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「アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発」は今だからこそ多くの人が観るべき映画です、忘れちゃう前に。


今回は「アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発」を横浜のシネマベティで観てきました。椅子がよくなって、こぎれいになった感があるのですが、その分、混雑するようになったので、昔の閑散とした場内を知る身としてはしみじみ。でも、相変わらず若いお客さんはほとんで見ません。

ナチ戦犯のアイヒマンが逮捕され、裁判が始まった1961年、アメリカのイェール大学で心理学の実験が行われていました。2人の被験者は先生と学習者という役割を与えられます。二人は別の部屋に別れ、先生は英単語に関する質問を読み上げ、学習者はそれに答えます。答えを間違えると先生は学習者に電気ショックを与えます。答えを間違える度に電圧はアップされ、実験者が終わりを告げるまでそれを続けるというものです。学習者は答えを間違える度に強くなる電気ショックにうめき声をあげ、さらには「もうやめてくれ」と懇願し、最後には声すら上げなくなるのですが、実験者は実験をやめると言いません。そして、先生役の被験者のほとんどが最後まで電圧を上げて電気ショックを与え続けるという結果が得られました。実は、この実験の被験者は先生役のみで、学習者は電気ショックを受けておらず苦しむ芝居をしていたのです。要は、実験者の指示に従って、どこまで電気ショックを与え続けるかを調べる実験だったのです。その実験を行ったのは心理学者のミルグラム(ピーター・サースガート)でした。誰もが「最後まで電気ショックを与え続けることはない」と言っていたのですが、実験によって、その仮説は覆ってしまいます。中には、「学習者は大丈夫なのか」「もうやめた方がいい」と言う被験者もいたのですが、実験者が「そのまま続けて」という指示を出し続けると、ほとんどの被験者は最後で電圧を上げて電気ショックを与え続けたのでした。これは、アイヒマン実験と呼ばれるようになり、アイヒマンの「上官の命令がなければどんな残酷な行為もしていなかった」という証言を裏付ける、人間の負の一面を暴露したものとして多くの人に知られるようになったのでした。

日本ではあまり公開作のないマイケル・アルメレイダが脚本を書いて、メガホンを取った一品です。ミルグラム博士の半生を描いたという形になってはいます。彼と妻サシャ(ウィノナ・ライダー)との出会いですとか、アイヒマン実験以外の心理学実験も描かかれてはいるものの、物語はミルグラムのキャラクターに肉薄するのではなく、むしろミルグラムや他の心理学実験を描いてはいるものの、それらをアイヒマン実験の背景的な扱いにして、アイヒマン実験を中心に据えたドラマ作りになっているのが意外でした。この映画の言わんところは、アイヒマン実験というすごい事実があって、みんなそのことをよく知る必要があるよ、という啓蒙映画とでも言いましょうか、今だからこそ、このことを知っておく必要があるんだよというメッセージをこの映画から感じました。しょっちゅうミルグラムはカメラの方を向いて観客に語りかけてきて、その扱いは主人公というよりは狂言回し的扱いですし、主人公はアイヒマン実験そのものなのだという見せ方はなかなかユニークで面白いと思いました。

普通にミルグラムの伝記映画ならば、あっさりと流すであろうアイヒマン実験をその手順を丁寧にそして被験者のパターンをいくつも見せているところからして、この映画は、アイヒマン実験を知らない人に向けて、その内容を解説する意図があることは明らかです。たぶん、アイヒマン実験を知らなかった人でもこの映画を観たら、アイヒマン実験がどういう実験で、その結果が示すものが、人間は、与えられた役割に忠実に行動することで、自分の行動の責任も指示した人間に委ねてしまう傾向があるというもの。そう言われるとピンと来ないけど、「やめてくれぇー」という声が聞こえているのに、実験者の「続けて」という指示に逆らわずに電気ショックのスイッチを押し続ける人間の姿はかなりショッキングです。それが、特別な人間じゃなく普通の人がそうなるのだというところが余計目に怖くて、不愉快でもあります。

この実験が、そのやり方の倫理性を問う形で非難されるという展開になるのが面白いと思いました。実験そのものの不愉快な結果には目をつぶるにしても、人を騙して、残酷な行為をなさしめるのは、倫理的にどうなのというツッコミが入るのですよ。実験の結果ではなく、実験のやり方にケチをつけているわけです。実験では、最後にアンケートをとった後にタネ明かしをしてはいるのですが、それでも非難の対象になっちゃうのは、実験の趣旨を聞いても、その結果の不愉快さが残るところにあるのかもしれません。確かに、この実験の結果をアイヒマンと結び付けられたら、被験者は「オレってアイヒマンなの?」という気がして不愉快に感じることはあると思います。一方で、その結果について興味を持ち、追跡調査に応じてくれた被験者も少ないながらも登場するので、人それぞれの感じ方はあるのでしょうが、やっぱり人間の負の側面が、自分の行動で証明されるというのはうれしいものではないでしょう。さらに、それが、あの人でなしのアイヒマンを擁護しているのだとすれば、文句の一つも言いたくなるでしょうし。

映画は、アイヒマン実験の他にも、スモールワールド実験(知らない人への伝言が何人の人を経由すれば当人まで届くかという実験)などの実験も紹介され、彼が社会心理学の分野で様々な実験をして、面白い事実を発見しているのを見せてくれます。でも、その中でアイヒマン実験が突出していて、ミルグラムの人生にも大きな影響を及ぼしているという見せ方をしているのが面白いところです。映画の後半は、ハーバート大の助教授となったミルグラムがアイヒマン実験以外の実験にも精を出す様が描かれるのですが、さらにニューヨーク私立大学へ移り、アイヒマン実験に基づく「服従の心理」という本を出版して大きな話題となります。その実験の様はテレビドラマにもなるのですが、それは彼にとって満足のいくものではありませんでした。そして、オーウェルの小説「1984年」がベストセラーとなると、それの関連でアイヒマン実験が再び脚光を浴びるのですが、そんな中、心臓発作で彼は亡くなるのでした。

というわけで、映画は割とあっさりとミルグラム教授の人生を片付けてしまうのですが、その中でアイヒマン実験は彼について回るのが示されます。ある人は、その実験を非難し、ある人は追試を続けるべきだと言います。実際、彼はバリエーションを加えた追試を何度も行っていました。そして、その結果を本にまとめて一躍、時の人となるわけですが、それを素直に受け入れるのには抵抗があったことは察しがつきます。自分も環境が整えばアイヒマンにもナチスにもなっちゃうというのは認めたくないでしょう。私も認めたくはないですが、時代の空気の中の放り込まれて、肩書と役割を与えられたら、その役割を演じてしまうだろうなという気はします。それが正しいとか間違っているとか関係なく、自分の属する組織の方針、与えられた役割の行動を取ってしまうなって。その行動に良心の呵責を感じることがあっても、それは組織がやっていることであり、それは自分の職務だからということで、それ以上の葛藤を封じ込めてしまうだろうなあってのは、容易に想像がつきます。自分が強い信念を持って、悪事を働くとは思いにくいのですが、上からの命令で、不正を働く可能性はかなりあります。さらに、自分の所属する組織や役割を守るために率先して不正を働く可能性も否定できないのです。だからこそ、個人には選択肢があって、命の危険でもない限り、自分の意志で行動を選択できるということを肝に銘じておかなければいけないと、改めて感じさせてくれる映画でした。

ピーター・サースガードやウィノナ・ライダー、さらにゲスト的に登場するアンソニー・アンドリュース、ジョン・レグイサモ、アントン・イェルチンといった渋い面々で固められた映画ですが、それだけに、登場人物よりも、アイヒマン実験にスポットライトが当たる作りになっています。アイヒマン実験の結果が、為政者や大企業に利用され、一般の人々がとんでもない行動を取らされる可能性があるということを忘れないためにも、この映画が多くの人の目に触れることを期待します。
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コメント

No title

einhorn2233
札束さん、コメントありがとうございます。この映画は、東京裁判やニュールンベルグ裁判の後に見つかった事実として考える必要があります。命令に従った人間が罰せられると一方で、上官や為政者が人間をコントロールできることがわかってしまったわけですから、単に実行者のせいにしちゃうことの危険さを指摘しているという点で、この映画は重要だと思います。人間はそこまで信頼できる尊厳をもっていないという事実は、認めたくないけど無視するのはもっと危険だと認識すべきと思います。

No title

Schwangerschaft
「私は命令に従っただけです」という姿勢。戦後イスラエルでアイビマン裁判がありましたが、そのときアイヒマンが言った言葉です。強制収容所でたくさんのユダヤ人を殺しました。だけど、上の命令に従っただけだと。日本でも「上官の命令」が弁明に使われた。しかし、ニュールンベルグ裁判と東京裁判が出した新しい基準は、命令に従うことが弁解にならないということです。命令に従ったということは、責任をとるべき行為だということです。

加藤周一
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