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「私はあなたのニグロではない」を観て、自分の差別意識の根っこに気づかされました。


今回は新作の「私はあなたのニグロではない」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。小さい映画館なんですが、有楽町駅から近いという地の利もあって、よく通う映画館です。

アメリカの黒人作家でアメリカだけでなくヨーロッパを転々として執筆及び講演活動をしていたジェームズ・ボールドウィンの1979年の遺稿をベースに、アメリカの黒人差別の歴史にスポットを当てたドキュメンタリーです。描かれる時代は1950年代の公民権運動の高まりからルーサー・キング牧師の暗殺までを中心に、当時のニュースフィルムやテレビ番組、講演記録フィルムに、白人文化を代表する映画やTVショーの映像を並べ、黒人差別の根深さについて語っていきます。ナレーションは全てボールドウィンの文章や講演での発言で構成されており、サミュエル・L・ジャクソンが静かな語り口であたかもボールドウィンがナレーションしているような気にさせる見せ方になっています。キング牧師やマルコムX、さらにブラックパンサーの映像も登場して、差別する白人と差別される黒人の対立の歴史が描かれていきます。そんな中でショッキングだったのは、学校へ行こうとする黒人の女の子に寄ってたかって罵声を浴びせたり、唾を吐きかけたりする白人の学生の姿でした。そっかー、子供のうちからそういう風に仕込まれてしまうんだなあってのは、理屈では理解できても、現実にあったと認識するにはしんどいものがありました。

日本人の私からすると、黒人は白人と同じ見慣れない外人さんという括りに入りますので、好奇の対象だったり、未知の恐怖の対象になることはありますが、差別の対象になることはありません。ですから、差別する方の気持ちも差別される方の気持ちにも、想像がつかなくて、共感のしようがありません。私自身に差別意識が全くないと言い切れないのですが、少なくとも人種差別については、どうにもピンと来ません。所謂、生まれによって人は差別されるというのとは別の次元の話なんですよね。そもそも同じ人じゃないじゃんという意識、そのあたりが理解できないので、人種差別を扱った映画とかドキュメンタリーってどうにも他人事というか、実感も共感も湧かないのですよ。でも、ボールドウィンは差別される黒人としての立場の他に、差別する白人を分析する第三者的な視点を持っているのが、彼が白人からも支持された理由なのかなって思わせるところがありました。

白人はなぜ黒人を差別するのか、そこには黒人に対する優越感と恐怖がないまぜになった感情があるようなのです。さらに、白人は差別する対象を必要としたのだとも、ボールドウィンは言います。なるほど、黒人がいたから差別したのではなく、白人が差別する対象を必要としたときに、そのお手頃な相手が黒人だったというのには、驚きと納得を感じてしまいました。そういう感情なら、日本人でも持ち合わせているし、そうなると黒人差別の根っこは他人事ではなくなってくるのです。だって、日本人だって、自分より劣る存在を見つけて差別したり、いじめたりすることはよくあることですもの。民族的なマイノリティだったり、或いは部落民だったり、貧乏人だったり、女性だったり、自分の優位を保つために、差別の対象を見つけ出すことに、我々日本人もやぶさかではありませんでした。それを、差別される側から、理性的に論破されるのは、かなり耳に痛いし、神経にも障ります。女性差別に異議を唱えた女性が、大変な人生を歩んだというのはドラマにもなりますし、そこで彼女を理屈で押さえ込もうとする男たちの発言は、黒人差別を正当化する白人の発言と根っこは同じものだと思っています。

この映画の中で、ボールドウィンは、黒人対白人の二項対立から一歩引いた視点で、黒人差別を語っているのがユニークで、それは黒人サイドからはお高くとまっていると非難されるリスクを負いつつも、論理的な思考のできる白人の共感を得ることもできたのではないか、と言う見せ方をしています。言い方を変えると、自分の発言によって身の危険を感じていたボールドウィンが、その当事者感を押さえて、評論家的視点で黒人差別を語ったというのが、すごい人だったのかなという気がするのです。現代は、ネットで自分の意見を自由に発言できるので、「当事者感を欠いた、評論家的発言」ってのは安直で薄っぺらいと、ボロクソ言われることが多いのですが、当時のボールドウィンがそういう立場をとるってことは、すごく大変で勇気の要ることだったんだろうなという想像はつきます。

何しろ、暴力はもちろん、命の危険まで感じながら、言論活動を続けるってのは大変なこと、私みたいなヘタレには絶対にできない勇気と度胸と知性による行動ですから、そんなボールドウィンに羨望と尊敬の両方を感じてしまいました。彼の言ってること全てを鵜呑みにする気は毛頭ないのですが、この映画の中で語られる彼の発言には、なるほどと納得させられるものが多く、その発言によって身の危険を感じたからこそ、アメリカの外で活動を続けたというところにも共感できました。そういうボールドウィンという人間を描いたドキュメンタリーという側面と、黒人差別の現代史という側面の両方を描いた映画になっているのですが、両方を描くという欲張った構成というのが意外と成功しているのが発見でした。ボールドウィンの言動を、歴史ドキュメンタリーの部分で補足するという関係がうまくバランスが取れてるのですね。そういう意味で、面白いと思ったのは、ハリウッド映画が白人が望む世界を描き続けてきたというところでした。白人のヒーローがマイノリティの悪役をやっつけることでカタルシスが得られるという、ヒーロー像の描き方への指摘はなるほどと思わせるところがありました。また、白人と黒人が登場する映画においては、黒人は白人に都合がよい人格者のように描かれるというのも面白い視点だと思いました。当事者からすると「そんな奴いねえよ」という黒人でないとハリウッドの映画には出られなかったというところは、今はリベラルを代弁する立場のハリウッドも昔は差別の一端を担っていたんだということがわかります。ジョン・ウェインに代表されるアメリカンヒーローたちがこの映画に何度も登場し、一方で黒人のステレオタイプキャラは当の黒人からは拒否反応を起こさせるものだったんですって。まあ、ハリウッド映画に登場する日本人のステレオタイプも知っているので、そこはそんなにムキになるところなのかなって気がしますが、固定されたヒーロー像というのは、いいところ突いてるって感心しちゃいました。

白人は自分の優位を維持するために、黒人のイメージを作り出し、その中に彼らを押し込めてきたという見せ方は、なるほどという発見がありました。頭の働く白人が、黒人を制度や法によって、自ら望む枠の中に押し込めると、バカな白人は、黒人は最初からそんなものなんだと信じ込んでしまう。大多数の愚かな白人が、理屈じゃなく生来の権利として、黒人を貶めて、彼らを愚かと決めつけ、反抗すればボコボコにして当たり前の精神状態になってしまう。今は、黒人は劣等だと正面きって言う人は少なくなっていると思っているのですが、アメリカ全体がそんな感じなのかは私にはわかりません。最近の映画を観ても、黒人差別を過去の黒歴史として距離を置いて見るまでには至っていないように思えます。そういうところを本気で知りたいと思ったら、実際にアメリカ中を回って見るしかないのですが、実際のアメリカ人だってそんなことしてないだろうから、本当のところなんてでかいアメリカだとなかなかわからないんだろうなあ。

それでも、この映画を観て、歴史の復習と、黒人差別を色々な視点から見ることができましたから、観る価値のある映画だと思います。そして、我々の中にも、優越感を満たす何かを作りたい気持ちがあるということに、向き合う機会になるのかも。だって、海の向こうの黒人差別が、日本人でも理解できる言葉で説明できちゃうってことは、黒人差別の根っこは我々と地続きだってことですもの。耳に痛い嫌な話としても、知っておいていいことだと思います。まあ、ジェームズ・ボールドウィンや、この映画の監督が、日本人の本性をえぐるためにこの映画を作ったわけではないですが、日本人も観て学ぶところのある映画になっちゃったという感じかしら。
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「告白小説、その結末」ポランスキーの語りのうまさと、最後を説明しきらないアサイヤスのタッチが融合していてかなり面白い、楽しめます。


今回は新作の「告白小説、その結末」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。ここはいつ来ても混雑している映画館なんですが、ラインナップが揃っていることと、映画1本を1000円~1300円で観られるTCGメンバーズカードの存在が大きいと思います。このカードがなかったら、横浜在住の私が、通勤定期があるとは言え、そう足繁くここまで足を運ぶことはないですもの。

人気小説家デルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)は、精神を病んで自殺した母親と自分を題材にした小説が大ヒットします。人気文芸評論家である夫フランソワ(ヴァンサン・ペレーズ)とは愛ある別居状態。彼女の出版イベントではサイン会に長蛇の列、それに疲れて、サイン会を打ち切った彼女の前に、エル(エヴァ・グリーン)と名乗る女が現れサインを求めます。一度はサインを拒否したデルフィーヌですが、サイン会の後のパーティで再会し、自分の話を聞いてくれるエルに好感を持つようになります。新作にとりかかったもののスランプ状態のデルフィーヌに、エルは彼女を助けようと色々と気を遣ってくれるようになります。精神病の家族の本で金儲けしたと責める手紙に精神的に参っていたデルフィーヌにとって最初はありがたいものでしたが、段々とエルはデルフィーヌの行動を監視し指図するようになります。大家に部屋を出てけと言われたエルを、デルフィーヌは自分の部屋に住まわせることにもなっちゃいます。新作は、完全にフィクションで行きたいと思っているデルフィーヌに、エルは自分の真実を書くべきだと強く言ってきます。友人や編集者に、執筆に集中したいから連絡を取らないでくれというメールを勝手に出したりするエルはどっかおかしい。そう気づいて、一度は彼女を部屋から追い出すのですが、アパートの階段を転げ落ちて骨折してしまい、そんな彼女を心配して来てくれたのは、やはりエルだったのです。彼女の提案で、執筆のための田舎家で、二人でしばらく過ごすことになるのですが....。

デルフィーヌ・ド・ヴィガンの小説「デルフィーヌの友情」を原作に、「アクトレス 女たちの舞台」のアリヴィエ・アサイヤスと「ゴーストライター」「毛皮のヴィーナス」のロマン・ポランスキーが共同で脚色し、ポランスキーがメガホンを取りました。オープニングで、小説家の視点で、サイン会の様子が描かれます。サインに疲れたデルフィーヌの前に現れる謎の美女エル。彼女は、有名人のゴーストライターをしていて、彼女のファンだと言います。デルフィーヌの小説を、まるで自分のために書かれたようだと言うあたりは、ちょっと危ないファンの「ミザリー」的な展開を予想させます。しかし、この映画は、小説家と熱狂的ファンの異常な関係という方向へは進みません。いや、見方によってはそういう解釈も可能かもしれないけど、どっちかというと小説家にあこがれるエルが、デルフィーヌを取り込んで同化しようとする「ルームメイト」に近い映画と言えそうです。まあ、それだけ過去に似たような設定の映画があるということになるのですが、ポランスキーは、ミステリーサスペンスのスタイルで物語を引っ張っていき、結末は観客の好きなようにつけていいよという、解釈の余地を残すという演出をしています。まあ、人によっては、この展開なら結末は一つで解釈の余地はないとおっしゃるかもしれませんが、私は複数の解釈を許す映画だと思っています。

ヒロインのデルフィーヌは人気作家で、愛ある別居のダンナとの関係も良好、子供二人も手を離れて優雅な一人暮らし。。ただ、母親が精神病で入院し最終的に自殺しており、それを私小説の形で出版したら大当たりしたことが彼女にある種の後ろめたさがありました。だからこそ、無記名の手紙で「病んだ肉親を売って、金儲けするゲス女」とか言われちゃうと結構精神的にダメージを受けちゃう。何者かが彼女の名前でフェイスブックを立ち上げて、そこに同じような誹謗中傷の書き込みがされて、彼女が知らないうちに炎上しちゃったりしているのです。そんな時、彼女の前にあらわれたのがエルという、有名人のゴーストライターをしている女。エルは、最初はデルフィーヌのファンとして接近してきて、精神的に疲れている彼女を支えるかのように見えるのですが、「私があなたの最高の理解者よ」なんて言い出して、段々と彼女の行動を拘束していくようになります。このあたりの語り口のうまさは、ポランスキーの職人芸とでも申しましょうか、どんどん物語に引き込まれてしまいました。先が読めそうで読めないさじ加減がうまいのですよ。ありがちなようでそうでもなさそうな感じ、うまく説明できないのですが、ここは劇場でご確認いただきたいところです。

デルフィーヌが持ち歩いていた創作メモがエルと会った直後になくなったり、クローゼットの中の彼女の若い頃の創作メモが誰かに読まれた後があったり、どうやらエルは彼女のことを調べ上げていることが伺えます。そこまでして何をしたいのかが、なかなか見えてこないのですが、フィクションを書きたいというデルフィーヌの構想を否定して、デルフィーヌ自身の事を書くべきだと言い張ります。自分のことを書いて、肉体精神ともにボロボロになったデルフィーヌはもう自分のことを書く気はないので、そんなエルをうとましく感じるようになります。このままでは、エルの思うように小説を書かされる羽目になるのではないかと、彼女の存在が不気味に感じられるようになります。観客としてはデルフィーヌがそう思う前から、この女ヤバいぞとわかっているので、いつ、彼女がエルを切るのかが、サスペンスの要素となります。

ところがここで急展開、デルフィーヌは事故(これはエルは無関係)で、骨折してエレベーターのないアパート生活が困難になります。エルに助けてもらって彼女と一緒に田舎家の別宅で、執筆活動を継続することになります。エルも自分の執筆活動があるからと部屋に引きこもるようになります。一方で、デルフィーヌは、小説の題材としてのエルの存在を再認識します。幸いと言うべきか、エルはそれまであまり語りたがらなかった自分の過去を語り始めます。母親が自殺していたり、山岳案内人と結婚したものの、そのダンナも自殺(ここがはっきりしない)したとか、なかなかな人生を歩んできたことがわかります。彼女に気づかれないように、エルの話から物語の構想を記録し始めるデルフィーヌ。これが成功すれば、あの威圧的なエルを出し抜くことができるのですが、果たして成功するのでしょうか。

ほとんど、デルフィーヌとエルの二人芝居で成り立っている映画でして、その駆け引きで見せる映画になっているのは、「毛皮のヴィーナス」と似た構成ということができるかも。さらに、「アクトレス 女たちの舞台」「パーソナル・ショッパー」のオリヴィエ・アサイヤスのタッチがかなり感じられるお話になっていまして、白黒がはっきりしない曖昧なまま進むドラマと、そのドラマの柱にぽっかりと穴を空けたまま終わるあたりの後味は、アサイヤスの映画っぽいなあって感じがしました。一方で、これをサイコスリラー的に解釈すると、ポランスキーの「反撥」「水の中のナイフ」が見えてくるあたりは、この映画、一筋縄ではいきません。アサイヤスやポランスキーの過去の作品を知らなくても単品として十分に楽しめる映画ではありますが、彼らの過去の作品を観ていると、余計目に想像の裾野が広がる映画でもありました。

デルフィーヌを演じたのはポランスキーの奥さんでもあるエマニュエル・セニエでして、人気作家にしては、言動がどこかふわふわしていて頼りなげなキャラクターを好演しています。一方の謎の女エルを演じたエヴァ・グリーンは、冒頭から腹に一物ある凄みを感じさせる女性として登場し、どんどんデルフィーヌの生活を侵食していくのをパワフルに演じました。エヴァ・グリーンのような完全無欠の美女(そう思うのは私だけ?)が、醸し出す凄みには、どこかリアリティと一線を画した部分もあって、「ミザリー」のキャシー・ベイツのような突き抜けた怖さまで達しないのですが、それこそがこの映画のカギなのかもしれないと思ったのは観終わった後でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



デルフィーヌがアメリカへ出張中のフランソワへ電話すると、彼は妻の言動が誰かに支配されているみたいだと心配します。田舎家の執筆活動は順調に進んだように見えるのですが、エルがネズミにおびえて、殺鼠剤とネズミ捕りを買ってきて、それを地下室に置いた直後から、デルフィーヌは熱を出して寝込んでしまいます。どうも食中毒みたいなんですが、エルの方は何ともない、エルはスープやココアを強引に飲ませようとするのですが、デルフィーヌは拒否。気づけば、エルについて書いた創作メモは破り取られていました。ある夜、フランソワの友人のレイモンがデルフィーヌを探しに来て、声をかけるのですが、半死半生のデルフィーヌはそれに応えることができないまま、彼はまた去っていきます。「このままでは殺されるかも」とデルフィーヌは田舎家を抜け出し、下の村へと逃げるのですが、途中で道の側溝に落ちて気を失ってしまいます。そして、翌日、道路工事のトラックに発見されたデルフィーヌは、病院に運ばれます。気がついた彼女はフランソワから、自殺しようとしたのかと問われてびっくり。彼女の体から殺鼠剤の成分が見つかったというのです、さらに驚いたことに、編集者宛に新作の原稿が届いていたというのです。それはまたベストセラーになったようで、サイン会が行われています。何人もの人間が彼女にサインを求めます。と、急に周囲の風景が変わってエルがサインを求めてきます。一体何が起こったの。そして、本のタイトル「この物語は事実に基づく」がクローズアップされて、おしまい。エンドクレジット。

ラストは死にそうになったヒロインがエルと対決するのかと思いきや、彼女が家を抜け出して助けられたところで、一区切りついてしまい、エルの存在は不問にされたまま、映画は終わってしまいます。うーん、これはいわゆる一人二役というか、二重人格トリックのミステリーだったのかなと思わせる結末になっています。ラストで唐突に再び現れるエルを見ると、思い返すと最初のエルの登場もドラマの流れを遮る唐突なものだったよなあって気づかされ、こいつは実際は存在しないんじゃないかという気分になったところで、一気にドラマは幕を閉じてしまいます。「この物語は事実に基づく」という捨て台詞を残して。結局、種明かしはされないのですが、エルは、執筆のスランプに追い詰められたデルフィーヌが、自分の心の中で作り上げた架空のゴーストライターだったのかなと思わせる結末に思えました。そして、結局、デルフィーヌは自分の全て(過去とか創作ノートとか)をゴーストライターに与え、新作を彼女に書いてもらったということではないかしら。それは単にデルフィーヌの中でのお話でして、実際、エルも彼女なので、エルが書こうが、デルフィーヌが書こうが、デルフィーヌの作品であることに間違いはありません。それでも、デルフィーヌは、ゴーストライターに書いてもらうことで、精神的にずいぶんと楽になり、自殺寸前のところで思いとどまったのだと考えると、私には腑に落ちました。エルが実在したと仮定した解釈もきっと可能ではないかと思うので、これはあくまで私個人の解釈ということになります。どっちにしても、ゴーストライターのエルは、デルフィーヌと一体になり、デルフィーヌに成り代わろうとしたというところは同じだと思います。そして、最終的に、デルフィーヌの乗っ取りには失敗したのだと。でも、次回作でまた、デルフィーヌがゴーストライターを必要としたとき、今度こそ、エルに本体が乗っ取られちゃうのかも。

映画の前半、デルフィーヌの夢の中で、デルフィーヌの母親が彼女の仕事机に座り、彼女のパソコンを手に取って思い切り投げると、向いのビルのエルのいる部屋までそれが飛んで行って、エルごと部屋を破壊しちゃうというシーンが登場します。これが、エルがデルフィーヌと一体だということを示しているとおもったのですが、それは、メタファーではなくて、本当に文字通り同一人物だったということになるのではないかしら。決して、わかりにくい映画ではないですし、展開も面白いし、演技陣もうまいのですが、それでも説明しきらない結末は、苦手な人がいるかも。それでも、私はこの映画楽しみましたし、このやり方は「パーソナル・ショッパー」や「アクトレス 女たちの舞台」のアサイヤスの語り口だよなあって、楽しんでしまいました。やっぱり、お話の語り部職人として、ポランスキーはうまいよなあって感心する一編でした。

「女と男の観覧車」アレンの演出もいいけど、何よりケイト・ウィンスレットを見る映画、彼女素晴らしいです。


今回は新作の「女と男の観覧車」を川崎の109シネマズ川崎2で観てきました。こういうミニシアター系映画をシネコンでかけてくれるのはありがたい限り。ミニシアターより大きなスクリーンで観られるというメリットもありますし、と書いて気がついたのですが、もう「ミニシアター」という言葉は死語になっちゃってるのかな。最近の若い人に「ミニシアター」なんて言っても、「何それ?」ってことになっちゃってたりして。

1950年代ニューヨークのコニーアイランドの遊園地で回転木馬の係をしているハンプティ(ジム・ベルーシ)は、元女優で今はウェイトレスをしているジニー(ケイト・ウィンスレット)と再婚しましたが、その連れ子のリッチーはあちこちに火をつけて回る問題児。そんなハンプティの元に別れた娘キャロライナ(ジュノー・テンプル)が転がり込んできます。キャロライナはイタリア人のギャングと結婚して、警察と取引して組織の情報をリークしたために、ギャングから命を狙われていました。そんなヤバい女をかくまうのに気が乗らないジニーですが、長年不仲にあったハンプティはそんな娘を許し、ここまでギャングも追ってこないだろうと、彼女を家に住まわせることにし、ジニーと同じ店でウェイトレスを始めます。一方、ジニーは海の監視員ミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)と浮気をしていました。昔、女優をしていて、バンドのドラマーと結婚したものの、彼女の浮気で破局し、女優の仕事も失い、生活にも困っていた状況でハンプティと知りあって結婚していたという経緯もあり、ダンナへの感謝の気持ちはあるもの、自分の人生はこんなもので終われないと思っていたジニーにとって、若いミッキーの存在は新しい人生への希望でもありました。でも、ミッキーはキャロライナの方も気になっていたのでした。

ウッディ・アレンの新作です。今回も彼が脚本と監督を兼任し、名女優ケイト・ウィンスレットと初タッグを組みました。遊園地でウェイトレスをしている四十女の悲喜劇を重厚に描いて見応えのあるドラマに仕上げました。アレン映画のいつものシニカルな笑いは控えめに、長回しを多用し、ウィンスレットの芝居をじっくりと見せる、舞台劇のような作りになっています。冒頭で監視員のミッキーが観客に向かって、ドラマの開始を宣言し、この後も彼が観客に語りかけるシーンが登場します。いつものナレーションに替わる存在になるんでしょうけど、余計目に舞台劇のカラーが出る演出でした。ビットリオ・ストラーロの撮影が「カフェ・ソサエティ」と同様、時代色を出しながら、隅々まで細やかでクリアな映像になっているのが見事で、これまでのアレン映画の柔らかい映像とは異なるビジュアルは、役者で引っ張る映画にふさわしいものになっています。

今回のヒロインであるジニーは、いつものアレン映画のようなセレブでもおしゃれでもない、ややくたびれた四十女です。昔、女優をしていて、そこそこのところまで行ったらしいのですが、看板女優まではたどり着けないまま、ドラマーと結婚、子供もできたものの、浮気して夫は失踪、仕事もなくなったという過去がありました。過去にはちょっとだけスポットライトを浴びたことがあるんですが、今は、遊園地の食堂のウェイトレスで、遊園地の射的場の上の部屋に夫と息子、3人で暮らしています。そんな人生に絶望しかなくて、死んでしまいたいと思っていたときに偶然知り合ったミッキーに夢中になります。劇作家志望の大学生で夏のバイトで監視員をしているミッキーは、元女優の四十女のジニーにとっては王子様みたいな存在なのかも。ミッキーの方も、ひと夏の遊びと割り切って、人妻を翻弄しているのかと思いきや、結構マジメにジニーの事を考えているようです。

そんな時に、ダンナの娘キャロライナが転がり込んできます。親の反対を押し切って、ギャングの若造と結婚した挙句、警察に逮捕すると脅されて、組織の情報を証言したものだから、ギャングに命を狙われているというのです。怒りまくるハンプティですが、それでも娘はかわいいので、家に住まわせ、宝くじの賞金で夜学に通わせ英語教師にしてやろうとします。このハンプティというおっさんも釣りばかりしていて、酒乱の気があって、ジニーにきつくあたることがあるけど、彼女に禁酒を言い渡されると殊勝にそれに従うあたり、根は悪い人ではなさそう。一方の娘のキャロライナはちょっと見かわいいんだけど、変な男を好きになるバカっぽい娘で、悪意はないけどどんくさいキャラクター。そんな若いキャロライナに、ミッキーの気持ちが傾いてしまうものですから、ジニーとしては嫉妬の炎がメラメラということになります。そのストレートな嫉妬ぶりは、見栄を張ったところがないのが潔いということもできるのですが、若い学生に入れ込んだ四十のババアというのは痛い光景とも言えましょう。そう言いつつもジニーは元女優ということもあって、きれいで美人さんなのが、なかなか先の読めない色恋ドラマとなります。

アレンの演出は登場人物に長ゼリフを目一杯しゃべらせるのを長回しの移動ショットで追うという演出で、役者の演技力をフル回転させています。特に、ケイト・ウィンスレットとジム・ベルーシには長めの大芝居をさせて、その役者パワーで映画を引っ張っていくあたりは、演出力と演技力の見事な合体になっていまして、こういう形で見応えのある映画は少ないので、結構新鮮に映るのではないかしら。特に、後半、追い詰められたジニーがミッキーにうったえるシーンの長回しは見応えのあるものになっていて、鬼気迫る壊れヒロインをシンパシーも込めて演じ切ったのが見事でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



キャロライナを探すギャングたちは、ハンプティの居場所も押さえてコニーアイランドにもやってきます。一度は、ハンプティがとぼけて、ギャングもそれに騙されて、引き上げていくのですが、再度、やってきたとき、キャロライナの店の主人がデートに出かけた先の店の名前をギャングに伝えてしまいます。すれ違いに店にやってきたジニーは、そのことを知り、キャロライナを助けるべく、彼女がミッキーとデートしている店に電話をかけるのですが、そこで魔が差したのか、次の言葉が出なくて、電話を切られてしまいます。そして、店の前で、ミッキーと別れたキャロライナはそれっきり姿を消してしまい、警察に届けてもその消息はわかりません。自分の家で、舞台のドレスを着込むジニーの前にミッキーが現れて、彼の推理した真相、ジニーがキャロライナを見殺しにした事実を指摘します。最初は自分とよりを戻しに来たんでしょうと余裕のジニーでしたが、ミッキーに真相をつかれると、言動がおかしくなっていきます。ミッキーが去り、ハンプティが戻ってきて、様子のおかしいジニーに「別れないでくれ」と泣きつきます。そんな夫にあさっての方を向いてブツブツとつぶやいているジニーから暗転、エンドクレジット。

前半で何とかやりすごした追手のギャングが再び現れ、今度はキャロライナの居所が知られてしまいます。ジニーはその前に、彼女がミッキーとデートすることを知っていて、さらに運よくというか、運悪くというか、ギャングの追手を見かけてしまうのでした。そこで、ジニーがデートの店に電話をかけるのですが、ギリギリのところで沈黙してしまうところが圧巻で、今なんとかしないとキャロライナが殺されちゃうのがわかっているのに、女としての衝動が勝ってしまうあたりの説得力が見事でした。その後、その真相を突いてきたミッキーに壊れてしまうジニーが何だかかわいそうな女に見えてしまうところはアレンの演出のうまさなのでしょう。やってることは最悪の結果を知っての上で、それを招いているのですから、どう責められても許されるものではないのですが、そんなジニーにシンパシーを感じさせるあたり、「ブルージャスミン」でも、最後に壊れてしまったヒロインを突き放しきれないのと同じヒロインへの想いがあったように思います。でも、その突き放しきれない視線があるからこそ、この映画は奥行きと見応えを持ったということもできましょう。残酷な結末がドラマの見応えと共に何とも切ない余韻を残します。ケイト・ウィンスレットという女優さんは、色々なジャンルの映画をこなしますが、どれを取っても彼女を観ているだけでモトの取れる演技を見せてくれます。この作品では、作品そのものも素晴らしく、さらに彼女の演技が見事で、大変見応えがありました。

「ピーター・ラビット」は面白さと楽しさだけでテンポよく突っ走るのがお見事、オススメ。


今回は新作の「ピーター・ラビット」を川崎の川崎チネチッタ5で観てきました。字幕版での鑑賞ですが、こういう映画は吹き替え版のみ上映の映画館も結構あって、字幕版を楽しみたい身としては困っちゃうのですが、吹き替え版で観るってのはテレビで観るのと同じじゃんという考え方は古い世代ってことになってきているのかなあ。

舞台はイギリスの湖水地方、ウサギのピーター(ジェームズ・コーデン)は三つ子の妹フロプシー(マーゴット・ロビー)、モプシー(エリザベス・デビッキ)、カトンテール(デイジー・リドリー)、そして従弟のベンジャミン(コリン・ムーディ)と木の根の中の家で仲良く暮らしていました。彼らはマクレガーおじさん(サム・ニール)の庭の畑に忍び込んでは野菜をかっぱらってました。マクレガーはピーターの父親をパイにして食べちゃった親の仇です。時には捕まりかけるけど、隣家の画家ビア(ローズ・バーン)が彼らをかばったり助けたりし役てくれていました。そんなある日マクレガーが心臓発作で倒れて亡くなります。そして、家と畑を相続したのがデパートをクビになったばかりのトーマス(ドーナル・グリーソン)でした。彼は家も土地も売り払うつもりで、やってくるのですが、家の中はピーターたちがやりたい放題。動物たちを追い出したトーマスは塀の戸に鍵をかけ、電気鉄線を張り巡らします。ピーターは電線に仕掛けをして逆襲に出るなど、トーマスとピーターの闘いはどんどんエスカレート。一方で、ビアとトーマスが仲良くなっていくので、ピーターとしてはさらに面白くない。トーマスはウサギよけの爆薬を買い込んで、彼らの家を破壊しようとするのですが、ピーターも只では引っ込まないで、その裏をかいていくのですが、両者の諍いはとんでもない結末を迎えてしまうのでした。

ビアトリクス・ポターの有名な絵本「ピーター・ラビット」を、ロブ・ライバーとウィル・グラックがが現代の物語にアレンジして脚本化し、グラックがメガホンを取りました。まあ、ピーター・ラビットだけでは、観ることもなかったのですが、ごひいきローズ・バーンが出ていることと、グラック監督の「ステイ・フレンズ」「アニー」が面白かったってことで食指が動きました。ピーター・ラビット以下、キツネやブタにハリネズミといった動物たちはCGアニメによるリアルじゃない擬人化キャラで描かれていまして、そこに実写の人間が絡むというもの。私は原作を未読なので、ほのぼの系のお話なのかなと思っていたのですが、ピーターはいたずら好きで、トーマスへの攻撃もかなりえげつない。そのドタバタアクションは、「トムとジェリー」のそれに近いものでして、それをCGと実写で派手にやるものですから、ほのぼの系とはかなり違う味わいです。

ピーターはとにかくマクレガー家のものは全部自分のものだと思い込んでるところがあります。その昔、ピーターたちが遊んでいた場所にマクレガー家ができたからというのがその根拠らしいのですが、そこに種をまいて野菜を育てたのはマクレガー家の皆さんなので、それを全部もらってOKというのは理不尽と言えば理不尽。マクレガーおじさんは、野菜泥棒であるウサギたちを敵対視して、追っ払ったり時にはつかまえて食べちゃったりしてきた経緯があるみたいです。うさぎ目線に立てば象徴的なモンスターであるマクレガーおじさんなのですが、この映画は、人間側のドラマを並行して描くことで、人間とウサギが、お互いどっちもどっちな関係になってくるのですよ。ライバーとグラックの脚本は、マクレガー家とウサギを「トムとジェリー」のようなシリアスにならない敵対関係にして、両者の攻防戦で中盤は突っ走ります。トーマスもピーターも美人のビアにはいい顔したいけど、でもお互いはいがみ合ってるというのが笑えるドタバタになってます。でも、段々、トーマスとビアが仲良くなっていくと、そこにラブコメ要素が入ってきます。ラブコメ部分が意外と定番の展開になっていまして、出会いからラブラブ、仲違いからの和解というのを結構マジメに作り込んでいます。

映画の前半は、トーマスとピーターの抗争劇がメインとなっていて、中盤は、そこへラブコメが並行して描かれ、後半ラブコメ中心にシフトするという構成が成功しています。グラックの演出は会話とアクションのテンポがよくって、お話がトントン進むのが心地良く、しんみりさせる設定も勢いでサラリと流して、面白くて楽しい映画にまとめています。言い方を変えると、面白さと楽しさのみピックアップして、他の要素を切り捨てたという感じでして、なるほど、ピーターラビットというメジャーな題材を使って、純粋にエンタメに絞り込んだ作りにしたセンスはすごくいいって思います。クライマックスでは映画ならではの、リアルとファンタジーの融合もしちゃうし、この映画、かなり面白いです。ラブコメとしても、根はいいやつらしいんだけど、野心家でかつ暴走するトーマスと、かわいいヒロイン風だけど天然キャラのビアのカップルは、普通のラブコメより、かなり濃いキャラ設定がされていて、ピーターラビットにインパクト負けしないあたりのバランス感覚も見事です。喜怒哀楽をくっきり見せるCGアニメのキャラクターを前にして、トーマスとビアが霞まないというのは、グラック監督の采配が見事だからでしょう。CGキャラがカートゥーンをやっているのに、人間側がテンポの速さやテンションの高さで負けてないってのは、かなりすごいことだと思いますもの。

CGの動物たちは、ウサギ以外にも、キツネやアライグマにブタやカエルまで登場して賑やかに画面を彩るのですが、本筋にはあまり絡んでこなくて、これは子供の観客のためのサービスなのでしょうね。大人が楽しいラブコメ部分だけでなく、子供も楽しめるように色々と趣向を凝らしているところは評価したいです。教訓とか説教臭さなく、面白楽しいに特化して家族向けの映画に仕上げているのですから。鳥たちがコーラスガールのように登場して、ミュージカル風のシーンも登場し、そこに邪魔が入って歌が中断するというギャグを繰り返す趣向も楽しく、色々なネタを盛り込んで、それをスマートに配置して、アップテンポにさばいてるのが点数高かったです。演技陣としては、声優陣に結構知った名前があって、こんなところにも出てるんだデイジー・リドリーとか、この人の出る映画は外れがないよなあって再認識したサム・ニールといった面々が印象的でした。また、ドーナル・グリーソンのハイテンションなコメディ演技のうまさも発見でして、役者のよさも映画の面白さにかなり貢献しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



畑でピーターたちと爆弾使って追跡劇をしていたトーマスですが、ピーターの巣に仕掛けた爆薬の起爆スイッチをピーターに奪われてしまいます。ところが、ピーターがスイッチを押してしまい、巣が爆発して、その上の木が倒れ、ビアの家を壊してしまいます。トーマスがウサギたちをいじめた挙句にビアの家まで壊したということで、ビアは激怒して、トーマスとしても言い訳ができず、傷心のトーマスは、ロンドンに戻って元のデパートで働くようになります。一方のピーターは、さすがにこれまでのことを反省し、ビアとトーいマスを仲直りさせようと、ベンジャミンを連れて、ロンドンのデパートに乗り込んで仕事中のトーマスを言葉で説得し、トーマスは家を去ろうとしていたビアを引き留めます。そして、トーマスの家を買いに来た夫婦をピーターが追い払って、ビア、トーマス、そして動物たちは仲良く暮らすようになりました。めでたしめでたし。

クライマックスで、ピーターがトーマスを説得し始めちゃうのはびっくりでしたけど、これが映画の魔法ってやつだねって納得。ラブコメとしても、トーマスが去ろうとするビアを引き留めるシーンをきっちり見せています。カートゥーン、動物アニメ、ミュージカルにドタバタにラブコメとネタを大盛りにして、面白いところをうまく選り抜いた映画としてオススメ度高いです。原作を読んでる人には、どう映るかはわかりませんけど、原作を知らない私は大変楽しめました。子供も楽しめる映画ですが、日本のアニメのような、家族愛とか感動といったものがない分、子供にも新鮮に映るのではないかしら。

「男と女、モントーク岬で」男女のお互いを理解しあえない関係を丁寧に描いて見応えがあります。


今回は新作の「男と女、モントーク岬で」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。土曜日の夜の回のこの映画館としては珍しくガラガラでした。やっぱりこういう大人の恋愛映画ってお客が入らないのかなあ。好きなんですけどね、こういうジャンル。劇場公開されずにDVDスルーにはなって欲しくないのですが。

北欧出身の小説家マックス(ステラン・スカルスガルド)は、新作のプロモーションのためにベルリンからニューヨークにやってきました。ニューヨークには出版社で働く妻クララ(スザンネ・ウォルフ)がいて、夫婦なのに久々の再会です。彼の小説は自分の過去の恋愛をモチーフにして作っているので朗読会でそのくだりをマックスに朗読されるとクララとしては心境は複雑。マックスのかつての師匠でパトロンだったウォルターが朗読会に現れ、マックスはかつてのニューヨークの恋人レベッカ(ニーナ・ホス)の連絡先を聞き出します。今は弁護士をしている彼女のオフィスまで押し掛けて、本と朗読会の招待状を渡すマックスに、レベッカの対応は冷ややか。酒の勢いで自宅にまで押し掛けちゃうマックスですが、そこでもうまくあしらわれてしまいます。ところが、レベッカの方から週末にロングアイランドへ行くのだが、一緒にどう?というお誘いが来ます。ロングアイランドの先端にあるモントークはかつて二人で旅行に出かけた思い出の地でした。そこへ行こうという彼女にはどんな意図があるのでしょうか。クララという奥さんがいるのに、わくわく気分で出かけるマックスってどうよ......。

ドイツの名称フォルカー・シュレンドルフが、「ブルックリン」のトルム・コビーンと共同で脚本を書き、メガホンも取った、大人の恋愛映画です。私はこの人の映画は学生の時「ブリキの太鼓」を観たのですが、さっぱりわけがわからず、その35年後に「シャトーブリアンからの手紙」「パリよ、永遠に」を観て、ヘビーな内容の映画を退屈させずにかつ面白い視点で切り取る監督さんという印象でした。向こうでは巨匠の扱いだそうですが、80歳を目前にして恋愛映画を撮ったというのはちょっとした意外感があるんですって。(これは、プログラムからの受け売り)そういう裏話は置いといて、私は主演の二人がステラン・スカルスガルドとニーナ・ホスという渋いご贔屓名優だったということで食指が動きました。ニーナ・ホスは「東ベルリンから来た女」が無茶苦茶かっこよかったですし、スカルスガルドは「奇跡の海」「ディープ・ブルー」と硬軟、主役も脇役もこなすうまい役者さん。この二人を主役にした恋愛映画ってどんなものなんだろうってところにまず興味出ました。

映画の冒頭は、マックスの一人語りで、それが自作の小説の朗読会だとわかります。彼の小説は自分の経験に基づいてる私小説な味わいが強いものらしく、彼は過去のレベッカとの恋愛もその小説に盛り込んでいました。彼は基本はドイツにいるんですが、奥さんのクララはニューヨークで出版の仕事をしているという何だか変則的な夫婦関係。17年前に別れたきりになっているレベッカに連絡を取って再会しようとするのは、マックスとしては、あわよくば焼けぼっくいに火をつけたいのか、単に元カノとの旧交を温めたいのか、そのあたりがどうも前者の方に見えるのですね。一方のレベッカは何を考えているのかが今一つわからなくて、こればミステリーの要素となってドラマが進んでいきます。

レベッカがマックスを週末の旅行に誘ったことから、ドラマは新しい展開となります。それまでマックスにそっけなかったレベッカに何か心境の変化があったのでしょうか。彼女の気持ちもマックスになびき始めたのか、それともマックスをいっちょ弄んだろかと思い立ったのか。女性ってのはよくわからないよねえって映画になってきます。その一方で、マックスの方のあわよくばという気持ちはすごくわかりやすい、自分に都合のいい成り行きを期待するよくある男のパターンです。優柔不断じゃなくて、すべてを自分の都合のいい方に強引に解釈して、その解釈を相手にも押し付けちゃうという、いわゆるズルい男。自分の過去を小説に取り込んで、相手のことを自分のいいように解釈して、それが客観的な事実であるかのように書いて、自己満足して、それでお金も稼いじゃうってのは、それ自体、結構ズルいと思ってしまうのですが、言葉を扱うアーティストとしては、そういうのが許されるみたいなんですよね。同じことをブログやインスタに書き連ねたら、思いやりの足りない個人情報流出野郎と言われちゃうんだろうけど、紙の上の活字にしたら、芸術の一部として許容対象になるってのには、私は納得いかないのですが、マックスはそれで身を立てて社会的な地位を築いていて、さらに元カノに会って、あわよくばやり直したいと思っている。これって、結構恥ずかしいことだと思うのですが、それを否定しないで、そういう男がいてねというお話にまとめているのは面白いと思いました。男っていくつになっても、社会的な地位を得ても、恥ずかしい存在なんだよっていう映画と解釈すると、そんなダメ男を否定しないシュレンドルフってどういう人なのかなって興味がわいてきます。

演技陣は主演二人は適役適演で、芸術家だけどエゴイストで俗なオヤジをステラン・スカルスガルドが存在感のある演技で熱演していて見事でした。一方のニーナ・ホスは、思い込みが強そうで、何か過去を持つ女性をサラリとリアルに演じ切りました。よく考えるとヘヴィなヒロインなのに、決して重すぎないキャラクターはある意味、男にとって都合のよい女とも解釈できます。そう思うと一見男と女の恋愛へ対する接し方を細やかに描いているように見えて、男にとって究極の都合のいい女はこれだというのを、男目線で描いた映画ではないかしら。結局、マックスの思うようにならないのに、それが彼にとってのベストの着地点になるという都合の良さは女性の眼から見るとどう映るのかすごく興味あります。ご覧になった女性の方の感想を伺いたい映画ですね、これは。

シュレンドルフの演出は、マックスを中心にテンポよくドラマをさばいて、要所要所にアートっぽい空気を漂わせながら物語で引っ張る映画に仕上げています。また、ポストクラシカルで名をあげて、多くの映画音楽を手掛けるマックス・リヒターの曲をドラマの要所で使っています。この映画のために書かれたものではなく、既成曲のようなのですが、それがドラマに共感できる感情の揺らぎ感を与えるのに成功しています。リヒターの音楽のおかげで、登場人物の感情の動きがこちらに入ってきやすくなりました。すごく心に入り込んでくる、共感しやすい音楽が流れると、ドラマも受け入れやすい気分になるってのは結構不思議。映画の中の音楽の力はあなどりがたいと思うのですが、最近の映画だと、音楽の力がないがしろにされているような気がして、なんかもったいない。



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レベッカがモントーク岬へ出かけた理由は買いたい家を見に行くためでした。でも、行ってみたら誰もいない。仕方なく、家の管理者に明日会うアポをとり、レベッカは近所のホテルに泊まると言い出します。実は妻との約束があったマックスですが、自分も特に用がないからと、かつて二人が泊まったホテルに宿をとり、当時は行けなかったレストランで食事し、部屋へ戻った二人は自然に抱き合うのでした。翌日、家の内覧を済ませたレベッカは、マックスに、マックスと別れた後のことを語り始めます。彼と別れて傷心の彼女はある男と出会い愛し合うようになります。彼は弁護士でお互いの将来を見据えた関係だったのですが、ある日その彼が心臓発作で急死し、彼女の心には大きな穴が空いてしまい、それは一生埋まることはないと告白します。一方のマックスは昔のように体を重ねたことで、あの日が蘇ったのだと思い、離婚するからもう一度やり直そうと持ち掛けます。そんなマックスに、今の自分は失った彼氏の抜け殻だと言います。改めて、マックスに別れを告げるために、ここへ来たのだと。マックスとしては、そんな話を素直に納得はできないけど、レベッカの言葉に嘘はないことはわかっていました。そして、モントーク岬をあとにする二人。マックスは、奥さんのクララに謝罪し、何とか許してもらいます。そして、またドイツへと向かうマックス。それを見送るクララ。元の生活に戻るレベッカ。17年間の空白は、そこに何もなかったことを確認して、未来への時間が動き出すのでした。おしまい。

レベッカが泊まると言い出した時、マックスとしてみれば、それを彼女の誘惑だと解釈するのは無理もないと、男目線で思ってしまいました。そして、ベッドを共にしてしまえば、焼けぼっくいに火がついたとしか思えないのですが、レベッカは他の男が忘れられないのでした。男が、自分の都合のいい方に、物事を解釈しちゃうわがままさんだとしたら、女は体は許しても、心は別の男の中で死んでいるという矛盾を力業で押し通す面倒くさい人。どっちもどっちの関係の中で、二人は結局、元さやに戻ることはありませんでした。でも、マックスにとっては、奥さんのクララを捨てずに済んで、それなりのハッピーエンド。レベッカにとっても、自分の過去の清算を思わぬ形で実現できたので、これもやっぱりハッピーエンド。何か、納得いかないところもあるけど、全ては元の場所に収まり、二人の過去の記憶はちょっとだけ整理され、ちょっとだけ遠い過去へ押しやられて、少しずつ朽ち果てていくんだろうなという予感で映画は終わります。きっとこの話も熱が冷める前に、マックスが小説化するでしょうね。そういうことで商売してきたんだからこの人。自分の人生を切り身にして干物に加工して売ってるようなものだと思うのですが、そういう生き方って結構不幸なのかもしれないなあって感じさせる映画でした。でもその不幸にふてぶてしくあぐらをかけるのがマックスのような男であり、レベッカは過去の不幸を自分の中で抱え込み続けるのです。マックスは表現者であるので、言葉を弄して自分を美化することができ、自分の過去すら、言葉によってコントロールできちゃうのですが、レベッカは、表現する術を持たないので、喉に引っかかっても、呑み込めるその日まで咀嚼し続けることになります。何だか耐える女性の姿のイメージが見えてきたような気がします。表現者のアドバンテージについて気づかさせる映画とまで言ったら、さすがにうがちすぎでしょうね。でも、面白い映画でした。その面白さの大きな要素となっているのは、役者の演技だと思います。二人の名優が、男と女のドラマの様々な顔を見せてくれます、というとちょっとほめ過ぎかな。

「ワンダー 君は太陽」を障害者が差別と闘う映画かというとそれだけじゃない、オススメ。


今回は、新作の「ワンダー 君は太陽」を横浜のTOHOシネマズ上大岡3で見てきました。日曜の早朝の回にしては意外とお客さんが入っていました。予告編では、生まれつきの障害で顔が普通じゃない男の子が学校に入って頑張るというお話だなという印象でした。うーん、かわいそうな子のお話というのはちょっと苦手かもという予感がありました。普通と見た目が違う人間への差別をテーマにしていたらちょっと重いよなあって気もしていまして。

10歳のオギー(ジェイコブ・トレンブレイ)は、母親イザベル(ジュリア・ロバーツ)と父親ニール(オーウェン・ウィルソン)、そして姉ヴィア(イザベラ・ヴィドヴィッチ)と暮らす男の子。ただ、彼は生まれつき障害があって、何度も手術を受けた結果、普通の顔ではありません。小学校の高学年になる機会に学校に通わせた方がよいというイザベルの勧めで、オギーは学校に通い始めることになります。学校ではお坊ちゃんジュリアンはやたらオギーに絡んでくる一方で、奨学金で学校に通っているウィルは、オギーに理科の答案を見せてもらったことがきっかけで仲良くなります。一方、父母の愛情がオギーに注がれた分、手のかからないお姉ちゃんとして扱われてきたヴィアは、疎外感を感じていました。幼馴染のミランダ(ダニエル・ローズ・ラッセル)から急に冷たくされて落ち込んでるヴィアに家族の誰も気づきません。オギーも、学校では目に見えた嫌がらせはジュリアンくらいでも、他の大多数の生徒からはばい菌扱いか、無視されちゃうことに心を痛めていました。せっかく仲良くなったジャックも、実は校長先生に言われて仲良くしてたことがわかって、大ショック。それでもサマーという女の子が友達になってくれるし、理科の授業は楽しいしと学校に通い続けます。ミランダも演劇クラスをとったことで、ジャスティン(ナジ・ジーター)というボーイフレンドができて元気を取り戻していきます。でも、オギーやヴィアが仲たがいしてしまったジャックやミランダにもそれなりの事情があり、仲直りできたらいいなあって思っていたのでした。一人一人の想いが交錯したとき、そこにささやかな奇跡(ワンダー)が生まれるのでした。

全世界で800万部を売り上げた、R・J・パラシオの小説を、実写版「ウォール・フラワー」「美女と野獣」のスティーブン・チョボスキーと「LIFE!/ライフ」のエビッド・ホバーマンとスティーブン・コンラッドが脚本化し、チョボスキーがメガホンを取りました。生まれつきの障害のせいで、顔が普通の人と違う少年オギーが、初めて学校に通うようになってからの1年間を描いたドラマです。他人とは容姿が異なる主人公ですから、学校でのいじめとか差別といったものは当然出てくるのですが、いじめや差別に負けない主人公の強さを描くドラマではありません。むしろ、そういうハンディを持った少年を中心に据えて、彼とその周囲の人間の群像ドラマのように描いているのですよ。これはちょっと意外でもあり、その意外性から思わぬ感動を呼ぶという作りになっていて、いじめ差別vs主人公という二項対立じゃない構成は、映画として奥行きとリアリティと希望に満ちたものになっています。仲違いから和解へ向けた流れなんて、ちょっと出来過ぎなようにも思えるのですが、でも素直に感動できましたから、これはチョボスキー演出のうまさか、よほど私が単純かのどちらかなのでしょう。

いじめが最近よく問題になりますけど、私が知ってる限り、昭和の軍隊とか、戦後の学校とかにいじめはあったのは間違いないです。だから、日本人のDNAに「いじめ」という名の「上から目線の異分子排斥」がきっちり書き込まれているのだと思ってます。その一方で、よく、学校側がいじめの調査をしたが、いじめはなかったという報告をしているのを見ると、「嘘つけ!」って思っちゃいます。自然体でいれば、「いじめ」は発生する。意図的に(かつ理性的に)自分の自然体に逆らわないといじめは抑止できないと思っているからです。まあ、日本人のDNAは自分がそうだから何となくわかるけど、よその国はどうなんだろうと気になることもありました。で、この映画では、アメリカにも自然発生的な差別やいじめがあるよねというのを垣間見せていまして、ああアメリカも似たようなものなんだなという発見がありました。この映画は、いじめをリアルに描いたり、いじめを糾弾する映画ではないのですが、オギーがばい菌扱いされる、みんなから気まずさの後に目を逸らされるなんてことが自然に描写されています。ドラマチックでなく「自然に描写される」というところがミソでして、そういうことは普通にあるみたいなんですよ、やっぱり。じゃあ、そういう差別やいじめの意識をどうしたら根絶できるのかなんていう、でかい命題に、正面突破を試みる映画ではありません。そんな差別やいじめの周辺に普通の人の普通の嫉妬や普通の善意を丁寧に描くことで、ちょっとだけ希望を感じさせようという映画だと私は解釈しました。

この映画、要所要所に登場人物の名前が出て、そこからしばらくその人物に焦点をあててドラマが語られるのですよ。最初に登場する名前はもちろん、オギー、そしてその次に登場するのが、姉のヴィアというのがちょっと意外で、でもなるほどうまいなあって感心しちゃいました。弟がかわいくて大好きなヴィアですが、オギーが両親の関心を一身に集めている現状にあきらめつつも、少しは自分の方も見てほしいという感じ、何だかすごくもどかしくて切ない感情に共感できちゃうのですよ。さらに、ドラマは、ディアの元親友ミランダや、オギーと仲違いしちゃうジャックにもスポットをあてて、彼らの心情を丁寧に描いています。そうすることで、誰もが悪意だけで行動しているわけではなく、ささやかな善意があっても諍いは発生する、だからこそ、その善意によって関係が復旧する可能性があるという見せ方になっているのです。だから、同じ気持ちでも、うまくいくときと行かない時があり、だからこそ、善意を信じることに希望を持てるという見せ方には、ホロリとさせるものがありました。特に、ヴィアとミランダの仲違いから和解への流れの展開には泣かされちゃいました。

演技陣は適役適演でして、強いジュリア・ロバーツとどっか頼りなげなオーウェン・ウィルソンの夫婦の力関係がおかしく、特殊メークしたジェイコブ・トレンブレイの自然な演技もよかったです。特によかったのはよくできた姉を熱演したイザベラ・ヴィドヴィッチは今後の活躍が楽しみな女優さんです。また、主人公の同級生を演じた面々も皆好印象でして、唯一の悪役の存在感を見せたジュリアン役のブライス・ガイザーも後半で自分の行動を後悔するところで共感を呼ぶ演技を見せ、それまで主人公をばい菌呼ばわりしていた級友たちと仲良くなっていくのをドラマチックにしないでなんとなくそうなっていくという演出が好感を持てるというか、リアルに共感できるところがありました。見た目に障害のある主人公なので、ドラマの主眼もそっちへ行きがちかと思いきや、オギーも含めた様々な人の想い、善意も悪意も嫉妬もひっくるめて、さらに、それらの感情のすれ違いも含めて、丁寧に描き、最終的に普通の人々の善意への希望にまとめ上げたのは見事だと思います。確かにリアリティを問うなら、出来過ぎの物語であることは認めちゃうのですが、それでもこの映画が嫌いになれないのは、物語に登場する正の感情にも負の感情にも共感できたということがあります。自分と地続きの感情を持った人間が完全とは言えないけど、でも最後に自分の善意に自信を持てる結末ってのはうれしい映画なのですよ。



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演劇クラスのオーディションの結果、ミランダが主役の座を射止め、ヴィアはその代役となり、公演時には裏方に回ることになっちゃいます。ミランダは両親が離婚してから、家庭が荒れていて、自分をヴィアの境遇だと偽ったらサマースクールで人気者になってしまい、それからヴィアと距離を置いていたのでした。それでも、ミランダはヴィアと和解したくてそのきっかけを探していました。演劇の発表会の日、事情を知ったイザベルとニールはオギーを連れてミランダの応援に行きます。そのことを知ったミランダは仮病を使って、代役のヴィアに主役を演じさせるのでした。一方、理科クラスのコンクールでオギーと一緒に発表することになったジャックは自分の言動を詫びて、二人は仲直りし、巨大な針孔カメラを作って、見事コンクールで優勝するのでした。一方、クラスの集合写真からオギーを削除したり、ひどい悪口メモを書いたりしていたジュリアンは停学になってしまいます。でも、校長の前で反省の顔を見せるジュリアンに彼の両親は息子は悪くない、転校させると息巻いて、彼は学校から姿を消すのでした。学期末の野外授業で、上級生に絡まれていたオギーとジャックを他の級友たちが助けたことで、オギーを中心にクラスはよりまとまるのでした。修了式の日、校長はその学年の一番の生徒の賞にオギーを指名するのでした。みんなの前に出てトロフィをもらうオギーの背中を映したカットから暗転、エンドクレジット。

障害を持ったオギーが理科の成績がトップだということ、両親がそこそこ裕福で、両親と姉にオギーへの愛情と理解があったことなど、かなりオギーは障害を持っていても恵まれた環境にいることは確かです。ジャックやジュリアンがオギーと同じ障害を持ってしまったとしたら、この映画のような奇跡の展開にはならなかったでしょう。そこに映画の魔法があることは認めた上で、でもいい話をいい感じにうまくまとめてるってところは好きな映画です。確かに顔に障害のある子どもが学校へ行って大変な思いをするお話ではあるのですが、それだけじゃないもっと普遍的な人間の善意や悪意について考えさせられる映画としてオススメしちゃいます。

「レディ・バード」は高校3年の女の子の1年間を描いた愛すべき小品、青春ものなのに大人向け映画になってるのが面白い。


今回は、新作の「レディ・バード」をTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。目と鼻の先にTOHOシネマズ日比谷があってどうなるかと思ってたのですが、まだ閉館にはなってないのですが、そのうちなくなっちゃうのかな。今は上映作品で棲み分けをしているようです。まあ、東宝系劇場でミニシアターがないことから、ここはミニシアター系の専門館として生き残って欲しい気もしますが、見やすさだけから言えば、シャンテ1だけ残れば、2と3は要らないかな。

カリフォルニアのサクラメントに住む高校3年生のクリスティン(シアーシャ・ローナン)は、自分のことを「レディバード」と呼ばせてました。母親(ローリー・メトカーフ)は娘にきつく当たることも多く、医師で夜勤も多く忙しい日々、一方の父親(トレイシー・レッツ)はクリスティンにやさしいけど会社ではリストラ寸前。養子の兄ミゲルとその恋人ジュリーも同居していて二人はスーパーのレジ打ちをしています。彼女の通う高校はガチガチのカソリック校で、レディバードは学校内のミュージカルに参加するようにシスターに勧められ、内申書のためということもあってオーディションに出て、コーラスとして参加し、主演の男の子ダニー(ルーカス・ヘッジス)と仲良くなります。サクラメントを出て進学したいと思っているのですが、母親からそんなお金はないときっぱり言われちゃうレディバード。父親に頼んで奨学金の手立てをするのですが、その父親が会社をクビになってしまいます。一方ある事件がきっかけでダニーと気まずくなったレディバードは今度はバンドをやってるイケメンのカイル(ティモシー・シャラメ)にロックオン。自分から接近して彼女のポジションになることに成功、彼に処女を捧げるのですが、カイルが童貞だと勘違いしてたことで何か気まずくなっちゃいます。結局、レディバードにとって大事なのは、色恋に励んでいた時に疎遠になっていた同級生のジェリー(ビーニー・フェルドスタイン)だと気づくのでした。そして、彼女にもサクラメントを旅立つ日が来ます.....。

「マギーズ・ブラン」「フランシス・ハ」「20センチュリー・ウーマン」などで印象的な演技を見せ、脚本家としても評価されていた才女グレタ・ガーウィグが脚本を書いて、初メガホンを取りました。彼女自身がサクラメント出身だそうで、自伝的な映画なのかというと、レディバードの物語は基本創作で、でもガーウィグの故郷への想いが反映されているんですって。(プログラムのインタビュー記事によるとそんな感じ)94分という短めの尺の中に小さなエピソードをたくさん詰め込んで、うまく刈り取ったという感じの映画になっています。女子高生のスケッチ風の映画ではあるんですが、そこに女の子の微妙な意識とか恋愛観、母親との葛藤といったものが大盛り状態で積み上げられていまして、ライトなドラマですが、中身がぎっしり詰まっているという感じの映画に仕上がっています。大きなドラマチックな展開のない女子高生の映画が、アカデミー賞の作品賞に監督賞・脚本賞さらに主演・助演女優賞と主要5部門にノミネートされたと言うのは結構すごいことだと思います。マイノリティやゲイ、女性差別といったものを前面に出さない普通の女子高生の映画をちゃんと評価するってところはアメリカってあなどれないと思いました。まあ、オスカーの授賞式では、女性監督の監督賞ノミネートが久しぶりですごいという持ち上げられ方をしていたので、そういう視点からのご祝儀ノミネートがなかったとは言えないかも。それに女性監督にしては、若くて美人さんですしね。

映画は細かいエピソードを連ねて、ヒロインの高校3年生の1年を描いています。その中で柱となるのは、レディバードと母親の関係です。娘からしてみれば、やたらとお金の話ばかりする口うるさい母親で、きっと自分のことを嫌っているに違いないと思っちゃっています。母親としては、娘のことが心配で仕方なくて、つい物言いがきつくなってしまう、余計目に娘はかたくなになっちゃうという悪循環。そんな母親やサクラメントという土地から離れたいという気持ちが強いレディバードなんですが、色恋沙汰も楽しいし、親友との関係も大事。18歳で処女というのはアメリカだとマイノリティなのかなって気もする一方で、厳格なカソリックの学校だとそういう女の子も結構いるのかなって気もするし、サクラメントってのはいわゆる都会とは違う田舎なのかなとか色々と考えさせるところありました。ニューヨークへ行きたいというのは、日本の地方都市(甲府とか高崎とか、例えが不適切?)の女の子が東京に出たいというと同じ感じなのかなあ。でも、一方で彼女の兄とか同級生のようにここを出ないと決めてる若者も登場するので、考えることは人それぞれだとは思うのですが、20世紀のアメリカ映画に出てくる女の子はみんな田舎から都会に出たいと言ってたような気がするのですが、時代が変わってきたのかしら。それとも昔の映画の田舎の女の子はステレオタイプばっかだったのかも。

トラブルを起こしたりもするけれど、レディバードの存在感はすごくリアル、そして、共感まではいかないけど、すごく納得できるものがあります。仲良かったダニーが男の子とキスしているのを目撃してショックを受けるけど、すぐに次のターゲットを見つけて自らアプローチをかけるあたりも微笑ましくておかしくて、かわいいねえって思っちゃうのですよ。自分がオヤジだからそう思うのでしょうけど、こういう若い女の子の映画を観て「かわいいねえ」って感じるようになる自分にびっくりする一方で、だからこそ、この映画の母親に共感もできちゃいます。18歳にもなって「背伸びした少女」というのもどうかと思うのですが、「背伸びした18歳の少女(?)」を「かわいいねえ」と愛でる映画になっているのですよ。若い女の子が主役の映画なんですが、日本の若者向けに作られた広瀬すずや土屋太鳳が出る映画とは明らかに違うのは、この大人から見た女の子という視点で描かれているところだと思います。大人の視点と言っても、自分の若い頃を見る想いなのか、自分の子供を見る想いなのか分かれるところなんですが、この映画は、その両方を欲張っていまして、若さへの共感とノスタルジーを両立されているのがうまいと思います。うん、うまいって言葉が一番あてはまるかな。

舞台が2002年というイラク戦争真っ只中ではあるのですが、そういう時代はあくまでテレビ画面の中にとどまっていてドラマの前面に出てくるものではありません。ですから、時代を感じることなく、観客の思う時代にヒロインをあてはめることができます。カソリック校という保守的な環境も想定できる時代の幅を広げて、年の行った人もそこそこ若い人も彼女の境遇に共感できるのではないかしら。そういう作りのうまさは、エピソードを細かくして積み上げたところにも感じられまして、94分という短めの尺なのに、ドラマとしての満足感が高い映画に仕上がっています。あちこちに笑いの要素も加えて、シリアスにならないところもうまく、決しておちゃらけた映画ではないのですが、ヘビーになったり誰かを悪役にすることなく、人生の1ページを真面目にかつさわやかに描くことに成功しています。青春ものに、笑えるエピソードを入れるとシニカルな空気になりがちなんですが、この映画では、素直に笑えて共感できるものになっているのも点数高いです。

ヒロインを演じたシアーシャ・ローナンは「ハンナ」とか「天使の処刑人 バイオレット&デイジー」で変化球ヒロインを巧みにこなす人ですが、「つぐない」「ブルックリン」のようなドラマチックヒロインで評価されている女優さんという認識でした。でも、今回は変化球でもドラマチックでもない、等身大ヒロインを熱演してアカデミー賞にノミネートされたということで、その懐の深さを再認識させられました。同じくオスカー候補になった母親役のローリー・メトカーフはうつ病持ちでリストラされたダンナを抱えて医者として家計を支える肝っ玉かあさんをリアルに演じて見事でした。やたらと「ウチはお金がないんだから」と連呼するお母さんですが、娘のことはかわいくて仕方がない感じですごく共感できました。その他の演技陣も振れの小さいドラマの中で、きちんと見せ場を割り振られているのは、ガーウィグの演出のうまさなのでしょう。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(でも想定範囲内の決着ですので)



プロムの夜、迎えに来たカイルたちは友達の家へ行くと言い出します。そこで、レディバードはカイルと別れて何となく疎遠になっていた親友のシェリーの家に行き、彼女を誘ってプロムに行きます。二人でプロムを楽しんだ彼女は改めて親友との絆を感じるのでした。当初はサクラメントの大学へ進学することになっていたのですが、補欠合格していたニューヨークの大学へ通えるようになり、父親に頼んで申請しておいた助成金ももらえることになり、彼女はニューヨークへ向かうことになります。そんなこと全然聞いてなかった母親は、彼女と口を聞こうとしません。それでも、娘に向けての手紙を書いては捨ててはしているみたい。そして、ニューヨークへ旅立つ彼女を空港まで送る母親、父親はゴミ箱から拾い集めた手紙の束を娘のカバンにそっと忍ばせるのでした。ニューヨークでの生活を始めたレディバードは、自分をレディバードと呼ぶことをやめます。そして新しくできた彼氏が無神論者なのに驚いたりしながら、少しずつ都会の暮らしに慣れていきます。そんなある日曜、教会を訪れた彼女は、自宅へ電話します。留守電に彼女は母親へメッセージを残します。自分が一番感動したことが免許を取って自分の街を走ったことだと語るもうレディバードじゃないクリスティン。そして、自分の街の素晴らしさに改めてきづいたと留守電に残し、電話を切り、歩き出すクリスティンから暗転、エンドクレジット。

母親の想いをさらっと伝える父親のかっこよさとか、空港で万感の想いで娘を見送る母親の姿とか、すごくあるある感があるけど、でもささやかな感動もあります。そして、自分の故郷への想いを新たにするあたりもありがちだけど、何だか気持ちのいいラストになっています。ヒロインの1年間を描く映画の中で、ドロドロしたものをあえて持ち込まず、でもドラマとして薄くならないのは、うまいと思います。自伝的な作家性を前面に出しているようで、ガーウィグ監督、きっちり娯楽職人の腕を持った人ではないかしら。

「恋するシェフの最強レシピ」はヒロインがかわいい王道ラブコメ、キスシーンもないけど笑えてほっこり。


今回は東京の上映は終了している「恋するシェフの最強レシピ」を横浜 伊勢佐木町の「横浜シネマリン」で観てきました。横浜ニューテアトルが5月で閉館してしまうので、伊勢佐木町最後の映画館になっちゃう。ラインナップがなかなかクセがあってしょっちゅうは足を運べてはいないのですが、頑張って欲しい映画館です。

大富豪のルー・ジン(金城武)は、大変なグルメで味にうるさい男でした。彼が上海のホテルを買収するためにやってきます。でも、このホテルの料理は彼の口に合わないレベルのものばかり。困った支配人は若手女性シェフのションナン(チョウ・ドンユイ)に料理を発注。そして、彼女が作ったパスタは、ルー・ジンを唸らせ、彼はしばらくそのホテルに滞在することになります。実は、ションナンは、間違えてルー・ジンの車に傷をつけてたということがあって、顔は知っていたのですが、お互いにホテル王とシェフだということは知らないまま、ルー・ジンはシェフに色々な料理を発注し、ションナンはその要望に見事にこたえていくのでした。そして、お互いの存在を認識したとき、そこにホテル王と雇われシェフ以上の感情が芽生えていくのでした。

最近、ちょっとお疲れ目なので、ライトな映画を観たいと思って、ラブコメなんかいいなと思ってたのですが、邦画の女子高生ものには食指がピクリとも動かず、ハリウッドラブコメはまるで劇場で公開されていない中で、横浜でこの映画が上映されているのを見つけました。ただ、金城武主演の中国ラブコメじゃあなあって今イチだったのですが、相手役のチョウ・ドンユイが「サンザシの樹の下」のヒロインだったので劇場まで足を運びました。あの映画の時の彼女って美人じゃない素朴キャラがかわいかったのですよ。で、これが映画として面白くて、チョウ・ドンユイを見る映画として堪能しちゃいました。彼女すごいわ。色々と登場する料理の数々も楽しく、グルメ映画としてもいい線いってるかも。シュイ・イーメンとリー・ユアンの脚本を「ウォーロード 男たちの闘い」などで編集を担当してきたデレク・ホイが初メガホンを取りました。映画のオープニングは、ホテルの買収に上海へやってきたルー・ジンの車に、友人の浮気男の車と間違えて落書きしちゃうシーンから始まります。お互いの正体を知らないで最悪の出会いをするという

ホテル王のルー・ジンは資産350億ドルというものすごいお金持ち。そして大変なグルメで、今回買収しにやってきた上海のホテルでも自慢の料理を試食するのですが、全部気に入らない。そこで支配人は女性シェフのションナンに、ルージンがチェックアウトする寸前に何か料理を作ってくれと依頼。そこで彼女は、各種のスパイスを使った巫女のパスタを作って、ルー・ジンを魅了します。そして、彼はその後の予定をキャンセルして、ホテルに留まり、彼女に次々にオーダーを出します。そんなルー・ジンですが、夜食に食べるのは日本の出前一丁。でも、その作り方にはむちゃくちゃこだわりがあって、秒単位でだんどって作るんですよ。中国だと日本よりインスタントラーメンのステータスが高いのかな。それとも変な人というキャラづくりになっているのかしら。

変則的ではありますが、いわゆる主人と使用人の関係にある二人なんですが、そこから結構意外というか、強引な展開になります。ションナンがホテルを休んだ日、ルー・ジンは、材料を持って彼女の家を訪ねてきちゃいます。そこで彼女の作った料理を満足気に食べるのですが、それをきっかけに、ルー・ジンは昼間はホテルで、夜はションナンの家に押しかけてきて、彼女の料理を食べるようになり、ションナンもかなりグロッキー気味。最初は、食事は一人でしかしないと宣言していたルー・ジンですが、いつしかションナンと食卓を共にするようになり、ある日は毒キノコでラリってしまった二人が晴れているのに、相合傘で外を徘徊してバスにまで乗って、でも二人はすごく楽しそう。そんな幸せな日がずっと続くのかと思っていたのですがという展開はラブコメの定番を押さえています。

金城武は、実業家の父親にその後を継ぐように資産家の英才教育を受けた男を堅実に演じて、ヒロインを立てる脇役的なポジションを好演しています。一方のションナンは、腕に可愛い系のタトゥーを入れた、美人じゃないけどキュートな女の子になっています。そんなキャラに、チョウ・ドンユイがまさにはまったという感じで、表情豊かなヒロインを観ているだけで楽しくて癒されます。ルー・ジンが大好きでたまらないという感じ、彼と一緒にいるときの幸せそうな顔とか、とにかく彼女を観ているだけでモトが取れる映画になっています。ラブコメですが、キスシーンすらないのにこれだけのラブラブ感を出したデレク・ホイの演出も見事でした。正直、内容の濃い映画ではありませんし、ドラマチックな展開もないのですが、明るいカラフルな映像とテンポのよい編集で、最後まで見せ切るあたり、娯楽映画としての点数はかなり高いのではないかしら。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ルー・ジンはホテルを買収して世界クラスのものに変えるため、レストランの従業員を総入替すると発表し、ションナンもクビになってしまいます。ションナンはロンドンに住む彼を訪れるのですが、そこにはルー・ジンの専属シェフ(リー・チーリン)がいました。彼女はションナンより全然美人でシェフ経験も長く。傷心のションナンは、上海へ帰るのですが、そんな彼女を忘れられないルー・ジンは、上海へ再び現れ、彼女の前に現れます。それをうれしいけど、最初は拒否して逃げ回るションナンですが、最終的に二人は和解。ルー・ジンは彼女のアパートの近所で一番夕日がきれいに見える部屋へ連れて行き、椅子を並べて夕日を眺めるのでした。少しだけ椅子を寄せて夜までずっと寄り添う二人の姿から暗転、エンドクレジット。

結局、ビジネスとして、ルー・ジンはションナンを解雇しちゃうのですが、やっぱり彼女が忘れられない。一方のションナンも、ルー・ジンが大好きでいるという関係なので、まあハッピーエンドは予想がつくのですが、ラストで二人は抱き合うんじゃなくて、並んで座って夕日を見るというのが、何かほのぼのしていい感じのエンディングなんですよ。椅子を並べて二人座っているのを後ろから取った絵がすごく微笑ましい感じ。前半はもっと生臭い展開になるのかと思いきや、ラストをほのぼので落としたので、映画全体がまろやかな味わいになりました。二人がお互い大好きなんだけど、仕事や日々の暮らしの方を大事に考えて、恋愛を最優先してないってところも好感が持てました。室内のシーンが多いのですが、映像が明るくて色が賑やかだったところもラブコメらしい絵になっていて、点数高かったです。ともあれ、ヒロインが可愛いので、未見の方はビデオ化されたらチェックしていただきたいです。

「ザ・スクエア 思いやりの聖域」は私には悪趣味に走り過ぎに見えちゃって、切り口は面白いのですが。


今回は新作の「ザ・スクエア 思いやりの聖域」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。予告編は面白そうだったのですが、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞したということがちょっと気懸りでした。これまでも、カンヌ映画祭で賞を取った映画とは相性がよくなかったことが多かったので。

スウェーデンの現代美術館で「ザ・スクエア」という企画が立ち上がります。4メートル四方の仕切りを作って「そこでは全ての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」というコンセプトで現代社会の問題をあぶりだそうというもの。美術館のキュレーターであるクリスティアン(クレス・バング)はその企画を成功させようと広告代理店と会議を重ねています。ある日、彼は街中で携帯と財布を盗まれてしまいます。GPSで携帯が貧困層の住むアパートにあることを発見、「お前が盗んだことを知ってるぞ、返さないと大変なことになる」という脅迫状を、アパートの全戸の郵便受けに放り込みます。その脅迫状が功を奏して盗まれたものは回収できるのですが、その脅迫状のせいで親から泥棒扱いされた少年に付きまとわれることになっちゃいます。クリスティアンの周囲では、色々と面倒な事が発生します。広告代理店が企画の宣伝のためにトンデモない映像をアップしたことから、クリスティアンは窮地に追い込まれることになってしまうのでした。

「フレンチアルプスで起きたこと」という皮肉っぽい映画を作ったリューベン・オストルンドが脚本を書いてメガホンも取った一品です。国立美術館の学芸員(キュレーター)を主人公にして、何だか居心地の悪いエピソードを並べて、見ようによっては社会に対する問題提起、言い方を変えると不愉快さを煽る映画に仕上げています。「フレンチアルプスで起きたこと」は家庭の中の気まずいエピソードを通して人間関係のもろさを面白悲しく描いた映画でした。前作はその気まずさはあくまで家族という小さなコミュニティにとどまっていたのですが、今回はそれを社会全体に押し広げて、身の回りの気まずい感じのエピソードを並べて、全ての人にとって居心地のよくない映画になっていまして、前作同様、後味は微妙なものになっています。

そもそも「ザ・スクエア」は、社会の不平等とか差別への問題提起なんですが、それを主導するクリスティアンたち美術館側の人は、貧困層とは一線を画す富裕層というところに観ていて居心地の悪いものがあります。何しろ町の中には物乞いがいっぱいいるのに、その一方でクリスティアンは、貧困層を何か怖いと感じている富裕層の一人なんです。財布と携帯を盗まれた時、携帯のあるアパートまで特定できたところで、全部の部屋に脅迫状を出しちゃうってところが、日本人の私にはまずびっくりでした。まず警察へ届けないってのは、スウェーデンのお国柄なのか、警察がちゃんと動いてくれないからなのか、まずここが不思議。さらに、全部の部屋へハッタリで脅迫状を出すってところがまたびっくり。無実の人に脅迫状出すってことに罪の意識がないみたいなんですよ。これってスウェーデンって階級社会なのかとも思ってしまったのですが、その国には国ならではの事情や文化があって、日本基準で善悪を決め付けられないところもあるんですが、その結果、無実の子供が親に怒られて、ゲームや外出禁止にされてしまうので、一応はよくないことだという描き方はされています。

この他にも、美術館でのインタビュー中に精神障害の男がでかい声を張り上げて、下品ワードも連発してるのに、病気なんだから仕方ないと排除しないところの気まずさとかが面白かったです。男には女性の連れがいるのですが、その女性は男を連れだすことはせず「病気で、こういう場所はストレスがかかるんで」なんて言い訳しているのですよ。病気なら周囲の人はみんな我慢すべきだというのは極論だと思いますが、赤ん坊がギャン泣きしているのと同じなんだから、連れが外へ連れ出すべきと思ってしまうのですが、これも、日本的な発想で、スウェーデン基準の落としどころはどうなのかはわかりません。こういう気まずさの国際基準ってのはないですからね、日本なら周囲に迷惑をかけるときは自分の権利を若干放棄することが普通にありますが、あくまで弱者の権利を通す文化もあるかもなあって思いながら観てしまいました。どっちにもいいところと悪いところがあって、私は日本人なので、日本流に慣れているので、そっちを取ってしまうのですが、このシーンとかスウェーデンや他のヨーロッパ諸国でどう受け取られているのかは興味あるところです。

この他にも、パーティの余興で登場したモンキーマンが暴走して、周囲が気まずくなった挙句、そいつが女性に襲いかかったので、みんなでよってたかってやっつける(殺しちゃったのか?)ところも、何かギリギリまで余興として受け入れようとするところの気まずさが何かおかしい。一応、場の空気を考えて、丸く収めようと思ってるんだけど、限界を超えて爆発する感じはすごく共感できるので、このエピソードのような露悪的な描き方をするのには、ちょっと悪趣味だよなーって感じてしまいました。

後、気になったのは、後半、家までやってきた濡れ衣の少年が階段から落ちて「助けてー」と叫んでるのに、このクリスティアン、最後まで助けに行かずの放っておくところ。そこまでクズだと、徹底してていいかなと思ってたら、なぜか反省のビデオレターを送るのですよ。そこで、一応、全戸に脅迫状を送り付けた自分の罪を詫びるんですが、全ての根源は社会にあるんだとか言い出すんですよ。いやいや、社会の問題ではなくて、倫理とか善悪の問題でしょうって思うのですが、それって「貧乏人が万引きするのを、社会のせいにする」のと一緒だよなあって気づくと、社会が原因だというのも全否定できないんですよね。そんな感じで、きれいにすぱっと割り切れないエピソードが延々と登場するので、各々に一々まじめに考えだすと、不快感だけが残っちゃう。そこそこに真に受けて、ある程度、客観的に眺められれば、言わんとするところが見えてくるって感じです。他人事のように冷ややかに眺めないと楽しめない映画だとも言えるかも。

この映画の中で目立つのは、街に物乞いがいっぱいいるということ。スウェーデンってそんなに物乞いがいるのと思って、ネット検索したら、スウェーデンで物乞いが多いのは本当で、ルーマニアなどで差別されたロマ人がスウェーデンに流れ込んでいるらしく、教育も受けてなくて仕事にもつけないのだとか、そのあたりの事情はもう少し歴史を紐解く必要がありそうです。ともあれ、この映画に登場する物乞いはマジでスウェーデンの社会問題であり、後、サイフ泥棒の住むアパートの人々がいて、さらにその上にクリスティアンみたいな富裕層がいる、その間にも中間層とかあったりしたら、かなりの階級社会なのかも。スウェーデンというと福祉が充実した先進国というイメージがあったのですが、それって結構表層的な見方なのかなって思っちゃいました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



広告会社の若造二人は何を血迷ったのか、スクエアの広告映像としてホームレスの女の子がスクエアの中で爆発するというとんでもないプロモ映像を作ってYouTubeに流したものだから、美術館が非難の的になってしまいます。確かに映像のチェックを怠ったこともあって、クリスティアンは記者会見で謝罪し辞職することになっちゃいます。チェック不足の反省の弁を述べたら今度は記者たちに「それって表現の検閲ではないのか」と突っ込まれてもう大変。職を失ったクリスティアンですが、娘二人を連れて、例のクレーム少年のアパートを訪ねます。しかし、その子供を見つけることはできませんでした。うーん、こんな感じで終わっていいのかな。

面白かったのは、少女爆発ビデオを作って非難され、そのことを謝ったら今度は「表現の検閲をするのか」って因縁をつけられちゃうところ。現代美術館なんだから、時には先鋭的なとがった表現もアートとして取り込まなきゃいけないけど、そういう芸術とは違う下世話な判断基準を無視することもできない。そういうと世間とアートの板挟みという話になるんですが、そこがポイントじゃなくて、要は下手に出た人間にはとこどん因縁をつけて追いつめる人間(メディアかな?)のえげつなさの方がこのエピソードのキモだと思いました。今のテレビのワイドショーの、相手の弱みを見つけたら難癖つけて貶めるというパターンでおなじみなんですが、こういうのって、すごく人間として情けない。テレビのコメンテーターとかが、誰かがよくないことをした時に、そいつが謝っても非難し、開き直っても非難する。相手が悪いんだから、自分がどう相手を非難するのも自由だし、自分にはその権利があると思ってるのが、すごく見苦しい。床屋政談なら罪がないのですが、メディア側の人間だからという理由で、当事者でもないのに、公の場所で、相手を非難するのが私は嫌いなんですが、それが日本もスウェーデンも大差ないってところは発見でした。ネット時代のおかげで、誰もが上から目線で人を非難できるようになったということの功罪については、マジメに考えた方がいいような。だって、テレビのコメンテーターが、自分の言ったことが間違ってましたって謝ってるの見たことないのですが、正しいことだけ言ってるとは到底思えないですもん。と、まあ、色々な気まずいエピソードを並べて、気づきや発見を導く映画ではあるのですが、見せ方はうまいというよりは挑発的で悪趣味な感じでした。もっときれいな語り口で、同じ気まずさを伝えることができるように思ったのですが、そう感じたのは私だけかしら。

「パシフィック・リム アップライジング」は続編としてきっちり面白くできてます。あくまで続編という括りではベストかも。


今回は新作の「パシフィック・リム アップライジング」を日比谷のTOHOシネマズ日比谷10で見てきました。新しくできたばかりのシネコンですが、ここは、キャパも100席もない小さめスクリーンですが、真ん中よりちょい前くらいがスクリーンに対峙したときにベストポジションになるのは珍しいと思います。

あの前作から10年、怪獣の都市の復興が進んでいました。あのペンタコステ司令官の息子ジェイク(ジョン・ボイエガ)は、防衛軍を去り、廃棄イェーガーの部品泥棒の手引きとかして自堕落な生活を送ってました。そんな部品泥棒のいざこざから怪獣孤児のアマーラ(ケイリー・スピーニー)と知り合います。彼女はイェーガーの部品から自作小型イェーガーを作ってましたが、防衛軍に没収され、彼女はイェーガーのパイロット候補生となり、一緒に逮捕されたジェイクは、ネイサン(スコット・イーストウッド)とともに、強制的に候補生の教官になる羽目になります。とはいえ、シャオ産業のドローン・イェーガーの開発により従来のパイロットは不要になりつつありました。シドニーで開催された新しいイェーガーの導入会議に、謎のイェーガーが乱入してきて大暴れした結果、義姉マコ(菊池凛子)はジェイクのんエーガーが現れます。激闘の末、謎のイェーガーを倒してみれば、それを操縦していたのは、人間ではなく怪獣でした。10年前にプリカーサーの異次元とつながるトンネルは破壊した筈なのに、どこから怪獣が現れたのか。怪獣のスペシャリスト、ハーマン(バーン・ゴーマン)は、この怪獣が地球上で作られたとして、かつての盟友ガイズラー博士(チャーリ・デイ)に協力を求めるのですが、彼は、シャオ産業で社長のリーウェン(シン・ティエン)の元で新しいイェーガーの世界配備を進めていたのでした。

前作の「パシフィック・リム」は、ギレルモ・デル・トロの怪獣オタク魂爆発の楽しい映画でしたけど、世界的なヒットに至らなかったようです。それでも、続編が作られるのは、それなりの成績だったということなのかしら。中国資本が入って、中国の基地が舞台になったり、中国人ヒロインも活躍するお話になっています。でも、クライマックスは東京から富士山という日本が舞台になっているのはちょっとビックリ。欧米の人からすれば、極東の日本なんて、地球の裏側ですからね。モンド系観光映画みたいな趣の映画になっているのかしら。

テレビシリーズで実績のあるスティーヴン・S・デナイトに、エミリー・カーマイケル、キーラ・スナイダー、T・S・ノーリンが共同で書いた脚本を、デナイトがメガホンを取りました。前作で侵略者プリカーサーが怪獣を送り込んでくる海底の割れ目を塞ぐことに成功し、世界には一応の平和が訪れていたのですが、謎のイェーガーが襲撃してくることで、その平和が破られるところからお話が始まります。主人公のジェイクは、防衛軍をやめて遊び呆けていたのですが、部品泥棒で逮捕されたことで、防衛軍の教官に無理やりさせられて、早くやめたいと思っていたのですが、謎のイェーガーによって、義姉のマコが殺されたことで本気出すようになるというお話。本気出してからは、一気に見せる怒涛の展開で、デナイトの演出は、有無を言わせず勢いで盛り上げることに成功しておりまして、あっという間の地球の危機となって、それを防ぐために、ジェイク、ネイサン、後、訓練生がイェーガーに乗って、怪獣に決戦を挑むという展開です。1時間50分というそこそこの尺の映画ではありますが、ドラマが動き出すと後は一気にラストまで突っ走るので体感時間は結構短め。

続編としてはかなり面白くできていると言えるのではないかしら。ただ、前作のような怪獣映画に対する思い入れは薄れたようで、怪獣の動きとかビルの壊れ方といったものは最近のアメコミ系CGの動きになってるように感じました。これは偏見なのかもしれないけど、ギレルモ・デル・トロ(今回はプロデューサーとビジュアル・コンサルタントとして参加)の思い入れの部分は、他のCGスペクタクルと一線を画す個性になっていたと思うのですよ。CGだけど、手作り感風の見せ方にこだわるという部分は、ある意味ダサいんですが、そこが面白いと感じられるところがありました。今回の方が映像のデジタル感が強くなったという感じかなあ。まあ、それでもクライマックスはロボットの闘いと司令室のカットバックとか、怪獣映画っぽい盛り上がりがあって楽しかったから、結構頑張ってるのかも。

登場人物が若手中心で、年長者の押さえのキャラがいないので、ドラマの構成上、座りが悪いという印象になっちゃいました。強いては菊池凛子がそういうポジションみたいになってたので、そういうところに彼女はまだ若いだろうって思っちゃいました。若造ばっかの集団ドラマってのは最近の傾向なのかな、「スターウォーズ」のオビ・ワンのようなポジションが作劇上不要になってきているのかしら。最近の戦隊モノや仮面ライダーにも、そういう年長者が三枚目的な役どころになってきているような。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



新しいイェーガーの配備が整っていよいよ作動となるのですが、動きがおかしくなり、世界中の基地で新イェーガーが暴れ始めちゃいます。かつての闘いで怪獣とシンクロしていたガイズラー博士が精神をプリカーサーに乗っ取られて、イェーガーに細工をしていたのです。基地は破壊され、多くのイェーガーが失われます。新しいイェーガーが海底の時空の歪みをこじ開けて3体の怪獣が地上に現れ、日本へと向かいます。ハーマンとリーウェンの活躍でプログラムを書き換え、悪のイェーガーは動きを止めますが、怪獣は富士山へ向かっています。富士山を噴火させて地球上の生態系を破壊しようとする怪獣を阻止するため、ジェイクとネイサン、そして訓練生パイロットが3体のイェーガーに乗り込んで日本へと向かいます。イェーガーは怪獣相手に善戦しますが、3体の怪獣がさらに合体して巨大な怪獣になって富士山へ向かいます。ジェイクとアマーラは最後の1体のイェーガーで爆弾を抱えて怪獣に突撃を仕掛けます。自爆かというところにリーウェンの操縦するアマーラの手作りイェーガーがジェイクとアマーラを救出し、怪獣は噴火口の手前で爆弾くらって絶命。富士山の雪原で生還を喜び合うジェイクとアマーラから暗転、エンドクレジット。

悪役風に登場したリーウェンが後半で大活躍するあたりは、中国資本の映画だからこその大サービスなのでしょう。なら、クライマックスは落ち目の日本じゃなくて、上海あたりでやった方がよかったのかなという気もしましたが、中国には怪獣が人類滅亡のためのモニュメントがなかったせいか、でっかい火山のある富士山に華を持たせることになったのかな。かなり小奇麗な近代都市になっている東京でのイェーガーと怪獣の闘いはなかなかの盛り上がりを見せますし、ヒーロードラマとしてもきっちりと作ってあるので楽しめました。あの映画の続編としては、大きなサプライズはなかったですが、無難に面白くまとめたという点は評価できると思います。でも、その分、次に期待にするものはなくて、これで一区切りかなあって思わせる結末でした。ここは難しいところで、新しいでかいネタをぶちこんで、前作のファンを置いてきぼりにしなかったのは偉いと思う一方で、きっちり後日談で締めましたという感じになるあたりの過不足のなさは、満足感はあるけど、大満足まではいかないのかな。思い返すと「ジョン・ウィック2」もそんな感じだったですが、実はそれが正しい続編のあり方なんですよね。
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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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