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「フロント・ランナー」は実録ものだけど、色々と考えさせられるところが多くて、ドラマとしても面白い。


今回は新作の「フロント・ランナー」を川崎のTOHOシネマズ川崎1で観てきました。ここはキャパの割に画面サイズもあり、シネコンタイプの座席配置ながら、観易い映画館になっています。2週目から1日1回の上映というのは、ちょっと扱い悪くないの? ジャックマンが来日してプロモーションしてたのに、アメコミ映画じゃないとこういう扱いなのは気の毒な気も。

大統領選挙で、有力候補と言われていた民主党のゲイリー・ハート上院議員(ヒュー・ジャックマン)は、積極的な選挙活動を行っていて、彼の革新的な政策は若い国民の支持を取り付けつつありました。そんな彼の弱点としてあったのが、長年連れ添った妻リー(ヴェラ・ファーミガ)との別居問題でした。そのことについて切り込んだワシントンポストの記者に激高したゲイリーは「自分を尾行したけりゃ尾行すればいい」と啖呵を切ります。一方ヘラルド紙の記者トムはハート議員はワシントンで女と会っているというタレコミを受け、ワシントンの自宅へ向かったところ、彼が自宅に若い女を連れ込むのを目撃。トムはカメラマンを呼んで張り込みを開始、写真を撮り、出てきたゲイリーからコメントを取ることにも成功します。女性の身元も確認できていない状況でしたが、ヘラルドはそれを記事として日曜版の一面に載せます。その結果、リーの別居先にはマスコミが押し寄せ、選挙事務所は対応に追われることになります。当の本人は、この事態をさほど重大視しておらず、政策の演説の内容の方が気懸りという状況に、選挙参謀のビル(J・K・シモンズ)は時代が変わって今はそれでは通らないと言います。一方で、厳密に裏を取らずに記事にしたヘラルド紙の姿勢も批判の的になりますが、ゲイリーはこのスキャンダルについての記者会見を開かざるを得なくなるのですが、その結果は彼の支持を取り戻す決定打にはならず、彼は大統領選立候補を辞退することになってしまうのでした。

1988年の大統領選挙の前哨戦で、有力候補のゲイリー・ハート上院議員に女性問題のスキャンダルが発覚し、立候補辞退に追い込まれた事件を映画化した実録ものの一編です。マット・バイの原作から、バイとジェイ・カーソンとジェイソン・ライトマンが脚色し、ライトマンがメガホンを取りました。ジェイソン・ライトマンという監督の名前はこれまであまりピンとこなかったのですが、この人「JUNO/ジュノ」「ヤング≒アダルト」「とらわれて夏」「タリーと私の秘密の時間」といった面白い映画をたくさん手がけていたのに、今回、初めて意識しました。目のつけどころの面白い人だけに、実録もの以上の面白さがあるかもという期待があってスクリーンに臨みました。その期待は裏切られず、発見のある映画に仕上がっています。ただ、題材的には地味ではあるのですが。

映画の前半は、ハートの選挙事務所や、ワシントンポスト、ヘラルド紙の会議室のシーンが続きます。たくさんの人間の会話の応酬のなかから、当時の状況が見えてくるという演出はなかなかにスリリングです。この映画は一応ゲイリー・ハートが主役ではあるのですが、彼が主役らしさを見せるのは後半になってからで、それまでは群像劇のように物語が推移していきます。多くの登場人物がそれぞれ印象に残るような演出が施されていて、その時代の空気と、作り手の伝えたいことがじわじわとあぶりだされるような構成になっているのが面白いというか、うまい映画です。ゲイリー・ハートがどういう政策を持っていて、どういう女癖だったのかといったことはほとんど描かれないので、女性でしくじった政治家のお話ではありません。それより、彼を追うジャーナリズムの方が丁寧に描かれていまして、この事件が、政治家がそのプライバシーによって資質を問われるようになる転機となったらしいのです。映画スターのスキャンダルを追いかけるパパラッチが政治家をターゲットにするようになり、政治家のゴシップが国民の興味と批判の対象になり始めた時代を記録した映画ということになるのかしら。

それまでの政治家はその政治能力によって評価され、その専門分野で秀でていれば、私人の部分で、政治家の資質を問われることはなかったのですって。ケネディ大統領が誰と浮名を流そうが、それによって大統領としての彼が否定されることはなく、ジャーナリズムもその切り口で彼を責めたてることはしなかったのに、ニクソンの時のウォーターゲート事件あたりから、公務以外の行動で、その品格を問われるようになったらしいというのが、この映画のセリフの端々からうかがえるのですよ。なるほど、大統領の犯罪をジャーナリズムが暴いた時、その政治能力だけで、大統領を評価できなくなる。さらに大統領選挙がイメージ戦争になってきたこともあるのでしょうが、政治家のプライバシーが報道の対象としての重みを増してきたときに起きたのがこの事件だということらしいのです。当のゲイリー・ハートは世間の流れの変化に気づいておらず、今までの考え方で女性問題を乗り切れると思っていたのですが、そうはならない。ワシントンポストの主幹も、昔ならハート議員の女性問題をスルーすることもできたが、今はウチだって書かなければ非難される時代になったのだと言います。

ハート議員は、演説で倫理道徳を説いていましたが、そのことと自分の浮気は別物として、矛盾しないで両立していました。それまではそれで通ってきたから、今度もどうってことないやと思っていたのですが、そのスキャンダルは、彼のスタッフや支持者の失望させるに十分でした。奥さんからボロクソ言われると、殊勝に反省の言葉を口にするハート議員ですが、記者会見では結構強気の発言をしちゃって墓穴を掘ってしまうのですが、なるほど、こういうあたりの公私の線引きが昔の不文律だったんだなあと納得するとともに、大統領が個人として犯罪に加担したウォーターゲートの影響が、ジャーナリズムのスタンスを変えたんだなあってのは、結構な発見でした。

また、この映画の中では、女性が印象的なポジションに配されています。議員の奥さんもそうですが、選挙事務所の女性スタッフですとか、ワシントンポストの副編集長といった面々が男性中心の社会に対する疑問を投げかける役どころです。さらに、ハート議員の浮気相手をきちんと描くことで、今と違う時代の空気を感じさせるのがうまいと思いました。新聞にスキャンダル記事が載っちゃうと、浮気相手のドナは議員の家に軟禁状態にされちゃいますし、ハート議員も選挙スタッフも彼女のことなんか気にも留めません。女性スタッフがそんなドナへの扱いに疑問を呈するところが大変印象的でした。男性スタッフのゲスな愛人扱いの視線に、ドナが憤るシーンとかは、20世紀ってのはそんなもんだったんだなあってのが伝わってきて、日本もアメリカも似たようなものだったんだってのはちょっとびっくり。そんな時代に比べたら、今の方がいい時代だと思う一方で、この映画では、その今に対しても疑問を呈しています。

この映画のプログラムを読むと、このゲリー・ハートという人は政治能力に長けていて、この人が大統領になっていたら、対ソ政策、中東政策、経済政策などで、もっとマシな対応ができていただろうにっていうメッセージがあるんですって。今のアメリカがこうなったのには、ハート議員のような有能な政治家をつまらないスキャンダルで潰してしまったこともあるんじゃないかってことらしいです。私は彼の政治家としての実績はよく知りませんし、この映画でもそこは描かれないので何とも言えないのですが、そんなの理想を説いて大統領になって現実を対処したら、妥協をいっぱいするだろうから、そううまくはいかないと、私は思ってしまうのですが、作り手には、ブッシュやトランプよりはマシだったんじゃない?って思いがあるみたいです。それっていわゆる「もしも」の世界ではあるので、事情をよく知らない私には「ふーん」って感じで、あまり響いてきませんでした。

それでも、プライベートなスキャンダルが、その人の本業の評価をも変えてしまうというところに疑問を呈しているところは、共感できるものがありました。誰だって長所と短所を持っているので、長所の部分を認めてその部分で活躍してもらわないと、人間を有効活用できないと思いますもの。仕事のできる人がよき家庭人でないからと言って、仕事の業績を貶めるのは、私はよくないことだと思っています。逆に仕事ができない人が、よき家庭人だったとき、仕事ができないという理由で全人格を否定されてボロクソ言われるのも変。でも、人は他人の噂が大好きで、悪い噂を見つけたら、それをみんなで寄ってたかってバッシングするのも好きというところもあります。昔なら、どんなジャンルでも、いわゆる「先生」と呼ばれる人には、とりあえず敬意を表して、その人の業績に頭を下げていたのですが、今は、平等意識が行き渡っているので、同じ人間としてアラ探しをすることが正当化されてきています。それはそれで、裏で悪いことをしている人を正当に評価することにつながるので、必ずしも悪いことではないのですが、でも、大きなことを為すときに、枝葉末節にこだわりすぎることの問題も改めて再認識させる映画になっています。だから、どうすりゃいいんだという明快な回答を出す映画ではないのですが、人間(ハート議員)にも物事(ジャーナリズムのあり方)にも長所と短所があるってことを再確認する映画として、この映画は一見の価値があると思います。

群像劇を支える演技陣はみな好演ですが、スキャンダルを記事する記者を演じたスティーブ・ジシスやワシントンポストの主幹を演じたアルフレッド・モリーナがよかったです。また、特に印象に残ったのは、選挙事務所の女性スタッフを演じたモリー・イフラムと浮気相手ドナを演じたサラ・パクストンで、この二人のシーンがあったことで、映画にぐんと重みと深みが出たように思います。ベイトマンの演出は、たくさんの人で物語を描く中で、人間をきちんと描き分けたところに演出力を感じました。普段は、脇でアクの強い演技をするJ・K・シモンズが群像ドラマのパーツとしてしっかり収まっているところに、監督の見識を感じました。色々細かいところも含めて見所の多い映画なので、機会があれば一見をオススメしちゃいます。

「バハールの涙」はハードな現実を女性目線で描いたところに不思議な味わいの女性映画。


今回は、東京での公開が終了間近な「バハールの涙」を銀座のシネスイッチ銀座2で観てきました。ここはその昔は銀座文化という名画座だった映画館でした。(その前身までは知らないです。)でも、今は椅子もいいし、スクリーン位置も高く、場内がフラットでも観易い映画館です。

フランスの戦争記者マチルド(エマニュエル・ベルコ)は、同じジャーナリストの夫の死を聞いたその直後、ISと戦うクルド人勢力の取材に出かけます。そこには女だけの部隊がいました。彼女たちはISに拉致されて奴隷として売られていたのを脱出した女性たちで構成されていました。その隊長であるバハール(ゴルシフテ・ファラハニ)は、ヤスディ教の信者で、イラク西北部のシンジャル山岳地帯で、夫と息子と暮らしていました。ある夜ISの襲撃を受けます。男たちはその場で殺され、女と子供はまとめて連れ去られ、女たちは性的虐待をされ奴隷として売られてしまったのです。しかし、クルド人自治区の代議士の尽力で、脱出することに成功したバハールは自由になった後、行方不明の息子を救出するために女性だけの部隊に参加したのです。前線での取材を続けるマチルドに、バハールはここの真実の伝えて欲しいと言います。そして、襲撃してきたISのメンバーから、ある情報を得て、作戦に移ることになるのですが......。

フランスの女性監督エヴァ・ウッソンがジャック・アコティの協力を得て脚本を書き、メガホンを取りました。2014年に起きたISによるシンジャル山岳部隊への侵攻をベースに、実際に存在する女性部隊を題材にしたドラマです。ISを扱った映画ですが、その蛮行よりも、拉致された女性たちによる部隊にフォーカスしているので、残酷シーンやショックシーンを前面に出したものではありません。ISの蛮行が描かれはするのですが、作り手の視点は、あくまで女性部隊にあります。男たちの部隊も登場するのですが、その影は薄くって、ISの刺激的な映像を出すことを極力避けて、映像的に美しい絵を切り取ったりしていることから、リアルな戦争映画とは一線を画す映画に仕上がっています。一方で、女性ジャーナリストの視点を盛り込むことで、これが現実にあったことだという見せ方をしています。

ISの蛮行については多くのメディアで語られていまして、イスラム教ってヤバい宗教なんじゃないのというイメージが広がったのも事実です。イスラム教は、女性をないがしろにしろとは言っていないのですが、男性が上位にあると明確に謳っているそうなので、その延長で女性を見下したり、支配することに抵抗がないのかなという気がしています。さらに、異教徒に対する否定的な教えと、女性蔑視が結びつくと、バハールのようなヤスディ教の女性なんて、煮るのも焼くのも好きにできるくらいに思えちゃうのではないかしら。これはムスリムに対する偏見かもしれません。でも、どんな宗教であれ、原理主義者は異教徒に対してムチャするってことは過去の歴史から見て容易に想像がつきます。一方で、この映画では、ムスリムが女性に殺されると天国に行けないらしく、その分、女性部隊を怖れているらしいのですよ。日本でも、男尊女卑は制度的にもずっとありましたから、女性に負けたり、屈することは恥だと思う文化があります。ただ、宗教のような人間の首根っこを押さえる文化ではなかったことが幸いして、女性の台頭に対する抵抗は、他の国よりも少なかったのかなって思っています。あくまで、程度の違いの問題ですが、国家神道が、男性優位を明確に謳っていたら、今の日本はもっと女性にとって息苦しい国になっていたんだろうと思います。戦前の国家神道の考え方は、まだ日本の文化として根深く残っていると考えるからです。(とは言え、国家神道ってのは実は新興宗教なんですが)

戦争状態になった時、男を皆殺しにし、女を奴隷にし、子供は兵士に洗脳するなんてのは、旧約聖書の世界みたいなんですが、それが現実に起こっているという怖さは堪らないものがあります。それを知ってもどうすることもできないという正直な諦観もあるのですが。一方で、当事者であり、実際に虐待された女性たちが、対ISの兵士として立ち上がるというのはすごいことだと思います。この映画でも、女性部隊の存在に肯定的であり、彼女たちの存在は、そこに暮らす女性たちの希望となるという見せ方をしています。日本だったら、母親が銃持って相手を殺しまくるのを肯定的に捉えることはないでしょうから、歴史や文化の違いを感じる一方で、現在進行形で女性が虐待され続けていることを知ることの重要性を感じさせる映画でもありました。弁護士だったバハールが銃を持って戦闘部隊の隊長になっているということからして、そこで何があったのかを想像するのは難しいことではありません。以前、民族浄化を扱った「あなたになら言える秘密のこと」という映画で、ヒロインはずっと傷を抱えたままでいたのですが、この映画のヒロインは自ら銃を取って戦う強い女性として描かれています。どちらがどうという話ではないのですが、どちらも現代の話であり、彼女たちを虐げた人々(男たちと言い切っていいのかも)がいたということの記録になっていると言う点で、存在価値のある映画になっています。その時に重要になるのがジャーナリズムの存在でして、マチルドは「ワンクリックされるだけでスルーされる」と自虐的に言うのですが、その事実を語り継ぐためのジャーナリズム引いてはメディアの重要性を説く映画にもなっています。「あなたになら言える秘密のこと」の中のキーワード、「「レイプ、虐殺、民族浄化、みんな、いつか忘れ去られる」がこの映画にも当てはまります。バハールたちの存在を、命がけで取材するマチルダのようなジャーナリストがいなければ、それはなかったことになってしまう。事実を記録することがどんなに歴史の中で重要なことなのかは、ネットと監視カメラで世界が筒抜けになってきた今だからこそ、見直す必要があるのではないかしら。さすがに戦地でカメラを回すことはできない私たちでも、それらの記録に目を向け、事実が曲げられたり、歪んだプロパガンダに使われないように監視することは必要だと思います。

主演のバハールを演じているのは「彼女が消えた海」のイラン人女優ゴルシフテ・ファラハニで、フランス映画 「チキンとプラム」などを経て、最近ですと 「パターソン」や「パイレーツ・オブ・カリビアン」にまで出ている国際女優ですが、強い意志を持った美人さんです。この映画でも、酷い目に遭ったけど、強い意志でそれに立ち向かう女性を、兵士と母の強さと女性の弱さを共存させたキャラで熱演しています。一方の女性ジャーナリストのマチルダは、取材時に片目を失い、夫も地雷の犠牲になり、フランスに幼い娘を残してきたという、記者と母の強さに合わせて夫を亡くした女性の弱さを抱えている境遇です。この二人の似たような境遇がお互いに共感するという設定になっています。ここはドラマとして、女性を前面に出し過ぎじゃないの?って男目線では思ってしまうのですが、でも、この映画は女性による女性のための女性目線の映画ですから、そうなるのは自然の成り行きでしょう。それが悪いかというとそうは思えませんで、大体、戦争を題材にした映画は、男性による男性のための男性目線の映画がほとんどですから、戦争に巻き込まれる人間の半分が女性だとするなら、こういう映画はもっと出てきてよいと思うからです。この映画のような視点の映画が少ないのは、ホントはバランスが悪いんじゃない?ってところに気づかされる映画でもありました。

ウッソンの演出は、戦闘シーンでも、男性監督とは一味違う演出をしていまして、戦況を俯瞰的に捉えるのでもなく、兵士目線でもなく、そこに居合わせた目撃者のようなカメラワークになっているのがちょっと新鮮でした。また、ISの男性であれ、友軍の男性であれ、どこか存在感が希薄なのが印象的で、男性を背景に押しやることで、虐げられてきた女性の戦士にフォーカスが当たるように見せた演出は、どこか寓話的な印象を与えてしまうところがあって、一長一短という感じでしょうか。



この先は、結末に触れますのでご注意ください。



襲撃してきたISの兵士を捕虜にしたら、彼から敵の本部は撤退していて、学校に自爆兵と子供たちが残されているというのです。そこで、バハールが連合軍の爆撃を待たずに攻撃すべきだと進言し、作戦が決行されることになります。マチルダもその作戦に随行することになります。女性部隊が先陣を切り、捕虜に先導させて地下道を進みますが地雷が爆発し、バハールの片腕だった兵士が死亡。地下道を抜けると敵兵士と市街戦になります。そして、一晩待機して、翌朝学校へ向かいます。犠牲を出しながらも、学校へ突入した彼女たちは、そこにいた子供たちを解放します。さらに、学校の上階へ向かったとき爆発が起こり、バハールもマチルダも吹っ飛びます。そこへバハールの息子が現れ、彼女は意識を取り戻します。作戦は終了し、負傷したマチルダはトラックに乗って国へ還ることになります。バハールは息子と一緒に彼女を見送ります。走るトラックの荷台のマチルダを長回しにで捉えるところにクレジットが被さって、暗転。おしまい。

戦場のシーンの要所要所で、バハールの回想シーンが挿入され、拉致されて、性的虐待を受け、奴隷として何度も売られたという過去がわかってきます。そして、クルド人の拉致女性を支援する女性議員へ連絡をとって、彼女の手引きで同じ境遇の女性と子供を連れて脱出することになります。イスラムの礼拝の時間を使っての逃亡劇はスリリングでありますが、ここも逃亡を助ける男性の影は薄く、一緒に逃げる女性や女性議員との絆の方が協調される演出です。男目線だと、つくづく男性の存在感が薄い映画なんですが、普通の戦争映画を女目線で見ると女性の存在感が希薄で、女性にとっては共感しにくいのかもしれないってことに気づかされる映画でもありました。女性映画ということになるんでしょうけど、なぜこの映画は女性映画なのか、そもそも女性映画って区別はそれ以外は男性映画なのか、って考えると、面白い発見のある映画だと思います。

「天才作家の妻 -40年目の真実ー」は夫婦の秘密についてのスリラーなのかな。グレン・クローズの演技がすごい。


今回は新作の「天才作家の妻 -40年目の真実ー」を、有楽町の角川シネマ有楽町で観てきました。以前、シネスコサイズの映画をビスタサイズの画面のままで上映していて、もうここは来ないと思っていたのですが、この映画はあまり上映館がなくて、仕方なく足を運んだのですが、シネスコサイズの映画は、きちんとシネスコサイズの画面で上映するように戻っていて一安心。渋谷のル・シネマや恵比寿のガーデンシネマはどうなってるのかなあ。

有名な作家ジョゼフ・キャッスルマン(ジョナサン・プライス)はスウェーデンからの電話に起こされます。そして、寝起きの彼にノーベル文学賞受賞の一報が届きます。妻のジョーン(グレン・クローズ)と共に受賞を喜ぶジョゼフ。二人は息子のデビッド(マックス・アイアンズ)を伴って、授賞式のためにストックホルムへと向かいます。行きの機中で記者のナサニエル(クリスチャン・スレーター)が声をかけてきますが、ジョゼフは伝記を書かせるつもりはないと追い返します。息子のデビッドは小説家なんですが、偉大な父親からきちんと認められていないのが不満みたいです。もともと、妻子持ちの教授と生徒の関係だった、ジョゼフとジョーンですが、恋に落ちた二人は結婚し、その後、ジョゼフの小説が売れて、一躍、現代文学の第一人者と呼ばれるようになったんですって。もともと物書き志望だったジョーンですが、当時の女流作家がまともな扱いをされない時代だったということもあって、ジョゼフの妻としてずっと彼を支えてきたのです。でも、ジョゼフは女癖がよくなく(そもそも、妻子がいたのにジョーンにちょっかい出したし)、ジョーンとの結婚後も何度も浮気を繰り返していたのですが、それをジョーンは耐えてきたのでした。それでも、ジョゼフはジョーンを必要欠くべからざる存在として認めていて、彼女も夫を愛していました。一人でホテルを出て行こうとしていたジョーンにナザニエルが声をかけ、バーへ飲みに誘います。伝記を書きたいナザニエルはジョーンに色々と聞き出そうとしますが、核心をはずして、うまくやりすごすジョーンですが、ナザニエルはジョーンにとんでもないことを言い出すのでした。

アメリカの作家メグ・ウォリッツァーの小説を、テレビの脚本で実績のあるジェーン・アンダーソンが脚本化して、スウェーデンの舞台・映画の監督であるビョルン・ルンゲがメガホンを取りました。文学者であるジョゼフとその妻ジョーンが、ノーベル文学賞の授賞式でストックホルムに行き、そこで起こる事件を描いたドラマでして、何年も連れ添ってきた夫婦の会話を中心に展開するドラマは、夫婦の間の秘密を軸にして、ミステリアスに、そしてスリリングに展開していきます。これが、大変面白くて見応えのある映画でした。主演の二人、特にグレン・クローズの演技がすごくて、色々と想像の膨らむラストまで、一気に観客を引っ張っていきます。一応夫婦愛はあるんですが、その先の想いの部分の見せ方はスリラーのようでもあり、クライマックスなんてゾクゾクするものがありましたもの。

映画の冒頭では、二人の関係は長年連れ添った夫婦として、そこそこ良好のように見えます。ノーベル賞受賞にはしゃぎ気味の夫に対して、冷静な妻ではあるんですが、あくまで夫を立てる妻のポジションであり続けます。それはストックホルムについてからも同じで、特には折り合いのあまりよくない夫と息子の間に入ったりといった良妻賢母ぶりを見せます。夫のジョゼフは、文学者としては立派なんでしょうけど、妻のジョーンが一緒でないとどこか心細く感じるところがあるようで、そんな夫にジョーンはうまく合わせているようです。若い頃は調子こいていたダンナが、年を取ったら、何だか頼りなくなって奥さんに依存しちゃうなんてのは、日本だとありがちな気がしてたのですが、アメリカの夫婦もそういう感じになるのかなってところが面白いと思いました。そこには夫婦の力関係みたいなものがあって、すごく社会的に立派な夫ではあるんですが、夫婦間でのステータスは実はそんなに高くないみたいなんですよ。そのあたりを、説明的にならずに、普通の日常会話のレベルから垣間見せるルンゲの演出は見事でして、その演出に応えたプライスとクローズの演技も素晴らしかったです。

妻のジョーンからしてみれば、過去の経緯から色々とたまっていたものがあったようで、そのイライラがノーベル賞の受賞で爆発しそうになるというお話なんですが、それまで夫婦関係はそこそこうまく続いてきたみたいなんですよ。何度も浮気を繰り返すダンナにそれを許してきた妻みたいな関係があったんですが、そこにずっと溜まっていたものが両方にあったらしいってことが後半わかってきます。奥さんが主人公の映画なので、お気楽なダンナだよなあってイメージが強いのですが、ダンナにはダンナなりの鬱屈があったということも見えてきます。だからって、浮気の言い訳にはならないから、やっぱりダンナに分が悪いのかな。ともあれ、長年ずっと当たり前のように続けてきた関係が、ノーベル賞受賞というビッグなイベントをきっかけに堰が切れてしまうのです。ノーベル賞受賞式までの数日間というドラマの中で、二人の積み上げてきた人生を垣間見せるという構成が成功していまして、要所要所に挿入される回想シーンも含めて、舞台劇を見るような濃密なドラマに仕上がっていて、見応えがありました。映画館でじっくり腰を据えて観て楽しむ映画だと思いますので、できるだけ劇場で鑑賞することをオススメしちゃいます。

ルンゲの演出は、主演二人の演技を捉える時、妻のジョーンを画面の中央に置いたり、ライトを強めにあてたりと、舞台劇のような演出をしているのが面白く、また文学者としての苦悩とか葛藤といったものを一切見せずに、回想シーンも含めて夫婦間の関係だけで映画を見せ切ることに成功しています。また、「アイズ・ワイド・シャット」の秘密クラブの音楽を手掛けて、一部の人に知られているジョスリン・プークがイギリス室内楽団を使って、マイケル・ナイマンを思わせる現代音楽で、画面を支えているのも印象的でした。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



もともとは生徒と教師の関係だったジョーンとジョゼフだったのですが、実際に文才があったのはジョーンの方だったのです。ジョゼフは着想はいいのだけれどそれを文章に組み立てるのが苦手。才能もあるし、物書きとして身を立てたいと思っていたジョーンですが、1950年代は女性が作家として名をあげることが難しい時代でした。そして、ジョゼフの書いた小説に、ジョーンが感想のありのままをぶつけたら、ダンナ意気消沈。そんなジョゼフを励ます意味も込めて、彼の小説を自分がリライトすることを提案、するとその小説が売れ、その後もずっとジョーンがダンナのゴーストライターになっていたのでした。着想はいいけど、その先をものにできないダンナに替わって、ジョーンはずっとタイプの前で執筆活動をしていたのです。ジョーンとジョゼフの過去の小説を読み、記者のナサニエルは、ジョゼフの作品がその妻の手によるものだということを見抜いていました。ダンナの浮気への怒りこそが彼女の執筆のエネルギーであったのですが、ジョゼフの方も、自分のものでない作品で、文学者としてあがめたてまつられることに負い目を感じてはいました。でも、ジョゼフはいつしかその関係に慣れてしまい、ノーベル文学賞の受賞を素直に自分のことのように喜んでしまっていました。それもあって、スピーチで妻へ謝辞はやめてくれと、ジョーンはジョゼフに頼むのですが、晩餐会のスピーチでジョゼフは、ジョーンの内助の功を褒めたたえるスピーチをしたものだから、ジョーンは切れて、会場を去り、それを追ったジョゼフとホテルで大喧嘩となります。その喧嘩の最中にジョゼフは持病の心臓が悪化し、そのまま帰らぬ人となってしまいます。スウェーデンからの帰りの飛行機で、ジョーンはナサニエルに「あなたの思っているようなことはなかった。勝手なことを書くと只では済まさない。」ときっぱりと告げます。そして、息子に「家に帰ったら全てを説明するから」と言います。一体、彼女はどんな物語を息子に話すのでしょうか。飛行機の座席、一人ほくそ笑むジョーンから暗転、エンドクレジット。

後半の怒涛の展開が大変面白かったです。ジョーンが、スピーチで自分への謝辞は言わないでと何度も頼んだのに、ダンナは妻がいたから作品を書くことができたとしゃあしゃあと言ってのけます。このスピーチの最中のジョーンの憎悪に満ちた顔が最高でして、グレン・クローズの名演技が光りました。ダンナだって、妻がゴーストライターであること、自分が妻ほどの文才がないことを引け目に感じていたことは事実なのですが、その一方で妻がどういう思いでこれまでいたのかについては、まったく無頓着だったようなのです。そこへもたらされたノーベル文学賞のニュースに、我がことのように浮かれるダンナに、ジョーンの堪忍袋の緒が切れたというふうに見えました。こういう関係で夫婦やってたら、どっちかに無理がきて、いつかは破綻しちゃんだろうなあ。この夫婦の場合、最初は妻にゴーストライターをさせることに負い目や葛藤もあったのでしょうが、長年やってるうちにそれが当たり前になってしまって、とりあえず世間的には自分が文学者なんだと、ダンナ自身が信じ込んでしまったみたいなんです。それはなぜかと言えば、そう信じた方が、周囲にちやほやされても、無駄に劣等感に悩むこともないし楽だから。さらに、世間のくれる文学者というステータスがあった方が、女性にももてるから。そんな楽な方向へ流されて行ったとき、妻がどういう気持ちでいるのかは考えたくないというエゴイズムは、不愉快だけど理解できるものがあります。妻のおかげで、いい暮らしができて、女にもてて、ノーベル賞もらえる。それを素直に受け入れてどこが悪いのか?という感じは、凡人の私には何かわかるんですよね。でも、妻の方は、浮気性のダンナへの怒りを文学に昇華してきたわけで、それを当たり前のように扱われ、さらには物書きを支えるよき妻としての謝辞を言われたら、そりゃブチ切れるわな。そのあたりの長年に渡る夫婦の機微を、数日間のドラマで見せちゃうあたりは脚本のうまさでしょう。ダンナに対して愛情もあるし、だからこそゴーストライターもやり、よき妻を長年に渡って演じてきたのですが、さすがに今回は忍耐の限度を超えてしまったようです。

そんなダンナが、ポックリと逝ってしまったことは、ジョーンにとっては大変なショックではあるのですが、それは長年の、自分とジョゼフが共犯関係で作り上げた呪縛からの解放でした。単に一方的被害者であったなら、もっと早くにこの関係を終わらせることもできたんでしょうけど、自分から提案してゴーストライターになってしまったので、自分からそれを暴露することもできない、でも、そのことに夫は無頓着で女性と見ればちょっかいをだしている、そんなフラストレーションをため込んでいた状況から、彼女は突然自由になりました。ラストで、彼女は自分の人生を自分の言葉で生きていく決心を決めたように見えます。自分のついた嘘によって、身動きが取れなくなっていた彼女が、新しい一歩を踏み出すことは喜ばしいことではありましょう。もともとが正直者なのでしょうね、ジョーンは。だからこそ、自分のついた一世一代の嘘に人生を食いつぶされそうになっちゃったのではないかしら。これが、根っからの嘘つきだったら、自分のついた嘘をあっさり裏切って、ジョゼフのもとから去っていくこともできたでしょうに。そう考えると「ロースの秘密の頁」と同様の、すごく気の毒な人生を送った女性が、晩年に入ってやっと救いが見えてくるというお話なのかも。

「マイル22」はCIA特殊部隊のド派手アクションに目の付け所の面白さも。


今回は新作の「マイル22」を川崎の川崎チネチッタ1で観てきました。ここは、最前列は画面が見えないのですが、普段売ってるのかなあ、うっかり買っちゃったら、チネチッタに二度と来なくなっちゃうよなあ。車椅子席も反則すぎるし。

CIAの特殊部隊が、アメリカの住宅街の中にあるロシアのスパイの隠れ家(セイフハウス)を押さえようとします。作戦は順調に進んだのですが、相手の思わぬ反撃に、スパイの確保から殺害に指示が変更され、特殊部隊側にも負傷者を出しながら、そこにいたロシアのスパイ全員を射殺します。その後、チームはアジアのインドカーという国のアメリカ大使館で、盗まれたセシウムの捜査をしていました。チームリーダーのジェームズ(マーク・ウォールバーグ)は、セシウムのガセ情報をつかまされた同僚のアリス(ローレン・コーハン)をボロクソに言ったり、かなり精神的に危ない人みたい。とは言え、6万人を殺す兵器に化けるセシウムを早急に発見する必要がありました。すると、大使館にリー(イコ・ウワイス)というインドカーの警官が保護を申し出てきます。リーはアリスにガセ情報をつかませた男でしたが、今度は本当にセシウムのありかを記録したディスクを持ち込み、亡命させてくれたら、そのパスワードを教えるというのです。インドカー当局は身柄の引き渡しを要求してきます。ジェームズはオーバーウォッチ作戦を発動させ、リーを飛行場まで運んでアメリカへ送ろうとします。アメリカ国内の某所にマザー(ジョン・マルコヴィッチ)以下、作戦の指揮、誘導をするチームが集められ、リーの移動作戦を開始することになります。一方、その状況をロシアの哨戒機が監視していたのでした。

「キングダム」「ローン・サバイバー」などでヒネリの効いたアクション映画を作ってきたピーター・バーグ監督の新作です。「ローン・サバイバー」「パシフィック・オーシャン」など、バーグとは4本目のタッグとなるマーク・ウォールバーグが主演しており、リー・カーペンターとグラハム・ローランドによる原案をカーペンターが脚本化しています。CIAのこの特殊部隊は、国内外で時として超法規的な行動をとることもあり、その時は、国家機関の肩書を放棄して臨む(相手側からすればテロリストにも見えちゃう)という、どうも汚れ仕事の専門家みたいなんです。彼らの使うオーバーウォッチ作戦と言うフォーメーションは、ジェームズたち現地部隊を、3000キロ以上離れた場所で、遠隔的に指揮を執る部隊がいて、そこにいるマザー(ジョン・マルコビッチ)以下の面々がコンピュータを駆使して情報収集、情報提供、時には遠隔支援も行うのです。今回は盗まれたセシウムの捜査のために、ジェームズ達は東南アジアのインドカーという国のアメリカ大使館に身を置いていました。

ジェームズというのは、精神的に切れやすいものを持っているのか、いつも手にゴムバンドをはめて、それで気分を落ち着かせているようなところがあり、同僚に対する口の効き方も結構ひどい。でも、いざとなると的確な判断と射撃の腕で、危機を乗り越えてきたらしいのです。そんなジェームズ達の前に現れたのが、セシウムのありかが入ったディスクを持ったリーという警官です。何を考えているのかわからないけど、相当肝の据わった男らしいリーは、ディスクのパスワードを渡すから、アメリカへ亡命させろと言ってきます。インドカーの当局の人間は彼を引き渡せと言ってくるし、リーは大使館の医務室で、そこにいた男二人に襲われます。リーは驚くべき身体能力で逆襲に出て、二人を血祭にあげるのですが、どうもリーの持っている情報は重要らしいということになり、ジェームズのチームで、リーをアメリカに亡命させるため、大使館から飛行場まで移送することになります。ジェームズの依頼でスーパーウォッチ作戦のフォーメーションが敷かれ、チームは2台の車で大使館を出発します。しかし、彼らの行動や通信内容は筒抜けになっていて、早速、バイク集団の襲撃を受け、2台の車のうち1台は爆破され、メンバーの半分が死亡、それでも残った3人でリーを空港へ届けようとするのですが、次々と武装した追手がやってきます。

仮想国インドカーの首都は、コロンビアでロケされたそうで、街中で派手なカーチェイスや爆破シーンが登場します。その一方で、インドネシア映画「レイド」で世界的に名を知られるようになったリー役のイコ・ウワイスが重量級のアクションを見せています。特に、病院内での2対1のアクションは手錠をはめられているハンディマッチなのに、相手を最後には叩き殺すまでを迫力の殺陣で見せてくれます。冒頭の状況説明の後は、アクションシーンの連続でつないでいくという構成で、映画は最後まで一気に突っ走ります。ジェームズのキャラを丁寧に説明しておく一方で、リーのキャラがなかなか読めないというところは、ドラマの盛り上げに大きく貢献しておりまして、ムチャクチャ強いけどミステリアスな男が最後までサスペンスをつなぎます。脇役のロンダ・ラウジーやローレン・コーハンといった面々がきちんとキャラが描けているのは、95分の見せ場連続の映画にしてはうまいと思うし、アクション映画の定番をちょっと外した見せ方のうまさもあり、ピーター・バーグの職人演出はさすがですが、その一方で、ヒネリの効いた視点の部分もあり、組織と個人の関係をそういうふうに見せるかという面白さがありました。特殊メイクにハワード・バーガー率いるKNBイフェクツが参加しているので、若干バイオレンスはハードかな。(あくまで若干ですが)



この先は結末に触れますのでご注意ください。(未見の方は読まないでください)



次々にメンバーを失い、車を乗り換えて逃走しようとするもさらに車をぶつけられて、近くのアパートに逃げ込むジェームズ、アリス、リーの3人、何とか逃げ道を探すマザーたちですが、追手はさらに数を増し、はぐれたアリスは巨漢に追い詰められます。こんなことになったのもお前のせいだと詰るジェームズに、「アリスを助けよう」と申し出るリー。ジェームズは彼の手錠を外し、二人で協力して追手を倒し、アリスを助け出すことにも成功します。でも、予定の時間は過ぎ、離陸しようとする輸送機の前に、彼らの車が飛び出し、間一髪で、輸送機にリーを乗せることに成功し、アリスも一緒に帰国することになります。その直後、マザーはリーの正体がロシアのスパイに気づくのですが、全ては遅く、マザーのいたコントロールチームは敵による銃撃で全滅、輸送機もリーの乗っ取られ、アリス共々行方不明になります。そもそも、セシウム盗難事件から、ロシアが一枚噛んでいたのです。それは映画の冒頭で殺されたロシアの工作員の一人が18歳の少年で、その母親が政府高官だったのです。高官は、息子の敵討ちのために、彼を殺した関係者に復讐を試み、それはほぼ成功します。しかし、実際に息子に引き金を引いたジェームズだけが生き残るという皮肉な結果となり、ジェームズはリーに対して新たな闘志を燃やすのでした。おしまい。

極限まで追い詰められたジェームズたちにリーが加担して、追手をやっつけるシーンはなかなかのカタルシスがあるのですが、最後の最後でリーがロシアのスパイと判明して、関係者はジェームズを残してみんな殺されてしまいます。リーがドラマの中盤で、ジェームズに「なぜ、こんなことをする気になったのか。」と問うと「家族の敵だ。」と答えるシーンもありますし、冒頭のセーフハウスの死亡者の中に18歳の少年が混じっていたという、伏線もあったのですが、最後までそういうことを考えさせないテンション高いアクションシーンの連続で、最後までまんまと騙されてしまいました。非情な組織によって個人が犠牲になるというのは、よくあるパターンなのですが、今回は私怨を発端にした作戦で関係ない人間(特にインドカー警察の追手のみなさん)が犠牲になっていくという図式が面白く、そういう切り口で見せてくるかあってところが新鮮でした。組織の歯車として、淡々とミッションをこなしていた筈のジェームズが、次はリーを仕留めてやると意気込むラストも、妙に生臭い後味を残します。ともあれ、迫力あるバイオレンスアクションとして見応えがある映画ですが、その上に意外でシニカルなオチを持ってくるあたりは、一筋縄ではいかない映画に仕上がってます。派手な見せ場の作り方のうまいピーター・バーグ監督ですが、それだけじゃないぞとさらにもう一つ乗っけてくるあたり、彼の次に映画にも期待しちゃいます。

「バジュランギおじさんと、小さな迷子」はベタな泣かせ演出のコメディながら、そのメッセージはなかなか重厚。


今回は新作の(とは言っても2015年の映画なんですが)「バジュランギおじさんと、小さな迷子」を、川崎の川崎チネチッタ10で観てきました。ここへスクリーン位置が高めで、前の方に座ると画面を見上げることになるのが要注意の映画館。

パキスタンに住む口の聞けない6歳の少女シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)が願掛けにインドのデリーに母親とやってくるのですが、その帰路で母親とはぐれてしまいます。彼女がたどり着いた町では、ヒンドゥー教のハマヌーン神のお祭りの真っ最中。そこに居合わせたハマヌーン神の熱烈な信者パワン(サルマン・カーン)の後を追いかけて彼の家にまで行ってしまいます。パワンは婚約者ラスィカー(カリーナ・カプール)のお父さんに結婚を認めてもらうために頑張っている大事な時。警察へ連れて行くも引き取ってもらえず、ラスィカーのお父さんの家に一緒に置いてもらうことになるのですが、名前もわからない彼女はチキンを食べるし、テレビに映ったパキスタンの国旗にキスするしということで、インドと敵対するパキスタン人であり、ムスリムでもあることがわかって、家を出されることになっちゃいます。でも、パキスタン大使館もビザも持ってない女の子を相手にしてくれません。旅行社でもパキスタンへ行くのは無理と言われるのですが、大金をはずめば裏ルートを紹介すると言われ、パワンとラスィカーは結婚資金をその女の子のために使うことにするのですが.....。

「タイガー 伝説のスパイ」などで有名なインドのカビール・カーンが共同脚本と監督を担当し、「ミモラ 心のままに」などで知られるアクションスター、サルマン・カーンが主演したコメディ仕立ての感動ドラマです。2時間39分と長い映画ではあるのですが、そこはインド映画、歌や踊りを随所に入れて、一気に最後まで見せてしまいます。最初は、迷子の女の子を助ける話だけで、2時間半以上あるの?とちょっと不安もあったのですが、これが王道の展開で、最後まで見せ切ってしまうのにはびっくりというか、なるほどパワーあるなあって感じ。で、インドで大ヒットしたというのもうなづける面白くて泣ける映画でした。「泣ける」というか「泣かせる」映画なのかな、泣きの箇所は、スローモーションや歌を駆使して、思いっきりベタに泣かせにかかるので、あざといと言えばあざといのですが、それ以上に太いテーマをぶち込んでくるので、多少の泣かせは許せちゃうところがあります。そのテーマというのが、宗教や国境を越える善意の絆という、まあ、ちょっと普段口に出すのはこっぱずかしいこれまたベタなもの。でも、実際に現在進行形で国家間では対立しているインド人とパキスタン人が、底抜け信仰バカのおかげで、相互理解の輪がつながっていくと言う展開は、なかなかに感動的なのですよ。

主人公のパワンは熱狂的なハヌマーン神(猿の恰好した神様)信者です。ハヌマーン神を徹底的に信じ、嘘や悪いことが大嫌い。でも、世間一般の人からすると、その度の過ぎた信仰と善人ぶりは、時にはバカにも見えちゃうところがあるんですが、それでも、迷子になった女の子を見捨てることができず、自分が半人前で、婚約者の父親の家に居候している状態なのに、その家に女の子を連れてきてしまいます。でも、彼女はチキンを喜んで食べることで、どうやら異教徒であることがわかってきて、さらにテレビで、インドとパキスタンの試合を観ていて、パキスタン勝利に喜んで踊っちゃうので、敵対するパキスタン人であることもわかっちゃいます。国の宗教も違うということで、これ以上面倒みきれないとパキスタンへ送り返そうということになるのですが、それもうまくいかなくて、パワンは一大決心をして、ビザもないのに自分で彼女をパキスタンにいる親の元に届けようということになります。

この映画、後半はいかにも21世紀的な展開となりまして、パワンと女の子に偶然知り合ったジャーナリストが彼らの映像をネットにアップすることで、インド、パキスタン両国民がパワンの存在を知ることになるのですよ。20世紀だったら、親元に届けられても、途中で野垂れ死んでも、関係者しかその事情を知ることはなかってでしょうが、ネット社会は、何億という人々に彼らの存在を知らしめるのです。クライマックスは、ベルリンの壁崩壊を思わせるような展開になるのですが、なるほど現代ならではの寓話なんだなあって感心しちゃいました。また、パワンが、ムスリムに助けられるシーンとか、恐る恐るモスクに足を踏み入れるシーンがするのですが、結局、親元の女の子を届けたいという気持ちは宗教を越えて受け入れられるという見せ方は心地良いものがありました。現実世界ではわからないけど、パワンの底抜けの善意に、インド人もパキスタン人も心を動かされるというのが、いい話なんですよ、これが。この映画で悪役として登場するのは、パキスタン側の為政者だけで、パキスタンの警察官も軍人も、個人の判断でパワンを助けようとするのがなかなか泣かせる展開になっています。そんな底抜けの善人パワンが、国家という組織をある意味出し抜いてしまうというカタルシスもあり、後味はかなりよかったです。ただ、演出はベタに泣かせにかかりますから、そこは若干うざいかも。

口を聞けない少女を演じたハルシャーリー・マルホートラがムチャクチャかわいいのもこの映画の点数を上げています。子供っぽさを失わないけど、どこか大人びたところもあるというバランス感覚が見事で、自分の意思が相手に伝わったときのうれしそうな顔が絶品でした。一方の、サルマン・カーンはもともとアクションスターだそうで確かにいかつい体をしているのですが、今回はちょっとトロい(学校を10年留年してるという設定)キャラだけど、信心深い善意のキャラを熱演しています。パキスタン側に拘束されてボコボコにされるシーンもあるので、ヤワ系の俳優だったらドラマが成り立たなかったかもしれないので、ヒーロー要素のあるカーンをキャスティングしたのは成功だったようです。タフで善人のバカは無敵だよなあって納得しちゃいましたもの、って言ったら怒られるかしら。

現代性のあるファンタジー要素もあるお話ですが、要所要所に歌と踊りが入るのは、インド映画の特徴なのでしょうね。この映画でもそういう見せ場がお約束のように挿入されるのですが、それでもムスリムの廊で延々流れる歌などは、ドラマの流れとシンクロして盛り上げ効果を出すといった使われ方もしていて、ドラマ展開のサポート役としても活躍しています。後、ベタな笑いとこれでもかの泣かせ盛り上げ演出がくどいけどとっつきやすくもあり、コテコテの人情コメディに乗せて伝わってくる結構重めのメッセージもあって、全体的には軽重、硬軟、何でもありの振り幅の大きい映画として楽しめるのでオススメしちゃいます。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



旅行者の男は、女の子をパキスタンには送らず、売春宿に売り飛ばそうとしていました。最後の別れをと、彼らを追いかけた行先がそういうホテルだったのを知ったバワンは大激怒、大暴れして、彼女を取り返して、自分でこの子を親元まで届けると二人で国境へと向かいます。国境越えのトンネルでパキスタンに入るのですが、パキスタン軍の国境守備隊長に、許可をくれと、わざと見つかるような行動を繰り返すバワン。そのしつこさに、呆れて入国を許してしまう隊長。でも、パキスタンの町で警官に見つかりインドのスパイと思われて拘束されちゃうのですが、女の子に危害が加えられそうになって、またしてもブチ切れて大暴れ。それを見ていたテレビカメラマンが二人に同行し、彼らの映像を放送局に売ろうとするが相手にされません。パキスタン人でも、パワンの目的を知ると助けてくれる人もいます。一方で、警察はインドのスパイとしてパワンを追います。テレビカメラマンは、撮った映像をネットに上げて、パワンの無実を訴えます。彼のカメラに偶然、女の子の母親が映り込んだことで、女の子の故郷が特定でき、そこへ向かうのですが、途中で警察の検問に会い、パワンは自分が囮になって、カメラマンと女の子を逃がし、女の子は母親と再会します。でも、パワンはパキスタン当局に拘束され、拷問で自白を強要されそうになるのですが、彼を逮捕した捜査官が裏付け調査でバワンの無実を知り、彼をインドへ送り返そうと、テレビカメラマンに頼んで、インド、パキスタンの両国の市民に、国境検問所に集まるように呼びかけます。国境の検問所には、両国から多くの人が集まり、守備隊の軍人も、バワンのために道をあけるのでした。インド側へ向かうバワンに、女の子がかけより「おじさーん」と声をかけ、振り返ったバワンが引き返して、女の子を抱き上げたところでストップモーション、暗転、エンドクレジット。

ラストの国境検問所のシーンはベタでこれでもかという演出がくどいと言えばくどいのですが、まあ、それまでに点数を稼いでいて逃げ切り勝ちといったところでしょうか。バワンが、インド人からもパキスタン人からもヒーローとしてコールされるというのは出来過ぎな気もするのですが、まあそのあたりは、私にとっては、映画の魔法としての許容範囲でした。登場した時は、足を引っ張るのかと思っていたテレビカメラマンが最後まで、バワンのために画策するというのには、意外性がありました。ともあれ、国籍、宗教よりも、人、その人柄だよね、という見せ方はうまいと思いました。人してよいことをすれば、どんな宗教の人でも受け入れられ、支持されるというのは、すごく重要なポイントだと思いますもの。違う神様を信じる人を、キリストもアッラーも許していないのに、それを人として受け入れようってのは、下手をすれば神の教えに背くことになりかねないけど、でも、人情として、いいことをする人を助けたいと思いますもの。国家間で対立があっても、人としては認めあうことで、お互いが人間として良くなることができるという見せ方もうまいと思いました。国境や宗教は、自分側と相手側を分別して、敵対させるものとして機能することがあるけれど、それに盲目的に従うのではなく、自分の目で、人間としての相手を見て、自分の良心で、判断することの方が大事だと言ってるのは、耳を傾けるに値するメッセージだと思います。それをコテコテの笑いと泣かせのドラマで示そうってところに、ちょっとミスマッチなおかしさも感じてしまいました。

「家へ帰ろう」はホロコーストを描いた映画の新しい切り口で発見がありました。


今回は川崎の川崎チネチッタ9で「家へ帰ろう」を観てきました。久しぶりに来たら、パンフレット売り場がサンドウィッチ屋になっていて、パンフレット買いたきゃ、外のショップに行けってことになっちゃってました。何だかむっとしたので、ショップのお姉さんに不愛想になっちゃいました。お姉さんは悪くないんだけどね、

ブエノスアイレスに住む仕立屋のアブラハム(ミゲル・アンヘラ・ソラ)は、かつてのホロコーストの生き残りです。老人ホームへ行くことになった前の晩、荷物をまとめ、一着のスーツを持ってヨーロッパへ旅立ちます。行先は、かつて少年の自分が住んでいたポーランドのウッチという都市。でも、アブラハムにとってポーランドはその国名を口にすることすらはばかられる遺恨の土地です。直接、ポーランドへ行く航空便のチケットが手に入れられなかったアブラハムは、とりあえずスペインへ向かい、そこから陸路でポーランドまで行こうとするのですが、マドリッドで泊まったホテルで持ち金全部を盗まれてしまいます。途方に暮れる彼ですが、スペインに住んでいる娘を頼り、そこで1000ユーロを借りて、列車でパリへ向かいます。でも、その先のドイツはどうしても通りたくない。パリの駅で知り合ったドイツ人の文化人類学者が彼のことを気にかけてくれます。彼女の真摯な態度にドイツに対する頑なな気持ちがちょっとだけ揺らぐアブラハム。彼が会いに行こうとしているのは、終戦時、収容所から逃げてきたアブラハムを、家に入れて介抱し、アルゼンチン行きの金を渡してくれた幼馴染ピオトレックでした。もう70年も音信不通だった友人に、アブラハムは再会することができるのでしょうか。

アルゼンチンのパブル・ソラルスが、彼の聞いた実話をもとに脚本を書き、メガホンを取りました。ブエノスアイレスに住むユダヤ人の老人が、老人ホームに入れられることになるのですが、その前日に、彼は自分がかつて住んでいたポーランドへ旅立つのです。ポーランドは、ナチスドイツに侵攻された被害者側の国である一方で、ドイツのホロコーストに加担したという加害者の顔も持っています。ポーランドに住んでいたアブラハムの家族は収容所送りになり、彼らの家は、使用人だった男のものにされてしまいます。命からがら自分の家に逃げ帰った18歳のアブラハムですが、使用人だった男に追い出されてしまうのですが、その息子のピオトレックは自分の部屋に彼をかくまい、アルゼンチンに住んでいたアブラハムの叔母の手紙といくばくの金を渡して、彼を送り出してくれたのです。ドイツもポーランドも口に出すのもはばかるアブラハムですが、幼馴染のピオトレックに、自分の仕立てたスーツを持って会いに行こうと思い立ったのでした。

第二次世界大戦を扱った映画が、記録映画、劇映画含めて、最近よく見るようになりました。当時を知る人が年齢的に限界がきているってことがあるのでしょうけど、この映画も現在を舞台にして、ホロコーストの傷跡を描いているという点では、「手紙は知っている」と通じるものがあります。主人公がホロコーストの生き残りの老人という点でも同じですしね。この爺さん、結構いけすかないところもあるし、老いから来る頑固さみたいなのもあるし、あんまり同情を誘うタイプではありません。病魔に侵された右足は切断するように医者から言われているし、そんな足を引きずって、アルゼンチンからポーランドまで一人で旅をしようというのですから、なかなか大変。でも、この映画では、自分の娘はともかく、たまたま出会った3人の女性が、彼を助けてくれるのですよ。旅の中で、そういう人に一人でも出会えたら、現実世界ではものすごく幸運なことだと思うので、立て続けに3人もの親切な人に出会って、旅を助けてもらえるというところが、映画の魔法という感じなんです。そうなるとファンタジーっぽいお話なのかと言うと、これが70年もトラウマを引きずってきた主人公のヘビーなドラマということになります。

映画のストーリーだけ言うと、老アブラハムが過去のトラウマのある土地ポーランドに旅をするというだけというシンプルなもの。その間にお金を盗まれたりといったトラブルや、過去のフラッシュバックに悩まされたりするという展開です。ストーリー的には、展開はあまりなくって、淡々としているのですが、脚本、監督のソラルスは、70年前のホロコーストの傷に悩まされる人がいるということ、そういう人たちのトラウマの深さを見せるのがメインという感じなんです。ですから、自分の命の恩人である友人に会うという部分は割と淡泊に描かれています。でも、ポーランドという言葉を口に出すことも拒否、ドイツを通過するのも絶対やだという頑ななじいさんの心の傷は、日本の戦争を生き延びた人の証言ドキュメンタリー映画には見られなかったもので、私には発見がありました。一方で、今の若い人々は、戦争やホロコーストを恥ずべき歴史としてある程度客観的に捉えているので、アブラハムの頑なさにはついていけないものがあり、旅先で孤立してしまうのですが、そこに前述の3人の女性が彼の痛みを受け入れて、助けてくれるのです。まあ、そういう人がいなかったらアブラハムはポーランドまでたどり着けなかったでしょうから、そのあたりが映画にファンタジーの味わいを加えていると言えましょう。

ミゲル・アンヘラ・ソラは、頑固で金にこだわるユダヤ人のアブラハムを飄々と演じています。個人的にはあまりお近づきになりたくないじいさんなのですが、そのじいさんの過去がわかってくると、恩人に会えるといいなあって思わせる演技が見事でした。後半はすっかり感情移入しちゃいましたもの。後、フェデリコ・フシドのオーケストラによる音楽がすごくいいのですよ。淡泊な展開のドラマをぐっと盛り上げるのですよ。ラストなんかは、半分は音楽のパワーで心揺すぶられて泣かされちゃいました。でも、サントラCDは出てないみたいなのが残念。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ドイツ人の文化人類学者の女性は、着るものを駅のホームに並べて、アブラハムがドイツの土地を直に踏まないように気遣ってくれます。そんな彼女のやさしさに、自分の足でドイツの土に足を踏み入れるアブラハム。そして、ポーランド行きの列車に乗るのですが、そこで過去の記憶がフラッシュバックして倒れてしまいます。気がつけばポーランドの病院のベッドの上にいたアブラハムに、看護婦の女性は、医師の進言で足を切らないようにしたことを伝えます。そんな彼女にこれまでの経緯を話して、恩人の町まで連れて行って欲しいと言うと、彼女は彼を車でその街まで連れて行き、恩人の住んでいた家を一緒に探してくれます。何とか路地の奥のその住所にたどり着くのですが、ドアホンを押しても答える人はおらず、近所の人も良く知らないみたい。アブラハムはかつて住んでいた家の地下室の入り口を見つけてそこへ行くと、上の窓の向こうにミシンを操る老人がいました。二人は目が会い、お互いが誰かを認識します。外に出てきた老人は幼馴染で恩人のピオトレックでした。抱き合って再会を喜ぶ二人。ピオトレックはアブラハムに「家へ帰ろう」と言い、家の中へ入っていく二人。路地奥からカメラが段々と引いていって、暗転、エンドクレジット。

ラストはどう処理するのかと思ったら、幼馴染が健在で、感動の再会というのは、かなりベタなんですが、そこに至るまでに、アブラハムに感情移入しちゃってるので、ああ会えてよかったと素直に泣かされてしまいました。(前述のように音楽の力も大きいのですが。)ホロコーストという過去があって、その過去が70年もその人の人生に影を落としているというヘビーなテーマを持った映画だけに、後味くらいはよくしないと、観客の心を惹きつけらないってところもあるんでしょう。やはり、これでアブラハムを放り出しちゃったら映画そのものの評価が変わっちゃいますもの。そういう意味では、エンタメ度を増したことで、現代につながるつらい過去を知ることができるけど、とっつきのいい映画に仕上がっています。ホロコーストについての映画は色々ありますが、こういう切り口もあるんだということで発見もあって、オススメしたい映画です。

2018年のベストテンです。

2018年は、後半ほとんど映画館へ行けていないのですが、それでも観た映画を並べてみたら結構いい映画が多くて、強引ですがベストテンを作ってしまいました。昨年は観た本数が少ない割にいい映画が多かったみたいです。

第1位「ぼくの名前はズッキーニ」
コマ撮りの人形アニメで、冒頭はちょっとブラックな味わいへ進むのかと思わせるのですが、親を失って施設に預けられた主人公の物語が、すごく泣かせるのですよ。ただ、泣かせるというのではなく、そこに「子供をいじめたり、捨てちゃダメ」という明確なメッセージがあって、作り手の怒りと希望が伝わってくるところがすごくよかったです。生身の人間が演じたら、痛々しくて生臭くなってしまうであろうお話が、人形アニメになったことで、その言いたいところが素直に心に届く当たりのうまさも含めて、2018年のベストワンです。ラストシーンはマジで大泣きさせられちゃいましたが、泣かせるための映画ではないところが、憎いと言うか、まんまとはまってしまったと言うか。

第2位「告白小説、その結末」
お疲れ気味の人気女性作家が、ファンだという女性と知り合い、仲良くなるのですが、段々、そのファンの女が作家の生活を侵食し始めるというお話で、ロマン・ポランスキー監督が語りのうまさで最後まで引っ張るミステリーの一編。ラストをきちんと説明しないで、観客に投げてるんですけど、それでも面白くて、観た後の満足感が高かったです。ああ、こういう展開、こういう結末でも面白い映画は作れるんだなあって感心しちゃいました。最近の映画では珍しい、知的エンタメ度の高い映画ということでここに上げてしまいました。

第3位「タリーと私の秘密の時間」
共働きで育児にお疲れのヒロインにさらに子供がうまれてグロッキー状態。そんな彼女がナイトシッターを頼んだら、これがちょっと不思議ちゃんだけど有能で、荒れていた家庭の中も明るく変わっていくというお話なんですが、これが結構シリアスな展開になるのがびっくり。日本の家庭にもあてはまる題材だけに、若いカップルにオススメしたい映画。これすごいいいところ突いてる映画だと思ったんだけど、あまり話題にならなかったんだよなあ。


第4位「男と女、モントーク岬で」
自分の過去の恋愛をモチーフに小説を書いている人気作家が、かつての恋人と再会し、ちょっとしたアバンチュールを期待するという男の身勝手視点と、過去に決着をつけたい恋人の視点が交錯するのが面白い大人の寓話のようなお話でした。二人の相容れない感じを巨匠フォルカー・シュレンドルフが丹念に描いていて見応えがありましたので、これを4位にあげちゃいます。

第5位「スリー・ビルボード」
惨殺された娘の母親が、街の入り口に警察批判の看板を掲げたことから起きるドラマは、物語として大変見応えのあるものでした。絶望と希望が交錯するドラマの中に、ぎりぎりの善意を織り交ぜていく脚本と演出が見事でした。血生臭い展開もあるし、愉快になれる映画ではないけれど、映画を観たという満足感が一番高かった映画です。

第6位「Search/サーチ」
パソコンのディスプレイ上の映像だけでドラマが展開するという、かなり奇をてらった作りの映画ながら、行方不明の娘を探すドラマがスリリング。二転三転する展開が見事で、サスペンスミステリーとして大変面白かったです。あまり内容を語れないのですが、パソコン上の映像だけなのに、きちんと大スクリーンでの鑑賞に堪える絵になっているのも点数高く、なるほど基本のアイデアの上に、色々な趣向を盛り込んでいることに感心させられました。

第7位「ロープ 戦場の生命線」
停戦後のボスニア・ヘルツェゴビナで働く「国境なき水と衛生管理団」のチームのある一日を描いたドラマです。地雷があちこちに埋まっていて、まだ武装した連中もうろうろしている中で、丸腰で頑張る国際NGOを、コミカルな味わいで描いたドラマは、日本で平和に暮らしている自分には色々な発見がありました。死と隣り合わせでも、住民の日々の暮らしが続いていく様を見せていくところも驚きでしたが、、そんな中に外国から乗り込んで行って、住民のために頑張るNGOの姿をコミカルに見せたセンスもよかったです。説教臭くなく、人の善意と勇気、そしてしぶとさを描いた映画として記憶にとどめておくべき映画と思いました。

第8位「女と男の観覧車」
ウディ・アレンの映画ですが、舞台劇のような見せ方で、役者の演技で物語を語る作りが新鮮で、ヒロインのケイト・ウィンスレットがまたうまい。元女優の四十女が、義理の娘が突然転がり込んできたことで、不幸が連鎖した挙句、最後は壊れていくという悲劇をどこかシニカルに眺めた視点で描いて、ドラマとしての見応えがありました。

第9位「恋するシェフの最強レシピ」
中国製のベタなラブコメですが、ヒロインがかわいくて、お約束の展開がすごく楽しかったので、ベストテンに入れちゃいました。大富豪の息子、金城武と天才シェフ、チョウ・ドンユイの恋愛模様は、夢のようなカップルではあるんですが、どこかどんくさい恋愛模様が何だかいとおしくなっちゃうのですよ。キスシーンすらないのに、二人が好きあっているのがビンビン伝わってくるのが楽しい一品でした。

第10位「アンロック 陰謀のコード」
CIAの尋問官であるヒロインがある事件に巻き込まれ行くというサスペンスものです。傑作というわけでもないし、とびきりのオススメではないのですが、ベテラン職人マイケル・アプテッド監督の手堅い演出で、よくできた娯楽映画に仕上がっています。最近、こういうジャンルで手堅い面白さを持った映画が少ないのであえてベストテンに入れさせていただきました。

この他では、ドラマとしての見応えがあった「バトル・オブ・セクシーズ」「ペンタゴン・ペーパーズ」、重厚な人間ドラマとしての「女は二度決断する」「ラブレス」、愛すべき小品としての「ビッグ・シック」「レディ・バード」といった作品が、ベストテンからこぼれてしまいました。2018年はあまり本数は稼げなかったのですが、当たりの映画の多い充実した1年だったと言えそうです。

毎年やってる、ベストテンには入らないけど、局所的に気になったピンポイントベスト5を挙げます。かなり無理やりひねりだした感はありますけど。

第1位 クチコミでヒットした「カメラを止めるな」がドタバタコメディでした。
低予算、ノースターの日本映画がまさかの大ヒット。シネコンでも拡大公開して、出演者がテレビにバンバン出るようになったりと、評判が評判を呼んだので、これがカルト映画なのかなと思いきや、劇場で鑑賞したら、楽しいドタバタコメディだったのにびっくり。伏線回収のうまさにまんまと映画にはまってしまいました。こういう楽しく笑える映画にスポットライトが当たるってのがうれしい事件でした。

第2位 「私はあなたのニグロではない」で自分の差別意識の根幹に気づかれてしまう。
アメリカの黒人の現代史のドキュメンタリーですが、そこで語られる「白人は差別する対象を必要としたのだ」という言葉は、そのまま日本人の自分にあてはまるなあってところが発見でした。それは同時に、黒人差別をする白人と同じメンタリティを自分を含めた日本人も持っているということになるわけで、他人事の筈の黒人差別の映画で、痛いところを突かれてしまいました。

第3位 「シェイプ・オブ・ウォーター」がアカデミー作品賞を獲っちゃったこと
ギレルモ・デル・トロ監督のオタク魂爆発の映画でしたけど、まさかアカデミー作品賞を獲っちゃうとは思いませんでした。黒人とかLGBTといったマイノリティ差別ネタが強かったアカデミー賞ですが、まさかこういうマイノリティにまで賞をくれるってのはどうなのって思っちゃいました。「ノートルダムの鐘」で最後に市民はせむしのカジモドに喝采をするのですが、それが長続きはしないであろう一時の熱狂です。それと同じように、この映画への評価、これにアカデミー賞を与えてしまった時代への評価が、この先どうなるのかなあってところが気になります。いい話だし、ドラマとしてもうまい映画なのですが、日陰だからこそ輝く映画もあるんじゃないかって言ったら怒られちゃうかしら。

第4位 「あなたの旅立ち、綴ります」のアマンダ・セイフライド
2018年の女優さんは豊作でして、「女と男の観覧車」のケイト・ウィンスレットを筆頭に、「ビッグ・シック」のゾーイ・カザン、「アバウト・レイ」のエル・ファニング、「ロープ 戦場の生命線」のメラニー・ティエリー、「ピーター・ラビット」のローズ・バーン、「バトル・オブ・セクシーズ」のエマ・ストーン、「スカイスクレイパー」のネーヴ・キャンベル、「ウインド・リバー」のエリザベス・オルセンといった面々が印象に残りました。そんな中で、特によかったと思ったのが、「あなたの旅立ち、綴ります」のアマンダ・セイフライドでして、シャーリー・マクレーンを向こうに回した演技合戦で引けを取らない実力を見せて見事でした。この人、色々なジャンルの役に挑戦していく姿勢がかっこいい女優さんだなあって思いますです。

第5位 「ラッキー」を見て、こういうジジイになりたいと思ったこと
自分の周囲の年寄りを眺めてると「こうはなりたくないものだ」と思わせられることばかりなのですが、そんな中で、「ラッキー」の主人公、ラッキーじいさんは、一見頑固ジジイのようで、経験や知識をひけらかすことなく、他人の言葉に耳を傾け、正しいと思ったらそれを受け入れる柔軟な思考の持ち主で、若い人からも一目置かれる存在です。もういい年の自分ですが、できることならこういうジジイになりたいと思わせる数少ないサンプルでした。映画としても、間のおかしさが楽しくて、ためになるジジイ映画でした。

というわけで、2019年も色々な映画に出会いたいと思っておりますので、本年もよろしくお願いいたします。

「アイ・フィール・プリティ」は面白い視点の映画だけど女性から見るとどう映るのかしら。


今回は新春第二弾として、有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町2で「アイ・フィール・プリティ 人生最高のハプニング」を観てきました。ここは小キャパのちっちゃな劇場で、シネスコサイズになるときは、画面が左右に広がると同時に上下には詰まるという懐かしいスタイルの映画館。

コスメ会社に勤めるレネー(エイミー・シューマー)は美人じゃないし、体型もぽっちゃりで、そんな外見がコンプレックスになっています。美形の集まる本社じゃなく、チャイナタウンの地下室でオンラインサポートという地味な仕事もつまらない。でも、仲良しの友人ヴィヴィアンとジェーンは、明るいキャラのレネーと楽しくやっています。そんなある日、ジムのフィットネスバイクから落ちたショックで、レネーは自分が絶世の美人に見えるようになっちゃいます。他の人からしたら何も変わってないのに、レネーは奇跡が起きて自分の外見が大変身したと思い込んじゃいます。コンプレックスは優越感に替わり、自分に自信を取り戻した彼女は、会社の受付に志願し、社長のエイブリー(ミシェル・ウィリアムス)の目に止まって、なぜか合格しちゃいます。ナンパされたと勘違いしたことから、イーサン(ラリー・スコヴェル)という彼氏も強引にゲットして、イーサンもどういうわけかレネーのことが好きになっていき、何だかいいことが次々に起こります。会社は、一般女性向けの化粧品を開発プロジェクトを立ち上げていて、レネーの的確なコメントがエイブリーの信頼を勝ち取り、彼女のプレゼン出張に同行するまでになります。でも、友人ヴィヴィアンとジェーンと一緒の合コンで、上から目線で下品なことを口走ってしまい、二人に絶交されちゃいます。自分が美人だと思い込むだけで人生が大きく変わってきたレネーですが、それによって得るものと失うものがあることに、彼女は気付いていないみたいなのでした。

「25年目のキス」「そんな彼なら捨てちゃえば」の脚本家コンビ、アビー・コーンとマーク・シルヴァースタインが、脚本を書いて、二人共同で初メガホンを取った、コメディの一編です。外見のコンプレックスに悩むヒロインが、頭打って自分が超絶美人に見えるようになるという設定で、一言で言っちゃうと勘違い女のドタバタコメディということになりますが、まろやかな味わいにまとめているのがうまい映画です。でも、これ、実際に外見にコンプレックスを持つ女性が観たら、どういう感想を持つのかすごく興味あります。下手をすれば、「やっぱり女性は見た目がよくないとダメなのかな。」って思われかねない部分もあり、ブラックコメディにも転ぶ可能性のあるお話なんですよ、これが。

映画の冒頭では、自分の見た目に自信のないレネーが委縮気味の日々を送っています。そして、「美しくなりたい」って願をかけると雷鳴がとどろき、翌日、ジムでフィットネスバイクから落ちたショックで、自分が絶世の美人に見えるようになっちゃいます。鏡の中を自分を見て驚きを隠せないレネー、だって人生のコンプレックスが突然解消しちゃったんですもの。でも、映画の中で、レネーの姿は何も変わらないので、見た目はただの勘違いでしかないのですが、どうやら彼女の中ではマジで美人になってるらしいのです。それまでは、美人はみんなから注目されていて、男からは声かけられてうらやましいなあって思っていたものですから、自分が美人になったら、急に変な自信がついちゃって、周囲に上から目線になっちゃうのですよ。その自信過剰な押しの強さが、イーサンという草食系男子と付き合うきっかけになり、一方で旧友との間に溝を作ってしまうのです。

さらに、見た目に自信がなかった頃はあきらめていた会社の受付嬢になることにも挑戦し、その押し出しの強さが社長のエイブリーの目に止まり、何とコスメ会社の顔として受付嬢の職をゲットしてしまいます。さらに、一般女性へマーケットを広げようとしている社長に、不美人だった頃の視点で、適格な指摘をしたものですから、社長の信頼を得て、新規マーケット開拓プロジェクトに抜擢されちゃうのですよ。不美人コンプレックスで凝り固まっていたころは、本社に足を踏み入れることさえストレスになっていたのですから、自分が美人だという勘違いがなかったら、受付嬢にもなれなかったし、社長から認められることもなかったわけです。そういう意味では、勘違いは彼女のキャリアにとってはいいことだったみたいです。でも、彼女が生まれつきの本当の美人だったらよかったのかと言うとそういう見せ方にはなっていないのが、面白いところです。

外見にコンプレックスを持っている女性がエステや整形できれいになるというテレビ番組(←「ビューティコロシアム」でしたっけ。)がありましたけど、あの番組を観て、劣等感に悩まされていた女性に自信がつくのはいいことだよなあって思っていたのですが、自信がつくのも一長一短なんだなあってのが、この映画からの発見でした。それに、化粧品会社の社長に認められるきっかけは、外見にコンプレックスのある女性目線のマーケティングを披露したからであって、トータルで考えると、不美人だったころの性格や経験が彼女を助けているのが見えてくると、「ひょっとしてこれ美人をこき下ろして差別する映画じゃね?」なんてうがった見方もできちゃうのですよ。まあ、この映画の言わんとするところは、見た目のコンプレックスから解放されたらいいよねってところなので、美醜の優劣を問うものではないのですが、そのあたり結構ギリギリな見せ方をしている映画ではないかしら。

ヒロインを演じたエイミー・シューマーは、美人だと思い込んだ後の自信過剰になっちゃうところで、嫌悪感を抱かせないぎりぎりのところを達者に演じこなしています。美人になった彼女の絵を観客に見せないので、単に勘違いしてる自信過剰女にしか見えないのですが、そこできっちり笑いを取って、いやなキャラにしないあたりのうまさは演出もあるのでしょうが、お見事でした。才能も美貌もあるけど声がバカっぽいのがコンプレックスになっている社長のエイブリーを演じたミシェル・ウィリアムスがちゃんとヒロインを引き立てながら笑いも取るあたりもさすが演技派女優の底力を見せてくれます。また、ローレン・ハットンがミシェル・ウィリアムスのおばあちゃん役として登場し、きっちりきれいな女性になっているのにはびっくり。

ラストはかなり強引な締め方をするので、トータルな映画としては今一つだったのですが、それでも、設定の面白さとその設定の長所短所をきちんと描いている点は面白い映画でした。人間は、美醜で判断されるべきではないというテーマがありつつ、個人の持つコンプレックスを乗り越えるだけでなく、受け入れるべきところもあるんだよという見せ方は、いいところを突いてると思う半面、それって結局堂々巡りなんじゃないの?と思わせるところもあって、意地の悪い見方をすれば、結構ツッコミどころの多い映画と言えそうです。でも、そこまでムキにならなくても、何となくハッピーエンドならいいじゃんというお気楽な見せ方にも、捨てがたい味わいがあります。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



社長のビジネスプレゼンの旅に同行したレネーですが、旅先のホテルで頭を打ったところで、自分が美人に見える魔法が解けてしまいます。結局、あるがままの自分に向き合ったレネーは自信喪失、そのままニューヨークに戻ってしまい、イーサンとも別れてしまいます。でも、社長が一般向け商品プロジェクトに、ジムで一緒になった飛び切り美人のマロリー(エミリー・ラタコウスキー)がプロジェクトのモデルに採用されると知って、その発表会に乗り込み、自分こそが、このプロジェクトにふさわしいモデルだとプレゼンしようとします。画面に映し出された自分の写真を見た彼女は、受付嬢になる前と後で、何も変わっていないことに気づき、改めて一般向け化粧品は、多くの普通の女性に希望を与えるべきものとぶち上げて、会場の喝采を浴び、社長からも感謝されることになります。そして、再度、別れたイーサンのアパートを訪れた彼女を、イーサンはやさしく受け入れるのでした。アパートの前で抱き合う二人の絵から、暗転、エンドクレジット。

結局、魔法は長く続かず、レネーは元の美しくない自分に戻ったことに失望しちゃいます。友人に謝りに行くのですが、何を今さらと言われてますます落ち込むレネー。まあ、そりゃそうだよね、友人からすれば、突然、上から目線でものを言うようになり、合コンでは自分たちを侮辱するようなことを平気で言うような女を友達とは思えないですもの。ところが、映画の魔法で、一般向けコスメの発表会に彼女たちも招いて、割り込んでプレゼンした結果、全てが丸く収まってしまうというのは、他にやりようがなかったんだろうなあとは思うけど、かなり強引。最後には、彼氏とも和解できてハッピーエンドになるわけですが、結局、彼女は美醜にこだわる自分から解放されたのかしら?ってところがちょっと微妙。プログラムの監督インタビューーによると、ラストでヒロインは自分自身を愛せるようになったんですって。確かにそうかもしれないけど、でも、化粧品のプレゼンを見ていると、やはり、彼女は美醜の呪縛から解放されていないようにも見えちゃうのですよね。確かに映画の冒頭でネガティブだったヒロインは、自分が美人だと信じ込んだ時に、超ポジティブになり、その魔法が切れた時、リバウンドで超ネガティブになっちゃうのですが、ラストで彼女はどのレベルに落ち着いたと思うべきなのかしら。これは、女心のわからないオヤジの意見より、ご覧になった女性の方のご意見を聞きたいところです。なぜかというと、このヒロイン、美人だと思い込んだ時、すごく並の器量の友人を見下したような、思いやりのない言動をしているので、ポジティブになればいいってわけじゃないという見せ方なんですよ。

美人は得することが多い世の中ですから、美に対する羨望や嫉妬があるのは仕方のないことだと思います。一方で、何の取り柄もないけど、見た目だけはいい女性の、唯一の長所を認めてあげる度量も欲しいと思います。美醜にとらわれすぎるのもよくないけど、コスメを全否定するのも大人げないとしたら、価値観の落としどころをどのあたりに置くのが一番ハッピーなのかなあって気分にさせる映画でした。

「マイ・サンシャイン」はロス暴動を外国人の視点から客観的に描いているのが新鮮。


2018年は年末に体調を崩して、映画館へも行けていなかったのですが、2019年は少し映画のピッチを上げたいと思ってます。というわけで、年明け第一弾は、新作の「マイ・サンシャイン」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町1で観てきました。

1992年のロスのサウスセントラル。この年のロスでは、15歳の黒人少女が酒屋の女店主に万引きを間違えられて射殺されたラターシャ射殺事件と、黒人男性が複数の警官に暴行されるというロドニー・キング事件で揺れていました。前者では女店主が保護観察と500ドルの罰金という軽い処分で済んで、市民の不満が高まっていました。ミリー(ハル・ベリー)は、事情があって家族と暮らせなくなった子供を家に引き取って養っていましたが、生活は楽ではありません。親が逮捕されてしまったウィリアムスを引き取ってきたことを、長男のジェシーはあまり快く思いません。実際、素行もよくないウィリアムスは空腹の子供たちを煽ってスーパーで盗みをさせたりします。そして、キング事件で、告訴されていた警官4人が裁判で無罪の評決が出たその日、サウスセントラルは異様な空気に包まれます。市民と警官の衝突は暴動にまで発展し、少年を逮捕しようとした警官ともみ合いになったミリーは手錠をかけられてパトカーで連行されようとしますが、混乱の中でパトカーから手錠のまま降ろされます。子供の身を案じるミリーに近所のオビー(ダニエル・クレイグ)も協力します。一方、ウィリアムとその友人たちはパトカーに火をつけたり騒ぎを大きくし、一緒にいるジェシーは気が気ではありません。ミリーが、やっとのことで家に帰ってみれば、子供の何人かがテレビを観て街に出かけたというのです。子供の身を案じて、再び街へ出るミリーとオビーですが.....。

トルコ出身で、フランス、アメリカで育ったという「裸足の季節」のデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンが脚本を書いて、メガホンを取った一編です。フランスで長く暮らしているのにフランス人扱いされない彼女が、パリで起こったパリ郊外暴動事件をきっかけに、ロス暴動を題材にした映画を作ろうと思い立ったのだそうです。実際にサウスセントラルで取材して脚本を書いたそうですが、どこか引いた視点で、ロス暴動を描いているのが、アメリカ映画とは一線を画す味わいになっています。フランスとベルギーの合作で中国資本まで入っている無国籍な映画ですが、そのグローバルな作りが映画にも独特な視点を与えていまして、ロス暴動の夜を幻想的な美しい映像で切り取ったり、警官側の恐怖と憤りもきちんと描いていたり、単に黒人目線でなく、歴史の1コマとしてのロス暴動を群像ドラマとして描いています。

映画の冒頭では、黒人の女の子が、酒屋の女主人に射殺されるというショッキングなシーンから始まるのですが、ここで、女の子が万引きしているようにも見えるあたりが、単なる無垢な少女が差別意識で射殺されたのではなさそうに感じさせるのが面白いと思いました。韓国人のおばさん店主に、少女が射殺されたことは事実なんでしょうけど、そこから様々な枝葉がイメージ付加されて、それらがまるごと事実となっていく感じが描かれているのは、当事者では描けない視点だとちょっと感心してしまいました。ロス暴動というのは、ニュースで知っていたのですが、そこの住人にとってどういうものだったのかは、よくわからなかったのですが、当事者になって暴動の先陣を切っちゃう人もいれば、わけもわからず巻き込まれた人もいて、その空気の尻馬に乗っちゃう人もいたようで、様々な立場な人がいた騒動だったという視点は、それまでの「警官による黒人差別に対する市民の反抗」という紋切型でない奥行きを感じさせるものでした。

また、ロス暴動を題材にした映画でありながら、シリアスな部分だけでなく、コミカルなエピソードを盛り込むことで、そこに住む人の生活感を出すことに成功しています。特に荒っぽい隣人を演じたダニエル・クレイグがちょっと場違いなキャラだけど、黒人住民対警官の図式の外のポジションで、騒動に巻き込まれるおっさんをコミカルに演じて見せたのがおかしかったです。一方で、暴動の当事者になるウィリアムやジェシー、そのガールフレンドのニコールといったキャラクターのシリアスなドラマが、ちょっとリアリティを外した寓話的な見せ方になっているのが印象的でした。その結果、暴動という突出した行動に出るのは一部の人間で、それを止めようとする人間もいるし、むしろその勢いに乗っちゃうお調子者の方が多いという、騒動の実相が見えてきます。何と言うのかな、全ての黒人市民が、全ての警官からひどい暴力を受けているような見せ方だと、実感が感じられないけど、この映画のように、突出した人間の行動に、多数の人間が引きずられちゃって、無法状態になっちゃうというと、自分の身近で起こり得る事件として、真摯に受け止めることができるのですよ。自分の事として感じられる方が、映画から学ぶ点が多くなるというのは、観る方の勝手な都合ではあるのですが、私個人としては、たくさんのことを感じ取れる映画の方がいい映画だと思っているので、そういう意味では、この映画の評価高いです。

ロス暴動という特殊な事件を、外国人の視点から見直すことで、こういうことがアメリカのロスだけでなく、どこででも、どんな理由でも起こり得る事件として描きなおした映画ということができると思います。そういう視点で描くことで、遠い世界に住む人も、人間としては、自分たちとそう大きな違いはないということに気づくきっかけになる映画ではないかしら。文化とか宗教とか貧困とかそういうのを超越して、人情と暴力を描いた映画なのかなって気がします。ずいぶんとざっくりした言い方になりますけど。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



ウィリアムとニコールのカップルに嫉妬を感じていたジェシーは、無差別に白人市民を襲撃しようとするウィリアムを止めようとして、彼をガラスで刺してしまいます。虫の息のウィリアムを盗んだ車に乗せて、病院を探し回るジェシーとニコールですが、結局、ウィリアムは還らぬ人となってしまいます。ミリーは、子供たちが略奪されているスーパーで荷物を運び出しているのをテレビで観て、オビーと一緒に子供たちを連れ戻そうとするのですが、スーパーの前で警官に略奪者と思われ、街灯の柱に手錠でつながれてしまいます。ミリーとオビーは、協力して街灯のてっぺんまで登って手錠をくぐらせて、脱出に成功し、子供たちを連れて、家に帰ります。そこには、ジェシーの運転する車が停まっていました。中を見ると、ウィリアムの遺体があったのでした。車の中を覗き込むミリーの姿から暗転。この映画のための取材時に監督が知りあった少年の映像が映ります。この少年はその直後に理不尽な死を遂げていたのでした。さらに暗転してエンドクレジット。

幼い子供たちがテレビの略奪の報道を観て、自分たちもスーパーに行って、荷物を運び出しちゃうところは笑えるシーンではあるのですが、この騒ぎの実相を突いていて、笑うに笑えないという感じでした。映画の前半で、彼らがウィリアムにそそのかされてスーパーで食料を盗むシーンも登場するのですが、それって倫理的にまずいと思う一方で、治安がコントロールできなくなると、略奪が始まっちゃうのは文化なのかなあって気もしてきます。日本だったら、寄ってたかって店のものを持ち出すようなことは基本的に起こらないでしょう。でも、「衣食足りて礼節を知る」「貧すれば鈍する」という言葉がありますし、この先、日本でも貧困層が増えていけば、略奪文化が生まれていくのかなって危惧感はあります。(こういうことを言うと怒られちゃうのですが、私は「清貧」という言葉を信じてません。そういう人は突出した、ほんのごく一部の人間だと思ってます。)

「エンジェル、見えない恋人」は他人の夢を見ているようなケッタイな映画。


今回は新作の「エンジェル、見えない恋人」を川崎の川崎チネチッタ3で観てきました。ここは傾斜がきつくて、画面位置が高いので、うかつに前に座るとすんごい画面を見上げることになる要注意映画館。まあ、チネチッタの1,2,3はほぼみんな同じ作りで、満席になる映画はかけてはいけないスクリーンです。

ルイーズはマジシャンの夫が妊娠中に失踪してしまい、メンタルが壊れてしまったらしく、病院らしい施設に入れられるのですが、彼女はそこで自力で出産し、男の子を産むのですが、その子は透明で姿が見えません。エンジェルと名付けられた男の子はルイーズのもとですくすくと育ちます。彼は、窓から見える立派な家に住む盲目の少女に気づきます。母親から、誰とも話してはいけないと言われているエンジェル、そんなことをすればみんなが怖がるから。でも、ある日、彼女は施設を出て女の子に近寄ります。すると意外にも少女の方からエンジェルに声をかけてきます。声や匂いから誰かいるってわかるんですって。そして、その少女マドレーヌとエンジェルは仲良くなり、年月が流れ思春期を迎えると二人は恋愛感情を持つようになります。ラブラブな二人だったのですが、マドレーヌは目の手術をするために旅立ちます。そして、ルイーズも亡くなり独りぼっちになったエンジェルは、彼女の家で過ごすうちまた何年も経ってしまうのでした。そして、ある日、大人になって目の見えるようになったマドレーヌ(フルール・ジフリエ)が帰ってきました。自分の存在を知らしめたいエンジェルなのですが、なかなかそれができません。彼女もエンジェルを探すのですが、消息がわからず、ルイーズの墓に手紙を挟みます。すると、その手紙に返事が返ってきます。マドレーヌはエンジェルの望み通り、目を閉じて彼を待っているのですが...。

トマ・グンジグとハリー・クレフェンの共同脚本を、クレフェンがメガホンを取ったベルギーの映画です。「トト・ザ・ヒーロー」「神様メール」のジャコ・ヴァン・ドルマルがプロデューサーとして参加しているのが売り文句になっていまして、映画のポスターの宣伝イメージだと、透明な男の子と盲目の女の子の淡い恋物語みたいなのを売りにしているのですが、それは映画の前半だけで、後半は大人になった二人の結構エロい恋愛ドラマになります。最初からこういう話だとわかってたら、もう少し素直に映画を観られたのですが、何か騙された気分になっちゃったので、その分印象悪くなっちゃいました。だって、若者になったエンジェルが、マドレーヌの寝姿の胸をはだけたり、入浴中の彼女をのぞいたりと、昔風に言うと出歯亀というか痴漢透明人間、もう少し柔らかく言うと「イヤーン、のびたさんのエッチ!」みたいな展開となります。そういう話だと思って臨めば、ケッタイな珍品としての面白さがある映画です。

透明な主人公というから、ファンタジックなお話なのかなって思っていると、冒頭から、どうにも画面が暗い。病院らしい施設の一室に軟禁状態のルイーズとエンジェルの姿は、あの「ザ・ルーム」の誘拐された親子みたいです。母親のルイーズからして、尋常とは思えないキャラで、施設の部屋で産み落とした透明な息子をそこで誰にも知られないように育ててるって設定で、夫がいなくなって精神的に弱っていたところへ、透明な息子が産まれて、頭のネジが吹っ飛んじゃったって感じなのですよ。そもそも透明人間という存在がリアリティがありませんし、どうやらエンジェルは飲み食いも排泄もしないで、並の子供なみに育っていくんですよ。ルイーズの夢のお話かなとも思えるのですが、お話は彼女が死んでからも、エンジェルの視点で続いていくので、一応、これはあったこととして描かれているようなんです。ね、ケッタイでしょ?

目の見えないマドレーヌと透明なエンジェルが仲良くなる話は、チャップリンの「街の灯」みたいな微笑ましい展開でして、友たちのいない同士がお互いを大事に思うようになっていくあたりは、絵本を読むような味わいがあります。ただ、その前の母子の描写が暗くて冷たい画面で描かれるので、素直にハートウォーミングなお話だと受け入れにくいのですよ。そして、ローティーンくらいになってくると、キスもするしお互いを恋愛対象として見るようになります。そして、目の手術をすることになるマドレーヌ。あ、やっぱり「街の灯」みたいなお話になるのかなと思いきや、これが「シェイプ・オブ・ウォーター」のような異形の恋の生臭編になってくるのに結構びっくりでした。異形の恋というのは言い過ぎかもしれないけど、エンジェルは普通の人間じゃないですからね、存在はあっても目に見えない。そんな青年と美しい女性となって帰ってきたマドレーヌの恋は、どうなるのか。で、先述のような痴漢透明人間風のシーンあり、フルール嬢もスリムなボディをたっぷりと見せてくれまして、透明なエンジェルとのエッチシーンもあります。意外と脱ぎのシーンも多くて、深夜のテレビで偶然この映画見かけたら、大当たりだね、というくらいの映画になっています。エンジェルが自分が透明なのを知られないために、マドレーヌに目隠しするあたりは、ああそういうプレイもあったなって、「ナイン・ハーフ」思い出す人もいるかも。いや、事実、この映画の中ではそういうエッチしてますから。

もともとエンジェルはマドレーヌが好きですし、マドレーヌもエンジェルが好き。ですから、両想いではあるのですが、彼女はエンジェルが透明人間だとは知らない。で、エンジェルとしてもできる限り隠し通そうとするのですが、いつまでも目隠しプレイをしているわけにもいかないので、その正体を彼女に見せることになります。シーツを被っているエンジェルがいて、マドレーヌがそのシーツを取ると中身がない。私、こういうのん「ヘルハウス」で観ましたけど、他のホラー映画で似たシーンはいくらでもあるでしょう。で、マドレーヌ、ウゲゲの大ショック。でも、彼女もなかなかのタマで、あなたのことを見ないようにするわ、って、透明な恋人を受け入れようとします。ここまで、エンジェルって、マドレーヌが好きという以上のキャラを与えられていないので、どこかふわふわした存在感だったのですが、彼女も何だかつかみどころのないふわふわした存在に見えてきちゃいました。何かリアリティの感じられない二人のかなりケッタイな恋愛ドラマが後半は結構シリアスに展開するので、前半の薄暗いファンタジーという変な展開からは想像つかなくて、かなり意表を突かれました。

ストレートに1本の映画として観た時、こういう設定ならこうなるだろうなという、こちらの期待を変な方向へ裏切っていくので、そこを楽しめれば、面白い映画ということになりましょう。私には、面白いと呼ぶにはケッタイさが先に立ってしまいました。少年少女の淡い恋物語、透明人間編だという先入観がよくなかったのかしら。まあ、前半のルイーズの登場シーンの薄暗い陰気な映像で、普通の映画じゃないとは思ったのですが、そっちへ行くのかーという意外性が、私にとっては、快感というよりは、珍品感が大きかったです。全体をひっくるめて、不思議系ファンタジーと呼ぶこともできるのですが、腑に落ちるところが少ないので、変なものを見たという後味になっちゃうのですね。何と言うか、他人の夢の話を聞かされたような気分とでも言うのでしょうか。そういう味わいの映画だと思えば、それなりの味はあります。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



エンジェルは、書置きを残して、マドレーヌの前から姿を消します。(← 初めから消えとるやんけ、というツッコミは置いといて)マドレーヌは、自分の感覚を頼りにエンジェルを探します。そして、かつて彼と来た、彼の母親のいた小屋へやってきて、湖のほとりに隠れているエンジェルを見つけます(!?)。そして、湖に身を投げたエンジェルをマドレーヌは救い、幸運にもエンジェルは息を吹き返します。二人は改めて結ばれ、子供も生まれ(これが盲目でも透明でもない普通の子)、マドレーヌは透明なエンジェルと組んで、マジシャンと生計を立て、二人は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

結局、二人は一緒になってハッピーエンドになるんですが、そのどこかあっけらかんとした感じが、リアルじゃないというか、どこか映画で観たような話だなあって結末になります。このあっけらかんとした感じ、フランス映画で観たような気がします。というわけで、この映画、前でも色々述べたように、いろんな映画を想起させる部分が多いのですよ。ケッタイだけど既視感がある、ありえないけど観た事あるような、不思議な感じです。色々な映画を思い出すあたり、何ていうのかな、映画ファンの観た夢を映像化したような映画とも言えそうな気がします。他人の夢の話を聞かされるのは苦痛でしかないんですが、映画ファンの見た夢の話なら、多少の興味を持てるかもってところに、この映画へのとっかかりが見つかりそうな気がします。そんな風にこじつけてみたくなるあたりが、やっぱりケッタイな映画なのでしょう。これまで観てきた映画の中では、すごく特異で変な感じの映画でした。合理性はないし、ファンタジーのようで、画面は薄暗いし、純愛ドラマのようでそこそこエロい、悲劇のようで、結末はあっけらかんとしていて、いろんな映画の要素を全部乗せしましたって感じなのかなあ。とにかく、どのドラマのパーツもあまり真に受けない方がいいと思わせるあたりが、普通の映画ではありません。好きかと言われると、そこまで行かないし、駄作だと呼ぶには色々と感想が出てくる映画だし、まあやっぱり珍品なのかなあ。どっか、真に受ける部分があると、この映画の評価も決まるのでしょうが、そういうところが見つからなくて。
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einhorn2233

Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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