておかしい。シリアスな演技の方が評価されることは百も承知で、「ライオン 25年目のただいま」もやるし、こういう役もやっちゃうのはお見事です。

というわけで、1970年代を特別な時間として過ごした人には、すごくはまる映画ではないかしら。若い人にはすごく変な映画という見え方に見えるかもしれないし、ファッションに斬新さを感じるかもしれないし、自由と愛を声高に叫ぶことができた時代を新鮮に感じるかも。私世代以外の方にこの映画がどう見えるのかがすごく興味あります。単なる珍品と映るのか、心の琴線に触れる映画になるのか。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



パンクを知りたいザンが、ボディシーアに紹介され、成り行きでステージに上がって、エンと一緒に一曲歌って、大盛り上がり。でも、宇宙人の皆さんは帰らなきゃいけない時間がやってきますが、これまでの保護者が子供を食べる習慣をやめようということになり、保護者たちの投票で決めようということになります。投票結果は賛成反対が半々。そこで、ザンがなぜか妊娠しているのがわかって、彼女に投票権があることになるのですが、地球では子供を産めないので、自分の星へ帰らなきゃいけない。ザンとしては地球に残ってエンと一緒にいたいけど、仲間が食べられないようにするためには、子供を産んで投票権を得ないといけない。葛藤の末、ザンはエンに別れを告げて自分の星へ帰ります。そして、1992年、コミック作家として名を売ったエンのサイン会に、変な服装をした若者たちがサインを求めてきます。そのうちの一人の名前はエンと言い、母親から学ぶためにここ(地球)へ来るように言われたとのこと。サインしたエンが遠くを見る目をしたアップから暗転、エンドクレジット。

エンの多感な時期に遭遇した不思議な体験は、夢のようだと思っていたら、ラストでそうでもないよと見せるあたりがおかしくもかわいい映画に仕上がっています。でも、考えてみると、時代の先端であるパンクにはまってわいわいやってるエンと仲間は、今風に言えばリア充だったんだなあ。私みたいな非リア充は、一人で黙々と自転車漕いで学校と家の往復してましたから、うらやましい青春時代を描いた映画ということになりましょう。若い頃、バカバカしくても何かにはまればよかったなあってしみじみしちゃう映画でもありました。

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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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