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「マンマ・ミーア ヒア・ウィ・ゴー」は色々突っ込みどころあるけど、音楽パワーで楽しめちゃうのがすごい。


今回は新作の「マンマ・ミーア ヒア・ウィ・ゴー」をTOHOシネマズ日比谷1で観てきました。ここはTCXというでかい画面が売り物の劇場です。昔で言うところの70mm上映ってことになるのかな。まあ、上映する素材は変わらないので、フィルム解像度が異なる70mm上映ではなく、35mmフィルムを70mmサイズに拡大上映した、70mm方式上映ってことになるのかも。でも、フィルムのように拡大上映しても映像が荒っぽくならないのはデジタル素材の強みなんでしょうね。

ギリシャのカロカイリ島で、亡き母ドナの遺志を継いだソフィ(アマンダ・セイフライド)が新しいホテルを開業しようとしています。支配人のシエンフエゴス(アンディ・ガルシア)たちがオープニングパーティの準備に忙しく走り回る中、ソフィは、ニューヨークでのホテル経営研修に参加している夫のスカイ(ドミニク・クーパー)と喧嘩しちゃって、ホントにここでホテル始めてうまくいくのかしらとちょっと不安。そんな不安を3人の父親のうち島に住むサム(ピアース・ブロズナン)に打ち明けるソフィ。他の二人の父親ビル(ステラン・スカルスガルド)とハリー(コリン・ファース)が他の用で来れないってのもちょっと寂しい。で、時間が遡って、オックスフォード大学を卒業した若い頃のドナ(リリー・ジェームズ)が、カロカイリ島にやってきて、ソフィの3人の父親とのなれそめが語られるのでした。人生の目的を探すために世界を旅していたドナがこの島へやってきて、すっかり島を気に入ってしまうのですが、それと前後して、3人の若者と知り合って、やることやってましたって、それって尻軽女(← ピー音入る)のビッチ(←さらにピー)でないかい?

アバの楽曲を使って、ギリシャを舞台にしたミュージカルを作って、大ヒットした「マンマ・ミーア」を、舞台の脚本家と演出家で映画化したのが、2008年なんですって。てことは、10年ぶりの続編ということになるのですが、前作からの登場人物の見た目がほとんど変わってないのがびっくり。当時20代だったアマンダ・セイフライドが30代になっているのに、前作と印象が変わらないってにはすごい、これが、ハリウッドマジックってやつかしら。映画の設定としては何年後なのかわかりませんが、ソフィのご懐妊エピソードが出てくるってことは映画の中では、10年のスパンはなさそう。で、大きなドラマチックな展開があるかというと、これがドラマ的な展開はほとんどありません。前作の前日談と後日談だけで、一本の映画を作ってしまったというかなり思い切った内容の映画です。前日談も経緯は前作で語られていますから、それを若い俳優で映像化しただけで、新事実が発覚するわけではありません。そんな思い切った内容の映画のストーリーを前作の脚本を書いたキャサリン・ジョンソンと、リチャード・カーティスと「マリーゴールドホテルで会いましょう」のオル・パーカーの3人で書き、パーカーが脚本化してさらにメガホンを取りました。

前作は、娘の結婚式に父親が3人もやってくるというお話をコミカルに描いて、その間にアバのナンバーを挿入していくというつくりで、それはそれで面白い趣向ではありましたが、私はあまり乗り切れませんでした。それは最初の楽曲ありきで、ドラマの中に強引にアバのナンバーを押し込んだ感があり、歌でドラマを語るミュージカルとしては今イチなんじゃないの?って感じてしまったのです。ロケーションがよくて絵がきれいなのは認めちゃうし、豪華キャストもいい感じなのですが、物語のリズムと楽曲の挿入されるリズムがうまくシンクロしてないような気がしちゃって、ミュージカルってこういうのじゃないよなって勝手な思い込みもあって、面白いけど堪能するまでには至りませんでした。その面白さはほとんど楽曲の良さによる部分だったという印象でした。今回はその続編ということでどうなるのかなあっていい方への予感はありました。

結論から言っちゃうと、前作のいいところはそのまんまで、前作で今イチだったところは今イチでした。楽曲の美しさ、キャストの良さはいい感じだった一方、楽曲シーンで戦隊ものみたいに細かくカットを割る編集には前作と同じ不満を感じてしまいました。で、母親の遺志を継いでホテルを始めようってところは、結構いい話なんですよね。アマンダ・セイフライドの頑張りとか、それを支えるピアーズ・ブロスナン、ホテルにやってくる母親の旧友などが、母親のドナを慕っているところが伝わってくるのですよ。セイフライドはこういう軽いドラマでいい演技を見せてくれまして、若手女優さんの中では、どんなキャラでも演じ分けるうまさはピカイチではないかしら。(← 単に私がファンなだけということでもありますが。)

それが過去のシーンになると、「ん?」となっちゃうのですね。もともと前作で、ソフィの父親が3人もいるという設定がありまして、ドナにも3人の誰が本当の父親かわからないというのがまあネタみたいに扱われていたんですが、今回は何でそうなっちゃったのかを再現ドラマにしちゃったのですよ。大学を卒業して、自分探しの世界旅行に出たドナは、ギリシャを訪問した時、立ち寄ったカロカイリ島をすっかり気に入っちゃうのですが、その短い間に、3人の若者と知りあいになり、次々とベッドインして、カロカイリ島に定住することに決めたら、どんどんお腹が大きくなってきちゃったというお話。これって、海外旅行に浮かれたお股のゆるいヤリ〇ンビッチってことじゃない? 前作では過去のネタとして笑える話だったのですが、それを実演で見せられるのは、ちょっとなあって思うのは、私が古風で保守的なのかなあ。さらに、この映画では、そういう行動を肯定的に描いているんですよ。うーん、ドナの親がこれ見たら泣くぞとも思ったのですが、クライマックスで登場するドナの親がシェールだったもんで、なるほどこの親にしてこの娘ありなのかなとちょっとだけ納得。でも、若いドナが男のお股を谷渡りする過去部分は、保守系オヤジにはしっくりきませんでした。女性の方がご覧になった時、ドナの若い頃のエピソードは、肯定的に捉えられたのかしら。まあ、映画はラストに勢いでドナを肯定的に見せ切る力技で、なんとなく盛り上げちゃうので、ぼーっと見てると、ああよかったよかったハッピーエンドって気分になるのですが、ちょっと落ち着いて考えると、普通の人なら、黒歴史になるところだよなあ。

演技陣では、名優の域に入るであろうコリン・ファース、ステラン・スカルスガルド、ジェリー・ウォルターズといった面々が軽いドラマでもきっちり画面を引き締めるのはお見事でした。若いビッチドナを演じたリリー・ジェームズは、健康的な太腿が印象的な女優さんですが、健康的キャラとやってることのギャップが今一つな感じでした。とまあ、ヒロインの若い頃に共感できれば、楽曲が魅力的ですので楽しめる映画だと思います。私のような、ミュージカル部分にカット割り細かいとか、ドラマとのバランス悪いといったツッコミを入れる偏屈オヤジでなければ、素直に楽しめる映画に仕上がっています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



若いドナは、島の誰も住んでいない廃屋を気に入って、そこに住みたいと思うようになります。町の食堂のバンドに雇ってもらえたドナに、食堂の女主人は、廃屋の持ち主は自分で、あんたなら家賃タダで住まわせてあげると言ってくれるのでした。さて、お話が現代へ戻ってみれば、ホテルのオープンパーティの前日、嵐がやってきてせっかくの飾りつけはボロボロで島へ来る船も欠航。がっくりと落ち込むソフィ。一方、最初はパーティ欠席の予定だったビルとハリーが予定変更してギリシャへやってきます。島へどうやって行こうと思案していると、若い頃にプロポーズを助けた漁師と再会、そして、漁師と家族もろとも連れて島へ乗り込んできます。たくさんのお客さんに、ソフィを始めホテルのスタッフは大歓迎。そして、その場で、ソフィのご懐妊が知らされるのでした。そして、9か月後、島の山頂にある教会へみんなが集まって赤ん坊の洗礼がされるのです。そこで、ドナ(メリル・ストリープ)が現れて歌い上げるのが、ソフィにだけは見えているみたい。エンドクレジットのバックは出演者がリレーで歌い踊るエピローグでめでたしめでたし。

なんとなくハッピーエンドの雰囲気へ持っていくのは演出のうまさでしょう。それまで、写真でしか出てこなかったメリル・ストリープが、教会で歌い出すシーンは結構感動的でして、リゾラバビッチの成れの果ての筈のメリルの歌がなかなか泣かせるのですよ。うーん、何だかんだ言っても、結局は音楽の力にはかなわないなあって気分になりました。音楽の力が、ドラマのアラとか、不満とかをみんな吹き飛ばしてしまう、なるほど、アバの楽曲ってすごいんだなあ。まあ、そのすごさあって「マンマミーア」というミュージカルが作られたわけですから、何を今さらな話なんですが、これだけ文句をつけた映画でも、それでも楽しんでしまったのは、音楽の力があったからなんだというのは発見でした。
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「ミッション:インポッシブル フォール・アウト」は「トム様映画」だけど「トム様映画」として面白くできてます。


今回は新作の「ミッション:インポッシブル フォール・アウト」を、川崎のTOHOシネマズ川崎7で観てきました。大きめのスクリーンと大劇場の作りは大作を観るにふさわしい映画館になっています。

IMFのイーサン・ハント(トム・クルーズ)の活躍により、犯罪組織シンジケートの首領レーン(ショーン・ハリス)は逮捕されたものの、アポストルと呼ばれる残党でたちは世界中に散り、今度は核兵器テロを計画していました。彼らの狙うプルトニウム3個をかすめ取るミッションに臨んだイーサンですが、組織側の襲撃を受け、捕らわれたメンバーのルーサー(ヴィング・レイムズ)に気を取られているうちに奪われてしまいます。アポストルのカギとなる人物ジョン・ラークが、仲介者ホワイト・ウィドウ(ヴァネッサ・カービー)を仲介にプルトニウムを買い取るという情報をキャッチ。今度はレーンに成りすましてプルトニウムを奪うというミッションを仕掛けることになるのですが、CIA長官のスローン(アンジェラ・バセット)はそこへお目付け役としてウォーカー(ヘンリー・カヴィル)を同伴させるのでした。ジョン・ラークに化けたイーサンに、ホワイト・ウィドウの出したプルトニウムの交換条件は、移送中のレーンの奪取でした。護送警官皆殺しの計画を押し付けらたイーサンですが、当日、レーンの乗る車を川へ落とすことで、レーンの誘拐に成功します。一方、かつてイーサンに助けられて足を洗っていたと思っていたイルサ(レベッカ・ファーガソン)が割り込んできて、イーサンの危機を助けたり、レーンの命を狙ったり、彼女はどうやらMI6の指令で、レーンを追っているようなのでした。一方、CIAは、ジョン・ラークの正体はイーサンだという証拠を固めて、IMF長官ハンリー(アレック・ボールドウィン)に揺さぶりをかけてきます。アポストルはどこで核兵器テロを行おうとしているのでしょうか。イーサンたちは果たしてそれを阻止することができるのでしょうか。

トム・クルーズの「ミッション:インポッシブル」シリーズも今回は6作目、1作目から22年もたっているというのにはびっくり。4,5作目がかなり面白かったので、今回も期待するところ大でスクリーンに臨みました。前作と同じく「ユージュアル・サスペクツ」の脚本を書いたクリストファー・マッカリーが脚本を書いて、メガホンを取りました。レギュラーメンバーとして、ヴィング・レイムズとサイモン・ペッグは続投。前作からの引継ぎで、レベッカ・ファーガソン、ショーン・ハリス、アレック・ボールドウィンが参加、そして新しくヘンリー・カヴィルとアンジェラ・バセットが加わり、前作の続編という形で物語は進んでいきます。

冒頭の作戦で、プルトニウムの取引で、ルーサーが人質に取られ、彼の救出に気を取られ、プルトニウムを奪われてしまうという失敗を犯してしまうイーサン。核兵器テロを目論むアポストルを阻止するために、IMFは再びイーサンのチームを送り込もうとするのですが、CIAはそれにイチャモンをつけてきて、CIAエージェントのウォーカーをお目付け役に押し付けてきます。仕方なく、彼を連れてプルトニウムを仲介するホワイト・ウィドウに接触、そこでレーンとプルトニウムの交換という話になるのですが、ここから先はお話が錯綜して、ちょっと組織関係が見えないところが出てきます。レーンの誘拐に成功し、それを使ってどうするのかと思っていると、内部の裏切り者であるジョン・ラーク探しの方向へ話が進んでいきます。さらに、前作で悲劇のヒロインだったイルサが絡んでくるので、あれ?プロトニウムは?ホワイト・ウィドウは?と、私は筋を追いきれなくなったのですが、イーサンの前に次々に登場するピンチと反撃を見ているうちに2時間半余が過ぎてしまいます。

見せ場を派手につないでいく構成は、無敵のヒーロー、イーサン・ハントの映画になっていまして、その無敵ヒーローを敵方がどこまで追い詰めるかが、映画の本筋になっています。今回はチームプレイとか作戦の積み上げで敵を出し抜くという趣向は少な目でして、イーサンのスタンドプレイ中心という展開になっているので、前作を面白く思った方(私もですが)には、期待してるのとちょっと違うという感じになっちゃうかも。その分、イーサンの孤軍奮闘ぶりはすごいものありまして、スタントのかなりの部分もトム・クルーズ自身がやっているようです。ただ、最近のデジタル技術は顔の入替までしちゃうらしいので、本当にやってても、CG処理じゃない?って思っちゃうのは、アクション俳優やスタントマンの皆さんには気の毒なご時世になってきました。実際、この映画でも、エンドクレジットで、複数の視覚効果チームがクレジットされているので、ヘリにぶら下がってるのも、グリーンバックなんじゃない?なんて勝手に思っちゃうので、映画の宣伝映像やパンフレットで、「トム・クルーズ、こんなところも本人やってるんですよー」って頑張ってアピールしなくちゃならないのは、映画にとっていい時代になのかしら。その昔「大脱走」でスティーブ・マックイーンがものすごいオートバイスタントをやった時は、みんなすごいって思ったのかなあ。(そういうスタントの部分を映画のセールスポイントにはしてなかったのではないかしら。)

その結果、スパイアクションというよりは、「トム様映画」になっちゃったってところは否めなくて、チームプレイの部分が後ろに下がってしまいました。また、「トム様映画」の展開が、ノープラン出たとこ勝負になってるのも、物足りなく感じてしまいました。マッカリーの演出は快調なテンポで観客をぐいぐい引っ張っていくので勢いで楽しめちゃうのですが、それでも、核兵器テロを止めるってのが、ノープランでとにかく追っかけろってのは、トム様度高すぎかなあ。こっちとしても、ラストでトム様が負けるとは思ってないけど、そこに至るまでにいくつか伏線引いておいて、このシリーズならではの、ミッションのサプライズがあって欲しいって気がしました。前作では、アクションの最大の見せ場をタイトル前に持ってきて、クライマックスは、ミッションの仕掛けでサプライズを仕掛けてきましたが、今回、それが逆になっているので、そこは好みが分かれるところです。

アクションシーンは、かなり頑張って見せ場を盛り上げていて、特にカーチェイスで、イーサンの顔が映るように彼と一緒に走り回るカメラワークが見事でした。スカイダイビングとかヘリチェイスもすごい見せ場ではあるんですが、こちらにすごさの実感がないので、街の中を走り回るカーチェイスの方がのめり込んで堪能できるのですよ。今回、ヘリコプターをトム・クルーズ自身が操縦しているのが売り物らしいのですが、撮影方法に限界があるのか、あくまでヘリ同士の追跡劇にしかならず、乗ってる人が追いかけてる感じにならないのが残念でした。

演技陣では、唯一そのキャラが立っていたイルザ役のレベッカ・ファーガソンが印象的でした。前半、ハードボイルドに登場してクールなアクションが、イーサンたちと合流してからは、恋する女性の顔になっちゃうあたりがおかしくて、「トム様映画」ならではのポジションではあるのですが、そのツンデレぶりがかわいかったです。また、一緒にいるとトラブルしか招かないということで、愛し合ってるけど別れたイーサンとジュリア(ミシェル・モナハン)のカップルの後日談が描かれ、そのあたりはホロリとさせる展開となります。また、今回は音楽をリメイク版「ロボコップ」のローン・バルフェが担当していまして、これがなかなか頑張っていました。「ロボコップ」の時はオリジナルのフレーズを冒頭でちょっとだけしか聞かせず、後はモチーフが見えないアクション映画のパターン音楽でがっかりだったのですが、今回は、オリジナルのラロ・シフリンによるモチーフを大幅に取り込んで、昔のテレビ版のフレーズを最大限に生かして、ドラマを盛り上げるのに成功しています。偉大なオリジナルのフレーズがあって、それに太刀打ちできるモチーフを作れないなら、この映画のように、臆面もなくオリジナル曲をアレンジして鳴らす方がドラマへの貢献度は高いのですよ。おかげで、耳慣れたフレーズを重厚にアレンジした音楽で、ドラマを盛り上げるのに成功しています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



レーンを捕えたところで、イーサンたちはハンリー長官と合流するのですが、そこでイーサンたちは、FBIのウォーカーがジョン・ラークであることを暴きますが、そこへアポストルの追手がやってきて、長官はウォーカーに殺され、ウォーカーを追跡したイーサンは一歩のところで逃げられてしまいます。しかし、レーンにつけて追跡装置のおかげで、アジアの水源地近くの難民キャンプへと向かいます。レーンたちは、ここで核兵器テロを起こしてアジアの水を汚染しようという計画だったのです。そして、そこには別の男と結婚したジュリアが医師団として居合わせました。どこまで、イーサンにこだわるんだアポストルは?! そして、起爆装置は起動され、残された時間は15分、2つ連動している爆弾のうち1つは発見されますが、その時、起爆装置とともにヘリに乗ったウォーカーを、イーサンがもう一機のヘリで追います。連動する爆弾は起爆装置を解除した後に二つ一度にケーブルを切る必要がありました。もう一つの爆弾をイルザが発見しますが、レーンに殴られて縛られて万事休す。ベンジーがそこへやってきてレーンと格闘になるのですが、縛られたイルザも参加して何とかレーンを仕留めます。一方、イーサンは、ウォーカーのヘリから攻撃されて、こちらも万事休す。しかし、イーサンは自分のヘリをウォーカーのヘリにぶつけて、両方のヘリは墜落。墜落後、崖の上で、格闘となるイーサンとウォーカーですが、崖下に落とされたウォーカーは絶命、爆破1秒前に起爆装置の解除は間に合って、核兵器テロは回避されるのでした。再会を喜ぶ、イーサンとジュリアでしたが、彼らは再び別れる運命が待っていました。生け捕りとなったレーンは、ホワイトウィドウ経由で、英国MI6に引き渡され、これで、イルザもスパイ仕事から足を洗えそうな予感です。おしまい、エンドクレジット。

核兵器テロを寸前に食い止める話というと、ちょっと昔の「ピースメーカー」を思い出しました。あれも最後はずいぶんとご都合主義な結末になるのですが、今回はそれを上回るノープランな展開で、もう少し、知恵を使ったイーサン・ハントを見せて欲しいと思っちゃいました。出たとこ勝負でヘリにぶら下がって、それを乗っ取って、起爆装置のあるヘリを追うというのは、ちょっとムチャしすぎ。体当たりなんてしたら、墜落しちゃうじゃん、そしたら起爆装置もどっかいっちゃうじゃん、なんていうヤボな突っ込みをしてはいけません。だって「トム様映画」なんだもん。神のみぞ知る、のではなく、トム様の判断は、神の判断なんですから。これが、時に非情な007のやることならわかるんですが、情に厚いイーサン・ハントが「イチかバチか」をやるのは似合わないって思ってしまいました。そう思ったのは私だけかな。ともかくも、ラストはチーム一体となって、運を天に任せるという展開になるのは、ドキドキハラハラのアクション映画としては、よくできてるけど「ミッション:インポッシブル」ではないような。ラストの畳み込みの盛り上げとしつこさは、「ハムナプトラ」シリーズと「ダヴィンチ・コード」シリーズを思い出しましたが、何らかの影響を受けているのかも。

誰か一人を助けたいと思って行動することで、最終的に何万の命を救うことになるというのは、スパイ映画とは思えないエモーショナルな見せ方なのですが、そういうところもこれはスパイ映画ではなく、ヒーロー映画なのでしょうね。ゲーム的なスパイ映画を期待すると、筋肉バカ映画になっちゃっているので、大きな期待は禁物ですが、筋肉バカ映画を「トム様映画」までに、格上げしたマッカリーの脚本、演出は見事だと思います。娯楽映画としてはかなりハイレベルにまとまっていると思いますもの。でも、個人的には前作の方が好き。

「ウインド・リバー」はシリアスな題材を扱っていてドラマも見応えあるけど、重厚ハッタリ演出が何かしっくり来ない


今回は新作の「ウィンド・リバー」を有楽町の角川シネマ有楽町で観てきました。ここはTCGメンバーズカードも使えて結構いいなって思ってたんですが、今回の映画、シネスコサイズをビスタサイズのままで上映してがっかり。ビスタサイズのままシネスコサイズの映画を上映すると、暗い画面だと、どこからがシネスコのフレームかがわからなくて、作り手の見せようとしている画角が伝わって来なくなっちゃうんですよね。夏休みの屋外上映会じゃないんだから、ちゃんと上映サイズに合わせて、スクリーンサイズも変えて欲しいものです。こういう上映をされた「ル・シネマ」「恵比寿ガーデンシネマ」そして、この角川シネマ有楽町へは、ここでしか観られない映画の上映でもない限りは、足を運ぶ気にはなれないです。(でも、全部の映画館がそういう上映するようになったら、観にいかざるを得なくなっちゃうんだろうなあ。)

アメリカはワイオミング州のネイティブ・アメリカンの保留地ウィンド・リバー、野生生物局のハンター、コリー(ジェレミー・レナー)は娘エミリーの死を発端にネイティブ・アメリカンの妻とは離婚していました。保留地で牛が襲われたので、呼ばれたコリーは現地に入るのですが、そこでエミリーの親友だったナタリーの死体を発見します。彼女はレイプされた後、裸足で極寒の雪原を走った挙句、肺が凍って血を吐いた挙句、窒息して亡くなったのでした。保留地の部族警察長ベン(グレアム・グリーン)が、FBIの到着を待っていると現れたのは、防寒着も持っていない若い女性捜査官のジェーン(エリザベス・オルセン)でした。地の利がない彼女は、コリーに協力を仰ぐと、コリーもそれを素直に了承します。ナタリーの両親に娘の死を告げると、そこから彼女が恋人に会いに行ったという事実が判明します。そこで、ベン、コリー、ジェーンの3人で、死体からもっとも近い家にいるヤク中のやばい兄弟の家に向かうと、銃撃戦となり、一人は死亡、もう一人とそこに居合わせたナタリーの兄が逮捕されます。妹の死を知って慟哭する兄に、コリーは保留地に留まらずに軍や大学へ進む選択肢もあったのに、ここにいることを選んだんだろ?と語りかけます。その家から、走っていたスノーモビルの跡をたどったコリーとジェーンは、男の死体を発見します。それは、ナタリーの恋人であり、採掘場の警備員のマットでした。警官たちを連ねて採掘場へ向かうベンとジョーン。コリーは、山側からスノーモビルで採掘場へ向かいます。果たして、ナタリーを殺した犯人は見つかるのでしょうか。

「ボーダーライン」「最後の追跡」の脚本で知られるテイラー・シェリダンが、脚本を書き、自ら初メガホンを取りました。雪の中のインデアン保留地を舞台に殺人事件の捜査が描かれるのを骨太なドラマとして描き切っています。このインデアン保留地というのが特別な環境で、そのアメリカの暗部とも言うべき場所を描いた映画ということもできるようです。ただ、それはあくまで事件の背景として描かれるので、私みたいにアメリカ史に疎い人間は、映画のパンフレットで、インデアン保留地って何なんだろうって復習することになります。それは、ネイティブ・アメリカンの居住のために指定されたある意味自治区という扱いになっています。でも、実際は過酷な土地に彼らを追い込んだという見方もでき、彼らはその閉鎖された環境で、希望と未来を見失って暮らしているという見せ方をこの映画ではしています。また、そこへ流れ着く白人もみな訳ありらしく、主人公のコリーも何か過去を持った男であるような描き方になっています。ネイティブ・アメリカンの若者たちは、早く保留地から出ていきたいと思っているのに、それはままならず、鬱屈した感情を抱えながら、あるものは酒やドラッグに走ってしまうんですって。そんな状況にあった若い女の子ナタリーは、ある晩、レイプされた後、極寒の中を裸足で逃げ回った挙句、その寒さのために血を吐いて死んでしまったのです。

警察医は、殺人事件ではあるが、死因は殺人ではないと言います。FBI捜査官のジェーンは、これはレイプ殺人として認定して、きちんと捜査官を集めて犯人を検挙すべきだと思って、警察医と言い合いになってしまうのですが、それを警察長のベンが、警察医は味方なんだからとたしなめます。今回はレイプの跡があったことから、FBIが呼ばれたのですが、そうでなければ、保留地内の捜査組織へ事件は移管され、そうなったら事件の解明はまず期待できないらしいのです。ですから、お気楽出張気分でやってきたようなオネエチャンFBIでも頑張ってもらわないと、事件の究明におぼつかないのです。ところが、登場の仕方こそ、「なめてんのか、こいつ?」と思わせたジョーンが、ベンとコリーの協力を得て、頑張って捜査を進めていきます。地の利のない自分なので、コリーに応援をあおぐあたりもなかなかのやり手と言えましょう。極寒の地で、自分の命も危険にさらしながら捜査を進めるジョーンがなかなかにかっこよく、頼れるコリーとのコンビで、異色の犯罪捜査ドラマが展開していきます。

シェリダンの演出が、もろに「ボーダーライン」のドゥニ・ヴィルヌーヴのハッタリ演出に影響されてるところありまして、過度に重厚な音響効果ですとか、警察が車を連ねて現場へ向かうシーン、銃撃戦の痛そうなタッチなど、既視感ありありなのは、微笑ましくあるのですが、インデアン居留区というのは、麻薬無法地帯と同じくらいヤバいところだという印象を与えてしまうのは、どうなのかしら。このあたり、インデアン居留区のことを知らないから、どこまでが実際の雰囲気なのかわからないので、ハッタリ演出は、社会問題提起には逆効果なのでは?って気がしちゃいました。居留区という場所は、生活するには自然環境も経済的にも文化的にも過酷な場所らしいことは伝わってきました。若者はここを出たいと思っていてもなかなか実現できず、一方で食い詰めた白人が流れ込んでくる場所という描き方なんです。居留区に入った途端、アメリカの国旗が反対に掲げられていたり、ヤク中の家に聞き込みに行くと、すぐ銃撃戦になっちゃうとか、アメリカなんだけど、アメリカの法権力が及ばない、無茶苦茶治安の悪い、無法地帯みたいに見えちゃうのですよ。でも、映画が言いたいのは、そこじゃなかったというのが、ラストの字幕で具体的に説明されるので、うーん、この映画は何の話をしたかったんだろうという気分になっちゃいました。

この題材を、ヴィルヌーヴ風ハッタリ演出で見せる必然性はなかったよなあ。確かに、若い娘がレイプされて、雪原を逃げているうちに命を落としたという痛々しい事件の捜査ものではあるので、重厚な演出でドラマを進めるというのはわからなくもないのですが、何だかハッタリの方が前面に感じられてしまって。雪に覆われた静かな土地が舞台なのに、画面がやかましいので、何もない場所というより、人殺しがうじゃうじゃいる犯罪地帯に見えてくるのは、どっちがホントなんだろうってところが気になってしまうのは、娯楽映画としてはマイナスだと思います。社会派ドラマであって、娯楽映画ではないって言われそうだけど、クライマックスはきっちり娯楽映画のカタルシスが来ますから、もっと誠実な描き方があったように思えます。どこかバランスが悪い感じなのかな。ヴィルヌーヴは重厚ハッタリ演出を最後まで貫き通すパワーと勢いがありましたが、シェリダンは社会派としてのスタンスを捨てきれなくて、全体としてのバランスが悪くなっちゃったと言ったらひどい言いぐさかしら。ドラマとしての見応えを感じる映画ではあるんだけど、どっか何かしっくり来ないというのは、私が「ボーダーライン」を観ていたからかもしれません。雰囲気が似てると、ついつい比較したくなっちゃうんです。上記の2段落は、「ボーダーライン」未見の方には、ほとんど意味がなくて伝わらなかったと思います。ども、すみません。

ジェレミー・レナーは口数の少ない、過去のある男を熱演しています。でも、この人はこういうハードボイルドなキャラよりも、「メッセージ」の時のようなユーモアのある二枚目半の方がいい味を出してるようにも思えまして、こういう役ばっかりやって欲しくないような気もしちゃうのは微妙なところです。エリザベス・オルセンは「マーサ或いはマーシー・メイ」の頃から、いい感じに年を取って、一見若くて頼りなさそうで、実は有能な捜査官というキャラがきっちりとはまりました。彼女のキャラがドラマを引っ張っていくという難役なのですが、この先が楽しみな女優さんだと再確認しました。後、この映画には、4人のプロデューサーと20人近いエグゼクティブ・プロデューサーがクレジットされているのですが、その中に「あの」ボブ・ワインステインの名前もあるのですが、パンフレットの製作総指揮のところでは、ワインステインの名前はありません。こういう形でなかったことにするってのはありなのかなあ。アメリカの話を、日本のパンフレットで忖度するのも大きなお世話という気がします。



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ジョーンがコリーになぜ捜査に協力的なのかを質問すると、彼は、ジョーンに娘のエミリーの死について話し始めます。コリーが妻と町のホテルに泊まり、エミリーとその弟だけが家にいることが分かった時、友達が集まってきて家はパーティ状態になり、さらにそれ以外の連中もやってきたらしいのです。翌朝、エミリーは行方不明となり、30キロ離れた場所で死体となって発見されました。遺体は動物による損傷が激しくて検死もできない状態でした。結局、エミリーの死の真相はわからないままになっていたのです。一方、採掘場へ向かったベンやジョーンたちの前に武装した警備員が現れます。彼らは、同僚のマットが行方不明だと言い、さらになぜかナタリーのことも知っていました。実は、事件の夜、ナタリーがマットのトレーラーを訪ねてきて、二人が抱き合っていると、同僚たちが帰ってきて、その一人が酔ってナタリーに絡んだことから、殴り合いとなり、その勢いで同僚たちがマットを殴り殺し、ナタリーをレイプしたのです。隙を見て、外へ逃げ出したナタリーは極寒の雪原を10キロも裸足で走り、最後は肺から出血して命を落としていたのです。その犯人である警備員たちと警官が一触即発になるのを、ジョーンが一度は収めるのですが、マットの住んでいたトレイラーの中から突然発砲があって、銃撃戦となり、ジョーンも撃たれ、ベンも銃弾に倒れます。警備員がジョーンにとどめを刺そうとしたとき、コリーが山の中から警備員たちを次々に狙撃します。最後に残ったレイプの主犯を、コリーは生かしたまま山の頂上へと運び、そこから下まで逃げられれば見逃すと言い、裸足の男を放り出します。男は100メートルも逃げないうちに血を吐いて絶命するのでした。全てが片付いた後、コリーはナタリーの父親の家を訪れます。父親は残ったヤク中の息子を警察に引き取りに行くところでしたが、しばらく娘のことを想いたいから、コリーに付き合ってくれといいます。コリーとナタリーの父親が並んで座っているロングショットに「インデアン居留区で失踪した娘の統計は一切取られていない」という字幕が出て、暗転、エンドクレジット。

白人のレイプ犯が、コリーに正直に話せば逃がしてやると言われ、「ここに来たのが間違いだった、娯楽も女もいない雪だけのところにずっといたら気がおかしくなる」と本音とも言い訳とも受け取れる言葉を叫ぶシーンが印象的でした。きっと、白人の住むところで何かやらかして、結果、流れ流れて、インデアン居留区で警備員の仕事にありついたと思しき犯人にとっても、この土地は忌み嫌われる場所だったようです。そんな場所を白人が線引きして、ネイティブ・アメリカンを閉じ込め、白人の吹き溜まりになっているという事実は、アメリカの今も続く黒歴史であり、それに終止符が打たれる日が来ないのではないかという見せ方は、見ていて切ないものがありました。

ラストのリアルな銃撃戦が迫力ありまして、警官隊がみんなやられて、撃たれたジョーンもトドメを刺されそうになったときに、コリーの狙撃銃の弾丸が、犯人たちを次々と仕留めるというのは、カタルシスのある見せ場になっていましたが、そんな派手な見せ場がこの映画に必要なのかなという気もしちゃいました。スノーモビルで雪山を滑走するコリーを上空から捉えたカットなど美しくもかっこいいのですが、そういう見せ場に目を奪われた後、最後に失踪者の統計も取られていないという字幕が唐突に登場すると、「え、そういうことを言いたい話だったの?」っていう驚きと若干の居心地の悪さを感じてしまいました。エミリーやナタリーのような失踪して遺体となって発見された女の子の記録がろくに残されずに処理されているくらい、居留区の治安や法システムはよろしくないということらしいのです。この映画では、ナタリーの死がすごくプライベートな事件として描かれてきたのですが、それは山のように起こっている失踪事件の一つに過ぎないってラストで言われても、その唐突な感じに戸惑いが残ってしまいました。取り上げた題材はいいところを突いてると思うけど、どこか見せ方が歪なのかなあ。重厚で見応えのあるドラマは隙がなくて見事なのですが、それが訴えたいメッセージっとうまくシンクロしないのが惜しいという印象が残ってしまいました。

「タリーと私の秘密の時間」はファンタジー風のいい話のようで、その背後の痛みはかなりシリアス。


今回は新作の「タリーと私の秘密の時間」をTOHOシネマズシャンテ1で観てきました。金曜日、初日の最終回ということなんですが、結構、お客さん入っていてちょっとびっくり。テレビとか紹介されたのかしら。キャッチーな要素はない映画なんですが。私は、シャーリーズ・セロンが好きで映画館に足を運んだのですが、彼女のファンがそれほどいるとも思えないし。

アラフォー女性のマーロ(シャーリーズ・セロン)は、3人目の子供が臨月で、産休に入ったのですが、息子のジョナが情緒不安定(多動症なのかな)で学校で問題を起こして、ちょくちょく校長に呼ばれてます。娘のサラは手がかからない子で、ダンナのドリュー(ロン・リヴィングストン)はよき夫ではあるのですが、育児については腰が引けてるところがあるみたい。そして3人目のミアが生まれてからがもう大変。夜中の5回起こされる一方で、ジョナが何かと手がかかってもうグロッキー。お金持ちの兄クレイグ(マーク・デュプラス)は、自分も使ったナイトシッターに頼んだらどうかと勧めてきます。夜中、授乳以外の赤ちゃんの面倒を全てみてくれるサービスで、もうギブアップ状態のマーロはナイトシッターを雇うことになります。やってきたのは、意外や若い女の子タリー(マッケンジー・デイヴィス)で、ちょっと不思議ちゃんなところもあるけれど、仕事は有能、さらに初日の夜中に家の中を掃除してくれるという、大当たりのシッターさんでした。タリーのおかげで、マーロは夜ゆっくり眠れるようになり、元気を取り戻した彼女は家事や育児にも積極的になり、家の中が明るくなっていきます。ある晩、ちょっと遅れてやってきたタリーは、マーロにマーロがかつて住んでいたニューヨークへ飲みに行こうと誘います。え? 赤ちゃんのミアを放っておいて? どうやらタリーには何か隠し事があるみたいなのでした。

「JUNO/ジュノ」「ヤング・アダルト」のディアブロ・コディが脚本を書き、それらの監督をしたジェイソン・ライトマンがメガホンを取りました。シャーリーズ・セロンは「ヤング・アダルト」で主演してますから、「ヤング・アダルト」のトリオが再結成ということになります。個人的に、「ヤング・アダルト」のシニカルな笑いに大ハマリだったので、この映画にも若干期待するところありました。「ヤング・アダルト」は、アラフォーでもビッチやってますという痛いヒロインが主人公でしたが、今回のヒロインはまっとうに結婚して仕事も持ってて、ダンナと子供にも恵まれてるという、前作とは真逆のポジション。彼女の3人目の子供の産休中に、育児にグロッキーになるヒロインを救うナイトシッターのお話です。

「ヤング・アダルト」のヒロインは、アラフォービッチでもスリムできれいでしたが、今回のヒロイン、マーロは美人さんではあるのですが、いわゆる中年体型で、デブじゃないけど脂がぼってり乗ってます。セロンはこの役のために18キロ増量したそうで、なるほど美人で魅力的だけど、若さの勢いの衰えたヒロインをリアルに体現しています。「アトミック・ブロンド」のアクションヒロインからの、子連れ主婦だもの。すごい女優さんだと改めて感心。この作品でプロデューサーも兼任しているところから見ても、企画を選ぶ審美眼がすごいのでしょうね。息子が落ち着きがなくて、学校で結構迷惑な子供になっています。昔なら、育ちの悪い問題児で片づけられるところですが、今はそういう状態を表現する言葉が増えたこともあって、何か他と違う子とか精神的な病状として扱われることが多くなりました。この映画では、私立の学校に通わせていたけど、あまりに手がかかるので、専属の教師を自費で雇ってつけてくれって言われちゃいます。まあ、その子にだけ先生の時間が取られちゃうのは他の子にとっては迷惑な話であって、学校の言いぐさももっともなのですが、それほど裕福ではないマーロにはできる話ではありません。後は障害のある子どものあるクラスに入れることになっちゃうのですが、それも潔しとできないマーロとしては余計目にストレスがたまっちゃうのでした。さらにサラが生まれたことで、夜中に5度起きなきゃならない生活が始まっちゃいます。ダンナは「何とかしてあげたいけど、自分は何の役にも立たないから」って、手伝ってくれるわけではない。客観的に見ると、結構ひどいダンナだと思うのだけど、マーロはそんなダンナには不満はないみたいで、むしろ自分の力の至らなさを責めてるようにも見えます。ダンナのドリューってのは、見た目も言動も紳士で、マーロに接する態度もやさしいので、そんなダメ夫に見えないのが面白いところです。ただ、くたびれて寝室に帰ってくる嫁の横で、ゾンビシューティングゲームに夢中というのが、無神経さを感じさせまして、そのリアルなダンナぶりを演じたロン・リヴィングストンの演技が見事でした。

そして、夜だけやってくるナイトシッターというのを雇うということになります。私は未婚シングルなので、なるほど大変だよなあ、息子の問題で昼間神経すり減らして、夜中は赤ん坊の世話では、いつか壊れちゃう。ナイトシッターという選択肢があってよかったね、と思うのですが。これ、実際に何人も子供を育てた実績のあるお母さんが観たらどう思うのだろうというのが、ちょいと気になりました。「ナイトシッターなんて甘え、母親になるってのはそういうことなんだし、誰もが通ってきた道なんだから。」なんて言われちゃうと、この映画の基本設定がチャラになっちゃうのですよ。この映画の発端に、世の母親の皆さんは果たして共感していただけるのかしら。「自分は何とか乗り切れたけど、この映画のヒロインみたいに追い詰められたら、ナイトシッターのお世話になるのもありかも。」くらいに寛容に思っていただけたらいいなあ。

さて、夜になってシッターがやってきます。タニーという女の子で、どう見てもマーロより若い20代のスリムな女性。ちょっと変わったところもあるんですが、娘はすぐなつくし、授乳時には、マーロのベッドまで来てくれる。朝になってみれば、散らかっていた家の中がきれいになってるし、このタニーというシッター、只者ではありません。久しぶりによく眠れて気分も上々のマーロ。若いタニーに若干の不安もあったのですが、是非彼女に続けてもらいたいと思うようになります。タニーが来てくれるようになって、それまで冷凍食品メインだったのが、自分で料理するようになるし、気分屋の息子へのイライラも収まってきて、家族中の空気が変わっていきます。タニーのおかげで、全てがいい方向へ進んでいくのは出来過ぎの展開にも思えるのですが、タニーが来る前の荒れた一家の空気を丁寧に見せているので、マーロが元気になっていくのがうれしい展開になっています。この出来過ぎというところがミソでして、ちょっとファンタジーの雰囲気もあるのが、後半への布石になっています。

子供を育てるのは、メンタルに大変だなあってのは、未婚の私にも理解できます。また、生まれたばかりの赤ん坊の面倒をみるころが体力的に大変だというのも、実感はないけど想像はできます。普通の家庭よりも、ちょっと大変な状況にあるマーロが壊れそうになるのには共感しちゃいました。ダンナがやさしいだけで、役に立ってないってところも気の毒感がありました。ちょっと面白いと思ったのは、事業に成功して金持ちになった兄夫婦の存在でして、この兄がナイトシッターを勧めるのですよ。成金っぽい登場の仕方をするので、紳士的なダンナに比べて、いやな奴なのかなと思っていたら、この成金兄貴の方が、妻のことを真剣に考えてるらしいってのが伝わってくるのが、ドラマの面白いアクセントになっています。この映画の中で、ダンナのドリューは決して悪役に描かれているわけではないのですが、ラストのラストで、それがドラマをミスリードする仕掛けになっていたと気づかされると、結構、ヘビーで苦い後味が残る結末になっています。未見の方には何のこっちゃなお話ですし、この結末の受け止め方は人それぞれでかなり異なるものになると思いますから、あくまで個人の感想と思ってください。とにかく、シッターさんのおかげで明るくなった一家がどうなるのかというところは、劇場でご確認いただきたいと思います。

コディの脚本はミステリータッチのものだったのかもしれませんが、ライトマンはそのミステリー部分を見えにくくして、でも伏線は張っておくといううまい演出で、この映画をヒロインを巡る一つの寓話のような描き方をしています。でも、その船底一枚下は地獄だというサブプロットもきちんと伝わってきますので、その地獄の切実度の感じ方の個人差によって、かなり後味に差が出てくる映画だと言えそうです。決して、悲劇的結末を迎える映画ではありませんし、一家のこの先に、充分な希望を感じさせる映画ですから、あまり身構えてスクリーンに臨む映画ではありませんし、音楽の印象的な使い方や、笑えるツボもあり、素直に楽しめる部分も多い映画です。その一方で、人は最終的に誰に頼ればいいの?という視点に立つと、若干の切なさも残る映画と言えるのではないかしら。色々な人がご覧になって、感想を語り合うのにふさわしい映画でして、映画鑑賞サークルの鑑賞会に向いていそうな感じです。うーん、結末を語らないと、何を言っても隔靴掻痒になっちゃうところがもどかしいですが、未見の方にはご覧になることをオススメしちゃいます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



タリーに誘われて、結局マーロも娘を置いて、ニューヨークへ出かけちゃいます。二人で酒を飲んでいると、タリーはもうナイトシッターは続けられないと言い出します。せっかく家の中がうまく行くようになってきたのに急にいなくなられても困るというマーロですが、タリーはもう来られないというばかり。なんとなく気まずい気分になった二人、タリーが運転しての帰り道、酔いのせいもあってついつい眠り込んでしまったタリーは、運転を誤って川の中へ突っ込んでしまいます。川に沈んだ車の中に一人のマーロを、人魚のタリーが助けにやってくるのでした。病院に担ぎ込まれたマーロですが、尋常でない疲労と睡眠不足が重なっていました。そのことを医師に知らされて驚くドリュー。タリーというのはマーロの旧姓で、実はタリーという女性は実在していなかったのです。精神的に追い詰められたマーロは、実在しないナイトシッターを心の中で作り上げ、そのタリーが完璧に振舞ったというのは、実はマーロが裏でそうしていたのです。病室のマーロの前に、別れを告げにくるタリー。ドリューは、マーロにこれまで自分が家庭に向き合ってこなかったことを詫びるのでした。また、マーロの新しい一日が始まるのでした。おしまい。

ハッピーエンドのような雰囲気で終わる映画ではあるのですが、結局、誰にも頼れなくなったヒロインが、もう一人の自分に完璧を託して、事態を乗り切るという、見様によっては、ヒロインの地獄の日々を描いたお話でもあります。もう一人の自分の頑張りで、メンタルの元気は取り戻したものの、ヒロインの体が物理的限界に達して、タリーがもう存在できなくなり、そこまで行って、やっとダンナがヒロインの苦悩に気づくというのは、ヒロインかなりかわいそう。特に、家じゅうが散らかり放題で、食事の冷凍ピザやファストフードばっかという状況下であっても、マーロが完璧な自分を実現しようと葛藤していたのかと思うと、痛々しいものがあります。

追い詰めらた人間がもう一人の人格を作りだすというのは、サイコスリラーでは使い古されたルーチンではあるのですが、そのルーチンをホームドラマに持ち込んで、ハッピーエンドへ持っていくというのはかなり新鮮な印象でした。でも、ウソを楽しむサイコスリラーでなく、リアルな人間の葛藤としての二重人格を描いた結果、その追い詰められた痛さが前面に出てきたという感じなんです。映画はホームコメディの体裁をとって、その痛さをかなりわかりにくくして、実在の有無にかかわらず、タリーによってマーロが救われたという見せ方をしています。そういう見せ方に嘘はないのですが、タリーが現れる時、その裏でマーロが身を削っていたと思うと、やっぱり痛い映画だよなあ。ダンナが悔い改めることで、未来への希望がつながるのですが、カミさんがそこまでしないと、気がつかないのかよっていう突っ込みは入ってしまいました。まあ、それは、赤ん坊を育てたことのないシングルの男目線だからそうなるのかもしれません。女性だったら、他のところへ突っ込み入るかもしれませんし、前述のように、乳児の相手をするのに他人に頼むなんてという突っ込みが入った方がいらっしゃるかもしれません。ただ、色々な視点からの、この映画へのツッコミを語り合うことで、育児についての相互理解が深まる映画なのかもという気がしちゃうのでした。だから、映画鑑賞サークルみたいな色々な世代の人がいる場所での、鑑賞会の題材として、いいのかなって。

「オーシャンズ8」は豪華キャストで無駄のないシンプルで楽しい犯罪コメディ


今回は久しぶりの劇場での映画鑑賞ということで、軽く楽しめるものをということで、TOHOシネマズ日比谷5で「オーシャンズ8」を観てきました。ここはシネコンなのに、映画のチラシが置いてないという不思議な感じのところ、それともどこかに置き場所があるのかしらん。

死んだダニー・オーシャンの妹デビー(サンドラ・ブロック)は、5年の刑期を終えて仮釈放にこぎつけました。壁の向こうで5年間練りに練った計画をかつての相棒ルー(ケイト・ブランシェット)に持ちかけます。その計画とは、カルティエの地下金庫に眠る1億5千万ドルのダイヤのネックレスをいただこうというもの。メトロポリタン美術館のメットガラというセレブのパーティにそのネックレスを持ち込んで、そこで偽物とすり替えようという作戦です。セレブ女優のダフネ(アン・ハサウェイ)にそのネックレスをつけさせるように話を持ち込んで、パーティの場で彼女の首からネックレスをいただこうということで、まず落ち目のファッションデザイナーのローズ(ヘレナ・ボナム・カーター)を取り込んで、彼女の元の送り込みます。そして、さらにメンバーにジュエリー職人のアミータ(ミンディ・カリング)、ハッカーのナイン(リアーナ)、スリのコンスタンス(オークワフィナ)に、盗品のさばき屋タミー(サラ・ポールソン)をスカウトして、いよいよ構想5年の大作戦がスタートするのでした。

ジョージ・クルーニーの「オーシャンズ」シリーズのスピンオフというべきもので、元のシリーズの監督スティーブン・ソダーバーグはプロデューサーとして参加。「ビッグ」「デーブ」「カラー・オブ・ハート」などちょいとひねりの効いたハートウォーミング作品を手掛けた実績のあるゲイリー・ロスが女犯罪集団の原案を書き、それをオーシャンズの設定にアダプテーションして、ロスとオリビア・ミルチが共同で脚本化して、ロスがメガホンを取りました。前シリーズのメンバーは、デビーに助言するルーベン(エリオット・グールド)がちょっと顔を出すだけで、後は前作のしがらみのない新しい映画になっています。登場するメンバーがなかなかの豪華キャストで、それぞれの持つ特技を生かしたドラマ展開で、素直に楽しめる映画に仕上がっています。集団犯罪ものとして、スマートにテンポよくまとまった映画でして、変な因縁話やどんでん返しといったサプライズを盛り込んでいないので、ドラマとしての深みはないけど、2時間弱の時間を最後まで楽しませてくれるライトコメディとして、この映画、点数高いです。実は私、前の男オーシャンズシリーズは、犯罪部分のプロットがモタモタしていて、あまり好きじゃなかったので、今度の女版の方が楽しめました。男オーシャンズは内輪受けというか楽屋オチ的なおかしさに時間を取り過ぎて、メインの犯罪部分が盛り上がらなかったという印象があって、今回の犯罪のプロットにドラマを絞り込んだ作りの方が好きです。それにオヤジの私からすると、おっさんたちのイチャつきよりは、女性陣のキビキビした犯罪ものを観る方が楽しいですもの。

ゲイリー・ロスは、前作との違いを意識した作りをしているようで、女性チームは仕事はマジで遊びを入れずに取り込みますし、暴力沙汰はフェイクもなしで、完全に宝石を盗むというお話に特化しています。何ていうのかな、チームに馴れ合い感がなくてプロが集まって、スマートに大仕事をするというのを余計なものを削いで見せたという感じなのですよ。そういう意味では、キャラの描き込みは浅いですし、一応デビーが主人公だけど、クライマックスは完全に集団劇になっていますし、あえて誰かがヘマをするといったわざとらしいアクシデントも入れず、構想5年の宝石すり替え作戦をさくさくと見せたあたり、物足りないと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私はその素直な展開を楽しみました。それは、キャラの薄さを役者陣のキャラと演技でうまくカバーしている部分も大きいと思います。

サンドラ・ブロックだけ、自分をはめて刑務所に送った画家への復讐というサブプロットを持っているのですが、それも作戦のピースに収めてしまって、へんにドラマチックな盛り上げとかを見せない演出で、全体のトーンを壊していません。他の演技陣の必要最低限のセリフで、キャラを浮き立たせることに成功していて、クライマックスの個々の行動に無駄や遊びがない見せ方は、脚本のうまさなのだと思います。集団ドラマで全員が脇役みたいなポジションだけど、それぞれに見せ場を設けて、各々がきちんと引き立つようにしているのは、演出のうまさでしょう。名優と言っていい、ケイト・ブランシェットやヘレナ・ボナム・カーターが出てくるだけでそのキャラやドラマの立ち位置が見えてくるあたりはさすがだなあと思いましたもの。儲け役とは言えリアーナの天才ハッカーぶりとか、煙に巻かれたアン・ハサウェイのきょとん顔など、役者の良さがうまく生かされていてお見事だと思いました。

そんな映画ですから、人間ドラマとしての盛り上がりとか、大どんでん返しといった趣向はなく、さらっと楽しめる仕上がりは好みが別れるかもしれません。でも、夏バテで、ヘビーなドラマに食傷気味な私には、ピタリとはまったので、この映画の評価はかなり高いです。その気になれば、まんまとしてやられる男連中のドラマをもっと広げるとか、死んだ兄との関係をもっと見せるとか、犯罪のステップにもっとトラブルを盛り込むこともできたでしょう。でも、それをやらずに必要最低限の要素で2時間弱の娯楽映画にまとめたゲイリー・ロスのセンスはかなりいいと思います。無駄な部分を思い切って刈り込んだという印象ですが、男オーシャンズで不満だった部分が全ていい方に改善されているという点でも好きですね、この映画。

後、個人的に面白かったのは、余談ながらプログラムに載っていた、主演女優陣の対談記事。「私たち、すごく仲良く撮影したのよー」の行間から、女優間のピリピリした緊張感が伝わってきて、撮影は大変だったんだろうなあってのがおかしかったです。ホント、サンドラ以外は、脇役のコンペみたいな作りの映画ですから、登場する秒数、カット数で色々と思うところあるんだろうなあって。でも、ロス監督のコンペの采配はかなりフェアなものではなかったのかしら。一つ間違えるとオーシャンズチームなみに目立ちかねないダコタ・ファニングをさらりと使い流したあたり、監督もかなり気を遣った後が見えましたもの。



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パーティの夜、チームの面々は美術館のあちこちに散って、行動を開始します。ナインは、トイレ前の防犯カメラに死角を作り、パーティのメインのスタッフとして潜入していたタミーが全体をコントロールし、コックに化けたルーがダフネのスープに薬を混ぜ、ダフネがトイレに行って吐いてるところをボーイに化けたコンスタンスが介抱するふりをしてネックレスを奪います。デビーが死角からダフネのボディガードをブロックし、うばった宝石は下げるトレイの中に放り込み、それを受け取ったアミータが分解して、メンバーに配布します。一方、ネックレスの紛失で、パーティは中断となり全員の身体検査が行われますが、会場の水槽の中からタミーが偽のネックレスを発見して元へ戻すのでした。一方ネックレスの一番大きなダイヤを受け取ったデビーはそれをかつて自分を裏切ったクロード(リチャード・アーミテイジ)のポケットに放り込みます。返却時にネックレスが偽物とばれるのですが、どこですり替わったのかは警察もわかりません。ダフネがそれほどバカじゃなくて事件の全貌に気付いたと察したデビーは、ダフネをチームに紹介した彼女も共犯として取り込んでしまいます。オーシャンズ兄妹と旧知の保険調査員フレイジャー(ジェームズ・コーデン)が事件に乗り込んできて、パーティ会場にデビーがいたことを知り、疑ってみるもののカメラの映像では彼女にはアリバイがありました。一方で、デビーの方から、フレイジャーに接触し、この事件で宝石の一部が誰かから見つかったらどう?と持ち掛け、フレイジャーもデビーの復讐に一役買うことになるのを承知でその話に乗ります。クロードの部屋からネックレスの一番大きな宝石が見つかり、彼は逮捕されてしまいます。しかし、それではチームの分け前が大きく減ってしまうことになります。でも、実はパーティ会場が紛失騒ぎで閉鎖された隙に、デビーとルーは、他の宝物展の宝石をごっそり偽物とすり替えていたのでした。そして、一人頭3000万ドル以上の分け前を得て、チームはそれぞれに散っていくのでした。兄の墓の前で、「見せたかったわ」と話しかけるデビーの姿から暗転、エンドクレジット。

ダフネがオーシャンズの一味になるというのは想定内でしたけど、最初から仲間ではなく、盗まれた後にチームに入るというのはちょっと面白いと思いました。また、犯人を元恋人に押し付けるために、ネックレスの一番大きなダイヤを渡してしまった後、他にも色々盗んでましたというのは、ささやかなオチとしてOKという感じでしょうか。この映画、女性が主人公の現代の映画ではあるのですが、彼女たちがドラマの中で、女性である必然性がないってところが、ちょっと面白いというか意外でした。虐げられた女性が権力のある男性の鼻をあかすといった構造になっていないのですよ。たまたま、信用できるメンバーは集めたら女性ばっかだったという感じの作りになっていて、彼女たちが女性だから大変な想いをしているとか差別されているといったドラマを一切見せないあたりは、マイノリティブームのハリウッド映画にしては、あっさりした作りになってて、それもこの映画に無駄がない一因になっているのだと思いました。とまあ、お気楽に楽しむには最適な一編です。個人的な好みとしては、ケイト・ブランシェットのかっこ良さと、アン・ハサウェイのきょとん顔を堪能しましたが、女性の方がご覧になると、また別の視点が見えてくるかもしれません。

「ガス人間第一号」はゲテモノSFと悲恋もののバランスがよくて見応えあり。


日本映画専門チャンネルの「東宝特撮王国」という企画で放映された「ガス人間第一号」を観ました。最初に観たのは、関西で放映されたバージョンの孫コピーのビデオでした。当時は、特撮映画を地上波で放映された版で初めて観るということが多かったです。それだけ、地上波で放映されることが多かったんですが、今は、昔の日本映画が地上波で放映されることはまずなくなってしまいました。当時は、1時間半枠の放映だと正味70分で、オリジナルからかなりカットされてしまうので、2時間枠放映がうれしかったという記憶があります。新東宝の映画なんてのも、東京12チャンネルの午前中の枠で結構放映されてたんですよねえ。

銀行強盗が発生し、逃走車を岡本警部補(三橋達也)の乗るパトカーで追跡すると、山の中のとある屋敷の近くで逃走車は転倒。でも、運転手は姿を消しています、屋敷には、日本舞踊のトップと呼ばれる春日藤千代(八千草薫)が爺や(左卜全)と二人で住んでいました。そして、さらに二件目の銀行強盗が発生、現場の金庫室は鍵がかかっていて、中で倒れている支店長が鍵を持っていました。どうやって犯人は、金庫室から出て行ったのかが問題となります。岡本は、どうにも藤千代が気になって調べ始めると、彼女が最近すごく金回りがよくなり、踊りの発表会も開くと言う情報を入手します。一方、警察に犯人から予告電話が来て、警察が張り込むのですが、犯人は別の銀行を襲い、結局逮捕されてしまいます。盗まれた万札が藤千代の家から発見されることから、逮捕された西山との関係が取りざたされるのですが、そんなところへ、水野(土屋嘉男)という男が警察へ出頭してきます。銀行強盗の真犯人は自分だと言います。そして、どうやって金庫室から抜け出したかを関係者の前で再現すると言い、事件現場に集まった関係者の前で、彼はガス状に変化し、金庫を開き、支店長と刑事を殺して、姿を消します。藤千代は警察に留置されることになるのですが、水野は再び警察に現れ、留置場の看守を殺して、全ての房の鍵を開けたことで、警察署は大混乱。でも、ガス人間相手に警察は対抗手段がありません。新聞社の設定した会見の場に水野は現れ、自分の過去について語ります。図書館の職員をしていた彼に声をかけてきた佐野博士に雇われ、博士の研究室に行くと、何かの機械に入れられ、目が覚めるとガス人間になっていたというのです。佐野博士は人間改造の人体実験を何度も行っていたのです。ガス人間になった水野は藤千代と付き合うようになり、彼女のパトロンとなっていたのです。警察は、水野を逮捕することもできず、どうやれば彼を葬ることができるのかを検討し、藤千代の踊りの発表会を使って、ある作戦を立てるのでした。

「美女と液体人間」「電送人間」に続く変身人間シリーズの第3弾として、昭和35年に公開されたSFスリラーの一編です。「地球防衛軍」「美女と液体人間」の木村武が脚本を書き、「ゴジラ」「空の大怪獣ラドン」の本多猪四郎がメガホンを取りました。特撮部門のトップとして、「ゴジラ」「空の大怪獣ラドン」の円谷英二が特技監督としてクレジットされています。エログロな際物感を意外にまじめにまとめた「美女と液体人間」から、犯罪サスペンスはともかく設定を生かしきれなかった感のある「電送人間」から、今度はガス人間ですからね。前の2本とは違う要素を持ってくる必要があったのでしょうが、そこへガス人間と日舞の家元がいい仲になるというケッタイな設定を持ち込みました。いわゆるミスマッチ感を狙ったのでしょう。未来感覚のSF映画に日舞の家元という取り合わせ、それが大時代な悲恋ものにまとまるあたりは、木村武の脚本がうまいのでしょう。本多猪四郎の演出も、緩急をつけながらも高いテンションで最後までドラマチックに盛り上げることに成功しています。この映画として、前後して「宇宙大戦争」を撮っているのですが、あの間延びしたSF大作(ファンの方すみません、でも劇場で観ても見劣りしちゃって。)に比べて、こっちの方が断然いいのですよ。脇役に至るまできちんとキャラが立っているし、サスペンスの盛り上がりと、日舞の静謐な感じのコントラストも映画の面白さに貢献しています。思い切って大マジメな悲恋ものに仕上げたのは見識だと思いましたし、一方で主人公にコミカルなキャラを与えていたり、全体のバランスがよいのですよ。確かに細かいツッコミどころは探せば見つかるのですが、映画にうまく乗れれば、アラが気にならずに1時間半弱を楽しむことができます。まあ、細かいところは映画の魔法だと思ってヤボなことを言わないのがオススメです。

ドラマは、主人公の岡本警部補が連続強盗犯の捜査をしていくうちに、日舞の家元、春日藤千代が何か怪しいと思うようになるところから展開していきます。藤千代を演じる八千草薫が若くて大変美しいのですが、ドラマの中では相当な年で年齢不詳だということになっています。岡本警部補がまだ新任の警部補で、ベテランから若造扱いされ、若手からは一目置かれるというポジションになっていて、それがきちんとドラマの中でわかるようになっているのはうまいと思いました。また、登場する警察の面々がそれぞれの顔とキャラを与えられているところは点数高いのではないかしら。1時間半弱の尺の中で、脇役まで丁寧に描けている点が、結構私のお気に入りです。

ガス人間の描写も当時としてはかなり頑張っているのではないかしら。アニメのガスはややチャチにも見えるのですが、煙を動かしたり、合成したカットはかなりリアル。また、ガス人間の顔がガス状に歪むカットは初めて見るとかなりのインパクトあります。「本当にあった呪いのビデオ」で時々登場する人間なのか何なのかよくわからないような映像があるんですが、その得体の知れなさに通じるものがありまして、顔のようで顔でない感じが結構怖いのですよ。

ガス人間はもともとは普通の若者だったのですが、マッドサイエンティストに騙されて、人体実験されてしまい、その結果、ガス人間になっちゃったというかわいそうな人。でも、自分のパワーに覚醒しちゃったら、惚れた女に入れ込んで、強盗殺人を犯すという、道を踏み外しちゃった人でもあります。この映画では、そのガス人間の悪の部分を、うまいこと恋愛ドラマでコーティングすることで、報われない愛の悲劇にまとめあげているところがうまいというか、かなりすごい。ガス人間にされちゃったところまではシンパシーを呼ぶのですが、そこから先は嫌悪感しか湧かない筈のガス人間に、恋愛悲劇のヒーローをやらせるというあたりに、昔の時代劇かやくざ映画のピカレスクなヒーロー像を思わせるところがありました。また、警察側のリアルな演技に対して、ガス人間や藤千代に時代がかった大芝居をさせて、異世界の恋愛ドラマを力技で押し切った演出は見事だと思います。乗れない人には「なんじゃこりゃ」な展開かもしれませんが、私はこのドラマに素直に乗れて、ラストは結構盛り上がりました。



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ガス人間と藤千代の関係は大きなニュースになり、世間の好奇の目が注がれることになります。また、ガス人間を騙ったり、ガス人間の偽被害者が現れるなど、警察もこのままガス人間を野放しにはできず、彼を拘束できないのであれば、彼を殺すしかないという結論に達します。一度は中止となった藤千代の発表会は、ガス人間が金を回して開かれることになります。一方で警察側はチケットを全て買い占め、会場に無臭性のガスを充満させ、会場ごと爆破しようという作戦を立てます。無人の会場で舞い踊る藤千代とそれを見つめるガス人間。藤千代と爺やの二人が舞台にいることから、岡本警部補は彼らを連れ出そうとしますが、拒否されてしまい、3人を会場に残したまま、爆破のスイッチが入れられますが、配電盤が何者かにこわされていて点火しません。そして舞いが終わり、舞台を降りる藤千代と抱き合うガス人間、しかし、藤千代の手に握られていたライターから点火し、大爆発が起こります。なぜ爆発したのかわからない警察や群衆の前に、ガス人間がはい出してきます。そして、会場の入り口の前で人間の姿でこと切れるのでした。その死体に上に花輪がかぶさってエンドマーク。

今の感覚だと、警察のやり口はかなり非情で、ガス人間を殺す作戦を立てるとか、この機会を逃すことはできないと、藤千代や爺やを道連れにするもやむなしいというあたりは、結構すごいものがあります。一方で、そういう選択をするのも仕方ないし、警察として、苦渋の決断でやるんだというところをきっちり見せるのがうまく、そういうびをドラマの流れを妨げないように見せた演出は見事だと思います。また、今作ったら、ガス人間に生死を曖昧にするだろうところを、彼の絶命シーンをきっちり見せた演出も好きです。また、ガス人間の死を見せることで、藤千代の死も確信させて、心中劇として終わるところで、結構な盛り上がりました。藤千代がガス人間をどう考えていたのかは、直接語られることはなく、彼女の「どうしようもないんです」というセリフで察するしかないんですが、まあ運命として受け入れるしかないという古風な女性の姿が見えてきます。岡本警部補の恋人である新聞記者が、いかにも現代のビジネスガールとしてと登場するので、その古風な佇まいが際立つことになりました。登場人物のキャラ設定と配置がしっかりしているので、悲恋心中ものとしてもちゃんと観られる映画になっていて、一方で、ガス人間という設定をきちんとドラマに生かされているので、映画としての満足度が上がりました。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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