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「アンロック/陰謀のコード」は監督の手堅い演出と二転三転するストーリーがいい感じで好き。


今回は、新作の「アンロック/陰謀のコード」を、横浜上大岡のTOHOシネマズ上大岡6で観てきました。この映画、私、まるっきり白紙状態で臨んで、その二転三転するストーリーでかなり高い評価となりました。ですので、この映画をご覧になる予定の方は、以下の記事を一切読まずに、劇場に行くことをオススメします。



ロンドンで囮捜査中のCIAエージェントのアリス(ノオミ・ラパス)は尋問官と有能でしたが、パリでの爆弾テロの犯人を尋問したが、結局犯行を阻止できず、24人の犠牲者を出したことがトラウマになっていました。過激派の指導者ハリルが、英国でのテロ実施の指示を使者ラティーフへ託したという情報を得たCIAは、ラティーフを拉致して、実行犯への指令を変更させようとしていました。アリスは、CIAのサッターから、ラティーフの尋問をせよという指令を受け、気が進まないまま部屋の一室に監禁されているラティーフから、実行犯を信用させる合言葉と指令の内容をほぼ聞き出すことに成功します。しかし、そこへCIAから電話がかかってきて、ラティーフの尋問をするよう指示がきます。しかし、既にラティーフを尋問中のアリス。ここの自称CIAの連中は何者? 気付いたサッターたちと銃撃戦となり、ラティーフは流れ弾で死亡。何とか逃げ延びたアリスは、元上司のエリック(マイケル・ダグラス)のもとを訪れ、自分がはめられたことを説明するのですが、そこにも追手が現れて、エリックも殺されます。そして、エリックの元妻のアパートへ逃げ延びるのですが、そこにはちょうど空き巣に入ろうとしていたジャック(オーランド・ブルーム)と遭遇。アリスはCIAのヨーロッパ部門長ハンター(ジョン・マルコビッチ)に連絡を取って応援を依頼するが、そこへロンドン警察の特殊部隊が現れ、連行されそうになるのですが、ジャックが彼女に加勢して、脱出に成功します。元海兵隊員と名乗るジャックは、アリスへの協力を申し出て、二人でハリルのいるレストランに潜入、ハリルに事情を話して事実を確認すると、彼が言うには彼が使者に託した指令はテロの中止でした。どうやら、その中止指令を、実行指令に変えて実行犯に伝えようしている連中がいるらしいのです。アリスの友人でもあるMI5のノウルズ(トニ・コレット)へ協力を仰ぐアリスですが、使者と実行犯が接触する時間が迫っていることがわかるのでした。果たして、生物兵器によるテロを阻止することができるのでしょうか。

ピーター・オブライエンの脚本を、「ネル」「エニグマ」「ボディ・バンク」のマイケル・アプテッドが監督したサスペンススリラーの一編です。過去にテロ阻止に失敗した尋問官であるヒロインが再び無差別生物テロに巻き込まれるというものでして、98分という最近の映画としては短めの尺の中で、二転三転するストーリーで最後まで楽しませてくれる娯楽映画の佳作です。「ネル」「エニグマ」「ボディ・バンク」で優れたストーリー・テラー以上の腕前を見せていたアプテッド監督が、ここでは手堅い娯楽職人に徹して、映画館で観るお値打ちのある映画に仕上げています。彼の過去の作品群からすれば、もっと登場人物の奥行きをつけた人間ドラマにすることもできたような気もしますが、役者をそろえて見せ場も渋めにして、それで合格点以上のエンタテイメントまで持っていった手腕はなかなかのものと申せましょう。手堅く面白い映画を作る監督ということで、私の中では、ジョエル・シューマッカー、ロジャー・ドナルドソン、サイモン・ウェストと並ぶ信頼の職人監督の一人になっています。

オープニングは、テロの実行指令が使者に伝えられ、CIAの本部では、この事実を嗅ぎつけていて、オートバイに乗っている使者を路上で拉致するという荒業を見せます。本部では、使者の尋問をしなくちゃいけないけど、尋問官がリタイア状態のアリスしかいないという話になり、アリスがCIAのエージェントに呼び出されて、尋問することになるというのは、テロを扱ったサスペンスの流れとしては極めてスムースというか、アプテッドの演出も手際よく導入部を語っていくのですが、尋問の途中でCIAのホットラインからアリスに電話がかかることで、アリスを呼びだした連中が偽物だとわかって、おー、びっくり。殺される寸前で脱出に成功した彼女は、アメリカのCIA、イギリスのMI5、そして、彼女をハメた謎の連中から追われる身になってしまいます。元上司のところに逃げ込んだものの、そこにも追手が現れ、元上司が指定した隠れ場所には、変な男が空き巣に入っている。最初の尋問のところから騙されていたとなると、出てくる連中がみんな怪しく見えてくるという展開ですが、アプテッドの演出は、変に思わせぶりところを見せないで、ヒロインの周りで起こる出来事をストレートに綴っていくので、素直に物語に乗りやすく、その分、先の展開が読めない映画に仕上がっています。

ヒロインのアリスは、尋問官としてはかなり有能で、大の男と渡り合える腕っぷしの持ち主でもあります。一方で、自分が解決できなかったテロ事件の24人の犠牲者の記憶を常に引きずっているというキャラ設定は、男性ヒーローにはよくあるけど、女性キャラでは珍しいかも。大体、腕っぷしの強い女性という設定のハードボイルドヒロインは、過去のトラウマに悩まされたいしないですから、そういう意味では結構珍しいタイプのヒロインと言えるかも。脇を固めたマイケル・ダグラス、オーランド・ブルーム、トニ・コレット、ジョン・マルコビッチといった面々はみんな怪しく見えるので、どいつが裏切って、どいつがヒロインの味方なのか最後まで読めないところも面白かったです。ここでもアプテッドのもったいつけない演出が功を奏していて、おー、こいつが裏切るのかーって素直に楽しむことができました。普通のドラマのセオリーをちょっとだけ裏切る展開もうまいと思いました。このちょっとだけというのがミソでして、基本は王道娯楽映画の作りで、尖った演出をしないで、意外な展開を見せるというのは、やっぱり年季を積んだ職人芸ではないかと思うわけです。若い頃にシリアスなドラマを撮ってきて、70歳過ぎて、こういう娯楽映画をきっちりと面白く作れるってのはすごいよなあって素直に感心しちゃいました。

じゃあ、単なるお気楽映画かというと、ドラマ部分にはきっちりシリアスネタも盛り込んでありますし、組織の非情さですとか、敵方の悪辣ぶりも丁寧に描いているので、ドラマが軽くなりません。今風のギリギリアクションも盛り込んであるのはご愛敬としたいくらい、ドラマ的には古風な作りになっているのではないかしら。そのあたりが若い人には、物足りないとか詰めが甘いとか思われるかもしれないけど、私はこういう映画好きです。映画館で観るエンタテイメントってのはこういうものだとずっと思ってきたからです。この映画に比べたら、新しい「トゥームレイダー」なんて、まだ青いよねって思っちゃいます。(あっちの映画は、ヒロイン萌え映画としては、こっちより勝ってますけど。)



この先は結末に触れますのでご注意ください。



使者と実行犯の落ち合う場所がMI5の捜査から判明し、それがアリスにも伝わります。それを知ったところで、それまで彼女と行動を共にしてきたジャックが豹変、アリスを殺そうとします。ジャックもアリスをハメた連中の一味だったのです。格闘の末、エレベータに押し込まれるアリスですが、そこに乗り合わせてきた男の連れた猛犬を使って反撃、地下でさらに格闘になるのですが、猛犬の男がジャックを撃って逆転。使者と実行犯の落ち合う場所で待ち伏せしたアリスとMI5ですが、そこへ現れた実行犯は偽者で、使者のキーワードを聞き取られてしまい、さらにMI5の中に敵が紛れ込んでいて、逆に狙撃される始末。何とか逃げのびたアリスは、偽者を追跡し、たどり着いた先にいたのは死んだ筈の元上司のエリックでした。エリックは政府の危機管理を強めるために生物テロを実行させようとしていたのでした。使者のキーワードによって誤った指令が伝わり、ビッグゲームのスタジアムに仕掛けられた生物兵器が散布されようとしていました。その時限装置を起動させるエリックとそれを阻止しようとするアリスは格闘になり、最終的にエリックはビルから落下、散布3秒前に時限装置を停止させることに成功します。さらに、逃亡した実行犯を追ったアリスは、チェコですれ違いざまに実行犯の動脈を裂きます。仕事を終えたアリスを迎えるハンターの車で去っていくところでおしまい。

あらすじだけだとこんな感じですが、結構細かい展開をしまして、黒幕がエリックとわかってからも、最初にアリスに銃を向けられたエリックが反撃して、テロの現場近くのビルへ移動して、そこで時限装置を起動させると、追ってきたアリスと格闘になり、さらにエリックの部下も銃撃やら手榴弾を投げたりと色々とやってくれて、ヒロインのピンチを盛り上げます。とは言え「アトミック・ブロンド」のようなスーパー・ヒロインでないところが、そこそこのリアリティと淡泊な感じになるところもあって、もっとガンガン盛り上がらないともの足りないと思う方もいらっしゃるかもしれません。でも、1970年代からこの類のB級アクションやサスペンスものを観てきた私には、たまには、このくらいが丁度いいと感じました。最近のマックス振り切る感じのアクションもテンションが上がって悪くないのですが、その一方で、ほどほどの大衆食堂感も捨てがたいものがありまして、この映画は、高級じゃない素材を使って、おいしく作った日替わり定食みたいな味わいが、私はかなり好きです。
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「女は二度決断する」はドイツのある現実を問題提起する映画でしたけど、私には手に余る感じでした。


今回は、新作の「女は二度決断する」を、川崎の川崎チネチッタ2で観てきました。他のシネコンでプログラムを買うと「これでお間違いないでしょうか。」って言ってくるんで、イラっとくることあります。「初めて買うんだから知らねーよ、お前が間違えなきゃいい話だろ。」って腹の中で(たまに口に出して)言ってるんですが、チネチッタでプログラムを買うと「〇〇はこちらになります。」って渡してくるのです。やっぱりチネチッタは一日の長があるなあって感心しちゃいます。(これって、クレーマーになるのかな、でも、間違ってるかどうか判断する根拠はこっちにはないのに、念押されるのがやな感じなのですよ。)

ドイツ、ハンブルグで、カティヤ(ダイアン・クルーガー)は、トルコ系移民ヌーリ(ヌーマン・アチャル)と結婚し、息子ロッコも生まれて、3人で幸せに暮らしていました。しかし、ヌーリの事務所の前で爆弾が爆発、その場に居合わせたヌーリとロッコは死亡。カティヤは爆破前に事務所を訪れていて、そこを出た時、自転車を置いた女のことを覚えていました。ヌーリは麻薬の密売で前科があったことで、警察は犯罪組織とのトラブルから捜査を開始します。絶望のどん底の追い込まれたカティヤは自殺未遂まで図るのですが、警察の捜査から、事務所前の自転車の荷台の箱が爆弾だったことが判明し、カティヤの証言にもとにした似顔絵から、ネオナチの夫婦が逮捕されます。夫婦の家から爆弾の材料や少量の爆薬も発見され、裁判に臨んだカティヤですが、事件当時、彼らがギリシャのホテルに泊まっていたという証言が出て、さらに夫婦の家に身元不明の指紋が見つかったこと、さらにカティヤが事件直後に麻薬をやっていたことが拡大解釈されて、その証言の信ぴょう性がないと判断されてしまいます。ギリシャのホテルのオーナーが極右政党の支持者でナチとの関連も指摘されるのですが、アリバイを崩すまでには至らず、法廷は、ナチの夫婦に証拠不十分で無罪を言い渡してしまいます。弁護士は上告するようにカティヤに言うのですが、彼女は果たしてどう出るのでしょうか。

俳優出身で「50年後のぼくたちは」のハーク・ボームが、「愛より強く」「ソウル・キッチン」のファティ・アキンと共同で脚本を書き、アキンがメガホンを取った犯罪サスペンスの一編です。物語はフィクションですが、実際に起こったNSUというドイツ人の極右組織による、トルコ人への連続テロ事件をベースにしています。この時、ドイツ警察がトルコ人の犯罪組織の犯行だとして捜査を進めたことが人種差別として、後に糾弾され、メルケル首相が遺族に謝罪するまでに至ったという事実があるんですって。(これは、プログラムからの受け売り)そういう事実の部分を、フィクションのドラマに盛り込むことで、今のドイツの状況への批判と希望を描いた映画でもあるみたいです。ヒロインのカティアが青い目の白人だということも、トルコ人差別への一石になっているそうで、単なる爆弾テロの映画ではないらしいのですが、そのあたりは私もプログラムの解説を読むまでは全然理解できていませんでした。まあ、知らないことを知る機会になりましたから、観て勉強になる映画でした。

カティヤは、酒や煙草も結構やりますし、体中に入れ墨入れてて、麻薬もやるし、品行方正なヒロインではありません。警察から、トルコ系犯罪組織の内輪揉めを疑われ、ネオナチの仕業ではないかと言っても黙殺されて、憤りと絶望のあまり、手首を切っちゃうあたりはかなり悲惨。どうも彼女自身、若い頃色々あったみたいで、ヌーリとの家庭を築いたことで、ようやく幸せを手に入れたらしいのですよ。裁判で、麻薬をやっていたことを被告の弁護士から指摘されて、証言の信ぴょう性が下がっちゃうのは気の毒ではあります。

この映画で印象的だったのは、裁判で、被告夫婦の父親が、息子がネオナチだと知って、息子を告発する側の証人として証言するところです。息子は恥ずべきことをしたという認識があるのはわかるのですが、父親が息子を犯罪者として告発するなんて、ドイツではそういうことがあるのかなあって不思議でした。こういう時、父親が息子を告発しても、擁護してもボコボコに叩かれると思うので、日本だったら沈黙を守るんじゃないかなって思うのですが、裁判で息子がネオナチだと証言するんですよ。成人した息子の行動は息子の責任であり、親の責任を問うということはドイツではないんでしょうね。息子の罪でも告発するのが、市民としての義務なのかも。もちろん親子の情はあるんでしょうけど、どっちを優先するかってところで、日本とドイツは違うんだろうなあ。

ファティ・アキンの演出は、ヒロインの絶望を淡々と追っていきます。裁判の部分は、それなりの盛り上がりはあるんですが、結果的にカタルシスはないまま、後半は、ヒロインの行動をまた淡々と描いていきます。結末もカタルシスはなく、何かやるせない気分になる映画ですので、元気のない時やお疲れ状態の方にはオススメできません。それでも、観終わって感じる何とも言えないわだかまりは、物事を考えるきっかけになるのではないかしら。映画は結末よりも、そこに至るまでの、ドイツの今を描こうとしたところがあり、そういう意味では、「はじめてのおもてなし」にも通じるところがあるのではないかと。ダイアン・クルーガーは世界をまたにかけて活躍する女優さんですが、ここでは、絶望が怒りに変わっていくヒロインを熱演していて、彼女の存在感がドラマに厚みとパワーを与えています。怒りの果てに、彼女が見せるのは、諦観なのか無常観なのか、劇場で確認していただきたいです。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



無罪判決が出た後、カティヤは単身でギリシャへ向かいます。ネオナチ夫婦を泊めたという極右オーナーのホテルに出向いて、オーナーに追いかけられたりしますが、逆に彼を尾行して、ネオナチ夫婦が海辺のキャンピングカーに身を隠しているのを見つけ出します。ホームセンターで肥料を買い込んで、夫と息子を殺したのと同じ爆弾を作るカティヤ。朝のジョギングに出かけたネオナチ夫婦を確認して、爆弾をキャンピングカーに仕掛けて、二人が帰るのを待ち受けるのですが、何を思ったのか爆弾を持って帰ってしまいます。弁護士から、控訴するんだろとの電話に、もう疲れたと答えるのですが、それでも、控訴のサインのために明日の朝来るようにと言われて、一応行くと言います。ホテルに帰ると、夫と息子の動画を見て物思いにふけるカティヤ。翌日、また朝のジョギングからキャンピングカーに戻ってくるネオナチ夫婦。すると画面の向こうから近づいてくる影が映り、ピントが合うとそれはカティヤとわかります。背負っていたバッグを前に抱えて深呼吸するとキャンピングカーに乗り込みます。その直後に車は爆発を起こすのでした。おしまい。

ネオナチ夫婦に爆弾を仕掛けて、一度はためらったカティヤが、最後は夫婦もろとも自爆するという結末はかなりビックリ。復讐に走るところまでは想像がついたのですが、一度ためらったので、爆弾は使わないんだろうなと思わせての、ドッカーンですから、何とももやもやしたものが残る結末でした。テロ行為は許されない、でも法治国家では証拠不十分では裁けない、では復讐は許されるのか、自分もろともならOKなのか、簡単に答えの出せる問題ではないのですが、そこを顧客にぶん投げて終わるのは、かなり意地の悪い映画なのかも。憎しみの連鎖を止めたという言い方もできなくもないのですが、ヒロインの中でこれでOKなのかというとそうも見えない。何をしても、彼女が救われることはないという見せ方になっているので、彼女以外のところに、少しは希望の種を見せてくれてもいいような気もします。誰にも答えの出せる問題ではないと思うものの、問題提起はありだとしても、こういう形で顧客に投げつけるのは、やり方がきついって思った次第です。題材としても、ドラマとしても面白い、見応えがある映画なのですが、観客にもう少しやさしくてしてもいいのではないかしら。

「ウィンストン・チャーチル」は歴史認識を意識して観ると色々と発見があります。


今回は、新作の「ウィンストン・チャーチル」を川崎の109シネマズ川崎8で観てきました。金曜日の夜の回としては、地味な映画の割に結構な入りでした。

1940年5月、ヒトラー率いるドイツ軍はベルギー、かへ侵攻してきていました。イギリスでは、これまでドイツと宥和政策をとってきたチェンバレン首相の内閣に不信任案が出どされ、与党と野党が一緒にあって挙国一致内閣を作ることとなりました。保守党としては、色々と問題あるけど、野党の信頼の厚いウィンストン・チャーチル(ゲイリー・オールドマン)が選ばれ、国王ジョージ6世は渋々ながら、宮殿で彼を首相に任命します。着任したチャーチルは議会での演説で、ドイツとの徹底抗戦を煽り、チェンバレンや首相候補だったハリファックス卿は、外交という選択肢を一切語らないチャーチルに不安を抱くのでした。英国陸軍30万がダンケルクでドイツ軍に包囲されて危機的状況にある中、チャーチルはラジオ放送で英国が優勢であるかのような演説を行い、国王やハリファックスたちからさらに反感を買ってしまいます。ムッソリーニを仲介としてヒトラーと交渉の席に着くべきという他の閣僚に対して、そんなことをしたら歴史ある国家が消滅する突っぱねるチャーチルは、民間船を徴発して、ダンケルクへ兵士救出に向かわせるダイナモ作戦を指示しますが、ベルギーは陥落し、フランスもドイツの手に落ちることは見えています。自分がやろうとしていることに迷いが生じてくるチャーチルですが、国王は彼の家を訪ね、今後彼を支持することを約束します。そんな中で、チャーチルは地下鉄に乗り込み、市民の意見を聞き、あくまでドイツには屈しないことを、閣僚や議会に対して演説し、国民の支持を得ることに成功するのでした。

「博士と彼女のセオリー」のアンソニー・マクカーテンが脚本を書き、「つぐない」「ハンナ」のジョー・ライトがメガホンを取りました。1940年の5月という時間を限定して、そこに歴史の分岐点があったんだよというお話でして、特殊メイクによってチャーチルに変身したゲイリー・オールドマンの熱演により、アカデミー賞では、メイクアップ&ヘアスタイリスト賞と主演男優賞を受賞しました。物語の見せ方の独特のセンスを感じるジョー・ライト監督だけに、実話を映画化するというところで期待するものがありました。そして、観終わってみれば、映画の仕掛けと見せ方に、ちょっと怖い映画かもと思ってしまいました。

まず、この映画の仕掛けの一つが、特殊メイクでチャーチルのそっくりさんを作ってしまったということ。アカデミー賞を取り、タイトルで一枚看板で名前が出るという扱い(これ日本版だけじゃないよなあ)の辻一弘の仕事は素晴らしいものがあり、チャーチルのルックスで、ゲイリー・オールドマンの演技をさせることに成功しています。そして、1940年の5月という期間限定で、歴史の大きな転換点を、どこまでリアルなのかはわからないけど、ドラマチックに描くことに成功しています。その一方で、チャーチルが地下鉄で市民の声を聞くというシーンは、何だか講談のエピソードみたいで、あまりリアリティが感じられません。そもそも、思いっきり見た目を本人に寄せるという趣向自体、何だか紙芝居的な演出のように思えます。つまり、役者の演技よりも、物まね感の方が前面に出ちゃうのですよ。そう思うと、チャーチルの人間像の迫るというより、その時代にチャーチルがどう関わったのかというのが、ドラマのキモなのではないかしら。

チャーチルがどういう人間だったのかは史実に基づいて描かれているようですが、プログラムを読む限り、この頃のチャーチルが何を考えていたのかは、回顧録でも空白になっているようなんです。ですから、彼が自分のしていることに確信が持てなくなって悩んじゃうなんてのは、ドラマの脚色かもしれないですし、実際に史実どおりでない部分もあるのではないかしら。ともあれ、その当時、ナチスドイツがヨーロッパを武力侵攻していて、英国では、ヒトラーに対して割と大目に見てきたチェンバレンが首相の座を追われて、強硬派のチャーチルが党を越えた挙国一致内閣のトップに立ったということのようです。で、ダンケルクに英国陸軍が追い詰められて、このままだと多くの若者が犠牲になるというとき、他の官僚は、ドイツとの和平交渉をすべきとチャーチルを説得するのですが、彼は断固拒否し、カレーにいる部隊を時間稼ぎの囮として使い、その間に民間の徴発船を使って、兵士を輸送するという作戦を取ります。チャーチルはカレーの部隊へ、救援は行かないと電報を打ち、カレーは陥落し、最終的にダンケルクから多くの兵士を救出することに成功し、英国は戦況を立て直すことに成功するのです。映画は、そこまでは見せず、英国議会で演説したチャーチルが与党野党の両方から喝采を浴びるところで終わります。映画の最後で、彼の議会での演説を聞いたハリファックス卿が「彼は、言葉を武器にして戦場に乗り込んだのだ」と言うのですが、これを聞いたとき、演説で人心をつかんだヒトラーと同じじゃないかと気づかされました。ヒトラーもチャーチルも方法論的には同じことをしていたんだなあって。

映画は、そこに至るまでの、銃後の政治のやりとりを中心に展開するのですが、結果論からすれば、イギリスはドイツとの和平交渉をしなくてよかったということになり、チャーチルは正しかったということになります。でも、政府の中で、彼を支持する人間はおらず、孤立無援の状態で、徹底抗戦をうたったのが偉いという見せ方になってまして、それは国民の声に沿ったものだったということも語られます。ラジオ放送で国民を鼓舞するために戦況の報告で嘘をついたことも、結果オーライ的な見せ方になっています。太平洋戦争で、日本軍が嘘の戦況報告をして、国民を鼓舞し続けたことは、今は恥ずべきこととして認識されていますが、これ、もし日本が勝っていたら、嘘で国民を鼓舞したことは偉業としてみなされたのではないかしら。さらに、言うなら、もしヒトラーが勝っていたら、「アドルフ・ヒトラー チャーチルから大英帝国を奪った男」なんて映画が作られて、意外とお茶目な素顔のヒトラーを名優が演じていたかもしれません。その時は、チャーチルは引き際を見誤って、敗戦のイギリスの復興を30年遅らせた男という位置づけになるのでしょう。

映画の冒頭で、英国議会を俯瞰でとらえて、だんだん下へ降りていくという凝ったカットから始まるのですが、これは最初は神の視点で物語は始まるという意味らしいです。そして、カメラが地上に降りてきたとき、物語は、最終的に戦勝国となったイギリスの視点で語られているということを表現しているように思います。後、印象的な俯瞰カットは、イギリスから見捨てられたカレーの部隊長が要塞で上を見上げるとカメラがぐんぐんと上がっていって俯瞰ショットになり、そこへドイツの爆撃機が爆弾を投下して要塞を破壊するというシーンがあります。これは、カレーの部隊の死については、イギリスは何も言い訳ができない、神の判断を仰ぐしかないということを表現しているように見えました。

そう考えるとこの映画は、チャーチルを客観的に、偉い人、正しい人として描いているのではないらしいということに気づかされます。オープニングで、映画は神の視点ではなく、戦勝国イギリスの視点で描かれていると宣言され、その中で後付けでチャーチルを持ち上げているお話なのです。監督が、意図的にそうやっているのかどうかはわからないのですが、最終的にチャーチルを批判的には描けないという制約の中で、偉人チャーチルというのは、戦勝国の理論で正当化されることを示したというのは、結構すごい映画なのかもしれません。この映画では、悪役っぽいポジションになるハリファックス卿も、その結果次第では、多くの英国の若者の命を救った苦悩する英雄として、歴史のその名を遺したのかもしれないのです。

歴史というのは本当に不思議なもので、常に過去も今も変化を続けていて、今から見た第二次世界大戦の評価は、あくまで今現在のものでしかなく、それがこの先、ひっくり返されない保証はないのです。歴史修正主義なんていう、難しいイデオロギーを持ち出さなくても、歴史は常に修正され続けています。その中で、2010年代の歴史認識を表現した映画として、この映画は位置付けられるように思います。

作り手としては、チャーチルという人間そのものに興味を持って、この映画を作ったように見えるのですが、チャーチルという人間を完全に客観的には描けなくなって、現在の歴史認識との相対的な関係を描くことになったのではないかしら。徹底抗戦を叫ぶタカ派なんだけど、その姿勢が結果的にイギリスを救ったのだから、それを偉いことだと言い切ったら、客観性を失うというジレンマをこういう見せ方で着地させたというのは、かなりすごい映画なのかも。奥さんに頭が上がらないとか、秘書との信頼関係とか、人間的なキャラクターを肉付けしてはいるのですが、政治家としてのチャーチルとは、まるっきり別の世界のような見せ方に私には見えましたもの。何ていうのかな、この映画の中のチャーチルって、一人の人間として、集約できてないように見えたのですよ。家庭のキャラ、秘書に対するキャラ、政治家としてのキャラとかを描いているものの、政治家としてのキャラは歴史認識の変化とともに変わって見えるものだから、全てのキャラを同じレベルで描けなかったというふうに感じちゃったのです。うーん、言葉が拙くて、うまく伝わらないのが情けない。

「ペンタゴン・ペーパーズ」はヒロインドラマとしての見応えでオススメ、面白いです。


今回は新作の「ペンタゴン・ペーパーズ」を、できたばかりのTOHOシネマズ日比谷1で観てきました。TCXという大きめスクリーンの劇場でしたが、昔の映画館の70ミリ画面に相当するのかとも思ったのですが、どんな映画でも大きなサイズということで、35ミリの上映から、70ミリに変わるわくわく感はないんですよね。

1965年、マクナマラ国防長官(ブルース・グリーンウッド)はベトナムを視察し、その戦況を戦場でリポートしたエルズバーグは状況の悪化を彼に伝えますが、マクナマラの公式見解は「飛躍的に進展している」というものでした。これに義憤を感じたエルズバーグは、ベトナム戦争にまつわる極秘資料を持ち出してコピーを取ります。その文書はニューヨーク・タイムズの記者シーハンに渡り、1971年にその一部がタイムズに掲載されます。政府は国家の安全保障を脅かす行為として、タイムズに記事の掲載差し止めを求めます。それを見て、先越されて悔しのって思ったのが、ワシントンポストの編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)。部下に何とか文書を入手しろとハッパをかけます。ちょうどその時、ワシントンポストの社長キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)は、同族会社をやめて、持ち株公開をしようとしていました。銀行は会社の株に思うほどの値をつけず、投資家や銀行の顔色を伺っている状況でした。父親から新聞社を継いだ夫が若くして亡くなって、その後を継いだキャサリンは、それまで普通の主婦だったのが、急に社長になったこともあり、女性でかつ実績のない社長ということで、社会的な信用はあまり高くありませんでした。一方、ベンの部下で編集局次長のバグディキアンは、かつてエルスバーグと同僚だったことから、彼がリーク元だと見抜いて、彼に接触して、文書の入手に成功します。しかし、タイムズと同じニュースソースで文書を記事にすれば、法廷侮辱罪になる危険があり、それはワシントンポストの存在すら脅かすものだったのです。ベンは断固として、掲載すべきと言い切りますが、他の役員は反対します。最終的に社主であるキャサリンの判断に委ねられることになるのでした。

実話に基づくお話でして、初めての映画脚本になるリズ・ハンナと「スポットライト 世紀のスクープ」のジョシュ・シンガーが脚本を書き、「リンカーン」「ブリッジ・オブ・スパイ」のスティーブン・スピルバーグがメガホンを取りました。「大統領の陰謀」の前日談みたいなお話でして、「大統領の陰謀」でジェーソン・ロバーズが貫禄で演じた編集主幹のベン・ブラッドリーをトム・ハンクスがコミカルで人間味のあるキャラで演じ切りました。いわゆるスクープのすっぱ抜きもののように思っていたのですが、実際に先にスクープしていたのはニューヨーク・タイムズでして、ワシントン・ポストは地方紙の立ち位置で、それを後追いしたのです。ですから、邦題の「ペンタゴン・ペーパーズ」というのだと、ニューヨーク・タイムズのお話の方がふさわしいってことになります。原題の「The Post」と言うとおり、ワシントンポストのお話になっているのは、そのスクープよりも、女性社主であったキャサリン・グラハムにフォーカスしているからでして、観ているうちに、あれ、これ宣伝している内容とちょっと違くね?と気付くことになります。

キャサリンは自殺した夫に代わって46歳でワシントン・ポストの社長になりました。どうやらそれまでジャーナリストでの実経験はなく、経営者としての信用を勝ち得ようとしている時期に、このペンタゴン・ペーパーの事件にぶちあたることになります。決して、イケイケの辣腕女性社長というわけではなかったようで、取締役会長のフリッツや編集主幹のベンにサポートされながら頑張っていたようです。そんな彼女が社の存続をかかわる決断に迫られるというのがメインのお話なのですが、スピルバーグは文書のスクープの関わる部分をかなり膨らましてスリリングなサスペンスとして見せて、娯楽映画としての肉付けをしていて、ヒロインの成長物語と、ジャーナリズムがアメリカの正義を守ったというお話を映画の両輪として描くことに成功しています。どんな題材でも面白く作っちゃうスピルバーグのサービス精神は、この映画でも十分に発揮されていまして、正義を守るジャーナリズムという説教臭くなりそうな題材に、女性社長のドラマをかぶせて、さらに女性の社会進出まで散りばめるという欲張った内容を、多くの笑いも交えたエンタテイメントとして仕上げています。

また、新聞各社が対権力で連帯する構図とかが見えてくるのがなかなかかっこよく、機密保護法を盾にとる政府に対してジャーナリズムが報道の権利を盾に闘いを挑み、それを裁判所が中立の立場でジャッジするというのが、民主主義のあるべき姿として描かれるのは見事です。ジャーナリズムが権力に及び腰になったり、裁判所が政府寄りの判決を下すようになっちゃダメだよというメッセージが伝わってくるのですが、今、映画にそういうメッセージを込めるというのは現実がやばい状況にあるからということも言えましょう。それって日本も同じでして、政府を批判すると反日だってネットでバッシングされちゃったりするご時世はやばいと思いますもの。昔の新聞やテレビは基本は政府に批判的な姿勢をとって、権力を監視していたのですが、今はそういう姿勢を取ると反日メディアと言われちゃう時代になったのは、権力が国民をうまくマインドコントロールしているからではないかしら。メディアの言う事を鵜呑みにしないというのは、メディアリテラシーとして重要です。メディアリテラシーなんて言葉がなかった昔より、いい時代になったということになるのですが、メディアが嘘つきなら、それと対抗するお上の言うことは正しいみたいな空気になっているのは、同じメディアリテラシーとしておかしな話なのですが。

また、この映画では、当時の女性がまだ、男性から一歩引いた立ち位置にいるのが普通だったということも描かれています。新聞社でも女性は政治よりもゴシップや文化系のネタを担当させられていたり、夫婦で会食しても、その後はダンナ同士、奥さん同士に別れ、ダンナは政治の話をして、奥さんはゴシップトークに花をさかせるのが定番みたいなんです。そんな中で、キャサリンは、リーク文書を記事に掲載するかどうか、男たちと向き合って、やりとりし、決断を下すというのは、当時としては珍しかったということのようです。1970年代にウーマンリブ活動が活発化するのですが、なぜそうなったのかというと、それまでは、女性は男性と対等に扱われていなかったという歴史があったということになります。そういう現代史としても、この映画は面白くできていますし、今さら、その歴史を再確認する映画が作られたということ自体が歴史の1ページとして記録されるべき出来事と言えそうです。様々なマイノリティの権利が拡張されてきた現代で、男女同権を改めて見直してみれば、当たり前のようで当たり前でなかった部分が見えてきたのではないかしら。

では、この映画は政治的に中立と言えるのかというと、そこにはきちんと映画としての視点が入っているようで、ここに登場するニクソンは徹底的に悪役になっているのに対し、マクナマラに対しては国民を欺いたけど、苦悩する人間として登場し、人でなしという描き方にはなっていません。ですから、この先、もう少し、歴史認識が成熟したとき、ニクソンの描き方がフェアじゃないって言われる時が来るかもしれないなって少しだけ思いました。

演技陣はスターと呼べるのは、主役の二人だけなんですが、その他に観たような顔ぶれが登場してまして、サラ・ポールソンとかマイケル・スタールバーグ、ボブ・オデンカークといった面々が印象的な演技を見せます。特に儲け役ながら、記事の掲載に反対しながらもキャサリンを立てる取締役を演じたトレイシー・リッツの腹芸が見事でした。また、メリル・ストリープが単なる強い女性ではなく、悩み、熟考しながら、一歩ずつ歩みを進めていくキャサリンという女性をリアルな存在感で演じ切ったのがお見事でした。ヤヌス・カミンスキーの撮影は、ベトナムのシーンが「プラベート・ライアン」のノルマンジーと同じ画調だったのがおかしかったです。一方で、新聞社のセットを縦横に動き回るカメラが見事でした。新聞社のセットはよくできてると思う一方で、「大統領の陰謀」のセットはすごかったんだなあって改めて認識しちゃいました。ジョン・ウィリアムスの音楽は、全体的に控えめで、ドラマを歌い上げずに支える音になっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



文書の入手元がニューヨークタイムズと同じなら、罪の問われる可能性が大きいと知った、役員たちは記事の掲載を差し止めようとベンと口論になり、最終的にキャサリンの判断に委ねられることになります。彼女は、この記事によって兵士に危険が及ぶことがないことを確認した上で、掲載にゴーサインを出します。ワシントンポストの記事は、当然政府に睨まれて掲載差し止めの処分が下りますが、他の新聞も追随する記事を掲載していくことに、ベンたちは元気づけられるのでした。最終的に判事のジャッジは、ニューヨークタイムズもワシントンポストも罪に問いませんでした。これはジャーナリズムの勝利と言えます。そして、民主党ビルに何者かが侵入しているところで暗転、エンドクレジット。

クライマックス後で、ベンが、キャサリンの記事掲載の判断の重さを、妻に指摘されて驚くシーンが印象的です。単にアメリカやジャーナリズムの正義を守る決断だけではなく、会社の経営者として、役員、記者、従業員全ての人生を、自分の決断に賭けていたと言われ、ベンが改めて、キャサリンへの感謝の念を表するあたりが圧巻でした。最終的にヒロインのドラマに集約させた脚本と演出は成功していると思います。正義とか義憤とか、語るのは簡単ですが、行動を決断することの重さにスポットライトを当てたことに、この映画の奥行きがあると思います。事件を追うドラマを期待していたのですが、ヒロインのドラマの方に見応えがあって、面白い映画でした。

「ラブレス」を観てどう感じて、どう解釈するかは、あなた次第です。


今回は新作の「ラブレス」を川崎のチネチッタ7で観てきました。そこそこ大きなスクリーンで、ミニシアター系が観られるのはうれしい限り。ミニシアターで観たら印象が違う気がする映画でしたし。

ロシアの大企業のサラリーマンであるボリス(アレクセイ・ロズィン)と美容サロンのマネージャであるジェーニャ(マルヤーナ・スピイヴァク)の夫婦には、12歳の息子アレクセイがいますが、今二人は離婚協議中。ボリスには妊娠中の恋人マーシャ(マリーナ・ヴァシーリエヴァ)がいて、一方のジェーニャにもアントン(アンドリス・ケイシス)という恋人がいました。離婚にあたって、ボリスもジェーニャもアレクセイを引き取るつもりはなく、そのことで大げんかとなります。それを影で聞いていて、静かに涙を流すアレクセイ。ある日、ボリスとジェーニャの二人ともが恋人のところに泊まりに行った日、アレクセイが姿を消します。次の日に帰ってきたジェーニャが学校から2日間登校していないという電話を受けます。そのうち帰ってくるだろう、と言うボリスの言葉に、ジェーニャは怒って、警察を呼びます。でも、警察も子供の家出くらいではすぐに動いてはくれません。そこで、市民ボランティアによる捜索救助団体にアレクセイの捜索を依頼することになります。捜索チームのリーダーの指示で、ジェーニャの母親を訪ねてアレクセイが行っていないかどうかを確認するボリスとジェーニャですが、そこにはアレクセイはいませんでした。アレクセイの友人への聞き込みから、彼らの秘密基地があることがわかります。それは、森の中の廃ビルの地下室で、ボランティアの捜索隊はビルと周辺の捜索を開始するのでした。

「父帰る」「裁かれるは善人のみ」などで知られるアンドレイ・ズビャギンツェフが、オレグ・ネギンと共同で脚本を書き、メガホンを取りました。中流階級のマンション暮らしのボリスとジェーニャの夫婦の息子アレクセイが行方不明になってしまうというお話です。厳しい母親に育てられたジェーニャは、いつも家を出たいと思っていました。そこで、ボリスとの過ちから妊娠し、大して愛してもいなかったし、子供も望んでいなかったのに、家庭を築きたいと思っているボリスの言葉の乗って、結婚したという過去がありました。望んだ子供でもないアレクセイにあまり愛情を感じていないジェーニャ。そのことは、アレクセイにも伝わっていたようです。ボリスに対しては愛情の欠片もなく、恋人のアントンに初めて愛を感じたなんてことを言ってのけます。一方のボリスは何を考えているのかよくわからないところがあって、ジェーニャには愛情を感じてはいないものの、離婚したことがキリスト教原理主義の社長にばれるとクビになるのではないかということが気懸りでした。二人とも、アレクセイの気持ちなんてこれっぽっちも思いやることはありません。そのことは、アレクセイが行方不明になってからも変わらないのでした。

のっけから、離婚後の子供の押し付け合いから始まるので、何かひどい話だなあって思ってると、そのけんかを当の子供が聞いてて泣いてるってところでもうドン引きな展開。それじゃあ、家出したくもなるよなあって思いますもの。 ダンナの方は「母親が引き取らないと世間体が悪いぞ」なんて言って、アレクセイをカミさんに押し付けようとするかなりのクズ。一方のカミさんの方は、元から子供なんて欲しくなかったのにアンタに説得されて産んだ子供で愛情なんて感じてないというひどい女。まあ、個人的には、世間体重視のダンナの方がクズに見えるんですが、これは男女で感じ方が違うかもしれません。まあ、どっちもクズだよねで片づけることも可能なんですが、子供が自分の未来の妨げになると言いきっちゃうメンタリティには気になるものがあります。そもそも離婚で子供の取り合いになった時は母親が有利だと聞きますから、ひっくり返せば、子供の押し付け合いになったときは、母親が不利になるのは想像がつきます。でも、考えようによっては、それって女性差別なんですよね。性別による役割の押し付けですもの。それに、母親が子供に愛情を感じないなんてあり得ないという理屈もうさんくさいものを感じてまして、この映画のカミさんのように考える人がいても驚くにはあたらないと私は思います。そういう人間もいるんだと受け入れることが、「違いを受け入れる」社会なんですよね。母の愛は無上の愛なんて持ち上げる一方で、それがないと最低のクズみたいに言われるのは、女性差別だよなあ。

でも、愛情の対象と見なされない子供はかわいそうでしかありません。親の愛情をまともに受けられなければ、まともに育つのは難しいと思いますもの。でも、愛情があって当たり前というのは、どうなんだろうという気もします。ジェーニャ自身が母親から厳格に育てられ、今は関係が最悪だということから考えると、彼女が十分に親の愛情を受けて育ったわけでもなさそうで、それはそれで気の毒です。ジェーニャがアントンに愛情を求めるのは、自分が十分に愛し愛されているという実感をずっと持てなかったからのようで、彼女の言動や行動は褒められたものではないけど、一応筋は通っています。一方のボリスは、家庭という器へのこだわりはありますが、家族への愛情が本当にあるのかというとこれが疑わしくて、マーシャを妊娠させたのも、マーシャへの愛というよりは、一度は失敗した家族の構築を一度リセットして始めからやり直したいという気持ちの方が強そうなんです。完全な人間はいないというのは、誰もうなづくところですが、母親としての愛情が欠落しているというのは、認めがたいと言われることが多いと思います。この映画でも、ボリスは卑怯にも「母親が子供を引き取らないなんて、調停員や世間の心証を悪くするぞ」と言ってのけます。でも、完全な人間がいないのなら、母性が欠如した女性がいるからといって全人格的に否定されちゃうのはフェアじゃないというところに気づかされる映画です。

ボリスもジェーニャもアレクセイも愛情を求めているけど、欲している相手に与えることができない歪な状態です。ズビャギンツェフの演出はその有様を大変突き放した視点で描いているのですが、突き放したら、こういう人間だっているから仕方ないだろって感じになってきたのが不思議な後味になりました。誰だって、幸せになる権利はある、少なくとも幸せになりたいと思う権利がある、その時、自分の子供が邪魔だと思うことは、あるかもしれない。それが子供を傷つけることはあるかもしれない。自分の幸せのために、子供を殺したらさすがに非道だということになるけれど、相手に押し付けることなら、幸せを求める手段としてありなのかも。でも、この映画では、結果的にボリスとマーシャがアレクセイを殺したことになるのかもという見せ方で、やっていいことと悪い事の境界を曖昧に見せています。その境界線上に立たされたことを改めて認識したボリスとマーシャは、自分自身と向き合わされる、そんなお話のように私は解釈しました。解釈したというのは、この映画、はっきりしないことが多すぎて、観客にぶん投げてる部分がかなり多いのですよ。観る人によって様々な解釈が可能な映画ですので、ご覧になって、私の解釈って違うんじゃね?って突っ込みいただけたらうれしいです。

行方不明の子供を探すボランティア団体というのがこの映画では重要な働きをします。日本だと行方不明の子供の捜索というと、警察や消防団が捜索隊を組んだりしますけど、ロシアでは警察が人手不足なのか、捜索救助のためのボランティア団体があるんですって。彼らは行方不明の子供の捜索のノウハウを持っています。周囲の聞き込みをしたり、フォーメーションを組んで、ローラー作戦で捜索したりと、すごく手慣れた感じです。ロシアでは、行方不明になって捜索対象になる人が多いのかしら。日本でも高齢化社会で、おじいちゃんの行方不明が増えてきそうだから、捜索救助のボランティア団体とかできてくるのかも。

果たして、アレクセイは見つかるのか。生きているのか、死んでいるのか。それは本編を観て確認していただきたいのですが、様々な解釈の余地を残した結末は、色々と考えさせられる映画になっています。ただ、ボリスにしても、ジェーニャにしても、幸せを求めるのは難しそうだなあという苦い後味が残ります。ただ、彼らの在り様を他人事として切り捨てられるか、自分と重なるところがあるかで、映画の意味合いがかなり変わってきます。私はシングルオヤジで、子供好きではないので、妊娠して堕胎する決心つかないうちに、好きでもないダンナに何となく丸め込まれて結婚しちゃった人生を後悔しているジェーニャの気持ちはかなり共感できちゃいました。この子さえできなかったらもっと愛する人と幸せになれたのに、現実の不幸からやっとやり直しのスタートラインに立ったのに。そういうジェーニャってかわいそうだよなあって。アレクセイが一番かわいそうなのはその通りで、その原因であるジェーニャなんですが、それでも同情できちゃったのですよ。それに比べるとボリスの方は、私にはクズにしか見えなくて。でも人によっては、ボリスに多少の共感を感じるかもしれません。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



アレクセイと友人の秘密基地とその周囲を捜索した結果、アレクセイの上着が発見されますが、ついに本人は発見されることなく、捜索は暗礁に乗り上げてしまいます。その後、損傷の激しい死体が発見され、ボリスとジェーニャが確認します。無残な死体を前にして、この死体はアレクセイじゃないと否定する二人ですが、激高して泣きじゃくるジェーニャと床に座り込んで慟哭するボリス。そして、2年後、マーシャと結婚したボリスは生まれた子供とマーシャの母親と狭いアパート暮らしをしています。一方、アントンと結婚したジェーニャはアントンの高そうな部屋でテレビを観ていますが、幸せそうにはみえないのでした。昔住んでいたマンションの近所の風景が映り、アレクセイを探すビラが映ります。そして、学校帰りにアレクセイが木に引っ掛けたリボンがアップになり、暗転、エンドクレジット。

損傷のひどい死体がアレクセイだったのかどうかは、映画の中でははっきりと描かれません。でも、死体を見たボリスとジェーニャの動揺ぶりは只事ではありません。彼らは否定したものの、結局、その死体がアレクセイだったという解釈も可能な結末になっています。ただ、私には、二人にとって死体はアレクセイではなかったのではないかと思いました。その死体はアレクセイではないけど、その死体を見た時、もうアレクセイは生きていないことを二人は確信したのではないかしら。だからこそ、二人とも、息子の死の実感に打ちのめされたのではないかと。そして、死の実感は、彼らが息子を殺したという罪の意識へとつながったというふうに解釈しました。

ただ、その罪の意識が彼らをずっと苛み続けたかどうかが、エピローグを観ると微妙な感じなのです。息子の死を記憶の奥にしまい込んで封印したように見える一方で、ラストカットでは、アレクセイの存在感をアピールしてくるのです。アレクセイがずっと二人の記憶の底につきまとうとは思えないのですが、それでも、二人が求める幸せは手に入らないだろうなあという予感で映画は終わります。それは、アレクセイの呪いかもしれないし、もともとどう転んでも二人は幸せになれない運命なのかもしれません。監督は最後まで、ボリス、ジェーニャ、アレクセイを突き放した視点で描いていて、その結果、どうにもならない人間の業には、逆らうこともできないし、取り返しもつかないと語りかける映画になっているように思いました。どうあがいても、そうなっちゃうんだから仕方ないと考えると、私がジェーニャに感じた同情も、ボリスに感じた不快感も、人間の業の前では意味をなさないということになるのかな。うーん、救いがない話だなあ、これ。

「ワンダーストラック」は不思議なご縁を描いた、絵本の読み聞かせのような映画でした。


今回は新作の「ワンダーストラック」を川崎の川崎チネチッタ6で観てきました。ここは、チネチッタの他の劇場より音がでかいような気がするのですが、劇場ごとにセッティングに差があるのかしら。

1977年、ミネソタ州に住む12歳のベン(オークス・フェグリー)は母エレイン(ミシェル・ウィリアムス)を交通事故で亡くして叔母の家で暮らしています。彼は父親の記憶がなかったのですが、母の部屋の引き出しから見つけた「ワンダーストラック」というニューヨーク自然博物館の紹介本に、キンケイド書店のしおりが挟まっていてそこに「愛を込めて ダニー」と書かれているのを見つけます。その直後、彼は落雷のショックで聴力を失い、病院へ運び込まれます。彼は、病院を抜け出して、自分の父親を探そうとニューヨークのキンケイド書店を目指すのでした。1927年のニュージャージー州に住む生まれついての聾唖の少女ローズ(ミリセント・シモンズ)は、父親との関係が悪く、女優リリアン・メナヒュー(ジュリアン・ムーア)の写真や記事をスクラップしていました。思い立った彼女は家を出て、一人ニューヨークへと向かいます。そして、ニューヨークに着いた彼女はリリアンがいる劇場へと向かうのでした。

「ヒューゴの不思議な世界」のブライアン・セルズニックの小説を原作に、彼自身が脚色し、「キャロル」「エデンより彼方に」のトッド・ヘインズが監督しました。絶対あり得ないって言う話ではないけれど、ファンタジー色の濃いお話になってます。童話の世界って感じですね。二つの時代のドラマが並行して描かれていくのですが、かなり頻繁に時代をあっちこっちに行くものですから、前半はとっつきにくいものがあるんですが、ベンとローズのお話がシンクロし始めるあたりから、映画も調子が出てきます。ベンが落雷で難聴になっちゃうところで、おや、ローズと同じ境遇になるの?って気づき、二人が故郷を離れてニューヨークへ向かうあたりで、この二人には特別なつながりがあるのかもと思わせるのです。1927年の世界はモノクロでサイレント映画のスタイルで描かれていまして、効果音も音楽で表現しています。一方の1977年の世界は、いかにも70年代映画の色調のフィルムタッチで描かれています。どちらも時代を感じさせるセットや群衆の衣装やメイクなどかなり手間をお金をかけていまして、CGスタッフだけでなく、ミニチュアイフェクトのチームもクレジットされていまして、時代感のある映像作成に成功しています。

ニューヨークに着いたベンは、道路で財布から金を抜かれてしまい一文無しになっちゃいます。それでも本が売られたらしいキングストン書店へ行くと、そこは閉鎖されていました。その時、声をかけてくれたジェイミー少年の後をついていくと、行先はニューヨーク自然史博物館。一方のベスは大女優リリアンのいる劇場までたどり着くのですが、そこでぞんざいな扱いをされたもので、兄の絵葉書にあったニューヨーク自然史博物館へと向かうのでした。というわけで、二人がニューヨーク自然史博物館に集まる時、二つの物語のシンクロ度マックスになります。博物館を中心にした不思議なお話と言えば「ナイト・ミュージアム」シリーズを思い出すのですが、もう一つの「ナイト・ミュージアム」という言い方もできそうです。

映画は、1927年と1977年という2つの過去を同じレベルで描いているのが、私には意外というか、もうそんな時代になってしまったんだなあってしみじみしちゃいました。1977年は自分が生きてきたついこの間のことだと思っていたのですが、確かに40年前なんだよなあ。1977年ってのは過去の1つの時代であり、1927年と同じ歴史の1ページ扱いになっちゃったんだ。今の人には「ペンタゴン・ペーパー」と「ウィンストン・チャーチル」は過去の歴史の映画と言うことで同じジャンルの映画になっちゃうんでしょうね。自分も年を取ったというのをこういうところで認識するとは。

トッド・ヘインズの演出は、お話を中心に語る作りになっているので、登場人物のキャラは正直あまり存在感がありません。強いて言えば、ベンの亡くなった母親を演じたミシェル・ウィリアムスがちょっとの出番でインパクトを残すのですが、これは彼女が物語のパートを全て結びつけるキーパーソンだからで、リアルな人物像を描き出そうという意図はなさそうです。そのせいか、ベンとかローズに生身の存在感がなく、絵本の枠におさまったキャラという感じになっています。それが悪いわけではないのですが、映画を観始めて、そういう作りの映画に気づくまでに、何か物足りなさを感じてしまったのです。最初から、動く紙芝居の作りだと知っていれば、もっと素直に楽しめたなあと思ってしまいましたから、私とこの映画はあまり相性がよくないのかも。2つの時代を往ったり来たりしながら、一つのドラマに収束するという作りは面白かったですから、手の込んだベッドサイドストーリーと知っていれば、かなり楽しめるのではないかしら。自然博物館という舞台も魅力的でしたし。

また、この映画で特筆すべきは、音楽でして、特に1927年のパートは現実音が全て音楽で表現されていて、既成曲も使われているのですが、カーター・バーウェルの音楽がカートゥーン劇伴音楽として大変面白い音楽をつけています。また、ドラマチックなスコア部分も彼らしいうまさで厚みのある音が見事でした。デビッド・ボウイの「スペース・オディティ」などの既成曲が時代色を出すのに使われています。特に「ツアラトゥストラはかく語りき」のクロスオーバーバージョンが印象的でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。




ローズが会いに行った大女優リリアンは、ローズの離婚した母親でした。母親恋しさに会いに行ったのに、邪険に扱われて傷心のローズは、兄ウォルターの勤める自然史博物館へと向かうのでした。警官に不審に思われて追いかけられたりもするのですが、無事ウォルターに会うことができます。両親からはひどい仕打ちをされているローズですが、ウォルターだけは彼女にやさしく接するのでした。一方、ベンは、父親が博物館のスタッフであるウォルターに博物館の奥の秘密の部屋に案内されます。友たちのいないウォルターはベンに友達になって欲しいと思って、色々と気を遣ってくれます。でも、ベンは父親捜しが最優先なので、キンケイド書店の移転先を聞き出すとウォルターから逃げるように博物館を出ていくのでした。ベンが移転先の新しいキンケイド書店へ行くと、そこには主人と聾唖の老婦人がいました。ベンの持っていた「ワンダーストラック」の本を観て驚く二人。老婦人は、彼に向かって「ベンなの?」

老婦人はローズで、店の主人は兄のウォルターだったのです。ローズはベンをクイーンズ美術館へと連れて行きます。そこにはニューヨーク全体のミニチュアがありました。ローズはウォルターの計らいでニューヨークの聾学校に通い、そこでダンナと出会い、息子ダニエルが生まれます。彼女は、博物館に勤めるようになり、さらに息子も同じ場所で働くようになります。ダニエルはミネソタ州の展示を作るために現地に調査に出かけ、そこでエレインと出会い結婚してベンが生まれるのですが、ダニエルは心臓に持病があって、そのせいで若くして亡くなっていたのでした。ローズがそこまで説明したとき、落雷がありニューヨーク大停電が起こります。しかし、ベンを尾行してきたウォルターがカメラのフラッシュでベンとローズを誘導して、二人は外に出ることができました。星空を眺めるローズ、ベン、ウォルターの3人の姿から暗転、エンドクレジット。

結局、ローズはベンのおばあちゃんだったわけですが、その二人が同じようにニューヨークに家出してきて、自然史博物館へやってきたことで、お互いの人生がつながったというわけです。ローズもここへ来なかったら、自然史博物館で働くこともなく、息子のダニエルが同じ場所で働くこともなかったわけですから、まあ不思議なご縁のお話ということができます。最後はめでたしめでたしということになり、絵本の結末にふさわしい終わり方と言えましょう。ただ、舞台となった1927年と1977年という時代へのノスタルジー以上のものは感じられず、今の時代に通じるものがなかったので、語られたお話以上のものにならなかったのは、ちょっと物足りなかったです。良くも悪くも絵本の読み聞かせのような映画でした。

「父帰る」は、父帰ってきました。一緒に旅行に行きました。で?

「ラブレス」を観てきたんですが、この監督さんの1作目の「父帰る」を劇場で観ていました。昔の映画サークルのHPから、その時の記事を転載しておきます。当時も変な映画だなあって感想を持っていたようです。

2005年01月09日 横浜のシネマジャックでの鑑賞です。

少年アンドレイとイワン兄弟の家に長い間不在だった父親が帰ってきます。そもそもなぜいなくなって、どこに行っててなぜ帰ってきたのかは兄弟にはわかりません。そして、父親は兄弟を釣り旅行に連れ出します。でも、何かの用事を並行して片付けている様子。兄アンドレイは父親になじもうとしますが、弟イワンはどうもこの居丈高な父親になじめず、反抗ばかりしてしまいます。そんなこんなしながら、父親の目的地である島に3人は到着します。そこで遂にイワンの感情が爆発してしまいます。で、どうなるかって言うと.....。

ロシアの新人監督の映画ですが、2003年のヴェネチア映画祭でグランプリを取ったのだそうです。オープニングで海に飛び込む子供が登場しますから、季節は夏なのでしょうか。それにしては画面は寒々とした海辺の田舎町を映し出します。そして、ある日、兄弟の家に父親が帰ってきます。母親と祖母は何か事情を知っているようではあるのですが、それはあくまで語られず、何やら得体の知れない父親と兄弟の旅行へ物語は進んでいってしまいます。そこから先、物語は過去の事情を一切語らないまま、親子3人のドラマだけで進んでいくことになります。久々に再会した親子3人の楽しい旅行になると思いきや、親子3人の旅は妙な気まずさがつきまとっていまして、一触即発のピリピリした道中になってしまいます。父親はなんとか父の威厳を息子二人に誇示しようとするのですが、それはうまくいかないようですし、子供二人、特に弟は、父親に拗ねてみせるというよりは、憎悪を露にして、道中を険悪な雰囲気にしてしまいます。

オープニングは何かのイメージショットなのですが、その実体は不明です。そして、思わせぶりな演出はドラマの1シーン1シーンを意味ありげに積み上げていきます。その呼吸は普段観る娯楽映画の演出とは明らかに異なるもので、一応ロケ中心の映画なのに、舞台劇を思わせる映画になりました。主演3人以外にも登場人物はいるのですが、生活感も存在感もない描かれ方で、あくまでドラマは親子3人の葛藤にのみ焦点をあてているのです。でも、その3人に感情移入することを拒否するがのごとく、突き放した演出なので、観ている最中はお気楽にながめているわけにはいかず、観客はある緊張感を持って画面と対峙せざるを得なくなります。それでなくても、一触即発の道中ですからね。

親子3人の旅の行方は意外な展開を見せるのですが、様々な意外性を見せるところが、この映画の面白さになっています。物語は兄弟の視点から動かないものですから、父親の過去を垣間見せるシーンがあってもそれが何なのか一切わかりません。港で男たちと話し込んだり、島で箱を掘り出したりするのですが、その種明かしは最後までされないのです。へえ、こういう映画の作り方もあるんやねえとちょっと感心もするのですが、さらに意外な結末でダメ押しをしてくるのです。「何なんだこれは」というツッコミも拒否する決着は、本編で確認して頂きたいのですが、親子3人が様々な暗喩として描かれているらしいことは見えてきます。でも、物語としては3人の親子旅行の悲惨な結末でしかないのです。ただし、描き方が重々しいというか、勿体つけてるというか、思わせぶりというか、「含むところがいっぱいあるからそこを汲み取ってね」という感じなわけです。映画を観た後、プログラムを読んだら、監督のインタビューがあって、そこで、聖書やら、旧ソ連の崩壊とか色んなことを言ってるのですよ。へえー、そんなことまで言いたかったん?とも思うのですが、「親子3人、気まずい道中」をそこまで膨らますパワーは感じましたから、映画としてはよくできているのではないかしら。

オープニングの息苦しいような空気感は最後まで崩れません。1時間半、魂を別世界へ持っていかれたような気分になったのは事実でして、寒々とした重苦しい映像と、独特の間の演出、幻想的な音楽が、観客を日常とは別の世界へと誘うのです。こう書くと、「ミステリーゾーン」か「ウルトラQ」みたいですが、事実ちょっと似たような感覚もありました。観終わった後、スリラー映画やファンタジーを観たような、ある種の不思議を感じたのです。懐かしいような、あり得ないような、根源的な怖さを感じさせる何かがこの映画にはありました。そして、その何かがラストでは失われていくのです。ノスタルジックな郷愁も、好奇心をかきたてる不思議も、心かき乱す恐怖も皆失っていく子供たちには、重い現実だけが残されてしまう、そして、少年は大人になっていくのかもしれない、と思わせるあたりはうまいと思いました。でも、大人になるってことは、失うことばっかではないのですけど

「ハッピーエンド」は変な映画でしたけど、スマホカメラとSNSに発見があったので私にとってはマル。


今回は新作の「ハッピーエンド」を角川シネマ有楽町で観てきました。映画の日だというのに、お客さんは30人もいなかったような。まあ、他に色々映画が公開直後だからかなあ。まあ、この映画が大混雑だったら、それはそれで怖いけど。

母親が薬物過剰で入院した13歳のエヴ(ファンディーヌ・アルドゥアン)は、母親の別れたダンナ(まあ父親ってことですが)のトマ(マシュー・カソビッツ)の元に一時的に住むことになります。フランスのカレーの大邸宅で、父ジョルジュ(ジャン・ルイ・トランティニアン)とその長女アンヌ(イザベル・ユペール)とアンヌの息子ピエールと同居してまして、トマには再婚した妻アナイス(ローラ・ファーリンデン)と生まれたばかりの息子ポールがいます。何しろお邸なので住み込みの使用人ラシッド一家もいるという、いわゆるブルジョアな一家なのでした。エヴは、スマホで動画を隠し撮りしてはSNSにアップしているようで、実は母親の薬物の過剰摂取も彼女が仕組んだことなのです。でも、そんなことはおくびにも出さず、大人しい娘を演じているエヴ。でも、この一家、みんな秘密を持っているみたいで、トマは変態チャットを妻に隠れてやってるし、ピエールは酒に走りがちでメンタル弱そう。ジョルジュは夜中に車を走らせて、自損事故を起こして、車椅子生活になっちゃいます。どうやら、彼は死にたがっているみたいで、通いの床屋に銃をくれと言ったりしてます。アンヌは父から譲られた建設会社を経営してますが、現場で事故が起こってこちらも大変。映画はそんな一家を淡々とスケッチしていくのでした。

「愛、アムール」「ピアニスト」「白いリボン」のミヒャエル・ハネケが脚本を書いて、メガホンも取った一編です。あるブルジョア一家を描いて、彼らの問題を浮かび上がらせているということもできますが、小さなエピソードをつないだコラージュのような味わいもある一編。誰が何してどうなってという物語としての展開はほとんどありません。ただ映画が進むにつれて、彼らの抱える秘密がだんだん観客に伝わってくるという仕掛けです。そういう意味では、ドラマチックな展開とか意外な結末なんてのは期待しない方がいいです。居心地の悪い発端から、ずっとそんな感じで映画は最後まで進みます。カタルシス?とんでもない。笑い? うーん、人によっては笑えるのか。泣ける? こんな映画を映画館で観ちゃったことに泣ける人はいるかも。「聖なる鹿殺し」のような「何じゃこりゃ」な珍品ではありませんし、この監督の「愛、アムール」みたいに「えらいものを観てしまった」と後悔するほどのヘヴィな話でもありません。でも、人間の変なところ強調してくる映画なので、娯楽度を期待しない方がいいですし、会社帰りの気分転換にはオススメできない映画です。

オープニングが、縦長画面で、どうやらある女性の寝る前の洗面所の姿を盗撮しているみたいです。時々、画面にコメントが出るんですが、これはどうやらSNSにアップされた映像のようです。場面が変わると、今度はハムスターに抗うつ薬入りの餌を食べさせるシーンになります。ハムスター動かなくなっちゃったけど、死んじゃったのかな。そして、ソファで横になってる女性の絵になり、「救急車呼ぼうかな」なんてコメントが入ります。これが、映像の女性の娘エヴが撮ったものだったのです。どうやら、彼女、自分の母親に一服盛ったらしいのですよ。そのおかげで、彼女は別れていた父親の住むお邸に転がり込むことになるのでした。でも、エヴがなぜ母親を殺そうとしたのかは、最後までよくわかりません。ただ、彼女が母親を嫌っているらしいことは、映像のコメントから察することはできます。でも、嫌ってるくらいでそこまでやるかということになるのですが、この映画は、彼女の心の闇に光をあてることはしません。ただ、事実として、そういうことがあったと見せるだけです。この映画は全部そんな感じです。エヴの父親トマが浮気相手と変態チャットをするのも、どういう経緯なのかは描かれません。また、物語と関係なく挿入される若い男のSNSらしき動画も意味不明です。エヴがそういうのを見て楽しんでるらしいくらいの位置づけにしかならないのですが、やっぱりよくわからない。ただ、どうもこの映画の中心にいるのは、エヴらしいのですよ。彼女の周りで起こったエピソードが羅列されていくという作りになっています。そうなると、この映画、SNSを題材にした映画ということになるのかしら。

と、言いつつ、この映画のパンフレットの監督インタビューを読むと移民問題を扱った映画として作ったなんて出てくるので、「へえ?そうなの。」って結構ビックリ。だって移民の話なんて、ジョルジュ家のお邸の使用人一家と、後、最後のパーティにピエールが割り込ませようとした黒人のみなさんくらいなんですもの。また、舞台がカレーで、ジョルジュ一家がブルジョアだというのも、意味があることなんですって。フランスが階級社会だとは知らなかったのですが、そういう意味合いも含んだドラマのようです。でも、映画の上っ面だけをなめた感じだと、この映画のポイントは、現実とカメラを通した映像のギャップなのかなって感じられたのでした。

映画の後半で、ジョルジュは、孫のエヴにとんでもない過去を告白するのですが、その時、自分が窓の外を見ていたら、大きな鳥が小鳥を引き裂いて食べるのを目撃したという話をします。鳥の動きを描写した後、それがテレビの映像として映されたなら、何の事もない映像なのに、直接見たら、震えがきたというのです。あ、これはあるなって思いました。ネットの動画なら、かなり残酷なことも平気で観ることができるのに、それを直接見せられたらかなわないってのは大変説得力があります。どちらも事実なのに、カメラやパソコンを通して見るとダメージが少ないってのは、説得力のある事実だと思いました。ハムスターが毒殺される映像だって、スマホのカメラを通しただけなのに、メンタルな刺激はだいぶソフトになります。それは、過酷で残酷な現実を、映画やテレビを通して見せられると、鑑賞に耐えるものになるというのと似ているような気もしますが、ネットから得られる映像って、映画やテレビよりずっとお手軽でリアルで臨場感があります。それを直接見たり触ったりするのは耐えがたいけど、ネット動画としてなら、鑑賞に堪える、場合によって好き好んで見るものに変わるという感じはすごくわかるような気がします。この映画の面白いのは、ラストでも、今の話を裏付けるようなシーンが登場するのですが、裏返すと過酷で直視できない現実から逃避するためのフィルターとしてのカメラやSNSがあるのかなって気がしてくるのです。とんでもない映像にカメラを向けるのは、そのとんでもない現実を直接受け止めるのではなく、うまく逃げて回避していることになるのではないかということに気づかされるのです。

受け入れがたい現実に直面した時の、一時の避難場所として、自分と対象の間にカメラを置くってのは、カメラ携帯ができたから実現できた自分を守る手段なのかもしれないって気づくと、最近の若い子がSNSに動画をアップするのは、そのことで現実との摩擦をうまく回避しているのかもしれないという気になってきます。インスタ映えなんていうのも、現実を気持ちいい方向へ歪める行為なわけで、その逃げ場としてのSNSの存在価値って結構あるんじゃないの?って気がしてくる映画なのです。

私は移民問題とか家族の秘密といったことから、この映画から何かを得ることはできませんでしたけど、SNSとカメラの存在理由の一つを示している点は、観てよかったかもって気分になりました。また、変態チャットは静かなエロ会話ということになるのでしょうけど、これがパソコンに残っちゃうことで、トマは娘に変態チャット野郎だと知られてしまとnいます。これもベッキーの不倫事件で、LINEのログが大っぴらになっちゃったことを思い出しましたが、今は何をしても後が残る世の中になっちゃったんだなあって。トマは愛人にこれからはチャットしたら、後を全部消さなくちゃいけないって言うんですが、意識して自分の足跡を消さなきゃならないなんて面倒くさい世の中になったものだと実感。街を歩けば監視カメラに自分の姿が残っちゃう。自分の跡が残ることがデフォルトになった時代を生きてるんだなあって気づくと、自分が子供の頃からすれば想像を絶する時代になったと改めて驚かされます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ジョルジュはエヴに、自分が病気で先のない妻の首を絞めて殺したことを告げます。さらに、そのことを少しも後悔していないと。アンヌが恋人と結婚することになりお披露目のパーティを開いて、知人、友人がレストランに集まります。すると、息子のピエールが嫌がらせみたいに黒人移民の友人を連れてきて、場の空気がおかしくなります。その空気を察したジョルジュはエヴに外へ出ようと言い、彼女に車椅子を押させます。レストランの外の道は、坂になっていてそのまま海まで続いていました。途中までエヴに押させていたジョルジュは自力で海の中へ入っていきます。それを呆然と見守るエヴ。すると彼女は思い出したようにスマホを取り出して、海の中のジョルジュを撮り始めます。そこへ気づいた大人たちが走ってくるところで暗転、エンドクレジット。

ラストで自殺しようとするジョルジュをスマホで撮影するエヴを心を亡くした少女と表現することもできましょう。でも、考えようによっては、別の顔も見えてきます。自分の祖父が祖母を絞め殺していたという事実は、幼いエヴには呑み込むには大変ヘビーなお話です。さらに、その祖父が自殺しようとしているなんて、もう彼女のキャパシティを超える出来事です。そんな受け止めきれない現実から、何とか逃げ出すために自分と祖父の間にカメラを置いたんじゃないかしら。みんな誰にも直視したくないもの、避けて通りたいものがあるとき、それをカメラを通すことで、現実感を薄めて、自分の痛みを和らげるのです。昔は、動画のカメラなんて、誰でも持ってるものではなかったから、そういう逃げ方はできなかったけど、今は、そうやって過酷な現実を少しだけ遠ざけて、傷を浅くすることができる。これってスマホの動画撮影機能が先にあって、後付けの知恵になるのでしょうけど、自分を当事者でなくしてしまうテクニックとしてあなどれないものがあると思います。この映画が、そういうことを語ろうとしているとは思えないけど、でも現実逃避ツールとしてのスマホの動画カメラ、そしてSNSの新しい効用は、私にとって、この映画からの発見なのでした。
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Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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