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「トレイン・ミッション」は登場人物のリアクション芸の面白さで見せるサスペンスとしてオススメ、ネタバレが出回る前にどうぞ。


今回は新作の「トレイン・ミッション」を上大岡のTOHOシネマズ上大岡2で観てきました。映画館としては穴場的なポジションかと思っていると結構混雑していたりして、上大岡って結構人が集まるんだというところが不思議な気がする映画館です。

妻のカレン(エリザベス・マクガヴァン)と息子の3人暮らしの保険マン、マイケル(リーアム・ニーソン)はある日突然10年働いていた会社を解雇されてしまいます。警官時代の相棒マーフィ(パトリック・ウィルソン)に慰められて、帰りの電車の乗り込むと、目の前に現れた謎の女性(ヴェラ・ファーミガ)から、金がもらえるからやってみない?ってゲームのようなことを持ちかけられます。何の事かといぶかるマイケルですが、女の言ってたようにトイレに隠された2万5千ドルを見つけてびっくり。それはどうやらゲームの始まりを意味していたようで、終点コールド・スプリングで降りる馴染みでない客のカバンにGPSをつけなきゃいけないってことになっちゃいます。次の駅で、渡された封筒を開けるとその中には妻の婚約指輪がありました。女はどうやら本気のようで、指示に従わないと妻子に何かするぞと脅してきたのです。走る電車の中でターゲットを探しつつ、知人の携帯を借りて警察に連絡して、妻子の身柄を保護させようとするマイケル。しかし、相手はずっとマイケルを監視していて、彼の行動はお見通し。そして、ついに死人が出てしまうのでした。女の目的は何なのか。そして、終点でマイケルを待っていたものとは?

バイロン・ウィリンガーとフィリップ・デ・ブラシの原案をウィリンガーとブラシとライアン・エングルが脚色し、「蝋人形の館」「フライト・ゲーム」のジャウマ・コレット・セラがメガホンを取りました。リーアム・ニーソンとセラのコンビとしては4本目の映画になります。私はこのコンビの映画は「アンノウン」「フライト・ゲーム」を観てますが、どちらも先の読めないサスペンスとして面白くできていまして、この映画も予告編を観て期待するところありました。今回も脇にごひいきのヴェラ・ファーミガ、サム・ニールが出ているし、若い頃ファンだったエリザベス・マクガヴァンまで登場するので、それだけでも期待度大の映画でした。

日常から非日常への強引巻き込まれ型のサスペンスというと「フォーン・ブース」「セルラー」なんてのを思い出すのですが、今回の舞台となるのは通勤電車。ニューヨークセントラル駅から出るメトロノース鉄道ハドソン線で、日本で言うなら東京始発の横須賀線か東海道線みたいな感じなのかな。始発駅では相当な混雑ですが、終点が近づくにつれてお客も減ってみんなが着席できるようになるくらいの感じ。中ほどの車両は空調の故障で、誰も乗っていないという状態で、走っているというのが、中盤のサスペンスで効いてきます。主人公が事件に巻き込まれるのがかなり強引な設定ではあるのですが、妻子を人質に取られ、簡単に列車を降りられないという状況をセラの演出はテンポよく見せて納得させちゃううまさがありました。ディティールにこだわるとツッコミどころはかなりあるのですが、それを雰囲気で流していく手際がうまいのですよ。最後は結構派手な見せ場があるのですが、見せるところと端折るところの切り分けが適切なので、映画を観たという満足度は高いですし、娯楽映画としての点数はかなりいい線いってると思います。ドラマチックな盛り上がりもあり、面白いサスペンス映画としてオススメしちゃいます。

とんでもない設定をどう絵解きするか、そこにリアリティがあるかどうかってところがこういう映画では重要だと昔から思っていたのですが、この映画を観て、ドラマの整合性がその映画の良し悪しを決めるわけではないってことに気づかされました。細かいところがすべて腑に落ちるから、その映画が面白いのではなく、設定の細かい辻褄合わせよりも、展開に観客をうまく乗せて、最後まで突っ走れたら、OKなんだなあってことです。確かに細かい設定に整合性があって説得力があると、それはそれで感心するのですが、そんなことより、登場人物の異常事態に対するリアクションが意表をついて面白かったら、そっちの方が大事なのではないかしら。言わば、リアクション芸がうまければ、こういう映画は面白くなるということです。登場人物に色々な困難な試練を課すことはそんな難しくないと思ってますけど、それに対して彼らの取るリアクションが大事なんだなあって感じ、伝わりますでしょうか。この映画はそのあたりがうまいのですよ。主人公のマイケルのリアクションもいいのですが、その他の人間のリアクションもそれぞれに説得力があって、そこにドラマを感じさせて映画全体の面白さを支えています。そのせいで、細かいことは置いといて面白いなあって思っているうちに映画が終わっていて、その後味で劇場を後にすることができるのですよ。

マイケルは、妻子を人質に取られて、列車から降りることができない。何とかして、ターゲットを探し出そうとします。でも、列車の中に他にもターゲットを探している人間がいました。さらに怪しいと思った男と殴り合いになった結果、その男が使われていない車両で死体となって発見されます。どうやら、列車の中を歩き回って、ターゲットを探そうとするマイケル。この列車は車掌が検札するシステムで、その行先区域の番号にパンチされた切符が座席に上に挟んであるものですから、座っている人の行先が大体わかるようになっています。それをチェックして、ターゲットを6人まで絞り込むマイケルですが、それでも決め手にはなりません。それに、どうやらターゲットは彼を動かしている連中から命を狙われているみたいなんです。でも、ターゲットを助けたら、妻子の命が危ないのです。さて、どう出るマイケルということになります。ここの展開でも、リアクション芸の面白さがありますから、劇場でご確認ください。

狭い通勤列車の中で、カメラを縦横に動かして、サスペンスを盛り上げたポール・キャメロンの撮影が見事で、特に狭い車内で肉弾戦をするシーンが数回登場するのですが、そこでも狭さを感じさせない迫力あるアクションシーンを捉えることに成功しています。ロケ・バニョスの音楽が、プロ・アート・オーケストラ・オブ・ロンドンを使って、サスペンスを盛り上げることに成功しています。でも、冒頭は、ピアノの爪弾きからアルペジオにストリングスが被さっていくというサスペンスらしからぬ重厚な音で先の展開を期待させる見事な導入になっています。最近のサスペンス映画の音楽がどんどん無機質的な音になっていくのに対して、この映画の情感ある音楽は意外性がありまして、この作曲家の今後の作品は要チェックだと思いました。後半は、きっちりサスペンスを盛り上げる音になっているのですが、ちゃんとマイケルの人間味を表す音になっているのは注目したいところです。

演技陣では、やはりリーアム・ニーソンはこういうドラマをきっちり支える重量感のある演技で見応えがありました。彼以外は皆、正体不明のミステリアスな存在になるのですが、きっちりキャラが立つようになっているのは、セラの演出のうまさでしょう。「フライト・ゲーム」でも、乗り合わせた乗客のキャラを丁寧に描き分けて、ドラマに厚みを与えていましたが、その演出力はこの作品でも生かされていました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



マイケルが怪しいと思った男が死体となって発見され、その男はFBIでした。されに、ターゲット候補の一人がマイケルを銃で脅して、ターゲットは誰かを聞き出そうとします。どうやら、あの女のプランでは、マイケルがターゲットを特定した後、銃を持った男がターゲットを殺す段取りだったようなのです。それに銃を持った男も何か訳ありで、脅されて動いているみたいです。そして、男と格闘となったマイケルは男を列車から放り出します。そこで、マイケルは空調を壊して、残りの乗客を後ろの車両に集めます。そして、6人に絞ったターゲット候補から、一人に絞り込むことに成功します。すると、あの女から、携帯電話にターゲットである女性ソフィアを殺せと指令が来るのですが、マイケルはあえてそれを拒否します。ソフィアは自殺した役人の恋人で、その恋人が警官に殺されたのを目撃していて、汚職にまつわる証拠を持っていました。その証拠を終点の駅でFBIと待ち合わせて渡す段取りになっていたのです。すると列車は暴走を始め、終点の駅を通過、大きなカーブに差し掛かる直前にマイケルは最後尾車両の切り離しに成功しますが、列車は脱線し、最後尾車両は線路上に投げ出されます。いつの間にかマイケルが人質を取って車両に籠城したことになっていて、警官隊が周囲を固めた状況下で、かつての相棒マーフィがマイケルを説得にやってきます。しかし、マイケルの口癖から、彼が役人を殺した実行犯であることが判明。マイケルともみ合いになり、乗客もマイケルに加勢します。マイケルがマーフィについていたGPSを奪った直後、狙撃手がマイケルだと思ってマーフィを狙撃、そこへFBIも駆けつけ、全ての事情が明らかになるのでした。そして、日が変わって、例の女が列車に乗っているとその前にマイケルが現れます。あなたに何ができるの?とうそぶく女に、警官のバッチを見せるマイケル。暗転、エンドクレジット。

ターゲットを特定してから、列車が暴走し、何とか助かったと思いきや、警官隊に包囲されて万事休すという展開はかなり盛りだくさんではあるのですが、セラはテンションを落とさず最後のオチまで走り切ります。マイケルやソフィアの話を聞いて、居合わせた乗客がマイケルに加勢するシーンも盛り上がりました。最初からちょっと怪しかったマーフィが正体を現し、サム・ニール演じるマーフィの上司が黒幕だろうと思わせて、実はいい奴だったというちょっとした意外性もあって、最後まで楽しめる映画に仕上がっていました。出番は少ないながら、エリザベス・マクガヴァンの奥さんとか、サム・ニール演じる警視とかがいい感じのドラマにアクセントになっている点も評価高いです。サム・ニールが出る映画はどんな映画でもアベレージ以上のものになっているというのが、私の個人的なジンクスになっているのですが、この映画でもそのジンクスは守られました。

終盤で、家族が人質に取られているのに、ソフィアを殺すのを断ると宣言するマイケルがかっこいいのですよ。それを見ていた他の乗客がマイケルの言うことに従うようになるという展開も無理のないリアクション芸になっていて、主人公のヒーローぶりをドラマの展開の中できちんと見せるあたりのうまさも買いです。細かいツッコミどころはいくつもあるのは百も承知ですが、この映画好きですし、オススメ度高いです。それは、細かいことは置いといて、逆境の人間のリアクションをかっこよく見せてドラマを盛り上げたというところが、只のサスペンスもの以上のカタルシスにつながっているからです。
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「トゥーム・レイダー ファースト・ミッション」は、ララ・クロフトが萌え系ヒロインになっているのが眼福。でも続編はあまり期待できないかも。


今回は新作の「トゥーム・レイダー ファースト・ミッション」を川崎の川崎チネチッタ6で観てきました。7.1chサラウンドによる上映だったようで、劇場によって、どこまで再生能力があるのかわかるようにしてくれるのはありがたい。

ロンドンで、自転車宅配をしているララ・クロフト(アリシア・ヴィキャンデル)の大富豪父リチャード(ドミニク・ウェスト)は、7年前から行方不明になっていて、父の部下であるアナ(クリスティン・トーマス・スコット)は、彼女に父の資産を相続するように勧めるのですが、父の金をあてにするのは嫌なララは、それを辞退していました。自転車レースで事故を起こし、警察とアナのお世話になったララは、相続の手続きをしようと決心します。その席で、父の遺品の鍵を渡されたララは、その鍵の謎をとき、父親の隠し部屋を見つけ、父親が7年前に卑弥呼の墓を探しに出かけて、それっきりになったことを知ります。卑弥呼の墓には、何かとんでもない力の秘密が隠されていて、それを秘密結社トリニティが狙っているから、資料は全部焼却するようにという遺言ビデオを観たララ。父の死の真相を知りたいと思った彼女は、単身香港に渡り、父がチャーターした船を見つけ、オーナーのルー・レン(ダニエル・ウー)を説得して、卑弥呼の墓があるという無人島へと向かいます。嵐のために船は難破、何とか海岸までたどりついたララでしたが、そこで殴られて気を失い、目が覚めると、そこにはヴォーゲル(ウォルトン・ゴギンズ)という男がいて、彼も武装集団を使って卑弥呼の墓を探していました。難破した船員などを奴隷として島のあちこちを爆破しては掘り返していたのですが、7年間成果がなかったのです。ところが、ララの持っていた父親の資料により、墓のありかが特定できてしまいました。このままでは、悪者たちに卑弥呼の神秘の力が渡ってしまいます。どうする? ララ。

ゲームの映画化である、アンジェリーナ・ジョリー主演の「トゥーム・レイダー」シリーズは2本作られてそれっきりになっていたのですが、今回、アリシア・ヴィキャンデル主演によって、リメイクというよりは、リブートされたということになるのかな。とにかく、アンジー主演の2作よりも時制的には前の、そもそもなぜララ・クロフトがトレジャー・ハンターになったのかというお話になっています。ジェニーバ・ロバートソン・ドワレットとエバン・ドーハティの原案を、ドワレットとアラスター・シドンズが脚本化し、ノルウェー出身のロアー・ウートッグが監督しました。アンジー版は、ドラマよりもゲームクリアの過程を映画化したような作りで、お金をかけた見せ場をつないだのはいいのですが、ヒロインのかっこよさ以外は印象に残らない映画だったという記憶があります。今回は、アンジーとはまるで違うヴィキャンデルがヒロインを演じているということで、中身はともかく、彼女を観てモトを取ろうという気分でスクリーンに臨みました。

映画の冒頭で、卑弥呼が登場するのにはびっくり。昔の日本に君臨していた女王で、特殊な力で日本を支配して多くの災厄をもたらしたが、部下の造反によって殺され、ある島に埋葬されたんですって。で、どういう根拠か、その墓を暴くとその卑弥呼の力を手に入れることができて、それが悪者の手に渡ると大変だから、ララの父親はそれを先に見つけようとして消息を絶った、ということらしいのです。ふーん、卑弥呼伝説に目をつけるのは面白いと思うけど、こういう設定をみると、やっぱり日本は極東の未知の国というイメージがまだあるんだなあって感じます。中東が伝説の地として使い尽くされた感があるから、アジアの方まで手を広げたということになるのかもしれません。向こうにしてみれば、アジアのツタンカーメンみたいなものなのでしょう。でも、日本そのものは舞台となっておらず、香港の港は南アフリカにセットを組んで撮影したそうですが、そう不自然には見えなかったのは、映画作りが国際化したということになるのかも。

今回のララ・クロフトは、トレジャー・ハンターになる前という設定でして、肉体的にも精神的にもそれほど強くない状態から、物語は始まります。冒頭のジムでの練習試合でも負けちゃうし、自転車レースでもパトカーにぶつかっちゃいます。一見華奢なヴィキャンデル嬢が演じたララ・クロフトは、アンジー版のタフな無敵ヒロインというよりは、萌え系守ってあげたいヒロインになっていまして、そんな彼女が過酷な試練を乗り越えていく中でだんだん強くなっていくという、ある意味成長物語になっており、ヒロイン育成ゲームみたいな味わいがあるのは面白いところです。この映画のララは、格闘シーンや脱出シーンなども、無敵でないので、結構ハラハラさせられますし、絶体絶命のシーンでの怯え顔や、ちょっとドジっ子なところなど、結構萌え要素の多いヒロインになっていて、応援したくなるキャラになっているのが面白かったです。最初から強いヒロインとしてのキャラが固まっていたアンジー版に比べれば、今回のアリシア版は、シリーズのパイロット版みたいな位置づけになるのではないかしら。映画は明らかに続編ありの作りになっているのですが、次回作でも、ヒロインが萌え系守ってあげたいキャラで居続けてくれるかどうかは微妙なところで、そういう意味では、こんなララ・クロフトはこの映画だけかも。でも、ヴィキャンデル嬢から萌えヒロイン要素がなくなるのはもったいないから、彼女で続編作るなら、やっぱり守ってあげたいヒロインの顔は残していただきたいものです。

ストーリーとしては、卑弥呼の墓がある島へ出かけて行って、そこで悪者に一度は捕まるけど、逃げ出してという展開で、かなり作りはシンプルです。それを2時間弱というのは結構尺が長いような気もするのですが、ウートッグの演出はそつなくまとめて退屈させずに最後まで観客を引っ張っていくのに成功しています。また、スタントやCGを多用しているのでしょうが、それを感じさせずにドラマに入り込めたのは編集がうまいからだと思いました。アクションシーンの流れがスムースで、ギクシャクせず、何が起こっているのかがわからないほど細切れにならない編集は、最近の映画の中でも上位に入るのではないかしら。視覚効果にお金をかけた、アクション映画なので、アリシア嬢の頑張りが伝わりにくいところもありますが、演出の手際でヒロインに感情移入できるので、最後まで楽しめる映画に仕上がっています。その分、ヒロイン以外はあんまり見るところないと言ったら、気の毒かしら。その割にラストで見せる続編への布石では、ぐんと世界観を広げるみたいですから、この先が若干不安にもなってきます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



一度はヴォーゲルの捕虜になっちゃうララですが、ルー・レンの協力で脱出に成功、海岸まで何とかたどり着くとそこで、7年前に消息を絶った父リチャードと再会します。彼は、ヴォーゲルにガセ情報を流して、卑弥呼の墓を見つけさせないようにしてきたのですが、父の資料をララが持って島にきたことで、ヴォーゲルは卑弥呼の墓を発見しちゃうのでした。卑弥呼の墓を暴かれると恐ろしい力がトリニティの手に渡ってしまうということで、ララは、発掘現場に戻って、ルー・レン以下の労働者を解放し、ヴォーゲルの衛星電話で助けを呼ぼうとするのですが、リチャードがヴォーゲルにつかまってしまい、墓の入り口の鍵を開けることになっちゃいます。洞窟の中を進む、ヴォーゲル一味とリチャードとララ。いくつもの罠をクリアしながら進んだ一行は、地底の大きな廟にたどり着きます。そこには、卑弥呼の棺がありました。棺を開けるとそこには卑弥呼のミイラがあり、それを持ち出そうとしたところ、ヴォーゲルの部下が苦しみだします。卑弥呼は疫病に感染していて、自ら進んで孤島へやってきたのでした。そこで、ヴォーゲルたちとララが銃撃戦となり、リチャードも病原菌に感染してしまいます。ミイラの一部を持って逃げたヴォーゲルを止めろとリチャードはララを送り出し、自爆して洞窟を封印します。ヴォーゲルとララは格闘の末、ヴォーゲルは地下の裂け目に呑まれていくのでした。洞窟から脱出したしたララとルー・レンたちは、ヴォーゲルを迎えに来たヘリをジャックして、島から生還するのでした。再度、リチャードの相続の席でサインするララは、実際の事業はアナに委任することになります。しかし、父親の持つ企業の中にヴォーゲルたちが働いていた会社の名前を発見して愕然とするララ。トリニティの黒幕はアナだったのでは?というところで、お話はつづくとなって、エンドクレジット。

ヴォーゲルが悪の親分というよりは、7年間も島流しになっている現場責任者というのは面白いと思いました。ララが持ってきた資料によってやっと家に帰れるとほっとしていたら、ララが反撃に出てきたというわけで、結局、ララの行動は、マッチポンプだよなあって気付くと、悪役も気の毒な話ではあります。正直、お話としては、説得力がないところが多くて、ララにしても、父リチャードにしても何やってんだろうなあって突っ込みが入ってしまうのですよ。そもそも、卑弥呼の墓に世界征服を企むトリニティが目をつける理由がわからないし、神秘的な力で世界征服しようとする秘密結社というのは、ゲームではありかもしれないけど、人間ドラマを見せる映画の中では何か浮いちゃうのですね。そこのところが、続編では前面に出てくることになるだろうから、今回のようなヒロイン中心のドラマは期待できないって予感もあって、この映画の味わいは、この作品限りのもので、続編は毛色の違うものになるんだろうなあ。

「ラッキー」は一見頑固ジジイのようで柔らかい頭の持ち主なのが面白い、こうありたいものだと。


今回は新作の「ラッキー」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。この前来たときもそうだったんですが、初回なのに暖房が効きすぎて暑いんですよね。クレーム入れた人もいたようで、今温度調整してますとか言って、最終的には適温になってたのですが、館内に入った時は酔っちゃうかと思いました。謎だわ。

アメリカの片田舎の町に住む老人ラッキー(ハリー・ディーン・スタントン)は、家族もいない一人暮らし。朝起きてタバコを一服して、ヨガをして、コーヒーを入れて、牛乳を飲んで、行きつけのダイナーへ出かけ、砂糖とミルクのたっぷり入ったコーヒーを飲み、新聞のクロスワードパズルを解く。テレビのクイズ番組を観て、夜は「エレインの店」でブラッディマリアを飲む。そんな平穏な日々の繰り返しをしていたラッキーですが、ある日、コーヒーメーカーの時計を観ていたら気分が悪くなって倒れてしまいます。病院へ行ってみて検査してもらったのですが、特に異常はありません。医師(エド・ベグリーJr)が言うには、この年まで健康でいるのは珍しい、だからもうタバコもやめない方がいい、強いて原因を上げるなら「老い」だとのこと。そう言われると、何だか、「死」が日常に侵食してきたような気がして、心穏やかでいられなくなるラッキーですが、それでも、彼の日常は大きく変わらないのでした。

昨年、91歳で亡くなったハリー・ディーン・スタントンの遺作となった映画です。彼のことは「エイリアン」や「ニューヨーク1997」の脇役俳優ぐらいにしか知らないのですが、向こうでは、名優として、音楽家として、伝説の人らしいのですよ。その彼にあてがきした脚本は、彼の信奉者でもあるローガン・スパークスとドラゴ・スモーニャが書きました。さらには、やはり脇役俳優として「ファーゴ」や「ゾディアック」などで知られるジョン・キャロル・リンチが初メガホンを取りました。私は、ジョン・キャロル・リンチというと「マーキュリー・ライジング」「グッド・ガール」「ボルケーノ」などの演技が印象的な、好きな役者さんなんですが、監督もやるんだというのが意外でした。シネスコの画面でフィルム撮影された画面は、どこか西部劇を思わせるものがあるんですが、お話としては、老人の日常にちょっとだけ死の影が忍び寄ったのを、さらりとやり過ごしたという感じでしょうか。1時間半弱の映画は小品ということになるのですが、老いを扱った映画として、不思議な味わいの作品に仕上がっています。

いわゆる「ジジイ映画」というジャンルがあるのかどうかはわかりませんが、人生晩年に入った老人を主役に据えた映画はそこそこあります。古くは「ハリーとトント」から「ストレイト・ストーリー」「幸せなひとりぼっち」さらに「グラントリノ」もあれは「ジジイ映画」だったような。人生も終わりに差し掛かった一人暮らしの男が変なことやいいことをしたりして、人生見直したりする、そんな映画が時々、でもコンスタントに公開されているように思います。若い女優や派手な仕掛けもない映画で、観客動員も見込めそうもないけど、それでも作られ続けるのは、人間、誰もが逃げられない「老い」は芸術のテーマとして、そこそこの需要を持ち続けているのかも。中には「愛、アムール」みたいな、きっついのもありますけど、大体は穏やかなタッチで、主人公の人生を肯定しています。この映画も、伝説の名優、ハリー・ディーン・スタントンに思い入れのある二人が彼のために宛書した脚本だそうですから、主人公ラッキーを肯定的に描いています。

ラッキーというのは愛称のようで、本名は最後まで出てきません。アメリカ海軍にいたことがあるようですが、過去はよくわからず、単にそこにいる老人という感じ。昔自慢をしないのは好感度大な感じで、小さな田舎町で風景の一つとして溶け込んでいるという感じでしょうか。ところがいつもと同じ日常の中で、コーヒーメーカーの点滅する時計を見ていたら倒れてしまいます。病院へ行けば、どこにも病気はない健康体だと言われ、唯一理由になりそうなのは「老い」だと言われちゃいます。私の両親もそうなんですが、今時の老人は病院へ行く頻度は高く、いつも何かしらの薬をもらって飲んでいるのが日常なのではないかしら。それなのに、ラッキーは、倒れたのに、医者は薬もくれないし、喫煙も奨励しちゃうのですから只者ではありません。そんな、我が道を往くじいさんなのですが、やっぱり死が身近にやってきたと感じ始めます。自分の死んだ後のことを弁護士に託そうとしている友人(デビッド・リンチ)を見て、弁護士の方に因縁をつけたり、子供の頃に死の恐怖にパニックになったことを思い出したり、クロスワードの「現実主義」という言葉にこだわってみたり。そんなことを考えているうちに、死に対する漠然とした恐怖を整理していく、そんな感じのお話になります。

脚本がそうなっているのかもしれませんが、ラッキーの思考とか行動があんまり年寄り臭くないのが面白いと思いました。「老い」は人を頑固とか偏屈な方向へ引っ張っていくという偏見があるからかもしれませんが、ラッキーは自分の中で、非常に柔軟に他人の言葉に対応します。見た目は、偏屈ジジイなんですが、言ってることは、そこらへんの中年オヤジよりも物事に対して柔軟で、決めつけでモノを言いません。なるほど、年をとってもこういう姿勢でいられるというのは、それなりの人生を送ってきた人なんだろうなと思わせるものがありますし、自分もこうありたいものだと思わせるものがありました。日本の年寄りのいい意味での典型というと、落語に出てくる横丁の隠居みたいなキャラがあります。人生の蓄積による知恵を、若い者へアドバイスする立場で、コミュニティの中でそれなりに尊敬されている人。ラッキーは、そういう老成した人間ではなくて、思考は現役で、まだ悩んだり考えたりすることで、自分を変えることができるようなんです。

彼を取り巻く人間も、ラッキーを疎んじることも持ち上げることもせず、自分と同じレベルの人間として扱うのが、いい感じの距離感で、好ましい感じでした。持ち上げられないと気が済まない年寄りだと、こういう環境だとイラついて頑なになっちゃうんでしょうけど、ラッキーはそういうこともなく、うまく小さな町の中で自分の居場所を作っているように見えました。これって、本人にとっても、周囲にとっても、いいことで、その結果、ラッキーは死への心構えの一応の回答を得られたのではないかしら。色々と蘊蓄を含んだ言葉が飛び交うのは、説教臭いと言えなくもないのですが、それでも小難しい映画という印象にならず、さらりとした味わいの小品にまとまったのはリンチの演出力によるものでしょう。



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夜になり、ラッキーは、いつもの「エレインの店」へ行き、タバコを吸おうとするのですが、エレインにここでは禁煙だとたしなめられます。すると、彼は、宇宙の真理は、結局全てがなくなって、空になり無になることだと言います。そして、その真理に自分は微笑むだけだと。そして、タバコに火をつけると店を出ていくのでした。翌日、いつものように道を歩いていると、1本のサボテンが目に止まります。道から外れてサボテンのところへ行き、微笑むラッキー。再び道に戻って歩き続けるラッキーの姿からフェードアウト。エンドクレジット。

映画のオープニングで、ラッキーの友人の飼っていたリクガメが登場し、ラストカットにも登場します。友人は最初は逃げたカメを探していたのですが、最後には、もしまた縁があれば帰ってくるだろうから、門を開けて待つことにすると言います。結局、全てが無に帰るのだから、なるようにしかならないというのは諦観という見方もできますが、「老い」に対する心構えとしては、それでいいのかもしれないのかなって気になります。じゃあ、若い人がそういう風に思ってはいけないのかなというところなんですが、年取った人にとってはまっとうでも、若い人には正しくないというのは、何だかおかしいよなあという気もします。だって、ラッキーの考え方は決して老いていない、ただ体に老いがきただけですからね。そう考えると、この映画、若い人が観たらどう思うのかちょっと気になります。ラッキーの言ってることに多少なりとも共感できるのか、それとも、ジジイの戯言に見えるのか。もし後者なら、私も「老い」の心境に入ったのかも。

「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」は主演二人の名演もあって、ほっこり泣ける系のいい話なので、オススメ度大。


今回は新作の「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」を川崎の川崎チネチッタ10で観てきました。予告編を観た時は食指が動かなかったのですが、「シェイプ・オブ・ウォーター」を観た後、サリー・ホーキンス主演の映画なら、何となく観たくなってきて、劇場へ足を運びました。でも、この邦題はセンスないよなあ。絵描きの映画の邦題だから、それらしい単語を並べましたって感じで、内容を表すところが何もないんだもの。「あしたのパスタはアルデンテ」に匹敵するやる気のない邦題ではないかしら。

1930年代のカナダ。子供の頃から重いリウマチを患い、手足が不自由なモード(サリー・ホーキンス)は絵を描くのが好き。叔母のアイダの家に預けられていて、兄や叔母からは厄介者扱いされていました。そこで、家を出ようと思い立ったモードは、食料品店に家政婦募集のビラを見つけて、その募集主の漁師エベレット(イーサン・ホーク)の家に行き、彼の家で住み込みの家政婦として働くことになります。無骨なエベレットは、モードへの口の聞き方はきついし、時には暴力を振るうこともありました。でも、モードも行くところがないものですから、頑張って家政婦の仕事を続ける傍ら、家の壁とか木切れに好きな絵を描いていました。ある日、ニューヨークから来ていたサンドラが、エベレットの魚に苦情を言いに来た時、モードの絵に目を止めます。最初は、小さなカードに書いた絵を買いとってくれますが、そのうち、もっと大きな絵を欲しいと言い出します。モードは毎日絵を描くようになり、その分の家事をエベレットがやるようになります。一緒に暮らしていたのですが、なかなか一線を超えなかった二人。モードはかつて妊娠して障害児を産んですぐ亡くなったという過去があり、エベレットも結婚なんて面倒なと思っていました。それでも、二人の距離はせばまっていき、結婚して、夫婦としての暮らしが始まります。モードの絵を家の前に並べて売り始めると、それが新聞記事となり、さらにテレビにも放送されたことで、多くの人が二人の家を訪れるようになります。それまでひっそりと暮らしてきたのに、多くの人がやってくる生活にだんだん嫌気がさしてきたエベレットとモードの間でまずい空気が漂ってきます。そんな時、年老いて死を意識した叔母から、驚くべき事実を知らされるのでした。

カナダで有名な画家であるモード・ルイスの半生を、カナダのテレビで脚本や監督の実績のあるジェリー・ホワイトが脚本化し、イギリスでテレビの実績があるアシュリング・ウォルシュが監督しました。リウマチで体が不自由なことで、肉親から疎んじられていたモードが、自立するために、無骨な漁師の家の家政婦になることを思い立ちます。海沿いの道路の小さな一軒家に住むエベレット。孤児院出身で教養はないけど、漁師や孤児院の雑用とかで忙しい日々を送っていましたが、女手がないということで、家政婦を雇うことになります。悪い人ではなさそうだけど、学はないし、気も荒い男に対して、おっとりしたモードは何とか食い下がって二人の奇妙な生活が始まります。ベッドも一つしかないので、一緒に寝るしかないような環境ですが、何となくお互いを憎からず思うようになっていく過程をウォルシュの演出は淡々と丁寧に積み重ねていきます。この映画、ドラマチックな山場がないまま、静かに物語が進んでいくので、メリハリがないと感じる方もいらっしゃるかもしれません。でも、私はその淡々とした部分にはまりました。全編に渡って、主人公二人の会話中心で成り立っているドラマなのですが、その会話によって二人の関係がどう変わって行くのかが伝わってきて、そのうまさがこの映画の魅力になっています。主演二人の細やかな演技を追っていくことで堪能できる映画なので、テレビで漠然と観たら、中身のない映画に見えちゃうかも。劇場でじっくり観る映画としてオススメです。

体に不自由のあるヒロインは出てきた当初は弱々しい女性というイメージなんですが、一人でクラブに出かけて、それなりに楽しそうだし、見た目おっかないエベレットに対しても、おっとりした態度で接するのですが、物おじするところありません。あれ?、結構彼女強いんじゃないのと思えてくるあたりが、エベレットとの関係構築の過程で、おかしさに変わっていきます。いかついエベレットと五分に渡りあうモードの姿は、ほっこりさせるものがあります。それは単に、彼女が強いというだけでなく、エベレットが彼女のツッコミをいい感じで受けるのが楽しいのです。今目線で言うなら、学もなく女を怒鳴りつけて、手も上げるエベレットはDVのサイテー男になっちゃうのですが、この映画は今目線で彼を非難することはしていません。むしろ、そういうのが当たり前の社会で、いい関係を築き上げていく、モードとエベレットの二人の姿を微笑ましく、肯定的に描いています。口数は多くなく、自分とモードとの主従関係を明言してはばからないエベレットですが、モードを大事にしているのが伝わってきて、その態度には泣かせるものがありました。家の壁とかあちこちに絵を描いちゃうモードなんですが、自分はその絵のよさを理解できないけど否定しないという彼の態度が、何かいいんですよね。

絵は評判になり、ニクソン大統領までが、彼女に絵を発注してきます。家には色々な人が訪れるようになります。テレビで放送された内容とか、色々な人の訪問がエベレットにとってはうれしくなくて、モードと口論になることもあります。ある時はひどい喧嘩からモードが家を出てしまうこともあるんですが、最終的にはエベレットがモードを迎えに行き、二人は当たり前のように一緒に暮らしていく。そういうドラマを淡々と見せることで、見た目貧乏暮らしでも幸せなんだろうなっていうのが伝わってくるのがうれしい映画です。必ずしもハッピーエンドとは言い難いのですが、でも二人は幸せだったんだろうなあって思えるのですよ。事実に基づくと、この映画は、1930年代から1970年までの40年近くを描いたことになるんですが、あえて時間の経過を曖昧にしているところがあります。その結果、モード・ルイスの年表映画というよりは、彼女の人生にインスパイアされた夫婦の愛情物語という味わいが強くなりました。本当にモードのエベレットがこうだったのかは置いといて、いい話だなあって思って観るのがこの映画の楽しみ方のような気がします。

主演の演技が素晴らしく、二人のお互いのことを想いあうようになるまでの会話のやりとりが素晴らしかったです。個人的には、サンドラが家にまでやってきてモードの絵を買おうとした時、エバレットが彼女の絵を見せて売ろうとするのですが、モードがこれは未完成だからやめてという絵を売るのをやめるところがすごくツボでした。見た目、主従関係の中で、お互いの中で想いが通じ合う瞬間があるというのが結構泣かせるのですよ。エベレットが色々な想いを少ない言葉でモードに伝えるシーンもよかったです。その少ない言葉からモードが彼の想いを汲み取るあたりは、何かうらやましい関係だよなあ。サリー・ホーキンスもイーサン・ホークも自然に役柄になりきる演技をする人で、この映画でもそのうまさを再認識しちゃいました。特に、ホークは主役脇役、硬軟、善悪、何でもござれの名優ですが、この映画では彼にしては珍しい学のない肉体労働者の役をきちんと演じ切って見事でした。ガイ・ゴッドフリーの撮影が、美しい風景とモードの絵をどちらか引き立てることなくバランスよく撮り分けているのがうまいと思いました。マイケル・ティミンズの音楽は、小編成のレイチェル・ポートマン風の暖かい音作りが印象的でした。あえて、時代色を薄めにしているウォルシュの演出に合わせたのか、時代色を感じさせない音になっているのは、この映画の味わいに貢献しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



叔母から聞いたのは、かつてモードが産んだ娘は、障害はなかったのですが、どうせ彼女には育てられないだろうからと、兄と叔母で、金持ちの家に売ってしまったというのです。ショックを受けたモードは、勢いでエベレットと口論になり、サンドラの家へ転がり込んでしまいます。しかし、しばらくして迎えに来たエベレットは自分はダメな男だが一緒にいたいと言い、モードもそれに応えます。エベレットが車をある家の前に停めます。それは、モードの娘の家でした。遠くから、元気で幸せそうな娘の姿を確認したモードは、そのまま家へ帰るのでした。その後もモードは絵を描き続けるのですが、家のストーブと煙草のせいか、肺気腫となって体調が思わしくなくなるのですが、エベレットには心配ないと言い続けていました。そして、ある晩、発作が起こり、病院へ運ばれるのですが、病状は進行していてそのまま息を引き取ります。エベレットは一人家へ帰ると、家の前の「絵を売ります」の看板を片付けて、ドアを閉めるのでした。暗転、そして、実際のモードとエベレットのテレビ映像が映って、エンドクレジット。

絵が有名になっても、ずっと最初に小さな家に住み続けたというのは、絵が大してお金にならなかったということなのかなとも思いました。パンフレットの解説によると、ずっと死ぬまで小さな家に住み続けていたのは事実のようで、有名になった絵が彼女をどの程度裕福にしたのかは、映画では触れられていません。どうやら、実在の人物を題材にした夫婦愛のフィクションとして受け取った方がいいみたいです。この映画で語られた物語が、嘘か本当かなんて、この映画のよさとは無関係だと考えたいです。絵の才能があったけど持病のせいで疎んじられてたヒロインが、家政婦として入った小さな家の主人と結婚して幸せになったという物語はすごくいい話で、素敵な映画にまとまっています。それが本当にあったことかどうかということは、「この映画は事実に基づくストーリーだ」という字幕も出ないことからして、多分、脚本家によるオリジナルなストーリーなんじゃないかしら。じゃあ、これが事実じゃないと、この映画の価値が下がるのかというと、これがまた微妙でして、最初から全部フィクションとして、この映画をドンと見せられたら、やっぱりいい話だなあって素直に感動したと思います。そう考えると、実在の人間を主人公にした映画って、例えいい話でも「それって、本当にあったの?」という邪念(?)が入ることで、その作品のお値打ちを下げる可能性を持ってるってことになるのかも。グダグダ書きましたけど、これ、すごくいい話、いい演技、うまい演出で、よくできててオススメです。それだけに、実在の人間が主人公だというところが、この映画の弱点になっちゃうのは気の毒にも思えてしまうのでした。

「聖なる鹿殺し」はすごく変な話を力技で見せ切ります、でも超自然スリラーにもならないくらい変。


今回は新作の「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。ブログの師匠pu-koさんの記事を拝見して珍品感ありありが気になったものの、近所での上映はないだろうと思っていたら、意外や有楽町でひっそり上映されていたので、足を運びました。

心臓外科医スティーブン(コリン・ファレル)は、美しい眼科医の妻アナ(ニコル・キッドマン)と娘キム(ラフィー・キャンディ)と息子ボブ(サニー・スリッチ)の4人暮らし。生活はそれなりに充実して幸せそう。そんなスティーブンは最近マーティン(バリー・コーガン)という少年とやたらと会っています。お金やプレゼントを与えているようで、同僚には娘の同級生と紹介しているのですが、どうも昔の患者の息子らしい。最初はおとなしめだったマーティンですが、スティーブンが彼を家族に紹介するとだんだんと彼の生活に入り込んでくるようになります。一度は、マーティンの家に招待されるのですが、彼の母親(アリシア・シルバーストーン)に言い寄られて逃げ帰ることになり、マーティンとの関係は悪くなっていきます。一方、マーティンはキムに接近し、キムは彼にメロメロになっていきます。そんなある朝、ボブが動けなくなり、病院へ運ばれます。体中検査をしても悪いところはないので、そのまま病院から帰ろうとする再び歩けなくなり入院することになります。すると、スティーブンの前に再びマーティンが現れ、恐ろしいことを言い出すのでした。

「籠の中の乙女」「ロブスター」が有名で、ギリシャの鬼才と呼ばれているヨルゴス・ランティモスが、エフティミス・フィリップと共同で脚本を書き、メガホンを取った不条理劇の一編です。私はこの監督の映画は初めてだったのですが、冒頭から心臓手術のアップというインパクトに何だかとんでもないものを見せられるのかという嫌な予感がしましたが、その予感は半分は当たってました。だってすごく変な話なんだもん。超自然スリラーということもできますが、超自然と呼ぶほどの論理性もない展開は、物語のための物語という感じでしょうか。ギリシャ悲劇が影のモチーフになっているそうですが、リアリティのない抽象的なドラマは舞台劇みたいな味わいがあります。でも、最初から最後まで退屈する間を与えないドラマに引き込まれてしまいましたから、映画としては面白かったということになるのかな。でも、やっぱり珍品だよなあ、色々と含蓄は感じるけど。

キーマンとなるのは、マーティンという少年です。どうやら、スティーブンの手術中に亡くなった患者の息子らしいのですよ。最初は、後ろめたさも感じて、彼の相手をしていたスティーブンなんですが、だんだんと彼の時間や空間を拘束するようになってきて、相手にするのも限界かなって思い始めます。それでも、マーティンの方は彼にすり寄ってくる感じが何だか不気味。息子のボブの足が動かなくなると、マーティンはとんでもないことを言い放ちます。自分は、スティーブンのせいで家族を失った。だから、スティーブンの家族の誰か一人が死ぬことになる。誰が死ぬかを早く決めないと全員が死ぬことになる。まず体の麻痺から始まり、食べ物を受け付けなくなり、最期の直前には目から出血するようになる。確かにボブは足が動かなくなってから何も食べなくなっているので、不気味な奴くらいに思っていたようですが、今度は娘のキムまでが歩けなくなるに及んで、マーティンの恐ろしい予言がマジだということに気づくスティーブン。日本人の感覚だと、マーティンがスティーブン一家に呪いをかけたというのが、一番腑に落ちる展開なのですが、どうやら、マーティンが直接スティーブン一家に何かを仕掛けたという見せ方ではないのですよ。そうなるのがスティーブン一家の運命みたいな感じなんですよね。

スティーブンはマーティンの言葉を家族に伝えたようで、アナもキムもボブも自分に死が近づいていることを認識するようになります。アナは、夫の同僚から、マーティンの父親の手術で、彼が酒を飲んでいて医療ミスを起こしたことを聞き出します。そうなると、全ての元凶はスティーブンのように思えるのですが、なぜか妻も子も彼を責めることはしません。マーティンの話によると生贄となるのは一人で、その生贄を決めるのはスティーブンであり、そして彼は生贄はならないんですって。3人の誰かが死ぬことになった時、妻も子供も、他の家族を犠牲にしてもスティーブンに命乞いをします。キムは後になって自分を殺してと言い出したりもします。とにかく、この異常な状況を一家はストレートに受け取って、彼らなりの対応を取ろうとするのです。スティーブンに至っては、学校に出かけてキムとボブではどっちが優秀かなんてことを聞きに行って、「それはどちらとも言えない」と言われたりするのです。もう、それが抗うことができない運命だとあきらめたら、次に考えることは結構冷酷でシビアです。親子とか兄弟という関係でさえ、自分の生き死にがかかったら後回しにせざるを得ないという見せ方は面白いと思いました。

マーティンという少年は、見た目からしてちょっと不気味なところがあって、それがキムの心を捉えるというのが不思議なのですが、不気味だけど、悪とは違う存在です。本人は、この家族の誰かの死を正義の実行と呼びます。なぜ、スティーブンの罪を家族が負わねばならないのか、それってすごく理不尽な話なんですが、ギリシャにも「親の因果が子に報い」なんていう話があるのかしら。まあ、聖書のアブラハムだって息子を殺せと言われたのだから、よくある話と言えばそうなのでしょうが。冒頭で不条理劇と書いちゃいましたけど、理不尽劇と言った方がいいのかな。不条理と呼ぶには、この映画の中で、スティーブンの家族の死はそれなりに筋の通ったこととして受け入れられているのですよ。ただ、みんな腹の中ではその理不尽さにはらわた煮えくりかえってるんですが。

ランティモスの演出は、動き回るカメラワークとか、ノイズのような音響効果、おどろおどろしい音楽などを駆使して、ありえない話を盛り上げるのに成功しています。それは、コリン・ファレルとニコル・キッドマンのテンション高い演技にも負うところも大きく、彼らの熱演が、嘘みたいな話に「でも、実際に起こったらそうなるかもなあ」という説得力を与えています。その乗せ方がなかなかうまいので、最後まで見せられてしまいますが、最後まで理不尽なお話ですので、カタルシスや納得を期待しない方がいいです。ハネケやフォントリアーの映画のように観客を不快にする映画ではないのですが、「結局、そうなるんかい?」という結末は、映画館で観るなら許容範囲でも、家のテレビで観るにはしんどいかも。



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まだアナには体の麻痺症状は出ていませんが、マーティンの話どおりなら、いずれアナも麻痺症状が出てくるでしょう。アナは、スティーブンに子供ならまた作ればいい、どちらかを犠牲にと、説得にかかります。一方、いつの間にか姿を消していたマーティンですが、実はスティーブンが地下室に監禁して暴行していました。でも、そんなことをしても何の打開策にならないのですが。ボブとキムは足が動かないので、手で這ってスティーブンの前に現れていい子に見せようとしたり、マーティンの前に現れてこの状況を戻してくれと懇願したりします。傷だらけで地下室に縛り付けられていたマーティンをアナが解放します。そして、とうとうボブの目から出血し始めます。最後の決断を迫られたスティーブンはリビングの椅子にアナ、キム、ボブを縛り付けて袋をかぶせ、自分はその中心で銃を持って目隠しします。そして、グルグルと回って止まったところで発砲します。1度2度でうまく人間に当たるわけはないのですが、3度目に彼の銃弾はボブの胸を撃ち抜くのでした。ダイナーで食事をしているスティーブンとアナとキム。そこへマーティンが現れ、3人と目が遭います。無言のまま、ダイナーを出ていく3人。おしまい。

結局、マーティンの話したとおりの展開となり、3人のだれを生贄にするか決断できなかったスティーブンは運任せの行動に出て、ボブを犠牲にします。放っておけば全員死に、ルールを破っても全員が死ぬってことらしく、スティーブンとしてはやむにやまれぬ選択をしたということになります。ラストでキムは回復しているようですから、当初のルールは守られたということのようです。さて、これは正義の復讐と呼ぶには理不尽すぎるお話です。元ネタと言われるイビゲイニアの悲劇は、神の怒りを鎮めるための生贄のお話らしいので、神様相手じゃ、人間の道理は通用しないってことで、腑に落ちるところはあります。ただ、現代劇にアダプトするときに神の怒りを正義の実行に置き換えるのは無理があったように思います。父親を医療ミスで殺されたマーティンの復讐というストーリーで捉えると、何となく納得できるものであるのですが、そうなると今度はギリシア神でないマーティンの全能感が腑に落ちなくなります。神様中心の物語であれば、「まあ、神様ならムチャしてもしょうがないな」と思えるところがあります。ところがこの現代劇では神は登場しないので、結局物語をコントロールする柱がない印象になっちゃいました。正義の行使というにはあまりにも理不尽で、神の視点と呼ぶには、マーティンの立ち位置は当事者に近すぎるのですよ。何の根拠もルールもないようで、何かの理屈で支配されているという世界観は、やっぱり不条理劇ということになるのかな。両足麻痺した子供二人が腕で家の中を這いまわるビジュアルとか結構インパクトあったりして、やっぱりケッタイな珍品に落ち着くのかなあ、それなりの見応えのある映画なんですが、お話の背骨がない感じなんですよ。カンヌ映画祭で脚本賞を取ったとのことですが、私はカンヌの評価とは相性がよくないみたいです。

「シェイプ・オブ・ウォーター」は大人子供な映画としてすごくよく出来てて、泣ける恋愛ドラマにもなってるのがすごい。


今回は新作の「シェイプ・オブ・ウォーター」をTOHOシネマズ日本橋7で観てきました。TCXという一回り大きなスクリーンでの上映だったのですが、壁面の下の方までスクリーンなので、傾斜のある座席でも前の人の座高が高いと画面の下がちょっと欠けちゃうのですね。もう少し画面を上げてくれるといいのに。

1962年、映画館の上の部屋で一人暮らししている中年女性イライザ(サリー・ホーキンス)は、耳は聞こえるのですが声を出せません。隣室の会社をリストラされた画家ジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)とは仲が良くて、彼の家のテレビでミュージカル映画を観るのが楽しみです。航空宇宙研究センターで夜勤の清掃業務をしていて、同僚のゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)が職場での唯一の友人です。ある日、センターに何か水槽のようなものが運び込まれます。中はどうやら生き物みたい、その生き物に新しい警備主任ストリックランド(マイケル・シャノン)がついてくるのですが、これが威圧的なやな奴。そんなストリックランドが血だらけになって部屋から飛び出してきます。虐待していた生き物に逆に噛まれたみたいです。血まみれの部屋の清掃を任されたイライザは水槽の中に人影を見ます。彼女は次にその部屋を清掃に行くと、水槽の中にそれ(ダグ・ジョーンズ)が鎖でつながれていました。次の時、彼女がゆで卵をを与えてみると、それは卵を気に入ったみたい、その次の日はレコードプレイヤーを持ち込んでみると、それは音楽も好きみたいです。普段はストリックランドに虐待されているそれですが、彼女との時間はお互いにとって楽しいものになっているみたい。時は米ソ冷戦時代。その存在を知ったソ連は、それを生きたまま盗みだそうと研究所内のスパイに指令を出します。一方ストリックランドは研究のために生体解剖して調査しようと主張、上司の元帥も同じ考え。このままでは、それは殺されちゃうことを知ったイライザは何とかそれを救いたいと思うのですが....。

アカデミー賞の作品賞と監督賞を取っちゃったと言うすごい映画。「ミミック」「ヘルボーイ」「パシフィック・リム」のギレルモ・デル・トロが原案を書き、「ゲーム・オブ・スローン」のヴァネッサ・テイラーと一緒に脚本化して、自らメガホンを取りました。オープニングで20世紀フォックスサーチライトのロゴが出ます。いわゆるインデペンデント系でやるような企画を製作・配給してきた20世紀フォックスの子会社なんですが、ギレルモ・デル・トロとの組み合わせはちょっと意外だったのですが、2000万ドルという中規模予算で、監督の思い通りに映画を作らせたそうで、そういう意味では、監督の想いやカラーがぎっしり詰まった映画だと言えそうです。

この映画の元になっているのは、「大アマゾンの半魚人」だそうで、あの映画では、半魚人はヒロインに恋するのですが、その想いはヒロインに届くこともないまま、半魚人は殺されてしまいます。この結末をかわいそうと思った監督は半魚人の恋が成就する映画を作りたいと思ったんですって。いかにもゲテモノ映画オタクの考えそうなことなんですが、それを万人が鑑賞する映画として作り上げるということは大変なことです。で、実際にそれをやってのけてアカデミー賞取っちゃうってのは、さらにすごいこと。でも、ちょっとクリーチャーホラーの実績と思い入れが強い監督だけに、ヌメヌメ系に力入ってホラー色の強い映画になっちゃっていたらやだなあという不安もありました。

実際に観てみれば、血生臭いシーンもあるんですが、オタク暴走的なグロシーンは控えめで、映画のキーポイントである、それのデザインも基本は半魚人で人間とは異種のものではあるんだけど、どこか神々しさも感じさせるものでした。ヒロインは若くもないし美人でもないのに、きっちりヒロインとして見せるという演出で、必ずしも直球の作りではないけれど、きちんと全ての観客をドラマに引き込んでいくうまさはお見事でした。異種間恋愛というドラマは結構生々しく見せながら、映像はファンタスティックで美しく、おとぎ話のようでリアルな殺伐部分もあり、時として子供のような純真な視線と、リアルな大人の視線が交錯する語りのうまさ、その大人子供な作りのバランスが見事なエンタテイメントに昇華していると思います。 例えば、「スリー・ビルボード」はシビアな大人目線で作った映画でよくできていましたし、一方「ドラえもん」は子供目線を重視した作りが(大人も巻き込んで)子供たちを楽しませます。その両方をミックスさせて、一部のオタクだけでない全ての大人の心を捉える映画に仕上げたのはすごい。いや、マジ卍。

この映画に出てくる善玉はみんな社会から疎外されている人々という設定は、ちょっとやり過ぎ感もあるのですが、おとぎ話の要素としてはありなのかな。一方の悪玉は、それを殺そうとするストリックランドを筆頭とする軍のみなさんです。ここで面白いのは、イライザやストリックランドを人間としては同じなんだということを表現するために、セックスを盛り込んだこと。二人とも性欲を持った生身の人間として描くことで、ドラマに深みを与えているとも言えますし、善玉悪玉の共通項の描き方としては、ちょっと青臭い子供っぽさも感じさせるのが面白いと思いました。ストリックランドと奥さんのセックスシーンなんてドラマとしての必然性はないのですが、そこにこだわるところに、大人子供な監督の味わいがあったのではないかしら。その性へのこだわりは、当然の帰結として、それとイライザのセックスになるわけですが、そこは直接描写こそないものの、その直前直後をエロチックに見せています。でも、グロい印象にならないあたりのうまさが、監督としての力量を示したと言えるのではないかしら。ロマンチックで生々しく、子供のように純粋に大人の世界のドロドロを描くあたりのさじ加減の見事さは、オスカーに値すると思います。でも、この映画がオスカーで評価されたというのは、オタク的な大人子供視線の映画が、一般に人にも受け入れられるようになったということではないかしら。

もう一人、この映画のキーマンとなっているのは、それの研究チームのトップであるホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)です。ネタばれ上等で書いちゃいますが、彼は実はソ連のスパイで、それをソ連へ生きたまま持っていくという指令を受けます。一方で、それがイライザと意思の交流をしているのを目撃して、なんとかしてそれを救いたいと思うようになります。でも、アメリカ側はそれを生体解剖しようとしている、そんな状況で、自分の気持ち、アメリカ、ソ連の3者の間で複雑な板挟みになるキャラクターをスタールバーグを熱演して、それとイライザの恋愛ストーリーと並行して描かれるもう一つのドラマを支えています。この映画の特筆すべきところは、普通の映画ならあっさり描かれてあっさりと退場する善意の脇役であるホフステトラーを丁寧に描いたところではないかしら。それやイライザもさることながら、デル・トロ監督のホフステトラーに対する愛情が感じられるのが、この映画の点数を上げているように思います。

主人公の部屋や研究室の美術の不思議な美しさやしっとりとした色彩設計で見せる映画にしているのもお見事で、美術と撮影の仕事が光りました。また、ミュージカルの要素を入れたり、話せないヒロインが音楽で、それに想いを伝えるシーンなど、リアルじゃないけど美しいシーンがたくさんあります。同じくオスカーを取ったアレクサンドラ・デスプラの音楽は、ロンドン交響楽団を使ってどこか浮世離れした暖かい音をつけていまして、愁嘆場の盛り上げをしないで、映画のトーンを統一させたのは見事でした。



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それが解剖されることを知ったイライザは、渋るジャイルズを説き伏せ、救出作戦を実行に移します。その計画とはジャイルズに偽洗濯物収集車で研究所に入らせ、洗濯ものの中にそれを潜ませて運び出そうというもの。一方で、それが解剖される前に殺害するよう命令されたホフステトラーは、イライザが何かを企んでいることを知り、独断でそれに協力します。計画は概ね成功しますが、偽収集車が止められてしまいます。その時、ホフステトラーがそれ殺害用の薬で守衛を殺し、彼の仕掛けた爆弾が時間をかせいで、イライザたちはそれを運び去ることに成功します。彼女は自宅の浴槽に塩水をはって、それをそこにかくまいます。一度は浴槽を抜け出してどこかへ行ってしまうそれですが、イライザは映画館で映画を観ているそれを発見します。そして、イライザとそれは結ばれるのでした。イライザは雨の日に海の水位が上がったタイミングでそれを逃がそうとします。一方のストリックランドはイライザたちを尋問しますがまさか彼女たちが犯人とは思わない。でも、ホフステトラーには疑いを持って彼を尾行します。ソ連側との待ち合わせ場所に行くホフステトラーですが、彼はソ連からも用済みになって、その場で撃たれてしまいます。ソ連エージェントを射殺したストリックランドはホフステトラーを締め上げて犯人が掃除婦だと知ります。一方、港のドックまでそれを連れてきて海へ逃がそうとするイライザとジャイルズですが、そこへストリックランドが現れ、それとイライザは撃たれてしまうのでした。しかし、死んだと思われたそれは自力で蘇生して、ストリックランドを殺すとイライザを抱えて海に飛び込みます。海中で抱き合うそれとイライザですが、それがイライザにキスすると、息を吹き返し抱きしめ返すイライザ。そこにジャイルズのナレーション、二人はどうなったのかは誰も知らないが、二人がずっと一緒に幸せでいることを願いたいと。暗転、エンドクレジット。

それは、特殊能力を持っているみたいで、ジャイルズの怪我を直したり髪の毛を増やしたりします。ちゃんとイライザとセックスができるというのも、彼女の手話で語られます。全裸のヒロインとそれがバスルームで抱き合ってる絵はかなりエロいですもの。サリー・ホーキンスは普通は大した色気も感じられないのに、脱ぐと色っぽいんですよね。ラストカットで、水中で抱き合う二人の絵に、ナレーションがかぶさるところはホントにロマンティックで美しく、もうね、恋愛ドラマで泣かされるなんて、と思うくらい盛り上がります。ラストで結局、二人は結ばれないのかと思わせて、もう一ひねり、それが逆襲に出るあたりのカタルシスもあり、エンタテイメントとしても、見応え十分でした。色々な要素を盛り込んだ中盤の展開から、クライマックスへ一気に収束させる演出力も見事でしたし、きちんと余韻も残る締め方も文句なく、娯楽映画としての完成度はすごく高いと思いました。アカデミー監督賞は納得の見事な映画になっています。作品賞まで行くと、これがそうかなあって気もするんですけど、この題材に隙の無い絵を音を与えたプロダクションを評価するってことならありなのかな。モンスター映画、オタク映画、大人子供映画のステータスを上げたという意味での作品賞だとしたら、意義は大きいかも。

「シークレットマン」はユニークな題材を面白く見せているけど、題材をもっと消化して欲しかったような。


今回は新作の「ザ・シークレットマン」を桜木町の横浜ブルク13シアター2で観てきました。ここは100席の小さいキャパですが、そこそこスクリーンはでかいという典型的なシネコンの小さなスクリーン。

50年以上FBIに君臨し続けたフーバー長官の急死は、FBIやCIAを自分の傘下に取り込もうとしていたニクソン政権には好都合でした。後任は、それまでFBI一筋の生え抜きの副長官マーク・フェルト(リーアム・ニーソン)かと思われたのですが、政治屋の司法次官補のグレイ(マートン・ソーカス)が抜擢されることになります。グレイはニクソン政権に近く、それまで大統領法律顧問からの誘いもFBIの独立性を守るために拒否してきたマークにとっては、最悪の展開となりました。かつての同僚でフーバーの下で汚れ仕事を専門にしてきて、今はニクソン人脈の一員サリバン(トム・サイズモア)がまたFBIへの復帰をもくろんでいたりと、どうも状況がキナ臭い。そんな時にウォーターゲートビルの民主党本部に侵入した男たちが逮捕され、これが元CIAに元FBI,さらにホワイトハウスにつながる人間だったためスキャンダルになりつつありました。マークは事件の黒幕を暴こうとしますが、グレイは捜査に期限をつけて、捜査活動を妨害してきます。さらに、捜査情報がマークをスキップして直接グレイに流れるように画策してきた結果、FBIの行動はホワイトハウスに筒抜けになっちゃいます。そこで、フェルトはワシントンポスト紙に電話して、捜査情報を流出させ、メディアを騒がせて、捜査を続行させようとします。ホワイトハウスもFBIに内通者がいるのではないかと圧力をかけてくるのですが.....。

実在したFBI副長官マーク・フェルトの物語を描いた実録ものの一編。マーク・フェルトとジョン・D・オコナーによる原作をもとに、「バークランド」のピーター・ランデズマンが脚本を書き、メガホンも取りました。物語はウォーターゲート事件の前後を描いたもので、ちょうど裏「大統領の陰謀」的な位置づけになります。「大統領の陰謀」が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だとすれば、この映画は「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2」みたいなポジションになるわけですが、伝わりますかしら。(← 若い人には何のこっちゃだよ)

映画はオヤジ同士の腹の探り合いを延々と見せるのですが、それでも退屈させないスリリングな展開になっているのはランデズマンのうまさなのでしょう。映画の冒頭で、フーバー長官が亡くなり、彼が私物で持っていたメモや文書を処分するところから、情報を扱う部署ならではのスリリングな行動に目が離せなくなります。そして、親ニクソンの長官代理がやってきて、FBIの情報をホワイトハウスに横流しを始めると、組織名こそFBIですが、要は「半沢直樹」のような企業ドラマの様相を呈してきます。社長が死んだら生え抜き副社長を差し置いて、銀行からやってきた天下りが社長の椅子に座るようなもんです。会社情報は銀行に筒抜けになって、副社長以下の生え抜き社員はどう出るのか。と、まあこんな感じの話になるのですよ。

ウォーターゲート事件の部分を絵解きしてくれる映画ではないので、事件の全貌を知りたい方にはオススメできません。一応、事件が背景にはなっているのですが、メインのドラマはFBIとホワイトハウスの中の権力争いの中で、掟破りのマスコミリークによってFBIを守ろうとした男の物語です。これが、新聞記者視点に立つと「大統領の陰謀」のように、正義のための情報提供者という扱いになるのですが、そのもう一つの顔は、初代亡きあとの跡目争いのお家騒動の顛末ということになります。ですから、最近の日曜夜9時のドラマがお好きな方は楽しめるのではないかしら。とは言え、実録ドラマではありますので、倍返しとかスカッとした結末は期待できませんので、カタルシスを期待すると「あれ?」という後味になります。

フェルトの奥さんも結構登場して、夫婦のやり取りもあるんですが、このダンナは公私ともに堅物みたいで、あまり面白い人ではないみたい。また、娘が一人いるんですが、革命とかにかぶれちゃって、家を出てFBIにもマークされている過激派の団体にいるみたい。これって、今なら大スキャンダルになるところですが、当時は公にならずにもみ消しておけたんだなあってところに時代を感じます。そんなプライベートに爆弾を抱えているフェルトが、他の仲間に嫌疑がかかることも承知の上で、マスコミリークをやっちゃうのはなぜだったんだろうってところは、私には不思議でして、映画の中でもその動機については明確に語られません。まあ、理屈としては、ホワイトハウスは不正をしていて、それをもみ消そうとしている。そのもみ消しのために、自分の組織も不正に巻き込もうとしてる。これは許せないけど、正規の手続きを踏んでも上にもみ消されるという状況では、他に打つ手がないということになったのかなあ。原作本ではそこが語られるているのかもしれませんが、この映画の中では、彼がそういう行動を取ったということだけが描かれます。私なんかからすると、フェルトみたいな堅物は、突発的にわけのわからんことをすることがあるから、いわゆる「殿、ご乱心」のパターンかなあ、とも思えて、あまり「正義」とか「義憤」という印象は受けませんでした。

でも、リークは現実にあったんだから、すごいよねえってことになります。映画の終わりに、字幕でフェルトのその後が説明され、アメリカの歴史の中で最も影響力の大きな内部告発者であり、その功績は計り知れないと示されます。どうやら、フェルトの人生を描くよりは、こういう掟破りの情報リークがあって、巨大な不正が暴かれたという事実を知らしめたいという意図があったようなんです。それなら、もっと事件を描き込んだ方がいいように思いますし、フェルトの人柄に迫るのであれば、もう少し人間臭さを出してもよかったような。題材の面白さ、出てくる役者のうまさもあって、映画としては面白く観ることができましたけど、後味としては、どこか物足りないりない後味が残ってしまいました。フェルトは、独立した組織としてのFBIに誇りを持っていて、時として非情になることもありますが、不正を正そうという正義感はあったようです。同じFBIで、汚れ仕事をやっていたビル・サリバンには明らかに不快感を示す一方で、過激派のテロ捜査のためには違法行為も辞さないというところもあります。ビル・サリバンはこの映画では明確な悪役という扱いですが、フェルトだって地続きの存在だという見せ方には面白いものがありました。堅物フェルトが違法行為でアメリカの正義を守ったということになるんですが、パンフレットのインタビューによると、監督には問題提起の意図があったようなので、こういう描き方は、その意図に沿ったものだとは言えそうです。そう思うと、フェルトのやったことは、結果としてはオーライの珍事件ということになるのかな。英雄でも必要悪でもないフェルトという存在に、アメリカの正義が委ねられた時があったことを覚えておいて、今後は彼のような存在が要らない世の中になって欲しいというお話と思えば、腑に落ちるものがあります。

演技陣は、それなりの面構えのオヤジ脇役陣が顔をそろえて、ドラマのサスペンス部分を盛り上げています。少ない出番ながら、ブルース・グリーンウッドは相変わらず存在感を示しますし、1シーンの出演ながらタイトルで1枚看板のエディ・マーサンがドラマの説得力に貢献しています。エピローグが悲しいフェルト夫人を演じたダイアン・レインは、人間味を見せないダンナと対照的な熱演で、ドラマに奥行きを与え、娘を演じたマイカ・モンローは知的美人で今後期待です。(と言いつつ、最近色々出ているらしいですが。)音楽を担当したダニエル・ペンバートンは、シンセサイザーとロンドン室内管弦楽団を使って、政治ドラマらしいスリリングな音を聴かせて、ドラマのサスペンス部分を盛り上げました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



フェルトはあちこちの住所に自分の娘宛の手紙を書き続けてきました。一見、娘を探す父親の行為に見えたのですが、宛先人不明で返ってこなかった住所を、過激派の居場所として部下に指示を出すのでした。一方、ホワイトハウスはCIAとFBIを自分の手中に収めようと画策しており、フェルトは目の上のたんこぶの存在で、情報リークもフェルトの差し金によるものではないかと疑いを持っていました。フェルトは自分の部下に罪をなすりつける形で事態を収拾させます。しかし、長官代行だったグレイが正式にFBI長官になり、副長官にエド・サリバンが就任することになったことを知り、フェルトは再度ワシントンポストに接触し、一連の事件の裏に大統領の関与があったこと、そしてかつてエド・サリバンが行った違法行為の事実をリークします。そのことで、査問会に呼ばれるグレーに「あなたの就任前の話だから、全て正直に話す方がいいですよ」アドバイス。結果的に、FBIの不正も含めて、ホワイトハウスのやっていた政敵への違法行為も白日のもとになり、グレーとサリバンの就任がなくなったことを確認して、フェルトはFBIを去るのでした。そして、娘の居場所を部下から教えられたフェルトは妻と一緒に娘を迎えに行くのでした。過激派の捜査のための違法行為で審問会に呼ばれたフェルトは、その違法行為の責は全て自分にあると証言します。そして、内部告発者をあなたかと問われたフェルトのアップでストップモーションとなって、暗転、エンドクレジット。

フェルトは、娘と和解し、FBIを円満に去ることができました。その後、21世紀になってから、自分が内部告発者であったことを告白して、本を出した後、亡くなりました。それより前に奥さんの方は自らの命を絶っていましたから、フェルトのやった功績の割には報われることはなかったように見えます。でも、彼自身清廉潔白とは言い難いところもありましたし、メディアへの内部情報リークはFBIへの背任行為ということもできますから、そのあたりの評価は短い言葉で語り切ることはできません。そういう複雑な人間事情まで、映画は描き切れたかというと、そこまでは至らなかったと私は感じました。でも、この題材を映画として残す価値はあると思います。ただ、望むなら、今(2018年)の時点で、彼への評価はどうなのかというところをもう少し突っ込んで欲しかったように思います。時間の経過と共に、歴史や事件の評価は変わっていきます。フェルトの評価も、正義の擁護者なのか、FBIの背任者なのか、組織を守るために違法行為を行った者なのか、それぞれの視点で、変わっていくでしょう。だからこそ、今はどうなのかというのは見せて欲しいように思いました。2018年の時点で、フェルトのやった行為がどう評価されたかということ自体が、アメリカの歴史の1ページになると思うからです。

「ビガイルド 欲望のめざめ」は前半でエロい展開期待すると、後半は民話調になる不思議な味わい


今回は新作の「ビガイルド 欲望のめざめ」を、上大岡のTOHOシネマズ上大岡2で観てきました。最初は観に行こうかどうしようか迷っていたのですが、アンダンテさんの記事に後押しされる形になって、劇場鑑賞となりました。これって、クリント・イーストウッド主演の「白い肌の異常な夜」のリメイクなんですって。子供の頃、テレビでタイトルに釣られて観たような記憶があるんですが、中身はすっかり記憶から飛んでいました。

1864年、南北戦争が終わりかけている頃の南軍側になるバージニア州。森の中できのこを探していたエイミー(ウーナ・ローレンス)は、北軍兵士が倒れているのを見つけ、住んでいる寄宿制の女子学校へ連れていきます。そこには、校長(ニコール・キッドマン)と教師のエドウィナ(キルスティン・ダンスト)がいて、戦時中でも帰るところのない生徒6人が住んでいました。そんな女だけの園に、転がり込んできた負傷兵。校長は傷の手当をして、南軍に引き渡そうと考えるのですが、このまま渡せばすぐ殺されるだろうから、傷が治るまで置いておこうということになり、エドウィナと生徒たちもそれを望みます。負傷兵は北軍のマクバニー伍長(コリン・ファレル)と名乗り、意外とジェントルな一方で、エドウィナを口説き始め、生徒たちも彼への好奇心を押さえきれません。校長は、キリスト教の慈悲の精神を生徒に学ばせるという大義名分で、マクバニーをかくまうのですが、彼の傷が良くなり始めて、園内を動けるようになると、生徒たちの注目を集めて、彼を招いた夕食では、女性同士のピリピリ感が出てきます。それでも、エドウィナを口説こうとするマクバニーは夜彼女の寝室へ行くと伝えるのですが、それが悲劇に始まりになるのでした。

トーマス・カリナンの小説をもとに「ヴァージン・スーサイズ」「ロスト・イン・トランスレーション」のソフィア・コッポラが脚本を書き、メガホンを取りました。ビスタサイズの画面の左右に黒みが出て、スタンダードサイズかと思ったのですが、それにしては横長感もあるサイズで何だろうと思ったら、パンフレットによると、ヨーロッパビスタという表示がありました。ビスタサイズというと、今はアメリカン・ビスタ(1:1.85)が主流なんですが、ヨーロッパ・ビスタ(1:1.66)というサイズもあるんですって。ビスタサイズにアメリカンとヨーロッパがあるというのは文献で読んでいて知ってたのですが、その違いをはっきりとスクリーン上で意識したのは初めてでした。(あんまり映画と関係なくて失礼しました。)

最初、負傷兵のマクバニーは、女の子や校長にも下品な言葉を使わずにジェントルに接します。でも、エドウィナには臆面もない愛の言葉を捧げるのです。この男がどういう出自なのかは一切描かれないのですが、そこそこ中流階級以上の人間みたいです。一方の女学校の校長や教師、生徒もどういうバックボーンを持っているのか描かれません。教師のエドウィナにはこの戦争で戦死した恋人がいたらしいのですが、それ以上は不明。そういう意味では、存在感が希薄な男と女たちの寓話的なお話という位置づけができそうです。女だけの園に、突然出現した若い男、いわゆるハーレム状態になっちゃうのですよ。敬虔なクリスチャンの女学校でハーレムなんて発想がお下品と言われちゃいそうなんですが、コッポラの演出はそこそこにエロいのですよ。いや、裸やエッチのシーンが出てくるわけではないんですよ。でも、負傷兵を運び込んだ後、生徒の一人は、いつの間にか先生のイヤリングをつけてるし、先生も普段はしないブローチをつけています。死ぬか生きるかの重傷を負った髭もじゃの男が転がり込んだからって、すぐ女を出してくるか?とオヤジの私なんか思っちゃうのですが、色気と無縁そうな女学校でもすぐそんな感じになってくる。女はいくつになっても女だというのは、年をとっても女は女ということを指した言葉ですが、この映画では、同じ言葉を、幼いようでも女は女と言う見せ方なんですよ。コッポラさん、同性にかなりシビアな視線。

彼を発見したエイミーは、それを特権と思ったか、彼の体を支える役を買って出たり、一方一番大人びたアリシア(エル・ファニング)は彼の部屋に忍び込んで眠っている彼にこっそりキスしたり、単なるお客以上の視線を向けるのです。校長は、彼の傷を縫ったり、体を拭いたりして、看護婦のことを一人でやってのけるのですが、それは、この男を他の娘たちの視線から遠ざけたいという意図があるように見えます。でも、娘たちはそんな校長の気持ちにはおかまいなく、どんどん自分たちの方から接近していくのですよ。校長としては、それはあまり面白くない。ニコル・キッドマンは、美人さんですし、まだまだ女としての現役感が強いので、設定は娘たちの母親的な存在でも、見た目は娘たちと同等のライバルにしか見えません。これは監督が狙ったものかもしれませんが、私なんかは、もっと不美人なオールドミスの方がリアルな葛藤が出たような気がします。そこは好みの問題でしょう。(← 何の好み? 熟女の好みとか。)

彼を食卓に招いて、みんなで食事するシーンがあるんですが、女性陣が牽制しあって、これがすごいピリピリ感で、息苦しくもおかしい。食後に生徒がそれぞれ得意な音楽を披露するシーンも妙な緊張感がみなぎっています。得体の知れない男、ましてや敵軍の兵士なのに、そんなに特別な存在になるのかとも思ったのですが、最初、マクバニーを観た生徒たちが、「ヤンキーっても普通の人だね」なんて言うシーンがあって、彼女たちがほとんど外の世界を知らないようなんですよ。そういう意味では、マクバニーは、単に男であるだけでなく、未知の世界の象徴ってことにもなるみたいです。だから、彼女たちの好奇心は性的なものにとどまらないで、外の世界への興味となって、マクバニーに向けられているんですが、マクバニーの方は、それを自分自身に向けられていると若干勘違いしちゃってるところがあります。俺ってモテモテじゃん、モテる男は辛いぜ、ふっ、っていうような気どりもあってか、女性たちにそれなりにジェントルに接してるみたいなんです。それだけなら、お互いの利害が一致して、ハッピーハーレムの方へ持っていくこともできたのですが、そうはうまくはいかないのです。

前半は、南軍兵士が登場したりして、それなりにストーリーを語るドラマになっているのですが、後半は、登場人物も限定され、映像も閉塞感が増してきて、そんな狭い空間では、生身の人間のリアリティはどっかへ飛んじゃって、何かおとぎ話(ちょっとエロいけど)みたいな展開になってきます。私は、ヘンゼルとグレーテルを思い出したのですが、後半の不思議な味わいは、ちょっとオススメかしら。後味は、本当はおそろしいグリム童話って感じかなあ。

演技陣では、儲け役ながらキルスティン・ダンストの先生役が光っていたように思います。エル・ファニングはルックスからのキャスティングかなとも思ったのですが、この二人が、女と娘の間を行き来するキャラで、マクバーニーを翻弄するというのがうまく描かれています。また、もう一人の儲け役、発見者のエイミーを演じたウーナ・ローレンスが今後の活躍を期待させる演技で印象的でした。撮影監督のフィリップ・ル・スールは、35ミリフィルムで撮影したそうですが、自然光を多用した映像は、屋外のクリアな感じと屋内の薄暗さのリアルな対照が面白かったです。薄暗いけど細やかな映像なので、見様によっては美しいのかな。(← あやふやな美的センス)



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マクバニーに後で部屋へ行くよと言われたエドウィナは色っぽい夜着に着替えてベッドに横たわっていると、そこへ足音がして、それは別の部屋へ向かいます。物音のする部屋へ向かうとそこにはマクバニーとアリシアがベッドにいたのです。誤解だというマクバニーとエドウィナはもみ合いになり、マクバニーは階段を転げ落ちて、足の怪我が悪化。校長はそれを見て、彼の片足を切断します。朝、気がついたマクバニーは大声を出して荒れ狂い、女性陣はみんなで肩を寄せ合って震えるばかり。門に助けを求める印をつけようとしたエイミーはマクバニーに見つかり、校長が隠し持っていた銃も奪われます。そんな逆上するマクバニーにエドウィナは自分の体を差し出し、その怒りを鎮めようとします。その間に校長と生徒たちは事態をどう収拾しようということになり、生徒の一人の「彼はきのこ料理が好きよ」という言葉に、彼に毒きのこを食べさせようということになります。エイミーが森で毒きのこを探してきて、再度、彼を食卓に招きます。エドウィナを抱いて、気持ちがおさまったのか、マクバニーは逆上した非礼を詫び、ここを出ていくと告げます。そして、彼は勧められた好物のきのこのソテーを口にします。その毒はすぐに効き、彼は息を引き取ります。生徒たちの刺繍の入った布でくるまれた遺体は、校門の前に静かに横たえられます。その遺体から、カメラは校門へと向かい、その向こうにいる校長、エドウィナ、生徒たちがたたずんでいる様子を捉え、暗転、エンドクレジット。

マクバニーが彼女たちの肉体に一歩踏み込んでしまった結果、それまでの力の均衡が破られます。アリシアのベッドにマクバニーが入っていったのは、マクバニーが無理やりだったのか、アリシアが挑発したからだったのかは明確には描かれません。校長が、マクバニーの足を切断したのも、命を救うために必要だったからなのか、彼を去勢しようとしたのか、そのあたりもはっきりしません。でも、なるべくしてなったという見せ方になっていまして、その後は、本当に寓話と言うか民話というかそんな感じの展開になります。校長たちが「彼をどうしたらいいでしょう」「あの人キノコ料理好きです」なんてくだりは、暴れる鬼に困った村人の相談みたいな味わいで、前半のエロい緊張感とはちょっと違います。自分の体で彼の怒りを鎮めようとするエドウィナの行為も、エロチックというよりも、荒ぶる神への生贄、人身御供のように見えてきます。そして、きのこを食べさせて、マクバニーが息を引き取るまでも淡々と見せて、大きな盛り上がりもないまま、死体を学校の外に置いて終わるのです。それは、オオカミが退治された赤ずきんちゃんの結末のようであり、前半、リアルだった校長以下の女性たちが、ラストは伝説の中に封じ込まれたように見えるのが、なかなか面白い後味になりました。後半、よりエロくなるのかなと思っていたら、こういう見せ方をするとは、コッポラ監督、なかなかエロいオヤジの期待には応えてくれないのでした。

「ザ・グレイテスト・ショーマン」は歌に乗れれば、細かいことは良いんだよ、音楽に乗ってシンプルなお話を楽しみませう。


今回は、日本橋のTOHOシネマズ日本橋8で、新作の「ザ・グレイテスト・ショーマン」を観てきました。TCXというちょっと大きめのスクリーンで、さらにドルビーアトモス音響設備での上映で、ドルビーアトモスに追加料金200円というシステムです。一回り大きなスクリーンでいい音響での映画鑑賞というと、昔でいうところの70ミリ上映に相当する感じでしょうか。でも、昔の映画館は70ミリ上映で追加料金は取りませんでしたから、今の方が世知辛いです。上映前に初めてドルビーアトモスのロゴを観ましたが、ドルビーデジタルのような音のダイナミックさをアピールするのではなく、森の中の映像で、音の繊細さと臨場感をアピールするものになっていたのは、なるほどと納得。ただ、映画(ソフト)がその特性を生かした録音をしてくれないと、せっかくの仕掛けが生かされません。そういう意味では、この映画では、ドルビーアトモスの追加料金の意味はあまりなかったような。ドルビーステレオがドルビーデジタルやDTSになった時、普通のドラマでは、音のチャンネル毎の独立性やチャンネル数の増加といった特性が生かされなかったのですが、追加料金は取られなかったので、あまり気になりませんでした。お金を取るなら、それにふさわしい映画(ソフト)でないとちょっと面白くないよなあ。(200円くらいでケチくさいと言われれば、その通りなんですが。)

貧しい仕立屋の息子と生まれたP・T・バーナム(ヒュー・ジャックマン)は、幼い頃からの知りあいだった、金持ちの娘チャリティ(ミシェル・ウィリアムス)と恋仲になり、彼女の父親の反対を押し切って結婚し、二人の娘をもうけます。でも、一家はずっと貧乏暮らし。チャリティはそれに不満はなかったのですが、バーナムは何とか一旗揚げたいと思っていました。働いていた会社が倒産し偶然手に入れた沈没した船の権利書を使って銀行から融資を受け、蝋人形やはく製を集めたバーナム博物館をニューヨークで開くのですが、まるでお客が来ません。娘の助言から、死んだ者でなく生きた者を見せて楽しませようと方針を転換し、当時フリークと呼ばれて差別されていた人々を集めて、彼らのショーを見せようと思い立ちます。小人や巨人に髭女、多毛症の犬男にシャム双生児、黒人の空中ブランコ乗りなどを集めてショーを立ち上げたら、良識者の顰蹙を買いつつも大ヒット。さらにショーを充実させるべく劇作家のフィリップ(ザック・エフロン)をスカウトします。フィリップは英国王室に話をつなぎ、バーナム一座は英国女王に謁見するまでになります。バーナムは、そこで同じく宮殿に来ていた有名な歌手ジェニー(レベッカ・ファーガソン)をアメリカに招聘して、舞台で歌わせたらこれがまた大当たり。ジェニーの舞台は上流階級にも大受けで、バーナムは彼女と一緒に地方巡業を企画してそれについていくことに。一座の方はほったらかしで、フィリップが頑張って舞台を支えていました。彼と黒人ブランコ乗りのアン(ゼンデイヤ)は恋に落ちるのですが、上流階級のフィリップと黒人女性では身分の違いが立ち塞がります。二人の募る想いは成就するのでしょうか。また、ジェニーに入れ込んでしまったバーナムとチャリティの間にも夫婦の危機が訪れていたのでした,,,,,。

「ラ・ラ・ランド」のチームが送る、なんて宣伝文句だったのですが、「ラ・ラ・ランド」の作詞・作曲コンビが歌を書いたということだけのようで、後はスタッフ、キャストもまるで別もののミュージカル映画です。実在した興行師P・T・バーナムを主人公に、TVシリーズでの脚本の実績があるジェニー・ビックスが原案を書き、それをビックスと「シカゴ」「ドリーム・ガールズ」のビル・コンドンで脚本化し、VFX出身でMTVの実績があるマイケル・グレイシーがメガホンを取りました。

舞台は19世紀のニューヨークなんですが、時代やバーナムを忠実に再現するのではなく、歌でバーナムと彼をめぐる人々の夢の物語を語ろうという作りになっています。ドラマとしてはまことにシンプルな構成になっているのですが、ドラマに歌がつくのではなく、歌が物語を語り、ドラマが物語を補佐するという関係になっていまして、とにかく歌のテンションの高さで、観客を最後まで一気に引っ張っていくという力技の映画なんですが、その歌が佳曲揃いなので、映画のパワーが只事ではないのですよ。音楽ネタに弱い私は、歌のパワーにウルウルきちゃいましたからね。また、シーンごとに曲が割り振られるが普通なのに、この映画は1曲の中で時間の経過を表現したり、シーン渡りをしたりという離れ業を見せてくれます。シーンに音楽を貼り付けていくのではなく、音楽にシーンを貼り付けていくという構成になっていて、そのつなぎにVFXを駆使して、流れるような画面を作り出すことに成功しています。VFX出身の監督だからか、映画のエンドクレジットにものすごい数のVFX技術者がクレジットされています。当時の街並みはミニチュアも使ったVFXで表現されているとのことで、後火災シーンとか動物などもCGで表現されているのかも。

お話の方は、バーナムという下流出身の男が、女房子供を抱えて一旗揚げようと頑張ったら大当たりするんだけど、成り上がりが思い上がって家族をないがしろにして上流社会を目指したら、紆余曲折あって、最後に家族のところに戻ってくるというお話。普通の映画だと、この紆余曲折の部分にドラマチックな見せ場を積み上げて、観客をはらはらさせながら、最後まで引っ張っていくのですが、この映画では、その紆余曲折を歌による説明でサラリと流して、すごくシンプルにお話にまとめています。楽曲にかなりの時間を割いているので、105分の長さの映画ですが、体感時間はもっと短く、あれよあれよという間に歌に聞きほれているうちにお話が進んでいて、ああ、これで終わり?くらいの後味が残る映画に仕上がりました。

主人公は興行師といての才能とパワーはあるんですが、それ以上に野心家なので、サーカスと呼ばれるバーナム一座を、お客を騙して満足させているある意味ペテンだと考えています。それが、ジェニーという本物の歌手を得て、念願の上流階級の目を釘付けにさせること成功します。それまでは、貧乏人の成り上がりだったバーナムが、本気で上流階級に認められようするのです。興行師としての成功を得たら、次は上流階級のステータスが欲しくなっちゃったということのようです。それまで、運命共同体(のようなもの)だった一座の連中とも一線を画し、劇場にも姿を現さなくなってしまうのです。その時に、バーナムの代わりに、ブランコ乗りに惚れているフィリップが頑張るので、一座は何とか興行を続けることができるのでした。

歌の部分は、大変に凝った撮影や編集された映像が、音楽のパワーをさらに増強させているのがお見事でした。観客の一呼吸先を行く場面転換によって、ぐいぐいと音楽が観客を引っ張っていく感じが、「ああ、これはすごい」と感心しちゃいましたもの。アクション映画並にカットを細かく割って、音楽の先を読むような編集は、普通のミュージカルだと、もっと長回しでダンスをきっちり見せろという不満につながるのですが、そういう不満を感じさせる隙を与えないライド感が乗れちゃうのですよ。MTVの監督だからこその演出なのかもしれませんが、余計なこと考えずに映画の中に心地よく身を置くことができる感じは、劇場でこそ堪能できる映画だと言えそう。ですから、家のテレビで観るとストーリー性のなさが目について評価が下がっちゃうかもしれません。また歌われるナンバーや振り付けも、19世紀じゃない今風のパワフルなものになっていまして、時代色というフィルターをパスして、ストレートに心に届く楽曲になっているのも点数高かったです。

バーナムが「ユニーク」な人を集めたら、彼を嫌う市民からは「フリーク」と言われちゃうところは、意外と話を美化していないのが好感を持てました。バーナムは、今風の言い方をすると、いわゆる見世物小屋に歌と踊りを加えたミックスコンテンツを作り上げて、一儲けを企んだということになります。パンとあんこを組み合わせた木村屋のあんぱんみたいなもんです。ですから、いわゆる平均値から大きく外れた人々(言いにくいな、うまい言葉がないから仕方ない)を表舞台に出して、「人々を笑顔にして」「お金をもうけよう」と思ったわけです。彼らは笑いを取ることが前提だし、それはお客を楽しませることになるのですよ。見世物小屋のエンタメ度をアップしたという言い方が、一番ふさわしいのかな。でも、この映画では、一座の人間は、それぞれに阻害されて孤独だった人たちがバーナムのおかげで居場所と仕事を与えられたことを肯定的に描いています。このあたりは表現の仕方で微妙な感じになりますし、バーナム本人を当時フリークと呼ばれた人々をどう思っていたのかまではわかりませんから、あくまでフィクションの設定として楽しむのが正解なのでしょう。

ただ、この映画を観て、思い出したのは、小人プロレスのこと。くわしいことはググって調べていただきたいのですが、昭和時代にプロレス興行の前座的な存在で、小人プロレスというのがあって、「笑いの殿堂」と言った謳い文句で、お客さんを笑わせて楽しませていたのです。ところが、身体障碍者を見世物にしているのがけしからんというクレームが良識ある市民から寄せられて、小人プロレスの興行はできなくなってしまいます。でも、当のプロレスラーはもっとやりたいと思っていましたが、結局彼らは仕事を一つ失いました。今のアメリカで、バーナムのようなショーが成立するのかなと思うと、考えさせらるものがあります。「人間をみな平等に扱う」ということと「チビの将軍と女の髭で笑いを取る」というのは、どういう倫理観(←大げさですが)で成り立つんだろうなって。これって、「笑われる」ことと「笑いを取る」というところに大きな違いがあると言われているのですが、観客からすれば、笑って楽しんでいるということでは同じなんですよね。じゃあ、障害のない芸人が客を笑わせるのならいいのかってことになりますが、そこまで言うと「あ、何か逆差別っぽいぞ」ってところにたどり着きます。この映画は、そんな深いところまで言及していませんけど、アメリカでは、このバーナム一座の興行は現代的視点でどう評価されたのか気になるところではあります。

演技陣では、ヒュー・ジャックマンとザック・エフロンが自然に達者なところを見せて、実力を感じさせます。一方で、ナチュラル演技でそのパワーを見せてきたミシェル・ウィリアムスはあえて得意の演技を大げさに変えないで繊細なヒロインを演じきりました。「ローグネイション」や「ガール・オン・ザ・トレイン」などでドラマチックヒロインを演じ切ったレベッカ・ファーガソンが歌唱シーンの大熱演で場をさらっちゃうのは見事でした。歌は吹き替えでも、絵として完璧に歌いきっていましたもの。



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バーナムとジェニーのアメリカ巡業は大成功となるのですが、ツアーの途中で、バーナムの頭を妻と子供がよぎって、ジェニーの彼に対する想いを拒否したことで、彼女はバーナムに別れを告げます。しかし、ステージ上での彼女のバーナムへの別れのキスが大スキャンダルになっちゃいます。一方、一座の方はフィリップが頑張っていたのですが、怪物は町から出てけという愚連隊みたいな連中ともみ合いになり、その一人が劇場に火を放ちます。巡業を切り上げてきたバーナムも、自分の劇場が燃え盛っていてびっくり。中にアンがいると勘違いしたフィリップが火の中に飛び込んでいったのを、バーナムが彼を追って、炎の中からフィリップを救い出します。まだ息のあるフィリップに付き添うアン。一方スキャンダル記事を読んだチャリティは娘と実家に帰ってしまいます。焼け跡で呆然とするバーナムは酒場へ入って朝から飲んでいます。そこへ一座がみんなでやってきて、あんたは金儲けのつもりかもしれないが、おかげで自分たちは家族と居場所を得たんだと励まします。彼らの励ましを受けたバーナムは、チャリティを迎えに実家に向かい、彼女も再びバーナムの胸に飛び込むのでした。興行資金の銀行融資は断られてしまうのですが、フィリップが一座の売り上げを貯めておいたので何とかなりそう、でも劇場はない。そこでバーナムは海沿いの空き地にテント興行をすることを思い立ち、再びショーにたくさんのお客さんが集まりました。バーナムは、座長のシルクハットをフィリップに渡し、娘のバレエの舞台を観に行くのでした。客席で寄り添うバーナムとチャリティの姿からフェードアウト、エンドクレジット。

バーナムがジェニーに走って、またチャリティに戻ってくるところは、歌で状況を説明するだけで、あえてメロドラマの愁嘆場で盛り上げず、火事とスキャンダルで全てを失ったバーナムが、一座の面々に励まされて、また頑張るぞってところをクライマックスにして、一気にフィナーレまで持っていくあたりの、段取りのうまさはお見事。アンとフィリップも無事に結ばれて、全て丸く収まりましたというハッピーエンド。そんな中で、スウェーデンからバーナムに惹かれてやってきた歌姫ジェニーだけが悲劇のヒロインでちょっとかわいそうな感じになっちゃいます。レベッカ・ファーガソンは悲劇のヒロインがよく似合う演技とキャラだと思ってましたけど、こんな映画でそこを踏襲しなくてもって思っちゃいました。ともあれ、欠点もある主人公で、ストーリーもよく考えるとアラもあるんですが、楽曲の素晴らしさで、一気に突っ走る演出で、最後まで見せ切ったのは、監督の腕が見事だったということになるのでしょう。

サントラ盤をさっそくゲットしたのですが、歌ばかりのサントラになっていたのはちょっと不満。ドラマチックなジョン・デブニーのスコアもアルバム化してくれないかしら。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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