FC2ブログ

「MONSTERS!!! オーケストラ・コンサート」はリーズナブルなお値段でフルオケの映画音楽が聴ける貴重なコンサート


今回は、錦糸町のティアラこうとうにて開催された、映画音楽のコンサート「MONSTERS!!! オーケストラ・コンサート」に行ってきました。奥村伸樹指揮のフィルム・スコア・フィルハーモニック・オーケストラによる演奏でした。このオーケストラはサウンドトラックを演奏するために結成されたアマチュアオーケストラだそうで、今回もかなりボリュームのあるメニューを、2,000円で楽しませてくれる、私のようなサントラファンには、大変ありがたいオーケストラでもあります。前回は「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー」を同じくティアラこうとうで聴いて、これは楽しいコンサートだったので、今回も足を運びました。今回のテーマはモンスターということでモンスターにまつわる映画とゲーム音楽のコンサートでした。

1、「SF交響ファンタジー第1番」
私のような伊福部昭とゴジラのファンには定番の1曲で、東宝のSF映画音楽のモチーフを緩急よく振り分けた盛り上がる曲です。曲のよさとオーケストラの元気な音がうまくシンクロしていて、個人的にはこのコンサートのベストだと思いました。クライマックスの「宇宙大戦争」のマーチ(アレグロってのが正しいそうですが、聞いた感じはマーチ)は、「シン・ゴジラ」のクライマックスで使われたので、若い人でも楽しめる1曲ではないかしら。「宇宙大戦争」と「怪獣総進撃」のマーチの掛け合いはやっぱり盛り上がりますもの。

2、「ポケットモンスター」より9曲メドレー
ポケモンは、さすがにオヤジは接点がなくて、初めて聞く曲ばかりで、それも劇伴音楽のブツ切り演奏ということもあって、「ポケモン」を観ている人には楽しいメドレーかもしれないけど、一見さんには、ちょっとしんどい感じでした。曲があまりピンと来ないというか、吹奏楽の課題曲みたいなんだよなあ、これが。ポケモンファンの方、ごめんなさいね。

3、「モンスターハンター」より3曲メドレー
ここから、男女のコーラスも登壇します。ゲームをやらない私には、モンハンも一見だったのですが、こっちは、明確なテーマモチーフから色々と発展していくという曲がまず聞きやすく、オーケストラのためにアレンジされていることもあって、聴き応えがあって楽しめました。演奏もここが一番力が入っていたという印象で、ダイナミックな音が耳に心地よい演奏だったと思います。

4、「エイリアン」よりエンドクレジット
ジェリー・ゴールドスミスのファンである私にとっての最大のお楽しみでした。リジェクテッドスコアだと紹介がありましたけど、映画を観る前にアルバム(当時はもちろんLPレコード)を聞いて感動した私にとっては、これがホントの「エイリアン」。ただ、過去の演奏でもトランペットソロが大変らしくて、これまでコンサートで4回聴いてうまくいってたのは2回しかありませんでした。今回もトランペットで息切れしちゃったのと、ラストの絞めが何だか発散しちゃったような印象になっちゃったのが残念。こんなこと書くと、サントラ老害って言われそうだけど、思い入れの強い曲にはつい辛口になっちゃうのですよ。

5、「ジョーズ」よりメイン・テーマ
コンサートで「ジョーズ」を聴くのは初めてでしたけど、やっぱりこの曲はいいなあって感心。コンサート用にアレンジされているようなんですが、最後の締めがこれもなんだか締まらない感じになっちゃってたのは惜しかったです。フェードアウトでもいいじゃんと思ったのですが、コーダにしないといけないお約束でもあるのかしら。

6、「ヒックとドラゴン」組曲
ジョン・パウエルというと私なんかはアクション映画でドコドコ鳴らす人というイメージしかないのですが、アニメ映画でもたくさんの実績があるようで、この「ヒックとドラゴン」もそんな一つですが、やっぱり元気な活劇音楽になっているのが楽しかったです。ダイナミックな動きに合わせたようにオケがうねる音作りからアニメらしさを感じることができます。前回の「ファンタジー・フィルム・スペクタキュラー」でも演奏されたのですが、前回の方が音がまとまっていたような気がしたのは、聴く座席の位置の違いなのかしら。

7、「美女と野獣」(2017年版)よりOverture
「美女と野獣」の序曲? ひょっとしてあのアニメの冒頭の語りのバックに流れた曲? ってすごく期待したのですが、これはアニメ版じゃなくて実写版の序曲でした。(って、私は実写版は未見なんですが) 期待が大きかっただけに、色々なナンバーのモチーフのコマ切れメドレーでがっかり。序曲ってより、長いエンドクレジットの後半に流れる曲って感じだよなあ、これ。

8、ミュージカル「オペラ座の怪人」より3曲
これは有名なミュージカルの名曲だけに、特に序曲に期待したのですが、これが何だか短くて今一つ。こういうのはオーケストラ用にアレンジして盛り上げて欲しかったわあ。その後、男声ボーカルを加えて「The Music of the Night 」をこれは十分な尺で聞かせてくれて、もう1曲。3曲めはあまり印象に残らなかったのですが、どのシーンの曲だったのかしら。

9、映画「シュレック」組曲
浜田雅功と藤原紀香という吹き替えコンビがまさかの好演を見せたアニメの佳作ですが、この音楽を手掛けたのが、「ヒックとドラゴン」のジョン・パウエルと、シリアスドラマの作曲家のイメージが強いハリー・グレグソン・ウィリアムスというのはちょっとびっくり。優雅なテーマ音楽から、アクションスコアへ展開していく組曲はなかなか楽しい音になっていまして、個人的には「ヒックとドラゴン」よりこっちの方が好きです。

10、アンコール
アンコールは、映画音楽の様々なモチーフをパッチワークのようにつないだ、これはこのオーケストラのテーマなのかな。さらにコーラスへのアンコールでモンハンのさわりを聴かせてくれたあと。次回コンサートの予告ということで、「スターウォーズ」のテーマを演奏して終わりとなりました。次回は、8月にジョン・ウィリアムス特集のコンサートですって。

楽譜の制約とか色々あるのでしょうけど、そんなことお構いなく言いたい放題書いてしまいましたが、サントラファンとしては、映画音楽を生演奏で聴かせてくれる機会があるというのはうれしい限りなので、また色々な企画をやっていただきたいなあって思います。今度は、ジョン・ウィリアムス特集らしいのですが、1人の作曲家に特定せず、色々なジャンル、作曲家の映画音楽に生で接する機会を作って欲しいなって思います。とは言え、リーズナブルな価格でいい演奏を提供しようとするとマニアックな選曲はできないってことは重々お察しできますから、難しいところです。ですから、半分はジョン・ウィリアムスやハンス・ジマーでも、残りの半分にバーナード・ハーマンやジェリー・ゴールドスミス、ラロ・シフリンなんかを混ぜていただけたらうれしいのですが。
スポンサーサイト



「あなたの旅立ち、綴ります」は他愛ない設定だと思ってスルーするには惜しい、演技者が光る佳品でオススメ。


今回は新作の「あなたの旅立ち、綴ります」を川崎の109シネマズ川崎2で観てきました。小さい劇場で座席の中心がスクリーンの中央からずれているのですが、HPではスクリーンと座席の対応図が別についていて、スクリーンの中央にこだわる私には席を決めやすくなっているのは有難い。

ハリエット(シャーリー・マクレーン)はかつて広告会社の社長だった女性ですが、今は大きなお屋敷で一人暮らし。使用人の仕事にちょっかい出すくらいしかすることのない日々を送っていて、ある日、薬の飲み過ぎで病院に担ぎ込まれてしまいます。何か人生つまんなくなっちゃったところに目に入ったのが新聞の訃報記事。死んだ人のことをうまいこと良く書いてあるのを見て、かつて広告を出していた新聞社へ行って編集長に自分の訃報記事を作るように命令します。訃報担当のアン(アマンダ・セイフライド)は、あまり気が進まないのですが、編集長に泣きつかれて、仕方なく、ハリエットの関係者に彼女のことを聞いて回るのですが、彼女のことを良く言う人が誰もいません。その通り伝えたらハリエット逆上。でも思い直したハリエット、改めてアンにちゃんとした訃報にすべく人生を変えたいと相談をかけ、アンもそれに乗ることになります。家族からよく言われ、仕事仲間からよく言われ、社会活動に貢献し、何か決めのキラーワードを得たいと、この4つを攻めることになります。まず、社会活動ということで地域のコミュニティセンターへ行って、ちょっと変わった女の子ブレンダと仲良くなります。一方、一度はハリエットをボロクソ言ってた部下がアンを訪ねてきて、彼女が強引に会社を追われた経緯を語り、その証拠ビデオを置いていきます。さらに、アンの好きなラジオ局を紹介されたハリエットはそこを訪れ、トップDJに直談判して、何と自分の番組を持つことに成功します。そして、長く音信不通だった娘のエリザベス(アン・ヘッシュ)と会うことになるのですが...。

予告編を観た時は、嫌われ者だったばあさんが訃報記事ではいいことを書いてもらいたくなって、人生を見直すなんて、そんな話を想像していました。まあ、大筋はそう違わないのですが、本編を観てみれば、これがなかなかいい話になっているのですよ。主演のシャーリー・マクレーンとアマンダ・セイフライドの正面きった演技合戦が見事でして、意外や見応えのある充実したドラマに仕上がっていました。スチュアート・ロス・フィンクが脚本を書き、ミュージックビデオや、「隣人は静かに笑う」「プロフェシー」といったスリラー映画で評価の高いマーク・ペリントンがメガホンを取りました。

映画の冒頭は、使用人に静かに嫌味を言いつつ、何だか満たされない日々を送る老女の姿が、冷たい薄暗い映像で描かれます。このリアルで、何だか救いのない冒頭からドラマに引き込まれるものがありました。そんな彼女が新聞の訃報記事を見て、自分のも書いてもらおうと新聞社に乗り込むところから、ドラマが動きだすと、今度はコメディタッチのセリフの応酬でテンポよく物語が進んでいきます。エリック・コレツの撮影が、シネスコサイズの大画面なのに、手持ちのアップショットを多用していまして、それが最初はうっとうしくも感じるのですが、そのキャメラが登場人物の演技を的確に押さえていくと、ああ、こういう見せ方もありなのかなと納得しちゃいました。そのくらい、脇役も含めて、役者の演技でドラマを語っていくつくりになっているのですよ。監督のペリントンも要所要所でセリフをなくしたり、話している音声をオフにして、演者の演技で見せる演出をしていまして、設定は笑っちゃうようなネタなのに、じっくりと人間ドラマを見せるのに成功しています。最近の映画の中では、珍しく、ほんとに役者の演技でドラマを作っているのが新鮮に感じられました。

誰も自分のことを良く言ってくれないことを知って、ハリエットはショックを受けるのですが、それでもめげずにじゃあ今から巻き返しを図ろうというのがおかしく、それにアンも巻き込まれていく様子がコミカルに展開していきます。実は、よく見てみれば、ハリエットの人生はまるっきりダメじゃないってことがわかってくる、というのはこの手の話の定番なのですが、そこんところも不自然にならないようにさらりと見せるのはペリントンの演出のうまさなのでしょう。まあ、広告会社を立ち上げて、一流どころにまでもっていった人ですから、ただのダメ人間であるわけはありません。アンは、ハリエットと一緒にいることによって、彼女の魅力や過去の苦労を知っていくことになります。特に、50~70年代の音楽に造詣が深く、そのセンスもいいことを知ったアンがラジオ局を紹介すると、ハリエットが自ら局に乗り込み、強引に自分を売り込んで、朝の番組枠を取ってしまうところは笑えました。そして、ついでなのか、そっちが本命なのか、アンとDJの仲も取り持とうするあたりの図々しいけど憎めないキャラをマクレーンが軽々と演じているのが見事でした。

一方のアンは、実は物書きになりたくて、自分の手帳にエッセイを書き溜めていました。また、幼い頃に母親が家を出て行ったという過去があり、母親のいない彼女が、ハリエットと母娘関係になっていくあたりも自然で、父親にも見せられなかったエッセイをハリエットに見せるようになり、そのシーンを声をオフにして音楽だけで見せる演出も細やかで、アンのキャラクターを丁寧に描き込む演出とそれに応えたセイフライドの演技が見事でした。シチュエーションコメディのスタイルだけど、きちんとキャラを描き込めば人間ドラマとしての奥行きが出るんだなあって感心。ちょっとほめ過ぎかもしれないけど、いい意味で期待を裏切られたので、評価が上がっちゃいました。あきらかに脇役のポジションで前面に出てくることのない、小生意気な少女ブレンダにもきちんとキャラと背景が盛り込まれているのもマルでして、逆にその扱いを大きくしないバランス感覚に感心しちゃいました。文章ではうまく伝わらないのですが、これは本編を観て、ブレンダの登場シーンを確認していただきたいです。その過不足のない見せ方のうまさを私は買います。


年を取った人にはそれなりの人生の積み重ねはあって、その積み重ねが若い人にとっての人生の道しるべとなっていくというのを、コミカルに説教臭くなく見せたという点で、この映画、評価は高いと思います。自分に振り返ってみれば、ハリエットのような社会的実績も人に胸を張れることもない人間からしたら、まあうらやましいなあって言う話でしかないのですが、それでも、ハリエットとアンが偶然の出会いから、親子のような関係を築いていくってところは映画の魔法として楽しむことができました。脇の演技陣も充実していて、フィリップ・ベイカー・ホールの懐の深さを感じさせる演技とか、1シーンだけの出演で、鬼気迫る怪演を見せたアン・ヘッシュといった曲者が、ドラマを支えていて、役者の演技で見せるドラマになっている点は、もう一回強調しておきたいです。設定と見てくれだけで、よくあるコメディとスルーしちゃうのは惜しい映画だと思います。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ハリエットは久々に娘エリザベスに会うと、彼女は母親になっていてそこそこ幸せみたい。自分がおばあちゃんになってたことを知って、自分のことをダメ母だと思っていたのが、そうでもなかったみたい。一方、アンはファンだったDJロビンと恋仲になっていい感じに進展。書き溜めたエッセイをハリエットに見せると、もっと大人の言葉で自分を書けと言われます。そういうハリエットは心臓がよくなくて、いつ逝ってもおかしくない状態だと知らされます。そんな彼女は、かつて自分を追い出した会社の看板から自分のイニシャルをぶっちぎって憂さ晴らし。アンやブレンダと踊って盛り上がっているときに、その時が来ます。それを静かに看取るアン。葬式はハリエット自身が全て段取りを決めていたもので、そこでアンがハリエットの思い出をスピーチするのでした。ハリエットは、アンにとって思い入れのある土地であるアンダルシア行きのチケットを彼女に残しました。空港へ向かうアンの姿から暗転、エンドクレジット。

やっぱり、結末として、ハリエットは死んじゃうわけですが、その死の瞬間も、音楽だけで実音を排し、踊っていたアンが気づいてブレンダを抱き寄せるという見せ方で、あえて愁嘆場にしなかった演出は見事。あえて、ハリエットに近寄らずに彼女を見つめるアンの表情がじわっと泣かせます。葬式では、冒頭で彼女をボロクソ言ってた神父がたくさんの寄付をもらってニコニコしているという笑いも交えて、最後まで嫌われ者だけでは終わらなかった彼女の人生は、そんな悪くなかったねというオチになります。まあ、映画の冒頭は嫌われ者で、嫌っていた人間全部をフォローできていないので、全ては丸く収めてはいないのですが、まあ人間のやることですから、このくらいで勘弁しといてやるわって感じでしょうか。我が強い人は嫌われても仕方ないところもありますし、嫌われ上等という覚悟で実業家として成功した(そのことが映画でわかるのが、コミュニティセンターで子供たちの前で、自分の人生を語るところというのがまたおかしい)彼女の強さはもっと評価されていいところだなあと思ったのですが、やっぱり女だてらにって思われたことが多いみたいです。そう思うと、アパホテルの社長も大変なんだろうなあって、どうでもいい方に思いが行くのでした。でも、この映画は、大きな期待をしてなかったこともあって、意外と面白くて、意外と見応えがあって、意外といい映画でした。そのくらいの期待で、ご覧になっていいただければいいかなって。

「ぼくの名前はズッキーニ」にいいオヤジが大泣きさせられちゃいました、泣ける泣けない置いといて、いい映画でオススメ。


今回は新作の「ぼくの名前はズッキーニ」を川崎の109シネマズ川崎3で観てきました。ここは、130席というキャパは小さめなんですが、スクリーンは結構大きいというシネコンの典型的な映画館。それでも、最前列とスクリーンの間にスペースを設けて、前の方でもスクリーン全体が観易い作りになっています。

9歳のズッキーニは、酒を飲んでは乱暴する母親と二人暮らし。いつも屋根裏部屋で絵ばかり描いていたのですが、また彼に乱暴しようとやってきた母親を誤って階段から突き落としてしまい、孤児院「フォンテーヌ園」に送られることになってしまいます。担当警官のレイモンが彼を園まで連れて行ってくれます。そこには、リーダー格のシモン、アメッド、ジュジュブ、アリス、ベアトリスの5人がいて、すぐに仲良くなります。仲間たちにはそれぞれ、親の事情でそこに預けられていて、シモンに言わせると「みんな誰にも愛されていないのさ」ということになるんですって。やさしいレイモンは仕事抜きでもズッキーニを訪ねてきてくれ、彼は園のことをレイモンに話すのが楽しみ。そんなある日、カミーユと言う女の子が園に送られてきます。彼女はお父さんが浮気したお母さんを殺した後自殺したという事情があり、胡散臭いおばさんがこの園に連れてきたのでした。ズッキーニとカミーユはすぐにお互いに好意を持つようになりました。でも、自分が引き取ればお金がもらえると知ったおばさんが、カミーユを引き取ると言い出します。カミーユは絶対嫌だ、ここに居たいと言うのですが、まず週末だけ引き取りに来ます。そこで、シモンが一計を案じるのですが...。

ジル・パリスの原作を、コマ撮り人形アニメで描きました。セリーヌ・シアマが脚色し、短編アニメの実績のあるクロード・バラスが監督しました。アカデミー賞やゴールデングローブ賞などにノミネートされ、セザール賞を受賞していて、評価の高い作品です。孤児院を舞台にした物語はドラマチックな展開はありませんが、淡々と描かれるエピソードから、人間の悲しみや希望が見事に描かれ、そして、子供をいじめたり捨てたりしてはいけないという明確なメッセージを持った映画です。愁嘆場がある映画ではないのですが、私にとっては、ここ10年で一番泣かされた映画になっちゃいました。切ないというか何と言うか、こんなに胸を締め付けられる映画は久しぶりでした。泣ける泣けないは置いといても、見応えのあるオススメできる映画です。66分の映画なんですが、長いエンドクレジットがあって助かったというくらいラストで泣かされてしまいました。

オープニングは屋根裏部屋で、お父さんの絵を描いた凧を揚げているズッキーニの姿が描かれます。このズッキーニという少年ですが、頭がすごくでかくて、さらに目が大きいという、日野日出志の怪奇漫画に出てきそうな結構ブキミなキャラ。この映画に登場するキャラはみんなそんな感じの造形になってまして、かなりとっつきは悪いです。それに、ズッキーニは病的なおどおどキャラで、あまりしゃべらないので、余計めに怖い感じなんですよね。この見た目に馴染んでくると物語に入り込めて、子供たちの物語に泣かされることになります。

孤児の事情は様々ですが、結局は親の都合です。親が死んだり、犯罪者だったり、国外退去させられたり、そんな事情で親と暮らせなくなった子供たちが、フォンテーヌ園にやってくるのです。お互いの事情を知りつつ、あまり深入りしないで、諍いを起こすことがあっても、基本は仲良く日々を送っている子供たちの姿が、人形アニメで生き生きと描かれているのですが、生身の子供が演じていないことで、そのキャラクターが明確に打ち出されてきます。子供が演じているのではないことで逆にリアルに感じられるというのは意外でしたけど、だからこそ、この話を人形アニメで作る意味があり、人形アニメだからこそストレートの胸を打つのだと言えそうです。雪遊びの帰りのバスで、眠っているカミーユにズッキーニがこっそりキスするシーンも素直に微笑ましく胸に響くシーンになっています。

この園には、男先生とロージーという若い女性職員がいて、二人は恋人同士なのか夫婦なのか、とにかく園児のたちの見えるところでキスしたり、いつの間にかロージーのお腹が大きくなってきます。性のことに興味津々な子供たちは、セックスがどんなものなのか話し合ったりして、あれするとおちんちんが爆発するんだぜ、えー大変なんてことを言って喜んでいます。絵を描くのが好きなズッキーニはそういう話も絵にしちゃうところがおかしかったです。また、スキー場に泊まりで雪遊びに行くエピソードもドラマチックな要素はないんですが、子供たちの満たされない孤独をサラリと描いています。親子連れをじっと見つめる子供たちの姿とか、夜、音楽に合わせて踊り子供たちとか、そういうところに何か胸締め付けるものがありました。人間が演じてると思うとそこに共感のフィルターみたいなものがかかるのですが、人形なものだから、その想いがすっと胸に響いてくるって感じ伝わりますかしら。(←言葉足らずで伝わらないのが歯がゆい)

子供たちは自分がこの先どうなるのかという未来像を持てないでいるというところもきちんと描かれます。いや、具体的に描かれるというよりは感じさせるというのが正確かもしれません。この人形たちの細やかな動きから、色々なものを伝えてくるのがすごいって思います。確かに不安もあるけど絶望だけじゃない、それが生きるってことなんだよねって感じが見事でした。ちょっと見はブキミと言っちゃいましたけど、その見た目から伝わってくる感情の動きが見る者の心の琴線に触れるのですよ。これは是非、劇場でご覧になって確認してください。66分でも密度の高い時間を過ごすことができると思います。ラストではっきり示される、子供を捨てちゃいけない、虐待したりしてはいけないというメッセージが心に届けば、それだけでも、この映画を観る意味があります。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



レイモンが週末にズッキーニを引き取りに来た時、彼の車にこっそりカミーユが乗り込みます。レイモンは二人を遊園地に連れていき、彼の家まで連れていくのですが、そこへカミーユの叔母が彼女を強引に連れ帰ります。シモーヌをどこに引き取るかは、判事の判断を仰ぐことになるのですが、シモンがカミーユに録音機を渡しておいて、叔母の言葉を録音して判事の前で披露したので、カミーユは園に居られるようになるのでした。レイモンも一緒に外で食事している時、レイモンはズッキーニに彼とカミーユを引き取りたいと言います。それを隠れて聞いたシモンが荒れちゃうのですが、一人でいるシモンにズッキーニが話しかけると、シモンは「こんな年で里子に出ることはまずないんだから、おれたちのためにもここを出るんだ」と言ってズッキーニを抱きしめるのでした。(泣) そして、二人が園を去る日、みんなで写真を撮ります。その写真はズッキーニの残した凧に貼られることになります。レイモンの家でズッキーニとカミーユは素敵な部屋を与えられます。その部屋でなぜか涙ぐむカミーユ。ズッキーニはシモンたちに絵を手紙を送ります。「誰にも愛されていないなんてことはない。僕はずっとみんなを覚えているよ」。園ではロージーの赤ちゃんが生まれて、彼女と赤ちゃんを、シモン以下子供たちが囲んでいます。「この赤ちゃんがすごく臭くても捨てない?」「銀行強盗になっても?」「警官になっても?」次々に質問を重ねる子供たち。空には、みんなの写った写真の凧が飛んでいるのでした。(大泣)エンドクレジット。

レイモンというやさしい警官との出会いが、ズッキーニに新しい人生を始めさせるのはハッピーエンドなんですが、でも他の子供たちは園に残ることになる、そのあたりの切なさを人形だと愁嘆場にならないで見せることができるのですよね。子供たちの別れのシーンも淡々と見せるだけに余計目に泣かされてしまいました。人生不公平だけど、いいこともあれば悪い事もある、どっちに転んでもみんな頑張って生きてるというのを、こういう形で見せられると、何か切ないというか、自分恵まれてるのかなとか、色々な想いが心の残る映画になりました。ひょっとして、これ、今年のベストワンかも。それほど期待していたわけではないので、その不意打ちにKOされちゃいました。

「ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ」はまず久々のラブコメとして楽しい映画、他にも色々と大盛りで見応えあり。


今回は新作の「ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ」を川崎のTOHOシネマズ川崎6で観てきました。ここは大劇場の作りになっていまして、画面も結構大きいので、こういう小品をこの劇場で観られるのはうれしい限り。でも、シネスコ画面のまま、ビスタサイズの映画を上映するのは、やっぱり減点。

シカゴでスタンダップコメディアンをやってるクメイル(クメイル・ナンジアニ)は、パキスタン出身で、配車サービスの運転手もしています。郊外に住む両親の家によく帰っているのですが、その度にお見合いをさせられています。パキスタン人の両親にとっては、息子がムスリムでパキスタン人の女性とお見合い結婚するのが当たり前なのですが、クメイルはそれを素直に受け入れることができないでいました。そんなある日、彼のステージに茶々を入れてきた女性エミリー(ゾーイ・カザン)と知り合い、即デートでベッドイン。会わない方がいいねなんて言いつつ、二人は恋人関係になります。でも、白人女性と結婚なんて言ったら家族含めて親戚中から縁を切られてしまうクメイルは、そのことを両親に言い出せないでいました。ある日、エミリーがクメイルのお見合い相手の写真の山を見つけて激怒しちゃって、二人は別れてしまうのでした。失意のクメイルですが、それでも彼のステージが評価されて、スタンダップコメディアンの仕事に希望が見えてきます。そんな時、エミリーの友人から電話がかかってきます。彼女が倒れて入院したから、付いていて欲しいと言われて、すぐに病院へ向かうクメイル。エミリーの状況はあまりよくないみたいで、人工的に昏睡状態にして治療することになります。。クメイルはエミリーの両親に連絡をとると、父親テリー(レイ・ロマノ)と母親ベス(ホリー・ハンター)が飛んできます。ベスは、エミリーからクメイルのことを聞いていて、「あんた何でそこにいるの?」状態。それでも、エミリーのそばから離れたくないクメイルですが、昏睡状態の彼女との関係を修復することはできるのでしょうか。

実際に有名なコメディアンであるクメイル・ナンジアニと妻のエミリー・V・ゴードンが、自分たちのなれそめを脚本化し、TVシリーズでの実績のあるマイケル・ショウォルターがメガホンを取りました。アカデミー賞の脚本賞にノミネートされています。パキスタン人のクメイルとアメリカ人のエミリーが出会って恋に落ちるあたりは普通のラブコメかと思わせるのですが、パキスタンの文化と家族観が、二人の障害となって、一度は別れてしまい、さらにエミリーが重病で倒れてしまうという難病ものの展開になるという、一味違う展開になってきます。という評判を聞いて、スクリーンに臨んだのですが、意外やこれがまっとうなラブコメの構成になっていまして、私は素直にラブコメとしてこの映画を楽しんで、ヒロインのかわいさにメロメロになっちゃいました。確かに、異文化カップルという社会性や、世代間の問題、家族の問題とか、色々なネタを盛り込んである映画なのですが、あくまで基本はボーイ・ミーツ・ガールものの、出会い、ラブラブ、別れ、再会という王道の展開になっています。まあ、多少は変化球ではありますが、ラブコメの王道をきちんと押さえて、面白い映画に仕上がっています。最近、公開されることが少ない洋画のラブコメですが、これはまず楽しいラブコメなので、そっちの映画のファンにはオススメしちゃいます。

パキスタン人一家の描き方はステレオタイプなのかなと言う気もしましたが、見合い結婚をするのが当たり前で、恋愛結婚は基本はないみたい。クメイルの両親は、彼が家に帰るたびに、たまたま訪れたパキスタン人女性と同席させ、写真を渡すのですよ。彼の手元には女性の写真の束が残ってしまい、それがエミリーに見つかっちゃって、別れの原因になっちゃうのですが、そのお見合い相手が美人ばかりなのは、ちょっとうらやましい。一方のクメイルは、イスラム教の祈りの時間は地下室に降りて、ゲームで時間をつぶしてるという、信仰心がかなり薄めで、お見合い結婚の乗り気ではありません。でも、親に面と向かって逆らって、お見合いはやめてとは言えません。エミリーと付き合うようになっても、そのことを両親に伝えることができません。ムスリムのパキスタン人以外と結婚なんて話になったら、家族親類みんなから縁を切られちゃうとわかっているから。そこをエミリーに問いただされたときに、クメイルは今どうしたいのかをはっきり言葉にすることができず、彼女に、この先の二人の未来像が見えないと言われて、別れを告げられてしまうのです。ちょっと見には、クメイルは恋愛においてはふがいない男に見えますが、彼にとって、恋愛も大事ですが、家族も大事なのです。どちらかを選べと言われても、即答できないのはわかるような気がします。それだけ、クメイルは誠実な人間なのですが、エミリーからすれば、未来のない関係は続けられないし、そんな状況を黙っていたクメイルが不誠実な人間に見えちゃうのもまた仕方ない。男女の仲ってのは、相性だけじゃうまくいかないんだなってという一つの形を見せて、結構これが説得力あるのですよ。その障害となっているのは、確かに文化と価値観の違いなので、やっぱり異文化恋愛ってのは、それだけで不利なんだなあって。

そして、別れた二人にさらなる不幸が訪れます。それが彼女の病気、何か細菌が肺から腎臓まで感染しているというのです。症状を安定させるために、人工的に昏睡状態にされたエミリーですが、なかなか原因を特定することができません。彼女の両親が駆けつけるのですが、それまでの経緯を知ってる両親、特に母親は、クメイルに礼を言うのもそこそこに、とっとと帰ってと言い切ります。それでも、父親が何となくとりなして、クメイルはエミリーのそばにいられるようになります。そして、クメイルとエミリーの両親がだんだんと和解していくのをオフビートな笑いも加えて、丁寧に見せていきます。クメイルとエミリーとの出会いからラブラブになるまでをテンポよく見せたショウォルターの演出ですが、この両親との和解はじっくりと描いていて、ドラマの中でもかなり重きを置いたバートになっています。その結果、あまりうまくいってないテリーとベスの夫婦が和解していくドラマも浮き上がりました。難病映画の展開になると思いきや、それを看取る家族と恋人のドラマになっているのは脚本のうまさでしょう。

果たして彼女は回復するのか、そして二人に愛は戻るのかって、実録ものなので結果は見えているのですが、そこまでの紆余曲折は、へえって感心させるところが多く、うれしいラストの締めまで楽しめる映画に仕上がっています。クメイルは自分のことを自分で書いて演じているのですから、大した面の皮だと思うのですが、ドラマの中の誠実さゆえに悩んだり頑張ったりするのを嫌みなく見せているのはお見事でした。エミリーを演じたゾーイ・カザンは他の映画でも観ている筈なんですが、あんまり印象がなかったのが、この映画ではものすごくかわいいヒロインになっていて、惚れ惚れ。演出のうまさなのでしょうけど、よく見ると普通のキャラのヒロインがこうも輝いて見えるんだなあって感心。両親を演じたホリー・ハンターとレイ・ロマノは、ドラマのかなりのパートを占めるのですが、危機的な中年カップルと、瀕死の娘を持った両親という両方の顔をきっちり演じてドラマに深みを出しています。また、クメイルの仕事である、スタンダップコメディアンの同僚の面々がリアルに感じられたのは、やはり本職のクメイルだからこそ書き込めるところがあったのかも。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(ま、ハッピーエンドですけど。)



明日、手術ということになった夜、クメイルは、エミリーの両親を彼女の部屋へ連れて行くのですが、父親が彼の舞台を観たいと言い出し、仕方なくクメイルは二人を劇場へ連れていきます。しかし、クメイルの舞台で、客が「ISISへ帰れ」とヤジを飛ばしたことで、エミリーの母親がその客と喧嘩を始めてしまって大変。でも、それをきっかけにクメイルと母親との間のわだかまりが消えていくのでした。しかし、その夜、クメイルの実家ではお見合いがセッティングがされていて、それをすっぽかしたものだから今度は、クメイルの両親がご立腹状態。彼のアパートまで訪ねてくるのですが、そこで自分の気持ちをぶちまけた息子に特に母親が怒り爆発、勘当を言い渡されちゃいます。一方、手術を終えたエミリーですが、病状が安定しません。しかし、クメイルの言葉がヒントになって、彼女の病名が判明、抗炎症剤を投与することで意識が回復し、両親もクメイルも大喜び、しかし、再度、やり直そうと言うクメイルにそんな気になれないというエミリー。そんな彼女も昏睡中の彼のことをYouTubeなどから知り、ワンマンライブの後の彼を訪ねます。でも、その時、クメイルは他のコメディアン仲間と一緒にニューヨークへ行くことを既に決めていたのでした。そして、ニューヨークの舞台に立つクメイルにヤジを入れる声がすると、それはエミリーでした。そのヤジにジョークで応戦するクメイル。エミリーのアップから暗転、本物のクメイルとエミリーの写真が映ってエンドクレジット。

後半、二人の気持ちが交錯して、かなりややこしい展開になり、さらにここにエミリーの両親の仲直りストーリーまで入ってくるので、かなり盛り沢山の内容になるのですが、ショウォルターの演出はそこを手際よくさばいて、ラストでエミリーの満面の笑みを見せることで、きれいにハッピーエンドを決めました。全部を本当の話だとは思わないですが、それを置いといても、クメイルとエミリーの気持ちの揺れが見事にすれ違ってしまうあたりのもどかしさは、私にはすごくリアルに感じられて、どう落とし前をつけるのかと思っていたのですが、ニューヨークにヒロインを連れてきちゃうという荒業のハッピーエンドに持ち込むあたりは、うーん、やられたって感じでした。また、ドラマ的に未解決だった、クメイルと彼の両親の関係ですが、エンドクレジットで、クメイルとエミリーがパキスタン式の結婚式を挙げていて、両親も映っている写真を見せて、全て丸く収めてしまうという、ちからわざで、映画としてきっちり完結させました。

クメイルの実家の描写にステレオタイプ感を感じてしまったのは事実ですが、そこで結構笑いを取って、カルチャーギャップネタのコメディという部分では成功しています。父親と母親の想いもきちんと描いていて、全ての登場人物の言い分がちゃんと伝わってきたというところは、人間ドラマとしての点数高いです。最後で、そんなこんながありましたけど、今はちゃっかり幸せでーすというあっけらかんとした結末も笑えるハッピーエンドになっています。そういう意味で、色々な人の文化や感情を丁寧にすくい上げてドラマに盛り込んでいった一方で、王道のラブコメをきっちり見せるという采配のうまさが光る一編として、どなたにもオススメできる映画になっています。毒にも薬にもならないラブコメとして楽しむもよし、男女の気持ちのすれ違いのメロドラマを堪能するもよし、異文化恋愛のサンプルとして勉強するのもありと、色々な楽しみ方ができると思います。

「ロング、ロングバケーション」はアメリカを舞台にしたイタリア映画でちょっと変わった味わい。


今回は新作の「ロング,ロングバケーション」を、川崎のTOHOシネマズ川崎4で観てきました。あまり宣伝もされてないしどういう映画なのか不安もあったのですが、キャスティングに興味あってスクリーンに臨みました。

母親の入院のために実家を訪れたウィル(クリスチャン・マッケイ)は、両親が昔のキャンピングカーと共にいなくなっているのにびっくり。姉のジェーン(シャネル・モロニー)に連絡します。母親のエラ(ヘレン・ミレン)と父親のジョン(ドナルド・サザーランド)は二人きりの旅行に出かけたみたい。でも、ジョンはアルツハイマーで日に日に記憶が薄れていく状況だし、エラもカツラを被っているところをみると抗がん剤をやってるみたい。そんなあぶなっかしい二人で大丈夫なのかと思うのですが、それなりに会話も成立してるし、変なところの記憶が残っているジョンは、エラの元彼にものすごくこだわったり、教授だった頃の研究対象であるヘミングウェイのことをダイナーのウエイトレスに語りまくったり、ほんの一瞬、十数秒だけ、元のジョンに戻ったり。そんな夫に憎まれ口を叩きながらも、二人はキャンプ場に車を停めて、昔の写真をスライド上映して、かつての日々を懐かしむのでした。

ダンナがアルツハイマーで、奥さんがガンで、そんなカップルが二人でキャンピングカーで旅に出るというお話です。マイケル・ザドリアンの原作をもとに、イタリアの「人間の値打ち」のステファン・アミドン、「歓びのトスカーナ」のフランチェスカ・アルキプージ、「ローマ法王の休日」のフランチェスコ・ピッコロに、「人間の値打ち」のパオロ・ヴィルズィの4人で脚本化して、ヴィルズィがメガホンを取りました。アメリカを舞台に、英、加の名優が主演したイタリア映画ということになります。使う言葉も勿論英語です。でも、どことなくアメリカ映画の雰囲気とは別な感じがしたのは、脚本と監督がイタリア人だからでしょうか。ちなみに原作者はアメリカ人なので、基本ストーリーはアメリカベースの筈なんですけどね。

日本人の感覚からすれば、アルツハイマーのじいさんにキャンピングカーを運転させるなんてとんでもないって話になるんですが、この映画はその危険性を前面に出してこないのは、車ありきの社会だからかなって納得しちゃいました。奥さんのエラはしゃんとしているのですが、二人とも食事の度に薬が欠かせません。アメリカだと、あちこちにキャンプ場があって、キャンピングカーを停められる場所が結構あるようで、夜はそこに車を停めて、二人で昔の写真をスクリーンに映写して、語り合うのですが、ジョンは自分の記憶がどんどん失われていることに自覚があって、エラに謝ってばかり。息子や娘の顔や名前を忘れているのに、妻の元彼にこだわったりとやっぱり言ってることが普通じゃありません。身近にアルツハイマーの人がいないので、実際のところよくわからないのですが、人格も行ったり来たりするという見せ方で、ずっと一緒にいる人は大変だよなあって気になります。そんな状況で、ジョンの場合、ずっと愛し合って連れ添ったエラがそばにいるってのは、病気だとは言え、幸せなことなんだなあって気がしました。愛情がないと一緒にいられないよなあって思いますもの。エラは、そんなジョンとの旅行を楽しんでいるようにも見えます。お互いに病気を抱えても、夫婦仲良くいられるのはうらやましい限りと、独身オヤジは思ってしまうのですが、既婚者の方からすれば、こんなジョンとエラみたいな夫婦、現実にはいねえよって言われるかも。

まあ夫婦の機微は私には未知の世界なんですが、その子供たちの関係には、ちょっと考えさせられることがありました。姉のジェーンは子供の頃から優秀で、実家から離れて大学教授をしている自慢の娘、一方の弟のウィルは勉強もできないし仕事もぱっとしないけど、両親の近くに住んでいて、何かあると彼が駆けつけて面倒みたりしています。でも、母親が倒れたとき「ジェーンには伝えないで、あの子は大変なんだから」と言われたりして、何か扱いが違うって感じ。何だかフェアじゃないって感じをウィルがジェーンに愚痴るシーンがあって、ああなんとなくそれわかるって共感しちゃいました。遠くの自慢の娘と近くのドラ息子の関係って、親が意識してないけど、不公平に扱われることあるよなあって思いますもの。全然、本筋とは関係ないエピソードなんだけど、夫婦関係が満点でも親子のことまで全部OKとは限らないんだよなあって、納得するとともに、人生、全てを丸く収めることなんてできないってところをさらりと見せていて印象的でした。

基本的にはコミカルな味わいなのですが、「人間の値打ち」のパオロ・ヴィルズィの演出は今ひとつカラリとした感じになりません。どこか奥歯にものが挟まったような感じがするのは、この旅行はどこへ行きたいのかがはっきりしないことがあります。ジョンは半分ボケちゃってるので、旅行のプランを考えているようにも見えないですし、結局、ダンナに昔の写真をスクリーンに映して、ボケから脱出させようとしているのかなんて深読みもできてしまうのですが、途中でエラが倒れてしまうと果たして映画が着地できるのか不安になってきます。その一方で、ヘレン・ミレンとドナルド・サザーランドがテンション上げ過ぎないで自然に老カップルを演じていて、その細やかなな演技を堪能することができます。サザーランドってもっと大芝居をする人のイメージがあったのですが、役のキャラとは言え、この枯れた感じがなかなかいいのですよ。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ジョンが、ガソリンスタンドでエラを乗せ忘れたまま発車しちゃったり、ヘミングウェイの話をウエイトレスにくどくどとしていたら、ウエイトレスが大学でヘミングウェイを専攻していたとか、笑いのシーンも織り交ぜながら、二人はヘミングウェイの生家へと向かいます。行ってみれば観光地化されてて、ちょっとイメージが違うとがっかり。それでも、あちこち見て回っているうちにエラが倒れて病院に収容されます。調べてみたら体中にガンが転移していて生きているのが不思議なくらい。妻の名前を忘れて立ち往生したジョンも何とか病院に駆けつけ、二人は病院を抜け出します。そして、キャンピングカーに戻ると、エラはいつも多くの薬をジョンに与え、書いておいた遺書を読み返し、車の排気ガスを車内に送り込むと自分も薬を飲んで、ベッドに横たわるのでした。翌日、煙を吹いてるキャンピングカーを隣の人が見つけます。そして、二人の葬儀のシーンでおしまい。

ああ、そういう旅だったのかとラストでわかるのですが、いつでもそっちへ転んでもおかしくない状況で、最後にその時期を見極めたエラは、二人の人生に終止符を打ちます。まあ、それまでの二人が幸せそうだからいいようなものの、設定だけ見れば「愛、アムール」と同じですからね。悲劇と喜劇は紙一重というか、同じ物語を違う角度から見ればこうなるのか、ともかくも、「愛、アムール」と比べると雰囲気は真逆だけに、その違いについて考えさせられてしまいました。監督も主演者もこの結末に肯定的だったそうですが、エラがもっと悲観的な状態で、心中したとしたら、二人の人生はどう受け取られたのかなって考えてしまいました。幸せというのは、あくまで主観でしかないのだとすれば、この映画が幸せな愛の結末とするなら、「愛、アムール」も同じじゃないかという気がしてきました。この2本並べて観ると面白いかも、と言いつつ、「愛、アムール」は後味どんより系なので、この映画の印象も変わっちゃうかもしれなくて、オススメはできません。というのも、「愛、アムール」を観ると、エラが勝手に死を選んだだけで、ジョンが望んだわけじゃないってことに気づいちゃうんですよ。この映画、いい話なのかどうかは当事者にゆだねるしかなくって、周囲の人間がとやかく言えないなあって。

「ローズの秘密の頁」はひたすら気の毒な女性の人生を丁寧にきっちり作って見応えもあります。


今回は新作の「ローズの秘密の頁」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町で観てきました。有楽町駅から2分という立地のよい映画館でいつもお客さんで混雑している映画館ですが、ここで上映される映画は要チェックのものが多くて映画ファンの満足度の高い映画館。

舞台はアイルランドの取り壊し寸前の精神病院。転院するある患者の再診のために、教会から依頼された精神科医のスティーブン(エリック・バナ)が送り込まれてきます。その患者は、もう40年もその病院に収容されているローズ(ヴァネッサ・レッドグレーブ)という老女で、彼女は生まれたばかりの自分の子供を殺したという理由で入院させられていたのでした。彼女は自分についての記録を聖書に書き留めていました。彼女は聖書を見ながら、スティーブンと看護婦(スーザン・リンチ)の前で、自分の過去を語り始めます。1942年、両親を失ったローズ(ルーニー・マーラ)は、叔母を頼ってアイルランドの田舎へ引っ越してきます。そこは保守的な空気が強く、反英意識も強い土地柄でした。若くて美しいローズは男性の目を惹きますが、彼女は英軍の義勇兵となるマイケル(ジャック・レイナー)に惹かれるようになります。しかし、親英的なマイケルと口を聞いただけで町の人間から目をつけれられるローズ。ゴーント神父(テオ・ジェームズ)も彼女に惹かれたようでやたらとつきまとうようになり、これまた町の噂になっちゃいます。ダンスパーティで、神父を交えたトラブルを起こしてしまい、ローズは家を追い出され、山の中の一軒家で暮らす羽目になっちゃいます。そんなある日、町の上空で空中戦があって戦闘機が山の中に不時着します。ローズは木にぶら下がっていた操縦士を助けるとそれはマイケルでした。彼を探す、街のIRAのメンバーから、彼をかくまい、怪我の手当をするローズ。そこへローズを家政婦に迎えたいとやってきたゴーント神父は、マイケルと対面してショックを受けます。ローズとマイケルは結ばれ、プロテスタントの教会で結婚式を挙げます。しかし、幸せはほんの一瞬で、追ってきたIRAのメンバーから、マイケルを逃がすと、ローズは精神病院へ収容されてしまいます。しかし、既に彼女はマイケルの子供を身ごもっていたのでした。

セバスチャン・バリーの小説を原作に、「父の祈りを」「イン・アメリカ」のジム・シェリダンとジョニー・ファーガソンが共同で脚本化し、シェリダンがメガホンを取りました。先日、テレビで何十年も精神病院に隔離されていた人のドキュメンタリーを観たばかりだったので、どこの国にもそんな話があるんだなって感じでスクリーンに臨みました。こっちはフィクションですから、40年も精神病院に閉じ込められた人がいたかどうかはわからないのですが、似たようなことはあったのかなと思わせるところがありました。舞台となる第二次大戦中のアイルランドの事情がわからないと伝わらないものがあって、IRAとカソリック教会が悪役みたいになっちゃってるのは、どう受け止めていいのか困っちゃうところがありました。映画に、当時のIRAやカソリック教会を批判したい気持ちはなさそうなのですが、当時の差別的な活動とか、封建的な空気を作っていたというのはあったんだろうなあくらいの見せ方になっています。そんな中で、横恋慕野郎のゴーント神父だけは、明確にストーカーであり、ヒロインの人生を救えなかったクズみたいな描き方になっています。それとも、向こうの人にしてみれば、ゴーント神父の行動には、神父だからこその同情の余地があったのかしら。そのあたりは、日本人の私の感覚では読み切れないところがありました。

ローズと言う女性は、アイルランドの田舎町ではよそ者であり、封建的な町とは違う空気を吸ってきた女性として描かれています。自由な空気の中にいた彼女は、新しい居場所では異端者として差別の目で見られることになっちゃいます。「女は男の目を直接見るんじゃない」ということを神父が言う土地柄で、英国人にも酒を売る酒屋のマイケルと口を聞いただけで「お前はどっちにつくのか」とIRAの男に脅されちゃったりして、ローズはこの土地の文化に馴染めていないことがわかってきます。特に、ゴーント神父がローズを気に入ってしまい、やたらと彼女の前に姿を現すようになって、それがまるでローズが悪いような噂が立ってしまうのでは、やってられないよなあ。映画のほとんどが、保守的で男尊女卑の文化に振り回されるヒロインのかわいそうなお話でして、時代のせいとは言い切れない、ひどい展開はかなり引いてしまうところがありました。そもそも、40年も精神病院に収容されてるってのが悲劇なんですが、その前も十分悲劇じゃん。まあ、昔から救いのないかわいそうな人生を送った女性の話とかありましたから、それが悪いわけではないけど、観て楽しいものではないです。

そんなひたすらかわいそうなお話なんですが、それでも観ていられるのは、ジム・シェリダンの語りのうまさによるところが大きいと思います。また、ルーニー・マーラとヴァネッサ・レッドグレーブが手堅い演技でドラマを引っ張っていくところもあり、さらに彼女の本当に自分の子供を殺したのかどうかというところが、ミステリーの興味として、観客を画面につなぎとめています。ヒロインはマイケルのことをずっと愛し続けるのですが、町の男の多くが美しいローズに惹かれるのですよ。それが、彼女のせいだとみんなから噂され、かなわぬ恋のゴーント神父は、書類に彼女は色情狂だなんて書くのですから、男の嫉妬と自己正当化ってすごいよねというお話でもあります。モーションかけて、振られたら、お前は男を狂わせる色情狂だなんてレッテルを貼って、精神病院送りにしちゃう。町で信頼と権力を持った神父に目をつけられて、ひどい目に遭うというのは、考えてみれば、男が神父でなくても、やくざでも政治家でも権力者なら同じなんだなあって気づくと、宗教の持つ力ってのは、暴力や金の力と同じくらい悪い事をしでかすんだなって納得しちゃいました。宗教ってなまじ慈善とかいい事もしているだけに、悪い方へ転んだ時に誰も批判できないってところがまた怖いよねえという映画なのかな。(← 多分違います。)

マイケルと引き離され、神父と叔母がサインしたことで、ローズは精神病院へ収容させられてしまいます。どんどんお腹が大きくなっていくローズは教会の施設へ移されます。そこには同じように大きなお腹の女性がいっぱいいて、生まれた子供は親から引き離され運が良ければ里親が見つかり、見つからなければ、教会で一生を送ることになるんですって。同じような境遇の女性はローズに、自分の子供にアメリカの里親が見つかればいいなと言います。ここで子供を産んでも一緒に暮らせないことを悟ったローズは、隙を見て施設を脱走し、マイケルとの思い出の地へ向かうために海を泳いで渡ります。渡った先の海岸で産気づくローズ。そして、警官とゴーント神父も小舟で後を追うのですが、その後のローズの記憶は曖昧になり、気づいたときは病院のベッドで、彼女が自分の子供を殺したことになっていたのでした。

ジム・シェリダンの演出は、本当に彼女が自分の子供を殺したのかという謎とそのヒントを小出しにしながら、ひたすら気の毒な話でも、観客をうまく引っ張っていくことに成功しています。また、ヒロインを囲む男性陣、ジャック・レイナー、テオ・ジェームズ、エリック・バナといった面々が控えめにヒロインを引き立てているのが好印象でした。権力を持った横恋慕男をあまり際立た過ぎない悪役として演じ切ったテオ・ジェームズのうまさが光りました。また、老ローズの告白に付き合う看護師役のスーザン・リンチが存在感を見せて印象に残りました。なぜ、彼女の存在感が大きかったのかは後半にわかるのですが、なるほどその采配でも、シェリダンの演出が光りました。ミハイル・クリチマンの撮影は、精神病院といった室内の絵作りにうまさを見せて、ドラマにめりはりをつけています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



医師のスティーブンは、自分の両親の別荘を売り払う段取りをしていたところへ、教会の大司教の指名で、この仕事を依頼されていました。ローズの話を聞いているうちに、看護師がひょっとしてローズの子供は生きているのではないかと思い始めます。そして、その疑いは、スティーブンの誕生日とローズの記録にある出産日がほぼ同じであることから、確信へと変わり、スティーブン自身もそのことに気づきます。父母の別荘を調べなおす、物置にあった缶の中から、自分宛の父母からの手紙を見つけるのでした。マイケルはIRAのメンバーによって殺されていました。そして、ローズのもとにスティーブンを送り込んだ大司教とは、あのゴーント神父だったのです。ローズは強制転院されるところでしたが、駆け付けたスティーブンが自分の過去が書かれた手紙と、マイケルの遺品の十字架を渡し、病院を退院することができるのでした。息子と一緒にマイケルとの思い出の浜辺を歩くローズの姿から暗転、エンドクレジット。

映画の中盤から、看護師とスティーブンの会話が挿入され、彼の過去がドラマに関係あるのかと思わせるので、あ、こいつがローズの息子じゃないかという気がしてくると、どんどんその空気が濃くなってくるという見せ方はうまいと思いました。また、ドラマの目撃者的ポジションであったスティーブンが当事者になってくることで、看護師の方が事件の目撃者にスライドしてくるという展開もうまく、結局、看護師が観客の立場に立つことになるという構成は成功しています。変にどんでん返しにしなかった演出のセンスは買いです。

と、ささやかにハッピーエンドになるわけですが、結局、精神病院で40年過ごしたローズの人生は取り返しがつかないわけでして、教会ってひどいことするよねえってお話でした。何ていうのかな、一度間違っちゃうと、謝って訂正できないから、ムチャを強引に通しちゃうという権力側の思考がそのまんま出ちゃったという感じのゴーント神父は、よくある役人タイプの人間なんだけど、一度は惚れた女の人生をそこまで踏みにじるのか、そこに情はないのかって思っちゃいます。勧善懲悪でもないし、正義が実行されるお話でもない、ただのかわいそうな女性の半生なので、心底楽しめる映画ではないのですが、ドラマとしてよくできてるのは認めざるを得ません。でも、神の愛は語っても、人の情はないんだなあ、宗教ってのは。

「ロープ 戦場の生命線」は戦争サスペンスじゃない、NGOの日々を淡々と見せる人間ドラマとして見応えあり。


今回は新作の「ロープ 戦場の生命線」を川崎の川崎チネチッタ9で観てきました。ここは中規模クラスのシネコン型の映画館で、シネスコサイズの時は上下に画面が縮むことになります。

1995年のヴァルカン半島の山岳地帯、井戸に死体が投げ込まれ使えなくなってしまったので、「国境なき水と衛生管理団」のマンブルク(ベネシオ・デル・ドロ)とダミール(フェジャ・ストゥカン)が引き上げようとしていたのですが、途中でロープが切れてしまいます。他の井戸へ行くには地雷があって危険な環境でもあり、同じく職員のビー(ティム・ロビンス)と新人職員ソフィ(メラニー・ティエリー)にロープの調達を依頼します。マンブルクは、国連軍の基地へ向かう途中、銃を持った子供たちにボールを奪われた少年ニコラを車に乗せ送っていくことになります。途中で、水をバケツ1杯6ドルで売ってるトラックと遭遇、井戸に死体を投げ込んだのもこういう連中なのかも。国連軍の基地では、死体除去の協力を得られなかったビーとソフィは現地視察の係官カティヤ(オルガ・キュリレンコ)も乗せてビーと合流しようとしますが、ビーたちは、ロープを入手できないでいました。ニコラが自分が住んでいた家にロープがあると言い出し、彼の家に向かうのですが、そのロープは猛犬をつないであるロープでした。さて、マンブルクたちは井戸の死体を引き上げることはできるのでしょうか。

スペインでドキュメンタリー映画で受賞実績のあるフェルナンド・レオン・デ・アラノアが、パウラ・ファリアスの原作をもとに、ディエゴ・ファリアスの協力を得て脚本化し、メガホンを取ったドラマです。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が一応の停戦協定を得たものの、まだ紛争を鎮静化していない頃のお話のようで、国連軍は、各地の管理を現地機関へ戻していく過程にあり、一方で、治安は安定せず、現地の軍隊の軍事行動は継続していました。一方で国際NGOの活動も行われていて、マンブルクのような人間が、一般住民や難民キャンプの人々のために、命の危険と隣りあわせの状況で頑張っていました。原題は「A Perfect Day」で、最高の日くらいの意味になるのでしょうか。邦題の「ロープ」という題名からは、ヒチコックの同題名の映画を思い起こさせますし、死体から始まるというお話は、サスペンスものかという予感があったのですが、そういう映画ではありません。住民のために頑張るNGOの活動の日々を描いたもので、その語り口はドラマチックというよりは、淡々とリアル。冗談ばかり言い合っているコミカルなシーンと、地雷にあたらないためには、右と左、どっちへいくべきかという生死を賭けた決断が、隣りあわせの日々を描いていて、描き方はライトだけど、個人的にはかなり怖い映画でした。

マンブルクには恋人がいるんですが、カティヤとも付き合っていたことがあり、久しぶりに再会した二人に男女の情がほのかによみがえってきます。ビーはジョークを言い続けていて、面倒くさそうな男です。ビーは若くて正義感が強いのですが、現実の戦争の中ではその正義感が浮き気味です。ダミールは現地人で通訳なのですが、そんな彼にも山岳地帯のユーモアセンスにはついていけないとこぼします。カティヤはNGO活動の分析官という立場で、「国境なき水と衛生管理団」の活動を報告する立場のようで、彼女の報告次第では、マンブルクたちは帰国させられちゃうかもしれないのですが、彼らはそれは望んでいません。ニコルの父母は、紛争を避けるために、彼を祖父に預けて避難しています。そんな人間関係の中で、井戸から死体を運び出すためのロープを探す話がメインとなります。

ちょっと道を外れると地雷があるという環境に多くの人が住んで生活しているというのが、自分の中では呑み込みきれないところがありまして、さらにそこへ自ら進んで出かけて、住民のために活動する人々がいるってのも、自分の理解を超えるところがありまして、「へえー、すごい」としか形容できないのが情けないです。現地のおばあちゃんは、牛に前方を歩かせてその後を進むというやり方で、地雷原と共存してるのですが、それってすご過ぎる以上の表現ができないです。自分の想像力とボキャブラリーの貧困さを思い知らされる映画でもありました。「国境なき水と衛生管理団」の車に、武器を持っていないというマークが貼ってあるんですが、それってヤバくない?って思ってしまうのは、私が向こうの事情をよく知らないってことなんでしょうね、きっと。

映画の中で、廃墟になっちゃってる町が出てくるのですが、そこには昔は都市としての機能があったんだなと思わせる見せ方は痛々しいものを感じます。昔、炭鉱で栄えた町の跡も同じようなところがあるのでしょうけど、この映画に出てくる街は、戦争によって住民と機能が失われたと思うと胸が痛むものがあります。そこに多くの人が住んで活動していたと思しきビルや鉄道が草ぼうぼうの廃墟化しているシーンはそれだけで、戦争の怖さを伝えてきます。さらに、この紛争では、隣人が異人種ということで、殺人、破壊の対象となったことも語られます。それまで、隣人として付き合ってきた人間が人種宗教によって殺戮する/される対象になった結果、街が廃墟になっていくという怖さも伝わってきます。ニコラという少年がボールをいじめっ子に取られているところにマンブルクが出くわすのですが、注意しようとすると向こうが銃を取り出すのにはかなりびっくり。海の向こうで、子供が兵士にされちゃうと言う話を聞くことがあるのですが、マンブルクのようなアメリカの一般市民がそういう状況に遭遇すると、自分との地続き感が半端ないです。

また、マンブルクたちのよかれという行動が報われない状況も描かれ、命の危険を冒してまでやったことが無に帰してしまう苦さは、冗談で笑い飛ばして忘れるしかないよなあって気になります。それでも、彼らのモチベーションが落ちないというのは、その仕事に彼らを惹きつける何かがあるからなのでしょう。そこが理解できない自分は「偉いなあ」くらいの感想しか持てないのですが、単なるボランティア感覚で、あんな目に遭ってたらやっていけないよなあ。(やっぱり、私の想像力は貧しいなあ。)でも、アラノア監督の演出は、常に命の危険をはらんだ日常を淡々と描くことで、彼らを惹きつける何かを感じさせることに成功していると思います。サスペンスで引っ張る映画ではないのですが、軽口が飛び交う中に常に流れる緊張感に、私は結構ハラハラしましたし、そういう日常を受け入れざるを得ない人々がいることを知るという発見もありました。

また、一方で、国連軍側のお役所仕事に対する批判的な視線もあります。お役所仕事に徹しないと、ローカルないざこざに巻き込まれてしまう、巻き込まれたら戦闘行為につながるから、距離を置かなければいけないし、回避できるゴタゴタは避けたい気持ちも理解できるし、国連軍目線でも考えさせられるところが多かったです。特に戦闘状態が終わったと判断された以降は、住民に自治権を速やかに戻さなくてならないということもわかるけど、その結果もたらされるホロ苦さを描いている点も見事な映画でした。マンブルクたちをヒーローにしていないことで、逆に人間としての彼らの魅力が引き立ってくるという見せ方も見事で、お話としてはシンプルだけど、様々な視点や要素を取り込んだ映画になっています。

ベネシオ・デル・トロ、ティム・ロビンス、オルガ・キュリレンコといった知った顔が登場するので、作りとしては普通の映画です。演技陣が地味だけど達者で、かつ会話のコミカルなやりとりもあって、映画の口当たりは娯楽映画と変わりません。特に儲け役とは言え、真面目でタフでかわいいメラニー・ティエリーが印象的でした。描写に尖った部分もありませんし、現実を糾弾することも、大声で嘆くシーンもない映画は、ある意味、お気楽に観られる映画でして、そんな大人しめのタッチの中にハードな現実をわかりやすく散りばめたうまさは、オススメ度が高いです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ニコラの住んでいた家で、ボールを探していたマンブルクとソフィは、隣人によって破壊された部屋と、吊るし首にされたニコラの両親を見つけます。犬のロープよりも長い、吊るし首のロープを持ち帰ります。帰り道の途中には牛が転がされていました。迂回するか牛を乗り越えるか、間違えたら地雷が爆発するという状況で、車で一夜を明かすことになる一同。早朝、牛飼いのおばあさんが通るのを見て、その後をついていって地雷を迂回することに成功します。井戸の中の死体を運び出そうとするのですが、国連軍がやってきて、ここはもう戦闘地域じゃないから、部外者は死体を動かすこともできないとロープを切って行ってしまいます。一方、ニコラはせっかくマンブルクが取ってきたボールを、他の若者たちに10ドルで売ってしまいます。マンブルクが問い詰めると、後10ドルあれば友人の口利きで、両親に会いに行けるからと答えるニコラ。そこで、マンブルクはベルトに隠した虎の子の100ドルを渡して、祖父と一緒に行けというのでした。そして、再び、車を走らせるマンブルクたち。そこへ基地から連絡があり、難民キャンプのトイレの排水口が詰まって大変なことになってるから、すぐに向かってくれと連絡が入ります。「最高の日だね」というソフィに、「雨が降ってくると最悪だけど」と言うビー。すると、そこへ大雨が降ってくるのでした。おしまい。

雨が降り出した後、それまでの登場人物が雨の中でどうしているかというのがスケッチ風に描かれます。そして、死体のあった井戸は溢れた水で死体が浮きあがり、住民たちは死体を取り出すことに成功します。良くも悪く積み重なる日々をこなしていかなければいけないという、普通のことがすごく大変なんだという状況を描いていてそこそこヘビーでもあるのですが、軽口叩きながら、仕事へ向かうマンブルクたちによって、明るさと救いがもたらされるので、映画の後味は悪くありません。観終わって、じわじわとくるものがある映画という感じでしょうか。

「アバウト・レイ」はLGBTを扱ったホームドラマの小品としてオススメ。


今回は新作の「アバウト・レイ」を109シネマズ川崎8で観てきました。ここは座席配置とスクリーンの中心がずれていて、真ん中の座席がスクリーン中央にならないので、座席予約時は要注意の映画館です。

シングルマザーのマギー(ナオミ・ワッツ)は、母親ドリー(スーザン・サランドン)の家に、娘のラモーナ(エル・ファニング)と一緒に居候状態。ドリーはレズビアンでパートナーのフラニー(リンダ・エモンド)も一緒に暮らしています。16歳のラモーナは性同一性障害で、心は男で、周囲には自分をレイと呼ばせ、体も男になるためのホルモン治療を希望していました。しかし、未成年のレイがその治療を受けるためには、両親の承認のサインが必要で、マギーは元夫のクレイグ(テイト・ドノヴァン)からサインをもらう必要がありました。でも、そもそも自分自身が、レイのホルモン治療を認めることに躊躇していて、彼女自身がサインできない状態。レイからそのことを指摘されて、ドリーからも元夫がサイン拒否することを期待しているでしょと言われて、困ってしまいます。ドリーは、もう10年も没交渉になっていたクレイグに会いに出かけるのですが、クレイグは突然の話にびっくり、急に言われても情報もないし、判断できないと拒否されて、すごすごと帰ってきます。既に新しい妻と子供のいるクレイグには、マギーと子供の厄介ごとは迷惑みたいにも見えるのですが、そこにはそれだけの事情があったのでした。

ニコル・ベックウィズとゲイビー・デラルの書いた脚本を、デラルが演出した、今時のホームドラマの一編です。ゲイとかレズビアンという言葉が一般化したと思っていたら、最近また、LGBTなる言葉が出てきて、何のこっちゃと思っていたのですが、L(レズビアン:女性同性愛者)G(ゲイ:男性同性愛者)B(バイセクシャル:両性愛者)T(トランスジェンダー:性同一性障害などの心体性不一致)のことだと知って、へえー、色々と区別があるんだねーと感心。というより、性的マイノリティの総称らしいのですよ。ですから、ゲイ差別とかレズ差別とか、その単語にこだわり出すと面倒くさいから、性的マイノリティの略称として、全部ひっくるめましたってことみたいです。これは、性格とか性癖とは違うものらしいので、ロリコンとかマザコンよりは市民権のある言葉のようです。そのうち、世間に害を及ぼさないロリコンとかマザコンも性癖マイノリティとして一括りにされる日が来るのかしら。そんな先の話はともかく、これまでコミュニティの中で差別されてきたLBGTを、差別の対象にしてはいけないということが公的に認められるようになってきたのが最近の歴史と言うことになりましょう。公的な権利を勝ち取るためには差別する側に権利を認めさせる闘いがあり、その闘いのドラマとして活動家ハーヴェイ・ミルクを描いた「ミルク」なんて映画がありました。そういう意味では、これまでの性的マイノリティを描いた映画は、差別され虐げられる弱者という描き方が多く、弱者が闘って権利を勝ち取ったり、強くなって人生に向き合っていくといった社会的な視点を持った映画多かったように思います。「ムーンライト」なんか、ゲイの恋愛感情を比較的まっとうなドラマとして描いてましたけど、学校でゲイが理由でいじめられてたりして、そこには弱者として闘いの構図がありました。

で、この映画なんですが、娘が性同一性障害という性的マイノリティだったというのを、あくまで家庭の事情として描いたホームドラマなのですよ。ホームドラマの上に乗っかる事件の一つとしての性同一性障害という扱いになってます。会話の中には、支援団体とかグループミーティングといった言葉は登場するのですが、そういったものが実際に画面に出てくることはなく、娘が性同一性障害だった家庭の事情のみが描かれます。LGBTを扱った映画でも、社会的な視点を一切オミットした形のドラマで描くことができるようになった、それだけ、社会との軋轢が少なくなってきたのかなと思わせる内容になっています。社会的には、認知されたLGBTが、今度はより繊細な家庭の中の問題として描けるようになったということは、社会の成熟があったのかなという気がします。この映画の舞台であるニューヨークでは、そんな感じになってきているのかなというのが、ちょっとした発見でした。そもそも、ホルモン治療によって、性同一性障害が克服できるようになったという医学の進歩も大きいのでしょう。16歳の子供でも、そういう治療を受けるようになったというのはすごいことだと思います。私の身近に性同一性障害の人はいないので、正直他人事でしかないのですが、薬で体が心に合わせて段々と男になっていくってのは、やっぱり不自然な選択だとは思います。それを自然なこととして受け入れられるには、私にはまだ情報が足りないのかも。

未成年なので、ホルモン治療を受けるためには、両親の承認が必要なんですが、母親のマギーは、今一つサインすることをためらいます。そんな事をして、男の体になってから後悔することになったらどうしようと言うのですが、何だか今一つ説得力がありません。だって、今のままでも後悔することになるのは見えてますから。やっぱり、女に生まれたのを薬で男に変わるってところに生理的に受け付けない(賛同できない)ってところがあるんじゃないかなって気がしました。「生理的に」という言葉が不適切なら、とにかく「好きになれない」感じと言う方が伝わりやすいかも。それを実の娘がすることに賛成しちゃうのは嫌だという感じ。我が子を愛していて、性同一性障害もセラピーや集会で学んだ知識で理解はしているけど、どこか認めたくない嫌さというのがあるんじゃないかなって。そういう学びの段階を経ていない元夫のクレイグは急にサインしろと言われても、そんなものできるか、と突っぱねるのですが、その気持ちも理解できます。だって、未知の選択に責任持てと言われても困っちゃうもの。

それでも、この映画に出てくるレイの関係者はそれを乗り越えていきます。まあ、見様によっては、乗り越えずにやり過ごしたようにも見えるところがなかなかリアルというか、あるあるって感じ。レイのおばあちゃんは、「そんなことしなくても私みたいにレズビアンになればいいのに」とどこか呑気。最終的に書類にサインする父親も勢いに押された感じだし、結局あーだこーだと逡巡して息子(元娘)に嫌われちゃう母親のマギーがレイのことを一番真剣に考えているというのが、何かいい話かもって気がしてきました。おばあちゃんから、そろそろ私から自立するようにと、家を出ることを迫られて頭抱えちゃうマギーの姿がおかしくもリアルで、そういう普通の家庭にありそうなネタを色々と取り込んで、その一ネタとして、男性になるためのホルモン治療を混ぜ込んださじ加減はなかなかにお見事で、性同一性障害をそのレベルに押さえ込んだというところにこの映画の見識を感じました。ただ、ずっとホームドラマタッチにすると絵がもたないと思ったのか、レイが色々な映像を撮る趣味があって、そのYouTube風映像が挿入されたり、スケボーに乗ったり筋トレするレイのイメージショットが入るのは、好みが分かれるところでしょう。スタイリッシュというか少女趣味というか、男になりかけの女の子のイメージショットがあちこちに挿入されるのは、私はドラマにおまけを盛り過ぎという印象を持ってしまいました。ボーイッシュなエル・ファニングちゃんはそれはそれで眼福なんですが、シンプルなドラマにイメージショットはいらなかったような。ただ、92分という短い時間の映画なので、ドラマがシンプル過ぎて、尺が足りなくなっちゃたのかも。そのシンプルさが、この映画の魅力であるので、一方でスタイリッシュな絵を盛るのは痛しかゆしという感じです。

レイ、マギー、おばあちゃんとパートナーの三世代(原題が「三世代」です)が住んでいるアパートのたたずまいとか、ニューヨークのロケ部分の絵がきれいで、レイのイメージショットも含めて魅力的な映像になっています。三世代を演じたエル・ファニング、ナオミ・ワッツ、スーザン・サランドンが各々があまり個性を前面に出さない演技で、ドラマのアンサンブルとして、いい雰囲気を出していました。ちょっと日本の昔のホームドラマと空気感が似てると思ったのは私だけかしら。性同一性障害のレイがドラマの中で浮いていないのがいい感じの小品としてまとまっていました。LGBTが段々と市民権を得ている途中の時代のホームドラマとして、記憶するに値するのかな。ホルモン治療が、歯の矯正と同じレベルの医療行為になったら、「その昔は、家族みんなで悩んだこともあってね」という時代を記録した映画に位置付けられるかも。(それとも「その昔、こんなとんでもないことが通る時代もあったんだよ」という黒歴史映画になっちゃうのか?)



この先は結末に触れますのでご注意ください。



マギーとクレイグのサインが揃わないと治療が開始できず、さらに治療をきっかけに公立校への転校を考えていたのが、ダメになっちゃうと、焦ったレイは、クレイグの家に直接出かけてサインを迫ります。クレイグの新しい奥さんとの間には子供が3人いて、「お兄ちゃん」と言われて、まんざらでもないレイ。そこへ、マギーが迎えにきて、クレイグと言い合いになり、実はレイは、マギーがクレイグの弟と浮気してできた子供だったということが判明。これで、全てがダメじゃんと泣き崩れるレイ。家に帰っても気まずいマギーとレイ。でも、クレイグのサインがされた書類が送付されてきて、マギーもサイン。ホルモン治療が開始され、事態は落ち着くところへ落ち着いたようです。そして、マギー、レイ、そしておばあちゃんとパートナーが日本料理店に出かけて、クレイグ一家とその弟も合わせて会食となります。レイとマギーがきっちり和解したんだなってわかって暗転、エンドクレジット。

マギーが夫の弟と浮気してできた子供がレイだったというのはびっくり。だから、クレイグもレイと若干の距離を置いてたという事情もわかると、それまで、元ダンナの被害者っぽく見せてきたマギーって、かなりのワルよのう、ってことになるんですが、映画は、マギーを悪役にすることも糾弾することもしないで、それもまあ家庭のゴタゴタの一つという扱いで、ラストの関係者一同のお食事会でソフトランディングさせちゃうのは、なるほど、そういう見せ方もあるんだなって感心。何だかんだ言っても、多少揺らいでも、家族はなかなか壊れないし、断ち切ることも難しい。だからこそ、みんな時には言いたいことを言い、また時には黙って相手を許容する、そんな家族のしぶとい面倒くささを、まろやかにまとめたという感じでしょうか。ホント、もっと愁嘆場があるかと思ってたら、意外なほど振れ幅の小さい小品としてまとまっています。でも、結構面白いし、役者もいいので、ドラマを観たという後味は残りますから、性同一性障害ってのは何なんだろうねって興味を持つライトなきっかけとしておススメできる映画です。

「スリー・ビルボード」は二転三転する中で人間の色々な顔が見えてきて見応えあり。


今回は新作の「スリー・ビルボード」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。すぐ近くに新しいでっかいシネコンができるのですが、ここはしばらくは残るみたいです。話題作の割にはお客がそう入ってなかったのは、朝9時の回だったからなのかな。

アメリカ南部ミズーリ州のエビングの街外れの道路に3つの立て看板がありました。ある日、この看板の管理元のレッド(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)の元を、娘をレイプされた上に焼き殺された母親ミルドレッド(フランセス・マクドーマンド)が訪れ、広告の掲示を注文します。事件から七か月もたっているのに事件の進展がないことを憤った彼女は「レイプされて死亡」「犯人逮捕はまだ?」「なぜ?ウィロビー署長」というメッセージを看板に書かせるのでした。それを発見した警官のディクソン(サム・ロックウェル)はウィロビー署長(ウッディ・ハレルソン)を敬愛する一方で、黒人差別や暴行で問題の多い男でしたが、その看板を見て憤ります。実際、事件は手掛かりが見つからず、捜査も手詰まり状態でした。一方、署長はガンに侵されていて余命が限られていたこともあり、署長を非難する看板は、町の人間の支持を得られず、ミルドレッドは町の中で浮いた存在になってしまいます。ミルドレッドの息子は彼女の行動に感謝の言葉を言いますが、元夫のチャーリー(ジョン・ホークス)はやり過ぎだと非難します。彼女は死んだ娘にとってあまりいい母親ではなかったみたい。ウィロビー署長は犯人が捕まらないことに心を痛めていましたが、看板によってミルドレッドがテレビ取材を受けているのには頭を抱えています。果たして、この3つの看板が引き金になって、レイプ殺人の犯人は捕まるのでしょうか。

「ヒットマンズ・レクイエム」「セブン・サイコパス」のマーティン・マクドナーが脚本を書いてメガホンもとった一編です。まだ黒人差別も根っこのところでは残っているミズーリ州の小さな町エビングでミルドレッドの十代の娘がレイプされて焼き殺されるというショッキングが事件が起こりました。警察は手掛かりをつかむことができず、捜査は膠着状態でした。そんな時に、被害者の母親が警察を挑発する看板を出したことで起こるドラマを描いたもので、意表を突く展開から見えてくる人間の様々な顔が織りなす展開に目が離せませんでした。殺伐したお話でありながら、各々の人の中の善意や憎悪を丁寧にすくい上げていくことにより、どんどん観客をドラマに引き込んでいく演出はお見事でした。一人の人間の中に潜む二面性を描いているのですが、中盤からの二転三転する展開には、作り手自身の悪意と希望の二面性を感じさせるものがあり、その凝った構造の映画は、劇場でじっくり鑑賞するにふさわしい内容になっています。

ヒロインのミルドレッドからして、レイプ被害者の母親と言う、世間の同情を集める立ち位置なのに、それ以上に濃いキャラクター設定がされてまして、看板の事で警察に苦情を入れた歯医者の指に歯科医療ドリルを突き刺したりして、警察には「あたしゃやってないよ」ってうそぶく、かなりキツい人。もう一人のドラマの主人公である警官のディクソンはいい年して母親の影響下におかれているガキおやじでして、黒人差別主義者ですぐに手を出す暴力警官です。一方のウィロビー署長は、人望も厚く、真面目で実直な警察官で、ミルドレッドに事件の捜査状況が手詰まりなのを率直に伝えます。それでも、ミルドレッドが看板に彼の名を挙げたのは、署長に恨みがあるわけでなく、彼に対する信頼と期待があればこそのようなんです。ディクソンは、ウィロビーを心から尊敬しているのですが、そんな彼を署長は扱いかねているようにも見えます。捜査も膠着状態なら、人間関係も膠着状態なのですが、そこへ楔を打ち込むように、ミルドレッドが看板を立てたのです。この後の展開は、劇場でご確認いただきたいのですが、人間ってのは良くも悪くも一筋縄ではいかないねという見せ方で、意表をついてきます。

単純に、誰かを正義で誰かを悪とは決められない展開は、グローバル化多様化する社会を描いていると言えますし、人間というのは正にも負にも可能性を持っているとも言えそうです。正義にこだわるアメリカの国民性が、トランプの登場で、単純な正義では割り切れなくなって、揺らいできた今を描いた映画と言うことになるのかな。1970年代に、ベトナム戦争の泥沼化によってアメリカの正義が揺らいだ時と、今は似ているのかもしれません。でも、1970年代の映画ほどペシミスティックではない描き方をしているあたりは、今の方が当時よりは、時代が成熟してきているのかも。とは言え、この映画は、観客に希望を持たせては突き放すというのを何度も見せる、かなり意地の悪い作りの映画になっていまして、希望のなさを率直に描いた1970年代よりも、映画はクールで悪意に満ちたものになったとも言えそう。

演技陣では、やはり主人公のミルドレッドを演じたフランセス・マクドーマンドが素晴らしく、気の毒だけど共感を呼ばないキャラクターを熱演していて見応えがあります。また、映画の中の唯一の良心として登場するウディ・ハレルソンが誠実だけど、それだけではないキャラクターを飄々と演じています。さらに、映画の前半は悪役を一手引き受けのサム・ロックウェルは、単なるバカだけではないところ見せる後半が圧巻でした。カーター・バーウェルの音楽がカントリー風の音からドラマチックな音まで、ドラマの展開に合わせて、オーソッドクスに映画を支えているのが印象的でした。意表を突いたドラマでありながら、その見せ方はケレン味のない王道と言えるのが、この映画の持つパワーになっているように思いますので、機会があれば、一見をオススメします。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ウィロビー署長は、家族、ミルドレッドに手紙を残し、拳銃で自殺します。ディクソンは母親の入れ知恵で、ミルドレッドを追い込むために友人の黒人女性を逮捕します。署長の死を知ったディクソンは逆上して、広告社のレッドをボコボコにして病院送りにし、その結果、後任の黒人署長に警官をクビになってしまいます。一方、何者かによって看板が放火される事件が発生。それを警察の誰かの仕業と思ったミルドレッドは深夜に警察署に電話をかけ、誰も出ないと火炎ビンを投げ込みます。しかし、その時、中ではディクソンが、署長が残した彼宛の手紙を読んでいました。そこには、署長がディクソンに期待していて、刑事になるには愛が必要だということが説かれていました。その手紙を読み終え、気づいた時には周囲は火の海。彼は、レイプ事件のファイルを抱えて燃え盛る警察署から脱出しますが、大火傷を負って病院に担ぎ込まれます。一方、ミルドレッドへの手紙には、署長の謝罪の言葉と、広告費の追加をした旨が書かれていました。看板屋が彼女に看板のコピーがあることを教え、コピーで看板を復活させます。警官をクビになったディクソンですが、バーで後ろの席の男が、レイプした女を焼いた話をしているのを聞き、犯人だと確信した彼は、男に喧嘩をふっかけて逆にボコボコにされて、そのDNAを採取し、ミルドレッドに希望を捨てるなと告げます。しかし、DNAは犯人のものとは一致せず、その男には事件の時、軍務で国外にいたというアリバイがありました。失意のディクソンは、ミルドレッドに電話して結果を報告、でもあの男はこれからも同じことする、あいつの住所も知ってるから、殺しに行こうと持ち掛け、彼女もその話に乗ります。翌日、車を走らせるミルドレッドとディクソン、自分が警察署の放火したと告白するミルドレッドに、「他に誰がいる?」と答えるディクソン。さらに車を走らせるミルドレッドが「本気でやる?」と問うと「あんまり気が進まない」と答えるディクソン。するとミルドレッドも「自分もあんまり」と言い、「まあ、行くまでに決めよう」と提案。二人を乗せた車のロングショットから暗転、エンドクレジット。

映画は、まず物語の良心であった署長を自殺で退場させてしまいます。さらに、ミルドレッドが逆上して警察署に放火することで、事態がどんどん悪化していくのを見せる一方で、ディクソンが署長の手紙を読んで、警官としての自覚に目覚めていき、犯人らしき男を見つけることで、希望をつなぎます。でも真犯人でなかったことで、また絶望が来て、さらに復讐でもない殺人という最悪の予感から、最後の最後でささやかな希望を見せるという、絶望と希望を絶妙のタイミングで織り込んで、観客をぐいぐいと引っ張っていく展開が見事。思うようにならない人生の中で、善と悪では割り切れない人間の在り様をリアルにかつ、面白く見せた映画として、一見の価値があると思います。登場人物の誰にも肩入れできない展開へ持っていくのも見事なら、でも突き放さない距離感もうまく、人間ってそういうもんだから、面倒くさいんだよなあって思わせて、見応えがありました。レイプ殺人というショッキングな発端から、暴行、放火と血生臭い展開の多いお話だけど、生活感のある登場人物の織りなすドラマは、地続きのリアル感がありました。でも、何より、お話として、映画として面白かったってところで、この映画の点数高いです。
プロフィール

einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR